少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2011/03/31 金八先生と日本のスタートライン

 27日に放送されていた『3年B組金八先生』のファイナルを見た。
 思った通り、「3年B組」という「絆」や「つながり」を強調した内容になっていた。まさに32年という長い年月の総決算。
 今回のテーマは「3年B組とは何か。どういうものか」だったと思う。「3年B組があまりにも特別なものであるということの確認」だったとも言える。

 たぶんそうだろうなと思っていたが、やはり今回、金八はほとんど何もしていない。問題解決の大部分を、過去の教え子からの直接的・間接的な支えによっている。
 32年間で金八は、教師としての手腕や魅力を高めていったわけではない。むしろ年を経るごとに体力は衰弱し、年が離れていくことによって中学生と価値観や感性が乖離していった。金八演じる武田鉄矢さんは、「第6シリーズでは金八が通用しなくなるという事態を描いた」というようなことを言っていた(24日放送の金八同窓会)。ファイナルでは景浦という不良少年に「じじい」などと呼ばれる始末だ。
 32年間で金八が築いてきたものは、「教え子たち」である。それだけだ。奥さんとは死別し、娘の乙女は結婚して家を出て、息子の幸作は群馬で中学校の先生をやっている。金八はひとりぼっちだ。ファイナルの最後に、金八は「ここが私のゴールです。私のゴールを、みなさんのスタートラインにしてください」という、(僕のような第4シリーズファンにとっては、特に)感動的な演説をしたが、まさしく「ゴール」である。終わりである。嫁も子供もいなくなり、仕事もやめた。もう金八の役割は終わったのだ。
 金八は超人ではない。教師としての能力も鈍らぬわけではないし、狭心症で入院もした。ちゃんと老い、ちゃんと衰え、死ぬように退職した。しかし金八は教え子たちを残した。次世代のためのスタートラインを引いた。

 金八が遺した最大のものは、教え子たちの「地元に根ざした縦横の繋がり」だろう。3年B組卒業生のネットワークだ。それが今回、最大限に発揮されて、老いぼれた金八の支えになった。みんな金八が好きで、3年B組が好きで、桜中学が好きで、あの街が、荒川が、好きなのである。
 普通は、たぶん、中学を出れば高校でちりぢりになって、大学などでさらにちりぢりになって、就職してもっとちりぢりになる。そしてほとんど会うこともない。しかし3年B組の異常な求心力は、卒業生の「地元」意識をたぶん強めている。
 その結果、不良少年の景浦は、どこに行っても3年B組の卒業生たちに出会う。彼らは口々に「金八先生に何かあったら、3年B組が黙っちゃいない」と言う。ほとんどやくざである。3年B「組」である。3年B組は3年B組であるという意識で繋がっている。そこには見えないコミュニティがあり、何かあればすぐに集まる。
 たぶん、こういう「中学校の同級生同士のつながり」というのはさして珍しいものではない。そんなもん、そこら中にいくらでもある。しかし3年B組の場合は、その「つながり」がさまざまな世代に存在し、しかも世代同士が強い仲間意識を共有しているのである。それが、ひいては「地元」……「地域」というものを形成していく。
 思えば桜中学は第5シリーズで、校舎の一部でデイケアサービスを始めるなど、「地域」に根ざした活動をしていた。金八の家も学校のすぐ近くにある。

 最近、「地域」というものの結びつきが弱まっていると思う。それはなぜかというと、たぶん理由は桜中学のあり方をひっくり返してみればわかる。金八先生や乾先生や北先生が、ずっと(厳密には違うが)桜中学に勤務し続けているということが、「地域」の形成に繋がっているのではないか。つまり逆から見ると、「教員は概ね5年から10年で転勤する」という公立中学校の実際のあり方が、「地域」というものの形成を阻む一要因となっているのでは、ということだ。
 実際は、金八先生のように学校の近くに住み、40年近い教師生活の大半を同じ公立校で過ごすということはない(うちの父ちゃんは30年以上同じ公立高校に勤務してるけど、これは例外である)。しかし、もしそういうことが一般的であったなら、どうだったか? 桜中学の学区にあるような「地域のつながり」が生まれているかもしれない。なぜそういう仕組みにならないのかというと、地域が小学校・中学校単位であんまり結束を強くしてしまうと、世の中にお金が回らなくなるからである。ちょっと乱暴なようだが、僕はそのように思いこむ。

 お金というのは、「人と人との隙間」を狙って入り込むものだ。人々がばらばらであればあるほど、隙間は大きくなって、流れ込むお金の量も大きくなる。だから、世の中をお金で満たしたいと思っている人は、人々がどんどんばらばらになっていけばいいと思っている。愛し合っていればえっちなことをするのにお金は要らないが、見ず知らずの他人とえっちなことをしようと思ったらたいていはお金が要るのである。お金とはそういうものなのだ。
 地域が「絆」によってつながってしまったら、よぶんなお金の入り込む隙がなくなってしまう。そうすると日本経済は弱まる。そういうわけにはいかない。だから地域は、できるだけつながらないほうがいい。金八先生さえいなければ、桜中学周辺ではもっとたくさんのお金が廻っているだろう。子供たちがスポーツチャンバラやソーラン節や、「友達と一緒にいること」なんかで満足してしまっていたら、金は回らない。家庭や学校の問題を「地域」なんかに解決させられてしまったら、カウンセラーとか精神科とか、塾とか、怪しげな本とか、いろーんなところにお金が行かなくなる。
『金八先生』は、そういうことを描いてしまっているのだ。

 人と人とがぴったりとくっつきあっているところに、お金は発生しない。つまり、もしも日本が貧乏になってしまったら、「いろんな人とぴったりくっついて、お金の必要を極力おさえる」ということをしなくてはならない。『金八』は、これからの日本のあり方のヒントを示してくれているのだと僕は思う。

2011/03/30 水をこわがるなんて、ばかげてる

 ばかげてんだけど、それをしなければならない状況ってのも残念ながらあるようで。
「君子危うきに近寄らず」と言うように、怪しかったら飲まない。
 僕の友達(とくに女の子)で、東京とか、水道水の汚染されてる地域に住んでる人は、念のため水道水を摂取するのはやめてほしいものです。水道水を飲む、外食をする、どっかで買ってきたものを食べる、すべてNG。となると、なんとも住みづらい世の中だ。
 まあ、「買い食いしない」ってことですね。小学生のような暮らしです。そいで水道水使わずに料理をするということです。
 水道水使わずに料理をするのって、とても大変だ。米を買ってきた水で洗い、買ってきた水で炊く。味噌汁も買ってきた水で作る。野菜も可能ならば買ってきた水で洗う。とても面倒くさく、そしてお金がかかる。
 だけどそういうことをせねばならんのです。水道水が汚染されるということは、そういうことなんだから。
 面倒くさがってはいけないし、金を惜しんでもいけない。長期的な展望に立てば、仮にわずかな可能性だとしても、危険は避けたほうが無難だ。
 でもやっぱ面倒くさがりは多いし、金を使いたくない人も多い。何よりも、「水」を買うことが今、東京でさえ難しい状況だ。行けば必ず売っているというわけではない。何軒か廻って、ようやく一リットルか二リットル買うことができる、という状況だ。売ってても割高だとか。

 いま、僕の住んでいる東京の水がどのくらい危険か、というのは、実はよくわからない。基準値よりも下だとは言うが、その基準というのはWHO基準の三百倍で、二週間前の日本基準の三十倍だという。だからといって危険かどうかはわからない。わからないから用心する。当たり前のことだ。知らない人がいたら、とりあえず用心するのは自然なことだ。触れあいながらだんだん警戒を解いていって、仲良くなるのが筋道だ。根拠もなく受け入れて、そいつが人殺しだったらどうするか。
 山奥に住んでいて、山道で迷ったという人が「泊めてください」と言ってきたら、そりゃむげに断るわけにも行かない。しかしまずは、その人が凶器を持っているかどうかとか、見た目やしゃべり方からして悪い人かどうかとかを見極めねばならないし、泊めるにしても、すぐに警戒を解いてしまってはいけない。
 汚染された水道水は、「泊めてくださいと言ってきた知らない人」なのだ。「わからない」うちは、とりあえず警戒せねばならない。

 知らない人は疑うべきなんだ。疑うことは悪いことではない。だって、「わからない」のだから。しかし「わからない」からといって、ただ拒絶するのは愚かである。正解は「わかる努力をすること」だ。ひとまずは水道水を避けながら「果たしてこの水道水は本当に安全か」ということを考えるべきである。初めて会った人は、まず疑う。それは自然だ。その上で、わかる努力をする。安全だとわかったら、仲良くなる。そういうものだ。
 だから今のうちは、大いに水道水を怖がればいいと思うよ。大気も同じ。怖がって警戒して、様子を探る。それは人間の危機管理として当たり前のことだ。

 放射性物質は目に見えない。放射線も目に見えない。だから忘れがちだし、無視するのもたやすい。しかし、怪しいもんは怪しい。怪しいうちは「大丈夫か?」と疑うことが肝要だ。「後の祭り」って言葉がある。「後悔先に立たず」という言葉もある。原発もねえ。


 一応この文章の反対意見を挙げておくと、「ふざけるな! 福島の人たちはもっとたくさんの放射線を否応なしに浴び、もっとずっと汚染された水や食糧とともに生きているのだぞ! 我々日本人は一丸となって、『日常的に被曝し続ける生活』を受け入れなければならないのだ! 自分たちだけ助かろうなどというのは言語道断だ! 気にせずになんでも飲み、なんでも食え! 福島の人たちに失礼だとは思わないのか!」というもの。副島隆彦氏あたりはこんな感じのことを言っている。
 で、僕はこの意見に反対できないのです。すげー覚悟だなと思って、正直言って羨ましいほどに感心してる。それに、発表されていることを完全に信じるならば、本当に特に影響はなさそうな気もする。ただ素直に僕が思うのは上に書いたようなこと。理屈では「ふざけるな!」って意見もわかる。しかしやはり自分や身近な人たちの健康を第一に考えて、「わかんねーんだからとりあえず怖がっておいたほうが」と思ってしまうのだ。健康なんてそもそも得体の知れないもので、どんな状態が健康かなんてのはわからない。僕も踊らされているだけなのもしれない。しかし、「得体の知れない=わからない」ものに対しては、闇雲に向かっていくよりも、「逃げながら考える」というのが僕の性分のようです。とにかく、安全策。

 そう、一応僕は「健康」というものに対しても常に疑っている(詳しくは省くけど、健康信仰と言えるようなものが世の中にはあると思う)ので、放射線に関しては、僕は「健康」というより、「乳幼児や生まれてくる子供への影響」を考えている。自分の発癌する可能性が上がるとかいうのは、割とどうでもいい。なんにせよ「わからない」としか言えないわけだけど、しかしガキどもに良くない影響が出る可能性が少しでもあるのならば(可能性があるかどうかも、僕はよくわからないのだけれども)、気をつけるべきだろうと思う。

「東京の水は相対的に見ればずっと安全なのだから、水を買ったら被災地に送れ!」と言われてしまったら、「確かにそうだ」と僕は思って、返す言葉もない。こう書いていても、自分の女友達や、旅行中に会った赤ちゃんたちの顔ばかりが頭をよぎる。僕には僕に見える範囲のところまでしか、思いを寄せることができないのだ。考えるということはできる。しかし感情をそちらに向けることはできない。ここが今の僕の限界なんだろう。


 経済について。みんなが外食も買い食いもしないで、米と野菜ばっか買ってたら、日本の経済は力を失うかもしれない。でも、それで何が悪い? というのが、昨日までのところです。


 んまあ、なんでしょうか。やっぱ、「できるだけ気をつける」しかないか。
 結論はそれだけだなあ。僕らが水を買ってきたら誰かが困るというのなら、「水を買わずにできるだけ気をつける」だよね。なるべく水道水ガブガブ飲まないとか。

2011/03/29 仕分けの本質

 文章って正確に伝えようと思うと非常な技術と体力と精神力と膨大な時間がかかるので、僕の力量ではどうも昨日のように乱暴になってしまいがちだ。ちょっと補足しておこう。

 引き算をしよう、という話。
 過剰なんだから。
 そんだけ。
 それで相当のことが解決する。
 日本は食糧を自給できないと言うけど、過剰に食べ、過剰に捨てるということをしなければ、かなりいいところまで行くんじゃないのかな。
 量も種類も、あまりにも過剰。
 ところが、過剰に採れすぎてしまったものに対しては冷たい。
 採れすぎたキャベツは捨てられてしまう。過剰に捨てる。
 ここは引き算ではなくて、足し算をするべきところだ。
「今年はキャベツが採れすぎたから、キャベツばっかたくさん食べよう」という足し算の発想。国、自治体、マスコミが主導して、人々がキャベツばっか食うようにし向ければ、キャベツを捨てる量は減る。茄子が採れなかったなら、茄子を食べない。
 季節のものを食べ、季節じゃないものは食べない。
 輸出入に関しては、必要に応じて売ったり買ったりすればいいさ。
 国内でどうしてもバランスが取れなければ、外国に頼るのは当たり前の発想。
 僕の座右の銘は、「自分でできることは自分でする。できないことは友達に相談する。それでもダメならお金を使う」だからね。国も同じなんじゃないかな。

 引くべきところを引いて、足すべきところを足す。
 そうやってバランスを取る。
「人生はバランスで、何かを勝ち得て何かを失ってく」
 って、ダウンタウンの浜ちゃん(H Jungle with T)が歌ってた。(1996年『FRIENDSHIP』)
 これが基本でしょう。加法と減法。

 たとえば広告は過剰だから引き算する。
 いま、CMがたくさん自粛されて、ポポポポ~ン的なACのCMばかりが流れるが、それで何が困る? 企業が広告費を無駄にするだけのことだ。それで業績は下がり、経済は停滞するかもしれない。この状況が続けば、広告代理店や制作会社、タレントなども割を食う。結果的に放送業界全体も困るかもしれない。それによって、日本経済なるものも低迷し、国は全体的に貧乏になる。で、僕は、「それでいい」と思う。

 広告・放送業界の人が年収300万円になったっていいじゃない? みんな貧乏になっちゃえばいいじゃない? それで何が困る? 困るとしたら「子供を大学に通わせるのが金銭的に苦しくなる家庭が増える」ということくらいなので、そこさえなんとかすれば、あとはいいでしょ。塾に行かせたりしなけりゃ、受験までにかかるお金はほとんどないんだし。
 ちなみに僕は、大学の数を徹底的に減らして、門を狭くして、その代わり学費をものすごーく安くすればいいんじゃないかと思う。ただそうすると、「大学の先生として働いている研究者が職を失い、日本の学問が衰退し、技術力も落ちる」という問題が発生するので、そのへんはどうにかしよう。
「日本の学問や技術力の水準を落とさないようにしながら、同時に引き算(主にお金の)もする」というのが、「仕分け」ということだと思うんで、それはできる・できないじゃなくて、やらなきゃいけないこと。それを理想として努力していくべきだ。

 上記のようなことを実現しようとすると、たぶん相当たくさんの「問題」が出てくるんだろうけど、それはそれこそ、足し算と引き算を繰り返して、もっともバランスの良い落としどころを見つけなくては。まずは「理想」を設定して、それから「現実」を鑑み、「どうすればいいか」を熟考する。
 すぐに実現するわけはないし、100年は不可能なことだってあるのかもしれないが、「今の仕組みを維持する」ことばかりに執心していては、死ぬ。

