少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2010/02/31 ドラゴンボール再読

 いまドラゴンボールブウ編の終盤(精神と時の部屋でゴテンクスとブウが戦うところ~最終回まで)だけ読みかえしてみたが、涙がとめどなくあふれて困った。悟空とベジータやサタンとブウの深い絆に心打たれた。このへんは何十回読みかえしても泣いてしまう。なんという名作か。
 ついでにワンピースも一巻だけ読んだ。なんという名作か。

 さて、ちなみに今夜25:30からTBSラジオで放送される『文化系トークラジオLIFE』という番組に、ひょっとしたら少しだけ出るかもわかりません。本放送には出なくても、ポッドキャスト版(ネット配信版)のほうには出るのかも。なんかインターネットで聴けるらしいので興味ある方はどうぞ。小沢健二さんの特集です。変なことは喋らないようにします。メールをくださったプロデューサーの方が、かな~り話のわかる方だったので、とりあえず安心しております。そうでなければもっと身構えるけれども。

2010/02/30 ドラゴンボールで育ったので

 ここ四週間くらい、日曜の朝は『ハートキャッチプリキュア』→『ドラゴンボール改』→『ワンピース』という流れでアニメを観ている。毎週欠かさずアニメを観るなんて『まなびストレート!』以来だ。
『ドラゴンボール改』はフリーザ戦で、来週悟空がスーパーサイヤ人になるところ。うずうずしてきたので先取りして原作を読みかえしてしまった。
『ドラゴンボール』は幼少期から大好きなので、数え切れない回数を読んできたし、今でも数年に一度は全巻読みかえす。コミックス版は実家に置いてあって、帰省のたびに「今回は○○編を読もう」とか言っておいしいとこ取りして読んでいる。いちばんよく読むのはブウ編で、意外とフリーザ編はあまり読まない。あのへんは飽きるほどくり返し読んでいるからだ。
 で、このたび久々にフリーザ編を……というか主にフリーザ戦を読みかえしてみたわけだが、すごい。これほどの才能はもう二度と現れないのか。
 僕はドラゴンボールの連載が始まった年に生まれた。完全にドラゴンボールで育った世代であって、幼いころから当たり前のようにドラゴンボールがあったから、これが「当たり前」なのだが、冷静に見てみると、こんなに上手く格好良く迫力のある戦闘シーンが描ける漫画家ってほかにいないし、フリーザをはじめとするキャラクターのデザインは異様なほど斬新で洗煉されている。フリーザ最終形態のカラーイラストを単品で「美術品」と称したってどこからも文句はやってこないだろう。現代アートの作家たちも裸足で逃げ出すほどのクォリティだと思う。例えばフリーザ最終形態の、あの耳。なんなんだあの耳。昔のできそこないロボットみたいなデザインでありながら、なぜこんなにオシャレであるのか。
 何より驚いたのは、ナメック星爆発間際における界王さまの知略だ。ドラゴンボールで「フリーザに殺されたものたちを生き返らせてくれ」と頼めば、フリーザと出会ったことによって寿命が縮んだ(であろう)最長老さまもわずかの期間生き返るはずだ、ということを界王さまは言う。これを「へりくつだ」とか「ご都合主義だ」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、しかしこんな発想、天才でなければだれができる?
 フリーザは直接的には最長老さまを殺していないし、攻撃も加えていないが、おそらく出会ったショックで寿命は縮ませたはずだ。その縮んだ寿命ぶんくらいは生き返るだろう。その間だけナメック星のドラゴンボールはふたたび使用可能になるはずだ……と、書いてしまえば「うまく伏線を回収した」というだけのことだが、鳥山明先生のすごいところは、たぶん書いた当初はいずれも伏線なんかではなかったのである。おそらく、あとからむりやり伏線にしてしまったのである。
「いやあ、どう考えてもこれは助かりませんよ」
 とは、『ドラえもん』の「あやうし! ライオン仮面」という話で、『ライオン仮面』という漫画を読んだドラえもんが、ライオン仮面の絶体絶命の窮地に対してこぼしたせりふである。当時『ドラゴンボール』を読んでいた人間は、みな一様に同じせりふをつぶやいていたはずである。
 べつに、悟空が乗ってきた宇宙船で悟飯たちがナメック星を脱出する、という展開でもよかった。それでも充分に面白い漫画である。が、あえて鳥山先生は「最長老さまを生き返らせる」という一見ムチャクチャな展開を選んだ。そしてこれによってフリーザ戦のラストは最高の盛り上がりを見せたのだ。へりくつだろうが後づけだろうが、とにかくドラマチックに盛り上がっていくほうを選ぶ。誰も予想しなかった展開を選ぶ。
 予想しないといえば、フリーザが実は生きていて、悟空のいない地球にやってくるという絶望的な展開も誰も予想できなかっただろうし、そのフリーザを一瞬にしてバラバラに切り刻んでしまうような新キャラクター(トランクス)の登場も予想できなかっただろうし、そのトランクスがブルマとベジータの子供であったということも、予想していた人間は本当に誰もいなかっただろう。
『ドラゴンボール』の一寸先は闇で、初めて読む人間には数ページ先さえ予感できないようなものなのかもしれない。作者自身もそうだったろうと思う。まさしく週刊連載の起こした奇跡である。
 僕の世代は『ドラゴンボール』の絵やストーリーを完全に当たり前のものとして、「そういうもんだ」と捉えてしまっているが、改めて読み直すと本当にすごい作品だということに、今さらながら気づく。『ドラゴンボール』は僕らにとって空気のようなものだから、なかなか距離を置いて眺めるということは難しかったのだが、さすがに大人になると色んなことがわかってくる。空恐ろしい作品であることよ。
 というわけでさすがにそろそろワンピース読むか!

2010/02/29 起きる

 寝ていて起きたらメールが来ていて共通の友人が客観的にみれば明らかに狂っているタイミングで結婚しようとしているようだという旨だった。
 世の中には交際期間0日で結婚してしまうような人もいるのだから何ともいえないが、ナインティナインの岡村さんは「えー理論」という説を掲げている。
「芸能人の○○(と××)が結婚」という報を聞いたときに出る、「えー!?」という声が長ければ長いほど、その二人の結婚生活は短くなる、というものである。たとえば、「藤原紀香と陣内智則が結婚」という知らせに対して、岡村さんが「えーーーーーーーー!?」と言ったとすれば、二人の結婚生活は非常に短いということだ。簡単にいえば、驚きの大きさと結婚生活の長さは反比例する、ということ。んまあ、「驚きが大きい」ってことは、「客観的に見たら狂ってる」ってことにほど近いんだから、そりゃ結婚生活も短くなるのでしょう。

 んで僕は起き抜けにそのメールを見て、「はあ……」と呆れたような声を出してしまった。そういうわけなんで長続きするんじゃないですか。

 それにしても、客観的に見たら明らかに狂っていることに対して、本人たちが主観的に本気である場合、周りの人たちはどうしたらいいのか。
 僕は十代のころ、とある宗教団体に騙されて洗脳合宿にまで連れていかれて、一時的に頭がおかしくなったことがある(そのくらい精神的にキツイことをされたのだ)。ほとんど脅迫のような形で「次の(洗脳)合宿にも来るよね?」というプレッシャーをかけられて苦しんでいた僕に、友達の女の子が涙ながらに「そんなとこ、もういっちゃだめ!」と言ってくれたので、「そりゃそうだよなあ」と思って、一切彼らとの交わりを断ったのであった。彼らは自宅まで押しかけてきて、居留守を使ってたら何時間でもドアの前に立ちつくしているというストーカーまがいの行動にまで及んだが、それさえも無視していたらやがて僕の前から消え去った。
 あの女の子には今でも感謝している。僕はなんでも「面白ければいいのだ」と思ってしまうたちなので、「まあ、洗脳合宿も面白そうではあるし」などと頭の片隅で思っていたのだが、さすがにさらに一週間も合宿なんかしていたら本当に洗脳されてしまうか、よくても精神崩壊を起こしていただろうと思う。
 彼らはよくあるカルトな新興宗教団体で、「客観的に見たら明らかに狂っている」のであったが、彼らとしては「主観的に本気」だったわけである。そういうものに引き込まれそうな友人を見たら、まともな人間は「だめ!」と言うのだし、言うべきだと思う。
 しかし、むだに物わかりのいい人間は、ここで「あなたの好きにしたらいい」などと、自己決定権を相手に委ねてしまったりする。実は、当時一番仲のよかった……というかこんにゃくしていた女の子は「あなたの好きにしたらいい」と言ったのである。その一言が僕をさらに迷わせたのは言うまでもない。僕は本当は、その女の子から「だめ!」と言ってほしかったのである。
 この経験から、友人・知人が「客観的に見たら明らかに狂っている」行動に手を染めようとしている場合、物わかりのよさそうな顔をしないで、固定観念で「だめ!」と言ってあげるべきだと僕は学んだ。狂った人間の自由意志なんか尊重していたら、結局はその人の身にならない。親が「勉強したくない」と言う子供にむりやり勉強させるようなものである。親は子供の将来を思ってそう言うのだが、子供は今その時の快楽だけを基準にしてものを考える。「だって勉強って気持ちよくないんだもん」と。

 だから、僕は客観的に見たら明らかに狂っている友人に対して、「だめだよ」と言ってあげるべきだと思っているのだが、それをしたら波風が立つ。立った。それで僕はもう疲れ切ってしまった。狂った人間の相手をするのには、やたらエネルギーを使うのだ。グレた息子の対応に親が疲弊するようなものだ。親子という関係だったら切っても切り離せないので、「放っておく」ができなかったりもするが、所詮は友人だ。もう、放っておこうかなとも思っている。と言いつつこんなことを書いていることに他意はない。ほかに書くことがなかったから書いてみただけである。

2010/02/28 寝る

 暇さえあれば寝ている。三日で三十時間以上は確実に寝ている。
 寝た自慢も鬱陶しいもんだが、寝過ぎていることは寝てないこと以上に問題が根深いように思う。なぜなら、人は急いでいるのだ。
 どれだけ寝てしまっても、焦らないようなぼんやりした生き方をしたいものだが。

2010/02/27 知性と感性 詩の効用

 前の日記を読んで、僕が「論理大好き男」だと思われてはいやなので詩について書いておく。
 ことばとは論理そのものである。しかし、人間は論理だけで生活しているのではない。人の営みはもっと曖昧で、ウヤムヤなものだ。論理がふつう排除する感覚や感情や感性といったものが生活の中では本当に大切になっている。僕たちが日常で使うことばの中にも、「ニュアンス」や「含蓄」といった形で非論理が顔を出す。
 が、ことばの本質というのはどうしても論理であって、決して逃げられるものではない。そこで、人々は「詩」というものを思いついた。最も古い文学の形は「詩」であると言われるが、それはたぶん「ことばが論理という呪縛から逃げようとした」ということなんじゃないかと僕は思う。
 どういうことかといえば、詩っていうのは、「論理」を気にしなくていい言語なんだ。ふつうは「地球が逆立ちした」と言ったら「間違い」だと言われるが、詩であれば許される。
 僕は、高校三年生の時に「論理」っていうものを知って、そればっかりを考えて勉強をしていたから、頭の中が「りくつりくつ」してきちゃったんだ。それで、高三の十月に、本格的に詩のようなものを書き始めた。大量に。
 いま思えば、あの時期に詩を書き始めたというのは、「僕の頭が論理という呪縛から逃げようとした」んじゃないかと思う。「丸暗記でない勉強」をしていると、常に論理を考えていなくてはいけなくなる。そうすると頭がどうしても疲れるし、理屈でガチガチに縛られて堅くなってしまうことにもなるから、それをほぐすため、解放するために詩を書き始めたんだろう、と分析する。だからあの頃の僕の詩には、いっさい論理がない。徹底的に非論理を貫いている。

 論理だけに偏ると、人は融通がきかなくなる。冗談もわからなくなってくる。それを防ぐために、感性っていうのが論理をサポートする。そうなると論理は「知性」と呼ばれる、一等輝くものに変わる。
 知性と感性のバランスの取れた人間になりたいと願う。

 僕は、「論理大好き」なんじゃなくて、「高校三年生で論理というものを知ってしまったが、本来は感性の人なので、どうにかバランスを取りたいと思って必死に詩を書いていたような人」なんだと思う。

 けど最近はべつに「論理」に縛られてしまうような状況がないから、詩のほうも論理のほうへ寄ってきている。論理というのは「意味」と言い換えてもいい。
 詩というのは、「意味」と「意味でないもの」のせめぎ合いで、前衛的な詩には意味がなさすぎるし、平凡な詩は意味でありすぎる。その辺が難しい。

2010/02/26 成績信仰

 まず、江戸時代生まれの二葉亭四迷が明治の終わりに書いた『平凡』という作品から引用する。適宜読みやすく漢字を開くなど改変した。長いので重要なところを太字にしておく。語り手の文学者くずれが、中学時代の勉強について思い出して書いている部分である。



