少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2012年9月  2012年10月  2012年11月  TOP
 11月1日、誕生日なのでよかったら無銘喫茶においでください。
 18時すぎに開けます。

2012/10/31 水 乙丑 今日行くか

 名刺を持っていない。名刺がほしい。作るならどんな肩書きがよいかと最近考える。
 第一の候補は「名士」。「地元の名士」とかいう時のあれ。名士って、すっごい偉い感じだけど、職業でもなければ、権威の裏付けがあるわけでもない。「なんかよくわからないけど、この辺では有名で、どうやら偉い人みたいだから、名士」という雰囲気がぷんぷんする。そういう人に僕はなりたい。
 次に考えるのは、「教育者」。教師とか教員とか教育評論家とか教育研究家とかは、一言で言って鬱陶しい。だから教育者。でもこれだと、水嶋ヒロが自分を「表現者」とか言ってる感じとなんか似てる気がする。恥ずかしいから却下。
 というわけで「教育家」という肩書きを考えた。柔道家とか空手家とかみたいな。
「教育家」で調べたら、「明治六大教育家」というのが出てきた。大木喬任、森有礼、近藤真琴、中村正直、新島襄、福澤諭吉の六人らしい。六歌仙的なもんか。僕も平成の教育家として歴史に名を残さなければ。
 ざっとネットを見渡してみると、「教育家」という言葉は明治・大正時代を除いてほぼ登場しないらしい。死んだ言葉のようだ。ここらへんでそろそろ僕が、この言葉の復権を高らかに叫んでみよう。
 明日は誕生日だからな。

2012/10/30 火 甲子 日本語の論理、関係と順番

 昨日の話の続きだけど、「日本語による論理」というのが、あると思うんですよ。「論理」ってのとは別に。だから「論理ってなんですか」と聞かれるとかなり困る。
「伝えたいことが伝わるように、適切に言葉を並べる」ということが日本語における論理的な話し方で、そのための言葉の並べ方のルールが「日本語の論理」だと僕は思っている。
 それはやや小さな視点では「文法」ということになる。助詞を上手に使うとか。主述関係や修飾関係を明確にするとか。
 もうちょっと大きな視点でいえば、「相手に与える情報の順番」ということになる。

「どうして君は僕が嫌いなの?」
「僕がどうして嫌いなの? 君は」
 とてもとても単純な話、上のほうは「どうして」に力点が置かれ、下のほうは「僕が」に力点が置かれる。日本語はそういう言語だと思う。
 上のほうでは、「自分が」嫌われているという事実に対して、それほどショックを受けてはいないように見える。
 あるいは、ずいぶん以前からそのことは知っていたか、勘づいていたのかもしれない。
 また、自分を嫌う「君」に対する負の感情(嫌悪感、不快感など)もちらりと見える。
 下のほうは、「自分が」嫌われたことに対するショックを隠せないでいるようだ。
 しかし、他でもない「君」という人物に嫌われたということには、それほどショックではないらしい。オマケのように、あるいは吐き捨てるように、「君は」と付け加えているだけだから。
 ただし、

「僕がどうして嫌いなの? ……君は」

 となるとまた話が違って、「君」に対する何か複雑な心の事情、もしくは深い悲しみの感情をにおわせている。
 これは単に、「君」という単語と「……君」という言葉が、同じものではないから、というだけかもしれない。

 世の中には、やっぱり「順番」が大切、っていう場面はいくらでもあって、言葉がいくら「関係」でできているとは言っても、その「関係」には、ちゃんと「順番」も含まれている。
 それからもちろん、「タイミング」も大事。(ゆうこりんも歌ってたべなー。)

 人間関係だって、「順番」を無視したら回っていかない。なんにしたって。
 言葉だってそうなのだ。

 日本語は比較的語順が自由な言語だと言われるけれども、自由だから、順番に重きを置いていないというのではない。まったくその逆で、順番が大切だからこそ、どんな順番でも成立するようにできている。成立はして、成立したそれぞれの言葉は、まったく違う意味や雰囲気をまとうようになっている。「順番が意味を持つ」というのは、「順番が違えば意味が全然違う」ということである。
 かりにここに、敬語を持たない言語があるとする。誰もが一見、対等な言葉で話す。対等であるから自由だ、ということではない。対等ということの内には、「とりうる順番の選択肢がない」という不自由がれきとしてある。
 たとえば敬語とは、「人間どうしの順番を表現・規定する」ものでもある。
「関係」の中に「順番」があるというのは、そういうことでもありそうだ。

 実際には、どんな言語にだって順番はあるし、日本語だけが特に順番を重視する、ということではないと思う。言語というのはみな、関係であって、順番なのだ。たぶん。

 人間関係においても、僕はやはり「順番」を意識するべきではないのかな、と思う。
 意識をした上で、僕は生意気(なんか昔、そういうふうに言われてたらしくっていまだに根に持っている)に生きています。

2012/10/29 月 癸亥 言語力の著しい低下

 文章とか、言葉を上手に使えない人というのは、たいがい頭の中で文図を書けていないのである。文図は大事である。文図とは何かといえば、僕もこの言葉は貝田桃子先生の『ちびまる子ちゃんの文法教室』で知ったのだが、文の主述関係や修飾関係などを図で表したものである。「きれいな→花が-咲いた」みたいなの。もちろんどんどん複雑になっていく。
 主述関係や修飾関係といった、「語と語との関係」というものを正確に把握したり、構築したりできなければ、文章を読んだり書いたり、もしくは理路整然と話したり、誤解しないように聞いたりといったようなことは、かなり難しいのである。
 僕はこういったことがけっこう上手なほうであると思う。なぜ上手なのかというのは、僕が「関係の人」であるということ関係があるのかもしれない。
「関係の人」ってなんだっていうと、「関係」って言葉についてばっかり考えている人、くらいの意味。

 何語でもそうだと思うけど、言葉っていうのは「関係」でできあがっている。これは大学受験の時に英語を勉強していて思った。
 たわむれに、英単語を擬人化して考えてみる。「enjoy」という言葉があったら、「enjoy」という綴りは「容姿」である。顔と言ってもいい。「エンジョイ」という読みは、「名前」。「楽しむ」というような意味は、「性格」。
 そういったことを考えて僕は勉強していたわけだけど、擬人化すると都合がいいのは、「語と語の関係」ということをイメージしやすくなることだ。例えば、「atitude」くんは「to」さんや「toward」さんと仲良しだ、とか。当時の英語の先生はそれを「語と語の相性」と言っていた。
 あるいは文法的観点から、主語と動詞が結びつくとか、形容詞は名詞(相当語句)を修飾するとか、そういった「関係」のあり方をどれだけ知っているか、というので、英語を読む力というのは大きく変わる。
 ここに挙げているのは基本中の基本だけど、事はどんどん複雑になる。複雑になっても、「関係」を見抜くことさえできれば、英語は読める。また、無数にある熟語(イディオム)、連語の類なども、「相性」とか「関係」とかいう言葉で説明ができる、ある種の一般法則のようなものを持っていたりする。それらはもちろん、単語そのものの「性質」(性格)からくるものだ。

 言語というのは、単語の「性質」と、それら同士の「関係」でできあがっているものらしい。少なくとも日本語と英語ならそうだろう。
 僕は、「ものを考える」のに必要なものは、「考える材料」と「考える方法」だと思っている。生徒にも機会があればそう言ってきた。これは言語で言えば「単語」と「関係」に置き換えられるのではないかな。

 ここで言う「ものを考える」というのは、基本的には言語を使って考えることをさしている。言語を使うっていうことは、そもそも「ものを考える」やり方と非常に似ている。おんなじこと。
 で、その基礎ってのはやっぱ、文図にあると思うのだ。
 文図ってのは日本語における論理そのもので、頭の中で瞬時に文図(で示されるような関係の構造)が作れなければ、言葉を操ることは満足にはできないのではないかなあ、と。
 裏返せば、言葉をうまく操れない人に文図は書けないし、「日本語による論理的思考」も、できないだろう。文章も書けないくせに論理を振りかざすのはナンセンスである。

 文章を書くということは、「何か」を鍛えてくれる。
 ただし、ただ書けばいいというのではない。「関係」を意識しなければ、文字の垂れ流しにしかならない。そこには思考はないし、したがって意味もない。

 みんな、「他人に何かを説明して、わからせるための文章」を書かせると、とたんに下手くそになる。「自分の言いたいこと」ならいくらでも書けるし、「うまい」と言われることもあろうに。それ、なんでかっていうともう、「関係」っていう言葉に終始するんではないでしょうかね。「他人にわからせる文章」を書くためには、「読者である他人と、自分の文章との関係」を意識しなけりゃならないから。それができない人はあまりにも多い。
 読むのは自分ではなく、他人であるという、一番基本的なことが、「関係」のわからない人には、本当にわからないらしい。だから、ちんぷんかんぷんなことを平気で書いてくる。「自分はこれでわかる」と無意識に思っているらしいその文章が、他人にとっては「何が言いたいのかわからない」とか「汚い、醜い、下手くそ」としか思えないものになっているということは、いくらでもある。

2012/10/28 日 壬戌 Tank!

 というPCゲームがある。昔SOFCOMという雑誌の付録でついてて、はまりにはまった。これの2012年版がなんだか知らんが出ていた(ひょっとしたらあんまり関係がないのかもしれない)ので、ひさびさに熱くなった。
 スポーツやってると頭がよくなる、っていう話もないではないのと同じように、ゲームやってると頭よくなる、っていう話もないではないだろう。

 Tank2012の操作は難しい。
 これは戦車のゲームである。
 真上から見た平面的な画面で、3Dではない。
 まあ、暇つぶしにキーボードでも眺めながら聞いてくださいよ。

 戦車はキーボードのWSADで上下左右に動く。
 これは当然左手で操作する。
 右手ではマウスを持つ。
 カーソル位置が「照準」である。
 左クリックで武器が撃てる。
 すると、マウスカーソルの置かれたところへ向かって弾が飛ぶ。  右クリックで違う武器に切り替えられる。
 スペースキーでボム(必殺技)が出る。

 つまり、右手でマウスを動かしながら左右クリックをカチカチ鳴らし、左手では戦車を動かしつつ、親指でボムを撃ったりしなくてはならないのである。
 さらに、キーボード左上にある「1」「2」「3」キーも使う。これは武器グループを切り替えるためである。
 戦車は、最大で九種類の武器が使える。
「1」というグループに三つの武器が登録でき、「2」「3」というグループにも、それぞれ三つずつ武器が登録できる。これで九種類。
「1」を押すと、武器Aと武器B、ボムXが使えるようになる。
 ボムはスペースキーで出るので、武器AとBが右クリックで交互に切り替わるわけだ。
「2」を押すと、武器Cと武器D、ボムY。「3」を押すと、武器Eと武器F、ボムZ。

 要するに、すげー複雑なのである。

 出てくる敵によって、「効く」武器というのは違うから、敵が画面に出てきたら瞬時に「どの武器を使うか」を判断して、123なり、右クリックなりをして武器を切り替える。そしてマウスカーソルを敵に合わせて、左クリックを連射する。
 当然、目玉は常に見開かれ、全神経が目と両手に向けられることになる。
 とにかく疲れる。

 そしてなんと、武器ABCDEFと、ボムXYZは、数十種類の選択肢の中から自由に組み合わせが可能なのである。もちろん武器ごとに特性が違うので、「何を選ぶか」は、ミッションの内容(つまり、どういう面であるか)によってその都度決めなければならない。しかも戦車も八種類ぐらいあって、乗り換えが可能とくる。もちろんそれぞれ特性がある。組み合わせはほとんど無数。

 そんなゲーム、頭よくないとできないですよ!
 いや、もちろん、「頭」だけの問題ではなかろうし、「頭いいってなんだ」って話もある。けど、それにしたって、このゲームをやりこなすには、単純に反射神経とか、運動神経とかだけが必要なのではない。確かな戦略と、判断力と、頭と身体とを適切に連動させる能力と、それらを高めていく訓練とが絶対に必要なのだ。

 僕はシューティングゲームとか、こういう戦車ゲームとかが好きだが、なんでかって、「頭のよさ」が特に関わるからだろうな。一種の訓練、頭の体操。そういったものなので。別にほかのゲームだって同じようなもんだけど、僕が鍛えたい「頭」ってのはたぶん、このへんにあるんだろう。
 で、たぶんそういうのってバスケとかサッカーとかでも同じようなことなんだろう。
 違うとしたら何が違うのかをゆっくり考えてみる。

2012/10/27 土 辛酉 十三夜

 割と楽しみにしていた予定がなしになった。
 それでも夜に、ちょっと河原に酒を飲みに行った。
 河原は席料がタダである。
 十三夜の月もタダである。

 なんかでもやっぱ孤独である。
 殺伐とする、それもまたよいが。

 牛丼は全部、半額になったけど、僕の夢は値引きしない!

