少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2010/5/31 後妻五歳交際ゴーサイン
偉大なる肌。
もう随分と誰かに抱かれることもなく、肌の温もりを忘れてしまった貴女。
久しぶりに誰かに抱かれても、それを心地よいと感じられなくなってしまった貴女はどうして、そんなにも人間であることを辞めてしまったのでしょう。
いつから。
雨が降りまして。ずいぶんと降り続けまして。
貴女はその滴を肌の上に受けまして。
だらだらとメリハリもなく、古い牛乳のように。
ああ、何かそういう匂いがする。と。
あらゆる歴史に憎しみを覚えている。
あらゆる伝統の破壊を遠巻きに眺めながら微笑み、しかし切なくもなる。
若い頃には貴女も愛されていました。
歳を重ねるごとに貴女を愛してくれる人は減っていきます。
本当はそんなはずはないのですが、あなたの場合はそうなのです。
本当はそんなことはないのですが、そのように見えるのです。
永遠を信じられなくなったのは誰のせいだったでしょう。
これまでに信じてきたあらゆる人、あらゆるもの。
すべての純粋を、薄氷を踏むように。
現実、感覚を失って、夢の上を歩くように、砂つぶが素足にまとわりつくように。貴女は歩いている。長い長いと言いながら。辛い辛いと嘆きながら。シロップのように甘く、しかし手につくとねっとりと、余計な汚いものまで連れてくる。その上にそこに残る。残り続ける。誰の残滓ですか、それは。
涙の味を誰かに知ってほしいのに。
そのために流れる。
そういうはずのものなのに。
移動中の電車の中で、景色が流れる。
窓の外から流れ込んできた情報が、目の前に再構成される。
想い出があふれる。
一人きりの幻想に寒気を覚える。
ドアが開く。一歩踏み出す。無人島のような駅のホームに。
家までの一本道の途中で無数の嘘たちが誘惑してくる。
貴女はそのどれか一つをいつの間にか選んでいる。
明日からの生活はそのように穢れていくだろう。
貴女はそのように毎日を少しずつ、ずらしていくのだ。
ゆっくりと、ゆっくりと。
知らないうちにそして貴女は貴女でなくなり、いつかそっと恐怖する。
もう手遅れだ。
2010/5/29 握手とサイン
呉服の日でもあり強突張りの日でもあり、コニャックの日でもあるような今日は幸福の日である。それはそうと。
握手とかサインとかいうものは、人と人を分かつ。それを求めた瞬間に上下関係ができあがる。美しい握手とは、二人が思わず同時に手を差しのばして結ばれるもので、「握手してください」などという不自然な言葉で結ばれるべきものではない。ちなみに僕が最も美しいと思う握手は、映画『ザッツ・エンターテインメント2』のラストシーンでフレッド・アステアとジーン・ケリーが主題歌に合わせてダンスした後に無言のまま極上の笑顔で交わすそれだ。もちろん台本通りの進行なのだろうが、この握手に五十年間のMGMミュージカルのすべてが凝縮されていたと言ってもいい。
ある有名な人が、僕の友達に握手を求められて「いや、僕らは仲間だから」と断った。断るには断るで、とても勇気の要ることだったと思うが、僕はその人を本当に格好いいなと思った。確かに、仲間や友達には「握手してください」は言わない。するんなら、「思わず」する。「握手してください」を言った瞬間に、言った側は言われた側と仲間や友達であることを放棄することになる。「あなたは遠い人です。だから僕はあなたと仲良くなるつもりはありません。あなたは有名な人であって、だから僕はあなたを人間として尊重する気はありません」をわざわざ表明するだけのことだ。事情はサインでもだいたい同じで、「私はあなたのことを一段低いところから見上げています」と言うようなものだ。
考えすぎかもしれないが、でも実際に本当にそうだ。有名な人を見かけたら、用事がなくても「握手してください」や「サインしてください」を言えば会話することができる。これらの言葉は、それくらいに強引で、それくらいに意味がなくて、それくらいに無茶苦茶だ。
ナインティナインの二人は、プライベートで「(オールナイトニッポンの)ヘビーリスナーです」と言われると嬉しいらしい。たぶん、「握手してください」や「サインしてください」だと別に、それほど嬉しくないのだろうと思う。そこには何の意味もないから。「あ、有名な人だ」くらいの意味しかないから。「自分は有名な人と握手したぞ」とか「自分は好きな芸能人と握手したぞ」という思い出が相手の中に残るだけだから。求めるほうは良い思い出になるが、求められたほうは与えるだけだ。それは確かに有名人の仕事の一つでもあるのかもしれないが、人間は与えるばかりでは疲れてしまう。
「ヘビーリスナーです」は、それだけでけっこう大切なことを表せてしまう。「テレビで見てます」よりもずっと大切なことを。テレビは今や受動的なメディアで、ラジオは今や能動的なメディアだから、「わざわざラジオを聴いていて、しかも『ヘビーリスナー』という専門用語(ナイナイのオールナイトでの通常語彙)を知っている」ということが、「ああ、この人は本当に俺らのこと好きで、応援してくれてんねやな」と思わせる。そういう「ちょっと気の利いた一言」ってのが、有名な人にちょっとでも何かを「与える」。もちろん「握手してください」が何も与えないわけでもないが、しかしやはりこちらは上記のように「与えてください」にしかならない場合が多い。