2011/03/28 じゃきのラディカルコミュニケーション

 経済なんて止まってしまえ。
「経済活動を止めてはいけない」「経済を回せ」
 賢しげな人はだいたいそう言う。そんで、「お金を使おう」と言う。
 もう、いい加減「経済」って呪文に頼るのはやめたほうがいいと僕は強く思う。
 まともにものを考えていない人ほど「経済」とか言う。
 誰かに覚えさせられた呪文を唱える。
「俺たちがお金を使って、お金を回さないと、日本経済がダメになる」と何度も聞いた。
 が、彼らは「日本経済がダメになる」としか言わない。
 どうダメになるのか、なぜダメになるのか、教えてくれない。

 もうねえ、金のことなんかいったん忘れたらいいんじゃないですか。
 家と服と飯と、水があれば生きていけるんだから。
「復興」のために必要なのは金じゃなくって、家と服と飯と、水。そして教育。
 絶対にそれだけ。
 ビルを建てたり、立派な駅舎を造ったり、道路を直したりは、当面しなくてもいい。
 歩きたい人がいれば、自然に道はできる。

 むちゃくちゃな例を出しますが、
 僕は現在家賃を毎月45000円払っています。
 経済が止まったら、僕は収入がなくなって、このお金が払えません。
 しかし、経済は止まっているので、家賃の取り立てにくる人もいません。

 これは非常にわけのわからない比喩なんですけども、
 経済が止まるってのが仮にそういうことだとしたら、問題ないのです。
 というか、「経済を止めるとしたら、そういうふうに止めなければならない」のです。

 今からとてもいいことを言います。

 僕たちが考えるべきなのは、「経済を止めないように維持していく方法」ではなくて、「経済を止める方法」なのです。
 それは「原発を止めないように維持していく方法」よりも、「原発を止める方法」を考えるべきだということに、非常によく似ています。

 ろくにものを考えない人間はどうやら、「すでに動いているものは止めないほうが楽だ」と思って、「だから止めるべきではない」という結論に立つようだ。
 しかし、世の中には止めるべきものというのがある。原発だってそれだ。原発を止めない理由は、「電力が必要だから」でしかなくて、ということは「電力が必要でないのならば原発は止めるにこしたことはない」と、たぶんみんな思っている。
 つまり、ここに「日本が完全に自給できて、コストが一切かからない、絶対に安全なエネルギー」が充分にあれば、原発は必要ない。(皮肉を言えば、原発というのは、「日本がほぼ完全に自給できて、コストも割と少なく、温暖化に寄与しない、絶対に安全なエネルギー」として、もてはやされているんだけどね。嘘だったんだけど。)

 原子力発電も、「経済」も、人間がコントロールできないという点で似ているように思う。どちらも、「一度動き出したらなかなか止められない」「止めるには長い時間と、痛みが伴う」という代物だ。
 だけど、「絶対に止めてはいけない」ってもんでもないと思うんだよね。現に、いま原発がいくらか止まって、何が起こったかっていうと、停電くらいでしょ。停電だって、みんなが働かなければしなくてすむんでしょ。僕なんかは、「このまんま全部止まっちゃえ!」くらいのことは思っちゃう。
 とりあえず止めてみればいいじゃん。経済。んで、少しずつコントロールできるようにしていこうよ。

 んまー誤解してほしくないんですけど僕は別に「お金をなくそう」とか「貨幣経済をなくそう」とか言っているんじゃないんです。お金はあったほうがたぶん、いい。ただコントロールできないような仕組みは、まずい。人間が経済を動かすのであって、人間が経済に動かされてしまってはいけない。
「経済を回さなければ」ってのは、なんか、「動く歩道」の上に乗っかってる感じでしょ。「経済を止めることができる」っていうのは、自分の足で歩いてる感覚なわけ。歩くほうが疲れるけど、健康的だし、なんかあったら立ち止まったり、走って逃げたりもできんのよ。
 お金を、もう一度人間の手に取り戻すべきで、そのために「経済を止める方法を考えよう」って、僕は思うんです。

 繰り返すと、人間が生きていくのに必要なのは、家と服と飯と、水。そして教育。
 これだけを絶対に譲れないものとして、あとは引き算しちゃえばいいんですよ。
 そうするとすっきりしますよ。
「家を作る人」と「服を作る人」と「飯を作る人」と「水を管理する人」と、「教育をする人」がいれば、世の中は廻っていくわけですよ。
 これはたぶん共産主義の発想だったりするんだろうけどね。僕は『イワンのばか』って本の大ファンだから。
 んだけど、僕は何も「弥生時代に戻れ」とか言いたいわけでもないのね。あくまでも「引き算が必要」って言ってるだけなのね。
「いる職業といらない職業」を考えようっていうの。

 たとえばヤンマーって会社があって、ここは農業に使う機械とかを作ってるとこなんだけど、この会社がなくなると「飯を作る」がすっごい大変になるんですわね。
 別にヤンマーがなくなったっていいんだけど、ヤンマーが作ってるような機械がなくなると困るというか、あまりにも大変になるから、そういう製品は作るべきでしょう。まあ、できるだけ資源もエネルギーも使わないように、配慮するべきだろうけど。もちろん、そういう製品を作るための工場も要る。

 一方、僕が今やってるような、「大学や専門学校の広告を作る」なんて仕事は、要らないのさ。これは「教育をする人」じゃないからね。教育をダシにして金儲けしてるだけだからね。リクルートって会社は、一切必要なことをやっていないのだから、明日にでも倒産してしまえばいい。電通も消滅していい。
 マクドナルドも非効率的だよね。外装も内装も、広告も制服も、何もかも、凝りすぎでしょう。もっとシンプルにすればいいよね。飲食業なんだから、ホワイトカラーはいなくてもいいわけですよ。あんなもんとっとと潰してしまえばいい。
 うちの近所のうどん屋は、隣の八百屋で野菜買ってきて調理してるんだけど、ご飯屋さんって、そんな感じでいいんじゃないでしょうかね。

 服があるとタンスが必要だから、タンスを作る人は必要だなあとかね。
 でも、服屋さんとか、服メーカーとか、多すぎるよね。これはどうにかしてもいいね。
 服なんか、だって、昔は自分で作ったり、オーダーしたりしてたわけだからね。

 あ、ダイソーとか潰してもいいね。
 コンビニもちょっとは考え直そうね。
 自動販売機も減らそうね。
 自動車もね。

 まあ、言い出すとキリがない。
 とにかくさあ、抜本的に変えることは、できる。
 止まって困るものというのは、かなり少ない。家は水道やガスが通ってて、雨風しのげればいい。電気は最低、灯りがともればひとまずはいい。服は着られればいい。飯は健康的なものであればいい。なんでもおいしい。水はもう、がんばってきれいにできたらうれしい。教育は「あらゆる人間」が行うべきものだが、もちろん学校のようなものはあったっていい。
 こんだけで、充分すぎるほどに豊かだろう。
 そこさえ止まらなければ、別に経済なんか止まったって問題ない。
 ここを絶対に譲れない軸にして、生活を構築し直すんだよ。

 とか言うと、「国力が落ちる」「世界での発言力が落ちる」「他国に攻め込まれたらどうする」などと言われる。実は、僕はこういった問題に対しての答えは持っていない。
 左翼の人たちはだいたいこのあたりを突っ込まれてしどろもどろになる。「攻め込まれることなんてない」とか「そうしたら大人しく支配されればいい」とか、極端なことを言って「まともな人たち」に馬鹿にされる。そういう構図がなんか、割と一般的になってきてるような気がする。
 でもねえ、きっと、適度に引き算しながら、みんなで一所懸命考えて、動いていれば、いい落としどころが見つかるはずなんだよ。
 バランスバランス。
 適度に引き算して、足し算して、一番いいバランスを探すんだよ。
 もう重すぎて倒れそうじゃん。だから少しくらい、いったん引こうよと言ってんの。

 僕は今はこんくらいの、夢のような理想しか語れないけれども、しかし理想がなければ現実はここから動かない。極端と言われようが、理想は理想として譲りたくはないし、僕は自分が絶対に正しいと強く強く信じている。

 藤波心さんのブログが話題なようですが、こういう記事こそ広まってほしいものです。

今の原子力に頼らない電力の生活に
社会全体のシステムを変えればいいのです。
変えれますよ。
電力を絞れば、変わらざる得なくなる・・・。
初めは不便でも、やがて人間はそれに順応していく。
そんなことで、経済が落ち込んだりしても、
生活水準が下がっても、全然OK!!

原子力の事故で世の中がごちゃごちゃになるより
はるかに、リーズナブルで経済的。(*゚ー゚*)

(3月23日の記事より)

 理屈ってもんを知ってる中学2年生が、素直にものを考えたらこうなるんだよ。たぶん、多くの子供が似たようなことを思うでしょう。考える方法も、表現する手段も知らないというだけ。大人になると、ごちゃごちゃといろんなことを考えてしまうもんだけれども、そんなもんいったん空にしちゃって、何が正しいのかを根本から考えたら、こういうふうにしかならないもんだと僕は思うんです。

あと、自分の意見だと思い込んでいるだけで、
実は、原子力は世の中に必要なんだという
だれかのPR 刷り込みだということを
気がついてないんじゃない?

(同上)

「自分で考える」が大切なんだってことです。それが一番です。
 刷り込みをそぎ落として、素直になれば、
 みんな花鳥風月と子供たちを一番に愛しているに決まっている。
 他に何も要らん。それが人間ぞ。

今、日本は、色んな面で
考え直さないといけない時に来てるんじゃないですか?

(同上)

 おそらく金八の最終回は、浅羽通明先生の『昭和三十年代主義』で採り上げられている作品たちの延長線上に位置づけられる、非常に重要な物語を完成させてしまったのではなかろうか。
 早く見たいなー。

2011/03/27 スタートライン

 3年B組金八先生がついに終わった。見られなかったけど。いつか見る。
 僕も金八に出て
 十年後とかに集まって「変わってないなー」とか言われたかったぜ。
(でもいいんだ、僕の代わりに信太宏文がいるのだから。)

 僕は第四~第六シリーズまでが非常に好きで、そのせいで小嶺麗奈は広島美香だし風間俊介は兼末健次郎だし上戸彩は鶴本直である。役名のほうが先に出てくる。
 演劇部だった高校時代、役者は役名で呼ばれてたりしたな。「シュウヤまだ来てないのー?」とか。その芝居をやっている間だけではあったけど、考えてみると妙なもんだなあ。たぶんどこの学校も同じだろう。特殊な文化。嫌いじゃない。

 第四シリーズが小五、
 第五シリーズが中三、
 第六シリーズが高二だった。
 中三の頃に見ていた第五シリーズには特に思い入れが深い。自分と同い年(という設定)なのだから、感情移入もしやすかったのだろう。
 また、第六に出ていた信太という少年に僕は似ていると言われていたので、そういう面で第六の印象もかなり強い。

 僕は金八が好きだけれども、金八を見て泣いていたというよりも、笑っていた記憶のほうが強い。森下加奈ちゃん演じる太田アスミ(第五)は特に凄かった。教壇で兼末健次郎という生徒について涙を流して熱く語る金八に対して「アーレレー、泣いちゃってぇ。そんなに健次郎がかわいい?」と徹底的に冷めたセリフをかました彼女に僕は惚れた。アーレレー、ってなんだ。太田アスミは毎回絶妙にズレた演技を披露してくれていたので、いつも注目していた。
 性同一性障害を持った、上戸彩演じる鶴本直(第六)が、「レディ」という言葉に反応して、「わたしはレディなんかじゃない! わたしはレディなんかじゃない!」って叫んでたのも、シリアスな場面なのに、いや、シリアスな場面だからこそ、とても笑えた。レディて。
 第四シリーズだと金八が「裏拳」について熱く語っていたのが忘れられない。「いいですか、裏拳を使うということはですよ!」とか。裏拳て。「暴力をふるうということは」じゃダメだったのか。あんまりよく覚えてないから調べてみた。裏拳。裏拳という言葉を公共の電波で聞いたのはこれが最初で最後だったかもしれない。

 そういう、ちょっと感性が古くさかったり、間抜けなところがリアリティあって、面白いのですよね。金八。一人一人が頑張ってキャラ作ってんのもよかった。すべての言葉の最後に「以上!」ってつける奴とか。「○○だよ○○、○○感じちゃうよ、なぁっ、なぁっ、なぁっ!」って毎週のように言う奴とか(ヒルマン)。懐かしい。

 僕にとって『3年B組金八先生』の魅力というのは、ストーリーとかじゃないんですよね。あるいは、たぶん出演者たちのキャラクターそのものでもない。ドラマの作り方なんですわね。現場の空気なんですわね。行ったことないけどね。森下加奈ちゃんの結婚式に第五の3Bが集まって、みんなで記念写真取るとかね、そういうの。
 半年かけて3Bが3Bになっていくっていうのがね、やっぱり魅力的ですよね。もうそれはしょうがないですよね。見てないけどなんか、今回の退職スペシャルは「3B」っていう看板の下に集まってくる人たちの絆を描いた話だったみたいなんだけど、まあホント、それが金八の本質だと思うのですよ。金八の主役は金八じゃなくて金八を含んだ3Bみんななんすよね。だからいっつも、「元3B」がしゃしゃり出てくるわけでね。第四以降は特に。「3B」っていうコミュニティなんすよ。世間の繋がりなんすよ。んでそれは、3Bじゃなくっても日本中のどこにでもあるようなもんなんですね。

 日本人ってのは、やっぱりそういうね、学校とかクラスとか地域とか、そういう「つながり」が好きなわけじゃんすか。だから金八が退職して、過去の3Bが集まるっていうと、このご時世に視聴率20%も取れてしまうわけです。それは例えば、早稲田大学の卒業生が、十個も二十個も五十個も年下の「後輩」に対してもやたら優しいっていう、そういうのと同じです。仮想的な世間なんです、3Bって。んで、仮想的な世間だったはずの3Bが、「結婚式に集まる」とか「同窓会を開く」みたいな形で、現実的な世間になってしまっているっていうのが、『金八』の魅力の一つなんでしょうよ。世間が世間になっていく過程を描いているという意味で。そのくらい、「みんなでドラマを作る」っていう作業は、深い絆を生み出してしまうわけです。それを半年もかけてみっちりとやれば、しかもそれが全国放送されて、ソフトでも残るとなれば、そりゃあ強固な絆になりますね。
 金八の各シリーズの最終回では、最後に金八が全員の名前を読み上げる。このとき、金八はだいたい泣いてるし、生徒たちもけっこう泣いてるのがいる。これは、なんで泣くのかって、演技じゃないんですよね。泣こうと思わなくても泣いちゃうくらい、半年間が濃密だったってことで。

 たとえば女子バレーボール部でもなんでもいいんだけど、3年生が引退ってことになるとやっぱみんな泣くわけです、最後の試合で。んで、それは当事者か、少なくともそのごくごく近くにいる人にしかわかんない感情なんだけど、金八みたいな形でテレビに映しちゃうと、体験できちゃうんですよ、視聴者が。女子バレーボール部の活動みたいなのを。全国どこでも。僕みたいなのでも。
 半年間かけて、金八のキャストとスタッフは、「部活」やって、年度末には引退する。それを僕らはテレビで見る。甲子園見てる感覚なのかもしんないですね。甲子園って、よく知らないけど、別に試合だけ見てたって感動できないわけですよ。する人はするんだろうけど、基本的にはただの野球で、甲子園だから特別に試合内容が感動的ってわけでは、基本的には、ないはず(甲子園キチガイには異論があるかもしれませんが)。やっぱドキュメントとか、その学校の事情とか、そういうのを知っていてこそ、もっとずっと面白くなるわけで。金八は試合とドキュメントを一緒にしてるようなもんで、それで、面白いんです。まあ僕にとっては。
 僕は野球よりも演劇のほうが好きだし、有益だと思ってるから、甲子園なんかよりもずっと、金八が好きだよ。勝ち負けとかないしね。優勝もない。ただ言葉があって、振る舞いがあって、考えるべき材料がドラマの中にある。

