少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2011/05/31 生活を意識化する

 僕ももういい年なんで、意識的に生活をしていかないと色んなところにガタが来るわけです。だから健康に気をつけていこうと思います。おしまい。

2011/05/29 学校の先生に騙されるなよ 日本史編

 子供って先生の言うことは全部正しいと思ってるから教員は自覚的に慎重にならなければならないよ。

 ある日、とある女子高生が僕に「明智光秀が韓国でしたことを(授業で)知ってしまったので胸が痛む」と言ってきた。とりあえず「秀吉だろ!」と突っ込んだ後、「秀吉は朝鮮で何をしたの?」と問うてみた。
 すると「たくさんのお寺を全部焼き払ったり、見境無く人々の鼻を削いだりした」と言う。僕はその辺のことはあまり詳しくなかったので、ひとまず「あまり気にしないでいいよ」と言っておいた。「どうして気にしないでいいの?」と問われたので、少し困って、「べつに気にしてもいいけど、胸を痛める必要はない」と言ってから、だいたい以下のようなことを話した。

「まず、僕は学校の先生が言うことを信じないし、その件について自分でちゃんと調べたこともないから、その話をどのように受け取ればいいかわからない。それは君にとっても同じはずだ。君は授業で聞いた話を鵜呑みにして胸を痛めているが、君が胸を痛めるほどの根拠は先生の授業ごときにはない。ちゃんと調べてから胸を痛めるなり痛めないなりするべきだ。それに前近代の戦争について考える時には現代の常識だけで考えてはいけないし、一面的に考えることも避けねばならない。秀吉は朝鮮と殺し合いをした。そのことによって胸を痛めるなら、戦国時代に日本人同士が殺し合いをしまくっていたことについても同様の胸の痛め方をするべきかもしれない。また、戦争とはどういうものか、人を殺すとはどういうことか、異民族と殺し合うことと同民族で殺し合うことはどう違うか、他国に攻め込むことをどう考えるか、そもそも歴史というものに対してどのような態度で接するべきか、など、胸を痛める前に考えるべきことはいくらでもある。現段階で胸を痛めてしまうのは、軽はずみと言わざるを得ない。胸を痛めるのは、ちゃんと考えてからでも遅くない」

 僕が教えていた学校は、すなわち彼女の通う学校は、とても左傾的で、先生の授業も、国語の教材さえも、左がかっているものが多かった。その中でバランスの良い教え方をすることは少々面倒くさくて、非常に気を遣った。
 生徒たちのいわゆる「自虐史観」も根強く(たぶん彼らは意識していないが、確実にある)、彼らの何割かは、たぶん大陸の人たちに対して妙な後ろめたさを感じて生きているのではないかと思う。小学校の時からそういう教育をされているようだから、仕方がない。
 べつにそういう感情自体を悪いとは思わないが、ただ、根拠となる教育が嘘だらけであるということが、まったく気にくわない。僕も二つか三つばかり、授業で「必ずしも事実とは言い切れないような歴史的記述を含んだ教材」を担当したが、そういう記述に出会うたびに「これにはこれこれこういう説もあって、よくわかんないんだよねー。だから鵜呑みにしちゃダメだよ。この学校は朝鮮とか中国とかが大好きだからこういう教材を選んで教えているけど、一般的に見ればとても偏ってるんだからね~」といった説明を加えていた。それが(ことに情報リテラシーが叫ばれている現代の)教員の最低限の仕事だと思うのだが。

 ちなみに、この彼女に文禄・慶長の役を教えた日本史の先生は、「韓国旅行に行ったらお寺が全然残ってなくて、跡地には『全部秀吉に焼かれました』と書いてある」といった教え方をしたらしいが、実に巧妙な手口だ。その「経験」自体は本当なのだろうが、その韓国側の主張が本当かどうかは別の話。でも、こういう教え方をすると彼女のような歴史認識を自然に持ってしまう。ひょっとしたらこの先生は確信的に、「嘘はつかないように嘘を教えた」のかもしれないとすら、勘ぐってしまう。良心的な先生ならここで、「でも、これは嘘かも知れないんだ。なぜなら……」と続けなければならなかった。

 ネットで調べたところだと秀吉が行った頃にはそもそも寺院なんて(朝鮮人自身の弾圧によって)ほとんどなくなっていたようだし、とりあえず中公文庫の『日本の歴史』を開いてみても、そのような記述はない(鼻を削いだこととかは載っていたので、自国擁護のためにわざと省いたのではないと思う)。それどころかこの本には、「本願寺などはこの頃、朝鮮で仏教を広めようとした」ということが書いてあって、いかに宗派が違えども、そのことと「寺を焼き尽くす」ことが両立するのは不自然だ。事実としては「そういうふうに主張している韓国の人もいる」という程度のことしか言えないと思うので、誤解を与えないように先生は配慮するべきだったのだ。

 鼻を削いだ、という話に関しては、耳塚という、朝鮮人の鼻を埋葬したものが残っているので事実だろう。
 戦国時代では首を取って手柄を証していたが、首は重くて嵩張るので鼻(耳も?)にしたようだ。基本的には討ち取った敵のものを削いだのだろうが、まあ手柄をねつ造するために民間人の鼻を削いでいてもおかしくはない。そうだとしたら実にひどい。だけどちゃんと霊を鎮めるために埋葬したところは一定の評価をしてもいいと思う。勝手にやったとはいえ。
 これは確かに今考えると残酷なことかもしれないけど、前近代を語る上で特別ひどいエピソードかといえば全然そんなことはないだろう。もちろん比較する問題ではないし、「みんなやってたことだからいいんだ」とか「○○人はもっとひどいことをしていた」とか言うことにあまり意味はない。ただ、「当時は当時で、今は今である」ということは、どの国のどの文化に対しても思っておくべきだろう。それは「過去のことだから問題にしなくてもいい」というのではなくて、「過去のことは過去のこととして問題にすべきだ」ということ。事実だったなら教訓とすればいい。反省も謝罪もすればいい。それだけのことだ。そのことでお金を動かしたり、卑屈になったりはしなくていい。と、多くの日本人はたぶんそう思ってるんだけど、大陸の人たちはそのように思ってはくれない。ここが難しい。ヒストリエで言うと「文化がちが~う」だな。
「鼻を削いだ」と言うと残虐な行為だと思えるが、「戦果を証す」という目的があったことと、「埋葬と鎮魂」という宗教的な側面があったことも同時にちゃんと教えなくてはならない。そしてそれが、当時の価値観では通常のことであったと、ちゃんと言わなくてはならない。その上で、どのような価値観を我々は持つべきだろうかと、考えさせなければならない。それが「歴史に学ぶ」ということだ。そうでなければ残虐性ばかりが強調されてしまって、「胸が痛む」なんて感想しか残らなくなる。これでは歴史の授業とは言えない。
 ちなみに、『日本の歴史』にはこのように記述されている。「日本軍の軍規は表面はきわめて厳正で、土民を殺戮することを禁じ、百姓の還往をすすめており、たしかに従来の苛政をあらためて善政を布いたものもある一方、裏面では~」と、秀吉軍のやり方をある程度評価した上で、鼻を削いだというエピソードが挿入されるのである。教えるのならば、どちらも教えるべきではないかね。バランス取ろうぜ。

 学校の先生は平気で嘘をつく。だから信じてはいけない。教科書に書いてあること以外は鵜呑みにしてはいけない。最終的には教科書さえ疑わなくてはならないのだが、それは受験が終わってからでもいいだろう。

2011/05/28 増えると減る

 いまちょっと2ch見てたら
「16人強姦した男に懲役26年」という記事に
「いいだろ、別に減るもんじゃないし」と言った人がいて、
 それに対するレスで
「経験人数は増えるから問題なんだろが」ってのがあった。
 なんか面白かった。
 減るもんじゃないが、増えるもんではあって、それが問題であると。
 処女の大好きな2ちゃんねらーらしいほのぼのとしたレスでした。

 僕は「減る」って言葉をよく使ってましたけど、「増える」ってのがネガティブな意味を持つことだって、当たり前だけどあるんですよね。
 重たくなってしまうってことだから。背負うというか。
 だから増えもせず減りもしないってのが一番なのでしょう。それがどういうことなのかを考えていくことですな。きっと。
2011/05/27 恋愛と「頭いい」

 恋愛(「付き合う」ということ)をしたことがない人は、「他者の存在を前提としたものの考え方」の苦手な場合が多い。十代の若者だったら尚更で、子育ての話なんかをすると配偶者の存在がすっぽりと抜け落ちてしまっていたりする。それは当たり前のことなのだが、そういう相手にどうやって他者なるものを教えるかというと少々難しく、「とにかく恋愛をしろ」なんて言うのも野暮だし、無責任に過ぎる。

 恋愛をしたことがあったって、他者というものを考えず、自分のことばっかり考える人も多い。女の子は「彼はこう思っているはずだから、こうしよう」と相手の気持ちを勝手に先取りしてしまうし、男の子はそもそも他人の気持ちなんて考えないで「文句を言われないんだから大丈夫だろ」と気楽に構えている。他者の気持ちと自分の気持ちを繋げてしまっているわけだ。そういう人たちに対しては、「君は本当に自分勝手だねえ」ということを、実例を挙げながら淡々と指摘しつづけていれば改善することもある。しないことも多い。

