少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2011/12/31 土 庚申 庚申を守る

 大学の「中国文学演習」という必修の授業で、、今から1000年ほど前に成立した大江匡衡の『江吏部集』という漢詩集について研究した。その時に「守庚申」という言葉が出てきたのをよく覚えている。庚申の日に眠ると、体内から「三尸の虫」が出てきて、天上へその人の「悪さ」を報告に行くのだと、当時は信仰されていたらしい。それゆえ庚申の日は眠らず、物語や和歌などをして夜明けまで時間を潰すのが習わしであったという。
 今日は、大晦日であって、庚申である。ちょうどいい。眠らなければいい。
 庚申を守り、そのまま新年を迎えよう。
 新しい一年が「告げ口」から始まるというのは、流石に縁起が悪すぎる。

 色々あった2011年が終わります。
 明日から名古屋へ帰って、戻るのは5日くらいです。

2011/12/30 金 己未 BNK

 29日は無銘喫茶忘年会でした。たくさんの方々にお集まりいただき、誠にありがとうございました。「チャンピオンでユニコーンの雪が降る町を歌うイベント」も例年通り無事にこなすことができました。これで今年もつつがなく年を越せます。
 ちなみに本忘年会にて殺す会の方と会ってお話しした結果、二人でべつの男(秘密結社笑い飯前幹事長)を殺す会を結成することで合意に達し、ことはすべて円く収まりました。

2011/12/29 木 戊午 片想い

 引き続き殺す会の話。当事者から話を聞いて、ちょっと事実誤認があったようなので一箇所だけ25日の文章を修正した。
 やはり軽はずみに書くものではないですね。少し反省。
 ところで僕は「殺す会」なるものが結成されたことを名誉と思うし、面白いとも思う。むかしファンサイトを作ってくれた人がいて、そこには個人情報が思いっきり書き込まれていたりするんだけど、嬉しいし面白かったのでそのまんまでもいいかなと思っている。それと同じ感じ。殺す会に対抗して僕は「芝浦慶一を殺す会に殺される会」を結成し、自ら会長に就任したいと思います。一緒に殺されてくれる人を広く募集します。

 それにしても思うのは「大人になれよ…三井…!!」ってことと、「片想いが恋愛ではないことに早く気づけ」ってこと。あるいは、「片想いが恋愛だとしたら、恋愛というのはくだらないっていうことに」。
「みんなで楽しくやりたい」って思ってる人がいて、その人の周りに自主的に集まる人たちがいるのなら、「楽しくやりたい」はその人たちの総意になるべきだと思うんだよね。それが大人になるってことだと思うんだけどさ。
 そして、片想いが自己愛でしかなくて、それは「出発点」とか「きっかけ」のようなものにしかすぎないということをわきまえないと、恋愛という「関係」は築けません。
 関係を作ることを放棄したまま、「好き」だけで突っ走って、うまくいくわけがないんだから。どうして自分が捨てられたのかもっとよーく考えましょう。結局、考えるのが面倒くさいっていうだけなんでしょう。つまり「それほど好きではない」っていうことにもなると思う。少なくとも伝わらない。

2011/12/28 水 丁巳 真心求める自己愛者

 件の、僕を殺す会の男性は、「こんな僕にも彼女は優しくしてくれた」という意味のことを言った。「この子のどこが好きなの?」という質問への回答だった。
 恋は盲目と言うが、自己愛も盲目なものだな。

【25日】
 ある女の子をめぐって僕を殺す会が結成されたということを人づてに聞いていた。そのうちの一人は「彼と話すことは特にない」的なことを言っているらしかったが、別の一人は鉄砲玉のようになって僕へと向かってきた。
 そのやり方はあまりに稚拙で、彼の目的を達するための手段としては明らかに無意味、もしくは逆効果だった。彼の行動は僕の気分を悪くするだけだったから、僕は彼に対して、彼の望むようなことを何もしてあげなかった。もう少し違う態度だったら、もう少し違ったのだが。
 彼は彼女のことを本当に好きだと言う。ストーカーのようになっているらしい。しかし、彼の行為は明らかに、僕の気分を悪くさせるということも含めて、彼女にとって迷惑そのものであったはずだ。そのことによって彼女の気持ちが彼に向くことはないだろう。
 そんな単純な上にも単純なことを無視して、自分のしたいことをしたいようにする、つまり鉄砲玉のように僕に向かってくるというのは、いかに多少の酒が入っていたといえ愚かである。
 彼は彼女のことを本当はちっとも好きではないということを僕は確信している。好きという気持ちは一人で作るものではないということを知っているからだ。
 独りよがりの「好き」は自己愛でしかない。自分勝手な男だってことだ。
 そりゃモテねーよって思うんだが、優しい彼女はかつてその男と付き合っていたような時期があるようだ。女のほうも見る目がなかったのか、趣味が悪いのか、あるいは優しすぎたのか。
 それにしても僕は彼らに対して何もしていないのに、なぜ彼女の気持ちが僕に向いているというだけで殺害されねばならんのか。ネタならもう少し面白くやってほしい。
 そしてそういうことが予想される場になぜ彼女は僕を呼ぶのか。それはまあ、面白かったからいいし、そういうのをあえて気にしない態度はむしろ評価したい。

 さて24日から長野県飯山市に来ています。吹雪です。勉強しかしてません。

【26日】
 すっかり早起き。
 合宿では毎日三度、豪華という言葉以外では表せないほど豪華な食事をいただき、夜は温泉に入り、それ以外の時間は基本的に勉強している。酒も飲まずに。幸福である。

【27日】
 合宿の成果
・中学数学を『中学数学事典』で復習
・対話篇『センター試験のツボ数学IA』を復習
・対話篇『センター試験のツボ数学IIB』を読んだ
・『数学受験 ダメかなと思ったら読む本』を読んでいる
・その他、出口のセンター現代文実況中継、社会人向けの微積分の本、ブルーバックスの『計算力を強くする』マンガ版、「倫理、政治・経済」の参考書などをぱらぱらと読んだ
・高校で使ってた古文の文法書があまりにも名著だと改めて気づいた。よく見たら三島由紀夫の師である清水文雄先生、や大辞林の松村明先生など偉大な方々の著(監修)だった。

・豪華なごはんと温泉とふかふかベッドと外部被爆からの解放などにより体調がよい

・高一のおしゃべりクソボーイの国語(現古漢)偏差値()を10~20くらいは上げた。もともとは賢いやつなのでめきめき育ち、数日前と比べたらまるで赤ん坊と兵隊だ。ちなみに教材は『論理力短期集中講座』『現代文読解ドリル』『望月光の超基礎がため古文教室』『古文冒頭文20(日栄社)』『漢文早覚え速答法』。品詞とか自立語・付属語のわからない状態から、本当にかなり伸びた。もともと知的好奇心が強く、勉強を楽しめる性格なのだろう。もっと真面目だったら古典文法全部終わってたのにな~
・上記のことを通じて、基礎から国語を教える方法論が固まりつつある。よいサンプルだった

・ニートさんかわいいよニートさん

2011/12/24-28  飯山合宿

 長野県に行ってきます。合宿です。友達と勉強してきます。
 女の子は一人もいません。
 詩のところか掲示板には何か書くかもしれません。

2011/12/23 金 壬子 天皇誕生日

 バーのライブの空気に、詩でしか言い表せないような気持ちになって、書いた。

2011/12/22 木 辛亥 こども忘年会

 夕方から無銘喫茶を開けて、子供たちを集めて忘年会を催した。
 たぶん高一が二名と高二が七名で、計九名。夜中に一人来たから一応十名か。十何人かに声をかけて、十人集まったのだからかなりの出席率だ。
 普段からよく仲良くしている子もいれば、離職後ほとんど会っていない子もいた。ちなみに男子のほうが多かった(意外とそうなのだ)。