2012/10/26 金 庚申 席料

 木曜喫茶を営業していたら、朝方、初めての女の人が一人で入ってきた。いろいろみんなで話をした。京都ということで、知り合いの書店を話題にしたら、彼女はその人を知っていた。帰り際、なぜか彼女は僕に一冊の本をくれた。「もう一冊持ってるんで、これあげます」と。たぶん、うちの店の値段が(ゴールデン街の相場に比べて)とても安かったので、それを補填するものとしてくれたのだろう。「チャージないんですか?」と驚いていた。僕はないほうが普通だと考えている高校生みたいな金銭感覚で未だに生きているので、大人だなーと思った。彼女は僕と同い年だったが。
 こういうささやかなことはとても嬉しい。

 チャージといえば、「席料」のことで、僕の木曜喫茶には、これがない。ただし、「ない」という言い方には語弊があるかもしれなくて、「メニューの価格設定の中にすでに席料が織り込まれている」というだけのことだ。
 つまり、コーヒーが一杯五百円だとすると、その五百円のうちの何百円かは、「席料」なのである。
「場所代」と言ってもいい。
 そりゃそうだ、飲食店というのは、材料代や人件費などのほかに、地代(家賃)というコストのかかっているのが普通だから。
 もしこれが無料だというのならば、喫茶店に入って、何も注文せずに座って本でも読んで、一円も払わずに帰ったって問題ないということになる。普通、そういうわけではない。

 木曜喫茶のお客さんで、「できれば一円も払いたくない」という人がいる。そりゃ、僕だってそうだ。どこに行ったって、できれば一円だって払いたくない。それはそれでわかるのだが、彼は本当に一円も払わない。何も頼まずに朝までいて、そのまま帰っていくときもあるし、何かを頼んだ時でさえ、「払え」と言うまで払わないのが常道だ。
 もう何年も前になるが、彼が初めて来た時のことも僕は覚えている。五人くらい連れだってきて、彼だけは何も頼まず、一円も払わず帰って行ったのである。だからキャリアはもうずいぶんと長く、筋金入りである。

 木曜喫茶には実は「貧乏人割」というのがあって、「貧乏だけど酒が飲みたい」と訴える(あるいは僕にそう見える)人で、僕が「飲ませてあげたい」と思う相手に対しては、「ウィスキーに限り二杯目から百円」とか、そういう訳のわからない価格設定をすることがあるのである。
 だからもし、彼が、「お金がないんですよ」と訴えて、「できれば払いたくないんです、でもここにいたいんです」と言ってくれるのならば、「じゃあ百円だけ置いていきなさい」とか、「十円なら出せるか」というようなふうに、僕は言うだろう。実際、最近よく通ってきてくれる十代の若者は、「今日は正規の値段払えないんですよ」とか正直に言ってくれるので、「じゃあ出せるだけ出してください」とか「マジで厳しそうだから今度でいいよ」とかいった対応をしている。
 ところが、彼はそういうことは全然言わず、ただ黙って、一円も出さないのである。ちなみにもう二十五歳くらいである。
 それを許させるだけの人徳が彼にあれば、僕は惜しまずに彼を微笑ましく見守るだろう。しかし、そういうわけでもない。その場にいるだけでみんなが楽しくなるとか、そういうわけでもないのに、「ここはお金を払って座る場所である」という秩序を崩してくるから、店としてはほとんど迷惑なだけなのだ。
 そんな彼が、ネット上でこの店のことを「行きつけのバー」とか表現するから、そのふてぶてしさは感嘆すべきレベルである。ある意味本当に凄い。尊敬する。

 彼の頭の中には、「席料」という概念はないのである。
 このたび、ついに僕が「君は本当にお金を払わないよね、席料という概念があってだな」と言ったら、「だって、席料はないんじゃ……」と、真面目な顔をして言ったのだ。
 そう、確かに「席料がない」という言い方には語弊がある。僕も普段はできるだけ「席料」と言わず「チャージ」と言うように心がけてはいるのだが、ときおりカッコつけて「席料」とか言ってしまっていたのである。これからは口が裂けても言わないようにしよう。
「払うべき時には払ってますよ」と彼は言った。彼にとって「払うべき時」というのは、「原価のかかる飲み物を飲んだ時」であって、「来店した時」ではないのである。そして、「来店したからには、注文をする」という発想もない。
 では彼は、五百円から原価を引いた全額が、店の儲けになるとでも思っているのだろうか。そういうわけでもなくって、ただ想像力と、常識がないだけだろう。ふてぶてしいというか、常識知らずなわけだ。さすが何年も引きこもっていたというだけのことはある。
 僕は彼の、そういう考え方を否定はしない。僕だって、一円だって払いたくないし、払う能力のない人は来るなとも言いたくない。むしろ貧乏人こそ来られるようにしたいと思っているし、高校生以下からは原則的にはお金を取らない。
 しかし、彼が勘違いをしているかもしれないというのは、「僕と彼の間に、それほどの信頼関係はない」ということである。
 僕には彼を甘やかす理由はない。
 彼にも、僕に甘えるだけの理由などないはずなのである。
 彼は、「誰にでも甘えていい」と思っているし、「注意されないことはすべて許されている」と思っている。これは間違いない。
 しかし世の中には、「とくに何も言われはしないけど、実はちっとも許されていない」ことのほうが多いのだ。
 彼は他人と、人間としての信頼関係を結ぶことが実に下手くそだ。
 前述した十代の彼は、下手くそながらも少しずつ努力しているし、それゆえ、僕と彼との間にはある程度の信頼関係がすでに築かれている、と僕は思う。出会ったその日には説教(?)を垂れたような記憶はあるが、それ以来の彼のめざましい成長ぶりは本当に凄いし、今後に期待もできる。だからこそ、「百円でいい」になるし、彼のほうでも「お金がないけど木曜喫茶行くか」になるのである。お互いの共通認識の中に、「甘えてもいい」があるから。
 しかし、一円も払いたくない彼と僕の間には、それがない。僕は「甘えてもいい」と彼に対して思ったことは一度もない。

「拒絶されない相手には、甘え続けてもいい」と思う人間は、意外と多い。
 そういう人間を許容してしまう優しい人間も、かなり多い。
 女の子の身体をやたら触ったり、頭をなでたりする男っているでしょう。あいつらは、「嫌がられてないのだから、してもいい」と思っている典型だ。「嫌がる」という明確な表現をしなくても、実は嫌がっているということは幾らでもあるし、たとえ本当に嫌がっていなかったとしても、その行動そのものが何らかの秩序を壊しているということは、ほぼ確実なのである。そういう客観性がない男は、僕は好きではない。好きではないから、できる範囲で注意する。
 注意ってのは必要だ。
 時には殴ればいいと僕は本気で思う。
 殴るというのは比喩でもあって、僕はけっこう、「こいつは一度注意したほうがいいな」と思う相手には、かなり酷い言い方ややり方も平気でしてしまう。自分より年上の相手には特に。
 それが嫌われたり、トラブルになる原因でもあるのだが、黙っているよりずっとマシだ。もちろん、もっとスマートな方法が採れれば、それにこしたことはないけれども。

 大人は、注意ってしないから嫌だね。年下に対しては「若いからな、そのうちよくなるだろう」って思って、年上に対しては、「この人に何を言ったってしょうがない」って思って。言い訳して。ダメなことは、言わなきゃしょうがないんだよ。動きださなけりゃ、そう始まらない(なにしてんの)なんだよ。
 身体壊すだけだよ。
「民主主義の悪いところは、『ダメ』って言うことを禁止するんだよね」って、偉い人が言ってた。

 僕がやっているお店には、椅子が十個しかない。
 幸いというかなんというか、まだそういう状況にはなっていないのだが、たとえば十個の席がすべて埋まっていて、新しいお客さんがやってきたとする。そうしたら僕は、一円も払う気のない彼に「出てって」とか、「立ってて」とか言うだろう、まず確実に。もちろん、それですべてが済むわけではない。「出てって」「立ってて」という言葉が店主の口から発せられたら、その場にいる誰もが気まずい思いや、申し訳ない思いをするだろう。それが「秩序を壊す」ということで、それを防ぐためにも「金を払う」や「信頼関係を築く」があるのだが、彼にはたぶんそれほどの想像力はないだろう。また、自主的に「じゃあ僕は立ってますよ」と言うような気配りも、できないだろう。
 僕は彼を、たまたま席が空いているから置いてあげているだけだ。客でもなければ、特に親しい友達でもないのだから。ときおり、人を連れてきてくれるのは本当に嬉しいし、そこが「商売」にもなっているのは確かだが、それならそうと、「たまにお客さん連れてくるから、僕のぶんはタダにしてくださいよ」とくらい言ってくれればいい。ただし、僕を納得させるような仕方で。
 そういうコミュニケーションができないから、もちろん「場」に対する意識も低い。そういう人間だから、僕は冷たく「特に親しい友達でもない」と言い放つ。彼は人間になることをサボっていて、そういう人間を甘やかすわけにはいかない。僕はそういう信念でしか生きていない。

 さらにすげー冷たい言い方をする。人間と人間は「関係」でつながるのだ。「関係」は、「つながろう」と思っている人の方にしか開かれない。それがない場合に、貨幣が仲介するのだ。「関係」を作る気もなく、かつ貨幣によってそれを代替させようという気もないやつが、「バー」なんぞに来るのはお門違いだ。
 彼は、うちの店が「バー」であるという認識を持っている。インターネットにそう書いている。だったら、バーらしい振る舞いをするか、マスターたる僕と「関係」を築いてもらわないと、ただのフリーライド野郎にしかならない。それをカッコイイとか面白いと思っているなら、それほどかっこうわるいことはない。

2012/10/25 木 己未 責任の行く先

 説明したくもない何かがあって、何があったかということについて、友達が非常にすばらしいたとえ話をしてくれたので借用する。

 車道を右側通行してくる自転車と鉢合わせる事がある。どちらかが進路変更するしかない。正しく左側を走行している僕が譲ると相手が間違った走行を続けることになる。正しい方は一旦立ち止まってでも相手に譲らせるべき。id