僕は有名な人を変なふうに特別扱いしたくない。自分が好意を持っている人ならばなおさら。ナイナイのオールナイトをもう十数年聴き続けて、たびたび岡村さんが「失礼な一般人に会った話」とか「ラジオのリスナーは距離感の保ち方が心地良い」とかいう話をするので、身に染みついている。もしいつか岡村さんに偶然お会いしたらどうしようかと、十何年もずっと考え続けている。絶対に失礼のないようにしたい、と。
ところで、そんな僕も「絶対にサインなんかもらわない」というわけではなくて、「持参した/購入した著書にサインをもらう」というのは、けっこうする。とある本なんか、十数年にわたって、著者の方から何度もサインをもらっていて、もう書くところがなくなってしまうくらいだ。あと何度サインをいただけるだろうとワクワクしている。が、後悔がないわけではない。これをしている以上、僕とその作家さんの距離は縮まらないままだからだ。もちろん偶然急接近することだってあるんだろうが、僕のしていることは決して「縮めようとする行為」ではない。「サイン」という名目を使って、強引に彼のほうへ割り込んでいこうとしているだけだ。別に「縮まりたい」と思っているわけでもないのかもしれないが、人間同士なのだから縮まるものならば縮まりたい。そういうわけで若干葛藤はある。だって冷静に考えてみれば、人間同士なのに、どうしてサインなどを欲しがるか? というのがあるからである。「サインください」「いいよ」だけの会話から「与えてもらう」以外のどんな関係が生まれるだろうか、というのだ。サインしてもらいながら話をする場合だってあるが、それがどれほど相手の心の中に残るのだろう。「握手」と「サイン」は、人間を人間でなくそうとしてしまっているだけのような気がして、やっぱりちょっと気が引ける。もう、そんなことは誰に対してもしないほうがいいかもしれない、とさえ思う。だって僕は岡村さんにお会いしても、絶対に握手やサインを求めないだろう。考えてみれば他の方にもそのように接しない理由はない。
有名な方で、それなりに親しくおつきあいさせていただいている方というのが僕にもいるが、そういえばそういう人たちには、どれだけ自分が好きでも、握手やサインなど求めなかったな、ということを思い出す。「有名だ」というだけで特別扱いされていては、人間は疲れるだけだろうなと思う。握手をするにもサインをするにも、幾らか、いろいろなエネルギーが必要になるからだ。それよりも、人間としての関係を少しでも作ろうとするほうが、暖かい。
2010/5/28 勉強とは論理である
勉強とは何か、ということを教員時代に考えていた。
義務教育の場合はとりあえず、「暗記」ということではある。
でも中学生にもなれば、そうとばかりは言えない。
それで考えた末、結局勉強っていうのは「論理」なんだというところに行きついた。学校では基本的に、「こうすれば、こうなる」「こうであれば、こうである」ということをしか教えない。
塩酸は酸性である。水酸化ナトリウムはアルカリ性である。酸性とアルカリ性は混ぜると中和される。塩酸と水酸化ナトリウムは混ぜると中和される。
勉強というのはこういうことである。こういうことが、だんだん複雑になっていくに過ぎない。こういうふうに考えないのなら、それは「勉強している」ということにはならない。
塩酸は酸性である(A)。水酸化ナトリウムはアルカリ性である(B)。酸性とアルカリ性は混ぜると中和される(C)。塩酸と水酸化ナトリウムは混ぜると中和される(D)。
A、B、Cという前提から、Dという結論を引っ張り出す。大まかに言えばこういうのが論理というものである。専門の人に言わせればいろいろあるのかもしれないけど。
ところで、論理とはそういうようなものでしかない。別にそれ自体が思想を持っているようなものではない。だから「それはあなたの論理だ」というような言い方は、本当はおかしい。
そういうふうな論理的な作業をひたすら積み上げていくのが勉強であって、英単語帳とにらめっこしながら、ぶつぶつ唱えて、ノートに何度も書き写して……なんていうのは、僕にしてみたら苦行でしかない。まあ、中高の定期テスト対策なんだったら、そんなもんでいいんだけど。
なので、英単語を覚えるのでも、語の組成(成り立ち)なんてもんを考え始めた途端に、するすると頭に入ってくるようになった。そりゃ「丸暗記するしかない」というものだっていくらでもあるが、ある程度論理的に理解できるような単語も恐ろしくたくさんあった。
みんな、どういうふうに勉強しているんだろうか。どういうふうに勉強をしていくのだろうか。はっきり言って、論理というものを問題にしないで「ひたすら覚える」だけをしていたら、不安定だし、すぐに忘れてしまう。勉強というのは知識の蓄積ではなくて、論理の蓄積であるべきだと僕は思う。
