少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2011/02/28 小山ゆう先生の『ももたろう』が気持ち悪すぎてイライラする

 やはり僕は、恋とか愛とかというのは、「美人である」とかいった外見的な基準によって、発生するものではないと、思うんですよね。
 僕は幼少期より小山ゆう作品に親しんでおり、大ファンで、『あずみ』以外の単行本はほとんどすべて読んだことになるのだけれども、なんだこの、『ももたろう』は。酷すぎる。白痴の相撲取りがたくさんの美人とセックスしまくるだけの話だった。そもそも僕は「体力だけがあって、まったく頭を使わない」人間があまり好きではない。そういう人間が力業でモテている状況を良く思わない。
『ももたろう』の主人公、百田桃太郎は、美人を見れば必ず一目惚れし、一目惚れしたら必ずセックスをするのである。「好きだ」と言って、お姫様だっこでそのままホテルに連れ込む。了解も得ずに。それで最終的には女のほうも受け入れてしまう。この「最終的には女のほうも受け入れてしまう」ことが何よりも腹立たしい。どーせどーせ、女なんて女なんて。逆に女の子が『ももたろう』を読んだとしたら、「なんなのこの男!」と思うはずだ。思わなかったら嫌だ。
 この作品が何を言いたいのかというと、結局「体力のある強引な男はバカでもモテる」ということだけである。それであれば、不倫も割り切ったセックスも許されるのである。国技である大相撲の伝統さえ、踏みにじり、破壊しても問題ないのである。朝青龍がなんぼか可愛く見える。
 ああ、僕はセックスに幻想を抱いているわけですよ! 要するに精神的に繋がれなければセックスをしても意味がないということです。肉体的な快楽が何だというのか。セックスに肉体的な快楽しか求めない人間が「オナニーのほうが気持ちいい」とか言うのだ。友人の某は一時期「フェラヨーリ=テコキスキー」などと名乗っていたが、肉体的快楽に重点を置くとそうなってしまうのである。
 別に「深く愛し合わなければセックスをしてはならない」というわけでもないが、少なくとも「見た目が好みだから」「性欲が溜まっているから」セックスをしたがっている男と、「自分を求めてくれるから」「気持ちいいから」それに応じる女たち、という構図は僕にとって気持ち悪いものでしかない。セックスをするにはまず最初に「仲良し」がなくちゃいけないと思ってしまうのは僕がガキだからか! 大人の皆さんは『ももたろう』ばりに割り切ったセックスばかりしているということなんでしょうか。「セックスから始まる関係もある」と、本気で思ってしまっているのでしょうか。だとしたらもう絶望です。そんな世だから元AKBの売れっ子がAVに出て、その妹までがAVデビューするのであることよ!
 腹が立つなー。仲良しな人とセックスがしたいです。美人だからとて、セックスをしたくなんてなりません。でも世の中の人は美人と見ればセックスをしたがるようで、それが僕にはない欲です。というか、はっきり言って僕は能動的に誰かを「美人」と思ったことはありません。「美人」という言葉の定義は「無条件でセックスをしたくなるような女」ということなのかもしれません。僕は「無条件でセックスをしたくなる」なんていう野蛮な状態は嫌いなので、ゆえに美人が嫌いです。大嫌いです。結局これだ。愛嬌のある子と仲良くしたいです。美人などという客観基準に縛られず、常に主観的に女の子を捉えていたいです。この話はどこにでも派生して長くなるので終わり。

2011/02/27 冷静さ

 前の文章の続きかもしれないんだけど、Twitterの何が嫌かって、冷静さに欠けているところだ。
「冷静であること」だけを唯一心がけて僕はTwitterで「芝浦慶一」を演じている。だから「しまった、今のは冷静でなかった」と思ったら、すぐに書き込みを消す。僕にとって「Twitterにおいて冷静であること」とは、「その書き込みが、誰かにとって意味を持つこと」であって、それだけに気をつけている。
 前に書いたけど、僕は「誰にも向けられていない言葉を、誰かに向けて発する」ということが嫌いなのだ。そもそも意味がないのだから、絶対に誤解しかされない。正しい受けとめ方というのがないのだから、受けとめようとすれば誤解しかできない。誤解しないでいようと思えば、無視するしかない。
 ただし、「これには意味があるか」と考えることそれ自体が、僕にとって意味を持つのだろう。実際意味があるかどうかなんていうのは、かなり微妙なところだし、自分では意味がないと思ったことも、誰かにとっては大きな意味になってしまうこともある。それはつまり誤解だってことなんだけど。そういう誤解って、小説や詩だったらいいけど、個人的な発言だとちょっとめんどくさいことになる。「あなたの作品によって、自分の悪いところを認識できました」というのと、「あなたは私の悪いところを指摘してくれました」とでは全然違うので。

 ちなみに、「芝浦慶一」がTwitterをやっているのは、ノンポリ天皇と、木曜日の無銘喫茶と、芝浦慶一という人間の、宣伝である。また、このHPに人を誘致するという目的もある。「情報を集める」とか「友達と交流する」「友達を増やす」とかは、二の次である。「好きな有名人と触れあう」とかも、実はどうでもいい。何かあったら、掲示板やメールやファンレターや、直接お会いした時にお話するほうが好きなのである。そりゃ、大好きな歌手や漫画家さんから反応をもらったり、フォローされたりすれば、嬉しいけれども、でもなんか、あまり現実感がない。それよりも公式掲示板に長文の感想を書いて、お返事をもらったり、面と向かって「あなたの作品を愛しています」と言った時のほうが嬉しい。だから意味もなく有名人に対して話しかけたりはしたくない。向こうだって忙しい中、「ファンの方だから」ということで返信くれてたりするわけで。
 ただ、そのへんは否定するわけじゃない。有名な人と、有名でない人の垣根が低くなってきたっていうのは、歓迎すべきことでもある。Twitter上では、誰だって基本的に同じ人間なのだ。そういうところは嫌いではない。
 ま、同じ人間でありながら、有名な人には有名な人に特有の事情というのがあるから、接する人はそのへんにちゃんと気をつけなければならない、ということを思うのみで。

 話がずれたが、Twitterでは「冷静さ」が失われがちだから、僕は嫌いなのである。みんながみんな、冷静にTwitterをやっていたら、僕は非常にTwitterを好きになっていただろう。『Twitter脳の恐怖』という本の対談でも言ったが、僕はTwitterのシステム自体は嫌いではないのである。ただ、それを使っている人たちの大半が、冷静でないから嫌なのだ。
 冷静であるとは、「じっくりとものを考える」ということである。「言う前に、よく考える」ということである。「自分の発言に対して、想像力を働かせる」ということである。世間では、Twitterとは、「思いついたことをそのまま口にしても良いツール」だと思われているようだが、そんなこと、許されていいわけがないのである。冷静に考えれば、「思いついたことをそのまま口にする」という行為が、「口は災いの元」という言葉に繋がっていかないはずがない。
 たまたま、それで災いを受けていない人だって多いだろうが、その裏で、誰かが災いを受けているのだ。それを想像しないから、嫌いだと言うのだ。
 そういうことを考えていると、何も言えなくなってしまうから、賢い人は黙っているか、慎重に言葉を選んでいる。開き直っている人もいるが、そういう人は考えるのがめんどくさいんだろう。僕は「慎重に言葉を選ぶ」ほうを選んだ。理由は、「結局、インターネットが好きだから」でしかない。

 せめてネット上でくらい、冷静でいたいと思うな。前後不覚な文章が書きたければ、自分のホームページを作って、そこでやればいい。
 さみしいのはわかるけど、そこで解消させたってしょうがなくないですか? どこに神様がいるんですか?

2011/02/26 苦手なものなどない

 人間、舌の好みは矯正できるものである。食って食えないもんはない。どうしても食べられないものがあれば、それはたぶん食べものではないのである。アサリとか、シイタケとか、キュウリとかは、日本では食べ物ということになっているので、誰だって食べられるはずである。と僕は思うし、そう思うべきだ。
 同様に、ヘビとかゴキブリとかクモとかも、克服できるものである。「慣れ」と「覚悟」、そして「必要」さえあれば、勝てるはずなのだ。毒ヘビや毒グモは命の危険があるが、日本で普通に生活していればまず出会うことはない(マムシくらいか)し、毒ゴキブリというのは聞いたことさえない。
「虫が嫌い」と言う人も多いが、それもどうにかなるはずなのである。「はず」とか気楽に言っていると、「そんな簡単に言うなよバカヤロー」とか思われるだろうが、あえて言います。どうにでもなるもんだよ。
「すべては捉え方次第 何が重要かをとらえるんじゃなく 何を重要にするかを大切にしていきたいものだ」
 麒麟さんはずっとそう言い続けています。
 彼は凹んでいる状態すらも「楽しい」と言うほどの人です。
 そういえば、勉強だって楽しめば結果も出ます。
 とよ田みのる先生の『FLIP-FLAP』というマンガで、「ピンボールなんてやったって無意味じゃないか」というようなことを言う主人公に、ヒロインがこう言う。「無意味じゃなくなる方法教えてやるよ。楽しめ!!!!!」
 ま、とはいえ僕も、イヤなこととか、嫌いなこととかあって、それらすべてを「楽しむ」という状態へ持っていくことが容易にできるかといえば、そんなこともないのですが。しかし「必要」というものが目の前にあるとき、すなわち、逃げるわけにはいかないとき、潰れてしまうのはイヤだから、楽しむように頭が切り替わります。そんでなんとかうまくいかせます。
 例えば目の前にゴキブリが現れたとき。独り暮らしだから黙っていても誰も退治してくれません。放っておくわけにもいかないので、倒します。
 ゴキブリはたまにしか現れないので、イベントです。最も楽しい倒し方は、水鉄砲に台所用洗剤を混ぜた水を入れておいて、それをゴキブリに向かって撃つ。とはいえ、出てきてから用意しても意味がないので、普段から水鉄砲に洗剤を入れておかなければなりません。僕の場合は実は、窓を拭いたりするときに便利(というか楽しい)だから、たまたま用意してあったのでした。倒し方に工夫すれば非常に楽しいという一例。
 んまーしかし、生理的にゴキブリが大嫌いという人々にしてみれば、理想論でしかないのだろう。僕だってでっかいゴキブリ見ると未だに一瞬硬直しちゃうんだけどね。素手でセミを捕まえるのだって昔は得意じゃなかったんだけど、いつの間にかできるようになってた。そういうもんだと思っているんだけど、そうでもないのかな。
 僕は小さい頃は好き嫌いが非常に激しかったが、今や何でも食べる。アレルギーが出ていたキウイでさえ食べられるようになった。それは、食べようと思って食べたからである。食べようと思って食べたらぜんぶ美味しかったのである。僕は毛虫や青虫のような、細長い生物があまり好きではないが、必要があれば退治くらいするのである。誰だってそうだと思う。家の中に嫌いな生物がいたら、退治するだろう。部屋の隅でガタガタ震えてるだけというのは、あまりにも冷静さがなさすぎる。冷静に考えれば、ちょっと無理してでも退治しておいたほうが後々良いのだ。放っておいても解決しないのだから。
 たぶん、そういうところでちゃんとやれる人はだいたい何でもうまくいく。「いざ」というときがいつなのか、わかっているからだ。勉強だって仕事だって、なんだってそうだ。その場その場でやるべきことをきちんと認識しておけば、だいたい何でもうまくいく。
 それができないと、死ぬんだって、友達が証明してくれた。あ、すみません。死んだネタはたぶんしばらく続きます。
 何かにハマって、依存してしまう人というのは、楽しみ方がわかんない人だと思うんですよね。

2011/02/25 朝帰りは決まっていつも適当な返答で

 ようやく落ちついてきた。無銘喫茶で、電気グルーヴの『March』とかユニコーンの『すばらしい日々』とかhideの『HURRY GO ROUND』とか聴いていたらずいぶんと楽になった。もういいだろう。『林檎色の夢』でも再掲載して、一区切りつけよう。2003年ごろに書いたもの。
 林檎色の夢(
西原矢崎


