少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2012/09/30 日 甲午 東の空海

 近所に、長命寺というお寺がある。1613年に開かれ、400年の歴史を持つ。当時から「東の高野山」として尊ばれたらしい。高野山というからにはもちろん真言宗のお寺で、弘法大師こと空海の像が立っている。最寄り駅から徒歩1分という立地にもかかわらず、ゆっくり見る機会がなかったので、行ってみた。
 このお寺は、少なくとも練馬区内では最も多くの石仏・石塔の類を有しているといい、訪れる者を飽きさせない。入口の門ではまず、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)がお出迎え。別の門には仁王が立つ。本堂に続く道にいる空海像や十三仏(十三体の如来や菩薩など)は比較的新しいが、高野山を模したと言われる奥の院に鎮座する十王と十三仏は、おそらく17世紀くらいからいるのだろう。みな古び、腕などに欠けも見られる。そのほかにも数え切れないほどの石仏、石塔などがあって、じっくり見ていたら日が暮れてしまった。
 帰ってきて、敬愛するジョージ秋山先生の『弘法大師空海』全六巻を読み直し、電気を消して瞑想してみた。わずか十分間ほどの瞑想だったが、心が安まり、身体の緊張もほどけた。そしてふと、もしかしたら僕は空海ではないのだろうか? という思いが芽生えてきた。そういえばそうだったような気がする。そうや、わいは空海や! わいは空海なんや! そうだ、きみは空海だ。空海はそう言った。やっぱり僕は空海なのだ。東の空海なのだ!
 というわけで僕は空海である。
 ここ二週間ほど、心身ともに調子が崩れてきている。心機一転、空海としての自覚を新たにし、立ち向かって行きたいと思う。
 ところで最近、尾崎豊の曲をなぜか聴き直している。この人も空海のようなものである。鉄でも喰うか。

2012/09/29 土 癸巳 秋刀魚を食べる

 登戸駅近くの多摩川河畔に集まって、秋刀魚を食べながらお酒を飲んだ。
 今日は日本酒しか飲まない! と決めていたけど、若者が持ってきてくれたスコットランドのスコッチブレンドを一杯だけ飲んだ。非常に美味しかった。西荻窪の三ツ矢酒店で買った、和歌山県新宮市は尾崎酒造の熊野なんとかという日本酒がとても美味しかった。新宮といえば佐藤春夫先生の生誕の地だ、尾崎酒造もいつか訪ねよう。
 熊野といえば、こないだ友達が「熊野に行ってきた。とても良かった」と言っていたのだが、よくよく話を聞いてみれば熊野三山のうち新宮と那智には行ったが本宮には行っていない(つまり、山には登っていない)とのことで、徒然草にある石清水八幡宮の話を思い出して笑ってしまった。本宮の存在自体知らなかったらしい。やはり、何事にも先達はあらまほしきことなり。
 質のよい酒を、質のよい人たちと、質のよいロケーションで、飲みたいものですな。よい日本酒を、友達と河原で、なんてのは最高です。こういった催しのたびに、よい友達を持ったものだと思います。

 それにしても人は見た目が九割とはよく言ったもので、立ち居振る舞い、そして表情と言葉遣いの与える印象というものは実に激しいものだ。最近はどうもそういうことに敏感で、どうしてもちょっと、そこで判断してしまいがちなところはある。良いのか悪いのか。自分も気をつけよう。もともと僕は、「第一印象は最悪」と言われることが多かったのだが、最近は少しくらいよくなってきただろうか。

2012/09/28 金 壬辰 アフタヌーン解体

 2006年5月号(『謎の彼女X』第一話掲載)からのアフタヌーンを解体した。アフタヌーンとともに歩んだ、この六年半をようやく精算したような思いだ。
 植芝理一先生と、とよ田みのる先生と、都留泰作先生(『ナチュン』)の作品だけは、全話切り抜いて残した。あとは単行本未収録の読み切りを中心に、厳選した。
 六年半を半日で駆け抜けたわけだ。
 雑誌の黄金時代は、長くは続かないものなのか。『ナチュン』が終わり、『友達100人できるかな』が終わる頃には、その他の面白かった作品も次々と消えていき、長寿連載である『謎の彼女X』『ヒストリエ』『ヴィンランド・サガ』くらいしか、読むものがなくなっていた。諸行無常というか。寂しい。
 今回、アフタヌーンとの訣別のような意味をこめて解体を行ったわけだが、自分は本当にこの雑誌が好きだったなあと、追悼のように思うのである。

2012/09/27 木 辛卯 自信のない女

 ある女の人に会った。
 彼女はとても、自分に自信があるような素振りを見せていた。
 映画や音楽を愛するらしく、「サブカルには詳しい」と息巻いた。アニメやマンガの話は一切しなかった。彼女にとって、「サブカル」の定義とはなんなのだろう。
 彼女は、自分がどのようにモテるか、ということを話した。
「私はブスじゃない。絶世の美女でもないことはわかっているけれども、何度もAV出演を依頼されるくらいには美人であり、男に好かれやすい容姿であることもまた自覚している。」という内容のことを言った。年下の男子や、年上のおじさんに好かれるが、女性には嫌われることが多いという。そして自分もまた、女は嫌いであると言う。「ブスに嫉妬されるのが嫌だ」とも言った。
「私は、自分を好きになるような男をまったく好きにならない。そして、自分が好きになるような男からは、好かれない。」
 まったく、こういった類の女の人は多い。

「自分のことがあまりにも好きじゃない、そのことが問題なんでしょうね」と僕が言ったら、彼女はビックリして、「そう言ったのは今までで二人目」と言った。
 自分に自信を持ちすぎだ、とはよく言われる、という。
 それが自信のなさの裏返しである、ということくらい、ちょっとでもものを考えたことのある人間であればわかるはずなのだが、誰もそれを言わないというのは、どういうことなのか。
 あまりにも自信がないから、サブカルなる言葉で自分を飾り、男好きのする容姿で自分を飾り、自信に満ちたような態度で自分を飾るのだ。
 彼女の話し方を一言でいえば、「常に先手を取りたがる」だ。たとえば、質問をする前から、“その質問の答えに対する返事を決めてある”ような。とにかく、自分の土俵の外には話を持っていかない。そのためにのみ神経を集中させている。
 性的にも奔放であるらしい。迫られたら断れない、とも。
 それらのすべてが、自信のない自分を守るための、でっちあげの、硝子の鎧であることは、誰の目にも明らかだ。
 確かに、それを言語化できる人は多くはなかろうし、たとえできても、面と向かってそれを言ってあげるような人は、これまた少なそうだ。
 なぜならば、それを言ってしまえば、身体の関係を持ちにくくなる。「やりたい」と思うなら、彼女はそのままでいてくれたほうが都合がよい。バカのまま、自信のないままでいてもらったほうが。
 あるいは、彼女の態度はプライドの高い男にとって愉快には写らない。だから、無視する。
 そういうわけで、それほどまでに明らかな彼女の問題を、指摘してあげる人は少ないのだろう。他人の問題点を指摘すると、関係が破綻するというのは、小学校時代からおそらく死ぬまで変わらない。
「そうですよねー」とだけ、言ってあげるのが一番円滑だ。

「自信のなさ」を抱えた人間が、それを埋めようとするのは賢明だ。
 しかし、埋めるすべが思いつかなくて、装飾でごまかそうとすると、ひずみが生まれやすくなる。具体的にいえば、性的に乱れたり、性格がゆがんだりする。少しゆがむくらいならまだいいが、ひどくなれば硬直する。ゆがんだまま、固まる。
 今の若い人たちは、とにかく自信がない、という。
 ゆとりだなんだと大人たちから言われて、自分たちには生来、能力がないものだと思いこんでいる。
 自信のなさは、それを埋める方向か、隠す方向かのどちらかに人を誘う。
 諦めるのは何よりいけないが、ごまかすこともよくない。
 向かい合わなければならない。