 ものごとにはタイミングというものがあるから、僕は「こいつは見所があるな」とか「こいつとは仲良くできそうだ」と思っても、すぐには声をかけなかったりする。とりあえず連絡先は確保するという感じで。なんでかって勝手な話、まだ機が熟してないって思うから。
 今日の場では、僕はみんなのことを知っているけど、みんなはお互いのことを知らなかったり、知っていてもそれほど仲良くはなかったりした。そういう状況に放り込まれても平気であって、しかもそれなりに上手に振る舞うことができるためには、精神的にけっこうな成熟度が必要なのだ。
 だからある程度成熟するまではわりと放っておいたりする。「一年生は危ないから入れてやんない」っていうような感じ。
 今回みんなと会ってみて、実感した。みんな成長しているな。
 これならいけるかなと思って僕は「場」について話をした。ちょっとたどたどしくなったところもあったけど、みんなからも話を聞きながら、なかなか楽しくできた。

 僕の長く抱えているテーマの一つに場っていうのがあって、それは生きていく上で何よりも大切なことだと思っている。それで無銘喫茶みたいな、ある種理想的な「場」に集めて、場というものについて話してみたかったのだ。

「場を共有する」というのは個人と個人との関係ということとは少し違う。チャットルームと、ID(アカウント)の存在するサービスとの違いみたいなもんだ。チャットでは、その場にいない人の存在はまったく消えてしまうけれども、IDがあるサービスでは「その場にいない人もそこに存在する」というヘンテコな状態になる。それは現実ではまずありえない。だからTwitterやmixiや、はてなやアメブロは「場」にはならない。と僕は思う。
 詳しく言ってると果てしなく長くなる。ともあれ彼らには場という考え方が存在するということを早いうちに知ってほしかったのだ。
 そういう話をしたからか、べつにそうでもないのか、後半のほうはけっこううまく場が回っていたと思う。十人近くいるとやっぱり難しいけど。
 こういう集まりは定期的にやっていきたい。

 IDがないからこそ、「私は○○さんの一部」っていう言い方も成り立つんだよな、とかも、思った。

2011/12/21 水 庚戌 美人は性格がぶす

 Flash職人いればいいな

2011/12/20 火 己酉 ベテルギウスについて

 腑に落ちないことがありましてね。
「2012年にもベテルギウスが爆発する!!」って、けっこういろんなところで言われてて、僕は最初に聞いたとき、「それがどうした?」と思ったんですよ。そんな大騒ぎすることないじゃんって。なんでかっていうと、ベテルギウスは地球から640光年ほど離れているらしいのですね。そしたら、地球に爆発の光が届くのは640年後とかなわけだから、2652年前後までは観測できないじゃないかと思ったわけですよ。それで「遠くの星が爆発するってのはロマンチックな話だけど、観測できないんじゃねえ」とあまり興味を持てなかったのです。でも、ある日書店でベテルギウスの爆発に関する本を読んだらば、「ベテルギウスが爆発すると、数ヶ月のあいだ空に満月よりも明るく輝き続ける」とか書いてあるのですよ。「いや、640年後のことを言われましても……」って思ったんだけど、「来年それが見られるかもしれません」みたいな温度なのです。それで僕は「もしかして、640光年先の様子をリアルタイムで観測できる特殊な望遠鏡でもできたのかな」とか思ったのですけれども、そんなわけはない。その本のどこを読んでも640年の時間差のことは書いてなかったし、ネットで調べても判然としなくて、「夜空の星の光は××年前の光なんだよ」的な知識が、そもそももしかしたら間違っているのかも知れないとも疑ったんだけど、これって知識っていうよりも理屈だもんだから、それも考えにくい話でして。
 それでやっぱり、「爆発の光が届くことを、爆発するとみんな言っているのだろうな」という仮の結論を導いたのです。今の僕の科学的知見ではここが限界です。
 もしそうだとすると、なんでそんなことをするんでしょうかね? だってウソじゃん。手抜きじゃん。ベテルギウスはもうほぼ確実に、爆発してるじゃん。639年くらい前に。「来年ベテルギウスが爆発する」はありえないじゃん。いったいどうなってんの? 詳しい人教えて。
「天文の世界ではそういう表現をすることになっているのだ」みたいなのは、知らないよ。だったらそのことをこそ、説明してくれないと。

2011/12/19 月 戊申 本音と建前

「そう思っている」からと言って、「それを言っていい」わけではない。
 その言葉が本心であるか、という自分本位の考えの前に、「この言葉を口に出すことは、どのような意味を持つだろうか」という客観的な判断を挟んでみたほうがいい。

「疲れた」でも「おなかすいた」でもいい。それを口に出した人にとって、その言葉は真実だろう。つい口を突いて出てしまったのかもしれない。しかし、それらの言葉は「批難」にもなりうる。たとえば僕が長々と何かについて語っていたとする。その時に同席した誰かが「疲れた」とか「おなかすいた」とか言ったとすれば、「いつまで話しているんだよ、はやく黙れ」という意味にもなる。少なくとも語っている側としては、「ああ、ごめんなさい」とか、「あなたのために話しているのに」とかいう気持ちに、どうしてもなってしまう。

 以上は最も単純な例だが、これはもちろんもっと複雑になる。
 恋人同士の帰り道。男は「家まで送っていくよ」と言う。女は「ここまででいい」と言う。「そっか」と男はつぶやく。その後で女が「まだ6時なのに空が暗いね」と言う。
「まだ6時なのに空が暗い」は事実なんだけど、意味としてはこれは「家まで送って行ってよ」になる。「もう暗くなってるのに、女の子を一人で帰すつもりなの?」という一種の批難である。女は「危ないから、やっぱり送っていく」という一言を待っているのかもしれない。
 それだけの話ならば、べつに問題はない。男がそのことを読み取って、女の待っている言葉を言えば、それでおしまいのことである。
 しかし問題なのは、「まだ6時なのに空が暗いね」には、べつに他意なんかなかった、という可能性だってあることだ。女は何も意識せずに、ただ思ったことをありのままに言った。目についた事実を口に出しただけだとする。男は勝手に「やっぱり送ってほしいんだな」と判断して、そのことを申し出る。すると女は「ここでいいって言ってるじゃん」と返す。
 けんかやすれ違いはこういうことから起こる、ことが多い。
 二人がつき合っていないならば、女は「この人、あたしに気があるのかな」と思うだろう。男はただ、女の言葉の意味を解釈しただけであって、「異性として好き」かどうかは別問題だ。なのに、今度は女が、男の「やっぱり送っていくよ」を「特別な好意を表明した言葉」だと勘違いするのだ。「やっぱり送っていくよ」は、意味としては「好きだからもっと一緒にいたい」になりうるから。

 言葉には意味があって、状況に応じて意味以上の意味を持つ。
 そのあたりの無自覚が、トラブルを招く。
 言葉には気をつけたいものだ。
 当たり前のことを言っていますが、意外と気がつかないものなんだよね。

2011/12/18 日 丁未 名前のない週末

 土曜の夜はロフトプラスワンに行ってPANDA1/2のイベント「PAKU PAKU 100回放送記念 大感謝祭『PAKUっていいかな!?』」を見てきた。
 PANDA1/2というバンドのメンバーでありプロデューサーであるジェームズ・パンダJr.とゆかりがあって、追いかけているのです。
 ジェームズは凄いなあと思った。素直に尊敬する。PANDAを始めてからの彼は、それまでに比べたらまるで赤ん坊と兵隊だ。りっぱ。

 日曜は午後から、東放学園専修高等学校で、五色ロケットえんぴつという高校2年生5人組ユニットのお芝居を観てきた。こないだ「二日で本番!」というワークショップでお世話になった園田英樹さんが、演出と脚本を担当。ポケモン映画台本の直後に書いたらしい。物語の展開自体はたぶん、高校生たちが即興で作ったものだと思うんだけど、伏線がちゃんと生きていて、まとまっていた。まったく王道の展開。でも、それでいいんだよね。別に奇をてらう必要はなくて。

