少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
過去ログ
2010年3月
2010年4月
2010年5月
TOP
2010/04/29
29日無銘、30日名古屋。
暇な人、ジャッキーさんの文章に餓えた人は(掲載期間終了).htmlを直打ちしてくれたまえ。16歳の時に書いた戯曲です。拙いけど、16歳なんで別に、いいじゃない。
2010/04/28 そういう日も。
金字塔で僕は言う。そうだ、そうだ。
早稲田の授業に出てから、QJ打ち合わせへ。
まんがいっぱい買った。
あさり先生はすごい。
2010/04/27 科学と宗教は同じ=愛と恋は違う
架神恭介さんの日記で、科学と宗教について議論されていたよ。
僕もそういえば、こういう不毛な議論をしたことがあったなあと懐かしく思い、ちょっと何か書いてみる。
参考:
4/23 4/24 4/25
最初の二日は「へえ、こういう前段階があったんだ」と思って読み流すことを推奨。25日のところに、架神さんの立場がわかりやすく書かれているので。
架神さんが「科学と宗教は(~~という点で)同じだ」という意味のことを書いたのに対し、「科学者を自認する人たち」を中心として批判や反論や諫言がなされているようだ、というのが僕の認識。
結局、用語の定義とか、自身の事情や感情の問題になってくるので、実に不毛であると言わざるを得ない議論なんだけど、それでもまあ、誰かにとって何かを考えるきっかけや材料にはなるだろうので、無意味ではないか。
僕もなんだか考えるには考えた。
「やっぱ、理系だの科学者だのを標榜する人というのは、融通がきかないもんだな」というのが、最初の感想。まあ、文系による理系批判としてはありがちかな。「まったく、自分のやってることが『学問』なるものだと信じ込んでいる人たちは質が悪いぜ」とか。
僕が完全に文系で、自然科学方面のことは皆目分からないんで、この手の議論を見るとそのような偏った印象しか持てない。だから現在、わざわざまた大学入って数学を専門に履修してるんでございますよ。したからといってどうなるんかはわからんけど。
科学っていう言葉にはいろいろ定義があって、自然科学、社会科学、人文科学のいずれもが含まれる場合も多いだろうし、もちろん非西洋科学だって入るかもしれない。ひょっとしたらさらに広義の用法で使われることもある。
架神さんはたぶん、「科学という言葉を最も広義に捉えた時でさえ成り立つ」ような言い方をしているんだと僕は勝手に思う。だからこそ両者を「ある人間が主体的に世界を説明する際に」「使用される」(24日コメント欄)という言い方でざっくりまとめることができるのだろう。架神さんは一応「科学や宗教など」って書いてるけど、この「など」っていうのはなんなんだろうね。「科学」や「宗教」という語を広義に捉えれば(哲学や歴史学は科学、スピリチュアルや迷信は宗教)、この「など」ってのは取ってもいいんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。
そうとなると僕なんかは大ざっぱだから、「ある人間が主体的に世界を説明する際に使用されるものは、宗教と(ものすごく広義の)科学のみである」とくらいに考える。つまり、何かを説明しようと思ったら、宗教か科学かのいずれかの方法しかないのだと。
宗教が「科学ではないもの」で、科学が「宗教ではないもの」だとしたら、「宗教と科学とは重なることがない(宗教であり、科学でもあるようなものはない)」のは当然のことだ(ないよね?)。そりゃ誰でもわかる。わかるから、「科学と宗教が同じなわけないだろ!」という批判はナンセンス。だって、当たり前のことだもん。「当たり前だけど、誤解するバカもいるかもしれない」という声が出たら、「そんなバカほっとけ」とでも言いたい。そんなバカは、架神さんの日記なんて見ないだろうし。見てもわかんないだろうし。そんなことないのかな。ないから議論になってるのかな。まあいいや。
ともあれ架神さんは「科学なんて宗教みたいなものだ」とは言ってない。あくまで「科学と宗教は(~~という点で)同じ」という意味のことを言っているのだ。
当たり前のように、科学と宗教には「共通点」がある。絶対ある。おそらくその「共通点」のことを、エンターテイナーである架神さんはずばり「同じ」という言葉を使って言い切っているだけなわけであって。
その「言い方」に異議があるというのは、わからんでもない。上でも触れた「誤解を招く」というやつ。それに関しては架神さんは「だってそれがオレの職業だから」みたいなことをたぶん、言うだろう。で、その主張にさらに食いつくことを止める権利はよほどのことがなければ誰の上にも生じないから、したければすればいい。諫められてどうするかは、架神さんが決めること。
実はこっからが本題なんだけど、なんでこの話題でこんなに議論が白熱するのか? 僕もついつい書いちゃったし。それはね、この話題が「単純だから」なんだよ。「バカでも参加できるから」なんだよ。「ワーイ、自分でも参加できそうな、面白い、知的そうな話題がやってきたー」とか思って、安易に書き込めちゃうような話題なんだよ。あーあ。
これって何に似てるかといえば、「愛と恋とはどう違うか?」っていうアレとかね。どーでもいいけど重要で、誰でも簡単にテキトーなことが言えて、しかもなんだかサマになる。そういう話題への食いつきは、非常にいいね。「AとB」っていう単純な対立図式が与えられれば、単細胞な人でも何かしらは言えるもんね。二択で意見が出せるもんね。
2010/04/26 感想について、は、今度書きたい。その前段
僕は自分の思想や好みを他人に押しつけることがとても好きなので、よく誰かに本や漫画を貸したりする。最初に貸したものに「ピン!」と来てもらえた場合は、そのあとに貸すほとんどのものに「ピピピピピン!」と来てもらえることが多い。のだが、最初に「ピン!」がなかったら、その後で何を貸しても「ピン」がぜんぜん来ないのだ。困ったことにそのくらい、僕の好みはわかりやすい。
「もう、正しいことってこれしかないよね?」という信条が確固とし過ぎていて、ある一つの「理想形」を提示してそれを弾かれたら、もうどうにも、やりようがないのである。僕が好きで、他人に無条件ですすめたくなってしまうものというのは、どっかで重要に繋がっているので、一つがダメなら他のもダメなのである。そういう場合が多い。
ここんとこだと、最初に貸すのはとよ田みのる先生の『ラブロマ』か『友達100人できるかな』で、この辺がダメだったらもう、次の一手がない。
藤子F先生のSF短編とか、藤田和日郎先生の『うしおととら』とか、僕が死ぬほど好きで、かつ誰が読んでも絶対に面白い作品というのはある。最もわかりやすいのは岩明均先生の『寄生獣』で、こういったものを渡して「面白かった!」という感想の返ってこないわけがない。『ジョジョ』や『カイジ』でもそう。
でも、それらが面白いっていうのはもうハッキリとわかりきっていることで、僕がわざわざ貸すことに意味はない。そこに描かれている思想は非常に重要なもので、特にF短編や寄生獣は未読の方には是非読んでもらいたい。でも、そういうことじゃないのだ。
『ラブロマ』の何巻かの帯に「この物語が、ありえるか、ありえないか。魂のバロメーターでもある」と書かれているが、僕はきっとそのような意味で、他人に『ラブロマ』を貸すのだ。その人の魂の有り様を、確かめているのだ。
「『ラブロマ』がわからない奴は、非人間だ」とか「そういう人とは付き合わない」と言うつもりはない。僕が愛する友人たちの中にも、「こいつにはラブロマは合わないかもな」と思える人はいる。そういう問題じゃないのだ。何も僕はそういうことだけを問題にして、他人と付き合ったり、愛したりしているわけではないのだから。ただ次の一手はなくなるから、「僕が漫画を貸す相手ではないか」と判断するだけである。
『寄生獣』を読ませて「面白かった!」と興奮する人の割合が80%くらい(まあ、僕と友達になるような人たちの中で、ってことね)だとしたら、『ラブロマ』は40%くらいかもしれない。だからこそ、貸す価値があるのだ。『ディスコミュニケーション』だったらこれが、20%くらいになるかもしれない。それだとちょっと危険球だから、後に回す。
あー、なんかまたいつも通りの話になっているなあ。僕が持ち出してくる作品の名前は、だいたい同じだ。もう、洗脳しようとしているのかも知れない。誰をだよ。
そうやって貸し出した本とかについて、感想はまちまちだ。良い反応をくれる人がいれば、嬉しい。あんまり反応をしてくれないけれど、「次を!」と言ってくる人もいる。何も言わない人もいる。借りたものがそんなに面白くなかったら何も言わないのが普通だろうと思うから、それはそれでいい。
まあでも、しかし、できるだけ何かを言ってほしい、というのはある。感じたことでも、思ったことでも、思い出したことでも、何でもいいから。本当なら感想文でも義務づけたいもんだ。
殊に僕より目下の子だったら、無理に背伸びしてでも撚り出してほしいと思う。「言葉にできない」を言葉にすることに、ぜひ挑戦してもらいたい。
そうでないと、伸びないもんだからねー。
2010/04/25 執筆
小説書くのが楽しくて、すみません。5月23日まで待ってください。いや、更新はしますけど。ええ。
ブログ、たまに書いてます。
2010/04/24 離婚! カッコわるい
漫画アクション連載の福満しげゆき『うちの妻ってどうでしょう?』、最新話が面白かった。この話題は地雷みたいなもんだが、やる。
妻から「友達の友達が離婚した」という話を聞いて「僕」(≒福満先生)は「女が悪い」と強く思う。福満先生が妻の話を聞いてイメージしたモデルケースは、
「『いい男いないかなー、高収入だったり、ハンサムだったり。でもこれといっていないなー』とか思いながらどんどん恋愛を繰り返していく『軽くバブル時代の発想を残す世代の』女性が、ロシアンルーレットかのごとく、その適当に付き合っていく歴代の男の中で、『妊娠』に至った男を自動的に『旦那』とする」(概ね原文ママ)
と。名残バブル世代でなくても、現在でもこういう女性は多々いるだろう。親がバブル引きずってたりしたら、価値観は世襲されるもの。
で、「妊娠」を告げられた男はほとんどの場合、どんなに悪かったりだらしなかったりする男でも、「責任取るよ、結婚しよう」になる。なんでかといえば、「それがすでに社会通念となっているから」。ここで「あ? 堕ろせよ」にはなかなかならない。それはもう「してはいけない」ルールになっているのだ、社会的に。雰囲気的に。
しかしそういうカップルは福満先生によれば「絶対離婚する」だそうで、これについて異論は僕にはない。芸能人がホイホイ離婚するもんだから、自分たちも離婚していいもんだと思ってしまう、というのが福満先生の論で、僕は「親が(特に早い段階で)離婚してると、離婚に対する抵抗がなくなりやすい」とはずっと思っているのだが、そうか芸能人か。親が離婚してようがしてなかろうが、テレビなどメディアに流されやすい人たちは離婚に対して抵抗なんてほとんどないのかもしれない。偏見だが、きっと正しいぞ。
福満先生は――いやもう、僕が福満先生の大ファンであるというのはこういうところからだと思うのだが――、「よっぽど『日常的に殴られていた』ぐらいでないかぎり、離婚するなと言いたい」と言う。熟年離婚など殴り倒してやりたくなるぐらいバカだと。「『実はイヤだった』みたいな……何その遅く出たプライド。そんな程度のオバさんが離婚したからってもうお前の人生の薄っぺらさが回復することはないぞ! バカ! クソババア」もうね、拍手を送りたくなるほどの正論。
福満先生が提唱するのは、「イヤでも『2人で子供を育てていくって責任がある』という一般社会流通ルールを作るべき」というものだ。「離婚! カッコわるい」みたいなスローガンで。彼女から妊娠を告げられた時に「堕ろせよ」と言ってはいけないルールがあるように、「離婚なんてしてはいけない」というルールを作ればいいのだ。っていうか、そういうルールっていつからなくなったの?
