2002年7月前半の行い(Jacky)
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2002.7.15(月) 春は曙。やうやう黒くなりゆく…
ウッカリして甘いお茶なんて飲んだり
格好つけてピアノなんか聴いてみたり
大人じゃないような
子どもじゃないような
なんだか知らないが輝ける時
誰かと恋をしたらそんなときは言いたいなあ。
第一部「である調」
昔、国語の授業で枕草子の序文をパロった作文を提出したら、
猥褻な表現があったとして先生に呼び出された。
しかしその文章で誰かに迷惑をかけるということがあっただろうか。
これは一つの例だが、僕は昔から、
「どうして他人と違った事をしてはいけないのか」と、強く思っていた。
つまり、「どうして面白い事をしてはいけないのか」「どうして人を笑わせようとすると怒られてしまうのだろうか」と。
作文というのは、個性を発揮する場だと僕は思っていたし、そうするように努力してきた。
しかし結果的に僕は怒られたのだ。
僕はひどく反発をして、
そのようにして小学校、中学校、そして高校と、
いわゆる「問題児」としての称号を獲得しつづけてきた。
そして自分が正しいと思い込んでいたのだ。
そう、ついこの間まで僕はこの考えを捨てきれていなかった。
ところが6月38日、ちょっとしたひらめきから、僕は脱出したといえる。
とうとう、男17にして、「子ども」からの脱却である。
人間、悪いことをすれば、罰せられる。
なぜなら、罰する側は、もう二度と同じことを繰り返して欲しくないからだ。
もし繰り返されれば、それによって秩序が乱れるようなことを、人々は罰則の対象とするのである。
秩序が乱れるのは、よくない。
もしも人を殺す事が倫理的にいけないことだとすれば、
それは確実に秩序をも乱す。もしそうでなければ、秩序は乱れないかもしれない。
だがしかし現実に秩序らしきものが乱れているらしいところを見るに、
どうやら人を殺す事は、倫理上の点において間違っているといえなくもないのだ。
秩序が乱れれば大変な事である。
たとえば僕が高校教師になって、学生の頃に叶えられなかった夢だとでも言って、
教え子である女子高生にいたずらをしたとする。
するとどうだろう、秩序というものは、パッと見、乱れるように思えやしないだろうか。…乱れるのである。
この場合の「秩序」というのは様々の事物に代入が利くと思われるが、
今、これを「給与」というものに置き換えてみる。
これによって乱れる「秩序」とは特に「給与」に限定されたものではない。
皆目見当もつかないので、だれだれの…、と限定はできないのだが、
多くの人々の精神的な秩序は破損を来たすだろうし、
ひょっとしたら「学校」という組織の秩序が部分的にでも破綻するかもしれないし、
その他にも僕の知らないところで秩序は死ぬのだろう。
しかしここで僕は、個人的な実際問題としての「給与」をこれに当て嵌めてみようというのである。
第二部「ですます調」
セクハラをすれば悪くすれば首になり、運が良くても減俸になります。
つまり、「給与」はここに崩壊します。悪くすればゼロで、良くても少なくとも今よりもマイナスになります。
これは、とても嫌な事です。僕なら嫌です。
だからそこそこ頭の良い人は、あまりセクハラをしないのです。
もっと頭の良い人なら、まあ、何か考えがあって、しちゃうのかもしれませんが。
っていうか悪い事して死刑になるのは嫌ですよね、たいていは。
だからそこそこ頭の良い人は、あまり犯罪をしないのです。
そういうわけで、僕は「目立たずに居る事は自分の身を護るためだ」と言ったのです。
人より目立って秩序を乱せば罰せられます。
才能があればそれ相応の秩序を持った社会(わかりやすい例を挙げるなら文壇や芸能界)に入れますが、
そうでない人は普通の社会=目立つのを嫌う社会に入らざるを得なく、
入ったからには従わねばなりません。そうでなければ、何らかの形で罰せられたり、或いは疎まれます。
だから、そうならないために、従うのです。自分を殺すしかありません。個性を捨てるのです。
もし僕が秩序ある社会に入ったならば、
僕は自分を殺すでしょうか、個性を捨てるでしょうか。恐らく、捨てません。
ここがポジティブシンキングなところです。
捨てずに何とかやっていく方法を探すでしょう、しかし結果的には、僕は首になるかもしれません、
そうすると、僕が家庭を持っていた場合、一家は路頭に迷うことになりかねないのです。
多くの人がこれを恐れて、多くの大人が個性を捨てていることです。日本という国の、多くの社会においては。
そういうところが、人間の大人にならざるを得ない理由だと言うのです。
護るべきものができてしまったら、人間は保守的になるのです。
僕だって例外ではないかもしれません。これは、恐ろしいところです。
僕には見えてきたのです、大人になる原因と、過程と、結果が、おぼろげながらもすべて。
僕はもちろんこの社会形式自体に意義を唱えるつもりはありませんし、
そして人間がこのようにして大人になっていくのを、僕は否定的な見識を持って眺める気もさらさらないです。
これは当たり前の現象であり、これがなくなれば、確実に人生が面白く無くなります。
その理由のひとつとして思うのは、
もしもすべての社会が個性を受け入れるのであれば、僕が特異では無くなるからです。
どうにかして、特異で居ながらも社会に順応して生きる方法を探すのが、
僕の生き甲斐の一つとなる日が来るかもしれません。、
第三部「ざます調」
しかしそれはあくまでも、ミーが秩序ある社会に入っていった時の話ですざます。
もしもそうでなければ、つまり、ミーが特異的な秩序を持つ社会に入っていったときの場合は、
何の気兼ねも無くミーは生きていけるかもしれませんざます。
だからこれは勝負なのだざます。ミーにはどの程度の能力があるのかという…ざます。
先に述べた通り、才能のある奴は相応の社会に入る事ができるざます。
