少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2013/05/31 金 ガウェインの結婚

 昨日の木曜□で話題が出たので貼っておきます。
 ガウェインの結婚
 これは「世界史講義録」という老舗HPの第一回講義です。
 去年『「なぜ?」がわかる世界史』(学研)としてついに書籍化し、その出来の素晴らしさによだれを垂らしながら一気に(と言っても一日一~二章ずつ)読破したものですが、この「ガウェインの結婚」の話は書籍のほうには入っていません。

 高校生の時の僕はこれを読んでなんだか感激してしまったのですが、なぜ自分が感激したのかというのは、ちょっとよくわかりません。
 しかしとにかくそれ以来、基本的に女性というのは、こういうものなんだと思うようになりました。
 でも、「そこ」に至るための道筋というのは難しいですね。

 なんで難しいのかといえば、男だろうが女だろうが、自分の意志を持つというのは簡単なことではないんです。
「自分の意志を持ちたがっている」ことと、「しっかりした意志を持っている」との間には果てしない隔たりがあります。
 どんな意志でも意志ならば尊いというふうには僕は考えないからです。
 ではどんな意志ならば尊いのか? というと
 さらに難しいわけです。

 だからこそ僕や僕らは話し合い,わかり合い、愛し合うのでしょうね。と、適当のように思えるほど妥当そうなことを言っておきます。

2013/05/30 木 放送大学

 僕は放送大学では今のところ数学を専攻しているのですが、今日初めてほかの分野の放送授業を真剣に見てみました。『現代の国際政治』面白いです。さまざまな工夫が凝らされていて飽きさせません。先生にもユーモアがあります。
 放送大学というと、机に座ったおじいさんがぼそぼそと台本を読んでいるようなイメージがある(僕にはあった)のですが、最近は色々と面白い授業が増えているんですね。以前履修した『コンピュータのしくみ』という、学長が担当している授業も非常に面白かったです。
 やっぱりユーモアだなあ、と思います。これがなければ何をやったって楽しかないですね。

 ところで数学ですが、一ヶ月くらい前に三角比の本質を掴んだ(と勝手に主張している)のですが、微積分もようやくわかってきました。……まだそんな状態だから『空間とベクトル』とか『微分方程式への誘い』はちょっと厳しいですね。レベルが高すぎて。でもそのうちわかってくるでしょう。ゆっくりだけど少しずつ頭が変わってきているように感じます。これぞ生きている甲斐ですね。放送大学!

2013/05/29 水 夢が夢なら

 貝殻を採り足を濡らす遠浅の海
 気づかずに歩くうち遠くへ行くみたい

 高校生のころに保存したWebサイトがHDDに残っていて、それが非常に充実しており、助かっている。何年か前に皿なんとかさんの昔のHPを発見した時も保存して、それも残っている。
 死んでしまった友人との2000年~2001年のメールも残っていた。それを喜んでくれた人がいる。残しておくのは素晴らしいことだ。
 ところが妙なことに、なくなってしまったものに対する後悔とか執着はそれほどない。
 これも日本人っぽいような気がする。なければないでいい。夢が夢なら構わないってか。

2013/05/28 火 ゆかりちゃん

 ゆかりちゃん、ごめんね。
 僕は僕で戦います。

2013/05/27 月 勘がいい(あと募集)

 美しさ ポケットの中で魔法をかけて
 心から 優しさだけがあふれてくるね
 くだらないことばっかみんな喋りあい
 嫌になるほど誰かを知ることはもう二度とない気がしてる
 左へカーブを曲がると光る海が見えてくる
 僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも
 《小沢健二『さよならなんて言えないよ美しさ)』》

 この曲について、よそでこんな文章を書きました。

 美しい文章は、いつも、誰にでも書けるものじゃない。
 美しい手紙は時折生まれる。
 美しい言葉は人と人が顔を合わせれば気づかないうちに生まれている。
 そんな美しい瞬間はどこにでもありふれて永遠に積み重なっている。
 そんな美しさを知る人は、美しさを知る人を知る。
 それをある人は「勘がいい」と表現したのだ。


 小沢健二さんは月刊カドカワ95年2月号ですでに「勘がいい」という言葉を使っています。(もちろん、もっと前にも使っているかもしれません。)
 吉本ばななさんとの対談でこのように(また、このように)言っていました。
 それから17年以上が経過した2012年3月21日、『我ら、時』という作品集が発表されました。そこには「勘がよく、かしこく、好奇心が強い人でいてくれて、本当に感謝しています。僕が何かできるのは、そういう人がいるからです。」とあります。気になる人は探してみてください。(Amazonとかで買えます。)
 ほかにもどこかで言っていた気もしますが今はここしか思い出せません。

 だからなんだということですが、僕にとって希望というのはそこにしかないです。なんて言い方をするとさみしいけど。でも本当に、勘がよく、かしこく、好奇心が強い人たちとめぐり会い、美しさを分かり合い、楽しみ、遊ぶために生きているようなものです。
 このホームページが全然キャッチーなデザインじゃなかったり、せっかく作ったたまり場に「おざ研」なんてふざけた名前をつけて、貧相なウェブサイトしか設けず、宣伝もかなり適当~な状態であるというのは、僕が怠惰で技術がないから、ってのもあるんですけど、うーん、でも、こういう地味な活動をこそ面白がってくれる人がいたらいいなと思ってたりもするんです。
 ただ、おざ研に関しては本当はもっとちゃんと装飾をして、人を呼びやすい感じにしたいなとは思っているんですけどね……このままだと僕は倒産してしまうので。それと誰か、ほかの曜日に何かやりたい人とかいませんか? 木曜以外は空いております。希望があったら言ってください。ぜひぜひ。だいたいのことはできますしだいたいのことはしていいですよ。
 ところで、さっきの文章には続きがあります。

 あの美しさは僕のポケットの中でいつまでも魔法のかかったままで、優しさはそこからわき上がってくる。
 僕に優しさがあるのだとしたら、それはあの美しさからきているのだ。
 僕のポケットの中では今でもずっと、あの瞬間が永遠に続き続けている。胸を張って「僕ら」と云えるあの時間が。
 僕らの交わした会話がどんなだったのか、それはすっかり忘れてしまった。
 死んだ友達の恋人や家族に「彼とはどんなお話を?」と聞かれて、僕は何も答えられなかった。
「長い時間の記憶は消えて 優しさを僕らはただ抱きしめる」とは、こういうことだったのかなと想った。

 そうしていつか全ては優しさの中へ消えてゆくんだね。

2013/05/26 日 昔みたいに

 下の記事でも、もう一回読んだり、レヴァリ読んだりしてみてください(下のリンク先で読めます)。
 とても眠たいです。

 昔はどんだけ眠くても、疲れてても、書くことなくても、気が乗らなくても、とにかくエディタ開いて何か書いていたものです。
 執念というより義務感でした。
 自分に対しての義務ですね。
 ちなみに僕が日記をつけはじめた理由の最大はたぶんさくらももこさんです。たぶんちびまる子ちゃんの作者コーナーみたいなのに「恋の日記帳」的なものにまつわる話があって。それが「日記書こう」と思ったきっかけです。(詳しくは忘れてしまったので何巻かとかわかる方、おしえてください。)
 このサイトを立ち上げる前はノートに日記を書いていました。たまにワープロも使っていました。毎日は続かなかったですが、大きな出来事や憤りがあった日には書いていました。
 それをたまたま家で発見してぱらぱら見てみたのですが、とんでもなく重要なことが書かれていて、しかもそれを完全に忘れていたりもしていました。日記の力おそるべし。
 記録になるというのもいいもんです。
 ちょっと改めてこの日記の形式について考えています。

2013/05/25 土 友達が死んだことと「薬」と、『レヴァリアース』

 夭逝した二人の友人、オイと西原に妙な共通点がいくつもあって驚いた。猫が好きとか、酒と薬をたくさん飲んでいたとか。僕に対する感情にも(表出の仕方は違ったが)似たものがあったのかもしれない。
 薬に関しては、重要な友達がもう二人も死んでしまった以上、「飲んではいけない」と、できるだけ主張するようにしたい。
 飲まざるを得ない事情もよくわかる。一時的にでも薬で症状を抑えることが必要な場面はあるだろう。ただ、飲まないでなんとかなるのならそれにこしたことはない。いちど薬(睡眠薬や安定剤、SSRIなど)に依存した人間からそれを取り上げるのは、ヘビースモーカーから煙草を、ひどければアル中から酒を取り上げるようなものだ。なかなか減らすのは難しく、深く長い付き合いが続きがちである。
 西原は僕が「薬をやめろ」と言うと狂ったように反駁してきた。もう少し正確にいえば僕は「そんな状態で教員が務まるか。どう考えても今のお前は異常なんだから仕事休んで親に甘えながらゆっくりと治療に専念しろ、薬を飲まなければできないような状態で無理に働くことはない」というようなことを言ったのだったが、「うつ病のことを何も知らないし理解する気もないんだな。ちょっとググればわかることなのに。薬を飲めば大丈夫なんだよ」みたいなふうに返されたと思う。多少違うかもしれないが、死人に口なしだからそういうことにしよう。このやり取りの直後、僕は彼から絶縁された。今思えば、もちろん当時の僕も極端であった。
 彼には強烈なプライドとコンプレックスがあり、それらは主に家族に起因するものだったと思う。彼は出会ってからずっと死にたい死にたいとくり返していたが、「でもばあちゃんが○○だから死ねない(幾つかバリエーションがある)」と、生きる理由をもやはり血縁関係に求めていた。
 プライドとコンプレックスは表裏一体だ。会うことはなかったが、オイにもきっと強烈なものがあったんだろう。だから、「本当のこと」が言えなくなってしまった。

 十二歳(ぎりぎり十一歳?)の僕に多大なる影響を与えた夜麻みゆき先生の『レヴァリアース』の主人公の一人、アドビス国の王子シオンも、表裏一体の巨大なプライドとコンプレックスを持っていた。アドビス王家は僧侶(クレリック)の血筋だが、シオンは魔法使い(ウィザード)として生まれてきた。その出自に深く深くコンプレックスを抱いたシオンは、家族にすら心を閉ざすようになる。

初めは王子として皆に認めてもらおうと努めた
――だが結局王子としてでなく魔法使い(ウィザード)としかみてくれなかった
――陛下もそーだ
それは当たり前だし仕方のないコト
長い年月に植えつけられた国民達の考えを180度変えるのは不可能
俺様はあきらめた
それにもうどーでもよくなった

「俺様」という一人称が示すように、シオンは(少なくとも主人公ウリックの前では)高飛車で偉そうなわがまま太郎だ。おそらくコンプレックスを覆い隠すために(あるいは出自の真相を頂点とした「真実」を追究するために)膨大な書物を読み、魔法の力を高め、その付随品としてプライドを身につけたのだろう。
 オイちゃんが、行きたかった農業高校に落ちて、その後に大検を受けて早稲田(僕の通っていた教育学部も受けたらしい)に受かり、それでも満足できず別の年には東大にも受かってしまった、という話が僕にはシオンとかぶって見える。「底辺」というコンプレックスを覆うために、「頂点(この場合は東大)」を求めてしまうというのは、非常によくわかる話だ。

 シオンが自ら述懐するところでは、彼は小さい頃「勉強に夢中になった時期があ」り、しかし真実を追究し続けていくうちに「僕は何故知りたいと思うんだ 何故学ぼうとするんだ」と疑問を抱き、魔法力を暴走させてしまう。彼は泣きながら「自分が…わからナイ…」と呟くが、家臣も陛下(父親)も理解してくれないどころか、「むしろ否定」されてしまう。そこに勇者ザード(ウリックの兄)が現れて、こう言う。

