少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2010/03/31 偏食はよくないです

   この歳になって赤い糸
   信じてるわけじゃない
   だけどあなたに寄り添ってる
   奇跡みたい 趣味が違う 相性最悪

   シアワセになるための我慢は
   いくつでものみこんでしまおう
   理想とは違っても理屈じゃ
   語れない愛があるの

   (奥井亜紀『うそつき』)


 趣味が食い違って、相性も最悪のように思われても、それでも一緒にいるというのはまるで奇跡のようで、「赤い糸」なるものが本当に存在するのではと思ってしまいかねないほどだ。
 そんな二人が幸せになるには、どうしてもお互いに我慢しなければならんことが多くなる。我慢とは、二人でいるためにはきっと必要とされるもの。我慢を伴わないのは「理想の恋」というやつで、それはそれでけっこうだが、別にそれだけが恋というわけではない。愛というわけではない。

 というような、まあ、歌なのだと思うが、これに対しては「我慢するなんてよくない。お互いに話し合って、妥協点を探るべきだ。どちらかが我慢してたらきっと破綻するだろう」というのがあるかもしれない。
 しかし「妥協点を探る」というのは「お互いが我慢する」ということに等しいのである。「我慢する」というのは何も、「堪えて、忍んで、黙っている」ということだけを指すのではなくて、「私はこのように我慢します」「では僕はこのように我慢しますね」というふうに決着するような形もありうるわけだ。「妥協点を探る」をして、お互いが一切我慢しないということはまずありえない。どちらも我慢しないですむのなら、そもそも「妥協点を探る」必要はない。お互いの我慢が均等になるような地点を探すのが「妥協点を探る」だ。
 それにしても「妥協点を探る」という言い方は後ろ向きだ。こういう微妙にネガティブな言い方をしなくてはならないような関係は、もちろん「理想の恋」ではない。「理想の恋」というのは、おそらくどちらも我慢しなくてよいような状況、すなわち「妥協点を探る」などということが必要とされないような関係を指すのだろうと思う。(そりゃ、「妥協点を探り合うのが私の理想」という人や、「相手に我慢させまくるのが僕の理想」「いっぱい我慢させてもらえる関係が理想」なんて人もいるかもしれないが。)
 それが「理想の恋」でないなんてことはわかっている。わかってはいるが、別に理想であるようなものだけが恋なのではないし、理屈で割りきれないような感情や関係というのも存在する。「(D)大っ嫌い(N)なのに(A)愛してる」みたいなもんである。「だけど気になる こんな気持ちはなぜ」みたいなもんである。
 まーなんだか当たり前みたいなことを書いているが。
 我慢ちゅーのは、して当たり前のもんなんですよ。
 我慢というのは、「嫌なことに堪える」ことを言うのだから、我慢が好きな人間なんているわけがない。我慢を好きと言ってしまったら、それはもう本質的には我慢ではないのである。「おしっこ我慢するのが好き」というのは、実は「おしっこを出さないで溜めていることが好き」というだけのことなのだ。それは本来は我慢と呼ぶべきではないのである。
 で、人生というのは好きなことばかりしていればいいというもんではない。嫌なこともせんくばならん。生きるということは何かを我慢し続けることである、と言っても過言ではないほどだ。
 そんなら、せっかく我慢するんだし、我慢の向こう側にあるものは不幸せよりも幸せのほうがいいよね。シアワセになるための我慢っていうのは、生活の中にみちみちているあらゆる我慢の中で、最も素敵な我慢であるわけで、そういう素敵な我慢を、積み重ねていって、シアワセに向かっていくという、そういう状況ってのは、素晴らしいよねという、そういう歌なんですね。
 んーだからまあ、恋人が喜ぶんなら、ちょっと我慢して嫌いな食べものも食べちゃいなよとか、そういうような感じです。

2010/03/30 理屈と説得力/大人と子供

 親が不甲斐なければ、子供に説教もできないので、僕はちょっとだけ頑張って立派になろうかと思う。ところで「不甲斐ない」ってなんだ?「不」と「ない」で二重否定になって、「甲斐がある」ことの強調になるのか?
 まあそれはどうでもいい。僕は普段は「説得力」というものをあまり問題にしない。例えば、万引きをしている人が「万引きはしてはいけない」と言っても説得力がまるでないわけだが、僕は「それがどうした」というのである。つまり「棚上げ」をすると説得力は落ちるが、説得力が落ちても理屈が変わらないのならば、問題はないと考えるのである。
 だって、理性的にものごとを考えられる大人なんだったら、「説得力」なんていう曖昧なものに流されるんじゃなくって、ちゃんと「理屈」と真っ向から組み合って考えるべきでしょ?「我は我、人は人」という大前提があれば、「理屈を言う人の事情」なんてどうでもよくて、ただその人の言う「理屈」だけを問題にできるでしょう?
 大人は、「自分が万引きをするか、しないか」ということを自ら理性的に考えるべきであって、「万引きをしてはいけない」という言葉に「説得力」があろうがなかろうが関係ない。「万引きをしてはいけない」を唱える人が万引きの常習者だったからとて、それはそれだ。その人が万引きをしているという事実と、「万引きはしていいことか、いけないことか」という問題は、まったく別である。大人だったら、そのように考えられなくてはいけない。
 僕が「○○は美しい」ということを言っていて、僕が本当は心根の醜い人だったとしても、「○○が美しいか否か」を最終的に決めるのはあなただ。僕の心根が美しいか醜いかは関係ない。美しかったり醜かったりするのは「僕」ではなくて「○○」なのだ。「説得力」などというわけのわからないものに流されていてはいけない。まあ、流される人が多いから、わざわざこういうことを言ってしまうんだけど。
 ところがしかし、これは「大人」に向き合うときのことで、「子供」に対しては別だ。子供には理屈など通用しない。「説得力」がすべてだ。僕は理屈を言うことはできるが、それに説得力を持たせることは必ずしも得意ではない。(僕の文章の「書き方」にはどうやら説得力があるらしいんだけど。)
『ドラゴンボール』を思い出してほしい。あの世から戻ってきた悟空がトランクスと悟天にフュージョンを教えるシーンで、はじめ悟空のことを「あんまり強くない」と思い込んでいた悟天とトランクスは悟空の言うことを真面目に聞こうとはしていなかった。ところが後に「悟空はめちゃくちゃ強い」という事実を目の当たりにした途端、二人の態度は急変して、「はい先生!」なんて言うようになる。
 子供は、理屈や状況なんかではなく「説得力」のほうを優先するのだ。悟天とトランクスは、悟空が強かろうが弱かろうが悟空の言うことを素直に聞いていたほうがどう考えてもよかったはずなのだが、天の邪鬼な子供たちは「説得力」を求める。学校の教室に置き換えれば、「あの先生は怖い」と思い込ませてさえおけば一喝で生徒は静まるが、「あの先生は怖くない」と思われている先生がいくら喉をからしても、教室は静かにならないのである。これも一種の説得力だ。理屈なんかの通用する世界ではない。
 だからもしも僕が子供を作るのであれば、「説得力」を発動させられるような存在にならなければいけないのだ。悟天とトランクスに「はい先生!」と言わしめた、あの時の悟空のような強さを身につけなければならないのだ。それってけっこう厳しいんで、僕は一生子供を持てないのかもしれない。どうなるだろうか、わからんのう。
「説得力」のほうは嫁に任せて、僕はぼんやりと、「お父さんにしておじいちゃん」であるような存在になれたらいいのかもしれない。おじいちゃんは子供を甘やかしてさえいればいいのである。そういう役割なのだ。
 しかし「父親」という在り方を放棄して「祖父」という在り方だけを演じると、その家庭は「片親」であるのと同じになるから、あんまり喜ばしいことではない気はする。差別的かもしれない発言をするが、「優しい片親」に育てられるよりは「仲のいい両親」に育てられたほうがずっといい。断然。これは正しい偏見である。だから「あー、立派になんなきゃいけないんだな」と今は、漠然と思っている次第なのだ。父親が形だけでも「いる」っていうだけで充分な部分もあるんだが、そればっかりではいかんのよ。

2010/03/29 真剣に引越を考えている

 練馬に住んで、はや七年が経過した。周りで引越ブームが巻きおこっているので、僕もそろそろ引っ越そうかしら。神保町あたりに意外と安い物件があるらしいので、そこに住もうかな。毎日古本屋に行けるぞ。キャハハ。国文学科卒としては本郷あたりもいいかもしれない。フフフ。

2010/03/28 サイダー

 あまりにも肩が凝る。自転車とパソコンが原因だと思われる。それと読書か。本を読む時ってどんな姿勢で読んだらよいのだか未だにわからない。
 普段が猫背だからいけないのだろうと思って正座して文字を打ってみている。むかし偽兄より頂いたドラえもんのキノコ椅子に座って。なかなか具合がいい。慣れればずいぶんと楽であろう。矯正されたらいいなあ。
 久々にメールフォームからお便りが届いたと思ったら汚い字で(比喩)「お前面白いな。」とだけ書いてあった。名前にもメールアドレスにも心当たりがない。いったいなんなんだろうか。みなさんなんかあったかいお便りください。

 この一週間、オマケのシール目当てでハートキャッチプリキュア!パンという商品を探して30軒近くのスーパーマーケットをはしごしているのだが、大泉学園のリヴィン・オズに二種類、芦花公園のサミットに四種類置いてあるのを確認しただけで、その他のスーパーではまったく存在を確認できない。どちらのお店も若干遠く、できれば自転車で15分以内のところで全七種類そろって置いてあるお店があるといいのだが、それはまったく無理な相談らしい。これまでに先週大泉学園で二つ、昨日芦花公園で八つほど買ったのだが、全二十種類のシールをコンプリートするのはまだまだ先のことになりそうだ。気が向けばここで経過報告することにしよう。

   2 キュアマリン
   5 シプレ&コフレ
   9 花咲つぼみ&シプレ
   11 キュアブロッサム
   12 キュアマリン
   16 キュアマリン
   16 キュアマリン
   16 キュアマリン
   16 キュアマリン
   17 花咲つぼみ&シプレ

 現在のところ、以上の十枚、七種類が集まっている。なぜ16番ばっかり4枚も出るのか……。四年前に『ふたりはプリキュアSS』のシールを集めた時も同じのばっかり何枚も出て、たった8枚をコンプリートするのにマクドナルドのハッピーセットを三十食以上買って食べた思い出があるのだが、今回もそんな感じになりそうだ。単純計算で八十個くらいはプリキュアパンを食べなければならない。経済的にも健康的にも社会的にもずいぶんとまずいような気がするが、一度始めたことなのだから最後までやり通す。四年前のあの情熱を思い出しながら。
 というわけでみなさん近所でプリキュア!パンを見かけたら教えてください。買って食べてシールだけ僕にくださっても嬉しいです。ダブったぶんの交換も歓迎します。力を合わせてコンプリートしましょう。