 人は、自分を愛さなければならない。そのために人は、人を愛さなければならないし、人から愛されなければならない。それらが不足した人間は、自分を愛することなどできはしない。
 自分を愛するためには、他人を愛さなければならない。他人を愛するためには、他人から愛されなければならない。
 だから、肉親からの愛、ことに両親からの愛情は大切だと思う。
 それが不足している人間は、どこかからそれを、「調達」しなければならない。それは大いに難しいことだ。
 せめて、自覚を。ということか。

 掲示板に返信しただけで力尽きました。みなさま何か適当に書き込みでもお願いいたします。ルネッサンスや!
 東高野山すばらしかったとか、昨日会った女の人のこととか、いろいろ書きたいけどとりあえず寝るのです。

2012/09/26 水 庚寅 排気ガス

 気分が優れない。その原因は、昨日マスクなしで東京駅八重洲口まで往復(35キロくらい)したからだ。復路に至ってはほとんど全力疾走だった。
 自転車に乗っていて嫌なのは、風でも雨でもなく、排気ガスと粉塵だ。これはもう、本当に気分が滅入る。忌野清志郎が死んだのはこれらのせいだと勝手に決めつけている。だからといって自転車に乗らないのはもっと嫌なので、普段は排気ガス対策の専用マスク(5000円近くする)を身につけている。特に大きな道路を走らざるを得ない時は。
 新宿にはよく行くので、ガスを避けて走る道を知っている。マスクを忘れてもそれほど不快ではないのだが、山手線の中を走るとなると、わけが違ってくる。死ぬかと思った。
 それで一日中気分が悪くって、死んでいた。
 車に乗っている人たちは、窓を閉めているので、基本的にはあまりガスを吸わないですよね。なんだか世の中ってのはそういうふうにできているらしい。

2012/09/25 火 己丑 友達のライブ

 江古田のライブハウスで、友達のライブを見てきた。
 三組が出演して、お客さんは僕だけ。
 一組目は、十代の女の子の弾き語り。
「あなたの絵文字に癒される」みたいな歌詞を、とりわけ上手でもない歌とギターで歌うのだが、好感は持てた。何言ってるかよくわからないし、何も心に伝わってこないのだが、好感は持てた。
 二組目が、友達。
 これまた、歌もギターも取りわけて上手ではないのだが、パフォーマンスの熱量は凄まじい。演奏に込められた魂の質も、素晴らしい。舞台上はまるで燃えるようだった。たった一人の客のために、ここまで燃焼できるというのは、表現する者の鑑だと思う。
 ただ、本人にも違う言葉で言ったのだが、それは「舞台上で燃えているもの」でしかなかった。客席にいた僕は、確かにその炎から前進する力をもらえた。僕の心も燻った。しかしそれは、「舞台上で燃えている火が、風に運ばれて僕に届いた」というようなものであった。
「その場で燃えているだけのもの」は、鑑賞する対象である。
 主人公たちが戦っている姿を、モニターでワイン飲みながら見てる悪の親玉みたいなのがマンガによく登場するけど、「鑑賞」にはどうしてもそういう距離がつきまとう。
 そこを越えて、「届ける」「響かせる」「忍び込む」というところに行くためには、まだ何かが必要なはずだ。
 それはたぶん外向きの力。
 たとえば聴き手のことを考えるということ。
 すべての音が、聴き手のために存在できているかということを考える。
 ただ、それをして熱量が下がるというのであれば本末転倒だから、また別のやり方をしたほうがいいかもしれない。
 もちろん、最も身近な聴き手は自分であるわけだから、自分にとって良いものであるということが一つの基準にはなる。ただ、いかに自分の耳が、感性が、心が魂が鍛えられているか、ということが問題だ。
 彼の音楽は、ある意味それ自体完成している。彼の音楽はほとんど彼そのものだからだ。彼のすべてがそこにあるようなものだからだ。だから現状を超えるには、「彼」そのものが変化すればそれだけでいい。あるいはもちろん、他のアプローチだってあり得るのだが。
 楽しみにしています。
 三組目は反吐が出そうなのでコメントは控えさせていただきます。

2012/09/24 月 戊子 劇団うりんこ『モモ』

 劇団うりんこの『モモ』を見てきた。商業演劇を見るのは久しぶりだ。うりんこは名古屋の劇団で、これまでに『びりっかすの神様』と『森のなかの海賊船(こそあどの森シリーズ)』を見たことがある。どっちも岡田淳さんの原作だ。そして今度はミヒャエル・エンデ。
『びりっかす』を見たのは小学生の時で、『海賊船』は中学生。正直言って、その時はいまいちわからなかった。たぶん、原作があまりに好きだったから、「原作とのギャップ」にとまどうばかりで、中身をちゃんと見つめることができなかったのだろう。
 今回の『モモ』でも、やはり原作に思い入れのある作品だから、すんなり物語に入っていけなかった。少し遅れてしまって、第一幕の途中から見始めたというのもあるけど。「これがモモ?」という戸惑いは正直、あった。物語の大筋を変えているわけではないが、B級遊撃隊の佃典彦さんが脚本・演出を手がけたというだけあって、かなり妙な感じになっていた。
 なんと、モモの役が途中で何度も入れ替わる。「私もモモがやりたい!」と言って、カツラと衣装を付け替える。お客さんは子供とその保護者がほとんどだったのだが、子供は、急に物語の世界から引きはがされて、ついていけたのだろうか。
 また、物語の進行役としてカメが果たす役割が非常に大きくなっていた。実はこのカメ役が僕の小・中学校の後輩の女の子。まさかあの子があんなに素晴らしい演技をするようになるとは思わなかった。はっきり言って出演者の中でピカイチの演技力だったと思う。子供に見せる演技としてはかなり上質なものだった。上演後も子供たちに大人気だった。
 ギャグが多かった。小島よしおは今でも子供たちに通用するのだなと思った。
 一回しか、しかも途中からしか見ていないのであまり大きなことは言えないが、『モモ』のテーマを上手に、独自に咀嚼した、よいお芝居だったと思う。特に、モモがいなくなっていた間の人間たちの豹変ぶり(大物になったジジとか)は泣けるほど残酷に演じられていて、そのぶん時間が取り戻された時の安堵感はたとえようもなく大きかった。ラストシーンで、モモ役が全員(七~八人くらい?)集まって、「モモはみんなの心の中にいるんだ!」と、「モモの役が入れ替わる」ことにちゃんと意味を与えたのも素晴らしい。「モモ」は消えて、「モモ」と名付けられた子供が誕生するなど、原作にはないよい演出がたくさんあった。ぜひもう一度見たい。

 子供たちにとっては、笑いながら、楽しみながら、「ぜいたくに生きるとはどういうことか」を考えさせられたのではないか。モモの連発する「どうして?」から、ものの考え方を学ぶことができたのではないか。――というのは、大人の勝手な期待なのかもしれない。大部分の子供たちの心には、「面白かった」以外には、何も残らなかったのかもしれない。『モモ』を読んだすべての子供が、『モモ』の内容をまっとうに咀嚼できるとは限らないように。そもそも、『モモ』のような長い物語を最後まで読むことさえ、難しいように。
 しかし、ひょっとしたら、五年、十年先に残る何かを心に刻みつけてくれたかもしれないし、ある時ふとこのお芝居を思い出したり、原作を読んでみようと思ったりするかもしれない。そういう、祈りのような気持ちが、たぶん演じる側にもあるんじゃないかと思う。その場で楽しんでくれるだけじゃなくって、お芝居の中にあるもっと大切なことが、きっと伝わっているはずだと信じて、信じつつ、もっと伝わるように努力しつつ。
 うりんこの『モモ』が、見に来た子供たちにどんな影響を与えたのか。それを知るすべがほとんどないというのが、寂しくもあるが、少なくとも僕が見る限り、実に素晴らしい、子供たちに見せたいと思うお芝居になっていました。彼らが、「ぜいたくに生きる」ためのヒントを少しでも持って帰ってくれていたらいいなと、部外者ながら思うのでした。

