少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2012/01/31 火 辛卯 再会

 僕に会いたかったと言ってくれる子に会った。
 この子はこれから、いろんなことに気づいていくのだろうなと思う。
 その話を逐一聞きたいと思った。
 これまでの人生の中で思ったこと、感じたこと、考えたことをすべて、聞きたいと思う。でも、彼女はまだその力を持っていないか、僕らはまだそれほどの関係ではない。
 たぶん全然違う人生。たぶんだからこそ、かけがえのないものに思える。

2012/01/29 日 己丑 ホテル末広301

 年次稲門会に行ってきた。早稲田大学の校友会。同窓会みたいなもんです。タダだったのもあって、500人前後来ていたようだ。別に誰でも入れるみたいなんで、来年も行きたいな。
 仲の良かった女の子がいたので、「今日、西原来てないの?」と声をかけてみたら、絶妙な顔をされた。西原は一年くらい前に死んで、彼と同じゼミだった彼女とはお通夜で顔を合わせていたのである。
 一緒に同人誌を作ったりしている三島嬢もいて、彼女にも同じように声をかけた。絶妙とまでは行かないが、複雑な表情をされたように思う。
 なんだか寂しくなってしまって、校歌が歌われる少し前に帰った。
 芳林堂でマンガを買った。

2012/01/28 土 戊子 ジョノサン

「“ジョノサン”“爆音列島”」で検索したら6件しかヒットしなかった。
 ネットの世界は広いようで狭い。深いようで浅い。
 ネット上にあるだけが世界だと思ってはいけない。

2012/01/26 木 丙戌 言わない、言う

 日本人の美徳って「言わない」ことだと思います。
 言い過ぎている人はみっともない。
「有言実行」よりも「不言実行」が尊ばれる、ことがある。
「有言不実行」は最も良くないとされる。(皮算用のことである……)
 しかし、そんなふうに言う僕も、かつて人から「言い過ぎ」と言われたことがある。「思ってても言わないのは大事だよ」と。
 その人の目に僕は、「何でも言っている」というふうに見えたのだろうか。それを言ったのは女の子だった。女の子は、「あまりにも何も言わない」人が多くて、その子もたぶんそういう種類の子だったのだろう。
 僕だって、「言わない」ことのほうが多い。ほとんどのことは言わない。今でもそうだし、昔はもっとひどかった。しかし、「言うべきことは言う」「言ったほうがいいことは言う」は心がけているつもりだ。どんなに恥ずかしくて、自分の本質に関わってしまうようなことでも、言ったほうがいいなら言う。その判断は微妙で、難しいから、大変なんだけど。

 バランスが重要という話だけど、「意外なところで意味を持っていた」ってこともあるから、本当にいろんな方面で、手を抜けない。

2012/01/25 水 乙酉 述語は要らない

 掲示板でのじょんぱいさんとのやりとりの中で幾つか良い考えが生まれた。
 前に、僕が日記を書くときの態度っていうのを「2011/05/13 考えられたことのないことを書きたい」という記事で書いた。これに関して、もはや古参読者である南魚沼出身のなすみそ嬢からよい感想が届いて、とても嬉しかったのを覚えている。
 日記に対しては「考えられたことのないことを書きたい」と思っているし、日々の会話の中でも「考えられたことのないことを言いたい」と思っている。日記は一人で書くものだけど、会話は誰かとするものだ。自分一人で喋るのではなくて、二人で、あるいはみんなで会話を作っていく。その中で「考えられたことのないこと」が一つでも出てくれば、僕はとても嬉しい気分になる。挟んだテーブルの上に、世界に一つだけのすてきな料理が並んでいく様は美しく、快い。
 また、先日僕は詩のブログ(ハイパー・トニック・セツノーナル)に、「改めて」という題でこんなことを書いた。「聞いたことのない言い方を見つけたら それはすべて僕の詩だ」
 そういえば「本当のスタイルはオリジナルであるコト」って三浦大知くんが歌ってる(『Free Style』)。とにかく僕はオリジナルであることにこだわっているようだ。パクリやオマージュは大好きなくせに。ま、和歌の世界でいう「本歌取り」みたいなもんで、自分のオリジナリティが引き立つような効果が見込めるなら、どんどん引用していけばいいと思うんです。
 昨日書いたことだと、「ファンタスティポとはその単語自体が詩である」っていうのは、たぶんまだ誰も、少なくとも目立つところでは言ってないと思うので、言ってみた。そういう方向性で僕は文章を書いております。

 最初に書いた掲示板のやりとりに戻ると、じょんぱいさんの書き込みに対していろいろと考えながら言葉を作っていったら、どうも今まで考えたことのないものが出てきたので嬉しくなった、という話。こういう、ある種の「共同作業」の中で生まれるものは愛しい。テーブルテーブル。

 つーわけで、掲示板の僕の書き込みを転載してみる。いつか流れてしまうので。

「好き」か「必要」か、というのは、僕が恋愛や結婚について考える時に必ず踏まえる議論です。奇しくも。
そういうわけで、そのあたりのことを、かなりわけのわからないふうに書きます。

片想いってのを僕は嫌いで、「私は必要とされている」とか「私にとって必要である」とかっていうのも同じようなことだと思います。
それって結局「好き」を言い換えただけのような。
「必要」というのは、片方の意志や都合では存在しえない、と考えたいです。
僕のお得意の専門用語を使いますと、「必要とは関係である」。

「好き」という想いには「関係」がない。一方通行。
同じく、「必要だ」というふうに、述語にしてしまうと、
それは「好きだ」という一方通行の想いとほぼ同じになって、
やはり「関係」ということから遠のく。

