少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2013/09/30 月 昔からの友達に

 悩みや不安や心配は、幸せを噛みしめることで落ち着く。
 立ち向かう活力はそこから生まれる。
 幸せは現在とはあまり関係がなくて、過去からしかやってこないものかもしれない。
 ところが不幸は、現在だけが問題になるものだ。

「ありがとう」という言葉が意味を持つのは、当然だけど、過去があるから。
 過去のある時を噛みしめて、「本当にありがとう」と思ったり、言ったりする。それでどこかに生まれるのは、幸せなものだ。
 辛いことは忘れる。嬉しいことも確かに忘れる。
 いつか思い出すなら嬉しいことのほうがいいから、できるだけ人は嬉しいことのほうへ、再会する方向へ歩いて行くわけだ。

 ありがとうという言葉で
 失われしものに誓うよ
 磯に波打つ潮よりも濃く
 我の心はともにあると

 そして
 微かな恐れもなく
 僅かな疑いも持たず
 甘き力が我らとゆくこと
 それを知ってる
 それを知ってる
 火傷のように消えず
 (小沢健二/時間軸を曲げて)

 失われしものが、甘き力をくれる。
「我の心はともにある。」
 それで僕はやっていける。
 再会のたび、僕は震えながら感謝してる。
 みんなありがとう。

2013/09/29 日 おざ研の居心地とセオリーについて

 大学生になって、いろんな場所に出入りするようになった女の子が、いろんな場所に行って疲れて帰ってきて、「おざ研の居心地のよさは異常」みたいなことを言ってくれる。実に嬉しく、誇らしい。
 あの場に「居心地のよさ」があるのなら、それはどこからやってくるのか。自分なりに考えてみた。
 結論としては、「セオリーの存在しない場」にしようと、僕が思っているからなんじゃないかと思った。

 セオリー(theory)というのは「理論・学説」をはじめとしていろいろな意味があるようだが、日本語で「セオリー通りに」というと、ちょっと特別な意味になる。Weblio類語辞書というのでこれを引くと、「よいとされている手法に従って物事を行うさま」という意味とされ、類語群として以下の言葉が列挙されている。
「セオリー通りに ・ 定石通りに ・ 王道で ・ 最善手で ・ 最善の方法で ・ セオリーに準じて ・ 定石にしたがって ・ 定石に従って ・ マニュアル通りに ・ マニュアル通りの ・ 教科書通りの ・ 教科書通りに」
 僕は将棋が好きなので、その言葉でいえば「定跡」というやつだ。(定石は囲碁の言葉。)一般的には「マニュアル」という言葉がしっくりくる。

 おざ研には、「こうすればいい」ということが少ないのである。
 あらかじめ決まっていることが少ない。  たとえば学生が飲み会をやると、早稲田や慶應なんかだと「学生注目!」「塾生注目!」なんていう自己紹介スタイル(僕は大嫌いである)があったりする。学注のあとは一気飲みである。一気飲みときたらコールである。これがセオリーというものである。
 場には場の、社会には社会の、コミュニティにはコミュニティの、「セオリー」というものが存在する。年上が年下にお酒をおごる、男が女にお酒を飲ませる、といった、それもセオリーである。「飲み屋だからお酒を飲む」もセオリーである。おざ研にはそういうのがほとんどない。養命酒を飲もうが、水を飲もうが、構わない。お金は払ってほしいけれども、いちおう各人の財布に応じて多少柔軟にしている。
 バーなどでは、「金を払って酒を飲む」というのは、その場にいるための最も強力な口実だけれども、おざ研は「店」という感覚から離れているので、木戸銭を払うことがそれほどの口実にはならない。どうしても「会話」や「関係」というものの中に入っていかざるを得なくなる。
 僕は個人的には、一人で黙々と酒を飲んでいる人がいてもいいと思うが、今のスタイルだと現実的にそれはあんまりない。ただ、むしろすでに場に慣れている人が、気を抜いて一人の世界に入りこむようなことはおざ研ではよくある。僕なんかはけっこうそうなっている。ずっとギャラリーフェイク読んでたり、ファミコンやってたりする人もいる。ただその人たちも、要所要所で必ず会話に加わってくる。その感じが本当に心地よい。
 おざ研はバーのような空間ではあるけれども、「金を払って酒を飲む」がセオリーとして存在していない。少なくともそういう意識がバーよりはずっと低くなっている。こういう状況を表す言葉として、「セオリーがない」というのは一つの表現だと思う。

 昔から「学問に王道なし」と言うけれど、人と人との間にある「関係」なるものに、王道などあるわけがない。
 飲み屋でコールして盛り上がっている大学生は、まさしく「王道」に乗っかっている人たちなので、学問とは遠く離れたところにいる。僕が一般的な大学生のサークル活動をあまり好きではないのは、彼らが自分の乗った「王道」に頼り切っているからだ。早稲田大学伝統の「100キロハイク」「早慶戦」「マイルストーン」なんかはその代表だと思う。早稲田の人たちってことあるごとに校歌を歌いたがるけれども、それもセオリー。自由や在野という精神からずいぶんと離れたところにいる。

 人と人とが、あまりものを考えなくても、工夫しなくても、衝突せずになんとかやっていくために「セオリー」はある。守り合うために、共通認識として、二番目の言語のように大切な位置を占めている。僕はそれ自体が嫌いなわけではない。それ「だけ」になってしまうと、柔軟性を失って、面白くなくなると思うので、自分が用意する空間にはそういうものは置かないほうがいいなと思っているだけだ。「セオリー」に乗っかるのが極めて苦手な、僕のような人間だってたくさんいるのだから。(これはちょっと前にさんざん書いた「便乗力」というものにけっこう関わってくる。)
 セオリーは大切で、社会の潤滑油だ。それがなければ、ちょっと大変なことになる。理想をいえばなくてもやっていけるにこしたことはないと思うが、現実的にはかなり難しい。しかし、「この潤滑油は体質に合わない」という状況はいくらでもあって、そういう人たちが僕にとっては愛おしいので、そういう人たちにとって居心地のよい空間になるように、できるだけ「セオリー」なるものを減らしていこうと思っている。

「納得しないこと かんたんにはうなづけない」って、岡崎律子さんが歌っているけれども、セオリーに従えない人っていうのは、たいていは「納得したい人」なんだと思う。「潤滑油つったって、それ原料なんなの? 身体に悪影響ないの?」といったことが、気になる人。考えてしまう人。そういう人たちは、とてもまじめで、愛おしい。

 おざ研にはいろんな人が来る。みんなは知らないかもしれないけど、「一度しか来たことがない人」を含めると、本当におびただしい人数が来ている。でも、「居着く」人は多くはない。それにはいろいろ理由はあるんだろうけど、一つにはこの「セオリー」の問題があるような気がする。
 それは良いことでも悪いことでもなく、僕がそのようにしているだけなんだよなと思う。だから冒頭の彼女のように「居心地がよい」と言ってくれる人がいてくれるんだろう。
 こんなことを書くと、くる人が増えるのか、減るのか、わからない。不安だけれども、たまには書いてみた。最後に。みなさんぜひきてください。

