少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2010年12月  2011年1月  2011年2月  TOP
2011/01/32 物欲

 女の子の物欲ということで思い出すのは懐かしい『ラブ&ポップ』。
 名作である。
 裕美は「自分」というものを担保したかったのだ。
 だからトパーズが欲しかった。
 こんなにも欲しいと思うトパーズが、明日には欲しくなくなるかもしれない。だったら「自分」というのは、いったいなんなんだ?
「アンネの日記」のドキュメンタリーを見て感動する「自分」は、次の朝にはどこかに消えていた。あんなに強い感情が、翌日には「あれは自分ではない」と、他ならぬ自分によって否定されてしまった。
 だったら、「自分」ってのはどこにあるんだ?
 その答えが、トパーズにあるような気がした。
 しかし、トパーズは手に入らなかった。
 その代わり、裕美が手に入れたものは、……。
 なんだったのだろう?
 たぶん、そこに「自分」なるもののヒントがあったはずだ。
 だから裕美は泣いてしまった。
 そしてあのような夢を見た。
 のではないかな、と思う。

 感情そのものを保存することが、「自分」の証明にはならない。
 感情の存在した証拠を確保することが、「自分」の証明にはならない。
 では、「自分」というものは、何によって担保されるのだろうか?


「他者の出会いとの『可能性』」という言葉が、あとがきに書かれている。
 読み解くカギがあるとすれば、おそらくこれに尽きるだろう。

2011/01/31 すべてはドラえもんで学べる

 排水溝にモノが落ちました。洗い場の掃除してたら。
 箸を突っ込んでも取れません。スプーンでも取れません。
 汚いのを我慢して指を入れても届きません。
 何度トライしてもダメです。
 しかし諦めるわけにはいきません。排水溝が詰まってしまいます。
 そこで僕はガムを噛みました。
 眠気がさめるやつです。
 眠くもないのに眠気がさめるガムを噛むのは苦痛でしかありません。
 ニガいだけです。
 もガムを噛む必要があったので噛みました。
 ガムを噛んで、取り出して、ドライヤーをあてました。
 ほどよくねばねばしてきたところで、箸のさきっちょにくっつけました。
 これだけではまだ安心できません。
 排水溝に向かってドライヤーを小一分間くらいあて続けました。
 モノから水気が取れたところで、ガムのついた箸を突っ込んでみたら
 成功です。モノが取れました。

 ドラえもんの、『かげがり』(てんコミ1巻)や『テレビとりもち』(26巻)などに登場した、「とりもち」を使ったわけです。
「とりもち」とは、なんなんだかよくわかりませんが、棒の先端にもちみたいなのがくっつけられたアイテムです。ものを「とる」ために使うもちだから「とりもち」というようです。
 現代の日本では、「とりもち」に出会うということがまずありません。
 僕も「とりもち」は藤子作品でしか見たことがありません。(ちなみに僕は未確認ですが『サザエさん』にも出てくるらしいです。)
 つまり、もしも僕がドラえもんを読んでいなかったら、今ごろ我が家の排水溝は詰まってしまっているわけです。ドラえもんで「とりもち」というものの存在を知っていたからこそ、排水溝は救われたのです。
 かようにドラえもんは知恵の宝庫、工夫の宝庫です。

2011/01/30 障害と病気の境目ってのは難しいが

「完璧な人間などいない」という言葉が本当であるならば、人間は多かれ少なかれ「障害」を抱えているものである。それが「名前を持った障害」、すなわち「お医者さんが障害と認めるもの」であるかどうかはともかく、自分の障害を認識することは大切だ。

 お医者さんが障害と認めようが、認めまいが、障害は確かにそこにあるものだ。それを乗りこえるためには、「障害のない部分」を活用して、補わなければならない。工夫しなければならない。
 と、いうことは、お医者さんが障害と認めようが認めまいが、別に関係がないということだ。障害はそこにあるのだから、立ち向かえばいい。もちろん、立ち向かい方がよくわからない、もしくは「何か障害があるような気がするんだけど、どういう障害なのだかよくわからない」という時には、お医者さんに相談してみればいい。

 相談して、糸口が見えたら、「ここからは自分でどうにかできそうだな」と思ったら、もうお医者さんに用はない。自分で考えていけばいい。思えなかったら、一生お医者さんと二人三脚で生きていく。

 精神科のお医者さんというのはそういう存在であろうと思う。たぶん「重度の精神病」の人は、自分で適確にものを考えることができないので、入院するなどして、ずーっとお医者さんのお世話にならざるをえない。が、お医者さんがいなくてもどうにか生きていける程度の人は、そもそもお医者さんにかかる必要もないような気がするのである。あるとすれば、「行き詰まってるからヒントをください」と言う程度のもので、自分自身をはじめ、家族、友達、あらゆる人間関係を駆使しても解決しなかった場合に、「金を払って医者に行く」という最終手段を使うのだ。あんまり精神科にかかる人が増えると、「診療の質の低下」ということにもなるだろうから、自分でなんとかできるもんなら自分ですればいい。

 しかし、世の中には「自分でものごとを考えて、判断できる人」というのは少ない。そういう人のために精神科のお医者さんはいるのかもしれない。重度であれ軽度であれ、「自分で考えられない」という点では同じ障害である。日常生活が満足に送れないので入院が必要であるという人も、日常生活は送れるが多少不便があり、それを解決させるためにはどうしたらいいかが自分ではわからないのでとりあえず病院に来てみましたという人も、同じなのかもしれない。

「医者がどう言うのか興味がある」という理由で医者にかかる人もいるだろう。が、そこから始まって結局一生医者から離れられなくなってしまうような人もいるだろう。人間は、一度甘え始めたら止まらない生き物だ。麻薬でも、借金でも同じだ。恋愛もよくそういったことが原因で破綻する。

「障害」は、治らない。永遠に付き合っていかなくてはならないものなので、「工夫して補う」ということが必要だ。僕にもちょっとした障害がたぶんある。
 例えばカギをすぐなくす。カサやサイフをどっかに置き忘れたりすることが多い。よくモノをこぼす。よくモノを落とす。よくモノにぶつかる。冗談で言っているのではなく、これはもう障害と言うほかないほど、症状がひどいのである。家を出るときにカギをどこに置いたか忘れてしまって遅刻する、ということが月に数回のペースである。一日デスクで仕事していたら、最低5回は何かを床に落とす。
 こういうのはもう、自分では補いようがない気がする。半ば諦めている。「気をつければいいじゃないか」「カギを置く場所を決めておけばいいじゃないか」という声もあるだろうが、それができれば苦労はしないわけなのだ。いちおう、頑張ってはいるんだが、だめなのである。工夫として、カギには大きめのマスコット(メップル&ミップル)をつけていて、これにより劇的にカギが見つからないという状況は減った。が、まだまだ日常生活に支障を来すレベルで頻発する。困ったものだ。
 そういうわけで僕は「よく気がつく嫁さん」をもらうしかなかろうなと思っている。どんなに心身ともに健やかで美しかろうとも、カギをすぐなくす人とだけは結婚しないほうがよさそうに思う。

 僕は歌手・宮村優子さんが好きですよ。いまCDを聴いていますよ。これを是と思える感性の人間を、なかなか目にしない。自分以外に好んで宮村の曲を聴く人を見たことがない。素晴らしいのにな。こと『大四喜』は名盤。
『大四喜』を良いと思えるかどうかは、かなり大切な分水嶺ですよ。

 攻めの人生でベンチャー!

 僕のCD棚は、宮村優子の隣に小倉優子があって、その隣に三重野瞳があって、その隣に吉田真里子がいて、それから水野あおいです。
 別の段に移ると、奥井亜紀、川本真琴、Amika。
 このあたりが僕の好きな「女性ソロシンガー」です。敬称略。
 どうぞ参考にしてください。
「女性ボーカルバンド」だとHysteric Blue、一択かも。
 コスミック・インベンションなんてのもあったか。
 なんにせよ極端に少ない。やっぱバンドって嫌いなんだなあ。

 みやむらはすばらしい。
 カラオケでみやむらの『だいじょうの笑顔』や『平成偉人伝』や『さんきゅ』を完璧に歌いあげてくれる女の子はどこかにいないものか。
 シメは『僕の体温は37.5℃』でお願いします。

2011/01/29 断章

 正しい文学研究というのは、「作品を研究する」というのではなく、「何かを研究するために、作品を活用する」という行為の中にしかないと思う。


 人間のオーラのようなものについて。
 才気あふるる教え子が、どうやら共感覚のようなものを持ち合わせていて、ざっくり言うとものごとを味やら形やら、イメージで捉えることができるらしい。
 その彼が、僕とか、SE2Gさんや、麒麟さんのことを、「強烈なインパクト」という言葉で表した。正直言って驚いた。僕やSE2Gさんとは、相当深く長く話をしているから、彼が評価してくれるのはわかる。しかし麒麟さんとはほとんどまったく、重要と思えるような話はしていなかったはずだ。それでも「強烈なインパクト」を感じるというのは、教え子が凄いというよりも先に、麒麟さんの持っている「オーラ」のようなものに恐れ入る。
 オーラと言ってはみたものの、もちろんこれは「雰囲気」ということではなくて、もっと論理的なものだ。論理的なオーラってなんだよという気もするが、まあまあ。要するに、態度なり、表情なり、会話の方式なり、言葉の組み立て方なりといった、ごく細かな機微の総体が、一つの「オーラ」としか言いようのない力を持つ、というか。それは言葉では説明することは難しいけれども、さまざまな論理が寄せ集まった結果、一本の論理で表すことが困難になってしまっただけのことで、決して神秘的なものではない。
 大物が大物たる所以はこういうところにあって、そんで、わかる人にはわかってしまうものなんだな。そんで基本的に僕は彼らのことを褒めすぎだ。


 僕は弟だから姉と相性が良くて、妹とは相性が良くはない。良くはないだけであって、別に愛していたり愛されていたりもするわけだが、いろいろと難しいといえば、難しい。
 今まで仲良くしてきた「妹」のことを思い出すと、「ああ、そうだよなあ……」と思うことが多い。27日生まれの彼女は兄を持つ妹である。
 妹というのは、「イヤなことはやらない」という性質があるものだから、似たような性質のある弟と付き合った場合、どちらかが「兄or姉」に変化しなければ、なかなかうまくいかないもんなのかもわからない。(畑田国男先生も同様のことを仰っていた。)
 そいで実はひとりっ子の女の子との相性もけっこういいのかもわからない。ほとんどサンプルがないからわからないんだけど。