 天使のような中学生男子と一晩、話をした。この年頃でそんだけ喋って、尽きないってのはすばらしいことだ。テスト二日前だと言っていたが、14歳最後の午前5時をともに過ごせたということはあまりに感動的であって、テストなんざどうでもよくなってしまう。
 僕も中学のころは無断外泊をしたことがある。親はどれだけ心配しただろうかと思うが、しかしまあ、一度やってしまえば前例になるんで、あとがずいぶん楽になる。そうでなくとも、僕には兄が三人もいるんで、今さら僕が帰ってこなかったところで、慣れっこというのはあっただろう。多少は。これが最初の子供なんかだったら、もうちょっと騒いでいたかもしれないが、実際翌朝になって帰っていったときのお母さんの反応は、実にあっさりとしたもんだった。夏休みだったし。

「朝帰りは決まっていつも適当な返答で切り抜け、バレて、冷や汗かいて誤魔化してさぁ ちょっぴりいいじゃん遊ぼうハメはずそうぜ 自由気ままに気の向くままに そうやって愚痴って何時も 殻篭もんなくなっていいじゃんか 365日働きアリでどうすんの?」(Baroque/Charry King)

 っていうような精神で当時から生きていたもんで。

 彼、すなわちその中学生男子は、もうどうしようもなく「過剰」。過剰に摂取し、過剰に吐露する。無限に何かを吸収したがっていて、無限に何かを吐き出したがっている。正しい青春には「絶望と焦燥感」という言葉がやはり相応しい。「自分には何もない」という絶望のもと、焦る。たとえば貪るように本を読み、いつでも「時間が足りない」と焦る。イエモンでいえば『Four Seasons』という曲のように。そしてひとたび喋り始めれば、止まらない。フリッパーズギターでいえば『午前3時のオプ』で、「いつでも僕の舌はいつも空回りして 言わなくていいことばかりがほらあふれだす」だ。
「懐かしい」などと、彼にとって何の役にも立たないようなことは言いたくない。大人は少年を潰すための言葉しか持っていないから、昔から嫌いだった。「すごいね」「えらいね」「懐かしいな」すべて、言葉を持ってない人たちの、ため息でしかない。
 そういった少年、少女たちが、僕の周りには幾人もいるが、彼ら彼女らにかけてあげるべき言葉は、紋切り型の讃辞や、忠告ではない。
 向き合うことだ。そいつを一人の人間として見て、受けとめて、返すことだ。そいつを固有名詞によって捉えてあげること。「14歳」なんていう一般名詞は、そいつを構成する一要素に過ぎないということを、思い出してあげること。
 ですな。
 すでに過去をなくしてしまっているか、過去なんてものをそもそも持っていないかの、いずれかの大人が多い。そして、過去を作っていくつもりのないような若者も多い。そういう人たちの中で、彼のような若者は退屈して、無闇に本ばかり読んでいるというわけだ。反省したほうがいい。

「終わりのない青春 それを選んで 絶望の波にのまれても ひたすら泳いで たどりつけば また何か覚えるだろう 誰にでもある青春 いつか忘れて 記憶の中で死んでしまっても あの日僕らが信じたもの それはまぼろしじゃない ない! ない! SO YOUNG!!」(THE YELLOW MONKEY/SO YOUNG)

2011/02/24 ジェームスディーンにはなれなかったけれど

 お通夜に行ってきた。久しぶりに共通の友人たちに会った。初めて会う人もたくさんいて、みんなで彼の話をした。たぶん彼の人生における交友というのは主に高校の部活と「うおのめ文学賞」で、そのほかに人間関係なんてほとんどなかったのかもしれない。僕はそこから外れた数少ない(と、勝手に決めつける)友人だったけれども、晩年をともに過ごすことはできなかった。残念だ。
 僕は彼のために泣くことはなかったけれども、焼香をすませ、彼のご家族と対峙した瞬間に、何も言えなくなって、涙がこぼれた。
「あの、大学の友人で……一緒に白川も行って……」
 と言うのが精一杯だった。
「ジャッキーくん?」とお母さんが言ってくれて、それでもう本当に、ダメだった。
 怒りしかわいてこない。どうしてこんな、お父さんやお母さんや、妹たちを泣かせるようなことをするんだ。事故だろうが発作だろうが、死んでしまったら同じことだ。
 太宰が死んだ時に坂口安吾が書いた、『不良少年とキリスト』という文章を思い出す。安吾も、こんな気分だったのだろうか。
「ジャッキーくんにも連絡しなきゃと思ったんだけど、携帯電話にジャッキーくんの番号がなくって……」
 そんなところにまで、両親に気を遣わせるとは、ふざけた野郎だ。
 何にしても、そりゃ僕は通夜にくらい来るけどさ。

 死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
 人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
 生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
 死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
 勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
 時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
 大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
 自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。

 西原はいわゆる「自殺」ではなかった。そうらしいし、そうだと思う。自殺をする人間じゃないし、自殺をできる人間でもない。しかし、あいつの人生はほとんど、緩やかに坂を下るように、自殺していたようなものだ。だからこそ、怒りしか生まれない。そういう死に方こそが、最も罪深い。
「自殺じゃなくてよかった」とみんな言っていたが、自殺のようなもんだし、自殺じゃなかったからこそ、悔いが残る。もしも自殺だったら、思いっきり軽蔑して、憎んでやれるのに、そうでないからこそ、愛着が残る。執着してしまう。
 なんと言ったって、僕は彼のことが嫌いではなかったのだ。世紀のクズ野郎で、ほとんど見放してもいたが、憎いというのではない。嫌いというのではない。
 大学の時、僕は折にふれこう言っていた。「誰もが心の中に西原を持っている」と。彼もそのフレーズをいたく気に入っていた。僕も今でも、そう思う。誰だって心の中に西原を持っているんだ。だけど、西原だけじゃ、死ぬんだよ。彼はそのことを証明してしまった。西原は、全身が西原だったから、死んだ。みんな自分の中の西原と、上手く付き合って、なだめて、すかして、虎視眈々、生きている。

 戦う意志があって、死ぬなんて。戦う意志があって、なのに戦えなくて、「戦いたい」とばかり思って、死ぬなんて。馬鹿としか言いようがない。いつからあんなに、頭が悪くなってしまったんだ。いつの間にか理屈も通じなくなって。
 いつだったか薬を飲み始めて、間違いなくそれがいけなかった。薬の味さえ覚えなければ。酒と煙草で満足していれば。死ななかったどころか、僕と楽しく自転車にでも乗ってたかもしれないのに。釣りにでも行っていたはずなのに。将棋のライバルにだってなれただろうに。
 もう四日、西原のことばかり考えて、生活もグチャグチャだ。悲しくはないが、腹が立つし、残念だし、寂しい。お前みたいな不細工が自殺みたいな人生を送ったって微塵もかっこよくなんかねーんだって、わかんなかったのかな。
 そんなありふれた言葉はもういいだろう。
 西原はお父さんとお母さん、妹たち、じっちゃんばっちゃんに、もう何もしてあげられない。あほか。せっかくマジメなところがあったのに、すべて水の泡だ。小を取って、大を捨てたんだ。無理して働かなくてもよかったのに。

 彼の遺作となる小説は700枚くらいあるらしいが、おそらくまだ一般に出せる状態ではない。勝手ながら、それを完成させることのできる人間がいるとしたら、たぶん僕だろうなあ。まったく、そこまで『G戦場ヘヴンズドア』を模さなくてもいいだろうと思うが、町蔵が鉄男の腕になったように、誰かが西原の腕になるなら、まあ僕しかいないだろう。たぶん。西原にとっては、一番嫌な人選だろうって意味で。
 ま、読んでみて面白かったらの話。
「こんなもんしか書けないくせに死んだの?」って、思っちゃいそうだな。
 あーあ。

2011/02/23 人格

『G戦場ヘヴンズドア』で、町蔵が都先生に
「漫画家に必要なものって、何スか? 才能じゃなかったら、何なんスか? 本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか?」
 と訊ねた。
 都先生は「人格だよ」と答えた。

 この作品の中に、やはり全てが書きこまれている。
 死んだ西原は「自分は天才だ」という確信を、死ぬ直前までネット上で書き記していて、しかし悲願だった「小説の出版」は叶わなかった。
 大切なのは才能ではない。技術でもなければ情熱でもない。
 人格なのかもしれない。

 鉄男が町蔵に言った。
「堺田君、先生のマンガちゃんと読めてない」

 都先生は10年経って、また町蔵にこう言った。
「望んだというよりはそう生きるしかなかった。それこそが『人格』だよ。町蔵くんはこれでしか生きられなかったんでしょ?」

 町蔵のお母さんは坂井大蔵に言った。
「大丈夫、生きてればいつからだってやり直せるわ。」

 すべて書いてあるというのに、まったく。

2011/02/22 G戦場ヘヴンズドア

 日本橋ヨヲコ先生の『G戦場ヘヴンズドア』という名作があって、僕はこの作品が好きだ。(ただし『少女ファイト』はもっと好きかも知れない。)
 そういえばこの作品を僕にすすめてくれたのは死んだ西原くんだった。それで我々は何度となく『G戦』の話をした。
 20日に、なぜか僕は『G戦』の1巻を読んでいた。21日は、続きを読もうと思って全3巻を一日中持ち歩いていた。彼が死んだのが正確には20日だったのか21日だったのかはまだ知らないが、なんという不思議なタイミングだろうかと思う。こういう神秘的なことは、やはりあるのだ。
『G戦』は「戦友」ということをテーマにした作品だった。戦友。どうも西原にはそういう言葉が合うような気もする。僕と彼とは小説という同じ戦場にいたが、彼は急ぎすぎた。勝ち目のない戦いに挑み続けて、そして負けた。僕のほうはゆっくりと慎重に、自分の勝てる範囲でだけ戦い、時に逃げ回っていて、そんな僕を西原は軽蔑していた。僕は僕で、西原が無茶をし続けるのを愚かだとずっと思っていた。彼は信念を貫き通し、誰の忠告も受けず、好き勝手走り回り、戦って死んだ。僕は生きている。これからも生きるだろう。
『G戦』の長谷川鉄男は、堺田町蔵と同じ戦場で、ともに戦って、彼だけが負けた。でも鉄男は死ななかったから、それまでとは違った形で町蔵とともに戦っていくことができた。西原は死んだので、鉄男のように形を変えて戦っていくことすらできなくなった。
 西原はたぶん『G戦』を読んでこう思ったのではないかな。「形を変えて戦わざるを得ないくらいなら、死んだほうがマシだ」と。自分が鉄男ならば、死ぬ。きっとそのように思って、だからこそ『G戦』には並々ならぬこだわりを持っていたのだろう。
 僕と西原はたぶんある時期「戦友」のような関係ではあった。しかし戦い方が違いすぎた。彼は勝つために戦った。僕は絶対に負けないために戦った。そういうことだろう。思えば彼はベジータで僕は悟空だったんだな。彼の生まれはエリートで、高いプライドを持っていて、死ぬ直前までそのことをネットに書いていた。でも彼は僕のような、「特に努力をするでもなく、貪欲に何かを求めるでもないのに、ある程度面白いことが言えたり、文章が書けたり、センスが良かったり、女にモテたり人気者になれたりする、鬱病にも決してならない、だいたいのことが思い通りに進んでいるように見える、家族や他人に迷惑や負担をかけても自分ほどの心労を感じない人間」を、唾棄すべき存在と見なしていた。と思う。要するに僕は能力があって人気者で自由だったのだ。彼にはそのいずれもがなかった。能力は思うように評価されず、特別人に好かれるでもなく、プライドに縛られて生きていたような彼は、途轍もないエネルギーを持っていたにもかかわらず、それを「死にたい」と「女子高生に中出ししたい」と「新人賞を取る」という、本当は何の実りもないようなことにばかり力を注ぎ、冷静さを失っていた。それでいつの間にか薬漬けだった。それでいつの間にか僕のことを遠ざけた。僕が4年で卒業してプータローになったことと、彼が留年して就職したことは、象徴的に我々の性質の違いを表している。かなり明確に。そういえば僕は末っ子で彼は第一子の長男だ。
 ともに戦ったはずの我々は、きっと同じ土俵に居続けていたのだが、戦い方が違いすぎて、一緒にいても戦果は望めないと考えたのかも知れない。どちらともなくそう思い始めた。で、それはたぶん正しかっただろう。ただ一つの誤算は、彼が死んでしまったことだ。
 たぶん彼は死ぬつもりなどなかった。今となっては確かめようもないが。彼は自分の小説が出版されることと、肉親(主に祖母)を安心させることしか考えていなかった。それが叶わぬうちに死ぬということは、僕には考えられない。しかし、何だって破裂する時は来る。溜め込みすぎたのだよ。酒も、薬も、苦悩も、何もかも。そんな簡単な足し算もできなくなるくらいに、冷静さがなくなっていたのだろうか。勿体ない。
 人生には引き算も必要なんだよ。
 過剰になりすぎては爆発して死ぬしかない。