とりあえずの方向性としては、さて、ミーはその社会に入れるほどのざます、
或いは自分でそのような社会を形成していけるだけの能力をざますこれから先にざます見出せていくのかという、ざます、
それを確かめるために生きていくということでありますざます。
第四部「さまぁ~ず調」
その過程で、人を笑わせ、たとえ人に疎まれても、僕自身は大声で笑いながら生きていけるのであれば、
ああ、そんなに幸せなことはないさまぁ~ず。
第五部「租庸調」
僕は大人になるのを嫌がるどっかの尾崎豊ファンのような輩とは違っていると思いたい穀物、労役、布。
大人になるということは子どもで無くなるというだけで、自分で無くなるという意味ではないのだ穀物、労役、布。
この文章ではあえて大人=個性のないつまらない存在という定義を暗黙に敷いてきたが、
はっきり言って僕は「個性」を振り回す若者が嫌いである穀物、労役、布。
あえてそれを使ったのは、それ以外にそれを表現する言葉を知らないからであって、
それは文章を書くに当たって、歯がゆい部分でもある穀物、労役、布。
僕は、俗な言葉は使いたくない穀物、労役、布。嫌いなのだ穀物、労役、特産物。
第六部「カペー朝」
俗な言葉というのは、何かというと、使われすぎている言葉だユーグ・カペー――ロベール2世――アンリ1世――フィリップ1世――ルイ6世――ルイ7世――フィリップ2世――ジャッキー1世――ルイ8世――ルイ9世――フィリップ3世――フィリップ4世――ルイ10世――ジャン1世。聞くだけでぞっと嫌悪感が走る。「俺はお前ら大人の操り人形じゃない」とか、そういうのですユーグ・カペー――ロベール2世――アンリ1世――フィリップ1世――ルイ6世――ルイ7世――フィリップ2世――ジャッキー1世――ルイ8世――ルイ9世――フィリップ3世――フィリップ4世――ルイ10世――ジャン1世。本当に、聞いているだけで耳が熱く、恥ずかしくなって、しまいには爆笑してしまいます。ユーグ・カペー――ロベール2世――アンリ1世――フィリップ1世――ルイ6世――ルイ7世――フィリップ2世――ジャッキー1世――ルイ8世――ルイ9世――フィリップ3世――フィリップ4世――ルイ10世――いしだ壱世。
2002.7.14(日) パシれメロス
僕は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。
僕には政治がわからぬ。僕は、村の牧人である。
というような気分で、ケーブル・レイルロードのようなハイ・ウェイのインター・ステイトを時速88マイルでひた走り、
マン・ションのエレベーター・カーネギーに到着した。
この4階に、僕の家があるのだった。
そう、僕は激怒していた、というのは誇張であるが、確かに気分は優れなかった。
このまま家になど帰っても、受験勉強になど専念できるはずもなく、
いたずらに時間を浪費してしまう事は疑いなかった。
そして僕は平常利用している合計64段の階段を敬遠し、文明に溺そうと思った。
億劫だったのだ。
僕がエレベーター・ホールの傍らで郵便受けを覗いている間、
おばさんと子どもが待っていてくれた、エレベーターは止まっていた。
ありがたいことだった。おまけに二人は、幸いにも笑顔であった。
余りの出来事に――確かにそれはごく日常的な風景であったが――腐敗しきった僕の心は刺激された。
おばさんたちは4階よりも上に所用(帰宅)の様子であった。
僕は、降り際に、きざなことではあるが、ボタンを一つ、押して出た。
そして僕は家に着くなり、岩波文庫の「英語名言集」に取り組む事ができたのだった。
君は窓辺のタイム/ウェイスター。
潰すな
タイム/ウェイスター
そんな事に費やすなんて勿体無い、最悪だ。
警備員を見る。毎朝、毎夕、学校の行き帰りなどに、
または君の住む部屋へと急ぐその復路、
メッツ大曽根なるショッピング・モールの傍らに彼は立っている。
駐車場に出入りする車を見送りながら、棒を振り回して直立不動の外観だ。
何が楽しいのだろう。
英文で、「娯楽とは生きていくための不可欠な要素だ」という主旨の文章を読んだ。
曰く、生計を立てることは楽しむことと同一視すべきであり、
楽しいと思えないような仕事は即刻辞めるべきだという。
同意したい、だが、何だろう、いったい、しかし彼は、何が楽しくてここに立っているのだろう…
そのとき、ふと、ひらめきがあった。
そうかこの人たちは、きっと僕の知らないことを知っている、とりわけ、彼らが人生を楽しんでいるとすれば。
そしてこうも思う。
そういうことに楽しみを見出せることになるのが、
人生を本当に楽しんだといえるのではないだろうかと。
それこそが、いわゆる大人物と言われる人の、根源なる条件節ではなかろうかと。
…将来を夢想してみた。
愛とはまさに、タイム/ウェイスター
滑走するガラス玉のイメージ
底知れない直立水平のスリープ
溺れ死ぬのか、我!
2002.7.13(土) 爆笑問題の田中さんが突っ込んでいました。「浪花節だよ!人生は」
アメリカ人の登場しないアメリカンジョーク
ある日のジョイ(イギリス)とキャシー(オーストラリア)の会話
「セロハンテープつけてくれる?。」
「もちろん。だけどまあ、やぶれたら大変だよね」
「それが、けっこうやぶれちゃうのよ」
「クレイジー!ヘイ、ボクのは特別制さ、ルッカウッ」
「キャー」
新出語句 crazy ものぐるおし hey いでや look out 見す kya- よやよや
durex 【名】〔しばしばD~〕[C]
《商標》デュレクス 《1(英) コンドーム (豪)セロハンテープ》
(広J苑第713版)
伊吹三郎は言った。
「心に棚を作れ」
そうだ、自分のことを棚上げしなくて
説教などができるものか。
もしも完全に自分が当て嵌まらない事しか
口にしてはいけないのなら
愚かなる者に誰も忠告などできないし、教育は破綻を来たす。
果たして、親が子どもに「一寸の虫にも五分の魂」と、教える事ができるでしょうか。
