少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2012/02/29 水 庚申 生者にのみ口はある

 西原が死んでいつの間にか一年以上経った。
 死んだ人間のことを語るのは徒労感がひどくて、疲れる。

 池袋といえば、僕には西原や、彼を通じて知り合った友人たちとの想い出しかない。そのうちの一人が、一年前に書いていた文章を今さら見つけた。
 この方の書いていることは僕の思っていたこととほとんど同じだし、晩年の西原との関係も、ほとんど同じだ。どうして西原は、僕や彼のような、本当にいい友人を捨ててしまったのだろうね? やはり彼の言うように、どこかを境におかしくなってしまっていたようにしか思えない。人間っていうのは、まったく。

 ばかばかしい。むなしさばかりだ。

2012/02/28 火 己未 不健康な肉体にウィルスは忍び込む

 健全な肉体に健全な精神が宿る。
 とある会社におじゃました。とてもいい人と会った。とてもいい会社だった。

 しかし反対に、邪悪な集団には邪悪な人が宿る。
 邪悪な人が作るコミュニティは邪悪になる。
 僕はできることなら邪悪に巻き込まれないで生きたい。
 邪悪でなくとも、淀んでいたり、濁っていたりするようなところに、わざわざ行く気にはならない。あるいは、僕がそこに行くことによって、淀んだり濁ったり、邪悪になったりするようならば、おっくうなもんだと思うのみだ。
 そういう場所に、最近行くようなことがたびたびあって、反省している。
「問題は俺か?」
 そうかもしれない。
 まだまだ修行が足りないと、崩れていく体調を眺めながら思う。

 なんてことを書くと、「あたしたちが邪悪だってえの?」って思ってしまう人がいるかもしれないけど、そうではなくて。幸いにも僕は邪悪な場所にはまず行かない。場が瞬間的に邪悪によって支配されてしまうようなことはあっても。ただ、淀んだり濁ったり、ということはたびたびある。反省する。しかし楽しかったりもする。
 本当は淀んだり濁ったりしてるんだってことを、明るみに出したいがために、僕は“かき回して”しまうのだろう。「それは淀んでいるんだ、濁っているんだ。そういうほころびから、邪悪は忍び込むんだ」とか思いながら。
 心のうちを率直に言ってしまう。言わなくてもいいのに。それは何年も変わっていないところだなあ。しかし、言わないと底に貯まった汚れが沈殿したまま腐っていくんだよ。そして取り返しのつかないことになるのだよ。と思うんだけど、「なんでそれじゃいけないの?」って、きっと多くの人が思っているんだろうなあ、無意識で、無自覚なのかもしれないけども。
 だから僕は本当は、「それでいいのか、いけないのか」ということをいちばん話し合いたいのかもしれない。なかなかそこまでいけないな。いきたいもんだな。
 がんばります。

2012/02/27 月 戊午 人生の最終回が間近な件について

「好きな漫画家は?」と問われたら、もちろん「藤子不二雄先生」と必ず第一に答える。「メジャー誌で活躍している若手漫画家だと?」と問われたら、「とよ田みのる先生と武富健治先生は別格ですね」とか答えるだろう。「オールタイムベスト作品は?」と問われたら、「藤子作品を除けば、Moo.念平先生の『あまいぞ!男吾』か、矢口高雄先生の『蛍雪時代』です」と答える。「今イチオシの作品は?」と問われたら、「うーん、片山ユキヲ先生の『花もて語れ』でしょうか」と、今なら言うはずだ。これらの言葉にまったく嘘はなく、今挙げた作家・作品はもれなく、全日本人に読んでいただきたい。もちろん、好き・大好き・愛してる作家・作品は他にも数限りなくあって、今挙げた作品と比べて情熱に差があるかというと、そんなことはない。今挙げたのは、「とにかく多くの人に読んでほしい」という想いがとりわけ強いものたちである。「個人的に好きすぎてたまらない」「人生を変えられた、狂わされた」といった作品は、また別にあったりするのだ。
 その代表にして、僕が心から「傾倒」しきっている唯一の漫画家が『ディスコミュニケーション』『夢使い』『謎の彼女X』の植芝理一先生である。
 傾倒、心酔……そんな言葉ではまったく不十分だ。
 僕は「オススメの作品」を問われたとき、決して植芝先生の作品を挙げない。『謎の彼女X』の連載が始まって間もない、ごく短いある一時期を除いて、他人に大声で勧めたことはたぶん、なかったはずだ。特に『ディスコミ』に関しては、「この人になら」と思った相手にだけ、小さな声で、「よかったら……」と勧めてきた。『ディスコミ』にはモチーフとして密教がよく登場するが、僕にとっては『ディスコミ』という作品そのものが密教の経典のようなものなのである。軽々しく他人に勧めるようなものではない。このへんのことは、以前にも書いた。(2010年8月8日
 植芝先生の作品は、常に「僕だけのもの」なのである。他人と共有したいなんて思わないし、「みんなに読んでほしい」とも思わない。上に挙げた作家・作品たちはすべて、僕が正しいと思う価値観がいっぱいに詰め込まれたもので、それを人に勧めるというのは、「これが理想なんだよ! わかってよ!」という叫びにほかならない。しかし植芝先生の作品に関しては、そういう想いを持たない。それはたぶん、「僕だけのものでいいし、そうあるべきだ」と思っているからだろう。「僕だけが植芝作品の理解者である」という傲慢な意味ではなくて、「誰にとっても植芝先生の作品は『自分だけのもの』なんだ」というようなニュアンス。だから、誰かに導かれて植芝先生の作品を読むというのは、違う気がする。なにかの偶然で、つい手にしてしまった。そういう出会いが正しいのだろうと思う。
『謎の彼女X』がかなり売れていて、4月からアニメ化もするという今の状況は、僕にとって嬉しいような、そうでもないような、複雑なものだ。以前に『夢使い』という作品がアニメ化されたことがあったが、それは僕にとって手放しで賞賛したくなるようなものではなかった(OPテーマは最高だったし、キャラデザもよかったんだけど)。それはもしかしたら作品の内容や質ということではなくって、僕の内面的な事情だったのかもしれない。
 僕は、はっきり言って植芝先生の作品がアニメになることを嬉しくは思わないし、それによってこれまでよりも多くの人が植芝作品を読むであろうことに対して、単純には喜びを感じない。「売れることによって、“受け手に支配される”ようになってしまった」例を、僕たちは数多く知っている。アニメ化して、それが売れて、植芝先生の描くものに何かよからぬ変化があったら……という危惧のほうが、強かったのである。
 しかし、そんな心配は無用であったらしい。今回のアニメ化は、ただの運命だったのだ。僕の人生において、大切なものと大切なものが交差するという、一連の奇跡的な事件の、一つの記念碑として、作られるべくして作られた作品であることがわかったのである。
 シリーズ構成と脚本が、赤尾でこ先生だったのだ。「赤尾でこ」とは、歌手の三重野瞳さんが、作家活動をする際に用いるペンネームだ。僕はその事実をほんの数日前に知って、「ああ、なんだ、そういうことか」と思った。僕は三重野瞳さんの大ファンなのである。『2930~にくみそ~』というアルバム(名盤!)のAmazonのカスタマーレビューには、未だに僕のレビューしか載っていない。発売から一年以上経っても誰もレビューしないという状況に腹を立てて、初めてレビューを書いたのである。(僕は今まで二件しかレビューを書いていないが、どちらも同じ理由。)しかも、「1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。」だ。ああ! まあ、それはどうでもいいのです。
 僕の納得は、「ミエノがやるんなら面白くなるだろう」という安心ではなく、「ここが繋がるということは、僕の人生もいよいよ大詰めなんだな」という発見である。孤高の存在であった植芝理一先生が、ついに何かと繋がりはじめたのである。
 よく見ると、監督の渡辺歩さんをはじめとして、ドラえもん映画のスタッフが何人か入っている。渡辺さんは『帰ってきたドラえもん』で初監督をして以降、『ドラえもん』や『パーマン』の映画の大半を監督してきた人だ。
 僕は「渡辺歩時代」のドラえもん映画を「良い」とは言わないが、『ふしぎ風使い』と『ワンニャン時空伝』でそれまでよりもかなりクォリティを上げてくれたのは確かだと思う。『恐竜2006』も、全体としてはそれほど悪くはなかった。(ただ、『緑の巨人伝』はひどいと思った。『新魔界大冒険』と『新宇宙開拓史』は実は観ていない。)
 とは言っても、こんな話はあまり意味がない。ドラえもん映画はあまりにも巨大な存在だから、良いも悪いも監督一人が左右させられるようなものではないのだろう、たぶん。想い出だけを語れば、『帰ってきたドラえもん』は、原作の力もあるけど、素晴らしかった。中学生になっていたけど、映画館でだらだら泣いた。一緒に観ていた6つ上の兄もだらだら泣いていた。いい家に生まれたと思った。
 連続アニメの監督は『謎の彼女X』が初めてのようなので、とにかく期待しよう。ストーリーを組み立てるのは赤尾でこ先生だと思うし。
 単行本8巻の巻末に、「シナリオ・絵コンテ、面白かったです!「これは僕も思いつかなかった!ってアイデアもいっぱいあって新鮮でした!」と植芝先生は書いている。脚本の赤尾でこ先生=ミエノは優れた詩人(詞人?)で、たとえば『2930』収録曲の歌詞なんか、すごいんですよ。言われてみれば、純愛であって変態である、植芝先生の世界にはまりそうでもある。……僕の勝手な感想だけど。
 良い作品になるかならないかは、もちろん放映されてみなければわからない。しかし正直なところ、アニメの内容や質がどうなるかなんてのは、あんまり問題ではないのです。植芝先生と、三重野瞳と、ドラえもんが繋がったということに、ただただ個人的に感慨深いのです。主題歌は『夢使い』の時みたいに、ピッタリなのにしてほしいなーとか、思うけど、どうにもならないことだし、問題はそこではない。加藤ミリヤの『WHY』が主題歌になったって、怒ったりはせんですよ。ただ、その意味を深く深く考えるでしょう。
 僕の人生はどうなっていくんだろう。すべてが一つになって、僕は最後には一人の人間となって、ぐにゃぐにゃしながら確固として、生きていくのだろうか。そうだとしたら、それが世界一正しい姿であることを祈るよ。