2013/09/28 土 観変わり

 これに出てた。
 ちょっと人生観変わる一夜だった。
 そもそも僕は「うんこ」という言葉が好きではないし、そのもの自体にも特に好悪の感情を持っていなかった。「重要である」という一般的な認識はあったが、真っ正面から向き合うということをしなかった。
 このイベントに参加が決まって、「なんかすごい人たちが来るみたいだから、せめて小説でも書くか」と、ちょっとした短編を書いた。個人的には気に入っている。30字×30字の22ページ、だいたい20000字くらいのもの。90部印刷して配ったら、20部くらいしか余らなかった。こんなイベントにそんなに人が来るものかと驚愕した。
 小説を書いて、生まれて初めてうんこと真剣に向き合った。そしてイベントでうんこについて話し、さらにうんこに対する認識を深めた。うんこ(口に入れるものとしての)について詳しい識者の方と話して、自分が小説に書いたことの大筋は正解だったなと思った。一方で、書くべきだったのに書けなかったことも見つかった。
 ジョージ秋山先生が、自分が子供に教えたのは食べることと出すことだけだというようなことを書いていた。それほど、その二つは根源的であるということだ。
 うんこはセックス以上に禁忌的な秘め事である。拒否反応を示す人の割合は、たぶん性的なものへのそれよりも多いんじゃないだろうか。だけど、無視するべきことではない。どこかに、何らかの形で、必ず関係することなのだ。この一夜で、明らかにうんこに対する人生のウェイトが増した。
 とはいえ、「うんこうんこー」と叫ぶようになるでもないだろう。ただ静かに、生活の中にあるうんこ、社会の中にあるうんこを、見つめていきたい。

2013/09/27 金 もう完璧を求めない

 僕は完璧を知っている。
(物理法則以外に完璧なんてあるんですかと問われても、今の僕にはこのことを曲げるつもりは一切ない。それは藤子不二雄先生や岡田淳さんの作品であり、奥井亜紀さんの歌である。)
 知っているからこそ、求めていた。
 しかし完璧は求めるものではない。
 完璧は奇蹟である。奇蹟は求めるものではない。
 奇蹟は待つものではない。
 奇蹟は享受するものである。
 目撃するものである。
 探すものではない。創り出すものでもない。
 愛と同じ種類のものである。
 愛も求めるものではない。
 当たり前すぎるほど当たり前のことを、改めて言葉にしてみる。
 完璧を求めるのはばかげている。
 ようやくそこまでやってきた。
 あきらめかもしれない。
 ただ、理想はある。
 理想は求めるものではない、と思うようになっただけだ。
 理想は心の中にあり、目的地ではない。
 それを一言でいえばどうしても「優しさ」になってしまう。
 僕らは祈るとき、たぶんその優しさに祈っている。
 優しさで動く心臓は活力をくれる。
 優しさは人に向けるものではない。
 心臓を動かして、全身に血液を送るためにある。
 それが衰えた時は、まず休み、水を飲み、歩く。
 完璧や奇蹟はその中でどこかに宿るものだ。
 誰にも気づかれないものもある。
 闇の中に散っていく完璧や奇蹟は、どこかで優しさの花になる。
 それが巡っていくのが世界の仕組みだと思う。
 本当の話。

2013/09/24 火 ひとまわり

 永遠に忘れることのない空気がある。
 永遠に忘れることのない川。
 物心ついてからずっと流れ続けている。
 矢田川という川が僕のふるさとである。

 なにもかもがあったわけではないが
 好きになってからまったく変わった。
 大切なことを意識的に積み重ねていった。
 それで生きることに大いに近づいた。

 あの日肩を抱き頭を覆った優しい風を
 永遠に忘れることはない。
 それがどういう意味であったか
 当時も今もわかりはしないが
 ただ風景として変わらずにある。
 それは確実に尊いものだ。

 からい風もあった。
 触れることのない切ない空気もそこにはあった。
 この川で出会いこの川で分かれた。
 そして川のないどこかで落ち合った。
 切り傷を重ねながらも
 かまいたちに身を裂かれつつも
 心に川が生まれるまでを
 じっくり生きてきた感じがする。

 いつの間にか必要がなくなっていた。
 最も必要だった時期に僕はこの川を去り
 必然的に崩れた。
 川のない時間は不安定だった。
 だけどいつしか生まれたのだった。
 どの瞬間だかわからないけれど
 確かに忘れないどれかの時に。

 そのために僕は積み重ねていったのだ。
 積み重ねることを覚えるために
 僕は河原で石を積むように
 生きることへと近づいたのだ。
 かたつむりを食べたり焚き火をしたり
 石を投げたりキャンプをしたり
 ただ意味もなく眺めたり
 そして特別を会得したのだ。

 はじまりはあの風だった。
 小学生の時になくした500円玉を僕はまだ忘れない。
 中学生の時に花火大会のあとで飛び込んだことも。
 あらゆること。
 それらはすべてあの風に出会うためだったのだろうと
 今は思う。

2013/09/23 月 命日

 こだわりすぎているのかもしれない。
 本当はそんなことどうだっていいのだ。
 友達の命日に興味はない。
 だからなんだとばかり思う。
 そういう宗教的な関係ではないのだから。

2013/09/22 日 ヒトソレゾレ

「質」というものはあります。断固としてあります。
 僕は○○のほうが××よりも上質だと信じています。
 しかし、低質なものでなければわからない、という人もいます。
 低質なものでなければ心打たれない、という人もいます。
 そういう人に上質なものを見せても、わかりません。
 仕方ないのです。

 以前の僕ならば、「だからこそ、低質に見えるようなものの中に、『いずれは上質なものがわかるようになるような仕掛け』みたいなものがなければいけないんじゃないか」と言っているでしょう。今もそうは思います。
 しかし諦めてきましたね、さすがに。
 低質なものしか作れない人が、そんな仕掛けを作れるわけがないのです。そういう仕掛けは、「本当は上質なものが作れるけど、低質なものしかわからない人たちがいつか上質なものを理解できるようになるための足がかりとして、仕掛けをほどこした低質なものをあえて作る」ということが素直にできる人にしか作れないのです。
 子供を健やかに育てるための作品の中には、大人からしたら低質に見えるようなものもあるのかもしれませんがが、しかしそれは「いつか大人から見ても上質なものが理解できるようになるための足がかり」であると。そういうような状況ってのが、美しいと僕は思うわけなんです。
 そういう状況はあるところにはあります。しかし、「低質な人たちがただ低質なものを作っている」という状況に埋もれています。実に悲しいことです。
 僕は最近までそういう状況を憎んでいましたが、今はそうでもないです。仕方ないですね。
 それが人間だということです。そんなに進歩ばっかしても仕方ないです。
「みんなで仲良くできたほうがいいじゃん!」「楽しくやろうよ!」「そのためにみんなでいろいろ考えない?」って僕は思うんですけど、別にまあ、楽しくする必要もないですね。戦争も人間らしさですね。
 そんなこと言うために生まれてきたわけじゃないんですけどね。
 みんなはいい人になりません。
 善くない人の率が増えるか、善くない人の声が大きくなるか、という未来を予想します。
 その中でせめての希望を拾っていくしかないですね。
 僕にできるのはその程度です。
 質はどんどん下がっていくでしょう。
 しかしあまねく広がるでしょう。
 それで質量は保存されます。
 そういうふうになっていくというだけのことです。
 貴族の政治がなくなるまでのゆっくりした過程の中にいて、だから貴族は辛いのです。
 最終的には貴族は滅びて、平らな世界ができるのかもわかりません。
 その時に「みんなで仲良く」は実現するのかもです。
 しかしそれは56億7千万年くらい経たないと不可能でしょう。
 人生は短いから急ぎすぎてしまうけれども、ちっぽけな一人の人間が、数十億年後の理想の未来を目撃しようだなんて、大それた考えです。
 その中で、じゃあ、どうやって生きていきましょうか、というのが現在考えていることです。