 恋愛は実例の宝庫だから、したことのある人は容易に反省してくれる。経験のない人は反省する材料に乏しく、何をどう改善したらいいのかがわからない。
 だから大いに焦って、何でも考えて、行動せねばならんのだろう。闇雲にでも。
 頭がいい人はその点で焦るから、すぐに童貞や処女ではなくなってしまうのではなかろうか。頭のいい童貞、という言葉を考えて、それってかなり限定的な存在かもしれないと思ったのであった。
 恋愛やセックスによってしかわからない、あるいはわかるのが困難であるようなことというのは非常に多くて、非童貞・非処女はそのため、「頭がいい」という分野においてもアドバンテージを持つのである。童貞や処女は頭でっかちになりがちで、知識や論理が日常を生きていないことが多い。ただし、上で二つ目に挙げた「恋愛をしたことのあるバカ」というパターンにはまると、目もあてられないほどに邪悪で醜悪な人間が出来上がったりするので、ここらあたりの問題をうまく解決する教育方法というのが存在しないものだろうかと考えている。

2011/05/25 AVは怖いよ

 AVってこわいなあ。

【あらすじ】
 ツイッターで不用意な発言をして炎上し、2ちゃんねるで個人情報やら何やらを晒されまくるという、よくある「いつもの」事件が起きた。その22歳の女の子はTwitterだけでなくmixi、Facebook、前略プロフィール、ブログ(高校時代)、Yahoo!知恵袋、大学のゼミのサイトなどで脊髄反射的な言葉を無数に書き散らしており、2ちゃんねらーにとっては実に捗った。週に何度自慰行為をするか(としか解釈できない)など各種エロいまたは痛い発言を中心に、恋愛の悩みを赤裸々に綴った知恵袋の相談内容や、元彼とのキスプリ・おっぱい揉まれプリをはじめとする恥ずかしいプライベート画像の数々もあちこちに転載され、社会的には抹殺されたも同然であった。東スポによると、勤務先も退職してしまったらしい。入社わずか一ヶ月で。せっかく死ぬほどの努力をして憧れの(高校時代のブログがそういう温度だった)早稲田大学に入ったのに。

 やっぱり脊髄だけで生きている(※比喩的表現)のは問題だよなあと思って、僕はいつもの通り動向を注視していた。祭りはちゃんと追いかけるのが僕の信条なのである。明日は我が身と、自らを戒める意味も込めて……とか書いてるといざ炎上したときに燃料になってしまうので怖いんだけども。
 それで、この手の炎上騒ぎの際に必ず出てくるのが「AV出演疑惑」。2ちゃんねるには「解析班」と呼ばれるAV専門家がたくさんいて、「あのAVのあの子に似てる」と目をつけては、耳や歯並び、骨格、ほくろの位置などを比較した検証画像を作って提供してくださるのだ。

 今回も例に漏れず、AV出演疑惑が持ち上がり、検証画像が作られた。その画像だけ見ると完全にクロのように思えるが、実際のところは定かではない。動画や別の画像を見たりするとそれほど似てなかったりもする。が、問題は「実際にAVに出演していたか」ではなくて、「AV出演疑惑が持ち上がって、それなりの説得力を持って流布してしまった」ことだ。
 正直言って、これを回避することは不可能である。おそらく、あらゆる女の子に対して「AV出演疑惑」をでっち上げることができるくらい、日本のAVの層というのは限りなく広く、厚い。女の子には実感がないかもしれないが、男性はみんなよく知っている。AVにはあらゆるタイプの女の子が出演していて、「AVに出演したことのあるどの女の子にも似ていない女の子」などというのは、たぶん存在できないのだ。とりわけ、流行に敏感な女性というのは似通った髪型やメイク、毛の抜き方などをする傾向があるので、なおさらである。

 現代はとにかくもう、たくさんの女の子がAVに出演している。「AVなんて違う世界のもの」とか「ファンタジー」とか思っていられる時代はとうに過ぎた。女優と呼ばれる人たちだけでも無数にいるのに、単発で企画もの・素人ものなどに出演する女の子や、ハメ撮り援交、盗撮、流出など本人が「出演した」と意識していないものを合わせると、本当におびただしい人数に及ぶだろう。街を歩けば何人かはAV出演経験のある女の子とすれ違っているかもしれないし、知り合いにいてもおかしくはない。
 具体的な数字としては、ネット上に「延べ10万人以上」とあった。「延べ」という表現が気になるが、年間1万本製作されるというから相当のもんだろう。

 ちょっと話はずれるが、ここにヌードグラビア、風俗、売春(援交)など各種性産業に関わったことのある女の子を含めて、さらにそれが主には今の10代~30代くらいに集中していると考えると、都市部の若い女性の何%が身体を売った経験を持っているだろうか。
 マンガ『鈴木先生』(武富健治)の伝説の台詞として、「初めての娘と付き合いてェ奴がこっそり小4に手ェ出したっていいじゃねェか!!」というのがある。中二にして小四の女の子と(小三の頃から付き合ってて)セックスしちゃった男の子を擁護する同級生の言葉である。『鈴木先生』の中では、「結婚相手に処女性を求めることがいたずらに非難されてしまう風潮はおかしい」ということも言われているが、結婚相手または交際相手に「身体を売ったことがない」という条件を求めることは何も罪ではない。そしてそういったことを突き詰めた結果、「小四に手を出したって仕方ない」という類の暴論(とも言いがたいが)が生まれてくるのもわかる。そのくらい多くの女の子が身体を売っているのである。たぶん。

 身体を売ればお金をもらえるが、そのことがトータルで「得」になるような女の子は実は少ないのではないかと思う。想像力が乏しく、脊髄反射でものを考えると、「トータルで見て損か得か」ということが考えられなくて、目先の欲望だけで判断してしまう。しかし女の子というのは、セックスをすれば基本的には「減る」のである。可哀想な、あるいは申し訳ない話ではあるが。よっぽど好きな相手で、その人と添い遂げられたような場合を除いて、原則的に減るのだと僕は思っている。社会的にも、本人の内面的にも、何かが減ってしまう。それはもう現代の女性として生まれてしまったら背負わなければならないものだろう。「女ばかり減るのはおかしい。私は減ってるとは思わないし、減ってると思うような男性中心社会はただされるべきだ」というのは、「減る」という事実が現実に厳然と存在するから主張になるわけだ。

 現代の社会では、「減ってない女の子のほうがいいな」と考える男もとても多い。だから2ちゃんねるにはロリコンが目立つし、非処女のことを「中古」と罵倒する傾向もあるわけである。一人の男性としか生涯関係を持たない女性のことは「中古」とは呼べないので、中古を嫌うなら「初めての子と添い遂げる」しかないわけで、彼らにとってはそれがたぶん理想なのだろう。ちなみに鈴木先生も自分としか関係を持ったことのない女性と結婚する。
 ロマンチック・ラブ・イデオロギー(恋愛・セックス・結婚を三位一体とする、たぶん近代特有の考え方)がやっぱり、現代人は大好きなのだ。だけどそれでは息が詰まるし、「恋愛」や「結婚」というところでつまずく人も多いから、一方でAVや風俗なども必要とされてくるんだと思う。結局はかなりいびつで、アンバランスな社会ではあるのだが、今の日本は特に「AV」という方面にエネルギーが傾きすぎなきらいはありそうだ。「日常にセックスがない」というのがもう、とにかく最大の原因だろうけど。ロマンチック・ラブ・イデオロギーなるものの弊害はこれなんだろうな。

 話を元に戻すと、「AVに出演した」ということは、「減ってしまった」ということなのである。本人は実際は出演していなかったとしても、「出演した」と思われてしまったら、社会的にはかなり減っているのだ。
 女の子にとっては、「炎上したら即アウト」だと思ったほうがいい。「こいつに似てね?」とか言ってAVのキャプチャ画像を貼り付けられた瞬間に社会的生命は絶たれ(または変容し)、「あの子ってAV出てたんでしょ?」と言われるようになってしまう。そうすると、ものすごく減る。何かが減る。それで減らないような生き方をするためには、ずいぶんと無理をするか、開き直ってしまうほかはないように思われる。実際にAV女優になっちゃうとか。

 どうも当たり前のことをだらだらと書いているだけのようであるが、とても重要なこと。「炎上したら即アウト」これである。「脊髄だけで生きていてはいけない」これである。「セックスしたり、身体を売ったら基本的には減る」であり、「減ってない女が好きな男も多い」である。これである。「処女か非処女かなんて関係ない、そんなことで人間をはかってはいけない」というのは一面では完璧に綺麗事である。減ると感じる人にとって、減るもんは減る。残酷な事実である。女の子だって、心から大好きな人に出会ったとき、「この人が初めてならよかった」とか、「この人の初めてが私ならよかった」とか思う人は多い、はずだ、と思う。そりゃ、「お互い初めてだったらいろいろとうまくいかなかっただろうなあ」という現実的な考え方もあるけど、同時に「でも……」と思うのが正直なところだろうと僕は勝手に想像する。
 現時点で処女であるような人、あるいはすでに非処女であって、初めての人と付き合っている最中だという人、そしてすでに非処女であって、初めての人と添い遂げる予定がないという人。それぞれにいろいろと考えてみるべきことがあると思う。なぜか偉そうだけど。
 脊髄だけでなく、身体全体でしっかり、地に足の着いた想像力で、身の振り方を考えねばならぬし、男はそういう女の子たちの事情を少しは考えてみなければならぬであろう。

 とか言ってると、「女はセックスをしてはならないよ」的な論調にも読めるような気がするけど、そういうわけではなくて、セックスをするならよく考えましょうね、という程度のこと。男に対しては、女がセックスをするというのはどういうことか、よく考えましょうね、と。僕が言うのも完全にアレな話なんですが。心に棚を作れというか。まあその。男も女もセックスに関しては(する時点では)何も深く考えたりしませんので。したいと思ったらしてしまうようなものなので。せめて事前または事後によーく考えておけば、下手を打つことが多少は少なくなるのかなあと。ネット上に文字を送る前にちょっと考えるみたいなのって、実際難しいらしいんで、普段からいろいろと考えておくしかないですよね。件の彼女がもうちょっと物事をよーく考える人だったら、炎上しなかったかもしれないし、ボヤくらいで済んだかもしれないし。不用意な発言も、不用意なセックスも、ある程度避けられないものなんで、ひごろからよーく考えるのが大事ですわねえ、という、今回も極めて当たり前の話。

