少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2013/04/31 地 小沢健二さんと岡田淳さん

 どちらも僕が小学生の時から大好きな方です。
 二人には共通点があると思います。
 岡田淳さんを好きな人が必ずしも小沢さんを好きだとは思いませんが、その逆は、そうでなければならないと思います。(実際にはそうではないのでしょうが。)

2013/04/30 火 胃の調子が悪い気がするよ

 ジャッキーさん、栄養を吸収できていないのでは? という疑問が提出された。そうかもしれない。困ったもんだ。四月は心がしっかりしていなかったせいか、後半になってグッと体調が崩れてきた。常に胃になんかいる。いつもより消化に時間がかかっている感じ。そうだ健康診断に行こうと思ったけど、練馬区は30歳からしか受け付けていないようだ。病院に行けばいいんだろうけど、どこに行ったらいいのか……こういうところ、僕はダメですね。でも行かないとね。
 とりあえずヨーグルトでも食べます。

2013/04/29 月 オニキュ! シニキュ!

 こんなことしている場合ではない。がんばろう。

2013/04/28 日 量より質

 超文学フリマとかいうイベントで自作の本を売った。いつもの(といっても、最後に出たのは2年前だが)文学フリマとは客層がぜんぜん違ったようで、思ったよりは売れなかった。しかし、これまでの文学フリマには来ていなかったような若い人によく売れた。それと、「ずっと読んでます」と言ってくれる人もけっこういた。二年間新刊を出してなくても、そう言ってくれる人がいるんだと嬉しくなる。……って、このあたりの話はぽりてんブログに書けよって話だが。まだちょっと天皇としての自覚が弱いんで。
 客層がぜんぜん違ったとは言っても、うちはよく売れたほうなんじゃないかな。なんだかんだ言って、飛ぶようにとは言わないけど、ちゃんと売れた。苦戦というほどではなかった。特に『9条ちゃん』はやっぱり目を引くらしくって、立ち止まる人が最初に手に取るのはだいたいこの作品だった。イラストと装幀の勝利。最初に作った本がこれだったというのは、誇らしくさえある。イラストとデザインをやってくれた子には、その点だけでもう一生頭が上がらない。

 新刊の『ペド太』は、ちゃんと格好良く仕上がって、イラストがないわりにはけっこう売れた。実はこの作品はあんまりセールスを考えていなくって、装幀が簡素(なんと、僕の単著なのに帯がない!)で、内容も他の作品よりは引きが弱い。意図的に純文学に近づけたつもりなのである(その結果があれだっていうのは、僕の作風がそういうものであるということです)。
 引きが弱いというのは、売っていても感じた。「憲法9条に精子が」っていうのは、センセーショナルで禁忌的で、わかりやすい。「五歳に欲情する小学五年生」っていうのは、そういう筋の人以外はあんまり反応しない。わかりにくい。
 書き出しや、読後感もたぶん、それほど衝撃的なものではないんじゃないかと思う。『9条ちゃん』を手に取る層とは、明らかに違った層の人が手に取ってくれるものだろう。
 それでもちゃんと、「読みやすく、面白い」ものにしたつもりなので、興味のある方は連絡ください。おざ研に置きます。遠方の方には送ります。イベントでは400円で売ったので、送料込みで480円ってとこかな……。

 とにかく今回は何よりも、若い層に本を売れたことがよかった。十代の子には割引してまで売りつけたり、『ノンポリ少太陽』をタダでプレゼントしたりと、大盤振る舞いだった。次からは「思春期割あります」ってどっかに書こう。
 中には、小学生にしか見えないような子もいた。9条ちゃんを立ち読みしてくれて、最初はイラストに引かれてなんとなく手に取っただけなのかなと思ったけど、最初のほうを読んで吹き出してくれたので「これは!」と思い、内容を説明したら買ってくれた。世の中も捨てたもんじゃないのだな……。

 僕は、小説を書かないと死んじゃうとか、即売会大好きウェーイって感じでもないんだけど、これからもゆったり、書き続けていくと思います。人と出会えるので。やっぱり友達が増えるのが僕は生きていて一番嬉しい。


 ところで、聖桜学園の制服着た子に売り子をしてもらって、まなびちゃんの人形もブースに置いといたのに、「それ、まなびストレート!ですよね?」って言ってくれた人は一人もいなかった。ひどい。ニコニコ超会議とかいうイベントはそのレベルだったんだなと思わざるをえないぜ!!

2013/04/27 土 紐帯

 会社的なところに久々に行った。社長的な人と久々に話した。
 久々にってのは本当に久々で、一ヶ月近く行っていなかった。
 それは別にサボってたとか、鬱々として出社できなかったとか、そういうことではなくって、ただ単にそういう働き方をしているということです。
 けど、鬱々としてたことは確かだ。四月はひどかった。今でもけっこうひどい。それはもしかしたら、昨日書いたようなことに関係があるのかもしれない。自己嫌悪で遊びたい時だってたまにはあるのだ。

 目覚めなきゃいいな、なんて、祈りながら眠る。

 サッと作業して、すぐに帰るつもりだったのに、数時間話し込んでしまった。こういう時間を僕は2005年くらいからずっと大切にしていたのだなと改めて思う。社長は僕が初めてゴールデン街に行った時の店長だったのだ。
 2005年、僕は二十歳で、大学三年生だった。そこで半分以上、その後の人生が確定してしまった感はある。彼と出会っていなければ僕は、どうなっていたのか見当もつかない。愛知県か、もしくは都内で教員になっていた可能性が最も高い。
 まあ、そのへんは気恥ずかしいから置いておきます。
 彼のほうも話すのが好きだから、仕事があるってのにいろいろ話してくれた。逃避でもあるんだろうけど、そういうことが僕らの原動力というか、働く力であると言っても過言ではないと思う。