「かわいそうになあ。気づいちゃったんだよなあ、誰も生き急げなんて言ってくれないことに。見ろよ この青い空 白い雲。そして楽しい学校生活。どれもこれも君の野望をゆっくりと爽やかに打ち砕いてくれることだろう。君にこれから必要なのは絶望と焦燥感。何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに、それでも来るか、君はこっちに。」

 これは『G戦』で阿久多鉄人が町蔵に言った台詞。
 西原はこの台詞に「はい」と言ってしまった。
 僕の知っている彼の生活は、まさに「絶望と焦燥感」だった。
 でも、町蔵は生き続けたぞ。
 鉄男は筆を折りながらも、戦い続けたぞ。
 どこで間違えて、西原は死んでしまったんだ。
 何度でも読めばよかったじゃないか、『G戦』を。
 そして『少女ファイト』を。
 こんな名作、西原ならば当然読んでいただろうに。
 どうして名作を素直に受け入れられなかったんだ。
 受け入れていれば、わかったはずだ。生き続ける方法が。
 そこが敗因だよ、小説書きとしても。漫画読みとしても。

 誤解されたくないので言っておくけど僕は西原が死んだことに悲しみは特にない。寂しくないかといえばかなり寂しいが、怒りと絶望のほうが大きい。というか、何というのだろうか。戦友が、戦争で、ヘマをして死んだ。だから「アホか」という想いが最も大きい。「もうちょっと上手く戦えば、死ななかっただろう。もうちょっと慎重に戦えば、いつかは勝てたかもしれないじゃないか」と。
 クズ野郎は死に方もクズ野郎だ。何のために日本橋ヨヲコ作品を読んでいたんだか。先生に謝れ。ちなみになんか知らんけど最近『G戦』の初代編集さんと仲良くなったぞ。彼にも謝れ。まったく。困ったもんだ。
 しかし霊前に捧げるならこの作品しかなかろうと思う。
 鉄男と町蔵が生き残ったのは奇跡であって、西原のような屍は彼らの下にうずたかく積み上がっているかも知れないからだ。

2011/02/21 西原が死んだ

 クズ野郎が一人死んだ。僕は人生において、あんなクズ野郎と仲良くした経験はほかにない。クズ野郎とは基本的に付き合わないようにしているのだが、唯一、クズ野郎なのに仲が良かった人間が、西原であった。
 西原は早稲田大学の同級生で、「現代文学会」というサークルの新歓コンパで出会った。僕が少し遅れて飲み会の会場に入っていくと、手を振りながら大声で「ジャッキー! おんなじクラスー」とかなんとか言ってきた。僕は彼を知らなかったが、彼のほうは僕を知っていたのだった。迷惑な奴だなとその時点ですでに思った。
 僕も彼も結局そのサークルには入らなかったが、なんだか仲良くなって、結局大学の四年間はつかず離れずで、ずっと親しくはしていたのではないかな。お互いに軽蔑しながら、お互いを羨みながら。
 クズ野郎は人んちで酒を飲んでクスリを飲んで大声で叫んでゲロを吐いてゲロまみれの口を僕のジャケットの裾で拭くような奴で、完璧に軽蔑していた。ただまあ、思考力とか、漫画の趣味とか、ラーメンに関する味覚とかは群を抜いていたので、一緒にいて楽しくないことはなかった。彼から学んだこと、参考にしたこと、反面教師にしたこと、また彼がいなければ出会えなかった人、経験できなかったこと、たくさんあった。何しろ四年間は毎日のように顔を合わせ、馬鹿な話を延々としていたのだ。校舎前のロータリーでクズ野郎は煙草を吸いながらいつも「女子高生のまんこなめたい」と言っていた。本当である。それが口癖だった。「女子高生に中出ししたい」ともよく言っていた。虚ろな目をして。そんな彼を僕は嫌いではなかった。「最低だな」と面と向かって言っていた。毎日のように。
 4年生の夏だったか、彼が急に自転車を買ってきて、「岐阜のばーちゃんちまで行く」と言い出した。面白そうだから僕もついて行った。名古屋の僕の実家で一泊して、白川まで行った。ご両親と妹さんにもお会いした。いい人たちだった。またある年の夏は、墨田区に住むばーちゃんちで隅田川の花火を見た。なんだかんだで、僕は彼の近い肉親にはほとんど会っていることになる。「こいつはクズで、今にでも死んでしまえばいいくらいだが、しかしこの人たちのために生きなければならない」と思った。
 本人も、「ばーちゃんのために就職する」とか「ばーちゃんに孫の顔を見せるまでは死ねない」というようなことを言っていた。変なところでマジメというか、頑ななところがあった。というか、「マジメに生きなければならない」と思ってしまうほど、彼の中で「家族」というのは、本当に大切なものだったのだろう。クズのくせに、妙に家族思いなところがあった。だが、そういった「ねばならぬ」ということに縛られすぎて、自分の生活に無理を着せすぎていたように思う。
 卒業後、彼が就職してしまったのを、僕は「やめときゃいいのに」と思っていた。ただ、「就職しなければよい結果になったか」というのは、これはわからない。もっと悲惨な状態になっていた可能性はある。だから最終的には僕は反対らしい反対はしなかった。ただ一度、教員になってから「鬱病のくせに教員なんかやってんじゃねー、早く治せ」的なことを言ったら、かつてないほど激昂され、交友を断たれてしまった。それがもう何年も前のことで、それからは一度電話で話したきりだった。そのときも「お前にはわかんねーよ」という意味のことを言われて、ほとんど会話にならなかった。
 そう。僕には彼のことがわからない。彼の苦悩はわからない。鬱病で薬漬けで、しかもクズ野郎。彼と通じ合えたのは、漫画のことと、早稲田通りの「がんこラーメン」の味と、あらゆる論理的な話題と、自転車で旅をすることのすばらしさ……ってことは、なんだ。「気持ち」以外のほとんどを通じ合わせることができていたんじゃないか。あほらしい。それだけで交友が切れてしまうなんてな。
「気持ち」を前にすると、「論理」なんてもんは消え失せる。僕が彼を糾弾したとき、反論する彼の論理は無茶苦茶だった。僕にはそのように見えた。少なくとも、客観性や冷静さを欠いていた。僕の言い方も一方的だったから、その点はどっちもどっちだったのかもしれないが、いずれにせよ、要するに僕らは「気持ち」を通じ合わせることができなかった。僕は別にそんなもん、通じ合う必要はないと思うので、もうちょっと仲良くしつづけていたかったが、なんかタイミングが悪かったのか、僕も疲れてしまっていたのか、ここんとこ本当にずっと、連絡さえ取っていなかった。たまに思い出して「惜しいやつをなくした」とか思っていたのだが、本当に死ぬとはなー。

 とにかく西原は死んだ。彼が死んだことで、僕はまだ何も得ていないし、何も失っていない。通夜は明後日らしい。行こうと思う。行って、何かを得たり、何かを失ったりしてこようと思う。また、彼が誰に何を与え、誰から何を奪っていったかを、少しでも確認してこよう。してどうなるというものでもないが、人が人の死を受け止めるためには、それをしなければならないのだ。辛くとも。たぶん。
 そうやって、少しでも僕の人生の中に彼の存在を記しておかないと、あのクズ野郎はいつかどこにもいなくなってしまう。あんなクズでも、死んだらいろんな人が、いろんな方法で連絡し合って、通夜に駆けつけようという気になるのだ。おそらく「骨を拾う」っていうのは優れた比喩であって、「死人の人生を自分の中に組み込んでいくこと」を差すのだろう。
 生きている人間の「骨を拾う」ことはできない。現在進行形で変化していくからだ。死人になって、すべてが止まってしまったのならば、できる限りたくさんの骨を拾ってやろう。そうして西原夢路の人生を僕の一部にしてやろう。

 知らせてくださった夢さん、黒猫さん、チアーヌさん、ありがとうございました。花見をしながら西原の悪口を空に叫ぶ会とか、したいですね。

2011/02/20 友達だから2010

 朝方、なんか知らないけど『スクールウォーズ2』の主題歌が頭から離れなくなった。幼い頃に再放送で見ていて、そのときに歌も完璧に覚えたのだが、ずっと歌手名も曲名もわからずにいた。気まぐれに「地上に残る最後のダイアモンド」と検索してみたら、丸山まゆみという人の『FIRE』という曲だということがわかった。早速カラオケに行って熱唱した。それからPIERROTと電気グルーヴを狂ったように歌っていたら、曲間の静寂に隣の部屋から「心をゆらして~心をゆらして~」と聞こえてきた。なんと、『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』のテーマ曲『心をゆらして』ではないか! 僕は思わず『ドラえもん のび太の大魔境』テーマ曲『だからみんなで』を歌った。次の曲間の静寂に耳を澄ますと、「なんとかー! ウォー!」と全然関係のない曲が聞こえてきたので、僕も全然関係ない曲を「なんとかー! ウォー!」とかって歌ってたら、次の曲間の静寂に「電信柱の明かり見てたー」と聞こえてきた。なんと、『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のテーマ曲『少年期』ではないか! 僕は対抗して、『天までとどけ』『友達だから』『ポケットの中に』(いずれも映画ドラえもんテーマ曲)を立て続けに歌った。いつの間にか曲間には静寂だけが流れるようになっていた。

2011/02/19 友達が増える

 そのことが単純に嬉しいですね。
 一晩、酒でも飲みながらじっくり話して、性的なこともせず(別にしてもいいんだけど)、女の子と仲良くなれた時は、なんとも気持ちがいいものです。
 男の人でも全然構いません。皿屋敷さんと初めてお会いした時も、結局二人で朝まで飲んで話しておりましたが、初対面とは思えないような盛り上がりで、非常に興奮しました。まあ、男同士だと割によくあることなんですけどね。でも彼は特に、馬が合ったというか。信長と秀吉というか。お互いに「敵に回したくない」と思うがゆえの同盟関係というか。そういったことを一晩のうちに確認したような気がします。

 それにしても友達が増えるというのは単純に嬉しいものです。
 僕は毎週木曜日に無銘喫茶という小さなバーに立っているのですが、ある日ふらっといらっしゃった方がそのままリピーターや常連になるということも、本当に嬉しいことです。
 というわけで僕は友達が増えると喜びます。
 僕と会ったことのない方がもしこのHPを継続的にご覧になっているようなら、是非ともお友達になりたく存じます。

