少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2011/11/30 「早稲田なんか誰でも入れる」の真相

 大学の話、僕の通っていた学科は国語・外国語・地歴公民の三教科で配点が50、50、50。ただし国語の配点が1.5倍になるので、実質は75、50、50。パッと検索したところでは、ここ10年間の中でいちばん高い2009年の合格最低点は110/175点だそうだ。ちなみに僕の受けた2003年は107.5/175。最新の2011年は103/175。マジか!
 ということは、かりに国語で75点取ってしまえば、あと二教科(外国語+地歴公民)で35点取れば受かるということであるよ。50点満点で17.5点ずつ、すなわち3割5分ずつ得点すればいいわけである。ちなみに僕は当時自己採点では9割を越えていた(9.1か9.4のどっちか)という素敵な成績だったため、英語と世界史については自己採点すらしなかった。宿←。
 まあ、実際10割とか9割というのは少々難しいのだが、仮に国語で8割取れたとすると、60点。残り50点で、25点ずつ。すなわち残り2科目は5割。8、5、5でいいのだ。余裕!
 国語が7割だったとしても、52.5点。切り捨てて52点。残り58点、29点ずつ。5割8分でお釣りあり。
 6割なら、45点。残り65点。切り上げて33点ずつ。6割6分でお釣り。
 2011年のデータでやってみると、国語で8割取れば残り2科目はなんと、4割3分ずつ!
 受かりそうな気がするでしょ!
 僕が常々、「早稲田なんか誰でも入れる」とか主張しているのは、ここが根拠なのです。ちなみに似た制度が英語英文学科と数学科にもあり、それぞれ英語の配点が1.5倍、数学の配点が2倍(!)になる。国語、英語、数学が得意な人には余裕かと存じます。

 つまり、一教科でも得意分野を作ってしまえば、それで勝てる、というわけです。
 いま高校二年生くらいの人は、たとえば僕に師事しちゃってですね、徹底的に国語を教わってですよ、国語国文学科の試験で8~9割取れるようになっちゃえばですね、あと英語と社会をそこそこやっておけばなんとかなってしまうのです。教育学部の試験はほとんどマークシート、記述問題も一問一答レベルがほとんどなんで、かなり楽ですよ。さっき知ったんだけど地歴公民では驚くべきことに「政治・経済」(他に比べて範囲がかなり狭い)も選べます。今からやれば絶対受かる。
 ちなみに僕は学校のテストや模試では国語より英語のほうが断然成績が良かった(新聞でセンター解いたら190点こえた。宿宿←)し、世界史もかなりやっていたので、むしろ国語がネックかも、とさえ思っていた。最後まで古典単語の暗記はろくにできていなかったし、古文常識もよく知らなかったし、漢文は本当に『早覚え速答法』しかやってない。英語と世界史に時間割いてました。特に英語は本当にゼロからだったので。それでいて国語が9割取れてしまうのは、「運」と「思考力」ですね! ちなみにこないだ死んだ西原(まだ言うか)は補欠合格(どうでもいい情報)。ぜんぜん勉強せずに小説ばっか書いてたらしいから、彼も国語で稼いだのでしょう。世界史なんか壊滅だったはずだ。

 そういうわけなんで、「とりあえず早稲田に入りたい」「小説とか読んでれば卒業できるような素敵な学部はどこかにありませんか」とか思っている人は、僕の後輩になったらいいじゃない! 教えてほしかったらできる範囲で応じます。カレーおごれ。

 ところでこれ計算合ってる?


 娘

これからあなたは思春期になります
私たちからすればわけのわからないことを考えて
私たちのことをわけのわからない人たちと思うでしょう
あなたはあなたの理屈をつくりあげ
それに振り回されて
むちゃくちゃになります
あなたは私たちにいつか幻滅し
私たちからすれば間違ったことを想います
あなたは私たちのことを憎むかもしれません
殺したいというくらいに激しい感情を抱くのかもしれません
しかしあなたは私たちから離れることはできません
私たちは永遠にあなたに
いのちある限り
全身全霊の愛を注ぎつづけるからです
それ以外に私たちの生きがいはありません
私たちの存在理由はそれだけです
あなたはもうじき悩むことになるでしょう
自分はなんのためにここにいるのかと
自分はどうして生きているのだろうかと
そのときは私たちの
この想いを
思い出してほしいのですが
きっと何年も経ってから
やっと思い出すのだと思います
私たちはそれでもいいのです

あなたはもう恋をしたことがあるかと思いますし
これからもすることになるでしょう
そのことについて私たちはもうたぶん
あれこれ言うことはありません
だから最後に言っておきます
あなたはもしかしたら一度好きになった相手を
憎んでしまうことがあるのです
その人はあなたにはわからないことを言って
あなたの言うことをわからないと言ったのでしょう
あなたがその人を激しく憎んだとしたら
その人は
私たちとは違うから
あなたを激しく憎みかえすかもしれません
それまでにそこに存在したはずの愛は
いつのまにか消えてしまっています
あなたたちは憎みあい
二度と言葉を交わすことさえ
しなくなるかもしれません
重ねて言いますが
その人は私たちとは違うのです
あなたと私たちは
永遠に離れることはありません
その人とあなたは
永遠に離ればなれになることもあります
あなたは私たちの言葉を忘れてしまっても
いつの日かかならずまた思い出してくれます
愛のこめられた言葉には
そういう魔法がかかっています
未来
あなたと愛しあう人も
魔法の呪文をたくさんあなたに
かけてくれるはずなのです
あなたは
私たちを憎むように
その人を憎んでしまうのでしょうか
あなたはいつか
その人たちのうちの誰かと
私たちのようになるのです
そして新しいいのちを育み
きっとあなたたちは憎まれます
私たちがあなたに
憎まれるように
そう
それでいいのです
それだけでいいでしょう
憎しみなんて
そこにあるだけでいいのです

2011/11/29 僕が君に出逢ったのは

 ずっと昔のような気もするがたぶん本格的には小学五年生の時だろう。
 本当に愛していると気づいたのは高校一年生のときだったかもしれない。
 夏の夜だった。

 そして二十二歳の夏。
 まだそんなにも若かったんだ。
 再会した。

 それからの一年ほどで、たくさんのことが僕にわかった。
 自分の中に通っている血の様子がはっきりと見えるようになった。
 だからこそ、先生にもなれたし、まとまったものも書けた。
 何度言ってるんだろう、このことは。

 あの時に僕がほとんど働いていなかったことが、この結果につながっている。
 だから何かをやめることや、何もしないことを恐れることはない。


 生きていて、いろんなものに出逢っても、
 血に混じるのはそれほど多くない。
 自分の血が何でできているのか。
 そのこととどのように向き合っていくのか。
 そればかりを考えてもう、四年以上が過ぎている。

 その四年の間に出逢った人は、けっこう僕のことを
 わりと立派だとか、マジメだとか、
 そういうふうに捉えてくれている場合も多いんじゃないかと思う。
 正しい、とか。これは自分で言ってるんだけど。

 もちろんずっと自分の中にそういうのはあって
 幼いころから本当に正しく美しいものが好きで
 しかし醜く汚い自分に嫌悪感が常にあり、矛盾を抱えて
 どうしたら? なんて思っていたけど
 ようやく方向性が定まって四年。まだまだだけど

 なんとかこうしてやってゆける気が
 してんだ。


 血の中に流れ込んでいるすべてのものを愛している。
 血とはそういうものだと思う。
 血に逆らってはいけない。
 しかし脳は、あるいは心は
 身体は。
 時に血のあり方に反して
 一見、矛盾した行動を引き起こしたりもする。

 そういうこととの付き合いかたを
 これからも探していくのです。


 この四年間までの、助走のような
 あるいは序曲のような十二年間を
 僕はひたすらにそのための血を作り続けてきたのだな
 そしてもう、彼の血を必要とはしないで
 ただ一人の人間として付き合っていけることを
 願い続けているのだなあ。

2011/11/28 風俗自給九〇〇円

 風俗について考えた。
 よく、「風俗だって立派な職業」というふうに言われる。
 だけど思う。「もし風俗の給与相場が自給九〇〇円くらいだったら?」
 風俗で働きたがる人の割合や、その動機の質はずいぶん変わると思う。
「立派な職業」なんだったら、薄給でも成立するはずでは?
 って、ふと思った。

 米を作ってる人が、あんまり儲からなくても、
「自分は自分の米づくりに誇りを持っている。食っていけるならそれでいい」
 と言えるなら、美しいと思うし、尊敬もする。
 風俗嬢が同じようなことを言ったら、やはり美しいと思うし、尊敬もする。
 が、基本的には、おそらく「金が安いならやんない」になる。
 そういう人たちは、たぶん自分の仕事を「立派な職業」とは思ってないんじゃないか。

 風俗も職業の一つ、というのはその通りなんだけど、
 実はその言い方にはごまかしがあると思うのね。
 僕は、性倫理としてどうこうと言いたいんじゃないのです。

 風俗で働くことによって何が変わるかっていったら、
「けがれる」とか、「ほかの仕事ができなくなる」とか、
「本当に好きな人ができたときに困る」とか
 そういった方面のことではない。
 金や、金。

「お金」に対する価値観が、ある程度決定されてしまうのだ。
 そして多くの場合たぶん、その価値観を一生持ち続けなければならない。
 風俗って、「お金は大事だ」っていう価値観が根底にあると思う。
 あるいは、「お金っていうのは、このくらいの価値を持つものである」ということを、かなり明確に定義づけてしまうものだと思う。
 むろん、人によってとらえ方は違って、
「身体はお金で買えるんだ」と思う人もいれば、「お金なんか、身体で買えるんだ」と思う人もいるだろう。でもとにかく、「お金」にまつわる価値観に、きっと影響がある。
 それを引きずっていくのは、けっこうつらいことじゃないかと思う。

 たとえば、風俗で働くことによって、「お金は大事だよね」という価値観が固定化されてしまうと、「お金って実は、そんなに大事じゃないのでは?」と思った時に、やっぱり困る。あるいは、そう思うことができなくなるのかもしれない。

 そういったことを、引き受けられるのか? ということを、風俗で働こうと思っている人には、考えてみてほしい。
 もし、「お金のため」と思ってそれをするのならば、「引き返せないんだよ?」ということを、肝に銘じておいてほしい。「あなたはひょっとしたら一生、そういうふうにお金と付き合っていかなければならないのかもしれないよ?」と。
「自給九〇〇円でも、私はやりたい」と言えるのならば、「話を聞こうか」と思える。「自給九〇〇円だったら嫌だな」と思っている限りは、「立派な職業」なんてのは言い訳に過ぎないんじゃないか、っていう疑問を、僕は持ってしまう。一度は持ってみてほしい。

2011/11/27 最終家庭教師の僕

 昨日も思ったけど、好きな子たちに勉強を教えるっていうのは楽しい。
 わざわざ遠くまで来て僕の授業を聞こうと思ってくれてるわけだから、それだけでこちらとしてはありがたく、愛しい気分でいっぱいになる。初めて会った子でも、来てくれたというだけで、最初っから大好きだ。誰かが素晴らしい誘い方をしてくれたんだろうなあと思うとひとしお。
 お金がもらえるような場合でも、その子の将来とか、人生について真剣に考えることができるような相手だったら、全身全霊をかけて教えてあげたいと思える。
 そうでなくて、「ま、こいつが将来どうなろうと知ったことではないんだが、とりあえずいい大学に入れればいいんだろ?」くらいの温度だと、どこかで手を抜いてしまうかもしれない。

「好きな子たちに教える」っていうのは本当に充実している。教育ってのは先に生まれた者としての義務だから、できる限りのことはしなければならない、誰もが。しかしせっかくだったら、やっぱり自分でも楽しく、充実していると思える教育をしたいものだ。

 勉強ってのは、もちろん手段。「工夫する力」をつけるための手段。「考える」ための手段。工夫する力が身について、思考力や教養もついて、行きたい大学にも受かるんだったら、やらざるを得ない限りはある程度やっておくべきだろうと、四大卒の僕はやはり思ってしまう。やらざるを得ない限りは。

 そういうわけで『せぶんてぃーん』の『不良少女』と『青年14歳』の『Super Girl』の『家庭教師』の『うちあわせ』。『ステップUP↑』するため倫社と現国学びたいんだけど『どぉしたらいいんだろう』とお困りの家庭に『どんなことをして欲しいの僕に』とたずね、『Vegetable』や『ビスケットLOVE』をいっぱいご馳走になってから『真夜中のサイクリング』して帰った。
 相当いいアルバム。プレイリスト作ってみてください。