          二十一

 小学から中学を終わるまで、落第をも込めて前後十何年の間、毎日毎日の学校通い、――考えて見れば面白くもない話だが、しかしそれをさほどにも思わなかった。小学校のうちは、家で親にこうるさく世話を焼かれるよりも、学校へ行って友達と騒ぐ方が面白いくらいに思っていたし、中学へ移ってからも、人間はこうしたものと合点して、何とも思わなかった。
 しかし、およそ学科に面白いというものは一つもなかった。どの学科もどの学科も、みんな味も素っ気もないうんざりするものばかりだったが、なかんずく私の最も閉口したのは数学であった。小学時代からそうだったが、中学へ移ってからも、こればかりは変わらなかった。この次は代数の時間とか、幾何の時間とかなると、もうそれが胸につかえて、溜息が出て、何となく世の中が悲観された。
(略)
 何の因果でこんないやな想いをさせられる事か、それはさっぱり分らないが、ただこのいやな想いを忍ばなければ、学年試験に及第させてもらえない。学年試験に及第ができぬと、最終の目的物の卒業証書がもらえないから、それで誠にやむことをえず、眼をねむって毒を飲む気で辛抱した。
 もっともこれは数学ばかりでない。どの学科もみんな多少ともこの気味がある。味わって楽しむなどいうのは一つもない、また楽しんでいる暇もない。後から後からと他の学科がせきたてるから、あわてて片端から及第のおまじないの御符のつもりで鵜呑みにして、そうして試験が済むと、すぐ吐き出してケロリと忘れてしまう。

          二十二

 今になって考えて見ると、無意味だった。何のために学校へ通ったのかと聞かれれば、試験のためにというよりほかはない。全くその頃の私の眼中には試験のほかに何物も無かった。試験のために勉強し、試験の成績に一喜一憂し、どんな事でも試験に関係のないことなら、どうなとなれとよそに見て、生命のほとんど全部を挙げて試験の上にかけていたから、もしその頃の私の生涯から試験というものを取り去ったら、あとは他愛のない煙のようなものになってしまう。
 これは、しかし、私ばかりというではなかった。級友という級友がみんなそうで、平生の勉強家は勿論、金箔附きの不勉強家も、試験の時だけは、言い合わせたように、一色に血まなこになって……鵜の真似をやる、丸呑みに呑み込めるだけむやみに呑み込む。もっともこの連中はさすがに平生を省みて、あえて多くを望まない、せめて及第点だけはほしいが、もらえようかと心配する、そうして常はことごとに教師に抵抗して青年の意気のさかんなるに誇っていたのが、どうしたはずみでか急に殊勝気を起こし、敬礼もなるだけ気をつけて丁寧にするようにして、それでもなお危険を感ずると、運動と称して、教師の私宅へおしかけて行って、哀れッぽいことを言って来る。
 私はわがまま者の常として、見栄坊の、負け嫌いだったから、平生もあまり不勉強の方ではなかった。むろん学科が面白くてではない、学科はいつまでたっても面白くも何ともないが、たとえば競馬へ引き出された馬のようなもので、同じような青年と一つ埒内に鼻をならべてみると、負けるのがいやでいきり出す、やたらに無性にいきり出す。
 平生さえそうだったから、いわんや試験となると、さながらのきちがいになって、手ぬぐいをねじって向鉢巻ばかりではまだるッこい、氷のうを頭へのっけて、その上から頬かむりをして、夜の目も寝ずに、例の鵜呑みをやる。また鵜呑みでたいてい間にあう。間にあわんのは作文に数学ぐらいのものだが、作文は小学時代から得意の科目で、これは心配はない。心配なのは数学のやつだが、それをも無理にあわてた鵜呑み式で押しとおそうとする、また不思議とある程度までは押しとおされる。もっともこれはかねあいもので、そのかねあいを外すと、落ッこちる。私もいまだ試験慣れのせぬうち、ふとそのかねあいを外して落ッこちた時には、親の手前、学友の手前、さすがに面目なかったから、少し学校にも嫌気がさして、その時だけはちょっと学校教育なんぞをあくせくして受けるのが、なんとなくばかげたことのように思われた。が、世間を見渡すと、みんなこの無意味なばかげたことを平気で懸命にやっている。一人として躊躇している者はない。その中で私一人そんなことを思うのはなんだか薄気味悪かったから、あわてて、いや、ばかげているようでも、やっぱり必要のことなんだろうと思い直して、そしらん顔して、それからは落第の恥辱をすすがねばおかぬと発奮し、切歯して、扼腕して、果たしまなこになって、また鵜の真似を継続してやった。
 鵜の真似でもなんでも、試験の成績さえ良ければ、先生方も満足せられる、家でも親たちが満足するから、私はそれでいいことと思っていた。そうして多く学んでほとんどなにも得るところがないうちに、いつしか中学も卒業して、卒業式には知事さんも「諸君は今回卒業の名誉を担うて……」といった。家でも赤飯を炊いて、おめでたいおめでたいと親たちが右左から私を煽がぬばかりにしてくれた。してみれば、やッぱり名誉でおめでたいのに違いないと思って、私も大いに得意になっていた。


 もうすぐ卒業シーズンで、僕も現在は中学校の先生をやっているから、ついこんな文章を引用してしまった。でも別に説教をしたいのではない。
 学校の勉強なんてのは、そんなもんだってこった。
「鵜呑み」というのは、今の言葉でいえば「丸暗記」にあたると思う。中学や高校の、ひょっとしたら大学受験までの勉強というのは、だいたいこの「鵜呑み=丸暗記」でなんとかなる。なんとかなってしまうからこそ、みんなそれをするのであって、その後にはなにも残らない。せいぜい「知識」だけが残るんだったら残るけれども、それさえもたいていの人の頭からは消え去っていく。
 僕だって実は、そのようにやってきた。高校受験は公立だったから試験問題は簡単で、覚えるべきことさえ覚えておけば満点が取れた。そうして入った高校でも二年生までは丸暗記以外の勉強をしなかった。授業もほとんど聞いていなかったし、予習復習など一度もしたことはない。すべて試験前日の丸暗記だった。
 試験の点数に執着も強くはなく、よい点数が取れれば嬉しいし誇らしげにもなったが、少し悪い点数が来たからといって落ちこんだり「次はがんばろう」と思うようなこともなかった気がする。思うんだったら「次はもっと効率のよい一夜漬けの方法を考えるか」くらいのものだった。
 なんでそうだったのかというと、僕は「勉強」というものに何の興味もなかったからだ。それなのにどうして一夜漬けの勉強だけは熱心に(それはもう熱心に)していたのかといえば、「テストの点がいいとバカだと思われない」というところに尽きる。僕はプライドの塊のような子どもだったから、バカだと思われたくはなかった。それで一夜漬けをしてそれなりにいい点数を取って、自尊心を保っていた。今思えば、それさえもあほらしい。
 そういう方針が変わってくるのが高校三年生の時だった。僕が大学受験の勉強を始めたのは五月に入ってほどない頃だったが、その頃には僕は「勉強」というものに興味を持つようになっていた。
 この辺の話を詳しくすると長いので省略するが、英語の先生が僕に「勉強とはどういうものであるか」ということを教えてくれたのである。言葉で「こういうものだ」と教わったわけではない。英語という教科の学び方を通じて、「勉強っていうのは本来はこのようにするものだ」ということがわかってきたのである。

 勉強とはすなわち、論理である。理屈なのである。感覚も感情も感性も入り込まない、ただ理屈だけの世界。それが勉強というものだ。「鵜呑み=丸暗記」というのは、勉強の基礎となり得るものではあるかもしれないが、勉強そのものではない。論理を学ぶこと。徹底的にそれだけに拘泥すること。それこそが勉強である。同じ「覚える」ということでも、論理を使って覚えたことは「勉強」になる。そう思って僕は受験に臨んだ。
 勉強とは必ず思考が伴うものであり、思考とは言語を使ってするものであり、言語とはすべて論理でできあがっているものだ。僕はそのことを、高校三年生の英語の授業で学んだ。英語という言語、特に学校で習うようなものは、論理でガチガチに縛られている。それは単語の成り立ちからしてわかりやすくそうだ。突き詰めれば日本語も同じようにできあがっているのであり、その日本語を使ってなされる自分自身の思考というものは、常に論理的である。論理的でない考えを思考とは言わない。雑念とでも言う。妄想とも言われる。
 勉強とは、常にその「思考」を用いて行われるものである。
 だから勉強とは論理だ。
 そう気づいた高校三年生の僕は、「ああ、もう丸暗記はしなくてもいいんだ」と思って、歴史を学ぶときでも必ず論理立ててものごとを覚えるように努めたし、国語をやるときでも感覚に頼ることをやめた。そうするだけで目覚ましく学力は上昇し、勉強が楽しくなった。八月十日に件の英語の先生による補講の終わる日まで、三ヶ月間これ以上ないほどに勉強をして、唯一まじめに受けた模試の結果が返ってきたのを見たら、志望校に入れるくらいの学力はすでについていたらしいので、はたと勉強のスピードをゆるめて、お盆をゆったりと過ごし、部活の合宿にも行った。なんと素晴らしい高校三年生の夏だったかと、今も懐かしく思い出す。
 歴史に関しては、当時僕のクラスの世界史を担当されていた二人の先生が本当に素晴らしい授業をしてくださっていたので、自然と「丸暗記をせずに覚える」が身についた。それで僕は塾なんかに行く必要はなかったのだ。
 学習塾や予備校なんて、行った時点でその人はもう終わってるんだと思っていたが、しかし僕だって、あの先生たちに運良く巡り会っていなかったら、「勉強の仕方がわからない子」のままだったのかもしれない。
 ただ、いい先生に巡り会わなかったからといって僕が塾に行っていたかどうかといえば、絶対に行っていないし、大学だって同じところに受かっていたかも知れない。「セワシ理論」だ。
 東京から大阪まで、新幹線で行っても普通列車で行っても結局は目的地に着くように、僕は三人の先生のおかげで新幹線なみの速度で受験勉強できて、それがゆえに八月には学力が充分上がっていた。かりにその先生たちがいなくても、二月までずっと普通の速度で勉強して、そのまま大学に入っていた可能性もある。自学自習で「何か」に気づき、途中でぐーんと速度が上がっていた可能性だってある。そしたらお正月にはゆったりと過ごせたかもしれない。

 どうでもいい話を長々と書いてしまった。僕はもう、いやだ。この過剰さが。まあいい。とことんだ。


 僕の行っている中学校の生徒は、もう「成績信仰」とでも言わんばかりに、「成績」のことを気にする。「成績下げるぞ」と「テストに出るぞ」は殺し文句で、これを言って気にしない生徒はいない。「自由な校風」を標榜している学校だから、そのぶん「成績」ということで生徒を縛っていないと、「自由すぎて手が付けられない」になってしまうのだろうと思う。「君たちは自由だ」という洗脳と、「成績は何よりも大切だ」という洗脳を同時にかけて、どうにかバランスを取っている。そういったところなんだろうか。
「成績信仰」は「結果主義」を導く。結果がすべて、という考え方。これはもう、学校というより近代そのものの性質だ。生徒たちがテストの点数や、成績表の数字に一喜一憂する姿を見るたびに、ため息が出る。二葉亭の言う、「生命のほとんど全部を挙げて試験の上にかけていたから、もしその頃の私の生涯から試験というものを取り去ったら、あとは他愛のない煙のようなものになってしまう。」というような状況に、彼らも陥ってやしないかと不安になる。これがもう、100年以上も前の文章だというんだから、近代というやつは、当たり前だが根が深い。
「試験なんかどうでもいいんだ」と言うようなやつは、だいたいスポーツに熱中している。「スポーツ信仰」はまた別の「結果主義」を導いて、頭からっぽの単細胞を量産する。スポーツそのものが悪いとはもちろん言わないが、使いようによってはそういうふうにもなるのがスポーツではある。

 なんで「結果がすべて」と思うのが単細胞になるのかっていえば、それは「結果」というものがあまりに単純で、わかりやすいからだ。「結果」そのものに「思考」はない。「思考」が存在するのは常に「過程」の中である。
「結果」を追い求めて生きるのは、楽だ。そこに向かって、最も効率が良いと思われることをすればいいからだ。宗教というのはふつう、「目標=結果」があってそこに向かっていくものだから、わかりやすいし、楽だ。「悟りを開く」でも「天国に行く」でも「世界平和」でもなんでもいいが、あらかじめ決められた結果があって、そこに向かって進んでいくとき、もしそこにマニュアルが用意してあれば、人は何も考えなくてもいいのだ。近代まではそれでよかったらしい。これからは、どうなる?