 9.26
 千種高校の文化祭は、一年生が全員演劇なのではなく三年生が全員演劇なのでした(修正済み)
 うむ! なんというか! 心身ともに不健康!
 鍼灸あんまに行かなければ。
 昔、無銘喫茶にカイロプラクティックの偉い人が来て、酔ったついでにちょっとだけ施術してもらったけど、実に効いた。効いたけど効いただけに怖い。
 今日明日で更新したい所存。書きたいことが多い時ほど、時間がかかるから時間が取れない……。
 毎週木曜日、新宿でお店(無銘喫茶)やってるんでみなさん来てくださいね。飲み物を飲みながら適当に喋ったりするだけの場です。安いです。

 働くことの意味なんて
 俺には一生わからねえ
 だから心をこめてロックンロール
 (町田康『無職の夕べ』)

2012/09/23 日 丁亥 演劇だろ!(日比谷高校に行ってきた)

 都立日比谷高校の「星陵祭」に行ってきた。
 この学校ではなんと、毎年全学年全クラスが演劇をやるのである。
 前々から興味があったのだが、行くのは初めて。中学で教えてた子が三年生で、本人も舞台に立つというので行ってみた。全9公演のうちの、最終公演。二日で9公演ってのは凄まじいが、見かけた中には11公演というクラスもあった。しかも僕の観たのは前座のショートコント(面白かった!)合わせて正味1時間くらいある。演劇部の地区大会が50分だったから、50分の芝居を作って上演するということがどういうことかはよく知っている。はっきり言って、すごい。50分を二日で9公演ってのは非常識ですらある。しかし日比谷では常識であるようだ……素晴らしい。
 教え子が「サイトに書いてくださいね!」って言ってたので、やや長く、一所懸命書いてみる。

 日比谷高校ってのは、一言でいえばとっても頭の良い学校。名古屋市内で公立高校の最高峰といったら旭丘高校なんだけど、某サイトではそれよりも上にランキングされていた。
 だからこそ、「全学年全クラス(24クラス)が演劇をやる」なんてことができるんだよなあ、というのが正直な思い。偏見を承知で言えば、日比谷に来る子なんてのはほとんどが「学級委員」級の秀才(実際に学級委員だったかどうかは置いといて、イメージの話)で、演劇に抵抗のある子がそもそも少なかろうし、やるとなったら全力でやるし、しかも賢くて真面目だからいいものを作っちゃうんだよね。これは「公立の進学校」ならではだろうと思う。私立だと、どうしても不真面目なやつとか、ひねくれたやつとか、無気力なやつとかの比率が高まってくる。と、思う。そういうところでは、凄まじいクォリティの文化祭や運動会はできるのだろうが、演劇となるとちょっと事情が違ってくるように思う。

 はっきり言ってしまうが、偏差値の低い学校では「全クラス演劇」は難しい。と言って、不可能ではない。我が母校である名古屋市立向陽高等学校は、日比谷よりも偏差値は劣るけれども、やってやれないことはないと思う。ちなみに向陽のライバルである(あった?)愛知県立千種高校では、「三年生は全クラス演劇」という決まり(伝統?)があった。「三年生のみ」ってのが残念だけど、これが現状の限界なんだろう。「日比谷くらいの学校なら全学年でできるが、千種くらいだと三年生のみ」というのは、なんだか象徴的な気がする。(ちなみに千種とか向陽は、通知票でいうと平均が4.5前後くらいの子が来るところだと思う)

 日比谷がどうして「全クラス演劇」ができるのかというと、「伝統」の力も大きい。星陵祭は37回目だというが、それだけの伝統が連綿と、先輩たちから継承されているからこそ、今日のあの質が担保されている。高校演劇だって、それまで県大会にも行かなかったような高校がいきなり全国大会に出るようなことはほとんどない。いかに「伝統」が強いかというのは、甲子園やなんかでも同じだと思う。
 ま、ないものは作ればいいのであるから、じゃんじゃんやればいい。もっとみんな、日比谷の真似をするべきだ。演劇ってのがいかに教育的に優れているか、という話をしている余裕も能力もないが、僕はそう信じているので。

 さて肝心の、観てきた演劇そのものについてだが、教え子のクラスは『ノートルダムの鐘』をミュージカルでやっていた。どうもミュージカルをやるクラスが多いらしい。その理由はたくさん思い当たる。
・ミュージカルはせりふが覚えやすい。(量的にも質的にも)
・意外と、演技よりも技術がいらない。
・客が飽きにくい。
・楽しい。取っつきやすい。(これが一番ですな)
・意外と、セリフを言うより恥ずかしくない。(節がある程度決まっているので、自分のオリジナリティをあまり出さなくてもいい。むろん、出したほうが魅力的に決まっているが)
・練習がしやすい。(曲に合わせるので、タイミングなどが測りやすい。またそれゆえ、人数がそろわなくても比較的練習がしやすい。また、普通の演劇では独白シーンというのはほとんどないし、そもそも素人では場が持たないが、ミュージカルなら一人のシーンでも充分持たせられる。ゆえに一人で歌うシーンも多くなるわけだが、この場合は極端な話、一人いれば練習ができるのである。)
 こういう利点が、何十年も星陵祭を繰り返すうちにわかってきて、自然とミュージカルが多くなってきたのではないかな、と推測してみる。これも伝統の力。

 舞台の感想は、一言でいえば「すばらしい!」に尽きます。
 演劇部の地区大会に出たら、地区によっては勝ち抜けるかもしれない。
 ただ、普段から発声練習をしていないから、声量が低いのが難点ではある。ミュージカルは音楽で声がかき消されちゃうから、後ろのほうにいるとたぶん聞こえないところもけっこうあっただろうな。僕は二列目に座ったからだいたいは聞こえたけど、危ないところもいくらかあった。
 発声(腹式呼吸を利用して大きくてよく通る声を出すこと)さえやれば、もっとずっとよくなるので、日比谷高校は週に一回でも「演劇」の授業を年間通して実施し、基礎的な練習を継続的にしたらよい。無理なら体育の時間を利用するとか……。