それを作るべき理由は「だって子供がかわいそうじゃないですか」「子供をお前らのくだらんケンカに巻き込むな!」。さすが先日お子さんが生まれたばかりの福満先生、どこまでも子供目線。でも、結局これが1番正しいんだと思うよ。「子供達は未来だ」byケーダブシャイン
ケーダブさんが出てきたところで、ついでに岡村靖幸の『祈りの季節』という曲からも詞を引こう。「Sexしたって誰もがそう簡単に親にならないのは 赤ん坊より愛しいのは自分だから?」
子供が生まれる前ならば、「赤ん坊より愛しいのは自分だから」と言って避妊やら堕胎を選ぶというのは、んまあこれを受け入れられるかどうかは考え方によるのでしょう。が、生まれてしまって、ある程度子供が大きくなった段階で「赤ん坊より愛しいのは自分だから」を持ち出すのは、どうなんでしょうかね。「生んだ」という責任に対して、いったいどう思っているんだろうね。
僕なんかは、「生んだ」という責任をまともに負えないようならば、子供を生もうなんて考えるんじゃないよ、と思う。そのために避妊技術が発達してきたんだろうし、堕胎だってウヤムヤにでも承認されてきたんでしょうに。だから子供ができたのに離婚するなんていう人間は、ほぼ無条件でダメな人だ。一生連れ添っていく自信も、覚悟もないのなら、その相手と結婚したり子供を作ったりするべきではない。妊娠した、という段階でその自信と覚悟が持てないのならば、潔く堕ろしてしまったほうがいいんでないかね? むろん堕胎なんてするよりはしないほうがいいから、持つべきだ、と僕は言いたいんだけど。
少なくともね、親の愛情と庇護なしで子供がまともに育つっていう、ある意味で「成熟しきった」ような社会には、まだなってないわけなんだからさ。
なんだか最近もう、周囲でも「子供がいるのに離婚する」っていうケースが多すぎて辟易する。離婚が横行するってのは「子供より愛しいのは自分だから」ってのと、「やがて離婚するような相手とホイホイ結婚してしまう」っていうのとがきっと主たる原因で、要するに自分のことしか考えていないで、欲望や感情に流された軽率な判断をしてしまってるってことなんでしょ。理性がないんだよ、理性が。片親の子が増えるくらいなら、少子化のほうがずっといいって。少子化で困るのは「国力」なんでしょ。衰えればいいじゃないか、そんなもん。現代には本当は、そんなにたくさんの労働力は要らないんだから。
2016/05/01 今はもうちょっと別のことを考えている。離婚するっていうのは、現代においてはもう仕方ないことなのかもしれない。みんなそのくらい「個人」になってしまった。だから、それを認めるっていう方向に行ったほうが楽なのかもね……。すなわち、離婚したって別に問題ないような社会通念を作る、という。僕は両親が(今のところ)離婚してないような家庭に育ったからピンとこないけど、でも、なんかこの世界はそういう方向になろうとしているような気はするね。
2010/04/23 体罰と抱擁(暴力教師とロリコン教師)
ある女子中学生が若い男の先生の前で泣いていたとして
その先生は何をすればいいんですかね。
頭を撫でて
抱きしめて
傷をさすってあげてもいいんですかね。
正解は
「決して手をふれず、身体にさわらず、言葉で慰め、激励する」
だと思う。
それが現今の学校という空間であるらしい。
権藤 口で言っても聞かんなら
体でわかさせるしかないでしょうが。
鈴村 たとえこいつらが馬鹿で
馬の耳に念仏で焼け石に水で
猫に小判で鬼に金棒で豚に真珠だったとしても、
それでも説得するのが教師です!
そういう仕事なんですよ。
世間がそうしろと言う。それにそれが、
文部省の方針でもあるんですから。
これは僕が高校二年生の時に書いた『少年三遷史』という芝居(教育をテーマにしたタイムスリップSF)で、体育教師である権藤と理科教師である鈴村が「体罰」を巡って論争するシーン。この作品は大会で上演され、ビデオにも残っているので見たい人は僕をおだて、なだめ、すかして説得するように。僕も出てますので、簡単には首を縦には振りません。
(ちなみに当時すでに文部省は文部科学省に名前が変わっていたのだが、残念ながら反映させられていない。これだけは本当に心残り。)
口で言っても聞かんなら、体でわからせるしかない。これはたぶん本当にその通りで、ガキってのは殴られなきゃわからんもんだ。中学校の先生をしていると、「殴る」ということの重要性を痛いほど感じる。「殴られても、わからんやつはわからん」というのも問題ではあるし、「殴ったら殴り返されて先生のほうが死んだ」とかいう洒落にならんことにもなりかねないんだが、それでもやはり、殴らずに言葉すなわち理屈だけでガキを「説得」しようというのは、ほとんど不可能に近い。「恫喝」ならば多少の効果はあるかもしれないが。
『少年三遷史』には、「理屈一辺倒の教師、鈴村」と「暴力一辺倒の教師、権藤」の二人が登場する。最終的にはそれぞれが自身のやり方を反省して、お互いの「教育方針」へ歩み寄っていく形で終わる。ラストシーンで鈴村先生がさりげなく俊太という少年に(愛のある)体罰をふるっているというのは、我ながらよくできた演出だと思う。高二にしては。本当に、台本を読み返したり芝居を見返したりするごとに、物語としてあまりに出来が良すぎて戦慄する。当時の僕は天才だったのかもしれない。
とまあセルフヨイショはそんくらいにして、高二の僕が『少年三遷史』で言いたかったことというのはたぶん、「教育とは、理屈だけでもいけないし、暴力だけでもいけないんだよ」という、ひたすらに当たり前のことだったのだと思う。なんでそんな当たり前のことを言おうとしたのかといえば、「教育現場ではそのことがちっとも当たり前ではない」ということを僕自身が肌で感じていたからにほかならない。それは中学校の先生という職を経た今でも変わらない。
だって、殴っちゃいけないんだもの。
「殴っちゃいけない」という問題は、「抱きしめてはいけない」という問題と同じようなもんである。教師が生徒を殴ったら「暴力教師」になるし、教師が生徒を抱きしめたら「ロリコン(ショタコン)教師」である。世間はそう言う。
なんでそうなるのかといえば、たぶん「殴られる」とか「抱きしめられる」とかいうことが日常にないからではないかと思う。もちろん、意味もなく殴ったり、異性を抱きしめたりすれば、それは犯罪になりうる。なりうるが、「意味もなく」というのを外せば、それは教育にもなりうるわけである。そうであるはずなのだが、しかし、最近ではどうやらそれは「教育」にはならないらしい。なぜか?