しかし、「必要」とは「関係」のことをさす概念である、
というふうに考えたいわけです。
述語ではなく、主語や目的語になるようなものであってほしい。
状況というか、場面、局面、そういうものを表す言葉として。

「必要」という状況の中に生きていたいわけです。
恋愛でも仕事でも、「必要」という局面の中に
ぶち込みたいんですよ。

「私にはこの人が必要だ」
「この人は私を必要としている」
「私にはこの仕事が必要だ」
「この仕事に私は必要とされている」

そういったことはどうでもよくて。

今、この人と恋愛関係にある。
今、この仕事に就いている。
その事実を、「必要」という一言で言い表したい。

「あ、ここには『必要』があるな」
と、感じながら生きていたい。

非常に抽象的な話ですが、
僕はあんまり「必要」という言葉を述語として捉えたくないんです。
いったんそういう発想を脇に置いてもいいんじゃないかと思います。

関係、状況、局面、場面、場……
実は世の中にあるのはそういったものだけで
述語なんて、すべてまやかしではないかと思うですよ。

 掲示板らしい、とりとめのない書き方をしてしまったけど、目的語とか述語とかって話はなかなか面白い。述語ってもんは、実は信用できない。そんな考え方をしたことは僕は今までなかったので、自分で書いていてハッとした。でも結局、僕が考えてきたことって、一言でいうとそういうことなのかもしれない。
 述語のように、何かをハッキリと定義してしまうものよりも、詩のことばのように、全体で何かを語っているようなもののほうが愛しい。詩は述語じゃないのだ。
 改めて言うと、述語っていうのは「○○は××だ」の××にあたるもの。「××だ」って言っちゃったら、○○は膠着しちゃうんだよね。固定されちゃう。それが寂しいし、くだらない。僕がいつも言ってる「原っぱ」の柔軟性とか、流動性っていうものと通じる。
 関係っていうのは固定されるようなものではない。

 だから僕は、自分から関係を定義するようなことをしたくない。人との関係を表すような述語を、あまり用いない。片想いをしない、というのはつまりそういう意味だ。ただ、自分からは使わなくても「好きだ」という述語を誰かから向けられた時は、ちゃんと向き合う。向き合って、「さてどんな関係になるのかな」ということを考える。
 ただ、時には「自分から求める」ということもおそらく大事で、それによって逃してきたものもたくさんあるのかもしれない。けどそれは、別に特別な述語を用いなくてもできることだ。と思う。むしろ特別な述語は、時として手抜きにしかならないから。

2012/01/24 火 甲申 ファンタスティポ

 あの頃、俺たちはいつも何かを追い続けていた。すべてが輝きに満ちて、悩んで迷って。楽園の隣のこの世界で、指先に触れてはすり抜けていく、その風を。
 ファンタスティポ。切ないまばゆさで見たこともない花が咲く。ファンタスティポ。今でも俺たちは忘れていない、あの頃の気持ち。君を連れてく……ファンタスティポへ。

 いつしか大人になってて、現実はどこか冷めてて。あの日の旅の目的地はこんなとこじゃない。
 永遠に堕ちてく夢の果てで待っている「誰か」の呼ぶ声がする。この風に。
 ファンタスティポ。甘い誘惑に似た、痛みのあとの衝動さ。ファンタスティポ。今から俺たちの夢がはじまる、あの頃のままさ。君を誘うよ……ファンタスティポへ。

 ファンタスティポ。切ないまばゆさで見たこともない花が咲く。ファンタスティポ。今でも俺たちは忘れていない、あの頃の気持ち。君を連れてく……ファンタスティポへ。


 ファンタスティポってのは、曲名であって映画のタイトルでもあるんですが、さてファンタスティポってなんだ? どういう意味なんだ? と思ってDVDのパッケージを見ると、「わかってもわかんなくても、いいと思うよ。」って書いてある。
 僕は先日初めて映画を見たのだけども、なるほど確かに。意味がわからない。わからせようとしていないし、作り手も別に何かをわかっているわけではない、と思う。
 要するにファンタスティポってのは詩なんですよ。
 映画も詩なら、曲も詩。さらに言えば「ファンタスティポ」っていうタイトルがすでに詩。だって「ファンタスティポ」なんて言葉、ないものね。ないけど、「ファンタスティック」って言葉を連想させるし、「ポ」という響きが面白かったりして、非常に引力の強い語になっている。だからこそこの曲は売れた。これは本当に、一行詩ならぬ、「単語詩」とでも言うべきものだ。
 ちなみにファンタスティックというのは次のような意味らしい。

*fan・tas・tic,-ti・cal[ fntstik, -tikl ][形] 1 ((略式))とてもすばらしい,すてきな,すごい. 2 ((限定))途方もなく大きい[多い]. 3 〈事・物が〉空想的な,奇想天外な,現実離れした;〈計画などが〉とてつもない;奇妙な;〈人・考えなどが〉気まぐれな,とりとめのない. 4 ((限定))想像上の;根拠のない fantastic terrors 理由のない恐怖. [ eプログレッシブ英和中辞典 提供: JapanKnowledge ]

 つまり、「よくわからないけどすごい」というくらいか。それに「ポ」がついて、さらなる不可思議さと、ユーモアが付加されている。

 そういう、詩のようなタイトル……というか、詩そのものであるようなタイトルが象徴するように、上に引用した歌詞も、また映画の内容も、まさしく詩のように、わけがわからない。
 詩とはたぶん、全体で何かを語るもので、詩の一部分だけを切り取っても、それは何も語ってくれはしない。語るのだとしたら、その切り取られた一部分が独立して一つの詩となるような時だけだ。だから、ファンタスティポという作品について語ることは非常に困難である。それが優れた詩であるか、そうでないかということは別にして、ファンタスティポとはともあれ詩であるため、たとえば映画について語るようにファンタスティポを語ることはできない。