2011/02/18 本当は優しくしたいんです

 たとえば意外と僕は弟子のことを愛しているんだけれどもなぜだか優しくしてあげられないんだよなあー。そういう存在って何人かいて、どうも申し訳ないなと常々思っている。今のように(僕にしては)忙しい日々が続くと、どうしてもこう、メールや手紙に返事も書けないまま過ぎてしまう。安心しているのだろう、よくない。愛してくれることに甘えていてはいけないのである。
 お母さんとか、特にそうじゃないですか? 死ぬほど感謝してるくせに、愛してるのに、「産んでくれてありがとう。愛してるよ!」って言えないとか。言わなきゃいけないのにね。
 ところでお母さんが好きでない人は早く誰かをものすごく好きになったほうがいいと思います。父親か、自分の子どもくらいしか無理かもしれないけど。配偶者をそのくらい愛せたら言うことはないんだけども。

 ところでどうでもいいけど、性についてより深く考えている女性ほど身持ちが堅く、性について何も考えていない女ほど尻が軽いというか、ビッチである。ような気がした。性や性交や性器や自慰について根源的に考えていればいるほど、軽はずみに男と関係してしまったりはしない、というような。
 今、「そうでもないかなあ」と思っていろいろ知り合いの女の子を思い浮かべてみてみたら、別にそうでもなかった。反例は腐るほどあった。でも、「性に対する考えや思い入れが深ければビッチ」ということではないのは確かで、すなわち「極端にエロい子」ってのが「誰とでもやれたらいい」と思っているわけではない。そこを勘違いした男は、「性について語りたがる女」に「やりてえんだろ」とか思って言い寄って、迷惑がられたりするんだろう。キャノン先生だって好きな人以外とはしない。
 ビッチ、というか、行きずりのセックスをけっこうしちゃってるような女の子で、日頃からものすごく性や性交や性器や自慰について考えている、という子はどのくらいいるのだろうか。若干気になるところなので意識していくことにする。

 さて。僕も人間の悪い癖で、愛されると安心して甘えちゃうようなんですね。ホントに、ここんところはもうちょっと改善していきたいものです。

2011/02/17 「今すぐ見えない線を越えたい たとえそれが間違いだとしても」

 うーむ、どうも寝不足だと文章が荒れて困る。下の二つは悲惨だけど、疲れているほうがエッヂがきいているような感じもする。気を遣わないからな。
 ジャニオタアニオタコリアンオタ、アイドルやバンドの追っかけ。そして腐女子。こういった病気についての哀れみの情。中学くらいの時って僕は立派なアニオタだったし、すでにオタ方向に転換しつつあった少年ガンガンを愛読していたほどだからそういえば気持ちはわからないでもない。今でも当時見ていたアニメや当時のガンガンは大好きだけども、ラミカまで買う必要はなかったよなー。むろん後悔はしていないが。
 無節操にアニメの新番組をチェックするっていう体力はもうないし、する理由もないし、したいとも思わない。あの情熱は何だったんだろうと今振り返ると、やっぱり「暇つぶし」と、「受けることは楽」という、それだけに尽きるんじゃないかと思うねえ。

「愛はね待ってるだけじゃ もらうばかりでは育たない」
 って奥井亜紀さんが『愛はかける』で歌っていますけれども、恋愛ばっかりじゃなくって、アイドルやミュージシャンに対しても「よこせ、よこせ」ばっかりじゃ、正しい愛は育まれませんよ。
 別に「応援することによってお返しをする」「金を積むことによってお返しをする」ことが大切だと言ってるんじゃなくて。そう勘違いしている人が最もたちが悪いかもしれない。
 なんかねえー、人間として愛さなきゃダメじゃないかと僕は思うのですよね。
 人間は作品じゃないのだから。中には自分を「作品」として割り切ってる人だっているんだけど、アホの坂田にプライベートで「アホ」と言ったら怒られるわけで。
 ま、金を積んで、それで相手のためになるんだったら、それはそれで、一面的にはオッケーなので、それをしてはいけないというんじゃないんです、もちろん。
 ただそのー、好きすぎると結果として相手に迷惑をかけてしまうということが、人間ってのはどうしてもあるんで。それは有名人に対しても、プライベートで好きな人に対しても同じで。○○さんが好きすぎて、「○○さんを応援するブログ」を立ち上げて、「○○さんが通っている美容室に行ってきました」とかって写真付きで載っけて、そこにファンが殺到して、結果○○さんはその美容室に行けなくなりましたとか。そういうことってあるんでね。そういうことをすべて引き受けた上でやるのがスターっていう職業かもしれないんだけど、それってやっぱり酷なことだから、そんな酷なことを「好きな人」にやらせるってのは妙じゃないのかなあと。本当に好きなのかなあって。


 当たり前だけど、人はそれぞれ違う人生を歩んでおり、違う事情を背負って生きているので、他人に干渉するというのは難しい。
 好きなように生きて、その上で奇跡的に何かが合致してしまうというのが最も幸せなことだ。そのようにするためには、こだわらないこと、望まないこと。望まないところにしか奇跡はやってこない。奇跡を望んで、本当に奇跡がやってくるというような奇跡もあるかもしれないが、奇跡が連続するような奇跡はないので、奇跡はいつかは来なくなる。それで望みだけが残る。

 と、理屈では思っているのだが、人間だから僕もついつい望んでしまう。
 奇跡を引き寄せられると信じたくなってしまう。
 今はその葛藤に悩んでいるわけです。

 暫定的な結論としては、望みがあるのは仕方ないから、それにこだわらないようにしよう、というくらいのところだ。こだわって、望み通りにするために他人や他の物事に無理に干渉しすぎると、必ずと言っていいほどに悪いことが起きる。望みながらも、謙虚に、地道にやっていくことでしょうかね。短期的な展望はだいたい間違うのだ。遠くが見晴らせないうちは、慎重に歩いていくしかない。
 しかし短期的な展望で、「まあ大丈夫だろう」と、何もしないでいたら、悪い結果になってしまうこともあるか。それはまあ、望みすぎていたんだとあきらめるしかないかな。ほっといてそうなったんだったら、そうなる運命だったんだ。「こうしておけばうまくいくかもしれなかったのに」ってのは、あまりにも人為を信じすぎている。
 なんか寂しいんだけど、結局そういうことになっちゃうのかもなあ。自分のことを好きでない相手を振り向かせようとするのって、本当に大変だからなあ。

2011/02/16 キャンディー組合

 最後まで聞けばそれは嘘ではなくなる。最後まで聞かないうちに「嘘だ!」と騒ぎ立てるのは、頭の狭い証拠だ。君は彼を嘘吐きだと罵ったが、彼は本当は真実を述べていたのだ。そのことに君は最後に気づいて赤面するだろう。

 早とちりは罪だ。あまりにもスピーディにものごとを口に出すと、だいたいそれで間違える。

「お父さんは僕に誕生日プレゼントをくれなかった。僕を愛していないんだ」と嘆いたのが午後7時だったとしたら、彼は早とちりかもしれない。5時間のうちに父親が隠していたプレゼントを出してくるかもしれないからだ。午後8時に少年は父親を殺すかもしれない。絶対にそれは悲劇である。

 慎重さを欠いて賢しらな女は御免だぜ。

2011/02/15 1000年を同じ角度で恋しても

 とりとめなく参る。

 知り合って「いい子だな」「見所があるな」「頭いいな」と思った女の子も、たいていTwitterで見るとアホの子にしか見えない。魔法のようだ。逆に言うと、Twitterでアホっぽいからってその人が「取るに足らない」人物であるとは言えない。

「女の子がTwitterを始めると白痴化する」ってのは今思いついた決めつけだけど、なんかホントにそうなんじゃないかなーって思う。これ以上内省的な時間を減らしてどうする気なんだ。これ以上本能的で、感情的で、刹那的に生きて、どうするんだと思うね。


 冷静でない女の子とは恋したくないからな。
 さえずってる女の子はいつも「さえずってる」って認識で見られるから、その内面を見てもらえないんだよ。そういう女の子はいっぱいいるよね。ホントはけっこう巨大なもん背負ってんのに、何も言わないために喋り続けて、疲れて、肝心な時に淋しくて。

 女の子ってそういう言語が得意なんだけど、そういう言語はふつう、限られた条件の中でしか使われない。それがTwitterを通して公の場に現れてくると、「さえずってんなあ」となる。クラスの女子集団を眺める男子の気分で。


 あ、つーかそもそも、「自分の中でしか使われない」はずの言葉を、「公の場に出してしまう」のがTwitterなのか。
 僕はすっげー嫌いだからね、そういう、他人のためにするつもりのない言葉を、他人に向けて言うのはね。
 そっか。刹那的な声なんて「腹減った」「やりたい」「死にたい」なんだから、白痴になんのは当たり前なんだよな。問題は、あなたはどうしてそうやって刹那的な声を出すんですか? しかも他人に向けて。
 どうして我慢をしないんですか?
 ということだ。

 自分の行動にはすべて理由があるということを知っていますか?


 なんかね、僕はたぶんただ、「誰かのためにするつもりのない言葉」が嫌いなんだ。「○○が好きだ」という主張は、本人に向けて言わない限り、いつでも「他人のためにするつもりのない言葉」だ。だから僕はバンギャやジャニオタの類が基本的に嫌いなんだ。

 自分のための言葉なんて、自分の中にとどめておけばいいじゃない。どうして他人を巻き添えにしたがるの? どうしても言いたいんなら、誰かに言えばいいじゃない。「誰にも言わない」のに、どうして「言う」の?
 そこには理由があるんだよ。
 それを考えなくっちゃいけないんだよ。
 とても大切なことなのに、「言う」気持ちよさに溺れちゃうんで、わかんないんだよね。

 Twitterにあふれているのは、「誰かのためにするつもりのない言葉」で、それを言ってる人はまったくそのことに無自覚であったりする。無自覚というか、「なぜ自分は誰かのためにするつもりのない言葉を言ってしまうのか」ということを、考えていない。そこが肝心なんだと僕は思うんだけどね。

 思うに、Twitterの女の子が白痴に見えてしまうのは、「誰かのためにするつもりのない言葉」をたくさん言ってしまって、どうして言ってしまうのかについて考えないからなんじゃないかと思うのですよ。
 で、別に男でも同じなわけね。もちろん。

2011/02/14 何がスラムダンクだよ

 COBS ONLINEとかいうところの調査した「子どもができたら絶対見せたい名作アニメ」ランキングで、『SLAM DUNK』が二十代男性編で一位、二十代女性編で三位だった。

 ちなみに『ドラえもん』は男性編で三位、女性編で二位。

・「夢があるし、いろいろと想像力がつきそう」(25歳/自動車関連/SE)男性
・「夢を持つことは大切だと教えたい」(28歳/学校/営業)男性

 笑わせてくれる。「夢」ってなんだよ。ドラえもんのどこに「夢」があるっていうんだ。僕にはよくわからない。「夢」って漠然としすぎでしょ。
 ドラえもんに対して「夢がある」とか言う大人を僕は信用しない。「想像力がつく」と言う人も、「空想力」という意味で使っている限り、信用しない。生きるのに大切な想像力というのは、「こうすれば、こうなる」ということを予想する力であって、「空を飛ぶ」とか「未来の世界へ行く」とか、そういうことを空想する力ではないのだ。僕はそう思う。