 ある、一回り以上年上の知人から、「宮台真司に興味ある?」と問われたことがある。「特にはありません」と答えたら、「おすすめだよ。トークショーとかに行ってみるといいよ」というようなことを言われたので、「どういうところがおすすめなんですか?」と聞いてみたところ、「今の社会について、一番わかりやすく説明してくれてると思う」と返ってきた。
 その人からは、僕は妙に期待されていたようで、「○○についてどう思う?」「どう思う?」とよく訊ねられていた。また、本を読んだり、有名な人のトークショーに行くのが好きなようだった。
 たぶん、彼は「答え」が欲しかったのだと思う。たくさんの「答え」の中から、選択したかったのだと思う。選択肢の病。
 しかし、答えなんてのは、ない。ないものは、つくるしかない。
 自分で考えなければ仕方がない。
 が、自分で考えたことのない人が考えるようになるにはどうしたらいいのか。僕は片手間ながらそれなりに手をつくしてみたつもりだが、現在彼とはまったく連絡をとっていない。

2011/01/28 あげまん

 配偶者を求めております
 一、ごく贅沢に育てられたひと
 一、ただし貧乏をおそれないひと
 一、気品、匂うがごとくであること
 一、しかも愛らしい顔立ち
 一、エロチックな肢体をあわせ持ち
 一、巧みに言葉を操り
 一、正しい音楽を愛し
 一、明るく、かつ控え目な性格で
 一、アンマがうまく(これは大事だ!)
 一、天涯孤独であるか、ないしはごくごく魅力的な家庭をもち、(美しい姉や妹たち!)
 一、派手でない下着、柔らかいハンド・バッグ、ジャガーの靴を愛用し
 一、芝浦慶一の「たたかえっ!憲法9条ちゃん」が一番好きな小説で
 一、片言まじりの外国語を話し
 一、当然酒を飲み
 一、料理に巧みでありながら
 一、もちろん好き嫌いをいっさいせず
 一、猫を愛しすぎず
 一、お化粧を必要とせず
 一、頭がいいけどばかなところがあり
 一、ばかではあるが愚かではなく
 一、まだ自分が可愛いということに気づいてなく
 一、ジャッキーさんが世界で一番えらいと思っている
 一、私より二まわり年下の少女
 というのであるが、ウーム計算すると残念ながら十四年は無理だね。計算すると彼女はまだ二歳にしかなっていない。

2011/01/27 昨日の続き「人にはそれぞれ事情がある」

 当たり前のことを言いますよ。
 人にはそれぞれ事情があるので、人が何かを決定する時には、その「事情」に従って決定する。

 が、「ある人の決定」が「その人の事情」ではなく「自分の事情」に従って決定されてしまうと思う人もいる。
 例えば、「宿題を写させてくれ」と言って、「イヤだ」と言われた場合に、「自分は嫌われているんだ」と思ってしまうような。
 しかし原因は基本的に「自分」の中にあるのではなく、「相手」の中にあるのだ。
 実際に嫌われていたとしても、嫌っているのは「相手」であって、「自分」ではない。だから、「相手が自分のどのようなところを嫌っているのか」が重要なのであって、「自分のどのようなところがダメなのか」と考えるのは間違っている。
「敵を知り己を知れば……」という言葉は、ここでも効いてくるわけですわ。
 あるいは今の例の場合だと、相手が「宿題は人に見せないというポリシーを持っている」のかもしれないし、「字が汚いから恥ずかしい」とか、「好きな子の名前をついつい書いてしまっている」とか、いろいろと事情が考えられる。
 それらはすべて「相手の事情」で、「自分の事情」ではない。

 世の中には「自分の事情」を話したがらない人も多い。だから他人には「その人の事情」がわからなくて、誤解されたり、忌避されたりする。「わからない」ものは「こわい」のだ。
 
 僕の昔の日記に、「言い訳が嫌い」ということが何度も書いてある。つまり「自分の事情を話したくない」ということだ。だから僕は誤解されたり、忌避されたりすることが多かった。今でもそうだ。あまり進んで「事情」を話すということはしない。

 人にはそれぞれ事情があって、それは他人には「言わなければわからない」ものだ。事情をわかってほしければ「言う」べきである。が、わかってもらう必要がないと思えば、別に言わなくても問題ないだろう。誤解されるのは、誤解するほうが悪いと僕は思うからだ。
 だって、「わからない」ことは本来誤解しようがないのだ。「わからない」のままにしておけばいい。しかし「わからない」は怖くて不安だから、「わかる」という安心に持っていくため、人は「他人の事情」を勝手にねつ造したり、「自分の事情」とすり替えたりしてしまう。「誤解」というのはここで生まれるのである。

 誰かを遊びに誘って、それが断られた場合。メールを送ったのに、返ってこなかった場合。約束をしていたことが、果たされていないと感じた場合。すべて原因は「相手の事情」であって、それは基本的には「わからない」ものだ。わかりたいのだったら、正当な手続きを踏んでわからなければならない。勝手な空想で決めつけたり、早合点して「自分のせいだ」と思わないほうがいい。

 人にはそれぞれ事情があるのだ。
「遊びに行こうよ」と言ったら「ちょっと体調が悪くて」と言われて、「それなら仕方ないか」と思っていたら、相手がその日、別の人と遊んでいたことがわかった。「どういうことなの!」と思うかもしれないが、怒ってはいけない。人にはそれぞれ事情があるわけだ。
 この「事情」を考える力こそが、「想像力」であり、「柔軟性」であって、これがあってこそ、「怒らない」という状態が実現する。
 事情を考える、と言っても、「彼にはこういう事情があったに違いない」と決めつけることではない。「何らかの事情があったんだろうなあ」と漠然と考えることがむしろ重要なのだ。もちろん具体的に「例えばこういう事情が考えられるなあ、だとしたらしょうがないよな」というのができれば、「しょうがない」に説得力が与えられて、安心できる。

 事情を想像する力、というのが大事なんじゃねーかなって。

 あ、陽花さんお誕生日おめでとうございます。
 今年も呪えて……いや祝えて嬉しいです。
 2002年からたぶん欠かさず(どっかで抜かしたことあったっけ?)祝っていることよ。あと1年! ジュビリー!
 今年の目標はガムテープでちゅー。

 なんかついでだからラブコールしておくと
 僕は君のことを愛している!
 君がどれだけ××な女でも
 ちんちくりんでも
 ちんくしゃでも
 そんなことは関係なく愛しているのである!
 二度と恋愛のような関係になどならなくていい
 しかし必然さえあれば別にそうなったって構わないくらいには
 愛しているのだ!
 ただ、我々は“確実な予感”として「そんな必然は二度と訪れまい」と思っている。そしてそのことを喜ばしくも思っている。
 ただ2年のうちに5回くらい会ったり話したりできれば
 そのような具合が永遠に続けばと願っております。
 80歳、90歳になった時に
 2001年くらいの話を赤面しながら語り合いたいわ。

 人を愛せば愛するほど、「相手は自分ほどに自分のことを愛してくれているのだろうか」と思ってしまうのだが、
 そんなことを考えるよりはただ熱心に愛するべきだ。
 それで憂慮は杞憂に変わるのだから。
 無意味に愛するのではなく、乱雑に愛するのではなく、
 有意義に、適切に愛することだ。

 誰にでも向けているわけではない。
 例えば僕は女の子の身体に気安く触ったりなどはしないが
 気高くならば触るのである。
 なんかもう勝手に遠慮を排しております。
 いつもいつも失礼なことをしたり、言ったりしておりますが
 小学一年生なんだよ!
 許してください。
 許してくれなくてもやめません、あと60年、これを続けます。
 80歳、90歳になった時に
 おみゃーの身体の問題のない箇所を、見つめ、眺め、さわり、時に殴り、「エッチ!」と再び言わせてやる。
 君にその才能があることを祈り、信じる。

 そのうちに結婚もすんだろうが
 そうしたら2年に5回が5年に2回になることもあろうが
 旦那に殴られても
「旦那に悪い」と言われようとも
 本気で拒否されて逮捕されても
 愛さない必然がなければ愛するのである!
 うむ。
 そういうわけで今年もよろしく。
 ちなみに、ときおり読みに行ってます。

2011/01/26 当たり前のことを言いますよー

 大事なことを二つ言います。

「人と上手に話をすることは大切だ」
「人にはそれぞれ事情がある」

 前者はもうね、「大切だ」と言い切ることにしましたよ。
「人による」なんて、柔軟そうに見えて実は思考停止してしまっているような言い方だけはしたくないですわ。
 思考停止っていうか、思想停止って言うかな。

 人と上手に話をするっていうのは、誰もがやんなきゃいけないもんです。不器用なのはいけません。「それも個性」なんてのはウソです。世の中にはいい個性もあれば悪い個性もあるんです。話すのがへたくそなのは悪い個性です。絶対に、人間は上手に人と話せたほうがいい。話すべきだ。
 と、強引に言い切ってしまったほうがいいかなと、最近思う。
「べき」か「べきでない」かで言ったら、「べき」なのだ。
 人間関係というのは、やはり「話す」ということによってしか全うされないもんなんですよ。非言語コミュニケーションがどうだとか言うけど、それのみによって全うされる関係というのは、「人間関係」じゃないんですよ。「動物関係」なんですよ、言ってみれば。
 そして、「話す」ということの中にも、もちろん非言語的な要素は含まれるんで、割と総合的なことをやっているわけです。表情とか、声の調子とか、身振り手振りすべて、「言語」の範疇から外れているすべての所作は、「非言語」。
 言語も非言語もひっくるめたところに「話す」っていうことがあって、そういう総合的な行為は人間にとって最も大切なことで、それはやっぱり上手であるべきなんだ、と、思いますよ。
「人間らしく生きたい」とか、「人間と仲良くしたい」とか思うんだったら、っていう、譲歩付きでね。もっと言えば、「あなたが人間でいたいなら」かね。
 そうでないなら、「人間であれるものなら、人間であるべきだ」という別の「べき」が出てくる。かなー。

 後者については、続く。

2011/01/25 人間は成長するんだってば

 正月に会った中学の同級生の話。
「家族に対して怒ってばかりだったのが、最近は怒らなくなった」
 と彼女は言う。
 何故かと問うと、
「自分がどうして怒るのかを考えるようになった。自分の怒るポイントがわかってきたら、怒らなくなっていた」とのことだ。
 ちなみに彼女の怒るポイントというのは、「自分で決めているルールを、他人(この場合は家族)が破ったとき」で、たとえば「自分が買ってきた香水を、母や姉が自分よりも先に使った」とかだという。