 芥川龍之介が佐藤春夫の作品に対して語った名文がある。

 一、佐藤春夫は詩人なり、何よりも先に詩人なり。或は誰よりも先にと云えるかも知れず。
 二、されば作品の特色もその詩的なる点にあり。詩を求めずして佐藤の作品を読むものは、猶南瓜(かぼちゃ)を食わんとして蒟蒻(こんにゃく)を買うが如し。到底満足を得るの機会あるべからず。既に満足を得ず、而して後その南瓜ならざるを云々するは愚も亦甚し。去って天竺の外に南瓜を求むるに若かず。
 (佐藤春夫氏の事

 詩は、詩として味わわれてこそ詩である。詩を映画だと思って鑑賞したり、詩を小説だと思って読んでしまうのは、カボチャだと思いこんでコンニャクを食うようなもんなのだ。


 詩を味わうとき、僕はまるで「いい風」を身に受けているような気分になることがある。というか、僕にとっては、「いい風」を与えてくれるようなものがすなわち詩、あるいは詩の種になるようなものなのだろう。「ファンタスティポ」と口に出すとき、僕は風を感じる。だから僕はファンタスティポを詩と断ずる。また、風を感じるとき僕は、詩のことばでしか表現し得ないような気分になっている。もやもやとした心のかたまりが、全身を駆けめぐりながら、詩にされるのを待っている。河原と夜空に、何か個人的な事情が足されれば、その気分は詩にされざるをえない。

 詩であるか、詩でないかという判断を、できるかできないか。それは意外と重要な違いであるような気がする。もやもやとした気分を詩だと思えず、散文だと思いこんでしまうと、いろいろと面倒なことも起きるんじゃないかと思うのだ。
 もしかしたら、いや、かなり思いつきで言うのだが、人と人とのいざこざの何割かは、「詩であるか、詩でないか」という問題に関わっているのではないかとさえ僕は思う。

2012/01/23 月 癸未 

 伊勢丹の地下に行くとおいしいお酒がたらふく試飲できることを知った。
 僕はデパートって好きじゃないんですが、いわゆる「デパ地下」の雰囲気はまだ嫌いじゃないです。市場みたいで。特に新宿の伊勢丹なんかだと、全国から選りすぐりの良いものが集まってくるんでしょうな。これが銀座のデパートだとさらにすごいことになるのでしょうか。
 上海小吃というお店はビールと紹興酒以外持ち込みが可能であることを知った。酒を頼まないと、6人で存分に食べて15000円と少し(ビール2本とソフトドリンク数杯含む)。ちょっと気をつけて頼めば一人2000円以内に収まる。酒はうまいのをみんなで持ち寄ればよい。なんという効率の良さ。
 と言って、なんだかんだ、8000円以上飲み食いに使った。大人にしたら珍しくもない額だ。大人ってすげーよなあ。
 十年くらい前、「形而下のもの(=形のあるもの)に意味なんかないんだ、お金を使うなら形而上的なもの(形のないもの)に使いたい」と書いたら、とびたつな先生(そういう先輩がおられるのです)が掲示板に「そういう言われ方をしたらそうかもしれないと思わされてしまう」とかいう意味のことを書いてくれたような気がする。たぶん、「おいおい本当かよ」というニュアンスを含みつつ。
 今はどう思っているのかというと、「ごちゃごちゃ言ってねーで、工夫して楽しもうぜ」ですね。お金のことなんか考えるだけ野暮だ、あれば使ってもいいし、なければ工夫するしかない。
「あれば使えばいいし、なければ工夫すればいい」ではなくて、「あれば使ってもいいし、なければ工夫するしかない」です。

2012/01/22 日 壬午 


2012/01/21 土 辛巳 


2012/01/20 金 庚辰 名前

 ○○チャットでは○○の話をしないし、××バーでは××の話をしない、というのはあると思う。「80年代洋楽バー」で本当に80年代の洋楽の話ばっかりしてたら食傷気味になるものだから。本題は時々でいい、という雰囲気がある。
 ところが2ちゃんねるの△△スレでは基本的に△△の話しかしない。それ以外の話をすると、むしろ叩かれる。それはなぜかというと匿名だからね。話のとっかかりが△△以外に存在しえない。書き込んでいる人の人となりがわからないから、どんな話を共通の話題にしていいかわからない。そういうときって、普通だったら「いい天気ですね」とか「寒いですね」とか言ってればいいんだけど、ネットに集まる人たちってのは同じ時間や気候を共有しているわけではない。だから「共通の話題」というのを見つけるのは難しい。しかも人となりが見えないということは、その人に「質問」する余地もなくなって、手も足も出ない。それで2ちゃんねるという匿名の場ではどうしても、スレが定めた話題しかできなくなってくる。固定ハンドルがついてたらまた別なんだけど。

2012/01/19 木 己卯 わからない人たち

 わからない人たちってのはいる。わからない人たちにも、わかることはある。わからない人たちのわかることを、言ったりやったりする人は、わからない人たちに好かれる。
 ただそれだけのことだ。僕から見れば。
 ただ、わからない人もそうでない人も、等しく権利を与えられてしまったらしい一人の人間であるというところが、狭量な僕にはやや納得できないところではある。

「わからない人たちのわかる、ぎりぎりのところ」を突くことが、世の中で成功するためのコツなんだと思う。偏屈な上に妙なところで不器用な僕には、それができないでいる。
 どうしても「わかる人」がほしくなってしまう。
 それは独りよがりでしかないし、手抜きだろう。
「わからない人たちを、わかるようにさせる」っていうことだけを僕は本当は考えなければいけないような気がする。多くの優れた人たちが、ここでジレンマを感じて、結局は諦めてしまっている。
 僕はだけど、立場上、そして思想の上でも、諦めてはいけない。