2011/11/26 高校生への講義/酉の市

 早稲田の学生会館で、高校生を六人集めて国語の授業をした。
 彼らがいま授業でやっている中村雄二郎の『好奇心』という文章が、かなり難解(やや悪文)で、さらにそれを教えている先生があまりわかりやすく教えてくれないらしい(理詰めではなく、感情に頼った独りよがりな解説なのではないかなと僕は推測している)ので、お節介ながら出しゃばってみたのだった。もうすぐ期末テストだから。
 高田馬場駅で待ち合わせた。土曜日にも授業のある彼らは、学校から直接、遠足気分でやってきた。オープンキャンパスみたいなものでもある。文学部キャンパスの学食でご飯を食べたあと、学生会館で空いているスペースを探したが、ほとんど埋まっているうえ、節電のためどこもかしこも真っ暗。仕方ないからサークルの部室に行ってみたら後輩がいたので、占拠。
 実は、件の先生の苦情(?)は二年半ほど前から聞いていて、その頃から助けを求めて僕のところにやってくる生徒はいた。その時もそうだったのだが、上手に教えることができると、彼らの顔は輝く。「あー、そういうことだったのか」と、授業ではわからなかったところや、先生が解説してくれなかったところで、とても気持ちのよさそうな顔をする。
 きれいなことを言うと、そういう瞬間のために「教える」ということをするっていうのはある。なんだかんだ言って僕の天職はそこにあると思いたいものだ。「勉強を教える人」が天職というのではなくて、「世界のすべてが教育である」という思想に基づいた生き方が、仕事にも結びつけばいいな、という。

 僕が教えたのは、主に「評論の読み方」。六人中五人が受験をする子たちだったので、次のテストで点数を取れるようにするというよりは、受験を意識した。それも、指示語がどうたらっていうようなテクニックではなくて、「評論に書いてあることをちゃんと理解するためのコツ」って感じのことを。あるいは、生きていくなかで何かの役に立つような話が少しでもできればとか、高校の勉強を「無駄」と思わないで生きていけるようにとか、そのようなことも考えたりした。
 みんな優秀な子なので、理解力もあるし、ところどころ対話を加えたりしながら、また雑談や小ネタなど交えながら、なかなか楽しくやれたと思う。
 何よりも、本文を音読させてみたら、みんなそこそこ上手だったのが嬉しい。集まった子たちはことごとく、クラスメイトが教科書を音読するのを「なんでみんなこんなに下手なんだろう?」と思ってしまうような(くらいに、元来読むのが上手な)子たちだった。
 22日の日記に書いた言葉でいえば、すでに「口ができている」わけである。そうしたら、もうあとはかなり楽だ。
 音読に関して課題があるとすれば、「さらに読み手に優しく読む」ことか。声の大きさとか。それから、「自信を持って読む」も大切。本当は読めているのに、自信がないからたどたどしく感じる、なんてことも音読ではよくある。もったいないことだ。

 現代文を一時間半~二時間くらいで教えて、それから参考書の紹介(『ミラクル古文単語』は、評判がよかった!)をして、「古文を読むコツ(画面の転換)」と「さ(然)」という言葉についてちょっと解説。これでだいぶ捗ると思う。前者に関しては神田邦彦先生の受け売りだけど。

 だんだんサークル員が増えてきたので、みんなで少し雑談して、高田馬場まで歩いた。
 みんな、たぶん楽しんでくれたようなので、たぶん成功だったと思う。またやりたいな。


 それから、花園神社の酉の市へ行って、大阪から帰ってきた後輩と、その後輩やらなんやかやと交番前でお酒を飲んだ。ワンカップ大関をコンビニのレンジで温めると相当楽しい。「夏は路上瓶ビール、冬は路上ワンカップ熱燗」というのを定番にしていきたい。
 今回は、僕の積年の夢である、「酉の市で偶然知り合いに会う」というのがついに達成できた。屋台で無銘のお客さんを発見した時はテンションがグワーッと上がったものです。それから、交番前で座り込んでこいばなしていたら、仲のいい女の子がたまたま通りがかって声をかけてくれたのが本当に嬉しかった。こういうのも「原っぱ」みたいなもんだよな。
 後輩をいじめていたら、やがて寒くなってきたので友達の店に移動。久々に行ったけど楽しい。それで人生相談のようになった。さらにそのあと、ほかのお客さんとカラオケ大会に。ガーリックボーイズのシャツを着たすっげー元気なおねえさんがGLAYの『口唇』を熱唱するのを聞いて、「なんか人生ってやっぱいいよな」って思った。

2011/11/25 若さ

 焦ることができるのは、若いからだよね。
 年を取ってくるとね、「後悔」になるんだろうね。
 若いからこそ、「○○しなきゃ」って思える。
 若くなくなってくると、「○○しておけば」ってなる。
 大人はよく、「学生時代にもっと勉強しておけばよかったよ」って言う。
 そういう人は、自分はもう若くないと思ってるんだな。
 何もする気がないんだもんね。

 逆に言うと、焦っている人はまだ若いんではないかと思う。
 若者は常に焦っているものだ。
 僕はどうだろ。
 わりと、まだ焦ってるか。
 早く次のとこに進みたいんだけど、
「後悔」ってとこには行きたくないよね。
 僕が最も愛する映画で『バブル・ボーイ』ってのがあるんですが
 主人公がナイアガラの滝を落下しながら叫ぶことには、
「No Regrets!」(後悔しないぞー!)
 ありきたりだけど、それは本当にそうだなあ。

「絶望と焦燥感」ね。なんかマンガにあったね。
 できる男に振り返っている暇などない、ってのもあった。
 後悔なんか暇人のすることだ。
『あのバカは荒野をめざす』っていう、F先生の短編を思い出す。

2011/11/24 焦るのは若いから

 働いている場合ではない。
 やることは無数にある。
 しかしそういうことにとらわれるのも貧しい話だ。
 もう若くもないのだから。

2011/11/23 女神

 それにしても、日記というのは、くだんなくてもいいから毎日書くべきものだよな。面白いものを、みたいに思ってると、書くのにやたら時間がかかってしまって、毎日書くのが難しくなったりする。よくないわ。

 妖怪ってどこにでもいる。八百万の神も至るところに宿っている。
 女神だっているのかもしれない。
 風呂場の垢を舐めるだけの妖怪とかいるんだから、道ばたに落ちてるガラスを拾うだけの女神とかいてもいいよね。
 妖怪と何が違うんだって話なんだけど、妖怪って基本的にはあんまりいいことしないよね。女神って、いいことしてくれそう。
 それから、日本の神様って直接手を下すというよりは「ただ見てるだけ」とか「バチを与える」とかそういうイメージだけど、女神って言ったらなんか人の形をしていて、わりと人間くさいこともしてそうだし、人間の活動に直接関与してきそう。
 そういうわけでなんかあったら女神のせいにしよう。
 たとえば、100円玉を拾ったら、女神さまが僕のために落としてくれたと考える。そしたらなんかやっぱちょっと、敬虔な気分になる。あと、美しい女神さまが僕のために100円落としてくれたんだと思うと、頬もゆるむ。
 これが「神様」だったら、なんかこう、神秘的な力というか、念力っていうか、運命を左右させる力みたいなもので、手とか使わずにパッと100円玉を遠隔操作で出せたりするんだろうけど、女神はちゃんとしなやかにポトンて手で落とす。と思う。
 まだなんか肩に力が入ってる。安らかにいこう。

2011/11/22 みんなが教科書を読めない理由/まずは口を作る

 三週間も経っているけれども、不意打ちで誕生日を祝われた。小学生たちに。嬉しかった。あ、そうそう。最近たまに僕は小学生らに勉強を教えることがあるのである。
 今日は授業で、谷川俊太郎さんの『二十億光年の孤独』をドヤ顔で暗誦したら、「僕らも暗誦する!」みたいな流れになった。さすがに全編は無理なので、パートを決めて一連ずつ覚えさせて代わりばんこに暗誦させてみた。わざわざ席立たせて、成功するまで何度もやった。非常に楽しかった。僕も、きっと彼らも。やはり「みんなで一つのものを創り上げる」、というのは素晴らしい。しかも、「一連ずつ」というのは僕ではなく、彼らのアイディアだった。
 数年前、中学三年生の三学期の終わりの授業で、一時間ひたすら音読だけをやって終わったことがあったけど、ああいうのは本当に素晴らしい。その時も、僕が授業を引っぱっていくのではなくて、生徒たちが自主的に「次はこうやろうよ」というのを提案してくれて、みんなで授業を創っていった。それでいて暴走することもなく、ちゃんと「国語の勉強」という枠の中に美しく収まっていた。あれはこれまでの僕の正規授業の中では、ナンバーワンの素晴らしい授業だった。中学を辞めるとき、心残りがほとんどなかったのは、あれをやったおかげだと思う。
 僕がいま相手にしているのは、五年生とはいえ中学受験を前提にした子たちなので、本当は「音読」なんてことをしている場合ではないのだが、しかし個人的には、今それをやらないでいつするのかと。

 音読っていうのは本当に、言語を学ぶ上では最も大切なことだと思うのです。声に出す、ということをしないと。
 たとえば「申し訳ございませんでした」という言葉があるが、これは実は、言い慣れていないと咄嗟には出ないのである。「申し訳ございませんでした」は、日本語の謝罪のうちでほぼ最上級のものなので、これを使用する効果は大きい。が、慣れていないと思わず「すみません」とかが口を突いて出てしまうのである。いわゆる「オトナ語」みたいなものはほとんどがそうで、使い慣れていなければ使えない。取引先と電話していて、ついつい上司のことを「○○さん」とか「××部長」とか言ってしまう(同じ会社の人は呼び捨てにしなければならないというルールがオトナ界にはあるのだ!)とか、そういうのと同じで。
 敬語が使えない、というのは、敬語が使い慣れていないということだし、コミュニケーションが苦手というのは、たいていは人と話し慣れていないというだけのことだったりする。家族や同級生としかほとんど話したことがないような人は、まったくの他人だとか、目上の人だとか、あるいは年下だとかと話すとき、うまく言葉が出てこなかったりするはずだ。それは、慣れていないから。そういう人に向けるべき言葉を、口に出したことがないからだ。
 外国語でも、「自分が発音できない音は聴き取れない」というのがある。リスニングが苦手な人は、だいたい発音もあまり上手でないものだ。自分で使いこなせる言葉でなければ、聴き取ることは難しい。

 橋本治の『橋本治が大辞林を使う』という名著に、「独り言(モノローグ )しか言えない青年」が登場する。すなわち、言葉を他人に向かってではなく、自分に向かってしか発することのできない人。でも彼は、そのことに気づいていない。彼が何か発言をすると周りの人は不愉快に思うが、どうしてそうなるのか彼にはわからない。彼の中には「他者」というものが存在しないのだ。目上である橋本治に対しても、敬語を使うことができない。
 ちょっと長いけど引用。

「自分の中」だけで完結しているモノローグは、「他者の存在」を認める必要がありません。彼のモノローグは、すべて「自分=他者」のタメ口になっていて、だから当然、そこには「敬語」というものが存在しないのです。「敬語」という概念自体を理解しません。だから、「敬語っているんだよ」と言われても、彼の答は、「そうなの?」です。
 それで私は、こう言います――。
「俺は、今ここで、君に教えてやってるわけさ。君が“知らない”と思うから教えてるんだけど、でも、君に“そうなの”って言われたら、なんだかバカにされてるみたいな気がするのさ」
 彼の答は、またしても「そうなの?」です。
 だから私はこう言います――「だからね、そういう時は、“そうなんですか?”って言うの。“そうなの?”に敬語はないけど、“そうなんですか?”にはあるからさ。そう言えば、へんな反感は買わないんだ。言ってみな」
 私と彼の周りには、彼の様子を気づかう「友人達」がいて、「うん、うん」とうなずいています。それで彼は、キツネにつままれたような顔をして、「そう・なん・です・か?」と、不思議なイントネーションで言われた通りを口にします。おそらくはそれが、彼にとっての「他人に対して敬語を使う」の最初でしょう。だから私は、「もう一回言ってみな」と言います。「それを言う必要がない」と思っていれば、口はそのように動きません。彼に必要なのは、それまでにしたことがない「敬語を使うための口の訓練」なのです。
(中略)
 口ごもっている彼に対して、私は、「そういう時は“はい”って言うんだよ」と言います。言われて彼は、とても言いにくそうに、「は・い」と言います。「そんなことを言いたくないから」ではありません。その言葉を発するための口の動かし方を、したことがないからです。
(※太字は、原文では傍点)

 授業で教科書を音読する時、上手な人もいれば、とぎれとぎれ、つっかえつっかえにしか読めない人もいる。音読が下手な人っていうのは、「そのための口の動かし方を知らない」っていうのがけっこうあるんじゃないか。漢字やカタカナが、いや、平仮名さえ苦手な子って多いけど、それってたぶん「口に出したことがない」ってことなんじゃないかと思う。「自分がふだんよく使う言い方」以外は、全部読めない。ちょっとでも固い言い回しになってくると、もうダメ。もちろんそれ以上に、「目と頭と口の連携がうまくいっていない」っていう問題のほうが大きいのかもしれないけど、それこそ練習して慣れていくべきところだ。
 また、教科書を読む時にだけ声が小さくなってしまう人(よくいるよね)は、「みんなに向けての声の出し方を知らない」んだと思うし、読み方がやたら速くなったり、棒読みになる人は、「人に言葉を伝えるための方法を知らない」か、それをする必要なんてないと思っているのだろう。
 声が小さかったり、あまりに速く読んだり、棒読みで読むのは、「他人のためにその言葉を発していない」ということだ。「私は先生に指名された。だから読む。読みさえすれば、私は義務を果たせる。読み方なんてどうでもいい」と思っている。すなわち、自分のことしか考えていない。「他人がない」んだ。
 音読っていうのは、こういうことを明らかにさせてしまうもので、だから僕は最初の授業ではとりあえず全員に教科書を読ませたりする。それでみんなの学力や性格がなんとなくわかる。実際、「あ、この子はこのクラスでたぶん一番勉強ができる。かなり堂々とした性格で、けっこうプライドも高い感じだろうな」と睨んだ子は、実際本当にそんな感じだった。後に僕のテストで唯一100点を取った子。
 大学時代も、同級生による演習発表を聞いて、「この子はきっと演劇部出身だ」とか、そういうのもわかったりした。ちなみに僕のいたE1クラスというのは演劇部率が異様に高かったなー、ほんと。
「そういうのがわかる自分はスゲーだろ」とかいうわけじゃなくって、「声に出す」っていうのは、本当にいろいろなことを曝露してしまうのだよ、という話。