 僕は敵を作りやすい。
 それはもうちょっと、どうにかしたほうがいいのかもしれない。
 仲良くしたい人とは仲良くできるけど、仲良くしたくない人とは仲良くできない。これはワガママなことで、社会的ではない。
 ただし、仲良くすべき人とは、仲良くできる。と思う。
 それは、仲良くすべき人と、仲良くしたい人とが、一致するような生き方をしているからだろう。
 一致していると思うようにしている、というだけかもしれないが。

 2005年くらいの頃を思い出すと、いろいろ思うことがある。
 もっと上手に振る舞えたかもしれないが、きっとこれで良かったんだ。と、社長と小沢さんの話とかをしてると思う。本当に僕と彼とは、その点に関してはちょっときちがいじみている。もともと他の追随を許すものではないのである。

2013/04/26 金 僕の邪悪さ

 僕の邪悪さの代表的な一つは面倒くさがりなところです。
 邪悪ということが「自分のことしか考えない」ならば、「面倒くさがり」は邪悪になりがちな性質かもしれません。あらゆる「面倒くさい」は邪悪につながる、とすら思えます。
 いろんなことを僕は面倒くさがりますが、たとえば「他人に合わせる」ということを非常に面倒くさがります。
 確固たるねらいがあって「他人に合わせない」ならいいのですが、「まあ、べつに合わせないでいいだろう……」という、わりと軽い気持ちで合わせないことがけっこう多いのです。
 それで人の心を傷つけることがあるような気がします。
 といって、さほど傍若無人というわけではないと思います。(でなければバーのようなことを5年間もやれないと思うので。)
 ところで、この「合わせる」というのは当然、「他人に同意する」とか「他人と同じことをする」ということではありません。「他人がしてほしいことをする」です。
 僕はこれをけっこう面倒くさがります。
 バーのようなことをしていても、それを気に入ってくれる人と気に入ってくれない人がいる(そうだと思う)というのは、その辺も関係しているのではないかと思います。
 基本的には、僕は自分のこの態度を正しいというか、妥当だと思っています。みんながそういう態度であって、お互いが調整し合えたらそれが幸せだと思います。(それがまあ、尾崎豊の『自由への扉』なのだと……)
 しかし、ものごとには限度というものがあり、また、ものごとには順序というものがあり、そして、ものごとには方便というものもあります。
 なぜそういったものが存在するのかというと、そうでなければ現実はなかなかうまくいかないからです。
 うまくいかせるためには、限度と順序と方便をわきまえる必要があります。
 ところがそれを僕は面倒くさがってしまうので、よくないと思ったのでした。
「基本」を一個決めてしまって、それに沿ってのみ行動するのは非常に楽です。頑固一徹のお父さんが、息子をスパルタで教育するみたいなのは、これです。
 そういう「楽」に溺れてしまってはいけないよな、と僕はようやく思えてきました。「だってこれが正しいじゃん」「理想じゃん」と言って、そのように行動することは一面、素晴らしく、格好良いのですが、それは実はわりあいに楽なことで、しかも容易に邪悪になるのです。
「他人に合わせない」というのは、価値観によっては美徳です。しかしそれは一辺倒ではいけないことです。ものごとには瞬間ごとに限度があり、だから順序と方便が必要なのです。それらを駆使しないと、実は本当の理想にはたどり着けません。それが人間というものの性質なんだと思います。工夫しないとだめだよ、ということですね。

「他人がしてほしいことをする」は、「他人がいやがることをしない」とかなり重なります。実を言うと、僕はどちらも面倒くさがってしまいます。こんな、幼稚園児が教わるようなことを僕はできないわけです。「いやがるほうが悪い」とまではさすがに思いませんが、「いやがられてから考えればいいかあ、面倒くさいしなあ」という邪悪な考え方をすることは、けっこうあります。ここでちゃんと先手を取って、「他人のいやがることをしない」を徹底しなくては、大人とは言えないのです。
 そういう道筋を通って辿りついた考えだから、もちろんただ単に「他人のいやがることはしないぞ!」一辺倒になるべきだとは思いません。他人がいやがることをあえてするのなら、それが正しいという根拠と確信がなければいけないな、と思っています。当たり前のことだし、頭ではもう十年や十五年も前からわかってたことのはずですが、どうも面倒くさがっていたようです。
 僕は、考える前に直観が働いて、言葉や行動が先走ってしまうタイプです。なぜかといえば、意外と考えるのが面倒くさいんでしょうね。事前に考えることは面倒くさくって、事後に考えることが好き、という。それは邪悪を誘発しやすい性質です。よくない。
 事前にもしっかり、考えるべきなんですよね。考えているとは思うんですけど、どっかで「面倒くさい」が働いちゃうんですよね。でも、これ以上考えたらパンクしちゃいそうな気もします。今がぎりぎりのラインのような気がします。ここが僕の限界なのではと思います。だいぶ回り道が必要な気がしています。まあ、気長にゆっくり、やろうかなと思うので、僕の言動・行動で気を悪くされたことのある方は、どうぞ長い目で見てやってください……。