 ま、今思えば僕が正しかったのかどうかというのはわからん。が、僕は僕の信念を曲げなかった、ということだけは本当かと思う。


 あんまりよく覚えていないのだが、僕と、ある年上の女の人との間にトラブルがあって、女の人が暴れ出した。僕は彼女を押さえつけた。そしたら、彼女と仲の良い男の人が、「押さえつける役目は自分が負いますよ。僕のほうが慣れていますし、力も強いでしょうしね」というような雰囲気で、「交代」を求めてきた(ように僕には見えた)ので、そうした。
 その時にその男の人が、「ジャッキーくん、いったん外に出てください」と言ったが、僕はその言葉がうまく飲み込めなかった。なぜ僕が外に出るのか? 外に出たら、いつ戻って来られるのか? この場で最終的に主導権を持ち続けるべきなのは、誰なのか?
 それらは瞬時にはわからない、決められない問いだった。
「いったん外に出てください」という言葉を、何度も、そして複数の人から言われたが、僕は外に出ないことを選んだ。なんでかといえば、よくわからないが、僕は出るべきではないと思ったのだった。
 外に出たら、僕はあらゆる権利を放棄することになる。

「そもそも誰が悪いのか」ということに関わらず、この場での「異物」は暴れている彼女だし、彼女ははっきり言って、その場にいるほとんどの人にとって「どうでもいい」存在だった。その場にいるほとんどの人は、僕の友達であって、彼女の友達ではない。
 僕が出て行って、彼女が残ったら、ホラー映画かお葬式みたいな雰囲気になる。
 排除すべきは「異物」なのか、「異物」の原因である僕なのか?
 その判断は、非常に微妙で、難しい。
 彼女にとことん優しくするならば、僕が出て行ったほうがいいのだろう。
 しかし、そのために僕は嫌な思いをする。ひとりぼっちで外に出て、いつ戻って来られるのかもわからない。そんなのはごめんである。それに、残された僕の友達も、どうしていいかわからないではないか。その状況を面白がる人だって、いるのだろうけれども。
 僕は彼女と、友達でもなければ、肉体的の関係があるわけでもないし、そもそも人間として、好きでさえないので、彼女に対して責任を負う立場には、「個人的事情としては」一切ない。ただ、状況的には責任を負う立場だったかもしれない。
 が、その「状況的な責任」は、「個人的事情としての責任」を持っている(だろう)件の男性が、「交代」という形で引き受けた、というふうに僕は認識した。(この認識が正しいのかどうかは、また難しいが。)
 だから僕は、出て行く理由はないと結論づけたのだ、と思う。

 それにしても、年上で、立場的にも明らかに上であるような相手に、「出て行ってください」と言われて、「出て行かないですよ」と言い続けた僕は、なんとも頑固で、カッコイイもんだなと思う。
 カッコイイけど、正しいかどうかは知らん。意固地だとも言う。
 しかし権利を守るためには、時にそういう態度も必要だ。
 客観的正しさが決められないので、とりあえず自分の、また自分の友達の「権利」を優先させた、というのが僕だっただろう。
 僕にも、僕の友達にも、その場にとどまる権利があったと思う。
 僕は彼女に、爪痕が残るくらい激しく首を絞められたが、だからなんだということもない。「嫌だなあ」と思うだけだ。彼女に素手で僕を殺す力などありはしないから、どうせ茶番だ。そんなことくらいで自ら「場」を放棄し、破壊させたくはない。

「何事も穏便に」というのだったら、「原因の排除」は効果的だろう。
 しかしその「穏便」の裏で、「負担をかけられる第三者」というのもいる。
「穏便」というのは、多くの人の我慢の上で成り立つ。
 責任の所在を散らすのが、「穏便」でしかないからだ。
 最大の責任である僕を排除すれば、宙に浮いた「責任」は、関係ない第三者の上に降り注ぐ。ほぼ平等に。
 僕は一時的にすべてから解放されるが、責任それ自体が消えるわけではないのである。

 ま、僕の本音を一言でいえば、「個人的事情としての責任」を持っている者がなんとかしろ、というので、言い換えれば「僕はその人のこと好きじゃないから、責任を持ちたくない」だ。
 僕は彼女なんか、どうなったっていいと思っている。思っているから、荷物と一緒にその女の人を追い出してしまえばいいと思っていた。今も思う。もしも、そう思わない人がいたら。つまり、彼女に対して優しくしたい人がいたら。その人が責任を持てばいい。
 僕は、または僕の友達を含む大方の人間が、彼女に対して優しくしたくないし、する必要もないと思っていた、と僕は信じる。
 だから、直接の原因である僕はともかく、ほかの彼らにとっては、「責任」を散らされるのはいい迷惑だっただろう。
「荷物と一緒に彼女を追い出す」で、ほぼ解決するはずのところに、もし一人だけ「彼女に優しくしたい」と思う(または、そうすべきだと考える)人がいたなら、その人が「そのためのすべての責任」を負えばいい、というのが僕の発想だ。あるいは、「そうすべきだ」ということを、僕およびほかの人に納得させるか。
 冷酷といえば冷酷だが。
 その、「彼女に優しくしたい」と思う人が、僕の、またその場にいる誰かの親友ででもあったならば、また話は違う。「君がそう言うのなら、僕も責任の一端を引き受けよう」にもなる。でも、そういう状況でもなかった。
 僕は彼のことが好きだが、それ以上に彼女に対して責任を負うのは嫌だった。

 最初の自転車の例にひきつけるなら。僕は自分がちゃんと左側を走っていたのかどうかはよくわからない。しかし、彼女が自分に真っ向からぶつかってくるような走り方をしてきたのは確かだ。それで僕は、「右だか左だかしんねーが、僕はたぶん正しいので、道を譲る気はない!」と、意固地に走り続けたわけである。もしかしたらその様子は、見る人が見れば「一旦立ち止まってでも」に見えたかもしれない。(そうだったら嬉しい。)
 もうちょっと何か言おう。僕は、自分が正しい方向を走っていたかどうかには自信が持てない。しかし、彼女は無灯火運転だった。その時点で相対的な僕の正しさは一つ確定する。彼女が無灯火で、かつひどい酒酔い運転でなかったら、僕のやり方はまた少し変わっていただろう。
 わからんが、とにかく一つ良い経験になった。これが今後、また大きな問題に発展しなければいいが。

2012/10/24 水 戊午 複雑な人は打ち込めない

 何かに打ち込めるってのは単純な人だ。良くも悪くも。
 複雑な人は打ち込めない。
 あれやこれや、考えてしまって、一つのことに専心するということができない。たとえば受験勉強だってそうだが、狂ったようにガリガリやれるのって、実は単純な人だけだ。複雑な人は、打ち込めない。
 野球のことしか考えてなくって、日がな一日野球の練習ばっかりやれてしまうような野球部員は、単純だからそれができるのであって、かりに複雑だったら、漫画を読んだりネットをしたり、彼女と遊んだり詩を書いたり、勉強したり歌を歌ったり、散歩したりすると思う。
 他にやることがない、やりたいことがない、ついついやってしまうことがない。もしくは、それがあったとしても割り切って封印することができるような人は、受験にしたって野球にしたって、打ち込んでやれる。
 でも普通の人、というか複雑な人は、どうしてもたくさんのことが同時に思い浮かんでしまって、だめだ。受験のことばっかり考えているつもりでも、受かった後のことや、受からなかった時のことを無限に考えてしまい、肝心の勉強が手につかなくなってしまったりする。不安のあまり、一時的に頭がおかしくなってしまうようなときだってある。
 それらは、人間が複雑であるがゆえだ。
 心配することはない。
 単純だったら、東大にだって行けるかもしれない。
 複雑だからこそ、早慶どまりなんだろうと、僕は周りの友達を見渡して思う。
 複雑でありながら、現役で東大に行けるような人だっているんだろうが、僕には東大生、東大出のまともな友達がほとんどいないから、知らない。小沢健二さんと橋本治さんはすぐに思い浮かぶけど、二人とも一浪だ。
 東大というのは想像以上に難しい。複雑であっては受からないと僕が思うくらい、難しい。
 先生や参考書に「こうやって解け」と言われて、それをそのまま受け入れてすぐに使いこなせるくらいに、単純でなければならない。「疑問」や「思索」は遠回りだ。とか。
 そういうような人でなければダメなんじゃないかと思ってしまうことすらある。
 複雑な人が受験勉強をするのは、実は大変だ。
 僕は楽しかったけど、その分頭も狂った。
 当時、ちゃんと毎日日記を更新していたのは、複雑であったが故だと思う。
 高三といえば遊んでいた想い出ばかりだが、それは複雑だったからだ。
 自分の複雑さと向き合った上で、出せる限りの力を振り絞って勉強もしていた。
 僕はたったの三教科(国語、英語、世界史)だったが、これが五教科七科目とかになったら、それはそれはしんどいだろう。
 複雑な人ほど私大にしか行けない、というような気もする。
 べつに、私大が偉いというわけではない。まったく逆で、私大の三教科入試みたいなあり方を許しているこの社会は、非常にバランスが悪い。大学に行くような教養人であれば、センター試験レベルくらいまでなら一通りできるべきである、という、やや古い感覚が僕にはある。しかし制度は、「三教科でいい」と言って、社会のバランスを崩そうとする。
 制度が違えばまたわからないが、現行の制度のもとでは、三教科しかできないという複雑な人はいくらでも出てくる。
 そう、単純だから三教科しかできないのではなくって、複雑だから三教科しかできないのだ。僕に言わせれば。
 複雑というのは不器用とか、器用貧乏という言葉に近い。
 複雑というのは、すなわち、人間的であるということで、人間的であるということは、欠陥に満ちているということでもある。どうしても気は散ってしまう。どうしてもあれこれと考えてしまう。どうしても不安になってしまう。どうしても、何も手につかないという時間も訪れる。どうしても、目標に対して非効率なことをしてしまう。
 単純な人には、そういうことがない。
 ここで僕の言っている「複雑な人」と「単純な人」との、どちらが優れているか、というのは知らない。ただ僕は、単純な人と会って話すのはかなり億劫である。人間味がないから。
 おそらく、社会において大成功する人というのは、単純な人だろう。
 打ち込める人。
 しかし、そういう人が「みんなで楽しく生きていく」ことに長けているのかといえば、それはわからない。

 僕は打ち込めない。それはコンプレックスでもあった。
 受験期、僕はかなり勉強をしたと思うが、同じくらい本を読んだり遊んだり、ネットをやったりした。それは自慢できることではない。そうやってバランスを取らないと、勉強をする体力が続かなかったのだ。打ち込めない人だから。
 でも、打ち込めなかったからこそ、今のこの、複雑な僕ができあがったのだ。
 複雑な僕を「これでいい」と肯定できた時、コンプレックスは消えた。
 打ち込めなかったのは、複雑だったからで、だからこそ僕は今こうなのである。
 全国に30人のファンがいてくれるのである。

 自分の複雑さに、負けてはいけない。
 単純なふりをする必要はない。
 複雑さから目を背けないで、共存していくことが大切なのだ。
 簡単なことではないが、複雑な僕たちならできるはずである。

2012/10/23 火 丁巳 cyclong

 涙は濁りを洗い流す。
 だから若い時の涙は汚い。
 禊ぎが終わって、年を取った時、流す涙は澄んでいるだろう。
 いつかの美しい涙のために、今はいくらでも泣けばいい。

2012/10/22 月 丙辰 世界みかた

 世界みかたっていい名前だよなーっていまだに思う。
 世界みかたっていうのはせかいのみかたっていうホームページを昔やっていた人で、高校生のころの僕は本当に尊敬しておりました。
 ところがそのホームページも消滅してから10年前後(定かでない)が経過し、この広大なネット上に「世界みかた」さんの居た証拠はほとんどどこにもなくなってしまっております。試しにググってみても、ほとんど出てきません。
 人は死ぬんだなーってことを思います。