お前は 知るコトを知るために学んでいるのだな

 そしてシオンは、「――ザードだけが 俺様のコトを理解してくれて 答えを出してくれた」と、ザードを尊敬するようになる。(このあたりはキロ11くんを思い出す。)
 そしてシオンにとってザードよりもさらに大きな出会いが、その妹イリアとの出会いになるのだが、そこまで踏み込むとただの僕の「『レヴァリアース』論」になってしまう。単行本にしてたった三冊、ネットでも読めるので、ぜひご一読をお願いします。(これは「お勧め」ではなく「お願い」です。)
 それにしても、この作品には本当にあらゆるものが書き込まれている。こんな名作を、おそらく十九歳から二十一歳くらいの間にかけて描いたとされる夜麻先生の才能は、本当に驚異的だ。

王子 何か無理をなさってるように感じます
自然にふるまってくだされ

そうさせてるのはお前達だろ

…ばばには王子の考えがわかりません

…皆 バカだから私のことがわからないんだ
いや…私をわかろうとしないんだ
もういい…こんなことを論じても時間の無駄だ
私にはばばが心配する理由のほうがわからない


自分の気持ちに… 感情のままに… 素直であってくだされ…
でなければ いずれ わからなくなってしまいます

 シオンには「自分」がわからなかった。
 それは魔法力を暴走させてしまった幼少期すでに自覚していたことだ。絵と一人称(暴走時は「僕」と言っている)から判断するに、この「ばば」との対話は「暴走」よりも後のことだろう。
 もちろん「自分」がわかっている人間なんて、そうはいないだろうし、いたとすればその人はきっと頑迷だ。自分がわからないというのは当たり前のことである。しかし、自分が自分でなくなってしまう、というのはまったく別で、こちらはいよいよ大変な現象なのだ。
 ばばの言う「わからなくなってしまいます」というのはたぶん、「自分が自分でなくなってしまう」ということで、そうなってしまえば精神は秩序を失って瓦解し、悪くすれば罪を犯したり、自殺したりしてしまうだろう、ということなんじゃないかと僕は思う。
 シオンにはその危険があった。もしも彼がザードやイリアと出会っていなければ、たやすくそちらの道へ足を踏み込んでいただろう。シオンはもちろん「本当はいいヤツ」なのだが、「わからなくなってしま」えば、そんなことは意味を失ってしまうのだ。西原だって「本当はいいヤツ」だったんだから。

 オイには、ザードやイリアは現れなかったのだろうか。
 もし現れていれば……彼にとって「そうだ」と思える人物や作品が、ちゃんとあれば……こんなことにはならなかったのかもしれない。言ったって仕方のないことだが。
「イリアだと思った人が、イリアではなかった」という状況だって、ある。そんな時には確かにすべての希望が絶たれてしまうが、そこで死んでしまわないように両親は子供を無条件で愛し、子供もその愛に応え続けているべきなのだ。「だけど自分には○○がいる」と思えれば人間は生きていける。ただオイは家族に対しても、あまり信頼を向けていなかったようだった。西原もたぶんそうだったろう。好きか嫌いかではなく。

 精神に対する薬を年単位で継続して(不適切な服用法で)飲んでいると、人格が変わってくる。西原は服用を始めて三年くらいのところで、異常だった人格がより異常になったような気がする。素直なところがなくなって、内に閉じこもるようになった。そして対等な友人(たとえば僕)との交遊を断っていった。
 オイにもそういうところがあったんじゃないか、と彼の恋人が電話で話してくれた。
 人間に必要なのは薬じゃない。ザードやイリアだ。つまり人間だ。病んだ人間には綺麗事にしか聞こえなかろうが、薬に頼る前にまず人間に頼らなければ、「いずれ わからなくなってしまいます」なのだ。それで彼らは死んだんだと僕は思っている。
 二人は猫が大好きだった。猫には一方的に愛を注ぐことができる。コミュニケーションの内実は人間側が恣意的に設定できる。猫は可愛いし僕だって好きだが、人間と交遊することの代替として猫を利用している人は少なくなくって、それはとても危ういことなのだ。猫だけじゃなく、アニメキャラでも何でも、一方的な愛し方を可能にさせるものを人間のかわりにしてはいけない。いずれわからなくなって、死んでしまうかもしれない。
 薬や酒と違いはないのだ。


「今ごろなんとなくわかったよーな気がする」
 とシオンは言った。
 だから小学生の僕はあんなにも狂ってしまったのだった。
 今でも『レヴァリアース』を読むと不安定になる。
 胸がざわついて涙が止まらなくなる。
 でもその不安定は、いつか美しい安定を手に入れるための過程なのだ。
 この作品を読んでいなかったら僕はそれすら知らなかっただろう。
 イリアとシオンは幸せに生きていくことができる。
 だからこそ僕は素晴らしい時間を生きなければならないのだ。
 それがシオンとの約束なんだ。(と、最後に気持ち悪い一言を添えておくが、レヴァリによって洗礼を受けた人ならば、この言葉の意味をわかってくれると思います。)


俺の代わ…りに 世界を旅してくれ…よ…
いろんなことを…自分自身の目でたしかめて…
いろんな生きものや いろんな人と会って ふれあって
感動して 知って
お前のこれからの時間を…すばらし…い…もの…に…
…イリア…生きて…く………

2013/05/24 金 楽しい話題

 放送大学と小沢健二さんですね。

2013/05/23 木 土左日記

《おとこもす》なる日記というものを、《おんなもじ》てみようと、するのである。
 とあるとしの、しわすのはつかあまりひとひのひのいぬのときに、かどでする。そのわけをちょっとばかり、かきつけておく。
 あるひと。ちほうかんとしてのよねん・ごねんがたち、きまりのことごとをみんなしおわって、げゆじょうなどもうけとって、すんでいるやかたからでて、ふねにのることになっているところへわたる。あのひともこのひとも、しるもしらぬも、みおくりする。このなんねんかんか、よくしたしんでいたひとびとはわかれがたくおもって、にっちゅうえんえんとあれこれしながらもりあがる、そのうちによがふけた。

「をとこもすなる」にもし、「をとこもす≒男文字」が織り込まれているのだとしたら、「をとこもすなる」の「なる」は、「断定」でいける。「をとこもすなる日記」はすなわち「《をとこもす》である日記」と解釈できる。もちろん「をとこも・す・なる」と切れば、文法的には「なる」は伝聞で、どちらにも取れるようになっている。
「をむなもしてみむとて」にもし、「をむなもし=女文字」が織り込まれているのだとしたら、「をむなもし」は「をむなもす」というサ行変格活用の動詞として見ることができる。軽んじる、みたいな感じで、おんなもじる、という造語を作っていると取るわけである。無茶苦茶なようだけど、もしも言葉遊びなんだとしたらそのくらいは現代でも普通だ。
 とか小松英雄先生の『古典「再」入門』を読んで思った。
 上の訳は僕が適当にしたものだけど、できるだけ和語に漢語を当てはめたりしないように注意して訳した。「よし」を「理由」や「様子」としないで「わけ」とする、というように。

 小松英雄先生の本はどれも、刺激に満ちていて面白い。国文学とはかくあるべし、と思う。
 学校文法に縛られすぎない良い教授法が編み出せれば、古文の授業はもっと楽しくなるんだけどなあ……。

2013/05/22 水 そんなもんだよねっていう事例

 十三年前にドラチャ(ドラえもんチャットね)でけっこう仲良くて、手紙も三往復ばかり交わした人をネット上で発見した(!)のでメッセージを送ってみたが、返事がない。
 何年か前にも同じようなことがあった。「あ、あの人だ!」って心躍らせてメッセージを送ってみたんだけど、スルーされた。
 そんなもんだよね、っていう事例。
 僕にとって大切なものが相手にとって大切かどうかはわからない。
 そんなことでいちいち暗い気分になる。

 彼ら・彼女らにとっちゃ黒歴史だったり、もう忘れてしまった遠い日の思い出だったりするんだな……。「ほら、幼稚園の頃に公園で一緒に遊んでたじゃん!」みたいに声かけられても、戸惑っちゃうのは当たり前なんだろう。僕のような人のほうが少数派なんだろう。いつまでもこだわっちゃって。ばかだね。僕に連絡を取りたい人がいたら、とっくに探し出してメールくれてるもんな。「ドラチャ ジャッキー」で出るわけだからな。そうならないということは、求められていないということなんだ。と思って、慢性的に暗澹たる気分がもうずっと、十年間とか続いている。
 くだらない片想いというやつだ。それでも、両想いの友達が僕には何人もいて、そういうことだから、いいんだ。誰とでも気が合うわけではないのは当たり前のことで。気の合う友達が何人かでもいたら、それで人生の財産だからな。そんなもんだよね。本当に。あんまり夢を見すぎると、現実から離れていってしまう。すべての同級生と仲良くできるわけではない。
 それはあの楽しかった高校一年生の同窓会に行った時にも強く感じた。「終わっちゃったんだ」とか、「違ったんだ」ってことを確認するのって、どうしてああも辛いものなのかな。
 美化された過去について「本当はこんなもんなんだぜ」って突きつけられるのは、現実を見つめるには良いことなんだと思うけど。
 うん、この現実の中でやれることをやっていくしかない。『宇宙船サジタリウス』を好きな人ってのはあんまりいないし、『あまいぞ!男吾』を好きだって人も少ない。その前提を受け入れて、せいぜいやっていくしかないのだ……。

 チャット復旧してまーす。
 伝言板とか、つぶやき所としてもご活用ください。
 掲示板に書くほどのことでもないなと思ったら、ぜひ。

2013/05/21 火 Powers of Tenkiyomi

 6:20起床、体操→6:30ラジオ体操→6:40朝食を準備→7:00朝食→7:43現在。このように華麗な生活を毎日続けられればいいのですが、必ず金曜の朝には崩れます。木曜□をやってて辛いと感じるのはその一点ですね。
 幾つか心配事の種があって、発芽しかけてるのもけっこうあります。瞑想して抑えています。

 さて、みんな「面白いか、面白くないか」という判断をしすぎです。……かく言う僕がいちばんそういう判断をするのですが、しかし「人」に対しては、面白いか、面白くないかという判断は二の次に考えています。「なんだいあんなやつ、全然面白くねーじゃん」というふうに、わりと面白い側の人間は思ってしまったりするようなのですが、人を測る基準ってのはそれだけじゃないのですよね。面白い側でない人間は、たぶんあんまりそういう基準では考えないと思います。
 たとえば他人の恋人を見て「えー、なんであんなのと付き合ってるの?」って、思う人は思いますよ。「面白くないじゃん」って、自分の価値観で判断します。実際その通り、言われた側も別に恋人のことを「面白い」とは思っていなかったりします。
 じゃあどこを見ているのかといえば、それはそれこそ、色々です。