 ドラえもんをさして「夢を持つことは大切」というのも、よくわからない。ドラえもんの主要登場人物の中で明確に「(将来の)夢」を持っているのは、ジャイアンだけである。ジャイアンの「歌手になりたい」という夢をさして、「うん、夢を持つことは大切だ」と思うのは異常と言うほかない。
 それとも、ここで言う「夢」というのは「空想力」という意味なのだろうか。すなわち「現実ではありえないことを考える力」。「こんなこといいな できたらいいな」という歌詞に象徴される、「非現実的なことの実現」こそが魅力であるということなんだろうか。現在のOP曲『夢をかなえてドラえもん』でいう「夢」と同じように。
 僕はドラえもんに対してそういうふうに捉えたことがないから、その辺の魅力に対しては本当によくわからない。「ドラえもんの道具の中で何がほしいか?」というのはよくある質問だが、特別に欲しいものは僕には一つたりともないし、すべて欲しいといえばすべて欲しい(デビルカードとかは要らないけど)。
 すぐに「夢」とか言いだすのは、手抜きだと思うんだよね。ほかにいい言葉が思いつかないから、「夢」っていう万能な言葉で素敵に誤魔化すんだよね。僕だって「夢」って言葉は好きさ。好きだけど、濫用すべきではない。
 ところで、10年くらい前に「DREAM ON ドラえもん」というイベントがあった。「DREAM ON」と「DORAEMON」をかけているわけだ。これには「うまい!」と思ったが、「結局、ドラえもんは“夢”という言葉から離れられないのだなあ……」と高校生ながらにしみじみ思った記憶がある。

 スラムダンクですけれども、僕はもう、子供にはあんまり見せたくないんだけどね。

・「人生に欠かせない名言があるので読ませ、できたらバスケをしてほしい」(23歳/運輸/サービス) 女性
・「ひたむきに努力することの大切さや仲間の存在価値を教えたい」(28歳/損保/企画開発)女性

 出た。「できればバスケをしてほしい」とは、ひどい押しつけだ。
「ひたむきに努力」? 確かに木暮くんは「三年間がんばってきた」が、特別に努力をしたという描写はないぞ。花道は天才だから、普通の人よりもずっとずっと少ない努力で超一流のプレイができるようになったのだ。だったらちばあきお先生の『キャプテン』でも見せたほうが、きっといい。
 人生で欠かせない名言ってのは何なんだろう。「あきらめたらそこで試合終了ですよ」かなあ? 確かにいい言葉だけど、それを教えるためだけに見せるのは効率が悪いし、副作用も強いように思うよ。


 で、まあここまではマクラでしかなくって、僕が語りたいのは小山ゆう先生のことなんですよ。
 彼ほどあからさまに「才能」を強調し、「努力」というものを徹底的に否定した漫画家もいなかろうと思うんです。最大の代表作であるボクシング漫画『がんばれ元気』は、超天才の元気くんが「父ちゃんが果たせなかった夢を果たしたい」という個人的なこだわりのみによって、対戦相手の人生をグチャグチャに狂わせていくという話。地元の期待と夢を背負って戦ったのぼるくんは引退を余儀なくされ、貧乏生活を拳一つで切り開こうとした火山さんは失明し、家族を養うため出稼ぎに来たゴステロは解雇されて国に帰され、ボクシング以外のスポーツでは負けなしだったスポーツの天才・海道卓は南米で血みどろの修行を積むが元気との試合でパンチドランカーになって記憶を失い……と、陰惨な話ばかりが続く。元気は顔よし、頭よし、実家に金あり、と、ボクシングの夢が潰えても逃げ道はいくらでもある。実際、若くして世界チャンピオンになったあとは「高校に入り直す」と言って実家(おじいちゃん家)に帰っていくのである。
 元気は、小さい頃から毎日トレーニングをしてはいるものの、それは火山さんだって同じことだ。結局は「持って生まれた才能」のみが勝敗を決する、というのが小山ゆうの基本スタイルなのだ。

 さらに恐ろしいのは『風の三郎』で、これは「野球」をテーマに南総里見八犬伝をやろうとした作品。「全国に生まれる前からの運命で結ばれたナインがいるので、そいつらを探しだして仲間に加え、最強のチームを作る」というような話で、確かに9人の中の8人までは超天才が揃うのだが、ただ1人、駿河伸九郎だけは一切才能がないのだ。生まれてからずっと、両手を血まめだらけにして練習をしたのだが、攻撃も守備も一切上手くならなかった。他のナインに出会ってからも、過労で動けなくなるほどの修行を山ごもりで行うのだが、結局物語の最後まで活躍するどころかヒットを打つことさえない(相手のエラーで出塁したことはある)。「野球理論や知識なら任せてください」とは言うものの、その理論や知識が役に立つシーンは一切描かれていない。
 結局、才能がなければいくら努力しても無駄だということである。そういうふうに捉える以外、どうしようもない。
 この才能に対する冷徹な目。ある意味での徹底したリアリズムだ。

『風の三郎』の、伸九郎以外のキャラクタには一切リアリティがない。全員が全員、天才すぎるのである。天才すぎるがゆえに、リアリティはゼロである。その代わり、唯一の凡人である伸九郎の頭一つ抜けたリアリティが映える。「絶対にあり得ない」の中に「どこにでもいる」伸九郎がいるため、読者はそこで「現実」に帰らされる。
『SLAM DUNK』は、登場人物全員が中途半端にリアリティを持っているため、「リアルだ」と勘違いする輩も多いからタチが悪い。本当はただの「天才の物語」なのに、「努力の物語」であると勘違いしてしまう。徹底してリアリティがないのに、「リアル」と感じさせてしまう力がある。だから「自分もバスケをやってみよう」という気になる。ところが『風の三郎』を読んで「僕も野球をやろう!」などと思うバカはいない。『SLAM DUNK』は詐欺みたいなもんだが、『風の三郎』は正直である。

 湘北(主人公チーム)以外のチームでは、割と「努力」が強調される優れたプレーヤーも出てくる(神とか魚住とか河田とか)。が、彼らが示すのは「努力は報われる」という根拠のない単純な神話でしかないし、そもそもそれもたぶん「才能」の上に立脚している。さらに、結局は天才集団の湘北に負けてしまう。一体何が言いたいのだか?

 今回ぱらぱらと『SLAM DUNK』を読み返していて思ったが、木暮くんの3ポイントはホントに「まぐれの範疇」だよなー。自分でも「入った……!」って言ってるし、シュートを決めた際の木暮くんの回想シーン(?)は赤木と三井との想い出が中心で、練習風景は「バスケットってこんなにキツイの?」とか言って倒れてるシーンだけである。結局木暮くんの偉いのは「6年間バスケを続けてきた」ということのみ。それこそが何よりも素晴らしいことなのかもしれないが、だったらばこそ、そこをもうちょっと強調してもよかったのでは? いくらなんでも見せ場が「一回の3ポイントのみ」というのはひどい。「6年間がんばってきた」木暮くんと、「バスケを始めて1~3ヶ月」という花道との活躍の差がありすぎる。これを「才能」の残酷さと言わずして何だと言うのか。だが、『SLAM DUNK』は不思議とそれを感じさせない。どう考えてもおかしいのだが、これを「いい話」だとみんな思っている。なんでなんだ? 本当に。詐欺みたいなもんだよ。

 小山ゆう作品を読んでいるといつも、「天才を描くなら、ここまでやってくれないとな」と思う。小山ゆう作品には中途半端なところがない。才能のあるやつだけが成功して、才能のないやつはちゃんと開花しない。甘えがない。嘘がない。正直であり、ゆえに残酷である。『あしたのジョー』や『はじめの一歩』でボクサーを目指すやつがいたとしても、『がんばれ元気』でボクサーになろうと思う人はいないだろう。いたらすごい。いや、いるらしいんだが、とても信じられない。『がんばれ元気』で描かれるのは「才能がすべて」であることと、「敗北者の惨めさ」と「勝者の後味の悪さ」である。しかも、元気が世界チャンピオンになって何を得たかといえば、せいぜい「目標を達成できて、気が晴れた」というくらいのことである。好きな女はなぜかヨーロッパ行っちゃうし。


 なんと言いますか、漫画におけるリアリズムというのは、「才能のない者」のほうにあるんですよね。現実には「才能」なんてもんは転がっていないので。ドラえもんが人気あるのは、のび太に「才能」がないからなんじゃないか? あやとりとか射撃とかってのがあるけど、いまいち役に立たないし、そういう取るに足らない特技なら、むしろリアリティがあるような気もする。何をやってもダメだけど、ペン回しだけ上手いやつとかいるじゃんね。

2011/02/13 rin q dan

 堕落していた。ハドソン版ドラえもんを一時間もかけてやって、海底編であえなく死亡した。昨夜の20時半から27時間も経っているのに、そのほとんどを寝て暮らし、やったことといえば千葉樹之・ちばあきお両先生による『ふしぎトーボくん』を読んだことと、風呂に入ったことくらいであった。絶望していた。
 よく分からないけれども、非常に効率の悪い一日だったことは間違いがない。寝過ぎて頭が痛い。痩せている僕はともすれば太っていく。

 もう何年も前の話だが、何もいいことがなくって警察にまで踏み込まれ死にたくなっていた僕のところにスネ夫からサイン入りパネルが届いて世の中のすべてが一転、光り輝いて見えたことがある。今日もすべてが鈍く重いまま終わるのかと思っていたところに高校時代の恩師であるRinQ氏からメールが届いているのに気づいた。彼は当時から僕のことを高く買ってくれていて、当時の僕はそれを「買いかぶりすぎだよ」と思って恐縮し、半ば恥ずかしかった。しかし「買いかぶられている」と思っていたのは僕が自分に自信がなかったからであって、ある程度の自信をつけてきた今となっては「さすがRinQ!」というところもある。それと僕は彼のことを本当に尊敬しているので「RinQが言うのだから間違いはなかろう」とも思い、これまた自信を強化する。
 こうして彼のほうから連絡をくれるというのは本当にありがたいことだ。この春にはまた会いに行こう。彼がいる限り、彼が買ってくれる限り僕は腐っているわけにはいかないのだ。

 RinQは僕に「論理」というものを教えてくれた人間である。英語の授業を通して、「順を追ってものを考える」ということを仕込んでくれたのである。どんな複雑に見えるようなことでも、突き詰めていけば単純な論理の集積でしかないという、当たり前だがなかなか意識できない真理を、わかりやすく、実践的な形で目の前に叩きつけてくれたのである。
 すなわち英語というものは、「英語を構成している論理」と、「論理を説明するための知識」があればすべてわかる、ということだ。RinQはそんなこと一言も言っていないが、僕は勝手にそう解釈して、「ものごとを考えるには、考える“方法”と考える“材料”が必要なのだな」と知った。

 このことがわからなければ、僕の頭の中はもっとずっと混沌としていただろうし、ひょっとしたら勉強ももっとできなかったかもしれない。

 そういう人なのだが、卒業してからまともに話したのは一回きりである。それで「また会わないか」という旨、この度メールして来られたというわけ。
 生きんとかん。

2011/02/12 全体の効率を上げれば個々の効率は下がる

 忙しいというほど忙しいわけでもないのだが優先順位の高いものから消化していこうとするとおざなりになってしまうものも多い。申し訳のないことだ。
 読みかけの本が8冊くらいあるのでまずそこからこなしていかねばならない。
 優先順位といえば月、火、水と楠美津香さんのひとりシェイクスピアを三日連続で観てきた。『コリオレーナス』『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』の三本。
 お仕事的なものが年内で最も忙しいこの時期にあって、最低三時間ずつ×3日も席を空けなければならないというのは非常に難しいことである。といっても、この9時間(実際にはついでにごはん食べたり本読んだり銭湯行ったりしているので、もっとだが)を差し引いたところで、仕事がきつくなるということはない。計算して早めに終わらせているのだ。何が難しいのかと言えば、「空気」である。みんなが忙しそうなところで自分だけ観劇しに行くというのは日本人にとってはけっこう難しいことなのだ。
 なので最初の二日は行き先を告げなかった。7時過ぎに出て行って、劇見てごはん食べて銭湯行って、1時過ぎに職場に戻って、2時まで仕事してネットやって本読んで寝て昼前に起きて……というのを二回やった。三日目、ついに「どこに行くのか」を問われてしまったので、「お芝居を観に行くんです」と答えたところ、「余裕だねえ」と言われてしまった。それで思わず「何よりも優先させますよ!」と返した。優先順位でいえば仕事など二の次なのである。そんなことは口が裂けても言えないが、言ってしまった。
 僕が働いているところは「自分の仕事さえきっちりやっておけばあとは適当で良い」というのを一つのテーマとしている職場で、さらに僕は社員ではなくてフリーランス契約だから、「仕事に余裕があるから芝居を観に行く」は当然許される権利であるし、当然みんなも許してくれる。「なんだよあいつ」みたいなことには絶対にならない(はずである)。ところが僕は日本人なので勝手に恐縮してしまうのである。勝手に「悪いなあ」とか「悪く思われたりしないかなあ」とか心配してしまうのである。僕は図太い人間ではないので、意外と気にしてしまうのである。
 で実際、文句を言われることはない。でも気にしてしまう。今もみんなが休日出勤している間に僕は家にいるのである。家にいて優先順位の高いもの(この日記とか?)をこなしているのである。アイリスの『愛しのジャンポール』(懐かしい!)を聴いているのである。「週末来る?」と聞かれると、日本人である僕は「行きません」とは言えなくて、「金曜の朝と、日曜日の夜は来るかもしれません」的なことを言ってしまうのである。まあ実際、行ったら行ったで月曜以降が楽になるから来てもいいのだが、極力休みたい。優先順位で言うと、仕事というのは最低ランクのところにあるのである。なぜかといえば、自分のやっていることは社会にまったく必要のないものだと思っているからである。