2011/05/22 馬鹿でない人たちの義務

 早熟な子供は、必ず、「周りの人は自分よりも馬鹿なのではないか」と考え、また、「いや、そんな風には見えても、実はみんな自分と同じかそれ以上に賢くて、いろいろなことを考えているのではないか」と考える。
 かつては、それを確かめる術が極めて少なかったが、最近はインターネットというものがあって、みんなブログだのmixiだのTwitterだの、モバゲーだのリアタイだの何だので、自分の思っていることをそのまんま吐き出しているので、それを見れば周りのだいたいの状況がわかる。早熟な人はそれで、「あ、やっぱりみんな馬鹿なんだ」と結論づけることができてしまう。
 すると、それに気づいた時にどうするか、というのが問題になってくる。
「馬鹿の相手はしてらんねーや」と孤立するか、「自分も馬鹿のふりをしなくては」と迎合するか、「そんなに馬鹿でいてはいけない」と啓蒙するか……人それぞれだろうと思う。
 ただ、しなくてはならないのは、「じゃあ自分はどのくらい馬鹿でないのか」を考えることだ。当たり前すぎて申し訳ないけど。
 それと、「周りには本当に、馬鹿でない人はいないのか」を調査する。それから、「馬鹿っていうのはどういう人たちで、馬鹿でないとはどういうことなのか」ということを洞察する。やることはいくらでもある。
「みんな馬鹿だなあ」で止まってしまってはいけません、という話。
「馬鹿」ということがどういうことなのかがわかってきたら、「自分は馬鹿に対してどのように立ち向かっていくべきか」「そのために今すべきことは何か」を考えなくてはならない。
 実は僕も結局はまだその段階にいる。
 馬鹿というのがどういうことかはわかってきた。馬鹿でないとはどういうことかもわかってきた。しかし、どう立ち向かっていいのかはわからない。何をすべきかもよくわからない。
 しかし結局は、孤立か、迎合か、啓蒙かということになると思う。ちなみに、馬鹿でない者どうしで連帯するというのは、孤立の内に入るだろう。「あいつらは馬鹿なんだから放っておこうぜ」とか「てめーら馬鹿とは関わりたくない」とかいうことだから。対立も孤立の一種と言えそうだ。
 僕は啓蒙という道を選びたいが、どうも自信がない。
 だからまずは自信をつけなければ。いや、闇雲に自信だけがあったって仕方ないので、「啓蒙するためにはどうしたらいいか」ということを考えなければならない。それをもって自信としたい。
 ところが、これがどうにも難しい。
 ここまで辿り着いた人は五万といるだろう。しかし多くの人はここで挫折しているのではないかと思う。「結局、自分がどれだけ頑張ったところで馬鹿は減らない。どうしようもない」と、諦める。「そんな偉そうなこと、考えるべきじゃないよな。馬鹿は馬鹿で人権あるし。個人はそれぞれ好きなように生きていくべきで、他人が口を出すのはよくない。うん。それが民主主義だ」と、言い訳をしながら、結局は孤立したり、迎合したりする。
 だけども僕はそれを格好悪いとしか思えないので、依然として啓蒙の道を考える。確かに偉そうで、勝手なことなんだけれども、メロスを走らせた、あの「恐ろしくて大きなもの」のような何かが、そうさせているのかもしれない。

 既存の馬鹿を減らすことは極めて困難だけれども、馬鹿でない人を馬鹿にさせないようにしたり、馬鹿を作り出さないようにすることはできるかもしれない。そうやって、ささやかにやっていくしかない。焦ると、諦めに近づく。あるいは、そのようなささやかな活動のできる人材を育てるというのも一つの手。馬鹿でないけど賢くはないような人を、賢い人にさせることは難しくない。賢い人が、さらに賢くなれるように手助けすることもできそうだ。
 未来が現在の地道な積み重ねでしかないことは、馬鹿でなければわかる。
 馬鹿でない人たちは、東日本大震災で、世の中がどれだけ馬鹿だらけかということが、痛いほどわかったはず。そういう人たちのこれからの義務は、お金を出すとか、震災のことを忘れないようにするとか、原発反対運動をするとか、そういったこと(だけ)ではないという、話。

 男は男と風呂に入るべきであるという文章が見つかりました。参考までにどうぞ。(2010年10月5日の日記)

2011/05/18 半ズボンとお風呂と下の毛のつんつるてんについて

 生きていくことは楽しい。まだやったことのないことがたくさんあって、まだ考えたことのないことがたくさんある。

「やってはいけないことではないはずなのに、みんながなんとなくやってはいけないことのような気がしていること」っていうのが僕はずっと気になっている。例えば「男が夏に短パンを穿くこと」。短パンは「洋服」と呼ばれるものの中では比較的日本の夏の気候に合っており、とても合理的なものであるはずなのだが、基本的にはそれを穿いて外に出てはいけないことになっている。
 最近は「ファッション」の名の下に短パンを穿く人が増えてはいるが、そういう人は概ね「ファッション業界の人」か、「若者」である。それに、短パンとは言っても丈が膝まであるもの(僕の地元ではこれを「ハーフ・パンツ」と呼んで区別していた)が中心で、名門私立小学校が男子の制服として採用しているような、のび太やスネ夫が穿いている類のあの「半ズボン」ではない。

 僕は二年前から、その丈の短い「半ズボン」を穿いて七月、八月を生活している。非常に快適であって、もう長ズボン生活には戻れないと思うほどだ。と言って、あんまり短すぎるといろいろと問題も起こるので、半ズボンとハーフ・パンツの中間くらいのものを穿いている。股が半分出る程度の。
「問題」について少しだけ突っ込むと、パンツやちんちん等がはみ出す、または見えてしまうということが挙げられる。小学生はだいたいブリーフと呼ばれる類の下着を身につけるし、ちんちんの毛もまだ生えていない(多くない、長くない)ので、見苦しいことは起きづらい。つまり、「小学生男子-半ズボン-ブリーフ-性器まわりの状態」というのは一本の線で繋がっているのである。
 トランクスの上に半ズボンを穿くと、少し心配である。ふとしたはずみで中身が見えてしまいそうで、半ズボンのメリットである「動きやすさ」が存分に発揮されない気がする。しかしブリーフというのも性器まわりの発達した成人男性にとってはやや心許ないものがある。そこで僕は、ブリーフのような材質で少しだけ丈の伸びた(だいたいは黒か灰色の)ボクサーパンツと呼ばれるものを愛用している。つまり、パンツもズボンも、小学生男子のよりは若干丈を伸ばしているというわけだ。

 と、毎年恒例の熱弁をふるっているが、今回は半ズボンの話ではない。
 半ズボンと似た構造の中にはめ込まれているものが、世の中にはたくさんあるということだ。「同調圧力」だとか「常識」や「空気」や「気分」なるものによって押さえ込まれている、本当は合理的であるようなことが。

 例えば、「一緒に風呂に入る」である。女の子同士が一緒にお風呂に入ることはそれほどタブーでなく、実際「お泊まり」なんかがあると一緒に入るパターンはかなり多いだろう。
 しかし、男性同士はどうだろう。「裸の付き合い」なんて言葉をドヤ顔で使うわりには、男性同士が家庭のお風呂に一緒に入ったという話は聞いたことがない。また、友人関係の男女で入るというのも聞かない。カップルなど肉体関係にある男女ならば一緒にお風呂に入ることもあるだろうが、肉体関係の存在しないところでは、基本的にはない。「お風呂だけは一緒に入る」という関係だって理屈としてはあってもいいはずなのだ。

 まず、男同士でお風呂に入るということだが、これは実際、一緒に入るメリットよりも気恥ずかしさだとか「一緒に入ることの必要性の薄さ」が勝るので、僕もほとんどどしたことがない。「銭湯に行こうぜ」というのは、いくらでもある。友達が泊まりに来たら、うちの狭い風呂に入ってもらうよりは銭湯に一緒に入ったほうがいい。男友達とはそもそも基本的にベタベタしないので、一緒に狭いお風呂に入ったところで楽しくはない。広いほうがいい。女の子同士だったら楽しそうだけど、男同士だと楽しさというのはあまり想像できない。まったくないとは言わないし、「男同士でも二人きりでお風呂に入るべきである」というのは主張としてはあるんだが、とりあえず保留してしまっている。 「男同士でも二人きりでお風呂に入るべきである」というのは、どこかに書いたような気がしたんだけど見つからないので今度書くか。

 異性とお風呂に入るというのは、もしも「この子とお風呂に入ったら楽しいに違いない」と思えるような、性的な関係の存在しない異性と出会えたら、すればいいようなものであろうと思う。家族とお風呂に入るようなものだ。