2010/5/27 執筆の動機
少女は性欲を許してもらえない。性欲は「女」にだけ許される。しかし実際はそんなことはない。少女にだって性欲はある。ありすぎるほどにある。五歳だろうが十歳だろうが十五歳だろうが、ある子の中には明らかにある。だけどそれは許されない。あってはならないものだとされる。それで早熟な少女は「早く大人にならなくちゃ」というところへ向かう。その過程で、とても大切なものを失ってしまうこともある。「性欲を許してもらいたい」ということと、「少女であることを捨てなければならない」ということが、現代の日本ではなぜか同じ地点にあって、少女でありながら性欲を許してもらうということができないことになっている。
少女に性欲を許してあげない、ということは、大人の男の中に常にある。大人でなくても、ある。中学のときに同級生が、好きな女の子の話をしていて、「あいつにもおまんこがついてるのかと思うと、気持ち悪くて死にたくなる」と言った。その男子は、好きな女の子に性欲を認めないばかりか、「女であること」さえ認めようとしなかったわけだ。「少女は女であってはいけない」という幻想を、なぜか男は抱きたがっている。
僕は「そんなのおかしい」と思いながら、しかし「では、少女にどのように性欲を認めてあげればいいのか?」というところで右往左往していた。少女の性欲を男が解放してあげようと思うと、それは「淫行」にしかならない。まだ何もわからないような幼い少女の原始的な性欲は、少女自身の手によって満たされるしかない。悲しいが今のところは、それしかないように思える。
ただ「認めてあげる」にも色々な方法があって、実際に性的な行為をすることだけがそれではない。「いいんだよ」と言ってあげるだけで充分ということもある。とにかく彼女たちは、抑圧されて、もやもやを鬱積させている。少女であったことのない僕も、最近なんとなく「そうなのではないか」と思えるようになってきた。
そのもやもやを晴らすためにどうするかというと、たぶん彼女たちはマンガや小説などの「作品」や、自らの「妄想」の中へ行こうとする。それらの中には「健全」であるようなものもあれば、「不健全」と言われてしまうようなものも含まれる。僕はできることなら「健全」の中でそういう気持ちを昇華してもらいたいと思う。
2010/5/24 わけもなく数字で考えよう
抽象的な話をします。ここにある「分野」があります。その分野をここでは「1~20」とでも呼びましょう。これは「Aくん」とか「Bちゃん」みたいな感じの判別記号で、数字に意味はあんまりありません。Aくんは「1~20」のエキスパート、つまり専門家です。最近Bくんが、「7~26」という分野に首を突っ込もうとしています。Aくんは7~20までをよく知っているので、Bくんにアドバイスしたり、時には注意してあげたりします。Bくんは7~26まですべてに関して素人なので、ありがたくその言葉を拝聴します。ところがときおり腑に落ちないときがあります。Aくんは21~26のことはよく知らないから、「7~26」という分野について発言すると、たまに間違っていることや的外れなことを言ってしまうのです。また1~20までに共通して通用することが21~26のどこかでは通用しなかったりもするので、Aくんが自信満々に言ったことでも、あんまり役に立たなかったりもするのです。
そういうわけなんで、あんまり一方的に偉そうに他人に何かを言うのは考えものです。たとえば僕は自転車が好きですが、自転車に関する分野を1~100で表すと、僕がよく知っていたり、経験していたりする分野はせいぜい「5~12と、64~70と、90~98」くらいだったりするのです。なので、7~13くらいの分野に入ろうとする人に対して偉そうなことを言うと、ほとんど的確なことは言えるのですが、13という分野では僕は素人なわけだから、ときおり変なことを言いだすわけです。だから、僕がその人と自転車について話すときは「これはどの分野で、これはどの分野で……」ということをきっちり把握しながら、門外漢であるような分野についてはとても慎重に話す、というようなふうに心がけなければならないわけです。大変です。
あんまり、自分のよく知っている分野の常識が、「ほとんど同じだけど、絶妙なところでちょっとだけ違う」分野においてもことごとく通用するなんてことは、思わないようにしなければいけません。
2010/5/20
数少ないジャッキーファンの方のために。
5月23日の文学フリマに、《略》。
『ぶっころせ!刑法39条ちゃん』はもちろん、『ごはん』というのも新刊で出ます。僕は3500字くらいのエッセイを二本、書きました。なかなか良い出来です。ほかの漫画や文章も面白そう。『ぽりてんだより2』というのも作ります。
それからクイックジャパンですが、6月発売号は橋本治の『失われた近代を求めて』の書評を、なんと1ページまるまる書かせていただく予定。没にならなければ、載ります。まさか自分が橋本治の書評を商業誌で書けるなんて思わなかった! 緊張しすぎてやばいです。
まーそんなところでしょうか。今月来月は小沢さんのコンサートもあるんで、てんてこまいです。