 僕がやっているのは「教育に関係のある文章を書くこと」なので一見多大なる意味がありそうだが、突き詰めていけばそれは「広告」でしかない。何故ならば、お金を出しているのは学校だから。そして内容も好き勝手には書けない。何故ならば、原稿を管理しているのは某大企業だから。つまり「お金を出している学校」と「原稿を管理している某大企業」の顔色を常にうかがった仕事しかできないのである。一応、できる限り邪悪な成分は排除した原稿を心がけてはいるものの、本当に本当に、ごくごく微々たる努力だ。
 僕は自分の作っている「広告」をあんまり必要だとは思っていない。今はほとんどの学校にHPがあるのだから、宣伝ならそこでやればいいのである。上質な記事が作りたければ制作プロダクションに直接依頼すれば広告料はもっとずっと安く上がる。「といっても、誰もウチの学校のHPなんて見てくれませんよ。大手の広告代理店に頼まなければ」という声もあるだろうが、それならば学校どうしが連携して「各学校へのリンクが貼られたWebリングページ(かつての「同盟」のようなもの)」でも作ればいい。なんだってやりようはあるのに、どうして「大手の代理店に頼む」という方へ行くのかしらね。楽だからだろう。効果がありそうだからだろう。学校は募集を獲得するのに必死で、大手の代理店はその必死さにつけ込んで何百万もの広告料をふんだくる。学校は何百万も出しているのだからと、ピリピリしながら原稿とその結果を待つ。こういった流れ、仕組みが、本当はたぶん非常に非効率的であるというのに、もう何年もずっと変わらず続いている。

 僕が最近思っているのは、「全体の効率を上げようと思えば、個々の効率は下がる」である。例えば学校の勉強。「漢字の書き取りを50回ずつやらせる」とか、「辞書を引かせて、書いてあることを丸写しさせる」とか、「英語の本文をノートに書き写し、その下に和訳を書かせる」といったようなこと。たぶん全国の小・中学校で実際に行われているやり方だが、これって本当に効率的なのだろうか? 40人を一度に指導しようとするとこういうやり方が「教える側」にとっては確かに効率的だが、「教わる側」にとっては決してそうではない。漢字の書き取りが200回必要な子もいれば、1回もしなくていいような子だっているのである。辞書に書いてあることを「丸写し」したって力は付かない、するなら、「辞書に書いてあることを自分なりにまとめて、簡潔にメモする」のほうがずっといい。だけど課題の自由度を上げると管理(チェックや採点)がしにくくなるから、「全体の効率=教える側の効率」は下がる。管理ということを考えると、単純なことを決まった通りに、決まった量、全員にやらせるというのが効率的なのである。ただしここでは、「教わる側の効率」は無視されている。

「大手の代理店が管理している学校の広告」には、学校の勉強と同じような非効率さがある。「管理する側=大手代理店」にとって効率の良いことも、「お金を出している学校」にとってはちっとも効率的でなかったりする。だからクレームも出るし、「割高」の感も出る。しかし学校は「必死さにつけこまれている」ため、文句も言えずに何百万もの広告料を出す。
 んで、それを実際に作っている僕のところにはせいぜい1万円くらいしか入ってこないわけである。残りの数百万は、「非効率的な機関」に吸い上げられてしまっているのだ。

「一見効率が良いように見えて、実はまったく効率が良くない」というのは、現代社会では非常によくある話だ。本当に。経済の仕組み自体が、まったくそうなっているし、制度や規制やシステムといったもののほとんどがそうだ。それら一つ一つを、見直し、再構築していかなければならんだろうと思うのだが、「管理する側」にとって効率よく、「管理される側」にとっては(頭を使わなくていいから)非常に楽である、という利点(何が利点だ)が現実には存在するため、異を唱える人間はほとんどいない。居酒屋にしかいない。こういう売れないHP上にしかいない。
「管理される側」が、「実は自分にとっては効率があまり良くないな」ということに気づけばいいのだが、それに気づけないような周到な仕組みが用意されていたり、気づいたところで何かをする能力がすでにはぎ取られていたりもする。子どもたちは、みんな「何かがおかしい」ということにはなんとなく気づいているのだが、信頼すべき大人は「おかしくないんだよ」と言うし、「おかしい」ということを言葉にして表現する能力が育てられていないから、「暴れる」とか「黙る」ということでしか「おかしさ」に対抗することができなくて、「不良」とか「大人しい子」といったようなレッテルで処理されてしまう。
 こういったことが世の中にはあふれているように思うのだよ。

2011/02/11 ノンポリ天皇即位記念日

 即位して2年が経ちました。
 応援ありがとうございます!

 今度また詳しく書きますが、今年は「つぶあん男子・こしあん男子」「つぶあん男子・つぶあん女子」という概念を追究し、世に広めていこうと思います。

2011/02/10 久々ストレス

 ここに来てストレスがたまってきている。
 なんでこんなに文章が下手なんだ!
 ここにさらしあげたいくらいだ。
 これは「美意識」の問題じゃない、「文法」の問題であり、「常識」の問題だ。からあげ弁当屋の店員が「からあげを作るのが心配でたまりません!」と豪語しているだけの記事が広告になるわけないだろ! 逆説的なアピールにすらなっていない。

 それと「女性問題」というのもあるのだがさすがにこれは波風が立つのでやめておこう。女性には何の罪もないのだ。ただ、女性がいると男性が勝手につまんなくなってしまうというだけのことだ。


 と、昼間に書いていたのだが深夜二時の今もうすっかり温度が下がりきっている。
 ふんわかいこうよ、ふんわか。


 常識というもの、これは大切である。
 それは「冠婚葬祭の礼儀」とか「テーブルマナー」とか、知識の話をしているんではなくって、感覚の問題ね。
「フツーに考えりゃわかるだろ!」っていうたぐいの問題。
 フツーに考える、ってのはけっこう難しいので、「フツーに考えりゃわかるだろ!」みたいな言葉はよく聞かれるのだ。
 フツーに考えるって何かといったら、やっぱり「筋道を立てて考える」ことですよね。で、それは「筋道」ってもんを知らなければできないもんなのですよ。
 だから僕は「筋道」っていうもんについて、もうちょっと考えていきたいな。人に教えられるくらいには。

 窓から外を見たら、傘を差して歩いている人がたくさんいた。
 普通に考えたら「外は雨とか雪とかが降っている」か「日差しがとても強い」の二択である。
 普通に考えたら、外が暗ければ雨とか雪とかが降っているのだし、明るければ日差しがとても強いのである。また、持っている傘の種類によってでも判断できるかもしれないし、雨粒や雪あるいは太陽が目で見えるかもしれない。
 筋道の立てられない人は、傘を差している人を見ても、「ああ、傘を差している人がいるな」としか思わないのである。これは本当の話である。
 48×12という問題をどう解くか、というのも筋道が関係するのである。
 480と96を足すか、600から24を引くか、というのが楽な筋道である。
 ところが、筋道を立てられない人はこういう発想ができないのである。


 夕べから、事務所的なところに泊まり込んでいる。
 二泊三日(予定)の、ちょっとした合宿である。
 歯ブラシと着替えとお風呂用品と、何冊かの本を持っている。
 昨日は、堕落していたので、18:50くらいまで家にいて、それから新宿タイニイアリスで楠美津香さんの『超訳コリオレーナス』を見た。舞踊あり歌謡あり、飴の投げ入れあり、ペンライトあり、と賑やかな2時間。21:30に劇場を出て、マクドナルドで野菜生活飲みながら23:50くらいまで読書をした。『二人で少年漫画ばかり描いてきた』を読み終える。それから銭湯に1:00まで浸かる。特に考えることを用意していなかったから暇だった。1:15くらいに事務所に戻り、6:00まで仕事。寝床(8号室の押し入れの中)に入って少し本を読んで、寝る。
 今朝10:00くらいに目が覚めたがぐずぐずして結局11:00に起き上がり、3号室の事務所へ。ひたすら仕事。19:00過ぎまで全開で働いたのち、新宿タイニイアリスで楠美津香さんの『超訳ジュリアス・シーザー』を見た。シーザーコールあり、アントニーコールあり、カーテンコールありの遊びに満ちた2時間。ネギと卵と豚汁を食べ、マクドナルドで野菜生活飲みながら23:50くらいまで読書をした。ジョージ秋山『聖書I』を読み終える。それから銭湯に1:00まで浸かる。考えることは用意しておいたのだが、湯船の前にテレビが設置されていたのでついつい見てしまう。どうでもいい、牛角でいちばんうまいメニューは何かというだけの企画だった。天が露わになっていない露天風呂でぼんやりとす。1:15くらいに事務所に戻り、今。明日は新宿タイニイアリスで楠美津香さんの『超訳アントニーとクレオパトラ』を見てから、働くか帰るかする予定。

2011/02/09 22年!