「でも、自分のルールと、他人のルールって、違うんだよね」

 これが26歳の女の子の言葉である。
 彼女は「自分と他人」という言葉を使っているが、この場合、正しくは「自分と母(姉妹)」である。
 女の子に特有のことかもしれないが、自分と「母親」や「姉妹」とが、違う人間であるということを認識できていない人がけっこう多い。特に自分を母親とを、心の底で同一視している女の子はかなりいる。
 彼女は26歳になってようやく、「自分と母親(や姉妹)は違う」ということに気づけたわけである。ここで初めて、彼女は「自分」というものを獲得したのだ、とも言える。ようやく「ひとりぼっちになるためのスタートライン」に立ったわけである。

 僕の尊敬する友達が、こんなことを言っていた。
「柔軟に物事を考えられる人は、怒らなくなる」
 柔軟な人は、怒る前に考える。考えるから、怒る暇なんてない。
 冷静に考えると、怒って得するような状況というのはほとんどないし、あったとしても「感情的に怒る」にはならない。「怒るべきかどうかを判断する」というクッションが存在してしまった時点で、感情は二の次になるのである。
 つまり、こうも言える。
 26歳の彼女はここにきて、「柔軟性」を獲得したのであった。

 少なくとも26歳くらいまでは、女の子は成長するものらしい。


 僕は、人間は年を取るともう成長なんかしないもんだと思っていた。しかしその絶望はどうやら誤りであった。人間は成長するらしい。
 正直言って、僕は二十歳を過ぎている友人に対してはその点でかなり冷たかった。というか、諦めている節があった。「何年経っても改善されない」という状況をたくさん見てきたから、「ダメなもんはダメなんだよな」とくらいにしか思っていなかった。だから説教も控えめにしてきた。目をつぶるようになっていた。ことに女の子に対しては「どうせ何を言っても無意味だし、何かを言ったって事を荒立たせるだけだ」とさえ思って、何か思っても黙っていた。女の子は早熟なぶん、固まってしまうのも早い。二十歳過ぎたら完璧に手遅れだと、そう考えていた。
 しかしどうやらそういうもんでもなかったらしい。
 二十歳過ぎた女の子でも成長するらしいことが、この正月にわかってしまったのだ。「そりゃ、そういうこともあるだろう」と、理屈ではわかっていた。しかし現実にその事例を目の当たりにするまで、すなわち「実感」というものを得るまでは、なかなか信じられないものなのである。

 ちなみに僕は「成長」という、上昇志向の権化みたいな言葉が好きではない。「成長」のような上向きの言葉は、無条件に素晴らしそうに聞こえるため、人を騙しやすいのである。
 そういえば二年ほど前、クラスでいちばん国語のできる中三の女の子(なんと100点取りやがった)に「僕は成長とか進歩とか、そういう言葉がぜーんぶ嫌いだ!」と言い放ったら、「どうしてですか」とすぐさま詰め寄られたので、僕はすぐさまこう返した。「あんまり単純すぎるからかな」と。そうしたら彼女は「あー、やっぱり私は先生が好きだ」というようなことを言った。言ったのだよ! なんてセンスのある子なんだ、と思ったね。
 そう。単純すぎるんだ。だからすぐに思考停止する。

 で、なんでそんな嫌いな言葉を最近はあえて使っているのかというと、ちゃんと理由はある。
 そもそも「成長」という言葉は、子供に対してのみ使われる言葉だ。
 子供は成長するのである。大人は成長しない。大人のくせに「また一歩成長した」とか「もっと成長したい」とか言ってる人間には気をつけたほうがいい。
 だから僕のいう「人間は成長する」という言葉の本当の意味は、「人間は成長しない限りは子供なのであって、成長できないまま大人になるわけではない」ということになる。「人間は成長する」というのは、「成長しない人間はいない」ということで、すると「成長しないまま大人になる」ということはありえない。だって大人は成長しないんだもの。
 僕は今まで、「どうしようもない大人」というのをたくさん見てきたわけだが、なんのことはない、彼らは「子供」だったのである。だからまだまだ、成長の余地はあるわけだ。僕は勝手に、「成長しないまま大人になりやがって」と思っていたのだが、違う。どんだけヒゲを生やそうが、どんだけ偉そうに振る舞おうが、どんだけ金を持っていようが、ガキはガキである。

 僕の周りには、「成長したい」と思っている人がたくさんいて、何割かは僕にもその兆しが見えている(僕もその一人なのかもしれない)。彼らは軒並み子供であって、いま大人になろうとしている。
 早く「成長」などという言葉とは無縁のところに行きたいものですね。
 でなければ子供を産み、育てるということができませんものですから。
 子供という、単純な世界で生きている限り、単純な言葉だって必要になる。
 複雑な世界へ行くには、単純な世界をクリアしないといけないわけですよ。
 まだまだ君たちは、「成長」なんていう胡散臭い言葉にまみれていなければならないくらいに、子供なんだってことです。
「成長」という言葉の何が単純かって、一直線だからですよ。ゴールに向かって。そんなもんは大人になったら許されんのです。許されないべきです。


 ガキがガキを作った結果、今この国虐待のメッカ
 もし殴られてそうな子供がいたら
 すぐ
 俺に言え

2011/01/24 「他人」がなく、「自分」しかない

 オーストラリアへ行ってしまう教え子に餞別として
 小沢健二『うさぎ!』
 橋本治『いま私たちが考えるべきこと』
 中川八洋『正統の哲学 異端の思想』
 を与えてみた。
 彼からは「非常に難解な本か、答えの書いていない本を教えてくれ」と言われていたので、このあたりが順当かなと思ったのだった。
 偏りすぎるほど偏っていることはわかっているが、彼ならば洗脳されずに消化できるだろう。

 彼がもうあと数日後には発ってしまうので、「できるだけ多くの人に会わせてあげよう」と思い、木曜の無銘喫茶に呼び出したり、元クラスメイトの女の子や、僕の年下の友達や、高校の後輩などと会わせたりした。
 それを彼はとても喜んでくれた。

 あまりにも早熟で、「自分」というものを強く持ちすぎていて、思考力も判断力も飛び抜けていた彼は、学校では完全に浮いていた。「評価される」ということもなければ、「反応される」ということすらなかった。彼の話を理解できる人間は、ひょっとしたら一人か二人しかいなかった。家庭でも「話が通じない」という状況はあったようで、彼の孤独を考えると空恐ろしくなるほどだ。
 もちろん、そのくらいの孤独で潰れてしまうようなタマではないが、「教育のことしか考えていない」と日ごろから豪語している僕は義務を果たさなければならない。すなわち、「人に会わせる」ことである。

 22日に、4人の人間に会わせた。
 まず、彼と同級生、16歳の女の子。
 これはお互いによい時間となったようだ。
 彼は彼女から「中学時代の自分」についての客観的な意見を聞くことができたし、女の子のほうは計り知れない刺激を受けただろう。
 この女の子も僕が「見所がある」と思っている子ではあるのだが、その彼女をしても彼とは「同じクラスだったのにほとんど一言も喋ったことがないし、どんな人かもよくわからなかった」というのだから、彼の孤独も極端である。

 それから、彼が発つ日に21歳になる男と、24歳の男を僕の家に招いて、4人で話をした。
 24の方は、かなり面白い話を彼にしてくれた。24はどうやら、「人と話す」ということをかなり重要視し始めているようで、話し方も上手かったし、一方的ではなく彼の話もよく聞いていた。24は教育者なので、そういうことの大切さを誰よりもわかっているのだろう。彼も24のことを「面白い」と評していた。
 21の方に関しては、「よくわからない」と彼は言っていた。
 僕は徹底的に酒を飲みながら、徹底的に3人の話すのを聞いていた。もちろん僕も会話に参加しながら。
 そうすると、24と21の違いというのが非常によく見えてきた。これは単純に年齢の差ということなのかもしれないが、端的に言えば「他人」というものが存在しているかどうか、だ。
「自分」だけで生きている人間は、他人のことを考えられないから、「他人から見た自分」というものがわからないし、「どうしたら他人が楽しめるか」ということもわからない。別に「楽しませる」なんてことはしなくてもいいわけだが、「ともに楽しむ」ということは大切で、それは「自分」だけではできない。
 だから、「自分」だけで生きている人間の「自分」なんてもんは、すっからかんなのである。

 16歳の彼は、16歳の彼女と話すことによって、「他人から見た自分」を獲得し始めたようだった。「そうか、俺はそんなふうに見えていたのか。そして、そんなふうに見えていたのは、俺があんなふうだったからか」というふうに、自分のかつての振る舞いについて分析している。立派だ。
 24の彼はその段階がそろそろ終わって、具体的に行動するところまで来ている。そのおかげで僕もずいぶん仲良くしてもらえている。嬉しい。
 21の人はよくわからない。「他人」がないのだから、「自分」というものは常に混沌としていて、秩序がない。情報や思念の欠片が無秩序に無作為に自由運動していて、まとまりがない。「自分の考え」といったようなものが一つもない。
 別に褒めてるんでもないし期待を持っているわけでもない。無秩序ということは空っぽであることと同じである。無秩序に秩序を与えるということをしなければ、空っぽのまんまである。僕がよく言っていたのは「何もしないでいる中学生は何もできない大人にしかなれない」という言葉だ。「何かをしていた」というときの「何か」は、後付けでいい。それが「秩序を与える」ということだ。過去の自分と現在の自分とを、一つの秩序でまとめあげることができたら、「何かをしていた」ことになるのだ。
「何一つ、無駄なことなんてない」と16の彼は言ったが、僕もそう思う。無駄であるかどうかは、未来の自分が決められる。それが「自分の人生に秩序を与える」ということであって、「自分」を形成することそのものだ。
「自分」ができていなければ、「他人」だってできようがない。何はなくとも、そこからだ。この世に生きるなら。

2011/01/23 加藤

 なんだかすべてがゆったりと重たい。
 人間は結局「厳しくされたい」と「優しくされたい」の間で葛藤するものなんだな。
 最も楽なのはどちらも受けないでいることだ。
 空っぽでいること。

 エサを食うためにとりあえず出てきたはいいが
 鈍重のうえ豊かでない。
 眠気はないがぼーっとしている。
 何もしたくない気怠さ。慣れてきたからな。
 こんなにもすぐにやる気をなくすもんなんかと思うが。
 やることはたくさんあるけれども
 いや、あるので、やるんだが、
 不向きで、かつ、したくもないことをする、
 なんか降り注いできた。
 もう8時間くらい遅く来てもよかったな。