 それと、ここからが本題ではあるのだが、僕もまだ考えがまとまっていないので、まだ問題提起にとどめておく。みなさんもいろいろ考えてもらいたい。
 それは「下の毛をつんつるてんにする」ということである。
 某県某市にお住まいの女性から、「下の毛をすべてなくしてみたら、ものすごく具合がいいよ! みんなもつんつるてんにしたらいいよ!」というお便りを頂いた。話を聞いてみると、確かに彼女には下の毛をつんつるてんにするメリットがあった。メリットどころか、必然があったとさえ言っていい。圧倒的に、下の毛というのは彼女にとって邪魔者でしかなかったのである。だったら堂々とやればいいはずなのであるが、「同調圧力」「常識」「空気」「気分」などなどが、合理性を凌駕してしまう。それに下の毛をつんつるてんにするということについて性的な意味しか想像しないような人も多いので、「偏見」という問題もある。彼女からの話を聞けば聞くほど、下の毛をのさばらせておくことに必然を感じなくなる。少しでも邪魔だと思ったら、つんつるてんにするという選択肢はあるのである。
 もちろん、体質の問題もあって、彼女はたまたまうまくいったが、つんつるてんにすることによって肌のトラブルを呼ぶこともあるだろう。それに、メンテナンスの手間と「つんつるてんのメリット」を天秤にかけて、よくよく吟味する必要もある。
 ちなみに、なぜ僕がさっきから「剃る」という表現を使わないのかと言うと、「抜く」という選択肢があるからである。彼女はちなみに、「いったんすべて剃ったあと、新しく生えてくる毛モグラ叩きのように抜いていく」というのだ。なるほど。確かに、剃っただけだとすぐにチクチクになってしまうが、抜くのであればチクチクにならない。なぜならば、抜いた場合には毛というのはタケノコ状に生えてくるのであって、最初に顔を出す毛は細くて柔らかいのである。剃っただけだと、丸太状の毛が生えてくるために、チクチクになるのだ。男性のヒゲと同じである。
 僕も、下の毛をつんつるてんにしたっていいのである。してはいけない理由は特にないし、下の毛が邪魔だと思うことは確かにある。検討する価値はあって、検討しない理由はない。怠惰ということを憎むなら、下の毛をダブー視して、それについて何も考えないというのは道義に反する。

 成人の男性・女性であれば、下の毛を邪魔に思うことはあるだろう。下の毛がなければ蒸れにくいし、部屋にちぢれ毛が落ちることもなくなる。検討の価値はあるものだと思う。髪の毛や爪は切るのに下の毛は切らないというのは、「邪魔にならないと思い込んでいる」だけであって、ひとたび邪魔だと思ったら、切ったり剃ったり抜いたりしたって別にいいはずなのだ。

 みなさんもよく考えてみてほしいのである。

 暇な人はこれでもお読みください。

2011/05/16 答え合わせにならない親子関係

 僕はよく寝る。ひたすらよく眠る。なんでかって考えると、ひょっとしたら一日中頭使って気張ってるからなのかもしれない。もうちょっとゆったり生きてたっていいような気がする。
 4月25日の段階で「すべてを意識的に!」というような誓いを立てたんだけど、その中には「無意識すら支配下に置く」という含みもあるので、上手に無意識を使えるようになれたらと思う。無意識の最も簡易で怠惰な使い方は睡眠だから、寝ることに逃げているようでは僕もまだまだということだろう。もっと散歩とか森林浴とかそういうことをしなくてはならぬ。
 ここ数日ファミレスとか喫茶店にこもって同人誌のネタ出しをしてるんだけど、過去に作ったものと比べて圧倒的に進度が遅い。題材(原発)がリアルタイムで様相を変えるので、こちらもそれに対応しなければならないというのもあるし、現実の展開と空想(作品)の展開とのバランスを取るのが難しい。現実に傾けすぎるとつまらないし、空想に傾けすぎると荒唐無稽になって寓話として成り立たない。
 それで信じられないくらい頭を使っているので夜には燃え尽きてしまう。

 そこで僕はやっぱり無意識を支配して、うまいことリラクゼーション(笑)していくことが必要なのだと思う。何にせよ極端な僕は、10時間ぶっ続けで頭使って20時間寝るということを平気でやってしまうので、4時間やって1時間休んで4時間やって7時間寝るというような、まるでビジネスマンのようなタイムスケジュールだってできるようにならなければならんのである、と思う。


 昨夜は電話で、人生相談のようなことをやってしまった。人生相談を持ちかけられたというよりは、こっちで強引にそういう方向に持っていったんだけど。それについて詳しく書くと長くなりすぎるので結論だけを簡潔に(?)記す。
 世の中には「自分」と「他人」が存在していて、「基本的に自分のことしか考えない」という人がたくさんいる。そういう人は、自分の子供のことを「自分の分身」だと思ってしまいがちだと思う。子供を他人として認識できないということだ。人から言われてなるほどと思ったけど、子供っていうのは常に「自分と誰かとの子」なので、自分の分身であることはあり得ない。少なくとも「自分と誰かとの混ぜもの」でしかない。他人のことを考えない人は、子供が「自分と他人との子であるから、少なくとも半分は完全に他人である」ということがわからない。

 あるアレルギーを持った女性が、「父も祖母も同じアレルギーだから、自分の子供にも遺伝する可能性がある」と悩んでいるとする。彼女は「ああ、かわいそうに。私の子供は私と同じように辛い思いをするに違いない」と思い悩む。そして「私は子供を作らないほうがいいのかもしれない」と思う。
 こういう人には、確かに子供を作る資格がない。子供のことを一切考えていないからだ。子供を他人として見つめることができていないから、「子供は自分と同じように辛い思いをするだろう」という自分中心のことしか考えられなくて、「どうしたら子供に辛い思いをさせなくてすむだろう」という発想が抜けている。
 まず、「アレルギーを持っていても幸せになれる」ということを、自分が確信しなければならない。「このアレルギーを持った人は絶対に幸せにはなれない」と思っているのだとしたら、絶対に子供を作るべきではない。また、「私はアレルギーを持っていても幸せになれたのだから、子供だって絶対に幸せになるはずだ」という発想も危険だからやめたほうがいい。自分と子供とは他人なのだから、「絶対」ということはない。考えるべきは、「どうしたらこのアレルギーと上手に付き合っていけるだろうか」ということだ。親として、子のアレルギーとどのように付き合っていくべきか、だ。
 もちろん、うまくいくかどうかなんてわからないのだが、全身全霊で、生涯をかけて、子が幸せになるように生きていくのが親のつとめであって、そのことに関してはどの親も同じだ。アレルギーがなくたって幸せにならないかもしれないし、アレルギーがあったって幸せになるかもしれない。要は、「自分は子供のためにどれだけのことができるだろうか」ということだ。「子供がほしいな」と思ってしまったら、育てるための能力を育んでいくことを、第一に考えなければならない。

 などといった、偉そうな説教をしたものです。
 自分のことしか考えられない人は、「私の子供が幸せになるはずがない」という無責任なことばかりを考えている。「子供を上手に育てていく自信がない」というようなことを言う人は、まだマシというか、むしろいたって正常だ。誰だって自信なんかない。自信がないからこそ、頑張るんだ。
 自分のことしか考えられない人は、子供を他人だと思っていないから、「育てる」という発想がない。あるいは「育てる」ということを信用していない。ただ、「自分の子供なんだから……」ということしか考えない。
「遺伝」ということばかりを考えて、「育てる」ということ、すなわち「環境」ということを一切考えないのが、自分のことしか考えられない人たちの特徴なのではないかと僕は勝手に考える。
 また、大きな問題として、自分のことしか考えられない人は他人と付き合っていくことが実は下手くそだから、子供に対してもろくなコミュニケーションを取れない。接し方が常に一方的になってしまって、子供の気持ちというものを考えない。考えないというのは、「勝手に推測してしまう」というのも含む。

 自分のことしか考えられない人の最大の特徴は、「他人の気持ちを勝手に推し量る」なのだ。「あの人はきっとこういうふうに思っているに違いない」の類だ。恋愛が下手くそな女の子というのは、だいたいがこれだと思っていい。自分勝手な女の子は、すぐに勝手に遠慮する。男の子のほうが「手を繋ぎたいな」と思っていても、自分勝手な女の子は「あたしは手の汗がひどいから、きっと手を繋ぎたくなんかないだろうな」と勝手に遠慮する。男の子のほうはそんなこと微塵も思わなかったとしても。

 子供に対して、同じことをやってしまったら、もうおしまいだ。「この子はこういうふうに思ってるんだろうな」と、勝手に推測するような親というのは、極めて多い。子供を他人として尊重していないから、自分の頭の中で勝手に「子供の気持ち」をつくり上げてしまう。そういう人は、他人に対しても同じように振る舞ってきたのだろう。そしてそのようなやり方で、ある程度はうまくいってきたのだろう。「勝手に推測する」は、うまくいくところでは非常にうまくいくのだ。行きすぎてもせいぜい「お節介」や「謙虚」にしかならなくて、それらは「いい人」の延長線上にあるから。

 子供は、そういう親に対して「わかってもらえないんだな」としか思わない。親に理解してもらえていないと思ってしまった子供は、親を信用しなくなる。親を信用しない子供は、親に反抗するか、仕方なく親の言いなりになるか、という、二つの道しか許されない。そういう親には、自分の意見など通用するわけがないのだ。
 親と子供が他人である、という前提の上では、親と子供が「一緒に考える」ということはありうるが、親と子供が同じものである、という前提の上では、「これはよし、あれはダメ」という「答え合わせ」にしかならない。
 僕の友達で、「ずっと付き合ってる彼氏がいるけど、親が反対するから結婚できないでいる」という女の子がいる。とっくに二十歳を過ぎている子だ。その子が親とどういう話し合い方をしたのかは知らないが、それが単なる「答え合わせ」ではなかったことを祈る。彼女は高校時代に「親に言われて大好きな部活を辞めさせられた」ということがあって、それで僕は少し心配している。