 その近くの弥生町というところにある、「猫額洞(びょうがくどう)」という古本屋に寄ってみた。佐藤春夫の古い本を一冊買った。お店のお姉さん(言っとかないと)と少し話した。楽しいものだ。
 図書館と喫茶店で本を読んで、招かれて晩餐会に行った。家族はいいな。
 こないだ兄に会って、新宿のマリアージュ フレールというところで紅茶を飲んだ。

 家に帰って、寝て、起きて、ゴールデン街の先輩のお店で飲んで、働きに。
 劇団ひとりさんはすごい。

2011/12/17 健康の上にあぐらをかいていてはいけない

 若者は健康だからその健康の上にあぐらをかいて、サボる。
 悪くすればそのまま一生サボる。
 それでいつの間にか不健康になって苦しんで死んでいく。
 しかも若いうちは、「別にそれでもいい」とか思っているらしい。
「どうせ30までに死ぬつもりだし」とかいうのと、同じ。

 健康の上にあぐらをかいて不摂生を続けると後にたたる。
 これは間違いがない。
 若ければ若いほどそのことに気づけない。
 いや、気づいたとしても、なんやかや理由を付けて、見ないふりをしたり、正当化したり、根拠もなく「自分だけは大丈夫」と思っていたりする。「そんなこと思ってないよ」と言う人も、危ない。
 若ければ若いほど、言い訳が上手だ。年を取ると言い訳が下手になる。というか、言い訳の余地がだんだん少なくなっていく。それでも言い訳を続けていると、「頑固」とか「偏屈」とか呼ばれるようになるわけだ。

 排気ガス、放射線、紫外線、食事、睡眠、姿勢、煙草、深酒、薬、不規則な生活。
 怠惰、放蕩。
 すべて恐ろしいもので、確実に人間をむしばむもので、誰もがそのことを知っていながら、多くの人が無視しようとしているもの。気にしないようにしているもの。
 藤子・F・不二雄先生の『大予言』という短編を思い出す。
 まったく、『未来ドロボウ』と合わせて、いつでも読むべきだ、みんな。

 美しい心を持って丁寧に生きること。
 からだの手入れをしすぎないこと。
 常に工夫を凝らすこと。
 とかも。

 なんつって僕はすっかり老人のようだ。最近本当に、劇的に老人に近づきつつある。内面的に。
 今読んでいる本が、『漢詩の作り方』と『古文書の面白さ』だ。
 短歌や俳句、それから歴史に対する興味も強まってきている。
 老後、することがなくて創作や学問に打ち込む老人のようだ。
 何よりも、健康について考えるなんて、本当に老人だ。
 若者は、本質的に荒野を目指す若者は「健康」なんてことを考えない。
 彼らは常に、本質的に、健康の上にあぐらをかいているからだ。
 もしくは健康をトランポリンのように、跳ねて飛び上がる。
 だから「不摂生」なんて観念は彼らの中にはない。
 放射能も気にしないし、排気ガスも気にしない。寝ない。寝過ぎる。煙草を吸う。
「若者じゃなくったってそうじゃないか」と思うかもしれないが、彼らは若者の時の感覚のまま、ずるずると年を取ってしまっただけのことだ。もちろん「自分はもう若者ではない」ということを自覚してはいるが、若者の頃に染みついた生き方の癖は、簡単に抜けるものではない。

 そういうことに僕は27にしてようやく気づいたのである。
 気づいたというか、気づいていたし、行動もしていたのだが、「あ、気づいたな」という実感がようやく訪れたというような感じ。
 気づいていて、それに立ち向かうための何かをしていても、「いまいち気づききれていない」ということはとても多い。「私はわかっている」なんてのはほとんどが勘違いである。今回も勘違いなのかも知れない。もっと気づけるのかもしれない。ただ、自分の中で「気づいたと宣言してもよい閾値」みたいなものは越したなと、最近判断した。これも勘違いかも知れないなんて野暮なことは停止。
 同じように、「私はやっている」というのも思い込みというか、「やっていると思うためにやっている」ようなところがあったりする。つまり、心をごまかすためにやっている。その場合、実効性は問題ではないので、どこかいい加減になってしまいがちだ。

 健康の上にあぐらをかいていた、若者の時代はもう終わり、僕は老人になるために準備を始めなければならなくなったわけだ。しかし、老年期が終わるまでにはまだまだ。

2011/12/16 日本語と歌謡曲

 とある人の歌謡曲を聴いて、歌と言葉ってのは分かちがたい、不可分のものだと感じた。つまり「歌い方」と「言葉の意味や詩情」とが一つになっている。ところが「ポップス」や「ロック」と呼ばれるようなものになってくると、「歌」と「言葉」とが分離してくるような気がする。「魅力的な歌い方」っていうのはもちろんあって、「それが歌詞の世界とマッチしている」ということもあるんだけど、しかし、一つ一つの言葉の中身と、一瞬一瞬の声の使い方とを完全にマッチさせようというものではないはずだ。「歌い方は歌い方として魅力的であって、歌詞は歌詞として魅力的であって、その“二つ”がマッチしていれば問題はない」というのが、ポップスやロック等の考え方なのではないかと思った。
 演歌とか、歌謡曲と呼ばれていた頃の日本の歌っていうのはたぶん、相当歌のうまい人に限ってのことなのかもしれないけど、歌と言葉が“一つ”だったのではないかな。歌詞とか曲とかっていうのはそれ自体では意味がなくて、とけあって一つのものとなったとき初めて「歌」として機能しはじめるというか。だから、たとえば中島みゆきの歌詞集が発売されて、それがよく売れるというのは、歌詞が独立しても問題がないからではないかと。中島みゆきの歌い方は、「歌詞の世界とマッチしている」ではあっても、「歌詞と一つになっていて不可分である」ではないのかもしれない。

2011/12/15 仕事あるある

 仕事って、質はある程度認められるんだけど、速さは認められないことも多いですよね。時間をかければかけただけ評価されるというか。10時間かけて100やった人と、1時間で100やって、残り9時間は遊んでる人だったら、前者のほうが評価されるですね。質は同じだったとしても。「残り9時間も仕事して10倍の成果を出せ」みたいな論理で。そういうところが仕事ってありますよね、っていうことを思ったんだけど、これとほとんど同じ内容の文章を前に仕事でリライトしたや。ギャラもらってないけど。言わなきゃもらえないのはわかってるけど面倒くさい。ダメだなー。
 ちなみに僕は、「9時間遊ぶためだったら何時間でもやる」です。
 できるだけ1時間で100やれるように頑張ってるんですけどね。
 それだと仕事してないように見えたりもするのかもしれないって思うと、ほんの少しやるせない気にもなりますが。まあ。

2011/12/14 たとえ裂けた大地に挟まれようと

 俺の力でこじあける!
 昨日手段ってことについてちょっと書いたけど
 突き詰めれば行動のすべてが何か手段になりうる
 もうそれは無理矢理でもいい、こじつけでもなんでも
 やったからには手段にしなくては
 無駄ということになる。
 転んでもただでは起きない精神というかね。
「これは○○の手段になりうる!」っていう
 発想がとても大事で
 それは工夫ということでもある。