2013/09/21 土 反省すらしてない人

 これを読む限り、ヤンキー先生は反省すらしてない。そういう部分はカットされたのかもしれないけど。でも、一度も見たことがないんですよね。彼が自分の過去の悪事に向き合っている姿を。「孤独だったから」のあとにすぐ「自殺を図ったが救われた」に行っちゃうのが、「自己中心的」ってところです。そして「救われた」のあとに「自分が救われたから自分も救いたい」になるわけです。こんなに自分中心の考え方ってのもないと思います。もっと他人のことを考えたほうがいいと思いますよ!(助言)

 仕事で取材とかしてても、「自分が○○してもらったから、○○の職業に就きました!」って人は非常に多い。多すぎるくらい多い。そういうのって自己中って言うんだと思うんだけど……。
 っていうところでこれまでの僕は終わっていましたが、まあ、「そういう考え方しかできないように育ってきたのだから仕方ないよね」というのが今の立場です。そういう人は素直でまっすぐだっていう輝く長所もありますから。僕は必要と機会があればこっそりと精一杯のアドバイスをするだけです。

2013/09/20 金 反省について

 EE JUMPのユウキこと後藤祐樹さんの自叙伝『懺悔』を、友達(ogtyさん)からもらって読みました。工事現場から大量の銅線を盗む窃盗団の頭をやって捕まり、五年間の懲役を経験した人です。
 彼はもちろん反省し、後悔し、懺悔しているわけですが、恐ろしいことに、彼は逮捕されるまで反省したことがないんですね。多少はしたことはあるのかもしれないけど、たぶんほとんどしたことがないですね。
「あーそうか、反省する人っていうのは、反省するまで反省してなかった人なんだ!」と、目から鱗が落ちました。
「反省するまで反省してない」ってのは当たり前のことのようですが、これでけっこう含蓄のある言葉なのですよ、自分で言いますが。

 後藤メンバーは、たぶん「悪いこと」を百個、ないしは千個くらいはゆうにしているような人でした。カツアゲや万引きは日常のことだったと思いますし、暴力もあったでしょう。仮に千回、悪事を働いたとします。彼は千回目には逮捕されて反省したのかもしれませんが、九百九十九回までは反省していなかったわけです。多少は反省したとしても、事実としてすぐにまた悪いことをしているわけだから、周囲から見れば「反省してない」です。
 千回悪いことをする人は、九百九十九回までは反省してないわけです。しかし千回目に反省をすると、「反省した人」になります。
 それで「反省した人」として自叙伝を書いたりするのです。

 僕は人間の反省を根本的に信用していませんので、「反省しろ」とか、「反省したほうがいい」とかは、実はあんまり思わないんですね。「反省した」といくら言ったって、ヤンキー先生みたいな人もたくさんいるわけですから。ヤンキー先生がもし、メディアに出るたびに必ず、自分が今までしてきた悪事について謝罪の言葉を繰り返し繰り返し、何度でも述べるような人であったら、僕は彼のことを好きだったかもしれません。しかし彼は自分の過去の悪事について謝罪することは、たぶんあんまりありません。僕はけっこう彼のことを意識していますが一度も見たことがないので、少なくとも「毎回、必ず」ではないでしょう。
 衆議院議員としての彼のHPを見ても、特に謝罪だとか、反省のような言葉は見当たりませんね。でも彼は自分で自分のことを「反省している」と思い込んでいるのでしょう。そして反省することによって「終わった」ことにしているのでしょう。
 僕が好きなのは「夜回り先生」で、彼は講演のたびに必ず話すエピソードを一つ持っています。僕も都内の講演会で聴いたことがあるので、たぶん本当に毎回話しているんだと思います。そういうところに僕は最も好感を抱きます。彼は「アイ」という少女の話を、彼女の人生の意味を、決して「終わった」ことにはしません。

 反省する人というのは、「反省するまで反省しなかった人」で、その中にはかなりの割合で「反省することによって何かを終わりにさせてしまう人」がいます。そんな反省だったらしないほうがマシです。
 義家さんにはぜひ、自身のHP上で過去の悪事をすべて告白し、「このようなことは二度としません。なぜなら、当時は……であって、今は……と思うからです」と、改めてこれまでの悪事に対しての「向き合い方」を表明してほしいものです。そしてできれば、悪事に手を染めている・いた人や、その家族・友人・関係者などに向けて、過去の悪事に対する向き合い方を示唆するような、そういう「ヤンキー先生」ならではの活動を、メインにやっていてほしいなと、勝手ながら願っております。少なくとも公式HPのわかりやすいところに置くなどしていただければ、僕は彼のことをかなり好きになるでしょう。
 求めすぎだとは思うんですけどね。すでに本の中に書いたのかもしれないし。でも、「本に書いたから」は「反省することによって何かを終わりにさせてしまう」ということそのものなのです。終わらせないことの表明のために、公式HPに書くのはいいことだと、僕は思うんですけども。

 反省は自分のためにするものであって他人のためにするものではないのです。いくら反省をしたって、自分自身が生きやすくなるだけのことです。僕は反省ばっかりするやつは「自己中」だと思います。

2013/09/19 木 本質に依存しない/大局観

 本質に依存しない柔軟さが大切なんでしょう。
「正しい」ということに頼らない。
 当たり前のことなんですけどね、たぶん。

 羽生善治さんは、「直感」と「読み」と「大局観」によって指す手を決めるそうです(『大局観』)が、これは非常に参考になります。
「読み」というのが、まさに「順を追う」ですね。
「直感」は、実は僕が最も得意とするものだと思います。
 あとは「大局観」ですね。この言葉が、あるいは考え方が僕にとって正しいのかどうかはわかりません。羽生さんはこう言いますが、僕にとっては違うかもしれない。でも、とにかくそういう「第三の力」みたいなものは、どこかにあるような気がします。
 僕は麻雀が弱いのですが、そこに秘密はあるかもしれません。

 宇多田ヒカルさんの『タイム・リミット』っていう曲、よい。

2013/09/18 水 順を追わずに考える

 近づけないよ 君の理想に
 すぐには変われない Can you keep a secret?