 でも別の僕は、「わからない人はわからないのだから、それを前提に生きていく方法を考えるべきなのかもしれない」とも思っている。実際、こっちのがずっと楽だし、しかも実は真摯であるのかもしれない。
 しかし、しかし、しかし、バランスの取り方っていうのが大事だっていうのは、どっちにしても変わらない。今のままではダメなんだ。
 わからない人たちを、わかったような顔をした人たちが食い物にしている。
 わかったような顔をした人たちにとっては、わからない人たちがわからない方が都合がよいので、わからせないようにわからせないように、わかるぎりぎりのところを突いてくる。決して、「わからないこと」は言わない。「少し考えてみればわかること」を言わないで、「考えなくてもなんとかわかること」を伝えようとする。
 それで果たして、本当にバランスは取れているのだろうか? と、僕は思うのだ。


 アホがアホなことを言っていても、もっとアホな人がそれを賞賛して、いつしかアホの大合唱になる。言い出しっペの彼は鼻を高くして、態度を大きくして、もっとアホな人たちの捧げる資金や力によって強大になる。
 そういうことが現実で、あるいはネット上を見ているといっぱいある。
 狭量で偏屈な僕はそれで今日も苦虫をかみつぶしたような顔をしている。

2012/01/18 水 戊寅 「受からせる」と「教育する」

 今だったら英単語・熟語は「語源」「イメージ」「コロケーション」で覚えるのがいいだろうなと本屋でずっと参考書とか語学コーナー見てて思った。いい本がいっぱいある。それもこの数年に集中して出てる、気がする。
 今ってこんなに充実してるんだー、と思う反面、当時は大きい本屋なんか行かなかったからなんだろうなとも思う。だから最近良くなってるように見えるのは、昔の良い本が消えていってしまっているだけなのかもしれない。

 僕は参考書とか教材とかだったら学研をイチオシしている。彼らは決して子どもに媚びないが、しかしちゃんと子どもたちに受け入れやすくなるように作ってある。
 なんというか、「受からせる」というよりも「教育する」ということをちゃんと意識しているというか。
 売れるだけだったらターゲット1900とかゴロゴみたいなやつでいいわけだが、学研の本は「わかりやすく、ていねいに、根本的に」であるようなものが多い。機械的でなくて、人間味のある感じ。覚えさせるのではなくて、理解させる姿勢。そして何よりも「できるだけ楽しく」が心がけられているのがいい。「子どもに負担をかけないように」とか。単純に「これをやれば受かるから、やれ」というような雰囲気のものは少ない(と思う)。素晴らしい。
 大人もいっぺん参考書コーナーに行ってみるといいです。学研でなくとも、素晴らしい本はたくさんある。素晴らしい本というのは、「教育」が念頭に置かれているかどうかで判断できる。だから「偉大な高校の先生」である貝田桃子先生や神田邦彦先生の著書はどれも素晴らしいのかもしれない。

2012/01/17 火 ていちゅう 

 他の干支は今のところすべて一発変換できるのに、なぜか今日だけは変換できなかった。ATOKさんお願いしますよ!
 塾の仕事、とりあえず一区切り。最後の授業だったけどそれほどうまくいかなかった。思うところはあまりにも多い。

2012/01/16 月 丙子 にごらないんす!

 浜崎あゆみが離婚かー。
 今のご時世、離婚しない人よりも、離婚する人のほうが衆人の共感を集めるのかもしれないな。
 離婚するほうがスタンダードというか、オシャレみたいな風潮も、ひょっとしたらすでにあるところにはあるのかもしれないとさえ思える。
 オーストリア人俳優と結婚したのもステイタスなら、離婚するのもステイタス。
「それでこそ、あゆ」というか。
 安室奈美恵も広末涼子も離婚してるのに、浜崎あゆみがそれをしない理由はない。
 芸能界では結婚というのはひょっとしたら「終了」を示すものらしい。
 だから離婚というのは「まだ終わりませんよ」という宣言だ。
 山口百恵と松田聖子の違いはそこにもある。
 百恵ちゃんは「終わります」と言って本当に終わることができた。
 聖子ちゃんは「終わります」と可愛く宣言して、「やっぱり終わりません」と可愛く戻ってくる。
 1980年の、山口百恵の引退と松田聖子のデビューによって、「姉の時代」が終わって「妹の時代」がやってきたと畑田国男さんが言っていたように思う。
 そして同時に「離婚の時代」の幕開けでもあったー、のであるね。

 結婚というものを「終わりを意味する」と定義づけてしまったのは山口百恵で、ちやほやされないことに慣れている姉はそれで終わりにできるんだけど、ちやほやされることに慣れすぎて、それを「当然」とさえ思ってしまう妹は、うまく「終わらせる」ことができない。それで「終わらせないためには離婚するしかない」という考え方が生まれて、いつの間にか「トップアイドルは離婚して当然」というのは「常識」になってしまった。

 僕の愛する「妹」は、そういえば何度も男を取っ替えて、なかなか「終わらせる」ことができないでいる。もうすぐ26歳になって、たぶん十年間ほぼずっと、常に彼氏がいるような状況なのに、まだ結婚するという話を聞かない。べつに、たまたまなんだろうけども。
 それは同じく末っ子である僕も同じなのかもしれない。