無銘喫茶は相変わらずやってます。木曜20時から。
2010/5/17 少年Aの散歩
誰かの身体を散歩します。夜明けまで散歩します。
もつれ合う弱い声は ちっぽけな強さになり、
凍てついた僕の時間、温かい胸の中で壊すでしょう。
(cali≠gari/ブルーフィルム 桜井青作詞)
文章を書くのに煮詰まると、散歩に出る。すると良いアイディアが大抵出る。そういえば夏に『9条ちゃん』の第二版を作った時も、〆切りの朝になって何にも浮かばなくて散歩しに行ったら、パッと改訂のアイディアが出て来たのだった。
『短編集1』という漫画同人誌を僕は出していて、その中の『さみしい』という話に、「すべすべの誰かの肌」という名フレーズ(いやけっこうここに反応してくれる読者の方が多いのですよ)がある。これぞまさに「誰かの身体を散歩します」の気分というか。散歩したいですねえー。
それから、その短編集にはそのものずばり散歩のシーンが出てくる。『おもたい くるしい』がそうだし、『夏』なんかほとんどずっと散歩している。
この日記のタイトルは今や(昔は違った)『少年Aの散歩』である。これは直接的には谷川俊太郎さんの詩からとっている。高校一年生の時に女の子が貸してくれた詩集の中に入っていた、思い出の詩だ。今でも、あらゆる詩の中でこれが一番好き。僕の書いている詩は、まったく似ても似つかぬものだけど。
あの子と出会っていなければ僕は今のようには詩など書かなかったかもしれない。アメリカに行ってしまった彼女は今ごろ何をやっているのやら。二年くらい前に会ったけど。あれ、いつだったっけな。
少年Aの散歩/谷川俊太郎
1
てくてくととぼとぼの混り合った感じで
歩いてみようと思っています
ストゥーパのそばなんかも通って
すべり台もすべってみて
2
フラクタル理論の
うんとはじっこの方まで行ってみたいな
3
なにも手にもってないのに
なにかが指にまつわりついてくる
埋立地のゴミの上でほら僕が
立ち止まった
4
僕を待っている人がいるのは嫌です
特養老の畳に広告のアート紙ひろげて
爪を切ってもらっているような人
5
汚れて臭い山羊を一頭連れている
そんな幻なら神話的でいい
6
漫画の中でなら派手にころびたいけど
7
自分のことってどうしてこんなに
こだわるのかな
レオナルド・ダ・ヴィンチも
そうだったのだろうか
それはでもサライに訊ねたって分からない
8
飛び出しナイフは好きです
ぞくぞくします
なんて書いたやつがいた
そんな書きかたには速度がない
ってこう書くのもおっつかっつだけど
でも書くことの速度がへんにゆっくりで
いらいらすることがある
誰も光速では書けないのだろうか
9
道端の景色を見ると
もう何もかもこのままでいいと思ってしまう
でもそれは母の小言を聞き流してるみたい
10
あ 野蒜
11
或る晩突然おれは地球と寝るんだと叫んで
はだしで家を飛び出していった伯父も
一昨年亡くなりました
一生金利で食ってた人です
12
人間の感性と知性の全くとどかない
宇宙生物に出会ってみたい
校門の前で
そして一瞬ののち殺されたい
そいつの残像を網膜に焼きつけて
そのとき僕は宇宙を理解するだろう
13
世界が滅亡しても
べつに僕はかまわないのです
生きつづけようとするのも
食欲の一種でしょう?
14
麦藁帽子がもう
どんな夏のイメージも喚起しないことに
気づいていない大人が多すぎる
15
地響きをたてて砂埃をあげて
まっしぐらに走ってくるものの
心臓の鼓動に僕の旋律をのせよう
16
このノートの罫の中で
いま書いている文字の中で
僕は自分の父の切腹を介錯してあげよう
父の首は銀座和光のショーウィンドウに
曝す
17
ああペプシコーラ ペプシコーラ
と口ずさんでいれば
もう僕はシンガー
18
昨日僕は圭子と寝た
と昨日僕は日記に書いた
それが嘘か本当かは
僕にだってよく分からないのです
そう書いてみることが
僕の散歩の意味だというだけ
19
誰かがきっとブラウン管の上で
僕の散歩をシミュレートしている
その誰かはこの僕自身かもしれない
20
本当に大切なことは何万年来不変です
そしてどうでもいいことは
もう言い尽くされていると思うんだけど
21
行ったことのない廃墟があって
会ったことのない女の子がいて
嗅いだことのない匂いがあって
聞いたことのない叫びがあって
なめたことのない味があって
僕はまだ死んだことがない
22
言葉で言えなくて
声で言ってるよ
声でも言えなくて
内蔵で言ってるんだ
23
風にひるがえっているものはいいな
たとえそれがステテコでも
24
僕ももちろん僕を超えたものの力によって
動かされているんですが
その力を拝む気持ちにはなれません
昔ながらの賑やかな儀式の数々に
僕はただの一度も加わったことがない
ただの一度もいけにえの血を見たことがない
25
世界は絶対にジグソー・パズルなんかじゃ
ない
26
風呂場のタイルの隅で
小さな黒い蜘蛛が丸くなっていた
あの蜘蛛の頭の中に壮大な宇宙の幻が
宿っているとしたら――
そんな夢想ももうとっくに誰かが
していたような気がする