 そういう意味で僕は意外と博愛ですよ。偏屈だと思われたりもするけど。面白かろうが面白くなかろうが、関係ないです。その人が自分にとって魅力的であるかないかということも、特に問題ではないです。本当に。
 容姿で差別する人も多いですね。「あのブス」とか「不細工が」とか、そういう言い方をしたことは僕はないと思います。「この場合その容姿ではその言動・行動は許されないであろう」といったようなことは思ったりするけど。
 僕はもしかしたら「その人」にあんまり興味がないのかもしれないですね。悪い言い方をすれば興味があるのは常に自分です。だから「その人」を見ながら同時に「自分」も視野に入れています。他人を、その人単独で評価するということはできないです。困難という意味で。
 判断をする時に、常に材料として自分を含めてしまうから、「面白いか、面白くないか」や「美形か不細工か」ということはあんまり関係がないのです。
 それから、たぶん僕は常に材料として「未来(の予想)」も含めています。人は変わりますので、現時点でわりとどうしようもなかったとしても、十年後はわからないというわけです。もちろん、「十年経ったら性根が腐ってより醜くなるだけだろうな」といった判断もあります。
 そういう判断の仕方の善し悪しは知りませんが、どうなんでしょう?
 ちょっと意味がわからないことを言ってしまったかもしれませんが、みなさん人をどうやって判断しているんですか? 自分と切り離されたところに「自分の好み」みたいなものを作って、それに当てはめてみて百点満点中何点か、みたいに考える人もいると思います。あとはどういった仕方があるんでしょうか。
 判断なんてしてねーよ、というのが意外と健全なんでしょうか。でもそういう人は気分次第で軽々と人を傷つけたりしそうな気もします。好みにせよ気分にせよ直観にせよ、みんな何らかの仕方で人を選んでるのでしょう。どういうふうにするのが良いというのがあるのなら、是非とも知りたいものですね。

2013/05/20 月 くだらないことばっかみんな喋りあい

(前略)
 もっと素直になってもいいんじゃないのか?
 どうして、飾らなければ何も言ってはいけないような雰囲気が世の中にはあるのだろうか? 飾っていなければ価値がなく、価値のあるようにちゃんと見えるものしか尊重されないような雰囲気が。

 小沢さんのファンだという、音楽好きの人のミニブログ(!)をざっと三年分くらい読んだ。「あー、よっぽど音楽とやらが好きなんだな」と思った。僕より若いんだけどオタク的な知識があるし、自分でも曲を作ってて、それもわりかしオタクっぽい感じでやってるみたいなんだけど、それ以外には何もわからなかった。
 音楽を語る人には、理屈屋とオタクの二種類しかいないんだろうかね。理論派とデータ派みたいな。アニメでも、なんだってそうなんだけど。もっと違うアプローチで語れないものだろうか。語る必要なんかないのかもしれないけどさ。そう言うと人はすぐ「感じる」ということ一辺倒になっちゃって、それはそれでバランス悪いように僕は思うんだよな。
 やっぱり、「しゃべりあう」とか「わかりあう」ってことになるんじゃないだろうかな。曖昧で、ふわふわしちゃうけど。凝り固まるよりずっといい。

 オイとのメール、2000年12月~2001年2月までのをこないだ発掘したんだけど、新たに2001年5~6月のものを発見した。
 どのくらいまで連絡取れてたんだったか、本当に覚えていない。2002年くらいなのかな。どうだったかな。
 出会ったとき僕は15歳で、彼は14歳だった。チャットで遊び、掲示板で遊び、たくさんメールをした。そういう時代だった。あの感覚を最も強く共有した相手だった。淋しいな。

 掲示板にもオイのこと書いてます。

2013/05/19 日 オーーイに哀悼ございました

 木曜日の深夜二時過ぎ。おざ研でなかや君と話していたら、メールが来た。このHPのメールフォーム経由だった。「私はオイの恋人です」と書いてあった。思わず大声を出した。
 オイというのは、十三年前に「ドラえもんの世界」のチャット(ドラチャ)で出会った友達で、十年以上音信不通だった。このサイトを古くから見ている人なら、『人は急いでいるのだ』という小説を「活字芸術」に投稿してくれたオイ=ハウィンという人物だと言えば、わかる人にはわかるかもしれない。
 僕は十年以上彼を探し続けていた。日記にもたびたび「連絡よこせ」と書いていたし、「はじめに」にも書いている。本名は聞いていたので、年に一回はグーグルやSNSで片っ端から検索をかけていた。でも見つからなかった。本名と言ったって、実は偽名かも知れないのだ。でも、会えるのならいつか会えるだろうと考えていた。メールを受けて、ついにその時が来た、ようやく会えるのか、と胸が震えた。
 しかし、なぜ本人ではないのか。不思議に思ったが、以前にサンソン命さん(昔の少年ガンガンのはがき職人)のお友達がBBSに書き込んでくれた例もあるので、本人はネット環境にないとか、そういうことかなと思った。
 メールを読み進めていくと、「お伝えしたいことがあります」と書いてあったので、嫌な予感がした。死んだのかなと一瞬、思った。西原が死んだ時も、思わぬ人から突然連絡が来たものだ。でも、まさかそんなことはと、「何がなんでも会いたいです」と書いて、電話番号を添えた。
 すぐに電話がかかってきた。女の人が泣きじゃくりながら、彼が死んだことを教えてくれた。
 もっともっと、必死になって探せばよかった。どうして「いつか会えるだろう」なんて楽観的に思ってたんだろう。西原が死んだ時に僕は気づくべきだったのだ。「いつか」なんて時は来るもんじゃないと。親孝行は早い内にすべきだということも。
 それから一時間だか二時間だか、話をした。信じられないようなことがたくさんわかった。
 彼は当時、僕よりもひとつ年上だと言っていた。しかし実際は、僕よりもひとつ年下だということだった。二つもサバを読んでいたわけだ。彼は農業高校に通い、畜産を主にやっていると言っていて、授業の様子を事細かに、面白おかしく教えてくれたりもしたものだが、本当は中学生だったというのだ。(僕はその時、高校一年生だった。)
 僕の知っている事実と違うことは、たくさんあるらしかった。オイと会ったことは、僕はない。写真を見たことはある。でもその写真に写っていたのは、まったくの別人であったことが後でわかった。その写真の中でオイはバイクにまたがっていたが、彼はバイクになんか乗っていなかった。自転車にこだわっていた、という。
「自転車にこだわっていたのは、きっとジャッキーさんの影響なんです」ということを、オイの彼女は教えてくれた。それも、僕は考えたこともないことだった。「彼は、よくジャッキーさんの話をしていました。今年の二月に出会った新しい友達にも、ジャッキーさんの話をしていたんです。彼はジャッキーさんを目標にして生きていたんです」
 オイはもう死んでいて、僕に対してどう思っていたのかを知るすべはない。何が僕の影響で、本当に僕が目標だったのかはわからない。でも、僕が早稲田に入ったのを知って彼も早稲田を受けた(そして受かった)と言うし、それだけじゃまだジャッキーと同じだと言って、東大を受験して、受かってしまったと言う。すべてオイの彼女から聞いたことだけど、これが本当なら、いろいろとすごい。漫画や本も、僕の影響と思われるものを読んでいた形跡がある、らしい。細かいことはわからない。
 間違いなく言えることは、オイは僕のことが好きだったということだ。それだけは確信がある。オイは僕にたくさん嘘をついていたみたいだけど、そんなことは問題じゃない。その嘘が何か意味を持っているのだとすれば、「オイが僕に会うことができなかった原因の一つかもしれない」ということだけで、僕たちが十三年前に、楽しく、美しく遊んでいたことと、その時にそこにあった今では愛としか言いようのないものは、一切損なわれない。このあたりのことは、あの頃にインターネットにずぶずぶはまっていた人間でなければわからない感覚なのかもしれない。
 オイと僕の間にあったもの、もしくは包んでいたものは、最高に素晴らしいものだった。それは少なくとも彼が死ぬまでそうだった。十三年間、途切れることなくそうだった。
 オイは七年も前から東京に住んでいたという。しかも板橋区といって、僕の住んでいる練馬区の隣の区だ。オイは、どうやらこのサイトを読んでいたらしく、僕がバーのようなことをやっているのも知っていた。僕の話を彼から聞いた友達は、「そんならそのジャッキーに会いに行こうよ」と言ったそうだ。しかし彼は、「今の僕じゃ会うことはできない」というようなことを言っていたらしい。
 本当にばかばかしいぜ、と思う。このあたりのことを考えると、僕は一番泣いてしまう(だから書くのは一苦労だ)。そんなに近くにいたのに、いったい何が彼から僕を遠ざけたのだろう。思春期の頃についていた「嘘」のせいだろうか。それとも、途轍もなく巨大な「自信のなさ」のようなものがあったのだろうか。怖かったのだろうか。考えても仕方がない。もうわからないことだ。読み解くことはできても、確かめることはできない。
「ジャッキーさんのサイトは、ずっと、全部読んでいたんだと思います」とオイの彼女は言った。本当にそうなのかはわからない。今はずいぶんと小難しいことばかり書いているし、もしかしたら彼の好みとは合わないような内容だって多いのかもしれない。ただ、きっと見ていたとは思う。ずっと考えていたのだとは思う。忘れた瞬間なんて一切なかっただろうと言い切れる。
 と言っても、言い切れるようになったのは訃報を聞いてからだ。走れメロスじゃないが、彼を疑ったことはもちろんある。どうして連絡をくれないのか、僕のことなんか忘れてしまったのだろうか、と。忘れるわけがない、とは思いながらも、どうしても他人だし、感性だってきっとどこかで違うから、僕が大切にしているものを相手も大切だと思ってくれているかは、わからないのだ。でも、だけど、生きているならきっと僕のことは忘れていないし、いつかきっと仲良くできると、祈るように信じていた。だから、もしかしたらもう死んじゃってるんじゃないか? とも、けっこう思っていた。
 そこで止まってしまったのが、僕の想像力の貧困さだ。どうして僕は、「会いたいけど会えないのだ」という事情を想像しなかったのだろう。「その時がくれば連絡をくれるだろう、HPやメールのアドレスは変わっていないし、《ドラチャ ジャッキー》で検索すれば出てくるんだから」と、ひどく気の長いことを考えていた。その間にもオイは、僕に会えないことを思い悩んでいたのかもしれないのに。無理矢理にでもこちらから会おうとしなければ、会うことができないという精神的な事情があって、それが悩みの一つであって、自殺という選択を後押しする要因にだってなるのだと、考えて、どんな手を使ってでも探し出すべきだった。探し出すことはできたのだ。
 オイから手紙をもらったことはある。送ったこともある。オイからの手紙には住所が書いていなかったし、オイの住所はネットの伝言板かなんかで聞いて、控えを取っていなかったので、本名(と思われる名前)しかわからない状態だった。と、僕はずっと思い込んでいた。死んだと聞いて、2000年から2001年にかけてのメール(残っていたのだ!)を漁ったら、そこには、オイの実家の住所がちゃんと記されていたのだった。僕の最大の後悔は、そのことをすっかり忘れてしまって、「本名しかわからない」と思い込んでいたことだ。住所がわかっていれば、なんとでもやりようはあったじゃないか。もし会うことができていたら、死ぬこともなかったかもしれない。西原についても同じようなことを思うが、今さらどうすることもできない。彼らは死んだのだ。
 オイは自殺だったという。どういうふうに死んでいたのかは知らない。僕に会わないままで死んでしまった。僕はそのことを不甲斐なく思う。会っていれば、というのもあるし、「死ぬ前に会おう」と思ってもらえなかったことも淋しい。でもたぶん、彼は「会おう」と思えなかったからこそ、死んでしまったのだ。
 勝手な推測だけど、彼が死を選んだ動機の一つには、「ジャッキーと会うこともできないような自分」に対する何らかの感情があったんじゃないか、と僕は思う。(もちろん、どうやら、それよりもずっと巨大な事情があったようなんだけど、僕は詳しくは知らない。)
 オイは「ジャッキーと会うこともできないような自分」でしか生きられなかった人なんだろう。僕にだけではなく、おそらくはあらゆる人に、彼は本当の自分を見せなかった。家族に対してもだそうだ。仲の良い友達はいたが、名前も年齢も偽ったまま、何年間も交遊していたようだ。そうやって生きていくうちに、「自分」がわからなくなってしまったのではないかな、と僕は考えてしまう。(そして『レヴァリアース』のシオンのことを思い出して僕はまた泣いてしまう。)
 ずっと自分で「自分」を作り続けて、つじつまを合わせられなくなって、死んだ。はたから見ればそう見える。直接の原因は他にもあったんだろうけど、土台はそれなんじゃないかな。「ジャッキーと会って、仲良くできるような自分」であったなら、自殺はしない。ちゃんと「自分」でいられるような人は、自殺なんかできない。そう思う。
 でもオイは悪くない。そういうやつだったというだけだ。死んだ時点ではそういうやつだった。でも、もしも何年か前にでも僕が彼と出会えていたら、もしかしたら死ぬこともなかったんじゃないか。「ジャッキーと会って、仲良くできるような自分」に、彼がなれるような状況を、無理矢理作り出すことはできたんじゃないか。そういうことを思っても、もう意味はない。