 見所のある教え子たちと話をした。ぞくぞくする。
 誤解されないように言っておくが僕はちゃんと男子生徒にも目をつけているのである。むしろ僕の恋人と目されているのは14歳のかわいい男子である。
 ともあれこの子たちが成長していくのが楽しみでならんよ。
 いい友達になれるだろう。
 そしてこの子たちに関しては、「あれをしろ」「これを読め」などと、押しつける必要は特にない。必要があれば本くらいすすめるが。
 男の子とはそういうものだ。放っておいても大丈夫なやつは大丈夫。
 女の子は違う。育ててあげたほうがいい。
 ジョージ秋山先生も似たようなことを仰っていた。
 男は、ただ生き様を見せてやればいいのだ。それで勝手に育っていく。

 人には「向き・不向き」ということと、
「好む・好まざる」ということがあって、
 向いていて好むことをやるのが一番良いのだ。
 それが決して積極的には「やりたい」と思えないようなことでも、
 向いていて、好めるようなことであれば苦痛はないし、
 いくらでも工夫を凝らして楽しめる。
 仕事とはやはりそういうふうに決めるべきものであることだ。
 まずは自分があってこそ。
 背広に自分を合わせるのではなくて、自分に背広を合わせるのだね。
 合わない背広を無理に着ると綻びる。
 喧嘩をしたり自殺をしたり、騒動が起きるんだね。


 傍若無人。傍らに人無きが若し。かたはらにひとなきがごとし。
 もっとそのように効率的に生きられるはずなのだがな。

2011/01/22 人は成長する

 あとでわかるよすべての意味が 今はわからなくても
 苦しみも幸せも秘密も だから投げないで だきしめていこう ずっと

 イッツマイライフだからね~。


 あの子がだんだん成長してきている。ヨイヨイ。愛させろ。
 人は成長するものだ。思春期ならばなおさら。

 マリオの下手くそな友達Pにマリオ3を強制的にやらせて、クリアさせた。8Wのみをやらせたのだったが、4時間かかった。
 しかしやり始めと最後のほうとではまるで赤ん坊と兵隊だった。
 人は成長するのである。

2011/01/21 おもいだす バイオ ビーピーウィーホエホエアー

 正月だからと言って過剰であることの言い訳にはならない。
 あほくさい理屈ばかり言っているとそういう人間だと思われるが、言葉をしか使えないからには理屈か詩かの二択しかないのだから、極端に走ったほうがすっきりするだろうが。
 混濁した逃げの一手。

 知恵を捨てよう、凝り固まってしまった。
 眠ろう、もう。
 自由が許されているのに自ら縛る、くだらないではないか。

 狂気とは何か?
 誰かが「他人には到底理解できないようなこと」をしたり言ったりすると、それが狂気だ。つまり狂気とは、他人を前提にしない気分だ。自分の中だけで完結してしまうのが狂気だ。文章が「読み手」を意識すれば、そこに狂気はなくなる。冷静になる。
 狂気がほしいなら他人を忘れなければいけない。
 読み手を意識していないから、文法が崩れていても気にならない。
 電波文と呼ばれるものはたいてい文法が崩壊しているが、それこそが「他人を無視している=狂気じみている」ということの証明だ。
 文法を守ろうと思うのは、常識を守ろうとするのと同じことで、そんなことは冷静でなければできやしない。冷静でない人は文法も常識も守れない。それが狂気だ。
 だから怒るのも時に狂気だ。「怒り狂う」という言葉もある。他人にわからないような言葉で、あるいは様子で怒るのは、狂気でしかない。

 僕にはもう狂気など持てなくなってしまった。あまりにも冷静だ。
 高校二年生くらいの文章を見ると、いっさい冷静でないのがわかる。
 意図的にではなく、たぶん純粋に意味不明。
「掃き出している」という表現が合う。「吐き出す」というより「掃き出す」。
 そういう時期を羨ましいとも思うけれども、そこに戻りたいというのでもない。
 新しく何か。
 僕がたとえ今狂気を装っても散文詩のようにしかならない。

 夢を見た。
 大好きな高校の先輩が出てきた。
 何も変わっていなかった。
 久々に会いたいけれどもどんな話ができるだろう。

「花」さんが僕のことをサイトに書いていた。これも夢の中で。
 そんなことはあり得るはずもないのに。

 僕は狂ってしまいそうなとき、それを理屈によって表すことで混乱を防いできた。この10年近くは、そうしてきた。だんだんそれが上手になってきている。だから女の子と別れようがちっとも問題ではない。ちょっと時間をかけて理屈にしてしまえばいいのだ。スマートな言葉に変換してしまえば澱みはなくなる。狂わないために理屈にする、そのために言葉を使う。だからもう僕は言葉で狂うってことはないのですね。つまんねーな。

 本当に散文詩のようにしかならない。狂気とは読み手のことを考えないということで、そんなことはもう、どうやら不可能だ。

 それでは、さようなら。

 っていうのは同じことを二回繰り返していますね。

2011/01/20 いっしょに海の鍵盤をすべろう

 へばりついた汚いもののような気分でいたが、海の底のホテルで一日中休んでいたら幸せなことばかりが浮かんでくるようになった。命が生まれるかもしれない愛、命を育んでいくかもしれない愛。そうしたことをやはりアニメやマンガで感じる僕は君こそわがおたく。

2011/01/19 だからなんなんだ?

「財布をなくしてしまった。死にたい」
「でも、おれも財布なくしたよ!」

 だからなんなんだ?


「俺って不細工だから、女にモテないんだ」
「でも、おれも不細工だし、女にモテないよ!」

 だからなんなんだ。
「でも」ってどういうことなんだ。
 何を打ち消しているんだ。


「足が痛い」
「でも、あたしだって痛いわ」

 だからなんなのだろう。


「足が痛い」
「大丈夫? 実はあたしもさっきから足が痛いんだ、一緒にがんばろうよ。ね?」

 そういうことだと思うんです!


『ママは小学4年生』を久々にちょっと見て、「こういうことだよな!」と思った。好きなものを見たり読んだりすると、「こういうことだよ!」とだいたい言う。そうですよ、そういうことなんですよ。

 水木なつみはかわいい。きっと誰が見てもかわいい。
 そういうことだと思うぜ。
 とがったシャキシャキの絵柄じゃなくって、丸っこくて優しい。
 そういうことなのです。
『飛べ!イサミ』も久々に見たのだが、やっぱり「いやー、こういうことですよ」と思った。
 なんか、Wikipediaの「
2011年のテレビアニメ」という項目を見ていて、PTAの面倒くさいおばちゃんが、アニメやゲームやマンガを非難するときのような気分に、たぶんなった。
 別にいーんだけどさ、あの頃が異常だったんだよね。小学生が主人公ってのは、非現実的だし。でもね、大人は「こんなに複雑なことを考えて実行できる子供はいない」って思っちゃうけど、子供って実はけっこうすごいんだけどね。そこをわかってあげないといけないんだけどね。わかった上で、過ちを諭し、育てていかねばならんのだけどね。
 それにしてもあの頃(88~95くらい?)で僕が好きなのは、軒並み小4か小5が主人公なんだなー。面白いな。それはそうだよな、95年で僕は小5なんだからな。
 96年になると僕の好きなアニメがガクッと減ってしまうのは、単に僕が小6になって、神通力を失ってしまったからなのかもしれない。絶対違うと思うけど。
 無関係とは言えないなあ。小6になっちゃったら、なんかもう全部が終わりみたいな気がする。本当はそんなことないんだけど、そうだったのかもしれないな。
 なんか本当に、あのあたりからいろんなことが変わっていってしまったようだ。それは僕が子供で、何も知らなかっただけかもしれないけど。

 同じくWikipediaの伝説の勇者ダ・ガーンの項を見て、泣きそうになっている。明日ブロードウェーで購入する予定なんだが、売れてしまっていたらどうしよう。今からダッシュで買いに行こうかなあ。


 それにしても、人間はどうしてこんなにも未来のことを考えなくなってしまったんだろうかね。赤ん坊より愛しいのは自分だからか。そうだろうな。
 悲しくて仕方なくって、何を見ても何を読んでも逆説的に絶望してしまう。
 だけど最後には希望が残るっていうのは、彼らからもらった誇りでもあるわけだが……。

2011/01/18 ktb

 僕は正しいことを追い求めて生きているわけだが、あるいは国語の学習指導要領にある、「話す・聞く・書く・読む」という四つの領域を育てていくために生きているようなものでもあって、これらの訓練になるようなこと以外はしたくないような人だったりする。僕は言葉が大好きだし、人間は言葉で生きていると思っていて、正しいことも言葉を媒介にしなければ導き出せない気がするのだ。
 そういうことを半ば本気で思っているから、僕って心がないのかなとも思うんだけど。
 僕は自転車に乗るし、星だって見るけれども、それについてあれこれ考えて、最終的には「話す・聞く・書く・読む」に還元したいと思っている。自転車も星も、言葉を育てるための道具だともいえる。

 そういうわけだから当然家にいるときも、「話す・聞く・書く・読む」の上達に常に励んでいる。具体的には、漫画か本を読むことが圧倒的に多い。別に掃除をしていても料理をしていても、編み物をしていても訓練にはなるのだが、「読む」ということが僕にとってはいちばん効率がよく、性に合っているようだ。
 まあ要するに僕は漫画とか本とかを常に読んでいたいような人なのであって、それ以外のことというのはそんなにしたくないのである。
 別に快感だからするのではなくて、なんだかそうしなくてはならないような気がするのだ。青臭いようだけれども、実際そうなのだ。妙な向上心を持った人はすぐに資本論とかニーチェとかを読みたがるけど、それの亜流みたいなもんだ。別に読むことが好きなわけではない。読んだほうがいいだろうと思うのみだ。そうじゃないと僕の方法では正しいところへ辿り着くための道しるべが足りなくなる。漫画が好きなわけでも本が好きなわけでもなくて、ただそうしたほうがいいような気がするのだ。目標達成のために。

 ってな格好いいことを言っているが、実際はパソコンをいじってる時間がいちばん長いのかもしれないけどさ。まあ日によるんですけども。パソコンでもだいたい、読んでるか書いてるか、調べてるかのいずれかだからそんなには変わらないが、効率は良かったり悪かったり。うーむ。

 そういうわけなんで、いろいろと、わかってもらいたいわけですよ。
 今日は『ぽっかぽか』と『ママは小学4年生』のせいで、結婚と子育てのことばかり考えていたよ。
 僕は家で一人で漫画読んで、本読んで、いろいろ考えて、書いて、あるいは寝っ転がって死んだようにしている時間が非常に好きだ。
 割と異常者だと思う。
 お家ほどいいところはない。

2011/01/17 精神的に向上心

 最近、僕の周りでは精神的な向上心に目ざめてしまった人が多い。
 十代の子たちだけでなく、二十代半ばの、僕と同世代の人たちも精神的な向上心を抱いて、頑張っている。
 精神的な、というのは、主に「コミュニケーション」という点。
 やっぱり一番大切なのは「人と意思疎通をする」ことなのだ。
 人として、人に交わって生きて行かざるをえない以上は。