2012/02/26 日 丁巳 OFF-オフ-

 アスファルトに転がる錆びついたなんちゃら。
 久しぶりに一日中オフだった。なんにもなかった。衝撃的である。僕はできることなら、一週間のうち二日くらいは本当になんにもなくって、三日くらいは人と遊んで、残りの二日で働くくらいがちょうどいいと思っているのだ。
 友達の女の子が「労働は美しくない」と吐いたが、なんたる名言か。これは「現代日本には美しい労働がほとんどない」ということだと僕は解釈する。元来、労働は美しいのかもしれないし、そうでなくとも、美しい労働のあり方というものは必ずある。が、労働が美しくあることは、この世の中では難しい。それなのに「労働はすべて美しいんだ!」と思いこもうとする人たちがいる。そういう人たちこそ、まさに美しくないのである。
 美しくないものは美しくないのだ。どうせするなら、美しい労働がしたい。では「美しい」とは何か? どうすれば労働は「美しく」なるのか? そんなことを考えていると、まともに働くチャンスを逸してしまう。とかく人の世は生きにくい。

 暇な日は、家にいると寝るだけで終わってしまう。それはそれでよいのだが、それが嫌なときは、ファミレスに行って本を読むのが定例だ。読みながら、いろいろ考える。



「意見の対立」ということが起こった時、「ああ、価値観が違うんだ」で済ませてはいけない。「何が対立しているのか」を見極めなければならない。

 食事の席で、友達がナスを残していたとする。僕は「ナスを食べろ」と言う。彼は「ナスは食べるべきではない」と言う。これは意見の対立である。それで彼は言う。「君と僕とは意見が合わないね、価値観が違うんだ」
 こんなに悲しい事件はない。
 僕は問うだろう。「なぜナスを食べるべきではないのか」と。彼は答える。「嫌いだからだ」。「嫌いでも、食べるべきだ」「なぜだ」「お百姓さんに申し訳ないだろう」「残そうが食べようが、お百姓さんに入るお金は一緒だ」「お金の問題じゃない」「じゃあ、なんの問題なんだ」「心をこめて作ってくださったんじゃないか」「大量に作っているナスの一個一個に思い入れなんかあるわけがない」
 こういう会話はきりがない。僕は問い方を変える。
「なぜナスが嫌いなの」「おいしくないからだ」「おいしくないものは食べないのか」「そうだ」「なぜだ」「おいしくないからだ」「なるほど」「なんだ」「君はナスに栄養があることは認めるのだよね」「認める」「ナスを食べたほうが身体にはいいよね」「まあ、食べ過ぎにならなくて、放射能やら農薬やらの問題を無視すれば、そういうことにはなるだろう」「じゃあ、ナスは食べないより食べたほうがいいのではないか、君の身体にとっては」「そうかもしれないが、栄養ならばナス以外のものでも取れるだろう」「ナス以外のものも食べて、ナスも食べたらもっといいではないか」「そうだが、無理してナスを食べることもあるまい」「しかし現実として、目の前にはもうナスしかない。ナス以外のものをこれから食べようとすると、またお金も時間もかかる。今ナスを食べておけば、身体にとっては得になる」「しかし、ナスはおいしくないんだ」「食べないのか」「食べない」「なるほど」「なんだ」「実は僕も、ナスはおいしくないと思っているんだよ」「嘘だ!」「本当だよ」「じゃあ、なぜ食べたんだ」「食べたほうが得策と思ったからさ」「そんな……それっぽっちの理由で、嫌いなものをあえて食べるというのか? 信じられない」「そうかな」「不快ではないのか」「不快だね」「それなら食べなければいい!」「でも食べたほうがいいと思ったんだ」「……」「つまり、僕と君との違いは、快・不快を優先するか、得・損を優先するかの違いなんだね」「ふむ」「君は今のところ気持ちよく生きることができるだろう。僕は気持ちよく生きられないし、周囲からは打算的な人間だと蔑まれるかもしれない」「なるほど、おこづかいをすぐに駄菓子に変えちゃう子と、ケチケチして溜め込んでる子の違いってことか?」「そういうようなもんだろう。僕はおこづかいを駄菓子に変えることはできない。ある意味で、臆病なのだろうな。未来に向けて貯金をする、保険をかける。そういう性格なのだろう」「おこづかいなんか、明日にでも落っことしてなくなっちゃうかもしれない。地球が消えてなくなるかもしれない。それだったら宵越しの金なんか持たないほうがいい。その日のうちに気持ちいいことに使ったほうがいい」「うーん、どうやらこのあたりが僕と君との価値観の違いらしいな」「そうなんだろうな」

 意見の対立が起こったとき、その原因を深くさかのぼると、「そもそも、どこで対立しているのか」がわかってくる。そのほうがお互いに納得しやすい。
 そして、このあと僕とこの友達は、きっと「快・不快を優先させるべきか、得・損を優先させるべきか」について話し合う。そしてここでも「なぜそう思うのか」を軸に互いの考え方を掘り下げ、「新たな、そしてより根源的な対立」を見つけるだろう。あるいは、その過程においてどちらか、あるいは双方が考え方を変えるかもしれない。
 それが実りのある議論というものだろう。

 美しい労働と、実りのある議論というのは、たぶんどこかで似ているはずだ。

2012/02/25 土 丙辰 Gu De Si

  希望を胸に WHITE CAPSULE
  WHITE CAPSULE WHITE CAPSULE
  愛の言葉を求めて 旅は続くよ
  (Godiego/MAGIC CAPSULE)

 ブックオフでGDCと待ち合わせた。
 いつも行く台湾ラーメンの店でご飯を食べた。
 カラオケに行った。
 カルディに行った。
 ツヅキ堂に行った。
 商店街で甘酒をいただいて、100円の酒まんじゅうをひとつ買った。

2012/02/24 金 乙卯 心の中にある光

 苫米地英人さんの『洗脳広告代理店 電通』を読んだ。
 僕は彼について二度、書いている。

 2010/03/11 学校における洗脳
 2011/06/26 (3) 吾輩は菩薩である

 苫米地さんは一言でいえば「うさん臭い」のだが、しかしマジメな人である。「世の中はこうあるべきだ」という理想を強く持っていて、それを実現させるために本を書いているはずだ。
 彼の思想は、簡単にいえばこんな感じだろう。