 僕が常々、音読とか暗誦とかを重視しているのは、「どんな言葉でも出てくるような口を作る」ためだ。そして演劇こそ、そのための効果が最も高い営みだと思う。口を作る訓練は、早ければ早いほうがいい。小学生の時にやらないで、いつやるんだ。国語の授業なんかもう、半分以上音読だっていいくらいだ。
 と思って、僕は本当に音読ばっかりやらせている。これから中学生と高校生にも本格的に勉強を教える機会ができそうなのだが、その際にも、「声に出す」ということは重視していきたい。18の時に、2つしか年の違わない男の子を家庭教師として教えた時にも、「ちょっと声に出してみ?」ってのを何回言ったかな。その子は助詞・助動詞がうまく使えなくて、ほとんど単語でしか話せないような子だったから、「まずは口を作る」っていうのを心がけた、ような気がする。今思えば、だけど。

 僕は、はっきり言って私立中学受験のための勉強を教えるのにはあまり向いていない。私立中学受験自体が嫌いだし、「まだ口ができていない」ような子を受からせるには、少々えげつないやり方も必要になってくるかもしれない。そういうのは、本当に向かない。僕にできるのは、「まずは口を作る」とか、そういうことしかないんだな。そういう塾を、本当はやりたいね。

2011/11/21 第172話 放射能、どのように受け入れるか

「東京は放射能、大丈夫だと思う?」
 一人の男が、また言った。


「僕はね、放射能について、一つの指標を発見したんだよ。秋篠宮家にお生まれになった、悠仁親王殿下。まだ幼くて、放射能の被害に遭いやすいとされているお年頃のはずだろう? それなのに、殿下はまだ東京にお住まいで、元気に幼稚園にも通っておられるじゃないか。未来の天皇となることがほぼ決定しているような方が避難されないのだから、つまり東京は安全だということさ」

「僕は、その考えには与さないな。殿下の周辺にいる人々が『安全だ』と思っていたって、実際、本当に安全であるかどうかは別の話だろう。また、もしかりに『危険だ』と考えていたとしても、避難はさせないかもしれない。
 一つには、その行為に非難が集中するであろうこと。思い出してみたまえよ、震災直後、陛下や皇太子殿下が京都の御所に避難されているという、根も葉もない噂が流れたじゃないか。しかも、よろこばしいこととしてではなく、批判的にささやかれていたように思うよ。『自分たちばっかり逃げやがって』などと言う者までいた。
 二つめには、『天皇』という存在がどういうものであるのかということ。陛下は、ひょっとしたら将来即位される方々も含めて、『日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴』なんだ。だから――」

「逃げない、逃げるべきではない、ということだね」

「そもそも『逃げる・逃げない』という表現が正しいのかどうか。陛下が東京におられるということは、『放射能と立ち向かう』ということを意味するのかもしれない。『放射能を受け入れる』ということを意味するのかもしれない。ただ単に、『私は変わらずにここにいる』ということをしか、意味しないのかもしれない」

「いずれにしても、陛下が避難されれば、日本中は大騒ぎになる。震災直後のようなパニックが、再び起こるかもしれない。さすがにあれほどまでではないと思うけど、『ああ、これはいよいよ危ないんだな』と、多くの人は思うだろう」

「『少なくとも、日本の偉い人たちは危ないと思っている』、ということだもんね」

「けど、本当に危なかったとしても、そのことを隠蔽するために、避難しない、ということは考えられるよね」

「うん、だから、結局は『わからない』んだ、何も。悠仁親王殿下が避難されない、ということが僕たちに教えてくれるのは、『結局のところ、誰も何もわからない』ということだけなんじゃないかな。宮内庁の人だって、政府の人だって、どんな偉い人にだって、結局はわからないというか、一つの結論にたどり着くことはできていないんだ、きっと」

「危ないか、危なくないか、それさえもわからない、と。」

「わかってたとしたら、少なくとも偉い人のうちの誰かは避難すると思うんだよね」

「偉い人って誰だよ?」

「そういえば……わからない。それさえも、わからない」


「だからね、結局、今僕たちは、放射能について『わかる』ことは、できないと思うんだ」

「うん、確かに」

「僕たちの前にあるのは、『わかるか、わからないか』ではなくって、『受け入れるか、受け入れないか』しかないと思うんだ」

「どういうこと?」

「よくいるだろう、御託を並べる人たちが。たとえば君みたいな人さ。陛下がどうの、殿下がどうのって、あやふやな根拠を並べ立てて、必死に『わかろう』とする人たちさ。『これこれだから安全だ』『これこれだから危険だ』って、いろいろ言うけどさ、本当はただ、『わからない』んじゃないかと思うんだよね。たとえ『わかってる』人がいたとしても、それが誰なのか、みんなは知らない。だからやっぱり、『わからない』のさ。
 そういう状況を、『受け入れるか、受け入れないか』ってこと。
 御託を並べる人たちは、『受け入れようとしていない』んだよ。『わからない』ということが、怖いからね。あるいは、放射能そのものが怖い」

「怖い、怖いじゃ、何も意味がないのにね」

「今、目の前にはこういう状況がある。その状況の中には、『わからない』がたくさんある。まずはそのことを受け入れよう、っていうこと。状況を受け入れようとしない人は、すぐに『安全だ』『危険だ』で片付けたがる。『逃げる』っていうのは、避難するってことを指すんじゃなくって、『受け入れようとしない』ことを指すんじゃないのかな」

「なるほど、受け入れる……か。そうなると、陛下はすでに、放射能とともに生きていくことを受け入れているのかもしれないね。もちろん、『わからない』の中にいながら。『もし放射能の被害が甚大なものだったとしても、私は受け入れよう』っていう態度を、僕たちの象徴として、示しているのかもしれない」

「土地が放射能に汚染される、ということは、一説によれば、あらゆる病気や心身の不調につながっていくんだって。癌や白血病の発症率が上がるなんて、生やさしいものではなくて。あらゆる方向から、人間を弱らせていくもの。それが放射能なんだって、言ってる人もいる。それを信じる、信じないということではなくて、そういう可能性もあるようなものの中で、僕たちは生きていかなければならない」

「けれど、それは『あきらめる』とか、『汚染された食べものを気にせず食う』とか、そういうことではないよね。目の前に、おびただしい数の放射性物質があるんだって、そこから放射線が出ているんだって、そう意識することだよね」

「個人的な意見としては、君子危うきに近寄らず、だと思うんだ。危なそうなら、近寄らない。できるだけ」

「しかし、どれだけ頑張っても、放射性物質にあふれた世の中では、被曝はまぬかれない。日本人の身体が、ほんの少しずつ、弱くなっていくんだってことを、受け入れるしかないんだろうか。癌や白血病や、奇形や、あらゆるリスクが増大するとして。そのことを受け入れる。『そういうもんだ』と思う。そうすべきなんだろうか」

「そうすべき、というよりは、多くの人が無意識にそう思っているんじゃないかな。ほら、日本人って心のどっかで、『ま、べつに死んでもいいよね』とか思ってるって、そういう死生観なんだって、去年あたり誰かが言ってた気がする」

「受け入れる、か……確かに日本人的な感覚かもしれない。無常観っていうか」

「でも、かといって、『あきらめる』は違うでしょ? 無常観と諦観は、違うよね?」

「そう思う。やっぱりどう考えても、自分が放射能を気にしなかったせいで、かわいい我が子が病気になるんだとか、そういうの嫌だもん、絶対。けど、あんまり考えない人もいるよね。人の親でもさ」

「多い多い。けどそれは、非難されるべきことじゃないのかもね。日本人らしいっていうか。本当に。ずっとそうやって生きてきたんだよ、その人も、日本人も。それがいけないなんて僕には言えない。近代って、やたら命を大事にする時代だと思うけどさ、考えてみたら昔って、命の値段っていうか、価値っていうか、重みみたいなのって全然違ったよね。日本人は、わりと今でも軽く思ってるんじゃないかな。自殺者多いし」

「宗教とか、ないもんねえ。日本は。『自殺してはならぬ』みたいな教義の宗教が支配的だったら、話は変わったかもしれないけど、『無常観』でしょ? 伝統的に。人はやがて死ぬ、みたいな」

「規範なんかないんだ。それぞれが、それぞれに考えてる。日本では、それぞれの人の考えが、実に絶妙なバランスでもって、社会を維持してきた。安定していた時期なんて、ないのかもしれないけど、少なくとも今は、非常に危うい時代な気がするよね。震災で、それが明るみに出たのかもしれない」

「結局は、『わからない』ってことだな。目に前にあるものを、受け入れるか、受け入れないか。受け入れるとして、『どのように』受け入れるか。それが、単純にそれだけが、問われているんだと思うよ。その『どのように』のあり方を、みんな、考えたり、考えなかったりして、生きていくんだよ。それだけだ」

「『どのように』……そうか。」


 それでみんなは、それぞれの家に帰っていった。

2011/11/18 女の子の顔について

 僕は生まれてから一度も、アイドルを好きになったことがないのである。
「好きになった人がたまたまアイドルだった」ことならないではないが、好きになった理由はほとんど「楽曲がすばらしい」とかいうことに尽きて、だからグラビアアイドルとかモデルとかを、容姿を見ただけで好きになったことはない。
 中学生くらいになると、周りでは「鈴木あみが好き」とか「SPEEDのhiroが好き」とかみんないろいろ言っていたし、今でも言う人は言うんだが、まったくピンと来ない。
「ガッキーかわいい」とか「AKBだと誰が好き?」とか言われても、まったくわからない。上戸彩とかだって一時期すごい人気だったけど、可愛いと思ったことはない。佐々木希の顔はまったく頭に浮かばない。

 僕には「好みの容姿」というのが、あんまりない。まったくないわけではないが、だからといってなんの決め手にもならない。
 きれい事を言うようだけど、「関係」ってもんがなかったら、可愛いも可愛くないもないんじゃないかね?
 可愛いというのは「愛す可(べ)し」、つまり「愛することができる」「愛するのがよい」「愛するべきだ」とかって意味だと思っているので、客観的な美醜とはあんまり関係がないはずなのだ。それで僕は高校の時なんか、「B専上のジャッキー」とか言われてた。
 僕が、「この子好きだ!」と思ったらもう、その子は可愛かったりするんですよ。
 逆はないの。「可愛い。だから好きだ」は、順番がおかしい。
「美人だ。だから好きだ」とか「好みだ。だから好きだ」も、僕の中にはない。

 やっぱ、「関係」っていうものを抜きにして人を好きになることはできないと思いますよ。
 その人と、どういうふうにかかわっているか、いけるか、という。
 世間的にはぜんぜんキレイじゃなくっても、僕はものすごく好きになったりする、というのは、僕に詳しい人なら知ってると思う。(なんという失礼な発言。)
 僕も恋をしていた頃は、「関係」にのめり込んでいたのですよ。
 今だったら「関係」じゃなくて「必要」って言いたいんだけどね。
「関係」は人を好きになるのに最低限必要なもので、もしも恋愛のようなことをするのなら、そこには「必要」という関係が、特に必要になるのだろうと。
 どんな関係にでも、のめり込んでしまうことはできるから、恋って怖いの。
 本当はとてもくだらない関係だったとしても、のめり込める。
 それが「恋は盲目」ってやつ。

 かつての僕は、「関係」にのめり込んで、恋をしていた。
 容姿とかキャラクタとか、そういうものにではなくて。
 特に二十歳すぎくらいまでかな。
 その後は割と、なんにも考えない時期が続いた。
「ま、別に恋愛なんて何ひとつ尊くないよね」とか思ってた。
 ここ最近はまた、全然違うけど。
 必要を探そうとしている。

 で、さて。僕は本を読むし。
 物語や意味が大好きだから、容姿よりも関係になる、のだろう。
 女の子の顔っていうものにそんなにこだわりがない。
 そりゃ、好きになりましたらそれはかけがえのない顔になるんだけど。
 順序の問題ね。

 しかし、顔とかどうでもいい、って言ってる僕は、本当は顔を問題にする人だ。それは、顔にその人の内面が出ているからであって、別にそれ以上のことはない。結局は素敵な内面を好きになるのだから、同じこと。で、顔ににじみ出てくる「素敵さ」っていうのは、美人かそうでないかということとは関係がない。
 そういえば最近になって、ようやく僕は素敵な内面をわかるようになった気がする。

 ところで、「関係」を求めるのは僕の散文的な部分だ。
 僕の詩的な部分は、「場面」とか「状況」を求める。
 どちらも満たしてくれるような、素敵な女の子は現れないものか。

 顔、というか、美人かどうか、ということを僕は本当に問題にしないから、本当に化粧にこだわりがないのです。どちらかといえば嫌い。本質的に無駄だから。小手先の、生きるテクニックでしかない。
 ただ、日本人の平等信仰には、すっごいマッチした文化だよね、化粧って。みんな同じような顔になれるってことは、みんな同じスタートラインに立てるってことだもんね。化粧ってのは「平等信仰」の産物なんだよね。
 今の化粧は、「いわゆる客観的な美人の顔に自分を近づける作業」に堕してしまっている。差別されないために、平等を守り抜くために、日々頑張ってるように見える。

 みたいな話を、いつものようにドヤ顔で女の子に話していたら、「好みの顔って、きょうだいの顔が影響してると思う」と言われて、ハッとした。
 そっか! 僕には女きょうだいがいないから、「好み」がないんだ!
 ただそれだけなのかもしれない。難しいことはぬきにして。

 ともかくまあ、僕は顔に具体的なこだわりはない。けど、いやな顔をしている女の子と付き合おうとは思わない。愛し合おうとも思わない。
 僕は「関係」とか「必要」をしつこく主張する。容姿やキャラクタにこだわると、そのあたりが曇ってしまいそうになるから、あんまりこだわりたくない。
 平等っていうのは、世界一くだらないルールブックだと思う。
 僕は自分に女きょうだいがいたら、その顔を好きになっている自信がある。

 今日のはおかしな文章だこと。とりとめがない。

2011/11/17 愛知県は演劇が盛んか?