2010/03/27 家族が増えたので

 僕の携帯電話は家族と24時間通話し放題なのだが、
 あんまり家族と話すことというのはない。
 仲良くないわけじゃない(むしろ相当仲良しだと思う)が、わざわざ電話で話すようなこともない。
 ところが家族が増えたので


 さて川はいいですね。
 青空もいいですね。
 雨が降っていても僕らは弾き飛ばしますね。
 運動をするとあったまるから
 バリヤ張ってるみたいになりますね。
 いっさいの寒さは忘れてしまって

2010/03/26 4今日僕

 正直僕は血迷っているのですが
 その姿は誰にもお見せしません。
 世の中には血迷っている姿を晒して
 平気な顔をしている人もいるようですが
 僕にはとても信じられません。
 と言いたいようなもんですが、
 二十歳くらいの時にはそのような時期もあったかもわかりません。
 若気の至りというか、そのくらい自棄になっていたとも言えます。
 辛かったのですよ、あの頃は。


 正直僕は血迷っているのですがその姿は誰にもお見せしません。世の中には血迷っている姿を晒して平気な顔をしている人もいるようですが僕にはとても信じられません。と言いたいようなもんですが、二十歳くらいの時にはそのような時期もあったかもわかりません。若気の至りというか、そのくらい自棄になっていたとも言えます。辛かったのですよ、あの頃は。


 男は、殊に大人の男は、相当にごつい鎧を着て生きています。心の内側をあまり外にはさらけ出しません。僕はよく「大人はさみしいと言ってはいけない」というようなことを言います。つまり「さみしいと言ってしまうような人間は大人ではない」です。僕はさみしいを言うのでどうやらまだ子供です。
「さみしい」を言うということは、自分の心の内側をさらけ出すということです。大人は、殊に大人の男はそれをしません。してはいけないことになっています、社会的に。だからこそ、赤ちゃんプレイのできる風俗に通い詰めたり、SMクラブに入り浸ってしまったりする大人がいるのです(参考文献:藤子・F・不二雄『やすらぎの館』)。露出狂なんかも、「心の内側をさらけ出したい」という欲求が、かなり歪んだ形となって現れたものかもしれません。心の内側がさらけ出せないので、身体をさらけ出そうとしているとか。
 それは、旧時代的な「お父さん」の在り方に関係しているような気がします。あなたのお父さんは「かわいい」ですか? 本来、お父さんはかわいくてはいけないのです。常に傲然とした態度で、家庭を守り支配する最強の存在でなければいけなかったのです。その名残として男は未だに、社会的もしくは世間的にはそのようであることを要求されています。だから心の鎧が手放せないのです。
 女性はどうかというと、たぶん心に鎧を纏うというよりは、どちらかというと身体に鎧を纏っているのです。それは化粧であったり、ファッションであったりです。女性は、社会的もしくは世間的に「美しい」という鎧を無理にでも着ることを要求されているし、女性のほうも多くは「そうあるべき」と信じ込んでいます。男性はすっぴんでもいいのに、女性は「身だしなみ」として化粧をしなければならないのは、本当はおかしい。だけど化粧をしないとちやほやされない、むしろ怒られる、嫌われる、避けられる、いじめられるという物理的な(!)理由もあって、女性は好むと好まざるとにかかわらずそれをする。僕はそのような女性を可哀想だと思いますし、女性に言わせれば心に鎧を纏っていなければ生きていけない男性を「かわいそう」と感じるんじゃないかと思います。
 ただ、女性にとって「美しい」は武器としても使えて、するとそれに対応する「お金」というものも男女双方に重要なものとして登場するわけですが、それについては長く複雑になるので何も書かないことにします。

 あと余談として、もしも肌が(今の価値観から見て)汚いほうが美しくて立派だとされるような風潮があったら、肌のきれいな女性は進んで汚いメイクをすると思うし、もともと肌の汚い女性はすっぴんでもモテるのかもしれない。もしそうなら、やっぱり化粧ってのは外からの要求によるものが大きいのだろうと思います。当たり前だけど。だからなんだかいつもむなしさを感じてしまう。
「全身タイツみたいなオシャレなファッションが流行ってもね 絶対にね 着ないと言ってくれよBaby」なんて歌詞がSOPHIAの『進化論』という曲に出てくるけど、もしも「化粧しない男は身だしなみが悪い」というような風潮になったら、僕は化粧をするのだろうか? どうなんでしょうね。わからないけれども、僕は「どっちにしろ」全身タイツみたいなオシャレなファッションの子は好きじゃありません。

 僕もいちおう男なので相当に強固な心の鎧を纏っています。他の男がどうかは知りませんが、僕は容易には心の内側を他人には見せません。それはここの文章を読めばわかると思います。男友達に対してだって、十年近く付き合いがあってようやく少しずつ手の内を明かしていくというようなペースであるような気がします。恐ろしいことです。なので知り合って何年というレベルの女の子が「ジャッキーさんは私に心の中を見せてくれない」とか言って嘆いたって、「ひよっ子が何を申すか」としか言えないのです。
 と、いうふうに「頭の中」だったら割と簡単に明かせるんですけどもね。頭で考えることはたくさんあって、無数の矛盾を孕むけれども、心で考えたことというのは一つしかなくて、だから矛盾もしない。それが故に、知られるのは恐ろしい。自分というものが、一掴みに把握されてしまうというのが、怖い。僕はいつでも「把握されたい」と願っているが、そんな優れた手のひらがこの世の中に存在するとは到底思えないから、十年二十年とかかってしまう。
 まあ例外として、恋の相手の手のひらというのは、とても優れたものに見える時があって、「ああ、この手のひらだったら」と思ってしまうことはあるかもしれない。「うーん、僕の手のひらとこの子の手のひらを合わせたら光り出すのかも」とか思えるような。まあそんな。
 何が言いたいかというと僕も赤ちゃん言葉になってしまうわけですね。風俗は行きませんが。赤ちゃん言葉というのは比喩ですけどね。赤ちゃん言葉がセックス中のプレイであるのなら、それはプレイでしかないわけですからね。理性的な赤ちゃん言葉というのだってあるのかもしれない……ってまあそれは普通の「素直な会話」ってやつなのか。「好きだよー」「あたしもー」「にゃーん」「にゃんにゃん」みたいな、そういうことですね。(理性的なのか?)

2010/03/25 キャッチボールは楽しい

 グローブも使わずに
 柔らかいボールで
 投げたり受けたりすることは楽しいのである。
 僕のスポーツが嫌いな理由は主に「ルール」と「勝敗」によるのであって、
 運動自体は大好きなのである。
 木登りとか大好きである。
 大人になると、運動といえばジムかスポーツになるらしいが、
 たぶん孤独だからそうなるのだろうな。
 キャッチボールには相手が要る。
 木登りも、見ている人がいたほうが楽しい。
 大人には友達がいないから、どうしても運動する機会は減る。
 大人になると「飲み友達」と「昔からの友達」の二種類しかいなくなる。
 友達はどこに行ったのだろうか。

2010/03/24 フィクション

 今日何をしたのかというようなことを書こうとしたのだがやめた。
 いずれ日付をずらしてシレーッと書くかもしれない。
 僕がここに今日「ディズニーランドへ行った」と書いて
 僕のお母さんが今日「ディズニーランドへ行った」とブログに書いたら
 僕はお母さんとディズニーランドへ行ったのだと思われてしまう。
 思われてしまうっていうか、その場合はまあまず間違いなくそうだろう。
 嘘でなければ。
 ちなみにうちのお母さんはブログなんてやってないと思うので
 探しても無駄です。

 そういうわけなんでやっぱりなんだか僕は
 日常をネット上に晒すのは嫌だな。

 高校生のころと比べたらどういう変わりようだろう。
 いや
 僕が変わったというだけじゃなくて
 ひょっとしたらインターネットが、あるいはそれを取り巻く環境が変わったということなのかもしれない。
 それについてはなんだかもうさんざん書いてきたような気がする。

 だから僕はもう考えたことだけを書こう。
 考えたことはすべてがフィクションである。

2010/03/23-2 晴れてハレルヤ/奥井亜紀

 世界中の大好きを集めても
 君に届けたい思いに足りない
 体中の愛がうたいだしてる
 ぼくらの鼓動は全ての始まりだよ ハレルヤ

 っていうような状態が永遠に続くはずなどないのである。
 が、それでもそのような瞬間はあるのである。
 その瞬間はまさに美しい。
 永遠に続くと信じられるほどに。

 永遠の美しさなどない。
 だがまるで永遠のようにしか見えない一瞬であるからこそ、それは美しい。
 爆発する感情もいつか熱のように散っていく。
 だからこそ情熱とか熱情とか呼ばれるのだ。

 一瞬という途方もないエネルギー体があって、
 その中に永遠は内包されている。
 一瞬はいつか泡のように弾けて消える。が、
 僕らはいつでも永遠を願っている。

 だから僕たちは常に一瞬を永遠と信じる。
 それが祈りだ。

 せいぜい八十年の人生だから、少しぐらい楽観的になったっていい。
 シャボン玉をいつまでも見守っている子供のように。
 それが弾けるまでの僅かな時間に、恋をして、子を産み老いて、死んでいく。
 それが人間の最も美しい在り方なのかもしれない。

 世界中の大好きをひきつれて
 君に届けたい思いはひとつ
 体中の愛がとびだしそうさ
 ぼくらの鼓動は全てをぬりかえてく ハレルヤ

2010/03/23 軽率さ

 長らく大手メディアに出演しなくなった有名人に対して、
「最近の彼はメディアへの露出を極度に嫌っている」と言う人がいる。
「彼」が「メディアは嫌いだから絶対に出たくない」と言ったのを聞いたのだろうか?
 あるいは「嫌っている」という言葉を「事実として、出ていない」という意味で使っているのであろうか? だとしたら、ずいぶんと誤解を招く表現なのではないか?
 なぜ「彼は最近、大きなメディアに露出していない」という言い方ができないんだ?
 軽率じゃないか?
 でなければ、「自分の主張に合わせて事実をねじ曲げている」のでは?
 そういうことはいつでもどこでもたくさんある。
 僕はそういうものを邪悪だと思う。

2010/03/22 ようやく、ラジオに出た話

 一月に「アートの力を信じる」という大阪のイベントに行って、その打ち上げで何人かの人とじっくりお話ししたのだが、その中の一人の方から突然メールがあった。曰く、連絡したかったけど名前もわからなくて困っていたところへ、先日TBSラジオに僕が出演したのをたまたま聴いて、「あ、この人だ」と思ったらしい。そんな偶然もあるのだなあ。その方は福岡の方だったが、ちょうど今日東京にいらっしゃったので、ちょっとお会いしてきた。三時間以上話して、仲良くできそうだなと思った。こういう出会いはいい。ラジオ出てよかった。