上手に棚上げしなければ、社会は成立しない。
これは矛盾ではなく、真理なのだ。
だが、真理を逆手にとってその中枢者たちは好き勝手暴れているように見える
いったい、本当の真理など、どこかにあるのだろうか。
他人を慰める公式というのが存在するのならば欲しい。
様々の相談を受けるとき、
僕はどうにかしてその心を癒したいと願う
しかし実際には、自分などにはどうにもできないことが多く、
それを誤魔化すための言葉さえ、満足には浮かんでこないのだ。
しかし多く、「相談」というのは内容に重点はなく、
その行為によって慰められる所が大きいのだから、
相談を持ちかけられた時点で喜ばなくてはならない。
よほど変なことを言わなければそれは相手のためになるのだし、
頼られている証拠。かといって、このような公式もまた、机上。
2002.7.12(金) 高い山に東急、階段を東生。
愛と知っていたのに
春はやってくるのに
フーゥイェエェエエ
夢は今も夢のままで
「うめぼしの謎」は部分否定、
「謎のうめぼし」は全部否定です。
「うめぼしの謎」はうめぼしの中にある謎を解き明かそうとしているけど
「謎のうめぼし」はうめぼし自体が謎なんです。
どちらがよりエキサイティングでしょうか。
やはり「うめぼしの謎」と言ったほうが深みがあるのではないでしょうか。
例えば、「謎のうめぼし」と言ったときに
誰もがヘンテコリンな様相をしたおかしなうめぼしを想像できるはずです。
ところが「うめぼしの謎」というと、
誰もが知っている「うめぼし」という定義をそのままにして、
その「うめぼし」という一見普通で普遍的とも言える一般化された記号と対峙して
そこに何かしらの謎を見出さなければいけない、
こちらの方がずっと身近で、興味をそそるものだ。
果たしてこのうめぼしに、謎などあるものだろうかと…
しかし三笠山出月を知っているものにとっては
後者のほうがより斬新で新鮮に感じられることです。
これはやはり各々、人間として蓄積された語彙だとか「個人言語」だとか、
歩んできた人生そのものに影響するのだと思います、
この場合では、「うめぼしの謎」を知っているか、読んだことがあるか、愛読書であるか…
あるいはうめぼしが好きか、嫌いか、うめぼしについての、想い出を何か持っているか、
などなど、色んなパターンによって様々な言葉の認識の違いがあります。
もっとわかりやすく言えば、
外国人にとって日本の「うめぼし」という食べ物自体が未知なるものなのだから、
その謎だらけのニューフェイスについて、
「謎のうめぼし」と言うのは当たり前のことであるし、
「うめぼしの謎」と言われたって、何の興味も湧かないことでありましょう。
文化的背景から個人的背景に至るまで、
全ての言葉の認識において遮蔽となることはどうやら間違いが無いようです。
《ジャッキー》という名前から受けるイメージ、これもまた、然り。
これを読んでいる人は、『プロジェクトイーグル』という映画を、単純には認識できないはずです。
2002.7.11(木) 久蔵
凡人と、天才と、「その中間である大人」について。
僕は3日ほど前に色々と考えるところがあって、
人を呼び出してまでその考察を語り尽くした。
その結果が三日前の日記であるが、
ある人にとってはあの文章がとてもかっこ悪いものに見えたらしい。
うん、確かに、とてもかっこ悪い。
何も伝えようという気がなく、
ただ僕のメモ帳としてこの真っ白な画面を利用させてもらったからだ。
それにしてもあの文章だけを見て、
「君のあの日の文章はこうこうで、かくかくのイメージがあった、
しかじかでもなければこれこれとも感じられず、とてもかっこ悪い。」
と断言されたのでは、こちらとしてはちょっと体裁が悪い。でも、仕方がない、
伝わるはずはないのだ。
思うにおせっかいな人間というのは、おせっかいするのが好きなのだ。
ここでいう「おせっかい」というのは、「人の為になろうと日夜努力している人」のことで、
「小さな親切大きなお世話」だとか、「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言い換えることもできる。
そういった、俗に言う「オセッカイザー」というものは、
仕入れた事実に知ってる情報をフル回転させて、ぶつけて、その方向を捻じ曲げ、
都合の良いように、つまりおせっかいがしやすいように、ひいては快感を得るために、
もとの「事実」から自分勝手な解釈を創り上げてしまうのではないだろうか。
Aという客観的事実をBという主観的事実…つまりは文句のつけやすい状態につくり変えるというわけ。
それで「ちょっと君、それは○○なんじゃないかと、僕はそう解釈したのだけれど」…
「僕はそう解釈した」これである、解釈しすぎなのだ。
そうやって人に指摘するのが快感だから、どうしてもそのように話を持っていきたくなるのであろう。
だから僕のような抽象度の高い文章は格好の的かもしれない、どのようにでも解釈できる、
というよりは僕の脳味噌は元来がダークネスなので、叩けば幾らでも暗黒が滲み出てくる。
その暗黒をひとつまみ取り上げて、さあどうだと指摘すれば、それで終わりなのだ。
「本当にわかってもらいたい事は、本当にわかってもらえない。」
さとうまきこの『わたしの秘密の花園』だったかな。僕はこのフレーズが忘れられない。
子どもの頃から、僕の考えている事は、捻じ曲げられてきた。
特に兄達の誤解ぶりは凄まじいものがあり、僕の考えている事は、全て捻じ曲げられてきたのだ。
兄は幼い僕がそんな高尚な事を考えているわけが無いとはなから見くびり、
彼の想像に見合う思考しかさせてもらえなかった、もちろん、していたわけだが、
彼等の解釈の中では、僕はつまらないことばかりを考えていたらしい。
高校生3年生になった今でも、わかってもらえないことがある。
これは、はっきり言って誰もがそうであろう。誰もがわかってもらいたくて、わかってもらえない。
どうしてこんなにわかってもらえないのか?