「殴る」という問題に関していえば、単純に親が殴って教育しないからである。親が殴らないから、子供は殴られるということに免疫がなくて、「殴られた」ということを「叱られた」と解釈しないで、「傷つけられた」と解釈するのだ。親も親で、殴って教育したことがないから、「うちの子が叱られた」ではなく、「うちの子が傷つけられた」と解釈する。たぶんそういうことだ。これはまあ、誰でもわかる。
「抱きしめる」というほうがくせ者で、これはおそらく、「性」というものがあまりにも社会の中で膨張しすぎてしまったことが原因にあるんじゃないかと思う。教師と生徒というのは今や容易に性的な関係を結びうるから、「抱きしめる」という行為はどうしても性的な意味を帯びてしまう。五十九歳のおじいちゃん先生が小学一年生の女の子を抱きしめても、そこには「性」のにおいがしてしまう。それが現代なのだ。
「性」が、どんな異性間にも、同性間にも、そればかりか、動物や無生物や架空の存在との間にさえも存在してしまう。それくらいに「性」が膨張してしまったのが現代であって、だから「抱きしめる」という行為は、「どんな二者間であれ性的な意味を持ちうる」のだ。ゆえに、教師が生徒を抱きしめたら、それはもう性的な行為なのであって、教育とか、「先生としての愛情表現」とか、「大人が子供を慰める」とか、そういった意味をすべて駆逐してしまう。
ここまでのところは、「性」を「恋愛」に置き換えてもまったく同じような意味になると思う。
そういったわけで、体罰と抱擁とは、少なくとも公教育の場からは消え去っている。よくないな、と僕は思うが、現代とはそういう時代である。現代を生きている以上はそれを引き受けなければならない。
ただ僕は、目の前で生徒が泣いていて、「ここでこの子を抱きしめてあげなければ、この子はダメになってしまう」とか思ったら、たぶん抱きしめてあげるだろうと思う。そして現代というものを引き受けざるを得ない現代人の僕は、それによって職をクビになったとしても「仕方ない」と思うしかない。現代というのは、愛情を確保しようと思ったら社会性を捨てなくてはならないような時代なのかもしれない。
2016/05/01 今はまた別のことを考えています。もしも「今ここで僕が抱きしめてあげなければダメだ」という確信があるならば、僕は確かに抱きしめるのでしょうが、しかし基本的には、「抱きしめるべきなのは僕ではない」という場合がほとんど。親であったり、恋人であったり、そういう存在が抱きしめてあげるのがいちばんいい。僕は中学の時に、ある事情で、お母さんから思いっきり抱きしめられたことが一度だけあって、その時のことはとてもいい意味で、僕には忘れられないですね。そしてその抱擁の感覚が、僕を未だに生かしているし、歩かせているし、お母さんのことを愛させている。そういう「教育」はきっと必要なんだと思う。場合によっては、それを教員が担ってもいいのかもしれないが、しかしそれはよっぽど特殊な場合で、自殺を止めるための最後の手段、くらいのもの。99%以上のケースでは、教員は、「その子が誰かから抱擁される方向へ導いてあげる」ということに腐心するべきです。そのこと以上に難しいことはないわけですが、ただ抱きしめてあげる、というのでは、教育の専門家としてはむしろ手抜きです。
それともちろん、この文章の中で僕は、体罰を肯定しているわけではないのです。ただ肉体的なコミュニケーションなしに教育することの難しさを語っています。言葉のみによって教育するには、言葉のみによって育まれていけるだけの素地が既に必要なわけですが、そういう肉体が育っていない場合、誰かがそれを施してあげなければならないと思うのですが、それを教員が担おうとしたら、たちまちクビが吹っ飛ぶ、っというのが、現代の事情だということに、この若い25歳の元教員は憤っているわけですね。(一文が長い)
2010/04/21 なぜ僕がNHKに出ていたのか
尊敬する人に作品を褒められて有頂天になった。ああ、弟子の気分というのはこれであったか。忘れてはいかんな。
今朝、テレビに出ていたらしい。らしいというか、知ってたんだけど、ちょっと機械の調子が悪くてうまく見られなかった。僕はあんまり自分の声や姿を自分で聴く、見るということは好きではないもので、先日ラジオに出たときの音源も、保存はしたものの一度も聴いていない。
NHK総合の「
あさイチ」という報道バラエティ番組(とでも言うのだろう)に、
無銘喫茶店長として出演した。収録日は4月1日の木曜日。開店前から閉店まで密着されて、小刻みにインタビューを受けたので、割と放送時間も長かったようだ。基本的にはすべてヤラセ、いや丁寧な演出によって作られていたが、僕のほうも「今日はエイプリルフールだから適当に言えばよいや」という気分で取材を受けていたので、いいバランスだったのかもしれない。
テレビで紹介されたとて、客が増えるわけでもないのだろうが、一人二人くらいは「NHKを見て」という人もいるかもしれない。最近でも、「朝日新聞を見て」やって来た人がそのまま常連になったというケースもあるし。
そういえば今朝は、偶然NHKを見たという高校の先輩(KY高校ではなくTK高校)から突然メールが来たり、久しぶりの人や、思いもかけない人物(生徒の親とか)が見ていたりして、面白かった。衰えたとはいえ、まだまだテレビの力というのは大きいらしい。
今月は22日と29日に営業があるのでお暇な方はぶらりとどうぞ。
僕は一般人であるが、気がつけばたまにラジオとかテレビとかイベントに出たりしている。これって何だか非常にokadaicという友達や、銀杏BOYZのジャケットとかによく出ている友達と似ている。一般人として普通に、生きたいように生き、付き合いたい人と付き合っているだけなのに、いつの間にかどういうわけか、妙な人脈ができていたりして、ぽこっとメディアに顔を出したりもする。
我々に共通するのはおそらく、好奇心とか、度胸(図々しさでもいい)とか、人なつっこさとか、愉快な人柄とか、内に秘めている「情報量」とかなんですな。要するに、「社交的なオタク」なんですな。あんまり面白くない結論かもしれないけど、これに尽きるのではなかろうか。
我々は本来、演者ではない。「客」である。が、ときおりは「客代表」として扱われるだけの「ポテンシャル」みたいなものがあるのである。また、上に記した二人の友達はどちらも女子であるが、ものすごく「花」がある人たちなのである。単純にいえば美人とか可愛いとかそういうことである。僕は普通の人だが、男はそもそも「花」なんてないのだから、「情報量」とか「頭の回転」とか「喋りのうまさ」とか、「冗談が言える」とか「ノリが良い」とかいうことのほうがより大切になってくる。「空気を読む」とか。
しかし最も重要なのはたぶん、「何でも面白がれる」ということ。「うわー、おもしろーい」「やってみたーい」「いきたーい」「みたーい」「話したーい」みたいな幼稚な欲求を表に出してしまえるような無邪気さみたいなものが、そういう方向への推進力になっているのだろう。
2010/04/20 イベントとメイド
19日夜、阿佐ヶ谷ロフトのトークイベントにご招待を受けて行ってみたら、壇上で喋らせていただけることに。持ち前のトークスキル(笑)で、まあそれなりに面白くできたのではないかと思う。
あるミュージシャンについて語る、という趣旨だったのだが、こういう集まりは「あの曲いいよねー」「うん、いいよねー」といった具合の「共感」のみに終始してしまいがちなのが残念。だいたいインターネットで聞いたような話だったので、ネットをあんまり見てない人にとってはよかったかもしれないが、僕のような人には向かなかったようだ。もっと知的に面白くって、何か新しい発見のあるような話が聞けたら良かったな。そういう趣旨じゃないんだろうけど。
それから、後には残らない一過性のイベントだと特に、「厳密さ」ということが忘れられてしまう。「彼はこういうことを言っていて」と説明するとき、「こういうこと」の内容を正確に伝えることは非常に難しい。だから常に細心の注意をはらって、慎重に発言しなければならないと思うのだが、やっぱり「こういうこと」の内容はずれてきてしまって、それが新たな誤解を生み出したりしそうで、恐ろしいような気分になる。世の中にある誤解や間違った思いこみは、だいたいのところ「無意識の曲解」が積み重なった結果としてできあがるのではないだろうか。
そんなことも思ったが、出演させていただけて嬉しかったし、二年前に無銘喫茶にお客さんとしてやってきてくださった方々との偶然の再会もあり、新たな出会いもたくさんあったので、よかった。やっぱりあの人は、人と人とを繋げてくれるんだなあ。
20日、午前中に予定を済ませ、昼から吉祥寺のやきとり屋でお酒を飲み、松屋でお酒を飲み、自転車で20キロほど走って某大学の授業にもぐりこみ、それから友達と二人で歩いて練馬まで帰る道すがら、池袋のメイド喫茶の呼び込みに引っかかって入ってみた。
なんつうか、「池袋顔」ってのがありますね。「池袋声」ってのもありますね。なんだろう、埼玉あたりから出てきた、ヤンキーとオタクが同じくらい入り込んだ、テンション高いんだけど、どこかで人生を達観したような雰囲気を出そうとしている田舎娘。ハスキーボイスだったりすると完璧。
店内にそういうメイドさんはいなかった(客にはいた)が、呼び込みをしていたメイドさんが完璧にそんな感じだったので、面白かった。
もの凄い本格的(萌え萌え的な意味で)なメイド喫茶だったので、いろいろとテンションが下がった。「キャラクターを演じていることを見透かされていることを自覚しているはずの人」と接するのは、体力が要る。大変なんだろうなあ、と思ってしまう。そんなことを思わせないくらい完璧なキャラ作りをしている人がいればいいが、そのような演技派メイドはそうそういないのである。
あるお客さんが、4000円のセットを頼んだ。セットの中には「メイドさんが自分のためにかわいく踊ってくれる」というサービスが含まれており、店内が暗くなって、一人のメイドさんがステージに上がった。
踊っているメイドさんの姿を見て、「あー、自分の好きな女の子にこんなことをされたら死んでしまうな」と思った。メイド服着てちょっとなんか適当に動いてもらうだけで爆発しそう。でももし自分の彼女がメイド喫茶で働きはじめたらすっげー嫌だ。
だけどこの店は悪質なホストクラブの如く客に金を使わせようとするので苦手。おまじないとかを客に強要するのも苦手。今さらながらメイドのくせに口数が多くてほとんどタメ口なのはどう考えてもおかしい。無駄なことを喋らず、礼儀ができていて、スカートが長くて華美でない衣裳のメイドがいる店が僕は好きなのだ。どーでもいいけど。
家の近くでカップヌードル食べて帰った。
小沢健二さんの『うさぎ!』は、若い子(中高生とか)に読んでもらったほうが反応がいいな、と感じていたが、実はそんなことなくて、もしかしたらあの物語に対しての反応っていうのは、世代間でそんなに変わらないのかもしれない。どっちみち、なんだか悲しい。
みんなもっと読めばいいと思うけど。
2010/04/19 棚上げ
もういい加減「棚上げ論争」に終止符を打ちたい。
幼少期、島本和彦の『炎の転校生』という漫画を読んで、そこに登場する伊吹三郎という男の「心に棚を作れっ!」という名言が頭にこびりついて離れず、大人になってもなお「棚上げを肯定する」という悪癖(?)が染みついているのが僕なのですよ。
伊吹曰く、「自分がふだん道ばたにゴミを捨てていたとしても、ある時たまたま道ばたにゴミを捨てている人を見て腹が立ったとしたら、ふだんゴミを捨てている自分はこっちの棚においといて、ゴミを捨てた人に『ダメじゃないか』と叱りとばしてしまえばよい」(大意)と。