 宇多田ヒカルさん、『Autmatic』『Addicted to you』『Can you keep a secret?』『Keep tryin'』あたりが当面好きです。聴き込んでいけばもっと好きな曲が増えるのかもしれない。どうでもいいけどこの並び、A→A、you→you、keep→keepで繋がってますね~。

 最近日記や、掲示板へのお返事が滞って申し訳ないです。
 書き込みは遠慮なく、たくさんくださいませ。

 思っていることがたくさんあるのですよ。
 一番はやっぱり、「寛大で寛容な、すべてを許し、愛する人間になりたいな」です。もうけっこういいところまで来ているような気がします。とりわけ最近は、かなりの速さで進行しています。
 そもそも今年の正月くらいに「今年のテーマは博愛! すべてを愛そう!」とか言い出したのが発端でした。
 でもさすがに「愛そう(好きになろう)」は難しいですね。
 そこで次に考えたのが「赦(許)そう」です。
 これは過渡期の段階だと思います。「許す」というと「上から目線」な態度も含まれてしまいますが、段階としてはアリかなと。

 もうずいぶん前から怒ったりしなくなったんですよね。
 泣くことも減りました。
 そして悲しんだり苦しんだりすることも少なくなってきました。
 そうすると暇なのでしょう、「考えて、語る」が多くなりました。
「これはよくない」「これはよい」とかいった、自分なりの基準を作るのが楽しくなって、しばらくはそういうことをしていました。
 基本的には、その「基準」に沿って生きていくつもりではありますが、それは理想として、現実的にはもうちょっと緩く考えたほうがいいんだろうなと思っているのが最近です。
「順を追って」考えることばかりをしすぎていたような気がします。それをちょっと、緩和してみました。そうしたら、無気力になってきました。これも過渡期として必要なものだったんでしょう。今日、ようやく少し活力が出てきたような気がします。
 これから僕はたぶん「順を追わずに」考えることが増えるでしょう。もともと僕はそういう人だと思うのですが、秀才として「順を追う」こともけっこう得意だったので、けっこう長い間そうしてきたように思います。
 決して「考えない」とか「直観に頼る」というのではなくって、「順を追わずに考える」です。それが具体的にどういう思考を意味するのか、実は僕にもよくわからないのですが、今はそういう表現でしか説明できません。
 もちろん、必要な時には順を追うのでしょうが、必ずしも順を追う必要はないだろう、と思っているので、必ずしも順を追いはしないでしょう。
 ここしばらく(ひょっとして四月くらいからずっと?)は、「順を追わない」訓練をしていたのかもしれません。そのせいで僕はずっと無気力でした。その無気力のピークがここ最近だったのかもしれないです。

 文章を書くときは順を追っちゃいがちなんですが、それはしょうがないことにします。このサイトもやめる気はありません。
 ただ、順を追うことに縛られると、順を見失った時に大変だということは、生きていくうちに学びました。
 順(order)は成長・成育のために様々な面から、様々な形で必要なのですが、成熟はそのあとに訪れます。成熟のために必要なのはorderではないと思います。
 人を愛したり、みんなを大好きでいるためには、orderだけでは足りないのです。
「心」とか「感情」とかいったことの重要性を訴えるのではないです。あくまでも「順を追わずに考える」が大切なのだと僕は思っているのです。

 2007年くらいから「順を追わない」ことの大切さが日に日に分かっていきました。でも、今のような意味で気づいたのは最近です。というか今です。
 ただ、順を追うことは、できるだけできたほうがいいです。「順を追わない」は「順を追う」ができた上に存在するものです。ピカソが実はデッサンめっちゃうまいとか、そういう感じです。完璧だから崩せるのです。
 自分が完璧だとまでは言うつもりはなく、欠陥も多いのですが、とりあえず「順を追わない」という選択肢を意識的に使ってもいいところまでは来たような気がします。

 僕はいろんなものを許し、愛し、受け入れる必要を感じています。その準備がようやくできたように思います。
 宇多田ヒカルさんを好きになったのもほんの数年前です。昔は好きだとも嫌いだとも思いませんでした。何かが「好き」と言うのにブレーキをかけていました。今でも、「宇多田ヒカルさんは正しい! 好きだ!」というふうには思いません。「別に特に理由はないけどなんか好きだな」とくらいに思います。これから僕はどんどん、単に「あ、宇多田ヒカル、好きだよ」とだけ言うようになっていきたいです。このような変な説明なんかつけず。
 ただそういう態度を推し進めて行き過ぎると、「問題」が見えなくなるのではないか、というのは怖いです。僕個人は生きやすくなりそうですが、その代わりに失われる魅力というのもあります。そこはバランスを取って、ちゃんと切り取って考えることもするだろうし、言うべきと思うことは言います。そうすることによって見えるようになることもあるはずです。

 バランス。うーん。このところが非常に難しい。
 順を追うことと、追わないことのバランスを適切に取れるようになることが、今の目標、願いです。

 順を追うことに拘泥するということは、「積み上げてきたもの」に拘泥するということです。そういうものを取り払って、フラットに考えることができるということは、実に大切なことです。
「積み上げてきたもの」にはもちろん、「積み上げてきた」だけで価値があります。ただ、その価値を保存すべきか、ということはまたちょっと違います。価値に拘泥するのも、「順を追う」の類ではないかと思います。
 よくわからないですが今の気持ちはそんなところです。

2013/09/11 水 依存の転移

 依存対象は転移する。
 それを知っているから『香菜、頭をよくしてあげよう』(筋肉少女帯)の男は「一人ででも生きていけるように」と歌うのだ。
 彼が香菜に勧める泣ける本も、カルトな映画も、一人で生きて行くためのものなのだと、彼は思っている。そのことの是非は置いておいて、そのような優しさと達観が彼にはある。
 依存されれば嬉しい。しかし、いつか終わりは来る。依存対象は転移する。
 辛くとも、依存は断ち切らなければならない。大変だけど、どこかで断ち切らなければ、同じことを繰り返す。人が依存するのは異性だけではなく、もっと危険なものもある。あらゆる依存から離れさせるには、それなりの労力が必要だ。
 ただ救いとしては、「一人ででも生きていける」ことと、「一人で生きていく」とは別であるということ。香菜が一人ででも生きていけるようになったからといって、二人に別れが訪れるとは限らない。
 依存から卒業し、自立して、その上で……という希望が辛うじてある。

 そして依存対象は異性だけではない。一人で生きていけるというのはそういうことだよなと思う。
 そこで初めて自由は生まれるし、「恋愛」だってできるようになる、と思う。

 心を広く、豊かに持つことは大切です。

2013/09/10 火 円ちゃん

 高二の時に書いた『少年三遷史』ってお芝居のヒロインは「佐倉円」と書いて「さくらまどか」。あだ名は円(えん)ちゃん。ここにもなんか、僕の一貫性みたいなものが出ておりますねえ。ちなみに円ちゃんの正体は「時間の神様」。
 1981年の中学生男子と2001年の中学生男子と、1991年に住んでいる中学生女子(円ちゃん)が出会って、1981年の男の子が成長することによってそれ以降の世界(の住人)が少しずつ変わっていく、というような、話で、まあ、けっこう面白いんですよ。
 この時点で僕は「時間(現在・過去・未来)」ということや、因果だとか、「意志(現在)の力で人生(過去・未来)をひっくり返す」だとかいうことを考えていたんだなあと、感慨深いものがあります。
 その主役の一人が「円ちゃん」という、時間の神様だというのは、面白いです。
 時間とは「円」であり「縁」だということなのでしょう。

2013/09/09 月 球か円か

 僕は車輪が好きなようです。
 おそらく丸いからです。
『T.Pぼん』という藤子・F・不二雄先生の漫画でも、シュメール人が車輪を発明したといううんちくシーンが小さい頃から印象に残っていました。(同じ話で、文字の発明に絡んだシーンがさらに興味深かったせいかもしれないけど。)
 現在、車輪といえばママチャリを二台、ロードレーサーを一台、キックボードを一台、原付(リトルカブ)を一台所有し、用途により使い分けています。
 ところが、なぜかクルマに乗りたいという気が起きないのです。
 これはなぜなんだろう、というと理由はいろいろあるのですが、最も単純な答えが見つかりました。
 クルマは○いよりも先にまず四角いからなのであります。