 なんで急にそんなことを、っていうと、かつて世界みかたさまにこのHPのバナーを作っていただいたことを思い出したのです。
 というのも、現在HPを改装中なのです。
 こんな感じなので、なんか意見があったらくだちい。
 ※作りかけなので、リンクとか踏んでもまともに動作しません。もうしばらくお待ちください。

2012/10/21 日 乙卯 中華料理店

 再び板橋に行った。板橋の友達と夕飯を食べた。
 彼の家の近くの、前回通りかかった時には客はおろか店員も誰もいなかった、廃墟のような中華料理屋にもういちど行ってみた。今度は店主とおぼしき老夫婦がいらっしゃったので、意を決して入った。やはり客はいなかったし、僕らが入ってちょっとしたらもうのれんをおろしていた。まだ夜八時前くらい。
 ラーメンとかチャーハンとか野菜炒めとかを食べた。不味くはなかった。美味しかった。しかし、全体の印象も含めて、「また食べに来たい」と思うほどではなかった。大きな液晶テレビが壁にかかっていた。
 迷子のような店だ。

2012/10/20 土 甲寅 おかあさん

 僕はお母さんが好きすぎて困るくらいお母さんが好きで今日はお母さんの誕生日です。
 好きだけど好きだという愛情表現をほとんどしたことがないので親不孝な僕です。緩やかに、誕生日おめでとうメールを送ったりなんだりして、一歩一歩素直になろうとしているところです。孝行したいときに親はなし、って考えたら、そんなことも言ってられないんだけど、まあ不自然なのもどうかと思うし。

 お母さんが大好きだっていうことほど健康的なことは、僕はないと思うんですよ。僕は、というか僕のお母さんはもうそれを達成しているから、考えるべきなのは次の世代の話なんですね。つまり僕が誰と結婚して子供を育てるかという話。子供がお母さんを愛するように、やっていかなければならない。お父さんとしても好かれたいけどね。ちなみに僕はお父さんも本当に本当に大好きなんで、本当に幸福だと思います、その点では。あとは自分がお父さんになって子供に愛されることで、それは難しそうだけど、目指さなければならない理想なのです。
 またきれい事のようなことをほざいておりますけどね。
 そういうことを考える年になってきたということです。
 そこを基準にしてものを考えないといけないというふうに思えてきたのです。
 実際、考えたからとてうまくいくということでもないのですけれども、考えたほうがいいような気はします。不安なので。
 そう、不安だから考えるんですね。
 だから不安っていうのは、悪いことばかりでもないのかも。
 今日も不安です。

2012/10/19 金 癸丑/a> アンバランスなKissはしないで

 友達が増えていくのが嬉しい。
 友達と友達になっていくのが嬉しい。
 というようなことをずっと言っている。
 だけど、アンバランスな関係というのもある。

 僕が悪いってのもあるんだけど
 うまくいかない関係もある。
 それは一言でいえばすべて片想いなのだと思う。

 いや、「想い」だとどうも、恋愛とか「好き」という方向へ行ってしまうから、「片思い」のほうの字のほうがいいかもしれない。
 アンバランスな関係というのは、「片思い」だ。
「独り善がり」とも言う。

 献身的であることは時に独り善がりだ。
 片思いだ。
 そこに合意はない。
 片思いに合意してしまったら、それは思われた側の「譲歩」になる。
 関係というのはある種のアメーバが互いの身体の中身を交換するように、何かがぐるぐると行き来する様をさすと思う。

「友達が友達になっていく」というのは、「関係ができていく」ということで、すなわち「しだいに素敵なバランスになっていく」ということかもしれない。

 バランスの悪いまま、よくなる見通しも立たないままに恋愛するケースは世の中に多くて、それが良いのか悪いのか、よく知らん。ただ僕には合わないと思う。
 友達関係だって、同じで、僕はアンバランスな関係が苦手だ。それははっきり言って、よくないことだと思う。アンバランスだからといって、遠ざけてしまうようなことは、失礼だからだ。
 でも現状のところ、自分はそういう人間らしい。

 片思いであること、独り善がりであることを、「それでいいんじゃないのか」と割り切るようなことだって、間違っているとは言えないが、僕には合わない。と思う。
 自分には両思いの才能があると信じている。
 そうでなければ困る。

 世の中には絶望的に両思いの才能がない人がいる。
 愛の才能ないのなんて歌があったけど。
 愛の才能のない人は、あの曲が好きなんだろうか。
 そうでもないんだろうか。
(そういえばあの曲も「kiss」がよく出てきています)

 それにしても僕は両思いが苦手な人に冷たい。
 本当はそういう人にこそ優しくするべきなのかもしれないけど、僕にはどうしたらいいかわからない。

 両思いが苦手っていうのは、単に不器用だということとは違う。
「相手のことを考えているようで、実は自分のことを考えている」というような人たちだ。多くは。
 あるいは、「相手」と「自分」ということしか考えられないで、「その総体」を見ない人たち。たとえば、「相手にとってのメリット・デメリット」「自分にとってのメリット・デメリット」ということばっかり考えて、「二人」とか「わたしたち」ということを考えない。また、「その間にあるもの」を考えない人たち。

 そういう人と接するのはとても疲れる。これが最初のほうに書いた「僕が悪い」というやつ。疲れるのは失礼な話であるが、疲れる。
 それから、「怖い」というのもある。
 何が怖いのか、よくわからないけど。
 これらの感情は、だいたいいつも「気が進まない」という形をとって現れる。なんで気が進まないのかというと、疲れるし、怖いから。
 嫌いなわけではなくて。

 最近、「一緒に○○行こうよ」と言われて、「面白そうだ」と思って、いったんは「いいね」と言ったんだけど、○○にいるであろう人たちの顔を思い浮かべて、急に気が進まなくなってしまったことがある。誘ってくれた友人には本当に申し訳ない。

 本当にこのだらしない、くだらない性質のせいで、いろんなほうに迷惑をかけています。
 そういうときに僕は、急に理屈の人ではなくって、気持ちの人になる。でも僕の気持ちは、消極的な、後ろ向きな、ネガティブな方面によく表れるから、あんまりよくない。そのへんをちょっと考え直したいと思う。
 それと、この人は片思いが苦手だな、と僕が思っているような人たちとどのように付き合っていくかというのも、考えなきゃ。いつまでも面倒くさがったり、怖がってばかりもいられない。
 かといってどうしたらいいんだか。

2012/10/18 木 壬子 please songs tell me true

 もう午前四時ですが、これだけ書いて寝ます。
 いちばん大切な人と語り合った、その内容はだいたいこの歌に集約されるような気がするので、忘れないうちに。歌詞打ちます。




 hideのGOOD BYE
 十何年聴き続けた曲ですが、今になってわかります。
「あとでわかるよ全ての意味が 今はわからなくても」って言うけど、本当に生きていればそんなことばっかりだ。
 たぶんこの曲を聴く人の中には、「いい曲だね」と思って、「でもよくわからない」ってなる人も多いんじゃないかなと思うんだけど、その「いい曲だね」を信じて、なんとなく心の中に置いておくと、じわじわと、もしくはある瞬間に、わかってしまうような、そういう曲だと僕は思います。
 ついさっきまで僕はこの曲を、hideの曲の中では特段好きというわけでもなかったのですが、常に頭の片隅に引っかかっていて、さっき思うところがあって歌詞を見ながら歌って見たら、なんだかわかってしまったのでした。
「いい」というのはそういうものなのかもしれない。

 僕はなんと、何百回も聞いたこの曲の歌詞をちゃんと聴き取れていなくって、別にそれで気にもしていなかったようなのですが、部分から全体を見ることが得意であるつもりの僕は、音と、聴き取れる言葉の断片から、大切なことを汲み取っていて、「よくわからないがとにかくいい曲だ」と思っていたらしいのです。

2012/10/17 水 辛亥 けいじばん

 掲示板が、最近動いています。読んでみてください。そして、書き込んでみてください。ほかの人の書き込みにも、コメントしてみてください。「横レスすみません」とか言いますが、そんなもん気にするのは、僕の好きなインターネットではなかったはずだよなーって。「Ez mixed BBS」とか意味不明なタイトルを十二年もそのままにしているのは、そういう意味だってあるのです。お願いします。ぜひ。

2012/10/16 火 庚戌 知恵院左右

 たとえ話と思ってください。
 ある偉大な方と、二言三言だけお話しするチャンスがあったのですが、あまりに緊張してしまって、ろくなことが言えませんでした。
「何を話そうか」と、考える時間は十分にあったのですが、考えている途中でふと、「ろくなことを言おう」と思ってしまっている自分に改めて気がついて、「でも、ろくなことなんてのは、ろくなもんじゃないな」と続いていったので、「ああ、じゃあ何を言えばいいんだ?」になったわけです。
 かしこい僕はその時もちろん、「自分の気持ちを素直に言えばいいんだ」と思ったわけですが、それはそれで混乱しました。「自分は何を言いたいのか」がわからなくなったのです。
 それは未整理でもあり、未成熟でもあるのかもしれませんが、ひょっとしたら「心が錆び付いている」のかもしれないとも思ったのでした。


 初めてつくった小説(『たたかえっ!憲法9条ちゃん』)に、「自分の気持ち」って言葉が出てきます。知恵院左右(ちえいんそう)という女の子が口にします。「知恵」は存分にあって、家柄とお金もあって(「院」がそんな感じですね)、だけど心が「左右」に揺れている、というようなキャラクターです。とても愛しい、いい子ですので、読んだことがない方もぜひ、ちょっとだけお付き合いください。
 彼女は本当に頭がよいし、欠けているものは何もないように見えます。だけど彼女には一つだけ欠点があって、たぶんそれは「自分の気持ちというものがわからない」ということなんじゃないかと思います。(書いておいてなんですが、書いているときはまったくそんなことはわかりませんでした。)
 彼女が大和マモル(主人公)のことを好きになったのは、というか、ずっと好きでいたのは、「自分の気持ちはそこにしかない」と思いこんでいたからだと思います。「マモル」という人間を追いかけることしか、自分の気持ちを表すための行動はないと思っていた。もちろん、「自分の気持ち」はそんなに単純なものではありません。いつの間にか知恵院は、「自分の気持ち」について自分自身に問いかけることをやめていたのです。ただマモルのことを考えることで、逆に「自分の気持ち」から目を背けていたのです。理由は、わかりませんが。
 マモルが知恵院に振り向かなかったのは、彼女が「そういう理由でマモルを好きである」ということを、何となく気づいていたからかもしれません。マモルが憲法9条だけに欲情し続けたのも、そこらへんの事情が絡んでいるのかもしれません。もしかしたら。
 知恵院は孤独でしたが、それは「自分の気持ちがわからない」というところに原因があったのではないかと思います。自分の気持ちがわからないから、それを他人に伝えることができない。だからいつまでも、孤独である。それは彼女の両親とか生育環境にも関係があるのかもしれません。
 しかし、9条ちゃんと出会い、39条ちゃん(続編『ぶっころせ!刑法39条ちゃん』に登場)たちをなぎ倒すことによって、彼女は変わっていきます。孤独ではなくなります。
『9条ちゃん』で知恵院は「友達」を手に入れて、『39条ちゃん』ではついに、素直な心でマモルと向き合うことができるようになります。ラスト近くの、指を入れる入れないのシーンを想い出すだけで僕は涙が出てきます。
 39条ちゃんは、知恵院のクローンみたいな存在で、たくさんいます。たくさんいて、みんな猟奇的に狂っています。そいつらを知恵院はチェーンソーでなぎ倒していきます。思えば、これはものすごく「象徴的」なシーンだったのでした。