 オイが死んだと聞いて、「りょう」に連絡を取ってみた。メールは届く(はね返ってはこない)が、返信はない。電話をしても、通じない。いよいよ死んだかな、と思う。
 りょうというのは、オイや僕と一緒にいつもチャットにいたやつだ。彼(本当は彼女なんだが)まで死んだら、僕はいよいよ淋しいな。十三年くらい前から死ぬ死ぬ言っていたから、なんとなく覚悟はできているけど。
 ほかに連絡をしたのは、「くら」「とも」「グッチョ(スネゲ)」だ。
「くら」は、七年だか八年だか消息がわからなかったけど、最近再会できて、たびたび会って酒を飲んでいる。これほど幸せなことはない、と実感しているところだったから、オイとはもうそういう関係になれないのだと、つらい気持ちでいっぱいだ。りょうとも、なれないのかもしれない。つらい。
 何事にもタイミングというものがある。くらとは十二年くらい前にも会っているんだけど、その時は今のようには話せなかった。僕のほうが幼く未熟で、準備ができていなかったのだ。オイとだって、今じゃダメだったのかもしれない。きっと彼のほうで準備ができていなかっただろう。りょうとも、お互いにそういう感じかもしれない。でも、生きてさえいれば、いつかそのタイミングは来るんだ。西原とだって、生きてさえいればきっと今ごろ殴り合い、罵倒し合いながら酒でも飲んでるんじゃないかな。
 くらは訃報に、丁寧な長いメールをくれた。
「とも」はドラチャの管理人。返事をくれた。ありがとう。あの頃の友達にメールが届いて、返ってくるだけで本当に嬉しい。ともには十三年前に一度、十二年前に一度会ってるけど、やっぱりまともに話せなかった。今ならたぶん、違うだろう。
「グッチョ」は僕の高校の同級生でもあるから、土曜の夜に会って話せた。オイちゃんなー。ホントな。面白かったよな。

 オイは、友達に「ジャッキーを見たことがある」と話していたそうだ。僕が高校二年の夏、青森の七戸で開催された藤子・F・不二雄展に行ったのを、こっそり見ていたらしい。彼はそのころ仙台に住んでいて、自転車で青森まで来たのだという。これも彼が言っていたらしいことだから、本当かどうかはわからない。でも、本当かもしれないなと思う。
 高校一年の夏、りょうと亀山駅で会う約束をしたが、来なかったことがある。「行ったんだけど、声をかけられなかった」とあとで言われた。その後何度か、りょうとは会うことができた。高校二年の年越しは、三重県久居市(当時)の神社で、二人で過ごした。高校三年の夏に早稲田のオープンキャンパスに行った時は、東京に着いたら同じ電車(ムーンライトながら?)から彼が降りてきていてビックリしたこともあった。ちなみに今は、本名の下の名前で呼んでいる。本当に、死んでいないといいな。死んだのだとしたら、そのことを知っておきたい。

 ドラチャのメンバーには、会えるうちに会いたいと思う。「けい」や「メアリー」や「かよ」は、本名や古い住所はわかってる(はず!)んだから、なんとかしてみよう。
「ジャッキーは私のことなんか忘れてるのかな?」と思ったドラチャメンバー、心配することはないよ。僕はたぶん、ほとんどの子のことを覚えてる。名前の色と一緒にいつでも思い出せる。勇気を出して、声をかけてくれたら本当に嬉しいよ。

 オイが死んじゃったのは本当に淋しく、悲しいことだ。
 僕の中で、彼は大きな存在だった。
 彼と再会するためにこのサイトを続けていたと言っても、言いすぎではない。これからは何のためにやっていけばいいのか、わからなくなってしまうくらいだ。もちろん、やめはしないけど。

 タイミングってのがあるってったって、人は死ぬ。死んだらタイミングもクソもない。だから、たまには無理したっていいんだな。タイミングが悪くてすぐにはわかり合えなくっても、未来を変えることはできるよね。
 現在は変えられないけど未来は変えられる。それが意志の力というやつだ。タイムマシンはないのだから。

2013/05/09 木 オーーーーイ

 オーーーーイ

●Ezアーカイブより 「昔の僕の片想い観」
 少なくとも17歳くらいからは、だいたい同じこと言ってます。
 19歳の時に、「愛とは局面」というところに辿りついたようです。
 そう思うとなかなか凄いというか、僕も頑固ですね。
 今の考え方とまったく同じとは言いませんが、けっこう近いです。ただ、「関係」とか「必要」という言葉に辿りつくのは、もうちょっと先だと思います。13日の記事の背景にある考え方がわかりやすくなるかなと思って、貼ってみます。

2002年6月33日
つまり、「仮に、自分に恋しているこの人を好きになれば、その達成は容易だ」と。
だから馬鹿どもはよく考えもせずに男女間の付き合いをはじめるのだ。
自らの欲望と、或いは見栄だけのために。

ところが、「恋愛=自慰」がなかなか達成できない、つまりは「見通し永続的な片想い」というわけだ。
そんなこともある。
そうなると人は、とっても危ない状態に陥る。
恋愛を考える以外、何も手に付かなくなったりもしてしまう。
痒くて痒くて仕方ないけれど、掻き毟ることができない。
オナニーしたいけれども、できない。
これは自慰の抑制による反動である。抑えきれない欲望の閉鎖的膨張である。
何のことは無い、複雑なことは何にもなくて、
単に欲望が達成できないでうじうじしているだけなのだ。
オナニーがしたいけどできなくて我慢しているだけなのだ、それが片想いというやつで、それが恋愛だ。
2004年9月14日
 愛とはある一局面、ある状勢・状態・状況のことをさす言葉であって、感情とかそういうものではない。
 たとえば相思相愛の状態であっても、恋という感情が一方通行であることに変わりはないから。それは片想いが偶然重なっているだけのこと。
 そうじゃなくて、例えば恋人同士が手をつないだりキスしたり微笑みあったりしているそういう瞬間に、なにか雰囲気とか気配のようなものとしてポッと生まれる、その一局面。状勢。状態。状況。それが愛。
 もうおわかりのように、これは僕も過去に何度か質問されたこともある、恋と愛との違いについて。僕としてはこう答える。恋は感情であり、愛は空気。気配。雰囲気。ある特定の一瞬間(あるいはそれの連続)をさすものではなかろうかね。

 こういうふうに考えるようになった明らかな原因は「はじめに」のプロフィールのところに書いてあるんで、興味のある人は、長いですが読んでみてください……と思ったらまだそこまで到達していなかった。そろそろ続きを書く予定ですので、少々お待ちくださいませ(ごめんなさい)。
「関係」「必要」がいつ出てきたのかはちょっとわかりませんでしたが、二つをひとまとめに語っている部分があったので抜き出してみます。

2011年11月18日
 僕も恋をしていた頃は、「関係」にのめり込んでいたのですよ。
 今だったら「関係」じゃなくて「必要」って言いたいんだけどね。
「関係」は人を好きになるのに最低限必要なもので、もしも恋愛のようなことをするのなら、そこには「必要」という関係が、特に必要になるのだろうと。
 どんな関係にでも、のめり込んでしまうことはできるから、恋って怖いの。
 本当はとてもくだらない関係だったとしても、のめり込める。
 それが「恋は盲目」ってやつ。

2013/05/13 月 何が邪悪や

 片想いは邪悪! 片想いは邪悪!
 って言いすぎたのを少し反省して、水沢めぐみ先生の作品をずっと読んでいる。今のところお気に入りは『姫ちゃんのリボン』『キラキラ100%』『おしゃべりな時間割』『きゃらめるダイアリー』『オレンジ革命』『女の子はゲンキ!!』(以上はどれを読んでも外れはないと思う)。姫ちゃんより古いものはまだ読んでいないし、新しいものにも未読は多い(『寺ガール』とか)んだけど、そろそろ折り返した(全作品の半分は読んだ)かな、という感じ。
 水沢作品には、「女の子が片想い→実は男の子のほうも好きでした、めでたしめでたし」というパターンが多い。これは少女漫画の一つの型だろう。この「→」の部分に、誤解やすれ違いや、種々の事件が起こって、物語を盛り上げる。基本的には「片想い」が物語の軸である。
 しかし当然ながら善なる水沢先生は「見た目」だけを主人公の恋愛感情の根拠にはさせないで、内面的な長所とか、きっかけとか、一緒にいる時の感じなどを重んじる。僕がうるさいくらい言ってる「関係」だのなんだのというものの原始的な形が水沢作品における「好き」の根拠になっている。「この人と一緒にいると本当の自分でいられる」系のとか。恋が主軸とは言えない作品でも、「関係」をテーマにしたものはけっこうある。(『女の子はゲンキ!!』は素晴らしい)
 先日水沢作品のテーマとして「誰かになるんじゃなくて、自分になること」というのを挙げたんだけど、「自分の本当の気持ちに気づく(これはもう、水沢先生のほとんど全作品にあるのでは?)」「本当の自分でいられる(素直になれる)」というのは、「自分になる」ということの最もシンプルな形だ。たぶん、そこが基本として強くあるから、僕は水沢先生の作品をぐいぐい読んでいく気になるのだろう。「それはだって、少女漫画の王道だからねえ~」ってことでもあるのかもしれないけど、それを三十年間貫き続けてるから、水沢先生は偉大なのでしょうな。ただ実際、昨今の少女漫画のテーマが果たして「自分になる(自分を知り、受け入れ、肯定する)」ということを王道としているのかどうかは知らないので、詳しい人は教えてほしいです。
 そういうところが水沢先生の素晴らしいところだとは思うんだけど、しかし、ほとんどの水沢作品は「ページ数の限られた少女漫画」という制約のせいか、「片想いの成就」という、答え合わせのような着地点を作品のゴールとしている。長編である『姫ちゃん』や『キラキラ』、短編・中編の幾つかの傑作は別として、単なる「片想いの成就」だとか、両想いになった後でも「お互いによる片想いの持続」としか言い様のないものだったりとか、ろくに「関係」が描かれないようなものが多い。
 これを、「だから少女漫画ってのは邪悪なんだ。片想い教を世に広めた戦犯だ」と断罪するか、「しかし思春期までの恋愛なんてのはそんなもんだろう」と切って捨てるか。どちらもたぶん、ある程度正しい。
 僕はちょっと立ち止まって、「片想いってのは邪悪なのか?」という基本に立ち返ってみたい。って、そもそも片想いを邪悪だなんて言ってる人はそんなにたくさんいないので、普通の人の感覚に戻ってみるというような意味。なんか、どうも最近自分は年を取り過ぎてしまって、やたらに頑固っぽくなってしまった。それをほぐす目的もある。「やっぱ片想い、邪悪じゃなかったッス~」ってことにはさすがにならないだろうけど、「邪悪な“だけ”じゃない」という、半ば当たり前のようなことも、ちゃんと考えて、言って行かねばならんなあと。
 しばらくは、「少年少女にとって、片想いとは何なのか」ということを改めて考えてみる。その秘密はもしかしたら、水沢作品に通底している(と僕が思う)「自分になる」というところにあるのかもしれないな、とも思ったりしている。
 たとえば、「自分を知る」ということの手段の一つとして、少女たちは片想いをしたり、告白したり、付き合ってみたりするのではないかな、とか。水沢先生の作品には、そういうところがあるような気もする。とりあえず、まだ思いつきなんだけど。
 ただ、その段階の女の子(と男の子)が結婚とか子育てをするとかって話になると、あまりにも未熟すぎるゆえ、『神様のオルゴール』みたいなことになるんだよね。水沢先生はやっぱり、小学生からせいぜい中学生までを題材にするのがいちばん輝くんじゃないかなあ。高校生を主人公にしたもので僕が好きなのは『キラキラ100%』くらいかもしれない。
 水沢作品に描かれていることは非常に「原始的」なことだと僕は思う。もちろん良い意味で。でも、それをそのまま、大人の世界に持っていくことはできないのだ……。