2011/05/15 自由とは混沌の中にすべてを投げ込むことではない

 なぜ人を殺してはいけないか、という問いの立て方はインチキである。人を殺しても良いかどうかということの判断を禁じるからだ。「どんな状況下であれ、人を殺しては絶対にいけない」と主張して、穴のない理屈をくっつけるのはたぶん非常に難しい。この問いは、はじめから答えることなどできない悪問なのだ。「なぜ人を殺してはいけないか」というのは、「人を殺してはいけないということを、誰にでも納得がいくように証明しなさい。あなた独自の疑問や主張はここでは禁じます」という、非常に意地悪な問いである。
 実際、人を殺して良いかどうかというのは、わからないのである。殺してはいけない状況がほとんどだと思うが、殺してもいい状況もあるかもしれない。昨日書いた正当防衛というものや、死ぬほど辛い状況下での自殺についてなどはまだ何らかの答えが出せそうだが、赤ん坊を守るために年寄りを殺すとか、世界を良くするために大量殺戮をするとか、そういった問題にはなかなか答えを出すことができない。
 結局、「良い」「悪い」で考えているから、ダメなんだと思う。なんでも良い悪いで考えようとするのは怠惰だという考え方だってあるのだ。良いとか悪いとかはいったん脇に置いておいて、「そこで人を殺すというのにはどんな意味があるのか」ということを突き詰めて考えた方が意義深い場合は多い。
 飢える寸前の赤ん坊と年寄りがいて、年寄りが赤ん坊のミルクを奪おうとした。母親は力尽きかけているが、年寄りはまだ比較的元気がある。「ここでこの年寄りを殺しておかなければ、わたしが死んだあとにこの年寄りは赤ん坊を殺してでもミルクを飲むだろう」と予感すれば、年寄りを殺すことは「赤ん坊を生かす」という目的においては合理的で、妥当な判断だと思う。
 問題は「何がなんでも赤ん坊を生かすべきか、年寄りだけが生き残っても別に構わないのか、全員が生きのびる方法を最後まで考え、あとは成り行きに任す(人事を尽くして天命を待つ)のか、全員死んだほうがマシなのか……」ということになってくる。
 それぞれの目的(誰を生かすか、等)についてよく吟味し、検討した結果、いずれかを選ぶ。(あるいは「選ばない」を選ぶ。)
 すなわち、「目的」ということを明確にすべきということだが、目的がどうしても明確にならない場合だってある。赤ん坊は生きたいのか死んでもいいのかよくわからないが、年寄りは明確に生きたいと思っている。ならば「生きたい」という強い意志を尊重すべきではないか? という主張だって当然あるし、「赤ん坊は本能的に生きようとしている」と見る観察の仕方だってある。
 そういうときに必要になってくるのが、道徳、倫理、正しさ、とかいった類のものである。それは、集団があらかじめ設定しておかなければならない。でないと「目的」が定まらないので、「誰を生かすか」を決められず、混沌とするのみだ。もちろん、別に混沌としていたっていいのかもしれない。もしあらかじめモラルが定まってさえいれば、混沌にはならない。モラルを定めなければ、混沌とする。それだけのことだ。良い悪いではない。
 僕は、モラルのようなものはあったほうがいいだろう、と、どういうわけだかずっと思っているので、「正しさ」というものを集団は設定すべきだと思う。それは時代ごとに、場所ごとに違っていたっていい。せめて、子供の命や生活を尊重するのか、それよりも既得権益や、大人の儲ける金の総量を優先するのかということくらいは、モラルとして設定してほしいものだと思う。それがないから、混沌とするのだ。混沌とすると、平気で子供たちが死んでいったり、病んでいったり、ひたすらバカになっていったりする。僕は子供がとても好きだから、とても嫌な気分になる。だったらせめて、「我々の集団では何よりも金の総量を優先する」とか言ってもらったほうが気持ちがいいし、子供たちだって気を引き締めるだろうに。そうでないから、誰も何も考えないのだ。
 ちなみに、「許されている」ということは、「混沌としている」ということに非常に近しい状態だ。混沌とどう付き合っていくか、ということを、もっと考えねばならない。自由とはあらゆるものを混沌の中に投げ入れることではない。

2011/05/14 自殺の正当防衛

 もしも、「自殺はしてはいけない」のだとしたら、大人は全力で、そのことを強調しなければならない。決して自殺を美談にしてはいけないし、自殺した人に優しくしてもいけない。
 後輩がそのような意味のことをWeb日記に書いていて、深く同意した。
「自殺することが許されている」なんて状況があってはならない。「自殺することは許されない」というふうでなければダメだ。「許されない」とされていなければ、自殺について深く考える前に「許されているんだから」と、決行してしまう。僕が数日前に書いた「許される」ということの意味に則れば、そういうことになる。それで「自殺」ということの重大さが曖昧にされてしまう。
 自殺した人間には、必ず「バカだ」とか「ダメだ」とか言わなければならない。人を殺してはいけないことの第一の理由は、殺された本人に迷惑がかかることだが、第二の理由は、当事者たち(殺す側も、殺された側も)の周囲に迷惑がかかることだ。自分を殺すということは、第二の理由に抵触する。だから、罪人である。何よりも先に罪人である。
 辛いことがあったから自殺した、というのは、殴られたから殺した、とか、バカにされたから殺した、というのと同じだ。
 もちろん、同情の余地、情状酌量、そして正当防衛ということはあるだろう。それらは認められるべきで、「ある程度納得のいく自殺」というものはあるかもしれない。
 顔や身体が変形するくらい毎日ボコボコに殴られて、レイプされ続けて、飯もろくに与えられず、糞尿も垂れ流しにされており、これから先助かりそうな見込みもない。そんなときには、自殺を選んでも同情を持って迎えられるべきで、その罪は問われるべきではないのかもしれない。
 また、たぶんすべての自殺は正当防衛としての側面がある。「つらい、これは死ぬ」と思うから、すなわち「死ぬほどつらい」と思うからこそ、人は自殺するのだろう。「つらい」と感じるのは自分だから、「つらい、死ぬ(=殺される)」と強く感じれば、それを避けるためには原因たる自分を殺すしかない。しかし、正当防衛が認められるかどうかというのは、「本当にそんな切迫した状況だったのか」ということが客観的に検討され、認められるようなときだけだ。認められなければ、犯罪者として罪を負うことになる。本人だけが「正当防衛だ」と思っても、他人が認めてくれなければ意味がない。
 それで、現代というのは、自殺と聞けば何でも「うん、正当防衛だね」と言ってあげてしまうような、甘くてやさしい世の中なのかもしれない。問題はそこにある。
 自殺を「悪」と言い切れないようなときというのは、「いま自らの手で死ななければ、近いうちにさらに苦しんで死ぬであろう」ということが客観的にも明らかであるときだけだと思う。それ以外の状況では悪であり、犯罪だ。
 そう周知徹底するように、大人たちは生きていかなければならないと思う。でなければ大切な人たちが次々と死んでいくのを、泣きながら見ているだけの日々がこれからも続いていくのみだろう。

2011/05/13 考えられたことのないことを書きたい

 日記とは言いながら、ここ数年の僕は日常を書くということをあまりしない。昔は意識していなかったが、最近は「ここにはどういうことを書くか」というのを考えるようになったと思う。
 僕はこの日記を読む人が、「ああ、これは考えたことがなかったな」と思ってくれることを期待して書いている。「こんなこと、とっくに考えたことがあるよ」と思われてしまわないように、できるだけ「多くの人がまだ考えていなさそうなこと」を書くように努めている。あるいは、「漠然と考えてはいたけれども、まだ言葉にはできていなかった」ということなどを。
 それはつまり、少なくとも「僕が他人の口や文章から聞いたことのないこと」ということになる。さらに、「たぶん他人が考えるであろうこと」を想像して、そこを外すようにする。それが成功しているのかどうかはまったくわからないが、理想として、そういうものを目指してはいる。

 高校生の頃から、他人のWeb日記を読んでいて、「これは僕が以前書いたこととほとんど同じではないか」と思うようなことが書かれていると、異常に嫌な気分になっていた。それは「真似された」とか「影響させてしまった」といった傲慢な、不遜な感情でもあったかもしれないが、それだけではなくて、「他人にも書けるようなことを自分は書いてしまった」という、恥ずかしさや、自己嫌悪といったような類のものでもあった。「なんだ、自分が偉そうに書いていたことは、別に誰だって簡単に発想できるような、取るに足らないくだらないことだったんじゃないか」という、小さな絶望感だった。
 そういうことの積み重ねがあって、その反動で、「他人が考えたことのないことを書きたい」と思っているのだろう。

 一つの記事に一つくらいは、そういう、他人の思わないようなことを書きこみたいと思っていると、けっこう難しくて、そんなことを重視してしまうと、「毎日書く」という日記の最も基本的な性質を無視してしまうことになって、少しは反省している。
 11日の記事は、「体育の時間に、あんまり積極的になれないでいる人たちの心理の一面」を書いてみたのだが、僕はこういうことを文章にしているのを見たことがない。と言って誰も考えたことがないようなもんかというとたぶんそうでもなくて、当事者の中には心のどこかで似たようなことを思っていたり、それを文章にした人もあったかもしれない。しかし、そのような文章に触れたことのある人は極めて稀だろうと思って、書いてみた。

「運動部の奴らが偉そうにしてて鬱陶しい」とか「あいつらのせいで体育が楽しめない」と言う人はいくらでもいるだろうから、そういう言い方にとどめたくはなかった。「自分なんかのために、トスが上げられていいわけがない」という卑屈な発想は、そのレベルを多少は超えているんじゃないかと思うが、どうだろう。「チームの勝利のために、自分は体育を楽しまないで、脇役を務める。その結果、まったく上手にならず、好きにもなれない」というのも、意外とはっきり言う人がいないのではないか。
 学校教育の現場というのは、卑屈で謙虚な「普通のいい子たち」の見えない献身によって支えられている。スポーツのできるやつはたぶん一般にそのことがわからない。「あいつは下手くそな上に、スポーツに対する積極性もない」とだけ思って、「わたしは下手くそだから、積極的になっていいわけがない」という卑屈な思いを理解しようとしない。どちらに問題があるということはできないが、そういう空気が自然にできあがってしまうような学校の体育というものが僕はやっぱり好きではない。