『9条ちゃん』で知恵院は「自分の気持ち」という言葉を二回使います。最初にのとき、彼女はその言葉の意味をよくわかっていませんでした。「なんだかよくわからないけど、とにかく私はそれだけを大切にしたい」ということだけはわかっていて、しかし肝心の「自分の気持ち」の中身については、わからない。だから一回目は「自分の気持ち……だけよ」と「……」がついています。
 二回目のときは、「自分の気持ち、だけよ!」と言い切っています。彼女はここで「自分の気持ち」をわかっているように見えるのですが、それでは、彼女は何を「わかった」のでしょうか?
 この直前に、その時点では悪役だった米田リカという女性教員とのやりとりがあります。

「これは“暴力”なんかじゃないです。あたしにだって、大切なもの――守りたいものくらい、あります。そのために使う力は、“暴力”なんかじゃないと思います」
「守りたいもの……。大和くんのこと? それとも――」
「前にも言いましたけど、あたしが大切にしたいのは……守りたいのは……」
 知恵院は、くすりと笑って、
「自分の気持ち、だけよ!」

 彼女が「わかった」ことというのは、「自分の気持ち」のありかです。はじめ彼女は、「自分の気持ち」は自分の外側にあるものだと思っていました。つまり、マモルです。マモルの中にこそ「自分の気持ち」があると思いこんでいて、それで彼女はマモルばかりを追いかけていたのです。
 リカがわざわざ「大和くんのこと?」と聞いているのは、そういうわけなのです。宇宙で最も天才かもしれないようなリカ先生は、知恵院が「そういう子」であったことを、とっくに見抜いていたんじゃないかと思います。このあとで、リカは知恵院に対して「負け」を認めるわけですが、それは「してやられた」という意味だけではなく、「知恵院が立派に成長した」ことに対してでもあるでしょう。教育者の視点です。もしかしたら、知恵院の成長を見て、リカの中の教育者としての魂がうずき始めたのかもしれません。この先生はちゃんと、「あたし、仮にも教育者だし」と、その直後に言っているのです。思い出したように。リカがあっさりと改憲党(悪役)を裏切る背景には、そういう心の動きも関係しているかもしれません。


 知恵院が「自分の気持ち」をわからなかったように、書いていた僕も「自分の気持ち」がわかりませんでした。正直に告白すれば、知恵院の気持ちも、それを書いている自分の気持ちも、まったくわからないまま、「なんとなく、こう言わせておけばそれっぽいよな」というくらいの気持ちで、「自分の気持ち」という言葉を使っていたのです。後半で知恵院は明らかに「自分の気持ち」というものをわかっているのですが、書いている僕のほうはちっともわかっていなかったという、不思議なことが起きています。今になってようやく、「そういうことだったのか!」と膝を叩いているというわけです。
 もっとも僕だって、「自分の気持ち」が外側にあるものではなくって、自分の中にあるということくらいは知っていたはずです。だって僕は小学生の時に岡田淳さんの『二分間の冒険』という児童書を読んでいて、それから十回も二十回も読み返しているのです。それがどういう物語であるのかは実際に読んでもらいたいと思いますが。
 僕は最近、「自分のことばっかり考える」ということを邪悪だと言っています。しかし、「自分の気持ちとちゃんと向き合う」ということは、邪悪どころか、正しいことです。僕にはなかなかそれができなくて、『二分間の冒険』の最大のテーマすら、完全には受け入れられないでいたのです。90%はちゃんと血肉になっていて、10%だけ未消化のままおなかに残っているような、そんな感じでした。
「自分の気持ちは自分の中にある」という当たり前のことは、僕だって当たり前に、それこそきっと十代の頃から知っていたはずですが、それが「わかった」になるまでは、途方もない長い時間がかかりました。十九歳の時に、いったんは「わかった」気がしていたのですが、その「わかった」をさらに消化するのに、もう八年かかったような感じです。

 知恵院はその後、『39条ちゃん』や、まだ描かれていないその後の物語の中で、もっともっと素敵になっていくと思います。
 このようなキャラクターを、このように描けたというのは、僕がやっぱり小説を書く人だからかもしれないのですが、しかし本当の理由は、単純に「知恵院左右は僕である」からってことかもしれません。上に書いたようなことは、全部僕にも、心当たりがあります。マモルだって僕だし、リカだって僕なのですが。
 処女作にすべてがある、なんてことを言いますけど、『9条ちゃん』に出てくる人たちってのは、本当にみんな僕です。
 彼らを好きになってくれた方みんなにお礼を言いたいです。ありがとうございます。
 錆び付いているかもしれない心をきれいにするために、これからしばらく頑張っていきます。知恵院だってきっと頑張ってるんだから。
 と、『メンヘラちゃん』という漫画をタイミングよく読んだ僕は思うのでした。衝動買いでしたが、やはり今こそ読むべきものでした。

2012/10/15 月 己酉 放送大学で民度を上げる話

 最近、何人かの友達と一緒になって「放送大学はすばらしい!」みたいなことを連呼しまくっているのですが、そういえばこのHPにはあんまり放送大学の話を書いていなかったので、ちょっとだけ書いてみます。
 放送大学というのは、15歳以上なら誰でも入学(科目履修)できる正規の大学です。もちろん卒業して学士を取ることもできるし、大学院もあります。社会人で働きながら学んでいる人が多いのですが、それでも社会人人口全体から見れば宇宙の中のチリみたいなもんです。僕はもっともっと、放送大学で学ぶ人が増えればいいのにな、と思います。とりわけ、子供を持っている親はぜひ、放送大学に入学するべきです。学費も安い(入学に24000円、一単位に5500円)し、数百という科目の中から学びたいものだけを選んで学べるし、通学の必要もありません。
 ちなみに僕は現在、放送大学の三年生です。

 なぜ僕が放送大学を愛するのかといえば、お母さんの母校だから、というのが大きいです。なんと、僕のお母さんは放送大学を卒業しているのです。四十歳を過ぎてから。僕がまだ小学生くらいの時にたぶん入学して、家で教科書を読んで勉強したり、スクーリング(講義)や試験などのために学校へ出かけていく姿をよく見ていました。その時は「ふーん」って感じで、特に気にしてもいなかったのですが、今思えばあれは、何にもまして素晴らしい「家庭教育」だったのです。

 父親や母親は、子供によく「勉強しなさい」と言います。僕は言われたことがほとんどないです。少しくらいは言われたのかもしれませんが、まったく覚えていません。少なくとも、塾に行けとか、もうちょっと勉強したほうがいいとか、そういう類のことは絶対に言われていないと思います。せいぜい、「夏休みの宿題って終わったー?」とか、そういうことくらいだったような気がします。もちろん、「ちゃんと勉強していたから言われなかった」ではありません。
 それでも結果的に、僕は勉強が大好きになったのです。高校三年生の時に。それまでは好きでも嫌いでもなかったです。

 なんでかって言ったら、その理由の一つには、お母さんが放送大学の勉強をしていたから、というのがあるのではないかと思うわけです。

 18歳の時に、初めて家庭教師に行った家庭で、その家のお母さんにこう言われました。「うちには本棚というものがないんです。夫婦そろって、AERAくらいしか活字は読まないんですよ」と。
 少し驚きました。「そんな家庭があるのか!」と。僕の家だって、両親が本を読んでいる姿を見るのはそれほど頻繁ではありませんでしたが、しないというわけではなく、お母さんのほうはたぶん、平均よりはずっと読むほうだったと思います。もちろん本棚もありました。(お父さんのほうはもっぱらレコードを聴いていました。これも素晴らしい教育だったと思います。)
「家に本棚がないと、子供に読書の習慣は根づかない」というのは、たぶんある程度は真実だろうなと思います。その家庭には二人の子供がいましたが、二人とも本はほとんど読みませんでした。そればかりか、日本語の会話すらうまくできないような子でした。これはたぶん、「ふだん両親がどのような会話をしているか」というところが問題になるのでしょう。日常こそが教育である、という典型です。
「そこまでわかっているなら、本棚買って本を読んだらいいのに」と僕はその両親に対して思うわけですが、そういう習慣をいきなりつけるというのは、難しいのでしょうね。

「家に本棚があって、親が読書をしている」ということは、教育だと思います。そして、もしも親が子供に、「勉強してほしい、本を読んでほしい」と願うなら、ふさわしい教育法だと思います。
 そしてそれ以上に僕は、「親が放送大学の勉強をしている」という状況を、素晴らしい教育だと思うわけです。

 親はよく「勉強しなさい」と言いますが、それは子供にとって理不尽なことです。「なんで僕ばっかり勉強しなきゃいけないんだ」とか、「勉強なんか意味あるのか」「勉強なんか楽しくないじゃないか」とか、子供は思います。それは、親が勉強していないからです。ひどくなると、子供が勉強について質問をしても、答えられない親がたくさんいます。答えられないとしても、一緒に調べたり考えたりできればまた違うのですが、たぶんそれすらもしない親が多いと思います。
 子供が勉強嫌いになるのにはたぶん、「意味のないことをやらされていると感じるから」というのがあって、さらにその原因には「親は勉強してないし、する気もないのに、子供にさせようとするから」というのがあると思うのです。
 そこで、親が放送大学(ほかの学校でもいいけど)に入って楽しく勉強して、「親(大人)だって勉強するのだ」「勉強には意味があるのだ」「勉強は楽しいものだ」ということを、身をもって示せば、子供は勉強嫌いになりにくいのではないか? と僕は本気で考えています。

 もしも多くの親が放送大学で学ぶような世の中になったら、日本の民度は、というか教育水準は、ものすごく上がると思います。みんな、教育というものを考える時に、「子供に対する学校教育」しか考えませんが、教育というのは学校教育だけではなくって、家庭教育や地域教育というものもあります(ほかにも、いろんな形で教育というものはあると思います)。「親が自主的に学んでいる」という状況は、とても素晴らしい家庭教育になるはずですし、「大人同士が楽しそうに放送大学の話をする」なんていうことになったら、それはもはや地域教育(社会教育)かもしれません。
 教育を考える時に、「学校教育」だけを考えていたら、絶対に片手落ちになります。もちろん、実現は容易ではないのでしょうが、理想として、「大人がみんな放送大学(など)で学んでいる」という状況を設定するのは、悪くないのではないでしょうか?