2011/12/13 ただ楽しいってだけじゃ死ぬぜ

「好きなもんは好きなんだよ! 意味ばっか求めてんじゃねーよ!」


 意味なんかなくって、「好き」と「やりたい」だけで突っ走るのも悪くはない。とは思うものの……。
 僕は自転車が好きだが、いつでもどこでも、とにかく乗りたくなってしまうほどの「好き」ではない。僕は無意味に自転車に乗ることをしない。「なんとなく自転車に乗りたい気分だから、あてもなく走ってくるか……」というのは人生でも数度しかなく、それもたいてい、飽きてすぐに戻ってきてしまう。それで「あ、僕にはこういうの合わない」とか「そもそも僕は自転車を、そういうふうに好きなわけではない」と思ったりした。
 自転車ってなんのためにあるのかといえば、一に移動、二に輸送。僕が自転車に乗るのはほとんど、「どうしたら安く、また効率的に行きたいところへ行けるか」というためでしかない。
 先日、ようやく二代目のキックボード的なものを買った。初代は高校二年生のとき、青森・北海道旅行のためにヤフオクで買ったバンダイの赤い「KICK HOP」である。その旅行だけで100キロ以上は走ったし、その後たしか三重のほうでもたくさん走った。酷使しすぎてやがて車輪が使い物にならなくなり、「車輪を換える」という甲斐性のなかった僕はそのまま実家に置き去りにしてしまったのである。たぶんもう捨ててしまった。
 それで「JDRAZOR130B」という、2ちゃんねるのキックボード・キックスクータースレで「定番」とされているものを買った。
 キックボードの何が良いかというと、電車に持ち込むのが楽だ、という一点に尽きる。そもそも一代目を買ったのも、折りたたみ自転車を買うお金がなかったからである。キックボードなら当時はブームも終わって、格安でネットに転がっていた。KICK HOPは定価10000円以上するようだが、ほとんど新品のようなものが2000円くらいだったように記憶している。ロードレーサーのようなドロップハンドルと赤い車体が気に入って、即決した。ドロップハンドルゆえ折りたたんだ状態でも嵩張って難儀したが、それ以外は良好だった。
 僕は別に自転車に乗ることにこだわりはない。僕は青春18きっぷという「普通列車乗り放題券」をよく使うのだが、それだと名古屋に帰るのでも7時間かかる。電車で長時間、分解したロードレーサーとともに移動するのはけっこう大変だ。そのせいで乗りかえに間に合わなかったりもするし、混んでいると白い目で見られる。
 何百キロという長距離を走るのでなければ、キックボードで十分なのだ。何しろ100キロは実績があるのだから、10キロくらいなら苦でもない。若干時間はかかるが、組み立てと分解の手間や、故障・盗難のリスクなどを考えれば妥当かもしれない。
 自転車もキックボードも、僕にとっては手段でしかない。だからこそ深く長く愛し続けられるのだと思う。文章を書くことも、本を読むことも、手段であって、書くとか読むとかいうことそのものにあまり興味はない。

 冒頭に、とよ田みのる先生の『FLIP-FLAP』という漫画からの引用を掲げたが、僕は「意味」ばっかりを求めている、さめた人間なのかもしれない。
 が、しかし正直にいえば僕は自転車で知らない土地を走っているとき、とても幸福で気持ちがいい。すばらしい本や漫画に触れたときか、すばらしい性体験をしたときに匹敵する。一に移動、二に輸送、三があるとしたら、ついでに「昂揚感」みたいなものが挙げられる。また、思想的に「自分の力(人力)で移動する」ということを大事に思うから、というのも大きい。
 手段が、思想と一体化して、さらに不思議な昂揚感さえ得られる。そういう複合的なメリットがあって、僕は自転車を愛しているのだろう。ただ自転車に乗っているだけではたぶん昂揚感は得られなくって、僕が射精しそうなほど気持ちよくなってしまうのは、たとえばどこかに向かっている途中の山道を越えている最中だ。車で山のふもとまで行って、頂上まで上がってからまた降りてくる、というようなことでは、たぶん僕はあれほどの気持ちよさを感じない。そういえば僕は「○○一周」とか「××横断」みたいなことをやったことがない。「琵琶湖一周」というのが近畿・東海地方あたりではよくあるが、大きな魅力は感じない。
 目的地がなければ、すなわち自転車が移動の手段でなければ、僕はちっとも楽しくないのである。その途中で、土地の上で、すばらしい空気に出会ったとき、すてきな人たちと出会ったとき、圧倒的な峠を越えているとき、真夜中に満天の星空を見上げながら、白い息を吐きながら孤独を噛みしめて、神経を集中させながら坂道の重いペダルを漕いでいくようなとき。

 何かに夢中になっている人たち、それは人生の手段であるのか? 別に手段であれとは思わないが、それが何かの手段であるかそうでないかということは、一度立ち止まって考えてみてもいいかもしれない。それでたぶん自分の内面が、多少よりクリアに見えてくる。
 ふだん手段ということに飽き飽き辟易しているような人は、むしろ「意味なんか求めてんじゃねーよ!」みたいに、手段とはまったく関係のないような無意味なものを愛するのかもしれない。それはそれですばらしいことだ。
 僕もいつか、ピンボールやフリスビーに意味もなくはまることがあるのかもしれない。それは僕の考え方がわずかにでも変わったときだろう。たぶん、「自分はもう年寄りだ」ということを本当に認められたときだと思う。

2011/12/12 好き嫌い

「好き嫌い」という言葉は面白い。
「好き嫌いはダメよ」という言い方がある。「嫌いなものがあってはダメよ」ではない。「好き嫌いはダメよ」は、「嫌い」ということだけでなく、「好き」ということまでも禁止している。
 屁理屈ではなくて、これは本当にそうなのだ。
「偏食」という言葉がある。「偏って食べる」であって、「特定のものを食べない」ではない。「特定のものばかりを食べる」もある。こういう言い方をすると、非常にわかりやすい。
 少なくとも食べものに関して言えば、「好きだから食べる」「嫌いだから食べない」はNGなのだ。食べるということは、そういうことではない。
 栄養面でもこの考え方は正しいし、日本人が「中庸」を美徳とし、「出されたものは全部食べる」を礼儀とする限り、これが理想である。
 好きだからといって、メロンばかり食べていてはいかんということ。
 別に食べものだけに限った話ではないと思うんだよね。
 食べものに好き嫌いがあれば、生き方にも好き嫌いが出ちゃう。
 偏った人生は生きづらい。

2011/12/11 理性で決める

 冬。手が冷たい、身体が冷える。
 それを是とするか非とするかは、理性の仕事。
 手が冷たいのは不快だと、決めるのは理性。
 手が冷たいのは不便だと、決めるのは理性。
 手が冷たいという状況を避けようとするのは理性。
 手袋をつけるのは理性。

 僕は今日、手が冷たいことを不快ではないと、理性によって判断することに成功した。しかしまだ僕にとって、手が冷たい、すなわち手がかじかむということは、非常に不便なことである。帰宅してしばらく経つが、今なおキーボードが打ちづらい。
 ケータイやキーボードが打ちづらいのと、自転車のブレーキが若干かけづらくなるのが、少々問題だ。しかしそのくらいの不便さを認めるならば、別に手なんかいくら冷たくなったっていい。と理性で思うことはできる。
 実際は、ちょっとこの不便さは度し難い。しかし慣れということもある。しばらくは手を冷たくさせる生活をするのもよいかもしれない。

 なんだってそうである。理性で決める。
 かゆいところを掻くのは、実は理性である。
 理性が「掻くな」と言えば、身体は動かないはずだ。
 そのくらいの理性を獲得したい。
 二日前に「習慣を削り取る」ということを書いたが、これも理性を優先させようという試みの一環だ。
「このかゆみは、掻くことによって解決されるべきかゆみではない」と思えば、掻く理由はなくなる。理性が、「このかゆみは、掻くことによって解決しようとしても良いものだ」と許せば、人は掻く。
 だいたいのことは理性が司っている。
 人は理性をコントロールすることが苦手なので、いつも言い訳をしている。

 嫌いな食べものがある人を僕は信用しないが、あれも理性が弱いのだ。ある食べものを食べるか食べないか、食べてもいいと思えるか思えないかというのは、理性の仕事だ。「食べられないものは仕方ない」というのは、理性の弱い人間の言い訳でしかない。
 たとえば、シイタケの食感や香り、見た目などが苦手という人は多い。だが、理性によって「これはこういう食べものであって、許容すべきだ」と思って食べれば、そのうちに慣れてくるはずなのだ。僕はそう信じている。
「これは食べるべきものである」「食べなければならない」と理性が先導すれば、すべてはあとからついてくる。僕は幼少時、苦手な食べものがとても多かったが、「出されたものはすべて食べるべき」という美徳をどこかで覚えて、嫌でもひたすら食べていたら、いつの間にか食べられないものはなくなっていた。