「他人がしてほしいことをする」のほうは……。しばらくは難しいですね。僕は「ねえ、最近疲れてるんじゃない? 甘いものでも食べにいこっか?」みたいな誘い方は絶対にできないし、「うんうん、そうだよね。わかるよ。でも大丈夫!」みたいな慰め方も苦手です。相手がそういうのを求めているんだとわかっていても、できる自信がないですが、そもそも相手がそれを求めているのかどうかの判別がぜんぜんできません。
 相談されてても、「あーそれはたぶん」とか「つまり」とかいった受け答えばっかりしてしまいます。ここはとことん自分本位です。「相手のためになると自分が思うこと」を僕は言うわけですが、「相手が気持ちよくなること」は言えないのです。こないだも友達と恋愛の話を電話でして、なんかひどいことばっかり言っちゃったような気がします。そういう役目かなとも思うけど。
 まあ、せめて、相手がいやがることはしないように心がけたいものです。「こんなことをいやがるなんて、ばかげてる(限度の値が低すぎる)」と思うようなこともたまにはあるわけですが、かりにそう思ってしまったら、そこで順序と方便です。ばかげてると思うなら、ばかげてないところに行けるための順序と方便を模索しなければ、それは面倒くさがっているのであって、僕の嫌いな「手抜き」というやつになってしまいます。
 いつかは、適切に相手を気持ちよくさせる順序と方便を身につけたいものです。僕はそれが非常に上手な人生の先輩を何人か知っているので、「どうしたらいいか」の方向性はなんとなく見えます。あとは自分のこころ次第です。

2013/04/25 木 忘れてはいけないこと

 誰でも最初ははじめて おそれないこと それが一番ね

 何かを為そうと思っている人。苦しめばいいです。
 なにも形にできなくて焦ればいいです。
 しかし、形にならないのには理由があります。
 その理由を無視していくらあがいても無駄です。
 形だけにとらわれてはいかん、というやつです。

 たとえば、「彼女がほしい」と願って、なかなかできない人がいます。
 彼女ができないのには理由があるわけですが、それを考えずに、ひたすら彼女がほしいと思っても無駄だし、いろいろやってみても、本質から外れたわけのわからない努力をして空回りするだけだったりします。
 小説を書きたい人、ミュージシャンになりたい人、みんな同じです。
「彼女がほしい」とか「小説を書きたい」とか「ミュージシャンになりたい」とか、思うのはやめましょう。そこにはなにもありません!
「形」と「本質」は、かならず別のところにあります。当たり前です。
 あがくのなら、そこであがかなくては。でないと井戸の中で遠泳をしようとするようなものです。
 人にはその人のペースというものがあるんです……。
「自分のペース」をちゃんと見極めないと、「手遅れ」になります。
「自分のペースでやってたら手遅れになっちゃったよ~」っていうのは、ありえません。そう言う人は単に愚かです。それは実は「自分のペース」ではなかったということです。自分のペースを知らないから、乗れなかった。それで手遅れになってしまったのです。

2013/04/24 水 シールの邪悪さ

 教育現場における邪悪の象徴はシールですよ。
 みんなシール好きじゃん、だって。
 なんであんなにシール好きなんだって話ですよ。
 というわけで岡田淳さんの『シールの星』読み返してきます。(『リクエストは星の話』という本に入っています。)

 はあ……
 僕、この話すきです。
 えっ よんだことがない ですって?
 それは いけない
 岡田淳さんの作品はいずれも素晴らしいので、ぜひ。
 なんでしょうね、僕は小学生だった人なんだと思います。
 この人の作品を読んでいる限りは、ずっとそうです。

 みんなシールが大好きなんです。
 その気持ちにつけ込んじゃいけないだろう、と思います。
 みんなの大好きなシールを数値化して、点数の代わりに使うなんて、邪悪極まりないものです。

 ちょっとのあいだ、塾で小学生を教えていたことがあります。僕が担当していたクラスには六人くらいしか子供がいませんでしたが、けっこう勉強のできる子からほとんどできない子までいたので、まるで小学校の学級をそのまま小さくしたかのようでした。教室のかべにはシール表があって、宿題になっているドリルをやってくると、一単元ごとに一枚シールを貼ってもらえます。
 彼らがその、なんの模様もない黄色い丸いシールに対して、どのくらい思い入れがあったのかはよく知りませんが、気にしていたことは確かです。いっぱい貼られている人もいれば、一枚も貼られていない人もいました。
 塾の意図としてはおそらく、シール制を導入することによって、本人にも先生にも進度が把握しやすくなるというのと、シールがもらえるからということで勉強する動機になることを狙っていたのだと思います。「シールを貼ってほしい」とか「シールが貼られていないのはいやだ」という気持ちになることを期待していたのでしょう。

 シールにはもっと可能性がありますよ。
『シールの星』をこそ教科書に載せるべきなんでないですかね?

 塾といえば、そのクラスで教材として岡田淳さんの『ピータイルねこ』という短編を扱う機会があって、本当はいろいろ設問を解かせなきゃいけなかったんだけど、どうしてもそれだけはしたくなかったから、ひたすら何回も何回も、音読させて終わりました(もちろんいろいろ話もしたと思います)。子供らに「面白い」と言ってもらえて、これが教育で良いのだと思ったものです。

『シールの星』は、数値に成り下がったシールの星を、美しい星としてよみがえらせるようなお話です。シールの一枚一枚には、できれば豊かな輝きがあったほうがいいです。そういうのって、本当に何にだって言えることなんではないでしょうか。

2013/04/23 火 『ロリコン小学生ペド太の純情』入稿

 新しいの書けました。驚くべきことに約二年ぶりの作品です。
 あんまり数刷ってないのでほしい方はお早めに。
 おざ研に置いておきます。

 僕はこれまで小説を四作ほど作りましたが、いずれも「これが正しい!」と胸を張って言っているような作品ばっかりでした。五作目の『ロリ小』は、テーマが「ロリコン」っていう時点で、「これが正しい!」という出し方をするのはとても無理でした。
「ロリコン」というのは正しくないものです。正しいものは「ロリコン」とは言われません。「ロリコン」の定義には「正しくない」という意味がちゃんと含まれている(僕はそう信じる)ので、「ロリコン」を肯定するような作品は正しくはありません。かといって、「ロリコン」をただ否定するような作品は、まったく面白くなさそうなので、読みたくありませんし、書きたくもありません。
 そういうわけで、「ロリコンを肯定しているのか、否定しているのかよくわからない」作品にしようと思って、たぶん、そうなりました。すなわち「正しいのか、正しくないのかよくわからない」ということです。
 いやまあ、少なくとも肯定しているようには絶対に読めないように書きましたので、ご安心ください。