 わーからん。
 僕は個人的には、やっぱりみんなもうちょっとものを考えたほうがいいと思う、理想的には。かといって、「勉強をせねばならん」というわけでもない。誰もがみんな「思考」というやつが得意なわけではない。ではどうする? というところが、今ここ。
 少なくとも、行きすぎた成績信仰やスポーツ信仰は「近代」というやつの産物であって、もしも我々が「近代」なるものから脱しようと思うのならば、そこからまず脱しなければならない。江戸生まれの二葉亭は、たぶん本当は近代の人ではなかった。だから中学の「勉強」に疑問を覚えたのだし、『平凡』で自然主義を批判して「実感」ということを強調したりもした。
 僕は二葉亭四迷なので、同じことを思っている。
 勉強に関する疑問については今ここに書いたし、自然主義への批判というのは、いつも僕が言っているインターネットに対する意見と重なりそうな気がするのである。

2010/02/25 コンビニ改革その2 あったかゾーン編

「あったかゾーン構想」は、僕がずっと温めつづけてきたアイデアである。
 高校二年生の大晦日、僕は自転車で名古屋から三重県のトウヘンボク町だとかなんとかいうところに行って、帰りに久居市に寄って友達と会って、そこの神社で年越しをしたのだが、その日はあまりに寒かった。
 寒くて寒くて、友達と二人で「あったかゾーンがあったらいいのにね」という話をした。「あったかゾーン」とは、読んで字の如く「あったかいゾーン」だ。そういうものが、そこらへんにあったらいいのに。あまりに寒かったから、そういうことばっかり話してた。その日からしばらく、このホームページのタイトルは「Enteritainment Zone」から「あったか Zone」になったとさ。(Zoneは「ぞね」と読んでください。)

 それからずっと「あったかゾーン」について考えてるんだけど、現実的なことを思い浮かべるとけっこう難しい。ホームレスが住みつきそうとか、不良がたまりそうとか、掃除は誰がするんだとか。あれやこれや思案して、「こりゃ無理だ」という結論に、いつでもたどり着いた。
 だが僕も歳を取り、若いころには「こりゃ無理だ」とさじを投げていたような問題でも、立ち向かうことができるくらいの知恵が多少はついてきたのだ。

 考えてみれば現代には、「あったかゾーン」がすでにあったのである。
 コンビニである。寒かったらコンビニに入ればいいのだ。
 コンビニにホームレスが住みついたという話は聞かないし、不良のたまり場にはなっても、あったかい店内にたまることはまずない。ブリーフ&トランクスが歌うように、「不良のたまり場、入り口でたむろ~」なのである。ミニストップみたいに、店内に飲食スペースがある場合は事情が違うこともあるかもしれないが、基本的にコンビニ店内は平和である。

 昨日の「コンビニ改革その1 万引きを繰り返す編」で書いたように、僕はコンビニが好きではない。消えてなくなってしまえばいいと思っている。が、今はあえてこの発言をこう言い換えようではないか。「コンビニなんて、全部あったかゾーンになってしまえばいい」だ。

 まず、すべてのコンビニに「あったかゾーン」という看板を掲げ、店内からは棚や商品を一掃する。それでベンチや椅子などを配置するのである。あったまることが目的だから、机はあっても少なめのほうがいいだろうし、睡眠を取れそうなスペースはなくす。飲食はできるが、モノは売らない。外のお店で買うか、家から持って来る。すると当然、たべものを扱っているお店は儲かって、商店街も活気を取り戻す。ゴミ箱はコンビニと同じく外に置いてある。もちろん原則的には持ち帰りが推奨されるが、あるにはあったほうがいい。管理人もシフト制で置くか、無人の場合もあったっていい。開室時間については、自治体や地域にそれぞれ決定させる。とにかくゾーン内が荒れないように、徹底的に工夫する。どうしたら最善か具体的にはわからないけど、コンビニが荒れないのだからあったかゾーンだって荒れないようにできるはずである。

 あったかゾーンをどうやってあったかくするのかといえば、もちろん暖房を使う。これはコンビニで使われているエアコンを流用すればいい。しかし、二十四時間動かしているわけだから、非常にたくさんの電気を使う。これはもったいない。とはいえ、あったかゾーンの室内温度を下げるわけにはいかない
 というわけで、「あったかゾーン法」というのを新たに制定する。メインは「住宅、オフィス等においてのエアコンによるあったか行為の原則禁止」だ。許可なくあったか行為に及んだ者は、厳しく処罰される。
 もちろん例外はたくさんあって、たとえば図書館や本屋、喫茶店などの飲食店、食料を扱うお店などだ。本や食品など、室内の温度や湿度を一定に保つことが必要なものを扱う場合については、これが許可される。エアコンメーカーや電機店は打撃を喰らうだろうが、食べもの業界は潤う。みんなあったまりに来るから。図書館の利用者も増えて、民度も上がるかもしれない。
 しかし、最も繁昌するのは、もちろんあったかゾーンだろう。あったかゾーンは現在のコンビニと同じ場所に同じ数だけあるから非常に便利で、しかも無料なのである。維持費は税金で賄われる。それが無理なら何か工夫を凝らさねばならないが、そこはとりあえず無視しよう。

 家が寒くて、家の外にあったかいゾーンがたくさんあるとなると、人々は暇になるとそこへ行く。そこで近所の人と「こんにちわ」とか言って、その後に続く言葉はもちろん「外は寒いですね」だ。
 そうして人と人との絆が生まれ、また深まったりする。暇な人が気まぐれに来るのでメンバーは固定されず流動的で、しかし誰もが誰もを知っており、そこにいるメンバーによって話題が変わったりもする。僕が再三言っている「原っぱ」というものが、ここにできあがるのである。

 本物の原っぱには子どもしかいないが、あったかゾーンには老若男女が集うのであり、だからもちろん喧嘩や嫉妬やなんやかや、わずらわしい人間関係がいっぱいあるかもしれない。だが、それぞ人間のあり方であるわけで、いろんな人がいる中でどう折り合いをつけていったらいいのか、ということを人々はあったかゾーンで学び、己の人格をより陶冶させていくのだ。時には問題も起こるだろうが、そういうものは自分たちの中で解決させていく。それができない場合は、管理人が調停したり、裁判が起きたりすることもあるかもしれない。が、人間社会というのはそういうものだ。どうせそうであるならば、あったかいぶんだけ、あったかゾーンでしたほうがいい。あったかいから、もめ事も多くはないはずだ。静岡人ののほほんさを見よ!
 あったかゾーンが嫌ならば、逃げることはいくらでもできる。あったかゾーンはたくさんあるのだし(田舎には一つしかなかったりするが、村社会というのはどのみち逃げられないものなので同じである)、あったかゾーン以外にも人間の生きる場所はいくらでもあるのだ。ちょうどmixiと似ている。mixiをやめたって別に生きていける。エアコンによるあったか行為は禁止されても、炬燵や火鉢は使えるのである。ストーブもギリギリありかもしれない(このあたりは自治体が条例等で定めたらいい、六畳につきストーブ一台まで許すとか)。家でもあったか行為はできるのだ。ほとぼりがさめたころにまたあったかゾーンに行ってみたら、存外居心地がよくなっているということもあるかもしれない。

 そのように、コンビニを廃止してあったかゾーンに変えれば、素晴らしく人間らしい世界がそこに待っているのである。作りすぎたおかずや田舎から送られてきたみかんをあったかゾーンで配るとか、そういうこともあるだろう。ワクワクする。

 冬以外の季節はどうしようか? 夏は「ひんやりゾーン」とかにして、同じようなことをすればいい気がするんだけど、春秋はゾーンなんかにこもってないで外に出てピクニックしたほうが楽しいかもしれないから、思い切って閉めちゃうのもいい。なんと、夢が広がるではないか。
 どうですか? 僕の「あったかゾーン構想」は。完璧ではないですか!
 でも、人々は絶対に「便利」というほうを選択するので、これは上から強引に改革せねばならんです。プロパガンダとかガンガンやって。それが悲しいから、なんだかこういう楽しげな妄想をしていてもいつの間にか泣けてきてしまったりするのでありました。
2010/02/24 コンビニ改革その1 万引きを繰り返す編

 僕がコンビニで万引きを繰り返しているとする。
 お金がないわけではない。しかも僕は美しく、正しく、より善く生きていこうと思っている人間なのである。
 それなのに僕がもしもコンビニで万引きを繰り返しているのだとしたら、それはなぜかといえば、「僕にはコンビニで万引きをすることが悪いことかどうかわからない」という前提の上で、「コンビニで万引きをすることによって得る利益」と、「万が一コンビニで万引きをしているのが見つかって捕まった場合に被る不利益」とを天秤にかけて、前者を選択しているからだ。

「ダメだこいつ、早くなんとかしないと。コンビニで万引きするのは悪いことに決まってるじゃないか」と思われるかもしれない。そう思うのが正常だと僕も思う。しかし僕はそれでも、コンビニで万引きをするのが悪いことかどうかわからないのである。

 たとえばの話、万引きされて困るのはコンビニの会社である。「その商品の製造や流通に携わっている人々全員が困るのではないか」という話もあるが、おそらくは万引きされた分の損害をかぶるのは直接的にはコンビニだけである。製造や流通の業者に、「万引きされたので入荷した商品のお金は払いません」とコンビニが言うことは、たぶん、できない。(ここが違ってたら話にならないので、詳しい人がもしいたら教えてください。)そうとなると、少なくとも最初に潰れるのはコンビニ会社である。
 コンビニで万引きが繰り返されたらどうなるか。もしも全国の各コンビニで万引きが横行し、売上がゼロに近い状態になったら。まずたぶん、バイトがクビになる。それからそのコンビニが閉店する。それからコンビニ会社が倒産する。それからもしかしたら、「コンビニに商品やサービスなどを提供することによって利益の多くを得ている会社」も倒産するかもしれない。たぶんそのころには「コンビニはもうダメだ」と見切りをつけて多くの企業が方向転換をしているだろうが、収益をコンビニに頼り切っていた会社は潰れてしまう可能性もある。
 いずれにせよ損をするのは、「コンビニに関わっている人たち」だ。こういう人たちは、路頭に迷う可能性がある。それは「悪いこと」ではないのか? と誰もが言うだろう。が、僕は「それが悪いことなのかどうかわからない」と言う。

 だって僕は、コンビニなんか消えてなくなってしまったらいいと思っているのだ。理由は省略するけど、コンビニなんかなくたっていい。なくなったら今より不便にはなるけど、「不便」なんて「そういうもんだ」と思って慣れてしまったら平気になる。
 だいたい「不便」という状態は「便利」があってこそ生まれるもので、パイプウェイ(昔の漫画によく出てくるやつ)が登場したら車や電車は「不便」だと言われてしまうかもしれないのだ。遠くの湖や川まで水を汲みに行くのが普通だったところへ、近くに井戸ができたとしたら、井戸は「便利」で湖や川へ行くのは「不便」になる。
 それと同じで、コンビニができる前はコンビニのない状態は「不便」なんかじゃなかったはずなのだ。「夜中でも○○が買える店があればいいのに」くらいには思ったかも知れないが、「夜中に○○は買えない」ということが普通であったら、その範囲の中で工夫して生活できていた、はずだ。

 だから、僕は「コンビニに関わっている人たちが困る」という状態を「困らない」。とりあえずは路頭に迷っても、コンビニに関わらない職業を見つけてもらったらいい。僕は平気な顔してそういうことを思うのだ。
 都会に職がなかったら、地方へ行けばいい。それでも職がなかったり、都会を離れられない事情があったり、コンビニに関わる以外の職業には能力的に就けないということであったら、当座、べつに職に就かなくったっていいのかもしれない。「どうやって食っていくんだ」と言われたら、「どうにかして食っていけるでしょう」としか言えない。そのくらいには世の中っていうのは絶望的でないだろうと思う。
 正直なことを言えば、コンビニが崩壊して、いったん生活がめちゃめちゃになったほうがいいような気さえする。治安が悪くなるのかもしれないというのが唯一最大の懸念事項で、「人間よ、理性を捨てないでいてくれ」とひたすらに願うばかりだ。人間が人間らしい理性を持ってさえいれば、コンビニがなくなったことごときにはびくともしないで、むしろ人間らしくいられるのではないかとすら思う。このあたり、詳しくは省略。

 そういうことなので、僕はコンビニで万引きを繰り返すことが悪いことかどうか、いまいちわからない。捕まった場合には何らかの処罰を受けるなり賠償責任を負うなりしなければならないが、そのリスクを了承した上でコンビニで万引きを繰り返すのだとしたら、そのことはこの場合の僕にとって問題ではない。
 コンビニで万引きを繰り返す人が多くなれば、「世の中の秩序が乱れる」ということはあるのかもしれない。コンビニで万引きを繰り返すだけでなく、八百屋や魚屋で万引きを繰り返す人間が出てくるかもしれないし、殺人や強姦などがそれによって増えないとは限らない(べつに増えるという根拠もないが)。「人のものを盗んではいけない」という正しい倫理観も崩れてしまうかもしれない。それは僕は「いけない」と思う。
 そういう連鎖反応を想定せず、「コンビニで万引きを繰り返すこと」だけに限れば、それ自体は「べつに悪いことではない」と僕はここでは言い切ってしまいたいが、実際には悪い連鎖反応があるかもしれないのだから、しぶしぶ「悪いことかどうかわからない」という表現を使う。
「わからない」というのは「よくない」や「してはいけない」ではないのだから、もしも必要に迫られたらやってしまうかもしれない。僕にとって「コンビニで万引きを繰り返す」はその程度のものでしかない。殺人や強姦だったら故意にすることは絶対にないだろうと思うが、コンビニでの万引きに関してはそうは言わない。もちろん、この歳になって自ら進んですることはないと思うが、背中に拳銃をつきつけられたらわからない。って、そりゃ殺人や強姦だってそうかもしれないから、「金属バットでスネを殴られそうになったらわからない」とくらいにしておこう。
 しかし、たとえばうちの近所の商店街の八百屋や魚屋や、駄菓子屋なんかでの万引きは、これは僕の基準では「悪いこと」だ。八百屋や魚屋や、駄菓子屋がなくなってしまうのは、僕は嫌だからだ。コンビニがなくなっても、別に嫌じゃないどころか、大歓迎である。結局のところこれは、そういう話なのである。