 電車も、だからあんまり乗りたがらないのかもしれません。
 新幹線や飛行機は一般の電車ほど四角くはないけど、「車輪」ってイメージじゃないですね。線路を走るものは数直線だし、飛行機は離着陸の時しか車輪を使わないです。
 ドラえもんは丸いけどガンダムはあんまり丸くないので、ドラえもんほど好きじゃありません。ガンダムだと昔から一貫してザクが好きです。なぜかといえばもう、丸いからでしょうね。
 そういえば日本も丸い。地球も丸い。
 オリンピックも丸が五つもあるんだから好きになってもよさそうだけど、あんまり好きにならない。どうしてだろう。
 球技だって、ボールは丸いのにそれほど好きではない。
 なぜだ?
 僕は球ではなくて円が好きなのかも。
 地球はそれほど好きではないし……。
 好きな球を考えてみましたが、あんまりないです。
 人の顔は立体だけど、球なのかといえばそうでもないし、球みたいな顔が好きかといえば別にそうでもないのです。たぶん、輪郭のラインが円っぽいと多少の好感(安心感)を持つっていう、程度だと思います。
 だから僕はドラえもんのぬいぐるみとかに興味を示さないのか。
 球よりも円。これは割と大切なことかもしれない。

2013/09/08 日 リズム感(藝祭にて)

 東京芸術大学の学祭に友達の演奏を聴きにいった。
 作曲科一年生の作った曲を、いろんな科の学生が演奏する、というようなもの。全部で十数組の発表があった。楽器はピアノ、管弦、マリンバ、声楽など。
 僕は自分のほっぺた以外の楽器を演奏できない素人なので、難しいことはもちろんわからないんだけど、「これは好き」「これはそうでもない」というのは明確にあった。作曲にしても、演奏にしても。

 いいなと思ったのは、弦楽器五本とピアノによる演奏で、タランテラとジャズがせめぎ合うような曲(そんなようなことがパンフレットに書いてあった)。ピアノは作曲した人本人だった。楽しそうに弾いていて、これだなと思った。弦のほうは様々だった。
 それから、ピアノとフルートの二人組。フルートの高音が「これでいいのかな?」とも思ったけど、きっとあれでいいんだろう。二人とも、とても丁寧に弾いていて好感が持てた。
 そしてもちろん、我が友のヴァイオリンは良かった。良かったとはいうものの、「何がいいんだ?」ということになると、難しい。下手なことを言うと「よくわかってもないくせに偉そうなことを」と、二度と口をきいてくれなくなる可能性もある。気をつけつつ、考えていたことを書きます。

 書きますと言っても、大筋は過去に書いたことの焼き直しになりそうなので、まず古い文章を引用します。
 まず、中学校のダンス部の公演を見て書いた文章。

 僕と仲の良い子は、ちゃんと全身で踊っていて素晴らしかった。躍動感、しなやかさなど良い点はいくらでもあるのだが、何よりも「踊っていない身体の部位がない」ことを讃えたい。身体のすべての動きに意図があり、意味がある。そしてそれは一つの流れとして繋がっていて、秩序があり、踊りとして完結している。中二でこれだけ踊れたら充分なんだろうと素人ながら思った。
 要するに、やはりリズムかもしれない。スウィングしてた。音楽に合わせるのではなくて、音楽に溶け込むように、自らの身体がリズムそのものとなるように踊る。たぶんそれが踊りというものの肝なんだろうと、やはり素人ながら勝手に思った。
 身内ゆえのひいき目は多分にある(その子以外はほとんど注目してなかったし)にしても、充分褒めるに値するパフォーマンスでした。
2011/11/05 誕生日と年賀状と文化祭と思春期(という名文)

 それから、小学校の合唱部の演奏を聴いて書いた文章。

 しかし山鹿小学校は違った。「自由に躍動しながら歌っている」だった。それぞれが思い思いの、おそらくは自分の最も歌いやすいやり方で歌っていた。首を大きく振り動かす子や、手を使ってリズムを取る子さえいた(大会中、おそらく一人だけである)。もちろん、統一感はなく、見た目には汚い。しかし、だからこそ、目が離せない。ほかの学校の演奏は、目を閉じて聴いたりもしていたが、山鹿はまばたきするのも勿体ないように思えた。そういう迫力があったのである。
《略》
 何より、「全身の表現」が心を打った。視覚的なことだけではなく、それが歌にも影響しているはずだと思う。そうでないわけがない。「全身の表現」というよりは、「全身からの表現」と言ったほうが適切かもしれない。
《略》
 山鹿の演奏には、「一人一人の彼ら」が、素人の、まったく部外者の人間でもわかるようなレベルで、存在していた。それでいて、全体としてよく調和していた。これはもう、ほとんど奇跡のようなことなのではないか、とすら思う。
 これは、「個人」と「全体」という問題だ。一人でありながら、調和していること。一つ一つの心、そのすべてが奏でるハーモニー。それがきっと、真に「自由」であるということだろう。
2012/10/08 合唱と「自由」(山鹿市立山鹿小学校)

 どちらもいい文章で、特に山鹿のほうは、ぜひ全文読んでみてください。

 僕の友達のヴァイオリニスト(以下、ECEくん)も、タランテラの作曲者の子も、ピアノとフルートの二人も、引用文に書かれているような要件をそのまんま満たしている。
「全身で奏でる」ということ。それ故に「個人」であり、しかし「全体」と調和し、すなわち真に自由である。
 それは結果的に音楽としてはどこに出るのかといえば、たぶん「リズム」だと思う。
 たとえばECEくんの演奏は、「流れて」いる。決して、「刻んで」などいないし、「奏でて」いるとも言いたくない。「踊っている」とでも言いたい。流れていて、踊っている。

 引用文は、ある女の子のダンスについてこう書いている。
「踊っていない身体の部位がない」
「身体のすべての動きに意図があり、意味がある。そしてそれは一つの流れとして繋がっていて、秩序があり、踊りとして完結している」
「音楽に合わせるのではなくて、音楽に溶け込むように、自らの身体がリズムそのものとなるように踊る。」
 これを、なんとなくこう、楽器の演奏に置き換えると、だいたい僕の言いたいことになる。

 すべての音に、意味……というか、適切な役割を、与えようとしているか。それは無意識であってもいい。正しく楽しめば、必ずそこに「適切な役割」はある。「心をこめる」というのは、そういうことなんじゃないかな。
 演奏者はみんなさすがに上手だったんだけど、僕には「刻んで」いるように聞こえる音もけっこうあった。あるいは音を「置いて」いるような。必然の流れに乗って踊ることが、良い演奏なのじゃないかなあと、素人の僕は思う。
「楽しめない音は音楽にはならない」っていうHysteric Blueの歌詞を、改めて噛みしめた。『タランテラはいかが?』のピアノがなぜ心に残ったかって、「楽しそう」だったからな。それは本当に大切だ。そういう曲だったし。あれが「必然の流れに乗って踊る」だなあ、と思う。
 こんなことはきっと当たり前のことなんだろうけど、ECEくんはやっぱり、そのような点が素晴らしいと思った。技術的なこととか、そういうのはよくわからないが、踊れる人間は素晴らしい。僕も小説を書くときは、踊っているつもりでございます。ピアノのようにキーボードを叩く。

2013/09/07 土 「考えることが面倒くさい」はなぜ生まれるか

「考えたことによって成功した」という体験が少ないからなのではないかと思います。
 成功体験が重なれば人はそれをくり返すのだろうと思いますが、反対に失敗体験が重なれば人はそれをしなくなるでしょう。