 のではあるが、やっぱり身体を動かすのが大好きなので、今日のような天気のいい日はサッカーボール持って公園か河原にでも行き、鉄棒やなんやらで遊びたいものだ。
 三月に神戸の震災復興記念公園の芝生で、走り回ったり馬跳びしたりとかして遊んだのは実に楽しかった。あれが何か未来の象徴であれば良いのに。

2011/05/11 球技が苦手「だった」僕と原っぱの自由

 ビールより焼酎よりウィスキーより日本茶と甘酒が好きだ。酔うつもりならば日本酒が好きだ。岡村ちゃん復帰のニュースを受け、すかさずお茶を淹れて飲んでいる。ういろを食べている。

 近未来を思うと顔がにやけるほど幸せな気分になる。遠い未来もきっと幸福だろう。明日はひとまずやることがある。しかし、一週間後、一ヶ月後というのが怖い。それと十年後あたりが、いったん怖い。

 弟子が朗読テープを作っているとか言っていたので、僕もそういうものを作ろうと思いたった。古文を朗読して受験生である弟子にプレゼントしようと思ってやり始めているのだが、だいたい途中で噛んでしまい、やり直しになる。ああいっそ、そういうのもそのまま収録してしまおうか。そうせねば、何ヶ月経っても終わらないような気がする。

 先日ものすごく久しぶりに弟子と遊んだ。何もせずぼんやりとしたのち、公園に行って鉄棒とボールで遊んだ。僕は昔はリフティングが全然できなかったが、特に練習したわけでもないのにそれなりにできるようになっている。と言っても、永遠に続けられるほどのものではなくて、十回くらい続くとどっか飛んでいってしまうのだが、それでも大した進歩だ。それから、ドリブルも多少はサマになってきている、気がする。
 小さいころボールで遊ぶような友達がおらず、学校でも放課(休み時間のことを名古屋弁でこう言う)に積極的にボール遊びをするようなタイプでもなかった(そういう時期もあったが)し、体育でも、球技大会でもあんまり活躍せず、球技というものは自分とは本当に縁遠いものだと思っていたのだが、ここにきてそうでもないような気がしてきている。
 球技ができなかった僕に足りなかったものとは、運動能力ではなかった。スポーツテストでもまずいのはソフトボール投げ(これも球技)だけで、あとは人並み以上だったと思う。

 僕にはとにかく自信がなくって、「自分には球技ができない」と思い込んでいたのだった。だから、できるはずのこともできなかったのだ。
「できない」と思っているから、一歩踏み込む度胸が持てない。「できないくせに、なに調子乗ってんだよ」とか思われるんじゃないかと思って、積極的になれない。サッカーやバスケのような暴力的なスポーツほど、そういう傾向が強かった。「どうせできない」と思うから、練習が積み上がっていかない。向上心がないから、向上しない。
 バレーボールは比較的好きだったが、これもアタックはできなかった。なぜアタックができないのかというと、「自分なんかのためにトスを上げられていいわけがない」と思っていたからだ。トスをあげてもらわなければ、アタックはできない。僕は前列にいてもトスをあげてもらってはいけないような気がしていた。そんなもんは決定的な勘違いなのだが、たぶん球技のできない人というのはみんなそういうふうに思い込んでいる。
 サッカーでもバスケでも、「自分はボールを持っていてはいけない」と思っていた。どうせ下手なのだから、ボールを持ったらすぐに上手い人に渡さなければならないと思っていた。それで上手くなるはずがないし、そんなことでチーム制のスポーツが成り立つわけがないのに、球技のできない人というのはたぶん、みんなそういうふうに思っている。そんなわけで僕は「ボールを奪う」とか「ゴールを守る」ということはできるが、「攻める」というのがどうにもできなかったわけである。長らく。
(思い出話兼自慢話をすると、高校の球技大会でゴールキーパーをやった際には、サッカー部の人が戦慄するようなファインプレーを連発していたものである。……ただし、僕は「はじく」のは得意だが「キャッチする」のがそれほどでもなく、しかも「ゴールキック」が死ぬほど下手だったので、全体として見れば並以下だったのだが。)

 ところが、今、「学校」という空間から出て、たかゆき氏や弟子やなんかと、まったく気を遣わないでガキのように遊んでいると、「自信」のあるなしなんてのは、まったく関係がなくなる。今なら、サッカーをやっても、下手くそなくせに「ヘイヘイ! センタリングセンタリング!」とか叫ぶくらいのことはするだろう。学校っていうのが、あるいは「近代的な子供社会」っていうのが、運動やスポーツとなるといやにプレッシャーに充ち満ちてしまうから、いかんのだ。
 本当に、今だったら、バスケでも僕は下手くそなくせに果敢にドリブルしてシュートを狙いに行くだろう。バレーでも「トスくれ!」とか言ってアタックを狙うだろう。
 子供のころ、それができなかったのは、「チームの勝利」のことばかり考えていたからかもしれない。「勝つために最もよいのは、下手な人がむやみに動かないで、上手い人にボールを渡すことだ」というのは、子供のうちで暗黙の了解になっていたと思う。学校ではなぜか(主に上手い人の間では)「勝利」というのが絶対の価値を持っていたから、下手な人が下手に動いて負けると、「お前のせいで負けたんだ」とか言われる。ジャイアンがよく言ってるよね。それが嫌だから、下手な人は積極的になれない。できるだけ目立たないように、迷惑にならないようにする技術だけを身につけようとする。

 大人になってようやく、そういうくびきから解放されるというのは、実に皮肉なもんだ。大人になると、サッカーをする相手もいなくなる。草サッカーチームみたいなのは、どうなんだろう。学校や「近代的な子供社会」にあったようなプレッシャーから解き放たれた世界なのだろうか。そうだったらいいなと思うが、もしそうでないのだとしたら、僕なんかが楽しんでスポーツをするような機会はほとんど永遠に訪れないことになる。
 草野球とかって、ひとつのチームにおじいちゃんから子供までいたりするし、プロ並みにうまい人から素人同然の人までいたりするんだけど、そういうアンバランスなチームでもみんなが楽しんでやれるのだとしたら、非常にすばらしい文化だと思う。僕は野球というものを一度もやったことがないので、よくわからないのだが。

 弟子とは公園で、サッカーボールを蹴り合ったり、取り合ったり、投げ合ったりした。実に楽しかった。五、六人いたらめっちゃくちゃ楽しいんだけどなーとか思いつつ、そういえば僕は練馬で生涯学習団体を作ろうと考えているのだと思い出した。そうそう、こういうことをやりたいんだよなー、僕は。
 学校や子供社会では、下手くそな人って生きづらくって、それで積極的になれなくて、ちっとも上手くならなくて、たいていはそのまま死んでいく。だけど、ボール遊びってのは楽しいもんだ。楽しみたいものです。もっともっと。

 たびたび書いているけど、僕はオリジナルのゲームを作るのが好きだ。先日は「おはなと毒ガスゲーム」ってのを作って、三人でやった。極限まで単純なルールで、勝ち負けも何もないんだけど、すこぶる楽しかった。
 たとえば僕はサッカーボールを持っているんだけど、サッカーボールを使って、サッカー以外の楽しいオリジナルゲームを作るのって、たぶんぜんぜん難しくない。というか、楽しく遊ぼうとするうちに、きっとそういうふうになっていく。そういうことをやりたい。楽しく、楽しく。自分たちの躍動の方面へ、自由に遊びの領域を広げていくのだ。それこそあの原っぱのように。

2011/05/10 放射線と電磁波と避妊

『携帯電磁波の人体影響』という本を読んでいる。ああ、そういえばそういうことにも気を遣わなければならないんだよな、と思い出したように思った。
 意識し出すとどうも気になってしまうもので、ポケットに携帯入れるのはやめようだとか、なるべくイヤホンマイクを使うようにしなければとか、さまざまに考える。そもそも使用頻度を減らさねばということに落ちつく。
 危険ということを考えると、やはり人工的なものは危険度が高そうに見える。最近は紫外線とかが破壊的に強くなっているとか聞くのだが、「紫外線が強くなった原因は人工的なものである」と言うこともできるだろうから、やはり自然は放っておくが吉だ。

 僕はいまだに放射能とか放射線というものを気にしていて、毎日状況をチェックしている。東京都の水道はほぼ安全というところで安定しているようなので、そろそろがぶがぶ水飲んだってそれほど問題はないだろう。上空18メートルの放射線量は安定していて、今のところは新たに放射性物質が飛んできているということはないと思う。5月8日に福島原発からいくらか放出された影響がどうなるか僕はわからないので、しばらくは様子見が必要だけど。
 スーパーに行ったら、「兵庫県 淡路島産他レタス 99円」と書いてあったので、ルンルン気分で買ってみたら、レタスのパッケージに「茨城産」と記されているのに後で気づいた。「他」ってのはそういう意味かとおののいた。
 野菜は産地を凝視して買う。あっちのほうの野菜を買った場合は、外側の葉や皮は捨てて、よく洗い、茹でられるのならば茹でる。
 わけもなく忌避するほどのことでは、もうなくなっていると思うが、気にし続けることは大切だと思う。それは正しい偏見、正しい差別だ。知らない人や、人を殺した人間を警戒するのは当たり前のことだ。警戒を前提とした上で、どのように接していくか、が問われるところ。