2010/02/23 箴言

  感覚を感性にするためには知性が必要なのであり、
  知識を知性にするためには感性が必要なのである。

「感覚」は「直感」、「知識」は「論理」で置き換えてもいいな。

  直感を感性にするためには知性が必要なのであり、
  論理を知性にするためには感性が必要なのである。

 どっちがいいだろう。
 あるいはその他。
 投票してー。


 要するに、知性も感性も、どちらも必要だということ。
 論語ふうに言うと、

  感じて考えざれば即ち罔(くら)し、
  考えて感じざれば則ち殆(あやう)し。

 といったところか。

 知識や論理だけに凝り固まって、「感性」というものが育っていなければ、その知識や論理は「知性」という生きたものにはならない。
 感覚や直感ばかりに頼って、「知性」というものを疎かにしていると、「感性」という生きる指針となるべきものは育っていかない。
 知性と感性とは相互に関わり合い、補い合い、影響しあって育まれていくものなのである。

 僕は、そのどちらもがそれなりには育ってはいるものの、相互の関わり方がまだまだ不十分な状態なのではなかろうかな、と思う。

2010/02/22 あぜ道の前に立つ

 19時間くらい寝てしまった。
 脳みそがズタボロだ。
 早死にするかもしれない。
 そういう願望の表れか。
 怖い怖い。
 19時間のうち8時間くらいはイギリスの祭典に出ていて、ずーっと歴史を歌っていた。
2010/02/21 人を信じない

 人にお金を貸したらそれを持って逃げてしまうかもしれない。
 そういう例はいくらでもある。
「信じていた人に裏切られた」という話は、よく聞く。
 人間というのは絶望的に信じられない。
 だが人を信じないのは哀しい。
 哀しいのは嫌だ。
 石橋を叩いて渡る僕は人を信じたいのである。
 岡林信康は「信じたいために疑い続ける」と歌った。(『自由への長い旅』)
 僕はいつも疑っている。
 僕は人を信じない。
 どれだけ仲の良い人間でも、きっかけがあればいつか自分を裏切るだろうと思っている。
 でも十年付き合ったらそうも思わなくなるかも知れない。
 それを楽しみにして、僕は人を信じない。

2010/02/20 趣味が合うとか合わないからといって、何だということでもない

 ある友人がいる。
 べつに僕と彼とは「趣味が合う」というわけではないと思う。
 ただ、「共通して好きなものがいくらかある」という事実だけがある。
 二人の間にはおそらく大きな溝がある。
 それはどんな「仲のよい二人」を選んでも必ずその間に横たわっている溝である。
 その溝には橋がかかっていて、それが「二人の共通して好きなものでできている」とする。
 僕らはその橋の上でかたい握手をかわす。
 その時の僕らに不安はない。
 もしもその橋が吊り橋や手抜き工事の橋のように不安定なものであったなら、僕たちの手はふるえてしまうだろう。
 だが僕らの立っているこの橋は実に強くて、丈夫で、安定している。と僕たちは心から信じている。だから僕たちは堅く手をむすびあえる。
 もし僕らが他の場所にむりやり新しい橋を架けて、その上に二人で乗ろうとしたら、橋は壊れて、まっさかさまに深い溝へ落ちてしまうかもしれない。
 だけど僕らはもう「丈夫な橋とはどういうものか」を知っているから、そういう間抜けはしない。
 幼いころに、本当に幼いころに、その何よりも大切なことを僕たちは学んで、二度と忘れることはない。

 むかしむかしあるところに王子と乞食がいて、それぞれがいちばん大切なものをしまいこんだ宝箱のようなものを持ちよって、いっせーのーでで開けてみたら、そこには同じものが入っていたというような、美しい奇蹟があったとする。
「真逆のキャラでも相通じてる」とはそういうようなことである。

「共通して好きなものがいくらかある」というのは現象の上での結果にすぎなくて、それは「本当に大切だと思うものがいくらか共通している」ということでもある。
 橋の比喩でいうと、もめることなく丈夫な橋を作って架けられるということ。「おい、ここはこうしないと橋は丈夫にならないじゃないか」ということがなくて、「こうすればいいよね」という「つうかあ」によって作業が進んでいく感じ。
「丈夫な橋とはどういうものか」は、あまりにも根源的なものだから、その点でもめることはない。もめるとしたら、せいぜい「なぜここをこうしたら橋は丈夫になるのか」ということくらいしかない。かりにその点で意見が合わなかろうが、橋の強度が変わるわけではない。
 あるいは、僕が「こういう橋だって丈夫だ」と言ったのに対して、「その橋が本当に丈夫かどうかは僕には納得できない」と彼が言うこともあるかもしれない。しかし、僕が「こういう橋だって丈夫なのだから、作るぞ」と無理矢理持ちかけでもしないかぎり、特に問題は起きない。もちろん僕はそのようなことをしない。すでに強固な橋が一本、でーんとあるのだから、欲ばることはない。
 恋愛だってこういうふうに考えられたらいいと思うのだが、恋になるとどうしても「こういう橋も架けたい、ああいう橋も架けたい」になってしまう。友情がなぜ美しいと言われるかというと、一本の橋でも充分以上に満足できてしまうような場合が恋愛と比べて圧倒的に多いからなのかもしれない。よくわからないのだが、ボーイズラブの本質って、きっとそういうところにあるんではないか。

 僕と彼とは「気が合う」というわけでもないような気がする。もちろん、合わないと言っているのではなくて、別にそんな言葉で表現する必要もないということだ。合うとか合わないとかそういうのではなくて、ただ「丈夫な橋とはどういうものか」をお互いに知っているというだけである。

 もちろんこれは昨日の話でいう「美しい」という言葉を使ったっていい。ただ難しいのは、僕が『帰ってきたドラえもん』で号泣するのに対して、かりに彼がそれほど感動しなかった(実際は彼はあれを見れば泣くだろうが)としても、彼には僕の感じた美しさがわからない、とも言い切れないのである。同質の「美しい」を、彼はべつのものに対して発見するかもしれない。
 東京から大阪に行くのに、電車を使おうが、船を使おうが飛行機を使おうが、結局は大阪に着くのである(これは専門用語で「セワシ理論」という)。
 僕は船が好きでも、彼は船酔いをするかもしれない。だから僕は船に乗るが、彼は飛行機に乗るということがいくらでもある。しかし目的地は一緒だから、僕らは大阪で会えるのである。
 そういうことこそが本当に素晴らしいと僕は思う。

 僕はたとえばヴィジュアル系ロックバンドの曲の中に『あまいぞ!男吾』と同質の美しさを発見するかもしれないが、彼にはそれがわからないかもしれない。だが、別にそれでいいのである。
「なんでこの美しさがわからん?」と憤るのはへんな話で、それは「東京から大阪に行くのに、どうしてお前は船に乗らないんだ!」と怒るようなものである。どのみち大阪で会えるのだから、そこまでの道中は、それほど重要ではないのである。もちろん一緒に旅をする楽しみというのはあるが、それはまた別の話だ。
 一方で、電車に乗っても船に乗っても飛行機に乗っても、どんな手段を使っても大阪にたどり着けないような人はいる。その人と僕が「大きな溝」に橋を架けて、その上で握手をしようとしても、腕も膝も激しくふるえてしまったりするかもしれない。その震えで脆弱なその橋が崩壊して、二人ともまっさかさまに落っこちて、二度とどんな橋も架けられることがなくなってしまうかもしれない。「丈夫な橋とはどういうものか」に対して共通の理解がないと、そうなる。

 幸いなことに、僕らの橋は未だにどうやら堅固さを保っている。堅固だったのには初めから堅固だったのだとは思うが、しかし「この橋は堅固だ」という確信に至るまでには、それ相応の時間はかけている。高校生のときに『絶対無敵ライジンオー』全51話をLDからビデオテープに何十時間もかけてダビングして彼に渡した時の僕の気分というのは、まさに「石橋を叩いて渡る」だったのだと思う。
 いや、あれから十年近くも経ってようやくこんなことを書くというのは、ずーっと石橋を叩き続けていたということなのだろう。そしてこれからもずーっと僕は石橋を叩き続けるだろう。その度に僕らの「丈夫な橋とはどういうものか」という確信は強まっていく。またよろこばしからずや。
 当たり前のことだがこの文章は何も彼だけに向けて書いているのではない。

2010/02/19 美しいがわからない人

 世の中には「美しい」がわからない人がいるらしいです。
 僕が漫画を読んだりアニメを観たりして泣いてしまうのは、たいていは「ああ、美しいものを見てしまった」という感動です。「かわいそう」とか「よかったね」といった感動で泣くことはたぶんほとんどありません。
「かわいそう」とか「よかったね」というのは、いわゆる「感情移入」というやつだと思います。先日友達と、「感情移入して泣くってのはよくわかんないよね」という話をしました。たとえば映画『帰ってきたドラえもん』を見て泣くのは、「ドラえもんと別れなければいけないなんて、のび太がかわいそう」とか「ドラえもんが帰ってきてよかったね」とかで泣くのでは、ないです。僕はそうです。僕があれを観て(というか、その原作漫画を読んで)だらだら泣いてしまうのは、のび太とドラえもんの関係を「美しい」と思うからです。
 僕がたびたび名前を出す『宇宙船サジタリウス』というアニメや、『あまいぞ!男吾』という漫画についても、同じ事情です。感情移入なんてしませんし、できません。ただ「美しい」と思って泣くのです。
 こんなにも好きなのに、この二つの作品を僕が進んで人に貸したりしつこく薦めたりしないのは、「相手が『美しい』のわからない人だったらどうしよう」というのがあるからです。「美しい」がわからなければ、この二作品はたぶん、あんまり面白くありません。「美しい」がわかる人でも必ずしも僕が感じるのと同じ「美しい」をそこに発見してくれるのかどうかはわからないので、僕は実は「美しい」ものを人に薦めるのが少々怖いのです。
 とよ田みのる先生の漫画(『ラブロマ』『FLIP-FLAP』『友達100人できるかな』)も似たようなものです。こちらは割と進んで人に貸し出したりできるのですが、それはとよ田先生の作品にある「美しい」が、まっすぐで具体的で、わかりやすいものだからです。彼の作品を形容するのにはよく「直球」という言葉が使われますが、まさにその通りで、とよ田先生は「美しい」が少しでもわかる人であれば誰にでもわかってしまうような球を確実に投げられる名手なのです。さらに、「美しい」がまったくわからないような人でもそれなりに面白いと思えるような質の高い作品を作り出す実力もあります。このような作家はそうはいません。だからもしかしたらとよ田先生は当代一の漫画家なのかもしれない、とまで思うことがあります。たとえて言うならば、とよ田先生の作品は青い空を流れていく雲のようなものです。それは誰もが美しいと思うはずです。言い過ぎでしょうか?
『宇宙船サジタリウス』や『あまいぞ!男吾』あたりになると、これがちょっと難しくなるのです。誰にとっても美しいものなのだかどうか、僕には自信がないのです。僕はこれ以上に美しい作品というものをほとんど知りませんが、誰もがそう思うだろうか? を考えると、ちょっぴり不安になってきます。同じ空でも、曇り空からひと筋だけ射す光を、「美しい」というふうに思う人もいれば、「あれ、珍しいな」くらいにしか思わない人もいて、まったく気にも留めない人だっているのです。よーく目を凝らさなければ気づかないものでもあるのかもしれません。青い空を流れていく雲のように、当たり前にわかりやすく美しいものとは少しだけ違うのです。
 世の中には「美しい」をわからない人がいて、「どのようにわからないか」は千差万別です。僕だってある種の「美しい」は全然わからないのかもしれないのです。いや、きっと誰もがそうだと思います。美しいということに対する感じ方を基準に人を分けるということは本当にばからしいことです。しかし、しかし、……と、こういう葛藤を毎日のように続けていて僕は、なんだかいつも絶望的な気分になります。正しさ、美しさ、善であること、こういうことの基準を誰もが共有できていればいいのにと、こんな歳になってまで思っています。さらに正直に言うなら、「みんな僕のようであればいいじゃないか」と、半ば本気で願っています。

2010/02/18 真夜中なので

 真夜中なので不遜なことを言いますが、僕って妙なところでずば抜けてしまっているので、そのずば抜けた部分を好きになってしまった人は、なかなか僕のことを嫌いになれないのではないかと思います。嫌いになれないというのは、この場合「好きでい続けてしまう」ということです。僕のことを一度好きになって、後に「そんなに好きでもない」になるような人というのは、いったい何があったというのでしょう。まあ、単純に「ずば抜けてダメな(嫌いな、好きでない)部分が見えてきた」とかいうことなのかもしれませんし、「好きでいてもメリットはない」と理性的に判断した結果なのかもしれませんが。
 まさか、「ジャッキーさんよりもずば抜けている人を見つけてしまった」というわけではないと思う(僕のような妙なやつと同じところがずば抜けているなんて人間がいるはずはない)ので、きっと「ジャッキーさんのずば抜けている部分を魅力的に思わなくなった」、要するに「好みが変わった」ということなのでしょう。「ジャッキーさんとは別のところがずば抜けているような人を好きになる」です。「やっぱ男は外見だよね」とか「やっぱ男は金だよね」になったら、僕なんかは到底太刀打ちできません。
 あるいは、「ずば抜けている」だなんていうことそれ自体に興味がなくなったのかもしれません。僕は実は「ずば抜けている」だなんていうことに興味を持たない人が好きだったりしますが、それだといよいよ僕には太刀打ちできない分野になってしまうのかもしれなくて、どうすればいいのだか途方に暮れているという現状です。