 世の中を素敵な大人であふれさせるためには、「やがて大人になる子供への教育」というのは大切なのですが、子供は大人を見て育ちますものですから、やはりまずは大人が立派になることが必要です。そのための選択肢の一つとして、「自主的に学ぶ」ということは意義深いと思います。
 大人はよく、「むかしは勉強なんか嫌いだったけど、今になって勉強したいって思うんだよねえ」とか言います。だけど、実際に勉強する人は一握りです。(「自分の仕事に直結すること」なら勉強している、という人はそれなりにいそうです。それも素晴らしいことなのですが、それだけだと、子供に対して「学ぶことそのものの意義や楽しさ」を伝えることは難しいかもしれません。)
「勉強したいな」と、うっかりぽろっと口に出してしまうような、真面目だが少々怠惰であろうような大人には、僕は全力で放送大学をすすめたいわけです。
 それは教育水準の向上につながると信じます。

2012/10/14 日 戊申 散文と詩、水と油。

 非常にもやもやした気分になった。
 いろいろ書こうかと思ったが、こういう場合に散文は適さない。
 それでも詩情に表しきれないものはある。
 水と油でたとえれば、散文は水。詩は油。僕にとっては。
 油っけのない澄んだ日常に、詩は必要ない。
 ここ数ヶ月で、ほんの数回しか書いていない。
 澄んでいたのだろう。
 嫌なことがなかったということではない。
 嫌なことさえも、澄んでいた。
 歳を取って、十何年間も毎日散文を書いてきて、言葉で表せることも増えていった。そのぶん、生活は澄んでいった。
 言葉にできる、ということは、澄んでいるということだ。
   僕にとっては。
 濁っても、心を静かに落ち着かせ、慎重に考えれば、濾過できる。あるいは、眠ってしまえば、濁りのもとは底に沈んで、水はしだいに澄んでくる。溜まった不純物は、まとめて捨てればいい。
 油ではそうはいかない。

 もやもやした心は、普通なら散文にすれば整理できる。
 こういうもやもやは、「濁り」のほう。
 濾過するか、待つ。
 散文にできないほどのもやもやは、油まみれということだろうから、詩として分離させなければならない。
 と言って僕はいま、詩を書く前に散文を書いている。
 もやもやしたままだ。
 ただ、水と油でたとえれば、水が少しずつ減っていくような感じはある。
 本当に詩人と言えるような人は、水と油が僕とは逆なのかもしれない、とか、ふと思いついた。

 まあしかし僕も不完全だから、こうして散文のように書いていて、どこか詩のようになっている。やはり順番が逆なんだろう、僕にとっては。

2012/10/13 土 丁未 見ずにディスる。

 僕はもう、年を取ったせいか、判断が早いです。
 どんなものであれ、すべて自分の目で確認してから判断を下す、ということをあんまりしないのです。だいたい、そのもの自体を取り巻く環境(他人の意見とか)を参考にして、「こんなもんなんだろうな」と決めてしまうのです。それで「これはいいや」と思ったものに関しては、もうほとんど目を向けません。ざっと目を通すこともありますが、通さないことのほうが多いです。『魔法少女まどか☆マギカ』という作品に関しては、まったく見ていません。エヴァンゲリオンの新劇場版も見ていません。見る気も特にありません。
 年を取って、「自分にとって必要であるか」という嗅覚ばかりが発達しました。でも、その嗅覚を信じすぎることは、結局は「手を抜く」ことでしかないような場合だってあるかもしれないので、気をつけなければいけない、とは思いつつ。アニメで続けるならば『ハルヒ』も『らき☆すた』も『けいおん!』も『ゆるゆり』も、何話かだけ見てやめてしまいました。
 世の中ではよく、「ろくに見もせずに批判してはいけない」ということを言われます。僕もそれを否定する気はないのですが、「ろくに見もせずにそれについてコメントしてはいけない」というわけではないと思うので、すべてちゃんと見ないと言えないようなことは言わないようにしていますが、言えそうなことは言っています。
 それでも、「見ずにディスるのはよくない」という類のことをたまに言われるので、ことはそう簡単ではないようです。僕の言い方も悪いんでしょうが。

 これまで挙げた作品は、今後まじめに見る気もなければ、子供に見せたいとも思いません。これは年寄りの頑固さや偏見でしかないのですが、批判でも悪口でもディスでもないと僕は思っています。ただそのように思うし、そう思うことは間違っていないと、ろくに見もしないで思っています。
 だいたい、アニメなんか全話見るもんじゃないんですよ。そもそもが。
「テレビでやってるのを偶然チラッと見る」っていうこともあるし、「とりあえず何話かだけ見てみる」ってのもある。気に入れば全話見ればいいけど、そういう人はごく少数しかいないと思う。(最近は話数の少ないアニメシリーズが多いから、全話見てる人は増えてはいるけれども。)
 あんなに時間がかかるものに対して、「全話見なければ善し悪しの判断はしてはいけない」っていうのは、ちょっと乱暴なんじゃないかと、乱暴な僕は本気で思います。忍たま乱太郎も、全話見ないと悪口言っちゃいけないんですか! と。(忍たま乱太郎の悪口を言いたい人はそんなにいないと思うけど。)
 僕は、全話見ないで評価しますよ。もちろん、「全話見たフリをして評価する」はしません。見たことないものはちゃんと見たことないって言います。
 アニメの場合、どんな設定で、どんな絵で、どんな物語で、どんな○○で……という情報を仕入れて、誰がどういう評価や感想を言っているのか、ということを把握して、それで第一話と最終話くらい見れば、少なくとも「自分にとって必要かそうじゃないか」くらいはわかると思います。その「わかる」が完璧な精度を持つかと言えば、そんなわけはないのですが、しかし新しいアニメと出会うたびに全話ちゃんと見るっていう労力をいちいち裂く必要があるとは到底思えません。僕はアニメを見ることそれ自体が趣味なわけでもなければ、そういうことを仕事にしているわけでもないので。それに、仮に全話見たところで、「ちゃんと見る」になるのかどうかっていうのは、よくわからないわけですし。

 今日のタイトルを「見ずにディスる。」にしてみましたが、僕は「ろくに見ないで、その作品をディスる」ということはほとんどしません。ディスりたくなったらちゃんと見ます。(全話じゃないかもしれませんが。)でも、「その作品について何か言っているやつとか、その作品を取り巻いている状況を、ろくに見ないでディスる」ということは、よくします。それは作品を見ないでもできるし、してもいいと思うのです。もちろんそういう場合、「あなたの作品に対する認識は間違っている」というようなことは言いません。僕はろくに見ていないわけだから、そういうことは言えません。しかし、「あなたの作品に対する認識は邪悪である」とは、言うかもしれません。「もしその作品が、あなたの言うような作品であるならば、その作品は邪悪である」とも言うかもしれません。
 僕は事あるごとにエヴァンゲリオンを悪く言いますが、作品の中身についてディスったことは、実はほとんどありません。僕は小学生の時に本放送を見ていますし、中学の時に深夜の再放送でも見たので、内容はだいたい知っているのですが、そこに対しては、「それなりに面白かったとは思うけど、全然好きじゃない」というくらいの感想しかなくて、「でも最後の二話は当時とても衝撃的で、なんか面白かったなー」とか思うくらいです。僕が嫌いなのは、「作品を取り巻く環境」であって、作品それ自体ではないのです。もちろん、言い方としては「エヴァは好きじゃない」くらいになりますが、それは内容が好きじゃないわけではないのです。実は。どちらかというとたぶん、内容は好きなほうです。劇場版はいっこも見てないけど。
 たとえばエヴァンゲリオンがヒットした前後から、作られるアニメの質とか傾向とかが変わってきて、オタクと呼ばれる人たちの様子もずいぶん変わってきました。僕にとってちょっといやな方向へ。そうなることはきっと時代の必然で、タイミング良くヒットしたのがたまたまエヴァだった、というだけのことかもしれませんが、象徴として僕はエヴァを憎まざるを得ないのです。エヴァは、促進剤にはなったかもしれませんが、元凶ではないのかもしれません。しかし僕はエヴァがその象徴である以上、好きにはなれませんし、「もしエヴァがなければ……」という夢想もします。
 エヴァがなければ、テレビ愛知の平日夕方のアニメ再放送枠だってなくならなかったかもしれない、という話だってあるのです。(素晴らしい作品ばかりを放送していました。)
 同じようにして『けいおん!』は、「日常系」と呼ばれるアニメの象徴であるから好きにはなれません。作品の中身が嫌いなわけではないです。ただ、ああいう中身をしたものがここまで売れてしまうのがいやなだけです。
 友達で『ゆるゆり』を好きな人が何人かいるので何話か見てみましたが、確かにけいおん!よりは丁寧で、面白そうに感じました。でも好きではありません。友達に「なぜゆるゆりが好きなのか」を聞いてみたりもしました。納得はしましたが、だからといってゆるゆりを好きになるかといえば、なりません。嫌いにもなりませんが、「自分には関係ないな」と思います。「自分には関係ないけど、多くの人に関係があるとしたら、それはちょっといやだな」とか、たいてい続けて思います。
 ちなみに、まあ、友達同士での冗談なんかでは「けいおん爆発しろ!」とか、そういうことは言ってると思います。すみません。

 僕はアニメにも、二次元の美少女にも、興味がないのです。人間と、関係と、場に興味があります。
 全話見てみれば、「実は人間と関係と場に関する話だった!」ということはあるのかもしれませんが、そうであるかもしれないという可能性も考慮した上で、僕は『けいおん!』も『ゆるゆり』も見ません。

 いろいろご託を並べましたが、アニメなんかそもそも全話見るもんじゃないんです。全話見ないとわからないようなアニメは、つまりそれほど良い作品ではないということです。子供はつまんなかったら見るのやめるし。
 僕の大好きな『まなびストレート!』の最大の欠陥は、「一話で見るのをやめる人が非常に多い」ということです。二話まで見てもらえば勘のいい人ならまなびがどういう作品であるかわかるとは思うのですが、一話でそれがわかる人はさらにずっと勘のいい人です。ほとんどアニメなんか見ていなかった当時の自分が、一話で「これは……」と思えたのは、実に誇らしいことです。もっとも、正直言って「すげー!」と思ったのは、二話でしたけど。名作と確信したのは三話です。
 僕はその欠陥を踏まえて、まなびを勧めるときには「お願いですから二話までは見てください」と言うようにしています。

 僕は、まなびを一話だけ見て「自分には必要ない」と思って見るのをやめる人に対して、「まあ、仕方ないな」としか思いません。六話くらいまで見て「つまんねーな」と言って見なくなるような人は、ちょっと人格的に欠陥があるように思います。
 アニメなんか全話見るもんじゃないんだけど、自分に必要かそうでないか、という線引きは、全話見なくてもできると思うし、すればいいと思います。「まなびストレートとかいうアニメ、一話だけ見たけどイマイチだった」と言っている人がいたら、「二話か三話まで見てみてよ、そっからが素晴らしいんだよ、一話があんなんなのはちゃんと意味があると思うし」と僕はアドバイスします。そういうことで、いいんじゃないんでしょうか。
「まどかマギカとかいうアニメ、見たことないけど僕には必要ないんだろうな」と僕は言います。それで誰かが、「○話が素晴らしいので、見てください」とか「全話見ないとわからないのですよ!」とか言ってくれたら、僕はちょっと喜んで、もしかしたら見るかも知れません。「見たことねーくせに決めつけんなよ!」と言われたら、「なんで決めつけちゃいけないの?」と首をかしげます。僕はただ「自分には必要ない」と言っただけなので、その判断を否定されたくはないわけです。
 そういうふうでいいんじゃねーのかと思うのです。

2012/10/12 金 丙午 板橋

 板橋に行ってきた。よかった。
 コンビニがない。いちいち看板や張り紙が面白い。店の名前が、だいたい気が抜けている。長い長い商店街は、駅に近づくほど巨大資本の匂いが増すが、駅から離れると、チェーン店はほとんど見あたらなくなっていく。
 縁切り榎や、お寺など、注目すべき史跡もたくさんあった。さすがは旧中山道の宿場町、といったところで。

 友達とひたすら歩いた。何時間もかけて、大笑いしながら。
 夜は、彼の家からとても近い中華料理屋に入った。狭くて安くて、気のいいおばちゃんがやっていた。おいしかった。その近くの和菓子屋もすばらしかった。
 その後は酒も飲まず、お茶を飲みながら話をした。
 日付が変わる前に帰った。