それは、表現が乏しいからである。
例えば僕の拙い文章では、僕の思っていることなんて、10000000000000分の1も伝わらない。
壊れるほど愛して、3分の1でも伝われば良い方だ!なんて、いつも思う。
純情な感情は空回り、なんてよく言ったもので、そう確かに、
僕の純情であるはずの感情は、全てが誰かの手によって、そうでないものに変えられてしまう、
それは時には友人であったり、また、自分自身であったりもする。まさにそれが、ジレンマ。
だからもっと表現技能を得たいと思う、
そして、僕がわかってもらいたいと思う人、そして僕のことをわかりたいと思ってくれる人、
そんな人を、探さなければならない、誇張ではなく、おせっかいではなく、
真の僕の姿を共に探しだそうとしてくれる人、そんな人が、必要なのだと思われる。
だが喩え自分の本来の意志には食い違いがあろうとも、
駄目だしをくれる友達というのは、やはり貴重なものであって、
ひとつの意見として、とても参考になる。
しかし、やはり自分の心とは反していたとすれば、
それほどの友達であるがゆえ、悲しい気分でいっぱいになる、
それほどの友達であるがゆえ、なんだか、孤独な気分で胸を満たされる。
それほどの友達を、僕はどれほど持っているというのだろうか。
ひょっとしたらこれは、その友達に対する、ある種の社交辞令ではなからんことを、
僕は願うのであるが。
2002.6.40(水) 林家藩屏
食卓に「はんぺい」が出ていた。白くて、長くて、丸みがあって、少しこげのついたやつだ。形だけで見るとミドリムシに似ていて、以前は生命を持ってどこかをさまよっていたようにも見える。どことは言えないが、さまよっていた、というイメージだけはゆずれない、そういうイメージだ。こういう形のはんぺいには、たぶん何か特別な名前があるのだろうと思うのだけれど、僕はそれを知らない。中央の部分が少しだけへこんだ表面には薄皮が張っていて、無数のしわをつくっている。僕は三枚ならんだはんぺいのうち僕から見ていちばん左側のやつに、醤油をたらした。だいたい折りたたんだ携帯電話がふた回りシャープになったくらいの大きさのはんぺいに、モデルガンに使われるBB弾みたいな形にみえる醤油の粒が、正確に落ちた。
しわのあるはんぺいの表面に醤油は正直には広がらなくて、突然ぽつぽつと降りはじめてきた粒の大きな雨がひとつ、ベンチに座って読んでいた小説のページの真中にぽとりと落ちたときみたいに、毛の生えたウニみたいなスーパーボールの、夏の日に生まれるシルエットのような形かもしれないし、あるいは中学の美術の時間に、歯ブラシを使ってこんな形の効果を作る手法を習ったような気がする。はじめはぎざぎざの、そのひしゃげた醤油の粒は、しわに沿うようにしてはんぺいの表面を少しずつ広がっていった。ちょうど秩序ある迷路に水を流し込むみたいに。
僕はその様子を面白がって見ていた。醤油ひとつで、なかなか面白いものだった。そして、おなじ動きを監察するために醤油を数滴垂らしたが、すぐに全体が染め上げられて、つまらなくなった。僕は裏側までしおからくなったはんぺいを指で摘み上げ、先端から口に入れると麺類を食べるようにすすりこんだ。にゅるりと口の中に入って、途中で一度咀嚼されてから、完全に噛み砕かれた。それから僕は胃の中を三枚のはんぺいでとりあえず充足させると、僕の眼に入ったのは、食卓の傍らに置いていた『ねじまき鳥クロニクル』だった。僕はこいつに醤油をかけてみたくなった。だけど、すぐに蛇足だと思いなおす。ねじまき鳥に醤油をかけて食べるのは、よくできたチャーハンに醤油をかけるようなものみたいに思えるし、それはきっと、谷崎潤一郎の小説を、志賀直哉にでも書き直させるようなものなのだ。
恋する人の写真を常に携帯して眺めるというのは、
ある種の偶像崇拝である気がした。
それは一辺倒にその人間を「これだ」と定めてしまう事になり、
回避するためには少なくとも100枚以上のスナップが必要になる。
形のあるものを崇拝する事は、いけない。
そういった様々の宗教の考え方は、よくわかる。
万物は流転する、確実に移り変わっていくからだ。
世の無常、盛者必衰会者定離を教えているはずの仏教が、
どうして仏像を拝むのかがわからない。きっと複雑な事情があるのだろう。
キリスト教でも、たいていの宗派ではキリストの像を祀るんじゃないだろうか。
確かに僕はヤハウェの姿を見たことがない、その辺徹底している、と思うのだが、
僕はイエスの像を見るたびに、うまいことやっている、と思う。
そこには、確かな妥協と、屁理屈が存在するように思えてならない。
人間もやはり、変化していくものだ。
その一部分だけを切り取り、崇拝するというのは、
例を出そう。北海道の美しい風景の写真を見るとき、
僕らは必ずしも北海道を体験していない。
それは単にひとつの「作品」についての感銘を得るわけで、
そこに芸術的、もしくは美的な価値を見出すとしても、
被写体であるはずの北海道の地から直接にその感情が引き出されるというわけではないのである。
だけど僕が今プリント・アウトしようとしているデータとは、
紛れもなく一人の女の子を被写体とした対象物なわけで、
これは仏となり、風化し、無邪気過ぎる少年におしっこかけられるような、そんな運命を辿るのかもしれない。
どうやらばかげているようだ。
肉体的な恋とは気持ちの良いセックスをすることである
そして風潮としては、堂々と「セックス」という言葉を口にする事が
ファッション的に格好いいことになってきている。
これいかに。
2002.6.39(火) 天才(たけしの元気が出る)テレビくん
逆上で千年たり場当たり止まること
一度度とは降りれない
上昇下降運命は転が巻く波間の小舟のる玉の様に
行き当など無い乗り込めば二
World is yours yeah, world is just yours yeah.
ヘッド博士の世界塔
時を見るために
私達は時計を捨てた
社会を捨てた
建物を壊し
生物を諦め
太陽で地球を焼いた
2002.6.38(月) 勝俣州和で、『シャアが来る』
全ての生徒会行事に参加する権利を剥奪された。
僕はこの社会に居るべき人間ではない。
人は皆、自分の身を護るために、目立つ事をしない。
出るべき社会で特異な行動をとるということは、
自らの生活を危険にする。
才能のある奴はいい。
それぞれの分野で、表現する事ができる。
しかし僕のような、何もない人間にとって、
「社会に出る」という事は、
何の変哲もない、ただの人間になれということだ。
ただの人間は、その言葉が示す通り、「タダ」なのである、無価値だ。
僕はそうなるのだろう。
正しい原理だ。
何故人間が、どのようにして大人になるのか、