 携帯電話の電磁波についても、その影響はよくわかっていないし、よほど大量に浴びない限りは大丈夫だろうと思われている。こういうよくわからないものを、僕は気にしてしまう。
 人によっては、「よくわからないものは気にしても仕方ないから気にしない」と、震災直後でもガブガブ水道水飲んで、携帯電話も気にせずポケットに入れ続けるだろう。彼らにはギャンブラーの素質がある。僕にはあまりない。君子危うきに近寄らずという言葉が常に頭をよぎる。
 そして僕はかなり避妊をする。それなりの避妊が可能でない状況下では基本的にセックスをしない。避妊だけでなく性感染症の問題もあって、基本的には警戒するのは当たり前だし、自分が何の病気も持っていないとは完全には言い切れない。童貞・処女の諸君には信じられないかも知れないが、この世の中というのは、男でも女でも、平気でナマでやっちゃう世の中なのである。
 女の子から迫られて、こっちにはその気がなかったので「いやーでもゴムとかないし」と言って逃げようとしたら、平然と「そんなもんいらないでしょ」って言われたことがある。「基本的にゴムつけたことはありません」と言う男友達も何人かいる。それでも「妊娠という騒動」があまり起こらないのは、できちゃった結婚が一般化したからなのか、堕胎が一般化したからなのか。あるいは、それほどに妊娠する確率というのは低いものなのか。
 この件に関しては人によっていろいろな考えがあると思うので、何がよいとか悪いとかは言えないが、少なくとも僕は、子供を作ろうという意志がないところでは、できる限りそれを避けようとする。ならセックスをするなということではあるのだが、それは「電磁波怖いからといって携帯を使わないわけにはいかない」というのと似たようなものである。本当は携帯を使わないことは可能なんだけど、欲望や利便性等々との兼ね合いで、使ってしまうという。避妊というのも欲望や利便性との兼ね合いである。
「兼ね合い方」というのは個人差があって、「外出しすれば十分」という人もいるし、「ゴム付けて外出し」という人もいる。「日によれば中出しする」という人も、「婚前交渉はしない」という人だっているだろう。そのバランス感覚については、最終的には個人の判断に委ねられ、個人の上に責任がかぶせられる。
 パチンコに喩えると、「日によれば中出しする」人は4円パチンコ、「外出しすれば十分」という人は1円パチンコ、「ゴムつけてします」という人はゲーセンのパチンコ(メダルゲームでもよい)、みたいなイメージだろうか。「ゴムつけて外出し」はなんだろう、家庭用のパチンコゲームかな。ピル的なものは筐体買ってきて家で打つって感じ?
 セックスをする、という時点でギャンブル的な要素はあるんだけど、そのギャンブル性の高さというのは、上記のようなイメージで説明できると思う。

 放射線の被曝についても、電磁波の曝露についても、すべて避妊と似たようなものである。どのように対応しているかで、その人のギャンブラーの素質というものがわかる。思うに、平気でナマでセックスできるような人は放射線や電磁波についてもあんまり気にしないのではないだろうか。現実にはそんなことなくても、僕はわりとそう思い込んでいる。
 つまり、「ナマでしたって外に出せば平気」とか「安全日なら大丈夫」とか思っている人たちは、「ただちに健康に影響ない」とか「むしろ身体にいい」とか言っている人たちと同じようなもんなのではないかということだ。
 じっさい、外に出せば妊娠しない可能性は非常に高まる。「むしろ身体にいい」というのも一面的には真実かも知れない。しかし、妊娠する可能性は本当はゼロではないし、いっさい身体に悪影響がないのかというのは証明できない。僕は何らかの影響があるかもしれないと思うから、気をつける。電磁波も同様。
 遠く海外に逃げ、携帯を持たず、セックスも一切しない、というのはギャンブラーの素質がゼロであるわけだが、現実にはそういう人はまずいない。多かれ少なかれ人生はギャンブルであるらしい。

2011/05/09 君が代を強制し、投票を義務化すると

 我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
                           (読人しらず)

 という歌が『古今和歌集』にありまして、国歌『君が代』の元になりました。
「君が代」というのは「天皇の御代(治世)」という意味で、「君=天皇」「が=の」「代=御代(治世)」という具合に、古文を学ぶ上で重要な語が三つも入っているので、国語の授業に使いやすいであります。
 歌の意味としては、「天皇の治世が末永く続く(といいな)」くらいの意味だと思えばよいとおもいます。

 僕が教えていた某私立中学校は、左翼学校であるためか、『君が代』をいっさい歌わないようです。たぶん、幼稚園から大学まで、一度も歌わないのでしょう。ある生徒は、「教科書に載ってて、しかも国歌であるらしいのに、どうして歌わないのだろうと思っていた」と僕に言いました。
 ゆえに、彼らは君が代にまつわる問題(教員が起立しないとか、歌わないとか)をまったく知らないか、知識として知っているという程度で、それどころか、「君が代」が「天皇の御代(治世)」を表すということも、知らない子が多いようです。


 入学式での『君が代』斉唱時に起立しなかった大阪府立高校の女性教諭二名(53歳と54歳)が、五月六日に戒告処分を受けたらしい。戒告というのは、職を辞さねばならないような重い罰が伴うわけではないのだけども、「教員は君が代を歌わなければならない」というルールを積極的に表明したという点において重大な意味がある。
 もうちょっと詳しく言うと、その学校では「君が代斉唱時に起立しなさい」という職務命令が文書で下されていたらしい。それに違反したというので、戒告になったというわけだ。

「君が代を歌わない」という選択肢が許されるかどうか、というのは非常に大きな問題だ。
 僕の勤めていた中学校では、一度も歌わないし、歌う学校でも、歌わない先生はいて、歌わない子供に注意をしないような場合も多い。
 実際、「歌わない」ということは許されているのだ。
 許されているから、歌わない教員はたくさんいる。
 許されているから、「戒告」に反発する声だって出る。
 許されていなければ、すなわち、「歌わなければならない」ということであれば、話は別だ。その場合は、「歌わなければならないのはおかしい」という声が出て、もっと大きな運動になっていくはずだ。

「歌わなくてもいい」という状況だから、「じゃあ歌わない」という人が出て、そこでおしまいになる。「じゃあ歌わない」という人が罰せられると、「歌わなくてもいいんじゃなかったのか?(歌わないことは当然の権利ではないのか?)」ということになって、そこではじめて反発が出る。
 つまり、国歌斉唱時に起立しなかったり、歌わなかったりする教員が存在するのは、「歌わなくてもいい」という状況があったからで、そのことがずっと状況を膠着させてきたのだ。
 状況が膠着するというのは、「君が代を斉唱するのはおかしい」ということが、具体的な運動になっていないということだ。個人個人が「私は歌わない」というレベルで、自分勝手にやってきて、その状況が数十年間何も変わっていないということだ。
 具体的な運動にならないということは、思想にならないということで、思想にならなければ、説得力を持たない。それだから「歌うとか歌わないとか、どうでもいい」と思っている人たちにとっては、「なんだかよくわかんない意地を張ってる人たちがいるんだなあ」というくらいにしか映らず、そのため僕の教え子たちは「君が代」の意味すら知らないのである。
「本校では歌わない」という形で『君が代』を無視してしまえば、その問題はそこでおしまいになる。それで何が起こるのかというと、その学校に世間知らずの子供たちが生まれるだけなのだ。

「歌わなくてもいい」という状況は、人に「歌わない」ということを許す。それで、「歌いたくない」と思っている人は歌わなくなって、それでおしまいになる。
 もしも「歌ってはいけない」という状況があれば、教員たちはみな君が代を歌うだろう。生徒にも「歌いなさい」と言うだろう。しかし本当に「歌うのはおかしいのではないか」と思う人たちが多ければ、徒党を組んで体制を批判し、大きな運動へと発展していくだろう。
「組合」がどれだけ頑張ったって、「歌わない」が許されている限りは、運動は盛り上がらない。「どうでもいい」とか「よくわからない」と思っている、大多数の普通の人たちを巻き込んでいくことができないからだ。
「歌え」と言われているのなら、普通の人たちだって、「そういえば、なぜ歌わされているのだろうか」と疑問に思ったり、「歌いたくない人が歌わされて可哀想だなあ」と思うこともあるかもしれない。が、「歌わない」が許されているうちは、「嫌なら歌わなきゃいいだけのことじゃん、実際、歌ってない人いるじゃん」で終わる。

「許されている」ということは、実は危険なことかもしれない。ガスが抜けてしまって、爆発しない。

 日本国憲法には、参政(投票)の義務は記されていない。納税の義務があるだけだ。だから、「税金を払いたくない」という人はいても、「投票に行きたくない」という人はいない。いや、実際はいるのだが、その人が投票に行かなければすむ話なのだから、その声は決して大きくはならない。日本には義務投票制はなく、それゆえ日本人には投票しないことが許されている。
 僕は、選挙で投票することを義務化するべきだと思う。義務化すればみんな真剣に考えるだろうし、何より、「なぜ投票をしなければいけないのか」という疑問が高まってくるはずだ。
 投票が義務化されないのは、民主主義を守るためだ。選挙という民主主義の根幹をなすシステムについて、疑問を抱かせないために、「選挙に行かない」ということが僕たちには許されている。
 もしも投票が義務化されたならば、「選挙はイヤだ」と思っている人たちが、そのことを強く自覚し、選挙に対してはっきりと疑問を持つようになるだろう。そして「今の選挙システム以外に、よい方法はないのだろうか」と考えはじめるかもしれない。
 僕はそういう流れに期待して、投票を義務化すべきだと思っている。