 石神井川に沿って走り、車はほとんど見なかった。

2012/10/11 木 乙巳 

 今夜も木曜喫茶だった。
 お客さんを誘致するために、このHPでもたびたびお店の話をしてみようかな、とも思うんだけど、あんまりインターネットと一体化させたくもないので、いつも悩むのです。やっぱり、お店はお店として、独立した場にしたい。
 なんというか、まあ、興味があったら来てみてください。
 僕は無精なのですが、特に断りがない限り毎週必ず店にいます。大災害時を除けば、四年以上やってますが一度も休んだことはございませんよ。
 毎週木曜の20時です。新宿で。無銘喫茶とかいうところ。

2012/10/10 水 甲辰 22歳の別れ

 なぎさ誕生日おめでとう。
 今も愛してます。
 またデュアルオーロラウェーブしようね。

2012/10/09 火 癸卯 「みんな」と「国民」

 こないだ、中国で反日暴動が続発しているという報道があったときに、僕が「悲しいことですなあ」とか言ってたら、「わたしはただ、『なんでこんなことになっちゃってんだろう?』と思って見てる」と、ある高校生の女の子が言った。
 その時はフーンとだけ思ってたんだけど、9月28日の朝日新聞に載っていた橋本治さんの寄稿に、ずばり書いてあったので驚いた。

 竹島や尖閣諸島の問題で、韓国や中国は「国民的な怒り」を爆発させているが、今の日本にそういうものはない。韓国や中国のやり方に対して怒る人はもちろんいるだろうけれど。多くの人は彼の国の反日行動を観て、「あの人たちはなんであんなに怒っているんだろう?」と、そのメンタリティを不思議に思うのではないだろうか。どうしてかと言えば、そのような行動をとる習慣も、そのようなことをしてしまうメンタリティも、日本人はいつの間にかなくしているからだ。

 話題はこのあと、現代は「日本人」とか「国民」とかいう意識をする時代ではなく、「みんな」という意識を持つ時代だという話になっていく。

「みんな」という集団は、そう複雑なことが決められない。それを始めたら意見の違いが露呈して、バラバラになってしまう。毎週金曜日に首相官邸付近で行われる反原発デモがそうだ。

「みんな」の結集は、ワンテーマでしか起こらない。それ以上のテーマがあったら内輪揉めが起こる。「細かいこと言わないで、みんなの力を一つにしようぜ」というところで「みんな」の結集が起こる。ネット社会になってからそういうことが起こったと思われているが、今から四十年以上前の大学闘争の時代に、既にそうだった。

 で、「政権交代」というワンテーマだけを掲げていた民主党は、そのワンテーマを失った後でやはりバラバラになった。橋本さんは、東日本大震災で活躍した日本人の「みんな」のあり方に成熟を認めながら、「政治というものは、その『みんな』では出来ない先のことを実現するためにあるのだ。」と言う。

 論はまだまだ続いていくのだが、とりあえず置くとして。「日本人」や「国民」という意識がこの国からなくなっている、というのは特に目新しい言い方ではないが、「みんな」という意識については面白い。
 日本人が「国民」をわからなくて、「みんな」ならわかる、というのは確かに成熟だと僕は思う。「みんな」ということが考えられるなら、韓国でも中国でも、あのようなことは起こらないと思うからだ。「みんな」は良くも悪くもブレーキになる。「みんな」をさしおいて、「国家」とか「国民」を考えるから、「中国人が日本車を破壊して、その持ち主である中国人が号泣する」ということだって起きてしまう。
 しかし、「みんな」ということだけを考えていると、複雑なことを決定することはできないし、思い切った決定もできない。こっちを立てればあっちが立たない、ということは必ずある。そこをバランス良く操縦するのが政治であって、リーダーであるような人たちだ。
 ここで昨日の合唱の話とか、その前の話とかにも繋がっていくわけですが。

「なんであんなことになっちゃってるんだろう」という疑問は、とてもまっとうなものだ。「そんなことしたって誰もトクしないじゃん」と僕も思う。この「誰も」が、すなわち「みんな」なんだろう。ところが暴動をしたとされている人たちは、どうやら「国家」とか「国民」とか、そういったものを念頭に置いているらしい。そういうズレが、「なんであんなことになっちゃってるんだろう」にはあるのだろうな。
 僕らは「みんな」を考えていればいいが、政治家は少なくともあと数十年や数百年、「国家」や「国民」のことを考えなければならない。だから政治家は、「『みんな』ということしか考えてくれないような国民たち」の存在を前提として物事を考えなければいけないのだと思うが……どうなるんでしょうね。

2012/10/08 月 壬寅 合唱と「自由」(山鹿市立山鹿小学校)

 小学生の合唱の全国大会的なものに行ってきた。全十一校が出場して、いずれの学校も素晴らしかったのだが、熊本県の山鹿市立山鹿小学校音楽部の歌が特に心に残ったので、しるす。
 僕は合唱に関しては専門的に明るいというわけではないので、本当に単純に個人的によいと感じただけなんだけど、課題曲で僕は泣きましたよ。
 山鹿小は九校目の発表だったので、課題曲を聴くのは九回目。それで歌詞もメロディもだいたい頭に入っていた、ということもあるのだが、この演奏は本当に素晴らしかった。何が素晴らしかったかといえば、第一にその「歌い方」だった。
 こういった、「コンクール」のような厳かな場面での合唱というのは、基本的に「棒立ちで歌う」ものだと僕は理解している。もちろん、首や身体が多少(時にはやや大きく)揺れたりすることはあるが、それはたいてい「演奏者全員が同じような動きをする」ものである。動くなら動く、揺れるなら揺れるで、チーム全員がだいたい同じような感じでやらないと、統一感がなくなって、見た目に汚くうつるのである。
 いま、Youtubeで二十本くらいの合唱動画(小学校から高校までの、校内コンクールやら全国大会やら諸々)をざっと見てきたが、見た限りはすべて「棒立ち」か「揃って動いている」のどちらかだった。
 しかし山鹿小学校は違った。「自由に躍動しながら歌っている」だった。それぞれが思い思いの、おそらくは自分の最も歌いやすいやり方で歌っていた。首を大きく振り動かす子や、手を使ってリズムを取る子さえいた(大会中、おそらく一人だけである)。もちろん、統一感はなく、見た目には汚い。しかし、だからこそ、目が離せない。ほかの学校の演奏は、目を閉じて聴いたりもしていたが、山鹿はまばたきするのも勿体ないように思えた。そういう迫力があったのである。

 それで、音がバラバラだったのかといえば、まったくそんなことはない、と思う。僕も演奏自体を「素晴らしい」と思ったし、合唱に明るい審査員の方々もそう判断したらしい。山鹿小学校は全国コンクールの銅賞(十一校中三位、ただし二校に与えられた)を見事勝ち取ったのである。
 僕の印象では、山鹿小学校は曲のイメージや歌詞の意味をかなり適切に捉え、それらを、その展開を、全身全霊で、魅力的に表現していた。具体的な歌詞を引っ張り出せば、「笑いあえばキラキラと」のやさしさ、二回目の「あふれるから」のおだやかな安心感、「明日を照らすよ」の輝く希望などが、心にすっと伝わってきた。

 自由曲の『僕のドラゴン』は、歌詞の聴き取りづらい部分はあった(この曲は四校が歌ったが、すべての歌詞をちゃんと聞かせていた学校はなかったと思う)ものの、その迫力、躍動感、クライマックスの盛り上がりなど、とてもよかった。何より、「全身の表現」が心を打った。視覚的なことだけではなく、それが歌にも影響しているはずだと思う。そうでないわけがない。「全身の表現」というよりは、「全身からの表現」と言ったほうが適切かもしれない。
 この曲では、終わりに「ガァー!」というかけ声とともに、ドラゴンが牙をむくようなポーズをとる。これは四校ともやっていたのだが、山鹿だけが「ガァー!」の時に「余計な動き」をしていた。すなわち、ほかの学校は「ポーズの完成型」に向かってほぼ一直線に身体を動かしていたのだが、山鹿は、まるで獅子がうなるように、歌舞伎で見得を切るように、ぐるりと全身を振り乱すようにして「ポーズの完成型」を導いたのである。それも、決して「揃っている」とは言い難いような絶妙な統一感をもって。
 佐久市立野沢小学校も、別の意味で本当に素晴らしい「ガァー!」だったし、他の学校だってキマッていたのだが、山鹿のはさすがに圧巻だった。
 それと、課題曲と自由曲の間にメンバーの入れ替わりがなかった(これはもしかしたら山鹿だけだったのかも? よく覚えてないけどたいていの学校はメンバー交替があった)のと、身長などをまったく考慮していないようないびつな整列の仕方も、この学校のこの学校たる所以のところなのかなと思った。たぶんだけど、ほかの学校はある程度は並び順を決める時に、音だけではなくて見栄えも計算に入れているのではないかと思ったんだけど、山鹿はそういう雰囲気がまったくなかった。少なくとも、整列した時点で山鹿はほかの学校に比べたら、僕の目には、隊形があまりととのっていないように見えた。ただ、それを「ととのっていない」と言ってしまっていいのか、ということを考えると、あれはあれで彼らなりに最高のととのいかたをしていたのだろう。ほかの学校とまったく同じように。

 大会の終わりに審査員の代表の方が、「どの学校も、歌わされている、という感じはまったくない」という意味のことを仰っていたように記憶している。もちろん、僕もそう思う。しかし、「自ら歌いたいと思って歌う」ことと、「合唱の中に『自分』をどれだけ存在させるか」という問題は、また別だ。山鹿の演奏には、「一人一人の彼ら」が、素人の、まったく部外者の人間でもわかるようなレベルで、存在していた。それでいて、全体としてよく調和していた。これはもう、ほとんど奇跡のようなことなのではないか、とすら思う。
 これは、「個人」と「全体」という問題だ。一人でありながら、調和していること。一つ一つの心、そのすべてが奏でるハーモニー。それがきっと、真に「自由」であるということだろう。
 合唱にはどうしても、全体主義的な臭いがつきまといがちである。それがゆえに、合唱が嫌いだと言う人もいるだろう。しかし、世の中にはこういう合唱の在り方だってあって、それが評価されないというわけでもないのだ(というか合唱って僕は、本来そうあるべきものだと思う)。これは、希望だなあ。

 もし、山鹿小学校が金賞を取っていたら――全国の参加校は、「ああいう歌い方で金賞が取れるんだ!」と驚くだろう。そして、「それならうちも、もっと自由にやってもいいのかもな」と思うかもしれない。そうしたら、そうしたらもっと、ずっと、小学生の合唱というものは、豊かになったのかもしれないな、と僕は心の底から思うのです。

2012/10/07 日 辛丑 怪奇!Facebookアドレスしか書いてない名刺!