 これに登場するロリ子という女の子が、僕は書き終える頃にはものすごーく好きになってしまいました。まあ知恵院左右という子にはさすがに敵わないのですが……。ロリ子を主人公にしてもう一本、といきたいところです。ロリ子はジュニアアイドルをやっているのですが、ジュニアアイドルという根の深い問題にももうちょっと深く踏み込んでいきたいと思っているのです。

2013/04/22 月 友情などもない

 恋愛などありませんし、同様に友情などもありません。
 そんなもんあるわけがないんです。
 だから、男女間に友情はありません。男男間にも女女間にも、ありません。
 人と人との関係があるだけです。
 あんまりひとくくりにしないほうがいいのです。間違えるんで。
 まさかいないだろうとは思いますが、「友情」という言葉を口にするような人は信用できません。
 ないものをあるように見せかけているわけですから、ペテンです。

 ゆずの岩沢先生の曲で『シュミのハバ』って名曲があって、「だってオレたちずっと友達だろ?」って歌詞があります。岩沢先生ほどの人が、こんなフレーズを肯定的に歌うわけないよなと思っていたら、聞いた話によるとこれは覚醒剤をイメージして作られた歌だそうです。なーるほど、だから「ついに静かに覚醒(めざめ)る」と言っているわけですね。もちろん、「覚醒剤」なんていう陳腐なものに限定して考える必要はないです。限定してしまうと、「流行の事はわからないが」が意味不明になってしまいます。覚醒剤なんか流行のことでもなんでもないので。その他のところでも、しっくりこないところはいくらでもあります。

 友情なんかないですよ。
 そう思わないと、『シュミのハバ』の前半で歌われているような状態に陥ります。
「友達」なんていう、わけのわからないものも存在しないと思ったほうがいいです。「友達」っていうのは、すでに仲良くなった人に対して必要に応じて貼りつけるラベルであって、まだ仲良くない人に対して貼りつけるものではないのです。つまり、ラベルを手に持ってそのへんうろうろしてたってなにも意味がないです。仲良くない人にはくっつかないと思ったほうがいいです。くっつくと思ったらまずいです。

 と、いうふうに、「ない」ものを考えていったら面白いです。僕はどんどん、いろんなものを「ない」と思っていったほうが、かえって物事はすっきりするのではないかと思います。考えることは増えますが、そのぶん明快になります。きっと。

2013/04/21 日 恋愛などない

 恋愛などない。

 宗教の定義をしました。
 宗教とは、「ない」ものを「ある」と思わせるものだ。
 というものです。
 で、恋愛教という宗教が存在します。

 僕が思うに、恋愛しているような気になっている人は、「ない」ものを「ある」と思っているだけなのです。
 だから、ある人にとっては「恋愛はある」のでしょう。
 僕はそれを見て「本当はありゃしないのに」とか思っています。

 恋愛しているような気になっている人は、恋人を偶像化しています。
 恋人の本来の姿をではなく、頭の中・心の中で偶像化した、本来的でない恋人像を愛しています。
 個人を愛するということは常にそういうことでしかありません。
 なぜならば誰も他人を理解することはできないからです。

 僕は個人を愛することをやめました。いろいろあって。
 ある個人との間にある関係や、その人と一緒に作っている場面・局面を大切にするようにしました。
 それを僕は恋愛とか、恋とか愛するとかと言わず、愛なるものそのものだと思っています。

 少なくとも僕は恋人や配偶者を愛することは永遠にないでしょう。
 愛するとは愛情を上から注ぐことです。
 猫を愛でるようなものです。
 それは対等な人間へすることではありません。

 愛は僕らの間にあるもので、それは育むものです。
「喜びを他の誰かとわかりあう! それだけがこの世の中を熱くする!」
 小沢健二さんの『痛快ウキウキ通り』という曲の歌詞です。
「お互いをわかりあう」ではなくって、「喜びをわかりあう」なんです。
 それが本当です。
 そのためにお互いを知るということは、もちろん必要だと思います。

↑の文章の続き(余談)。

 小沢健二さんには『愛し愛されて生きるのさ』って曲もありますが、実は僕はこの曲にあまりピンときていません。
『宇宙船サジタリウス』というアニメの挿入歌で、『愛が心にこだまする』という名曲があって、「みんな誰かを愛してる」と歌っています。
 僕はこっちの曲のほうがピンときます。なぜかと考えたら、たぶんこの曲は、曲の中で「愛する」ということの定義がされているからです。で、「そういう意味で愛すると言うのだったら、僕は理解できるな」と思えます。
『愛し愛されて生きるのさ』も、ひょっとしたら愛するということの定義をしているのかもしれませんが、よくわからないです。小沢さんの曲の中で好きな曲としては挙げません。
「恋愛などない」と思っているから、なのかどうかも、わかりません。
 正直に言って、『愛し愛されて生きるのさ』を一曲目に据える『LIFE』というアルバムに、いま好きな曲として挙げる曲はないです。
『痛快ウキウキ通り』は、けっこう早めに挙がると思います。
 本当に、『LIFE』は完璧な名盤です。いつ聴いても凄いと思います。あの悲しみや切なさ、瞬間の美しさ、儚さ、そして祈り、わかります。
 でも好きなアルバムとしては決して挙げないというのは、なんかあるんでしょう。なんとなく思ってることはありますが、それはまた別の時に。