2012/01/15 日 乙亥 セルフ手塚ごっこ

 手塚先生のようにホテルにカンヅメになって仕事をしている。
 途中でゴールデン街に行って一杯だけ飲むなど充実。
 それにしてもこの至れり尽くせり感は素晴らしい。
 年末から数えて、こういったところに来るのは三度目である。
 ゆっくりとお風呂に入って本を読むなどした。
 無駄に食べ過ぎてしまった。
 お菓子の類をあまり食べないようにしよう。

2012/01/14 土 甲戌 二人の長老

 新目白通りを自転車で走っていたら、ヘルメットをかぶってマウンテンバイクに乗った二人連れの男たちに声をかけられた。走っている最中に止められたのである。道を聞かれるのかと思ったら宗教の人だった。なかなかアグレッシブだなと感心して20分くらい話をした。彼らは二十歳前後だが「長老」を名乗り(これだけでどこの宗教かわかる人はわかるでしょう)、ボランティアで布教活動をしているらしい。
「イエス・キリストがどういう人か知っていますか」「なぜ私たちが教会へ行くのかわかりますか」「大切にしているものはありますか」などなど、面倒な質問を幾つか投げかけられたが、毅然として信念を述べたので、相手も困っただろうと思う。十年前の自分ならまた違ったかもしれないが、自分の考えがある程度確固としていれば、新興宗教の末端信者ごときによる揺さぶりには動じなくなるものだ。
 二人の長老のうち、片方はとてもまっすぐな瞳をしていて、はきはきとしゃべった。正義感や使命感から一直線に神へと信仰を向けているように見えた。顔も良い。僕はこういう人を、「体育会系の信者」と呼ぶ。もう一人は迷いに満ちた瞳をしていて、ルックスも悪く、ほとんどしゃべらないし、口を開いてもなんだかもごもごしていた。こういう人は、「劣等生系の信者」とでも言おうか。
 体育会系の信者は、「この素晴らしい教えによって自分はもちろん、世界をも救いたい」的なことを考えていて、劣等生系の信者は、「私や世界を救ってくれるこの教えは素晴らしい」と思っている。
 同じことのようだが、この違いは大きい。

 宗教に限らず、何かにはまってしまう人の中には、この二種類がある。ほかにも種類はあるのだろうけれども、とりあえずこの二つが思いついた。
 体育会系の信者の基本形はもちろん、スポーツマンである。劣等感系の信者の基本形はたぶん、オタクである。
 彼らは結局、「視野が狭い」「自分でものを考える気がない」という点で共通しているが、違うのは「順序」である。スポーツマンは「素晴らしい」から出発するが、オタクは「素晴らしい」に着地する。
 スポーツマンは、幼少期に「素晴らしい自分」と出会い、すでに自らを肯定しているが、オタクは小さいころ、「素晴らしい自分」なんかどこにもないと思っていたものだからだ。

 この二つが両極だとするなら、人間というのは割と、この両者の間のどこかに位置づけられるようなものなのかもしれない。もちろん、たくさんある軸のうちの一つとしてなんだけど。

2012/01/13 金 癸酉 

 金曜は辛い。

2012/01/12 木 壬申 

 無銘。
 お姉さんのおかげで、少年がちょっとだけ楽になったようだ。たぶん。

2012/01/11 水 辛未 ちゃんと会議。

 会議。

2012/01/10 火 庚午 伊東つくしうていたり

 ねばならぬ、ということにとらわれすぎだ。

「だろう」よりも「かもしれない」を、
「ねばならぬ」よりも「でもいい」を。
 何も自分から、可能性を狭める必要なんてない。
 すんたんが十年も前から言っている。「想像力に勝る現実はない」
 想像力を自ら殺すから、苦しむんだよ。狭くて、怖くて。
 想像力は「こわい」んだ。
 それで逃げたくて、「だろう」と「ねばならぬ」を多用する。
 一つ一つ可能性を殺していく。想像力を捨てていく。
 だけど、それで解決することなんて何一つない。

 柔軟な思考力。
 すべてはここにつきるはず。

2012/01/09 月 己巳 一休さん「御仏なんていませーん!」

 勉強について考えているよ。
 僕はやっぱり、「基礎から、理論的に、みっちりと」派で、「とりあえず目標の試験に受かりさえすればいい」派ではない。そういう態度では僕は、勉強を楽しむことができないのです。勉強するからにはできるだけ多くのことを考えたいし、できるだけ多くのことをわかりたい。貧乏性なんで。
 根本的にやんないとなあ、ってことを、とにかく考える。
 でもそれだと、人に教える時に困る。
 他人を根本的に教育するっていうのは難しいのだ。
 とくに、根本的に「国語」の力をつけさせるには、膨大な時間がかかる。
「国語」をやりながら、ほかの教科もやらなければならないとしたら、それはものすごく大変なことだ。ほとんどの子はついてこられないだろう。さらに受験みたいに、タイムリミットがあるような場合は、「不可能」ということだってありうる。かもしれない。
 でも、国語の、いや言葉の力を根本的につけさせること自体は、ほとんどの場合において、たぶん不可能ではない。だけど、根本的と言うからには、小学校レベルのことからはじめさせなければならない。それを遠回りだと思ったり、面倒くさがったり、恥ずかしがったりする子もいるだろう。またプライドが許さないという子だっているかもしれない。
 でも根本的というのは結局そういうことなのだ。と、歳を取った人みたいに思う。

「根本的」ということを考えた時に、勧めるやり方や参考書は、「とりあえず試験に受かりたい」というときに効率的であるようなやり方や参考書とは、違う。
 僕は前者のことばかり最近考えている。
 たぶんずっと考えているんだけど、ようやく意識することができた。