 疲れがたまっていたのか、一日中ダウン。
 定期的に充電しないともたない様子。

 夕方くらいから活力が出てきたのでこれから三日間本気出す。
 どうも恋をしているかのように一喜一憂。気になって気になって仕方がない。『七女』が好きすぎて困るし、プリキュアのDVDは届いてしまった。イサミは可愛い。サジタリウスは人生。

 日曜日、ひろりに誘われて夕食。生まれて初めてではなかろうか? 誘ってもらえるのは嬉しい。大村庵でカキフライ定食を食べた後、栄湯で露天風呂に二時間近く浸かる。贅沢。
 自由がきくのはいいことだ。

2011/02/08 聖の青春

 時間がいくらあっても足りない。もう1時だ。

 いま『二人で少年漫画ばかり描いてきた』という、去年ようやく復刻された藤子不二雄先生の本を読んでいるんだけど、丁寧に読みすぎて全然進まない。

 数日前に大崎善生さんの『聖の青春』を読んだときは、400ページ以上あるのを2時間くらいで読み切った。僕は元来速読をするほうではないし、読むのは遅いほうだと思っているのだが、途中から「そんなにじっくり読むものでもないなあ」と感じて急いだ。村上春樹の『1Q84』も一冊1時間くらいで読んだが、そういう薄っぺらい読み方をしていたせいか僕の『1Q84』についての感想は「売れないライターが女子高生と淫行するだけの話じゃねーか!」であった。

『聖の青春』は、「泣ける」「面白い」という評判をやたら聞くので、読んでみた。もちろん面白かった。「感動した」という感想を持つ人に対して、さほど違和感はない。しかし薄っぺらい読み方をしてしまったせいか、「泣ける」というのはよくわからなかった。だって、聖くん、お母さんに対して冷たいんだもん。
 これを「泣ける」というのはたぶん、天才が好きで、天才なのに病気だったり、天才なのに奇人だったりする人が好きで、夭逝が好きで、人の優しさが好きで、献身や自己犠牲や、一方的な愛や、時折の気まぐれのような愛が好きな人なんだろう。全部許しちゃうんだろうね。「夭逝した天才が病気で弱っていた」というので、全部許しちゃう。家族や師匠や、仲間たちが彼を許すのは美しいかもしれない。でも何の関係もない人は彼のことを許す理由なんかなくって、「ダメな人だなあ」と思わなくっちゃいけないと思うんだよな。ちっとも社会性がなくて、人に迷惑をかけてばっかりで、親にもろくに感謝ができないまま死んでいった(というふうに本書からは読み取れた)ような人を、何の関係もない人が話だけ聞いて無条件に愛して、泣いちゃったりしたらいけないんじゃないかなあ。
 だってこの本に書いてあるのは「事実」と「憶測と伝聞による心理描写」だけで、当事者の気持ちではないわけじゃない。村山さんや、森さんや、お父さんやお母さんが、どういう気持ちだったかは全然わかんないじゃない。わかんないことを勝手に想像して埋めるのは失礼だと思うので、僕は一切感情移入しませんでしたし、する必要もなかろうと思いました。

 聖くんのお父さんやお母さんは、すごいよ。本当に息子を愛してるんだなって思うよ。でも、聖くんはそれに甘えてばかりじゃない。ってことは、お父さんやお母さんは、「甘やかす」ってことしかしてなかったわけじゃない。それって、素敵なの? 子が甘える。親が甘やかす。子が親に辛くあたる。親はそれを許す。それが美しいって価値観は、僕の中にはないな。
 実際は、知らんよ。この本に描かれた親子関係からは、そういうふうに読み取れました、というだけの話。たぶん僕、お父さんかお母さんの手記を読んだらぼろっぼろに泣いちゃうと思う。

 つーか。
 他人が書いたノンフィクションなんか信用できないからな。
 他人が描く他人はすべてフィクションですよ。
 死人に口なしって言ってさあ、これ、本人に言わせたら「違う、僕はこんなこと言ってないし、してない。思ってない」になるかもしれないんじゃないの。
 そういう危険を持った文章で、感動して泣くってのは、ちょっと、死者に対して失礼なんじゃないかねえ。
 それともみんな、「こんなもんただの、泣くための娯楽だから」くらいに割り切ってんのかな?

 本当に、ダメなライターのダメな文章を見ていると、温厚な僕も珍しくイライラしてしまう。「客観性」と「美意識」の欠如、これが原因だろう。まったく、こんなんでこの人たちは、まともに日常生活が送れているのか?
 僕が運営する「ノンポリ大学」の入学試験(筆記)は、「ダメなライターの書いてきたダメな文章を読みやすく美しく書き換えること」です。今決めました。

2011/02/07 ライターのクズ

「ライター」と名乗っている人をあんまり信用しないほうがいいというのはよく言われる話だが、最近そのことを痛感している。今やってる仕事の一環として、「ほかのライターに文章を書いてもらって、それに修正を施す」という作業があるのだが、この「ほかのライターが書いた文章」というのがひどい。クズみたいな文章ばっかりだ。

  物心ついた頃から不可解で仕方がなかった
  たいした文章も書けない そのくせに威張り散らしてる

 ってな、黒夢の『C.Y.HEAD』という曲の歌い出しですけど、最近この部分がぐるぐるぐるぐると頭を回るものだよ。
 ええ、わかってますよ。仕事相手の悪口を公的な場で言うなんて、問題があるって言うんでしょう。まあ、それもそうなんだけど、たいした文章も書けないくせにライター名乗ってる奴らに本当に腹が立つからせいぜい堂々と書きますよ。
「忙しくって原稿の質が下がってる」っていうような事情もあるでしょうが、まともな原稿を送って来られない量の仕事なら受けるべきでないわけだし、ビジネスの世界は「結果責任」を負うものですから、「事情」なんてのは知ったこっちゃないね!
 ……っていうふうにね、「仕事」というのは基本的に「事情」を無視するものなんですね。だから基本的にはあんまり僕は「仕事」が好きじゃない。とはいえ、今いっしょに働いている人たちはかなり「事情」というものを意識していて、おかげでそれほど辛くはないんだけれども。ただ「ほかのライター」みたいな、外部の人たちは、事情を共有することができないので、「あー! クズみたいな原稿送ってきやがって!」ということにしかならない。「事情」を共有できるような、近しい距離の人たちとのみ、仕事をしていたいものですよ。

 で、その原稿がどういうふうにダメなのかというと、主に2つの側面がある。

  【1】文法が正しくない、文章が読みづらい
  【2】原稿の目的が意識できていない

【1】はもう、そのまんま。文法がおかしいとか、文末が5回連続で体言止めになっているとか、一文が長すぎる上に修飾関係が複雑でわかりにくく、意味を取るのに困難があるとか。「こんな文章に金を払わなければならないのか……」と思うとめまいがする。何せ、それを「まともな文章」に直すのは僕なのだ。で、その作業に対してお金は一銭も入ってこないのだ。
 誤字・脱字なんかは誰にでもあるミスだし、それを点検するために僕がチェックしているわけなので、そのあたりはいい。しかし文法の狂っている文章を修正するというのは、時には全体を書き換えなくてはならなくて、非常に労力である。それに、受け取った原稿は「ほかのライター」さんの「作品」であるので、あまり手を加えすぎるわけにもいかない。それが「取材」をもとにした原稿の場合、あまり修正すると取材対象者さんに「自分はこんなこと言っていない」と思われてしまう可能性もある。だいいち、こんな作業にあんまり時間をかけたら、ほかのもっと大切な作業をする時間がなくなってしまうのだ。こういった様々な事情を考え合わせ、うまいことバランス取りながら、修正の妥協点を探していくわけだが、これはとてつもない頭脳労働である。疲れる。

【2】は例えば、「からあげ弁当の宣伝」のための原稿なのに、「天丼はうまい」ということばっかり書いて来るとか。「天丼はわかったけど、いつからあげ弁当の話になるのだろう」と思って読み進めても、最後まで天丼の話しか書いていない。依頼主であるからあげ弁当の会社は、そんな文章に金を払いたがるだろうか?
 もっと具体的な例。からあげ弁当の会社が、「我が社の優秀な社員Aくんを取材して、記事にしてくれ」と依頼してきたとする。ライターが取材に行くと、Aさんは「前の会社で天丼弁当を作ったんです。世界天丼弁当グランプリも受賞しました」という話を延々とする。ライターは「なるほど」と思って記事を作る。その記事のメインキャッチは「世界一の天丼弁当を作りました!」というもので、本文にはからあげの「か」の字もないし、「からあげ弁当を作るのにこの技術や経験が活かせるはずです」といったニュアンスもない。これでは仮に「Aさんの優秀さ」は伝わったとしても、「からあげ弁当の会社」のアピールにはならない。
 このくらいならマシなほうで、ひどいのになるとからあげ弁当の会社から依頼された原稿で、「揚げ物は健康に悪い」とか平気で書いてくる。フォローもなしで。
 また、意味のない表現も多い。からあげ弁当の新入社員インタビュー記事のメインキャッチに、「僕は一度も弁当を作ったことがないので、心配です」と書いて、何の意味があるのだ? せめて「初めてで不安もありますが、からあげ弁当を作るのが楽しみです!」というふうに書くのが本来だと思うんですけれども。だって、自分の仕事に対して「心配」してる人の作った弁当を、誰が食べたいと思いますかね?

 お金の発生する原稿には必ず「目的」というものがあって、お金を出す人はその「目的」のためにお金を払うのであるから、「目的」を見失ったような原稿はダメな原稿なんですよ。そういう単純で、最も重要なことが意識できないで、どうして堂々と「ライター」なんて名乗れるのか知らん、と思うぜ。

 一番、腹が立つのは「非文」ですね。「僕は決してからあげ弁当を嫌いならば食べたいとすら思い出すだろう」みたいなのが非文。こういうのを本当に書いてくるのがいる。金もらってるライターがだよ。
 上の例はさすがに大げさでも、「僕が入社を希望した理由は、からあげ弁当のおいしさを世に広めるための会社です」みたいなのは、頻繁にある。推敲しろよ。推敲してこうなるんだったら、向いてないから辞めてしまえ。
「二人が向かった先は、地元で有名なスーパーに足を踏み入れた」みたいなね。
 世も末だ!

 ここに挙げたのは「最低限」のことで、「より読みやすく」「より自然に」「より美しく」というところを、自分の能力の限界まで突き詰めてこそ、プロってもんじゃないんかね。もちろん時間や諸々の事情と相談してのこととはいえ、「26歳の若造が吐き気を催すような拙い文章」を送ってくる、30代40代のプロライターってのはいかがなもんでしょう?


 身の程を知れというか。
 なんで文章書けない人がライターなんかやってんだろ?
 んで、なんでそういう人に「仕事」があるんだろうか?
 世の中ってのは本当にわからんもんです。


 身の程を知れよ。
 自分の欲望ばっかり考えやがってね。

2011/02/06 短期記憶

 人間には短期記憶と長期記憶というものがあって、短期記憶に入った記憶のうち、重要だと判断されたものが長期記憶に保存される、のだそうですよ。

「記憶力がすごく良いくせに興味のないことにはトコトン忘れっぽい」
 と僕は先日ある人から評されましたが
 昔からそうなんです。カサとかカギとかサイフとかをすぐなくすってのと関係があるんじゃないかと思うんですけどね。
 短期記憶のほとんどをそのつど捨てながら生きてるんじゃないかと。
 でも、大切だと判断することはかなり正確に長期記憶に保存する。
 ドラえもんのセリフとか。

 短期記憶。僕はこれに本当に弱くて、数秒前のことをもう覚えていられないのですよ。数秒前に自分が何をしたのかを覚えていられないのです。これはけっこう大変なことです。「不注意」と言ってしまってもいいのですが、結局のところ「不注意」というのは「短期記憶の消えるのが早い」ということなんじゃないかなとも思わないでもありません。

2011/02/05 少子化に正しく対処できなかった大人たちの問題

 少子化が進むと、「社会がものごとを子供中心に考えない」という状況が生まれる。それはもちろん、少子化が悪いわけではない。「少子化ごときで子供を軽視せざるを得なくなるような状況」が悪い。
 Wikipediaで「日本の少子化」を見ると、こうある。

「1990年代以降も出生率低下は続き、1992年度の国民生活白書で少子化という言葉が使われ、一般に広まった。1995年に生産年齢人口(15~64歳)が最高値(8717万人)となり、1996年より減少過程に入った。1997年には少子社会となった。」

 だからなんだって話なんだが、「90年代の半ばくらいで何かが決定的に変わってしまった」という僕の実感は、もしかしたら少子化にも関係があるのかもしれない。

「少子化」という言葉が流行って、世間が「今は子供が少ないし、これからも少なくなる一方だ」ということを認識したら、「子供向けのビジネス」ってもんが減っていくのは当たり前だ。対象年齢を引き上げるしかない。「子供向けのビジネス」は、ちょっといじくれば「子供じみた大人向けのビジネス」ってのに変わって、それこそが「おたく向けのビジネス」だったりする。
 で、「おたく向けのビジネス」ってのは、基本的には子供を無視している。というか、子供に対して「おたくになれ」を言う。
 自分に向けられたものが存在していないのならば、「自分」を変えるしかない。アニメやマンガを好きな「子供」は、「おたく」にならなければならない。