 だから、金八ってのはできればリアルタイムで見るべきものだったんだろうな。第七、第八をまともに見ていないってのは、まずったな。見ておけばよかった。ワンピースも毎週ジャンプで読んでたほうが単行本で一気に読むより100倍くらい面白いんだと思うけど、それと似てるかも。
 逆に言うと、リアルタイムで一所懸命見ていた第四、第五、第六シリーズってのは、僕にとって財産だ。「3B」が「3B」になっていく過程を生で見られたのであるから。たくさんの知らない人どうしが一緒に演劇をやって、終わる頃にはかけがえのない仲間になってるっていう、そういう過程を見ていたわけでありますからね。
 その証拠に、金八退職するって言ったらかなり多くの元出演者たちが集まったってわけで。こういうドラマはもう、しばらく出て来ないんでないかねえ。

  内田樹  山形浩生  副島隆彦  武田邦彦  苫米地英人  ←継続的にネットにものを書いている人の中で、今回の地震に関してある程度参考になりそうな方々。この際先入観は捨てましょう。
 山形浩生さんもかっこいい。さすがです。
「あるいはITがかつて経済学の偉い人たちをおかしくしたように、ツイッターとかにも人をおかしくする何かがあるのかな。」id


 内田樹さんのブログも見てみた。
どうして日本は「こんな国」になってしまったのか。
それが司馬遼太郎につきまとった生涯の問いだった。
明治40年代まではそうではなかった。日本人はもっと合理的で、実証的で、クールだった。あるときから、非合理的で、原理主義的で、ファナティックになった。
たぶん、その両方の資質が日本人の国民性格には含まれていて、歴史的状況の変化に応じて、知性的にふるまう人と、狂躁的に浮き足立つ人の多寡の比率が反転するのだろう。
おおづかみに言うと、「貧しい環境」において、日本人は知性的で、合理的になる。「豊かな環境」において、感情的で、幼児的になる。

 この両名の直近の文章は読むに値すると思うので、余裕のある人はどうぞ。

2011/03/26.5 気魄

 今最もかっこいい著名人は江頭さんとGacktさんかと思っていたが、副島隆彦氏はなんだかもう次元が違う。彼がこれまでにどんな本を書き、どんな主張を展開してきたのかを今は問うまい。彼は、金がなくても、能力がなくても、カリスマがなくても、「覚悟」さえあればできるような方法を提案し、実践しようとしている。ほとんど気狂いのようであり、破滅的なようでもあるが、しかしこれこそが本当の「覚悟」ってもんなのかもしれない。詳しくは「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」の309あたりを読むといい。気迫がものすごい。彼は十日くらい前には確か、「老人男性を集めて決死隊を組織し、福島原発の作業を手伝いに行く」と言っていた。たぶん本気だろう。

 僕はこのような彼の魂をとても尊敬するし、一連の文章を読んでかなり想いが変わった。しかし、まだ僕は「覚悟」によって「運命」を受け入れることができないでいる。「いま僕が死んだら国家的損失だ」というのはけっこう本気で思っているのだが、別に「ただちに健康に影響を及ぼす」わけではないのだから、そんなことは関係なかったりする。死ぬまでの間に、国家的利益を生み出せるよう努力すればいい。それだけだ。と、思いはするのだが。

 まだまだ未熟だな。副島氏と同じ結論になる必要はないが、こんなにも宙ぶらりんであるというのは。とにかく僕はもっともっと、自らの偉大を育てなければいけないようだ。精進あるのみ。歩みを止めぬこと。それしかできぬ。

2011/03/26 日本の行く道

 以下は『読書のすすめ』という、僕が以前勤めていた某S学園が発行した冊子に掲載されたもの。「何か一冊、本を紹介してください」と言われたので書いた。2009年6月の執筆だが、今こそタイムリーと思うので載せてみる。中学生・高校生に向けて書いたというのもあって、わかりやすさを重視し、若干乱暴だったり、説明の少ない部分もあるが、その辺を考慮してやさしく読んでいただけると幸いです。字数制限いっぱいに精一杯詰め込みました。
 ちなみに、「生活を一九六〇年代前半に戻せばいい」は、もともとは僕ではなくて橋本治氏の提案。ムチャクチャなことのようだけど、「そのくらいの覚悟がなくっちゃダメでしょ?」ってことだと思う。



   超高層ビルをぶっ壊して地球温暖化を止める! という覚悟

 高校生くらいになって知恵がついてくると、ひょっとしたら「温暖化なんてウソっぱちさ」なんてカッコつけてる人もいるかもしれない。確かにそういう説もあって、しかもそれなりに信憑性があるし、科学的な根拠がちゃんとあるものも少なくない。地球温暖化についてはいろんな説があるから、どの説を信じたらよいか混乱してる人もいるだろう。そういう人にはビョルン・ロンボルグの『地球と一緒に頭も冷やせ!(温暖化問題を問い直す)』という非常に「冷静」な本をおすすめしたいんだけど、今日はこの本の話じゃない。
 たとえ温暖化がウソであっても、今みたいにたとえばバンバン車を走らせて、空気を汚しながら無駄にエネルギーを浪費していくような世の中が、正しいとは僕は思えない。「でもさ、省エネの電気自動車に乗り換えたりすればいいんでしょ?」なんて言う人もいるけど、「省エネの電気自動車を作るためのエネルギーや資源」についてはどう思ってんだろう? そのエネルギーは「とっても危険な原子力発電所」(「原発がどんなものか知ってほしい」というHPを読んでね)でも作られていて、資源となる金属やなんかは途上国の人々が過酷な労働をして掘り出しているんだっていうようなことを、考えないんだろうか? 「車が走るごとに空気中にまき散らされる有害なタイヤのちり」なんかについては、どう思ってるんだろう?(このあたりについては、小沢健二さんの『うさぎ!』というお話にとても詳しい。)
「エネルギーや資源の無駄遣い」っていうのは、どっちにしろ「よくない」。それは、感覚的にわかるはずだ。一日中エアコンをつけっぱなしにしているような人が一切「罪悪感」を感じないのだとしたら、人間として大切な「何か」を忘れちゃってるとしか思えないね。
 じゃあ、どうしたらいいのか?
 それは非常に簡単だ。「生活を産業革命より昔に戻せばいい」。産業革命というのは、簡単にいえば「機械を使ってものを作る工場ができた」っていうことね。生活をそれより前の状態に戻せば、排気ガスも出ないし、エネルギーも使わない。当たり前の話。産業革命のころは日本は江戸時代で、だから具体的には「生活を江戸時代に戻せばいい」になる。
「そんなこと無理だよ!」と誰もが思うだろう。そりゃ、そうだ。今から江戸時代に戻るなんて不可能だ。だったら、これならどうだろう。「生活を一九六〇年代前半に戻せばいい」。これなら、そんなに不可能ではないんじゃない? ご両親やじーちゃんばーちゃんに聞いてごらん、「不便だけど、いい時代だった」とか言うかもしれないよ。
 そのころはすでにテレビも冷蔵庫も洗濯機もあったし、電気もガスも来てたから、生活に不自由することはないと思う。クーラーや自家用車はまだ普及してないけど、扇風機と自転車で大丈夫。(人類にこの程度のことが我慢できなかったら、どう考えたって世界は滅ぶね。)
 じゃあさあ、具体的にはどうやって、その時代に戻すの?
 この疑問に対して、すさまじい答えを出した人がいる。それが『日本の行く道』という本の著者、橋本治だ。彼は言う。「超高層ビルを全部ぶっ壊せばいい」と。なぜそうしたほうがいいのか、そうしたらどうなるのか、詳しいことは本書に譲るが、「超高層ビルができたあと、日本はどうなったか」ということだけを書こう。
 一九六三年に「三一メートル以上の建物は建てちゃダメ!」という法律がなくなって、それから日本は「ビルだらけの中央集権国家」になった。際限もなく超高層ビルを建て続け、東京にばかり人が集まるようになった。「高さ」ができたぶん、空間が増え、人口も増えた。日本人の欲望はすべて東京に集中し、また東京が欲望の発信地ともなった。すでに冷蔵庫も洗濯機もあったのに、「もっと便利になりたい」という欲望が「もう便利にならなくてもいい」という状況を突き破って、どんどんどんどん大きくなった。アイポッドもニンテンドーDSも、本当は要らないのに、人々は欲しがった。そして誰もが自分の世界に閉じこもり、「ばらばら」になっていった。ばらばらになって、「何か」を忘れそうになっている。
「超高層ビルをなくす」は、今さら不可能なのかもしれない。しかしそのくらいの「覚悟」がなければ、現代のこの行き詰まった状況は、決して打破されない。「可能かどうか」よりも「意気込み」である。きみたち若い人間の、純粋で、よどみのない(はずの)心が、石像のように堅くなった大人たちの背中を押して、彼らを動かして、そして、変えていくしかない。「大人がなんとかするだろう」は、甘い。なぜって、今の大人たちは子供のころからずーっとそんな、のんきなことばっか考えて生きてきたんだからね。その結果が「これ」ですよ。バカのまま大人になったらそりゃ、バカのまんまさ。ちゃんと考えなきゃ、いかんぜ?
(橋本治『日本の行く道』集英社新書、税込七七七円)

2011/03/25(金) 16~24

 これほど長く東京を離れたのは何年ぶりだろうか。
 たくさんの人に会った。メモを記しておく。
「再び会う可能性の高い相手」をカウント。同じ人は数えない。

 16 ・
 17 ・・・ ・・ ・
 18 ・・・・・ ・ ・
 19 ・・・ ・・
 20 ・ ・・
 21 ・
 22 ・・ ・・
 23 ・・
 24 無銘喫茶のお客さんたち

 無銘を除いて29人か! 自分の両親とニートさんのご家族を除いても23人。友達いっぱい嬉しいな。おしまい。

2011/03/24(木) 木曜喫茶

 昼過ぎ、普通列車で東京へ。
 浜松~富士間が「通常の七割程度の運転」、
 富士~熱海間が「一時間に2~3本程度の運転」
 と聞いていたので、途中で新幹線に乗らなければ八時の開店に間に合わないかなと思ったが、どうにか予定の三十分遅れで着いた。19:20頃に新宿着の予定が、19:51着になったのみ。良かった、間に合った。無銘喫茶、木曜開店。
 先週休んでしまったぶんなのか、たくさんのお客さんが来てくださって、とても嬉しかった。

 昔からそうだが、この店には言論の自由がある。誰が何を言っても構わない。その場にいる人を不快にさえさせなければ。
 不謹慎とか自粛とかは、公的な場(インターネットを含む)だけでいい。無銘みたいな小さな密室では、むしろ禁忌を口にすべきだとさえ思う。そうやって人はガス抜きをするのだ。そうでないと、不安ばかりが積もって仕方なくなる。
 朝方まで若者たちと喋っていて、眠くなったので寝て、起きて出社。

2011/03/23(水) 休み

 何かをしていたような、何もしていないような。
 誰とも会わなかったことは確かなように思う。

 いや違う。お父さんやお母さんと会った。
 わからなくなるほど大切な人たちである。

2011/03/22(火) 教諭

 夕方、伏見の大甚という、御園座の近くにあるお店で高校時代の恩師と会食をした。ぺ~こ氏と三人で。僕らはともに1年3組(103)の同級生で、この教諭に「現代社会(イ)」を教えていただいていたのである。僕は三年の世界史も習っていた。ぺ~こも世界史を取ればよかったのにな! ところでぺ~こはどうして四則演算もろくにできない(誤解を招きそうであるが苦手なのは本当)のに天下の名大に入れたのであろうか。どうでもいいけど。

 教諭とまともに話したのは何年ぶりだろうか。ひょっとしたら卒業から一度も会ってないのかもしれない。だとすると八年だ。つーか正直に告白すると在学中もあんまり深く長く話したことはないような気がする。ずっと図書室に入り浸っていたから話すには話したが、それほど重要な話題はなかったかもしれない。それは僕があまりにも未熟だったからだ。一昨年だったか、「りんきゅう」という英語の先生に久しぶりに会った時に、「ああ、やっとまともに話すことができるようになった」と思って、自らの成長を心から喜んだものだが、この教諭に対しても同じだ。
 話題は名古屋市長選挙から、原発、リビアの話題と多岐にわたった。もちろん高校に関する話が最も多かったのは言うまでもないが、思い出話や「みんなのその後」にばかり終始するのでなくてよかった。

 そもそも僕はこの教諭に「一目惚れ」したのであった。一年生の時に、教室に入ってきた、立派なひげを蓄えた定年間近の爺さんを見て僕は「カッコイイ!」と思って、たぶんけっこう真面目に授業を聞いていた。三年の世界史は、ノートが五冊埋まるくらい夢中になって受けた。
 久しぶりに教諭の話を聞いて、本当に嬉しかったのは、「一目惚れ」と「三年間の好意」が、ちゃんと現在に繋がっていたことだった。というのは、彼が社会に対して抱いている想いの大部分が、僕の考えていることと重なっていたからだ。つまり、僕が彼のことを好きだったのは、思想的必然があったわけである。おそらく。もちろん教諭の影響を受けてというのもあろうが、八年も会わないでいて、また四十以上の年の差があって、思想の根底にあるものがおそらく共有できてしまえるということが、たまらなく嬉しかった。

 その根底というのが何かといえば、一つは「経済」に対しての視点だ。これに関しては特に書かないでおくけれども、一言で言えば「何が経済だ」の一言に尽きる。地震が起きてからというもの、「お金を落とすべき」「経済を回せ」といった言葉が方々で囁かれているが、僕は聞くたび「何が経済だ」と思っている。経済を回すことに実効性がないと言うのではない。実効性のあることとして、まず上がってくる言葉が「経済を回せ」でしかないということに絶望しているのである。

 教諭と別れ、二時間ほどぺ~こ氏とカラオケを。shameの『21st century boy』やPIERROTの『DAYBREAK』を歌い、子供たちと未来に祈った。
 それから103のF氏に車で拾ってもらい、彼の家へ。彼女がいた。ちょっぴり仲良くなった。
 寝坊して、家に帰る。103は良いのう。

2011/03/21(月) すんマッチ

 日本橋から難波まで歩き、難波から梅田まで歩いた。
 それから普通列車で名古屋に向かい、名鉄に乗りかえて刈谷市の某所へ。
 麒麟(すん)たん宅。
 買い出しに行って、ワオンカードというのを初めて見た。これは凄い。便利で効率的。未来はこういう感じになっていくのだろうか。

 またも、麒麟たんと僕の「アプローチは違うけど結論としてはまったく同じこと言う現象」が起きた。僕は先だってとある女の子にダメ出しをしまくっていたのであるが、その女の子を麒麟たんに会わせたのである。すると彼はやっぱり僕と同じことをその子に言うのである。ってことは僕らの言うことはたぶん正しいのである。うむ。
 女子が帰宅すると二人きりのターン、と思ったら、一部地域&その彼氏と電話終了するや否や、疲れ切った僕は寝てしまったとさ。麒麟たんはゲームしてた。
 朝起きると優しく男らしい僕らの兄さん麒麟たんが朝食を作ってくれたよ。ピザトーストとウィンナーエッグ。そしてスープ。美味しかったー。

2011/03/20(日) 

 難波→心斎橋→日本橋→新今宮(西成)。
 ドヤ街のアーケードにあるココルーム行った。楽しい。
 文化人類学をかじっていたというおじさんと山口昌男の話で盛り上がる。

 やはり大阪には、関東から脱出してきた人間がたくさん来ているようだ。
 ココルームのお姉さん曰く、
「原発が怖いっていうより、東京の雰囲気に耐えられなくなったって人が多い」
 だそうで。僕の友達にも同じこと言ってるのがいた。