 僕はそのラジオを自分では聴いていない(恥ずかしいのであまり聴きたくない)んだけど、聴きたい人は聴きたいのかなと思うので、いちおう宣伝しておきます。ネットからダウンロードできるみたい。TBSの『文化系トークラジオLife』という番組。
「小沢健二とその時代」という特集で、僕と姉(育)はそもそも「見学」ということでお邪魔した。外伝にひょっとしたら出るかも、くらいの温度だったのだが、なんでか本編も最後のほうにはわりと出ている。が、別に僕が中心の番組でもなんでもないので、テーマに興味がなかったら別に聴く必要はないかと思います。ブログに載ってる僕の写真も、あんまり美男に写ってないので嫌です。実物はもっとかっこいいのです(言っとかないと)。写真写り悪いとよく言われます。もっとなんかGacktみたいな写り方がしたかった。
 内容についても、僕はあんまり言いたいことを充分に言えなかったというのもあるし、声とかしゃべり方についてもそれほど自分のものは好きではないので、嫌だったんだけど、今日お会いした方が喋っていたことや声とか話し方について割と褒めてくださっていたので、「それなら」と調子に乗ってみた。

 僕は、芸術家でもなんでも、原則として「一人の人間」として捉えるべきだろうと思っているんだけど、何かを論じるということを職業にしている人は、やっぱり表現する人間そのものを「現象」とか「作品」として、要するに「モノ」として捉えてしまう傾向がある。だから好き勝手なことを言うし、自分の主張に合わせて都合のいい形に変えて捏ね上げたりする。それを有名税とも言うし、何かを表現している以上はどんな解釈をされても仕方ないとも言うし、言論の自由とも言うのだが、僕はできるなら気を遣っていきたいと思う。誤解は嫌いだ。
 人について公に語るなら、できるだけ語られる人物を尊重して、常に「こうかもしれないが、しかしそうではないかもしれない」という慎重さを持って、一つ一つの言葉を選んでいかなければならないと僕は思っているんだけど、果たして今回それができたかどうか。


Part1
Part2
Part3
Part4
Part5(外伝1)
Part6(外伝2)
Part7(外伝3)
終了後

2010/03/21 決定権

「ジャッキーさんダメですよ、冷蔵庫の中の豆腐、とっくに消費期限切れてますよ! 捨てちゃいますよ!」
「なんだとう。食えるか食えないかは自分で決める」
「いやでも、おなか壊しますよ」
「僕はそういうの食べておなか壊したことは一度もない! お前の軟弱な胃腸と一緒にするな」
「す、すみませんでした」


「ねえきみかわいいねかわいいよかわいいよ」
「かわいくないですよお、あたしなんて」
「ふざけるな! かわいいかかわいくないかは僕が決めるんだ!」
「ひいっ。ごめんなさい」
「かわいいよかわいいよかわいいよ本当にかわいいよ」
「ありがとうございます」


「ジャッキーさんジャッキーさんダメですよもうちょっとで仕事終わるんだからここで頑張らないと」
「うるさいころすぞ。仕事のペースくらい自分で決めさせろ」
「〆切りいつなんですか?」
「三日後だよ」
「あとどのくらいなんですか?」
「あと一時間も作業すれば終わるよ」
「じゃあ、この一時間で終わらせたほうがいいじゃないですか」
「いいかどうかは僕が決める」
「じゃあ提案します。今やったほうがいいと思います」
「却下」
「そうですか」


「ねえ、そろそろ帰ってくれる?」
「え?」
「お前がいると仕事にならないんだよ」
「いやでも、邪魔してませんよ」
「邪魔かどうかは僕が決めるんだよ。邪魔だ。帰れ」
「あ、はい……」


「自殺します」
「やめろ! 人生は捨てたもんじゃないぞ」
「捨てたもんかどうかは僕が決めるんです。さよなら」
「ジャァッキイー」

2010/03/20 プリキュア映画が最高だった

『映画プリキュアオールスターズDX2 希望の光☆レインボージュエルを守れ!』を観てきた。公開初日、9時20分からの最初の回、しかも“聖地”大泉学園で。なぜ聖地なのかといえば映画館のすぐお向かいにプリキュアを制作している東映アニメーション本社があるからだ。
 それも関係しているのかいないのか、劇場にはたくさんの「キュア女」(きゅあじょ。プリキュア好きな女児の愛称)たちが集まっていた。大きいお友だちや、カップルなどの姿はほぼ見られない。だいたい朝イチでアニメ映画を観にやってくるのは小さなお友だちと相場が決まっているのである。大きいお友だちはたいてい午後だ。
 初代(なぎほの)至上主義の僕は、2005年の冬に『ふたりはプリキュアMax Heart2 雪空のともだち』を劇場で見て以来、プリキュアの映画を一度も見ていなかったので、まさか「こんなこと」になっているとは、まったく知らなかった。プリキュア映画は、現在の日本アニメ映画界に咲く一輪の花だ。

 今回の映画では、プリキュアが17人(!)登場する。その全員を深く掘り下げて描くことはもちろん不可能であって、基本的には最新の『ハートキャッチプリキュア』の主人公ふたりを中心にして話が進んでいった。ストーリーは単純明快、筋について論ずることは特にないと言っていいだろう。一度しか観ていないのでとりあえずそういうことにしておく。
 ものすごーく簡単に言ってしまうと、「なんかよくわからない悪者が突然あらわれて、なんかよくわからないレインボージュエルとかいうものを奪って、それを取り返すためにプリキュアが戦う」というもの。それだけ。
 お話はそんなようなもんで、テーマも実にシンプルだ。「プリキュアみんなが友達として、力をあわせる」「絶対にあきらめない、希望を捨てない」、言っていることはほとんどこんだけ。たったこれだけのことを、美しく美しく美しく美しく、美しく描いたのが、『プリキュアオールスターズDX2』だった。

 話の筋なんて、本当にどうでもいい。守りたいものがあって、目の前に倒すべき闇がある。隣には手を取りあえる友達がいる。そういう状況の中で、本当に大切なことだけをひたすらに、汗くさいくらいにしつっこく彼女たちは叫ぶ。「私たちは絶対に負けない!」「絶対にあきらめない!」「最後まで希望を捨てない!」「戦って、勝って、平和を取り戻して、友達みんなで観覧車に乗るんだ!」と。そのひたむきな姿に、希望を信じようとする強い心に、彼女たちの固い絆に、涙しない人間がいるんだろうか? いねーよ!

 最終的に彼女たちがどうやってその闇を倒すのかというと、ここからはネタバレになるが、あえて言ってしまおう。この映画については、筋をバラしたところで何の問題もない(だってパンフレットに終わりまでの展開がすべて書いてあるんだもん)。ずばり合体必殺技である。17人のプリキュアが、全員で力を合わせて必殺技を放つのである。当たり前だ。オールスターズと銘打つからには、そうでなくてはいけない。ここまでは完全に予想通りだった。しかし、ここで東映アニメーションは伝家の宝刀を抜いたのだ。
 17人のプリキュアの合体必殺技というのが、ドラゴンボールでいうところの「元気玉」だったのである。戦闘の舞台は「フェアリーパーク」という遊園地で、そこでは入場者に「ミラクルライト」という不思議なミニライトが配られていた。それを使ってみんながプリキュアを応援することで、必殺技を撃つための態勢が完成するのだ。
 ドラゴンボールの元気玉と違うところは何かというと、この必殺技は劇場の子どもたちをも巻きこんでしまうのである。この「ミラクルライト」、実は劇場で中学生以下の入場者全員に配られるものとまったく同じなのだ。「みんな! ミラクルライトでプリキュアを応援してです! プリキュアに力を~!」とかなんとか、シプレとコフレ(『ハートキャッチ』に登場)が呼びかけると、会場のキュア女たちが一斉にライトを点灯させ、画面に向かって振るのである。いや、本当に! 本当にキュア女たちはライトを振りながら、「プリキュアがんばれ~」とか言っているのだ。本当だってば! その光景こそ、この映画の中で最も美しいシーンだった。
 どうやらこの「ミラクルライトによる観客参加」は、プリキュア映画ではすでに定番になっているようで、三作も前から採り入れられている方式らしい。

『ピーター・パン』のお芝居では、ティンカー・ベルが毒を飲んで死にそうになる場面で、ピーターが会場に呼びかける。「みんな、妖精を信じるかい? みんなが妖精を信じる心で、妖精は生きることができるんだ。妖精を信じるのなら、手をたたいておくれ!」とかなんとか。そいで会場の子どもたちがワーって拍手して、ティンカー・ベルが息を吹き返す。
 プリキュア映画がやっているのは、完全にこれである。「劇場」という特殊な空間にだけ許された、「作品と観客との一体化」である。作品が観客に呼びかけて、観客が作品を完成させる。これが本当に美しい形で成功してしまった実例を、僕は今朝はじめて体験してしまったのだ。劇場に飛び交うライトの光は「演出効果の妨げ」なんかではなく、むしろ演出効果そのものだった。その光の一つ一つに、子供たちの願いが、祈りが詰まっている。あの状況に対面して泣くなというほうが難しい。
 事実、僕はだらだら涙を流していた。このシーンだけでなく、頑張っているプリキュアたちの姿を見るにつけ感動して泣きっぱなしだった。感受性自慢をしたいわけではない。思い入れ自慢はしたいかもしれない。今さらながら僕はプリキュアが好きなんだけど、何が好きかって、彼女たちの「絆」が本当に美しいから。ひたむきに希望を捨てないで、まっすぐに闇に立ち向かっていく姿が、心を打つから。
 僕が本気で見ていたのは初代のプリキュア(なぎほの)で、彼女たちの戦った二年間を僕は知っている。どんなピンチにおいても最後まであきらめなかった、あの二人の強い絆を知っているから、映画のなかでさほど詳しく描かれなくても、「あきらめない」という言葉の重みがわかる。「あきらめない」ということが本当に辛くて、膨大なエネルギーと、お互いの信頼を必要とする行為であるということも、僕はプリキュアを通じて実感していた。そのことを思い出して泣いてしまうのだ。思い入れが強すぎて、ちょっとしたことでもすぐに感動してしまうのである。
 ここまで来るともう本当に末期で、自分が客観的に見れば非常に気持ち悪い人間であるかもしれないということは重々承知している。しかし僕はどんなに気持ち悪いと思われようとも、本当にこのプリキュア映画が素晴らしかったと真剣にみんなに表明したい。なぜならば、こういうアニメ映画は実は今の日本にはほとんどないように思えるからである。