27
じゃあね
あとで寄るよ
僕はだいたいこのような気分で、未だに、
この日記というものを書いているのですよ。
2010/5/14 ゆっくりでいい
マラソン大会。
先を走る先生が、後ろの生徒に
「ゆっくりでいいよ」
と声をかける。
「ゆっくりでいいや」と思って、
スピードを落とす生徒がいる。
ずっと同じ速度で食らいついていく生徒がいる。
もっと速く走って、早く追いつこうと思う生徒がいる。
「ゆっくりでいいよ」は、優しい言葉だ。
「ゆっくりでいいや」は、優しくない。誰にとっても。
2010/5/12 素晴らしき未来について
かつて僕は中学二年生のために書いた文章の中でこんなことを言った。
「何も考えないでいる中学生は、なにも考えないでいる大人にしかなれない」
僕の見たところ中学生ってのは、けっこう「自分はいつか大人になる」ということを知っている。つまり、自分のことを「まだ子供」だと思っている。
自分のことを子供だと思っていて、大人とは一本線を引いているから、彼らは自分が「だんだんと大人になっていく」のだということを知らない。いつかある地点で、一瞬にして子供から大人に羽化するもんだと思い込んでいる。
でも実際はそうじゃない。子供と大人とは地続きだ。
中学生は、「大人になったらちゃんとする」なんてことを考える。
今はちゃんとしていなくても、自分はいつか自動的に大人になって、その時にはちゃんとしているはずだ、と。
でも、そんなわけないんだよ。
「いつか」なんて日は、「いつか」と思っているうちは巡ってこない。
「いつか飲みに行きましょう」なんていう、大人の口約束に似ている。
時が経てば自動的に何かが変わるなんてことはないのだ。
かつて僕は高校二年生のときに作った芝居の中でこんなセリフを書いた。
「円ちゃん」という女子中学生が、「哲也」という男子中学生を叱責するシーンである。哲也は、大人になった自分の姿(=鈴ちゃん)を見て、現在の自分が思い描いている理想の未来とあまりにもかけ離れているということに悲観し、やけっぱちになってしまう。それに対して、いつも明るく元気な円ちゃんが、「ばっかじゃないの?」と思いっきり叱りつけるのだ(このギャップを見事に演じきってくれた円ちゃん役の子は、本当に名女優だった!)。以下、台本からそのまま引用。
ねぇ、ばかてっちゃん!!(胸ぐら掴め)
ちょっと言わせてもらうわよ。
今のあんたを動かしてるのはだれ?
あんたでしょ?
明日のあんたを動かすのはだれ?
あんた以外のだれかってことがある?
なんでもかんでも成り行き任せに進んでくもんじゃない。
あんたがそんなんだから鈴ちゃんみたいになっちゃうのよ!?
・・・自分でどうにかしようと思わないの?
明日の自分、明後日の自分、みんな自分でしょ?
朝起きたらいきなり大人になってるってわけじゃない。
20年後って一口にいっても、時間は一日ずつ過ぎていくの。わかる?
大人はよく、子供に「○年後の自分は」なんてことを考えさせるが、そういうことをさせればさせるほど、「今の自分と○年後の自分は違うんだ」という認識ばかりを強くさせて、子供と大人とを切り分けてしまうだけのような気がする。
哲也は「大人になったらみんな忘れちゃうんだ!」と言うが、彼は「その大人になった自分もまた、自分である」ということに気づいていないのだ。
「20年後の自分」なんてものは、他人だと思っている。
自分がただ、一日一日を積み重ねていっただけなのに。
哲也が意識的に、「そうならないように」時を刻み続けていかなければ、気づかないうちに「鈴ちゃん」のようになってしまうのだ。
そのことに気づかされて、未来は変わって……なんていうのがこの『少年三遷史』というお芝居の筋書きなのだが、それはまあ、台本を読むかビデオを見てください。メールください。
ある高校生の女の子が、「何年か後に、あたしが賢くなったら」という言い方をしていて、ちょっと引っかかったのだ。
別に他意はなかったんだろうが、僕は上記のようなことを思った。
「何年か後」と思っているうちは、永遠に「何年か後」は訪れない。
明日も明後日も、ずっと「何年か後」と思い続けてしまうからだ。
そうじゃない。一日一日を積み上げるんだ。大切なのは「今」だ。
「賢い」という状態が、自動的にやって来るなんていうことは、絶対にない。
何かをしていなくてはならない。何をかはわからないが。
そして常に焦り続けていなくてはならない。「まだ、まだ足りない」と。
その焦燥感が、思春期には必要なんじゃないかと僕は思う。
いつでも意識的に。哲也がそう決心したように。
そもそも「なりたい自分」なんていうものを設定することが、ひょっとしたらおかしいのかもしれない。
「いつか、ああなろうと思ったものから、かけ離れて、今は、僕で いれるようにって、本当に思うんだ。」(中村一義『いつか』)
この歌詞を、
≪「いつか、ああなろう」と思ったものからかけ離れて、今は「僕でいれるように」って、本当に思うんだ。≫
というふうに解釈したら、僕の言いたいことと重なる気がしないだろうか。