 しかし、いい年して今さらコミュニケーションがうんたらというのは、「何をいまさら?」とも思う。これまで何してたんだと。
 不自由しなかったんだろう。考える必要もなかったんだろう。
 正月に感動したエピソードを一つ。

「最近、怒らなくなった」と彼女は言った。
「どうして?」と訊ねたら、
「自分がどうして怒るのかを、考えるようになった」と言う。
「そうしたら、自分が怒るポイントがわかったの。私って、自分で決めた“自分ルール”を他人が守ってくれない時に怒ってたんだ。だけどさ、自分のルールと、他人のルールって、違うんだよね」
 と、26歳の女の子が言うのである。
「これまで、そんなこと考えたことなかった。とにかくスイッチが入ったみたいに、ただ怒ってた。でも考えるようになってから、本当に怒ることが減ったんだ」と。
 僕は大いに感動した。
 26歳の女の子が、こんなに目覚ましい成長をしたっていうことに。
 人間って、何歳の時に成長するかわからんもんなんだな。
 僕は20歳くらいの時から「30過ぎてるのにどうしようもないやつ」を軽蔑してきた。それは「絶対に直らないだろう」と思っていたからでもある。だけどそうでもないのかもしれない。ひょっとしたら人間は、死ぬまで成長できる。

 想像力のある人は、怒らなくなる。
「怒る」以外の選択肢を持った人は、「怒る」ということの非効率さ、無意味さを知り、怒らなくなる。「怒る」というのは、筋道が一本しかない人のすることである。複数の筋道を持っている人は、「怒る」の前に「考える」をするのだ。「複数の筋道」とはすなわち、「想像力」である。「本当にこれは、怒るべきことなのか?」と立ち止まって、「事情」というものを想像すると、「別に怒ることではないんじゃないか」という結論に、だいたいは辿り着く。
 そして、こういうのを「柔軟性」とか言うのだ。
 脊髄でしか行動できない人は、すぐに怒る。
 頭でものを考えられる人は、感情的になるということがない。

 ただ、「感情的である」ことを「人間的である」する見方もあって、ほとんど怒らなくなってしまった僕みたいなもんはあんまり人間的でないのかもしれない。

 高校の後輩、同級生、友達、教え子など、僕の周りで何人もの人が、同時多発的に、「今のままの自分ではいけない」と思い始めているようで、毎日いろいろと模索中みたいだ。彼らは変わっていくのだろうか。
 26歳で、あんなに大切なことに気づいて変わっていくことができるのだから、いわんやそれより下の世代をや、である。
 年齢の問題じゃない、とは思いつつも……。

 それだから僕は期待してしまう。
 いまいち捨てきらんで。

2011/01/16 愛させてくれ

 愛させてくれたら、もっと迷えるのに。

2011/01/15 伝える

「説明する力」というのは大切なのであるよ。
 僕もかつてはこれが苦手で。
 毎日文章を書きまくっていたことと
 素敵な受験勉強とによって力をつけていったのだと思う。
 あと、演劇をやっていたのも大きいかもしれない。
 どうすれば伝わるか、ということを学んだ。

 サイトの文章に関して言えば、「伝えよう」と思っているときと、「伝わらなくてもいい」と思っているときがあるし、「伝わるレベル」を計算して書くときもある。「このくらいは伝わってほしいが、残りはあえて伝わらないようにしておこう」とか。そういうことを毎日していると、「どうすればどこまで伝わるか」ということがなんとなくわかってきたりする。なんとなくだが。
 受験勉強というのは、「自分はわかってます」「僕は頭いいんです」ということを、採点者に正しく伝えるための練習という側面もある。
 国語の論述問題を考えるとわかりやすいが、あれで満点をもらうためには、完璧な文を書かなくてはならない。過不足なく情報を詰め込んで、誰が読んでも意味が通るような、文法的にも穴のない文。
 選択肢問題だろうが似たようなもので、「(より)完璧な説明をしている文を選ぶ」というのは、一定の訓練になる。
 演劇なんかはまさに、「伝えたいことを、全身を使って精確に表現する」という芸術だ。全身どころか、舞台上にあるすべてのものを使う。役者だけでなく、音響、照明、舞台装置、衣装、小道具、メイク、映像などなど……、あらゆるものを「意味を伝える」ために効果的に利用するのが演劇である。
 演技一つだけとっても、「この場面を表現するにはどうしたらいいか」ということを常に考える。
 僕がこれをはっきりと意識したのは、たぶん『寓話の見た夢』というお芝居をやったときだった。僕の相手役の先輩が、「このせりふを言うまでにいったん“すれ違って”おいて、背中合わせになった状態でビシッと言ったほうがいいよねえ?」という意味のことを言ったときだったと思う。高校1年生の冬、ちょうど今の時期くらいか。
 非常に単純なことではあるのだが、「身体がすれ違う」というのは、舞台上ではそのまま「心がすれ違う」ということを表現してしまう。「背中合わせで話をする」というのは、例えば「精神的に決別してしまっている二人」を表す。ちなみにこのシーンは、二人の仲が決定的に崩壊してしまう瞬間だった。

 僕はけっこう、生きる上で最も大切なことは「伝える」ことだと思っているので、文章を書くことが好きだし、話すときには気を遣うし、「演劇はちゃんとやっておいたほうがいい」と強く思っている。
 僕が最も尊敬している岡田淳さんも、
Webエッセイで「22.演劇クラブが始まったわけ」という記事を書いている。お暇な方は是非。いつか演劇のこういった魅力を、まとまった作品として仕上げたいな。『まなびストレート!2』みたいな意味の。僕がまともな青春小説を書くのだとしたら、きっと演劇を題材にしたものになるだろう。演劇がもっと一般的なものになりますように。演劇部が「オタクの暇つぶし」でしかないような活動に終わりませんように。願いを込めて。

 今日はある女の子と電話をしていた。「ドラえもんは2010年で40周年ということになっていたが、実は41周年だったのだ!」などというどうでもいいことを話していたら、「ということは連載開始は1959年ですか」というようなことを言うので絶句してしまった。「貴様は引き算もできないのか! 100から7ずつ引いていってみろ」と言うと、「100、93、86、79、62、55、48、31、25、18、11、4」と答えた。彼女の名誉のために言っておくと、この子は非常に賢い子である。賢い子であるのだが、どっか抜けている。算数っていうのは基礎の基礎だから、ちゃんと訓練したほうがいいと思いますよ。169円の買い物をしたときに224円出して55円もらうとか、そういう計算を日常的に常にしていると衰えないかも。どーでもいいが僕は小学生のときは算数がいちばん好きだった。
 僕は呆れてしまって、「いま、計算間違いが三箇所あったけど、どこで間違えたかわかる?」とたずねた。我ながら面倒くさい男である。すると彼女はすぐにはわからなかったようなので、僕は彼女の答えを反復して伝えた(これが正確にパッとできるんだからジャッキーさんはえらいですね。こういうのも日常の訓練のひとつ)。
 すると、「あー、全然違いますね」と彼女もわかったようで、「さて、どこで間違えた?」と聞くと、「79?」とか単語で答えやがるので、「あのね、それじゃ説明になってないでしょ」と言ったが、ピンと来ないようだった。次に答えたのは「繰り下がり?」という、これまた単語であった。
 単語でしか答えられないっていうのは、完全なるコミュニケーション不全。これはどうにかしたほうがいい。学校のテストで言うと、「一問一答のような、単語で答える問題は得意だが、論述問題がぜんぜんできない」という感じである。
 僕が求めていた答えというのは、「79から7をひくときと、48から7をひくときと、31から7をひくとき」といった、単純な「説明」だったのだが、これがなかなかできないようなのである。「単語ではなくて、ちゃんと説明してください」と言うと、彼女はこの単純な説明をすっ飛ばして、なんだか複雑なことを答えた。「1の位が7より小さいときに、10の位が繰り下がるのに気を取られて、間違えてしまいました」と。これも言い方が複雑なだけで、説明になっていない。「1の位が7より小さいとき」と言うが、それは「どんな数字の1の位について言っているのか」という説明がないから、理解しにくい。「自分はわかっているから、他人もわかるはずだ」という、自分勝手な考え方をしてしまっているのだ。さらに言うと、「気を取られて」というのも自分勝手な表現である。具体性がない。「気を取られる」ことと「間違える」ことがつながっているのは、本人の頭の中だけである。ここで説明すべきは、「10の位を繰り下げる必要のないところで、繰り下げてしまった」ということであって、「気を取られた」などという、本人の内部事情ではないのだ。自分のことしか考えていないと、こういう言い方になる。
 そもそも僕は「なぜ間違えたのか」を問うていないのだが、優等生はついつい「聞かれてもいないこと」を先取りして答えてしまう。「難しい解答をすること」はひとつも偉くなんかなくって、「求められている解答をする」ことが大切なのだ。それは勉強だろうと日常の人間関係だろうと同じ。「今日の天気は?」と聞かれて「30℃こえるらしいです」と答えるのは不親切である。聞きたいのはたぶん「晴れか雨か」という類のことなのだから。
 ま、模範解答はこういう感じだろう。「79から7をひくときと、48から7をひくとき、10の位を繰り下げる必要がないのに、間違えて繰り下げてしまったため、72を62、41を31と誤答してしまいました。また、31から7をひくとき、本来24になるはずなのに、1の位の計算を間違え、25と誤答しました」とかね。「気を取られて」とか「混乱して」とかは、言い訳でしかないので、どうでもいい。

「求められている解答をする」というのは大切なことで、これができていない若者には、ついつい説教をしてしまう。「説明が下手くそ」というのはある程度仕方ないものではあるが、「コミュニケーションにならない」というのは致命的である。完璧な受け答えをしろなんてことは言わないが、「相手のことを考える」のは大切だ。さっきの天気の話が典型的だが、「表現力」というのは実はほとんど関係がなくて、「相手が何を求めているのかを考える」という思いやりがあるかどうか、の問題が大きい。自分勝手なやつは、自分が答えたいようにしか答えることができない。

 この正月、高校の同級生に「なんでお前はモテるんだ」と詰問した際、「相手本位の会話を心がける」という返答が得られた。今日の話は、ここにそのままつながっていく。
 逆に、同じ仲間内で、いまいち女に恵まれないやつがいる。そいつは算数が苦手で、お釣りの計算とかがうまくできない。どうもいろいろと、つながっているようだ。