 と、この文章は読み方によってはひどく悪い印象を受けられそうな気がするのですが、よーく読むと、けっこう読解の幅があるかと思いますので、よろしくお願いします。

2010/02/17 がんばるぞー。

 僕は性風俗業従事者を差別しています。それが「立派な職業の一つ」だという主張については理解しているつもりですが、しかし「差別されるべき職業」というのはあると思います。「どんな職業であれ、その人が誇りを持ってやっているのならば立派な仕事だ」という言葉があって、それはその通りかもしれないと僕は思っています。が、たとえばヤクザとか暴力団とか呼ばれるものは、あれはたぶんれっきとした職業の一つであって、必要悪のようなものでもあるらしいのですが、しかしやっぱり、「怖い」とか「社会のゴミ」とかいうふうに差別されるべきものだと思います。高利貸しなんかも同じです。彼らは誇りを持ってやっているのかもしれなくて、それがゆえに「立派な職業」ではあるのかもしれませんが、それと「差別されるべきかどうか」は別の話だと、僕は思います。
 僕は、「差別されるべき立派な職業」というのがあると思うのです。性風俗業従事者は、そういうものなのではないかと思います。ホストやキャバ嬢なんかも似たようなものです。彼ら、彼女らは、やはり偏見の目で見られなくてはいけません。
 なぜそう思うのか? それは非常に難しいのですが、世の中の秩序というのはそのようにして保たれていくものだと思うからです。新宿に都庁と歌舞伎町があるように、社会には表と裏というものがたぶん必要で、そして裏にあるものは裏にあるからこそ意味があるのではないかと思うわけです。性風俗業は裏にあるべきものだろうと僕は思っていて、「性風俗業従事者を差別しない」ということは、「性風俗業を表に引っ張り出す」ということで、それでは世の中に「裏」がなくなって、「すべてが表」という状態になってしまいます。
 実際、最近はどうもキャバクラというものが「表」になりつつあるから、中高生が「キャバ嬢っていいよね、お酒飲んで笑ってるだけでいいお金がもらえるんでしょ」くらいのことを言うわけだし、AVや風俗店で働く敷居もどんどん下がっています。それは「そういう職業への差別意識が以前に比べれば薄まってきた」ということだと僕は思っています。もしもこのまま差別意識が薄くなっていって、AVに出ることと、野菜を作ったり八百屋さんで働くことが同じく「差別されるべきでない立派な職業」になってしまったら、世の中の秩序は壊れるのではないでしょうか。
「需要される限りは、AV嬢も風俗嬢も増え続ければいい」と考える人もいるのかもしれませんが、そういう世の中を理想と思う人は、今のところそれほど多くはないのではないかと思うのですが、どうやら世の中はそのように動いていっているようなのです。「個人の自由意志を尊重して、AVに出たい者は出ればいい」という考えもあって、それはもっともらしく聞こえるのですが、それと「AVに出ている者を差別しない」ということは、べつに関係がないのです。AVに出て高いお金をもらう代わりに、その女の子は差別されるのです。個人の自由意志は、それを踏まえた上での「覚悟」という形をとるはずです。それでこそ「裏」の職業だというわけです。
 AV嬢や風俗嬢を差別することによって、AVや風俗という職業は「裏」のものになります。隠れてこそこそ、やらなければならないものになります。僕はそうであるべきだと思います。そのことによって、世の中の「表」は健全なものになります。AVや風俗という「不健全」を設定することによって「健全」を作るのです。
 でも、理想としては「健全なものしかない」ほうがいいのではないのか? AVも風俗も「健全」であるということにしてしまえば、世の中に「不健全」はなくなるのではないのか? そういう考え方もあるかもしれません。が、それだと「性的に奔放すぎる世の中」がやってくる恐れがあって、さらには「性的なものが抑圧されなくなった結果、別のものが抑圧され始める」ということだって起こりえます。「表」が「表」である限り、「裏」というものは常に存在し続けるのです。何らかの形で。


 実は、そのことを言っているのが藤子・F・不二雄先生の名短編『気楽に殺ろうよ』だと思うのです。
『気楽に殺ろうよ』では、「殺人が権利として容認され、性欲が開けっぴろげになり、その代わりに食欲がタブーとなっている」という世界が描かれます。殺人が容認されているので、人間の命は重くありません。たとえば中高生が駅のホームで「新しいのこさえよ」と言って赤ん坊を投げ捨て、その場でセックスを始めようとする、という描写さえあります。
 そういう社会では、「食欲」というものが禁忌とされます。乱交パーティならぬ「乱食パーティ」というものが行われ、秘密クラブのように楽しまれているようです。
 ひょっとしたら、性欲を解放した結果にそういう社会がやってこないとは、誰が言い切れるのでしょうか?
「別に、そういう社会が来てもいいじゃないか」と言ってしまえばそれまでなのですが、僕の言う「秩序」というのは、乱れたらそのようになってしまうかもしれないようなものです。僕は「秩序」というものは保たれていたほうがいいと思っているので、性風俗業を差別しようというのです。
 ちなみに『気楽に殺ろうよ』は、実際はここに書いたことよりももっとずっと複雑で深みも重みもある内容を含んでいる名作です。未読の方はぜひ読んでみて下さい。

2010/02/16 もう一度おめでとう

 いやしかしバレンタインデーすごい。この不況の折に、職場だけで二十人以上の女子から手作り然としたチョコレートをもらってしまった。これをリア充と言わずなんと言うか。
 こんな風習が生まれ定着して盛り上がるのも、ホワイトデーという文化が誕生するのも、ひとえに日本ならではだろう。例の「贈与・互酬」という原則をこれほど徹底させている国は、先進国と呼ばれる国の中では日本だけなのではないか。年賀状やお歳暮・お中元は若年層の間で廃れつつあっても、メールなり、バレンタインデー・ホワイトデーなりという形でその精神はまだまだ残っている。
 中学校で女子の間を飛び交っている「友チョコ」なるものは、それはそのまま彼女たちの「世間」を表している。僕にチョコをくれる女の子たちは、別に僕のことが異性として好きというわけではなく(当たり前だが)、「あなたは私の友達だよ」ということを表明しているのである。そして僕はホワイトデーにお返しをあげることによって、「うん、きみは僕の友達だよ」ということを表明しなくてはならない。「お返し」があって初めて、彼女たちが作ろうとしている「世間」は完成するのだ。お返しをあげなかったら、「彼女たちの世間」に僕はいないことになる。ゆえに是非ともお返しをあげなくてはならない。大変だ。
 でもそれが「日本(という世間)の中で生きる」ということであるからして、面倒だなどとは言ってられない。だいいち日本人の心には、「何かをもらって、そのお返しをあげることは楽しい」という前提が、きっと根付いているはずで、たぶん僕も例外ではないのだから、ちょっぴりワクワクもするのである。
 嬉しい悲鳴であって、自慢のようなものでした。
2010/02/15

 学校ではバレンタインデー本番は今日だった。楽しかった。
 逆チョコという言葉を今年は一度も聞かなかった。去年だけで終わったらしい。
 人の世はせわしない。

2010/02/14 Happy Birthday Van Allen Belts

 今日はバン・アレン帯のお誕生日だったので、チョコの香りがするおいしい紅茶を飲んで、ココア味のくるみチョコレートを食べて、いちごのショートケーキを食べて、抹茶味とキャラメル味のプリンを食べました。バン・アレン帯は照れくさそうに笑いました。バン・アレン帯と僕は映画館に行きました。浅野いにおを好きな人が好きそうないけすかないアート映画という側面もありながら、なかなか面白い内容でした。バン・アレン帯はぶきみな光を放ちました。
 ところで「いてつくはどう」というのは「凍てつく波動」と書くはずで、使ったら相手は凍りついてしまうような気がするのですが、なぜそうはならないのでしょうか。バン・アレン帯はまごまごしていました。

 映画の話に戻りますが、あれは結局、「頭(精神)でばかりあれこれ考えてんじゃなくって、生身の、実感の世界に回帰せよ」というメッセージであると僕は受け取りました。TV版エヴァの最終回もそのようなメッセージが込められていたのだと何かで読みましたがそのような感じで。つまり、引きこもりとか、頭でっかちの下等インテリとか、口だけ達者な衆愚とか、主にはそういう人たちを想定して、「生身でぶつかれ、実感を信じて、自分の生活を切り開け。そこには色鮮やかな世界と無限の可能性がある。」というメッセージを飛ばしてんじゃないかと。
 そう思った時、最近読んだ二葉亭四迷の『平凡』を思った。

『平凡』のテーマとしては、「小説なんて所詮作り物であって観念の産物に過ぎず、生身の生活における『実感』とはほど遠いものだ」というのが一つある。



 僕は意外にもこの「実感」というものをとても大切にしたいと思っているのです。それでまあ自転車にも乗るのです。僕にとって電車というのは「より観念」なので、乗っているとなんだか不思議な感じがします。
「生活第一」という言葉がありますが、「生活」と言ったら、毎朝電車で会社に行って、一日中パソコンの前に座って、電車に乗って帰ってきて、テレビ見て寝るっていうのも、「生活」には違いありません。
 だから「生活に回帰せよ」というメッセージの先には、「そういう生活に回帰する」という結果もあるわけです。
 何がマインド・ゲームであって、何がマインド・ゲームでないのか。
 その境目がわからなくなっているのが現代かもしらんです。
 適当です。



 アフタヌーンの発売日まであと十日以上あるので、きついです。

2010/02/11 baby何もかも

 昨日書いたことに即して忌野清志郎の『baby何もかも』について考える。

baby何もかも』は2003年のアルバム『KING』の一曲目で、当時のライブでは最後に演奏されていた。名曲。僕もとても好きだ。
 で、なんでこれが名曲なのかっていう話。
 サビの歌詞はこんなふう。


 見知らぬ夜に 泣いているのか 眠っているのか
 離れていても お前のことは 全部知っておきたいのさ
 何もかも Baby
 何もかも Baby
 どんな事でも 知りたい 知っておきたい
 泣いた事 笑った事 辛かった事 楽しい事
 Baby 何もかも Baby
 どんな事でも 知りたい 知っておきたいんだ
 泣いた事 笑った事 辛かった事 楽しい事
 Baby 何もかも Baby


 このあとはひたすら、「どんな事でも~何もかも baby」のくり返し。
 昨日引用していた『なぜ男は「女はバカ」と思ってしまうのか』によれば、「男性は事実を記憶する、女性は感情を記憶する」ということだった。そして、「女性は感情(の記憶)を共有したがる」。ガールズトークのほとんどはこの「感情(の記憶)の共有」だし、女性の「相談」とは「話を聞いて共感してもらう(ことによってつながりを実感する)」のを目的として行われる。それが女性の生来の本能のようなもの、なのだろう。
 それを思いながら『baby何もかも』を聴くと、驚くべきことに、清志郎が言っているのは「あなたの感情(の記憶)を知りたい」なのだ。「あなたが何をしているのかを知りたい」とか「あなたがどういう人なのかを知りたい」じゃない。「あなたが何を思ったのか、考えたのかを知りたい」とも、ちょっと違う。「あなたがどんなときに強い感情を持つのかが知りたい」だ。歌詞の表現に忠実に言うと「あなたが強い感情を持った時の事を知りたい」で、つまり「感情の記憶」を尋ねているわけだ。
 女性がいちばん言いたくて仕方がないこと、それは「感情の記憶」である。「こんな出来事があって、それでこんな気持ちになった」だ。「こんな気持ちになった、それはこんな出来事があったからだった」でもいい。清志郎はそのことを知りたいと言っている。『baby何もかも』で「知りたい」と叫ぶ清志郎は、何かを求めているかのようで、実は女性が真に望むことを与えてあげようとしているのかもしれない。
 この曲が名曲であると僕が、そして多くの人が思うのは、男の「知りたい」という強い欲求と女性の「感情を共有したい」という生来の本能がほぼ完全に重なっているからではないかと思う。だから美しいのだろう。こういうことは現実にはあまりないものだと思う。
 男はあんまり「あなたの感情の記憶を聞かせてください」なんてことは思わない。なんとなれば、男はそのことを自分では「したい」と思わないからだ。自分が「したい」と思わないようなことを相手に要求して、その要求が相手の望みと合致していた時、それは奇蹟のようなものではないかと思ってしまう。

2010/02/10 『デリケートに好きして』徹底解析

 二十五年以上前に放映されていた魔法少女アニメ『魔法の天使クリィミーマミ』が、ここ数年どうやらリバイバルブームで、なんでなんだろうと考えていたら、すごいことがわかってしまった。
 クリィミーマミはアイドル変身ものなので、最も重要な要素は「歌」だった。その歌の中でも一番人気はなんと言ってもオープニングテーマの『デリケートに好きして』だと思う。

『デリケートに好きして』を作詞・作曲したのは古田喜昭という人で、僕が大・大・大・大・大好きな音楽家だ。クリィミーマミや、それからリメイク版パーマンの曲はほとんどこの人が手がけてる。ほかにはシュガーというユニットをプロデュースしたり、『悪魔くん』のエンディング『12 FRIENDS』を歌ってるのも実はこの人だったりする。
 パーマンの曲の中でも『御機嫌伺いLOVE』という、パー子(星野スミレ)の心情を歌った曲が狂おしいほどの名曲で、作詞も古田さん。「なんで男性がこんな歌詞を書けるんだ?」と思うほどに女心が詰まっている。どの女の子に聴かせても「うーん!」と唸ってくれる。聴きたい人は木曜日に無銘喫茶来なさいっ。

 で、まあ、それはおいといて『デリケートに好きして』の話だった。僕は恥ずかしながら、この曲が「女心の非常に根源的なところ」を活写した曲であるということを今日の今日まで気がつかなかった。クリィミーマミが人気なのは「女心」なるものに関係があるのだろうということはなんとなく思っていたが、まさか主題歌がこれほどまでにえげつない女心を歌っていたなんて……!