『LIFE』といえば、『ドアをノックするのは誰だ?』という曲も、好きな曲としては挙げません。
 西間木くんという人がいいことを言っていました。
「ドアノックは入口なんだよ!」と。
 ドアノックはドアをノックする曲なんですね。
 思えば僕が小沢さんを好きになるきっかけもこの曲でした。
 小学生の時でした。
 中学生の時は歩きながら口ずさんでました。
 高校生の時はカラオケでよく歌ってました。
 今はあんまり歌いません。
(歌うとめちゃくちゃ気持ちいいんですけどね。もちろん。)

 引用元の曲や、そのリズムが肌に合わないってことなのかもしれないなと、今なんとなく思いました。

 So 時として 恋人の 二人には 愛の深さ計る事件があり
 So 別れるの 別れない 二人には 愛の答え出せず離れてゆく
 悲しいね

2013/04/20 土 絶望的邪悪に

 批判したり、悪く言うのは簡単だよなー。
 簡単だからいくらでもできるし、する。
 だけど最近は、そういうことにあんまりエネルギーがかけられなくなってきた。良いのか、悪いのか。
 居酒屋でしか文句言わなくなるってのよりは、こういうところで堂々と悪いと思うことに悪いと言ったほうがいい、とはいえ、そればっかりになるのも良くない。

 邪悪と醜悪と無能がいるんです、世の中にたくさん。
 僕らはそれをいち早く見抜いて、適切な対応を取らなくてはならない。
 それは矯正かもしれないし共存かもしれない。
 回避かもしれない。
 わからないけど、とにかくどうにかしなくちゃね。

 ああ、この人は邪悪だなと既にわかっていて、
 しかしその人と関わりを持たなければならない。
 そういう状況は大人になると無数にありますね。
 立ち向かわなければならないわけですよ。
 負けてはいけない。
 とはいえ、大人としての振る舞い方も忘れてはいけない。
 罵倒したり、殴ったりするのは簡単なんだけど、それは大抵、やらないほうがいいことですからね。

 今日も耐えがたい邪悪に遭遇したわけですが、真に適切な行動を取れたかどうかはわかりません。自分なりに頑張りましたが、ちょっと眠たくって、疲れていて、頭が正常に回らなかったので、最適解がまったく見えませんでした。
 悩んでいくしかないですね。
 僕らの敵は邪悪ですよ。
 結果としての醜悪や無能よりも。
 悪意です。悪意と戦わなければなりません。
 もしそれが無意識で、悪気がなかったとしても、あまり関係ありません。彼の中に邪悪があるのです。
 ここの文章を読んでくれている人たちは、会ったことがない・やりとりしたことのない人も含めて、僕はみんな仲間だと思っていますよ。こんな話をいつも聞いてくれているということは、一緒に邪悪と戦ってくれてるってことだと僕は勝手に思っているのですよ。
 本当にありがたいことです。たまに更新頻度下がってごめんなさい。

 恥ずかしい言い方だけど僕らの人生は戦いなんです。
 邪悪との戦いです。
 逃げるのもたまにはいいです。たまにじゃなくても、いいです。
 でも、邪悪は愛すべきものじゃない、ということだけは、忘れないでいたい気がします。邪悪すらも愛する、聖なる人だっているかもしれませんが、僕にはまだまだ無理そうです。
 だって……邪悪を愛してしまったら、人生がヒマになりませんか?
 ヒマでいいじゃないか、っていうのがきっと聖なる考え方であって、それは悟りのようなものかもしれません。
 でも、僕にはまだ難しいですね。
 戦いきって、次の世代にバトンを渡してから、僕は聖なる存在として隠居したいと思っています。今は。
 それまではひたすら邪悪を憎んで生きていきますよ。

 邪悪とは何か、ということを何度でも言います。
 それは「自分のことしか考えない」です。
「自分を最優先させる」でもいいし、「他人や他の物事のことをまったく考えられない」でもいいです。それが邪悪です。
 今日、僕が遭遇した邪悪も、それでした。
 自分しか見えていない。
 それをさえ愛するというのは、まだ難しいんです。

2013/04/17 水 セーラームーンと姫ちゃんのリボン

 友達の女の子が、こんなことを言っていた。

「細かいアクセサリーよりデカいリボンが好きなのは多分セーラームーンより姫ちゃんのリボンが好きだったからだね」

 彼女曰く、そう考えると納得のいくことが多いらしい。
 僕もこの言葉を見てハッとした。なるほど、と。
 世の中にはセーラームーン側の女の子と、姫ちゃんのリボン側の女の子がいるのだ。
 たぶん。
「そういえばあの子はセーラームーン側だったなー」とか考えると、いろいろ面白い。

『美少女戦士セーラームーン』は、漫画版が講談社の『なかよし』で1992年2月号から1997年3月号まで、アニメ版がテレビ朝日系で1992年3月7日から1997年2月8日まで。
『姫ちゃんのリボン』は、漫画版が集英社の『りぼん』で1990年8月号から1994年1月号まで、アニメ版がテレビ東京系で1992年10月2日から1993年12月3日まで。

 セーラームーンは92年~97年、姫ちゃんは90年~93年にかけてそれぞれ展開している。若干時代がズレるような気もするが、ブレイクしたのは両作品とも92年~93年だ。セーラームーンは漫画とアニメがほぼ同時に開始され、姫ちゃんはアニメ化まで二年以上連載しているので、このようにズレている。
 この世代の女の子たちはよく、「なかよし派」「りぼん派」という言葉を口にする。それをこの二作品に代表させて良いのかどうかはわからないが、何かあるような気はしてしまう。(ぴょんぴょん派とかもいるけど、それはひとまず置いておきます。)