この論法は、「A子と付き合っている自分はこっちの棚においといて」という形で、二股をも肯定することができる(実際、伊吹はそのように主張している)ため、危険なのだが、しかしこれはこれで一縷の真実を含んではいるのだ。
もの凄く簡単にいえば、「完璧に清廉潔白な人間などいないのだから、ある程度『棚上げ』をしなくては他人に注意や説教などできない」ということだ。そもそも他人の欠点に気がつくときというのは、「自分にも多少そのような要素がある」からこそ気がつくことができるのであって、だから逆説的なことに「邪悪な意志が欠片もない人間には邪悪を判断、指摘することはできない」のだ。自らの中に邪悪があるからこそ、他人の邪悪に気がつくことができて、それを注意してあげることによって、自らの邪悪を戒められる。このくり返しが、人生を「正しく」していくのだと思う。
僕が他人に苦言を呈するとき、諫言をするとき、必ず「自分にもそのような要素はあるのだから、気をつけなくてはいけないな」と思うようにしている。だから、「お前はどうなんだ」とか「お前が言うな」とか言われたら、半ば開き直って「ああ、僕にも似たような問題はあろう。しかし今は君の問題だ。この話が済んだら存分に僕を批判してくれていい」というようなことを言う。必要があれば僕のほうの話を先にして、相手の問題についての解決策を探るということもするかもしれない。
例えば僕は非常にだらしない人間だから、だらしない人間のことが割とよくわかる。だからこそ「おい、だらしないぞ」が言える。「僕もだらしないから、何も言えないなあ」では、一つも状況は好転しない。「おい、だらしないぞ」「お前だって、だらしないぞ」「そうだねえ」「お互い気をつけよう」「そうしよう」くらいが、いいのだろう。
まあ、それにしたって、僕は「自分よりも圧倒的にだらしない」人間に対してしか「だらしないぞ」はさすがに言わない。「自分だってだらしないが、程度でいえばこいつのほうがだらしない」という状況に限って「だらしないぞ」を言う。少なくとも僕はそういう判断をした上でないと、他人に注意などできない。だからこそ、「僕の問題より、まずは君の問題について話そう」が言えるのだ。僕のほうがずっとだらしないのだったら、「僕の問題を解決してから、君のだらしなさについて考えよう」になる。そのようにしたいと僕は思っている。
一応そういう条件があった上で、僕は「棚上げ」ということをしているのであって、何も「自分のことを完全に度外視して」というわけではない。「この問題が解決したら、僕のほうの問題も棚卸ししなきゃな」というのがあればこそ、「棚上げ」なのである。
ただ、棚卸し作業は面倒くさいからあんまり積極的にはなれないというのが正直なところで、実際自分の問題はいつまでもぐだぐだと先送りにしてしまいがちだ。そこで「注意してくれる友人」の登場が待たれる。僕をしゅんとさせるくらい叱ってくれる友人がいればいいのだが、これがまた、いないのである。僕はまだ叱られるほどひどい状態ではないのか、僕なんか叱るべき価値もないのか、僕は叱られても反駁するから敬遠されているのか、いずれかの理由によってそのようになっているのだろうなあ。
別に叱られたいわけではないのでそれでいいんだが。
2010/04/18 共感
男が共感するものというのは大抵「男の身勝手」であって、
女が共感するものというのは大抵「女の身勝手」である。
魚喃キリコの漫画が僕にとってなぜいけ好かないのかといえば、あれは「女の身勝手を描いた物語」だからである。であればこそ、女が共感するのである。そして共感する女は、身勝手である。「身勝手な女だから、身勝手な物語に共感する」のではない。「共感をするようなやつは、身勝手なのだ」である。
浅野いにおは「若者の共感を得ている」らしいが、浅野いにおが描くのは「若者の身勝手」だ。つまり浅野いにおに共感するようなやつは、「身勝手な若者」なのである。若者というのは身勝手なもんであって、もしかしたら現代における若者の定義とは「浅野いにおに共感できること」なのかもしれない。
どんな作品にだって同じである。「共感」なんていうものをするのは、身勝手な人間だ。なぜなら、「ある作品に対する共感」というのは、「権威を借りて正当化する」という行為でしかないからだ。
たとえば魚喃キリコが女の「本音」を描いたとする。それに共感する女は、自分の身勝手な「本音」を正当化したいだけなのである。魚喃キリコという権威によって自分の身勝手を承認されたい、許してもらいたいのである。「魚喃キリコが描いているんだから、女とはこのように身勝手でもいい」と思いたいのである。
「共感」というのはほとんど常に、そういうような正当化の手段でしかない。
身勝手でない女は、「共感」などというものをしない。「同意」はするかもしれないが、ちゃんと自分で考えた結果としてそれをする。感覚を共有することで自らを正当化しようなどというのは、あまりにも単細胞で、考えが足りない。
そういう女はすぐに周りに流される。
それが女だと言われてしまえばそれまでで、男の思考よりも女の直感のほうが正しかったという例は数限りない。それだから、男はいつでも女に怯えているのである。おっかねえー。
さて男が共感するものとはなんだろう。男こそ、色々と身勝手なものに共感していそうである。枚挙に暇がなさそうなのでやめておくが、その部分を叩かれたら僕たちはどうもひとたまりもないだろう。
2010/04/15 美しいものを読みすぎた。
●ある人からのメール
誠意に満ちた、嘘のない素敵な文章だった。
●あるお客さんからの手紙
無銘喫茶を引き継いで、続けていて、本当に良かったと思えた。
●小沢健二さんの『うさぎ!』第十九話
あえて傲慢なことを言うと、僕と添い遂げたいと思うような人は、とりあえず『うさぎ!』に書いてあるようなことを僕と共有できなければ、まったく話にもならない。この第十九話の前半は『うさぎ!沼の原篇』のまとめのようなものでもあるので、入門として読むのも悪くないと思う。『子どもと昔話』43号は大型書店に行けば売っています、是非どうぞ。この文章はたぶん、来月くらいに出るであろう単行本(たぶん自費出版?)には入らないと思うので。
●つばな先生の『第七女子会彷徨』第二巻
この天才を見抜けない人間が漫画を語るべからず。
特典がついていたので、二巻は三冊買ってしまった。
一巻も二冊目を買ってしまった。特典があったのと、帯が変わっていたから。
このように美しいものばかりを読みすぎて、僕はもう幸せすぎて、どうしようもないくらいに優しい気分になってしまっている。
生きていて良かったとか、自分の生き方は正しかったんだと思える瞬間は、こういうときだ。あんまり一般的な生き方や考え方をしていないで、本当によかった。
2010/04/16 「三人」という不安定
まあ、AさんとBさんがいると思ってくださいよ。僕はAさんとは昔から仲が良くて、よく知っている。Bさんと仲良くなったのは比較的最近で、それほどよくは知らない。最近AさんとBさんがやたら仲良くなって、よく遊んでいるらしい。僕はAさんとはよく会うが、Bさんとはそれほどでない。
Aさんは、会うたびに僕にBさんの話をする。すると僕はBさんとそれほど会ったり連絡を取ったりしているわけではないのに、Bさんについて詳しくなる。詳しくなるのはいいが、そうすると僕が持っているBさんに関する知識・情報というのはほとんどAさんの目を、解釈を通したBさん像ということになり、本来のBさんとどの程度一致するかはまったく不明なのである。僕は「Aさんの捉えたBさん」については非常に詳しくなるのだが、「Bさん」そのものについて知ることはできない。
たまにBさんと話をすると、そこには僕の知っている「Aさんの捉えたBさん像」とのズレがあって、違和感を感じることがよくある。
僕が恋愛の話をするときによく言うことなのだが、恋愛というのは一対一の関係だから、そこに第三者が入ってきてああだこうだ言うと、だいたいうまくいかない。客観的視点というのは確かに大切なのだが、「客観的な(言い換えれば、冷静な)意見が必要となるような恋愛」は、厳しいことを言えばその時点で終わってるのである。恋愛に関する「客観的な意見」というのは、ほとんど常に「それって、おかしいよ」という形で現れる。たいていは遠回しに「今のままなら、別れたほうがいいんじゃない?」を言っているのである。恋愛というのは主観と主観が一対一でからまりあうような現象であって、それを第三者が「客観の仮面をかぶった別の主観」から眺めれば、そこに「ずれ」を感じるのは当然なのだ。ある三人がいて、「一人目と二人目の主観が交わった地点」と、「三人目の主観」が同じだということは、まずない。だから人は普通、あらゆるすべての恋愛に対して「ずれ」を感じることになる。
その「ずれ」があまりにも大きくて、常識や良識とも明らかにかけ離れている場合、「客観的意見が必要となるような恋愛」になるのだが、ほとんどの場合は、「本当は客観的意見が必要となるほど非常識な関係でもないのに、外部から無駄な茶々を入れられて戸惑ったり、困ったことになる」というのであって、だから実際、恋愛に他人の意見など必要ないのである。他人の意見が必要になるような恋愛は、その時点でダメな恋愛なのだから、乱暴なことを言えば早めに見切りをつけたほうが身のためである。二人だけの関係である恋愛というものに、第三者の意見を求めてしまったら、その場しのぎにはなるかもしれないが、そのうち破綻は免れなかろう。「二人だけでは解決できない問題」が、「本来は二人だけでするもの」である恋愛の中に立ち現れてしまったら、恋愛はもう終わりだ。みんなで意見を出し合ってするような恋愛は、たぶん恋愛ではない。
仲の良い三人組CDEがいたとして、CとDがEの陰口を言ってEがそのことを知らず、DとEがCの陰口を言ってCがそのことを知らず、EとCがDの陰口を言ってDがそのことを知らず……ということになっていくと、その三人組はもう「仲の良い三人組」ではなくて、「仲の良い二人組が三通りある」ということにしかならない。「三人組」というのは、かなり多くの場合、このようなややこしい三角形を形成する。一見「三人組」に見えても、よく目を凝らすと「二人組の集合体」でしかないような場合である。三角形は三角形でも、平面図形としての三角形ではなくて、楽器のトライアングルのように真ん中のぽっかりあいた、線としての三角形でしかないような場合だ。
CのところにEがやってきて、「Dはきちがいだ」と言う。それでCが「そうか、Dはきちがいなのか。Dとの付き合い方を考えたほうがいいな」と思う、なんてことはざらにあるんじゃないか。CとDが恋愛関係にあって、Eが実はCを狙っていて、あわよくばCとDを別れさせたあとにCと付き合いたいと思っているような場合。これは非常にありそうな話だ。
べつに恋愛でなくとも、そういうことはある。さっきのAさんとBさんの例でいくと、僕はBさんのことを、Aさんの解釈を通してしか知らないようなもんなのだ。Aさんが「Bさんはきちがいだぜ」と僕に言って、僕が「そうかBさんはきちがいなのか」と思う。僕はBさんをきちがい扱いするようになって、だからBさんも僕のことを快く思わないようになる。「三人」という存在は、常にそういった危険をはらむ。線の三角形が平面図形の三角形になるためには、ズッコケ三人組のように、常に一緒に行動して、常にお互いを信頼し合い、という関係が成り立たなければ難しい。そうでなければ、楽器のトライアングルのようにしかなれない。