 ●「自分の頭でものを考える」ことが必要だ
 ●一人ひとりがそのように生きていけば、もっと世の中はよくなる

 あの膨大なうさん臭い著書のほとんどが、結論(または前提)として、このことを言っている。少なくとも僕はそう思っている。
 彼があんなにうさん臭い本ばかり出すのは、単純に「そういう本を買ってしまう人たち」を対象にしているから。「自分の頭でものを考える」を促すならば、まずはそういう層を、と思っているのであろう。
 すでに「自分の頭でものを考える」ができている人たちに対しては、そんなことを言ったところで釈迦に説法だから、今さら言わない。それに、いくら表面的にはうさん臭かったって、正しいことを言っているのなら、わかる人にはわかってしまうものだ。
「うさん臭いと思うだけ思って、本質がちっともわからない」ような、表面的には賢そうに見えているような人たち(○○とか××みたいな本を読んでるやつらのこと)が、いちばん厄介で、こういう人たちにはもう何を言ったって無駄なのかもしれない。だから苫米地さんは、そういう人たちに向けては本を書かないのではないかと僕は思っている。

 上に挙げた二点に、僕は全面的に賛同する。苫米地さんは「上からの改革」を信じていない。可能性は、あるとしたら「人々」にしかない。一人ひとりの力が、何よりも大きい。


「……結局、遅かれ早かれ、こんな悲しみだけが広がって、地球を押し潰すのだ。ならば人類は自分の手で自分を裁いて、自然に対し、地球に対して贖罪しなければならん。アムロ、何でこれが分からん!……こ、これは? サイコフレームの共振……。人の意志が集中しすぎて、オーバーロードしているのか?……な、何? 恐怖は感じない……。むしろ暖かくて、安心を感じるとは……。そうか……。しかし、この暖かさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それを分かるんだよ、アムロ!」
「分かってるよ。だから! 世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろう!」


 電通がどうとかいうことは、わかっていたことだし、すぐにどうにかなるもんでもない。結局は、一人ひとりの意志なんだ。アクシズだってそれで動く。
 富野監督は24年も前にそれを言っていたようだし、小沢さんやうさぎくんたちだって、そのことばっかり言っている。

2012/02/23 木 甲寅 文章に関する無知の知

 文章って難しいんだなあ、ということを最近痛感している。
 文章を書いている人の大半は、文章が下手だ。
 まず、文法が整っていない。
 わかりやすいように、読みやすいように書く、という意識がない。


 友達がとある同人誌に寄稿した文章を読んだんだけど、あまりに読みづらかったのでくらっとした。文法がかなり崩れているし、正確に意味が取れないところが多々あった。問題のない文を探すほうが難しいくらいだった。
 しかし、彼女が何を言いたいのかは、なんとなくわかる。なぜかといえば、読み手である僕が想像力を働かせて、「こういうことが言いたいんだろうな」と、勝手に解釈してしまっているからだ。「ここはうまく意味が取れないけど、文脈から判断してたぶんこういうことが言いたいんだろうな」とか。
 文章がどれだけわかりにくくても、優れた読み手は「ま、だいたいこういう意味だろう」と、勝手にくみ取ってくれるものだ。
 ここで言う「優れた読み手」とは、「わかりにくい文章を自分なりに解釈することが得意な人」というくらいの意味である。そういう人は、「わかりにくい文章」に慣れきってしまっているから、自分がそういう文章を書いてしまっても、それが「わかりにくい」ということに、気づくことができない。
 わかりにくい文章を読んでも、ちゃんと意味を取ることができるので、「問題ない」と判断してしまうわけだ。で、自分がそういう文章を書いていても、「わかりにくい」ということがわからない。それどころか、「わかりやすい」と錯覚してしまってさえいる。いや本当に、そういう人は絶対に多い。
 たぶん、わかりにくい文章を書いて平気な顔をしている人の多くは、こういうタイプの「優れた読み手」なのだろうなと僕は思う。

 その友達も、たぶん「優れた読み手」の一派だ。下手くそな文を書いても、「うん、これで通じるな」と思い込んでしまう。「自分で意味がわかるんだから、他人にだってわかるはずだ」というところに座り込んで、動かない。

 僕は彼女に、「見直しはしたのか」と訊ねた。すると「した」と言う。
 たぶん彼女は「見直し」をするときに、「客観的な視点で読んでみる」ということをしなかったのだろう。
 自分で書いた文を自分で読んで、ちゃんと意味がわかる。そんなの当たり前だ。だってその場合、読み手(=自分)が書き手(=自分)の意図を100%理解しているから。「こういうことが伝えたい」ということをあらかじめ知っていれば、どれだけ文章がまずくても、「こういうことが言いたいんだな」というのは、当然わかる。その時その人は、「文脈を完全に理解した優れた読み手」である。だから細部になんて目は行かない。「うんうん、ちゃんと意味が通じてる」とか思って、「問題なし」としてしまう。

 でも問題は、「他人が読んでわかるかどうか」だ。
 だから「見直し」をする時は、いったん他人にならなきゃいけない。書き手の意図をまったく知らない状態になりきる。また、「優れた読み手」としての自分も、いったん封印する。そうすれば、「あ、ここはちょっとわかりにくいな」といったことが見えてくるはずである。それができないのは、「他人の身になって考える」ができないってことだ。
 先日、教え子から読書感想文の添削を頼まれたんだけど、彼も「他人が読んでわかるかどうか」をまったく考えていないように見えた。「自分にわかるのだから、他人もわかるはずだ」というふうに、無意識に人は考えてしまうんだろう。

 自分の意見を正確に他人に伝えたいのならば、「誰が読んでも一つの意味しか取り得ない」文章を目指さなければならない。そのために必要なのは、「文法」と呼ばれる、言葉のルールを熟知することだ。動詞とか名詞とか、未然形とか連用形とかいう基礎的なことばかりではない。どういう順番で言葉を並べればわかりやすいのかとか、似たような単語の細かいニュアンスの違いとか、そういったことも「文法」の一部である。
 ルールを守らないと、意味がぶれる。意味がぶれると、「ま、だいたいこういう意味だろう」が横行して、誤解が増える。
 また、「読む側の負担」というのも考えたほうがいい。「結果的には意味が通じてるんだから、いいじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、「意味を理解するために読み手がする苦労」というものを考えないのは、無責任だ。「伝えたい」と願いながら、負担やストレスを相手に強いるのは、自分勝手すぎる。僕が最も怒りを感じるのは、ここだ。

 文章が上手でないのは、ある程度仕方がない。誰だって上手になる前は下手なのだ。大切なのは、「自分は文章が下手である」ことを自覚すること。自覚していれば、いたずらに複雑な文を作ってしまうことはない。わかりにくい文を作る人の特徴は、「下手くそなくせに一文が長い」とか、「下手くそなくせに難しい言葉を使いたがる」である。身の程を知れよ、と思う。下手には下手なりの書き方がある。

「きのう、ぼくはお父さんとふたりでつりに行きました。ぼくはさかなを二ひきつって、おとうさんは四ひきつりました。とてもたのしかったです。」この文は、幼い印象はあるものの、悪文ではない。文法的な問題はなさそうだ。もちろん「上手」とはいえないが、誤解が生まれる余地はないだろう。
 下手は下手なりに、ここから始めればいいのだ。シンプルに書けば、間違えることは少なくなる。
 悪文や非文を書いて平気な顔をしている人間は、それによって読み手が受ける負担というものを考えないのだろうか? もはや伝わる・伝わらないというだけの問題ではないのだ。悪文を書くということは、世の中のストレスの総量を増やしてしまうということにも繋がるはずだ。そういう意味でも責任というのは発生するのである。

2012/02/22 水 癸丑 


2012/02/21 火 壬子 民間政治家と民間教師

 うさぎくんが「ひふみよ」というサイトで、「小沢さんの音楽を聴いてきたような人が言葉の職業につくのは自然な話なわけで」と言っていた。僕のことではないか。
 言葉の職業につく、というのは、けっこう重要なことだと僕は思っている。
 ちなみに、学校の先生っていうのは言葉の職業だと思う。本当は。