 なぜ僕がプリキュアを絶賛すると気持ち悪いのか? それはもちろんプリキュアが「女児向け」の作品だからであるが、この言い方は必ずしも的確ではない。もっと正確に言うならば、少なくともこの映画『プリキュアオールスターズDX2』が、「徹底的に女児だけを対象として作られた作品」だからなのだ。
 たとえば『クレヨンしんちゃん』の映画は、「徹底的に子供だけを対象として作られた作品」ではない。少なくともここ十年のクレしん映画は、半分は大人向けに作られているのではないかと思えるくらい複雑で深いテーマを取り扱っているし、実際に名のある評論家によって一定の評価を得ている。謎解きやラブコメの要素が強い『名探偵コナン』は中高生かそれ以上の世代の鑑賞にも堪えられるようなものだし、歴史の長い『ドラえもん』はかなり広い年齢層を意識して制作されているはずだ。最新の『ワンピース』は大きなお友だちを置いてけぼりにするくらい少年向けを意識した内容だったと友達から聞いたが、それでもワンピースの映画には多くの若者を中心とした大人たちが詰めかけて支持した。『アンパンマン』はもしかしたら数少ない例外となるのかもしれないが、今の日本には実は、純粋に子供のために作られた映画というのはほとんどない。
 だから、僕がそれらの映画を観に行っても、プリキュアを観に行くほどは気持ち悪い行為ではない。かりに僕が女の子であっても、この歳で「徹底的に女児だけを対象として作られた」プリキュア映画を絶賛するというのはちょっと、いやかなり気持ち悪い。『アンパンマン』も、やっぱりちょっと引かれるんじゃないかと思う。『ポケットモンスター』ならたぶん、ギリギリセーフだろうか。

『プリキュア』の客層は、前述の通り午前中だったこともあってか、ほとんどが女児とその保護者だった。そして「ミラクルライト」は、中学生以下のお友だちにしか配られない。ストーリーは就学前の子供でもわかるほど単純明快で、メッセージも「みんな友達」とか「希望を捨てない」という至ってシンプルなものだ。小さなお友だち(特に女児)だけをターゲットにしていると、ほとんどそういうふうにしかならないんじゃないかと僕は思ってしまった。
 大人が観ればひょっとしたら「それがどうした」とか「当たり前のことを言ってるな」になるかもしれないような「子供だまし」の作品だが、子どもたちの心の中に永遠に生き続けるかもしれない素敵な価値観をたっぷりと含んでいる。単純な物語とテーマの中に「まっすぐ」という筋を一本通して、技術の粋を凝らしてひたすら美しく仕上げている。こういう作品は、なくてはならない。というか、まんがやアニメというのは本来は子供のためのものだったはずなのだから、そういうものがいつまでも主流であってほしいなとさえ思うのだ。

 今回のプリキュア映画は、本来は僕が観るべきような作品ではなかった。あれを観るべきなのは子供たちである。僕のような大人は、後ろのほうでこっそりと会場全体を見守りながら、隠れて涙を流しているべきなのだ。あの映画は僕を「対象としていない」のだから出しゃばってはいけないし、それなのにわざわざ観に行くということは本当は異常なことなのだ。プリキュア映画で泣いてしまう僕は大人としては異常な存在で、気持ち悪くて、恥ずかしい人なのだ。そのことをわきまえた上で、僕はプリキュア映画を本当に素晴らしく美しいものであったと評価するし、 それでどのように誤解されようが構わない。「プリキュアの美しき魂」を理解できないような大人は、子供たちに美しき魂を伝えてあげることなど到底できないという、ただそれだけのことと僕は思うだけだ。

2010/03/19 愛されながら愛したい

 今日は表現したいことを表現するためにかなり単純化して書くので事実と相違するところが多いと思います。って、まあそれはいつでもそうで、この日記の内容と事実、現実との整合性はほとんどあってないようなもの。ゆえにこの作品はフィクションです。
 言いたいことを言うためには便宜上、「自分のこと」ということにして語ったほうがやりやすかったりするのだ。これは単なる言い訳ではなくて、実際に本当にそう思うし、そうしている。
 僕に「芯」がないように見えるのなら、恐らくそのためだと思う。


 女の子と別れるときはだいたい僕のほうが飽きられるか呆れられるかして捨てられることが多い。一度だけ「あー、これはもう耐えられないや」と思ってやめにしたことはあるけれども、それはある意味では最も素晴らしい別れ方だったのかもしれない。

 かなり難しいことを言うと、僕は愛しあっているというその状況を愛しているのであって、たぶん単純に相手を愛しているのではない。だから、相手に飽きるとか、こちらから捨てるとかいうことはまず、ありえない。
 そこに愛しあっているという状況がある限り、僕はその愛を愛し続ける。相手が愛しあうことを放棄するなら、そこにはもう愛しあっているという状況はなくなるから、僕も愛を捨てる。

 それは極端に綺麗にいえば家族を愛するようなものだ。僕にとって恋愛とは疑似的な家族関係を作り上げるということで、そのようでない恋愛ならしたくはない。
 僕はお父さんが好きだしお母さんが好きだが、それはべつに、理由があって好きなわけではない。彼らが僕のことを愛してくれるから、こんなにも大好きなんじゃないかと思う。お父さんやお母さんが僕のことを愛さなくなるなんてことは絶対にないと信じられるから、僕も安心して家族を愛することができる。それで僕とお父さん、お母さんの間には永遠の愛のような美しい状況ができあがっているのだ。
 と言うと、自分のことを好きだと言ってくれる人みんなと恋愛しなければならないような言い方にもなってしまうが、そういうわけではない。当たり前だが恋愛には、「相手が自分を家族のように愛してくれるだろう」だけではなく、「自分も相手のことを家族のように愛することができるだろう」も必要なのだ。そこがうまく噛み合ったところで、恋愛が始まる。
 これはもちろん大博打であって、それでうまくいくとは限らない。「読み」はたいてい、大きく外れる。しかし手に入るあらゆる情報と、経験と、思考力を総動員させて勝ち馬を予想した人は、馬券を握りしめながら額に汗して的中を信じる。祈り続ける。この、馬券を握りしめているときの興奮状態が、きっと恋愛の醍醐味であるのだろう。

 もし相手が僕に対して「愛する=家族であろうとする」という姿勢を崩すのならば、もう僕はその愛に興味はない。お父さんもお母さんも、一度だって僕を愛することをやめようとしたことはなかったはずだ。僕はそういう両親に恵まれて育っている。少なくとも、そう信じられるように僕は育ってきた。
 恋人は、あるいは配偶者は、親であって、子であるような存在だと僕は思うから、無限に愛されながら無限に愛しているような、∞の記号の形がまさに表しているような関係でいなければならないと僕は思っている。恋人が一方的に「反抗期」を迎え、思春期の少年が親を邪険に扱うように僕に接するのならば、「僕が親で、恋人が子」という偏った状況が生まれてしまう。そんなものは恋愛ではなく、ただの依存だったり、ただの甘えだ。そういうものならば要らない。

 僕がFolderの『パラシューター』というデビュー曲を大好きなのは、「愛されながら愛したい」という恋愛の大原則を高らかに歌い上げているからだ。「愛されるよりも愛したいまじで」(byキンキキッズ)とか「愛するよりも愛されたい誰もがさみしすぎて」(byTUBEの前田さん)なんてのは、愛の形としてはずいぶんといびつだ。

「愛されながら愛する」という状況が崩れたとき、そこにあるものに対して僕は一切の興味を持たない。だから僕はきっとストーカーにはならないし、片想いもしない。別れた相手に未練もない。僕にとって愛とは、または恋愛というものは、常に「両想い」という形をとって現れる、ひとつの「状況」なのである。

2010/03/18 近況 三手先を読んで生きる

 未来の見通しなんてもんは暗く不透明で具体的なものなど一切ない。わけのわからない同人誌を出したり、ここに何かを書いたりすることも、将来それをなにかにするためにやっているでもない。
 ミヒャエル・エンデの『モモ』にベッポという道路掃除夫の老人が出てきて、こう言う。(せりふのみ抜粋)

「なあ、モモ、」
「とっても長い道路を受けもつことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
「そこでせかせか働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」
「これがだいじなんだ。」

 僕の人生観というのはまさにこれに尽きる。一日一日というものは、そういうふうに進んでいくもので、そのように進めていくべきだ。
 が、これはずいぶんと簡略化された表現なので、実際には「将棋」を持ち出して考えたほうが、うまく説明がいくかもしれない。
 将棋の大原則は「三手先を読む」である。
 自分が指す手を「一手目」とすると、「二手目」が相手の手、「三手目」がふたたび自分の指す手である。
「三手先を読む」というのは、「三手目」において「いい手」が指せるように、この「一手目」を指す、ということだ。

 僕は中学生向けに「想像力を怖がらずに持て」という趣意の文章を配って、読ませたことがある。それを保護者の方々はどうやら「将来のことを考えろ」という意味で主に捉えたらしく、親御さんからの評判はかなりよかったらしいが、僕が言いたかった「想像力」とは、将来のことというよりは(そういう要素もあったけど)、「三手先」の未来のことだ。
 ベッポの例で言うと、「つぎの一歩」「つぎのひと呼吸(いき)」「つぎのひとはき」のことだ。
 決してこれは「現在のことを考える」ではない、「三手先の未来を考えながら、この一手を指す」だ。人生とは将棋のようでよい。

 将棋が上達してくると、三手先どころか、五十手先、百手先まで見えてくるようになる(らしい)。しかし将棋指しは、「五十手先でこういうふうにしてやろう」とは絶対に考えない。「五十手先にはこういう可能性がある」ということを考える。「五十手先」には、ほとんど無限に思えるような膨大なパターンの局面があり、そのいずれに展開していくのかは、わからない。思考と経験によって、「こうなる可能性が比較的高いだろう」とは言えても、「こうなる」とは言い切れないし、「こういうふうにしよう」とは、口が裂けても言えない。対局相手は「赤の他人」であって、行動を正確に予見することは絶対に不可能なのだ。
 不可能なのだが、それでも「三手先を読む」を積み上げて、「五十手先」にある可能性を考えられるだけ考え、最も適当だと思われる「この一手」を指す。それが将棋の醍醐味であり、人生に似た美しさである。
「赤の他人」で満ちあふれているこの世の中で生きていくことも、同じようなものだと思う。

 僕は五十手先に「こうしてやろう」とか「こういうふうになりたい」とはあまり、考えない。「五十手先にどういう可能性があるか」ということは、多少考える。でもそれは「三手先を読む」を積み上げた結果、無数に枝分かれしていった可能性のたった一つでしかない。無数の可能性のすべてを考えることは、できないし、参考以上にはしたくもない。ただひたすら目の前の一手を考えたい。わずか「三手先」のために。それを考える想像力を、怖がらずに持とうよ、というのが、僕の中学生に伝えたかったことだった。
 ベッポが目の前の道路を、「つぎのこと」だけを考えながら黙々とはいていくように。僕は黙々と毎日をこなしていきたい。ただし「現在」を見つめながらではなく、常に「三手先の未来」を見つめて。日々を繋ぐ。