 ある年下の友達に、「プレゼンをやろうぜ」という話を持ちかけた。みんなでプレゼン大会をしないかね、と。プレゼンというのは要するに「説明」である。プレゼンには、把握する力、まとめる力、削る力、広げる力、表現する力など、総合的な能力が必要とされるし、何よりも「聞き手を意識して、わかりやすく話す」という、生きていく上で最も大切であるような力も試される。これが上手くできる人はだいたいなんだってできるのである。演劇っぽく言えば「演出する力」や、「臨機応変にアドリブを入れる力」もつく。これらは、身につけておいて損はない。仲間内で、楽しみながら練習ができるというのは素敵なことではないか。僕だって緊張するし、恥ずかしいけれども、絶対面白いもんね。きっと終始、げらげら笑いながらやれるんだろうし、後にネタにもなるだろう。そんな楽しいプレゼンは、社会に出るとほとんどできないもんである。
 そう思って、良かれと思って「プレゼンやろうぜ」を言ってみたのだが、何度も断られてしまっている。先日ようやく「そこまで言うなら、まあ……」くらいの温度で承諾のようなものを得た。うーし。参加者募集。

 ビジネスにおけるプレゼンなるものは、僕も嫌いなんだけれども、あんまり固い雰囲気でないのならむしろ好きだ。ひとり芝居のようなものだから。いつだったか、自分の同人誌についてユーストリームでプレゼンする機会があったのだが、あれはずいぶんうまくいったな。ツボさえおさえれば、即興でも十分いけるもんだ。そういえば、先生をやってたときは、授業って毎回プレゼンみたいなもんだった。そう、大人は誰だって、先生になれるくらいプレゼンが上手くないといけないもんだと僕は思うよ。じゃないと子供が育てらんないよ。

2011/01/14 しょーがないとはいえ

「彼氏と別れました。同時に新しい人とつきあい始めました」
 って話を聞くと、どうも寂しい気持ちになるねえ。

 今の人が好きじゃなくなって、ほかの人を好きになってしまうっていうのは、仕方のないことではあるんで、そんなときはスパッと別れるか、割り切らせてセフレにでもなってしまうべきで、だらだらと中途半端なまんま、どっちつかずの状態でいるのは、一番よくない。

 ここでやっぱり『逆境ナイン』って漫画を思い出すよ。
「二者択一」ですよ。
 どちらかを選ばなくてはならんのです。
「どっちも」というのは無理なのだ。
 苦しいが、そうなのだ。

 だってねえ。向こうが自分のことを、もう別に好きでもないのに、無理して好きなふりをしてもらうってのは、むなしい。
 お互い、いいことなんか一つもないでしょう。だから早いとこ「いやー、実はほかに好きな人ができたので、別れましょう」って言えばいい。それを言えないでいるっていうのは、どういうことなんだ?
 それが「未練」とか「情」というものでしょうが、「好き」という気持ちはもう存在しないのだから、思い切って断ち切っちまえよ。

「どっちも好きだもん」なんてのは嘘です。絶対に、新しい男のほうが好きなんです。間違いなく。
 ただ、「前の男と付き合っていて、気持ちよかった記憶」というのがあるから、「もったいないなあ」と思うだけだ。「もしかしたら、前の男のほうがあたしのことを気持ちよくしてくれるかもしれないよなあ」という、損得勘定が働いているのみ。「気持ちいい」というのはもちろん、性欲だけの話ではない。
 理性によって、「どちらを選ぶべきか」を考えると、「わからない」になっても、感情はどうしても「新しい男」のほうに向いている。だから、どれだけ悩もうが最終的には「新しい男」のほうにしか行かなくて、それで前の男とは破綻する。どのみち。
 勘定と感情、って言うとうまいかもしらん!

「未練」や「情」というのは、結局は性欲がほとんどなんですよ。お金や容姿や性格なんてのは、「理性」の範疇。恋愛感情はまた別なんです。だから、僕は恋愛感情ってのが好きじゃないっていうか、あんまり信用してないんだ。
 本当は未練や情、何より理性に従ったほうが正しいのかもしれないんだけど、恋愛感情に負けちゃうんだよね。
 そういう女はなかなか幸せになれない。

 恋愛感情ってのは根拠がほとんどないもので、あったとしても説明ができないものだ。だから、恋愛感情を持ってしまったら、徹底的に「根拠」を探して、「説明」ができるようにしなくてはならない。
 そうでなければ、「未練」や「情」しか残らなくなる。
 で、「未練」や「情」ってのは、新しい恋愛感情にたやすく負ける。

 恋愛感情だけで恋人やってたら、恋愛感情に変化が訪れたときに、それを止めたり、調整し直したりということができない。
 やはり恋愛というのは「入り口」でしかなくて、恋愛感情は「核」でしかなくて、そこへいかに肉付けしていくかというのが、大切である。

「未練」と「情」はほとんど性欲でしかないので、断ち切れないならさっき書いたようにセフレみたいになるしかない。
「もう好きじゃないので別れましょう。でも、そちらがよろしければセックスだけしましょう」みたいな感じ。男はけっこう、そう言われるのが一番嬉しいんじゃないんかね!
 それを言うのが男でも、「それでもいいわ」と言っちゃう女の子ってけっこういると思う。
 こういうのは未練って言わなくて、ただ純粋な恋愛感情だから、何よりも優先されちゃうわけだ。
 そいで、そこにつけ込む男は、または女は、悪~いやつである。
 だけど、それで相手が納得してるんだったら、あとはもう道徳の問題になってくる。背徳。
 

 今回の話は、「別れたのと同時に他の者とつきあう」という人や、その行為を悪く言っているわけでは決してない。
「恋愛感情」と「理性」と「性欲」というのは、もともとは別のものであって、それが複雑にからまっているものだから、難しいのだということ。一個一個解きほぐしていけば、多少は見えてくるということ。

2011/01/13 箴言

 藤子不二雄からすべてを学んだというわけではないが、
 藤子不二雄からはすべてが学べる。


 ある女性と、絵本について話していて、
「僕の専門は絵本じゃなくって、もうちょっと対象年齢が上のやつなんですよ」と言うと、「私もです」と返してくれた。
 意外と、そう返してくれる人は少ない。いや、初めてかもしれない。
「絵本が好き」という人は多いが、その中には妙に自意識の強い人もたくさんいて、たまにうんざりする。
 ナイナイの岡村さんがよく、「赤ちゃんをかわいいと言う女は、自分のかわいさをアピールしたいだけなんだ」という意味のことを言っていたが、絵本好きの女ってもんの中には一定数、そういうのがいる。
 もちろん偏見だけど。

 おっと時間だ。

2011/01/12 姉と弟

 僕が姉と相性が良いというのは何度か書いた。
 姉というのは実の姉ではない。
「第一子の長女」として生まれてきた女の人と相性が良いのだ。
 ここではこれを「姉」と言っている。
 それゆえ僕の人間関係の中には当たり前のように姉が多い。
 妹やひとりっ子はほとんどおらず、中間子も少ない。

 その中でも、特に僕の周りで多いのは「弟のいる姉」だ。
 特に「一姫二太郎」で生まれてきた、二人きりの姉弟。

 彼女らは、なんであんなにも弟が好きなんかね?
 少なくとも僕の知っている「一姫二太郎の長女」は、例外なく弟のことが大好きで、「弟が世界で一番大切」とまで言う人も少なくない。
 いろいろからくりはあろうが、ひとまず僕は姉がほしい。
 そしてあのように愛されたい。

 一姫二太郎の長女は、献身的なタイプが多い。
 男に尽くすのが得意。
 我を殺すのが得意。

 あ、そうか。
「相性が良い」と書いてしまったが、
「尽くされやすい」というだけのことか。
 僕が弟だからか。兄が三人もいるからか。
 だけど僕は意外と尽くされることが苦手だったりする。
 一方通行になりがちだ。

 姉の弟への愛情はだいたい一方通行である。
 姉がどれだけ弟を愛しても、
 弟はその何分の一、何十分の一かしか愛情を返してくれない。

 姉に対して不義理を働いてしまう言い訳をするのではないが、
 弟というのはそういうもんなのかもしれんなあ。
 いかん。感謝を捧げねば、姉に。

2011/01/10 弟子と僕

 んで、過去ログ読んでると、「弟子ってやっぱ僕に似てんのなあ」って思う。弟子のHPへはリンクから飛べますが、そこに載っている文章っていうのが、十代の頃の自分の文章に似ている。狂気が。闇雲な感じが。何もわかっていないくせに、何もかもを抱えこんでしまっている。そういう感じが。
 弟子が弟子であるのは、弟子が僕のことを「師匠」と呼ぶからで、僕もそれを満更でなく思っている。他の人から「師匠」と呼ばれても「やめてくれ」と言うが、彼女の場合は別にイヤな気もしない。それはやはり、「似ている」と思うからだろう。人格は別に似ていない。容姿も似ていない。何もかも似ていないのだが、文章から滲み出てくる「何か」だけが、極めて共通している。そういうことを、自分の昔の文章を読んでいると強く感じる。


 女が、女であることを克服してしまったら、それだけで恐ろしい偉業であって、僕なんかとは比べものにならない化け物だ。
 そう考えることだってできるんだから、何も悲観することはないんだよ。

「男になる」のではない。
「女であることを受けいれる」のでもない。
「女を捨てる」も、違う。
「諦める」なんていうことでは、決してない。
「女であることを克服する」のだ。
 乗りこえろ、それで最強になる。

2011/01/10 昔の自分を信じる

 尊敬する横島忠夫先生が「世の中に自分ほど信じられんもんがほかにあるかー!」との名言を残しているが、昔の自分なら、僕は信じてみようかと思う。

 現在2000~2004年の過去ログを整理中で、ようやく2001年の夏くらいまでチェックが終わったところ。チェックというのは、「なんかまずいことが書いてあったら修正する」というものだ。重大な個人情報や誹謗中傷、犯罪告白などがあったら処理すると。
 が、あまりにも面倒で、膨大な時間がかかるので、やめた!
 もういい、未チェックで公開する!
 昔の自分を信じるぜ!