 小沢さんといえば、よく「なぜ政治家にならないんだ」などと批判されることがある。信じられないことだけど、そういう人を何人も見てきた。「訴えたいことがあるなら政治家になるなり、坂本龍一のように目立った活動をするなりするべきだ」と。そういう人はだいたい、自身の狭苦しい「べき」の中に閉じこもって、他人の考えをその枠の中に刈り込んじゃったりするんです。

 そんな話をしていたら、一緒に仕事をしている人が、こんな文章を教えてくれた。朝日新聞の土曜版に載っている「悩みのるつぼ」という人生相談のようなコーナーで、岡田斗司夫氏が高校二年生の女の子に対して回答したものだ。

 [悩みのるつぼ] 残酷な事件をなくすために(回答編)(2012年01月29日)

 僕はかなり、これを正しいと思う。僕はよく「僕が五万人いたらもうちょっと違うんだけどなあ」ということを言うんだけど、だいたい同じこと。

 僕なりに要約すると、だいたいこうだ。政治家の存在意義はもう終わってる。政治家は「二流」の人がなればよい。では優秀な人や、相談者のように「この世界をよくしたい」と願う人はどうすればいいのか? 「民間政治家」になればいい。会社を経営して、従業員を幸せにし、地方を活性化させ、利益は困っている人のために使う。そうすると1000人くらいの人を幸せにすることができるだろう。1億人を幸せにしようとする人が100人いたら、その100人はけんかをして、1億人はほったらかしにされてしまう。しかし、1000人を幸せにする社長が10万人いたら……? 「民間政治家」とは、そういう社長たちのことだ。21世紀の「投票」とは、そういう社長の経営する会社の商品を買うことなのだ。

「民間政治家」という考え方は非常に洒落ていて、面白い。僕はそこまで考えていなかった。僕は政治家というよりも、教師のような存在を考えていた。岡田斗司夫さんの言ってることのほうが現実的だけど、僕の考えも併存できると思う。
「民間政治家」として会社を経営できるなら、それでいい。でも、それができない人は? 「民間教師」になるのがよいでしょうね。
 教師というのも政治家と同じように、存在意義が終わりかけている。もちろん、学校の先生だってしっかりしてくれないと困るのだが、それはそれとして、民間にも先生は必要だ。すべての大人が先生になるべきだと僕は思う。まあ、「すべての」は難しいだろうから、せめて「この世界をよくしたい」と願うような人たちは、意識して先生になるべきだろうと思う。

 世の中というものを、「上」から変えるのはかなり難しい。変わったところで、今度はその維持や運営が大変だ。だから、「中」(たとえば民間政治家)とか「下」(たとえば民間教師)から、少しずつ調整していくしかないだろう。僕は民間政治家にはなれないかもしれないけど、民間教師にはなれると思うし、ひょっとしたらすでにそうなっている。少なくともそういう時だってきっとあるだろう。そのことばっかり考えて生きている。
 ちなみに、僕は「教師」という言葉があまり好きではないので、できれば「先生」でいたいと思っている。せいぜい「師匠」で手を打ちたい。

『とびら』に入ってる『あやまち』という作品がまた名作。
「もしかしたら、いつか、どこかで」という想像力。
 それが大切なことなんだな。
 それがわからないから、間違えてしまう。

『とびら』読み始めた。自殺がテーマで、序盤でリストカットをするんだけど、僕はこういうのが苦手で、気持ち悪くなったり、動悸が激しくなったりする。今も、とても読んでいられなくなって、本を閉じてしまった。これ、なんなんでしょうかね? こういうのが平気な人と、平気じゃない人がいるらしいということは?
 で、そういうふうになってしまうからといって、「じゃあこの本は読まない」というふうにしてしまえないのもまた性分というもので、少しずつでも読み進めていきます。リストカットに関することは、いろいろとつらいんですけれども、人間として目を背けられないことなので。いや本当に、ホラー映画とかね、スプラッタ系のマンガとかは平気だし、本物の血でも血それ自体は大丈夫なんだけど、腕や指の傷口ってもんには、なんかトラウマでもあんのか、かなり苦手なのです。それと、「自分で自分を傷つける」っていう行為自体にも、反応しているような気がする。殺人や傷害のシーンだったら問題ない。やっぱ、今の世の中、自傷のほうがリアルだってことかな。
 今また読み始めたけど、本当に気持ち悪い。無理しないほうがいいのかな。

『なみだ』が素晴らしい名作。全国民が読むべき。
 セクハラがテーマのやつです。
「現状維持」を是とする多数派と、「こんな現状はおかしい」と叫ぶ少数派の戦い。そしてちゃんと少数派が勝利する。それが希望というものだ。
 放送室ジャックは鉄板です。
2012/02/20 月 辛亥 1911

 ももち麗子先生の「問題提起」シリーズ、『こころ』に続いて『いたみ』『ひみつ』『めまい』『うわさ』まで読みました。けっこうきつい。読むのがつらい。でも、読んだほうがいいな、これは。小学生か、せめて中学生くらいの、まだ素直なうちに。
 ブックオフに行けば、105円コーナーの講談社KCデザートのところに何冊かは置いてあるんじゃないかと思います。僕は2店舗回ったら全部揃いました。

2012/02/19 日 甲戌 Gakken

 このたび、ウィーン体制以後のヨーロッパ世界について勉強する必要が生じたので、2001年から愛読してきた「世界史講義録」というサイトを読み返した。やっぱり面白いなーと思って感心していると、その作者さんが4月、『「なぜ」がわかる世界史(古代~前近代)』と『同(近現代)』を2冊同時に発売するそうだ。これはたぶん、大学受験に対応したものであろう。買うしかないな、と思って、どこの出版社だろうと調べてみたら、やはり学研だった。
 学研。参考書と言ったら学研だ。日本史ならば学研の『美少女が教える日本史』で決まりだが、世界史はもう、これしかない。まだどんな本かも全然わからないけれども、学研と「世界史講義録」のタッグなら間違うことはあるまいよ。
 僕は本当に学研が大好きなのだが、そうなったのは本当に最近、ほんの数ヶ月の話だ。それなのにまさか、2001年からこんな形で伏線が張られていたとは思わなかった。

 さて、しかし。当時はわからなかったことも今はよーくわかりますね。世界史にしてもなんにしても。17とか18の頃って、やっぱ頭の中身が小さいというか、整理されていないというか。あんな煩雑とした脳みそでよく頑張ったと思うよ。いま、何人かの受験生と勉強の話やなんかをしたりしていて、「あー、狭いなー」と思うものです。それはいわゆる「若い」とか「青い」とか「ばか」とかそういうんじゃなくって、「これからもっと広くなる」ということの単なる予言です。あるいは、「広くなれ」という祈りかもわかりません。センスはいい。素敵な心の持ち主だ。しかし頭は、まだまだ狭い。そういう子が、受験に立ち向かうっていうのは、けっこう大変なことなんです。もう少し広かったら、もっと楽なのに、まだ狭いもんだから、苦労する。今の僕なら当たり前にわかるようなことも、当時の僕にはわからなかった。
 それは、誤解されたくないんだけど、一般に言う「若い」とか「青い」じゃないのです。思考の“内容”をとやかく言っているのではなくって、単に思考の“方法”の問題なんですよ。“技術”と言ってもいい。当時の僕には、考える技術が足りてなかった。内容はともかくとして。つまり、「お前は考えが狭い」とかって言うときは、「もっとたくさんのことを知れ」って意味に普通はなるんだけど、僕の言う「狭い」は、「君はまだたくさんのことを知ることが《できない》」なんです。たくさんのことを知るための“技術”というものが、君はまだ獲得できていない。能力がない以上、いくらたくさんのことを知ろうとしたって、どれだけ柔軟にさまざまなことを受け入れようとしたって、そういう意志を持ったって、無理だったりするんですね。教えられても、わからない。わかったとしても、身につかない。自分のものにできない。そういう時期です。
 で……技術っていうのは論理性とか、っていうことだけではないんです。秩序、いや、冷静さと言ったほうがいいのかもしれない。あるいは、引き出したい引き出しを的確に開けること。どうも説明が難しいけどね。
 ごちゃごちゃしてんですよ、青少年の頭の中は。広さは実は変わらなかったりするんだけど、散らかってるから、狭く見えるのね。見つかるはずのものが、見つからなかったりする。だから整理っていうことが必要なんだけど、それは本当に、歳を取ってこないとできなかったりして、そのことが何よりも、やるせないんだよなー。