それっていうのは、難しい時にはとても難しい。男同士の三人組だったら、ズッコケの例を見るように、割と簡単に成立してしまうのかもしれないが、男女混合の三人ともなると、上手くいく例のほうが珍しいんじゃないか。三人だと調和が取れてうまくいく、テーブルは三本足なら倒れない、なんていう考え方もあるが、それは三つの「足」が均一の大きさや質を持っているからであって、まったく異質の「足」が混じっていたら、そのテーブルの上に置かれたコップは容易に床に落ちるのである。
「三人」というのは本当は不安定なものであって、バランスを保つのは実は難しい。シーソーだって、二人ならば釣り合う地点を探すのは簡単だが、三人いるとどの位置に立っていればいいのかよくわからなくなる。そう、「三人」がいる場所は、テーブルの脚が立っているような安定した平面の上ではなくて、一本のシーソーの上なのかもしれないのである。平面上の三人はまだ安定しやすいが、シーソー上の三人はおろおろとその上を歩き回りながら、常に不安定に怯えていなければならない。「シーソーの上の三人」というのが何を意味しているのかといえば、もちろん、「恋愛関係のような安定した関係(シーソー)の上に、第三者が入り込んできてしまった」という状況である。今までキャッキャとシーソーで遊んでいた二人は、思わぬ第三者の登場に掻き乱され、バランスを崩し、やがて誰かが、あるいは全員がシーソーを降りてしまう。
僕は割と、そういうときに真っ先にシーソーを降りてしまう人間であるし、シーソーから引きずり下ろされてしまうような人間でもある。そういう経験は何度もしてきた。
僕とFさんがシーソーに乗っているところにGさんがやってきて、「Fさん、降りてくれ」なんて言ったら僕はGさんに「お前が降りろ」なんてことを言うと思うが、Gさんがもし「あなたが降りてくれませんか」と僕に言ったなら、僕は降りてしまうかもしれない。僕は人間に対して、いや、人間関係に対しては、その程度の執着しかない。Fさんが「私はGさんとじゃなくて、あなたとシーソーに乗りたいの!」なんて言ってくれない限りは、黙って降りる。
別にこの話は現実にある特定の人間関係に対して直接言っているのではない。勘違いして貰っては困る。ただ、そういう考え方を思いついてしまったのだ。それだけのことです。
2010/04/15 さ聞新
明けて今日がそれか。覚めたなら夢。眠り続ければ現。世迷い言とは僕らの言葉だ。あやふやにそのあたり漂っている。時間がないのに、おかしいな。
より深いぼんやりを求めて、悪口ばかりを考える。そして戦う。今さらの告白にたじろいだり、その気持ちにつけ込んで踊らせたりする、そういう映画を背中に浴びて、一つ一つ丁寧に人を傷つけていく。ざっくりと、乾いた傷口を、永遠に。
指でより分けるとすぐ分かる。この人は意地悪だ。この人は戦争の絵を描いたことがある。この人の鼻歌は手が込んでいる。夕方近くに発光を始める、新手の蛍。裸のまま漫画読んでお茶すする美しい人。
夢のまま、夢のままと願っても、忍びこんでくる現実感に、儚さを思います。遅延している。哀願している。信頼している。夏の香り。
いつになれば僕は安心して浴衣を着られる。
2010/04/14 友人が泣いているので
慰めにいってくるよ
2010/04/13 ほうかごのこうえん
高校の時に書いた『ほうかごのこうえん』ってお芝居の台本を見つけて、読んでみた。同級生と二人だけで脚本書いて、演出して、練習して、舞台に上げた、思い出の作品。ほとんど二日くらいで作り上げた拙い作品だったけど、個人的にはかなり好き。台本読んでるとニヤニヤしてくる。
また芝居やりたいなーとはずっと思っていて、でももう無理だなーとか思ってたんだけど、『ほうかごのこうえん』を読んで、「人間が二人いれば芝居はできるんだ」ということを思い出した。(もちろん一人でもできるんだけど。)
付き合ってくれる相手がいて、発表場所さえあれば、またああいうことがやりたい。なんだったら無銘喫茶の二階で、五人くらい友達呼んでやるだけでもいいや。三日くらいあったら二十分くらいの芝居が作れるってのは、高校のころに証明したわけだし。拙くてもいいのなら。
というわけで一緒に芝居やってくれる人いませんかね? まあ、いないよね。
お芝居って楽しいんだけど、それを知っている人ってのは意外といない。
淋しいことであるなあ。
演劇って、なんだか大げさなことのように思えるけど、テキトーに台本書いて、テキトーに練習して、テキトーに上演するだけで、できちゃうんだよね。その気のある人間が何人かいて、それを見て楽しんでくれる人がいるのなら。お芝居ってもしかしたら、もっと気楽にやっていいもんなんじゃないかなあ。そんなに気合い入れて、大がかりなセットを作ったり、凝った演出を考えなくても、人間が舞台に立って、セリフを言って、動いているだけで、充分面白いんだよね。やる方も、観るほうも。二〇分くらいの短いお芝居を、酒でも飲みながら、わっはっはって観てもらう感じのを、不定期的にでもやりたいもんだ。
手始めに、『ほうかごのこうえん』でも再演したいなと思うんだけど、周りには意外と演劇人がいない。いや、あんまり芝居のできすぎる人だと本格的になってしまいそうだから、「高校のときに文化祭で演劇やって、楽しかった」くらいの温度の人が、ちょうどいいんだけどな。ふっふ。
ただ問題は、『ほうかごのこうえん』の上演条件として、「必ず“放課後”に“公演”すること」ってのがあるんだよなあ。それがいちばん、難しいのかも。けど、時間帯を放課後にあたる頃(平日夕方か、土曜日の午後でもいいや)にして、公演場所を公園にすれば、充分成立するかもしれない。相手さえいたら、やりたいが、当時の相棒は現在大阪に住んでいるので難しいのであった。
2010/04/12 死神くん
えんどコイチ先生の『死神くん』を真顔で読めるような女の子とだけは結婚したくない。
僕の倫理観やあらゆる人間らしい部分は『ドラえもん』や『死神くん』によって育まれたのかもしれない(もちろん他にも、岡田淳先生の作品とか、いろいろあるのだが)。思春期のある時季には横道に逸れてしまったことだってあったかもしれないが、結局はここに戻ってきている。もう十年以上読んでいなかったかもしれない『死神くん』を今読み返してみて、ほとんどのエピソードをほぼ完璧に覚えていたことに驚いた。小学生の頃、あるいは中学生くらいまでの間に、数え切れないくらい読み返していたのだと思う。
詳しい説明は省くが『死神くん』はとても良い漫画だ。だらだらと涙を流し、顔をくしゃくしゃにして、時には嗚咽すらして泣いてしまう。それは、この作品がとても悲しい作品だからだ。人の死を扱っているから悲しいのではない。「人間はどうあるべきか」ということを考えさせられて、悲しくなる。
理想とは常に現実から遠いところにあるものだから、「理想」を目の当たりにすると、悲しくなる。美しい物語を読んで泣いてしまうような自分の状況に対して、なんだか絶望したような気持ちになる。美しい物語に描かれているのは、本来は「当たり前」であるべきようなことで、殊更に感動するようなことではない、はず。当たり前に、ありふれているべきようなものだ。
別に『死神くん』に限った話ではなく、そう思う。
まあそんなことはどうでもいいとして、『死神くん』がなかったら僕は、もっとずっと邪悪な人間だったかもしれない。人と人とがどのように許しあい、信じあい、愛しあっていくべきかということを、僕はおそらくこの作品から学んだ。小学校の頃から、読み返すたびにだらだら涙を流していたのを覚えている。「子どもは感動なんかしない。感動は、目の濁った大人のすることだ」と敬愛する脚本家の浦沢義雄先生は言ったが、僕はたぶん小学校に入った頃にはすでに目が濁っていたのだと思う。濁っているからこそ、涙でその濁りを洗い流さなければならないのである。大人は。僕はきっとそういう意味では、大人になるのが早かった。別の意味じゃ、まだまだ子どもだが。
僕は小さいころは、あんまり人と付き合うのが上手じゃなかった。親や兄弟とでさえ、うまく付き合うことができていなかったように思うし、学校でもだいたい孤立していた。だから僕が何から人間関係を学んだのかといえば、主に漫画だった。漫画と、児童書。十歳までに僕が読んできた漫画や児童書は、今でも僕の中に息づいている。僕は「人生は十歳までの読書経験で決まる」なんてことを堂々と言ってしまうような人間なのだが、それは単に自分のこれまでの人生をふり返って言っているだけだ。実際は、豊かな人間関係の中で生きてきた人なら、「読書」なんつうもんは必要ないのかもしれない。だがそれは僕にはよくわからないことだ。
思春期の頃は、「自分の好きな漫画や本(つまり、人間の理想の在り方)」と「現実の自分自身」とのギャップに悩んだこともあったけど、最近はだんだん、「自分」を「理想」に近づけることができているかもしれない。言い換えれば、漫画みたいな人間になってきたということで、「ジャッキーさんって漫画みたいな人生を送ってるんですね」などと言われるのは、さもありなんというわけだ。
幼い頃に身体の中に叩き込んだものたちは、決して死することなく、僕の中に生き続けている。三重野瞳の歌で、「コアにあるのは子どもの頃の正しいこと」なんて歌詞がある(『Wonderful Bravo!』)けど、まったくその通り。僕の核心にあるのは、子どものころに「これが正しい」と思っていたことで、十歳を過ぎてから身につけたものはすべて「装飾」に過ぎない。僕の中に絶対的なものとして生きているのは、『ドラえもん』とか『死神くん』なのである。
やや下卑た話だが、僕はみかん(婉曲的表現。とよ田みのる『ラブロマ』より)をする時には必ず避妊をするのである。「避妊するくらいなら、そもそもみかんなんかすんなよ」という意見もあるが、僕も若い男だった時期がある(今だって若い男である)ので、してしまうのである。世の中にはろくに避妊もせずに事に及ぶ豚のような男がいるらしいが、僕は「せめて」避妊くらいはする。それはなぜかと言えば、どうやら『死神くん』の第三話「赤ちゃん狂詩曲(ベビー・ラプソディ)」という回を読んでいたせいであろう、ということがこの度、わかった。
別に、そこに具体的に描かれていることをそのまま「正しい」としているわけではなくて、それを読んだことによって、幼い頃から「性」とか「子ども」とかいうものについて考えるための土壌ができていたということである。『死神くん』には、「親子」を描いた話が数多くあって、子どもを作るとは、育てるとはどういうことかということが様々に描かれている。それだから、僕は幼い頃から人一倍そのことを考えていた、と思う。
『ドラえもん』はともかく、『死神くん』はもう役目を終えてしまったのかもしれない。もちろん僕は、『死神くん』を今の子供たちにも読ませたい。が、時代の流れは残酷で、『死神くん』は現在、一般書店で気軽に購入できるような状況にはない。いちばん新しい版である文庫版もアマゾンではプレミアがついていて、後半の巻は一冊2000円近くする。(ヤフオクならもっと安く買えるので、興味ある方は検索してみてください。損はさせません。)
それで僕はまた絶望するのだが、どっこい、まだまだ僕らにはとよ田みのる先生がいるのだ。『友達100人できるかな』が絶版になるまでは、希望を捨てないでがんばれる。「子供に読んでほしい」と心から思える作品はあんまりないが、とよ田先生の作品は格別、素晴らしい。10歳までに読んでいたら、その子にとってきっと心の中に永遠に住み続けるほど大切なものになる。10歳といわず、15歳でも、20歳過ぎてからでもいいんだが、できるならば若いうちに読んで、何があってもそこに帰ってこられるような、心の故郷のような作品にしてほしい。
僕にとってはそれが『死神くん』だったのだという話。
みなさんにとって、そういう作品は、あるいは「出会い」は、ありますか?