 ちょっと雨が降りそうなので帰ります><


 帰ってきました。
 西成ではたこ焼きを食べ、串を食べ、散策して、飛田新地の売春宿を横目に見て(入り口におねーちゃんが座ってるとこ、初めて見たぜ!)、ドヤに泊まろうかと思ったら零時過ぎててどこも閉まっていたから日本橋まで歩いてネットカフェ泊。
 そういえば日本橋ではメイド喫茶「カフェ・フローリアン」に行った。コスプレデーだったらしく、メイド服着てる子が一人しかいなくて、普通のロリ系のファッションをしていたり、高校の制服を着ていたりした。常連にはたまらないのだろうが一見には辛い。内装はとても良い。価格も良心的だが、メイドの雰囲気はあまり良くない。やはり秋葉原のキュアメイドカフェのように慎ましやかなたたずまいでいてくれないと萎えるのだ。キュアのメイドさんは必要なこと以外何も喋らないし、無駄な動きもしない。ただただ無心に仕えているのみである。あれぞメイドである。世のメイドカフェの9割は、オタクに媚びているからダメだ。あくまでも給仕するのがメイドぞ。

2011/03/19(土) 結婚ラッシュ

 ネットカフェで、寝たり、漫画読んだり、ニュースを見たり、日記を書いたりしていたら夕方。なんと、中津にある友人宅に招かれる。夫妻と姉妹と赤さんが出迎えてくれた。なんというか幸せなことだ。ウルフルズ、こいつら本物だ。

 道に迷いつつ藤井寺市というところまで30~40キロくらい走って、高校の部活で一緒だった友人宅へお邪魔することに。彼女がいて、「俺、結婚するんだ」とのこと。彼の命も長くはあるまい。しみじみと酒を飲んでいたら高校の部活の後輩から電話があって、「僕、結婚するんですよ」とのこと。なにこのタイミング。結婚ラッシュ。
 もうすでに二人結婚していて、一人は秒読みだというのに。演劇部の結婚率高すぎ。

 彼女を駅まで送り、酒を飲みながらくだらない話をする。こいつと話すとだいたい常にくだらない話になるが、楽しい。高校二年生くらいの頃とあんまり変わらん。
「ま、がんばってくれい。」


 やっぱ、何日も経つと記憶が飛ぶなあ。面白いこと、たくさん思いついていたんだけど。どうもよくない。即座に記録せんとね。これは何年やってても癖になんないな。

2011/03/18(金) 大都会にして新首都おかやま

 終電で岡山県のほぼ西端の駅に着。自転車で迎えに来てくれたニート氏とともに、寒空の下走る。寒く、あまりにも寒く、東北はどれだけ寒いのだろうと思った。意外と長く走った気がする。丘の上にある一軒家が彼の実家。豪邸。
 リビングで酒を飲み、ひたすら震災について語り、「東京は廃都になるのだから、新しい首都は岡山に!」という話にもなった。さすが、蚊帳の外だといくらでもくだらない話が出てくるもんだ。そのくらい西日本は平和だ。東京で感じていた終末感が嘘のようである。
 東京廃都説の論拠の一つとして、山陽新聞という地方紙に載っていた九州大学某教授の「福島原発の同時多発炉心溶融によって東日本オワタ」的な記事を見せてもらう。全国紙では絶対に載らない論調であろう。ちなみに僕はその一日前に載っていた阪大の先生の「何がなんだかよくわからない。解決策があるなら教えてほしい」という旨の短い文章が最も愛らしくて好きであった。素晴らしい、山陽新聞。
 おかやま新都心構想の詳細は書くと長くなるしいろいろ問題があるので省く。ディズニーランドの代わりにももたろうランドを建てよう。

 四時近くまで起きていて、ふかふかおふとんで休ませてもらって、朝、ごはんまでいただいて、恐縮。昼過ぎにニート氏のお父さんが帰ってくると、ひたすら自転車と原発の話ばかりしていた。このお父上は僕なんかよりもずっとたくさん自転車に乗っているので、尊敬する。こんな六十代になりたいものです。

 夕方まで自転車と地震・津波・原発についてばかり話をしていた。
 車に乗せていただいて、電車に乗って大阪へ。16日に行ったお店へ再び。あの店の常連さんに偶然再会し、「やっぱり僕は引きが強いな」とほくそ笑んだ。
「久しぶり。だいたいこの辺で飲んでるから、いつでも連絡してや」とのこと。
 淀川の河川敷が工事中で、降りられないようになっていて困った。

 ちゃんと一週間分更新するから見捨てないでください。
 ↓の件ですがちゃんと間に合いました。今東京です。

 ううむ、更新している暇がない
 相変わらず在来線が動いていないようなので
 新幹線ワープせなならんかも。間に合うかな無銘。
 時間なさすぎワロタ。
 岡山新都心編以降はまた数日あとになるやもしれません。
 すみません。

2011/03/17(木) 余分なことを書きすぎた

 16日は十三のネットカフェに泊まった。8時間1200円、12時間1500円でサービス充実。唯一の難点はシャワー室がないことくらいだ。よせばいいのにカイジの『和也編』を読み返していたら睡眠時間がずいぶん削られた。ぜんぜん話進んでねーな! まだチャンとかマリオとか言ってんのかよ! 前の日記はそのときに書いたものです。
 ネットカフェに入ると、まずやることはパソコンのカスタマイズ。Opera(ブラウザ)を導入したのち、Jane(2chブラウザ、これによって震災・原発等の情報を得る)、FFFTP(サイト更新のため必要)、Skypeをダウンロード。OperaやJaneの設定を微妙に変えて、IMEの変換方式をATOK式に変更。iPod的なものをパソコンにつなぎ、好きな音楽を流せる体制も整える。最低でもこのくらいまでしなければ「おうち感」は出ないのである。
「おうち感」は「コックピット感」と言ってもらっても構わない。現代人はパソコンの中身を自宅仕様に近づけることによって、ネットカフェの机の上をおうちのコタツ=コックピットと同じ状態にすることができるのである! それによって快適な滞在(フライト)が実現するのだ……と、まあそんなことはどうでもいいです。

 17日。
 朝の六時半すぎくらいにネットカフェを出て、ゆっくりと走っても王子公園には八時ごろに着いた。十三と神戸は三十キロほどしか離れていない、目と鼻の先である。王子公園は神戸の繁華街、三ノ宮から東に二駅のところで、駅を出るとすぐに王子動物園がある。
 早く着きすぎたので、二時間ちょっと待つことになった。近くのベンチで昨日もらった梅のおにぎりを食べた。登校中の高校生がたくさん通りかかる。日は照ったり隠れたりしていて、どちらにしてもとにかく寒かった。神戸でこの寒さなら……と考えてゾクッとした。油断してマフラーを持ってこなかったので、そこらあたりで買おうと思ってついでに散歩。知らない土地は歩いているだけで楽しいものだ。郵便局にも行った。携帯電話で逐次、東日本の情報を集めながら、みんなの来るのを待った。東京にいたときと同じ質の情報と接しているのに、「体感情報」が全然違う。体感情報というのは今作った言葉だが、「気温」と「体感温度」の違いだと思ってください。「関西平和すぎワロタ」っていうスレッドが2chのニュース速報板にずーっと立ち続けているけど、まったくその通り。当たり前のようだが、震災も放射線もなんにも関係がない。少なくとも「実感」というものは存在しない。当たり前だが。阪神・淡路大震災のとき、東京はこんな雰囲気だったのだろうか。

 今度の地震は、「広範囲にわたる交通の麻痺と乱れ」「広範囲にわたる停電」「広範囲にわたる放射線量の増加」という三つが、東京を中心とした首都圏に不安をもたらしたのだろう。僕の勝手な考えでは、前の二つは首都圏にとって、いくらかの場合を除いてはさほど問題ではない。「それによる被災地への影響」のほうが問題である。首都圏の人は慌てる必要はない。一般の人は、しばらく何もせずじっと家にいればいいだけの話である。何か問題が起こりそうな人は、冷静に可能な限りの対策をすればいい。それによって多少の損失も出るだろうが、それも含めて震災だ。交通や電力供給などに関する国や企業の対応がおかしいと思ったら異議を唱えるべきである。そして、「働かなければ」と思う人は、働けるようなら働いたほうがいい。それだけの話だ。それだけの話なのに、「モノの買い占め」というのが、どういう理屈で出てくるんだか一切わからない。被災地のことを考えればモノは買い占めないほうがいいのであるし、東京のことを考えてもモノは買い占めないほうがいいのである。自分のことだけを考えたときにだけ、「モノは買い占めても別に問題はない」ということになるのである。決して、誰にとっても、「モノは買い占めたほうがいい」にはならないのである。「自分のためには、買い占めても別に問題はない」というだけである。それとも、モノが買い占められてスーパーが空っぽになれば日本経済は活発化するのだろうか? 僕は日本経済のことはよくわからないが、「経済が弱くなっても痛くも痒くもないような丈夫な国にしようぜ」という意志をみんなが持ってがんばればいいんじゃないかと強く思うよ。
 首都圏の人にとって問題があるとすれば三番目だ。福島原発からの放射性物質漏れによる被爆の恐れである。これは「恐れ」というだけあって、もうほとんど運である。正直言ってこれに関してはもっと慌ててもいいと思う。東日本にいないことは最大の節電であるし、モノを買い占める必要もなくなるのだから、「とりあえず大阪にでも行くか」というのは不自然ではない。

 そういうわけで神戸には僕の愛する人たちが集まってきているのであった。それでみんなで動物園に行こうというのんびりした話になったのだった。
 ああ。赤ちゃんはとてもかわいい。動物よりも赤ちゃんをずっと見ていた。赤ちゃんのいる一家がひとまず東京から神戸に退避してくるっていうのは、正しい選択だと思う。ほんのわずかでも赤ちゃんが被爆する可能性があるというのなら、全力で守るべきだ。親ならそう思って当たり前だ。と、思うんだけど。

 男ってのはどうしても思考が一直線なんだよね。
 女の人は総合的にものごとを捉えてバーンと結論を出すんだよね。
 論理なんかどうでもいいんだよね。
 で、女の人はけっこう全体的に正しかったりするんだよね。個別には間違っていてもね。
 男は、個別には論理的に正しくても、全体的には間違ってたりするんだよね。

 男って、ひとつの論理が通ったら、それだけで「正しい」と思っちゃうんだよね。それが最大の欠点なんだよね、男の。
 視点を変えれば断然むちゃくちゃなこと言っちゃってるってことに気づかない。
 たとえば、僕が「自家用車なんか全部なくしちゃえばいい」って言うとするね。それにある男がこう反論したとする。「都会はいいけど、田舎だったらクルマがないと生きていけないよ。」
 この男は続けて言う。「なぜなら、田舎では自家用車があると非常に便利であり、なくなったら今と同じ生活ができなくなる。」そりゃそうだ。今、とつぜん田舎から自家用車がなくなったら、「同じ生活」ができなくなるのは当たり前だ。でも、「違う生活」ならできるわけですよ。でも男は、「同じ生活ができなくなる」のところで思考を止めちゃうんですね。「だって同じ生活ができなくなるじゃん」ってことで、終わりにしちゃうんですよね。「違う生活もある」っていう、そういう可能性のために、一瞬「譲歩」してみるっていうことが男は苦手なんですよ。
 女も、「都会はいいけど田舎だと」ってことをたぶん言う。でもそれは、「同じ生活ができなくなるじゃないか」っていう、「なぜなら~ではないか」っていう、「理屈」じゃなくって、もっと現実的なところでものを考えているんだと思う。「ジャスコにいけなくなるなあ」とか。「どうやって映画見に行くのよ」とか。同じようだけど微妙に違う。と、思う。

 震災後、ネット上では男も女もいろいろ言っているけれども、やっぱり腹が立つのは男の言ってることなんですよ。「ひとつのもっともらしい論理」に拘泥して、視点を変えてみるということをしない。「なぜなら~ではないか」で止まってしまっている。本来、「なぜなら~ではないか」ということは、あまり口にすべきではない。口にするには相当の覚悟が必要だ。だから、「○○だとしたら××ということになるが、△△だとしたら、□□になる。自分は□□のほうが望ましいと~~という理由で思うので、△△というふうに考える」といったふうに、非常に冗長で饒舌にならざるを得ない。インターネットのような文字空間において何か社会的なことを言うには、そういうふうにせねばならんと僕は思うわけで、そんでTwitterってのは140文字しかないからそういうことが向きませんよねー。だから僕は、今Twitterで震災について何か言っている人たちはだいたい愚かだと勝手に思っている。ただ、Twitterは影響力が大きいもんだから、本当に大切なことはTwitterにも載せておかないと広まっていかないというのがあって、そういうところも含めてTwitterは大っ嫌い!
「じゃあTwitterよりいいサービスを作ってみせろよ」とか言う人はもっと嫌いだ!
 なんだよサービスって。
「サービスから離れる」っていう可能性を思って、一瞬譲歩しろよ。

 長々と意味のわからないことを書いてしまったが、要するに、「軽はずみな言動は慎みましょう」です。僕も気をつけなければいけないんだけどね。

 動物園で赤ちゃんと別れて、僕らは観覧車に乗り、「な也」って店でうどんを食い、三ノ宮に出て、ぶらぶらした後、神戸震災復興記念公園で大いに遊んだ。文字通り、飛んだり、跳ねたり。もういい年なんだけど、こういうふうに遊べなくなったらいよいよおしまいだと思うから、定期的に飛んだり跳ねたりしたいもんだ。馬とびとかね。あまりにも楽しくてね。泣きたくなるくらい。
 息抜きってのは、息が詰まってるときにするもんなんだよなって、当たり前のことを思ったりした。僕は大人だから別にどうとでもなるけれども、子供ってのは、やっぱ、明るく笑って、反対に苦しくなるくらい息を抜きまくっていないといかんと思った。

 バスを見送って、中学の同級生と三ノ宮でお酒を飲んだ。共通の友達が結婚するという話を聞いた。大晦日から正月にかけて、ずっと一緒に遊んでたのに、そんな雰囲気は微塵もなかったから、冗談だろうと思ったら、本当だった。おめでとうございます。もうすべてを忘れて、そのことしか考えられなくなった。あいつが結婚とは。ありえない。数年前まで女性と話すことすら覚束なかった彼が!