2012/01/08 日 戊辰 81084126

 ハトヤと文明堂はマンガで知った。
 防空壕を潜って五右衛門風呂に入った。
 薬効成分を肌で吸って
 帰り道にはやっぱり切符を落とすのだった。
 ADHDを治そう。

 習慣を削り取る、という話で。
 僕はなんかもうすでに例の性的な習慣が薄れつつあるのです。
 枯れたのではなくて意識的にそうしてみたら、そうなったというだけです。
 冷静に、自分にとっての必要を考えてみただけのことです。
 それと同じように、二度寝の習慣とか、部屋をすぐに汚してしまう癖とかも、削り取れるはずなのだ。せっかく新年なのだし、僕は幾つかの悪習、悪癖を削り取ることをやはり、今年の目標として掲げたい。 ひとつひとつ。
「目が覚めたときが、起きるとき」という格言を昨年思いついたんだけど、なかなか。最近は「22時に寝て4時に起きる」を目標に生活していて、遅くなった日も24時までには寝ようと努めているんだけど、うまくいかない。早起きはけっこう癖になってきていて、4~6時にはいったん目覚める。でも二度に一度は二度寝する。
 それで、前日に翌朝やることを決めるだとか、枕元に水置いといて、起きたらすぐに「冷たい水でこじあけ」るとか、手足の指をグーパー動かすとか、電気に長いヒモつけて目覚めると同時に引っ張るとか、いろいろ試そうとしているところ。なんか我ながら、かわいいのう。
 つまりね、そういうことを考える人ってすっごい多くて、そういうふうにしたいなってみんな思ってて、努力はしてみるんだけど、たいていは実らないんだよね。僕もずっとそうだったんだけどね。まあ、いい年なんだから、そろそろいろいろ、廃止していかなくちゃ。もう願望というよりは義務だから。

 ほんと、実績が一つあるってのはでかい。受験勉強でも、なにか一科目でも得意なのがあったら、それを完璧にしちゃえば、ほかの科目もついてくるっていうのがある。どの科目でもいいんだけど、国語がすべての基本だとするなら、とにかく国語を完璧にすることを僕は勧めるし、自分の生き方はおよそそういうようなもんだった。何か一つでも実績とか自負みたいなもんがあったら、それを応用させてほかのところ伸ばして行けるんだよね。という。
 去年の終わりごろからずっと考えてる、「習慣を削り取る」ということ。これは不可能なことではないと僕は、まさに身体でわかったので、遅まきながら。
 頭の中から、取り去っちゃうということね。それはできる。

2012/01/07 土 丁卯 ひな祭り

 人んちに行ったら、長兄に似た長男がいて、三番目の兄にそっくりな次男がいた。
 家族というものは面倒くさいらしい。
 それにしても、いさかいというものは、頭の中を狭くしてしまっている人同士の間で起きるものだ。

「アレしてもダメだし、コレしてもダメ」って嘆いている人は、解決策として「アレ」と「コレ」の二つしか思いついていないところに問題がある。解決策には無数の候補があって、そのどれを選ぶかによって多少なりとも結果は変わってくるものだ。少なくとも、長い目で見た時には。AからZまで、1から100までを試してみて、様子を見て、時にはまた同じことを繰り返す。そういったことを根気よくやっていけば、ひょっとしたら何かが変わるかもしれない。そのくらいのものなのだ。「あれがだめだ、これがだめだ」というのは、そりゃ当たり前というか、そう簡単なものではない。そのために知恵があるのだし、そのために「経験を活かす」という考え方がある。

2012/01/06 金 丙寅 誕生日おめでとう

 書き忘れた。1月2日、名古屋に帰ってきてさっそくすんたんと会った。彼と会うときはゲストがいると盛り上がるので、中学の同級生の女の子を呼んだ。彼女とは10年以上ほとんど話らしい話をしていなかった(一度だけ電話したかな)が、去年の1月2日、あまりにも暇だったので連絡を取って会ってみたら、これが楽しかったのだ。
 もちろん二人に接点は何もない。だからこそ面白いのだ。僕はときおりこういうことをする。田舎者の習性なのかねえ。都会の人はすぐ「合コン」とか「飲み会」とか「バーベキュー」みたいな“形式”を取りたがるけれども、田舎者はそういうまどろっこしいことはしないで、ファミレスにいきなり呼び出したり、脈絡もなく紹介したりするような。うーん、気のせいかな。福岡出身の友達が「紹介魔」だっていう話をこないだしてて、それで思っただけなんだけど。なんつーか、田舎者は「知人の知人」に対する警戒心が薄いのかもしれないなとか。知人の知人って、それだけで言うなれば同じ“世間”だから安心して、特別な「会」を設けなくても仲良くなれるとか、どうだかしらんが。適当なことを言いました。田舎ってのはクルマ社会で、それも最近は飲酒運転の取り締まりがきついから、シラフの状態で遊ぶことが増えてる。だから「飲み会」や「合コン」っていうのが設定されにくい。そのせいでそんなふうに思うのかも。
 まあいいや。