 愛知県の高校演劇の話をほかの地方の人にすると、「それは普通ではない」というような反応が返ってくることが多い。「東京じゃ、演劇部のある学校のほうが珍しい」といった言葉も聞く。具体的に考えてみた。


<平成23年度>
 愛知県……高校の数・224校
      地区大会に参加する演劇部の数・131校(約58.5%)
 東京都……高校の数・446校
      地区大会に参加する演劇部の数・172校(約38.6%)
  ●人口比 約740万人:約1310万人→およそ36:64(9:16)
  ●高校の数に対する地区大会に参加する演劇部の割合の比 
      およそ60:40(3:2)
  ●人口1万人あたりの高校の数
      愛知県・0.30 東京都・0.34
  ●人口1万人あたりの地区大会に参加する演劇部の数
      愛知県・0.18(-0.12) 東京都・0.13(-0.21)


 すなわち、少なくとも上記の考え方によれば、愛知県は東京都に比べてだいたい1.5倍くらい「高校演劇が盛ん」なのではないかと思われる。
 他の都道府県についてもいくつか(静岡・広島など)調べてみたが、地区がいくつに分かれているかとか、何校が大会に参加するのかといったことは、ネット検索だけではまったくわからなかった。ところが愛知県と東京都は、地区大会の出場校名と演目などの最新情報を簡単に知ることができた。その事実だけをもっても、愛知県や東京都はどちらかといえば「高校演劇が盛ん」なほうだと言える気がする。
 平成23年度の大阪府に関しては、「大橋むつおのホンワカブログ」という個人ブログに「大阪273校の高校の中、コンクールに参加したのは83校」と書かれていた。これを信じるなら(ちなみにWikipediaでは274校となっていた)、だいたい30.4%が地区大会に参加している。※ただし、このブログでは「東京は44%ある」とも書いてあって、僕の計算とは異なる。僕は東京都高校演劇連盟のオフィシャルで確認しているので、間違ってはいないはずだけど、なんでなんだろう。向こうは古い年度の情報でも使っているのだろうか。ちなみに大阪府の人口は約890万人。

 僕は愛知県の高校演劇しか知らないのでわからなかったのだが、考えてみればいろいろと思い当たる。どの大学にも演劇サークルがあるような気がするし、高校演劇のOBが集まって劇団を作ることも多いし、時には現役の高校生同士が学校の枠を越えて劇団(演劇集団とか名乗る人たちもいる)を結成したりすることさえある。
 小劇場も意外と多くて、なんと公共施設として「文化小劇場」というのが16区のうち13区に置かれている。東京の人から言われて確かにと思ったんだけど、「劇場」と名の付く公共施設がほとんど各区に置かれてる市っていうのはなかなかないんじゃないかと思う。「小劇場」と言ってもだいたい300~500席くらいある大きく立派なもの。市内の地区大会や合同発表会(合発)はすべてここで行われる。今思えば、あんないい舞台にタダで立てるなんて名古屋の演劇部の子たちは本当に幸せだよなー。しかも最低でも年に二回は。普通だったら立ちたくても一生立てないよ。
 だから劇団も、たぶん多いんだと思う。僕の高校の演劇部には毎週のように演劇の無料招待券がダイレクトメールで送られてきていて、けっこう争奪戦になってた。そういうことって他の都道府県にもあるんだろうか?
 今池(名古屋では大きめの繁華街)のお祭りでは、毎年巨額の謝礼を払って高校の演劇部を呼び、自由に芝居をやらせる。僕らもそれで一度小劇場の舞台に立った。これもなかなかないことなんじゃないかなあ。

 それから、ほかの地方のことがわからないから断言はできないけど、おそらく愛知県ほど生徒主体で大会を運営している地方はほかにないんじゃないかと思う。
 大会が近づくと、参加する各校は「実行委員」と「講評委員」をそれぞれ選出する。だいたい「実行」が2名、「講評」が1名という感じだった。一つの地区大会にはだいたい15校前後が参加するので、50人くらいの運営委員会が発足するわけだ。「実行」は進行・幕間・搬出入・音響・照明・受付・会場・楽屋・記録速報などの部署に分けられ、それぞれ仕事を分担する。
 詳しくはこのページ。「知多地区」のものなので僕がいた「名古屋第2地区」とは若干違うけど、だいたい同じ。僕は地区大会でも県大会でも「実行」を経験してるけど、やることはほとんど変わらなかったので、たぶん県内はほぼ共通なんだろう。ちなみに講評委員はすなわち審査員のこと。他校の劇を見て、話し合って、受賞校を決める役職。すごいよねー、どの学校が次の大会に上がるかってのも、生徒が決めちゃうんだから。もちろん審査には、講評委員以外に大人たちも加わるんだけど。
「実行」と「講評」が招集されると、まずそれぞれに委員長が決められる。決まったら、大人はもうほぼ口を出さない。委員長が議長となって、あらゆることを決めていく。特に問題が起こらなければ、大人は各日の最後に一言何かを言うくらいだ。「がんばりましょう」とか。
 事前準備も、当日の運営も、ほとんど生徒がやってしまう。大人はそれに協力する、という感じだった。それでもだいたいうまくいってしまうくらい、愛知県の「実行」「講評」システムは完璧に近い。それが毎年実現できるのは、たぶんひとえに生徒の質。みんな腐っても演劇部だから、「考えて動く」ということがある程度できる。やりたくて来てる子が多いので、やる気もある。だから物事がてきぱきと進む。自分たちで大会を作っていくのって楽しいしね。友達増えるし。
 この「友達増える」は本当にすごくって、そのために「実行」に来てる子も相当多かったはず。こういうシステムだから、愛知県の高校演劇界は横の繋がりがものすごく強くなる。それでうちの部でも、他校に遊びに行って一緒に練習するっていう「合同練習」という伝統行事を毎年やってた。他校の劇を観に行ったり、なぜか合宿に参加したり、客演(ゲスト出演)みたいなことしてみたり、さっきも書いたけど学校を越えて集まって劇を作ったり。僕の世代にもあったし、僕の1~2学年下の子たちも「演劇集団ドラマシンドローム」(だっけ?)とかいうの作って楽しそうにやってた。少し羨ましかったな。
 そういうの、実現できるんだよね。やろうと思えば。名古屋市には「青年の家」という、演劇の練習も公演もほぼ無料でできてしまう公共施設が、あったしね。
 ほんと、名古屋は「演劇が盛ん」というか、「演劇をやる環境に恵まれていた」んだね。たぶん。

 さて、ここまで愛知県(主に名古屋)の演劇について書いてきましたが、かつて演劇部だったみなさまにお願いがありますよ。あなたの地方では、演劇部とか大会とか、どんな感じでした? ぜひ教えていただきたいです。愛知県の環境が、果たして特別なものであるのか、そうでもないのか。僕は個人的には、演劇部なんて全国どこでも一緒だろ、と思っていたんだけど、先日ワークショップで知り合った子の話を聞いたら、自分の体験とけっこう食い違っていたんで、「そうでもないのかな」と思い始めたのです。

 僕は演劇が好きで、いろいろのマジメな理由に基づいて「みんな演劇やるべきだ」とか思ってます。で、演劇をやるのに最も適した環境っていうのは、高校演劇だと思うんですよ。っていうか、「愛知県(名古屋)の高校演劇」だと思うんですね。だって、タダであんなにいい舞台に立てるんだもん。部費とか出るし。メンバーだって何も言わなくても集まってくるし、練習場所とか日程とかほとんど悩まないし。
 大学生とか社会人とかで演劇をやろうとすると、「お金」と「場所」と「時間」の問題にぶち当たるんですよ。でも、高校演劇ってそれらすべてを学校が、あるいは「大会」という存在がなんとかしてくれるわけです。それってホント、マジで、恵まれてる。
 演劇の敷居が高いのって、絶対に「お金・場所・時間」のせいなんですね。だから、そういった問題がほとんど生じない高校演劇は、敷居がものすごーく低くなるはずなのですよ。いっぺん全国大会とか観に行ったらわかるけど、高校演劇って実はめっちゃくちゃレベル高くって、上のほうをめざしたら青天井。やりがいは絶対にある。
 だから、「演劇ってなんか恥ずかしいよー」「演劇部ってキモいよね」みたいなくだらない思いこみで、せっかくの素晴らしいモノを台無しにしてしまってほしくないのだ。そこを一歩踏み込んでしまえば、本当に素敵な世界が待っているというのに。
 それは、「楽しい」とか「面白い」とか「達成感がある」とかいった快楽主義的な世界ではなくって、人間が生きて行くにあたって、本当に大切であるはずのことを、理解したり身につけたりすることのできうる世界なのですよ。たとえば『人は見た目が9割』って本がちょっと前にすごく売れたけど、あれって演劇のことしか書いてないんだよね。とても重要なことが書いてある本だけど、はっきり言って演劇をマジメにやったことのある人ならべつに読む必要はない。わかってるはずだから。人間が人間と向き合うというのがどういうことか、というのが。

 少しでも演劇が、今よりもっと身近で、メジャーなものとなるように僕は祈り、語り続けたいであります。

2011/11/16 昨日の補足

 2001年12月の芝居、タイトルも役名も思い出せねえ! とか思ってたら、当時の演出(一学年下、部長)からメールが。『I LOVE LETTER』だ。いいタイトルだ。既成台本だけどタイトルは変えたんだったかなー。彼から言われて思い出したけど、そういえば10月末から停学のようなものを食らって練習に出られなくなってしまったのだった。その節はご迷惑をおかけしました。演劇部、いろいろあったけど、なんだかんだ僕にとってはすべていい想い出です。僕のせいでいい想い出ばかりではなくなってしまった方々には、もしそうであったならば、本当に申し訳なく思います。十代の頃は、人間の心を持っておりませんでした。二十歳くらいの時にようやく、人間の心を持とうと努力し始めたように思うです。
 役名が思い出せないというのは、本番でセリフ間違えた(忘れた?)とか、あんまり上手に役作りできなかったとか(主役だったのに!)あって、封印してしまったのかもわからん。あー。いろいろと本当に申し訳ないです。ああ。
 しかし演劇部、本当に素晴らしい制度だな、あれは。お金もかからないし(ここ重要)。うちの部なんか、部費って月に100円とかだった気がするぞ? 払ってた記憶がほとんどないくらいだ。「今池埋蔵金」(何年かに一度依頼されていた、今池祭というお祭りへの出演料を代々貯蓄していたもの)がたくさんあったからなー。
 それにしても、読んでくれてるのが嬉しいよ。本当に。何よりもそれが本当に嬉しいよ。うん、うん。あー。僕の「結婚文化祭」にはぜひ来てください。少年三遷史再現しよう。