 エサを取ろうとするたびに通電されるような環境では、犬は、エサを取ろうとしなくなるそうです。「学習性無力感」というそうです。『消された一家』という名著で学びました。ある連続監禁殺人事件の犯人は、この心理を利用して被害者たちを洗脳したようです。通電をはじめとした、あらゆる残酷・残虐な手段を常に用いながら。

「考える」ことによる成功体験の数や質によって、その人が「考える」ということをどのくらい重視するか、が決まってくるのではないでしょうか。
 泣きわめいたり、怒ったりすることで「成功」してきた人と、考えたり工夫することによって「成功」してきた人とでは、大人になってからの問題解決行動に違いが見られるのではないかな、と、直観します。

「考えることが面倒くさい」という人は、たぶん「考えることにメリットはない」と思っているのでしょう。その人は「考える」ということによってトクをしたことが、あんまりないのです。もしトクをした経験がたくさんあるなら、損得勘定で「考える」を選びがちになるのではないか、と僕は思います。

「もっとよく考えろよ」と言われても、「考えて良い結論が出たことなんてない」と言われてしまえば、返す言葉はないような気もします。もちろん、「少しでも良い結論が出るように、考える力を養っていきなよ」というのが正解なんでしょうが、「おれっち、ばかだからよう、さいころ振って決めんのが、性に合ってらい」とか言われたら、なかなか困ってしまいます。
「でも、さいころを振って決めるなんて、不確実なことは、うんぬん……」と理屈で説得しようとしたって、「おれ、ばかだからよう」には敵いません。
 そういう人に「考える」をさせたいのであったら、おそらく、「考えることによる成功体験を積ませる」しかないのだと、僕は思います。
 でもそれは途方もなく難しいことですね。
 だから、もっと手軽な「その他の方法」のほうを、人は選ぶでしょう。

 さいころを振らせない、とか。
 さいころを振ったあとに、監視する、とか。
 さしころを振るだけ振らせておいて、それを実行させない、とか。
 とにかく自由にさせる、とか。

「さいころを振る」は、「考えずに行動する」の代表選手で、ほかの選手としては「感情に従って行動する」とか「自分がすでに決めておいた『原則』(これを『考える』とは僕は呼びたくない)に則って行動する」などがあります。

 何がいいのか、よくわからないですよ。
 考えたほうがいいような気がするけど、考えるのがイヤだって人に、無理矢理考えさせるとか、考えることの魅力や利点を説き続けるとか、ってのはやっぱちょっと、大変ですよね。
 手間も時間もかかるし、嫌われたり避けられたりする可能性も大きいです。考えない人にとって、それは「うちの宗教に入りなよ」と同じような意味なのでしょう。
 優しくゆったりと生きていくのがせいぜいかなと僕は今思っています。

2013/09/06 金 傷、痛み、悲しみ 小沢健二さんの場合

 hideの優しさとは、「忘れるものだ」「忘れてもいい」「だから受け入れてしまえばいい」であって、さらに「夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」なのだ。痛みのマイナス要素を払拭しながら、かつプラス要素にも言及する。
 そのうち詳しく書くと思うし、昨日のぶんにも少し書いたんだけど、「夢」というのは「将来の希望」とか「未来の理想」というだけの意味ではない。少なくとも、歌われる時はきっとそうではない。僕は意外と「夢」という言葉が大好きであるが、「将来の希望」「未来の理想」というだけの意味で使われる場合は、くそくらえと思う。「夢」っていうのはそんなに程度の低い言葉ではない。そうではなくって、「夢」というのはたぶん、「優しさや希望や活力など、あれこれの前向きなエネルギーが集約されたものをまとめて表現した言葉」なのだ。「君の小さな体包んでる夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」という『MISERY』の歌詞は、まさにこの意味での「夢」だと僕は感じる。

 小沢健二さんの場合、こういう感触は「優しさ」という言葉で表現されている、と思う。この人について書き出せばすぐに本一冊分の文章になってしまう(誰か依頼してくれないものかね)ので、今度こそ手短に。

「いつの日か長い時間の記憶は消えて 優しさを僕らはただ抱きしめるのか? と」(『さよならなんて云えないよ美しさ)』) 「そうしていつかすべては優しさの中へ消えていくんだね」(流星ビバップ(流れ星ビバップ)

「優しさ」ということを考えるとこの二曲になる。
 詳しくは、百万回くらい聴いていただけたらいいのだけど、あらゆる美しいことがあって、苦しいことがあって、それらが消えてしまった先に、ただ残るのが「優しさ」である、そうであればいい、ということ、だと僕は思っている。
 傷、痛み、悲しみというのがこの文章のテーマだったはずだけど、そういうものはすべて溶けて消えていく、というのが小沢健二さんの曲の基本的な前提だと思う。
 1stアルバムの最初の曲で、「熱はただ散っていく夜の中へ」(『昨日と今日』)と歌っているように、そういうことはたぶん、根底にあるのだ。
 散っていく、消えていくから虚しいんだ、というところで終わらずに、小沢さんは「その後に優しさが残る」と言う。hideが『HURRY GO ROUND』で「花」や「春」によって表現しようとしたものと、似ている。

「友達は家へ帰ってしまった 夜通しのリズムも止まってしまった」(『暗闇から手を伸ばせ』)というのは寂しいことだが、その後で「大空へ帰そう にぎわう暗闇から涙を拾って」と続けるのが、小沢健二さんなのだ。
 熱は散ってしまう、そのことは寂しい。そのことは前提として、その後のことを考える。

 痛みや傷に関しては、『ある光』『流れ星ビバップ』を引き合いに出してこのようなこと(ここの8/30)を書いた。
 こっちには書かなかったけど、「東京の街が奏でる」というライブで『ある光』が演奏された際、CD版にはなかった「光よ(を?)、一緒に行こう」というコーラスが追加されていた。うん、やはり「光」というのは、共に行くものなのだ。傷や痛みとではなく、「全ての色を含んで未分化(『無色の混沌』)」な、光と一緒に行く。hideでいえば「君の小さな体包んでる夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」で表現されるものが、「光」に近いような気がする。鮮やかになる、光。

 すべては忘れていくもので、忘れても構わないもので、忘れるからこそ鮮やかになり、優しさになる。
 たびたび例に出すミスチルの『TOMORROW NEVER KNOWS』(若い人には、なぜ僕がこんなにこの曲にこだわるのかわからないかもしれないけど、300万枚近く売れたんですよ!)でも、「人は悲しいくらい 忘れていく生きもの 愛される喜びも 寂しい過去も」という歌詞があるが、それに対してそれ以上の言及はない。その後で「癒えることない痛みならいっそ引き連れて」と言う。「償うことさえできずに今日も痛みを抱き」という歌詞もある。「優しさだけじゃ生きられない」とも言ってしまっている。
 僕にはこの曲が、「忘れていく」ということを否定的に歌っているように聞こえる。「忘れてしまう→でも忘れるのは悲しい」という前提があって、「今日も痛みを抱き→忘れるのは悲しい→痛みを引き連れよう」というような話の流れになるのだと、僕は感じる。で、結論として「心のまま」と、自分勝手さを肯定するようなことを言う。
 これに共感した(1000円払った)人たちが、94年以降に300万人弱(Wikipediaによると売上276.6万枚、日本レコード協会は出荷300万枚以上認定?)いるというのがすごい。