 セと姫の対立は、ひょっとしたら、
 尖り顎と丸顔の対立でもあるし、
 八頭身と六頭身の対立でもあるし、
 ファンタジーと日常の対立でもあるし、
「年上の彼氏」と「同級生の男の子」との対立でもあるし、
 自動車・バイクと自転車の対立でもあるし、
 猫とぬいぐるみの対立でもあるし、
 戦士と魔法の対立でもある……かもしれなくって、
 そういうのを数え上げればキリがないんだけど、
 何よりも「変身」というもののとらえ方の違いが大きい。

 セーラームーンが変身する時のかけ声は「ムーンプリズムパワー・メイクアップ」であって、姫ちゃんは「パラレルパラレル○○になあれ」である。
 セーラームーンは普段の自分が衣装やアクセサリー等で飾られるタイプの変身で、最近のプリキュアもそんな感じ。姫ちゃんは他人(まったくの別人)に変身する、ひみつのアッコちゃんタイプ。
 ちなみに、セーラームーンの月野うさぎは変身前からロングのお団子頭で、姫ちゃんはショートカット。同級生の大地から「少年」とか呼ばれたりする。

 そのへんの細かいことをいちいち挙げていったら本当にキリがないし、まともに言うにはアニメと原作を全部観なきゃいけなくなってしまうので、なんとなく感じている結論だけ言ってしまうと、
 セーラームーンというのは女の子のためのアニメで、
 姫ちゃんのリボンは意外と女の子のためのアニメじゃなかったんじゃないかと。
(ここでアニメに限定しているのは、アニメのほうは僕は両方見ていたから。)

 セーラームーンってのはとことん女の感性を刺激してくる。
 姫ちゃんが刺激するのは、女の感性というより、
 子供の感性なんじゃねえのかな、と僕はなんとなく感じる。

 ちょっとだけ違う言葉で言い換えてみる。
 セーラームーンって女の子が女になるためのアニメで、
 姫ちゃんのリボンは、子供が少女になるためのアニメだったのではないか
 とか。
 僕には女の感性ってないけど、少女の感性なら多少あると思うので
 セーラームーンは面白くなかったけど、姫ちゃんは本当に面白かった。
 そういうことなんじゃないかなとなんだか思う。
 
 セーラームーン側の女の人っていうのはだからリアリストなんじゃないかね。
 姫ちゃん側の女の人っていうのは気楽で子供っぽいよ。
 うさぎは弟のいる姉で、姫ちゃんは三人姉妹の真ん中。ちなみに。
 弟のいる姉はリアリストになるのよね、けっこう。

 うさぎには、もう決まった人がいて、前世からのなんちゃらもあって、「ちびうさ」が生まれてくることも決まっている。
 大人になることが前提にある。
 将来の夢は「お嫁さん」らしい。(Wikipediaで見た)
 そうなると、好きな人に好きでいてもらうために、大人の女として魅力的であらねばならない。だからセーラームーンはああいう頭身で、ああいう格好をしているんじゃないかと、思う。女として、異性に対して、魅力的であるような姿をしていることが重要なんだというメッセージを、僕は非常に感じる。

 姫ちゃんは、最初は支倉先輩に片想いしているんだけど、支倉先輩とお姉ちゃんが相思相愛だってのを知って諦めて、同級生の小林大地と少しずつ良い仲になっていく。
 そういう流れだから、支倉先輩への恋が実らないとわかった段階で、「魅力的であらねば(にならねば)ならない」っていうのが消える。で、自然体でいられる大地との関係が深まっていく。

 最初は「なによあんなやつ!」状態だったのが、だんだん近づいていく、っていうのはセーラームーンでも同じような感じなんだけど、セーラームーンはもう、前世と未来に挟まれてるから予定調和的な感じが強い。まあ、ちゃんと見れば好き合う必然性ってのもきっとちゃんとあるんだろうけど……知らないけど……。
 もし姫ちゃんが支倉先輩のことがずっと好きで、支倉先輩とは前世でも結ばれていて、未来から支倉先輩との子供がやってきて……みたいな話だったら、きっと姫ちゃんはもっと、違うキャラクターデザインじゃないといけなかったはずだ。もっと女の子らしくなっていた。そう僕は信じるんだけど、どうなんだろうね。

 いろいろと破天荒な設定のセーラームーンがリアリスト(現実主義者)的で、
 日常を徹底して描いた姫ちゃんが子供っぽい(理想主義的、悪く言えば幼稚)ってのは
 なんか変かもしれないけど。
 でもそうなんじゃないかね。
 もっと言えばセーラームーンってのはすっごい保守的。考え方として。
 コンサバとでも言うのか。うさぎは麻布十番に住んでるらしいし。衛はKO大学だし。アルファロメオとかいい車乗ってるしね。(Wikipediaで見た)
 姫ちゃんのリボンは……少なくとも保守じゃないよね。
 演劇部で、小学生の男の子みたいな女の子が主人公。
 大地がスポーツ万能で頭も良くてちょっと悪くて熱狂的なファンクラブまであるいい男ってのが少女漫画の理想っぽいけど。両親は警察官らしいからそこそこお金はあるんだろうし。(Wikipediaで見た)
 まあそれでも、衛ほどあからさまに高学歴のお金持ちではない。
 なんかこう、両作品における「いい男」の基準が少し違う気がして面白い。
 大地みたいな人がいたら、僕だってファンになるさ。でも衛だったら、嫌いだろうな。男から見て魅力的なのは大地だと思う。
 セーラームーンには「男から見て魅力的」って要素があんまり感じられない。女の子キャラにブヒブヒ言ってる人はいたんだろうけど。「衛になりたい」なんて、男の子は思わない。というか、思えない。アニメ版だと最初から大学生なわけだし。
 しかし僕は大地に憧れていたよ。かっこいいなーって思って。
 まあでも人によってはタキシード仮面に憧れるんかな?
 それが「側」だってことなんだろうね。