「投票しないことが許されている」という状況では、「投票する」ということに対して疑問を抱くことができない。
「君が代を歌わないことが許されている」という状況では、「君が代を歌う」ということに対して疑問を抱くことができない。同じことだ。

 よって、僕は「『君が代』斉唱時に起立・歌唱しない公立校の教員は、厳罰に処すべきである」と考える。可能ならば私立校や宗教系の学校でさえ、一度は義務化すべきだと思う。そうでなければ、状況は膠着したまま、進まない。「許されている」ということは、人間から考える力と機会を奪う。
 せめて、「学校単位で歌う・歌わないの選択はできるが、歌うと決まった以上は生徒に範を示すためにも教員は起立し、歌わなければならない」というくらいのところで落ち着いてほしいというのが個人的な想い。歌うと決まっているからには歌う、歌いたくない先生は、生徒たちに「俺は歌いたくないが、決まりだから歌う! お前らも歌えよ! もしイヤだったら歌わなくてもいいように世の中(学校)を変えろ! ちなみに俺は、歌わなくてもよくなるようにいろいろ活動しているよ」というふうに語れば良い。そういう先生は、かっこいいぞ。

2011/05/05 ぷりん帝国

 考えてみる。

 ある人物が死ねば、ある難病の特効薬が得られるとする。
 ある人は、「殺すべきだ」と言った。
 一人を殺せば、その難病で苦しんでいる、あるいはこれから苦しむかもしれないたくさんの人たちを救うことができるのだ。
 殺すとして、誰が殺せばいいのだろう。
 権力、たとえば国が殺すべきだろうか。
 まず、倫理的に許されないだろう。それに「国家は、公共の利益のためには個人を殺してもいい」という前例を作るのは、おそらく危険だ。「公共の利益」をはかる物差し次第では、大変なことになりかねない。「B型とAB型は公共の利益のために全員殺そう」とかいうことになるかもしれない。
 だから、国家としては、その人が死ぬのを待つしかない。
 死ぬのが一分一秒でも早ければ、そのぶん助かる人が増える。
 最も丸く収まるのは、その人が自殺することだ。
 偉人として永遠に語り継がれるだろう。
 しかし、本人にその気がなかったとしたら。
 誰かがやるしかない。
「正義」に燃えた誰かが、その人を殺す。
 警察は殺した人を捕まえる。
 殺した人は、裁判を受けて、刑務所へ入って、しばらくしたら 出てくる。
 一部では英雄として、一部では人でなしとして迎えられるだろう。

 実際には、「正義」に燃えた誰かではなくて、特効薬に関する利権がらみで、ヤクザが動くのかもしれない。依頼するのはどこかの企業かもしれないし、国かもしれない。ヤクザが先回りして単体で動く可能性もある。
 たぶんヤクザというのはそういう役割なのだろう。
 合理性を追求すると、倫理や道徳、常識などが邪魔になる。
 人情とかもか。要するに善なるものが邪魔になる。
 邪魔なものを回避するために、裏ルートというものがある。
 この裏ルートのことを「必要悪」という。

 必要悪は、悪なのだから、あるよりはないほうがいい。
 ヤクザは必要悪だと僕は思う。
 あるよりはないほうがいいが、今のところはあったほうがいいのだろう。
 上の例では、ヤクザがいなければ、「正義」に燃えた誰かが殺すか、企業か国(カタギの人々)がこっそり殺すことになる。
 ヤクザがいれば、カタギの人々は手を汚さずに済む。
 必要悪というのは、カタギの人々が手を汚さないために存在するようだ。
 必要悪が存在せず、カタギの人々も手を汚さないためには、合理的であることを放棄するか、もしくは「人命は何よりも尊ぶべきである」という前提を壊すしかない。それができないから、必要悪は存在し、善なるカタギの人々も時に手を汚す。
 僕は必要悪はあるよりないほうがいいと思うし、カタギの人々が手を汚すのはよくないことだと思うので、合理的であることを放棄するか、「人命は何よりも尊ぶべきである」という前提を壊したく存じます。

2011/05/04 これから始まるショーを御覧あれ

 何百枚かCDを捨てる。二束三文で売り払う。ディルアングレイもイエロー・モンキーもブランキージェットシティもミッシェルガンエレファントも。どれも好きなバンドだけど人生は引き算だ。ハートをシェイプアップするために、必要ということを見つめ直す時期に来ているのだ。

 かっこいいことを言っていても相変わらず生活は怠惰である。
 怠惰との闘争である。

「起きたい時間に起きられるように」とか「姿勢をよくしよう」とか、まともなダメ人間だったら一度は考えることだと思うのだが、そういったことは、「起きたい時間に起きられるように」とか「姿勢をよくしよう」とか、そういうふうに個別具体的にのみ考えている以上は絶対に改善できないものであると思う。もっと根本的なところを考え直さねばならない。
 つまり、それら個別具体的な行動の芯となる、信念を、指針を、思想を、練り直さねばならんわけである。
「姿勢をよくしよう」では人間は変わらないが、宗教を信じれば人間は変わる。姿勢だってよくなる。
 宗教のように確固たるものを自らの内に確立しなければ。

 僕はまだそれが上手くいっていないらしく、それがゆえに、怠惰との闘争を続けているわけである。怠惰から脱するためには、自らのあらゆる行動の、進んでいくべき先が決まっていなければならない。
 それにしても、「怠惰」ということを認識できるということは、「怠惰ではない在り方」を知っているということだ。そう、具体的には知っている。あとはこれを、極限まで抽象化して、根本的なレベルにまで持ってきてやればいい。
 僕の歩みは遅い。速いようで実はとても遅い。しかし焦りはない。

 根っこ。それは三年くらい前にもう見えた。あとは水を与え、光を与え、栄養を与え、根を広げていくのみである。
 もうちょっとしたらようやく僕も、政治についてなど、口を出せるかもしれない。
 二つの国家的損失に黙祷。

2011/05/02 レスキュー

 本を整理していたら、林道義さんの本が三冊ほど出てきた。それで数年ぶりに彼のHPを開いてみたら、今でも継続的に更新されていて嬉しくなった。
 この人は面白い人である。
 HPの「プロフィール」というところで読めるが、彼の物事に対する「基本的な姿勢」は、誰しも見習うべきものと思う。この姿勢さえ共有できれば、個別的な意見の相違など些細なことに感じられる。
「何かをよりよくしよう、という姿勢」を、彼はずっと持ち続けているという。
 この姿勢は、「何かを壊したい、崩したい」という姿勢と対極にあり、それゆえ彼はたとえばフェミニズム(性差をなくそうとする類の)とは激しく対立しているようである。

「何かをよりよくしよう」として物事を考えるのはとてもいい。壊すとか作るとかいうのを考えると、極端に走りやすいし、だいいち非現実的だ。あるものをなくしたり、ないものをあらしめることは難しい。あるものをよりよくすることのほうが簡単である、はずなのだが……。
 保守頑迷な人間は「変化」を嫌い、革新を唱える人間は作ったり壊したりという空想的なことしか考えない。
 中庸・中道を行こうとする人だけが「変化」を推進するのだが、右翼と左翼とがそれを阻止しようとする。しかも、「何かを主張したがる人々」の内では、中庸・中道はきっと少数派なのだ。バランスを取ることが難しいからと、人は極端に逃げてしまう。
 はじめ、人はみんなシーソーの真ん中らへんにいて、バランスを取ろうとがんばる。でもそのうちに疲れてきて、「いちど地面に倒れてしまえば安定するではないか」と思った人たちが、右だか左だか、どちらか一方に偏る。偏ると、こんどは「そっちに倒れるのは嫌だ」と思う人たちが、反対側へ走っていく。それで両端の人々が大声で喧嘩を始める。すると真ん中らへんにい続けようとする中庸・中道の人々は、バランスを取る権利を剥奪される。両端に人が集まってしまうと、真ん中らへんにいる人々が少々動いただけでは、全体のバランスに対してはほとんど影響力を持たない。
 みんなが真ん中らへんにいて、そこで安定する位置をそれぞれで探して、小さくゆらゆらし続けているのが理想であるはずなのだが、極端と極端で釣り合おうとするのが、人間の心理というものらしく、世の中を動かしている力学は、それでついついダイナミックになる。そんな必要はどこにもないのに。
 両端に人がいる以上、喧嘩になる。喧嘩していると、「こっちだ」「いや、こっちだ」という論争が先に立って、「よりよくしよう」という発想がなくなる。遠いゆえ大声になって、罵倒合戦の様相を呈す。

「極端はよくない」という、たった一言で片付くような問題なのに、そんなことはもう何百年も、ひょっとしたら何千年も前から言われているのに、どうしてか極端な考え方は常に支配的だ。そんなにバランスを取ることって疲れるんだろうか。疲れるんだろうけれども、怠けてはいけないと僕は思う。
 友達も言っていたが、現代日本の問題点は「怠惰」の一言で表せる。怠けて、結果、惰性に身を任す。一時が万事、すべてこれだ。

「苦しいのやだから、苦しむんだよ」って、奥井亜紀さんが『レスキュー』って曲で歌ってる。考えるのが嫌だ、疲れる、むなしい、そう思う人もいるかもしれない。だから考えない、というのではなくて、だからこそ考えることが必要なんだ。考えるのやだから、考えるんだよ。悩むのやだから、悩むんでしょうよ。
 悩むのが苦しいと言って、悩むことをやめてしまったら、腕を切るか、外に出なくなるか、永遠にしたくもない我慢をし続けるか、というようなことにしかならない。悩んでいるうちは、腕も切らないですむ。悩むのをやめたときに、人は腕を切るのだ。そんなに腕を切りたいか?

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