理解してしまった。
誰もが自分の身を護るために、自らの個性を潰さざるを得ない。
正しすぎる。
これが正しいことに気付いてしまった僕は、
大人になるしかない。
さようなら、僕。
2002.6.37(日) アサヒドーカメラは、アンジョンファンです。
さようなら理性
こんにちわ性欲
さようなら孤独
こんにちわコラボレーション
さようなら女
こんにちわ愛する人よ
2002.6.36(土) 魔魔魔竹竹竹竹森森森森森森森森森森森森…∞
久しぶりに見た。
やっぱり当てにならないのは爆笑オンエアバトルの審査。
何故かと言ったら、それが秘密投票ではないから。
その場の空気となんとなくの雰囲気で全てが決まる。
グレート・チキンパワーズが0個のボールを勝ち取ったのは、
決して100人が100人「グレチキ死ね」と思ったわけではなくて
なんかそういう空気が流れていたのではないかと思われる。
例えば、こいつにボールを入れないと或いは入れてしまうと、
自分の笑いのセンスが疑われるんじゃないかとか
日本人お得意な集団思考というか多数派思考というか
他人の動向を察して動く事で
「ああ、自分の笑いのセンスは正しい!」とか思い込んで
勝手に悦ってんじゃないの。
そりゃあそれだけでオンエア率がひっくり返るとは思わないけど
絶対にそこにはそーゆー思考があるね、断言する。
じゃなきゃ例えば、今日の審査員なんてよっぽどレベルが低いんだろうな。
笑いに関する確固たる見識を全く持っていないか、そうでなければセンスが悪い。
極端に言えばそんなもんやね。
オンバトオタクってけっこー痛い子多いもん。
今日の放送で面白かったのはアンジャッシュだけだったが
あーもう、なんて「点数」というのは当てにならないのだ、と思った。
偏った審査を決して変えようとしない、
まあたぶんそんな発想すらないんだと思うけど。
どれだけ客を笑わせるか、ではなく、
どれだけ客に媚びられるか、である。とか思われても仕方ないんじゃないかね。
人心の掌握こそオンエアの秘訣。
まずはルックスを磨くのが第一だね。良くも悪くも。
ルート33は喋りだけはかなり巧いけどそのくせヴィジュアルに依存しすぎてしかもネタがとことん浅いような気がする(断定)。
ふぅ。なんか
今日もまた痛い文章を書いてしまった。
あー
東京行ったら長井秀和とユリオカ超特Qのセッションが見たい。
井伏氏はちやんと、登山服着て居られて、軽快の姿であつたが、…
放屁なされた。
大切なのは経験ではなく、そこで何を思うか、である。
2002.6.35(金) セリアA
夢を見ました。
小沢健二から手紙が来ていました
恐らく前日に英語の授業でオザケンの話題になったことに
起因していると思うんですが
肝心のオザケン本人はちっとも出てきませんでした。
手紙だけが
他にも夢を見ました。
ますだおかだが出ていました。
僕は「あ、ますだおかだだ」と思って見ているんだけど
どう考えてもあれは違う人の顔をしていました。
たぶんアリtoキリギリスらへんかと思われますが
僕は「あ、ますだおかだだ」と思って
熱心に見ていました。
最新の夢では。
カジノで稼ぎました。
日本代表のようなバスで移動しました。
去年のクラスの人々が
映画に出ていました。
ラスベガスロケでしょうか。
これはたぶん、去年の文化祭で僕が
ちょっとした映画を撮ったのと
今日、理由があって去年のクラスだった人々と交わったことに起因する。
あ、そうそう。
うちの学校には「半日教室」という
我が高独自だと自慢しているがさして珍しくもない行事があって
生徒が講師になるんだけど
締め切り最終日になって申し込みました。
どんな講座かというと
「ぼくの修学旅行体験記」
身体張ってます。
1年間イギリスに行っていた女友達が帰ってきた。
去年同じクラスで、特別に仲が良いという事はなかったが、
クラス内では多少ボケたキャラであるところの彼女が
ある日コインロッカー・ベイビーズを読んでいる姿を見つけて、
多少興味を持って見ていたら、
イギリスへ飛び立ってしまった。
そうか、やっぱり実は只者ではなかった。
と、思って帰りを待っていました。
今日はその子の復帰日だったので
去年のクラスのみんなと
ボーリングに行く事になっていて
僕はボーリングとか仰々しくてちょっと煩わしいので
わざわざちょうどボーリング終わってそうな時間に行って
二次会だけ参加。
なんか「ボーリング」や「お食事」なんてぇのは
大袈裟で照れくさいんだよね。
もっとなんか、純粋に遊んでいるようなのがいい。
サービスに金を使うような打ち上げはだいたい、
俗くさい感じがして、好きになれない。
だけどカラオケ好きだというのは何かに矛盾しているかな
いいんですか
いいんです!
クー!
僕はとにかくその子と話をしようとつとめた。
僕のしたことのない経験をしている事は確実。
羨ましさがつのった。
最初にした会話はこんなもの。
「大きくなった?」と尋ねると
「それは、太ったってこと?」と返された。
なかなか面白い会話で
更にもっともっと、《喋りたさ》が促進されていった。
いい顔をしていたように思う。
しかしいい顔をしていた。
まるで知っているようないい顔。
僕もこんな顔になりたい、と思っていたら
「あたしみたいな顔の人ってなんかたくさん居るみたいだよ」
なんというタイミング、しかしそれはプレッシャーというものだ。
あまりたくさん、居て欲しい顔ではない。
僕はその顔に嫉妬してしまう。僕よりも、どうやらいい顔をしている。
ボーリングの後公園で花火をした。
陸上部の友達と
自転車を捨てて一緒に走ったりして
どうも「友情的」という言葉がちらつき
怪我をおして走った甲斐があったような、そんな。
花火ではこれまでなく弾けた。
身体を張ったネタはこれほど使いやすい状況は無く
気の利いた笑いのリソースも溢れ出ない事を知らない
自称J1の友達から
「お前はもう俺の中ではセリエAだ」
と言われ
ありがたいことだと思った。
大袈裟な言い方をすれば、
「これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な応援である」だ。
僕はこれまでもこうして生き抜いてきたような気がする。
「道化」という言葉を太宰治が使うのも、
僕の彼に共感せられる所以だ。
線香花火を見て
生まれて初めて人生のようだと思った
今までそんな俗っぽい迷信は
否定していた、嫌いだったのだ。いかにもという感じで、これみよがしで。
でもなんだ、
あれは人生じゃないか。
昔の人はやはり、何も考えずに物を言うわけではないのだな、とわかった。
そんなことを考えながら、その女の子と話していると、