 ああもう。僕は本当はSMAPの話がしたかったんだ。
 セーラームーンの曲って、ひたすら女の子目線なんだ。
 そして運命論的なんだ
「月の光に導かれ何度もめぐり会う」(ムーンライト伝説)
「いつかホントに出会う大事な人のために」(乙女のポリシー)

 いっぽう姫ちゃんのリボンに使われた、SMAPの曲『笑顔のゲンキ』『ブラブラさせて 』『はじめての夏』『君は君だよ』はどうか。
 全部男の子視点なんだ。
 まあ、第一期ED『ブラブラさせて』はちょっと、変な曲なんで置いとくとして……。
 いや、置いとくんじゃなくて先に片付けよう。
 さっき姫ちゃん側の女の子は「気楽で、子供っぽい」って書いたけど、
 この曲がまさにそうなんですよね。無責任なのね。本当に子供みたいな曲なのだ。
 視点は男の子なんだけどね。
 さて、残りの三曲。
 OP『笑顔のゲンキ』は、男の子が同じ学校の女の子に片想いしてるらしき曲。
 第二期ED『はじめての夏』は、男の子が女の子とつきあい始める曲。
 第三期ED『君は君だよ』は、男の子が女の子に優しく語りかける曲。
 片想い→つきあい始める→仲が深まる
 っていうステップを踏んでるんですね。これがまたいいですね。
 で、姫ちゃんのリボンって、主題歌だけ見たら完全に男の子の感性なのだ。
 アイドルの曲なんで、それを聴くのは女の子ってのはあるんだけど。
 で、全部どうやら、思春期の曲なのだ。

自転車を立て掛けて 夏草の土手に座った
話にうなずく君の向こう 電車が川を渡ってく
突然夕立ちに追われて 逃げ込んだ鉄橋の下
息が止まるほど君のことずっと見てた・・・・
(『はじめての夏』)

「自転車」「夏草の土手」「逃げ込んだ鉄橋」……
 これらは大人の生活には存在しない。
『笑顔のゲンキ』は「夕日の校庭 振り向く横顔」、
『君は君だよ』は「ホントにまだ たいして長く 生きてないのにね」、
 などをはじめとして、歌詞も音もボーカルも、思春期っぽい。
『ブラブラさせて』はよくわかんないけど、少なくとも大人の曲ではない。

 勝手なことを申しますと、セーラームーンが女の子を女にするアニメなら、
 姫ちゃんのリボンは女の子を思春期に連れていくアニメなのかもしれないな。
 だから「男性との出会い」がちゃんと用意されているんじゃないかな。
 それがSMAPとはいえ……。
 だってセーラームーンには「女」しかいないのだ。
 主題歌だけ見ると。
 姫ちゃんのリボンには男の声と視線が、
 毎週はじめと終わりに用意されていたわけだ。
 これはなかなか大きな違いだと思う。
 ムーンライト伝説と笑顔のゲンキってのは。

 セーラームーンは女の子が女である自覚を持つためのアニメで
 姫ちゃんのリボンは少女が男性と出会って思春期を迎えるためのアニメ
 だっていうようなことが言えたら面白いな。

 繰り返すけど姫ちゃんは支倉先輩に片想いしてて、それが破れて、同級生の大地と仲良くなる。それってまさしく、憧れであるだけの片想いを卒業して、コミュニケーションの成立する相手と対等な恋を始めるっていう、そういうステップアップだもんね。
 大地ファンクラブの子たちは、大地に対して「憧れ=コミュニケーションの存在しない片想い」の心しか持っていなかったけど、姫ちゃんだけは違って、だから二人は仲良くなれたのね。たぶん。
 片想いから卒業しないと、「付き合う」なんてことはできない。
 僕のそういう考え方って、実は姫ちゃんに教えてもらったのかもしれないな。

 ざっくりと、思いつきで書いてしまった。もっと詰められそうだ。
 久々に原作読んで、できればアニメも観て、それからまた何か書こう。

2013/04/15 月 疑う事 疑う事

 今月中はやたら忙しいようです。
 もっとわかりやすく、見やすい生活を送りたいものです。さて……

 自分を疑いなさい。
 多角的に見なさい。
 そんなチャチな物差しじゃ絶対にサバ読んじゃうもん。

 って昔誰かが歌っていました。
 その通りだなーと想い続けて早いくとせなんですが、
 最近どうも自分を疑わない瞬間があって一瞬焦ります。
 そういう時は確かな自信があって疑わないのだから
 それはそれでいいような気もします。
 でも疑わなくなったらおしまいだとも思います。

 疑う力も人生には必要だということは確かです。

 さて、現在2013/04/17の0:19です。
 寝過ぎました。
 朝までネームして、早朝になったら下書きに入り、
 昼くらいに帰ってきて、ご飯たべて、ちょっとペン入れして
 少し寝るんだったら寝て、夜はちょっと出稼ぎに行ってきます。
 別にマンガ描いているのではありません。
 今度は23日の正午までに、中編くらいの何かを書いて、
 4月28日の超文学フリマとかいうイベントに出そうかなと
 考えているのです。キー01です。

 4/13
 急だけど、今夜すんたん(麒麟さん)がおざ研に来るらしい。
 どんな人かは、2010年8月21~23日の日記をはじめ、
 このへんこのへんを参照。
 楽しみです。
 暇な人はぜひおいでください。