 感心したのは、テンポのよさ。歌のシーンは言うまでもなく、掛け合いのシーン(カジモドとガーゴイルズなど)も、テンポが非常によかった。演劇部でも学芸会みたいなひでーテンポでやる人たちがいるもんだが、このクラスは上手かった。誰かが演出したのか、自然とそうなったのか。クラス演劇にありがちな「学芸会感」が、セリフにおいても動作においてもほとんど見られず、好感が持てた。
 もちろん、「クラス演劇のレベルでいえば」の話ではあるけど、ここまでできたら充分だと思う。僕も一年生でクラス演劇やったけど、ここまでできたらよかったなあ。もっとも、三年生まで毎年やってたら、できたと思うけどね! そういう風潮がなかったからなあー。日比谷さんがうらやましいよ。
 演出もよかった。最終公演だったからかもしれないけど、途中で紙吹雪まいたりとかして、舞台を楽しくさせる工夫が随所に見られた。大道具も少ないながら存在感があってよかった。
 場面転換も、暗転が多いわりに時間が短く、飽きさせない。ここまでやるんだったら、いっそ効果をねらえるところ以外は暗転なしにすることもできたんじゃないかな。上手側の壁も舞台として使ってたわけだし。僕の席からはあんまり見えなかったけど。
 細かいところを言えば、フィーバス隊長が思いっきり剣の刃を握って鞘に収めたりとか、「いいのか?」って思うところもあったけど、ご愛敬ですな。
 役者は、なかなか上手。三年生は伊達じゃない。さすがに「上手すぎる!」と手放しで賞讃できるような子はいなかったけど、狂言回しの二人(うち一人は教え子)やフロロー、エスメラルダあたりは特に褒められていい。然るべき演出をつけて、もうちょっとだけ時間をかけたらもっともっと、比較にならないくらい上手くできるような素質と熱量はほぼ全員に見受けられた。ちょっとだけアドバイスさせてもらって、再演してほしいくらいだ。再演と一口に言っても、それがなかなかできないのが演劇ってもんの一回性で、だからこそ尊いのかもしれないんだけどね……。
 パンフレット、サブパンフレットなどの出来もよいです。時代背景とか歌詞とか、かゆいところに手が届く感じ。あとクラスメイト紹介をよく読んだら、エスメラルダ(ヒロイン)役の子が演出なのね。すばらしかったです。伝えておいてください。
 あとは、最後にカジモド(せむし男)がフィーバスとエスメラルダをくっつけるシーンなんだけども、欲を言えばもうちょっと説得力がほしかったかもな。わかりやすくするならカジモドの葛藤とか、エスメラルダをフィールズに譲った理由とかをもう少しだけ強調してもよかったかもしれない。あの場面自体はもちろんあれでいいんだけど、もうちょっと前の段階で何かもう一つ、演出(伏線)があったらもっとグッときた。僕はけっこう感動してしまったんだけども、あまりにあっけなく、さりげなさすぎたので。だからいいってのもあるんかもしらんけどね。
 ほかにもいろいろ言い足りないことはあるんだけど、ざっとこんなもんか。
 ともあれ、お疲れ様でした。あとは受験に向かって突っ走ってください!

 演劇はね、本当に、高校まで必修にするべきだと僕は思う。
 演劇は、総合芸術というだけあって、様々な要素が詰まってる。その可能性はほとんど無限。『ノートルダムの鐘』では冒頭で人形を使っていたけど、たとえば映像を使ったっていいんだし、ゲーム性を採り入れたっていい。何でもできる。生徒たちに得意分野があれば、それで勝負することもできる。脚本も演出も何もかも自由だ。
 役者として舞台に立てば、人前に出て何かをする(具体的にはプレゼンとか)訓練にもなるし、それはそのまま他人とのコミュニケーション全般の練習でもある。どういう表情で、どういう動作をして、どういうことをどういうふうに言えば、それはどういうふうに伝わるのかとか、考えながら舞台の上を動くことは、日常生活にも活かされる。裏方だって、「どういうふうにすればどういうふうに伝わるか」を一所懸命考えて工夫をするのだから、生きる訓練にならないはずがない。制作を通じて他人と関わり合うことを学べる。一つのものを作るのに、たくさんの要素が必要だということもわかる。人間は集団で社会を作り上げているのだということもわかる。
 演劇の魅力、効用を語ればきりがない。
 とにかく僕は、舞台ってのは人生の練習場だと思っている。
 文科省、「生きる力」とか言ってんなら、演劇を必修にしなさいな、と。
 事実上全学年で必修にしている日比谷は偉い。素晴らしい。
 もっといろんな学校が、こういう伝統を育んでいったらいいのにな。
 成城学園も、初等学校でやってる「劇の会」を高校まで延長すべき。そしたらきっともっとずっと質のよい学校になると思うんだがなあ。

2012/09/22 土 丙戌 歌で自己肯定

 また歌の話ですが、最近の関心事は歴史と古典文学と歌なのです。
 あとルミナス英和辞典を(ようやく)買ったから英語も楽しいですね。

 歌によって自己表現するとか、自己肯定するとかいうことが、あるような気がしてきました。そういう話は何度も聞いたことがあるとは思うのですが、このところ実感してきたというか。

「自分の顔で、自分の声で、自分の節で歌う」、ということが、大切なのだと思います。
 僕は歌を聴く時、その人の顔を見ます。
 その人が「自分の顔」をしているかどうか。
 声は、「自分の声」であるのか。
 そして、「自分の節」で歌えているか。
 そういうことを考えます、最近は特に。

 そういう点で僕が「完璧だ」と思うのは、Amikaさん。
 ランチ後(残念ながらライブ音源ではないのですが、表情がよく見えます)
 Youtubeには『世界』や『自転車に乗って』など何曲かあって、いずれも名曲です。
「自分の顔で歌う」というのは、歌を歌う、その一瞬一瞬において、歌の在り方と連動した顔を作る、ということです。「自分の声で歌う」も似たように、一瞬一瞬において、その歌のその瞬間に対する自分なりの想いや考えや感覚などを反映させるということです。
「自分の節で歌う」というのはちょっと難しいですが、やはり同じようなことで、一瞬一瞬において、自分なりの音を取る、というようなことです。音符のど真ん中の音を取るとか、オリジナル歌手と同じ音にこだわるというのではなく、自分なりの音を取る。
 僕は十年くらいずっと、「オリジナル歌手の歌い方をコピーする」ことを基本にしてやってきました。それはそれで楽しいのですが、もはやそういう、練習の時期は過ぎたように思います。自分の歌にしてしまったほうが、もっと楽しいですね。

 で、そういうふうに、「自分の歌を歌う」というようなことをすると、それはまさしく「自己表現」になります。自分の想いや考えや感覚を反映した歌は、すなわち「自分を反映した歌」で、それは充分「自分の作品」になるはずです。
 好きな曲を他人がカバーしたものを聴いても、あまり好きになれないことが多いのですが、僕の場合それは「その人がうまく自分の歌にできていない」か、「その人の歌い方が好きではない」か、どちらかだと思われます。矢野顕子さんはどんな曲でも簡単に「自分の歌」にしてしまえる天才歌手なので、彼女が歌えばどんな歌でもだいたいは矢野さんの曲になって、僕も「いいな」と思ったりしてしまいます。
 すばらしい日々(矢野顕子さんによる、ユニコーンのカバー)
 矢野さんの歌い方は、日本語(標準語)の発音をとても大事にしていて、そこが僕の心を打つ一つの要因でもありそうな気がします。原曲を知らない人は、矢野さんを聴いてからユニコーンのを聴いてみるとビックリすると思います。名曲をさらに名曲にアレンジできる人はなかなかいませんが、それができるのは矢野さんの歌(とピアノ)の力だと僕は思います(当たり前か?)。

 さて、自らのすべてを注ぎ込むようにして作り上げた「自分の歌」を、「好きだ」と思えるということは、「自己肯定」そのものです。
 僕もときおりカラオケなどで、「あー、この歌は自分のものになったな」と思えるような瞬間があって、その時は「うん、好きだ!」と思えます。自己肯定の瞬間です。僕がカラオケなどで「自分の顔」をしながら気持ちよさそうに歌ってたら、それは自己肯定をしていて、だから気持ちよさそうなのです。

 そういうようなことがあるんですね。Hysteric Blueというバンドの最大のヒット曲は『春~spring~』というのですが、その中にこんな歌詞があります。
「授業よりも食事よりも もっと大切なコト 私…歌が好き…」
 正直、この曲の中でこの一節はちょっと唐突です。なんでこんな歌詞が差し挟まれるのか? とずっと疑問でした。若干、浮いてるような気さえしていました。今ならわかるような気がします。