 といっても、未来のことを考えないというわけでも、過去のことを顧みないというわけでもない。(この一文をついつい入れてしまうのが、誤読を恐れるがゆえの、饒舌さというやつだろうなあ……。)
 将棋の話を続けると、三手先を読むには歴史や経験がものを言う。また「三手先の妙手」を積み上げていくことが、五十手先の「優勢」に繋がっていく。

 なんか、おっさんの「野球で言うと」みたいな話になってしまった。将棋好きのじーさんもすぐ「将棋で言うと」とか言いだしそうだ。僕はだいたい、「ドラえもんで言うと」とか、すぐそういうふうになるんだけども。

 遠い未来なんか考えないで、とにかく三手先ばかりを考え続けた結果、ここ数日で続々と面白い話が舞い込んできている。それらをたらたらとこなしつつ、また次の三手先を考えて、ぼんやりと生きていきたい。
 こういう姿勢を許してくれる相手じゃないと僕はきっと結婚できないのだろう。将棋が現在まで男性に向いた娯楽として発達してきたのは、女性がこの「三手先を読む」が下手くそで、「五十手先の未来を明確に描く」が好きだから、ということが理由の一つではあるのかもしれない。

2010/03/17 レディネス2

 ここ数日、プリキュアとPIERROTとFF6のことばかり考えている。
 メールの返信もさぼりがちでご迷惑をおかけしております。
 漫画アクションを買ってこなくては。


 中村一義の1stアルバム『金字塔』を愛している。この22歳の孤高の天才の魂を感じられる人間とはきっと仲良しになれるだろうと信じている。何となれば仲良しとは中村一義の略である。
 とはいえ、同じものを好きでも捉える角度からまったく違って見えたりすることもある。「22歳の孤高の天才の魂」は、ひょっとしたら色んな見え方をするのかもしれない。不安に思ったら2ndアルバムの『太陽』を差し出して顔色をうかがうとしよう。22歳の孤高の天才の魂と、23歳の孤高の天才の魂とを同様に捉えるための角度はずいぶんと限定されてくる。『ERA』という25歳の孤高の天才の魂を突きつけるまでもないはずだ。
 なんて綺麗には言ってみるのだが、中村一義ファンの中にもいけ好かない人間は相当いるのであろうから、単純に「好み」を指標とする気はない。が、『金字塔』を「いいなあ」と感じる気持ちを共有できることは素晴らしいことだとは思っている。そのくらいに僕は好きである。

 ところで僕が『金字塔』を初めて聴いたのは高校生か、ひょっとしたら大学生くらいのときで、もしも中学生くらいのときにこれを聴いていたらどうなっていただろうか。もしかしたら、全然ちっとも何にもわかんなかったというか、ピンと来なかったのかもしれない。

 昔の日記を読みかえしていたら、「レディネス」という言葉が出て来た。心理学の用語で、「ある行動の習得に必要な条件が用意されている状態」だそうだ。
 たとえば、「分数のかけ算」ができるためのレディネスは、「分数というものを知っている」ことと、「かけ算ができる」ということである。さらにそれらのレディネスはもちろん、「数字を知っている」であったり、「足し算ができる」であったりする。
 一般的なことにわかりやすく言い換えると、「箸を使う」ことは、「つかむ」ということができなければ不可能である。この場合、「つかむ」は「箸を使う」のレディネスとなる。たぶんそういうようなことなんだろうと思う。

 大学の教職課程で発達心理学を学んでいたかつての僕はこれを敷衍させて、「何かを好きになること」や「よい、面白い、と思うこと」にもレディネスというものが関係しているのだろうと考えたようだ。「何事にも基礎が大切だ」と言うが、それは、趣味や嗜好の問題にも当てはまるのではないかと。
 唐沢なをき先生の『カスミ伝』は、漫画表現の限界に挑んだ実験的な作品で、漫画を好きだと言う人間は絶対に読んでおくべきだと僕は考えている。『カスミ伝』は従来の、というか、常識的な漫画表現をすべてぶっ壊してしまうのである。たとえば空白だらけのコマが続く回があっていったい何だと思ったら、そこに読者が付属のシールを貼って漫画を完成させなければならなくなっているとか、ページを観音開きにして「見開き4ページ」を実現させ、それによって「宇宙の広さ」を表現するとか、そういったむちゃくちゃな作品だ。
 これの何が面白いのかといったら、もちろん「漫画の常識をぶっ壊している」ということで、つまり「こんなこと、誰もやんねえよ、見たことねえよ」と思えなければあまり面白くないのである。だから『カスミ伝』の面白さがわかるには、「漫画の常識」というものを知り尽くしていなければならない。そうとうたくさんの漫画を読んでいなければならない。その上で、「うわ、これは誰もやってないだろうな、相当の漫画を読んでいるはずなのに、見たことないぞ」と思えなければいけないのである。
 作者の唐沢なをき先生は、たぶん相当たくさんの漫画を読んできた人で、だからこそ「誰もやっていないこと」がわかる。あるいは、似たようなことをやっている人がいたとしても、それを「単純なギャグ」としてやった人はいない、ということがわかる。
 あえてレディネスなどという言葉を使うなら、『カスミ伝』を楽しく読むためのレディネスは、「漫画をたくさん読んでいる」なのである。

 中学生の僕はバカだった。正直に告白すれば、高校三年生くらいになって僕はようやく知性というものを獲得したんだと思う。だから、僕があの頃に中村一義の音楽を聴いて心を動かされていたかといえば、わからない。僕には中村一義を素晴らしいと思う「レディネス」はまだなかったかもしれない。
 ただ、感性だけは十二分以上にあった人間なので、「何がなんだかさっぱりわからないけれど、好きだ」くらいには思っていたのではないかとも思う。だいたい何に関したって僕はそうだ。


「天才的なアイデアを思いつくとこんな気分になるんだ
 アインシュタインもモーツァルトも
 まず直感が先に来るんだ
 そしてそこに論理をつぎたしていくんだ
 頭で考えるんじゃない
 考え“させられる”んだ」
(都留泰作『ナチュン』第一話より)


 まず最初に直感で「うん、これは好きだ」と思って、「なぜ好きなのか」を考えていく。もう生まれてからずっとたぶん僕はそうだ。二十年近く経ってから、「なぜ」がわかるときすらある。ドラえもんにしたってそうだ。
「レディネス」なるものは、感性に対しても働くのだろうか。美しいものを美しいと思うために、何らかの準備は必要なのだろうか。美しいものを「どう美しいか」「なぜ美しいか」を説明するためには、ある程度の知性と、そのためにレディネスなるものは必要なのであろうが、花を愛でる心にはそういう理屈がいらないのかもしれない。少なくとも、幼い頃にドラえもんを読んで「いいなあ」と思った僕は、何の知性も「レディネス」もない、無知で無垢な幼子だった。その僕を育んだのはお母さんの愛情とか、肌のぬくもりとか、そういう類のものであり、それは誰にだって育まれている「はず」のもので、「べき」ものだ。
 人間は、そのことを基礎として、その上に美しいものを積み上げて育っていく。

 中村一義の音楽も、その積み上がったものたちの一つに数えられてよいような質のものであると僕は思う。どんな人も、「なんだかよくわからないけど、好きだな」くらいには思ってほしい、と願っている。

 ドラえもんに『家がだんだん遠くなる』という、「すて犬ダンゴ」というのが出てくる話(てんコミ14巻)があるのだが、そこでのび太が「すて犬ダンゴ」を誤って食べてしまうときのセリフが、
「なにか知らないけど、うまそうだ。」
 であった。その結果、のび太はドラえもんの漫画の中でも屈指の、かなり深刻にひどいめに遭う。
 直感は時に失敗も呼ぶが、ただすて犬ダンゴがうまかったかまずかったかに関する記述は本文にはない。あれ、どうやらどうでもいい話になってきたが、まあ。

2010/03/13 卒業

 彼氏ができました!
 うれしい!
 神様は創りかけてやめてしまった、こんな気持ちわかんない全然!
 あたしとあたしの手があなたにふれた時!
 た時!
 できない、できない、できない。

2010/03/12 美しさ

 中学校の演劇部の卒業公演を見てきた。
 自分も高校から何年か演劇をやっていたので、卒業していく三年生の彼女たちが、三年間どのようなことをしてきたかが、なんとなくわかる。「演劇部」というものの楽しさも、辛さも、もちろん知っている。今回の卒業公演はコーチが入院中だったということで、三年生を中心に、脚本からすべて部員だけで作ったそうだ。それが中学生にとってどれほど大変なことか、想像すると恐ろしくさえなる。しかし蓋を開けてみれば、時間もぜんぜんなかったというのに、非常によい出来だった。
 僕はこの二年弱の間に、この部の公演を四本か五本ほど見た。回を増すごとに質がよくなっていくのを感じていた。今年の三年生は皆それぞれに個性があって、演技も上手くて、ノリもセンスもよかったということだと思う。現一、二年もいいのがいるので、このまま伝統を積み上げていってほしい。

 卒業公演の終わりに、引退する三年生による挨拶があった。去年も同じものを見ているのだが、去年と同様に、今年も泣いてしまった。
 美しいものに直面すると、ぶわあっと涙があふれ出てきてしまう。美しいものというのは、演劇部の三年間を終えて卒業していく彼女たちであり、それを見送る後輩たちであり、そこに流れている涙たちである。
 経験のない人にはピンとこないかもしれないが、演劇というのはものすごいものなのである。想像を絶するほどに濃密な行為なのである。あまりこのことに言及しすぎると傍目には痛々しくもなりかねないし、「演劇中毒」にかかってしまった人の中には、見ちゃいられないほど痛々しくなってしまう人も多い。だからあまり詳しくは語らないでおこうと思うが、演劇を三年間もやるというのは、ともすれば身も心もずたずたになってしまうほどにエネルギーを消費してしまうもので、しかしちゃんとやっていれば、得るものもとてつもなく大きいものなのだ。
 彼女たちの三年間にも、きっといろいろなことがあったのだと思う。僕は、その光景を見ながら想像する。涙の一粒一粒に、三年間の演劇部生活が思いっきり凝縮されていて、まばゆいばかりに輝いている。その美しさに僕はやられてしまう。涙がこぼれる。
 これは一般的には「もらい泣き」とも呼ばれるし、「雰囲気に流される」とも言われるものだが、僕に言わせれば「とんでもない美しさに直面した際に出てきてしまう涙」なのだ。