 習慣というものはしつこい。しかし、惰性で続いている悪習はぶち壊してしまわねばならない。理性によって。
 習慣というものに縛られるのは、「普通」であって、「平凡」というものである。音のない堕落である。

 僕は「普通」というものを先日、「周囲の意見を無批判に受け入れること」だと考えることにした。つまり「何も考えないこと」が「普通」の本質であると。
 習慣というのは、「普通」という状態そのものだ。
 何も考えないで何かをすることが習慣である。
 ジョギングが習慣になっている人は、ジョギングをすることが「普通」である。単純にそういう意味で。
 だから、それがかりに「悪習」だったとしても、なかなか気づけない。それでずるずると、悪いことがずっと続いていく。
 習慣とか普通というのはそういうものだ。
 だから僕はそれを憎もうとしている。


 陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
 陳腐であるということは、退廃しているということです。現代では、既に退廃もそこまで大衆化しました。平凡な顔をした退廃とくっつく必要はないということです。そして、平凡な顔をした退廃ほど、逃げるのに困難を極めるものはありません。何故ならば、平凡こそは人類の行き着く最終の安息の地だからです。そこが退廃しています。そこに居着いたら、もう永遠に逃げ場はありません。だからすぐ逃げなさいと言っている訳です。(橋本治『青空人生相談所』)

2011/12/10 蝕!

 謎めいた表情が期待をペロリと背骨溶かすモーションで僕を刺す。
 皆既月食を見た。
 よく「赤い月」なんて表現がありますけれども、あれはひょっとして、月食がヒントになっている表現なのかもしれないですね。
(ちなみに『大長編ドラえもん のび太と夢幻三剣士』の最初のせりふは、「みろ!! 赤い月がのぼった!!」です。)
 いつもは吉川弘文館の「歴史手帳」を愛用している僕ですが、来年は「天文手帳」というのを使います。先日紀伊国屋で買いました。巻頭に星座早見表がついていて捗ります。使い慣れるまでは難しそうだけど。

 月には不思議な力があるってのは昔から言われているようです。
 特に今夜のような特別な日は。
 多くの人が、ふだんよりもたくさん、月の話題を口に出していたと思います。おそらく、いつもは空なんか見あげない、月なんか見ないよって人でも、今日だけは違ったでしょう。
「I LOVE YOU」を「月がきれいですね」と訳したなんて、あの夏目漱石の有名なエピソードを、みんなが口に出していたかと思われます。
 何年か前までは、「知る人ぞ知るエピソード」だったんだけど、テレビで紹介→ネットで拡散、って流れで有名になったのかな。
 有名になったことで、とても陳腐になったんだけど、陳腐化が行くところまで行きつくと、常識みたいになってくる。「知ってる? 漱石がね……」っていう言い方はもう、意味をなさない。「そんなの誰でも知ってるよ」になってしまうから。ここまでくると小気味いい。
 そうやって、素敵な言い回し、面白いエピソードなどが、どんどん常識のようになってくればいいのになと思います。


 漱石のエピソードがここまで有名になったのは、その言語センスとか洒落っ気とかってのもあるけど、カギはやはり「月」にあるのではないかと思う。二葉亭四迷がロシア語の「I LOVE YOU」だか「YOURS」だかを「死んでも可いわ!」と訳したという話は、それほど伝わっていない。漱石のネームバリューと、「月」っていう単語の力がやはり大きい。みんな漱石と月が好きなのだ。

 月の力と、言葉の力の融合した漱石の「月がきれいですね」は、まるでバレンタインデーのように、愛を伝える口実になる。「知る人ぞ知る」でなくて、ほとんど「常識」のようになってきたからこそ、そういうこともありうる。
 バレンタインデーの存在を多くの人が知らなかったら、「好きです」というつもりで渡したチョコレートが、「なんのつもりなんだ?」と受け取られてしまうようなことも出てくる。「好きです」「ん、ありがとう」という寂しいやり取りにもなりかねない。その場合、渡す側の気持ちはもう、祈りだ。
 漱石のアレに関しては、もちろんまだバレンタインデーほどの知名度はないから、言う側の気持ちは「お願い、届いて!」とか、「もしかして、届いちゃうかな……ドキドキ」とかになる。それもまた、情緒があってよい。

2011/12/09 習慣を削り取る

 習慣っていうものは、しつこい。
 悪い習慣があるとして、一朝一夕でやめられるものじゃない。
 頭の中から、肉体から、追い出すしかない。
「それは普通はしないこと」
「してはいけないこと」
 というふうに思い込むしかない。
 人間が普通、雑草を食べないように
 やめようとする習慣のことも、同じように
「可能ではあるが、しないこと」というふうに捉える。
 メリットやデメリットのことは考えない。
 ひたすら頑固に、それは普通はしないこと、と思う。
 どんなに暑くても人は
 裸で外に出ないように。
 それを感情ではなく、常識として考える。
 そのように追い出していく。

 すいません日記が一部消えてました。戻しました。

2011/12/08 一部

 友達が、「私はジャッキーさんの一部なんだよ~」とかいった、わけのわからないことを先日言っていたのだが、非常に重要なせりふである。
 人間、生きている限り誰かの一部なのである。というか、みんなが全体なのである。
 また別の友達に、ちょっとの間連絡を取っていなかったので、メールをしてみた。今は生存確認といえばもっぱらネットだが、相手がネット上に生きていなかったら(あるいはそのページを知らなかったら)、直接聞いてみるしかない。
 するとその友達から、ぜんぜん表現は違うけれども「ジャッキーは私の一部であることよ~」にわりと近いような返事が返ってきた。
 やっぱりそういうことなので、いま死んだりはできないんだなと、改めて。

 やはり、有機的というか、生態系というか、そういうふうに人間もできているのだ。だから人の間などと言うのだろうし。
 人の間にしか人はいない。どこを探したって、そこ以外にはいない。僕がよく言う「関係」というやつだ。
 関係のことを人間と言うのならば、僕たちはやはり、一部であり、すなわちみんなで全体を為しているようなものである。
 特に友達というものは、関係が強ければ強いほど、より「一部」である度合いも強くなる。
 当たり前なんだけど、自分の一部を大切にするためには、自分を大切にしなければならない。
 自分がなんの一部であり、どんな全体をつくっているのか、ということをときおりは考えないと、何を大事にすべきなのかを見失ってしまう。

2011/12/07 思想をねじ曲げて

 僕はわりと、思想なるものは外見に出ると思っているのです。よって僕自身の外見も、やはり思想なるものを色濃く反映したものだと思っております。
 僕が二十年ほどほとんど変わらず、黒い髪を長く伸ばしたヘアスタイルを主にしておりましたのも、そのような思想の状態にあったからだと言えます。途中何度か丸坊主にしたり、スポーツ刈りにしたり、ばっさり切ることは頻繁にありましたけれども、最終的には伸ばしっぱなしの長髪でした。と言って、肩にかかったりするほど伸ばしたことは一度もなく、鬱陶しくなってきたら切る、という具合です。そのくらいの長さが、僕の思想だったわけです。「ロン毛はやだなあ」です。たとえば。
 そうしていた理由の最大は、「面倒くさいから」だと思います。いったんかなり短くして、伸びてきたらまた切る、というのが楽でした。二十年のうちの十五年以上はそうしてきました。なぜかというに、僕の髪の毛はお父さんがずっと切ってくれていて、大人になってからは自分で切っているので、「すっごく短くする」という技術しか持っていなかったからです。ここ数年のところで、「髪の毛を長めに残して切る」という技を会得したため、最近は「かなり短い」という状態にすることが減っていました。
 で、この度、久々に「かなり短い」状態にしてみました。
 僕はいろいろと今、思想の転換を迫られているような気がするのです。でも、ウジウジしているだけではなかなか何も変わってくれません。思想を変えれば髪型も変わるなら、髪型を変えれば思想も変わるのではないか? というような単純なことを思ったわけです。
 失恋した人が髪の毛を切る理由は、たぶん「今までの自分とサヨナラする」という意味でしょう。すなわち「あの人を好きだった自分」です。「あの人が好き」という思想を、髪型を大きく変えることでねじ曲げ、あるいは消そうとしているのでしょう。