2012/09/21 金 乙酉 史跡めぐり

 久しぶりに会った友達に、「最近なにしてるんですか?」的なことを聞かれたので、「史跡めぐりとか!」って鼻息あらく答えたら、「え! ジャッキーくんってそんな人でしたっけ? ジャッキーくんといえばドラえもんとカリガリ、くらいのもんですよ!」と言われて少々ショックながらとても面白かった。

 靖国神社の前を通りかかって、あの巨大な鳥居を初めて見た。神明鳥居(丸太が組んであるようなやつ)だった。明治以来のいわゆる「国家神道」では伊勢神宮が最も偉い神社ということになっているから、それに基づいて建てられた靖国神社の鳥居はやはり伊勢神宮の内宮にある鳥居をモデルにした神明鳥居なんだなーとか、思えるようになってきましたよ。

2012/09/20 木 甲申 木鼻

 まじめくさった、説教くさいことばっかり言っていても仕方がない。
 最近、ようやく日本の歴史に興味が出てきました。
 寺とか神社とか城とか史跡とか文学碑とかを見て回るのは昔から好きで、数だけならけっこういろいろ行っているんだけど、これまでは基本的にボケーッと眺めて「すばらしいですなあ」とか適当に思っているばかりだった。最近ようやく心と頭に余裕が出てきたので、『歴史散歩事典』という名著を読み込み、常に携帯して、細かなことをいちいち調べながら見て回るようにしているのですが、楽しいです。
 祖師谷に、近年よく遊びにいく素敵な神社があるのですが、そこは「神明社」というところで、鳥居は神明鳥居(丸太が組み合わさってるようなやつ)で、「お伊勢さんに行きましょう」的なポスターが貼ってある。神明鳥居というのは伊勢神宮の内宮にある鳥居をモデルにしたタイプらしいので、「なるほどー、つながっておりますなあ」という感じです。「伊勢の系統の神社だから神明鳥居で、名前が神明社というのもそういうつながりと関係があるのでしょうなあ」と。
 その神社の木鼻(説明が難しいのでぐぐってください)はあまりにも素敵なのですが、神社建築に興味を持ち出すまでは木鼻のことなんて考えたこともなかったので、これまでまったく目に入っていなかったです。「あれ、こんなのあったっけ!」って感じでした。まったく、人間の目というのは本当に、すでに意識の中にあるものしか見ようとしないのですなあ。
 興味を持つと、本当に、それまで見えなかったもの、見ようとしなかったものが見えてきますね。木鼻だけでなく、いろんなところに発見があります。
 それで、ずっと放置していた橋本治さんの『ひらがな日本美術史』を本格的に読み始めました。興味と知識が深まった状態で読むと、ぐっと面白いですな。
 みなもと太郎先生の『風雲児たち』も再読しています。
 今日もなんかよい子くさい話ですが。
 興味あるひと、どっか行きましょう。

2012/09/19 水 癸未 アイドルの教育(大人の義務として)

「子供が大人の食い物にされる」っていう状況は嫌いだ。
 大人は子供に自立を促してこそだから。
 だから勉強を教えたり、年下の友達にアドバイスしたりする時なんかには、いつも葛藤がある。そりゃ最初は自分じゃできないから全部教えるけれども、その中でも「いつか自分でできるように」を意識するよう努めながら、やってる。難しいんだけど。

 筋肉少女帯の有名な歌で、『香菜、頭をよくしてあげよう』ってのがある。バカな女の子とダメなサブカル男子の歌。ダメなサブカル男子はバカな女の子を図書館に連れて行って「泣ける本」を選んであげたり、名画座に行って「カルトな映画」を教えてあげたりする。それで頭よくなるもんかいな? って思うけど、そこがダメなサブカル男子のダメなところ。志はまあよいけれども、方法がたぶん間違っている。
 ただ、そんな彼にもすばらしいところが一点あって、歌の最後でこのように言うところ。

「香菜、いつか恋も
 終わりが来るのだから
 香菜、一人ででも
 生きていけるように」

 泣ける本やカルトな映画が適しているのかどうかは知らないが、方法はどうあれ彼は彼女に「一人で生きる力」をつけさせてあげようとしているわけだ。その一点のみによって、このサブカル男子の志は美しく、ゆえにこの歌は名曲と思える。

 教育というのは、結局は(理想的には)「一人で生きる力」をつけさせるためのものだ。「なぜ○○をしなければならないの?」という問いには、「一人で生きる力をつけるためだよ」と答えるのが良いかもしれない。もちろん、○○をせずに一人で生きる力を培うことはできるだろう。問題は「そのような生き方をしたいのかどうか」だ。若い時は「したい」と思いこんでいて、年を取ってから後悔したりもするので、そういう事情も含めて大人は子供に○○をさせるかさせないかを決めなければならない。難しいもんだなあ。

 アイドルグループ「ももいろクローバーZ」がライブ中にスタッフから受けていた指示の音声がネット上に流出したようだ。MCの内容やタイミングまでびっちり指示されている。きっといろいろと事情があって、そのようにするのがチームにとって最適であると判断されたのだろう。それ自体問題は特にない。そういうチームであるというだけのことだ。僕が問題にしたいのは、大人たちにももクロを「育てる(自立させる)」気があるのかどうかだ。「一人で生きる力」を得るための通過点として「綿密な指示」があるのならいいが、そうでなければ……。
 どんなに邪悪な売り方をするアイドルがいようと、女の子自身に罪はない。と思う。少なくともほとんどの場合は。ただ周りの大人たちが、彼女たちをどのように扱っているか、どのようなことを要求しているか、ということが問題だ。芸能界を見渡せばももクロなんてきっとずっとマシなほうだろう。
 とりわけ未成年の場合は、大人は常に「教育」ということを念頭において芸能活動をさせなければいけないのではないか? と僕は思うのであるけれどもね。

2012/09/18 火 壬午 つじつま合わせ社会

 インターネットの発展によって「つじつま」を合わせることが何より重要な社会になってきている、と高校の先輩が仰っていました。
 昔の言動や行動がインターネットによって簡単に露呈、または暴露されてしまうということです。すなわち「完璧な八方美人」であることが現代社会を上手に生きるためのカギである、かもしれないということ。
 僕はもうすでにいろいろなことをしてしまったし、インターネットでもいろいろなことを書きすぎたし、客観的に見ればあまり社会的とは言えないような本を自費出版してしまったりしているので、これらを抱えて「つじつま」を合わせていくのは大変かも知れない。
 誰が、どう見ているかわからないのがインターネット。黙っているのが最も有効な手だてなのかもしれない。しかし捨てる神あれば拾う神あり、虎穴に入らずんば虎児を得ずというわけで、何気なく書いたことに意外な人が反応してくれたり、それをきっかけに誰かと仲良くなれたりすることもある。
「つじつま」をあまり怖がっていてはいけない気もするし、僕の場合はもう手遅れなんで、永遠に過去の自分と付き合いながら生きていかなければならない。
 まあ、本来はそういうもんなんでしょうが。
 すべてを引き受けていくのは大変だが、覚悟は必要だ。

2012/09/17 月 辛巳 好きで友達

 好きだと思って、でも友達になれていない人というのはいる。
 自然に友達になれたらそれでいいけど、そのために少しくらい意識的に働きかけるのは悪くない。特に、「すでに仲はいいし、お互いに好意があるのはわかっているけど、いまいち友達とはまだ呼べない」というような状況のとき。
「より多くの時間をともに過ごす」ということが、一つの手だ。
 もちろん、「会わなかった時間」の力というのも考えながら。

 最近いろんな人と友達になっている。もともと友達だったのが、もっと友達になったような場合だったり、やっぱり友達だったと確認できたような場合だったり。
 そういうときが僕は本当に幸せだ。
 もう少しだな、と思うような相手もいる。
 特に焦らないでいる。