 僕がよく例に出すのは、『帰ってきたドラえもん』という映画ないしその原作漫画の『さようなら、ドラえもん』『帰ってきたドラえもん』である。僕はあれを観る(読む)と、情けないくらいにだらだらと涙を流してしまうのだが、それは別に「二人が別れなきゃいけないなんて、かわいそう」とか「二人がまた一緒にいられて、よかったね」とかいうりくつで泣くわけではない。「のび太とドラえもんの間にある、とんでもなく美しい絆のようなもの」に対して、涙が出てしまうのである。もっと言うと、「これまでに二人が積み重ねてきた愛と友情に満ちあふれた生活の重み」を感じて、泣いてしまうのである。
 それと同じ美しさが、卒業公演の最後の涙にはあった、と思うのだ。
 この三年間の楽しさや辛さ、そして彼女たちが演劇を通じて手にしてきた膨大なものたち……そういったものが最も美しく結実したのが、この公演そのものであり、また最後の挨拶と涙だった。

 ところで、どういうわけだがこの部の卒業生たちは、高校へ行っても演劇を続けるということをしない。中学演劇よりも高校演劇のほうがずっと自由度は高くて、プロにだってかなわないような素晴らしい作品を作ることさえできるというのに。中学の三年間で燃え尽きてしまうのかもしれないが、「演劇」という本当に広大な世界を「中学演劇」という非常に狭い(と、ここではあえて言ってしまおう)枠内でしか体験できないことは、勿体ないな、とやっぱり思う。
 それは「高校演劇」を終えて後に演劇と関わらなくなってしまう人たちも同じことかもしれない。僕も大学時代に一度だけ舞台をやった後は、いっさい演劇をしていない。だが、高校で演劇をやることと、それ以降に演劇をやっていくこととは大きく隔たりがある。高校はまだ「部活」としてそれがやれるのである。大学生や社会人になってくると、お金や時間など、様々な問題が出てくる。余計なことを考えずに、ただ演劇を演劇として楽しんでやれるのは高校までなのだと僕は思う。
 たぶん、彼女たちはこの三年間、演劇部のことで心も身体もすり減らしてきたのだろう。高校に上がって、おそらくは中学以上にきつい芝居作りを続けていくということは、青春をそのまま演劇に捧げるということでしかない。そのことがわかるから、僕は彼女たちに「演劇を続けてほしい」と言うことはしないし、演劇以外に見えている道があるのならばむしろそちらを勧めたい気持ちもある。ただ、演劇を通じて感じたことや得たものは絶対に忘れないでいてほしい、とだけは切に願う。今日の涙を、その中に詰まっているものを、永遠に忘れないでいてほしい。
 なんて、言わなくてもいいようなことかもしれない。忘れようとしたって忘れられるようなものではないのだ。だが、もしも忘れてしまうようであれば、その時はその子の人生が「美しい」というところから完全に離れてしまった時ではないかとすら思う。ああ、美しさよ永遠に彼女たちの瞳に宿り続けますように。
 とかまあなんか。

 奇しくも前日に、「涙」というものの美しさを語った中学生の作文を読んでいたせいか、そういうことを考えてしまった。
 みんな卒業おめでとう。お疲れさまでした。

2010/03/11 学校における洗脳

 昨日の続き。

 苫米地英人氏の『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』という本を読んだ。古本屋で偶然見かけて、帯に「お金の呪縛」「支配者」「奴隷化」などのおいしそうな単語が並んでいたので買ってみた。
 完全にかぶっているわけではないにせよ僕の興味あるところと隣接している。特に目新しいのは何かといえば、苫米地氏がインターネットやオタクというものに可能性を見出そうとしていることだったが、それについてはそのうち何か書きたい。

 大本として、「金融なんてもんはくだらない」ということがある。「経済なんてやめちまえ」でもある。「情報による付加価値なんかどうだっていいじゃないか」というのもある。
 でも、この世界の王様(支配者)は、そういったものを武器にして人間を洗脳し、自分たちの都合のよい世界を作ろうとしている。というか、何百年もそのような世界を作ってきた。
 僕たちは子供の頃から、苫米地氏のいう「つくられたリアリティ」に騙されている。機能よりもブランドに価値を置き、そのためにお金を使うことに慣らされている。
 本当は僕は学校の先生になってそういうことを教えたかった。

 学校は巨大な洗脳装置だから、学校の先生というのは「子供たちを上手に洗脳する」能力が求められる。僕だって例外でなく、洗脳の片棒を担がされていた。もちろん僕は抵抗がしたいから、「適当に洗脳して、子供たちが疑いを持てるようにする」ということを意識していた。そのためには「僕みたいな人間だって世の中には存在している」ということを示すだけでひとまずは充分だったと思う。それに加えて、時々は自分の考えとか、思想のかけらみたいなものを提示してみたりした。
 ところが、これまで十数年間にわたり親とテレビと何十人もの先生たちによって施されてきた洗脳を、いち教員がほぐそうというのはほとんど不可能に思われた。中学の二年や三年にもなればもう価値観は固まってしまっている。特に女子は、ほとんど取り返しのつかないところまで来ていたように見えた。それで僕は徒労を感じて、「中学校の先生は無理だな」と思ったのである。諦めるのがあまりに早いと思われる向きもあるかもしれないが、同じ問題と戦おうと思うのなら、別の方法も試してみたくなったのだ。……というと恰好がつくだろうか。

 僕は本当は「君たちは洗脳されてるんだよ」ということを言いたかった。でもそれは、彼らが「好き」だと思い込んでいるものを否定することにしかならない。しかしそれらが全面的にすべて否定されるべきというわけではない。ゲームもテレビもファッションもスイーツも、否定するには「複雑な否定のしかた」をしなければならないのだが、中学生にはその「複雑さ」を受けとめるだけの能力がない。
 ファッションというのはものすごく問題を孕んでいると思うが、僕は衣服そのものを否定したいわけではもちろんないし、「かわいい服を着たい」という欲求を完全に否定したいということでもない。たとえば「流行や広告に踊らされて過剰なお金をそこに投入する」とか「男に媚びるため、もしくは本来の自分を隠すために無駄な装飾を身に纏う」とかいう微妙な問題を上手に批判するには、かなり繊細で複雑なやり方が必要であって、そういう繊細さや複雑さを、多くの中学生は理解してくれない。「先生はオシャレが嫌いなんだな」で終わり。しかもそのことに対する彼らの反応は、おそらく概ねは「ふーん」である。
 教壇であまり難しいことを言うと生徒は聞いてくれないし、かといって結論だけを提示したら「押しつけ」になってしまって、説得力を持たない。そういう葛藤が常にあった。ただ、井伏鱒二の『山椒魚』や森鴎外の『高瀬舟』、太宰治の『走れメロス』などを取り扱っている時は、自分の言いたいこと、伝えたいことを教材に合わせて自然に表明することができたように思う。名作の力というのは本当に偉大だ。それがゆえに洗脳にも使われているわけだが。

 僕がそれら名作を用いてやろうとしたのは、「一般的な読み方を疑う」ということだった。一般的な読み方と、僕なりに筋の通った別の読み方を両方提示して、考えさせたかった。ものの見方によって、あるいは思考の働かせ方によって物語というのはいくらでも顔を変える。それは物語だけでなく、人生において認識するあらゆるものごとについても同じことだ。物語を読む能力をつけることは、人生において「ものごと」をとらえるための能力をつけることと同じである。それがすなわち、学校による洗脳から自分で脱するための力になる。そのようなことが言いたかったわけだが、成功したかどうかといえば、たぶん成功しないのである。
 幾人かの早熟な子たちの心には何らかの形で染み渡ったかもしれないが、ほとんどの生徒にとってはどうであったか。前向きに考えれば「何か意味があったかもしれない」だが、実感としては、だめだ。
 僕が一年間かけても、せいぜい十人くらいの子の心にしか影響を与えられなかったかもしれない。それでも充分だろうと言う人は言うかもしれない。40年あれば400人になるわけだし、そういうことをする人が100人いれば影響されるのは1000人になる。そういうことではあるわけだが、「自分だったらもうちょっと違うこともやれんじゃないか」という気が、してしまったのだ。

「ねえ、あなたと結婚したい」
「僕と一緒になったって、普通の幸せは得られないよ」
「普通の幸せってなに?」
「幸せとは何かを、自分で決められない人がすがりつくものだよ」

 普通の幸せっていうのは「客観的に見て世間並みであるような暮らしをして、あまり目立たないで一生を終えること」だと僕は思っている。
 それは素敵なことかもしれないが、どうも僕は苦手なようだ。
 普通である、平凡であるということは、何も考えなくてもいいということ。何もかも他人の基準に照らして生きていればいいということ。
 それでいいのか? いいのかもしれないが、自分もそうであっていいのか? というようなことを、僕は考えていたいし、みんなだって考えたらいいと思う。

2010/03/10 たかじんのそこまで言って委員会の思想

 僕だって政治だとかそのようなものに対して興味のないわけではない。ただ僕には基本的に「わからない」ことに対してはできるだけ言及を避けたいと思っている慎重派としての側面もあるので、それについてあまり言いたくないだけである。

 現在、日本で最も過激で自由なテレビ番組だと思われているのは『たかじんのそこまで言って委員会』で、その過激さと自由さを保つために首都圏での放映はされていない。この一点だけ取っても僕はこの番組が好きだ。東京においては封殺されてしまうような言論が、「首都圏を除く全国ネット」であればできる、ということを全身で証明している。
 が、この番組にも問題というか、僕の気にくわないところはいくらでもあって、テレビの限界というものも見えてくる。
『委員会』は「政治、経済、社会、教養、硬軟織り交ぜて」取り扱う番組で、テーマは多岐にわたる。司会はやしきたかじん委員長と、辛坊治郎副委員長、それから三人のレギュラーと五人の準レギュラーがパネリストとして座り、そこへゲストがやってきて自分の専門分野について語る、というのが定まったスタイルだ。
 問題というのは、「司会(主に辛坊氏)が思想を持っており、それに従って自分の意見を表明する」ということと、「レギュラーや準レギュラーが存在する」ということで、これによって「思想的な偏り」が生まれる。思想的に偏った内容を毎週流していれば、それは洗脳と同じである。
 ここで良しとされるのは主に右翼的な言説で、僕から見れば真っ当と思えるものも多い。左翼を思いっきりバカにする姿勢も爽快ではある。この番組ほどハッキリとものを言うのは「テレビ番組としては」珍しいし、これが高視聴率をとり続けているというのはものすごいことだ。
 しかし所詮はテレビである。言えることには限界があるし、頻繁にテレビに出てくるような論客が語れることにも限界がある。彼らは主にテレビで報道されていることだけを材料にして話すから、視野はどうしても狭くなってしまう。たまに本質的な問題を提起するゲストが出てきても、「現実性がない」とか「陰謀論だ」とか「頭が悪い」とかいう言葉や雰囲気でもって冗談にされてしまう。
 経済に関しても、番組全体の思想としてはどうやら「個人消費をどんどん上げて、年に2~3%程度の経済成長を維持できるようにしよう」というところで固定されているらしい。「景気をよくするには、世の中にお金を回さなくてはダメだ」という主張は、確かに完全に正しいが、「景気をよくしなければならない」という前提を疑うことは誰もしない。定まった世の中の仕組みの中で、ああだこうだと言っているだけだ。「仕組み」を疑おうとは誰もしない。それはそうだ、似通った思想の持ち主が司会者やレギュラーとして固定され、そこからはみ出した思想を持つ出演者(田嶋陽子など)は全力で否定され、笑いものにされる。
 そういう構造ができあがっているから、番組に通底する思想はある固定的なものでしかない。だから、どんなゲストが出てきたってびくともしない。ゲストは通常、一人でしかやってこないから、数の論理で打ち破れる。一般の視聴者はすでにレギュラー出演者に感情移入しているのだから、ぽっと出のゲストを「面白い」とは思っても、レギュラーがそれを否定するのならば信用はしないだろう。