「僕でいれるように」っていうのは、「今の自分と地続きである未来の自分を想定する」ということだ。「ああなろう」という、まるで他人のような自分像ではない。
と言って、「今の自分のままでいいんだ」ということになるかどうかは、別の話だけどね。
「今の自分のままじゃだめだ、ああなろう」ではなくて、「今の自分のままじゃだめだ、じゃあ、どういう自分ならいいんだ?」を考えること。
あくまで「自分」というものを軸にして、そこから考えていく。変わっていきたいと思う方向があったら、そこから、狙いを定める。
さようなら。ここで降ろしてくれ。
たださ、僕はこの両足でね、これで・・・、
歩きたいんだ・・・、わかるかなぁ。
(中村一義『素晴らしき世界』)
その女の子がこの文を読むことを祈る。
よろしければ僕の言葉に耳を傾け続けてくれることを。
そしていつの日か僕を信じすぎないでいてくれることを。
2010/5/11 まやかし
空腹と眠気は信用しないほうがいい。あんなものはまやかしである。
「おなかがすいたな」と思ったら、まず自分のおなかを触ってみよう。
とくにいつもより凹んでいなければ、おなかはすいていないのである。
すなわち「空腹」と「空腹感」は違う。
空腹感なんぞ、八割はまやかしである。信じてはならぬ。
身体は食品を欲してなぞいないのに、脳だけが欲しているのである。
このまやかしに騙されやすい人間が、太るのだ。
同様に眠気もまたまやかしである。
「眠いな」と思って、実際寝てしまいそうになる。
でも考えてみると、昨日は十時間以上眠ったのであった!
なので眠たいのは「眠りが必要だから」ではないのである。
まやかしなのだ。
寝ることにはエネルギーが要る。寝過ぎると疲れる。
眠たいような気がするのは、寝過ぎて疲れているからだ。
脳はまだ、睡眠を欲していないのである。実は。
身体が欲するときに食い、脳が欲するときに眠る。
脳が欲するときに食ったり、身体が欲するときに眠ってはいけない。
うん。
そう言い聞かせて、思い込んで、これから一週間を乗り切ろう。
2010/5/10
何度だって言うけれども僕の人生は22歳で達成されている。
それからは自分の人生だけでなく他人の人生やみんなのことについて考えるようになった。実にいいタイミングで学校の先生になって、実にいいタイミングで小説とか書き始めた。一切の邪悪を封印したら、周囲から邪悪が消えさった。
そうなんだよな、22歳でなんか変わって、だんだん僕は邪悪な人にとって魅力的な人間ではなくなっていったのだ。
素敵な人たちは変わらずに、僕のことを愛してくれている……その、はず。
というわけで僕の人生を達成させてくれたあの人に感謝を捧げます。
2010/5/09 妖精が捕まらない理由
今朝の『ハートキャッチプリキュア!』第14話があまりにも素晴らしかったので、記す。
今日が母の日だったので、母子の絆がテーマになっていた。
今回のゲストキャラ(=心の花がしおれて、心をデザトリアンという怪物にさせられてしまう役)は、お母さんを亡くしてしまったクラスメイトのななみ。幼い妹のるみに対して「お母さんの代わり」を務めようと、「いつも笑顔」で明るく振るまっているが……。
というストーリーはまあ、置いておこう。僕は泣いたし、誰だって泣くと思う。素敵な話だった。
語りたいのは本筋ではなくて、「プリキュアの正体がバレたのかもしれない」というところ。誰にかというと、ななみの妹のるみ。るみは、プリキュアとデザトリアンが戦っているところに居合わせるばかりか、妖精のシプレやコフレとも会話を交わす。「戦いが終わったら、るみの記憶からは消えてしまうのだろうな」と思って見ていたのだが、そういうわけではなかった。
ななみはこれまでのゲストと同様、デザトリアン化前後の記憶は失っていた。ところが第三者であるるみの記憶には、しっかりとその時の記憶が残っていたらしいのである。戦いの翌朝、ななみに連れられて歩いていたるみは、フェアリードロップ(えりか=キュアマリンの両親が営むブティック)の前でプリキュアの二人と出会った。そしてお店のショーウィンドウの中にシプレとコフレがいることを見つけるのだ。るみは「あっ」と声を出すが、シプレとコフレは「しーっ」と人さし指(?)を立てる。するとるみは、にっこり笑って、「しーっ」をやり返す。こうして妖精のこと(と、もしかしたらプリキュアのこと)はシプレ・コフレ・るみの間での「ひみつ」になったのだ。だからななみは、そのことを知らない。
僕が何を言っているか、わかるでしょーか? プリキュアに限らず、ヒーローの正体は基本的にバレてはいけないのです。もしもみんなにバレたら、大変なことになります。でも、例外的にバレてもいい相手というのがいます。それは「ひみつを守れる純真な子供」です。このシーンは、るみがそういう子供であるということを示しているのです。るみはたぶん、このことを誰にも言わないで、自分だけのふしぎな経験として、宝箱の中にでもしまっておくのだと思います。妖精ってのが未だに存在を確認されないのは、その正体や住み処を知っているのがそういう子供たちばかりだからだろうと、僕は思うのですよ。美しくも。
2010/5/08 ぐへー