 演劇部を中心として、高校の友達や、先輩・後輩、そして先生って、本当に宝物なのでありますよ。あそこで出会った人たちで、愛しているのは、キリがないくらいたくさん。一つ一つの出会いや想い出が、本当に美しいです。向陽高校ほど好きな学校って存在しない。はつでん部の太陽学園くらいか。
 ま、好き勝手やりまくってた人間がどの口で言うか、ってとこもあるんだけど、それはもう目をつぶっていただきたいですが、しかし全力でお詫びと、反省と、埋め合わせはしたいです。年始に103(1年3組のこと)の同窓会があるようですので、立派な姿を見せたいです。全員に自分の本(ノンポリ少太陽とか?)を配りたい、けど、まあ、それは……無理かな……。
 101の三人娘(勅・風・恭)なんかもう、そのー、よくわかんないけどすっごい愛情持っているですよ僕。なんなんだろうね。こないだ■の結婚式で会って泣きそうになったよ。風にも会いたい。結婚文化祭にはきっと呼ぼう。
 と、珍しく団扇。時効ゆえ。
 なんだろな、早稲田もゾネ中も六北も、成城も、向陽に比べたら愛情の量としては比較にならない。それはやっぱり、自分が楽しかったからで、つまり自分のことばっか考えてたからなのかもしれないけど、それはそれとしてすっごい反省していて、だけどしょうがないくらい、やっぱ自分はあの高校が好きなのです。小川乳業のおじさんとか、民話が聞けるフジパンとかさ。
 迷惑かけたよなーって、思うけれども、自分勝手でしたが、それでも僕と愛し合ってくれてた人がいてくれて、それだけを単純に幸せに思うのですよね。それで、「誰か」に恩返しをするために僕は生きて、できるだけ立派なことを言いたいのですよ。

2011/11/15 リーダーヤンキー

 隊長不良でした。
「病は気から」を地で行く僕は、さまざまな事情があって、身動きすら取れないような状態になってしまったのでした。
 久々に演劇なんかやったからというのもある。あれは疲れる。たった二日間なのに、根こそぎ奪われてしまった。
 それは演劇をやったから、というのもあるし、久々にそういったジャンルのことをじっくり考えたからかもしれない。満足感とか多幸感のようなものも、疲労や虚脱感と混じり合って、ちょっとわけのわからない状態になってしまった。その他にもいろいろあるんだけど。

 芝居は、やってる最中は本当に辛くって、「もうこの公演が終わったら演劇やめる」とか思うんだけど、いざ本番が終わると、「さーて次の公演はどうしようかな」なんてことを考えてしまう。そういう人って多いだろうなと思う。

 僕は演劇が好きだし、素晴らしいと思うんだけど、でも、今の学生演劇とか、小劇場の演劇とか、大きめの劇団とか養成所とか、そういうところで演劇をやることを、決してオススメはしない。
 ああいうのをやるのは特殊な人たちだ。体力も、精神力も、お金も、時間も、かかりすぎる。相当本気でやる気がないと、辛い。
 それを人にすすめるというのはできないし、僕自身も、その道を選ばなかった。大学で演劇サークルの練習にちょっとだけ参加したりしたけど、「これは違うな」と何かを察知してやめた。たぶん宗教みたいな匂いを感じたんだろう。
 中学や高校の部活くらいがちょうどいいのではと思う。もちろん、学校の授業だったらもっといいかもしれない。
 僕はこういう「演劇」をやる人じゃないなー、と思ったのだった。
 誰もが感じている通り、今の「演劇」というのは敷居が高すぎる。

 突然ですが忘れそうだから舞台歴(学芸会、余興など除く)。

2000.7 KDC『L^2』きゅうすけ
2000.9 KDC『店長百万円入ります。』神宮寺
2000.9 池松屋本舗『Dream Station』脚本(初稿)・天使
2000.9 KDC『店長百万円入ります。(今池祭Ver.)』神宮寺
2000.12 KDC『地上より永遠に』音響 ※既成台本
2001.3 KDC『寓話の見た夢』シュウヤ
2001.4 KDC『寓話の見た夢(新歓Ver.)』シュウヤ
2001.7 KDC『少年三遷史』脚本・演出・俊太
2001.9 KDC『たんぽぽとかずのこ』引越屋(のどっちか)※既成台本
2001.12 KDC『(タイトル忘れた)』(役名も忘れた)※既成台本
2002.3 KDC『イワンよりもばか』脚本・演出 ※未発表
2002.4 KDC『ほうかごのこうえん』共同脚本・共同演出・男(田中マッチのほう?)
2003.3 KDC『なにをする!』脚本・男(首しめるほう)
2003.3 劇団梵天山『鎮魂歌~歌と女と殺人と~』(役名忘れた)
2004.12 劇団破瓜『ゆでたインゲン豆のない風景』男(何番か忘れた)
2011.11 二日で本番WS『Station』吉沢祐太 ※即興再現
2011.11 JKB5『男子校』不良のオザワくん ※即興

 2001年12月の芝居のことが何も思い出せなくて(想い出やシーンは蘇るんだけどタイトルと役名がまったく出てこない)当時の日記を探していたら、なかなか面白いことが書いてあった。

僕は完璧主義者です。
これは欠点。
なんでも完璧じゃないと気が済まない、らしい。
だから信号待ちとか、大ッ嫌いで。
全ての事柄がパーフェクトに進んで頂きたいと願う。
昔、小学校の低学年くらいの頃だったか、僕の教育係は、兄だった。ちなみに次男。
その兄に言われたことがある。
「お前はプライドが高過ぎるんだ」
その時分は意味がわからなかった、プライドが高い=ベジータという図式くらいしか頭の中にはなかったのだ。
だが今ならわかる気がする。
完璧と理想を追い求めるが故、不足するものがある。
確実性。
執着する余り、失われるものがある。
平均性。
例えば髪型に気を使い過ぎて服装まで気が回らないとか、簡単に例を挙げるならばそんな感じか。

だからオイラにゃ大人は不向き。
きっと社会じゃはみだすろう。
そんな僕でも過ごせる世界、誰か紹介してくれ。
将来はどんな職に就いたらいいんだろう?


今日は演劇の本番だったり。
なんか…割とたくさん見に来てくれたり?
メールとかで頑張れとか言ってくれたり?
嬉しいねぇ。
あぁ~。
ついに。
終わりましたよ…。
もしかしたら板の上に立つのはこれが最後かもしれない。
演技っつうのは天分の勝負だがやってりゃ上手くなる。
問題は魅力なんだな。
役者というのは、どれだけ客を呼べるか、というのが重要。だと勝手に思う。
死ぬほど上手いけど魅力の無い役者というのは、生涯端役に生きる事になる。
「主役」や「脇役」には決してなれないのだ。
最高の端役か最低の主役か、僕なら前者を選ぶのだが、
もっと素敵に、最高の脇役ってのが一番好きだ。たぶん。
ああ。魅力のある男になりたい。
この世界においても、最高の脇役でありたいものだ。
あの日。
僕の細やかな記憶の中でキラキラと笑う素敵な大人達。
一度きりの記憶。格好良い大人達。
彼らと過ごした時間は、数時間? 数分?
僕の人生の中では脇役に過ぎない。
でも、最高の笑顔を僕に見せてくれた。
彼らの人生のほんの数分が僕の人生に彩色を施してくれたのかもしれない。
そんな大人になりてぇや。
ああ。魅力的な男になりたい。

脇役-魅力=端役
脇役+束縛=主役
(2001年12月17日)

 言いたいことがいまいちわからないし、「あの日」ってのが何をさしていて、「格好良い大人達」ってのが誰のことなのか、全然わからない。単に不特定の、旅先で出会った素敵な人たちのこととかを指しているのかもしれない。
 それにしても、「演技の上手・下手」っていうことと「役者としての魅力」っていうこととを、すでに分けて考えているのが面白い。昨日の日記に書いたことを10年前にほとんど言っているじゃないか。
 結局、このあとも何回か役者はして、技術は向上していったと思うんだけど、魅力はどうか? っていうと……。それで七年間くらい舞台とは縁のない生活を送っていて、日常の小芝居で満足していた感じ。
 うん、日常の小芝居で充分楽しいんだもんね、だって。
 ただ、「日常の小芝居」はもっと延長できる、拡張できる、っていうのは思ってて、今後はそういうことを考えていくかもしれない。

「日常の小芝居」ってのをね、意識してやってたら、本当に人と話したり、遊んだりすることが楽しくなると思うのですよ。
 それをほんの少しだけ突き詰めてみたら、演劇なんてのはすぐにでも生まれる。五分くらいの脚本を書いて、一時間くらいで完成させることだってできる。それは本当に楽しいことだと思うのだが。
 そういう小芝居をたくさん作ってYoutubeとかにアップして遊びたいわ。

2011/11/13-14 二日で本番

「二日で本番」という、文字通り「二日間の練習で、二日目の夜に本番を迎える」という企画に参加した。
 園田英樹さんが演劇について何かやるというので眺めていたら、企画趣旨のようなものとして「劇場が生活において身近になることを願っている」「経験などは不問」と書いてあって、参加費は二日間で3000円ということだったので、「これは」と思ってやってみることにした。完全初心者の女の子も一人誘った。専門用語で「ワークショップ」というやつ。

 思えば小学校の時、卒業文集で園田さんのことを書いて、担任の先生から「もっと小学生らしくて、学校生活に関係のあることを書け」と没にされて、泣きながら居残りして全然関係のない、書きたくもない文章を書かされた苦い想い出がある。園田さんは、僕が演劇や文章に興味を持ったきっかけの一つである。たぶん一番最初は、手塚治虫先生や岡田淳さんや、その作品だったと思うけど。
 僕は本当に常々、かねがね、「演劇はもっと身近なものであるべきだ」と考え続けている。僕が勤めていた中学校の初等科には「劇」の時間が授業として時間割に組み込まれてあるが、そういうことでいいはずなのだ。むしろ高校くらいまでは演劇を必修にするくらいでいいと思う。なぜそれができないのだろう。
 それが日本人の国民性だ、と言ってしまえばもっともらしいが、日本人が劇に向いていないかといえば、そんなことはないだろうし、向いていないように見えるのだとしたら「現在の演劇のあり方が日本人には合っていない」というだけのことだ。適応力の高い日本人は、やれと言われればちゃんとやる。それは僕の勤めていた学校とか、愛知県立千種高校(文化祭では三年生の全クラスが劇をやる)、都立日比谷高校(文化祭では一年生から三年生まで全クラスが劇をやる)などが証明していると思う。

 この企画では最終的に十一人の役者が舞台に立った(稽古に参加した人数はもうちょっと多い)が、その中には初心者も何人もいたし、僕のように高校でちょっとかじっただけの人や、半年程度のキャリアの人、舞台ではなく映像作品に出ている人、三十年近くのベテランなど、多種多様の人々がいた。
 しかし、即興の経験がある人は一人(正確に言うと前回の同じ企画に参加した人を含めて二人)だけだった。
 その中では、すなわち、経験とか経歴なんてものはほとんど意味を持たない。初心者もベテランもそれほど変わりなく、舞台の上ではほとんど同じように見える。頭で考えて台本を解釈したり、役作りをしている暇なんてないから、役者はほとんど素の状態のまま舞台に上がり、自分の内側から自然にあふれ出してくるものを素直に出すことが必要になる。「これまでに蓄積してきたものを、どれだけ自然に開放できるか」ということがキーになる。だから一日目は、そのための稽古ばかりを徹底的にした。
 考えるんじゃない、感じるんだ、というように。

 で、僕が思い出すのは、椎名高志先生の『オール・ザット・ギャグ』という短編マンガだ。(『(有)椎名百貨店』収録)
 天才的なボケの才能を持つ女子高生、藤本ゆかりが、天才的なツッコミの才能を持つ藍方圭介という年下の少年に見初められ、コンビを組む。その初舞台におけるゆかりの心理描写を、僕は思い出したのだ。彼らは打ち合わせを一切せず、即興で舞台に上がるのである。この本は僕の幼い頃からの愛読書であったため、即興と聞いて最初に思い出すのはこの話。
 舞台に上がって、はじめに圭介がナンパに関する話題を出す。そして「まず、海の場合」と、コントの「フリ」をゆかりに投げる。
 ゆかりは、「あ、コントが始まったな」ということに気づき、頭を海モードに切り替える。
「ねーちゃん、茶しばきにいかへんかー」みたいなことを圭介が言う。ゆかりは、「あ、私は『ねーちゃん』で、今ナンパされているのだな」という状況を把握する。そして考えるのは、
「今、この状況で、一番えげつない反応は……」
 ということだった。
 それでゆかりは、「じゃかわしいわいボケぇ!」とか言って圭介を蹴り飛ばす。そして延々と罵倒し続けるのだ。もちろん、それに圭介が適宜合いの手を入れて、客席をわかせる。
 ゆかりは、幼い頃からお笑いが大好きだったため、漫才やコントにおけるパターンの蓄積が豊富にあるのである。それを天性のツッコミである圭介がほじくり出していく。
 頭で考えるというよりは、その場その場で、自分の蓄積の中から最も自然な(もしくは面白い)反応を引き出してくる。
 これが肌身に染みこんでいるから、ゆかりは即興で舞台に立てたのである。それは、藤本興業の一人娘として物心ついた時からずーっとお笑いに親しんできたからであろう。
 ちなみにここまで、資料が手元にないので間違ってる箇所があるかもしれません。ちなみに家に帰ればちゃんと全巻あります。故・西原んちからパクって来たのが。思えば西原と仲良くなり始めたころ、よく『(有)椎名百貨店』の話をしたものだ……。