 と、大袈裟に言ってみたが、さっき『なぜ男は「女はバカ」と思ってしまうのか』(岩月謙司、講談社+α新書)という本を読んで、「うわ、これ『デリケートに好きして』じゃん!」と思ったという、ただそれだけのことなのだ。


 男の子とちがう女の子って
 好きと嫌いだけで普通がないの


『デリケートに好きして』の出だしはこうだ。いきなり「男と女は違う」という前提を有無を言わさず突きつけてくる。ここで「いや、違わないよ」と言ってしまったらこの曲の残りの部分は意味をなさない。男の子と女の子は違うのである。それは『なぜ男は~』にもしっかり書いてある。身体的にも脳科学的にも心理学的にも男女の別はあると。そのことはわざわざ引用する必要はないと思うが、たとえば「左右の大脳半球をつなぐ全交連や脳梁」や「視床下部の構造」などが男女では違うらしい。
 さて問題の「好きと嫌いだけで普通がないの」だが、「女性の二分法」という項に、こうある。


 二分法とは、いい人か、悪い人か、と二種類に分けてしまうことです。○か×かという思考です。自分を傷つけた人、自分に悪いことをした人の像を重ね合わせて、悪い人の顔のイメージを作り、その像に似た人に×をつけるのです。
 △は敢えてつけないのです。なぜなら、△の人と不用意につきあって汚染されたらたいへんだからです。安全のために、疑わしきは×にしてしまうのです。


 おっかねえー。まさしく「好きと嫌いだけで普通がない」だ。筆者によると、女性は「感情を記憶する」ことが得意であり、その記憶の積み重ねによって「判断」をするものらしい。ちなみに筆者のプロフィールは学者(専門家)としてはほぼ完璧であり、この本もかなり「科学的」に書かれているということは注記しておく。とりあえずは「学問」であり、インチキではないのである。

 正直に言うと僕は、「好きと嫌いだけで普通がないの」というこの歌詞を、あまりに軽く流しすぎていた。「ああ、そういうもんなのか」というくらいにしか考えていなかった。甘かった。しかしこの、たったワンフレーズの中には恐ろしい女の真実が含まれていたのだ。
「普通がない」ということは、「何でも白黒つけてしまう」ということである。しかもその白黒の付け方は、男性の理解を遥かに超えた次元で行われるものらしいのである。
 筆者によれば女性は「愛される」や「気持ちいい」を求めてあらゆる行動をするものであり、価値判断の基準はそこにしかないらしい(僕はそう読んだ)。つまり「愛してくれる」とか「気持ちよくしてくれる」人は「好き」であるが、それ以外は「嫌い」なのだ。なにしろ、普通がないのだ。△がないのだ。「疑わしきは×」なのだ。
 だから、「好きと嫌いだけで普通がないの」という言葉は、「愛してくれたり、気持ちよくしてくれたりする人以外は、みんな嫌い」という宣言なのである。決して、「嫌いな人以外はみんな好き」ではないのである。
 さらに筆者は言う。「自分を傷つけた人、自分に悪いことをした人の像を重ね合わせて、悪い人の顔のイメージを作り、その像に似た人に×をつけるのです。」要するに、嫌なことをされたという「感情の記憶」を思い出させるような人にはすべて「×」をつけるということである。そんな理不尽なことはないと男性としては思うが、しかしこれも「女のカン」というやつであり、「男にはない、女の総合的にものごとを把握する能力」の結実なのだから、男の出す論理的な結論よりも実は意外と正しかったりするのである。おっかねえー。


 でも好きになったらいくつかの
 魔法を見せるわ本当よ

 そうよ女の子のハートは
 星空に月の小舟うかべ
 夢を探すこともできる
 デリケートに好きして デリケートに
 好きして 好きして 好きして


 僕には「いくつかの魔法」がなんなのか、よくわからない。わからないが、何か前向きなものであるというふうには思いたい。これはそのくらいにして次へ行こう。
「そうよ女の子のハートは」から始まる三行は、これは「空想」である。『なぜ男は~』にも、空想についての記述がある。「女性は空想の世界でも遊べる」という項だ。何でも、女性は空想力が強く、映画を見るように頭の中で映像を作れるのだという。時にそれは妄想となって、「何もしてない男性が悪者として登場する」なんてこともあるものの、空想自体は悪いことでもなんでもない。
 女性の空想は、過去に体験した快感の想い出を繋ぎ合わせて作られるという。では、そんな空想の説明に続けて言われる「デリケートに好きして」という言葉には、どんな意味があるのか?
 そりゃもう、「私が過去に体験した快感の想い出を繋ぎ合わせたような体験ができるように私を愛してください」でしかない。快感の追体験を求めて、「そうなるように、気を遣ってくれよ」を言っているわけである。「私の心は星空に月の小舟を浮かべて、夢を探すことだってできるんだから、そのくらいの体験をしなくちゃあ満足できないわよ」である。「だから繊細に気を遣って愛してね」である。
「デリケートに好きして」とは「女の子って繊細なんだから、優しくしてね」ではないのである。そうとも読めるが、それだと「空想の描写」との繋がりが悪くなるのである。


 嫌いと感じたら手遅れみたい
 サヨナラが心にあふれてしまう
 興味ない人と一秒も
 一緒にいられない私達


 この部分がさらに恐ろしいのだが、わかるだろーか。


 女性は男性から説得されて決断を撤回することはあるのでしょうか。
 答は、「ない」です。
 女性は、一度「コイツはダメだ」という結論を出してしまうと、ほとんどの場合、その結論を変えることはありません。
 なぜでしょうか。
 それは、過去の彼とのつきあいで得た快と不快の感情の総量を計算した結果、結論を出しているからです。つまり、彼とつきあって気持ちよかった総量と気持ち悪かった総量とを厳密に収支計算し、かつ今後も快の量が不快の量を上回ることはない、と予測しての決断なのです。女性は自分の感情に自信を持っていますので、撤回しないのです。


「嫌いと感じたら手遅れみたい」というのは、こういうことだ。しかも女性は、「過去の感情を変える」ということを絶対にしない。過去の感情は過去の感情で固定されているから、「君は××ということについて怒っているけど、あの時は実は○○だったんだよ」などと言ったところで、過去に「不快だ」と思った量は減ったりしないのである。むしろ「いまさら何言ってんだ?」という不快の量が増えるばかりなのだ。
「興味ない人と一秒も一緒にいない私達」は、「女性は嫌いな男性に身体を触られるとゴキブリに触れたかのような気分になる」ということに関係してくるのだと思うが、問題はそっちではない。「私達」という表現だ。
 ここがもうね、この曲の中でいちばん恐ろしい部分だと思う。女性というものの在り方を、これほど的確に表現した言葉を僕は知らない。「私達」。


 女性は元来、感情の共有が大好きです。女性は、人と感情の共有をして一体化したいのです。一体化した悦びを感じると「誰かとつながっている」「心の絆ができた」と安心するのです。


 ……こんなもん、わざわざ引用するまでもないんだが、女性は「共感」が好きだ。つまり「感情の共有」。ガールズトークのほとんどが種々様々な喜怒哀楽の共感合戦である、らしい。「興味ない人と一秒も一緒にいられないよねー」の「よねー」が、「私達」という言葉に置き換えられているのである。
「私達」という表現は、「一緒にトイレに行くことによって絆を確認する」という行動に象徴される女性たちの意識をそのまんまストレートに言っているわけなのだ。


 そうよ女の子のハートは
 七色に光る虹のように
 風が吹くだけでも変わる
 デリケートに好きして デリケートに
 好きして 好きして 好きして


 ここまでくるともう、この曲は古田喜昭先生の女性への恨み節にしか聞こえなくなるのだが、それはあくまでも男性視点での話。女性からしてみればおそらく、「そうなんだよねー」なのであろう。
 クリィミーマミが、そして『デリケートに好きして』が普遍性を失わず、二十五年経っても愛され続けているというのは、単純にかわいいとか面白いとかってことだけじゃなくて、女性に「共感」を呼びかけているからではないかと思う。クリィミーマミに共感した女性たちは、「クリィミーマミってかわいいよね」という共感で絆を深め、「つながり」を実感し、安心する。そういう構造になっているのだろうな。


 で本題なんだけど、これまでの僕だったら「こういう在り方をする女ってのはうぜえな」とくらい思ってたかもしれないが、これからは「女ってそういう在り方をするもんなんだよなあ」と思うようにしよう。だって男と女ってのは厳然として違うんだもの。それをうらんでも仕方ない。「どうやって折り合いをつけていくべきか」を考えたほうがずっと実際的だ。
 この歳になるまでそんなことも考えてなかったのか? と問われれば、実はかなり昔から考えてはいたのだが、面倒くさがっていたというか、夢を見ていたというか。「女はこういうものだ」と決めてかかるのを避けていたところはあった。でもやっぱり、「違う」という前提に立つのも大事だ。また意見変わるかもしれないけど。
 なんというかね、男は男の価値観でものを考えすぎるし、女は女の価値観でものを考えすぎる。そのことを意識しないと、男と女が仲良くするってのは難しいんじゃないか。奇蹟みたいなもんで……。
「男の子と違う女の子って」という、たったのワンフレーズが実に重たい。
2010/02/9 ただいま。

 僕は現在中学校の国語の先生をしているのですが、3月31日をもって退職することが決定いたしました。ので、フライング気味ではありますが今日から「教職ゆえに書かなかったこと」を書いていくことにします。と言っても別に「教職に関すること」を書こうというのではなく、「学校側、あるいは生徒に見られたら嫌なこと、問題のありそうなこと」を、ある程度解禁にしようという、そういうことです。

 ここからは「まだ見ぬ読者への語りかけ」でもあるので、口調を変える。

 僕が「先生」という立場を辞したら、このサイトだって「生徒に見られてもいい」ものになる。僕はむしろ「自分の書いたものを生徒に読んでほしい」と思うので、アドレスやHPのタイトル、またはそのヒントなんかを生徒に教えることだってあるだろう。そうしてこのサイトを生徒が見たときに、「なんか小難しい、わけのわからないことを書いているな」ではなく、「なんか面白いことを書いているぞ」と思ってもらえるように、これからは多少気をつけていきたい。

 僕がこのサイトを始めたのは高校一年生のころで、その時に書いていたものというのは高校一年生はもちろん、中学生にだって理解できて、しかもたぶんけっこう面白い内容だったと思う。だから僕には、というかこのサイトにはそういう書き方が可能なはずだ。多少、試みてみよう。中高生にはとうていわかんないようなことを書く日だって、もちろんあるだろうけど。

 僕が「自分の書いたものを生徒に読んでほしい」と思うのは、一つには「教育」のためだ。僕は教職を辞するのだから、彼ら彼女らの「教育」に直接携わることはなくなる。しかし生徒の中には、まだまだ僕と関わっていきたいという子はいるだろうし、僕だってまだまだ関わっていきたいと思うような子はたくさんいる。そういう子たちのために、このHPが何らかの意味を持つようなことになれば嬉しいなと思うわけだ。それを「教育」と呼ぶのかどうかは、僕が決めることではないのだが、僕は「教育にもなりうる」ようなことを書いていきたいし、たぶんこれまでもずっと、書いてきたといえば書いてきたのかもしれない。