2012/02/18 土 己酉 スイラハタマンナ

 アイキッチンでカレー食べた。
 ナンマタハライス。
 満腹で家に帰ると堕落する。

 アイキッチンは2008年12月オープンだそうだ。うーん、そんなに最近か。もっと前かと思った。2009年ごろはけっこう暇だったので、週に二回くらい食べに行ってたなー。その頃はお客さんも少なくて。「わしが育てた」的なことですよ。
 お暇な方は連絡ください。富士見台の、アイキッチンに行きましょう。

2012/02/17 金 戊申 男子三日

 面白い一日だった。
 十時間以上にわたって同じ人間としゃべっていた。
 重要な話をたくさんできたように思う。
 以前よりもずっと対等であった。
 このような関係が望ましいものだ。

2012/02/16 木 丁未 ディスリスペクト

 話し言葉と書き言葉は違う。
 文字である以上、それは原則的に書き言葉である。
 もちろん、文字でありながら、わざとそれを崩す場合だってある。
 その場合それは、話し言葉でも書き言葉でもない、第三の言葉となる。
 例えば詩がある。
 第三の言葉はすべて、良くも悪くも詩であると僕は思う。
 詩は意味を伝えない。
 意味以外の何かを伝えるし、伝えてしまう。
 文字による「つぶやき」の多くは、詩でしかない。
 しかし残念ながらみんなはそのことを“知らない”。
 だから騒動が起きる。
「話し言葉」「書き言葉」「第三の言葉」には、それぞれに適した「届け方」と「受け取り方」がある。
 みんなはそのことを“知らない”し、上手ではない。
 だから、そのことを前提として言葉を使わなければならないらしい。
 おっかなびっくり、慎重に。
 仕方のないことだ。
 言葉に対する僕のこのような考え方は、たぶん特殊だから。
 世間が「そういう考え方」をしていないのだったら、あまり意味がない。
 世間が何も考えないのなら、それに合わせるべきなのだ。
 それはつまり、「何を言うかよりも、誰が言うかを重視するべきだ」ということだったりする。
 それに従わないのは、ある種の手抜きなのかもしれない。

 が、僕は手を抜くだろう。
 しばらくは手を抜き続けるだろう。
 手を抜かないということは、言葉を放棄するということだと、僕は思う。
 言葉を放棄している人、言葉を軽視する人は、言葉によって必ずしっぺ返しをくらう。言葉だけじゃない、言葉によってものを考える以上、「考える」ということにまつわるあらゆる領域において、しっぺ返しをくらう可能性がある。
 そう信じようと思う。

 正しいことを、「正しい」と思ってもらうには、工夫が要る。
 でもそれが、「言葉を放棄した人たちに合わせる」ということであるならば、僕は嫌だ。
「税金を払う」とか「歳を取る」とか、「地位を得る」とかいうことであっても、嫌だ。
 閉じられた言葉の世界で、そこで完結した表現の中で、せいぜい足掻いていたいものだ。
「説得力」という言葉が心底嫌いなのは、まだまだ変わらない。

2012/02/15 水 丙午 チョコレートも

 パフェも好きだから優しく治療して。
 150円のサービス券を使うためにブックオフ中野早稲田通り店をうろうろしてみたが、特に欲しいものがなかった。すると入り口の近くにももち麗子という人の『こころ 問題提起・万引き』というマンガが4巻セット400円で売っていたので、中身はまったく知らなかったが買ってみた。すると、これが非常に面白い。
 ひょんなことから万引きにはまっちゃう女の子の話なんだけど、とってもよくできている。「わかる」んだよね。共感っていうんじゃなくて、「このときの、この子の気持ち、理解できる」っていう感じで。そのくらい丁寧に描いている。
 ちょっと、ケータイ小説かよっていうくらいに刺激的なシーンが続いて、辛くて、目を背けたくなるようなシーンもたくさんあるんだけど、万引きとか、犯罪に手を染めるっていうのはこういうことなんだよなあと思うと、かえって読まされてしまう。
 ラストも単純なハッピーエンドではなくて、でも絶望的ということでもない。完成度が高いとか、まとまっているというわけではないけれども、だからこそリアリティがある。
 この「問題提起」シリーズは全巻揃えなければなるまいなー。

2012/02/14 火 乙巳 のんぽり

 ライブを観に行った。中学生から大学生くらいまでの人たちが集まって楽器を演奏したり歌を歌ったりしていた。
 のんぽりというバンドがコピーしたミッシェルガンエレファントの『世界の終わり』がなんだかんだ一番良かった。あれはやはりいい曲だな。
 僕もバンド「ノンポリ天皇」をはやく始動させなくては……。

 これは、東映アニメーションギャラリーにでっかいパネルで展示されていて、とても感動したイラスト。この構図と手足の歪み具合、そこから生まれる躍動感は偉大なる矢口高雄先生の絵に通ずる。(画像検索してみてね。)
「矢口先生は日本の宝」なんてことを数年前には友達と毎日のように言い合っていた。特に『蛍雪時代』は、世の中にあるすべてのマンガを合わせても五本の指に入れたくなる名作。(一流の僕が言うのだから間違いないのです!)
 僕はつねづね世の中に絶望しているのですが、そのわけはなんといっても「『蛍雪時代』が絶版だから」なんですよ。古本屋でもまず見かけない(ブックオフとまんだらけのヘビーユーザーである僕が言うのだから!)。Amazonにはあるけど、けっこう値が張る。図書館で借りるのがいちばん現実的かな。
 そこで、なんと「都内で蛍雪時代が揃ってる図書館」をまとめてくれている人を発見! けっこうあります。近所にあるかどうか探してみてください。都外の方もぜひ探してみてくださいな。横浜市にもあるようです。

 大滝詠一の『1969年のドラッグレース』と川本真琴ことタイガーフェイクファさんの『山羊王のテーマ』が、まったく同じリズムだということに今さら気づいた。ググって見たけどそのことに言及している人はいない模様! 僕が世界で最初に気づいたんや……! 『山羊王のテーマ』名曲だと思ったら、先祖も名曲だったんですねえ。
 1969年のドラッグレース
 山羊王のテーマ
 山羊王はニコ動にしかなかった……ので、埋め込みます(たぶん期間限定)。
 

 歌え喜べ遊びたいな
 キラリ瞳をして盗めダイア
 これを忘れぬうちに帆をあげて
 光の中ゴールを目指せ

 30000円くらい出して『ふたりはプリキュア Max Heart』のDVD-BOXを買ってしまった。将来、自分の子供に見せたいと思うものの、その頃にはさすがにこのアニメの賞味期限もすっかり切れてしまっているのであろう。「スイーツってなあに?」とか聞かれたりして。
 アニメのデータ自体ならばDVDを買わなくてもネットに落ちているし、そのうちDVDよりきれいなブルーレイ・ディスクが出るだろうし、超高画質のデータをそのまま配信するサービスだっていつか始まるかもしれない。あるいは、僕の子供がアニメを見られるようになるころ(いつだろうね)には、もうプリキュア初代の映像なんてタダ同然で手に入るかもしれないのだ。
 数年前にも僕は『ふたりはプリキュア』のDVD-BOXを買っているのであるが、一度も見ていない。そのうち僕は大切な人と、そしてその人と作っていく家族と、このDVDを見るのであろうか。「見たくない」と言われたら終わりである。一人でなら見るかと言われれば、何度かは見るかもしれない。しかし見たところで淋しいだけである。「ああ、これぞ理想であることよ」とつぶやき、泣きながら、その涙の孤独にさいなまれてまた泣くのである。悲しい。見える。そんなものに、僕は合計60000円くらいかけてしまったのだ。

 しかしDVD-BOXというのは見るためにのみあるのではない。存在そのものが価値なのだ。つまりオブジェである。いや、モニュメント(記念碑)だ。いや待て違う、神だ。
「ふたりはプリキュア大社」という神社があったとしたら、それが僕の家に分霊(分祀)されたようなものだ。神棚と同じことである。黒を司るなぎさ神と白を司るほのか神の御加護が、わずか60000円で受けられるというのなら、安いものだ、という考え方だってあるのである。