2012/09/16 日 庚辰 自己愛の分類

 ナルキッソスとかいう少年が湖かなんかに映った自分の姿に見とれて動けなくなり、疲れて死んだとか溺れて死んだとかって話があって、それがナルシシズムという言葉の由来なんだと、よく聞きます。

 ちょっと知ってる人で、自分の緊縛写真とか自傷写真とかをネットにアップしている女の子がいるのですが、彼女の自己愛は非常に清々しく、「私は自分が好きだ」というようなことをすらたまに口走っているようです。
 彼女は湖に映った自分の姿をずーっと見ているのです。まさにナルキッソスのような人です。そのまま疲れたり溺れたりして死んでしまうのかもしれません。
 ところでナルキッソスは湖に映った姿が自分であることを知っていたのでしょうか。僕の知人の彼女の場合は、それを知っています。
 知っているから、まだ破滅というところまではいかないのかもしれません。
 もし、それが自分のことであると知らない……つまり、「他人を愛しているようでいて、実は自分を愛している」というパターンの場合は、破滅があり得ます。ありきたりな例だと、男(ホストなども含む)に狂って借金地獄に陥ってしまうような女はたぶんこれです。他人を愛しているつもりで、実は自分を愛している。破滅を呼ぶのはたいていそのズレです。
 彼女は破滅はしないでしょう。自分を愛しているという自覚がある限り。

 またちょっと知ってる人で、芸術家気取りのつまんねー野郎(ども)がいます。ちょこちょこアートっぽいこと(音楽が多い)やって、五流以下の客にちやほやされています。そういう人はけっこういます。その人(たち)は、僕から見れば自己愛の固まりです。
 が、ナルキッソスの例と違うのは、彼らは実は湖を見ないようにしている、ということです。「湖に映った自分は美しいはずだ」と、思いこもうとしているのです。「その証拠に、自分を支持してくれる人はこんなにたくさんいるではないか」と、ちやほやしてくれる五流以下のお客さんたちの顔色ばかりを見ています。
 自分を直視すれば、大したものではないことがわかってしまうので、直視しない。その代わり、自分を褒めてくれる人たちを見る。それで安心する。「自分は美しい」という証拠を、自分の外側に求めようとする。
 彼らは、「自己愛の根拠を自分の外側に求める」なのです。ナルキッソスや、例の緊縛自傷の女の子は、あくまでも自分自身に自己愛の根拠を求めます。また、ホスト狂いの女の子はそれが自己愛であることにすら気がついていないので、また別です。

 僕の友達に普通の女の子がいます。自分のことが普通に好きで、自信はあるけど確信がなくて、真面目だから根拠をでっち上げてまで「自分は美しい」と思いこむことができない。他人を愛することと自分を愛することの区別もある程度はついてしまうので、そっちに逃げ込むこともできない。
 そういう普通の自己愛を僕は愛します。
「自分が好き」であることは正しく、素敵なことなのですが、その根拠は、真面目に、ゆっくり、地道に探していくしかないのです。そこで手を抜くと、上に書いたような歪んだ自己愛になってしまいます。

2012/09/15 土 己卯 歌

 夜中に突発的に、近所に住んでいる友達とカラオケに行った。
 最近はようやく歌が自分のものになりかけている。

2012/09/14 金 戊寅 褒めるだけならいいものを

 好きなものを褒めるだけにしておけばいいのに、あまり好きでないものを貶める(ように読めるようなことを書く)から、ちっとも僕はバズらないのかもしれない。※バズる=インターネットで(一時的・突発的に)人気を博す
 昨日みたいな書き方は本当はよくないんだろうね。でも、やっぱ「意思表示は大切」とか思っちゃう。ついつい思っちゃう。言い訳でしかないような気もするけど。褒めるだけですべてが伝えられたら理想なのかもしれないんだけど、そうじゃないかもしれないような気が今はしている。それにまだまだ力量が足りない。

2012/09/13 木 丁丑 歌も「正しさの積み重ね」

 8月25日に奥井亜紀さんの、9月8日にあきいちこさんのライブに行った。
 奥井亜紀さんは9歳の時に大好きになって、それからずっと追いかけている。
 どうして僕はこの人のことが好きになったんだろう? ということがずっと、わかるようでわからないままでいたけど、最近ようやく「これだ」という理由を一言で言えるようになった。
 僕は「歌」が好きなのだ。
 奥井亜紀さんの歌が好きなのである。歌詞も、メロディも、声も、何もかもが好きだけれども、そんなものは実はオマケでしかなくって、僕が魅力を感じているのは「歌」そのものなのだと思う。

 9歳の時に聴いた曲というのが、『Wind Climbing~風にあそばれて~』という曲で、高校生以来の僕の日記に山ほど現れる。この曲に関して、ずっと不思議に思っていたことがあった。
 高校生くらいになって、友達がこの曲をカラオケで歌うようなことがあると、みんな決まって、僕の知っているのとは少し違う音で歌うのである。具体的には、「どうにもならない今日だけど」の「今日だけど」、「君と生きてく明日だから」の「明日だから」にあたる部分。「音が違うんじゃないか」と指摘すると、間違いなく「そんなことはない」と答えが返ってくる。それで口論みたいになったことも何度かある。どうも、僕の聞こえている音と他の人の聞こえている音は違うようなのである。自分の耳はおかしいのかなとずっと思っていた。
 その疑問を、楽器をやっている友人にぶつけてみた。最初は、僕の言っていることがよくわからなかったようだが、何度か曲を聴かせてみると、「ああ、なるほどわかりました」と言って、丁寧に説明してくれた。
 曰く、例の箇所あたりでは「二つの音が同時に出ている」らしい。彼のやっているトロンボーン(人間の声にかなり近い楽器なんだとか)でも同じことが起きるそうだ。
 そういえば高校の音楽の授業で、どんな文脈だったか忘れたけど、「原則、この二つの音のうち、どっちが聞こえるかというのは個人によって違うんです」と教わった。(※「原則」はこの先生の口癖)
 トロンボーンの彼や音楽の先生が言ったことを自分なりに咀嚼してまとめれば、問題のところでは二つの音が同時に出ていて、どちらの音が聞こえるかというのは人によって違う、ということみたいだ。
 実は僕も、その部分が決まって同じ音に聞こえるかというとそうではなく、たまにみんなの主張するような音で聞こえることもある。ライブで何度も聴いている中の、何度かは「あ、確かにみんなが言っているような音で歌ってる」と感じたことはあるし、CD音源でも「違う音を聴き取ろう」と意識すれば、いつもと違う音を認識することができる。

 以上のことが正しいのかどうかは、わからない。いずれにしても僕が問題にしている音は、たぶん楽器ではなかなか出せない音だ。歌でなければ出ない。そういう音を奥井亜紀さんは歌いこなしている(ライブでも同じ音が聞こえるのだから)。この絶妙な音が、絶妙だからという理由ばかりではなく、「その時」「その意味」でおそらく最も適切な音であるというわけで、9歳の僕の心にも訴えたのだろう、たぶん、そうだろうと思う。
 こんなことは枝葉末節の一番先っぽでしかないが、奥井亜紀さんは微妙な音(声)を使いこなして、その時その時に最も適切な歌い方をしている。