 それから終電で大都会、岡山へ。
 死ぬほど寒かった。車内でも寒かった。岡山駅での乗り換えはさらに寒かった。
 そう僕はニートさんの実家に行くのであった。最寄り駅で降りて自転車を組み立てているとニートさんが仕事帰りのベドウィンみたいな格好をしてやってきた。併走してお宅にお邪魔して、夜中まで酒を飲んだ。ずーっと原発の話ばかりしていた。ニートさんはもともと理系が非常に得意で、電気関係にも詳しく、またここぞとばかりに一週間延々と原子力の勉強ばかりしていたらしく、とても盛り上がった。僕も一週間ずっといろんな情報を耳に入れて入れて入れまくっていたので、だいたいついていけた。次の首都が岡山になるということが本格的に定まってきた。

 おうちのような場所(後述)に帰還。さて更新するか。書きたいことがありすぎて何も書けない感じ。少なくとも書ききれない。

2011/03/16.5 あの店が消えた

 昨夜から仕事場に泊り込み、最低限なすべき仕事を終え、週明け(21日)から計画していた名古屋への帰省を早め、ついでに大阪・神戸・岡山あたりを颯爽と旅して来ようと、愛車のロバ(ロードレーサー)にまたがって家を出発、小田原あたりで在来線に乗り換えて大垣くらいまでは行けるかな? と思ったら熱海以西も東海道線は通常運転していない様子だったので、予定を大幅に変えて新幹線で新大阪まで出てしまうことにした。

 新大阪から自転車で十分ほど走ったところに十三(じゅうそう)という町があって、そこには僕の行きつけのお店があるのだった。もう四年近く前になるのだろうか、大阪に住んでいた女の子の友達と十三を歩きながら、ごはんを食べられるところを探していた。ところが、どの店にもどうも食指が動かない。商店街を抜けて大通りに出ると、向かいの路地の奥、百メートルくらい先のところに、ぽつんと家庭料理屋の看板が小さく見えた。「あれだ、あそこに行こう」僕は直感的に何かを感じ、提案した。「えっ、どこ?」とその子が言うくらいに、遠くわかりづらい場所にあったが、なぜかそこに行かなくてはいけないような気がしていた。
 いざ近づいてみると、完全に「地元の店」といった感じで、やや入りづらい。看板以外の情報が何もなく、周囲には飲食店や商店がいっさいなかった。ここまで来たのだからと意を決して戸を開けると、店内はまるでゴールデン街の店のようなこじんまりとした作りで、5,6人のお客さんが並ぶエル字型のカウンターの中にぽっちゃりしたママが立っていた。意外そうな顔でこちらを見る。「あの、ごはんが食べたいんですけど」「うち、定食はやってないんだけど、ええかな?」「お料理があるなら」「大丈夫? それならどうぞ」といったような短いやり取りがあって、僕らはお店に入った。
 料理は、本当に美味しかった。しかし何より、ママや常連さんたちの雰囲気がとてもよくて、すぐに打ち解けたように話すことができた。どうやらこのお店は料理屋というよりも飲み屋で、近所の人たちが毎晩のように通ってきているらしい。ちょっとしたコミュニティというか、「世間」ができていて、常連さん同士の交流も深いようだった。ますますゴールデン街のような雰囲気を感じる。違うのは、客層が地元の人たちばかりであるということだ。東京のゴールデン街のように、各地から人が集まるといった感じではない。それでいてちっとも閉鎖的にならないのは、大阪ならではというところだろう。
 すっかり話が盛り上がって、楽しくて、「先生」と呼ばれている常連のおじさんにウィスキーをいっぱいごちそうしてもらった。ママも、「なんか、初めてきてもらったのに、初めてっていう気がせえへんねえ」と言ってくれた。客として、こんなにうれしい言葉はない。一期一会だ。

 半年ほど経って、再び大阪を訪れる機会があった。僕らは当然のように「あの店に行こう」と集まって、恐る恐る戸を開けた。恐る恐るというのは、ママも常連さんも、僕らのことを覚えてなんかいないんじゃないかと思ったからだ。しかし杞憂だった。中にいる人たちは口々に、「あ、久しぶり」と、特別なことなど何もないように言ってくれた。忘れもしなければ、特に感激もせず、ごくごく自然に迎え入れてくれた。顔ぶれは前回とほとんど同じで、これも奇跡のように思えた。同じように「先生」にウィスキーを注いでもらって、つぶれるほど飲んだ。
 それから何度も、大阪に行くたびにその店へ足を運んだが、この一年と少しは、大阪に行く機会も少なく、また時間が取れなかったりタイミングが合わなかったりして、行けないでいた。それで、多少無理して新幹線に乗ってでも、今回は行こうと思ったのである。だから、目的地は神戸だが、新大阪で降りた。

 僕は「あの時」の気分を追体験しようと思って、商店街を抜けて大通りに出た。向かいの路地に目をやる。が……あの店の看板が見えない。どういうことだ? 嫌な予感がする。自転車を引いて、足早に近づいていく。すると、見慣れた路地に見慣れない駐車場が設置されていた。
 何度も行っているのだから、場所を間違えるはずがない。それでも記憶を引っ張り出してきて、本当に位置が正しいか確認した。どうやら間違いがないらしい。僕はがむしゃらにそのあたりを歩き回り、地元の人らしいおばあちゃんを見つけ、話しかけた。「あの、あそこに家庭料理のお店があったと思うんですけど……」「ああ、あそこね。もうないわ」「やめちゃったんですか?」「火事でな。焼けてもうた」「そうだったんですか……ママについてはご存知ですか?」「さあ……。このへんにはおらへんねえ」「わかりました。ありがとうございます」僕は絶望に暮れて駅のほうへ歩き出した。あの店がない。火事で焼けた。「店がなくなるというのは、人が死んだのと同じことだ」と、僕は最近どこかで書いた。この喪失感は、到底受け入れられるものではない。あの人たちにもう二度と会えないのだ。ママに、常連さんに。僕は駅前へ行って、見知った顔はいないものかと通行人の顔を眺めてみた。こんなに人がいるところで、見つかるはずもない。いつの間にかあの店の跡地まで戻ってしまっていた。
 店の隣の民家に入っていこうとするおばあちゃんがいたので、声をかけてみた。「すみません。ここにあったお店なんですが……」「ああ、あったな。このあたり一帯、あっちのほうまでずっと、焼けてもうたからなあ」「ママはどちらに?」「知らんねえ。もうこのへんにはおらはらへんよ」
 インターネットで検索しても、店の情報はほとんどない。かろうじて電話番号を見つけたので、かけてみても、当然つながらない。僕はそれでも、あきらめるわけにはいかなくて、考えた。どうすればあの店の、ママや常連さんたちの消息がわかるのだろうと。あんな酒飲みたちが、店ひとつなくなったくらいで酒をやめるわけがない。だから、このあたりのほかのお店にまだ通ってきている可能性は高い。そう思って、僕は近くを歩き回り、飲み屋を探した。ひとつ隣の路地に入ると、飲み屋がたくさんあったので、どこかに入ろうと思った。片っ端から聞いて回るのは、さすがにやりすぎだろう。最後の手段としては、それしかないのだが。しかし、お店がたくさんありすぎて目移りする。決められない。
 新幹線に揺られておなかのすいていた僕は、とんかつ定食などのメニューがたくさん戸に貼られている料理屋に目が行った。「家庭料理」と書いてあって、あの店を思い出させた。ただ、外装がやや新しい。ひょっとしたら最近できた店なのかもしれない。そうなるとこのあたりのことを聞き出すのは難しいだろう。それに「九時閉店」と書いてある。もう八時五十五分だった。しかし、おなかがすいている僕は、意を決して戸を開けてみることにした。
「すみません、もう終わっちゃってますか?」と問いかけると、「大丈夫ですよ」と気のいい返事が。あの店と同じ、ただしちょっとだけ大きいエル字型のカウンターにママが立っていて、お客さんが二人いた。「何にしますか?」「えーっと、何がいいんでしょう」「どんぶりとか、とんかつとか」「んー、じゃあ、とんかつ定食で」僕の通っていたあの店にはメニューというのがなくて、「適当に食べさせてよ」と言うと、お皿いっぱいにいろんな料理がどっさり盛られてきたものだが、こちらは壁にきちっとしたメニューが貼ってあり、ずいぶんポップな感じだ。はずしたかな、と思った。
 はじめは、ママとお客さん二人の会話に入っていけなかった。定食だけを頼むよりもお酒を飲んだほうが印象がよいし、潤滑油にもなると思って、ビールを注文した。お客さんと乾杯してみるも、特に会話は生まれない。そのうちに一人がお手洗いに立ったので、思い切ってもう一人の方に話しかけてみた。「大阪に震災の影響はありますか」というのをきっかけにして、自分がさっき東京から来たことを話すと、少々興味を持っていただけたようだった。お手洗いに立った人が帰ってきたあとも、そこそこ会話が続いたので、タイミングのいいところで「実は十三にはよく来てて、あっちにあった家庭料理のお店に通ってたんですよ」と言ってみた。
 みんなの態度ががらりと変わった。その瞬間から、顔色、声色、すべてが違ってきた。まるで、「ああ、あなたはすでにこっちの世間の人間だったのね。おかえりなさいね」と、受け入れてもらえたみたいだった。ママいわく、「あのお店にはわたしもよく行ってたし、ここの常連が向こうに行ったり、向こうのお客さんがこっちに来たりもしてたわ。今も向こうのお客さん、こっちに来てるで」僕の直感は、大阪に来ると冴え渡るようだ。完全に正解だった。お客さんたち二人も、あのお店には何度も行ったことがあるという。「世間」というのは、狭い。入る世間さえ間違えなければ、再び出会うことはできるのである。混沌とした十三にはいくつもの「世間」が存在するのだろうが、僕は奇妙な嗅覚によって、同じものをかぎ分けることができたということだろう。不思議なものだ。これが縁か。
 ママとお客さんによると、火事があったのはちょうど一年ほど前だという。ママと一部の常連さんの消息も聞けた。涙が出そうになるくらい、感動的なことだった。行動だ。二人のおばあちゃんに声をかけて、世間のにおいをかぎわけながら店の戸を開け、とにかく話してみる。すると、思ったとおりに報われるのだ。動くこと。考えること。切り開くのはいつもこれだ。
 あのお店はなくなってしまったが、十三はなくならない。世間はしぶとい。本当に、心の底から寂しくて、やりきれないが、僕は生き残った大切な世間のかけらを愛し続ける。また十三へ足を運ぶだろう。そしてこの店に来るだろう。あの店はないが、この店はある。店は死んだが、世間は死んでない。このにおいを忘れないでいる限り、いつか出会えるときがまたくるだろう。

「ウメって食べれる?」とママが問う。
「はい」と答えると、残ったお米で、三つ、おにぎりを包んでくれた。

2011/03/16 洒落たおべべのテクノしゃれ神戸

 なんかみんな神戸に行っちゃった。なんで神戸なんだ? 名古屋に行ってくれたらいいのに。僕もみんなと神戸でパイでも食いたいよー。
 僕らに仕事をくれている大手企業が今日は操業停止とのこと。

 そもそも僕はこういう時に自由に行動するために、すなわち社会なるものに縛られないために「社会人」になることを拒否し続けている人間だから、こういうときは好き勝手に行動しなければならんのである。そのために翼(自転車)を整備したのだ。久々に大空を舞おうかしらねえ。

 ちなみに明日は無銘喫茶の日だけど、営業しても誰も来ないだろうなあ。無銘としては「休業してもいいですよ。お金はとりませんよ」とのことなので、赤字は出ないか。本当はすべてを冗談にしてみんなで酒飲みたいんだけど、一応やめとこうかな。あーあ。まあ、こういう機会でもないと無銘を休めないか。いまんとこ一度も休んでない(一昨年の大晦日は別の人に譲ったけど)。

 今とても会いたい人たちが神戸にいるので、自転車で箱根越えて、三島あたりから18きっぷで鈍行に乗れば今日中に米原くらいまで着けるかな。米原まで行けば朝までに神戸は不可能ではない。んで、そのまま18きっぷで折り返せば夜には戻れるし。名古屋に行ってもいいし。ただ、20日に死んだ西原の実家で行われる「西原を最後に囲む会」に行けない。まあ、機会を改めて個人的に行けばいいかな。納骨すんじゃうけど。
 名古屋から来客がある予定だったが、さすがに来ないほうがいいだろう。

 んま、どっか行くにしても、ここは更新できるようにFTPの設定を持ち歩くことにします。たぶん最悪の事態にはなんないと思いたいですが、対せtなな人たちがことごとく神戸とかにいるのに東京にしがみつく理由はない! ので、ちょっと行ってくるかも。西日本ではどんな温度なのかってのも気になるし。

 若い人は、たとえ家族が止めても振り切って、自転車で西へ西へ、走ってみたらいかがかね。あれが日本にいたらそうしてるかもな。ひとまずこの曲を捧げよう。
 若者に正しく目を向ける人を僕は尊重します。
 終末的な絶望と次世代への希望、まさに今にぴったりの名曲。


PIERROT/DAYBREAK(詞:キリト、曲:アイジ)

目覚めはホラ 前触れもなくやって来るもの
洒落にならない 現実に立ち尽くしてるの?

あの時まだ 君でさえ受け止められずにいた
僕が描いたカタストロフィー 見えてきただろう?

もう手遅れなチョッと「足りない」奴らなんて
見捨ててしまえばそれまでさ
勝手に殺しあって自滅してしまえ
時代の夜が明ける

さあこれからが大切なのさ
そう出番はそこまで来ている
さあ覚悟はすでに出来ているか
そう未来は僕と君たちのセンスで造りあげる

淡く甘い過去の思い出を浮かべ
少しくらい涙こぼしてもいいから
足下まで光は差している
顔を上げて 待ち焦がれていた夜明けだ

あの時まだ 君でさえ受け止められずにいた
僕が叫んだカタストロフィー 解ってきただろう?

もう手遅れなチョッと「足りない」奴らなんて
相手にするだけ無駄なのさ
勝手に殺しあって自滅してしまえ
歴史は塗り替わる

さあこれからが大切なのさ
そう次の太陽は昇った
さあ覚悟はすでに出来ているか
そう未来は僕と君たちのセンスに期待している

 僕が一番大事なのは「これから自分が作る家族」です。次に大事なのは「両親の作った家族」です。「これから自分が作る家族」というのはまだ存在しない(結婚というよりは、子供が生まれた瞬間にできると考えています)ので、現時点では「両親の作った家族」が最も大事です。
 その次に大事なのは「親族の家族」と、「これから親族になる蓋然性が高い家族」です。その次は、たぶん偽兄が作った家族です。
 偽兄には6年ほどお世話になっていて、なんかよくわかんないけど果てしなく好きで、嫁さまも好きだし、娘ちゃんも(会ったことないけど)間違いなく大好きなので、絶対に生きていてほしいです。この一家にもしものことがあったら僕は生きていけません。なんか今その人とメールしてて実感した。

 なんか最近、僕に妹のようなのや弟のようなのができて、実に嬉しい。生まれてからずっと僕は「弟」でしかなかったし、関わったほとんどの女の子にとって僕は「弟」のようなもんだった(相手の年齢関係なく)と思う。今でもまあ、女子と接していると男であったり弟であったり忙しい。最近ようやく兄のような面が出てきたというか。兄がどういうものなのかわかったのかもしれない。僕には兄が三人いるが、ようやく彼らの気持ちが少しはわかってきた。
 弟や妹に、自分と似てる点があればあるほど愛おしい。親や兄・姉に対しては、「似てることが憎い」というときだってあるのだろう(僕にはほとんどない)が、弟や妹、あるいはたぶん息子や娘に対しては、似ていれば似ているほど愛しさが増すものだろう。おそらく。かといって、似ていないことを憎んだりもしない。きょうだいなんてのは結局は他人だから、って思えるからかな。
 弟や妹には、愛情を向けるのが楽しいし、向けられるのが嬉しい。そういう気持ちは兄や姉の特権で、ひょっとしたら子供が生まれた時に、弟や妹としてのみ育ってきた人は、目上としての愛し方・愛され方がよくわかんないんじゃないだろうか、とすら思う。ただし、兄や姉として育ってきた人は、弟や妹に対して非情な暴君であったりもするので、それを子育てにも引きずってしまうことがあるのかもしれない。一長一短だ。このことに根拠はないが、意識しておいたほうがいいと思う。割りと当たっているような気がするよ。

 偽兄の作った家族は、僕の目の前で誕生した初めての家族だ。両親の出会いから、結婚、出産まで、すべて見てきた(出産以外は、実際に立ち会った場面が多い)。いわば、「個人どうしが家族になるまでの過程」を見せてもらったというわけだ。だから、思い入れが大きい。ぜひこのまま、「家族から新しい家族が誕生する」というシーンまでを見せてほしい。彼らは僕の希望だ。プレッシャーをかけるんではないけれども、家族というものがいかに美しいものであるかを再認識させてくれたことに深い深い感謝を捧げます。どうかお元気でいてください。