 僕はそういえば『ふたりはプリキュア』のDVD-BOXを購入してよりずっと、それを部屋のできるだけ高いところに飾り続けている。さすがに毎日手を合わせるということはしないが、そこに居てくれるだけで、効験のある気がするのだ。たとえば僕が何か大切なことを忘れてしまいそうになった時に、きっとふたりが想い出させてくれるだろうと。地震の時にだってそのDVD-BOXは平気な顔をしてたたずんでいたのである。「大丈夫だよ」と微笑みながら。ちなみにその時(今もだが)DVD-BOXの置いてあった場所は、『藤子・F・不二雄大全集』専用の回転本棚(通称:Fタワー)の上である。効験の上に効験! 思えば、岡田淳先生の著作もすべて、部屋の最も高いところに並べてある。僕の無意識は、そういうふうにできているようだ。大切なものは上のほうか、もしくは手の届きやすいところに置いてある。当たり前のことのようだが、これが無意識というものなのだろう。

 このたび購入した『ふたりはプリキュア Max Heart』のDVDを見る機会は、今後しばらくないのかもしれない。しかし僕はこれを見るためにのみ買ったわけではないのである。「御神体」に「信者」として「お布施」を払った、と言ってしまえば俗っぽく、面白みのないものだが、事実といえば事実である。甘んじよう。他人の目には俗のように写っても、僕にとっては聖なのだ。聖なる力に満たされた部屋で、正しく生きるための修養を積むのだ。

2012/02/13 月 甲辰 サンチマンタリスム

 いい年してるから、時に感傷的になる。
 そういうときに出てくる言葉は青々として、少し恥ずかしくなるほど。
 ただ、そういう言葉にはやはりエネルギーがあって、誰かに何かを思わせたり、行動させたりしてしまう。良くも悪くも。
 感傷的になることにも、責任はつきまとう。
 だけどそんなことは別に考えない。

2012/02/12 日 己卯 にいに

 沖縄出身の友達が兄のことにいにって言う
2012/02/11 土 壬寅 兼好法師の日


2012/02/10 金 辛丑 リトリ

 浮くように
 浮かぶように
 あれも抱き
 これも抱いて

 流れていくのだ
 にごらないように
 白く白く白い
 すべて

2012/02/09 木 庚子 命日

 必要なのは気合い。
 つまり俊敏な動き。
「しない」と「できない」の差。
「できない」から「しない」へ。
「できる」けど「しない」へ。
「できる」から「する」ではなくて
「するべき」で、「できる」から、「する」。
 僕は一刻も早く「するべき」を悟らなければならない。

 めぇたんは、「秩序」という二文字を掲げ
「無駄なものの削除、デリートよ!」と言った。
 お掃除に必要なのは、一つはデリートである。
 もう一つは、やはり「秩序」。
 秩序とはすなわち分類である。

2012/02/08 水 己亥 冷たい水でこじあけて

 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるように僕は身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。
 斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。僕を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。僕は、信じられている。

2012/02/07 火 戊戌 最終話 人間宣言

 考えることをやめました。考えてみれば(これが最後の考えになるわけですが)、考えて良かったことなんて、何もないことに気づいたのです。これからは、何も考えず、自動的に生きていきます。人をよく見て、人に合わせ、人とだいたい同じように暮らします。すぐには難しいと思いますが、少しずつやっていきます。
 まず、余暇の過ごし方を見直そうと思います。くだらない上昇志向はすべて捨てて、本はできるだけ読まず、読むとしたら推理小説を読むことにします。答えの書いていない本は読みません。漫画も、古いものや小難しいもの、テーマが深遠なものは避けます。ジャンプ程度にとどめます。明日、さっそくブリーチと銀魂を買ってこようかと思っています。
 それから、テレビも買います。何が悪いのかって、テレビを見ていないのが一番悪いような気がしてきたのです。プレステ3とニンテンドーDSも買います。実況パワフルプロ野球を中心にやります。通勤は電車の中でDSとにらめっこしてようと思います。自転車に乗ると考える時間ができてしまうので、もう乗りません。
 2ちゃんねるのまとめサイトをこまめにチェックします。ツイッターでは「なう」「わず」「うぃる」を使いこなします。ときおりパチンコやスロットにも行きます。エヴァンゲリオンの劇場版もちゃんと見ます。頑固であって良いことなど、一つもありません。
 夜、時間ができたら飲みに行きます。家でもうまいものを食いながら酒を飲みます。放射能はもう気にしません。カラオケに行ったらWinter,againを歌い、ゴルフでも麻雀でも誘われれば行きます。スキーもスノーボードも行きます。
 一つのことがらに対して、二通り以上の見解を持ちません。場合分けはなるべくしないで、初めて食べたアボカドが不味かったら「アボカドは不味い」と決めつけます。
 そうしてリハビリを重ね、平凡という、人類の行き着く最終の安息の地に近づけたように思えたら、転職し、新天地で結婚できるように努力します。そして慎ましく暮らします。自分と、配偶者と、自分の子孫の幸福だけを考えて、そのあとは孫におこづかいをあげることに最上の喜びを見いだして、ゆったりと死んでいけたらと思います。
 やはり、人生を正しく生きるために必要なのは、考えないことです。早いうちに行動の規則を決めてしまうことです。定食屋に行ったら、上司の注文を待ち、それと同じものか、それよりも価格の低いものを頼みます。
 他人のことなんて、できるだけ考えないことです。いえ、身近な他人のことだけを考えて、社会とか世界とか、大きくて抽象的なことを想定しないことです。するとしたら、心にとても余裕のあるときに限ってしまっていいでしょう。もっと、自分と、配偶者と、自分の子孫のことだけを考えなければ。「仕事もできない男に家庭を守れるはずなどない」と言いますが、自分や自分の家族を幸せにできないでは、それよりも大きなことはとても言えないのです。世界がどうの、理想がどうの、考えるだけ無駄なことです。僕たちはしょせん、ちっぽけなのです。大きなことはすべて諦めてしまって、できることだけをささやかにしていればいいでしょう。したいときに、したいように。
「そもそも」なんてことは、絶対に考えてはいけません。そうなっているのだったら、そうなっているということでいいのです。結論がすべて、現状がすべてです。現状の中で、どれだけうまく立ち回れるか。それだけが問われているのです。そしてそれは、周りをよく見て、上手に真似をすればできてしまうようなものです。
 そういうわけで、長く続いたこの物語もここでおしまいです。明日からはまた新しい物語が始まるでしょう。考えないことです。考えたら、疲れます。いいことは一つもありません。何度も何度も、繰り返し絶望の味を、するめのように噛みしめていくだけです。
 やんぬる哉。まどろみます。

 それにしても僕はどうしたって邪推ってのは本当に嫌いだ。インターネットは文字の世界、言葉の世界なのだから、言葉以外から何かを読み取ろうとすることは理解を拒否することになるんじゃないかとさえ思う。書いてあることをそのままに読む、というのはそれこそ文字の世界での礼儀なんだと思うんだけれどもな。インターネットには作法ってもんがまだ確立してないから、みんな現実の作法を勝手に当てはめてるんだと思うんだけど、本当にそれでいいのかね? と、現実とネットとがまだほとんど完全に切り離されていた頃からネット大好きっ子だった僕は思うのである。僕はどうしても、ネットにはネットの作法があって、それが確立していないのならば、その場その場で、手探りで適した作法を考える、ということが必要だと思っている。たぶん僕のバックグラウンドがそう思わせるんで、ネット世代の異なる人(主にmixi登場以降にネットでコミュニケーションを始めた人たち)とは簡単には共有できないのだろうけど。
 僕は十代の頃、チャットにはまってて、「年上の人とでもタメ口で話す」って決めたことがあった。僕にとってネットってのはその時、そういう空間だったし、「とも」も「くら」も、そういうもんだと思ってくれていたのじゃないかと思っていたんだけど、実は「失礼な奴ダナー」とか思っていたのだろうか。いや……、たぶんその頃のネット空間ってそんな感じだったと思う。その人の背景がまったく問題にされない、名前と文字色だけに象徴されるネット人格ってのが確かにあって、お互いは完全にフラットな、等位の状態だった、ように思う。だって「俺は40歳だぞ!」って口で言うだけで偉そうな態度取られたらたまったもんじゃないもん。本当は小学生かもしれないんだから……。そんな昔話をしてもしょうがないのだが、そういう世界観がかつて、あるところにはあった。ように思う。