人の生き方というのを深く考えずには居られぬ。
その子は二年生のクラスに入ったのだが
「三年生のクラスに入りたい」と何度もこぼしていた。けっこう、何度も。
しかし
その1年というのはなんだったのであろうか。
まるでイギリスというのは「精神と時の部屋」だ。
いや、むしろその逆だろうか。
ともあれ、僕らが怠惰に一年間を過ごしている間、
彼女は最高に意味のある時間を持ち、更に彼女は、全く年をとっていない。
僕には多少の恐怖があった。緊張感を孕んでいた。
日本の世界では一日しか経っていないのに
彼女は異国という「精神と時の部屋」で1年間を修行している。
しかも、こちらで一日しか経っていないのに、むしろ
若々しいのは彼女であって、
僕たちは無駄に年をとってしまっているようだ。
焦らないではいられない。
花火が尽き、
途中までは一緒に帰って、
その路で、
「できるだけたくさんの人と話すようにする」
と語った笑顔は
なんだか「三年生のクラスに入りたい」とは完全に対極を為すものであって、
安心と同時に、僕は感嘆を得た。うむ、頑張って呉れ給え。パチリ。
でもなんか、
聞かされた土産話は
全て下ネタだったような気がする(断定)。
2002.6.34(木) フォークダンスtoキリギリス
人は、純粋には面白くないギャグでも笑うときがある。
例を一つに絞るが、
たとえば、難解なネタの時である。
面白い顔を見てぷっと吹き出すときとは違って、
「難解なネタ」にはそれ自体におかしな要素は少ない。
ひょっとしたら対極をなすだろうと思われるのは、松本人志の得意とする
「妙で妙でおかしくて仕方ない笑い」であろうか。
萩本欽一さんが「ぷっと吹き出す笑いこそが本当の笑い」と論じているのも頷けるわけですが
「難解なネタ」を見て、聞いて笑うと言う事は、純粋な「笑い」ではなく、
『自分はその難解なネタを見事理解しましたよ』という合図なのだ。
それはもちろん、自分の笑いのレベルの高さ(つまり自分の能力自慢)を皆に、
或いは自分に知らしめたいという自己顕示的な意味も多分に含まれているのだが、
しかし何よりも「難解なネタ」をひねり出した動作者(ex.芸人)に対する【礼儀】である、と僕は思う。
平安文学などを読んでいると、
その頃の「笑い」の感性には「機知」というものにかなり大きなウェートが置かれている事に気付く。
というより、「妙で妙でおかしくて仕方ない笑い」や「ぷっと吹き出す笑い」というのは
恐らく当時にしてみれば言ってみりゃ「はしたなきもの」という認識を持たれていたのではないかと。
つまり宮中文化には「ウィット」以外の笑いは存在していなかったのではないかと、考える。
こういうところを考えると、日本人と言うものが(今は随分と忘れ去られてしまったようだが)
「機知」という、笑いの異端的要素をどれほど大切にしてきたかということがわかります。
やはり現代まで残っているのは「機知」である。
何故なら当時は、文字以外に記録を残す術は無かった。
ウィットに富んだ会話を記録するのは比較的容易だが、
たけし軍団やダチョウ倶楽部の面白さを文字で表現する事は、なかなかに難しい。
現在のように「笑い」というジャンルが確立し、「芸人」という職業が生まれ、
寄席や劇場が全国各地に建設され、「流れ」や「営業」の概念が誕生したこと、
そして何よりラジオやテレビが普及し、ひいてはそれらを記録する技術までが生まれる、
文字以外での「記録」を可能にしたこれらの画期的な発明は、
もはや「機知」に頼らずとも「笑い」を永遠のものとすることができた。
また、現在蔓延している笑いというものは、だいたいが安易なものである。
誰にでも考え付くような、えげつない。
個々の名前は出さないが現在の「若手」と呼ばれる世代どもの大半を占める
機知のかけらもない芸人らが好評を博す時代だ。
これには民衆が求める「笑い」のニーズが昔に比べてはるかに上昇してきたという理由が挙げられるだろう。
人々はもっとたくさんの笑いを求める、それにはごく少数の機知ある天才芸人達だけの力では、
到底賄いきれないほどになった、
それほどまでに我が国のこの半永続的な平和が生み出した笑いの需要高騰は留まるところを知らない。
笑いが得られればプロセスなどはどうでもよく、
「笑いの才」の無い人間でも「笑わせる才能」のある人間であればもてはやされる。
「笑わせる才能」、それこそが現代の「笑いの才」ではないかと言われれば、それはそうである、
時代はそのようになってきている。それは間違ってはいない。
だがしかし「機知」というものを忘れてはいけないと思う。
これらは個人の嗜好に関わらずとにかく「うまい」という点では誰しもの評価を獲得が予想できるからだ。
これによっては、確実な笑いが得られる「はず」であった。
ただ、現在はその「機知」というものの理解できない奴等が多い。
つまり例えば「爆笑オンエアバトル」の審査員である若者どもの笑いのレベルに顕著なように、
表面上の、しかもレベルの低すぎる安易な笑いに対してしか反応できなくなってしまっているのだ、
日本人は地に落ちた。
松本人志が指摘しているようにバラエティ番組に「文字」が多用されるというのは、
確かに一つ、「国民の笑いレベル低下」が挙げられるのだろう。
文字に頼らなければ笑いが理解できないという事だ。
更に言えばそれは「突っ込み」の能力不足に起因する。良い突っ込みというのは今、本当に居ない。
代わって、画面上の文字に突っ込ませていたのでは、処置なしだろう。プライドがないのだろうか。
やはり、古来の芸能に親しむ事だ。多くの芸を知ることであり、
それはつまり読書であり、映画鑑賞であり、落語でもテレビでもラジオでも何でも、
とにかく「知識」と「笑い」と「あらゆる言葉のパターン」に触れる事だ。
本を読まないとつまらない人間になるというのはそういうことで、
太田光がその気になればあんなにも機知ある笑いを生み出せるというのは、
若いころの読書量に比例しているように思えてならない。
ちなみに松本人志は読書が嫌いである。彼のそれは機知ではなく、感覚の笑いだからだ。
松本人志は実際、本人の自負する通り本物の「天才」であると認めざるを得ない。
彼はあらゆる言葉の組み合わせによる面白さを知っている。それは紛れも無い才能である。
さて、人は、それ自体面白くないギャグでも、笑うときがある。
それは現在では希少になってしまった「機知」という文化の確認のときであり、
至高の笑いがまさに生み出されている瞬間なのだ。
2002.6.33(水) 時には娼婦のように 鼻を鳴らし
二部構成
第一部
ラブレータ
今日は
久々に地獄の日
第二部
論文
「蚊に刺されたとき」
蚊に刺される。
痒い。
掻き毟る。
気持ち良い。