 十年前にある女の子と出会って、その頃その子は中学二年生だったけど、当時高校一年生だった僕の日記を読んでいた。E-mailで文通のようなこともしていた。幼い彼女はずいぶんと背伸びをして僕とメールをしていたのだと思う。当時だからもちろんパソコンでのやり取りで、もしかしたら彼女は僕との邂逅で初めて「長文のやり取り」というのをしたのかもしれないし、もっと大袈裟なことを言えば、「ある程度のまとまった文章を自発的、継続的に読む」というのは、僕との関係の中で初めて経験したことなのかもしれない。少なくとも、「自分の直接知っている人の書いた文章」という意味では、きっと初めてだっただろう。
 その子はいつしか、なかなかうまい文章を書くし、なかなか面白いことを言うような子に育った。僕がそのことを褒めると、「あなたのおかげで」というようなことを言う。嘘じゃなくて、本当にそのようなことを言うのだ。高校生のころの僕の文章というのは、今読むと粗が目立つし、あまり褒められたような内容でないものも多々ある。が、それでもそれが彼女にとっての「教育」になったことは確かなようなのだ。彼女は読書というものを(する人に比べれば)ほとんどしないので、言われてみれば彼女の言語能力が育まれた理由というと、真っ先に思い浮かぶのは僕になるのかもしれない。ただ、謙遜して言うんじゃないが彼女はもともと人なつっこくて、「人と話をする」ということが好きで、上手な子だったから、その「話」の中で育まれていったものがあるということは確かだと思う。言葉が育つのは活字によってだけじゃないから。
 彼女の側のことは僕は正確にはわからないが、しかしおそらく僕のした初めての「教育」なるものは、彼女に対してのものだったろうと思う。もちろん、それが「よき教育」だったかどうかは、わからないのだが……。

 そういう経験を思い出すと、僕の文章を読むということは、たぶん思春期の少年少女にとって意味のないことではない。どう転んでしまうかはわからないが、何らかの影響や変化が、ある人にはあるのだろうと思う。僕の文章を読んで「あ、好きだ」とか「面白いな」とか思うような子は、僕にとって「見所のある」やつで、もしそういう子がいるのなら、「どんどん読め」と思う。

 しかし、ここまで書いてきて思うのは、「普通の中高生はこういう文章をまず読みたいとは思わないし、読んでも面白いとは思ってくれないだろう」ということだ。それは短かった教員生活の中で痛いほどに味わった実感から類推できる。もっと改行を多くして、もっと口調を軽くして、論理的整合性なんかよりも刺激やインパクトを重視して……ということをやらないと、たぶん普通の中高生はついてこない。まあ、僕に興味を持つような子は「普通の中高生」なんかじゃないから、それでいいんだとは思うけど、それでももうちょっと気配りは必要だろうなあ。
 ま、しかし。基本的に僕は書きたいことを書きたいように書いていくだけだから、中高生に媚びようなんてことは思わない。ただ、僕の言ってることの内容を把握する前に「あ、嫌だ」とか「つまらん」とか思われるのは残念だなと思うから、多少はわかりやすくしてみてもいいかなと。
 ただ「わかりやすくする」ということに必要な労力は相当のものだし、「誰にでもわかるように伝える」が難しいと思うからこそ教職を辞めることに未練があまりないのだ。僕にはやっぱり、「四十人に伝えたいことを伝える」はできない。僕が伝えたいことを伝えられるのは、四十人いたらせいぜい五人くらいかもしれない。教職をやっていると、「四十人の中の五人だけに伝える」はできない。というか、してはいけない。「四十人に伝わるようなことだけを伝える」をしなければならない。それは僕の性には合わないし、少なくとも僕の得意とすることではない。
 僕が教壇でではなく、このHPでやりたいと思っていることは、「僕の話を聞こうかなと思ってくれる人たちに伝わるように書く」だ。それはそれで難しいことではあるが、「まあやってみようかな」というのが、今日のこの決意表明である。

 あー! もう、めんどくせえ! 「である」なんて言葉を使ってると、いかんな。妙に最近、文章の精密度にばっかこだわって、このHPにそもそもあった持ち味みたいなもんが削がれているような気さえする。やだやだ。
 歳を取るってのはそういうことだったのか?
 違うと思いたいから、高校生のころの日記まで持ち出して、「あの頃に持っていて、今も持っていたほうがいいもの」を探ろうとしてるんだ。中高生が読む云々というのは、それをするきっかけにすぎない。……と、また難しいことを言ってる。

 なんつうのかね、最近自分の文章が、あまりに「りくつりくつ」してるんで、ちょっとこのへんで揺り戻しをかけたくなったのよ。幸か不幸か、とりあえずしばらくの間は「聖職」から遠ざかるわけだし、この機会にちょっといったん、自分の文章を解体してみてもいいのかもしれないなって。
 これはそういう宣言でもあるわけ。

 ということなので、まあちょっとがんばってみるよ。
 それでこれを読んでいる中高生の諸君ね、すぐに「つまんねえ」とか思わないで、まあ、ある程度は読んでみてくださいよ。実は面白いのかもしんないし。何よりこれは「君の知っている人」が書いている、「ちゃんと意味のある文章」なんだから。そういうものを読む機会っていうのは、ないでしょ? ないんだよ。
 君たちがふだん読んでる文章ってのは、「君の知らない人」が書いているものか、あるいは「ほとんど意味のない文章」だ。意味がないってのは、たとえば友達のブログとかリアルとかね、そういうの。「意味がない」なんて言ったら反感を持たれるかもしれないし、僕だって本当は「完全に意味がない」とまでは思ってやしないんだけど、でもまあ、あえて言い切ってしまう。君たちの同級生の中で、意味らしきものを含んだ文章を書いている人なんて、ほんのひとにぎり。いないと言っていい。いたら紹介してくれ。
 自慢じゃないが僕の書くものにはたいてい意味がある。最近は「意味」しかないようなことしか書いていなくて、そのせいでとっつきにくくなってるような気さえする。そのへんのバランスにはもうちょっと気をつけていきたい。
「意味のある」ものを読むことは重要だ。良くも悪くも。
 では、意味というのは何か?
 あえて定義してしまうと、「それによって何かを考えさせられてしまうもの」だ。ここでは、それが意味だ。「思考」を導かない文章に意味はない。そりゃどんな言葉だって何らかの思考を導くんだけど、その程度とか種類によって、僕は「意味がある」とか「意味がない」とか勝手に言ってるわけね。

 ついつい長くなってしまう。もう誰に向けて書いているんだかよくわからない。まあ、よろしく。ただいま。

2010/02/09_2 五重塔に登れない

 ↑の文章が長くなりすぎたので分けた。
 ちなみに今日は手塚治虫の命日。

 学校に行って、帰り道のガストに滑り込み、八時間くらい読書をしていた。
 読んだのは橋本治の『小林秀雄の恵み』。400ページあるうちの、150ページまでしか読めなかった。八時間かけて。
 原因はわかってる。メモを取ってたことだ。ポメラという携帯ワープロを買ったのが嬉しくて書きすぎてしまった、というのもあるが、そのくらいメモを取らないと整理できないくらいこの本が難解なのだよ。
 この本は非常に厄介な構造をしていて、この本を読むということは、「紫式部を読む本居宣長を読む小林秀雄を読む橋本治を読む」ということなのだ。だからこれを読む人は紫式部と本居宣長と小林秀雄と橋本治を同時に理解しなければならない。これが非常にややこしい。
 論理を追っていくのはそう難しくはないのだが、「それで何が言いたいのか」を理解するのが非常に難しい。章ごと、節ごとに論旨を把握するのがやっとで、全体的なことはたぶん最後まで読んでもわからないのではないかと思う。三回くらいは読みかえさないとダメかもしれない。あー。頭が痛くなって思考停止に陥ったので150ページでやめた。気が遠くなる。

 橋本治を読んでいると、自分の頭の悪さが相対的に立ち現れてきて嫌になる。だからこそやる気にもなるんだけど、「わからない」と対峙するのはどうしても疲れる。別に橋本治を超えてやろうなんて気はさらさらないが、「わかる」というところまでは行きたくて、そうすると目の前の「わからない」を無視はできない。彼の言葉の中で、「そのうちわかろう」と保留してきたことがどれだけあるか計り知れない。
 まあ、がんばるけど。

2010/02/8 小さな四角な学校

 宮沢賢治の話をしていたら、『春と修羅』の序(わたくしといふ現象は~)について、相手が「宇宙的な見方が云々」というようなことを言った。僕はそれで『風野又三郎』(『風の又三郎』の原型)の冒頭にある「谷川の岸に小さな四角な学校がありました。」という一文を思い出した。僕はこの一文をもって、「これこそが詩である!」と喝破することを一つの趣味としていたような節があるのだが、「宇宙」なるキーワードを与えられて認識が更新された。もちろんこれが詩であるには詩であるとして変わらないのだが、「四角な」という表現は詩であると同時に、宇宙的な視点をもった結果であるとも言えるような気がした。
「宇宙的な」とか言ってもまったく意味がわからないのであるが、要するに海とか満天の星空とか、要するに大自然なるものに属するを見て、「自分はなんてちっぽけな存在なんだ」とか思うことが要するにこの「宇宙的な」の意味である。
 宇宙的な視点をもって眺めると、自らが物体として見えるのだ。俯瞰的に見えるとも言っていい。「自分はなんてちっぽけな存在なんだ」というのは、「悩んだりしているのがばからしい」というような意味に使われることが多くて、つまり物質世界の巨大さにふれて精神世界の矮小さを知るというようなことであって、狭量な精神世界に閉じこもっていた自分を広大な物質世界の一員として捉え直しているわけだ。
 学校という言葉は、抽象的にも具体的にも使われる単語だが、「小さな四角な学校」という表現を見るに、これは完全に具体的、特にいえば物質的なとらえ方である。物体として学校を言っている。しかもどうやら完全に垂直の上空から学校を眺めているかのような言い方にも取れる。「小さな四角な学校」と言うとき、宮沢賢治はたぶん宇宙にいるのであって、「概念としての学校」などという、ちっぽけなものなど問題にしていない。ただ大自然の結実として建っている学校という物体をのみ、そこに見ているのである。完全の敬虔である。

2010/02/7 You may say゛

 以前、有名税について少し書いた。するとそれを読んだ人から、「小沢健二さんがタイガー・ウッズのスキャンダルについて書いていることをどう思うか」と言われた。確かに小沢さんはコンサートツアー「ひふみよ」のサイトでタイガーさんについて言及している。なにが書かれていたかというと、「タイガー・ウッズに関して実際にこのような報道がなされている」ということの説明と、それへの考察だった。
 僕に問いをかけてきた人は、「あの書き方はよくない」という意見を持っているようだった。「ネット上に書くことによって、タイガー・ウッズの件に関して何も知らない人、特に興味のない人にまでタイガーさんがどのように報道されていたかが知られてしまう」ということらしい。日本ではタイガーさんに関する報道が下火になってきていた頃だったので、「寝た子を起こすな」ということなのだろう。
 これは僕が問題にしたかった「有名税」というものなのだろうか?
 小沢さんは、《真相はまったく不明》と但し書きをした上で、「タイガーさんのような清潔でかっこいい完璧なイメージを生涯保つのは大変で、その歪みが私生活に出てしまったとしてもおかしくはない」ということや、「本当はどうでもいいはずのタイガーさんの話題のために、メディアがほかの《はるかに重要な話題》をちっとも報道しない」という問題とか、「フェイスブックやツイッター、ミクシィなどで有名人ではない普通の人まで自分のイメージ管理に執心するようになった時代に、このタイガーさんの事件というのは実感があるのだろう」という分析などを話題にしている。これらを挙げ連ねたあとに、《世の中嘘だらけ》――これはそのまま『ドラえもん』の話のタイトルだったりして、それを意識してたとしたら面白いなと僕は思っている――という言葉を小沢さんは使った。ここで《真相はまったく不明》という最初の断りに戻るような構造に実はなっている。
 これは社会とか、現代の世の中、および人々の在り方に関する非常に大きな問題提起であって、こういうことを大きな声で言うのは悪いことではない。ここでの問題は、「これによって小沢さんは、タイガーさんに有名税を不当に支払わせているのだろうか」ということ。
 これが「悪意(あるいは問題)のある報道の単なる再生産」であるのだったら、不当だとも言えるのかもしれないが、「悪意(あるいは問題)のある報道を是正しようとする行為」であったとしたならどうなのか。むしろタイガーさんが不当に支払わされていた有名税を、取りかえさせようとしているともいえるのではないか。
「寝た子を起こすな」ということは、「タイガーさんは静かに泣き寝入りをしていればいい」ということにしかならなくて、むしろそれこそが有名税なるものの一端といえそうですらある。そうじゃなくて、「タイガーさんにはこのような事情があり、マスコミにはこのような思惑があり、それを受容する人々にはこのような意識があったのだろう」と考えることは、タイガーさんにとって、あるいは全ての有名人にとって、そしてひいてはイメージ管理を半ば強制されてしまいがちな現代に生きる人々にとって、無益なことではないような気が、僕はするのだ。
 タイガーさんに関するあの報道の在り方を無視することは、現代社会のひずみから目を背けるということでもある。有名人であるタイガーさんはもう、報道というものの中に取り込まれた存在であり、社会を考えるのに切り離せないような人物である。ほとんど歴史上の人物だとさえ言ってもいい。「有名人を有名人として扱う」ことは、当たり前のことで、別にそのこと自体を「有名税」と言うつもりはないし、誰もそんなふうに思わないだろう。
「報道の中にいる有名人のタイガーさん」は、すでに社会的な現象である。社会的な現象であるタイガーさんを無視することは、もはやできない。しかし、「有名人なのだから、私生活を面白おかしく報道されるのは当たり前だ」という考え方は、僕は嫌いで、それこそが「有名税」というやつだ。それに対して軽はずみに「タイガーは悪いやつだ」とか言うのは、マスコミに踊らされている単細胞な人で、もっと情報は慎重に扱ったほうがいいと思う。《真相はまったく不明》という前提は常に持っていなければならないし、《まったく不明》であるはずの報道を前提とした邪推や憶測は、極力差し控えるべきであろう。