 今回の即興劇のやり方がこれに似ているかどうかは、僕個人がなんとなく思い出しただけなのでわからないんだけど、ともかく、下手に考えるのではなく、「その状況における、最も自然であるか、最も面白い(しかし無理のない)行動を取る」ということが、焦らず、平常心を保ちながら自然にできること。そのために余計な「ブレーキ」をなくすこと。それが大切だろうなあと思った。
 それはやっぱり、僕が小説とかを書くときもそう。最初にキャラクターと設定が決まったら、「こいつはここでこういう行動を取るよなあ……」とか、「こいつがここでこうしたら、面白いし、無理がないよなあ……」とか考えて書く。考えるというより、興が乗るとほとんど自動筆記のように、まさしく「勝手にキャラクターが動き出す」みたいなことになる。「どこに着地する気だよー」とか思いながら。
 あるいは、「この行動を無理のないものにするためには、どういうシーンを事前に用意したらいいか……」みたいなことも逆算して考えるけど、これは即興劇では無理なので、そこはちょっと違うのかな。
 ただ『おなちん』はほとんど一直線に書いたので、後から伏線を付け加えるということはほとんどしていない。あれは即興のようなものだったのかも。
 園田さんが、「これと同じことを、脚本家は一人で頭の中でしてるんだよ」といった意味のことを言っていたが、なんとなくわかる。

 初心者でもベテランとそれほど変わらない、というのはそういうことで、「どれだけ蓄積しているか」とか、「どれだけ自然に開放できるか」ということばかりが問題になる。しかも前者に関しては、ふつうに生活していたり、ふつうにマンガ読んでたりドラマ観てたりしてればいつの間にか蓄積されているもんだから、たぶん誰にとってもほとんど大差ない。問題は「開放」。
 もうちょっと慣れてきたら、もっとうまくいったかなー、という気がする。やはり二日は厳しかった。それでもそこそこのものにはなったので安心してるけど。即興で「開放」することに慣れてきたら、今度は「どういう展開にしようか」とか「どこに着地させようか」というほうを大切にできる。今回はまだ、そこに至る前に本番を迎えてしまったような感じだと思う、みんな。

 それと僕自身は、やはり役者じゃないなー、という気持ちを強くした。とても上手いわけでもないけど小器用ではあり、とりあえず台詞も出てくるけど、「役者として魅力的か」っていうところを問われると、そうでもない。わりと無難な感じになってしまう。調子に乗ると空回りして失敗するタイプ。まだまだ周りと調和していくことは得意ではないのかもしれない。
 でも、僕のめざしている「エンゲキボックス構想」においては、そういう上手い下手は関係ない。「観る側にとっての質」ではなくて、「やる側にとっての楽しさや気づき」というところを大切にしたいのである。だから、自分はいわゆる「役者」には向いていないけれども、僕が役者をやることには、僕にとって非常に意義深い。演じると、自分と向き合うことができる。他人のことを考えるとか、全体を見るとか、そういう力にも影響してくる。同じ舞台に立っている人同士、影響しあう。
 また、観る側(いるとしたら)にとっても「楽しさや気づき」があるようなものがいい。「面白い」は二の次で。やっぱりカラオケだ。友達のカラオケを聴いて、「ああ、気持ちいい!」とか「すばらしい!」と思うようなケースって、少ないでしょ。でも、なんか「楽しさ」とか「気づき」ってのはあるじゃない。演劇もそのようなものでいいと思うね。
 だから「カラオケボックス」ならぬ「エンゲキボックス」があって、友達と気軽にやれるような、そういう遊び場があってもいいし、そういうことが日常的になればいい。ま、カラオケに行かなくても歌を歌えば楽しいし、演劇はどこでもやれてしまう。本当は「ボックス」なんて要らないんだけど、この辺に関してはまだよくわからないなあ。
 そういえば今回、本番当日に30分の芝居をほんの2時間くらいで作った。ってことは、エンゲキボックスに三時間いれば、練習と本番をこなしてもまだ余りあるということだ。やっぱり、演劇なんてそんなもんであってもいい。むろん、「本格的な」舞台もあっていい。歌のあり方が多様であるように。

 企画の木皮成くん、園田英樹さん、スタッフのみなさま役者のみなさん、お客さまがた、本当にありがとうございました。

 それから、初心者の女の子が本当に心から楽しんで、しかもわずか二日間で大いなる成長を遂げたことに関して、心からの喜びと幸せを噛みしめている。ありがとうおめでとうおつかれ。

2011/11/10 女の人

 友達に、なかなか理知的な女の子がいる。
 ものごとをちゃんと考え、正しいこととは何かを捉えようとして、好きなものがあれば、「なぜそれを好きなのか」をわかろうとしている。
 そして、考えたことを文章としてまとめて、ネットなどに発表している。
 そういう女の子はなかなかいない。
 そういう男の子もなかなかいない。
 そういう人間って、なかなかいない。

 ところで、人間は誰かを「参考」にして生きます。
 素敵な人とか、憧れの人とかを見て、「こうなりたい」とか、「こういうふうにすればいいのか」とか思いながら生きます。
 男の子だったら男の子を参考にしたほうが捗るだろうし、女の子だったら女の子を参考にしたほうが捗ると思う。もちろん、女の子が男の子を参考にしたっていいし、その逆でもいいんだけど、やっぱり同性のほうが、より参考になる部分は大きいだろう。
 すなわち、女の子には僕の背中を見せるより、誰か素敵な女の子の背中を見せてあげたほうがいいように思うのだ。
 男の子は僕を見て、教師としたり反面教師としたりしやすい。僕が立派であろうがそうではなかろうが、男の子は男の子を参考にしたほうが捗る。
 女の子は、女の子を参考にすると捗るだろう。

 そういうわけなので珍しく理知的な人間である友達の女の子は、どんどん僕の知っている女の子たちの参考にされてしまえばいいと思う。僕の周りには未熟な女の子たちがたくさんいるから、そういう子たちにがんがん背中を見せてあげてほしいなと。

 その女の子とはファイナルファンタジー6の話を最近よくするのだが、彼女のファイファン6に対する考察は非常に「正しい」。自分以外にこのゲームのことを、これほど愛し、正しく捉え、かつ声高く文章で表現することのできる人間がいたかと、嬉しくなってしまった。
 別に、文章力を褒めるでもなく、考察力や思考力を褒めるでもなく、ただ「正しいな」と思う。質の問題ではない。大切なのは物事に向かう姿勢だ。
 そういうところを、僕は勝手ながら、偉そうに、みんなに、女の子たちに、見てほしいなと思うのである。
 別にその人のことを見る必要もないけれど
 女の子は、素敵な女の子を常に探していてほしい。
 見つけたら、「何が、どう素敵か」をひたすら考えてほしい。
 というか、そうするべきだろうなと、彼女を見ていて思ったのでした。

2011/11/09 2001年度愛知県大会

 別にこれ載せて怒る人もいないだろうから載せてしまおう。
 懐かしい。ジオシティーズ漁るといっぱい出てくるな。


2011/11/08 自分批評

 昔(2006年ごろ)2ちゃんねるのニュー速VIP板の「ラップ作ろうぜw」スレで歌ったラップを定期的に聴き直すんだけど、素晴らしい。一発録りだからさすがに拙い箇所も多々あれど(噛んでたり)、言葉がやけに耳になじむというか、心地よいというか。そりゃ自分の声で、自分が歌ってるんだから当たり前なんだけど、それ以外に何か客観的に感じられる魅力があるとしたら……と考えてみた。
 言葉の発音の仕方が、その言葉の持っている性質を忠実に反映させたものである、ということだと自分では思っている。言葉についての敏感さ。
 意味はもちろん、色合い、匂い、光沢、目方、手触りなどなど、そういったものを一応、僕なりに考えて歌っているな、と今回聴いていて思った。
 ま、要するに「どうやって発音しようかな」ってのを、ほんの一瞬のうちに、感覚的に、考えて歌ってるってだけのこと。瞬間の演劇ですね。演じてる。エチュード。

 こういうスレがあったのよ。
 初期の頃は無視してるレスもあるけど、そのうちどんなレスでもちゃんと歌うようになる。URLすら歌ってた。

 18歳未満は聴いちゃダメだよ><
 geocities.jp/yazakit2112/09.mp3
 作詞はスレ住人であり僕じゃないです。
 そのうち全曲うpしたいです。30曲くらいあります。

2011/11/07 はらがたつなー(^^;)

 つまんねーやつらを盛り上げてるのは
 もっとつまんねーやつらで
 出しゃばった「もっとつまんねーやつら」が寄り集まって
「つまんねーやつら」を褒め称えて喜んでるのね。

 あなたがたが信奉しているものが
 実は「つまんねー」んだってことがわかんなきゃ
 あなたがたはもっとつまんねーんだって。


 つまんねーやつらに優しくしちゃダメだよ
 ちやほやしちゃいけないよ
 そしたらあなたはもっとつまんなくなっちゃうんだから。

 自己満足のために美意識を誤魔化しちゃいけないよ
「これでいいんだ、だって……」
 そんなくだらない「……」のために
 美意識を汚してしまってはいけないと思うよ。

 美意識が許さないようなもので満足してはいけない
 それは恋愛も、芸術も、製品も、同じこと
 その妥協が世の中をゆがめていく。

「これは面白い」とか「これはつまらない」とかって判断を
 軽はずみにしちゃいけない。


 具体的に言いますと
「アングラ・サブカル方面で活躍してる人」って、
 面白いとかつまんないとかじゃないんだよね、けっこう。
 目立つかどうか、ってのと
 いかに「絶妙な知名度」であるかってことのほうが大事なんだよね。
「絶妙な内輪感覚」っていうかね。

 正しいか、正しくないかってことは
 よりいっそう問題にされない。
 それがなんだか、はらがたつのね。

 中身なんかなくても、認められたり、
 認められてるように見せることはできる。
 中身というものがあまりにも軽視される。
 軽薄短小、なんとなくでいい。
 そういう風潮が悲しいな。

2011/11/06 清春さんは少年のとき29歳だったよ

「大人になりたくないとつぶやいている大人 子供に戻りたいとつぶやいている子供」なんていう歌があるけれども、大人と子供が同居しているような状態の人間は実に不安定で、潔さがない。おとなこども、とっちゃんぼうや、いずれもあまりイメージはよくない。
 大人には子供が、子供には大人が対になっているが、「少年」に対するものは「少女」しかない。「青年」も「壮年」も「中年」も「老年」も、対ではなくて並列だ。

 少年でいたい、と思うのはみっともなかったりもするし、何よりも無理があったりする。それで「中年になろう」と努力している人もいる。前に友達が「もっと中年力を上げなければ」とか言っていて、ちょっとおかしかった。その人はちょっと前までスタジャンとか着て少年のようだったが、最近はたしかにすっかり中年ぶっている。スーツ姿しか見ない。休日に遊ぶことが少なくなったからかな。
 そういうふうに少年とか中年を意識している人は、少なくとも「大人」と「子供」という二元論でしかものを考えない人と比べれば、ずっと丁寧にものごとを考えることができるだろう。自らの成長(老い?)の段階を自覚できる人は強い。「自分が今、何をしたらいいか」という判断の指標となるものが、ちゃんとあるということだ。

 僕はといえば、まだ青年にすらなろうとしていない。自分の中で、「青年とは何か?」の答えが出ていないのだ。むしろ、「青年」なんていうくくりが本当に必要か? とさえ思っている。僕は少年でもないが、壮年、中年ともやはり違って、では青年だろうと思うと、なんだか拒否したくなってくるのである。
 そういう区別がそもそもなんのために存在しているのか、というところに立ち返って考えてみたいところだ。


 もう少年って歳じゃないでしょ。少年ってせいぜい18歳くらいまでじゃない?
 と、ついに言われてしまった。
 谷川俊太郎さんが「少年Aの散歩」を書いたとき(というか『メランコリーの川下り』が出版されたとき)は、56~57歳だったはずだよ。
 まあ、作品のタイトルとか、サイト名に「少年」と関するくらいなら罪はないけど、日常的に、自分のことを「少年」と形容して許されるには、どういう条件があるんだろう。

 明らかにまだ少年少女であるような子たちってのは、「少年」というものを「自分たちと同じくらいの年代」だと思ってるから、「せいぜい18歳」とか思う。いや、普通に考えたらそれで正しいんだけど。僕にそれを言ったのは16歳の子だった。
 僕は、明らかに少年ではないけれども、行くところに行くとまだ「若いねー」になる。先日、久しぶりに久しぶりの集まりに顔を出したらば、「まだそんな歳なんだ! 若いなー」と言われた。確かに、その集まりの中では僕はかなり若いほうだ。その日はもしかして最年少だったかも。人は、自分と比較してしか他人の歳を捉えないのである。
 20代前半だったら余裕で「少年」と呼ばれちゃうようなコミュニティってのはいくらでもあるし、ゴールデン街のとある店では60代でも「若造」扱いされるらしい。ママが90代だから。
 年齢っていうのはわりと相対的に捉えられる。当たり前のことかもしれないけど。15歳で若い若いとちやほやされている男の子だって、小学校に行けばお兄ちゃんなのである。もうホント、当たり前だけどね。