 髪の毛が長い状態が、具体的にどういう思想なのかというと、たとえば「長髪のわずらわしさを厭わない」という思想があります。短くしてみるとわかるのですが、短髪は非常に楽です。生活する上で、悪いことがほとんど見あたりません。洗いやすいし。
 松本人志さんが頭を丸めた際、その理由を「面倒くさい」というような言い方でまとめていたように記憶しています。「コントとかで、髪の毛がヅラからはみ出していたりすると萎える。髪の毛って必要なのか? と思った。要らないと判断したから剃った」そういうような感じだったと思います。長髪にしている人は、短髪に比べて、あまりにも面倒くさい生き方を選択しています。
 爆笑問題の太田光さんが、「自分は長髪しか似合わない、長髪以外ありえないと思い込んでいたが、短髪にしてみたら短髪の自分しか考えられなくなった」というような意味のこと(詳しくは忘れましたが)を言っていて、かねてより「自分にもいつかそういう日が来るのかなー」とぼんやり思っていました。今回久々に短くしたからとて、ずっと短いままでいるかどうかは知りませんが。

 本題ですが、僕は髪の毛をそれなりに長くしていると、「○○○○に似てるー」とかよく言われていたものです。二人くらい、僕がよく似ていると言われる人がいて、それはなぜかというと、主に髪型なんですね。顔つきも多少あるとは思うけど。で、僕はそう言われることがとても嬉しかったんですね。つまり、思想として僕は、○○○○さんが好きで、何だったら同一視でもしたかったというわけです。僕が同じ髪型を続けている理由は本当はそこにはないはずなのですが、いつの間にか、もしかしたら、何番目かの理由になっていたかもしれません。
 でも、もう、そういうのはいいです。
 岡林信康に『26ばんめの秋』という名曲がありますが、いよいよ僕は26ばんめの秋を終えてしまいました。26というのは僕にとって、たぶん何かの節目です。ちょうどいいから、もう今のようなこだわりかたは、やめはじめよう。
 そもそも僕はちっとも外見にこだわるほうではないのですが、「自分はこのようにこだわらないのだ」という妙なこだわりかたをずっとしていて、その一つが「伸ばしっぱなしの黒い髪」だったと思います。本当にこだわらないなら、本当に何でもいいはずなのですが、「僕の外見へのこだわらなさはこのように表現されるべきだ」というヘンなこだわりをずっと持っていました。
 そういったことどもを、少しずつ捨てていこうかと思っています。
 別に外見にこだわらないようにしようというのではなく(長生きの秘訣はオシャレだって橋本武先生も言ってるしね)、「このようにこだわらない」という、不思議なこだわりかたをやめようということです。すなわち、これからもっと具体的な、わかりやすいこだわりかたをしていくかもしれません。赤白のしましま服しか着ないとか。そういうことを自分に許そうと思うのです。

 美意識というものは、いろいろなふうに現出するもので、僕の美意識はなにも「あの髪型」によってしか表せないものでもありませんし、むしろ髪型が僕の美意識から自由を奪っているのかもしれないのです。
 と言って、僕の顔にはやはりあの髪型がきっと似合いますし、もう慣れてしまってもいますもので、禁止するとかいったわけじゃないんですが、いったん、別にあれでなくてもいいんだ、ということを確認するために、明文化しておこうと思いました。
 僕はもう、○○○○さんではなく、橋本治のようになればいいんじゃないかと、テキトーなことを思っていたりします。
 もうなんか、美男のようなふりをする必要もないだろうと。もはや外見でモテるような年でもないから。せめてある程度の清潔感を保ち、いま自分を好きと言ってくれている人たちから捨てられないように努めていくしかないかなと。
 それは絶対に、「美男であることのあきらめ」ということであってはならない。そうではなくて、「美男ってなんだっけ?」という探求への第一歩であると、思いながら行こう。
 つーか本音を言えば、「暇だから考え方でも変えるか」ってくらいのことだったりもするんですけどね、僕なんかいつも。

 Ezマニアのためにサイト内検索つけました。(2011/12/06)
 これは捗る。誰がって主に僕が。たとえば「だんご三兄弟」と入れて検索すると、僕がだんご三兄弟について語ったページがすべて出てきます。
 暇なときに遊んでください。
「えーっと、確かむかしジャッキーさんが○○について書いてたよなー。あれいつ頃だったかなー。うーん」みたいな時に利用していただけたらそれ以上の幸せはありません。

2011/12/06 体調と芝居とネチケットについて

 体調が落ち込んでいます。医者に行きました。僕は一度医者に行くと安心してしまって、「あとは自分で治そう」と思ってしまいがちです。それはそれで正しい態度だろうとは思うのですが、時と場合によることだと思うので、今回はしばらく通院してみようかと思います。とりあえず月に一度は病院に行きます。次は年始かな。
 歯医者にも通っていますが、プチ医療ミスのようなことが二度もあり、三回行ったうちの二回は「今回はお会計ありませんので」と言われました。次回まとめて払うのでなければいいけど。

 3日ごろから徹底的に具合が悪くて、この世の終わりかとも思われたのですが、昨日(5日)は下北沢の楽園という劇場で、楠美津香さんのひとり芝居『超訳オセロー』がやっていたので、這うようにして行って参りました。
『超訳オセロー』は、僕が初めて観た楠美津香さんのお芝居。とても思い入れの深い演目だったため、無理してでも観たかったのです。詳しくは2007年11月14日の日記を読んでいただければ。とにかく僕は感動してしまって、「この人を追い続けなければ!」と思いました。奥井亜紀さんのステージを初めて観た時の感覚に似ています。「人間ってやっぱりすごいんだな」というようなことです。
 僕もいつか、一人芝居をやってみたいです。僕は舞台上での協調性に欠けているし、演出も変なところにこだわっちゃいそうなのでので、一人のほうが合っているような気がします。難しいとは思いますが、チャレンジはしてみたいなと。美津香さんを観るたびに思います。
 その前に二人芝居を誰かとやりたい。三人ならなおよい。もっと多ければもっとよい。無銘喫茶演劇部の企画が先日ちょっと持ち上がったけど、20分くらいの短いやつでも、いっぺん作ってみたいなあ。
 まだ見ぬ結婚文化祭では、『少年三遷史(2001)』のビデオ上映(できれば字幕付き)と再現(一部だけでも、可能なら)、『ほうかごのこうえん(2002)』再演(一日練習すればできるはず)、それからなにか新作のお芝居を嫁とやりたいですね。そういう嫁がほしいです。

 2月20~22日の三日間、すべて19:30から、それぞれ『超訳曾根崎心中(近松門左衛門)』『超訳高野聖(泉鏡花)』『超訳ペリクリーズ(シェイクスピア)』をやるそうです。僕は何があっても毎日行こうと思っておりますので、みなさまもぜひどうぞ。安いです。学生はもっと安いです。
 美津香さんの芝居を観に行って、知り合いにまったく会わないというのは、僕の人生がいかにつまらないものであったかの証明でしかありません。こんなに悲しいことはない。

 さて今日は小学生に短歌を教えに行きます。
 ということでさえも、本当は書いてはいけないのだろうか?
(塾の規定で、ネット上に塾に関することは書いてはいけない、とされている。)
 そういうことも、明確な決まりってないんですよね。
 線引きというか。どこからがアウトなのかとか。
 ないからこそ、塾とか学校とかは、困ってるんですよね。
 僕がいつも言うのは、「そもそもインターネットをあの段階で国民に開放したのが間違いだったのではないか」ということ。匿名性の是非ってのがよく言われるけど、匿名だろうが記名だろうが、そもそも素人がインターネットに情報を発信できて、それに関するルールが一切存在しなかったっていうのが、元凶だろうと思うんですよ。
 まったく新しい世界が生まれようとしているのに、現行の法律や常識だけで対応できるわけがない。「ま、自然になんとかなるでしょう」って、自浄作用に任せて出たとこ勝負で国民(というか全人類?)に丸投げしちゃった、っていうのは、無責任じゃないかねえ?