 というわけで、↑の「日記」をクリックしていただくと、

 2000年7月からの日記がほぼすべて読めます。
(久々にフォントいじってみたぜ。へっ。懐かしい。)


 とはいえ、2000年ごろの日記は、関係者以外はそんなに面白くないのかもしれません。いや、面白いんだけど、僕が恥ずかしいです。
 受験の頃の日記は、かなり面白いような気がします。
 ここんとこ忙しくってあんまり長文書けていないので、お暇な方は過去ログを読み漁ってください。
 2002~2003年あたりなら、とりあえず面白いかなとは思いますが、何せ未チェックなので、問題発言とかがバンバン出ている可能性があります。今と考えの違うところも多々あります。が、芯は一切変わっていません。そのあたりは安心していただけます。


 と、いうわけで昨日から自分の2001~2004くらいの日記を読んでみているのだが、あまりにも鬼才。凄いなあと思う。やっぱり、持って生まれたエネルギーが違うのだ。成長した今になって、やっと冷静に当時の自分の文章が読めるようになったわけだが、本当に、もし今こんな十代を見つけたらひっくり返るよ。なかなかやるな、昔の僕! が、「お前にだけは負けん!」うむ。


 あの頃のように奔放に文章が書きたい。

2011/01/08 干支の算出方法

 干支というのは60通りある。
 十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせるのだから120通りあるような気もするが、陰陽の関係で「偶数番目(陽)のものは偶数番目のものと組み合わさり、奇数番目(陰)のものは奇数番目のものと組み合わさる」という規則があるため、60である。

 干支には、「甲子(かっし)」から「癸亥(きがい)」まで、1~60まで数字がつけられる。が、例えば今年の干支である「辛卯(しんぼう)」が何番目の干支にあたるか、ということを算出するのはちょっと面倒くさい。ので、計算方法を考えてみることにした。

 まず、十干・十二支にそれぞれ番号をつける。

 1甲 2乙 3丙 4丁 5戊 6己 7庚 8辛 9壬 10癸
 1子 2丑 3寅 4卯 5辰 6巳 7午 8未 9申 10酉 11戌 12亥

 これが、1甲子、2乙丑、3丙寅……というふうに組み合わさっていき、癸酉以降は少しずつずれていく。11甲戌、12乙亥、13丙子……と。

 十干は10通りなので、番号がそのまま干支の数字の1の位になる。
 甲がつけば必ず1の位は「1」、庚がつけば必ず「7」だ。癸は「0」になる。
 そして十二支の数字に12を足していったとき、1の位が十干の数字と重なるような数字が、干支の番号である。
 つまり「辛卯」ならば、1の位は必ず8。卯が4なので、12を足していくと、16、28、40、52となる。このうち1の位が8なのは28のみだから、辛卯は28番目の干支である。

 と、いうのを最初に思いついたのだが、これはどうにもまだるっこしい。もうちょっとスパッと公式化できないかと思って、考えたのが次である。

 Aを十干、Bを十二支として、
 A+5(A-B)……①
 の解が、正の数ならばその数が、
 負の数ならば60を足した数が干支の数字になる

 つまり、辛卯ならば
 8+5×(8-4)=8+20=28

 というものだが、これでもちょっとややこしいので、①を展開して、

 6A-5B……②

 辛卯ならば、
 6×8-5×4=48-20=28

 負の数になるパターンだと、甲午のとき、
 6×1-5×7=6-35=-29
  → -29+60=31
 となる。

 このあたりが僕の限界。なかなか悪くないとは思うのだが、「負の数のときは60を足す」という操作が若干面倒くさい。もうちょっと便利な方法を思いつく方がいたら是非教えてください。掲示板とかで。

 ちなみに、どうして数字を算出する必要があるのかといえば、「年号」を割り出すのに便利だから。「壬申の乱」の年がわからなくなった時に、壬申が何番目の干支であるかがわかれば、正確な年号を割り出すことができる。もちろん、「だいたいどのくらいの時代か」がわかってないといけないけど。
 それには、「甲子」の年を覚えていると便利である。直近では1984年が甲子だった。もしこれが思い出せなかったら、戊辰戦争=明治維新と同じ年=1868年とか、そういうのを覚えておけばいい。ちなみに戊辰は6×5-5×5=5で、5番目である。
 壬申は6×9-5×9=9(要するに、十干と十二支が同じ数字だったら、その数字がそのまま番号になるのである)で、9番目。1984+(9-1)で、1992年が壬申だった。壬申の乱の年を割り出すには、そこから60の倍数を引いていけばいい。とりあえず1200を引くと792年。これは長岡京時代なので壬申の乱(飛鳥時代)ではない。732年は平城京なので同じく違う。672年が怪しい。612年は大化の改新(645)より前で、壬申の乱で討たれたのが天智天皇(大化の改新時は中大兄皇子)の息子だということを考えるとあり得ない。ゆえに672年であろう。

 といった具合に割り出すことができるわけだが、これができるためにはそれなりに歴史の知識がないとできないような気がするので、あんまり役に立たないような気もするのだが、とりあえずなんだか楽しいのでよいよい。
 また、辛卯が28だということがわかると、「次の甲子は33年後か……」とか、そういうことがわかるのである。わかったところでどうということもないが。

2011/01/06 ぶしょう

 日本史は、「地方の公立高校受験に必要なくらいの知識」を押さえ、あとは「戦国武将」について徹底的にやってしまえば日常の用は足りるので、ひたすら楽である。大学受験に向けて、というのでなければそれで充分。というわけでちょっくら日本史でも学んでみようかしらねえ。

 と僕は言うのだけれども、別に「歴史を知らない」というわけではないと思うんです、自分は。少なくとも中学レベルならだいたいわかるし、国文学科なので大学でも勉強したので、かなりわかるほうではあると思うんですよ。世界史は受験でやったので、だいたいわかります。ただ、「戦国武将」と「三国志」については、ほとんど知らない。

 日本史とか世界史とかで、役に立つ知識ってあんまり多くないんですよね。結局「戦国武将」と「三国志」がわかれば、あとは何も知らなくていいんですよ。この二つの占めるウェートが大きすぎる気がしませんか? 「好きな人が多い」という意味で。「たとえ話に使いたがる人が多い」という意味で。それなので「戦国武将と三国志を知らなければ、歴史を知らないと思われる」ということもあります。あと、次点でローマ史。このあたりさえ押さえておけば「歴史に詳しい」になれるし、全然知らなければ「歴史に興味ない」になってしまう、ような、気が、するぞ。

 なんか、日本人の歴史に対する認識って大いに偏りがありますよね。僕は国文学科だから、「戦国時代」に関する知識ってほとんど要らないのですよ。だって、戦国時代って短いし、殺し合いばっかで文化は成熟してないし、「戦国武将」について書かれた(国文学的に)有名な本ってのも特にないから、やらないんですよね。やる必要がなくって。だから僕はよく知らない。だけど世間では「何はなくとも戦国時代」ってなってる、ような、気がする。『信長の野望』をプレイしたことのない僕は、そのへんに疎い。
 今さら戦国時代について学ぼうなどという気は特にないんだが、「知っていると得だ」とわかっていて知らないままでいるのもなんなので、若干意識はしてみよう。戦国ブームのこの折り、ちっとはモテそうだし。仲の良い人で戦国武将と三国志に詳しい人が何人かいるので、趣味の幅とかを広げよう。

2011/01/05 

 正月のまとめを、「ハイパー・トニック・セツノーナル」に載せた文章に加筆する形で書きます。


 アケオメコトヨロフクピカ。
 姪がプリキュア見ているが他の家族の手前「おじさんはプリキュアに詳しいんだぞ~」みたいな顔ができなくて辛い。うずうずする。
 姪が動画で見ているプリキュアショーは僕がとしまえんで実際に、生で見たことのあるものなんだが、そんなこと言えない。


 30日は無銘喫茶木曜大忘年会にたくさんの方にお越しいただきまして非常に楽しい時間を過ごすことができました。
 とにかくひたすら鍋を作っていたら、木曜の前の店長が久々にやってきた。会うのは一年半ぶりくらい。
 朝まで誰かと話をしていた。


 31日は冬コミ。
 新宿から直接自転車でビックサイトへ。
 T先生、M先生、B先生、G先生にお会いできた。
 T先生に「毎月泣きながら読んでいます」と言ったら「僕のほうがいま泣きそうです」と言っていただけた。
 M先生に「どろんこ7は本当に名作でした」と告げたら、とても喜んでいただけた。
 B先生に会うときが一番緊張した。あらかじめ顔を知っていたからだと思う。女性だっていうこともあったか。心臓がばくばくした。写真で見るよりもずっと可愛くて、本当にびっくりした。いくつだよこの人! 美しすぎる。ちばてつや先生の話題や、Webアクションで始まる連載についての話をしてくださった。僕は基本的には握手もサインも求めないのだけど、Bちゃんは自分から手を差し出してくださった。わー、感激。
 G先生は僕のことを覚えていてくださって、会うなり「あー!」と叫びながら指をさされた。前にイベントでお会いしたお姉さんとも偶然の再会を果たす。あるネタで終始いじられて、「お前なんかだいっきらいだ!」と何度も言われた。僕は幸せである。

 自分の本はそこそこ売れていたようで、よかった。Twitter脳の恐怖という、A4の紙2枚を折っただけの本(?)が、昼1時ごろの段階で5冊も売れていた。なんという! 一冊1000円なので、5000円。原価が一冊につきせいぜい10円としても、利益が4950円。こういう軽薄な金はまともなことに使うとバチが当たるので、共著者たちとくだらないことにでも使おう。

 ほかは、主に評論系のブースを歩き周り、相当たくさんの本を買った。なかなかよいものもあったので、そのうちどこかで紹介するかもしれない。

 帰り道、また自転車で新宿へ。カレー屋でランチバイキング。コミックジンにノンポリ少太陽を納品し、電車に乗って鈍行で名古屋へ。

 年越しは例年通り、と言っても2007→8年ぶりだが、たかゆきくんと。山田天満宮で半袖シャツになってお参りして鐘ついて、甘酒飲んだ。雪が降っていたので寒かった。火にあたった。「俺らもいい年だからな」と延々と言っていた。
 その後はたかゆきくんちで恒例のファミコン大会。今年は『ポケットザウルス 十王剣の謎』をクリア。眠かったので大変だった。ごめん。

 元日。
 昼ごろ起きたはいいが、やることがないので連絡先を奇跡的に知っていた地元の友達に電話して、夕方会うことに。それまで暇なので大須に行ってまんだらけ名古屋店をじっくり見る。
 ジョージ秋山『博愛の人』全8巻、ちばあきお『ふしぎトーボくん』全6巻、Moo.念平『あまいぞ!男吾』全16巻、を購入。15700円くらい。安い! いや、安いのですよ。これは。博愛の人なんて、セットで売ってるところ初めて見たよ。まだ1巻の途中だけど、すでに買値は取り返している。素晴らしい作品だ。男吾は愛蔵版で2セット持ってるけど、やはり単行本もほしいので買ってしまった。昔うちにあったんだが、兄の所有物だったので。これで3セットや!
 まなびとみかんのフィギュアが2625円で売っていたが、かさばるので見送り。初代プリキュアのヴォーカルCDもほしかったけど、東京でも買えるので見送り。ママ4のDVD、ど根性ガエルのDVD、サジタリウスのムック、が今いちばん欲しいものたちだが、売ってなかった。
 帰り道、地元のユニーのすがきやで食べようと思ったら、パチンコ屋になっていた。仕方ないから名古屋ドーム前イオンのすがきやへ。死にたい。
 ガストで中学の同級生の女の子と会食。5時間くらい話した。うーん、なかなか充実した時間であった。この件についてはとても書ききれないのでやめておこう。
 どうやら、僕にまともに興味を持ったり好きになるような人は、だいたい同じような傾向を持っている。「ものを考える」という素養がどこかにあるのだろう。出会ったころはそれができないような人でも、そのうちできるようになったりする。
 帰宅して男子生徒にメール打って電話して寝る。