2013/05/12 日 恋愛脳と恋愛体質を糾す

 恋愛というのは一人でするものなんですね。
 だから僕は恋愛が嫌いなんです。
 水沢めぐみ先輩の『神様のオルゴール』って漫画は、大学生が子供を産んで育てる、っていう筋。生まれた息子には「翼」という名がつけられます。母親の柚美はその子のことを「つーくん」と呼び、父親の航太は「もち男」と呼びます。最後まで一貫して、両親は別々の呼び方で彼を呼びます。翼が二人から本来の名前を呼ばれることはありません。
 これがまさに、彼らが「一人で恋愛をし、一人で結婚をし、一人で子育てをしている」ということの象徴だと思います。
 一人で恋愛をした、その延長に、「一人で子供を育てる」があるわけです。形式的には二人ですが、この二人には「二人」と言えるような絆や紐帯がありません。読めばわかりますが、二人とも自分のことしか考えていません。生まれてきた子供への目線が一切ありません。ひどいもんです。
 でも、できちゃった結婚する人たちの現実なんて、だいたいこんなもんなのかもしれませんね。

 彼氏と三年付き合っている、という友達の女の子がいるのですが、彼女と一年半くらい仲良くしてきて、達した結論は、「この人は一人で恋愛をしている」でした。このカップルは二人とも『神様のオルゴール』が好きだと言うので、それだけで怪しいもんですが、先日Skypeで長々と話して、いろいろ勝手に納得してしまいました。
 ここに他人の恋に関する何やらを書くなんて、公開処刑しているようなもんですが、なんと批難されても僕は書きます。
 何となれば僕は知ってしまったからです。このような形で他人に知られるのは、一人で恋愛をしている証拠の一つです。
 もちろん僕は彼女のしている恋愛の全体像も詳細も知りません。断片から想像して「こうなんではないですか?」と問いかけるだけです。(それは本人にも提示しています。)

「あなたの彼氏は彼氏でしかないんですね」と僕は言いました。
 あなたの彼氏はいま、あなたの中にいます。あなたとともにはいません。
 自分の中に「彼氏」というものを存在させることによって、人生や生活のバランスを取る。取った気になる。でも、彼氏は本当はあなたの中になんていません。自分で勝手に、そうしているだけです。恋愛が自分一人の中だけで完結するように、そのようにしているのです。
 あなたの生活は、「彼氏」の存在によって成り立っているけれども、それは「彼氏」がいない状態で生きることが大変だからです。早い話が依存です。一人で恋愛をして、「彼氏」なるものを見つめていれば、自立するとか、自分を知るとかいう、最も大切なことから逃げることができる。恋愛脳ってのはそれなんです。ずばり「自分からの逃避」です。
 自分の中に、明らかに足りない部分がある。あるけれども、それを直視することはできない。だから自分のそのぽっかりと空いた穴のところに、「彼氏」という存在を入れて、一時しのぎの手当てをする。対症療法なんですね。だから「彼氏」がいなくなると、困る。困るから、すぐに新しい彼氏を作る。もしくは、新しい彼氏を作ってから別れる。それを延々とくり返すのが「恋愛脳」とか「恋愛体質」とかいうものです。
 でもそれはたぶん、良き人間関係の本質に近いところもあります。人間は一人では生きていけないのだから、足りない部分を補い合って、助け合って生きるのです。夫婦とか家族とかいうのは本来、そういう組織の最小単位だったりしたはずです。「仲間」という存在も同じです。
 しかし、一人で恋愛をするというのは、すなわち「自分のことしか考えない」邪悪な行為です。だから、「自分の空虚は勝手に埋めるけれども、相手の空虚との折り合いを考えない」ということになります。しかし、空虚……すなわち個人個人の内面的・外面的欠損というのは、相手との関係を形作っていく中で「ここは僕たちがこういう関係でいれば埋まるよね」というふうに判断して対処していくべきもので、自分勝手に「よし、埋まった」ではダメなのです。いずれ破綻します。

 人間が一つの円だとして、二人の重なった部分が「関係」であり、家庭や子供を設けるための土壌のようなものだとします。その場合、その重なった部分(積集合)をどのように豊かにするか、ということが大切なのであって、「円の欠損した部分をいかにして埋めてもらうか」は本質ではないのです。もちろん、どうしても埋められない個人的な欠損は、互いに補い合うしか仕方がないのですが、原則的には「二つの円がそれぞれ美しくあること」が、積集合を豊かな土壌にするためには必要なのだろうと僕は思います。
 それは二人が相談して決めていくことで、一人で考えることではありません。
 そもそも「彼氏」「彼女」というのは危ういのです。その表現だと、相手が完全に自分から切り離されたところに存在するものでしかなくなるからです。「彼」というのはこそあどでいうと「あれ」で、「彼方」の「彼」です。遠くにいるものを表すときに使う文字なわけです。
 自分とは独立して存在している「彼氏」なるものを、自分の空虚(欠陥・欠損)を埋めるために、心の中に置く。偶像として。それが恋愛というものです。自分を見るのが嫌だから、「彼方」を見るわけです。で、その像を心の中に入れて、一時的に安心するのです。
 でも、本当に見つめるべきは「彼方」でも「自分」でもなく、もちろん「関係」です。それを怠れば、破綻は遠くありません。

『神様のオルゴール』で、柚美が「航太と付き合っていた理由」を語るシーンがあります。それは「楽しかったから」というものでした。「ただ、楽しいってだけじゃ、死ぬぜ?」って中村一義さんが『虹の戦士』って曲で歌っていますが、そうなのです。「楽しい」「気持ちいい」という快楽は、恋愛のガソリンです。恋愛が走り出したら、盲目は止まりません。「恋は盲目」というのはその通りで、「自分」も「関係」も、そして本質としての「相手」も見えなくなります。相手の偶像だけが、自分の中に反転して見えるのです。「恋が走り出したら、君が止まらない」って歌もありましたが、あれって「偶像としての君がどんどん自分の中で膨張していく」みたいな意味なのかもわかりませんね。

 恋愛の危うさというものを、このようにいくら理屈で語ったとしても、走っている人には何の意味もないです。それはわかっています。走り出す前の人や、走り終わった人、ちょっと休憩してみようという人が、何かの参考にしてくれたらなあと、反邪悪ファシストの僕は願っております。

2013/05/11 土 ファッションプリキュア視聴者

 子供のことを考えない大人は全員邪悪です。
 という話をそのうち書きます。
(そういうことを書いて、本当に書く割合は50%くらいなのですが)

2013/05/10 金 LIFE厨

 僕はバランスが取りたいだけなんですよ。
 LIFEばっかじゃ偏るじゃんかあ。
 という話をそのうち書きます。

 おざ研のHP、作り替えたんでよかったら見てみてください~。

2013/05/09 木 神様のオルゴール

 木曜□の雰囲気はなかやくんのサイトに書いてありますのでご参照ください。(このサイト、日付もユニークIDもないから記事を指定しづらい。#sの位置も都度変わるし。)
「神様のオルゴールをディス」ったと書いてあるけど、その通りです。水沢めぐみ先輩の『神様のオルゴール』のことです。昨日さんざっぱら褒めちぎった方です。、この日記でも2003年12月に言及しております。当時は気がつかなかったけど、教育学部  とか書いたところでいろいろあったのでいったん寝ます。
 結論としては、『神様のオルゴール』は何も考えていない若者の現実を徹底的に描いたモノで、「教訓」として読めば超一流だけどこれを「好き」という人の神経は疑いたい。

2013/05/08 水 水沢めぐみ先生の『君は君だよ』

「誰かになるんじゃなくて、自分になること」
 それが水沢めぐみ先生の作品に流れるテーマなんだなと、『姫ちゃんのリボン』『キラキラ100%』を立て続けに読んで思った。
 それは僕の大好きな『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』のテーマの一つでもある。「僕が僕をやめること それが一番いけないことだよ」ってcali≠gariってバンドも代表曲の一つである『冷たい雨』の中で歌っている。

 昨日・一昨日に書いたことへの答えはたぶんそこにあるんだな。
 どんなふうに自分を飾るにせよ、どんなふうに「かわいく」「きれいに」なるにしても、それが「自分」の本質からかけ離れたものであってはいけない。
 化粧によって、その人の外見的(肉体的)な本質に近づいたり、引き出したりすることは僕は不可能だろうと思う。外見的な本質は結局、裸の自分でしかないはずだ。しかし精神への刺激になることは確かなことで、それをきっかけに精神的な本質が呼び覚まされることはあるだろう。
「あたしなんて、かわいくないから……」と思い込んでいた女の子がオシャレに目覚めて、「あたしも捨てたもんじゃないのね」って思えたら、それでその子の表情が素敵になるなら、すばらしいことだ。でも、「こうやってオシャレした状態じゃないと、あたしはちっとも素敵じゃない」のままでいるのなら、それは絶対に本質から遠ざかってしまっているのだと思う。
 水沢めぐみ先生の作品は、主人公が、または彼女に自分を重ねる読者が、ちゃんと「本質」に戻ってこられるようになっている。まるで教科書のようだ。ちゃんと教育になっている。水沢先生は早稲田大学の教育学部を出ていらっしゃるそうで、僕と同じだ。ネット上の噂や、『キラキラ』のみくが国文科を志すところを見ると、もしかして学科まで同じく国語国文学科だったのではないか、と思ってしまう。(そうだったらなんか嬉しいなー。)