2010/04/11 弟子を褒める
真夜中なので弟子を褒めよう。
僕には弟子らしい弟子がなんと一人いる。僕がはっきりと「こいつは弟子である」と言えるのはそいつだけである。そいつは僕の弟子を自称し、僕のことを師匠または先生と呼び、僕もそういったことを拒否しない。通常は、弟子だ師匠だと言われたら「やめてくれ」ってなるんだけど、そいつだけは別なのだ。
なぜならば、そいつは僕の背中を見て勝手に確実に成長しているからである。その成長が本当に「僕の背中」によるものなのかは知らんが、少なくとも師匠たる僕はそう思う。そうとしか思えないような伸び方をしている。
僕はそいつに対して本当に何もしていない。ただ「いる」だけである。何かを教えたというような記憶はない。それなのにそいつが僕のことを師と呼び続けるということは、きっと自身も「僕の背中」というものに心当たりがあるのだろう。すると事実上師弟関係は成立してしまって、そのことを否定できなくなる。
正直言って、自分より年下の人間に脅威を感じたのは初めてかもしれない。「すごい」とか「天才だ」とかいう驚嘆ではない。そんなもんだったらいくらでもある。浅田真央はすごい。天才だ。
「脅威」というのは、そいつが僕のいる方向へまっしぐらに向かってくるからである。かといってそいつが僕にとても似ているというわけでもない。とにかく「こちらへ向かってくる」のである。そんなやつはこれまで、いなかった。僕のことを好きになってくれる年下の友達はみな、僕に対して一目を置きつつも、同時に「距離」も置いていた。件の弟子は、ちょっと違う。迫ってくるのである。
それは別に、そいつが僕のことを好きすぎてストーカーされてて怖いとかそういうんではない。脅威なのは、僕がいつか師匠ではいられなくなってしまうかもしれないということである。成長スピードが速すぎて、僕のほうが置いて行かれてしまうんじゃないか、ということだ。「飽きる」でも「見切る」でも「増長する」でもなく、「必要がなくなる」という未来が怖いのだ。
だが、弟子から必要とされなくなるというのは、本当は喜ばしいことなのかもしれない。そうなったら是非師弟関係は解消させてもらって、いい友人にでもなりたいものだ。
2010/04/10
さて、来月出す同人誌のカバー入稿までちょうど一ヶ月となったので、ここらで重い腰を上げて作業を始めよう。これを書いたらもうしばらく文庫はやらない。売れたらやる。あまりにもお金がかかりすぎる。
ところで僕は四月から大学生であるので、昨日学生証を取りに行って来ました。期間限定でチャット(Twitter)にでも貼り付けておきますので、興味ある人は見てください。わざわざ学ラン着て写りました。
ハートキャッチプリキュア!パンのシールですが、順調に集まっております。
光が丘のダイエーと、カネヒロ井草店にあることが発覚したので。
2 キュアマリン
4 来海えりか
5 シプレ&コフレ
6 キュアブロッサム&キュアマリン&シプレ&コフレ
8 来海えりか&キュアマリン
9 花咲つぼみ&シプレ
10 来海えりか&コフレ
11 キュアブロッサム
12 キュアマリン
12 キュアマリン
14 来海えりか&コフレ
16 キュアマリン
16 キュアマリン
16 キュアマリン
16 キュアマリン
17 花咲つぼみ&シプレ
17 花咲つぼみ&シプレ
18 来海えりか&コフレ
20 キュアブロッサム&キュアマリン&シプレ&コフレ
20 キュアブロッサム&キュアマリン&シプレ&コフレ
20個買ってダブりが6枚なので、あと6種類でコンプリート!
かと思っていたら、どうやらそうでもないようだ。
ついさっき、21個目を買ってシールを開けてみたら、なんと「25」という未知の番号が現れたんである。
パッケージには相変わらず「20種類」と書いてあるが、おそらく途中で種類が増えたのであろう。最悪の場合完全にバージョンチェンジして1~20番が手に入らなくなるかも知れないので、ちょっと急がなければ。
みなさん応援お願いします。
え? なんでそんなに必死に集めているのかって?
楽しいからだよ!
なかなか売ってない、売っていてもいつその店からなくなるかわからない、苦労して買っても何が出るかわからない、というところがね、コレクター心をくすぐるのであることよ。
2010/04/09 人生はうまくいかない
「うまくいかないな」と自覚しつつ、「うまくいくといいな」と思いながら、うまくいかないことを受け入れていくのが、人生というもので、「なんでうまくいかねえんだよ」とか「うまくいくためにはどうすればいいんだ」と藻掻くのも、それもまた人生であるが、「うまくいかないのはおかしい」とか「うまくいかないのは○○のせいだ」とか「うまくいくためにはどうすればいいんですか?」とか、に、なると、ちょっと、あんまり、ねえ。
2010/04/08 Crazy×12-3=me
僕は自分の大切にしたい領域を侵されたくはない。
嫌なことは「嫌だ」と言わねばなるまいが、
利害を考えると「言わないほうがいいだろう」ということもある。
ので黙っていることも多い。
「踏み込みたい」と思っている人と、
「踏み込まれたくない」と思っている人がいれば、
両者の納得するような状態というのは得られにくい。
「踏み込みたい」と思っている人は、「侵す=犯す」立場であるのだから、
慎重に事を運ばなければならない。
無理矢理にそれをするならば、強姦するみたいなもんだ。
痴漢と言ってもいいかもしれない。
誰だって痴漢などされたくはない。そういう性癖でもなければ。
好きな人には触られたっていいが、そうでない人にはされたくない。
だから本当は「嫌だ」と声を出さなければならないのだが、様々な状況や要因があって、「その場は我慢する」ということを多くの女の子はする。
相手にその気がないのに、ずかずかとその相手の中に踏み込んでいこうとするのは、精神的に痴漢である。
「痴漢したい」という欲望は、多くの男の中にある。しかし理性によって衝動は抑えられる。「恋人といちゃいちゃする」とか、「自分で処理する」とか、「風俗に行く」とか、そういうことをして、痴漢の欲望を押さえ込む。
そういうことができるのが、立派な大人ってもんなんだろう。
女の子の身体に触りたければ、「それを許してくれる相手」とすればいい。そのほうが精神的にもずっと心地よい。無理矢理する必要など本当はない。
人間関係の話でも同じで、「仲良くなりたい」と思っても、相手にその気がないのなら、その気持ちはある程度抑え込まなければならない。でなければストーカーのようになってしまう。
「相手にその気があるのかないのか」という、微妙な距離感をはかるのは、難しい。それが掴みづらい相手もいる。ただ、掴みづらいからって、それを相手のせいにしてはいけないと思う。
女の子の身体を気楽に触りまくる男ってのがいるけれども、彼としては「別に相手が嫌がっていないからいいじゃないか」なのだろう。しかし、相手が嫌がっていないかどうかなんて実際のところよくわからんのだし、嫌がってなければいいのだという問題でもない。
「嫌じゃないけど、迷惑」ということだっていくらでもあるし、僕が思うには「嫌じゃないし、迷惑でもないけど、してほしいわけではない」という場合が圧倒的に多いように思う。「あいつは男に気軽に身体を触らせる女だ」というイメージだってつくかもしれないのであって、それをもし当人が気にしないのだとしても、「自分はあの女の子にそういうイメージを纏わせてしまったのだ」ということは反省してもいいんじゃないかね。
そういうように、けっこう難しいのだ。この「微妙な距離感」っていうものは。だからこそ、女の子の身体に触れるという行為は慎重に行われなければならない。また、「相手の心の中に土足で踏み込んでいく」という行為も同様に。
僕は相当に信頼している相手でなければ本音を話すことはないし、「信頼」にも種類があって、言えること、言えないことは相手によって様々であるので、正直言って、一方的に「心を開く」を求められたって困るのである。
ゆっくりと、ポリネシアンセックスのように関係を温めていけばよいと思うのだが、人は、どうしてそんなに急いでしまうのだろう。
「このままじゃ温まらない」と思って、焦るのだろうな。気持ちはわかる。
でも、そんなもんじゃないか、っていう納得をどこかでしないと、自分も相手も辛いだけだと思うんだけどね。理屈じゃないのだろうね。