2011/03/15 さいご

 とんでもない終末感。ついに都内でも微量だが放射線量が(たぶん一時的にだが)上がった模様。岡山出身のニートさんはこれから帰省するようだ。僕も逃げたいな。いつまで様子見するべきか、これはチキンレースのようなものである。なにぶん、僕には何もわからないので、わかるために一瞬も気を抜けない。ひたすら寝るか、漫画でも読むか、がむしゃらに働くかしてればいいんかもしらんけどねー。
 こういう、日常と終末が同時に来ているような感覚を描いたのは、日本の漫画ではおそらく手塚治虫先生の『来るべき世界』が最初であろう。世界の終わりに、長屋の人々は碁を打ったり、ピアノを弾いたり、歌をうなったり柔道をしたりする。そして主人公のケン一少年がつぶやく言葉は「あと二十分ですね 空がとてもすてきだ」。
 敵対していたスター国のノタアリンとウラン連邦のレドノフは、崩れ落ちていく都市の中で肩を組んで叫ぶ。「平和だ平和だ! 地球に戦争はなくなった! 人間バンザイ世界の文化!! バンザァイ」幼い僕にとってこのシーンは希望だったなあ、と懐かしく思い出す。
 僕が読んだのは文庫版が出てすぐだから、小学四年生の時か。『ロストワールド』は一年生か二年生で読んでたと思うけど、『来るべき世界』はちょっと遅かった。『デビルマン』も二年生くらいだから、すでに絶望は知っていた。が、絶望から救われる瞬間というのを僕は『来るべき世界』で知ったのかもしれないし、人間の大人というものが、かんたんに理屈を無視してしまう生き物であるということを、すべてが終わったあとのロココに対する仕打ちで学んだ。いや、本当に僕は、漫画を信じすぎているような気がする。まあ仕方なかろうさ。
 一応言っておくけど、たぶん『来るべき世界』で最も注目すべきシーンは世界崩壊の場面ではない。僕が思うに、それはロックがトラウマによって性格を変えられてしまうところと、ポポーニャが覚醒(?)するところと、ロココが追放されるところだろう。


「ここに人類の平和のため フウムーンの最後のひとり ロココを地球より追放する」

「ヒゲオヤジさん たのみます……」
「ケン一ががんばってるって……よしよし わしがいってやりましょう」

「おじさんのバカッ おじさんのバカ いやだッ ロココを地球の外にほうり出すなんて いやだい!! ロココはぼくたちのためにロケットまでくれたんだぞ そんなにしてくれたのに 今になってよくそんなことがいえたもんだ!!」
「こりゃ驚いた ケン一がこのわしにさからったのははじめてですよ」
「しかしケン一クン フウムーンはいっ匹だって地球においておくのは危険なんじゃ」
「イヤダ!」

「ケン一があんなにロココをかばうのは奇妙キテレツですな」
「あんまりひどすぎらい」
「………でも もうしかたがないんだ ねむらせてあるんだよ」
「じゃもう おそいんですか…… ロココ!! ぼくだョ ごめんね ごめんよ 人間は恩知らずだ」

「さあさあ もうしめるぞ」

「ロココ…………」

「ケン一くんのきげんはなおるでしょうか?」
「まずだいじょうぶでしょう ハッハ おとなになるまでには忘れます なに ちょっとしたアレですよ」


 文庫版の解説で小松左京氏が、「一種の不安と恐怖と辛さの中でこの作品を何度も、火の気のない暗い下宿の部屋でよみかえした。」と書いていて、この一文は帯にも転載されている。
 小学四年生といえば僕の人生においてたぶん最大のターニングポイントで、この時期に徹底して人格改造を行った。その材料の一つとして『来るべき世界』があったことは間違いないだろう。すべてが暗黒のごとく見えていたような当時の僕も、「一種の不安と恐怖と辛さ」の中でこれを読んでいた。絶望と、救いと、理屈や感情とは関係のないところで進んでいく人間の論理を、学んだ。それから十五年以上経って、この本は未だに僕の聖書であり続け、自分より若い人には是非と一読を勧めている。

 昨日から今日にかけての終末感で思い出されたのは、小松左京氏の例の一文と、それによって喚起される当時の感覚だった。一言で言うと、『来るべき世界』はスッゲー怖かった。あれと同じくらいの「不安と恐怖と辛さ」が、今ある。漫画と比べんなよって話だけど。僕にとっては漫画だけが現実だったんだよね。だから、日常を現実にするっていう作業に、二十歳過ぎてからとても苦しんだんだけど。
 十年以上かけて僕は『来るべき世界』を消化してきたわけで、たった四日や五日で消化できるもんじゃない。ただし、漫画は再読できるけれども、災害は追体験できない。それでみんな忘れっぽくなるんだと思うから、せめてみんな、なんか形として記しておこう。Twitterは一瞬にして消える。

2011/03/14 月曜日の終末

「今さら遅いとか早いとか言わないほうがいいんだけど あえてあからさまにあいまいにどっちでもいいと言ってくれ 雨が強くてよく晴れてたっぽい月曜日の終末は あからさますぎて大事なことがわからない そんなことはよくある話だと君は笑うかもしれないけれど いつも僕は考えこむのさ ずっと」


 3月14日月曜日。すっげー終末感。本当は今夜ネットラジオでもやって、『月曜日の週末』(ゆず、作詞・曲 岩沢厚治)とか流そうかと思ってたんだけど、うまくつながんないから断念。あー残念。
 この曲の歌詞の「週末」を「終末」に変えてみると、どうも違った意味の歌に聞こえてくる。すべてが終わりそうな、ちょうど今日のような日に、被曝対策で閉め切った部屋の中で、天気もわからず、何もわからず、何もできず、ただずっと考えこんでいる。東京ならまだしも、福島あたりにいる人にとっちゃ他人事じゃない。

 あさりよしとお先生の『HAL はいぱあ あかでみっく らぼ』の「ザ・臨界」という話で、「…もう! そんな甘い考えだから安全神話の崩壊とかにつながるんですよ!!」「…でも もとから『神話』だしな…」というやり取りがあった。どうやら東海村の事故直後に描かれたらしい。さすが。
「安全」ってね、どこまでを安全と言うかですよね。「マグニチュード9.0の地震があっても、負傷者○○名と被曝者○○名で済みました、被曝者は今のところ(1年経った時点くらいで)みんな生きてます、健康です、安全です」っていう言い方もあるんだから、原発はなくならんだろうな。
 人災ってのもあるし、核燃料はほぼ永遠に自然には還らないのだし、安全と言い切ることなんかできるわけはないのだが、まあ、「安全」という言葉をうまいことこう、定義し直せば、なんとでも言えますよね。
 チェルノブイリみたいにはなんなくったって、事故は事故だろうに。喉元過ぎれば熱さ忘れるってふうに、何事もなかったように続いていくのだろう。ただちょっと、反原発の人たちの声が大きくなるってくらいか。水を得た魚のように。が、残念ながら原発をなくすのはたぶん無理だろう。メリットがない。
 僕は折を見て「いらねーんじゃねーの」と言っていこう。常に自転車に乗り、エアコンも持たず、電子レンジもほとんど使わない僕は、とりあえずパソコンとコタツと扇風機だけ使えればなんとかなる。まあ、できれば電機敷布や、ごく寒い日はストーブも使いたいけど。せいぜいそんなもんだろう。あと炊飯器、冷蔵庫、洗濯機か。けっこう使うな。あーそれに、無銘喫茶で空調使えないとけっこう大変かもしれない。
 んまーそれでもね、いろいろなことを抜本的に変えていけばきっとどうにかなるでしょう。久々に言うけど、結局は「覚悟」の問題だから。覚悟して、工夫していけば、だいたいなんでもできるんだよ。要らない電力いっぱいあるでしょ。みんな地デジのテレビ打ち壊しちゃえば、相当減るでしょ。んでブックオフ行って本買ってきて読めばいいでしょ。それが極端でも、パソコンとテレビ一本化するだけでずいぶんといいんじゃないかね。僕ももーちょっとパソコン稼働時間減らすかな。
 だで、あれだわ。金を基準に考えるのやめたらいいんだわ。
 結局はそこ。金の効率を考えるのではなく、金以外の効率を考えればいいはずなんだがな。それを前提にして経済を組み立てて行かなければ、本当はダメだと思うんだ。けど転がる石というか、もう止められないみたい。それがゆえにもう、原発はなくなんねーだろうなと思ってしまう。原発がもしも、この地震の影響で、なくなっていくんだとしたら、大きな希望が持てるんだけど。


 掲示板やメールで、「あなたの文章読んでると気が引き締まります」といった意味のことを言ってもらえて、こちらこそ気が引き締まるというか、生きていく気にもなります。はっきり言って、今の僕には自分のために文章を書く必要というのがもうほとんどないので、こういう人がいなくなったら、もうやめちまっても構わないのです。やめない理由がもう少しだけあるとしたら、「ずっと続けていこうと十年前に誓ったから」ってのと、「昔の友達と再会できるかもしんないから」ってくらいかな。新しい友達ができるかもってのもあるけど。
 そういうことなんで、みなさんは遠慮せずに僕が調子に乗るようなことを、こっそりとでも、囁いてくれたら良いのです。本当に感謝しています。




 すべての判断を自分で引き受ける、というのは辛いものである。
 付和雷同に生きれば楽なものだ。


 僕は、「現状、自分にとって非常に大きな問題であるように見えることが、ちっとも把握できなくて、もやもやとしてよくわからない」という状態が、非常に苦手らしい。
「わからない」というのが、とにかく不安で、「わかる」ために考えて考えて、知恵熱みたいのが出て、オーバーヒートして、だめになる。ここ数日はちょうどそんな感じで、燃え尽きていた。灰みたいになっていた。そしてわかったことだけを、少しずつここに書いていた。

 たとえば原発だ。明らかに自分(というか全国民?)に深い関わりがあることなのに、わかることが少なすぎる。ゆえに、わからない。わからなくて、不安で、灰になっていた。それで毎日ずーっと、いろんな方面から調べて、考えた。ほとんどそればかりをやっていた。
 地震と津波については物理的な想像ができる。しかし原発や放射線に関してはできない。空想や妄想のような、地に足の着いていないことは嫌いだから、僕は想像ができるように自分の中に原子力をインストールしてみた。その一環として、あさりよしとお先生の漫画も読み返してみたわけだ。んで、考える。
 いろいろ考えて、とりあえず自分なりに結論(指針)が出せたんで、かなり落ちついた。それまでは本当にきつかった。
「すべての判断を自分で引き受ける」というのは、結局そういうことだったりする。要するに他人を信用できないってことで、割と悲しいことなのかもしれないし、かなり辛いことでもある。
 でもまあ、誰も信用しないっていうのは、混乱しないぶん、良いところもあるんです。自分で全部考えて決められるから、「どっちだ?」と迷うことはないのです。二者択一なんてあほくさい考え方からはグッバイです。ただ、「決める」までのプロセスが辛く厳しく長いのと、必ずしも「決める」に辿り着けるかどうかがわからないのが大変です。それまで黙って悶々としておらねばなりません。11日から14日にかけての僕は非常に悶々としておりましたし、今もずいぶんしております。僕が流行りのTwitterに何も書かないでいるのは、「よくわからないから、軽はずみなことは言えないな」ということが一番の理由です。それと、「Twitterに何かを書くことが、現時点で正しいとは思えないな」という直観があります。僕はもう、「今Twitterに何かを書いている人はとても愚かだな」くらいにまで思ってしまっています。これも直観です。僕は自分の直観をかなり信用しているので、そうとしか思えないのです。頑固だなー。

 僕がちっとも選挙に行きたがらないのはそれと同じような感じかもしらんです。「よくわからない」のと、「正しいと思えない」の二つ。さすがに「選挙に行く人は愚か」とまでは思わないけど。「最悪の状態を避けるために消去法で票を投じる」という考え方には賛成だ。ただ、「全国民が選挙を拒否すれば何かが変わるんだけどなー」とくらいは思う。ま、たった一人で拒否ったらそっちのほうがずっと愚かなんですけど。

 同様に、「今誰も何もTwitterに書きこまなかったとしたら、そっちのほうがいい結果を生みそうな気がするんだけどなー」と思ったりするわけです。
 たった一人でそれをしたところで何も変わらないんですけどもね。


 わかんねーうちは様子見るっていうのは、いいことなのか悪いことなのかわかんないけど、僕はそういう人間なんだなあと、この四日間でわかったです。

 原発マジこえーなあと思ってあさりよしとお先生の『ラジヲマン』『ミライノヒカリ』を再読した。
 原子力の危険性と管理・認識の杜撰さをここまでコミカルに描けるというのは、あさり先生の偉大さだなあ。
 コミックスが今月発売予定だったけど、発売中止になるんじゃないかね? あるいはベストセラーに? とりあえずAmazonで予約しておきました。予約が多ければ発売に踏み切るかも知れないし。
 あとは『HAL』でも読み返すことにします。
 あさり先生は科学に造詣が深いぶん、科学の恐ろしさというものもちゃんとわかって、描いている。そこが好きだし、偉大だな。本当に。
 ちなみに最高傑作は『ワッハマン』かな。超名作。おすすめ。

2011/03/13 世紀末ブックオフ

 バイオレンス・ジャックが読みたくなってブックオフに行ったら世紀末だった。『今日から俺は!』全38巻が750円。『GS美神 極楽大作戦!!』全39巻が750円。『機動警察パトレイバー』全22巻が750円。『うしおととら』全33巻はさすがに2900円。それでも安い。
 美神は持っているので、今日から俺はとパトレイバーとうしとらを買って帰宅。重たかった。なんだこのサンデーコミックスデフレスパイラルは。いずれも超がつくほどの名作ばかりなのに。サンデーの部数が落ちていることと関係あるのかなー。あったら嫌だな。
 正直、書いてる作家だけで見たらサンデーが一番なのになあ。いま週刊少年誌に連載している作品でちゃんと単行本買ってるのは『月光条例』と『弱虫ペダル』だけだよ。ジャンプはとにかく嫌いだし、マガジンは全然パッとしないし。しかもここにきて荒川弘先生がサンデーに投入されるみたい。作風は合うだろうけど、潰されないことを祈る。

 デマゴーグという集団秩序を混乱に陥れる心理的な刺激に対し社会集団の内部で最も理性的に対処すべき壮齢期層の人間が誰よりも先に耐性が破れて暴力などの攻撃衝動による発散に逃げだして恥ずかしくねーのかよ。
 ま、日本人の場合は「暴力などの攻撃衝動による発散」ってのはあんまりないみたいではあるけど、なんつうかね。いろんな形でヒステリーってのは発現するわけで。
 みんな浮かれすぎなんだよ。地に足を付けて、落ちつく。まずはそこからだ。冷静なつもりで行動しても、知らず知らず、いたずらに混乱を招いていることもある。自分の精神が冷静であることと、自分の行動が冷静であるかどうかは、まったく違うんだ。
 感動したり、盛り上がったり、「何か」をしようと思ったり、実際にしてみたり、してる人。たくさんいるけれども、彼らは概して冷静でない。
 僕は徹底的に疑う。大きな視野を持てば持つほど、小さなところを取りこぼすのだ。人間の頭は、そんなに優秀なもんじゃない。遠くの景色ほど霞んで見える。はっきりと見えているのだとしたら、それは脳が補正をかけているのだ。つまり勘違い。目の前にある、本当にはっきりと見えることをまずは見つめるべし。それが現実であり、真実である。

「インターネットすごい」「Twitterすごい」とかいうのは、「インターネットやTwitterでしか現実を見ようとしていない人の感想」でしかない。僕はインターネットと日常とは“切れて”いるもので、そうであるべきだと思っている。インターネットはインターネットで、日常は日常だ。ごっちゃにしちゃダメだ。