『キラキラ100%』の中で、「人間は自分の血液型を知ることによって自らに暗示をかけて、一般的に言われている血液型のイメージに重なるように自分の性格を作っていったりする」みたいなことが言われている。自分をO型だと思っていた人間が、実はA型だったということを知ると、急に几帳面で真面目な性格になったりする、とのこと。これは僕も何年か前に言っていたことで、「はー、さすがは先輩」と思わざるを得ない。ぜひ←の検索ボックスに「血液型」と入れてみてくださいな。
 大学の学部なんかも、それに似ているんじゃないかなと思う。教育学部に入ってしまった人間は、永遠に「教育」という二文字を背負うことになる。経済学部に入ったら「経済」を、法学部なら「法」を背負う。まじめに勉強なんかしなかったし、当時学んだことはすべて忘れてしまった、しかも現在は学部とはまったく関係のない職業についている。そういう人でさえ、やはり学部の名前は永遠に背負うんだと、僕は信じる。
 だから、教育学部出身の人を見ると、「きっと無意識にでも教育のことを考えてしまうんだろうな」と思う。ジョイマンというお笑いコンビの高木さんという人も、僕と同じ学部・学科に在籍していたんだけども、彼は娘が生まれるという頃に「胎教ラップ」というのを毎日やって100本もの動画をYoutubeにUPしていた(動画はまだある)。ほとんど通わずに中退したそうだけれども、入学した段階で「教育」という文字は背中に印字されてしまう。芸人でありながら早稲田大学なのだから、そのことを意識しないことはないだろう。そして意識するたびに「教育」という文字が意識の中に刷り込まれていくのだ。「胎教」を積極的に行った彼の背景には、きっと「教育学部に通っていた」という事実が大きく描かれていると僕は確信するのである。
 水沢めぐみ先生は、教員の道を選ぼうと思ったことさえあるらしい。そういう人だから、良い意味で教科書のような、素敵な作品をたくさん生み出して行けるのだろう。
 特に『キラキラ100%』は、思春期の女の子に「安心して読ませられる」どころか、「絶対に読んでおくべき」名作だ。若い女の子がぶち当たる様々な悩み(他人からすれば、くだらないと思えるようなことも多い)に、「君は君だよ」の精神で真っ正面からメッセージを投げていく。絶版になる前に、全巻買い揃えておいたほうがいいですよ。

『君は君だよ』というのは、水沢先生原作のアニメ『姫ちゃんのリボン』のエンディング・テーマで、最終話付近に使われていた。
 小倉めぐみさんという人が作詞して、SMAPが歌っている。リリースは1993年。驚くべきことに、水沢めぐみ先生がその後も長年、作品を通してうったえ続けることになるテーマを、そのまま歌ってしまったような曲だ。誰かの真似なんかをするんじゃなくって、自分を見つめること。そんな歌が代表作の、最終回のエンディングを飾ったなんて、できすぎのように思えて泣けてきてしまう。

 君は君だよ、なんて、そんなテーマはいくらでも手垢がついていて、珍しくもない。でも、本当に大切なことだから、目をそらしてはいけない。自分を見つめよう。本質を……だなんて言っても、「そんなこと簡単にできるわけないじゃない」って声が聞こえてきそうだ。そうなんだ。だからこそ、いくら手垢がついたって、あらゆる角度から、何度でも何度でも語っていかなければならないんだ。
 人生は一度きりしかなくって、取り返しのつかないことはいつだって起こりうる。だからこそ、漫画やアニメや、舞台や映画や本や他人から、ヒントをもらわなくては。がむしゃらに、素手で突っ走るのもその人次第だけど、たとえば水沢めぐみ先生の作品を手にとって、心の糧にしていくのはとても素敵なことだ。きっとそうするべきだと僕は思っている。

2013/05/07 火 女の子はどうして、きれいになりたいの?

 僕は見た目にもかっこよくありたいですが、それはモテたいからです。
 あとは「不細工とバカにされたくない」とか「得をしたい」というのももちろんあります。
 それ以外に理由は特に思いつきません。
 でも女の子はそれら以外にもきれいになりたい理由がありそうです。
 それはどうしてなんでしょう。
 そして、「きれい」とはどういうことなんでしょう。
 自分の見た目にコンプレックスがある女の子は、なぜそれを持ってしまうのでしょう。
 その辺が僕にはわからないから、昨日の日記の内容にはあまり自信がありません。

 僕は自分の容姿について、「まあこんなもんだろう」と思っているので、髪の毛をいじくったり、服装に気を遣ったりしません。もっと気を遣ったほうがいろいろと得をすると思うのですが、髪の毛も自分で切るし、眉も整えないし、服も買いません。(兄がたまにくれるので、買う必要がないのです。)
 女の子はなかなか、「まあこんなもんだろう」とは思わないようです。

 僕が「まあこんなもんだろう」と思うのは、髪型や服装を含めた自分の容姿に納得しているからです。内面との一致を感じているからです。
 僕は割と何もしなくても外見と内面が一致してしまいますが、女の子は、そう簡単にはいかないようです。
 そういうことなのかなと今は思っています。

2013/05/06 月 地声という喩え

 僕は地声が好きだ。
 お母さんという生き物はたいてい、電話をとる時に声が変わる。声を変える必要のない相手だと気づくや否や、声が元に戻ったりする。
 声が変わっている時、それは地声ではない。
 声を変えている時のお母さんを好きな人はあまりいないだろう。僕もそうだ。

 小沢健二さんでいえば、『犬は吠えるがキャラバンが進む』というアルバムには地声を感じる。『LIFE』にはあまり感じない。川本真琴さんで言うと、『川本真琴』というアルバムには感じなくって、『gobbledygook』にはちょっと感じて、『音楽の世界にようこそ』にはものすごく感じる。それはもう、発声からしてそうだ。奥井亜紀さんでも、『DENIMUM』にはずいぶんと地声感がある。たぶん、だから好きだ。

 僕は『ドアをノックするのは誰だ?』よりも『天気読み』が、『1/2』や『桜』よりも『山羊王のテーマ』や『縄文』が好きだ。
 僕ははっきりとそこを差別する。
 悪い曲だと言うのではなくって、ドアノックも桜も(奇しくもどちらも早口の曲だ)大好きなんだけれども、しかし「地声」には敵わない。どうしてかと考えたら、僕は小沢さんや川本さんのことが好きだからだ。人間として、人格として好きなのだ。だから地声の響きにこそ、より惹かれる。
(ところでこれは、CDに収録されたスタジオ録音版に関する話で、ライブで演奏されたものについては、また別だということを注記しておきます。)

 ショップ店員の「イラッシャイマセー」みたいに、地声とはほど遠い響きに親しみを覚えることは、普通ない。一種の安心はあるかもしれないけど。そこに人間はいない。
 僕は『川本真琴』や『LIFE』を通して聴くことが今はあんまりない(それでも、ほかのミュージシャンのアルバムに比べたら圧倒的な頻度だけど)。それらのアルバムを特別に好きだという人に出会えば、「なんで?」と思う。好きなのはわかるけど、犬とか音楽の世界へようこそのほうが、人間っぽくってよくない?
 と思うのは、もちろん僕の価値観でしかないんだけど。
(ちなみに通して聴く頻度は、小沢さんでいうと犬→環境学→球体→Eclectic→刹那→LIFEの順。ただし必ずしも好きなアルバムランキングではない。)

 中村一義でいえば、『金字塔』や『太陽』に地声を感じる。『ERA』は名盤だけど、『LIFE』『川本真琴』と似た匂いがする。『100s』になると、かなり聴く頻度が落ちる。

 僕が小田和正さんとか、徳永英明さんとかを好きにならないのは、彼らが地声で歌う気を一切持たない人たち(のように僕には見える)だからってのも、あると思う。あの人たち、目を閉じて、自分に向かって歌うし。

 地声であるほうがいい。
 もちろんそれは比喩で、声だけの話じゃない。
 歌なら、言葉にも音にも関係がある。

 それは僕が、化粧なんかしなくたっていいんじゃないの? ってよく言って(それで一部の女の子の反感を買って)いることと非常に関係がある。
 僕は基本的に(性的な意味を除けば)、顔立ちで女の子を差別しないよ。顔つきや表情では差別するかもしれないけど、一般的にカワイイかどうかってのはあんまり関係がない。愛嬌があれば誰だってカワイイよ族だから。問題になるのはイイヤツかどうかだから。
 化粧によって、一般的にカワイイと言われる顔だったり、その子が理想とする顔(それはたいてい、一般的にカワイイと言われる顔の方向とほぼ一致する)に近づけようとしても、僕はそれによってその人に対して(下心がある場合以外では)優しくなったりしない。
 化粧すると、一般的にカワイイ顔には近づく。性的には僕も、一般的にカワイイ顔が嫌いなわけではないから、性欲は刺激されやすくなるかもしれないよ。でも、それだけだよ。性欲だけの問題ですよ。性欲がすべてって人も多いけど。性的にモテたいんだとしたら、大いに化粧すると良いと思います。
 え? 化粧は他人のためじゃなくって、自分のためにするもんなんだって? ふうん、そうなんですか。それはご苦労なことです。
 え? ジャッキーさんはかっこいいから、あたしたちの気持ちなんてわからないんだって? ああ、そうかもしれませんね。
 化粧すりゃそりゃいいことはたくさんあるのかもしれないけど、本質からは遠ざかるから、自分がわからなくなったり、まともな人間関係が築きづらくなる。儀式だ、戦闘服だって言う人もいるけど、その是非はどうなの? 本当に必要? とか。でもそうやって割り切らないと生きていけないし、ましてや結婚なんかできないって思う人が(男女ともに)多い。だから別に仕方ない。するなとか、してはいけないとか、するべきではないとか、僕には言えない。でも「実は要らない」ってことはあえて主張していたい。誰かがそう言い続けてることによって救われる人だっているかもしれないんだし。
 はあ。また反感を買うようなことを言ってしまったよ。
 でも化粧ってのは原則的には性的にモテるためにすることで、性的にモテようとすると本質から遠ざかります。絶対に。
 化粧をするのは周囲に同化したり、溶け込んだりするためだったり、礼儀だったりマナーだったり色々社会的な事情もあるらしいんだけど、それは社会が本質から遠ざかっているのです。だから社会が悪いです。社会が「多くの男が性的にグッとくる女性」を増やしたがるからそうなっているのです。
 社会から自由になることができれば、日常的な化粧は不要なのです。そこで一昨日のタモリさんの話になってくるわけですよ。人間は不自由になりたがる。だけど本当は自由でいたほうがいいんじゃないのかな。自由になることが大変だから、不自由でいようとするだけで。本当は生まれた時にはすべて自由で、勝手に「面倒くさい」が積み重なって、最終的に不自由になっちゃってるだけだったりすると思う。
 まあ現代では色々な事情があるわけだから、仕方ない。誰も誰かを責められない。でも「本当は」ってことを考えたい。社会から自由になれて、顔にコンプレックスも感じていなければ、化粧って不要なんではないでしょうか、と。
「じゃあ、顔のよくない人は永遠に顔のよくないままでいるべきで、性的にモテる余地は一切ないのか?」という話にもなるんだけど、僕の立場からは「性的でないところでモテることはできないんですか?」と言うことしかできない。「できない!」「性的にもモテたい!」と言うなら、化粧してください。そのためにたぶん、現代の化粧というものはあるんです。

 化粧には性的な意味しかないよ。絶対にそうだ。
 化粧が必要な商売があるとしたらそれはすべて下心ビジネスだよ。企業の受付から、ショップ店員に至るまで、すべて。下心のないところに化粧なしだよ。絶対に。
 下心を刺激されると男性は気持ちがいいもんですから、取引先の企業に「カワイイ」女の子がいたらムヒョッてなって、その企業への好感度が高まりますわな。
 チャンネルをひねっていて、「カワイイ」女の子がニュース読んでたらムヒョッてなって、その番組を見ますわな。だからアナウンサーは「カワイイ」し、化粧もするんですわな。
 服屋や下着屋で「カワイイ」女の子が働いてるのは、「おお、ここの服を着たらこの人みたいに性的にモテそうな雰囲気になるのかも」とか思うから、なのでは。
 女性向けのシャンプーのCMに「カワイイ」女の子が出てくるのは、「このシャンプーを使ったら性的に……」っていう印象を持たせるためです、よ。