 アニメやマンガを作っている人たちが、それを「商売」でやっている以上、儲からなくてはいけなくて、これまでの枠組みの中で「これまでと同じくらい儲かる」ためには、「減っていく子供たち」だけを対象としてモノを作っていてはダメなのだ。「おたく」の分布は、今やほとんど全年齢に広がっているだろう。「そこ」をターゲットにしたほうが儲かる。というか、そうしなければ、生き残れない。

 これは「少子化による問題」ではなくて、「少子化に正しく対処できなかった大人たちの問題」としてある。陳腐な結論かもしれないが、「儲ける」にばかり目を向けて「育てる」というところに目を向けなかったというところに、問題はあるとしたらある。ある時点までは、ある程度、あるいはわずかにでも、「儲ける」と「育てる」は重なっていたのかもしれない。その「ずれ」が決定的になり始めた時に、「枠組みを変える」をしないで、「これまでの枠組みでやる」のまま続けてしまうと、「育てる」はないがしろになる。
「儲ける」と「育てる」が一致するなんてことは、ほとんど奇跡に近いことで、もしかしたら歴史上、そんな時期は一度だってなかったかもしれないが、理想はそこにあるし、そこに照準を合わせようとすべきではある。それができなかったとしたら、どちらに目を向けるべきか? というところを、ちょっと考えてみなくてはならんのではないかね。

2011/02/04 嘘だと言ってよ、バーニィ

嘘をついた夜には
眠れずに 怖かった
どんな喧嘩をしても
次の日は 忘れていた

空が 青いこと
それが 嬉しくて

いつか人を疑い
生きる寂しさ知る事も
気がつかずに全てを
信じてた頃

愛する人にだけ
いつの日か教えたかった
心に抱きしめてた
幼い夢を


 椎名恵さんの『
遠い記憶』という、OVA『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』おわりの歌。
 ガンダムシリーズの中では僕はこの作品が抜群に好きだ。『機動戦士ガンダム』は「地球連邦軍」の視点から「一年戦争」を描いたものだったが、『0080』は連邦軍と敵対する「ジオン軍」の視点からそれを描いたものである。つまり、『0080』は「一年戦争」(すなわち『ガンダム』そのもの」を相対化する試みだった。
 敵として描かれていたジオン軍にも正義があり、一人ひとりに家族がいて、生活がある。「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだ」と、ドラえもんも言っております(てんコミ1巻)し、『T.Pぼん』の「戦場の美少女」という話では、「落ちていく特攻機にもぶつかられる軍艦にも、それぞれ人間が乗っているんだぞ! そのひとりひとりに、家族があるんだぞ!」なんて台詞がありました。『0080』は、そのあたりのことを描いた作品でした。
 たった6話しかないので、ぜひ見てください。おすすめします。

 主人公は小学5年生のアルフレッド・イズルハ(アル)。最も活躍するモビルスーツ(ロボ)はザク(当時のジオン軍でほぼ最弱の量産型モビルスーツ)。それに乗るのは「ニュータイプ(アムロやシャアみたいな、狂ったようにモビルスーツの操縦がうまい人たち)」ではなく、敵を一機も落としたことのないへぼい青年バーナード・ワイズマン(バーニィ)。舞台は主にニュータウンっぽい住宅地。世間の人が抱いているであろう「ガンダム」のイメージとはかけ離れた作品なので、ガンダムを知らないとか、あまり好きではない人にこそお勧めしたい。少年とか冒険とか、クリスマスとか黒いブーツが好きな人は、ぜひ。

 ところでこの『遠い記憶』の歌詞、すごいですねえ。
「遠い記憶」と題されるだけあって、どうですかこの、断片的な感じ。散漫な感じ。まとまりのない感じ。意味がつながっているようでいて、全然つながっていなくて、しかしそれでも何かを感じさせてくれるような。
 こういう詞は、本当に優れていると思う。
 断片が、そのまま全体にもなっているというか。
「この断片とこの断片を組み合わせたら、こういう意味になる」ということが一切ない。すべての断片が、同じことを言っている。
 こういう詩も書けたらなと思います。

2011/02/03 至福のA先生

 働いて深夜帰宅して、参考書を読みながらゆっくりとお風呂に入り、頭を洗い、すかさず熱いお茶を入れて、二時とか三時とかにA先生の『PARマンの情熱的な日々』を読むという、至福としか言いようのない時間が好きだ。
『情熱的な日々』には、手塚先生やF先生の話題がひっきりなしに出てくる。高校生の時、名古屋の「マグリット展」にゲストでいらっしゃったA先生が、「僕の尊敬する人物は二人いて、手塚治虫先生と藤本弘くんですね」と仰ったのを聞いてもう本当に、こんなに美しい一言はなかろうと思ったものです。

2011/02/02 ナイフエッジ彼氏

 もうちょっと鋭利で、かつ
 独りよがりなほうが実は
 魅力的だったりもしますよね。


 で、そのー。頭がよすぎると、柔軟性の固まりみたいになって、何も判断できないし、何も決定できなくなっちゃいますよね。ぶよぶよのスライムみたいにね。それって、何よりも愚かなことですよね。「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるようなそんな馬鹿なあやまちはしないのさ」って歌もありましたね。

 頭のよさ、というのは、判断力のことなんですよ。判断力と決断力は違いますよ。分析力とも違います。
 判断力ってのは、「どうするべきか、どうあるべきかを考える力」です。
 どれだけ論理が得意でも、どれだけ知識を蓄えていても、判断するということができなければ意味がありません。頭がいいことにはなりません。

 混沌は、号令をかけてあげれば秩序になります。
 判断は秩序にのっとって行われますので、まずは号令、これが要です。
 号令をかけて、すべてを秩序のもとに支配するのです。
 巨大な混沌を抱えていて、どうしようもなくなってしまっているような人に、ともかく必要なのは号令です。どんな号令でもいいというわけではありません。
「右向け右」と言ってみましょう。右を向かないやつが必ずいます。
 それが混沌です。
 そいつらにどういう号令をかければ言うことを聞くのか。
 そこを考えるのであります。
 クスリも優れた号令になると思いますが、おすすめはしません。
 よろしくお願いいたします。

2011/02/01 魔法の呪文

 まあ僕はH Jungle with Tの『FRIENDSHIP』という曲が好きですね。
 ダウンタウンの浜田さんが、96年に歌ったやつ。
『竜馬におまかせ』の主題歌。

「それでも 未来を担うかけらでも 男としたら狙ってる」
「いつからか描く夢 遠い日の平和になってた」

 男たるものですね、「未来を担う」をしたいわけですよ。
 僕なんかはもう、そればっかりしか考えていないです。
 どうしたら素敵な未来の一端を担えるかということを。
 それだけが僕の散歩の意味です。

 素敵な未来ってのは、「遠い日の平和」ですね。
 それが夢であって、僕の散歩の意味ですね。
 男ってもんは、いつまでも自分のことばかり考えていちゃいけないんですよ。
 僕は23歳の時に「もう自分のことはいいや」と思って、「遠い日の平和」にばかり、目を向けるようになってしまいました。
 とは、さすがにウソか。でもこれまで「自分9:遠い日の平和1」で考えていたのが、「自分3:遠い日の平和7」くらいにはなった気がしますよ。
 と言って、自己犠牲とか、献身とか、他人のためにとか、ボランティアとか、博愛とか、そういうことではなくて、考える量と質の問題で。割と未来についてとか、考えるようになった気がします。
 つっても、それで何ができるというわけでもないし、とりわけ変わったことなど何もないんですけど。

「走っても走っても追いつきそうもない世の中を
 とにかくおまえを守ろう
 とにかく明日を迎えよう」

 というような精神でね、やっているというだけのことです。

「逢える時が来る いつか こんな時代を生き抜いていけたら
 報われることもある 優しさを手抜きしなけりゃ
 吠える時もある 心が寒くて 灯し火絶やさぬために
 逆らうこともある 時代が 必ず正しいとは限らないから」

 96年にこの曲を聴いていた11歳の僕は、わけもわからず、「いい曲だなあ」とすらも思わず、ただなんとなく気に入っていたが、やはり僕が好きだと思うだけのことはあって、今にして振り返ると、「なんだ、これは僕のテーマソングなのではないか」とさえ思える。
「逢える時が来る」っていうフレーズがこの曲の中で何度も繰り返されるんだけれども、いったい何に「逢える」というのか? 僕は15年間その答えがわからないでいた。しかし今ならなんとなくわかる気がする。
「こんな時代」でも、生き抜いていけたら。
 優しさを手抜きしなけりゃ。
 曲名は『FRIENDSHIP』である。
 正しく生きていれば、正しいものに巡り逢える。それを信じて、優しさを手抜きしないで、時に吠え、時に時代に逆らいながら、生き抜いていけたら、出逢える。
 すでに幾度も出逢ってきたらしい僕には、それがなんとなくわかるのである。


 ラブコールをしたらラブコールが返ってきた。
 これ以上繰り返しても何の意味もないのだが話の流れだ、何か書いておく。

 かつて僕は優しくなかったことがあった。
 今ならば、あの頃よりも少しは優しくできるだろうと思う。
 しかし「優しくなかったことがあった」というのは、取り返しのつかないことで、そうやすやすと埋め合わせができるようなことではない。
 だからこそ、長い歳月が必要なのだ。まだまだ。これからも。
 優しくなかった側が言っても言い訳にしかならないが、どっこい、向こうだって決して「優しかった」わけではないのだ。優しさを履き違えていた感は、お互いにある。能力の問題もあった。とにかく若すぎたのだ。
 我々は緩やかに、優しさなるものを証明していかなければならない。

 過去は消えなくて、今が優しかったからといって、過去の自分が優しくなるわけではない。だけど幸い、今はどんどん過去になっていく。少しずつ、過去における優しさの数を増やしていくことはできる。
 ちょっとわけのわからないことを言っているようだ。
 こういうのは詩にしなければなるまいな。
 2年間の優しくない時間があったとしたら、せめて78年を優しさで満たしたい。
 2年間の優しくない時間が、ただ切り取られて、ゴミのように捨てられていくのは絶対に嫌だ。たとえ真には優しくなかったとしても、愛があり、幸福があり、美しさがあったのだから。優しさだって本当はあったに違いない。だけど上手には使えなかった。
 そうやって言えることが何よりも喜ばしいことである。

 こういう時にはドラえもんの歌う『友達だから』という曲を思い出す。

「遠ざかるきみは 夕日のようだ
 見えなくなるまで ぼくは見送る
 ちがう道を 歩いていくけれど
 いつかどこかで また逢えるから」

 いつも僕は本当に永遠ということばかりを考えている。


「逢える時が来る」というのは、いったいなんだったんだろう。
 何に「逢える」というのだろう?
 っていうところに、今つながりました。

 変わらないことが永遠なのではなく
 続いていくことが永遠なのだから

 と、いう文を今読んで感動した。
「続く」ということは、小沢健二さんもよく言っていますよね。
「誰かの待つ歩道」なんてのも、まさにそれでしょう。

「続く」という言葉はいいですね。
 2年間をゴミ箱にすてないで、あと78年間を続けていくというような
 そういうイメージですね。
 歩くってのはいいですね。
 逢える時が来るのです。


 たとえば好きな人は、出会った瞬間から好きな人というわけではないです。
 たとえそうだったとしても、出会った瞬間の「好き」と、1年後の「好き」は違うものです。
 1年経ったら。
 10年が過ぎれば。


 逢える時が来るのですよ。
 もちろんそれだけじゃなくって、
 いや、でもまあ、結局やっぱそういうことですね。すべて。
 手抜きはいかんと、要するにそういうことです。

 頭の良すぎる人は行動力をなくす、と誰かが言っていたな。
 だから中途半端に頭が良いほうがいい、と。
 猪突猛進でやれたほうが実はうまくいく、なんてね。
 くだらねー話だと思いましたね。
 行動力がなくなるような、中途半端な頭の“良すぎさ”なんて。

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