2010/04/07 女性専用車で痴漢が増える
女性専用車を作る→女性専用車では原則痴漢が起こらない
というのはひとまず前提としておこう。
ところが、
女性専用車を作る→普通車で痴漢が同じくらいかもしくはそれ以上報告される
ということがどうやら、あるのである。
JR中央線(都内)が証明してしまったらしい。
単純に考えて、女性専用車に乗った女性は痴漢に遭わない。
ところが、女性専用車に乗らなかった女性は痴漢に遭うのである。
女性専用車へ女性客が移れば、普通車に乗っている女性の割合がそのぶん減るわけだから、普通車に乗っている女性が痴漢に遭う確率はむしろ増すだろう。
全体の痴漢行為自体が仮に減ったとしても、「痴漢があった」として報告される数は、むしろ増加するかもしれない。女性専用車の導入によって普通車における女性の割合が減って、「同じ人ばかりが高頻度で痴漢に遭う」ということになれば、「この人痴漢です」とか「私は痴漢に遭いました」とかいう「報告」が増えるのは、至極当然のことなのだ。月に一回しか痴漢に遭わない人は、「まあいいか、これを我慢すればまた一月は安全だ」と思えるが、毎日痴漢に遭う人はそんなふうに我慢することはできないから、「痴漢です」と報告する。毎日遭うということは、「いつも触ってくる痴漢」が固定されてくるということにもなるから、確信を持って「この人痴漢です」が言いやすくなる。
あるいは、痴漢の側から見ても、「女性専用車に乗らないということは、痴漢に遭う覚悟もある程度はできているのだろう」ということにもなる。それは確かにその通りで、「女性専用車に乗る女性」というのは基本的に「痴漢(または男性と密着すること)を過度に気にしている」からそうするわけで、「女性専用車に乗らない女性」というのはそれをあんまり気にしていないから、そうしているのである。そこにつけこんで、痴漢というのが起こる。
だから、痴漢を撲滅するのは実は難しくない。女性が全員、女性専用車に乗ればいいのである。女性専用車が普通車以上の混雑を見せるようになれば、女性専用車の車両数が増えるかもしれない。そうすると事実上ラッシュ時は「男性と女性が列車の中で住み分けられる」が起こるのではないか。
ただ実際のところ、「面倒くさい」とか「恥ずかしい」とか、「女性専用車の雰囲気が嫌だ」とかいう理由で、女性専用車に乗ることを渋る女性は少なからずいる。その気持ちもわかりすぎるほどわかるのだが、そういう女性が痴漢に遭っているのだ。初めは「月に一回くらいだし、私は痴漢を気にしない」と思って普通車に乗っていた女性も、毎日のように度重なって被害に遭えば、ついに「この人痴漢です」を言うようになる。それまでに「やっぱり女性専用車に乗ろう」という発想がどこかで出てくればいいのだが、どうもそういうことには、あんまりならないらしい。
思想的に、というか、理屈で言うならば、痴漢を少しでも気にしてしまう女性は、「女性専用車に乗る」をするべきなのである。「痴漢を撲滅したい」「撲滅すべき」という思想があるのならば、中途半端な女性専用車の利用はむしろ逆効果ですらある。「乗る人は乗るし、乗らない人は乗らない」では、「痴漢格差」を生み出すだけだ。では「女性と男性を完全に住み分ける」をするべきなのか? それでは家族連れや、カップルや、友達同士のグループはどうなる? いたずらに社会の自由度を下げてしまっていいのか? だから、鉄道会社はそんなことできない。乗客は「自分の意志」でそれをしなければならないのだ。
「自分の意志で自然に住み分ける」ということを、「思想として」しなければ、いつまで経っても痴漢はなくならない。ラッシュ電車の中で今起こっていることというのは、「痴漢の数だけは減らないで、女性の数だけが減っている」ということで、言い換えれば「女性一人あたりについての痴漢の数が増えている」ということだ。痴漢の数が減らない以上、女性の母数をゼロにしなければ、痴漢行為はなくなりはしない。ゼロにならない限りは、「女性専用車に乗る女性の数」に比例して「普通車に乗る女性が痴漢に遭う回数」が増えていくだけなのである。
2010/04/06 記念の光
というタイトルの詩を、あの日の翌日に書いたのを覚えている。
九月五日の朝だった。
「記念の光」という言葉の意味は、よくわからない。
何か前向きなことがあったのだろう。
記念になるような出来事があって、そのことがまばゆいほどに美しかった。
記念の光。
そういえば『ディスコミュニケーション』という漫画の第十一巻に「天使が朝来る」という話があって、男の子と女の子がキスをした瞬間に空から天使たちが降りてきて二人を撃ち殺す、という場面があった。
それはとても残酷で、しかし限りなく美しいシーン。
空から降りてくる、無数の天使たちの光。
撃ち殺された二人の、身体の内側から湧き出してくる光。
「輝きだした僕らを誰が止めることなどできるだろう」というのが浜崎あゆみの『Boys&Girls』という曲の歌詞にあったけど、たぶんそれこそが、記念の光。
もう後戻りはできない。
それがゆえに悲しくて、それがゆえに幸せであり、それがゆえに何かを信じ続けなければいけないという意志を、生まれて初めて本当に手にするような瞬間。
「生まれて初めて女であることの意味をなぞってみる
生まれて初めて人生は平等かそうじゃないか考えてる」
橋本治は『青空人生相談所』で、「人生には当りはずれがございます。そして、人生とは、そのはずれくじを引いてしまった人間が、そのことを結果としてひっくり返してしまう為にあるのです。」と書いていた。(P181)
人生のスタート地点はきっと、あらゆる意味で平等ではない。
でこぼこしている。
金持ちだが容姿に恵まれなかった人もいれば、その逆もある。
しかし人間は意志の力で、すべてをひっくり返すことができる。
それだけが人生の醍醐味であると言っていい。いや、それだけが人生の意味なのだとすら、言ってしまってもいいだろう。
生まれつきの金持ちが不幸になり、生まれつき容姿に恵まれなかった人が幸せになってしま「える」のが、人生というものなのだ。きっと。
永遠に手が届かないと思っていたものを、意志の力で引き寄せてしまう。
自分のことなんか好きになってくれないだろうと何年も思っていた、憧れの男の人と、気付いたらいつの間にか幸せな生活を送っていた。
「そんなことはあり得ない」「私の場合は絶対にない」と、そういう場合もあるだろう。確かに僕はそのことを否定しない。
それは人生のごく早い段階で、そのようになるための「ルート」を外れてしまったということなのかもしれない。
過去のある時点に重要な「分岐」があって、その軌道を今さら修正することは非常に難しいというような。
異なった「ルート」の上にあるものを望むことを「高望み」と言う。
「高望み」ではない限り、すべてのことは実現させられる。「憧れの男の人と結婚する」は高望みでも、「憧れの男の人と友達になる」は高望みではない、かもしれない。
「そんなの悲しいじゃないか」という声もある。
「私はあの人と結婚がしたいんだ」
それは諦めるしかないのかもしれないし、あるいは、それを「高望み」ではなくしてしまうことは、本当は不可能ではないのかもしれない。
ただ、生半可な努力では、それを掴むことはできないだろう。
その上で、そのような運を、巡り合わせを、釣りのように静かに待っていなければいけない。ひょっとしたら、永遠とも思えるような長い時間を。
百年かかるかもしれないし、二百年かかるかもしれない。
そのことを容易く、ほんの半年や一年ほどで実現してしまう人を横目に見ながら、歯ぎしりして、ただひたすらに待つ。
「その途中で死んでしまうかもしれない」という覚悟を抱きながら。
恐ろしいことだと思うが、それをする人だってたぶんたくさんいる。
それが幸せであるかどうかの判断は客観的にはできないし、たぶん主観的にもできないだろう。「そのようであってしまう」というだけだ、おそらくは。
信じるということ、意志を持ち続けるということの恐ろしさはこれだ。
一方には、ものの数分で巡り来た運を何気なく掴んで、そのまま幸せになってしまうような人もいて、「人生は平等かそうじゃないか」という問題はここに立ち現れる。
巨大な意志の力によって、心からの幸せを掴んだ女の子が、「人生は平等だ」と呟いたのを僕は本当に美しいと思った。
記念の光。
2010/04/06 釣りバカ日誌ディスってんの?