 もちろん、少年というのは感性につけられた名前でもある。この日記の名前は当然そういう意味でつけられている。

「少年」というくくりが、期間が、いまいちわからない。「青年」も「壮年」も「中年」も「老年」も、明確な区切り方などない。そうである限り、少年は少年のまま迷い続けなければならないのだろうか。「自分は青年だ」とか「中年になろう」とか、自覚的に思えれば、そちらのほうに進める。しかし「少年であったことは認めるけれども、その他のくくりには入らない気がする」と思ってしまったら、その少年はいつまでも少年のままでいざるをえない。もちろん、「自分は少年だ」という自覚を一度も持ったことがなければ、「子供と大人」という世界の中で生きていくこともできるし、それすら考えないという道もある。
 自分を「少年」と一度思ってしまうと、そこから抜け出ることは難しい。次のステップに進めない限り、少年と別れることはできない。できるのかもしれないけど、それをしたところで、何にもならない。「自分は何でもない何かだ」という宙ぶらりんなことになる。

 別に、そんなこと意識しないでもなんの問題もないんだが、現在の自分が少年でないとしたらなんなのか、少年だとしたら本当にそれでいいのか、ということを、僕はどうも考えてしまう。「青年」か「壮年」で年齢としては妥当なのだが、あえて「少年」と言い張りたい気もする。
 しかし、「自分の老いと直面する」ということは、必ずいつか、僕はしなくてはならない。絶対にそうだ。自分がもう、決定的に少年でなくなる日が近づいている(実際はもうすでにとっくにそうなんだけど)。その仕方とか、タイミングとか、そういうことを僕はずっと考えている。それがわかるまでのこの散歩なわけですね。中年になるかもしれないし、いきなり老年に飛ぶかもしれないし、あるいは、全然違った別のあり方をし出すかもしれない。わからないけれども、無視するわけにはいかないことだ。

 ところで。女の子のためには「少女」って言葉しかないんですよね。寺山修司が「青女」ってのは言ってたけど。それで「壮女」とか「中女」を飛ばして、ようやく「老女」が出てくる。この空白ってのは、なんなんでしょうか。
 僕が青年、壮年、中年っていうものに距離を置こうとしているのは、このせいなのかもしれない。僕は女の子だから、女の子に置き換えられないものを想像することができないのかもしれない。女の子は、「少女」になって、それからなんでもない時期を過ごして、いつの間にか「老女」になっている。男はそうではない。寺山修司は「青年」に対応した「青女」というものをこの空白の中に見いだしたけれども、僕はたぶん、「この空白に対応した何か」を、男性の時間の中に探そうとしているのだと思う。
「少女と老女の間にある“何か”と対になるもの」が、僕が少年の次に踏み込むべき場所なのかもしれないし、それを見つけ出して思いっきり否定して破壊してやるのが、僕が次にするだろうことなのかもしれない。
 みんなは少女の次に何になるんですか?
 女子が大学四年生になると罹患する、いわゆる「大四病」ってのは、この空白の不安定さから来るのでしょうね。これはわりと、誰でも知っていることなのかもしれないけど。

 やっぱり、「女性」なのかな。
 対になるのは「男性」なのかな。
 もっと単純に、「男」と「女」でいいのかもしれない。
 そうか、結局、そこを無視してしまうから、
 少年少女のあとの時期は、すべてむちゃくちゃになっているのかもしれないぞ。

 渋谷の、ももみづきというお店が復活しているようです。本当に嬉しい。

2011/11/05 誕生日と年賀状と文化祭と思春期(という名文)

 誕生日が年賀状のようになっている。たくさんの人がメールなどをくれて、うれしい。僕の誕生日は覚えやすい(11月1日)ので、みんな、プレゼントとか何もいらないから、事前でも事後でも何でもいいから、ぜひ祝ってくださいませ。
 誕生日にしかほとんどやりとりをしない人もいる。僕は不義理で人の誕生日を覚えたり、思い出してメールを送ったりするのはあまり得意ではないんで、もっぱら自分の誕生日ばかりになってしまってはいるけれど、こういう年賀状のような交遊はいいものです。
 3日に行ってきた以前の職場の文化祭も年賀状のようだった。
 教え子の一人ひとりとじっくり話をすることはもちろんできないが、顔を見たり、挨拶をするだけで充分のような気がする。だってこれは年賀状なのだから。

 到着して、イラスト研究会と写真部と社会科研究会と文芸愛好会を見たら、しばらくすることがなくなった。ちょっとわけもなく気分がふさぎ込んだ。中学のダンス部を見て、踊りについて考えた。
 僕と仲の良い子は、ちゃんと全身で踊っていて素晴らしかった。躍動感、しなやかさなど良い点はいくらでもあるのだが、何よりも「踊っていない身体の部位がない」ことを讃えたい。身体のすべての動きに意図があり、意味がある。そしてそれは一つの流れとして繋がっていて、秩序があり、踊りとして完結している。中二でこれだけ踊れたら充分なんだろうと素人ながら思った。
 要するに、やはりリズムかもしれない。スウィングしてた。音楽に合わせるのではなくて、音楽に溶け込むように、自らの身体がリズムそのものとなるように踊る。たぶんそれが踊りというものの肝なんだろうと、やはり素人ながら勝手に思った。
 身内ゆえのひいき目は多分にある(その子以外はほとんど注目してなかったし)にしても、充分褒めるに値するパフォーマンスでした。
 そのあと本格的に暇になった。
 僕はほんとうにつらいなあとか銀河鉄道の夜のジョバンニみたく思ってぶらぶらしてたら、いろんな子に会って、もりもり元気を取り返してきた。
 何人かで中学のほうへ行ってチュロスとナチョス(いつ聞いてもわけのわからない響きだ)を食べ、輪投げ・バスケ・射的・イントロクイズ・はてなボックスをやった。仲の良い子で、高校二年生にもなって童心そのもののような女の子がいて(褒めてます!)、その子が輪投げなどに興じている姿を見て、僕もストンとそこへ着地した。輪投げとかした。楽しかった。この子たち大好きだ。
 それで音楽会に行った。歌を聴いて、ヴァイオリンを聴いた。仲の良い子の晴れ舞台を見ると嬉しくなる。ヴァイオリンは流石としか言いようがない。それこそ、完結してた。こればっかりは素人だからわからんのだけれども、少なくともすべての音がどこかに着地しようと意志を持って響いていたように思う。
 それで走って中学演劇部。今回も素晴らしかった。何よりも一年生ふたりの演技のうまさが半端ではない。とりわけ、かたっぽの子は声の演技だけでいえばすでにほぼ完璧、高校演劇でもここまで上手い人はそれほど多くはないぞ、という域に達していた。間の取り方とかも含めて、台詞の読み方に非の打ち所がない。あとは総合力がそれに追いつけば。もうひとりの子は総合的に全部うまい。場数を踏んで思い切りがつけば相当よくなるはず。
 そうなるともう祭りも終盤。高校の中を歩き回って挨拶回りをした。
 金のたまごと合流してぼんやり、さらに弟子と合流。大学でアイス食って金のたまごと別れ、弟子とブランコでハム食った。
 涙の理由は一つじゃないのね 人の道は複雑だわ 絡まりやすい心で


 そのあと無銘に行ったわけだけど、酒を飲むと浮かれるなーって思った。
 浮かれすぎには用心しなきゃな。

 それにしても涙の理由はだいたい一つじゃないので
 自分でも「なぜ泣いてるのか?」がわかんなかったりする。
 少なくとも僕はそうだ。
 それでも「なぜ?」を延々考えて、複雑に絡み合った心をひとつひとつほどいていくと、次第にすっきりしてくる。合理的機制(保健で習う、適応機制とか防衛機制に対立する概念)というやつだろう。この作業をさぼって来なかったおかげで、今の自分はあるのだとはっきり思う。幼いころから泣き虫の僕は、泣いてもタダでは起きないとどこかで心に決めたのかも知れない。しかし、常に物事を考え続けるというのはしんどくて、疲れる。それをときには放棄して、その場しのぎの「適応機制」に切り替えたくもなる。たとえば、思い切り何かに甘えたり、溺れたりする。悪いことではないのだが、それは多くの場合人間のいわゆる三大欲求に関係してきて、ツケがたまりすぎると大変なことになる。三大欲求ならまだいいほうだが、それがヘンなふうにねじれて、こじれると、心や身体を表面的に傷つけることによって、心の安定を得ようということにもなりかねない。「どのように自分の心を守るか」というのは、長く強く人生を生きていくためには、最も大切なことの一つかもしれない。僕はわりと早い段階でそれを決めてしまって、今ではそれなりに洗練されてきたらしいが、それでも辛いことには辛い。
 けど、思春期の頃なんて、今の何倍にも辛かったよ。洗練されていなかったから。たくさん人に迷惑を、負担をかけ、ときに傷つけたはずだ。今だって似たようなもんだが、程度がまるっきり違うだろう。
「思春期なんだから、辛いのは当たり前だよ。そのうち楽になるから、今は耐えなさい、がんばれ」なんてことがよく言われるけど、これはなんだか順序が違う。
 楽になるための手段が洗練されていないから、辛さが長く、重くなる。その未熟な時期を、人は思春期と呼んでいるのだ。
 だから、若者が辛さから脱出するために必要なのは、洗練だ。辛くない生き方をするために、あらゆる方法を試すことだ。試行錯誤をすること。ああでもない、こうでもないと思い悩むこと。ここまで来ると月並みになってくるが、忘れてはいけないことは、「思春期だから辛い」のではなくて、「辛いことを辛いまま受け入れなければならないくらい未熟であることを、思春期と呼ぶ」のである。黙っていればいつか思春期が過ぎてくれるというのではない。いや、過ぎてはくれるのだが、その過ぎ方に問題が生じてくる。思春期をテキトーに過ごしてしまうと、「辛さから脱出するための手段」が洗練されなくて、酒や煙草、麻薬、精神科、リストカット、淫蕩、ギャンブル、などなど、お手軽で心身に悪い方法でしか心の安定を得られなくなってしまう。
 思春期に手を抜いたツケは、大人になって回ってくるのだ。

 それにしても、涙の理由は一つじゃない。
 あの子がどうして泣いていたのかすべては僕にはわからない。
 決してその涙に対して手を抜かないように祈るのみだ。

「報われることもある 優しさを手抜きしなけりゃ……」
 一つひとつを丁寧に。ゆっくりと。
 実際それしか名案はない。

2011/11/04 混沌とは

 実話ドキュメント12月号の「しんでれらが~る横山美雪の乾かない話」というコラム(?)が凄すぎる。
 AV女優による文章が、たった1ページ載っているだけなんだけど、あまりにも無秩序で、まるで前衛文学のようだ。
 初めて読んだから、連載なのかどうかも、連載だとしたら他の回がどんな感じなのかもわからないが、今月のはとにかく素晴らしい。これが混沌なのかもしれないし、混沌と呼ぶのは違う気もして、だからこそ混沌の名にふさわしいような気もする。
 秩序がないから、そこに書かれている言葉の意味はちっとも伝わってこないんだけれども、しかし彼女の中にある「何か」がちゃんと伝わってきている気がする。
 これは狙ってできることではない。わざとだったら天才だと思う。
 作為的に無秩序を狙ったものではなく、自然に、結果として、秩序が失われてしまった。しかし、秩序以外の何物も、失われてはいない。反対にこの文章は、「何か」を獲得してしまった。
 混沌とか、無限大とか、奇跡とかは、例えばこういうところに宿るのである。

2011/11/03 やはり本は読まざるをえない

 なんかこー
 言いたいことがたくさんある。
 一度に来たから
 どれから言っていいんだかわからない。

 もう何度目だ、麒麟さんのことを人に話した。
 そしたらちょうど久々に麒麟さんが詩然としたものを書いていた。
 いつも思うけど今日特に思ったのは
 このリズムは心地よいなということ。
 リズムというのは音数ということだけではなくて
 意味も、字面も、その繋がり方も
 すべて含めた総合的なリズムなんだけど
 んで考えてみれば僕らは始めからその「リズム」によって
 繋がったというか、仲良くなったようなものだった
 リズムから始まっている。
 考えてみればあまり似ていない僕らも
 同じリズムを使いこなせていた、いる、からこそ
 このようでいられるのであろう。
 それだけだとも言える。
 それでいて本質的なことをいくらか共有できるというのは
 ここで言うリズムというものがどうやら本質的なのだろう。



 無性に、こう、嫌な気持ちになることがある。
 基本的に、人は、浮かれてる人を見るとイライラすると思う。
 でも浮かれてる人を見て幸せな気分になれる人もいるんだろうな
 それは心が広いのか
 あるいはその人も浮かれているのか。

 僕は、ねつ造や誇張をした根拠をもとに浮かれているような人を見ると
 たぶん少し嫌な気持ちになる。
 根拠の存在を盲信して浮かれている人も同様だ。
「あなたが浮かれている、その根拠が僕には理解できません」
 というとき、僕はおそらく嫌な気分になる。
 きっと僕だって浮かれたいからだ。
 浮かれたいけど、ちゃんと根拠がないと浮かれられないと自分で思っているからだ。
 だけど実際は、僕だって根拠をねつ造したり誇張したり
 盲信したりして浮かれているのかもしれない。
 そうか、だから僕は、そういう人を見ると嫌な気分になるのか。