 僕が興味あるのは、「仕組み」を根底から見直そうとする言論であって、民主党がどうとか、経済成長がどうとかいうのは枝葉でしかない。枝葉でしかないものを真剣に語ることしかできないのが、現在の日本のテレビの限界だと思う。
 日本は、いや世界はもっと大きな問題にもうずっと長い間直面しているのだというのに、その問題については素通りして、現代のくだらない問題ばかり追いかけている。

「だけどあんたのやってることはまるで くみ取り式の便所の仕組みはほったらかしにしておいて 出てきたハエを一生懸命追ってるようなものさ お偉い方はハエが出たって知らん顔さ そりゃそうだろう 甘い汁を吸うには世の中変わっちゃ都合が悪い くみ取り式のまんまで放っておきたいようなもの」(岡林信康『おまわりさんに捧げる唄』)

2010/03/09 「うちの子」の未来について

 うちの子だけは大丈夫、なんてことを言いますが、実際「大丈夫」な子なんていないんですよ。みんな万引きやったり人殺したりしてるんですよ。
 うちの子だけは大丈夫、なんてことを言いますが、売春したり二股かけたりしてるんですよ。それは息子だろうが娘だろうが彼氏だろうが彼女だろうが同じことなんですね。
 人生捨てちゃった人が取りかえそうとすると大変です。
 アダルトビデオに出演したり風俗で働いちゃったりした女子が、その過去を塗りつぶそうと思ったら大変なことだし、その過去を塗りつぶさないで生きていくことも同様に大変なことです。

 取り返しのつかないことは、軽はずみな行動の結果としてついてきます。
 中高生、あるいは十代二十代の若者に「軽はずみなことをするな」と言って聞かせるのは大変なのです。先日引用した『あのバカは荒野をめざす』という藤子・F・不二雄先生の短編のように、若者は自らの信じる道を突き進んでしまいがちです。(新興宗教にはまる若者もその一例なのかもしれません。)

 実は若者に限らず、理性の充分に育っていない人間というのは皆、そういうものなのかもしれないです。
 理性というのは知性と感性が美しく融合したところに生まれるものです。
 空がきれいとか星がきれいとか呪文のように唱えていれば、自然と備わってくるようなものなのです、などと言えばなんだかスピリチュアルだが
 
 未来ということを考えるのは大切なことだと思う。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があるが
 たとえば十五歳の若者には学ぶべき経験がろくにない
 だからこそ冒険心を持って何も考えずに突き進むのだが
 結果はよかったり悪かったり。
 なので歴史、すなわち他者の経験と叡智に学ぶべきだというのだ。

 過去と現在を繋げなければ未来へ向かう直線は描けない。
 ところが若者はろくな「過去」を持っていない。
 だから歴史に学ぶ必要がある。
 歴史というのは日本史とか世界史とかいうもの「だけ」ではない。
 過去のあらゆる現象や思考のすべてをさす。
 それを大切にして初めて若者は、
 いや人間は未来というものを考えることができる。
 温故知新。それをしてすら失敗を積み重ね、傷ついてしまうのが人間だ。

2010/03/08 漫画は難しい

『ばらかもん』という漫画を人に薦められて読んだ。漫画とは難しいものだ。
 表現したいことは僕好みで、非常に素晴らしいと思うのだが、漫画の技術がそれに追いついていない。そういう漫画ってけっこうあるもんで、『海の大陸NOA』なんてのは最たるものだと思っている。『NOA』は愛に満ちあふれた素晴らしい作品であるが作者のじゅきあきら先生の漫画が下手くそすぎるために万人受けはしない。僕は『NOA』を心から愛する島民の一人なのだがそのことはよくわかる。それでもしかし僕はあの作品が好きである。
 ネット上をさらっと見たところ、『ばらかもん』はやはり『よつばと!』と比較されるらしい。『ばらかもん』のヒロイン(?)「なる」は、誤解を恐れずにいえば「よつば」とほとんど同じキャラだ。僕は『よつばと!』よりも『ばらかもん』のほうが「作品に込められた、あるいは作者が作品にこめようとしている魂」としては好きである。が、残念ながらヨシノサツキ先生よりもあずまきよひこ先生のほうが数段漫画の力が上なので、どちらが面白いかと言われれば『よつばと!』だと言う人は圧倒的に多いだろう。(売上や人気も実際そのようになっていると思う。)
 不幸にも「書きたいこと」と「それを表現するための技術」は別のところにあって、双方が奇跡的に美しく融合したところに名作というものは生まれるのだろう。たとえば『天体戦士サンレッド』のくぼたまこと先生なんか、「書きたいこと」と「技術」が完全に一致していると思う。くぼた先生は一貫してああいう作品ばかりを書き続けていて、自分の技術によって表現できないことは一切描こうとしない。(まあ、例外として『とつげき!ぷるぷる学園』なんてのはちょっと無理があった気もしないではない……。)
 僕も漫画を描くのだけども、技術が圧倒的に足りないため、現在の技術で描けることだけを描こうとすると、どうしても描けることが限定されてしまう。ゆえに僕の漫画は今のところ、私小説ならぬ私漫画のようにしかならない。くぼたまこと先生が「庶民的怪人漫画」ばかりを描き続けるように、僕もそのようにし続けるのかもしれない。

2010/03/07 妹が石を持ってくる

 妹が石を持ってくる。
 目をキラキラさせて川原を駆けずり、美しい石を探してくる。
 綺麗だと僕が言うと妹は嬉しそうにする。
 でも本当はその石はそんなに美しくもない。
 彼女の目には美しいと映るごくふつうの石に僕は嫉妬する。

 妹は石に囲まれて幸せそうだ。
 無邪気に並べて、にやにやと顔をほころばす。
 僕はその石の中にいくつか本当に美しいものを見つけた。
 だけど妹はどの石も平等に扱っていた。
 五年後十年後、この石たちはどうなっているのだろう。

 妹は僕のことが好きだ。
 座っている僕の身体によじ登って高い高いと言う。
 あと何年かすれば当たり前の景色になるだろうに妹は本当に何だか感動しているように見えた。
 僕は妹のことを何とも思ってやしない。
 好きでも嫌いでもなんでもない。
 ただ妹の石を集めている姿を見るのが僕は楽しい。

 久しぶりに昔集めた石を押し入れから引っ張り出してきて並べてみる。
 涙を流すほど美しい石もあり、どうしてこんなものに当時は歓喜していたのかと思うほど平凡な石もあり。そのいずれもに想い出が詰まっている。
 愛とは石に宿った想い出のようなものかもしれない。
 僕は妹を呼び出して石拾いに誘った。

2010/03/06 子孫からの電話

 子孫からの電話。
 僕は小魚をつまみにビールを飲んで、応対をした。
 最初のあいだ彼はずっと自分の生活にかまけていて僕を置いてけぼりにした。未来のお菓子や未来の漫画を、僕に自慢した。
 僕は黙々とビールを飲んだ。

 僕にも子孫がいるのだ。
 これから数十年のあいだに何が起こるのか僕は彼には聞かなかった。
 彼が僕のことを好きか嫌いか、そのこともわからない。
 反対に僕は彼に自分のこれまでのことを話した。
 そしていま自分が恋している相手のことを話した。
 その女が彼の先祖であるかどうかということについて彼は一言も言わなかったが、その時ばかりはただ落ちついて聞いていた。

 ビールを飲みながら僕はいささか昂揚していた。
 ついに僕は自分の余生について話した。
 僕はもう人生に満足してしまっている。
 自分に関する具体的な欲望なんてものはもうほとんどない。
 他人のことや、世界のことばかりを考えて生きていきたい。
 僕がかつて好きだった人は僕にかつて、
「ねえ結婚して。そしてひと月に五十万円くらいを稼いで。」
 と言った。
 僕がいま好きである人は、
「ねえ。」
 と言ったまま動かない。
 僕はそのことを彼に話した。

「それであなたはどうしたんです?」
 未来の食事をほおばりながら彼は言う。
 恥ずかしいから、答えられなかった。
「まあいいです。」
 と言って彼はまた未来の食事を続ける。
 なるほど彼の質問は的確だ。

 他愛もない世間話をそれから少しして、電話を切る間際、
「三年後にあなたの子供が生まれます。」
 と告げられた。
 僕は深く深く考えこんでしまった。

 いつまでも生活は僕のものではない。
 それはわかりきっていたことだった、本当は。
 僕はそういう家庭に生まれ育ったわけだから。

 しかし僕にはまだわからないことだらけだ。
 きっと誰だってわからないことだらけなんだけど。
 ただ僕はわかるまで一歩も動けない。
 頭でわかることが身体でわからない。
 僕は僕の好きな人を呼び出した。
 だからといってどうということはない。

 過去ログを増やしました。
 読むにたえないくらいひどい文章もありますが、その中にときおり、キラリと光る何かがあるような気がします。物好きな人はどうぞ。

2010/03/03 昨日の続き

 一応、言い訳として書いておくけど、僕がここに書いているのは常に「一般論という名のフィクション」なのです。題材やヒントになるような現実があったとしても、ここに書かれていることと「その現実」とはとりあえず関係がない。関係はないが、どんなことにでも関連づけることはできる。そのような書き方をしているつもりなので、あまりうるさく思わないでください。