入稿(17か18)まで身動き取れません、隙を見て更新します、すみませぬ。
2010/5/07
無銘喫茶がはねて、昼過ぎからジョナサンでものを書いていた。
それだけの一日。
いま小説を書いているんだけど、とあるキャラクターに感情移入しすぎて、その子のことばかり執拗に書き込んでいる。もう刑法39条とかどうでもよくって、ひたすらにそのキャラクターの幸せのことばかり考えている。こんなんでいいのか? と思うものの、もう仕方がない。この作品を誰に捧げようかとか、そんなことを考えながら、これまでに出会ったいろんな女の子の集成であるそのキャラクターのことをひたすらに考えて、勝手に泣きそうになっている。
2010/5/06
急がば回れ、じゃな。
誰かに「本を貸してくれ」と言われて本棚を眺める。
なかなか良いものが見つからない。
僕は25年間も何をやってきたのだろうと思う。
そういう焦りを獲得するためにも人に本を貸すというのはなかなか有意義だ。
2010/5/05
ぼんやりしとる。
プリキュアパン、20未満の数字のシールが復活? してた。
また買い始めようと思う。
2010/5/04 彼女ができたので、閉鎖します。という選択肢
人間関係のことを考えるとどうも、こういうWebサイトってのはやりづらい。開き直って「僕はこういうサイトを作っちゃうような人だから」って言えばいいんだけど、言われる側がそれで納得するかといったらまた別だ。年に何回かこのことで葛藤があって、「ああ、もうサイトなんて辞めよう」と思う。しかし十年続けてきたことをそう簡単には辞められない。
一度「彼女ができたので、閉鎖します」と宣言して一時的に閉めてしまったこともあったが、それは「こんなサイトやってたら彼女が気にする」ということを深刻に考えたからだ。あの時の選択は一面的には正しかったと今でも思う。彼女を大切にしたいならこんなことをやるべきではないのだ。
だいたい、僕のことを好きになるような人で、このサイトのことを完璧に好意的に捉えている人などいない。「ジャッキーさんはどうしてこのようなことを書くのだろう。もやもや」とみんな思ってる。だったらそう思わせるようなことを書くなよというのだが、書きたいことを書きたいように書かないと文章がつまんなくなる。ずいぶんと、昔に比べれば抑えて書いてはいるのだが、抑えようが抑えまいが、あんまり関係がないようでもある。
「もやもや」の原因はわかっていて、それは僕が「はっきりとものを言わない」から。言えばいいのに、言わない。はっきりと言ってしまうと、いろいろ都合の悪いことがある。しかし言わなかったら言わなかったで、また都合がよくない。僕はずっと「はっきりとものを言う」と「はっきりとものを言わない」の間で、落ちつく地点を探していたのだが、もしかしてこの両極の設定の仕方自体が、まずいのかもしれない。すでに僕は失敗しているのかもしれない。
もういちど現在の僕の立場を説明しておくと、僕がここに書くことはただ「思ったこと」であり、「考えたこと」。必ずしも僕の実情に即した何かではない。時にはただの言葉遊びであったり、詩であったりもする。それを「読み物」として(楽しめるんだったら)楽しむのが本来の読み方で、もしもそこから僕についての何かを導きだそうと思ったら、単純に字義通り受け取ってはいけない。本質を掴み取らなければ。
と、そう言ったところで誰がどれだけ納得してくれるというのだろうか、というのが悩みどころ。
嘘でなければ語れない真実もある、と岡田淳先生の『竜退治の騎士になる方法』という本の中にあったが、僕はそういうことを目指そうとしているのです。でもそれがうまくいかないから、困っているんですね。
2010/5/03 カレーライスの女
カレーライスが大好きだと思ってカレーライスばっかり食ってるところにハヤシライスのいいにおいがやってきたらそりゃ気になる。
んでもそこでハヤシライスを食べてしまったらもう二度とカレーライスは食べられない。欲張りな人は両方食べようとしてそのうちどっちも食べられなくなる。
二兎を追う者はだの、虻蜂取らずだのと言った言葉は、どーせ女がらみで生まれた言葉なんだろうな。
隣の芝生は、なんてのはそのものずばり。一盗二婢三妾四妓五妻なんてのもある。人は自分の所有物にはあまり魅力を感じずに、他人の所有物にこそ心惹かれるものなのだ。
それだから、淫らで邪悪な発想に支配されそうになったらいったん深呼吸して落ちついてみることだと思う。それをするのが理性であろう。
カレーライスならほとんど毎日食べ続けても飽きないけれどもハヤシライスだと三日くらいで飽きるということがあるかもしれない。カレーライスは辛いばっかりで甘みが足りないと思ってハヤシライスに走ったら今度は辛さが足りないとぼやくようになるとか。夏には冬の寒さを待ち望み、冬には夏の暑さを求めるような。
そういうわがままな人間は、どうしたって結局はうまくいかない。
彼氏に不満がある。そんなときに現れた第二の男は彼氏の欠点をことごとくカバーしているような人だった。で彼氏と別れてそいつと付き合った。そうしてみたら元の彼氏がしてくれたような嬉しいことを新しい男はぜんぜんしてくれない。不満が募る。そこへまた第三の男が……。