 浮かれているとき、人は根拠のことなんて考えない。
 恐ろしいことに僕だってそうだろう。
 浮かれていると、人はろくにものを考えることができない。
 だから僕には浮かれているときの自分のことがわからない。
 せいぜい、嫌な浮かれかたはしないようにしたいと願う。
 浮かれているときは、無意識に、いつの間にか浮かれているので
 防ぐことは難しいんだけど
 できればあんまり浮かれないで生きたい。
 しかし浮かれているときはとても楽だ。
 眠っているようなものだ。
 寝言やいびきを、覚えていられないのと同じで
 浮かれているときのことは意識から消える。
「あのとき、自分は浮かれていたな」と思えるようなことは
 浮かれ度としては軽いものかもしれない。
 わかんねー。

 まあ、そういう理屈じみたことはどうでもいいとして。
 浮かれてる人を見ると、なんか嫌な気分になる。
 あー、違った。
 浮かれている人と、接すると、だ。
 浮かれている人を遠くから見ているぶんには、まあ、別に。
 しかし浮かれている人と接するのは苦しい。
 浮かれている人は僕のことなんか考えてくれていないからだ。
 なるほど、わかった。

 となると、実は浮かれている人と接するのは難しい。
 まともに人と接するとき、人は浮かれていない。
 人が浮かれると、まともに人と接することができなくなるからだ。
 まともに人と接することができなくなるほど浮かれるようなのは、
 けっこうわかりやすく不快だが、あんまりそういうことは起こらない。
 起こりやすいのは、メールとか、インターネットだね。
 そっかー、僕が他人の文章とか読んでイライラすんのって、たいていはこれなんだ。
「あー、浮かれてるなー。さみしいなー」
 って思ってるんだー。
 ってところで自分のことを思うと、
 僕も浮かれたメールを送ったり
 浮かれた日記を書いたりしている気がする。
 できるだけ抑えようとはしているけど、「まいっか」で書いちゃったり
 ひょっとしたら無意識のうちに浮かれちゃってることもあるかもしれない。

 なるほど! Twitterは浮かれやすいんだ。
 浮かれたまんまの言葉が垂れ流されがちだから、僕はTwitterが嫌いなんだな!
 浮かれるってことは冷静じゃないってことで
 冷静じゃないってことは間違えやすいんだ。
 間違えるよりは、間違えないほうが基本的にはいい。
 ゆえ、僕は浮かれていることをよしと思わないんだ。
 Twitterってねえ、浮かれやすいメディアだねえ。
 他人の書き込みが、浮かれていると不愉快なのかもしれない。
 僕も気をつけようかな。
 そろそろ。

 浮かれるってことは、他人をないがしろにしてしまいがちなのかもしれない。
 浮かれないにこしたことはない。
 しかしひょっとしたら浮かれたほうがいいときだってあるのかもしれない。
 わからんから、せめて意識しよう。



 混沌と何かを作るのは簡単だ。雑にやればいい。
 しかし混沌とした何かを作るのは難しい。

 雑に作ったものは、混沌でもなんでもない。
 秩序のかけらが乱雑に詰まっているだけのことだ。
 本当の意味で混沌としたものを作るには、相当緻密な計算が要る。
 それができているのか? 本当に。
 混沌を、カオスを標榜するのなら
 雑にやってはいけないんじゃないか? と、直観的に思う。
 どうしたら混沌になるのだろうか?
 と、秩序だった計算をしなければ
 混沌は生み出せない。奇跡に頼るのなら別だが。
 だから芸術は難しいんだろう。なめんなよ!

「芸術について僕が思うのは、それはスーパーマーケットで買い物をするようにアレとコレを買ったからカゴの中はこうなるというものではなくて、アレもコレも買ったけど結局は向こうから走ってきた無限大がフュッと忍びこんで決定的な魔法をかけて住みついてしまったどうしましょう、というようなものではないかということだ。」

 この名文を今、かみしめたい。
 無限大が住み着くかどうか、っていうのは、神頼みでも運任せでもなく
「アレもコレも買った」っていうところ次第なんだよ。

「自分はちゃんとやっている」って、思うのは簡単。言うのも簡単。
 しかし、そこに本当に混沌はあるのか?
 あるいは、芸術はあるのだろうか。

「これで、混沌できるかなー」
 って、実験するような気持ちなら、わかる。
 結局、世の中にある「混沌」を標榜したものって、そういう気楽な実験である場合が多いんだよね。
「ま、これで混沌になるんだったら、儲けもんだよな」っていうふうに。
「とりあえずやってみるかー」って。
 そして本気で混沌を考えている人は、真面目に考えれば考えるほど、きちがい扱いされる。何も考えていない人よりも、ずっとまともなはずなんだけど。

 手法が混沌であっても、それだけで混沌が作れるとは限らない。
 秩序のかけらが乱雑に詰め込まれただけのものになるかもしれない。
 それでも奇跡を信じて、とりあえずゴミを乱雑に詰めてみる。
 とりあえず「アート」と言われるのを待つ。

 できあがったものは、別に混沌でもなんでもなくても
 いいよ、それでも素敵なものなら。
 混沌にこだわる必要はないよね。
 だから、視野は大きく持とう。

 混沌というのは比喩というか一例で、いろんなことがこの理屈だと思う。

 ちなみにまあ、奇跡ってのは、起こせる人は起こせるからね。
 自信があるなら実験もいい。
 実際僕の書いたもので、作品と呼べるものがあるのだとしたら、
 ぜんぶ神頼みで書いてるもんね。
 自分の中に神がいるってことを信じて。
 神はちゃんと育ってるんだと信じて。
 奇跡は待つものではなくて、呼び寄せるもんだ
 そのために「本は読まざるを得ない」のだ。

2011/11/02 あなたにとって本とは?

「あなたにとって本とは?」という質問について考えてみた。
 友達がデザインした『文学少女』という本で、モデルの女の子たち数十人がみなこの質問に答えているのだが、その答えがいろいろで面白かった。
「現実逃避」と答えた人がふたり。
「成長」とか「磨く」とか「拡がる」とか、上昇志向的な言葉を使っている人がたくさん。
 要するに、陳腐な答えが9割近くを占めていた。
 その中で面白いなと思ったのは、「一緒に歳をとるもの」という答え。
 一瞬、よくわからないけど、考えてみると、幾つか解釈が浮かぶ。
 歳を取ってから読み返すと、同じ本なのに全然違った読み方ができることがある。そのことを言っているのかもしれないし、もっと物質的に、好きな本を何度も読み返していると、自分の成長に合わせて本もぼろぼろになっていく。そういうことなのかもしれない。
 シンプルで、重層的で、奇をてらってもいなければ、陳腐でもない。
 これ以上の答えはちょっと思い浮かばない。
 さて、あなただったらどう答えますか。
「あなたにとって本とは?」

 僕はこういう質問をされると本当に困ってしまう。
 五分くらい考えて、ようやくひねり出したのは
「読まざるをえないもの」
 口に出してみて、これしかないなと思った。
 読まなきゃいけないものではない。
 読まないではいられないものでもない。
 読みたいものでもない。
 読みたくないものでもない。
 ただ、読まざるをえないもの。

 人それぞれに生き方や理想はあって
 それに則ると、僕の場合は、本というものを読まざるをえない。
 本というのはもちろん、小説に限ったものではないし、活字の本にも限らないし、そこにマンガや絵本や、雑誌や写真集を含んだって足りない。
 本とはもっと抽象的なものだ。
 そこを取り違えると、妙な答えになってしまう。
 本を「自分を成長させてくれるもの」と捉えると、
 本というものがわからなくなる。
 本ってなんだっけ?

 わざわざ「本」ということばの範囲を狭めるようなこと
 言わなくてもいいのにな。
 本を読んだら頭がよくなったり、内面が豊かになったり
 しているような気になってる
 そういう思いこみなんだと思うんだよね。
 成長が云々とか言う人は。
 あと成長とか軽々しく言えちゃう人は、あんまり成長について考えたことがないよね、たぶん。「これが成長だ」って一度思ったら、そのまま疑わないですよね。きっとね。

 本って、なんだっけ?
 わからないけど、おおむねは綴じられた紙の束だ。
 それは読まれるためのものである。
 読まれるために生まれ、存在している。
 そして「僕にとって」本とは何かを考えるなら
 それは「読まざるをえないもの」、でしかないなあ。
 別に読まなくってもいいんだけど。

「読まなくてもいい」と「読まなきゃいけない」は両立しないけど
「読まなくてもいい」と「読まざるをえない」は両立するような気がするんだよね。
「読みたくない」と「読みたい」は両立しない。
「読みたくない」と「読まざるをえない」は両立する。

 僕はそういう生き方をしているのだということです。

2011/11/01 くわえ煙草の

 17歳の地図。
 2001年の11月3日、夢の中でカラオケに行ったのをよく覚えている。
 大曽根のキャロットだったかな。
 やたらたくさん人がいた。
 謹慎が解かれたのが11月2日(4日から登校)だったので、3日は「謹慎中なような、そうでもないような」状態だった。もちろん、大人しくしておくのにこしたことはないのだが、どういう流れだったか、「誕生日と謹慎解除を祝してカラオケにでも行こう」ということになったのだ。
 その時に歌った『17歳の地図』は忘れられない。

 そういうわけで10年経とうとする今日、本当に久しぶりに17歳の地図を歌った。
 27のしゃがれたブルースを。
『天気読み』も歌った。
 いろいろなことがここから始まっているような気がする。

 星座から遠く離れて行って景色が変わらなくなるなら
 ねえ本当はなんか本当があるはず

 宇宙ってのはいちばん巨大で
 遠くから届く宇宙の光というスケールの大きさは壮大で、爽快。
 青い空が輝く太陽の海のあいだ、ってのは
 立体的な話なんだよね。

 太陽というのはひとつのテーマで
 永遠で
 生命の源のようなもので
 それは遠く宇宙から射してくる光。
 あまりにも基本的で、根源的なもの。

 それはどうしても「心の中にある光」に繋がる。
 光はすべての色を含んで未分化。
 そういったものが宇宙から届く。

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┗┻┛    ~バースデーカード&プレゼントをお送りします~
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ジャッキー 様

いつも@niftyをご利用いただきありがとうございます。
今日は ジャッキー 様 のお誕生日ですね! おめでとうございます。



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日ごろの感謝をこめて、スタッフ一同より ジャッキー 様 への
バースデーカード&今年のプレゼントをご用意しました。

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 毎年本当にありがとう。

2011/10/31 本当に感動するわ!

 いやー! バースデーハロウィンは大盛況でしたよ! 持ちきれないほどの! お菓子! 声援! 食べきれないほどの! さつまいも!
 みなさん本当にありがとうございます!
 本当に感動するわ!
 来年もやれたらいいな!
 今年は! 四件しか申し込みがなく!
 うち一件は「ゴメンねジャッキーさん急に仕事が入ったの」!
 うち一件は未成年・実家のため遠慮!
 うち一件は「明日早番だから早めに来られるなら来てください」と言われたけど、僕の仕事がなかなか終わらなくて行けなかった!
 結局真夜中に一件だけ寄って帰りました。
 いい企画だと思ったのだけれども、さすがに↓これで引っかかってくれる人はおらんわな。来年やるとしたらもうちょっと考えようかな。
 
 祝ってもらった後、人生相談のようなことに。
 僕もそんなに上手なほうじゃないんだけどね、人に何か言うの。
 まー結局は「一つ一つを丁寧に」としか言いようがない。
 あとは「かもしれない運転」。困ったらこれでなんとかなる。
 常に「かもしれない」を心がけよう。
「かもしれない」は魔法の言葉で、「○○かもしれない」と口に出した瞬間に、「○○」以外のすべての可能性が目の前に広がる。それらを一つ一つ、丁寧に吟味していくのが、丁寧に生きるということだと思う。

●「ジャッキーさんのバースデーハロウィン」のお知らせ
 ジャッキーさんは万聖節(11月1日)にお生まれになりました。2011年11月1日には1がたくさん並びますので、何か特別なことをしたいと思って「バースデーハロウィン」を企画いたしました。万聖節の前日は皆さんご存じのハロウィンです。ハロウィンとはHallowseve(万聖節の前夜)がなまったものらしいです。ハロウィンの日には子供たちが仮装して家々の玄関を訪問し、「お菓子をくれないと、イタズラするぞ!」などと脅すのが習わしです。これやります。僕も家々を渡り歩いてお菓子をもらいたいのです。お願いしますご協力ください。というわけでご協力いただける方は、メールなどで住所とご希望の時間帯をお知らせください。いきなりピンポン押されると怖いという方はメールなどで事前に訪問をお知らせするサービスもございます。ご家族と同居されている方はちゃんと話をつけておいてください。31日の日没後(18時以降)から始めます。夜が明けるまではやりますよ! 自転車で回る予定ですので、遠方の方はご相談ください。
 質問とか受け付けてます。時間帯とかまだわかんないけどとりあえず参加希望! って人も名乗り出てね! 知らない人大歓迎!
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