 エクスキューズ(言い訳)を入れておきます。
 僕は具体的な出来事や経験をある程度抽象化・一般化してここに書いておりますので、特別な個人への個人的な想いとか恨み・つらみ、などなどの具体的な意味は基本的にこめられておりません。込められているとしたらよっぽど特殊な場合でしょう。ないとは言いませんが。
 たとえば、下の記事ですが、実際に僕の書いていることを「青臭い」と言った人がいました。でも僕はその人を責めたいわけでも批判したいわけでもなく、「あー、こういう言葉って事態を膠着させるよなあ。それって僕が『うっせーよこの石頭!』とか言うのと同じようなことなのかもしれないなあ」と思って、その考えを自分で面白いなと思ったから、記してあるだけなのです。もう僕の頭は「面白い」になって、「青臭いと言われたときのちょっとしたショック」はどっかに行っています。だいたいはそんな感じです。
 しかし、具体的な想いが込められてなくても結果的にたとえば「イヤミ」のように見える書き方になっていたりすることは大いにあるでしょう。その点に関しては今後、なるべく滲み出ないように頑張りたいと思います。

「~~さんはある程度賢い人だから」と書いたところ、「年上に向かって『そこそこ賢い』とはなんだ」ということを意味するお叱りを間接的に受けた。「ある程度」を「そこそこ」と読み換えさせてしまうような僕のイヤミな文章力には惚れ惚れします(もちろん冗談です)。そしてある程度反省します。ちなみに僕は、その人がどの程度賢い人なのかわからなくて、でもある程度賢いことは確かなように思うから「ある程度」と書いたのですが、それを読み取れというのはあまりに厳しい。だったら他にも書きようはあるだろうと思ったものの、伝えたいニュアンスをそのまんまにするなら「~~さんは、どのくらいかわからないけどとにかく賢くなくはない人だから」というふうにしか書けなかった。どっちも失礼なのに変わりはないので、そもそもそういうことは書かなければよかったんですね。

2012/02/06 月 丁酉 事態を膠着させる言葉

 年下が年上に「頑固オヤジ」と言ったり、年上が年下に「青臭いガキ」と言えば、事態は膠着する。
「僕の友達は僕の味方をしてますよ」と言うのは飛び道具みたいなものだ。


「価値観の違いでわかりあえない」と見えるとき、だいたいは「前提の確認不足」だ。そこを確認しさえすれば、どうにかなることは多そうに思う。
 でも面倒くさがりの人は、それをせずに、「こういうことなんだろう」と思い込む。僕はそれではいけないと思うが、「しかしどうしようもなくそういうものなのだから、それを前提にしたほうがいい」と思う人もいる。その人と僕が話すのならば、まずその違いを確認すべきなのだろう。

「それではいけない」と思ってる僕は、傲慢に、「僕の前提をくみ取って読め、くみ取れないなら結論を出すな」と思いながら書く。で、その時に僕は誤解を恐れない。する人はすればいいやと思う。そこがともあれ、原因なのかなと思う。僕の幼さだ。


 それから。えー。僕は「僕と○○さん」という意識で書くが、読んでる人は「年下の人と年上の人」という構図で読むのかも知れない。そうすると「ジャッキーは失礼なやつだ」になったりする。それは避けがたいことで、やはり僕がしたことは、ネットという公共の場ですることではなかったな、という反省は大いにあります。が、「失礼なやつだ」とネット上で(あんまりよく)知らない人に思われたところで、別に嫌なこともそんなにないから別にいいかとも思う。
 もし僕に何か伝えたい人がいたら掲示板があるんで、ぜひどうぞ。

2012/02/05 日 丙申 修行が足りん

 反省することは多い。
 僕の言うことはどうしてしばしば他人に受け入れられなかったり、理解されなかったりするのだろうか。いろいろ理由はあろうけれども、どうしても「価値観の違い」っていうことで片づけたくはない。
 きっとそうではないと思う。
 そもそも、パッと直観で思ったのだが、人と違う価値観なんて持つべきじゃないんじゃないかな。
 その心は、説明できないが、そういうフレーズが思いついた。
 もしかしたら僕には人と違う価値観なんてものはないような気がする。
 小渕元首相が、「自分は真空総理だから誰とも対立のしようがない」なんて意味のことを言ったとかいうことだが、僕もそのようなものであるような気がする。
 本当は価値観も主張もなくて、わからないことを「わからない」と言い、好きなものを「好き!」と言っているだけのような。
 だからこそ、誰とでも対立しうるのかもしれない、僕は。


 僕はだいたい大人に嫌われて、子供とか、トッチャンボウヤみたいな精神状態の人に好かれる。
 僕の考え方はたぶん大人から見ればとても子供で、だけど僕は「これが正しい」と思っていたりする。
 それを価値観の違いというのかもしれない。

 それから、たぶん僕は常に理想を念頭に置いている。現実を平気で蔑ろにする。「現実なんて変わればいいじゃん」と思う。それがゆえに子供であるとも言える。
「いやだい、いやだい」って言ってる感じ。
 でも僕は「それは必要な駄々である」くらいに思っていて、それが価値観の違いといえばそうなのかもしれない。
 常に理想を念頭に置いている人と、そうでない人とではどうしても話が合わないのかもしれない。
 あるいは、常に抽象的に考えている人と、そうでない人。
 僕は常に抽象的に考えている人のような気がする。
 それを青臭いといえばそうなのかもしれない。
 が、具体的な道筋が見えない以上、抽象的な道筋をなぞり続けるしかない、というのが僕の現状だ。
 もしかしたら一生、そうなのかもしれない。
(でもいつかは具体に這い上がりたいです。)

 抽象的にしか考えていない人が抽象的なことを言うと、あんまり抽象的に考えない人は自分なりに具体的に置き換えて理解する。そこでずれが生じて、「話が合わない」になる。そういうことがよく起きているような気がする。
 ここで言っている具体と抽象というのはなんだか詩的な気もするが、僕も茫漠としたイメージのみをたよりに書いてみている。


 それから僕は、「書かれていないことを読み取られてしまう」ということをまったく前提にしていないから、誤解を招きそうな書き方を平気でする。誤解されたら、「そんなこと書いてないですよ」と言う。
 そんなだから、誤解や誤読をされたり、あるいは読解してもらえなかったりするのは当然なのかもしれない。


 そういえば僕は先日Twitterのやり取りをそのままコピペした。リツイートやふぁぼったーや、トゥギャッターやら何やらと同じことをした意識だったのだが、なぜかそれを批判する人がいたらしい。その人がそれをいけないことだと思ったんだとしたら、何がいけなかったとその人が思ったのか、僕にはわからない。
「転載されたら消したい時に消せないじゃん。転載するなら許可取れよ」という批判だったら、なるほどと思う。リツイートやトゥギャッターも同時に批判するのなら、僕はむしろ喝采する。が、「一度発表したものなんだから、自分の発言として永遠に責任を持てよ」という返し方もある。
 僕は、「ネットに書いたことには責任が生じるので、出典を明示してそのまま(改変せず)転載する限りにおいては、文句を言われるのはおかしいと思う」と思っている。
 それは僕がTwitterを書き言葉だと思っているから、思うようにしているからだ。それであえて転載したというのもある。


 久しぶりに淋しい気分になった。
 まなびも男吾もサジタリウスも、蛍雪時代も、『ぼくたちの近代史』も、このまま永遠に忘れ去られるのならば、僕の言っていることが「正しい」わけがない。
 僕がそれらと同じだというのではなくて、僕はそれらを志向しつつ、ちっとも敵わない。『うさぎ!』だって、僕はとてもいい本だと思うが、あれを評価する人はやっぱり少ない。
 そういう子供じみた絶望にいつまでもかかずらっているから、よくないのかもしれない。しかし僕はこれらのものや、それを踏まえたときの僕と対立するものとは、やっぱりたたかって行きたいと思っている。
 力が及ばなくて悲しい。もうちょっと精進しようと思う。
 サジタリウス見ながらわんわん泣いて、「なんで世の中はこんなじゃないの?」って嗚咽しながら吐いた時のことを僕は忘れないのです。


 つって、まあ、僕は僕として僕のなるだけ楽しいように生きながら、趣味として考え、義務として教育をしていきたいと思っています。

2012/02/04 土 乙未 こころ!