 岡崎京子さんも『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』っていう本を出してた。内容は知らないから、忘れることについてどういう立場なのかは知らない。でも、「忘れたくない」人たちの心をタイトルだけで掴んだと思う。

 忘れたくない、という感覚は罪深い、と僕は思うよ。「君を忘れない」で始まる『チェリー』がスピッツ最大のヒット曲だってのにも、僕はため息が出る。『ルナルナ』という曲は「忘れられない小さな痛み」が歌い出し。大人気の『楓』も「忘れはしないよ」から始まる。2013年になっても『さらさら』という曲のサビで「悲しみは忘れないまま」と歌っている。あとは「最低の君を忘れない」とか? 忘れろや! 忘れることを肯定しろや!
「○○を忘れない」っていうスローガンと、同じようなもんだろうって思っちゃうんだ。「震災を忘れない」だとか。
「反省させると犯罪者になります」と似たような理屈で、無理に忘れないでいるとまずいんじゃないかな。夢日記つけると発狂するようなもので。忘れることの効能というのはあるでしょう。忘れるからこそ身にしみるんだし。身にしみたからこそ忘れるのだし。
 忘れないでいると、ほかのことに目が向かないからね。
 それでは「優しさ」にならないのだと僕は思う。

 もっと単純に、忘れないことよりも「考える」ことのほうが大事だし、「生活する」ことのほうが大事だろうな。

 と、僕はずっと思ってきたんだけど、
 それでいいんだね。きっとね。
 いろんな人がいるということを肯定しないと。
 それで滅ぶならそういう運命だ。
 でも暇だから自分なりの理想を言うのね。

2013/09/05 木 傷、痛み、悲しみ hideの場合

 このテーマで書くと長くなるので簡潔に。
「傷」「痛み」「悲しみ」という、僕が問題にする三つの言葉をすべてふんだんに使った名曲が、hideの2ndアルバム『PSYENCE』に収録された5thシングル『MISERY』。(こういう書き方してるから長くなる)
 なんと、『PSYENCE』の発売は1996年9月2日だそうだ。一昨日書いたPIERROTの『CELLULOID』の、ほぼ1年前。今からほぼ17年前。

「君の痛み うれしそうに羽根を広げて舞い降りてくる」
「昼の光 君の傷を抱いて優しく広げていく」
「笑う月の蒼さ 傷をなでて閉じていく」
「降りそそぐ悲しみを その腕の中に抱きしめて」
「炸裂する痛みが 駆け抜けるだけの風ならば」
「悲しいと言うならば空の青ささえも届かないもどかしさに君は泣くんだろう 君の小さな身体包んでる夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」
「手を伸ばせば感じる その痛み両手で受けとめて」

 などなど、「傷」「痛み」「悲しみ」といった単語が頻出する。まるで痛み系J-POPのフルコースのようだが、それでいてほかの曲(たとえば天体観測やTOMORROW NEVER KNOWS)とは違う。
『MISERY』とほぼ同じことを歌っているのが『FLAME』という曲で、ちょっと違うが似たようことを言っているのが『GOOD BYE』という曲、だと思う。いずれも『PSYENCE』に収録されている。
 この三曲の中で歌われるのは、僕なりに要約して言えば、以下のような感じだ。

【1】傷も痛みも悲しみも、夜の風を浴びたり、星の声に耳を傾けたりしているうちに忘れていくようなもの、あるいは駆け抜ける風のようなものだろう。
【2】傷つくことや、忘れること、変わることを恐れることはない。
【3】傷も痛みも悲しみも、愛しさも憎しみも、すべてそのままに受けとめてしまえばいい。雨のあとには晴れがくる。(そのことを嫌がることはない。)
【4】受け入れてしまえば、あとは自分の中にある優しさや希望や活力(「夢」や「歌」という言葉に凝縮されている前向きなもの)によって「鮮やか」で「軽やか」で「しなやか」なものに変わっていく。

 Amikaさんという歌手はデビュー曲の『ふたつのこころ』(な、なんと! 発売日が1998年9月2日で、PSYENCEのちょうど二年後!)で、「悲しみはいつか麻痺していくことを 悲しみの中でもわかるように」と歌っている。そして「自信がない日も見失う時もいつでも 磁石がさすように求める場所にはたどり着ける ふたつのこころでいつも強く願うなら」と続く。
 同じようなことを、hideはこう言う。悲しい時にこそ、それは終わるのだということを思い出すこと。そしてその悲しみを前向きなものに変えていくのは、自分の中にある「夢」や「歌」なんだと。
 ふたつのこころとは、「まるで頭と身体に心が二つあるようで」とあるので、そういうような意味だろう。そう思うと、「夢」とか「歌」ってのはなんだかそれに重なるような気もしなくもない。(これはまあ、こじつけ。)

 痛みは保存するものではなく、維持していくことによって支えになるようなものではなく、忘れるもので、そして忘れてもいいものである。忘れることで、それはやがて夢や歌によって「鮮やかになる」のだ。

 この考え方が突き詰められ、究極に美しい形にまとめあげられたのが『HURRY GO ROUND』という、hideの最後にして屈指の名曲だと思う。ぜひそう思いながら、じっくり聴いてみてください。

2013/09/04 水 傷、痛み、悲しみ バンプミスチルスピッツ、PIERROTの場合

 優しさということについて長い間考えている。
 PIERROTのキリトさんは優しい。しかし、その優しさはたとえばhideさんや小沢健二さんとはちょっと違う。
 ヴィジュアル系のトップにいたバンドとしての限界というか、おそらく当然として、PIERROTの歌詞には基本的に「痛みを背負い続ける」とか「傷は消えない」とかいう感覚がおそらくある。

「そうして知った痛みを未だに僕は覚えている」「そうして知った痛みが未だに僕を支えている」(BUMP OF CHICKEN『天体観測』)
「癒えることない痛みならいっそ引き連れて」(Mr.Children『TOMORROW NEVER KNOWS』)

 こういった曲には確実に、それがある。「痛みをそのままの形で維持する。そしてそれが人生の支えになる」という考え方。
 ちなみにスピッツも、傷や痛みや悲しみを「忘れない」ということを盛んに歌っている気がする。(このあたりは専門のひろりんこさんあたりにお伺いしたいところ。)代表曲『チェリー』の歌い出しが「君を忘れない」だというのは象徴的だなと思う。

 PIERROTの場合、『HUMAN GATE』がちょうど「忘れない」系の歌かもしれない。ほかの曲でも、傷や痛みを保存するような意味合いの詞がいくらか登場する。しかし傷や痛みや悲しみはPIERROTのメインテーマでは特にないと思うので、あまり目立たない。

 僕は基本的に、保存・維持された傷や痛みや悲しみによって支えられるとかいうことに共感しません。まったく意味がわかりません。どういうことなのかピンときません。ピンとこないので、しばらく考えてみることにいたします。

2013/09/03 火 CELLULOIDから16年

 PIERROTというバンドの『HUMAN GATE』という曲で、「いつかその思いを託して羽ばたいた鳥たちが晴れた空に帰ってくる日まで」という歌詞がある。
 これを聴くと藤子・F・不二雄先生の短編『みどりの守り神』の最後のせりふ「鳥が!」を思い出す。
 鳥はいつでも希望の象徴。