 小沢健二さんの『うさぎ!』最新話に書いてあったんだけど、マサチューセッツ工科大学とかいう大学の研究では、「金とモノと外見に執着があればあるほど、幸福度は低い」ということになっているそうで、それはなかなか否定できないような結果らしい。研究なんぞを待たずとも、当たり前にきっとその通りだって、感覚的にもわかるしね。

 女の子が化粧してテンション高まるのは、「私はいま、性的に魅力的!」って感じるから、だと僕は思い込むようにしてる。で、それは本能みたいなもんで、悪いことでもなんでもない。そうやって男を寄せないと、例のいわゆる「良い遺伝子が選べない」ってことで。だけども現代の人間社会はそんなに単純なもんではなくって、「性的に魅力的~!」とか言って寄ってくる男って、あんまり良い遺伝子を持っていなかったりしますから、もうちょっと回りくどい方法で一所懸命、男を捜したほうがいいと、僕は思うんだよねー。
「そんな暇ねーんだよバカヤロー」って人は、もちろん僕のこの脳天気な意見は黙殺してください。けれども……若い人にはちょっと、少しくらいは考えてもらいたいです。脳天気は若者の特権なんで。

 何にせよ社会が悪いです。社会のせいで、僕のこの主張はきれい事にしかなりません。どうしたら社会をただせるのかといえば、一人一人が自由になるしかない。そのために僕は嫌われるのを覚悟してこんな極端なことを書いているのです。
「うるせー!」って思う人、多いと思うよ。傷つく人もいるでしょう。だけども言わなきゃ仕方ない。だって不自然なんだから。
 わりかし現実的なキーワードは「性的でないところでモテることはできないのか?」そして「化粧をしないという自由を勝ち取ることは現状で可能か?」です。
「できる」「可能である」という答えがそれぞれはじき出せるなら、その人にとって化粧をする必要はありません。あるとしたら性欲かコンプレックスが強すぎるのです。
「だって化粧してできるだけ若そうな顔をしていないと若い人たちに混ざれないし」っていう事情もあるかと存じますが、それも思い込みでしょう。

 僕の大学の友達に、けっこう太っていて、顔も一般的にはかなり良くない部類に入る女の子がいました。黒髪の伸ばしっぱなしで、ファッションもジーンズにトレーナーって感じでした。その子はビジュアル系が大好きでした。「私の友達は、みんなゴスとかロリっぽい格好してんだけど、あたしだけライブでも原宿でもカラオケ行っても、こんななんだよね~」と明るく言っていました。化粧をしていたかどうかは知りませんが、少なくとも「ケバい」感じではなかったです。
 この子みたいに「自由」でいるためには、それを可能にするコミュニティを見つけることと、「それでも問題がないくらい素敵な人格」を身につけることでしょう。その子はhideとcali≠gariが大好きでリュシフェルが嫌いでした。僕から見たら相当、センスのいいバンギャです。飲み会の二次会でカラオケに、みたいな流れになると、「ジャッキーのhideちゃん聴くために行く」とか言ってくれました。イイヤツ。
 ちなみにこの子がcali≠gariの『グッド、バイ。』を貸してくれたので、僕はcali≠gariのファンになってしまったのでした。メアドも知らない(今でも知らない)ようなクラスメイトに、初回限定盤の希少なCDを貸してくれるなんて、なんつうイイヤツなんだろうなあ。きっと、僕がちゃんと「イイヤツ」ってことを見抜いてくれていたのでしょう。
 彼女みたいな子は、失礼な言い方かもしれないけど性的でないところでちゃんとモテると思います。きっと。彼氏がいたかどうかは忘れたけど、いたんじゃないかなあ。

 地声という話からだいぶ離れたけど、離れたようでそれほど遠くないことを書いたつもり。別にオシャレを否定するんじゃないよ。本当に必要なのか、何のために必要としているのか、ってことを、考えてみるのはどうですかって。
 わかんないけど、子供にとったらお母さんが化粧してるのもしてないのも、どうでもいいんじゃないかねえ。僕は、してないほうがいいし、したところなんて数えるほどしか見たことないけど。女の子はまた別のことを思うんでしょうかね。「お母さん、お願いだからすっぴんで外出ないで」とか。それはさすがにないのかな……。

2013/05/05 日 コミティア演舞城

 イベントが終わったあと、直でコミティアへ。がぁさん先生、Moo.念平先生、武富健治先生にご挨拶できてよかった。遠山さんとえりかわさん、そして中学で教えていた子たちのブースに寄れたのもよかった。それで一時間くらいで帰った。入場に1000円払ってそんだけってのはもったいない気がするけど、自転車で行ったから交通費はゼロ。まあ安いものです。
 それから、チケットが余ったということでジャニーズの滝沢秀明くんの滝沢演舞城という舞台に連れていってもらった。途中で僕は泣いてしまった。内容にではなく、歌と踊りにでもなく。演出にでもなく。ただそこにあるものが悲しくて寂しくて泣いてしまった。
 出演者も観客も、全員がボランティアのような感じ。もちろんボランティアってのは「やりがい」が伴うものだから、誰かが何かを損しているというわけではない。
 それを12500円出して観る人たちがたくさんいて、人生を賭けて出演する人たちがいる。
 わからないけど、数十人の少年たちが半裸で太鼓を叩いてて、それを1000人以上の女の人たちが見ているというのはとにかく圧巻だった。
 虚無感とか無力感みたいなものも感じた。
 帰り道、気持ちが辛くて面倒くさかったのでおざ研で休憩していたら来客があったのでちょっと話して、少し寝て、ゴールデン街で二軒飲んで帰った。

2013/05/04 土 ジャズタモリ

 タモリ学というWebの記事が本当に面白い。この人、1978年生まれという若さで、日本有数のタモリ研究家だと思う。素晴らしい。
 これを読みながら、僕の中にある「タモリさん」像を整理してみたら、今年最大の衝撃が訪れた。僕がどうしてこんなにもタモリさんが好きなのかが改めてわかった。

「タモリ学」で主張されていることの一つに、「タモリさんは予定調和を嫌う」という点がある。決まっているということは、それだけですでにつまらないのだ。

 先日『未来回路5.0』という同人雑誌に寄稿した。「旅と文学」というテーマで書いてくれという注文だったので、『旅と文学は自由である。自由とは「選択に満ちている」ことである。(十六の夏に、旅で自由をつかんだ話)』とかいう、やたら長いタイトルのエッセイを書いた。読んでみたい人はぜひおざ研にでも。
 とりあえず引用してみる。

「旅」という非日常における「選択」のすべては、自分か、自分と同行者による判断に委ねられる。他者の思惑や、既存の環境に左右されることがない。日常生活にはほぼ不可能な、純然たる「自分の選択」ができるのは、「旅」の特性である。「旅の恥はかき捨て」と言う言葉は、旅における「選択」がそれほど自由であることを表している。旅は気ままで、気ままとは自由のことである。自由とは選択に満ちていることで、選択に満ちていることは、とても文学的だ。旅は文学なのである。
「文学」も「旅」と同様に、純然たる「自分の選択」を可能にする。登場人物にとってもそうであるし、書き手にとってもそうだ。他者の思惑や、既存の環境に左右されない。もちろん、「完全に」と言うことはできないかもしれないが、そのような自由さが文学にはある。
「旅」と「文学」は、自由なものである。そして自由とは「選択に満ちている」ということである。選択の一つ一つが、豊かで、意義深いものであればあるほど、その「旅」や「文学」は豊かで、意義深いものになるだろう。

「自由である」とは「決まっていない」ということなのである。タモリさんが予定調和を嫌うのは、彼が自由でありたいからだ。だからタモリさんは崩す。壊すのではなくって。(ここを勘違いして安易に「壊す」をやってしまう人と、こないだニコニコ生放送とかいうのに一緒に出て非常に嫌な気分になった。)
 たとえばタモリさんは、さんまさんが面白い話をどや顔で始めると、「髪切った?」とか「米、研ぐ?」とか言って邪魔をする。さんまさんに任せておけば確実に笑いにはなるが、そういった「絶対に受けるに決まってる」ような状況がたぶんタモリさんには耐えられないのだ。いったん崩して、そこからどんな新しい流れが生まれるか、ということを、確信もないままとにかく試す。それがタモリさんである。

 タモリさんがジャズの愛好家であり演奏者でもあるということは有名だが、彼がなぜジャズに惹かれたのかといえば、もちろんジャズは「決まってない」からだ。ジャズが自由な音楽だからだ。即興こそがジャズの醍醐味であり本質なのだ。(と言っちゃっても別に間違いではないよね?)
「しかし人は自由であることを嫌い、自ら不自由を求める……」といった類の恨み言は僕にやらせると永遠に終わらない。タモリさんが嫌いだという式典や儀式なども、どうせ人間のこの怠惰な性質から生まれたものだ。僕はここんとこずっとそういったことに対する愚痴ばっかりを言っている。
 とにかく僕は自由でいたくって、自由になりたがらない人たちに憤ってばかりいるのだ。アナーキーに生きよというわけではない。「今から遊ぼうよ」って声をかけて、「そういうことは最低でも一週間くらいは前に言ってもらわないと……」って返されちゃうようなことが、あまりにも寂しいということなのだ。一週間前に言わなければならない理由が、「スケジュールが忙しすぎる」とか「実はあなたと遊びたくなどない」ということならわかるんだけど、世の中には「一週間くらい前からちゃんと決まっていないと行動できない」という人がけっこういる。たぶん、めちゃくちゃいる。

 おざ研にしかビデオデッキがないんで、VHSはおざ研で見る。「君に借りてたVHS、いま見てるよ」ってメールしたら、「あ、もしかしておざ研にいるんですか? 自分もいま新宿なんですよ。これから行っていいですか?」っていうような自由さ……というか、関係と言うのかな……そういうものが本当に嬉しい。
 それも一種のジャズと言っちゃいたいんです、僕は。
 ジャズなんか全然知らないけど、お父さんが毎晩ずっと聴いていたから、耳に入れていた時間だけは半端じゃない。僕はたぶん、そのせいで根っからジャズが好きだ。だからもういっそ、自由に関するすべてのことを「ジャズ」って言葉で片付けてしまいたい。
 そんで友達がおざ研に来て、なんだったら誰か連れてきたっていいし、それでなんかもう、どうなるかわかんないけどとりあえずセッションが始まる、という。
 それで僕の行動ってだいたい説明がつく。僕が変なことをしてしまう時って、だいたい膠着した状況を打ち壊したいときだ。それで反省したりもするけど、それはその時の精一杯の演奏なのだ。……ただ、ちょっと前にも書いたけど、調子の悪いときは演奏も悪い。それで本気で落ち込んだりもする。よくある。

 僕が何年間かずっと言ってる「場」がうんたらって話にしたって、「楽しくジャズりたいよ」ってことだ。
 楽しくジャズるために場を作りましたよ、というのが木曜喫茶であっておざ研なのだ。

 かつて『笑っていいとも!』に、タモリさんとさんまさんが小さな丸いテーブルを挟んで雑談するだけのコーナーがあった。10年以上続いた名物コーナーだった。
 僕はあのテーブルこそが「人と人との関係」の象徴だとずっと思っている。
 人と人との間には必ずテーブルがあって、そこに「話題」が置かれる。みんなはその「話題」について語り合う。決して、個人と個人が一直線に語り合うわけではない。そうであってはいけない。「人-人」ではなく、「人-テーブル-人」なのだ。そしてそのテーブルを介して、たくさんの人が同じ話題を共有できる。
 タモリさんとさんまさんの間にある、あのテーブルがバーカウンターになれば、それが僕のやっている「場」の理想なのだ、というふうに思っている。