 あの頃を思い出すと、たぶん90年代の終わりごろまでは、ルールやマナーが暗黙の了解としてなんとなくあって、言われなくてもみんな、ある程度までは平和にやれてた。でもITバブルとか言って、誰もがインターネットに参入できるようになると、低年齢化も進んで、コンピュータやネットに対してなんの知識も経験もなかったような人たちが、どっと流入してくる。とにかく人口が増える。
「暗黙の了解」というものは、時間をかけて、ゆっくりと伝わっていくものだ。けど、あまりにも人口が増えてくると、そんな暇はなくなる。次から次へと新しいメンバーが入ってくるから、いちいち「了解」を共有している時間なんかない。だからこそ「半年ROMれ」という言葉が(かつては)あった。半年ROM(リードオンリーメンバー、読むだけの人)でいれば、ルールやマナーがわかってくるから、しばらく黙ってろ、と。でも、黙っていられないんだよね、人間。どうしても喋りたくなっちゃうんだな。だから「暗黙の了解」は崩れていく。「そんなのしらねーよ」と言う、勝手なやつらに。かつては「ティンカーベル」とか言われた人たちに。
 そこで、「ネチケット」とか「ネットマナー」という言葉ができて、「僕たちでルールを明文化しようよ」という、素敵な運動が生まれた。運動としては非常に素敵なものだったと思うが、しかし定着しなかった。理由はいろいろあると思うけど、やっぱみんな、気ままに振る舞いたかったんだよね。気ままに振る舞う場所がほしくてインターネットに逃げてきてるんだから、そこでまでルールでがんじがらめにされたくなかったのかもしれない。

 で、今はどんな時代かというと、「しらねーよ」ですね。「みんなが気をつけてればいいんじゃない?」とか。個人の自由だの、自己責任だのって。「みんなでルールを作ろうよ」っていう空気はほとんどなくって、せいぜい「踏み逃げ禁止」とかの自分ルールを勝手に設定しているだけ。
 そんでまあ、また僕の得意な「場」とか原っぱとかの話になるんだけど、まあそれは言うまでもないことだから置いといて。(「ozakit 原っぱ」とかでググってください。)
 そういえばこないだ、友達から「ジャッキーのテーマの一つに『場』ってのがあるよねえ」って言われて、嬉しかったな。何度も言ってるからかもしれないけど、ちゃんと伝わっていたのだなって。

 mixiのコミュニティ機能(BBSみたいなやつ)で、「管理人さん、不適切だったら削除してください」ってのがよくある。宣伝のような書き込みのあとにだいたいついてる常套句。なんか免罪符みたいな感じで、「これさえ書いておきゃ、あとは何書いてもいいんでしょ?」って使い方をされてる。発言の責任を完全放棄して、管理人に丸投げしてるわけね。
 これも「場」を作ろうって気がない。「みんなでルールを作ろうよ」っていう意識が一切なくって、「ルールは管理人が決めるもんでしょ?」になってる。「委員長なんだから、お前やれよ」の世界。
 ま、言い方によっちゃ「委員長がすべてを決めるというルールをみんなで作った」ってことになるのかもしれないけど、それって本当にいびつだよね。日本人の得意な「お上至上主義」っていうか。だれか一人に責任をなすりつけるのが、本当に好きだよね、みんな。
「ネチケット」っていうのを僕が好きなのは、「これまでみんなでなんとなく作ってきたルールを、もう一度確認しようよ」「そしてみんなで、楽しい世界を作ろうよ」っていう意志があるところ。誰かに丸投げするんじゃなくて、「みんなで」っていう意識がある。
 正しい学級会みたいな、そういう雰囲気。
 でもみんな、正しい学級会って嫌いなんだね。委員長とか、誰かを吊し上げるほうが楽だし、楽しいのかもしれない。
 それに、「正しい学級会」ってのは「みんなで話し合う」なんだけど、実態は「特定の数人がすべてを決めている」になりがちなんだよね。ネチケットに関しても、「~~してはいけない!」ってのを特定の誰かがあんまり強く言っちゃうと、それは「正しい学級会」にはならない。そういう人たちはやっぱり、いたと思う。そういう雰囲気が強くなると、やっぱり「ネチケットってうぜーよな」になってしまう。どうもバランスが難しい。難しいからといって放棄すると、今のようになるんですが。

 で。結論はいつも一緒なんだけど、僕は「みんなで作ろうよ」っていう雰囲気のある場がほしいのだ。木曜喫茶とかがそのようになればいいと思ってますし、全然違うほかの場だって、そのうちに作れるなら作りたい。みんなでね。

2011/12/05 イメージ

 イメージだけが先行して、言葉にならない。
 という状態を僕もわかる。
 もやもやしているときに、「こうすりゃいいんだろ」ってのは、イメージとしてはわかるんだけど、具体性、すなわち言葉を伴わない。
 たとえば嫉妬のような、よくわからない、もやもやっとした感情があって、そこから抜け出すためのイメージは確実にあるのに、具体性がない。そのための道筋もわからない。大げさに言えば、これは解脱というのに近いのかもしれない。
 いま、わけのわからない感情の波に襲われて、ふっと解決策が浮かんだが、まったく言葉にならない。無理に言い表そうとするならば、山の上に立つようなイメージ。これでは誰にも、何も、伝わらない。
 そういう言葉ばかりを並べている人は実は数多く、それゆえに誤解は生まれている。

2011/12/04 ちょっと

 気分が明るくなってきた。
 そのために僕は眠るのであるし、そのためにみんなと会うのである。
 そしてそのために何かを書く。

 本当の自分なんてものは、別にわからなくてもいい。というか、自分は自分なのだから、本当も何もない。そもそも。
 ただ、すべきことを、信じることを、そのような立ち方を、しているのかどうか。というのは大切かもしれない。

 前向きに行こう。そのために眠るのだ。

2011/12/03 しばらく

 人体ってふしぎで、何をやればいいのか、全然わかんない。
 つらい女の子がいて、僕はその子のために何かをしてあげたい。
 何をすればいいんだか、皆目わからん。
 愛してるってことを伝えるのは、こんなにも難しかったのか。