 さて。その時の話で、すんたんに気づかされたこと。
 二十歳くらいの時に僕は「叱らない大人」が嫌いでした。
 少し具体的に言うと、まあ“とあるコミュニティ”があって、そこにちょっと空気を乱す言動の多い人がいて、その人は二十二か二十三くらいだったんだけど、誰も注意をしなかったのね。当時30~40歳くらいだった大人の方々は、その人のいないところで「あいつはいかん」とか、「一言言ってやらないと」とか、「俺がガツンと言ってやる」とか言うんだけど、言うだけで、一向にその気配がなかった。それで僕は「大人がやんないんだったら」って、最年少だったんだけど、その人に意見をしたというか、今思えば相当に稚拙な方法で、その人を事実上追放してしまったわけです。そうしたら、大人は今度は僕に対して怒りをぶつけたようなのですね。「あいつはいかん」「生意気だ」「税金払ってからものを言え」などなど。まあ、人から聞いた話でしかないけど。それと、別にこの件だけが原因ってわけじゃなくて、普段から生意気なことを言っていたんでしょうね。僕の意識としては、不遜な態度なんかはまったく取っていなくて、ただ大人に、相手が大人だというだけで迎合したりはせず、ただ自分が正しいと思うことを、信条と論理に則って喋っていただけ、なんだけど。
 でも、面と向かっては誰もそういうようなことを言わなかったんですよ。他人から、「こんなこと言われてたよ」って告げられることはあっても。それですんたんに、「叱ってくれない大人」っていうようなタイトルでもって、この話をした。
 そしたら、「そりゃ、叱るほど愛情がないからだ」と。なるほど、例の空気を乱す彼も、僕も、愛されていなかった、つまり叱るほどのもんでもなかったと。いや待て。だとしたら僕のほうだって、例の彼に対して愛情なんてほとんどなかったけど、“叱った”わけだぞ。それはなぜなんだ?
 僕がマジメすぎるってのもあるだろうけど、今思えばたぶん、僕がその「場」を愛していた、愛しすぎていたということだろうな。
 若干押しつけがましいところもあるけど、「僕の思う理想的なこの場の在り方」ってのがあって、それを一人で乱すような人がいたら、そりゃ排除したくなる。かつてドラチャ(ドラえもんチャット)に荒らしがいっぱいやってきて、常連も利用の仕方が粗くなって、結局閉鎖しちゃったっていう苦い想い出がある。僕はドラチャをあまりに愛していたからこそ、存続させようと必死になっていた。結局ダメだったけど。そういうことを繰り返したくない、っていう想いが、単純に勝手な個人的理由が、僕にそうさせたんだろう。彼を叱らせたのだろう。
「僕の思う理想的なこの場」に対する愛情が、あるかないか、っていうのが、僕と、“叱らない大人たち”との間の違いだったのではないか、と今思うんだ。あいつら、場ってもんを知らないんだろう。
「遊んだ側の人たちが、遊んだことのない人たちに対して、一生懸命説明してる」っていうような感じで。場を知っている人が、場を知らない人に対して、一生懸命何かを言おうとするんだけど、それはたいてい通じないんだよね。だから「荒らし」ってもんが、ネット上でも、日常でも存在してるんだよ。
 そこが一つの「場」だってことがわからない。そこが単なる「個人の集まっている場所」にしか見えていない。だから愛せないんだ。人と人の間には必ずテーブルがあって、そのテーブルの上に話題を積み上げていくんだけど、それを知らない人って、会話ってもんが「一方通行のくり返し」だと思ってるんだろうな。つまり「人間」って文字の意味を理解していないんだ。
 当時、僕のとった行動や、とっていた態度が、正しかったかどうかは知らない。正しくないところもあったと思う。僕も本当に子供だった。だけど、上に書いたようなことは、それとは別に、真理として揺るがないと信じている。
 人と人の間にはテーブルがある、ってことを理解しないとさ。バーカウンターが何を意味しているのかがわからなくて、すなわちバーカウンターを愛することもできない。愛せとは言わないまでも、それを愛する人の気持ちくらいは、わかっていてほしいんだけどな。

2012/01/05 木 乙丑 無銘新年会

 新年会では例年通り雑煮を作りましたが、もっとドロドロになるまでモチを煮込んだほうがおいしいんだよなー。失敗した。家で作ったほうがうまかった。
 年末と新年は、さすがに人が多くてほっこりしたです。

2012/01/04 水 甲子 乙巳の変

 4人で朝まで桃鉄やった。年に一回くらい、こうしてどっぷりとゲームをするのもいい。桃鉄は、地理の勉強にもならんこともないが、無為は無為である。僕にはもうゲームは向かないのだなとつくづく思った。それにしても、なぜかこういう系統の勝負事は苦手であって、勝てた試しがない。麻雀が弱いのとおんなじことであろう。
 それで寝て起きて電車に乗って東京へ戻った。帰りの電車で学研から出てる現代文の参考書(ピンク色の帯がついた、新書サイズのやつ)を読み終えた。名著であるが誤字脱字の類が非常に多いのと、例文に行数が振ってないことがマイナス。せっかくいい本なのに勿体ない。そろそろ刷り直してほしいな。っていうかもっともっと売れてほしい。
 そのうち「対話篇」について書きたいな。