 さて恋愛とは精神異常だ。このことが問題になるのは、精神異常であることが他人にバレてしまっているときだけで、二人だけの閉じた世界で、隠れてこっそり狂っているというのならば、何の問題もなく平和で、美しい。そう思う。
 恋愛はある程度「秘め事」にしておきたい。恋愛を外に向かって開いてしまうということは「自分たちの精神異常を他人に見せつける」ということで、その姿はきっと正常な人間からしてみれば妙ちくりんなもんだから、かならず何らかの波風が立つ。第三者の言葉によって、美しく整然と狂った恋愛の世界はきっと崩される。恋愛をしている人間はキチガイみたいなもんなんだから、よそからあれやこれや言われるのは間違いないし、そもそも恋愛なんていう二人だけの世界に第三者の意見を容れようというのはおかしい。何か具体的な問題が起こっていたとしても、基本的には二人の間だけで解決させればいいことだ。可能な限りは。だから恋愛っていうのは秘め事でいい。
 恋愛が秘め事でなくなる時というのは、その恋愛が恋愛としての熱を失って、精神的に正常な状態になっていて、それでもまだ相手のことを愛しているという時だろうと、今の僕は思う。だからといって別に、付き合ってることを隠すべきだとかそういうわけではなくて、細かな内実までを話す必要はないのだろうということ。
『闇金ウシジマくん』という漫画に、「本当に幸せだったら、わざわざ言葉にして、彼氏自慢する必要ないじゃん。」という実に素晴らしい、完璧なセリフがあるのだが、この言葉をみんな胸に深く刻み込んだらいいと思う。
 二人だけの閉じた世界で「完璧な幸せ」を味わっていられたら、他人に話したり、他人を巻きこんだりする必要なんてない。今現在自分の感じている「幸せ」が、どこか不安であったり、何かが欠けているように思ってしまうから、「彼氏自慢」に代表される「自分の恋愛を外に向けて開く」行為をしてしまうのだ。「ノロケ」も「愚痴」も、「実は幸せであるという確信が自分にはない」というところから出てくるものだと僕は思う。真に美しい恋愛は、秘められていても平気な顔をして輝いている。
 そんな美しく輝いた恋愛をしていたいものだと思いますよ。

2010/03/02 恋愛は精神異常

 その人と話していると、なぜだかポンポンと面白いことばっかり思いつく。そんな相手が何人もいて、みんな一緒にいて実に心地よい存在である。昨日も今日もそういう人たちのうちの一人と会っていて、いろいろなことを思った。

 恋愛とは精神異常のようなものだ。
 恋愛にはまりこんでいる人たちはたいてい冷静さを失っていて、周りの目も声も気にならなくなってしまうから、客観的に見たら「狂ってる」としか思えないような判断や行動をしがちである。そんなことを先日書いたら、メールフォームから「自分も周りに『変だ』と言われるような恋愛をしていて、しかし自分は『幸せだ』と思い込んでいたからそのまま突っ走り、結局ひどい破綻の仕方をしたことがある(大意)」という感想をいただいた。「目が覚めた! と思った」、だそうな。「どこかが欠けている恋愛は、客観的に見たらその違和感がよくわかる」という意味のことも書かれていて、まったくその通りだ。
 僕はそのメールを読んで、「やっぱり恋愛ってのは精神的に異常な状態なんだなあ」ということを改めて思った。わかりきっていたことではあるが、やはりそうだ。
 精神的に異常な状態であるような人たちのする判断が的確である場合は非常に少なかろうと思われるので、恋愛をしている人たちが「結婚しようと思う」とか言っていたら、周囲はどうにかして踏みとどまらせるべきだと思う。全力で止めないと、ひどい破綻がやってくる。
「恋愛している人たちが結婚しようとしていたら止めなければならない」というのは、妙な話のようだが、僕はそう思う。「恋愛」という精神異常状態の中にいるうちは、結婚なんて巨大な決定はしちゃいけないんじゃないかと。だったらどうすればいいかといえば簡単な話で、結婚するべきタイミングとは、「精神的に異常である状態が終わって、それでもまだ一緒にいたいと思っているとき」だろう。
 ……とはいえ、世の中には精神異常状態が十年も二十年も、ひょっとしたら五十年も続くようなカップルだっているのかもしれないから、例外だってあろうとは思う。十年付き合って温度が冷めなかったら結婚しちゃっても大丈夫かもしれない。でもまあ、基本的には、「狂おしいように想い想われる恋」みたいな状態のうちは、大きな決定は避けておくのが無難だろう。だって、狂ってるんだから。的確な判断なんてできないんだから。そしてそのことには当事者はまず気がつけないのだから、周囲が、あるいは世間が、止めてあげなければならない。

 藤子・F・不二雄先生の『あのバカは荒野をめざす』では、人生に後悔している中年のホームレスが登場し、過去に行ってかつての自分の決断を変えさせようと説得を試みる。が、夢と理想だけを頑なに信じる「若さ」には理屈など通じようはずがない。過去の自分は結局かつてと同じ決断をして、同じ人生の航路を進んでいくのだった。このあと中年のホームレスは新たな人生を模索し始め、ささやかな希望のうちにこの短編は閉じる。
 過ちを「若さ」のせいにしてはいけない。若さとは情熱であり、可能性だ。「あんたはまだ若いなどと卑怯な逃げ方をするな 時代を変えて行くものがあるとすればそれはきっと名もない青春たち」とは篠原美也子さんの『誰の様でもなく』という曲の中にある言葉だが、それは中年になって、ホームレスになったって持ち続けることができるものだ。若さのせいにしてしまうことは、希望を捨ててしまうことに似ている。『あのバカ~』は、そういうことを語りかけてくれているような気がする。
 若さというのは、恋愛というものによく似ていて、要するに「精神的に異常な状態」だ。それを「信じる」というのも一つの手ではあるのかもしれない。だがそれは、「周囲の反対を押し切るだけの強い情熱」があってこその話だ。つまり、『あのバカ~』において、未来の自分の言葉にも耳を貸さず殴り倒し、己の決断を貫いた若き日の中年ホームレスのような、ぎらぎらとしたエネルギーがあってこそ、「後悔」ということを無力化してしまうほどの大いなるパワーを纏っていればこそ、「信じる」ということができるのである。周囲の反対に押し負ける程度の決断であれば、信じるにも値しない。だからまずは、客観的な周囲が強く強く「反対」してあげることが肝要なのだ。折れればその程度の想いであったのだし、折れなければ結果はどうあれ「悔いが残らない」生き方をしたということで、それはそれで一つの美談になる。とにかく、狂ってる人間の狂っているように見える判断には、反対してあげたほうがいい。

 結婚は、精神異常が治ってからするべきものだ。精神異常状態のまま、理屈も世間もかなぐり捨てて、友人の忠告を踏みにじってでも「結婚したい」と想うのならば、すればいいではないか。(本当はこれを言ってしまうと「反対」にならないから言うべきではないのだが。)少しでも迷いがあるのなら、やめたほうがいい。とりあえずF先生の『あのバカは荒野をめざす』とか『分岐点』とか『間引き』とかを読んでよーく考えるべきだと思う。もう全短編読んでしまえ!

2010/03/1 限界破裂

  ずっと僕だけ見ててくれりゃ
  きっと君にもよかったのにね
  全て与えたはずさ 君に
  すべてあなたのためさ


 hideの『限界破裂』という曲について。これから書くのは主観的に過ぎる「ものすごく穴のある解釈」だが、今日はあえてそれで行く。
 この曲のストーリーは、
 女の子を好きになる→両想いになって全身全霊を彼女に尽くす→でもセックスしてみたらなんか虚しく違和感がある→そんなこと言ってるうちに浮気される→ぶっ殺して永遠に自分だけのものにする
 というようなもんかもしれない。そういえば藤子不二雄A先生の名短編『水中花』はほとんど同じような話だ。
 僕は『PSYENCE』というアルバムを初めて聴いたころからこの曲が大好きなのだが、なぜ好きになったのかといえば、この曲の視点人物、すなわち「君」に恋してしまう「僕」の、気の触れた感じに親近感が持てたのだった。
 ある女の子のことを、自分勝手にとことん好きになってしまう。独りよがりに。相手のことなんか考えもしないで、ひたすらに突っ走ってしまう。そんな危うい感じがこの曲を通じてある。
「僕の上で君が君じゃなくなる」という表現をまっすぐに受けとめれば、この恋はひとまず成就しているわけだが、しかしそのことを「どうしようもなく悲しくて淋しい戯れ」とか「悪夢」とか言っている。そして「何も意味などないのさ 君が汚されちゃうから」だ。
 これは、「自分とセックスすることによって相手が穢れてしまう」という意味に取れる。それほどまでに相手を神聖化しているというわけだ。「僕」にとって「君」とは薬であり、クスリであるような存在なわけであって、別にセックスというのはどうでもいいのだろう。
 しかしここで僕は別のことを考えてしまう。「僕の上で君が君じゃなくなる」ということは、恐ろしいなと思うのだ。僕は「君」と結ばれたいのであって、「君じゃなくなった君」には興味がないのだし、僕が好きで、理解したいと思っていて、実際多くを理解しているつもりになっている相手は「君」なのだ。「君じゃなくなった君」については僕はわからない。だから恐ろしい。
「君じゃなくなった君」、つまり「性欲に支配されてしまった君」は、僕の理解の及ばないところで生きているから、ひょっとしたらよそで浮気でもしてんじゃないかって思ってしまう。「君」がそんな子じゃないことはわかっている。しかし、性欲が理性を凌駕してしまったような状態の「君じゃなくなった君」に関してはどうか。それについては僕の理解を超えている。だからわからない。それゆえ僕は不安である。
「『とても淋しい』と嘆く君」「いとしの僕の『不安定』」は、たぶんものすごく人肌恋しいタイプのエロい女で、放っておけばその淋しさをどこか別のところで発散しようとしてしまうかもしれない、という……なんか非常に個人的な話になってきてしまった。
「ずっと僕だけ見ててくれりゃ きっと君にもよかったのにね」という歌詞は、それを考えるとずーんと重たくのしかかる。「君」がよそ見した結果、「君じゃなくなった君」が頭をもたげて、暴れだして、破廉恥な浮気に走る。それは「君」にとってはよいことではないと、「僕」は思っている。
「僕」が好きで、理解しているのは「君」であって、「君じゃなくなった君」のことはわからない。だから「君じゃなくなった君」が何をするのか、わからなくて怖い。それで「君を君をこのまま 閉じこめて永遠に 君のそばにいて ずっとずっと話しかけるよ」という、ねじ曲がった愛の方向に行く。「誰にも会わずに ここで過ごそう ガラス細工の時を 二人過ごそう 過ぎた夜の数を 数えずに過ごそう 君と集中治療 続けていこう」……
 ここで描かれているのは、「二人だけの、閉じた、濃密な関係」である。ぶっ殺しているか監禁しているか、あるいはただ観念だけの世界でそうしようとしているのか、わからないが、客観的に見れば歪んでいるような気もするものの、真っ直ぐな想いではある。二人だけの世界にいれば邪魔は入らず、邪念も混じらず、美しい関係のままでいられるのだ。
 このあとの「…そして君は僕のクスリになる」という最後のフレーズを見れば、この曲は単純に「恋愛が成就してはまりこむまでの過程」を歌っているだけなのかもしれないが、まあいろんな解釈があっていいだろう。

 さて僕が何を言いたいのかといえば、エロい女を彼女にすると不安だということである。彼女がエロいにこしたことはないのだが、それはそれでなんだか心配である。これは男にとって永遠のテーマである。

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