 意識の高い集まりに参加した。展示もよかったし、とても楽しかったけど、いろいろと戸惑いもあった。たとえば、みんな二言目には「フェイスブック」という言葉を使うこと。これは非常に困惑した。写真を撮る人たちが多かったのだが、彼らのうちの一人が言うには、「フェイスブックのおかげで写真の地位が上昇した」という。そうだったのか。うーん、そうかもな。フェイスブックにカッコイイ写真をアップしている人は、モテるのかもな。自分のことをカワイク撮ってくれる、とか。それを「写真の地位が上昇した」と言うべきなのかどうかは、知らないけど。
 ま、僕は空の写真をたくさんアップしてるような人がモテる世界でモテたいとはあまり思わないので、いいんですけど。そんなすっぱいモテかた。
 驚いたのは、タイトルにも掲げたけれども、フェイスブックアドレスしか書いていない名刺の存在。もう一度言います。フェイスブックアドレスしか書いていない名刺の存在。
 フェイスブックの! アドレスしか! 書いていない! 名刺!
 アドレスの下に、「気軽に友達登録してくださいね」と書いてある。

 そう、僕の最大の戸惑いといったら、「相手がフェイスブックをやっている前提で話を進める感じ」。何人か初対面の人と話したけど、やはり二言目にはフェイスブック。「フェイスブックやってますか?」の一言すらない。「名刺ないんですよー」と言ったら「あ、じゃあフェイスブックで」と。
 僕はフェイスブックやってないんで、困惑してしまう。
「フェイスブック、やってないんですよね」と言ったら、人間扱いされないんじゃないかという、過剰な恐怖すらある。
 これが、かつてあったという、「mixi八分」的なアレか。
 僕は大人で、強くて、フェイスブック外で楽しく遊んでるからダメージないけど、学校でこれやられたら、きついよなあ。
 今は「ライン」がそれになりつつあるみたいで、クラス内の連絡がラインで回ったりもするらしい。で、ライン登録してない子は、情報遅くなったりするとか。

 僕の世代だったら、高校生の時には「携帯八分」ってのがちゃんとありました。携帯持ってなかったら人間じゃない、とは言わないまでも、人並みの生活を送れない、というような。今はもうこれはあんまりないよね、高校生だとだいたいみんな携帯持ってるから。小学校か中学校あたりではまだけっこうあるのかなあ。

 これも昨日の話と似ているところでは似ていて、やっぱり「自分のいる世界を基準にしてしまう」の一例なのかもしれない。僕も気をつけよう。

「誰もが皆自由に生きてゆくことを許し合えればいいのさ」って尾崎豊が歌っておりました(『自由への扉』)。この歌の歌詞は、そういうことも含んでいるような気がする。尾崎の中では最も好きな歌。

2012/10/06 土 庚子 しゃべり方(上と下)

 細かなところで、「意識」というのは言葉に出る。
 つい「自分たちのいる階級」を基準にして物事を考えてしまい、それがそのまま言葉として出てしまうということは、よくある。
 気をつけたいものだ。
 特に「上」とか「下」とかいう言葉には。
「上」を(無意識にでも)自覚している人は、「上」であることが普通であって、「下」であることは特別だと思っている。当たり前かもしれないが。
 でも本当は彼らは少数派なのだ。
 で、彼らは自分たちが少数派であることを実は知っている。
「少数派が世の中を動かしている」というわかり方をしている。
「下」であるような多数派は、実のところどうなったっていい、とさえ思っている、かもしれない。
 で、そういったニュアンスで、「上」とか「下」とかいう言葉を使う。
「下」と言うときは、時に侮蔑になり、時に慈悲になる。
 抽象的な言葉には注意が必要だ。
 いちいち注釈をつけないと、誤解されてしまう。
 でも、そのことをサボっていてはいけないと思う。
 その都度適切な言葉を探したほうがきっといい。

2012/10/05 金 己亥 甘えるように寝る

 高校生の時に、つらくなって河原に出て、誰かにメールでも送ろうかと思って、「迷惑かも」とか逡巡していた記憶がこのHPにも残っている。あれから十年、僕は今でも時につらくなり、誰かにメールでも送ろうかと思って、今ではあまり逡巡もせず、送る時は送り、送らない時は送らないとすっぱり割り切れるようになった。昔は臆病で、自信がなくて、しかも逡巡することが楽しくさえあった、ということだろう。
 ここしばらく、いろいろとつらかったので、誰かに甘える代わりにひたすら寝た。何ヶ月に一回かやってくる病。「なんで自分はこんなにも寝るのか?」と思ったら、なんてことはなく、誰にも甘えられないからである。
 大人というのは、「甘えない」「淋しがらない」生き物であると原則、定められている(と僕は思っている)ので、ある人は酒を飲み、ある人は猫を飼い、ある人は煙草や麻薬や薬に頼り、ある人はアニメやゲームにのめり込む。ある人はキャバクラに行ったり、風俗に通ったり、結婚したりするだろう。
 僕はこういった甘え方ができないので、寝るのである。
 いい年してなんなのか、と自分でも思うが、さみしいものはさみしいのだ。もちろん、十代のあの頃とは比べものにならないほどマシではあるが。
 だからもうちょっとがんばらないと、示しがつかないわけであり、それがゆえがんばるというのが、僕も大人になったなあと思うのであることです。

2012/10/04 木 戊戌 evergreen

 ドラえもんに、酒に酔って帰ってきたパパの前にタイムマシンでおばあちゃんを連れてきて、思いっきり甘えさせてあげる(最初は叱ってもらうつもりだったのだが)というイイ話がある。(てんコミ16巻、「パパもあまえんぼ」)
 その姿を見ながら、ドラえもんとのび太がするやりとりがこちら。

ドラえもん「おとなって、かわいそうだね。」
のび太「どうして?」
ドラえもん「自分より大きなものがいないもの。よりかかってあまえたり、しかってくれる人がいないんだもの。」
のび太「そういう考え方もあるか。」

 こういうすばらしいやり取りを、さりげなく入れてくるのが『ドラえもん』という作品で、僕が心から愛してやまない所以でもある。
 僕は十年くらい前から、「大人とは、さみしいと言わない人のことだ」という勝手な定義をしていた。堂々と「さみしい」と言えてしまうような存在は、決して大人ではない。

 現代の大人は、「さみしい」と言ってはいけない。そのように世の中から要請されている。すなわち大人には「強さ」が求められる。これが、大人になると「感性」が失われていくということの理由だと思う。
 強さが求められるから、感性は失われていく。
 そうならざるを得ない。

2012/10/03 水 丁酉 103

 今度結婚する友達が、「みんなには今日の消印で招待状おくっといた」と、高校一年生の同級生たちに一斉にメールを送っていた。
 我々は1年3組、我が母校独特の表記では「103」というクラスだったのである。つまり10月3日は、103の日。
 なんてかわいい奴だ、と思ったよ。

2012/10/02 火 丙申 サバじゃねぇ!

 ブログじゃない ブログじゃない
 ホムペのことさ

 まあ、このサイトもいつの間にか日記だけになっちゃったようなものだから、ブログと言われても仕方ないような部分もあるけど、僕の意識の中ではブログと呼ばれるものじゃないのですよね。
「もう、ブログなんて言わせない」を合い言葉に、ちょっと改装しようかなとも考えてはいるんだけど、でもみんなたぶん、日記が最初のページに来たほうが更新がわかりやすくていいよね。ほぼ毎日書いてるのにWhat's New!とかに書くのもなんだし。いっそのことフレームにするか……でもフレームとかやったことないから困るな。
 Ez技術班のみなさま、ご意見がありましたらどしどし掲示板などにお寄せ下さい。僕は! もう! ブログなんて呼ばれたくないんですよ!
 ちなみに、昔はこういうトップページでした。ここの上のほうの、「Entertainment Zone」から「ZO-NET CO.LTD.」までがかつてのトップページです。
 サイトっぽくしたい、しかし日記が読みづらかったり、更新しづらかったりするのは嫌だ。まぁ、あれですね。日記以外のコンテンツを充実させればいいんでしょうね。それで週に一度、二度更新すれば、いいんでしょうね。
 王政復古の大号令をかけたいところです。

2012/10/01 月 乙未 邪悪な空間をつくりだす人たち

 邪悪の定義を、「自分のことしか考えないこと」としようってのが最近の僕の一つのテーマなんだけども、これはパフォーマンスにも表れる。

 先日、友達のライブに行った。三組のミュージシャンが出て、お客さんはトータルで僕一人だけだった、というやつだ。その日の日記で僕は、「三組目の出演者に関しては反吐が出そうなのでコメントは控える」と書いた。なんで反吐が出そうなのかというと、彼らが邪悪だったからだなと今思った。
 彼ら、というのは、女装コスプレしてボーカロイド(初音ミクとか)の曲を裏声で歌う、男性二人組のユニット(仮にAJCVとする)だ。カラオケ音源を流して、それに合わせて多少動きをつけながら歌う。それだけの人たちである。そのようなキャッチーな活動をしておりながら、ライブに一人の客も呼ばない(呼べない)のはある意味すごい。
 邪悪、というのは、そういった彼らの活動内容ではない。彼らのパフォーマンスの態度である。純然たるお客さんは僕だけであって、残りの聴衆は受付のお姉さんと共演者たち(二人)だった。にもかかわらず、彼らは「まるでお客さんが数十人から数百人はいるかのようなパフォーマンス」をしたのである。
 それ自体が問題だというわけではない。しかし、その「数十人から数百人」の中に、明らかに僕や、受付のお姉さんや、共演者さんたちは含まれていなかった。彼らは架空の聴衆に対して語りかけ、歌い上げていたのである。
「あー、これが自己満足か」と、僕は思ったものだ。
 ボーカロイドの曲なんて、正直言って僕はほとんど知らないし、興味もない。聴衆は全員、おそらくは僕と同じようにボーカロイドの素人である。少なくとも、彼らの歌を聴きにここまで足を運んだ人間ではない。
 彼らは、そのことを前提としない。ボーカロイドの曲を歌うことが、僕たち聴衆にとって快いものだと思いこんでいるようにさえ思えた。僕が同じことをやるならば、「みなさんはボーカロイドには興味がないかもしれませんが、自分たちはこれこれこういう信念と目標を持ってこの活動をしています。興味を持っていただけるように一生懸命唄います」くらいのことを言うだろう。しかし、彼らには「伝えよう」という意志がなく、「もちろん伝わる」ものだと信じ込んでいるかのようだった。視野狭窄も、ここまでくると迷惑だ。

 もちろん、この程度のことで気分を悪くするような僕ではない。ここまでだったら、僕も「なかなか肝の据わった奴らだなあ」くらいに、笑って済ませていただろう。
 なんと呆れたことに、彼らには「三人目のメンバー」がいたのである。
「三人目のメンバー」は、女性で、他のミュージシャンがライブをしている間、ほぼずっと楽屋におり、AJCVの出番にだけ一番前の席に座って、AJCVのMCに対していちいちギャハハと笑ったり、写真を撮ったり、しまいにはサイリウム(光る棒)を振り回したりしていたのである。なんということだ。これが自意識の鎧か。
 まさに「お遊戯的なことなら、外でやってくれる?」だ。
 AJCVは、常に「保険」をかけた状態でパフォーマンスをやっていた。取り巻きである「第三のメンバー」を「数十人、数百人の客」に見立て、実質的な聴衆(僕や受付のお姉さんや共演者)をまったく無視していたのだ。
「第三のメンバー」が「お客さん代表」であり、それが客の大部分(数十人、数百人)の在り方を示すようなものである以上、会場には彼らのイエスマンしかいないというようなことになる。彼らは仮想的に、そういう空間を作り出していたのだ。
 恐ろしい。
 これが「自分のことしか考えない」ってことだと思う。

 AJCVを僕が邪悪だと言うのは、「自分たちにとって、最も快適な空間を作るために、そこにいる他人をないがしろにしているところ」である。
 自分たちが歌って、それで「第三のメンバー」を喜ばす、というだけなら、カラオケボックスでやれば充分なのだ。ライブハウスでやるからには、それに加えて「他人」というものが関わってくるわけだから、そこを意識してパフォーマンスをするべきだ、と、僕は思うのだが。
 自分たちの満足のために、他人が見えなくなるというのは、邪悪である。それが無意識のものであるなら、「無邪気」ということになるが、無邪気というのは時に迷惑なものである。
 子供じゃないんだから、と。

 過去ログ  2012年9月  2012年10月  2012年11月  TOP