 自分で考えて、自分で判断すんだよ。それができないやつが、感動してんだよ。感動してるヒマなんかねえよ。恐怖を切り開くのは感動じゃなくて、思考と工夫と、行動だ。感動はすべてが終わったあとにするもんだ。どうしてそんなにすぐに終わらせたがるんだ。
 続けることから逃げたがっている人たちは、すぐに終わらせようとする。感動で区切りをつけて、すべてをウヤムヤにしてしまう。
 頭よりも身体が先に動いてしまうのは仕方ないが、真っ先に口から動かす奴を信用してはならない。やたらと「感動」している人の言うことを、真に受けてはならない。疑うべし。

2011/03/11-12 関東

 ガキと話していたら、永井豪先生の『バイオレンス・ジャック』の一場面を思い出した。


「戦う!負けるのはわかってるから…抵抗するっていうのかな…こういうの…」
「無茶でもやらにゃー。このままいつもおとなしく取られたら、いつまで経っても魚は俺たちの口に入らねー」
「今日の魚は取られるだろう。おまけにケガもするかもしれねー。だが、俺たちから魚を取るのが一苦労と知ったら、いずれ奴らはもっと楽に取れる所から取るようになる!」
「明日も取られるだろう、明後日も。だが、いつか自分の魚を食うために…今日を戦う!みんな石を持て!」


 正直、この作品の面白さはこのシーンがピークだった気がする。たしか一巻とか二巻とかだけど。
 真っ先にこのマンガを思い出すあたり、僕も相当のもんだな。ちなみに矢口高雄先生の『激濤』も、さっき読み返していました。


 今日を戦うことで、いつかの魚を勝ち取るんだ。
「石を持て!」という台詞が昔から大好きだったけど、もしかしたらこれ、「意志を持て」ってのとかけてるんだったりしてね。奇跡的に。
 全然関係ないようだけども。


 大地震で案の定、本が崩れたので、ここぞとばかりに整理しています。
 それで家は廃墟のようです。しかし寝ます。一日中家におりました。
 原発が爆発して被曝が怖いです。
 僕を必要としている人がいるというのは嬉しいものです。死ねません。
 自転車を修理しました。
 これさえあれば名古屋でも大阪でも自由にいけます。翼です。
 FF6でダリルの墓をあばいたときのセッツァーの気分です。


 こっそり公開しますが私のスカイプIDはtakaomi_matsubueです。
 我ながらきもちわりーIDだこと。


 こんな夜に大したことは思いつかないぜ。

2011/03/10 手段と目的

 今売れてる漫画がつまんないのだとしたら、漫画を「手段」でなく「目的」にしてしまっている作家が多い(そして、そういうものが売れてしまう)からかもしれない。あるいは、「漫画の目的が漫画の外にある」という状況が存在するのかもしれない。

「メッセージ」だの「テーマ」だのって言うと、いやらしく、薄っぺらい感じがしてしまうから困るが、要は「何が伝わってくるか」ということが重要と思う。(「何を伝えたいか」ではない。)
 伝わってくるものがない、伝わりづらい、あるいは、伝わってくるものがろくなものではない、といった作品は、どうも僕は嫌いなようだ。僕の好みは非常にうるさい。僕はどうも、「面白い」ということをそれほど重視していないのかもしれない。
『レベルE』なんかもね、読み返してみようかな。あれって素晴らしく面白いけど、面白い以上になんかあったかなと思ったら、よくわかんないわ。今もっかい読んだらわかるかもしれない。
 僕が好きな漫画ってのは、伝わってくるものが、正しいと思えるかどうかって、そういうことだけだ。つったって別に、あの残酷で終末的な『デビルマン』だって好きだよ。圧倒的に好きな漫画。だってあれはあれで正しいんだもんね。あれは「人間はこういうものでありうる」と言っている作品で、「人間とはこうあるべきだ」を描いているんじゃないものね。正しすぎるほどに正しいよ。

 僕の大好きなつばな先生の『第七女子会彷徨』を女の子に読ませたら、「何が面白いのかわからない」と切って捨てられたことがあった。彼女曰く、「こういうギャグだったらその辺の少女漫画にいくらでもある」とのことで、なるほどギャグ漫画としてだけ読んだら『七女』はさほど面白くもあるまいね。僕は「SF」として、また「高木さんと金やんの物語」として読んでいるの。

 さて漫画が手段であるというのは、「漫画によって何かが伝わってしまうから」だ。僕はその「伝わってしまうもの」に対して「面白い」とか「好きだ」を言いたい。漫画が目的になってしまうというのは、「漫画それ自体が面白い」という状況だ。
「漫画それ自体が面白い」という状況は、「その漫画が何を伝えてしまうかを度外視する」という状況を生み、「何も伝えなくっても問題ない」という状況を生む。そういうふうな漫画は、どんだけ面白くても、「好きだ」にはならない。僕はね。

「漫画の目的が漫画の外にある」ってのは、まあ、週刊少年ジャンプみたいなんとか。
 読んでるとカッコイイとかね。


 なんでこんなこと言い出したのかっていうとですね、僕の家には本が多すぎるからなのです。要らない本、読まない本がたくさんあるのに、捨てられない。これはね、僕が「本の目的を本の外に設定してしまった」からなのかもしれないんです。わけわかんないかもしんないですけど。『レ・ミゼラブル』を全巻持ってたところで、読まなかったら意味がない。そもそも「読む理由」もないのに、「いつか読むかもしれない」というだけの理由で、買いまくっちゃってたんです。主に大学生の頃。「自宅を図書館にしたい。読みたくなったら何でもそこにあるような環境が望ましい」とか言って。
 でも、本ってのは本来、「何かの手段」なんですね。僕はそれが逆転しちゃってたんですね。買うことが目的、持つことが目的になってたんですね。それは今でも割とそうなんですよ。少しでも面白そうだったら買ってしまう。で、読まない。読んだとして、つまんなくても、後生大事にとっておく。こういう人ってけっこう多いと思うんだよな。
 だから、ここらへんでそろそろ僕は、「この本がなんのためにこの家に存在しているのか」ということを一冊一冊吟味、検討して、現時点で存在に必然が感じられないようだったら、捨てるなり売るなりする、っていう作業をしようかと思うんですよ。これをしないと、僕は一生「本」という権威に縛られてしまう気がするのです。「教養」という悪魔に操られてしまう。そして「自分」がわからなくなる。そんな気がする。
 サキの短編集とか、本当に必要か? ということを、考えるべきだ。そういった本をすべて処分したら、僕は数十万円、数百万円を無駄遣いしたということになってしまうかもしれないが、まあ、勉強料ってやつですよねえ。仕方ない。
 んま、100円で買ったとしたら100冊捨てても損失(?)は10000円だし。昨日押し入れからなぜか20000円出てきたし。それを思えば別に、勿体ないってこともないんじゃないの。一応、全部ライブドアリサイクルに持ってってもらう予定だし。

 漫画にせよ文字の本にせよ、すべて手段なのです。手段というのは、自分の「手」の中にあって、ともに主体となるものです。本棚でオブジェになっている本は、本じゃない。だってオブジェというのは、目的でしかありませんよ。objectってのは「客体」とか「目的語」って意味だし。だから、本という本はすべてobjectではなく、subject(主体、主題)にしなくてはならんわけです。どや。

「手段の目的化」というのは、人間社会の至る所に潜んでいる病で、一つ一つ駆逐していかなければならないものだ。だいたいのあやまちはここから始まるんじゃないかと思うほど、はびこっている。いかん、いかん。
 セックスは手段であって、目的であってはいかんのだよ!


【手段】 主体(subject) 伝えてしまうもの(主題)が面白い
     自分で価値を決定する
【目的】 客体(object)  それ自体(物語、人物など)が面白い
     価値は客観的に決められている


 つまり、まあ、本ってのは、片手に持って、「ラーグ・イス!(呪文)」とか唱えて魔物を倒すような、そんなイメージなんですな。
 イールズオーヴァみたいに、本棚に並べて「美しい……」とか言ってるだけじゃダメなんですよ。

2011/03/09 さんきゅ。るるる。ありがと。ららら。さんきゅ。

 16歳の男(こう書けば文句ないだろう)に橋本治の『今わたしたちが考えるべきこと』という、ここ十年の彼の著作の中で圧倒的に重要で、圧倒的に難解な本を貸した。正直、面白いと思ってもらえるかどうかは不安だったが、賭けてみたのだった。
 すると、非常に嬉しい感想が返ってきた。「あの本は理論を教えてくれない。事象を教えてくるからたくさん考えなきゃいけない」まさしくその通り。
 ちょうど何日か前に僕は、16歳の女の子に対して、橋本治についてほとんど同じことを言ったのだった。いいタイミング。どうも参るね、自分と同じレベルの認識を持たれてしまうというのは。だからこそ気楽に友達として付き合えるというものだが。

 橋本治は『ぼくたちの近代史』という講演(
ニコ動にあるから聴きなさい!)で、「信者とか取り巻きとかって全部嫌い。やなんだもん。だって、俺別に神になりたいわけでも教祖になりたいわけでもなくって。結局、僕に教義があるんだとしたら、“一切の教祖を否定する”という、それだけが教義だもん」と言っていた。
 彼は、教祖にならないために、「一切の教祖を否定する」ということ以外の教義を一切語らない。だから、「こうすべきだ」ということは言わない。ただ「こういうことがある」とか、「こうだとしたら、こうにしかならないよね」ということだけを言う。(でも人は、特に自分でものを考えるのが不得手な人は、「こうすべきだ」を言ってほしがっていて、それだから橋本治の本は売れない。)

「人を殺してはいけない」と言ってしまえば「教義」になって、「従う・従わない」というのも出てくるが、「人を殺してはいけない理由があるとしたらこういうことだ」という言い方だと、「正しい・正しくない」とか「納得する・しない」「理解できる・できない」等はあっても、「従う・従わない」というふうにはならない。論理的な説明に対しては、従うもクソもないのだ。「で、結局どうしたらいいの?」となる。それは自分で考えることなのだが、その「自分で考える」を嫌う人が多いのである。
 命令や提案に「従う」というのは、「正しさ」を考えなくてもできるから非常に楽だ。しかし「説明」に対しては「判断」と「決断」が伴う。それが正しいか正しくないか、妥当であるかどうかを考えて、「自分はどうするべきだろうか」を自分で決める。

 冒頭で出てきた彼は、「答えの書いてない本を教えてくれ」と言ってきた。それだけでも大した奴だと思う。だいたい本を読もうという奴に限って、人に「何を読むべきでしょうか」なんて聞き方をする。自分で考えろというのだ。誰もが普遍的に読む「べき」ような本などあるわけがない。キリスト教圏なら聖書、イスラム教圏ならコーランがあるが、日本にはない。
「答えの書いてない本」は、「考える」ための本であって、教えを乞うための本ではない。読む「べき」であるかどうかなんて、関係ない。すべて読んだあとに読み手に委ねられる。だから僕はこの本を貸すときに「不安」だったのだ。この不安はすぐに払拭された。あれを面白いと思えるようなら、読む力があるということだ。学校の勉強なんてもんが、いかにどーでもいいもんかってのが、彼を見ているとよくわかる。クラスで一番成績の悪かった人間が、クラスで一番本を読めているだろうという事実に、にんまりさせられることしきり。

2011/03/08 「どうして人を殺してはいけないの?」と問われたら

「自分で考えろ!」と言うべきだ。
 まず、「どうして君は、人を殺してはいけないということを前提に話をするの?」ということを確かめなければならない。「前提」という言葉は子供には難しいから、うまく翻訳しなければならないが。

 人を殺してもいいかどうかは、自分で判断することだ。「どうして人を殺してはいけないの?」という質問は、すでに思考停止している。すでに思考停止している人間が、これ以上何を考えたって無駄なのだから、この質問は、発された時にすでに無意味、無価値だ。だから大人はこの質問に出くわしたら、「愚かな」と言わなければならない。

 どうして人を殺してしまう人がいるのかというと、「人を殺してもいいか、よくないか」というふうに、単純に物事を考えすぎるからだろう。「人を殺してはいけません」と教えられて育って、「そうか、人を殺してはいけないんだ」と思いこんでいると、ある時「あれ、ひょっとして人を殺しても問題ないんじゃないかな?」と考えてしまった時に、それに対する検討ができなくなる。最初から思考停止しているのだから、歯止めなんかかかるはずがない。

「人を殺してはいけない」と子供に教えてはいけないのだ。「人を殺してはいけないのだとしたら、どういう理由があるだろう」と、子供に考えさせるべきだ。「人を殺してもいいのだとしたら、どういうときだろう」ということも合わせて考えさせなければならない。子供が妙な理屈をつけて「殺してもいい」という結論を出してしまったときにだけ、大人が出動すればいい。「どうして殺してもいいと思うの?」と聞けば、だいたい無茶苦茶な答えが返ってくるから、「それは無茶苦茶だよ」ということを、理屈で言い聞かせなければならない。「ダメなもんは、ダメ!」と言うのは、いまいち危険である。「お母さんはダメだと思うし、あなたが人を殺したら悲しいな」とでも言えば、愛のある親子だったらちゃんと効果があるだろう。愛がなかったら大変だね。愛しましょうね。

 実際には、「人を殺してはいけない」というのは真実であり、その理由は「ダメったらダメ!」でしかないのだが、子供に本当のことをそのまま伝えるのは必ずしも良いこととは言えない。できるだけ遠回りをさせて、結果として「ダメったらダメ!」に到達させるのが最も良いのではないかと僕は思う。普通に考えたら、消去法で「殺しちゃダメ」になって、「その理由は、いろいろあるけど、まあ、とにかくダメだよな」というところに行き着くはずなのだ。

 これはもちろん「人を殺す云々」だけでなく、あらゆるケースに言えることです。

2011/03/07 ジャッキー

 僕のことを苗字で呼んでいた人が、僕のことを「ジャッキー」と呼ぶ人と遊びに行ってからのち、僕のことを「ジャッキー」と呼ぶようになった。
 原因が本当にそれなのかということはわからないけれども、なんだか面白い。実際、苗字で呼ばれるよりも「ジャッキー」と呼ばれたほうが嬉しい(関係にもよるが)。名前で呼ばれるとさらに嬉しい。ちなみに「ジャッキー」というのはそもそもハンドルネーム(これも死語だよなー)ではなく、高校一年生の四月に部活の先輩によって命名されたもので、とても愛着がある。すなわちもう十年以上ジャッキーだ。十年以上もジャッキーでいられた理由は、このホームページと、「ジャッキーです」というお馴染みの自己紹介のおかげである。大人になると「ジャッキーです」と言う場も少なくなるだろうと思っていて、実際苗字で呼ばれる機会がさすがに学生時代よりは増えてきているものの、職場でさえ「ジャッキー」とか「ジャッキーさん」とか呼ばれたりするので、やっぱり僕はジャッキーなのである。

2011/03/06 独善

「いや、それも私の、ひとりよがりか?」
 というのは、『
走れメロス』の中の一節。非常に重要な一文で、これを聞いて「あ、メロスだ」とわからないようでは、メロスを読んだことにならないのである。『走れメロス』は、ぜひ三年おきくらいに読んで、その都度考えてほしいものだ。
「えっ、なんでこの文がそんなに重要なの?」と思った人は、読解力が限りなくゼロに近い人であって、本を読んでも、読んだことにならない。などと現時点で言い切るのは乱暴で、やや卑怯か。お忘れの諸氏に思い出していただくため、前後の一文を含めてお見せしよう。