2012/01/03 火 癸亥 103の会

 高校一年生の同窓会というのはあまり聞いたことがないが、担任の先生を含めて22人が集まった。ひとえに幹事であるP氏のおかげである。
 僕はわざわざ履歴書なんつう、恥ずかしいもんを人数分印刷して、二重封筒に入れ、履歴書在中と朱書きまでしてみんなに配った。「相変わらずヘンな人だねー」と言われた。ここでドン引きしない(しなかったと思う)のがこのクラスのいいところだ。
 向陽高校というのは基本的には「無難」と言われてしまいそうな人たちが集まってくる。公立(名古屋市立)で、内申点が40前後(※オール5で45)だから、中学では優等生で、しかしガリ勉でもなかったような子たちが多い(と思う)。自由な校風を歌っており、勉強も生活指導も締め付けがほとんどない。だから、もともと「イイ子」であるような生徒たちにとっては、反発したり暴走したりする理由がまずない。地元では「向陽温泉」とさえ言われる平和な学校である。
 進学に関しては、成績がある程度よければ地元国立である名古屋大学を志望する。あるいは名古屋工業大学、名古屋市立大学、愛知教育大学などの国公立がメインで、私立の南山大学を滑り止めに受ける。「向陽といえば名大と南山」だと思う。名大は毎年30~50人、南山には150人前後の合格者を出しているらしい。ゆえに「南山の付属校」と揶揄されることもある。
 向陽はあまり特筆すべきところもない、ちょっと成績のよいだけの無難な学校なのだが、おそらくそれがゆえにたぶん「とてもいい学校」なのであって、僕にとってもかけがえのない学校である。
 というのも、103というクラスが素晴らしかったということに尽きるだろう。このクラスには、先生も生徒も、非常に面白い人たちが集まっていた。
  「このクラスは個性的」と言うとき、そこに根拠なんかまったくなかったりもするのだが、103の場合はある程度数字が出ている。10クラスあって、当時の学年における演劇部占有率66%、放送部占有率100%、乗り物研究同好会占有率100%というだけでちょっと異常だし、卓球部は部長、副部長、庶務の三役が全員103であったし、バドミントンでインターハイ出てる子をはじめ、後に生徒会長など役員になる子、各部の部長になる子もたくさんいた。いちばんビックリしたのが、博覧会(文化祭のこと)の「半日教室」(生徒が講師になってほかの生徒に何かを教えるという行事)の講師が、かなりの割合で103(出身者)だったことだ。それから、学年で停学(無期謹慎)になった人が二人いるのだが、いずれも103である(一人は僕である!)。教えてくれた先生も、「一年生はこのクラスしか持っていません」という人が何人かいて、そういう人に限ってとてもヘンな人だった。
 そんなクラスだったので、博覧会の劇もけっこうよいものができたと思う。あんまりクラス自慢してても仕方ないのだが、そういう偏りが生まれるというのは、なんとも面白いことだ。
 1年生の同窓会に来るような人たちは、少なからずクラスそのものに愛着があってくるのだろうと思うのだが、ヘンなクラスに愛着のあるヘンな人たちは、やっぱりヘンなのであって、基本的に僕のことを受け入れてくれるのである。た、たぶん。
 それで、なんだか嬉しかった、という話。
 名古屋で暮らしている以上、きっとどこか「普通の生活」にならざるを得なくて(そういう傾向は少なくとも東京よりも強いとはやはり思う)、東京でちゃらんぽらんに生きている僕の生き方など、想像もできないかもしれないが、「まあ、そういう人もいるよねー」くらいの温度で接してくれて、さすがは103であるなあ、と思ったことでありました。

2012/01/02 月 壬戌 年越しのこと

 31日は早朝から仕事場に行き、社長と心地よい雑談を交わしたりなどして、やはりやる気も出ず、年内に片づけようと思っていた仕事が一切進まぬまま夕方を迎えてしまった。すべては年明けにやればよかろうと思い、帰って風呂に入ってから再び自転車に乗って出かけた。
 今年は工藤と、廻澤神社というところで年を越したのだが、ここはなんと甘酒と日本酒と豚汁とおしるこが飲み放題なのであった。都内にこんな神社があったとは! これは定期的に来なければなるまい。
 僕は年越しに飲む甘酒が大好物で、地元の山田天満宮では例年三杯以上は飲んでいる。たっぷり生姜の入った美味しいやつだ。東京の人は甘酒に生姜を入れる文化を持っていないらしいので、コンビニでチューブのしょうがを買って、独自に味付けして二杯飲んだ。
 僕は二十代の途中までは絶対に名古屋で年を越すと決めていて、それから後もだいたい二年に一度のわりで名古屋に行っている。今年は東京だったから、来年は名古屋、という感じ。年越しの瞬間を一緒に過ごす相手は決まっていて、中学からの友人でたかゆきというやつ。彼ももう結婚してしまったから、遠慮したほうがいいのかもしれないが、遠慮しなくてもよいようならまた一緒に年を越したい。
 工藤とは「堕天使ごっこ」の話などをしたが、中身のある話などまったくなかった。そういえば、たかゆきくんと一緒に過ごしていても、中身のある話などほとんどしない。たぶん、そんな暇なんてない。
「話」なんてもんを必要としない相手っていうのが存在する、ということを、僕は十数年にわたる彼とのつき合いの中で知っていた。
 僕は彼の生き方に干渉したことはないし、その逆もない。お互いの恋人のことも、生活のことも、何も知らない。だけど名古屋に帰れば川原に出たり、神社に行ったりして遊ぶ。虫を捕ったり。叫んだり。僕らはそれでいいのだ。そしてごくごくまれに、何かを話すこともある。それでも僕らは十分なのだ。

 僕らも八百屋に行って干し柿を買って食ったり、神社で寝ころんだり、公園でぼんやりしていたことを忘れないだろうし、これからも繰り返していくはずだ。

 工藤と別れ、他の神社へとまた甘酒を求めに走った。三つ目の神社に辿り着いた時には、もう片付けが終わっていた。わずか1時間や2時間くらいしか、甘酒の飲める時間はないということだ。

2012/01/01 日 辛酉 新年

 アリストテレスは、多くの人が神の世界(真理)に近づくためには、人々が真理の探究に没頭するだけの「暇」が必要であると考えたらしい。だから彼は、一人だけで政治的決定を行える君主制を最高の政治形態とし、奴隷もそれを支える重要な制度として肯定した。と、倫理の参考書に書いてあった。
 そういえば日本はある意味君主制であり、ある意味奴隷制のようなところがある。市民はごく少数に限られるけど。僕の新年の抱負は、日本において市民として生き、真理の探究に努めること。すなわち暇を獲得し、その暇を有効に使うことである。

 晴れたれば、鮮やかれ。

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