そういうようにして男を、または女をとっかえひっかえしているうちに、たまたま妊娠に至った相手と結婚するという流れが世間にもうできあがっている。そんなようなことがこないだ福満しげゆき先生の『うちの妻ってどうでしょう?』という漫画に書かれていた。
そういえば福満先生が妻といつまでもラブラブでいられるのは、彼が「女性を性欲の対象としてしか見ていない」からではないかとちょっと思った。男女関係なんていうのは実際のところそんなでいいのではなかろうかね。『僕の小規模な生活』で妻が実家に里帰りしているあいだ福満先生があまりに淋しくて「妻~~~! 妻~~~!」とか叫びながら妻の枕のにおいをかいだりするシーンがあるのだが、あれこそ「女性を性欲の対象としてしか見ていない」の完成形であり、最も美しい形なのかもしれない、なんて思う僕もやっぱり「女性を性欲の対象としてしか見ていない」のかもしれないが、それでいいのではないかと思ってしまう。
「女なんてセックスするためだけにいるんだぜギョヘヘー」とか言いたいわけではない。カレーライスのように毎日食べていても飽きないような素敵な女性を自らの性欲の対象として究めることは素晴らしいではないか。カレーライスが食べられないときは他のものを食ってしまうというのが現実でもあるのかもしれないが、性欲は食欲と違って直接自らの生命には影響が及ばないから、福満先生のように「カレーライスが食べられないからカレーライスの入っていた鍋のにおいをかいでふたたびカレーライスが食べられる日を待つ」という、究極のカレーライス人生を送ることだってできるのだ。カレーライスが許すのならば僕だってそういう人生を送りたい。福満先生は偉大である。
2010/5/02 新屋敷
一昨昨日は5人の友達と、1人の友達と、たくさんの友達と会った。一昨日は6人の友達と会って、1人の友達と会って、昨日は1人の友達と会った。今日は1人の友達と会って、1人の友達と会って、1人と友達になって、1人の友達と会って、1人の友達とはまた会って、それから4人の友達と会った。1人の友達と電話で話した。たくさんの友達とメールを交わした。明日は友達とは会わない。
ストーカーは、
恋人になってしまったらもう執着がなくなるんだろうか。
ストーカーのすごいのって、好きな人に自分の生命エネルギーのほぼすべてを使ってしまうことだ。ストーカーっていうか、おそらく普通の恋でもいい。好きな人が米米クラブのファンだったら、米米クラブのCDを全部買って覚えます、というようなの。
米米クラブの曲を半分まで覚えたところで恋が実ってしまったら、もう米米クラブの曲を覚えようとは思わないのだろうか。
割とそういう傾向があるんじゃないかと思う。恐ろしいことだ。
愛してる愛してる
そんなふうに言われたら米米クラブの曲なんてもう聴いていられないものね。
2010/5/01 残酷な神が支配する
僕の好きな人は、何も喋らないですべてのことを伝え、喋りまくりながらも「たった一つの真実」だけは覆い隠しつづけるような人です。
何かが嫌い。
有名だから要らないものまで必要になる。
こういう時に紅茶でも飲めたら
なんて思いながら今日もまたここから動けない。
リアルタイムに更新されていく彼女の心情。
「見せること」の意味よりも、「見られること」の意味を。
インターネットの広さよりも、世間なるものの広さを。
中高生のやる「リアタイ」とか見て思うんだ。
なんちゅーかもうブログでさえないんだよなー。
メールが、全世界に公開されているっていう感じ?
誰にメールしてんの、みんな?
「さみしい」の神様でもいんの?
僕にはもう君のことがわからなくなる。
その瞬間のために君は君の独り言を積み上げている。
独り言ってのは孤独な行為で、
孤独は人間を関係から切り離して個人にしてしまう。
個人には個人のことがわからない。
だから「自分とは関係のないものだ」として無視する。
個人主義とはそのようにして完成するものだ。
君が進んで僕の前で個人になろうとするのなら、
僕には君のことがわからない。
個人は関係から切り離されて、独立して一つの意味を成している。
そこには膨大な情報量があって、
それゆえに数限りない矛盾を内包している。
それら一つ一つを受けとめられるのか?
個人を前にして僕たちは、無視する以外に何か方策を持てるのか?
スーパーコンピュータみたいに四六時中カチャカチャやってても、
円周率みたいに永遠に解が出ない。
個人とはそういうもんで、
関係というものはもうちょっと単純なものである。
素敵な関係を築きたいと思う。
が、
恋愛というものは「相手を個人として受け入れる」ということが原則にあるのかもしれない。
だって恋愛というものは個人を基礎単位とした西欧で生まれたものだから。
それなら恋愛じゃない何か別のことをしなくちゃならんのだろうな。
そのあたりまで考えて、もう、僕には君のことがわからない。
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