2010/02/6 しゃべり方のはなし

 先日中野のメイドバー「Eden」に、5年ぶりに行ってきた(昨日の日記参照)わけだが、ひときわ可愛い女の子がいて、一緒に行った友人と「いやー○○ちゃんかわいかったよねー、メイド系のお店でもあんなに可愛い子がいるんだねー(※偏見)」という話をしていたら、それを聞いていたある女子が、
「いや、でもメイド系のお店って、けっこう可愛いのいるよ。それこそダイヤモンドの原石みたいな子がいるもんだよ」
 というような意味のこと(べつに正確ではない)を、僕らの意見を否定するかのような温度で言った(と僕は感じた)ので、ふと考えた。
 それって、
「そうだよねー。メイド系のお店って、意外と可愛いのいるよね。それこそダイヤモンドの原石みたいな子がいるんだよね」
 と言うのと全く同じ意味ではないか。
「いや、でも」を「そうだよねー」と取りかえても成立するのであり、つまり同じ意味でも言い方の温度が違うだけで、否定的になったり肯定的になったりするのである。
 ポイントは「いや」とか「でも」とかいう単語で、これがあると何だって「否定的」になってしまう。これがなくても全く同じ意味になるような状況でも、癖なのかなんなのか、「いや」とか「でも」とかから言葉を初めてしまう人は多い。(僕もやってしまっているかもしれない。)
 言葉だけでなく、表情とか、声の調子とか、そういうのも関係してくる。しかめっ面や暗い声が「いや」とか「でも」とか融合すると、容易に「不快感を伴う強い否定のニュアンス」になってしまう。言われたほうは「うわー、なんか知らないけど否定された」と感じる。
 上のメイドバーの話に関して、邪悪な気持ちで推測すると、「その女の子は、僕らがほかの女の子をかわいいと褒めそやすのが気にくわなかったから、否定しなくてもいいところで否定のニュアンスが出てしまった」という解釈も出てくる。それはおそらく本人にとっては「とんでもない誤解だ」となるのだろうが、りくつで説明をつけようとするならばそれ以外の解釈は僕には不可能である。「単なる癖だ」とするならば、「意味もなく否定のニュアンスを出してしまう」という、非常に邪悪な癖なので、直したほうがいいと思う。

 おでん屋に行った時に、
「この店のおでんはおいしい」と言ったのに対して、
「いや、でもおでんでまずい店ってなくないですか?」と言うのと、
「ほんとだねー。おでんでまずい店ってないよねー。」と言うのと、
 意味としてはほとんど同じだと思うのだが、見ての通り前者は否定的であって後者は肯定的である。
 話のうまい人、特に、相手に不快感を与えずに話すのがうまい人は、こういうところにちゃんと気を遣っているのだろう。
「いや、でもおでんでまずい店ってなくないですか?」を言われると、少なくとも僕は非常に不快だ。そりゃそうなんだが、「おでんはおいしい」というところで同意見であるのに、なんで否定されなくてはいけないのか。

 肯定を不快に感じることだってないではない。僕は一時期「そうだよ」と言われるのが大嫌いだった、もちろん状況にもよるのだが。
「ドラえもんって、面白い漫画だなあ」と言って、
「そうだよ」と言われたら、なんだかカチンと来ませんか。
「ドラえもんは面白い漫画だ」という点で同意しているのに、その意見を「共有」するのではなく、「肯定」だけして、突き放す。それがこの場合の「そうだよ」である。
 ここでわかった人はわかったと思うが、実はさっきから僕が「肯定的」と言ってきたことは、実は「共有」という意味だったのである。純粋な肯定は「そうである(そうだよ)」という形で行われるものであり、「そうだよね」は、共有(共感)なのである。それで僕は「肯定」と言い切ることを避け、「肯定“的”」という煮え切らない表現を慎重に使ってきたというわけだ。
 僕は「ドラえもんは面白い漫画だ」で同意する人と、その気持ちを「共有」したいのである。ほしいのは「そうだよね」であって「そうだよ」ではない。「共有」と「肯定」とは違うのだ。

 そして最大に重要なことに、「肯定」と「否定」は正反対のものでありながら、表裏一体のものでもある。どちらも同様に、相手を突き放す。
 AさんがXという意見を出して、それに対してBさんが、「Xである」と言ったり「Xではない」と言ったりしても、それは「Xについて語っている」でしかなくて、BさんはAさんという人間をいっさい問題にしていないのである。これが「Xだよね」になると、BさんはXについて語りながら、Aさんのほうへも踏み込んでいることになる。すなわち「AさんとXを共有する」だ。
「そうだよね」になって初めて、共有ということが起こって、ようやく「関係」というものができあがる。「そうである」と「そうではない」は、「そうだよね」を探すための手段でしかなくて、「そうである(そうだよ)」で終わってしまったら、人と人との関係というものは生まれようがない。それが予感されるようなとき、僕は「そうだよ」と言われることに不快感を抱く。

「いい天気ですね」なんてのは、最も簡単にできる「共有」である。「おはよう」なんかも「早いですね」という「共有」だ。関係の端緒というのは常にそういうふうにして生まれる。
 しかし、では、「そうだよね」がなければ、人と人とは繋がることができないのか? 答えは、YESである。と僕は思う。だが、「わかりあえないね」という共有だってそこにはあるのであって、「わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ」とさえ、かつて歌われたことがあるのである。

【追記】2010/02/08
 僕という人間は、どうやら「その人」と「その人の発した言葉」というのを切り離して考える癖がついていて、上の文はそのことを前提としたものになっている。それを書かなければちょっとよくわからないかもしれない。「Xである」とか「Xではない」とか言ったら、普通は「受容」や「拒絶」という「関係のようなもの」ができあがるような気がするのに、僕はどうもそうは考えないらしい。「Xについて語っている」でしかない、らしい。そういう人はもしかしたら余り多くないのかもしれない。読みかえして、これは僕にしか当てはまらないことなのかなと思った。

2010/02/4-5 35時間の桃屋敷

 四日木曜日、いつもより早め(夜七時)に無銘喫茶に行き、女の子の愚痴を聞いたりなんだりしていたら徐々に人が増えてきて、左翼新聞の取材が入ったりもして、なんだかんだとわいわいがやがや、みんなで楽しくお酒を飲んでいた。結局朝までけっこうな人数が残っていて、六時過ぎくらいにほとんどの人が帰った。残った数人で喋ったり、朝ご飯に一坪ラーメンを食べに行ったりしたあと、ついに二人きりになった。帰る気にもなれなかったので2時間ほど仮眠したりまた喋ったりしていたら、夕方になってしまっていた。いつも行くシディークという店でカレーを食べて、ゲーセン行ってマジアカと縦シューやって(略語ばっかりでわけがわからないと思いますが僕はこういう言語を割と使います)、ゴールデン街のお店で飲んで、無銘喫茶の営業が始まったようだったので無銘喫茶でまた飲んで、気分がたかまってきたので、「徒歩で帰るか」とか言って、歩きはじめた。それがだいたい夜十時くらい。一時間くらい歩いて中野に着いて、かつて行ったことのあったメイドバーの前で「あーここ、ここ」とか言ってたら、なぜか入店する温度になったので、入ってまた飲んだ。けっこう楽しんでしまって、ちょうどそのとき電話してきた人に、「今からお前の家にいくから、帰ってろ」みたいなこと言って、そこからまた歩いてその人の家へ向かい、途中のすき家でご飯を食べて、三人で炬燵に入ってぬくぬくしながらいろいろと話した。夜中三時か四時くらいに寝て、七時に起きて、帰って、仕事に行った。

2010/02/3 神経症の人が書くライブレポート

 エイプリルズのライブへ。懐かしいチェルシーホテル。初ワンマンでしかもフリーライブということで、すし詰め。その中に知り合いが、顔見知り程度の方を合わせたら冗談じゃなく20人くらいいて、なんだか同窓会のようだった。「○○さんは来てない?」と、来てないことが珍しいように言っている人がいたのが印象的だった。
 バンドのライブというのも、ある種の「場」になっていて、たとえばジャニーズとかヴィジュアル系とかのファンたちのように、ある種のコミュニティのようなものを形成している場合も多いようだ。クラブイベントなんかでも同じようなものだろう。僕は無銘喫茶という場でもってちんまりとそれをやっているわけだけれども、あそこは狭いので、ライブやクラブのように「社交」という感じではない。僕はもちろん、ちんまりと狭くやっているほうが性に合っているのではあるが、「社交」のほうが性に合うというような人もいるのだろう。僕だって嫌いではない。
 さてライブのほうは、さすがに初ワンマンだけあって気合いが入っていて、とてもよかった。客がやってほしい曲、演者がやりたい曲をすべてやりきった感あり。僕はそう感じた。

 と、これだけ書くのもなんだか心配になってくるという、ほとんど神経症のようだ。ネットに何かを書くことに対して僕は怯えすぎている。先日「ジャッキーさんは秘めすぎだ」というようなことを言われたが、そのような病気であるとさえ言って良い。嘘を吐いてまで秘めようとするのがネット上の僕なのだ。
 でも「個人のWeb日記」を読む人は、「本音」や「本当のこと」を期待するから、「これは嘘だ」と断ってしまうと、途端に面白くなくなる。なので言っておくが、僕が書いていることはすべて真実である。

2010/02/2 そうか僕は二葉亭四迷だったのか

 なんで自分がこんなに二葉亭四迷好きだったのかというと僕は二葉亭四迷だからなのだった。Yeah 同一人物

2010/02/1 フィギュアを買わない主義

 電話をしていたら狙っていた『まなびストレート!』の天宮学美フィギュア(1/8)がほかの人に落札されていて泥のような気分になった。僕はフィギュアを買わない主義であり生まれてこの方フィギュアなどというものを買ったことがないのだがこのまなびフィギュアに関してだけは三年近く前からずっと欲しかったものなのである。もう何もかも全てが僕は嫌になった。
 僕が落とそうとしていたフィギュアは定価が6000円くらいするもので、結局660円で落札されていた。なんということだ。現在ほかに出品されているものの最安値は1500円。僕は基本的には「ネガティブな出来事を前向きに転化させる」が得意なので、「660円のほうは開封済みだが、1500円のほうは未開封なのだ、未開封のほうがいいのだ」とか自分に言い聞かせて平静を保とうとしているわけだが、内心は泥のようである。値段の問題というよりも、一日でも早くそのフィギュアを手中に収めたく、うずうず、悶々としているのである。5000円くらい出せばアマゾンで即購入できるようなのだが、いかんせん値段が値段だけに、迷ってしまう。僕は普段は「僕はフィギュアを買わない主義だ、フィギュアなんか好んで買うやつは人間の屑だ」みたいな顔をしているので、5000円も出したらさすがに軽蔑されるのではなかろうか、とか。
 僕は今も「僕はフィギュアを買わない主義だ、フィギュアなんか好んで買うやつは人間の屑だ」と思っている。しかしどうしてもまなびフィギュアだけはほしい。それで僕はもうすぐ人間の屑になってしまうのである。
 なぜほしいのかといえば、淋しい人が熱帯魚を眺めて心の安息を得ようとするように、淋しい人が猫を飼って猫の写真を撮って猫日記を書いて泥酔しながら十回くらい「猫ブログ」とか叫んでみたりして心の安息を得ようとするように、淋しい僕はまなびフィギュアを眺めることで心の安息を得たいのである。淋しいのであるから。淋しい人が煙草を吸って心の安息を得ようとするように、淋しい僕はまなびフィギュアを吸っ、いや眺めて、心の安息を得たいのだ。淋しいのだもの。

 でも考えてみれば、「僕はフィギュアは買わない主義なんだ」と言いつつ、フィギュアを買うというのは、別におかしくもなんともない。主義は主義であって、行動は行動である。それは別なのである。主義とは理想であって現実ではないのである。共産主義を唱えている人が共産主義的生活をしているかといえばしていないのである。民主主義国家に生きる人がすべて民主的にものごとを決定しているかといえばそうではないし、何もそうすべきでもないのである。「僕はオナニーはしない主義なんだ」と言いながら、我慢できなくてオナニーしてしまうような人がいたって、別にいいのである。主義は主義である。「僕は絶対にオナニーをしない」と言って、オナニーをしてしまえば、その人は嘘吐きになってしまうが、「僕はオナニーをしない主義なんだ」であれば、別に嘘吐きにはならない。主義と一致しない行為をしただけの話である。
 そういうわけだから僕は気にせずにフィギュアを購入すればいいのである。
 同じように、「アイポッドとか使ってるやつは死んだほうがいい」とか言いつつ、アイポッドを使うということも、何も悪くはないのである。単に「僕は死んだほうがいい人間なのだ」を言っているだけにすぎないのである。「僕はアイポッドは使わない」と言いながら使っていたら嘘吐きになるが、そうではないのである。僕はアイポッドは持たない主義であるが、アイポッドを持っている。というふうに書いてしまうから、どのみち僕は嘘吐きなのであるが。(1/25参照)

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