「君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。」

「君」というのはセリヌンティウスである。「私」とはもちろん、メロスである。さて、なぜこのせりふが重要なのかわかるでしょうか。

 昨日ファミレスで、中三男子が突然この一文を口走ったので、感心したのだった。あー、読めてんなー、すごいなー、と思った。ま、僕が授業でしつこいくらい強調して教えてたからかもしんないけど。珍しく授業聞いてたんだな。ほかの二人がまったく覚えてなかったというのは、担当の先生が怠慢だったか、指導書に書いてあることしか教えないような授業であったか、読解力がなかったか、ということだろう。はっはっは。
「ぶどうの季節まで待ってくれ」っていうのも彼は口走ってた。これは別に重要ってわけでもないけど、僕にとってはメロスの中で一、二を争うほど好きなフレーズです。むかしT橋ってやつに「○○はまだか」というような旨のメールをしたら、このフレーズで返ってきたことがあって、なんかジーンとしたなあ。元気かなあ、T橋。

「いや、それも私の、ひとりよがりか?」から、明らかにメロスは変わる。これは、あんまり単純な話ではない。ここにおいてメロスは客観性を獲得し、それが故に悩み、疑い、しかしそれでも自分を突き動かす大切なもののために走った。だからこそ感動的なのだ。
 人間は、主観的に生きているうちは幸せである。自分の都合のいいように考えていればいいのだから。動物的な快楽と、動物的な苦痛があるだけで、人間らしい苦悩というようなものはない。客観性を獲得してしまったが最後、葛藤や疑念というものはそこから生まれる。いや、そもそも思考とは、主観的にのみ生きているうちは存在しないようなものだ。動物のようなメロスは、ここにおいてやっと人間らしくなったのである。良くも、悪くも。ほとんどの人は何を言っているのかわからないと思いますが仕様です。

2011/03/05 ひとまず幸せ

 中三男子、高一女子、高二女子の三人のガキを侍らせてファミレスで「ノンポリ大学」を開講した。
 彼らはそれぞれに欠点や、未熟なところがありつつも、非常に見所のある、優れた少年少女たちだ。彼らのような若者に慕われて嬉しい。三人ともよっぽど僕のことが好きである。しかもその「好き」の在り方は三者三様で、いずれもそんじょそこらの「好き」ではない。程度の話をしているのではなく、次元の話。特異と言ってもいいかもしれない。ともあれ素敵な「好き」である。今のところは。
 それから今日は、外国に行っている高一にあたる男からもメールが来た。その内容は戦慄するほど面白く、興味深く、新鮮であって、僕の脳みその知的な部分と情緒的な部分をそれぞれ大いに刺激してくれた。彼もやはり僕のことが好きである。それこそずいぶん特異な形で。極めて嬉しい。
 この四人は、最近特に仲良くしている子供たちで、ほかにも愛するガキどもはたくさんいる。程度や次元の違いこそあれ、それなりに僕は愛されているのである。……などと言っていると「キモい」とか「調子のんな」とか中三男子に言われて気持ちよくなってしまうのでそろそろやめよう。

 言い訳のように付け加えておくがちゃんと大人とも遊んでいるのであるよ。と言っても、年下と遊ぶことが多いのは確かなので「なんで、年下とばっか遊ぶの?」というふかわりょう先生の一言ネタを思い出して自戒しなければ。マーさんとか皿屋敷さんとか、尊敬する年上の友達ともっとたくさん遊ばなければ。でもねー、なんで年下と遊んでしまうのかっていったら、年下のほうがヒマだからだよなー。これからもう、「同年代以上はみんな忙しい」という時期に突入していくんだなあ、僕も。結婚したりとかね。バランスよく人と付き合っていきたいものだよ。まったく。
「最低でも年に一度は皿屋敷さんとサシ飲みする」という決意も果たせていない。男というものは、やはり一対一で差し向かわなければいかんと思うのですよ! んまーでも、僕ってけっこう、年上とも年下とも同年代とも、かなりバランスよく接している人だと思うですよ。無銘やってるってのもあってか。ただ最近はまあ、十個前後下の友達が増えたので、それが目立つっていうだけで。それにやっぱ、教育というほど大げさなもんじゃないが、若い人に刺激を与えてあげたいというのもあるしね。それだけで十分すぎるほどに、忙しい。

 よく引き合いに出す例だけど、もっちーこと梅田望夫さんが、「自分より年下の人間としか会わないと決めた」ってどっかで書いてて、とても共感というか、納得したんだよね。僕はもっちーのことを尊敬してるんだけど、こういうところがすばらしいと思うのですよ。あの人は「未来」を見るのが好きな人だから、僕は好きなんだ。ウェブに関することでも、常に「未来」ってことを考えて言及してる。将棋に関してもそう。未来を考えてるときのもっちーは楽しそうだ。そういうところが魅力的なのだ。
 僕もやっぱ、可能性があるとしたら自分よりも下の世代だって思ってるから、どうしても年下のほうに目を向けてしまいたくなる。僕だって頑張るけれども、僕だけが、というか、僕の世代だけが頑張ったって仕方ないわけだからね。繋げなきゃいけないわけだから。上と繋がろうと思ったって、繋げるべき上がないんだから、下に手を伸ばすしかないんだよね。悲しいし、貧しいような気がするけど、今の僕にはそこが限界だ。上の人たちのことは、悪いけどいろいろな形で、利用させてもらう。その代わり、できるだけ下の人たちに向けて、何かをしてあげたい。これはあれですよ、若いうちは黙っておごられて、年くって金を持つようになったら、若い人におごってあげるっていう、飲み屋の暗黙のルールみたいなもんと、同じです。そんな粋なルールはどうもどっかいっちまったみたいだけどね。だから無銘喫茶では、本当にお金のない学生とかにはテキトーに割り引きします。その代わりたくさんここに来て、なんかを手にして帰ってもらいたいなと思うので。「金がなくて無銘に行きたいけど行けません」って人がもしもいたら、タダでもいいから来てくださいよ。いくらでも相談に乗ります。ただし年下に限るけど。

 昨日の日記がひどい終わり方をしているのは、出かけなければならない時間になったからです。続きはそのうち書けたら書きます。

2011/03/04 松本行

【3月2日】
 青春18きっぷを買い、中央線に揺られて五時間、松本駅に着いたのが一九時近く。西口から1分か2分も歩けば、もう祖父母の家である。おじさん夫婦が隣に住んでいる。
 松本駅西口はここ数年で一気に様変わりした。開発されてしまった。とはいえ、コンビニができたってわけでもないが。タクシー会社のプレハブ小屋みたいな 古ぼけた建物は建て直されて別の名義になっている。
 ピカピカのロータリーを抜けると、しばら馴染みの道になって、また知らない道に出る。そして知らない家のような、知ってる家に着く。
 窓からじーちゃんたちの姿が見えた。家に入る時に一瞬躊躇いながらも、ノックすらせんで扉を開けた。
 夕食を頂く。隣に住んでいるおじさんがお酒と時計を持ってやってきたり、同い年のいとこが挨拶に来てくれた。先日結婚したそうだ。いとこはかわいい。もう一人のいとこには双子が生まれていて、おじさんの家は賑やかのようだった。うちの実家では老夫婦が二人きりで暮らしていることを思うと、断然違う。三番目の兄が子供を四人も産んでいて、頻繁に実家に来るようだから、それだけが救いだろう。なんだかんだ言って僕は兄に感謝しなければならないかもしれない。いろいろあったが。よく働き、子供たちを健やかに育ててくれれば言うことはない。
 ビールと焼酎をさんざん飲まされ、おじさんと難しい話をしているうちに、じーちゃんが寝てしまったので、僕も寝ることにした。
 新しい家。じーちゃんたちの昔の家は、築百年の古い家だったので、泊まったことはない。だいたい隣のおじさんの家に泊まっていた。じーちゃんの家に泊まるのは初めてだったかもしれない。
 立派な部屋の、立派な布団で寝た。感動的なことならいくらでも書けるが、個人的なことなので割愛しておく。僕は彼らのことが大好きである。

【3月3日】
 七時半ごろに起きて、朝食を頂く。九時くらいまでのんびりして、出る。案の定じじいに引き留められたが、ママさん(祖母のこと。喫茶店をやっていたので)が冷静に引っぺがす。ママさんは大きな道まで見送ってくれた。
 駅を通って東口に出ると、気温表示があって、からからのお天気の元、三月の松本はマイナス一度だった。
 松本城へ。ひょっとしたら二十年ぶりくらいに有料ゾーンへ足を踏み入れた。さすがは国宝。
 天守閣に足を踏み入れると、「ミシッ、ミシッ」と怪しげな音。「なにやつ」と声がして目の前にまきびしが。「おまえらは…」「忍者だ」(つづく)
 さみしいので、暇な人は
掲示板に「何か」書いてください。何でもいいです。質問とかされたら答えます。「くつした何足くらい持ってますか?」とかでもいいし、自作のポエムとか、日記とか書いてくれてもいいです。
 とりあえず「つぶあん」か「こしあん」のどっちが好きかを教えてください。どっちも好きな人はそう書いてください。
「今はつぶあんとこしあんの話をしてるみたいだから、新しく書き込むのは遠慮しよう……」のような、勘違い女みたいな考え方をするのはやめてください。掲示板に書き込みが一つあると、僕の寿命が3日延びるのです。このままでは明日くらい死んでしまいます。

2011/03/01 たくさんの書き込みありがとうございます

 まだまださみしいですが、だいぶ楽になりました。皆さん本当にありがとう。意外にたくさんの人が見てくださっているのですね! 4人くらいがF5連打してカウンタ回してるのかと思ってました。(うちのカウンタは連打しても回らないけど)
 つぶあん派とこしあん派で論争になるかと思いきや、平和でよかったです。うちのお客さんは、まったく、良い人たちばかりですねえ。なんか久しぶりに掲示板充しております。うひひ。グヘヘ。

 これからも暇があったらボンボン書き込みお願いします。僕ももうちょっと柔らかいこと書けたら書きます。ぐえー。ごあー。

 やっぱたくさんの人に会わないと、ネタってできないもんですなあ。会いましょう、みなさん。ええ。特に初めての人・久しぶりの人。
 あと個人情報的なことを気にして何も書けなくなるってのもやだな。なんとかしたいな、これも。

 なんかこう、今日はひたすら、ごろごろしてましたよ。本当に、なんか、ダメですよ。もう、やる気でなくって。なんにも。
 うーん。人の目を気にしていると、どうもがんじがらめで、何も言えなくなりますね。人の目を気にしながら、面白いことを書きたいです。

 なんかこー、どん欲さって言いますかね、10年くらい前は、もう「何か面白いことを書いてやろう」とか、ある程度は思っていたような気がしますよ。たぶん。


 楠美津香さんの『超訳タイタス・アンドロニカス』を見てきました。
 まず、タイタスっていう人がいます。
 タイタスの娘が、二人の男に、舌を切られて、両手を切られて、強姦されます。
 その復讐として、その二人の男を殺してバラバラにして、肉まんじゅうにして、二人の男のお母さんに食べさせます。ちなみに娘はタイタスが殺します。
 舌と両手と貞操を失った娘は、父親に殺されるわけです。なぜか。
 そういった話でした。

 舌と両手と貞操を失ったらば、もはや死んだも同然。
 殺したのは父親=タイタスではなく、二人の男である。
 まあそういうことなのでありましょう。
 人間ってのはなんなんでしょうなあ。


 さて、つぶあんとこしあんについてですけど、
 こしあんが好きという人の中にはつぶあんを許さない人が多いですね。
「あの食感が苛つく」といった具合に、否定してかかります。
 なぜつぶを否定するのか。
 なんかこう、自分が好む方向に物事をねじ曲げようとする人が多いんですよ、こしあん好きには。
 たとえば男なら、女の子に対して、「こせ」と言うのです。
「おれは髪が短いほうが好きだから切れ」とか「おれはふたえのほうが好きだからアイプチしろ」とか言うのです。まあ、実際は言うのではなく、「髪が短くてふたえの人を好きになる」ということになりますけどね。
 逆に、つぶあんしか許さないという人がいるとしたら、そういう人は「化粧するな」とか、「パーマかけるな」とか言っちゃうわけです。僕はどっちかっつったらこっちの人かもしれません。ま、実際は言うんじゃなくて、化粧しなくてパーマかけない人を好きになるんだと思いますけどね。
 でも、つぶあんしか許さないというわけではありません。こしあんも好きです。食べます。だけど結婚するならつぶあんです。なぜならうちのかーちゃんが完全につぶあんだからです。
 男には「かーちゃん好き」と「かーちゃん嫌い」の二種類がいて、「かーちゃん好き」の人の理想の女性は「かーちゃん」なのです。きっとそうです。
 で、かーちゃん好きの男のかーちゃんがこしあんだったら、そいつはこしあん好きになるのです。僕の場合はかーちゃんがつぶあんだから、つぶあん至上主義なのです。
 勘違いしてはいけないのは、「つぶあん女子=つぶあんが好きな女子」ではありません。「つぶあん女子」とは、つぶあんそのものです。
 何を言ってるかわからねーと思うが。
 こしあん好きな女子は、男に対して、理想を抱いています。男を「こし」たがっています。理想の形にはめたがっています。時々僕は無理に君を僕の形にはめてしまいそうになるけれど~とかって歌がありましたけどそれです。というかまあ、「男の好みにうるさい」ということでしょうか。「オタクは絶対ヤダ」「オシャレな人がいい」「身長は180cm以上」とか。あるいは、「この人は『こせ』ない」と思った瞬間に、別の人に乗り換えてしまうとか。
 ちなみに僕はなかなか「こさ」れないので、こしあん好きな女子とはうまくいかないのです。かといって僕がつぶあんであるかといえばよくわかりません。僕は何あんなのでしょうか。でもどちらかというとつぶあんな気がしますが、煮すぎてどろどろになっているような気がします。それってつぶあんなのかなあ。
 このへんはよくわかりません。

 こしあん好きだろうが、つぶあん好きだろうが、要は異性のことを外見とか味とか、要するに「データ」として見て、それが良いか悪いかを決めているのです。
 本来、人間を判断する時には、「自分との関係」で判断すべきだろうと僕は思うのです。人間はデータではないのです。スペックではないのです。情報ではないのです。「かわいいから好き」「優しいから好き」「頭いいから好き」「ドラえもん好きだから好き」などというのは、クソ食らえなのです。
 自分と相手とがどのような関係を築いているか、また築いていけるか、それは素晴らしい関係であるか、心地よい関係なのか、などなど、そういったことを考えるべきであるのですことよろしく。
 ということは、見つめるべきは「あんと自分との関係」なのです。食感や味などにとらわれていてはいけません。
「こしあんと自分」「つぶあんと自分」ということを考えるべきなのです。こしあんとつぶあんから、同時に求婚されたらどうするか。どちらかを選ばなくてはいけない。そんなときに、「どっちも好き」などと言っていいわけがない。味では選べない、とするならば、やはり「関係」に目を向けるしかないのです。
 それは簡単なことではありません。
 一生考えても答えは出ないかもしれませんが、しかし、それでも答えを出さなければならないというのが、「結婚」というものの存在する社会というもの。
 僕はつぶあんが好きだ! と今は思うし、これからも思い続けるはずなのだが、それでうまくいくかどうかというのは、わからないのだ。ひょっとしたらこしあんとのほうが素敵な関係を築けるかもしれない。
 博打のようなものだが、しかし僕は決めてしまったのだ。「つぶあんと結婚する」と。それはかーちゃんがつぶあんだからであり、つぶあんの思想を信じるからであり、いつの間にかつぶあんというものを愛してしまっていたからなのである。
 僕は野菜はあんまり加工しないほうが好きです。生が好きとまでは言いませんが、茹でたり焼いたりしただけの状態が最も美味いと思っています。あんこもそうだし、女の子もそうなのではないか? 生がいいとまでは言わないが、茹でる、焼く、せいぜい煮る、そのくらいでよいのではないのか?
 たとえばそういう考えのもと、僕はつぶあんを叫ぶのでした。

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