『釣りバカ日誌』77巻を買った。今どきほぼすべてのページを五段に分けて一コマ一コマ丁寧に人物を書き入れていくような漫画を描く人は北見けんいち先生くらいだろう。ちなみに『ドラえもん』はだいたい三~四段くらいに区切られていて、それでも今の漫画と比べればコマの細かい印象があるのだが、『釣りバカ日誌』はそれ以上ということだ。
五段ということは、一ページあたり平均して十コマくらい(たぶん正確には九コマくらいになると思う)入っている。一ページに十コマというのは極端に多いわけではないが、これをかりに「平均値」と考えると「極端に多い」と言えるだろう。例えばちょうど手元にあった岩明均先生の『ヒストリエ』五巻でいうと、多いときは八コマくらい入っているのだが、少ないときは〇.五コマ(見開き)で、平均すれば五コマを平気で下回るかもしれない。ちなみに『釣りバカ日誌』77巻は、多ければ十三コマくらいは違和感なく入ってしまっているのである。
2010/04/05 二十面相のおじさん箴言集
チコは私が盗みだした宝物だ ずっとここに居なくちゃいけない
宝物も磨かないと曇るからね ここの本を毎日読む事
勉強は好きです
読書は勉強じゃないよ ただ 楽しむだけさ
人間には犬も豚も居るんだよチコ
本から学ぼうなどと思っては犬にされてしまう
本も読まないようでは豚になる
仲間達も色々な事を教えてくれるだろう
世の中には正しい答えというものは無い
間違った答えというものも無い
知っている中から選ぶだけさ
自分で見て
自分で聞いて
自分で考える
これ以外に何かを成す方法はない
以上、小原愼司『二十面相の娘』一巻より。すべて二十面相のせりふ(相づちはチコ)。読書についてのせりふは、僕がこれまでに触れてきたどんな読書論よりも素晴らしいと思っている……この日記にも何度引用したかわかんないくらい。
僕には宝物がある。それはほとんど盗みだしたようにして手に入れたものだ。ルパンはクラリスのとんでもないものを盗んでいったわけだが、それと同じように僕もとんでもないものを盗んでしまった。「盗んでしまったからにはもう自分の所有物なんだから責任を持とう」というのが二十面相の発想であり、「盗んだものなんだから別に責任を取らなくてもいい」というのがルパン三世である。ルパンはクラリスのとんでもないものを盗んでそのまま逃げてしまうが、二十面相はチコを、犬でも豚でもない素敵な人間に育て上げようとする。そこが断然違うところで、僕は同じ盗むなら二十面相のようでありたい。ルパンはクラリスの心だけを盗んでいったわけだが、二十面相はチコの全て、チコの人生そのものを盗んでしまったのだ。
犬は、「従順な犬」という表現があるように、躾けられた通りの思考や行動しかできない。本に書いてあることをそのまま鵜呑みにして恥じぬ、「自分で考える」という能力のまったく欠落した人間だ。豚は何も考えないでただ飯を食い、惰眠を貪り、欲望の赴くままに生きていくことしかできない、自分の利益だけをひたすらに追求しようとする人間だ。
僕は犬や豚を盗んできてエサをやってだらだらと育てていくような愚は犯したくない。「本」を求めてすり寄ってくる犬も、「快楽」を求めてなついてくる豚も、一様に嫌いだ。「正しい答え」を他人の言葉に求めようとしたり、「選ぶ」という行為を蔑ろにして欲にのみ従おうとする、犬や豚のような人間を軽蔑する。
世の中には犬と豚の合いの子みたいな、希有に醜悪な人間もいる。僕は自分の盗んできた宝物を、そのように曇らせてしまいたくはない。だから漫画だって本だって素敵なものをたくさん読んで、色々な人と出会い、色々なことを経験して、さまざまなことをさまざまに考えてほしいと願うし、何千時間でも何万時間でも時間を費やして話をしたいと思う。
そういうふうに考える人間が、本来は教員になるべきなのだろうけれども、実際の教育というものは「犬」を量産するためのベルトコンベアみたいなものであって、コンベアからこぼれ落ちた人間は「豚」になるしかない。
こういう現状に対して一人の人間にできることなどなにもない。それを知っているから、正しい少年漫画は、あるいは正しい子供向けアニメは、「力を合わせて立ち向かう」ということばっかりをひたすらに教えているのだと思う。
それなのにどうして? と僕は毎日思う。
2010/04/04 利己的な遺伝子
僕は幾つかの狂気を潜り
人格を操作する術を覚えた
君は許される範囲の中で
その時重なり合う僕を愛してればいい
(PIERROT『利己的な遺伝子』)
えー、この曲は本文とあんまり関係ありません。
いい曲だと思います。
小沢健二さんによる『うさぎ!』という物語の、割と大きなテーマとしてたぶん、「他の人を助けたり、他の人と仲良くすると、気持ちが良くなる」というのがあります。これは人間が本来持っている性質のようなもので、こういうことを考えるのは人間としてごく自然なことです。これを絡めて「利己的」ということについて考えてみます。
一般的に「利己的」と言えば、「自らの個人的な利益」だけを大切にして、他人の利益(快楽、欲望、欲求など)をないがしろにしたり、二の次にすることを言うのだと思います。
「他の人を助けたり~」というのも、「気持ちが良くなる」という自らの個人的な利益のために、他人に利益や快楽を与えようというのですから、これも利己的といえば利己的なのかもしれませんが、不思議なことにこれにはあんまり邪悪な気配がせず、一般的にはあんまりこういうのを「利己的」とは言いません。
「他の人を助けたり、他の人と仲良くすると、気持ちが良くなる」ということ“以外の”利益を求めようとして、他人に媚びへつらったりするようなことは、なんだか邪悪で、これは「利己的」という範疇に入れてしまって良いでしょう。
僕は、当たり前のようなことを言いますが、こういった意味で「利己的」な人間を軽蔑します。下らない人間だと決めつけます。もちろん、誰にだってそういう面はあります。ありますが、そういった利己的な発想を我慢したり、遠慮したりするというのが、たぶん「大人」というものなのだろうと思います。そうでなく、あからさまに態度に出したり、隠してるつもりでも尻が見えていたり、冗談めかしたり茶化したりして誤魔化そうとするようなことは、非常に邪悪なことだと思います。僕はそういったことをついついしてしまったことに後で気づくと、本当に恥ずかしい気分でいっぱいになって、しばらく落ちこんでしまいます。
一度や二度、そのようなことを誰かがしているのを見たって、「まあ、僕にもあるし」で済むのですが、それが度重なれば、「ああ、利己的な人だな」ということになります。
先日そのようなことを友達と話していて、わかりやすい例としてたこ焼きの話が出て来たので書きます。
四個300円のたこ焼きを一人で食べる(A)のと、
六個300円のたこ焼きを二人で三個ずつ分けて食べる(B)のと、
どちらが気持ちよいか、という話です。
お金を出すのは全額自分だと考えてください。
Aの場合は、たこ焼き一個あたり75円で、四個食べられます。
Bの場合は、たこ焼き一個あたり100円で、三個しか食べられません。
Bは、一個あたり50円ではありません。300円出して、三個しか食べられないのだから、一個100円なのです。残り三つは人にあげます。
AとBとでは、どちらがより気持ちいいのでしょうか?
「誰にあげるかによって、話は変わってくる」という問題はもちろんありますが、ここではひとまずおいといて、単純化して考えましょう。
どう考えても、Bのほうが損です。
Aは、たこ焼き一個あたりの値段が安くて、たくさん食べられて、それなのにBと値段が同じなのです。Aのほうがお得です。
ところが人間は、まあ、少なくとも少年漫画の主人公(や、その友達)のような性質の人ならば、きっとBを選ぶのです。
それが、「他の人を助けたり、他の人と仲良くすると、気持ちが良くなる」というやつです。正しい少年漫画は必ず、こういう価値観に則っています。
正しい少年漫画というのは、「人間本来の在り方」を描くものです。そういうものだと僕は思っています。だからこそ、子供が読むべきものになるのです。
僕の友達は、幸いなことにBを選ぶ人が多いように思います。
Aを選ぶ人はあんまりいないと思います。
というか、僕は正しい少年漫画を心の底から愛し続けて育ってきた人間なので、Aを選ぶような人と友達になりたくはないし、きっと友達になれません。
ここで保留していた「誰にあげるか」という問題に戻って、これを「友達にあげる」と考えたらどうでしょう? 誰だってBを選ぶように思います。僕はそう信じています。そうだとすると、Aを選ぶような人は、一人も友達がいないということになります。このりくつ、わかりますか?
「友達にあげるんなら、誰だってBを選ぶよ。友達ってのはそういうもんだ」という前提があるとしたら、友達がいる人は、絶対にBを選ぶはずなのです。ここでAを選ぶのだとしたら、「友達が一人もいない」としか考えられません。
さて今日は、まあ今日じゃなくても、昨日でも一昨日でもいいんですが、僕は友達と会っていました。その友達は美しい心根を持った(と僕は思っている)相手で、一緒に桜なんか見ながら「きれいだね」とか言っていました。
「他の人を助けたり、他の人と仲良くすると、気持ちが良くなる」という前提を彼は、あるいは彼女は、持っているんだろうか? と僕は今ふと考えてみました。そんなことは実際知りえませんが、友達として一緒にいるということは、お互いにそういう前提を持っていなければ決してできないことなんだろうと思って、納得することにしました。
2010/04/03 御苑花見→プリキュアオールナイト
2010/04/02 身体と漫画だけの関係
がんがんやって 早くあきてね
がんがんやって 早くあきてね
がんがんやって 早くあきてね
がんがんやって! 一緒のスピードで 早くあきてね
身体と漫画だけの関係にしよう
身体と漫画だけの関係にしよう
なによりも大事な関係でいたい
僕らの身体と僕らの漫画だけの関係にしよう しようね!
毎晩やって 早くあきてね
朝晩やって 早くあきてね
あたしの身体に 早くあきてね
がんがんやって! 一緒のスピードで 早くあきてね
身体と漫画だけの関係でいよう
身体と漫画だけの関係でいよう
なによりもステキな関係でしたい
僕らの身体と僕らの漫画だけの関係でしよう しようね!
漫画だけがのこる
漫画だけがのこる
ステキな僕らのステキな漫画だけがそこにのこる!
僕が幸福を感じる瞬間というのは主にふたつ。
好きな女の子とがんがんやってるときと、
好きな漫画を読んでいるときである。
例えば今月の『友達100人できるかな』(とよ田みのる、アフタヌーン連載)を読んだとき僕は幸せだった。
この一年は毎月ほぼ例外なく「今月も友100が読めてよかった。僕は幸せだ。もう少し生きよう」なんてことを思っている。もう本当に、面白い、愛すべき漫画を読んでいるときの幸福感というのは何にも代え難い。それはもう実に愛に満ちた性交あるいは性交類似行為に比肩する。
僕がこれまで読んできたあらゆる漫画の中で、最も幸せな性交が描かれた作品はゴージャス宝田先生の『キャノン先生トばしすぎ!』であり、次点はとよ田みのる先生の『ラブロマ』なのだが、ああいった全身全霊の幸福感に匹敵するほどの幸せが、漫画を読んでいると時に訪れる。
好きな女の子と漫画、これを越えられるものなんかない。せいぜいお父さんとお母さんくらいだ。お米でさえ若干見劣りする。
(参考文献:ハイポジ『
身体と歌だけの関係』)
2010/04/01 ハッピーエイプリルフール
それにしても、あまりにも美しいものを目の当たりにすると、心がどうにかなってしまいそうになりますね。
桜しかり。
かわいい女の子しかりです。
下心を我慢するのは、遠慮するのは大変です。
が、それをするのが大人というものなのです!
桜があまりにも綺麗であっては、そのようなことも言ってられなくなるのかもしれません。が、僕も若くないので、いつまでも桜のせいになどしてはいられぬ。きっとそういった意味では「大人」にならねばなりません。でなければ、セクハラ教師とか、痴漢のおやじとか、強姦魔とか、数股かけちゃう色男とか、そういう人たちと同じような邪悪に染まってしまいかねません。
美しさを言い訳にしてはいかんです。邪悪です。
美しい女の子がいたら、抱きしめちゃうのか! という問題です。
太陽がまぶしかったから人を殺したみたいな、気狂いです。
ところで『美しさ(さよならなんて云えないよ)』というのは本当にいい曲ですねえ。うっとりします。
じっくり聴いてください。「青い空が輝く太陽と海のあいだ」という歌詞だけで一時間くらい語れるような清談の相手を募集します。
過去ログ
2010年3月
2010年4月
2010年5月
TOP