更に痒くなる。
掻き毟る。
気持ち良い。
これを自慰行為と言わずして、
性の発散を同じようには称せないだろう。
思うに、蚊に刺されたときに患部を掻き毟るというのは、
オナニーである。
わかりやすく言うと「自慰」なのだ。
自らを慰める。
他にも様々の点から、性的自慰との共通項が見出されると思う。
また、そうしてみると、
当たり前のことなのだが酒を飲んだり煙草を呑んだりすることだって
同じことである。
ともすればスポーツ全般や、全ての娯楽に当て嵌まることだろう。
しかし今回はそれらを全て否定したい。
蚊に刺され、掻き毟ったその時の罪悪感、自省の念。
すぐにまた痒くなってしまうとわかりきっているのにやってしまう、
どうしようもない。
これは自慰である。
一時的な快楽を求めて
自慰に励む
これに先に挙げた事後感情が伴わなくなった場合は
開き直って、
完全に自慰が日常化しているのだと言える。
気持ち良いからいいんじゃないか。何が悪いのか。
そう考えたときに、
人はとにかく痒いところを掻きまくるのである、せんずりだって、カキまくる。
恋愛というのはまた、自慰である。
これは単なる僕の持論であるが
機会なので付け加えておこう。恋愛というのは、自慰なのだ。
人は誰もが快楽を求めている、
性的なマスターベーションや蚊にさされたところを掻き毟ることは肉体的快楽の要素が強いが
しかしこれは、人によっては精神的苦痛を伴うものなのである。
では精神的な快楽をどこに求めようか。
これは人間の賢いところである。
どういう仕組みであるかは(少なくとも個々の私たちは)知らないのだが、
恋愛をすると気持ち良くなることを誰もが知っている。
とにかく人を好きになって、それが成就すれば、この上もなく気持ちいいのだということが、
ひょっとしたら本能的に存在するのかもしれないし、
恐らくは生きて、生活の上で様々な情報を得るうちに形成されていく概念的事実なのであろう。
わかりやすい言葉なら、例えば雑誌が素敵な恋愛を煽るだろうし、
テレビドラマや恋愛漫画が、甘い言葉を教えてくれる。
恋愛に幸せそうな他人を見るのも、例の概念的事実の成長を促進させるだろう。
実際はこのように単純なことばかりではなくて、きっともっともっと深いものがあり、
更に底辺に根差す話については、僕の力量にはないので省いておく。
何故そのような文化を人間が持つに至ったのか、これも然り。器の違う話だ。
いま僕は現在の僕にできる最大限の思想を展開すれば良いわけであり、
それらを論ずるには僕にはもっと多くの勉強と学習、そして実践が必要なのだ。
さて、恋愛というのは自慰である。
人間の一個体は「恋愛=自慰」という欲望を達成するために対象者を選び出します。
どんなものでもいいのだ。
とにかく自分がそれを好きになって、愛せばいいのだから。
誰を選んだか、などは結果でしかなく、
そう、もちろん誰でもいいのだ。
話が逸れるが、
昔から不細工は少数派だったのだと思う。
今「美人」と呼ばれる種の方が多かったのではないだろうか。
つまり、たくさんある種類の顔を「よし」としたのである。
そうでなければ(世の中が不細工ばっかりならば)「恋愛=自慰」の達成が困難になるし、
もっと確実なことを言えば、
人間が動物の顔を見分けられないのは見慣れていないからであって、
そして注意して観察していないからである、しかもそれはイレギュラーな様相をしている。
個々が見分けられないから、「犬というのはこんな顔をしている」という認識を持つしかない。
だが「人間とはこういう顔だ」というイメージを明確に呈示することはできないでしょう、
これは人間が人間の顔に慣れすぎたから。ひいては、そこに「確固たる美意識」を存在させてしまったからだ。
つまり、わかりにくいかもしれないが
多数派の顔というのは必ず「その集団の平均」を形作る。
そして不細工とは少数派で、イレギュラー、異形の姿と成る。
その「集団の平均」の中で「人間の顔の、あるべき姿とはこういうものなんだ」という認識がまずなされ、
更にその平均から美意識が生まれる。恐らくは平均の平均の更に平均と言ったところであろうか。
これが「理想」となる。全体的な美意識の骨頂となるのだ。だがそれは、だれそれと特定することはできないし、
「こんな顔だ」とも言い切れない。
要は誰にでもどっから見ても「人間の顔だ」と認識できるような顔。それが平均の美である。
さあ、美意識とは平均である、と僕は思っている。少なくとも人間に対しての恋愛的な「好み」においては。
このように、美意識とはあやふやなものであるから、
普通に考えればとにかく、
世間体が危ぶまれない程度の人相をしていれば誰でも求婚される可能性はあるのだ。
街を歩けばすぐにわかる。人生が不平等だと言うことは。「人間は顔じゃない」と言うが、まさにそうだ。
はっきり言って運なのである。
「これでよし」とたまたま多くの人に認識される顔に偶然なりました、それが「モテる顔」ということ。
顔だけについて言えば、モテることは運でしかない。性格・人格などはまた別の話になる。
恋愛対象を選び出した人間はそれを達成しようとします。
もしかしたら恋愛とはこのプロセスにおいて重要な意味を持つのかもしれません。
手に入った瞬間に心が醒め切ってしまうというのはよくあることで、
しかし今回はこれを、ひとつのパラレルとしてただ通り過ぎることにしましょう。
恋愛対象、その「達成」を達成することは実は難しいと言えます。
だが相手にしてみても、こんな発想がある。
つまり、「仮に、自分に恋しているこの人を好きになれば、その達成は容易だ」と。
だから馬鹿どもはよく考えもせずに男女間の付き合いをはじめるのだ。
自らの欲望と、或いは見栄だけのために。
ところが、「恋愛=自慰」がなかなか達成できない、つまりは「見通し永続的な片想い」というわけだ。
そんなこともある。
そうなると人は、とっても危ない状態に陥る。
恋愛を考える以外、何も手に付かなくなったりもしてしまう。
痒くて痒くて仕方ないけれど、掻き毟ることができない。
オナニーしたいけれども、できない。
これは自慰の抑制による反動である。抑えきれない欲望の閉鎖的膨張である。
何のことは無い、複雑なことは何にもなくて、
単に欲望が達成できないでうじうじしているだけなのだ。
オナニーがしたいけどできなくて我慢しているだけなのだ、それが片想いというやつで、それが恋愛だ。
最も、客観的に分析すればこうであると思うのだが、
恐らく衆人の主観的意識に乗っ取ってみれば、そんなことは関係なく、
「好きならなんでもいいじゃないか」というところだろうが、どっこい、僕は非常に醒めている。
恋愛なんていうのは欲望である、自慰である、