 なにかを催すと、「誰が来るの?」と尋ねる人は尋ねる。
 わかりやすくいえば、お花見とか。
 誰が来るのか決まってるほうが、みんなは安心する。
 それは当たり前のことで、悪く言うつもりも何もない。
 でもやっぱ、「誰が来るかを決めるのは自分自身でもあるんだ」という考え方が、もうちょっと多くてもいいんじゃないかなとは思う。ちなみにこれは一般論的な話で、僕の周りではわりと最近そんな感じが多くなってきて、とても楽しい。
 それも自由であってジャズであって、びっくり箱だ。

 決まってることは僕には耐えられなくって、結婚式や社員旅行はもう、苦痛で仕方がない。
 そういう当たり前のことがどうしてできないの? できないくせに偉そうにすんじゃないよって、こないだうじうじ結婚式について書いてたら言われたんだけど、うーん、僕は偉そうにしていきたいよ。そのために生きているようなところもある。

自由になることに憧れていたけど
生まれた日から自由だった
もう駄目だと思う日も 迷えるときも
磁石が指すように 求めている場所を 見つけられる
ふたつの心がそれを強く願うなら
Amika/ふたつのこころ

(「ふたつのこころ」というのは、「二人の心」ということではなく、「まるで体と頭に心は二つあるように」という歌詞があるのでそういう雰囲気の意味だと思う。)

 阿佐ヶ谷ロフトの『日本一くだらないイベント』というのに出た。(リンク先は出演者の架神さんのブログ)
 タイムリーに、これはジャズなイベントだった。
 主催はおぱんぽんさんという僕の大学の先輩で、くだらないことをやらせたら天下一。大学を出てからは割と「ちゃんとした」イベントをたくさんやっているのだが、彼がちゃんとしたイベントをたくさんやってきたのは、最終的に今回のようなジャズイベントをやりたいからなんだな、ということが確信できた。それが事前告知の段階で感じられたから、「これは!」と思って、「手伝いますよ!」と珍しく自分から言った。
 今回のは、これまでに見た・参加したロフト系のイベント(まあ、トークライブとか言われる類のやつとかです)の中で一番好きだ。予定調和的なところがほとんどなかった。24時半に開演で、僕が会場に着いたのは24時ちょうどくらい。お客さんが入り始めるところだった。もちろんそれまでに打ち合わせはまったくなし。僕はただ「将棋盤と駒とボイスレコーダーを持ってきてくれ」と言われただけだった。
 イベントの詳細は上に貼った架神さんのブログが詳しい。一番うまくいったのはやっぱり、僕と黒田勇樹さんとで対決した「将棋VS麻雀」という企画。これは本当に面白かった。事前の取り決めは一切なしで、ルールも何もかも、その場の流れで組み立てていく。出演者にもお客さんにも、次の瞬間に何がどうなるのかまったくわからない。わからない中で、「どうすれば面白いのか?」ということを常に考える。どんなに無茶苦茶なルールでもアリだけど、地に足がついていればいるほど面白い。つまり、本来のルールを利用しながら進めていくのが最も面白い。破天荒にやり過ぎたらちっとも面白くなくなってしまう。その緊張感がまたよかった。
 ちなみに黒田さんとは完全に初対面で、対決する瞬間まで言葉を交わしたこともなかった。そもそも僕と黒田さんが対決するというのも僕は知らなかった(誰も知らなかったのかもしれない)。試合(?)が終わったあと、すっかり僕は黒田さんと友達になったような気になっていた。たぶん向こうもそんなような感じがあったと思う。本当に面白いことを共犯的に作り上げられた時の充足感は、何物にも代えがたい。
 それから個人的に良かったのは、ご当地HIPHOPを即席で作って、その場で自治体に送りつけるという企画。お客さんの中に秩父出身の方がいたので、秩父をテーマにリリックを作り、Youtubeで見つけた適当な音源をバックに歌った。「秩父って何があるんですか?」と出身者に尋ねたり、Wikipediaでネタを拾ったりしながら出来上がったのがこの曲。即席で作ったにしてはなかなかいい。ラップは昔取った杵柄だけど、ちょっと僕の節が出過ぎてるのが気になる。わかると思うけどメインで歌ってるのが僕です。

盆地 芝桜 チチブシ

一都四県とRINSETSU
秩父事件もBOPPATSU
いい乳のブスとIPPATSU
全裸バビロン秩父鉄
道の運チンはWACK

時には猛暑
BEAT EMOTION
BONCHI EMOTION

俺の和同開チン まるで秩父原人 盆地
困・民・党

藤原竜Yeah たい平は林Yeah
ヤバすぎる芝桜 まるでバナナマン設楽

林家たい平 平氏のFurusato

マジうめえ豚の味噌漬け 秩父神社のお告げ
許せねえ信玄 KICK

一都四県とRINSETSU
秩父事件もBOPPATSU
いい乳のブスとIPPATSU
全裸バビロン秩父鉄
道の運チンはWACK

札所巡り

 っていうふうに歌詞を並べても、これは当日、あの場で、ああだこうだ言いながら歌詞を考えて、適当に、でも楽しんで歌ってたあの空気感が伴わなければ、面白くもなんともないんだろうと思う。この一回性こそがライブの良さってやつなんだろう。
 ああ、僕がロックとかのライブにあんまり行きたがらないのは、たいていのライブが予定調和的だからなんだな。曲目がそもそも決まってて、MCを入れる箇所も決まってて、それをやるだけなんだから。面白いわけがない。
 もちろんKannivalismの怜くんが本番中に「自由じゃなきゃライブじゃねえよな!」みたいなこと言いながら勝手に曲を増やしたりする感じは大好き。


「誰もが皆自由に生きてゆくことを許し合えればいいのさ」
 っていう歌詞がやっぱり最後には出てくる。
 いつもいつも毎度どうも。
 みんながタモリさんになればいいと僕は思うし、タモリさんもそう思っている(いた)んじゃないだろうか。
 あのタモリさんとさんまさんの雑談コーナーは、まさに二人の自由のぶつかり合いだった。
 さんまさんはどちらかといえば予定調和的な笑いを好むが、タモリさんと二人で話している時にそれは通用しない。今でもそうだということは上に貼った、十七年ぶりの雑談コーナーの動画を見ればわかる。
 さんまさんが行きたい方向に、タモリさんは決して道を空けない。
 だからさんまさんはまた違う道に進もうとする。タモリさんは再びそれを阻む。そうこうしているうちに、話題が一巡して、元に戻る。
 出世魚からさるかに合戦、桃太郎と進んで、再び出世魚に戻るという展開はまるで教科書のようだ。
 でもそれはただの雑談。何の意味もない。
 でも二人にはそれが楽しいし、見ているこちらもそれが楽しい。
 互いに自由であるような理想的な関係を僕はここに見る。
 なかなか難しいことだけど、あのテーブルをいつでも意識して生きていたいものだ。
 それは日常の中でジャズを奏でる舞台のようなものなのでございますからのう。

2013/05/03 金 喧嘩さえもリズム

 悪い夢を見た。
 こんな気持ちになるのは久しぶりだ。

 兄弟姉妹の美しさ、素晴らしさ、尊さ、すべて知っている。だから特別に思い入れる人の気持ちもとてもよくわかる。
 良いところも悪いところもあることをわきまえながら、それでも最強の腐れ縁として奇妙に愛し合う。
 チャットモンチーという人たちに『Good luck my sister!!』という曲があって、とても良い曲だと思う。いろんなことがあったんだろうが、最終的には「喧嘩さえもリズム」と言い切れるような、幸福な姉妹関係を築くことのできた二人らしい。
 この曲の対極にあるのが、なかにし礼さんの『兄弟』という小説。トヨエツとビートたけしさんでドラマ(スペシャル)にもなった。
 僕にとって兄弟っていうのは「こっち」だ。あらゆる美しさ、素晴らしさ、尊さをすべて覆してこっち側。兄弟というのは「面倒くさい」とか「難しい」とか、そういうレベルのものではない。国籍や身分と同じものだ。
 特に兄や姉がどんな人であるかというのを、下の側から選ぶことは原則的にできない。
 兄や姉がどんな人間であるかによって、ほぼ人生は決まるのだ。僕は兄たちに心から感謝している。彼らのうち一人でも欠ければ現在の僕はなかっただろう。しかし、永遠に言い続けると思うけど、思春期の僕の最大の苦しみはこのあたりにあった。中学三年生の時にドラマ『兄弟』を見て、暗澹たる気持ちになったのを覚えている。それから今に至るまで、恐ろしくて原作を読むことができない。だいたいどんなことが書いてあるのか、わかる気がするのだ。そろそろ読む時期かなとも思うけど、きっと今日のような気持ちになってしまう。
 このことを考えると今でも暗く重たい気分になる。
 野島伸司脚本のドラマ『家なき子』で、相沢すず(安達祐実)のお父さん(内藤剛志)が本当に極悪人で、すずも心底憎んでいるんだけど、「実の父である」というしがらみによって徹底的に振り回される。ひどいドラマだ。でもそれが現実の一つの側面だ。ああいうドラマをせんべいかじりながら「まあ」とか言って見られる層の人は、いるんだとしたら実に幸福である。
 ずっといじめに遭っていたという小説家の方に先日会った。いじめという文字を見るだけでフラッシュバックするので、いじめ関連の本やドラマはまったく見ることができないそうだ。『兄弟』や『家なき子』を、そもそも見ることすらできない人たちというのはきっと、かなりの数いるんだろう。

 兄弟に夢を見たっていいじゃないか。辛かったんだ。
 少しくらい逃げ込ませてくれよ。
 甘えたいんだ。
 失ってしまったものを取り戻すのは、勝ったり立ち直ったりするためのステップならばいいだろう。
 他人を兄とか姉とかって慕う人たちは、可哀想な生い立ちなんだよ。きっと何かから逃げたいんだ。足りないから埋めたいんだ。
 もちろんそんなことは一時しのぎでしかない。それがわからない人は愚かだ。ただそれだけだ。愚かな人は笑えばいい。いつまで可哀想な人でいるつもりだと。しかし、わかりながらもたまには逃げたいと願う人間に、かけてあげる言葉はなんなんだろうか。
「弱いね」しかないだろう。
 でも人にそれを言うのは、相当の覚悟のいることだ。
 どんな意味があるのかもわからない。

2013/05/02 木 


2013/05/01 水 謎

 怒りが弱まっているのかなんなのか、書くエネルギーが若干低めです。
「ディス」や「悪口」と捉えられかねないようなことは、なんだか最近言いたくないのですが、そうするとなにも言えなくなってしまいますね。良いのか悪いのか。
 わりと根本的に見つめ直しています。

 褒めるでもなく、けなすでもなく、何かを突き詰めて考えるでもなく、詩を唱えるのでもない、ましてや説教なんてもんでもない、それはなんだろうか。

 やっぱり、結局、「わかる」ということにしか行き着かない。
 のだろうか……?
 何年に一度か、やってくる病気で、一人称で雑感を述べることの限界や意味をつい考える。
 だからといって「やめる」ことはないですが。

 またちょっと変わる可能性はあります。

  変わること恐れずにGood bye
  進んでいく道標は最初と同じ風のままに

 ってのはhideの『GOOD BYE』って曲です。明日は命日ですね。

 結局はゴールを旋回し出発地点に戻る。
 時間は螺旋の階段なんて言葉もありました。
 始まりと終わりをぐるぐる行き来して僕たちは舞い上がるのです。
 永遠に岡田淳さんの作品を理想として考えていますので。

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