 友人が、映像においては「正しさの積み重ね」が名作たるに必要だと言っていた。僕は歌に関しても同じことを思う。歌は、一瞬一瞬の正しさの積み重ねだ。「今この瞬間、この音が最も正しい」という確信のもと、一つ一つ積み重ねていった音の成果が、歌だ。それはもちろんどんな楽器だって多かれ少なかれそうなのだろうが、こと「歌」というのは、取りわけて徹底的にそうだと僕は思っている。人間の声は、完全なるアナログ楽器なので(一般的なトロンボーンもアナログ楽器といえるようだ)、切り分けられる「一瞬」の幅がより小さいはずである。また何より、感情や想いを最もダイレクトに音に変換するのは、やはり声だと思う。手や楽器を通じるのでは、どうしても純度は低くなると僕は思う。さらに、言葉の力(音の面でも、意味の面でも)を借りられるのは大きい。
 奥井亜紀さんほど、「正しさの積み重ね」で歌を歌う人を僕は知らない。あの歌を聴いてしまったら、もうほかのミュージシャンのライブを「歌を聴きに行く」という姿勢では行くことができなくなる。そもそも僕は「ミュージシャンのライブ(フェスなども含む)」に行くのがずいぶん嫌いなのだが、「最高の歌をじっくりと味わえる」奥井亜紀さんのライブは、例外的に進んで行きたくなってしまうのである。

 あきいちこさんは、2005年9月に名古屋ハートランドでの奥井亜紀さんと篠原美也子さんと橘いずみさんによるライブを聴きに行った際、オープニング・アクトとして出演していた方だ。8日は、7年ぶりの名古屋ハートランドでの再会となった。ほかの場所での数十分ほどのライブは二度ほど聴いているが、ワンマンは初めて。彼女自身、まだ三度目のワンマンライブだった。僕と同い年で、名古屋出身ということで7年間忘れずにちらちらと追い続けてきたのだが、もうそんな、「勝手な親近感」による好意の介入する隙のないほど、すばらしい歌手になっていた。
「正しさの積み重ね」が、そこにはあったのである。一瞬一瞬の音を、丁寧に歌い上げる。技術と意味と感情と人格が、融け合って音になっていた。

 技術や雰囲気ばっかりに偏って、カッコイイだけの単調な歌を歌う歌手はとても多い。僕はそういうのにほとんど興味がない。いま流行する音楽はどうやら「正しさの積み重ね」であってはいけない(もしくは、そういうものを正しさとしている人が多いのだろうか?)らしいので、しぜん流行の音楽は耳に入らなくなる。「流行ってるから嫌い」っていう事情もやはり否定はしないが、人気のもの(ロキノン系とかサブカル好みとかも含む)をYoutubeとかで聴いてみると、ほとんど例外なく歌がまずい。歌詞とかメロディとかアレンジとか演奏とか、雰囲気とか踊りとか演出とか、見た目とか、そういうのは色とりどりだけれども、歌ということになると、「正しさの積み重ね」を感じるようなものはまず、ない。
 僕は尾崎豊を本当に優れた歌手だと思うんだけど、歌詞とかメロディや、ましてや生き様なんかは二の次で、何よりも歌がいい。この人も「正しさの積み重ね」で歌を歌っていた人だと思う。こういう歌手は、いないとは言わないけど、あんまり流行らないんだろう。

2012/09/12 水 丙子 本質がわかる人は「キモい」

 この一週間、いろんなことがあったので小出しにして書いて行けたらいいんですが、出てくるのが数ヶ月後とか数年後とかに、極小の単位で滲み出てきたりもすると思います、人生っていうのはそういうもの、極小の積み重ね。「意味を創るのは極小のアメーバ」ってやつですね。

 総じて感じたことを一つだけ言うと、「本質をわかる人って、キモい」ということです。ここでいう「キモい」ってのは、見た目のことだと思ってください。今のところ男性にのみ感じていることで、女性の場合はちょっとわかりません。別だろうとは思います。
 本質がわかる、つまり、善し悪しを見定められるということは、「善いものだけを選択する」ということを可能にします。それは「悪いものを選択しない」ということと同時に、「善くも悪くもないものをあえて選択する必要はない」ということにもなります。本質がわかって、その上でそういう思考のほうへ進んでいく人は、垢抜けない、外見的に「キモい」(または「地味」)ような人になりがちなんじゃないか、ということです。
 垢抜けている人の中には、もちろん「垢抜けるのは善いことだ」という判断のもとに「垢抜ける」という選択をしている人だっているでしょう。しかし、「善いのか悪いのかわからないけど、他人に軽んじられたり、周囲から浮いたりないように垢抜けた格好をしよう」というくらいの気持ちで垢抜けている人がやはり多いと思います。「モテたい」といった個人的な欲求から、それを選ぶような人もいます。
 いわゆるオタク、それも「キモオタ」などと呼ばれてしまうような種類の人たちの多くは、「垢抜ける」という選択をしません。「そんなことして、何の意味があるの?」と、たぶん素朴に思っています。といっても、その中には成長の過程で「意味はある(たとえばモテる、軽んぜられない)が、自分にはできない」という諦めに達した人も多いでしょう。そういう人は「ひねくれたオタク」になって、2ちゃんねるとかで他人(イケメン・リア充など)を攻撃したりします。
「垢抜ける」という選択をせず、しかも屈折もしなかったような人は、僕の言う「本質のわかるオタク」にあたるのではないか、とちょっと思っています。
 善し悪しの判断ができる人は、イケメンだとかリア充だとかいうことだけで他人を攻撃したりはしないし、「垢抜ける」という選択の中に善や真実など(無条件には)存在しないということを知っているのです。「垢抜けるっていう選択肢もあるけど、それは別に善なることじゃないからなあ」と言って、自分なりの善の在り方に寄り添って生きていく、というオタクが、存在するということです。
 僕はそういうオタクが好きだし、僕自身もそういうオタクだと思います。
 僕は垢抜けておりません。髪は自分で切っているし、服はだいたい兄がくれたものを着ています(兄は世界一のお洒落さんなので、比較的まともな格好をしています)。それでもまあ、他人に不快感を与える外見ではないとは思います。「モテたい」「軽んぜられたくない」などの気持ちも同時に持っているので、最低限の美意識でもって自分を飾ってはいます。ただ、それにお金や手間をかける気もないし、外見には何よりも機能性を求めるので、垢抜けているか垢抜けていないかといったら、まったく垢抜けてないと思います。夏はだいたい、市販のズボンをハサミで切っただけの半ズボンをはいて過ごしています。(それを「善い」と判断しているのです!)
 しかし、その「最低限の美意識」すら放棄する人たちもいます。また、「最低限の社会性」すら、持っていない人もいます。そういう人たちはもちろん僕とは生き方・考え方が少々違うのですが、そういう人たちの中には、キラリと光る感性を持った、すばらしい方がたくさんいます。少しばかり外見がまずかったり、空気が読めないようなところがあっても、美しい心をキラキラと輝かせているような人たちがいます。そういうオタクの愛する作品は、すばらしかったりします。よくします。
 そういうことを実感したのでした。

2012/09/11 火 乙亥 146ヶ月

 高校生のころは、「何があっても毎日更新」をモットーにやっておりました。何も書きたいことがなくても絞り出すように書いていたし、どんなに疲れていても根性で書いたものでした。先日、奥井亜紀さんのライブに行ったら、MCで「どんなに疲れていても最後の力を振り絞って日記を更新(しようと)している」という旨のことをおっしゃっていて、「自分もかつてはそうであった、ところが今はどうだい」と反省した次第であります。
 どうも、「良いことを書こう」とか「しっかりまとめよう」とか、思いすぎなところがあるんです、ここ何年か。そんな気負い、「日記」としてずんずん下のほうへ流れていってしまうこの形式においては、あんまり意味がないのですよね。くだんねーことでもバカバカ垂れ流すってのもいいもんです。僕はどれだけブログだのmixiだのTwitterだのFacebookだのがあふれても、「棲み分け(内容の書き分け)」なんてことはしたくないのです、本当は。もともとここは「何でもぶち込む」っていうコンセプトで始まったホームページなのだし。
 ほかのサイト(SNSなど)に浮気して、こっちがおろそかになるというのは、最も恐れるべき、邪悪な事態です。そんなふうに、負けていてはいかん。と、思いましてちょっと意識してみます。
 最近、パソコンに触る機会自体がが少なくなってきてるので、来月半ばくらいにならないと毎日更新するっていうのは難しいのかもしれないけど、みなさん見捨てないでくださいね。