単に精神的な快楽を求めるがゆえ、わざわざ人を好きになって、自慰に励むのである。
それが達成できない弊害が「片想い」なのだ。掻き毟れない虫さされだ。単純な話だ。
そして更に言うなら恋愛の対象として多くが「異性」を選ぶというのは、
セックスと言うサクセスを焦がれて、つまり精神的な快楽と肉体的な快楽を結びつけようとしてそうするのだ。
その証拠に、同性同士で愛し合う人の多くも、無理矢理セックスのようなことをしている。
人間というのは貪欲だ。手に入る快楽ならばとにかく手に入れようとする。最強の動物である。
ゴールとしてそこにセックスありき、プロセスに恋愛ありき、である。
時にはセックスしたいがために恋愛する人間も居るだろうし、
いやいや自分はセックスには興味が無いという人も居るだろう、人それぞれ。
ただそれはあくまで全て、自分の欲望にのみ乗っ取った意識なのである、誰もが無意識を主張するであろうが。
長々と書いてきたが、仮に僕が今、恋愛をしていたとしても、
だがそれは、そうだとしてもそれは、上記のような打算と、快楽への欲望が、そうさせているだけであって、
純粋の愛などには無い。
と、理屈では解釈しているのだが、「気持ち良きゃなんでもいーだろ」と、僕は結局、そう思うのでありました。
2002.6.32(火) ガルベスウォーター
僕は賎吏に甘んずるを潔しとしない。
つまりは人とも和合せず、
打ち上げは嫌い。
球技大会唯一の憂鬱はどのようにしてそれを逃れるかってこと。
全然唯一じゃないけど。
自クラスの観戦もしないで
体育館の入り口で賢しげな後輩や
久しぶりに再会した友達、
その他数多の変人たちと
何やら難しげなことを語らって、
「ああ、なんだか僕らは竹林の七賢人の体だね」
と、口にも出さぬ事を思って、
しかし無常なもので、いつのまにか僕の周りに魅力的な人間が居なくなっていた。
ので、その場を離れて校舎裏に逃げた。
色々考えるところがあったのだ。
だが、裏の雑木林には虫が多かったので図書館の傍で悟りを開く事にした。
しばらく考え事をしながら書物を嗜んでいると
知り合いの姿が見えたので、逃げた。球技大会をサボって、こんなところに来るとは、けしからん。
最もマイナーな校舎の最上階。ここなら人も来ないだろうと、しばらくはほのぼのとしていたが、
やっぱり来た。ので逃げた。
その後、心当たるところ全て歩き回ったのだが、だめだった。
この学校には僕の心を安らがせるところはないのだ。
とぼとぼとマイナーな校舎の廊下をひとり歩いていると、
反対側の校舎で一年生が僕の姿を見ている。
結構な距離があるから、目の悪い人ではお互いが確認できない。
調子こいた一年生が僕に向かって、笑いながらお腹を見せてきた。
いや、たぶん意味なんてないのだろう。いかにも面白そうに、腹筋を見せつける彼。
意味わからん。
僕はそれを見て立ち止まり、おもむろに着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
上半身裸になって、ざまあみろ、と思った。
所詮お前はその程度なのだ、僕には勝てないのだ、ほら、ぽかあんとしてゐる。
清清しい気分で上半身裸のまま人気のない校舎を闊歩していると、
僕の好きなおじさんが来た。古典の先生だった。
「おー元気でやっとるか」
裸の僕を見て、いつもと変わらず元気だ、とでも感じたのだろうか
例の優しげな笑顔で、また歩いていった。
恥ずかしかったが、嬉しげなることだ。
とりあえずすることもないが、
心休まるところがないので、
球技大会に戻った。
かくも客観的に見つめればわびさびの世界に変貌するのだろうか。
実にならない時間を過ごした。
飛び交うバレーボールと熱狂するクラス一丸。
すると、
そんな僕の気持ちを察したかのように、
雨が降ってきた。
僕は雨に濡れるのが基本的に好きではない。
酸性雨は人体に好影響を与えるとは思えないからだ。
だから校舎まで濡れて帰るのが億劫であった。
いったん校舎まで逃げて、ちょっとだけ濡れてる自分に腹が立った。
傘を持っていれば濡れなかったのだ。
僕は腹を立てた。
ので、何とはなし、ふと飛び出してみた。
降りしきるスコールを相手にTシャツに一目でそれとわかる違反ハーフパンツを履いた少年のような僕は
置き去りにされたサッカーボールを友達として
遊んでみた。
突っ込み待ち。これぞ、他クラスのお調子者にしてみれば僕の芸人として尊敬せれるる所以。
先生は本気で怒っている様子のもいたが、
理解ある僕の友達は、教師の立場からも穏やかに見つめて…くれていたらば良いのだが
気持ちよかった、が、雨が弱まって、すぐに寒くなってきた。
ばかにしていやがる、何で僕ばかりが濡れて。
酸性雨にまみれた我が直毛を見て慙愧の意を感じた僕は水道をいっぱいに出して
頭をくしゃくしゃと洗った。
よし、今僕の髪の毛はこの学校の誰よりも清潔だ。
というような気分で、
目から落ちたコンタクトレンズをみんなで探した。
2002.6.32(火)
その夜僕は悪いものを読んだ。
ルソーの『懺悔録』であった。
ルソーが、やはり細君の以前のことで、
苦汁を舐めた箇所に突き当たり、
たまらなくなって来た。
僕は、Kを信じられなくなったのである。
夏目漱石『こころ』
2002.6.31(月) 清少納言 またぐらのそうじ
今日は枕草子風に展開していきます。
つまらないもの
ネタは斬新で面白いがそれを生かしきれてないもの、とてもつまらない。
本人は斬新で新鮮で最強だと思っているのかもしれないが実はとてもありきたりでありがちでしかもさほど面白くなくて既に同じ事を考えた人間が過去を振り返れば五万と居て更に読者のうちの何割かは同じような文章を違うところで目にしたことがあるようなネタで更にひねりもなく文章に魅力が雀の涙ほどのみ感じられしかもだらだら長いだけで要領を得ない駄文と呼ぶべきもの、とてもつまらない。
例 とあるでっかいサイトのアンパンマン主題歌ネタ。
例えば僕より年下の人が書いている文章。
たまにそんなものを見つけるが
ふと自分の1年前、2年前の文章を読み返すと
その「年下の人」が書いたものよりもずっと拙いものである。
ということはあと1年或いは2年のちには
確実に僕はその人たちよりも拙いのである。
タイムアンドアゲイン。
なんか最近入試現代文の論説文のように
同じことを形を変えて何度も何度も言っているような気がする。
とてもつまらない。
ああこれぞ僕の愛する
無知の知。
僕が使うとこの言葉
言い訳にしかならないような
とてもとても
とてもつまらない。
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