 二日。ぺ~こ氏に迎えに来てもらって、茶屋ヶ坂シダックス。昼過ぎに陽花さんが到着するなり『乱馬ダ☆RANMA』『想い出がいっぱい』をデュエットし、『地球オーケストラ』を熱唱。なんとも至福。『ひとつのハートで』を歌ってもらえたのも良かった。『愛を+ワン』『この愛を未来へ』を歌わせているところへ麒麟(すん)たんが到着。『雷伝説』『嵐の勇者』『未来形アイドル』『瞳にDiamond』『RUN~今日が変わるMAGIC~』など、かつての定番曲を間断なく入れ続ける。黒夢からは『BARTER』『Chandler』を二人で歌えたのも久々な感じで楽しかった。あとhide曲はやっぱ、二人だと楽しい。
 麒麟たんと僕があまりにひどいセクハラの限りを尽くしていたのを、ぺ~こ氏はどう思ったのか知らんが、いつも通りであることよ。
 ぺ~こ氏は夜に予定があったので中抜け。陽花さんも同様に遊びに行ってしまった。しばらく麒麟たんと二人。ラストは『Suck Me!』のあと『DOUBT'99』でコッパミジンのカオスを何度もノドに詰め込んだ。

 チキンを食い、駐車場でぼんやりして、ゾネストでガスバ。
 ぺ~こ氏が到着すると、朝までいつも通りの話。
 今日思ったこと。「麒麟たんと二人きりでも楽しいが、ゲストがいるとさらにすげー楽しい」。
 もっとゲストを増やさねばならん。


 三日。
 朝帰りだったせいか、寝坊。103。JPGHF。
 迎えに来てもらって、4名で高校を詣で、学校内を散策。自転車置き場の脇にあった小屋が取り壊されていて無常を思った。エスポワールは変わっていなかったが、梨ドリンクはなくなっていた。寂しい。
 スガキヤで昼食。26歳にして初めてスガキヤを食したという非県民がいたので、激しく糾弾。
 集まると言っているのに仕事なんかしていやがるFの職場を冷やかしに。事務所勤務になったと言っていたからいるはずがないとダメ元で店舗に行ってみたらなんとなぜか発見。店内で二時間ほどストーキング。
 P中抜けによって3名に。ゲーセンに行って、マリオ、タツカプ、縦シュー、アンアンライブ(クイズゲーム)などをプレイ。帰ろうかと思ったらプライズコーナーに噂のショボーンクッションがあったので白熱、GJふたりで8500円ほど費やしてしまう。途中でH帰宅。
 Pと合流。GJは破産してしまったのでPの持っていた吉野家の株主優待券で豪遊。いつもお世話になっております。
 Fが仕事を終えたようなのでF家へ。
 103会議。詳しくはノートで。(JによるF研究の記録)
 深夜、PによるJへの詰問タイムスタート。詰問が詰問になっていないため、だらだらと朝に。
 とーくすきる!

 に、ついてちょっと思うことはあるのである。
 麒麟たんとか僕とかは、ある種の対人能力が抜群にあるので、それでずいぶんとスムーズに生きることができている。まあ、あくまでも「ある種の」でしかないので、必ずしもうまくいっているわけではないのだが、演劇部で正しく演技の技術と精神を培ってきた(はずである)我々は、言葉だけでなく声のトーン、リズム、テンポ、表情、目線など、会話の様々な要素を巧みに操ったり、「考えながら話す」ということによって話題を上手に誘導したり、創り上げたり、面白くしたりということをしている。ごく自然に。またFという男も、自分ではあまり意識していないようだが、やはり自然に「相手からうまく話を引き出す」ということをやっている。注意深く彼の話すのを聞いていると、相づちや質問のタイミングやトーン、言葉選びなどが非常に上手なのである。Fは昔から何を言っているのかよくわからない奴で、常に「翻訳」が必要なことばかりを言うのだが、なぜかモテるし、接客の技術もかなりあるようだ。たぶん彼は、「自分の話をすることは苦手だが、相手本位の会話を作っていくことは非常に巧い」という人間なのだろう。
 そういうわけで、僕とか、麒麟たん、それからFというのは、「話す」ということにおいて、それぞれ「技術」を持っている。ところが、それを持っていない人間もいるのである。

 僕が思うことというのは、「それを持つべきか」というところだ。
 人にはそれぞれの適性があるのであって、話すのが下手ならば下手なままでも別にいい、という考え方はある。下手だからこそかわいいとか、愛嬌があるといったこともある。
 女の子にモテるためには、もちろん話すことが上手いほうがいいに決まっている。しかし、話すことが下手なやつが絶対に女の子から好かれないのかといえば、そういうわけでもない。下手なやつは下手なりに魅力を持っていたりもするのである。
 問題は、「そいつが何を目標とするか」か。例えば、「話すことが上手い人が好き」という女の子をモノにしようと思えば、話すことが上手くなったほうがよさそうだし、「とにかくモテたい」というのなら、話すことが上手くなったほうが手っ取り早いし、「もっと仕事ができるようになりたい」と思うなら、話し上手・聞き上手になれば向上する部分は多いはずなのだ。
 正直言って、話すことが上手いというのは得である。何よりも得なことである。「話す」というのはかなり総合的な力なので、これができるやつは、だいたいなんだってできるのである。たぶん。別に自信はないけれども。ただし、絶対にそうでなければならないというわけではない。やはり「敵を知り己を知る」ことだろうと思う。
「敵に立ち向かうために、自分がそれを身につける必要があるのか」を考える。「このままの自分でも、この敵には勝てる」とか、「そもそも、この敵に勝つ必要はない」とか、そういう結論だったら、別にそれを身につける必要はない。
『逆境ナイン』は正しいなあ、ということに尽きる。


 四日。
 いっぱい寝て、16歳の時から僕の文章を読んでいるという21歳の女の子と初めて会った。非常に良い出会いになったなあと思う。なんで5年も黙ってたんだ! とも思うけど、今出会ったからこそ、というのもある。今、ようやく僕もまともになりつつあるので。
 大須。ゲーマーズ、まんだらけ、マジアカ、大須観音、とみだで鰻まぶしと日本酒! ミスド。と。いっぱい話せてよかった。
 僕のことを好きになってくれる女の子は、「食べ物」に対して敬虔であるような人がかなり多い。彼女も例外でなく、「食べものはおいしい」という言葉を共有できる人だった。これは本当に嬉しいことだ。「好き嫌い」や「食べものを残す」ということが、何よりも罪深いことだとちゃんとわかっている。これは本当に、人間としての基本。
 それから、「世の中や他人への深い絶望感と憎しみ」というのも、重要なところだ。彼女はまだまだ若いから、「絶望を拭ってくれるような素敵な人間」には、僕ほど多く出会っていないだろうと思う。僕も無数の絶望的人間を目の当たりにして、こんな世界で生きていくことに倦怠感を常に感じてはいるものの、ほんのわずかの「希望」によってなんとか生かされている。
「食べものへの敬虔さ」と「世の中への絶望」、この二つが共有できるというだけでも、十分に「良い出会い」と言える。あとは「希望」だけだ。希望なんていうのは堅苦しいから、「面白がること」とでも言おうか。「楽しむこと」でもいい。「美しいものや正しいものを愛でること」でもいい。そこが実は、一番重要だったりする。彼女は『まなびストレート!』を愛しているそうなので、その部分もクリアできそうだ。まんだらけでは僕の好きなマンガをたくさんオススメしておいた。悪いなとは思ったが、かなり買わせてしまった。『9条ちゃん』『39条ちゃん』『ノンポリ少太陽』も渡した。このあたりから何か、突破口を見つけ出してもらえたら、今の閉塞した、絶望しか見えない真っ暗闇が、「希望しか見えないまっすぐな道」へと変わるだろう。それを心から期待する。


 五日。帰ってきた。ドラえもん腹巻き買った。マジアカ熱が上がってきたのでゲーセン行った。ネコミミベーコン。そして仕事。久々に日記。
 冬コミでお会いした先生方に感想や感謝の言葉をお届けしたいのだが、こういうのはどうもタイミングが難しい。
 年賀状もたくさんいただいてしまったので、返さなくては、と思えども、これも苦手だ。来月くらいに年賀状じゃなくて、ただのハガキでも送れたらと思うのだが、それすら……というところがある。うーん、もっと気楽にやれたらなあ。

 1/5くらいに名古屋から帰ってきます。それまでは
こっちに日記のようなものを書くかもしれません。

2011/01/01 晴れたれば、鮮やかれ。2011

 無事に新年を迎えることができました。
 年越しは地元の神社で、地元の友達のたかゆきくんと。山田天満宮で、火にあたって甘酒を飲んで、まったくいつも通りの年越し。
 実は去年・一昨年と二年連続で山田以外の神社で年を越すという前代未聞の蛮行をしてしまったので、なんだか三年ぶりの正月という感じがした。

 2010年はいろいろなことがありました。
 2011年もいろいろなことがあるでしょう。

 頭が狂ってしまうことが、生きているとあります。
 何かを盲目的に信じすぎてしまうことも発狂の一形態です。
 恋愛も信仰も、傾倒も尊敬も、ともすれば狂気です。
 2011年はすべてのこういった狂気を鎮圧し
 必要と意味の名の下に、自ら掌握していきたいと思います。
 わからないことをわからないと認識し
 少しずつでもわかることを増やしていきたいです。
 できることを増やしていきたいです。
 下手くそで不器用な自分ですが、持ち前の偉大さで
 どうにか上手に小器用に
 要領よく生きていけるように尽力していきます。

 恋愛には必要を
 信仰には意味を
 傾倒や尊敬には、必ず愛を
 そして関係や影響を詳らかに把握していくことを。
 知らないうちに滅んでいくことのないように。
 冷徹な目でもって、自分の輪郭を切り抜いていこう。
 何にも依存しないで、しかしあらゆることと関係しあっているような
 地図をデスね

 過去ログ  2010年12月  2011年1月  2011年2月  TOP