『HUMAN GATE』という曲はPIERROTがインディーズ時代に出したミニアルバム『CELLULOID』に収録されている。発売は1997年9月3日。(いい偶然。)
 このCDはかなり売れた。全6曲のうち『Adolf』と『脳内モルヒネ』はバンドの代名詞のような曲になった。『HUMAN GATE』も人気があって、「キリトの詩はマジで文学」という2ちゃんねるの伝統的スレッド(かなり昔からある)でもよく名前が挙げられる曲だ(と思う)。
 この時期、PIERROTの曲に救われた(と本人または周囲が思っている)ような女の子はたくさんいたと思う。
 それは『脳内モルヒネ』でずばり歌われているようなものだったのかもしれない。「脳下垂体はすでに生き続けることをあきらめ始めて 脊髄にモルヒネを せめて気が狂わぬように与えてくれる」とPIERROTは歌い、聴き手はその曲やLIVEへの「参戦」によって「脳内モルヒネ」を分泌させ、逃避していたのかもしれない。ただ、しかし、もしかしたらそういう時期も、不安定への対処としては必要なのかもしれない。クスリのように。
『Adolf』では、この先彼らが何年も歌い続けていくことになるある種の「選民思想」が歌われている、と思う。PIERROTの選民思想を僕なりに解釈すると「君にはすばらしい感覚や力がある。無限の可能性と羽ばたける翼がある。キチガイと呼ばれようがグロテスクと見られようが関係ない、君は美しい。俺を信じて覚醒しろ。そしてそんな自分を信じるんだ。これからの時代は、世界は、俺と君たちで作っていくんだ。」というような感じ。選民思想というか、宗教。
「無理解な大衆のみを切り捨てて」「千年先には素晴らしい理想の世界で この血を受け継ぐ子供たちが権力を握るだろう」というのが『Adolf』の歌詞だが、この背景には、というか根本には、前述のような「優しい選民思想」があるのだ、と僕は考えている。
 そしてPIERROTはこのCDの最後に『HUMAN GATE』を置いた。
 簡単に言えば、「つらいことはたくさんあるけど、生きていくしかない。」ということを歌った曲だと思う。最後に「鳥」が登場し、希望を暗示する。
 脳内モルヒネで麻痺したり、Adolfで自分を肯定したり、HUMAN GATEで現実にぶつかりつつ、それでも希望を持ったりしながら、90年代末の愛すべきバンギャたちは生きていた。

 それから16年。感慨深いなあ、という話です。
 あの頃、PIERROTを聴いていた人たちは、どうなったんでしょうか。彼女たちは優しさの中で暮らしているのでしょうか。
 それは、いくら曲を聴いてもわからないことなので、できればいろんな人から話をききたいです。

2013/09/01  快不快と苦楽(2) 体温と踊る熱

「自分が気持ちいい」ことを重視しませんね僕は。
「僕たちが楽しい」ことは重視します。

 気持ちいい(快)とか気持ち悪い(不快)とかってのは、個人的なことです。だから僕にはピンときません。「楽しい」ってのは個人的なものでもあり得るんだろうけど、本来的には複数人の間にあるものだと思います。
「面白い」も、個人的なものだから重視しません。
「気持ちいい」が個人的なものでなくなるのは、性的なことくらいです、僕にとっては。マッサージが次点。それらだって「楽しい」が芯だと思います。

「苦しい」というのも、実はそれほど個人的な事情じゃないんだろうと思ってしまいます。何かに首を絞められているから苦しいのです。「不快」は、自分で勝手にその状態になるものだから、「自分でどうにかするしかないねえ」と思うばかりです。
 もちろん、「こうすれば不快じゃなくなるんじゃない?」という提案はしてみますが、どういうわけだか、「不快」状態の人はアドバイスなんかに耳を貸さないんです。だから僕も学習性無力感にさいなまれて、「不快な人は放っておこう。彼らが求めているのは慰めと共感だけなのだし」と、冷たい気持ちになってしまいます。
 慰めて共感してあげればいいのですが、僕は冷たい、心のない人間なのでそういう感情が薄いです。無理にすると嘘になります。意外と優しくないので優しい嘘は必要だと思わない限りつきません。それが長期的な信用に繋がるとどこかで思っているのでしょう。
 ただ、まあ、後で、アドバイスを思い出してくれて、「やっとわかった」なんて言われることも、ないではないですし、それは非常に嬉しいことなのですが、しかし、その場で手応えがないというのはやる気をなくします。血みどろになるまで糠に釘を打ち続けるような、そこまで聖人にはなれません。
 苦しい人はもがきます。不快な人はもがきません。
 もがいている人は、わらにもすがる思いでアドバイスを聞きます。不快な人は、どうなんだか知りません。
 不快ってのは実は気持ちよかったりしますからね。底辺に安住したがる人はたくさんいます。

 苦しいってのはたぶん、「自身の状況に対する客観的な判断」から出てくるもので、不快ってのは単に「その時の主観的な気分」です。
 だから前者には理屈によって対処できますが、後者には理屈がききません。きくのかもしれませんが、いかんせん「なんでもいいから気持ちよくなりたい」なので、長期的な展望に対してはほとんど聞く耳をもちません。
 不快を意識するよりも、苦しさを意識したほうが、後々になって楽だと思うのですが、不快な人はそういうことは考えられません。僕だってそうかもしれません。
 アトピーや虫さされをかくか、かかないか、ということです。
 かけばかゆみは広がり強くなるし、かかないほうがたぶん治りは早いと思います。しかし、我慢できない人はかいてしまいます。僕も思わず身体をかいてしまいます。
 冷静にその「苦しみ」に向き合うか、目の前の不快にただ対症療法を施すか、という分かれ道です。僕も肌が弱いので身体のどこかに常にかゆい部分があったりしますが、どうにか少しでもと思って、我慢したり、あえて我慢しなかったり、駆け引きしています。いつになったらこの戦争は終わるのか、想像もつかないけど、頑張ってはいます。ただ単に無意識にかいてしまうことももちろんあります。
 かゆみは不快だと思うのですが、それに立ち向かおうと思って冷静にその状況を見つめれば、それは「苦しみ」になります。なんか言葉の問題みたいになってきましたが、別に言葉の問題で構わないでしょう。
 苦しいとは客観的なものだと書きましたが、客観的とは「第三者的」ということです。それが僕の言う「関係」なるものに繋がるんでしょうな、と思っています。主観的なだけでは、他人のことを考えることはできませんし、他人と関係を結ぶこともできません。客観的になることによって、人は人と関係を結べるのです。

 僕の「心のなさ」は、主観がないところからきています。ないというか、重視しない。「相手の主観になりきる」ことをしません。客観的に見てしまいます。だから「人の身になって考える」ができません。
「つらいだろうな」とは思うけど、「ああー、こんなに辛いのか、それは大変だ」と言って、一緒に泣いてあげることはできません。
 人と関係を持とうとするのがそういうことだとしたら、関係というのは冷たいものですね。べたべたしていない。それが正しいのかどうか、僕にはわからなくなってきました。映画『風立ちぬ』はべたべたしています。関係よりも個人の主観を重視します。それが世間で「受ける」のであれば、僕の考え方が異端だということなのでしょう。幸い(?)賛否は分かれるようですが。
 でも、主観だって冷たいですよね。エゴイズムですからね。ちょうどいいバランスというのはどこにあるんでしょうか。永遠に踊り続けるしかなさそうです。体温と踊る熱だけがあたたかいのだろう、と思うほかはありません。

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