2011/12/02 たとえば

 例えば僕の歯はぼろぼろである。
 大学四年生の時にようやく、小学生ぶりくらいに歯医者に通って、悪いところをだいたい直した。大学の保険で、一回の通院につき500円しかかからなかった。実に助かった。
 それから最近まで、一度も歯医者に行っていなかった。
 そしたらやっぱり、虫歯になっていた。
 どうも歯並びなどの問題もあり(僕は歯の見た目はけっこう良いほうだと思うが、それとはまた別らしい)、そうとう徹底的に磨かないとダメみたいなのだ。それで近年はフロスみたいなのも使って、それなりにケアしていたのであるが、さすがに毎食後磨くようなことはしていなかった。そのくらいはしないといけないようだ。
 しかも悪いことに、僕は「虫歯かな」と思ってから、ずいぶんしばらく経たないと歯医者に行かないのである。これが最もいけないことだ。
 なんでかっていうと、やっぱり「行かなくても大丈夫だろう」って思ってるんだよね。思い込んでる。思いたくて。思おうとしている。
 放射能でもそうなんだけど、認めたくないこととか、認めちゃうと面倒くさいこととかは、とりあえず「大丈夫だろう」って思っちゃうんだな、人間。歯もそうなんだ。
 皮膚もそうでさ。僕は実は、けっこう皮膚が弱いんだよね。小学校くらいの時からずっと。たぶん僕を知ってる人でも、「え、そうなの?」って思うかもしれないけど、目立たないところで、それなりに。何年に一度かは、ひどいかぶれや腫れが全身に起こったりもする。普段でも、すっごい地味なところで、小さな問題が常にある感じ。
 でも、毎日風呂に浸かったり、食事を改善したり、睡眠摂ったりしてればよくなるように思い込んで、うん、それらの努力はとても良いことだとは思うんだけど、別に皮膚のほうは良くなるということはなくて。いちばんひどい時は皮膚科にも行くけれども、普段は「そのうちよくなるだろう」とか言って、せっせと野菜とか食ってるわけね。僕が自炊をよくするのは、そういう意味もあるのね。
 病院、行けばいいのにね。病院じゃなくても、何か、誰かに診てもらうとか。なんで自分だけでどうにかしようとするんだろう。どうして、自分の力だけでなんとかなるなんて、思い込んでしまうんだろう?
 そりゃ、僕は病院なんて嫌いだし、病院がなんとかしてくれるっていう信仰は、もっと問題だと思う。だけど、「自分でどうにかできる」っていうのも、危険だよね。
 歯なんかは、自分じゃやっぱ、どうにもなんないわけね。わかりやすく。いったん悪くなっちゃったらさ。
 ガンとかになったら、これを自分で治そうとするのは、もうそれこそ「信仰」の世界に行っちゃう。「ダイコン食べてりゃ治るはずだ」みたいな。別にそれでもいいのかもしれないけどね。価値観次第で。

 たとえば、そもそも健康とか、生命の大切さってのを疑う立場もあるわけ。僕はわりとそっち方面のことを考えてしまうし、死ぬときは死ぬんだとか、自然治癒力に任せるべきだとか、そういうふうな考え方も知ってる。
 それがまた、邪魔になってきたりするの。
 要するに、そのへんの考え方が、まだ「信念」になってないから、ダメなんだよ。病院、行かない、っていうのがすでに「信念」になってるか、っていう問題。実際は、たまには病院に行くわけだ。全然信念なんかじゃなくて、今の段階じゃせいぜい「面倒くさい」の言い訳としてしか機能してないわけね、「病院、行かない」っていう考え方がね。
 たとえばねえ、歯だったら、どう考えても健康なほうがいいし、歯医者行かなくて後悔するのは、嫌だなと僕は思う。もちろん、「入れ歯にしちゃえばいいんだよ!」っていうヤケクソな考え方だってあるし、「どのみちそれまでに死ぬし」っていうニヒルな言い方もできる。でも、正直に言うと、やっぱり「自分の歯のままでいたい」し、「年取ってからもおいしくご飯が食べたい、そのために歯を大切にするべきだ」なんだよね。絶対に僕は。
 でもさ、そのことの実現がずいぶん難しいってなってくると、「あんなすっぱいブドウいらないや」じゃないけど、ちょっとね。「どれだけ頑張っても、どのみちもう手遅れだ、僕の歯はぼろぼろだ。だったら、『歯なんてぼろぼろでもいい』っていう立場になろうかな」とか、思っちゃいがちなんだよ。でも正直に考えると、そんなことって絶対にない。
 どんな手を尽くしてでも、歯は守るべきで、歯みがきを毎食後にしたほうがいいなら、するべきだ。そんな単純なことを、「面倒くさい」とか「怖い」っていうくだらない理由で、反故にするのは愚かしいよね。
 で、もちろん皮膚だってそうなんだよ。
 それが最悪な結果を呼ぶかも知れないんだし。
 たまに、「ジャッキー、人間ドックでも行きなよ」なんて言われるんだけど、んでも僕は面倒くさいから行かないのね。そんなに不健康でもないもん、って。でも、やっぱ怖い病気とかってたくさんあるし、何らかの形で検診は受けるべきじゃない。でも、「自分は病気なんかじゃない」って思いたいから、「病院は嫌いだ」「病院なんか信用できない」「草で治せばいい」「自然に任せて死ねばいい」とかって、理論武装っていうか、言い訳だよね。それをして、誤魔化してるんだね。本音を言えば、「もし病気だったら、早く見つけて早く治したい」なのにね。要するに、怖がってんだよなー。

 そういうごまかしを、もういい加減やめたいなってわけで、今は歯医者に通っておりますし、来週くらいから皮膚科にも行くつもりです。
 僕は、個人的には「途中までは病院にお世話になったほうがいいだろう」なんだよね、実はっていうか、やっぱり。自分でも友達でもなんとかできない問題は、お金出すしかないもんね。「自分でどうにかできない問題は、自然に任せよう」っていう考え方もあって、好きっちゃ好きなんだけど、でもやっぱ、そこまで開き直れない自分がいるからさ。

 と、書いておきながら、僕は実はまだやっぱり、わかんないんだよ。
「自然の成り行きに任せよう」っていう思想は、やっぱ強固にある。
 それと、実際の行動の折り合いがついていない原因は、一つしかない。それは、「信念」とか「覚悟」とか「度胸」とかいったものの問題だ。
 僕はまだ、全然覚悟ができていないんだ。
 すなわち、自然に任せる覚悟がない。
 そこらへんのことを、ちょっと今月から、2012年にかけて、ひとつ最大のテーマとして考えていきたいと思っております。

2011/12/01 僕が本当に僕であるために

 人生の第二部というのが、ある人にとってはあって
 それは早かったり遅かったり、いろいろなんだけど
 決めるのは誰でもない、自分自身だったりする
 それは「自分の意志で」というよりは
「やむにやまれぬ、自分にとっての事情」という形を取って現れる。

 若い、ということを捨てるために、人は
 結婚をしたり、
 自分を「中年」だの「老人」として認識しなおしたりするのだろう。
 それは「意志」というより「事情」であり、成り行きのようなものだ。

 僕が本当に僕であるために、
 という題をつけたのは、
「自分の認識の上での自分」と「実際の自分」とがずれている場合、
 それは「本当に僕である」とはならないのだろう、と思い、
 そしてこれから僕はその一致をめざして生きていかなければならないのだろうという、ことのゆえ。

 僕は早くも、人生の第二部への準備を始めようかと思っている。
 いや別に、中年になろうとか、そういう具体的な話ではない。
 そうなのかもしれないけど。
 とにかく、人生には第二部というのがありえて、
 それを正しく迎えるためには、「自分」がずれていてはいけない、ということを、改めて考えたいのである。
 自分による、自分への認識が変わったとき。そしてその認識を基礎に、生き方を構築し直していくようなとき。それが「人生の第二部のはじまり」というやつだろう。

「いつまでもこのままではいられない」と気づいたとき、
「それでもこのまま生きていく」と思うなら、それはそれで魅力的かもしれない。
「それなら、このように生きていこう」というのも、潔いだろう。

 そのことと、「あきらめ」ということがどう違うか、という問題もある。
「あきらめが悪い」という、批難の言葉も世の中にはあるからだ。
 僕は、「あきらめ」という言葉とともに生きていきたくはない。

 それにしても、第二部を迎えると、「今は第二部である」ということを認めると、これまでに積み重ねていた「自分」というものを、もう一度捉え直し、作り直すことが求められる。すなわち、世界とのつき合い方も、他人とのつき合い方も、自分とのつき合い方も、変わる可能性がある。あらゆる価値観が、変わってくるかもしれない。
 そして、そのことは、自分の内部だけで処理できることではない。
 外に向かって、働きかけていく必要もある。
 その覚悟が、度胸が、自分にあるか? ということだ。

 ずいぶん抽象的な話になってしまったが、
 最近の僕は延々とそのようなことばかり考えて、第二の思春期のような状態を過ごしている。

 F先生、わと先輩、お誕生日おめでとうございます。
 そしてご結婚、おめでとうございます。

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