 無人に近い某大学のラウンジで高校生たちに『こころ』について話した。自動販売機の下を這いつくばって覗いたら硬貨が見えたので、誰か取りに行くといいよ。
 僕はいったい何をしたいのか、何になりたいのか、実のところ具体的にはまったくわからないのですけれども、わからないことを織り込み済みとすることによって、なんとかホンワカ生きていますね、僕は。

 デニーズで工藤に会えてよかった。

2012/02/03 金 甲午 こころ

 先生は他人のことしか考えられない、自分のない人で、
 Kは自分のことしか考えられない、他人のいない人だった。

 どっちもよくない。
「俺は俺だ。他の誰かではない。俺は俺の生きたいように生きる。具体的には、俺は●●を××する」みたいなのが、僕はとても嫌いだ。Kですね。Kの自殺って、とても身勝手だもの。世の中、Kみたいな人が多いね。先生みたいな人も多いけど。

2012/02/02 木 癸巳 Twitter脳の恐怖

 僕はTwitterを憎んでおり、Twitterにより言語力が低下してしまった友達、もしくはもともとの言語力の低さを露呈させてしまっている友達を見ることが非常に苦しい。友達でなくても、言語力の低い投稿を見かけると絶望的な気分になる。
 言語力、というのはこの場合、「書かれた言葉」に関するものである。(言語力というのがなんなのか、というのは、よくわからないが、まあ言語力というものがあるのだとします。)

 だけど、Twitterというのは、そこにある言葉は実は、「書かれた言葉」ではないのかもしれないんですね。Twitterの言葉は、「つぶやかれた言葉」でしかない。そのように一部のユーザーは、思っているのかもしれない。
 こういうやりとりがあったのです。

shiba_kei 芝浦慶一 @
@uichmar マーさんの投稿は、単独だと(その前後の投稿を見ても)意味がわからないものが多いのですが、何か意図があるのかツイッター脳なのかどっちですか!!<サイゼリヤとか

uichmar 元プリンス @
@shiba_kei サイゼリヤについては直前のリツィートを読むとわかる。その他のは特定の友人と@を飛ばさずに会話していてそれを垂れ流しているだけなのでツィッター脳(というかツィッターそのもの)です。なんとなく @を飛ばしたら負けみたいな雰囲気ぐ俺とその人の間にはあり…。

shiba_kei 芝浦慶一 @
@uichmar なるほどー。リツイートはリストのタイムラインや、右側の柱には表示されない(通常タイムラインか、マーさんのプロフィールページを全画面に表示しないと見えない)ので、見えませんでした。僕はマーさんの投稿を「リスト機能」でチェックしているので…。

shiba_kei 芝浦慶一
ツイッター脳こわい。①何を言ってるのか、何に対して言ってるのかわからない人 ②発言が他人に与える影響をまったく考えない人 ③誰にも向けられていない、うめき声のような言葉を吐く人

uichmar 元プリンス @
@shiba_kei ふむふむ。ところでツィッターにおけるタイムランってのは『読む』より『眺める』が正しいと思うのよね。名文ばかりが流れてくるよりも玉石混交の方が良かったりする。僕がフォローしている人の中に『僕にとっては非常に興味深いうめき声』をあげている人が何人かいます。

uichmar 元プリンス @
@shiba_kei この読み方かま日常生活まで侵食すれば間違いなくツィッター脳ですな。そこは気をつけねば。

 本筋とは別に、「雰囲気ぐ」「タイムラン」「読み方かま」という表記を見て僕は衝撃を受けた。ああ、これは「間違えた」のではなくて、「噛んだ」と呼ぶべきものだと。uichmarという人は、たぶんこういう「タイプミス」に対してあまり気にしていない。僕は投稿してから少しでもミスとか、気に入らないところがあったらすぐに削除して、投稿し直す。だけど、そういうことをツイッターでしている人はたぶんあんまりいないんだろうな、と思った。僕はツイッターを「書き言葉」だと思っているけど、多くのユーザーはひょっとして、これを「しゃべり言葉」に近い、「つぶやき言葉」とでも言うべき種類のものだと捉えているのではないかな、と。
 僕はツイッターでも何でも、ネット上に何かを書き込む時は、神経質なくらいに投稿前に読み返して、投稿した後も読み返して、ちょっとでも気になるところがあったら、可能な限り書き直す。それはやっぱりインターネットの言葉を「書き言葉」だと思っているから。「残るもの」だと思っていて、「泡沫に消えていくもの」ではないと思っているからだ。
 話し言葉で「噛む」ことは許されるけれども、書き言葉で「噛む」というのは、すなわち「間違える」とか「ミス」というものであって、原則として許されない。許されないといっても罰されるとか非難されるというほどではなくて、「強い違和感や不快感を与えてしまう」というくらいの意味だ。少なくとも僕は、本を読んでいて誤字・脱字らしきものを見ていい気分はしない。なぜかというと、「間違い」があれば「その人の書きたいことが正確に伝わらない」と思うからだ。
 僕は言葉をできるだけ、自分の伝わってほしいように伝わってほしいから、何度も読み返す。書き言葉は書きっぱなしだから、伝わらなかったら伝わらないまんまだ。それが怖いので、「少しでも伝わる可能性が高くなるように」頑張る。しゃべり言葉だったら、伝わっているかどうかは相手の反応を見ればわかったりもするので、多少は安心して言葉を使えるんだけど。
 ツイッターを僕が嫌いなのはたぶん、そこなんだろうな。限りなくしゃべり言葉に近い意識で書かれるため、「伝わっているかどうか」ということがあまり問題にされない。

 uichmarさんは「読む」より「眺める」が正しい、と言う。まあ、そうなんだろうなと思う。上記のような意識で、つまりしゃべり言葉に限りなく近いような意識でツイッターに言葉を投稿している人たちは、「眺める・眺められる」という感覚でそこにいるのだろう。「聴く」ではなくて「聞こえる」であって、その中で自分の興味あることだけを感知する。
 自分の言葉が誰かに伝わるかどうかも考えなければ、他人の言葉が自分に伝わるかどうかも、どうでもいい。何も考えずに何かを言い、たまたま伝わってきたものに対して何かを考える。ま、要するにほとんど何も考えていないってことです。考えたい時にだけ、考えたいように考える。
 そうやって人は馬鹿になっていくのだと思うんだけどね。
 精神的に向上心のないものは、馬鹿だ!

 まあねえ……「眺める・眺められる」っていうのは気楽だし、楽しいんだと思うよ。でも、「ただ楽しいってだけじゃ、死ぬぜ?」だからね。uichmarさんはある程度賢い人だから、彼がそれで馬鹿になったり損をしたりすることはないのかもしれなくって、「だから彼にとってはそれでいい」のかもしれない。だけどuichmarさんがツイッターに対してそういう態度を取ることによって、ひょっとしたらどこかで誰かに何かの影響を与えてしまうことに荷担しているかもしれないんだよな、と僕は神経質にも思う。誰かを馬鹿にさせている可能性。人と人とがますますばらばらになっていったりとか。塵も積もれば山となるというか、全体は常に部分によって構成されていて、部分である自分のあり方はどうしても全体に何らかの影響を与えてしまう。世の中はすべて繋がっているのだから。っていうことを僕はずーっと信じているので、ゴミのポイ捨てはしないようにしている。

2012/02/01 水 壬辰 ちゃんと会議

 教科書を声に出してすらすら読める子は、どれだけ自身が「勉強できない」と思ってたって、やれば必ずできると思う。だけどすらすら読めない子は、まずはすらすら読めるようになるところから始めたほうがいい、と僕は思う。
 低学年のうちは「音読」とか「朗読」って授業を作って、大学生バイトでも何でもいいからたくさん雇ってマンツーマン状態で読み方を教えてあげることに力を尽くすのがいいように
 僕は思う。

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