2012/09/05 水 己巳 


 名古屋行ってきます!9日か10日まで!!
 元気あったらセツノーナルしますー。

2012/09/04 火 戊辰 自己チューが消えた日

「邪悪」という言葉を好んで使う。先日ついに「邪悪とは何ですか?」と聞かれたので真剣に考えて、「邪悪とは自分のことしか考えないことだ」という定義をした。たぶんこれで差し支えないと思う。
「自分のことしか考えない」というと、僕の世代だと「自己中」という言葉が思い当たる。「自己中心的(なやつ)」の略だろう。一世を風靡した感があったが、単なる流行り言葉だったのか、最近はあまり聞かれない。
 似たような意味で近年ヒットしたのは「KY(空気読めない)」。これは歴然とした流行り言葉で、急速に使われなくなった。「空気読めよ」という使い方ならもっと以前からあって、今でも生きているとは思うが、一時期に比べれば言われなくなった。
「自己中」とか「KY」みたいな言葉って、その根っこには「自分のことだけ考えていてはいけません」がある。もちろんこれらの言葉は、「一個人の意志や意見を封殺する」という歪んだ目的のもと使われることも多い。けれども発生の根本には、「我欲に任せて独走する者に対する牽制」という目的があったはずだ。
 むりやりに言ってしまえば、「邪悪への牽制」である。

 さて、では現在、「邪悪への牽制」の役割を担う言葉は何があるだろうか。
 何もないような気がする。だからこそ僕は「邪悪、邪悪」と連発しているのだ。適した言葉がないもんだから。
 邪悪を牽制するための適した言葉がないということは、邪悪が野放しであるということだ。そんなもんはずっと昔からそうだったのかもしれないが、ついにブレーキとしての「言葉」までも失われてしまった……?

「自分勝手」とか、「自分本位」と言ったことが、それ単体では非難の言葉にならなくなってしまっているような気がする。「それは自分勝手で、よくないよ」と、「よくないよ」まで言わないと、非難にならない。「自分勝手」であることは、それ自体は悪いことではない、ということに、なっているのではないかと思う。なぜならば、「自己責任」という言葉が出てきて、定着してしまったからだ。「自己責任」を言えば、「自分勝手」は罪ではなくなる。個別の「自分勝手」が結果として何かの罪になるということはあるかもしれないが、「自分勝手」であるだけでは罪にはならない。

「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という言い方はたぶん昔からあって、ただしこの言葉が社会的に肯定されたことはなかったはずだ。が、「自己責任」という言葉は、この言葉をほとんど公認してしまっている。
「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という言い方には致命的な欠点がある。それは、「他人に迷惑をかけているかどうかなんて自分にはわからない」ということだ。そうである以上、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」と思っていたところで、「迷惑をかけてしまうかもしれない」と思えば、何もできない。想像力のある人間なら、そうなるはずだ。
 でも、想像力のない人は多い。
 そして「自己責任」という単純な言葉が、想像力のない人の背中を押す。

 だから、「自分勝手」とか「自分本位」っていうことは、無条件でとりあえず牽制されなければならない。想像力のない人を、もっと警戒しなければならない。しかし、どうもそういう状況ではなくなってきている。想像力のない人は野放しになっている。
 そりゃ、べつに昔からずっと想像力のない人ってのはいて、ある程度野放しになってたんでしょう。でも、今はそういう人たちを牽制することが比較的容易な時代のはずなのに、どうしてそうはならないんだろう? もっと大きな宇宙の力が働いているのかねえ。自然っていうのは恐ろしい。
「それって、ズルいよ。邪悪だよ。よくないよ。自己中心的だよ。自分勝手で、自分本位だよ。」……そんな言葉を並べてみたところで、何が変わるということもない。勝手な奴は勝手だ。
 じゃ、せめて何ができるんだ? ってことになると、「邪悪!」って言い続けるしかないんだよね。次のアイデアが出てくるまでは。

2012/09/03 月 丁卯 奴隷

 僕はもうほとんど奴隷のようだ。
 かつて「論理の奴隷」を自称する人と会った。
 最近「正しさの奴隷」と自称する人に会った。
 僕も何かの奴隷である。

 自分の奴隷とでも言うか。
 それは自己中心的ということなんだろうか。
 たぶんそうだろう。ただし、そのことに自覚的であるという条件があってこそ、奴隷と言える。自己中心的であることを自覚しながら、自己中心的でいなければならないというのが、奴隷だ。
 自分から解放された時、僕は自由になるのだ。
 そのことの善し悪しも含めて、いま迷っている。

2012/09/02 日 丙寅 河原

 春、たぶんまだ寒いころ、僕は友達とビールを飲みながら多摩川河川敷の巨大な岩の上に寝っ転がっていた。
 馬鹿馬鹿しい話をした。邪悪について批評した。
 僕の知らないおぞましい話を聞かされた。それが本当かどうかわからないが、僕には一瞬、福音のように思えた。
 何かが分かり合えたと思った。

 数年たって、僕らは何かが分かり合えなかった。
 分かり合うことがそんなに大切だったのだろうか。
 彼は変わったのかもしれないし、僕は自由に成長をした。
 だけどそんなことが問題であるはずはない。


 言葉が言葉通りに受け入れてもらえない。
 言葉が、その言葉として機能しない。
 言葉だけを信じて生きているものは、まるで機械のようだ。
 僕は機械のようになって人間から見放される。

2012/09/01 土 乙丑 永遠

 初めてのお洒落な喫茶店で、もう一生来ることはないだろうと予感しながら、僕は彼女と差し向かいに座っていた。女の子が「大事な話」と言い出したら、その後の展開はもう決まっているのだ。どちらにしても。
「これ、借りてたの」
 小さな紙袋が差し出された。ずっと昔に貸していた本が何冊か。それから彼女は自分のバッグから二枚くらいの紙切れを取り出し、机の上に広げた。
 ちらりと目をやると、僕にはちっとも心当たりのないようなことが断片的に書かれていて、しかし意外性のある内容は皆無だった。
「ちょっと、まとめてみたのね」
 すっと息を吸い込む。覚悟を決めるように。
「待って」
 空気が、そのまま静止した。
「で、なに?」
 わざと漠然と、僕は問いかけた。
「……距離を置きたいと思って」
 少し考えながら彼女は答える。
「やめよう。距離を置いたらおしまいだって言ってたもんね。別れようね」
 この迅速な展開を、彼女が予想していたのかどうかは知らない。
 ただ、すべては予想通りだった。拍子抜けすらしなかった。
 最初からわかっていたことだ。

「おれたち、付き合うことになったんだよ」
 僕と彼女との共通の友人だった男が、彼女を連れてやってきて、言った。
「そうみたいだね」
 とだけ、僕は言った。
「それだけかよ、何か言うことがあるだろう」
 ドラマみたいな口調で彼は言った。
 僕は本当に、本当に何も思い浮かばなかった。
「何もないよ」
 それから、たぶん少しのやり取りがあって、二人は帰った。

 すべては終わったのだ。終わったからには、何も始まってなどいなかった。
 邪悪にまつわる話など、今はどうでもいい。
 あらゆる反省が残るだけだ。
 そして終わらなかったすべてのものの中に、永遠はある。

 僕は過ちを二度は繰り返さないだろう。
 過ちでないことを僕は、何度も繰り返していくだろう。
 過ちのように見えたことが、本当は過ちではなかったと、証明するために僕は生きていこう。

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