2013/04/14 日 絶望それは何処を探しても見つからない

 体調よくなってきたのに筆が進まない。

2013/04/14 日 脚本ぐせ

 初めてまとまった小説を書いたのは24歳の時だけど、演劇の脚本なら15歳の時に書いていた。そのせいか、小説を書いていても脚本みたいになってしまう。台詞の応酬で物語を進めたり、キャラクターの性格を出していくことに何の疑問も感じないし、それが一番楽だとも思っている。気がつけば何ページも地の文が登場しない、なんてことが平気である。読者としてはどうなんだろう。読みづらかったり、むしろ冗長に感じられたりするのかなあ。
 まあでも、必要がなければ台詞ばっかり書いてしまうことにしよう。性分だ。

2013/04/13 土 希望それは弁当屋にあり

 近所の弁当屋によく行く。
 面白いシステムで、おかずを左側のコーナー(主に肉・魚系のもの)から二品、右側のコーナー(主に和え物・煮物系のもの)から二品、合計四品選び、そこにお米+ごましお+漬け物が足される。そしてたいていは、甘い煮豆とか、大学いもとかをサービスで入れてもらえる。580円。お弁当を買うとスタンプが一つもらえて、28個たまるとお弁当が一つサービスになる。
 弁当だけでなくおかずを単品で買うこともできるし、たまに自家製ジャムなんかも置かれている。また、近所の小学校の運動靴とか体操服とか、そういったものを取り扱ってもいる。地域に密着したお弁当屋さんなのだ。
 いつかこの店で世間話でもしたいと思うが、十年住んでいてもやはりよそ者はよそ者。なかなかそういう雰囲気にできない。自分次第だとは思うんだけど。
 それでも通ううちに、「まいど」と言われるようになったりして、少しずつ馴染み始めている感じはある。そんなことがいちいち嬉しい。
 わざわざ言うこともないのだが、とてもおいしい。そしてあたたかい。おじさんもおばさんも優しい。これ以上の弁当屋はたぶん僕にとって、世界中どこを探してもないだろう。
 今日は白身魚のタルタル、はんぺんの挟み焼き、うの花、昆布煮に、大学いもをおまけしてもらった。
 両親は絶対に自分を嫌いになることはないと思う。そのくらい信頼している。そのようなお店だと僕は勝手に思っている。
 それは人格でしかない。
 焦らずやります。

2013/04/12 金 誰のために書くのか

 発売されるかされないかってことばっかり気にしちゃうけど、それはもう本当にわからないことだし、気にするべきでもないよな。僕は彼らのために書くのだ。これを言っちゃうと失笑する人はするのかもしれないけど、マモルとか知恵院とか、登場人物にもっと素晴らしい人格と生活と未来を与えるために書くのだ。それが責任というものなのだ。
 かっこつけているようだけど、割と本気でそんな気分になるときがある。もっと人間らしく、もっと幸せに……ってことばっかり考えている。たぶんこれ以降、もう書き足したりすることはないんだろうから、せいぜいしっかりとやってあげなくっちゃなあ。
 最初に書いた時に伏線にするつもりで、回収するのを忘れていた描写があるのに気づいて、「こういう無責任なことはよくないねえ……」と思ったんでありました。

 誰のためにって、もちろん、発売されるとしたら読者のためですけど、発売されないとしたら、誰のために書けばいいんですか? ってなったら、もう当然、そりゃ登場人物のためですよ。マモルをもっといい男にしなくちゃねえ。もし出なかったとしてもまあ、何らかの方法で配布できるようにしますよ。たぶんね。たぶん……。

2013/04/11 木 

「なあ、モモ」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
 ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 またひと休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
 そしてまた長い休みをとってから、
「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」
 ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。
「これがだいじなんだ。」

2013/04/10 水 メランコリーの川下り

 黒い家って映画、あったでしょ、あの、大竹しのぶさんの。
 僕ね、あそこ。住んでましてん。

 矢部浩之さんがご結婚されましたね。
 めちゃイケスペシャル見ました。

「私はフリッパーズ・ギターが好きだったんじゃない。フリッパーズ・ギターに入りたかったんだ」と言った、フリッパーズ・ギターきちがいの女の人がいたとかいないとか。

 そういうのってあると思うし、始まりはそういうことなんじゃないかと思う。
 女の子になりたい男の子や、男の子になりたい女の子っていうのも。

 眠り続けて、溺れ続けて、目を覚ましたら目の前にある、藤子・F・不二雄大全集を何か一つ手に取る。
 右手には全集があって、左手にはてんとう虫コミックスの『ドラえもん』と、SF短編集PERFECT版が置いてある。そうでないと毎日の最初の選択でいつかある日に死んでいたかもしれない。

 何とも関わりたくないと思っていたら身体が何かに拒否反応を起こしたのか、咳が止まらなくなって、黄色い痰が無限に出てくるようになった。
 ネットで仲良くなった男の子が「真似してつくってみました」って言ってHTMLのホームページをつくってて、内容も面白かったから喜んでいたんだけど、ある日ふっと消えてしまった。再会はきっとすると思うけど、それを信じるだけの余裕もあるけど、とにかくささやかに僕は小さくなってしまう。

 孤独になるとものの味が鼻に響いてくる。
 何かをつくるということの重圧はすごい。
 プレッシャーに弱いから心も体も持ち崩す。
 メンヘラだからねー、なんて冗談を言っているけど、自分にそういう才能がないことはずっと知っている。
 友達の彼女がバリバリと錠剤噛んでて、「あーあ」って思って、結局なにをすればいいのかわからない。わかるために生きているとはいえど。

 沈んでいたら後輩が(もはや年齢と高校時代の学年以外に彼を後輩と呼ぶ意味などどこにもないのだが、永遠に彼は後輩なのである)声をかけてくれたので遊びに行った。(それは4月6日の話です。)

 高校の先輩が(もはや以下略)ミュージシャンをやっていて僕は彼の曲をなかなか良く聴きます。先日トークイベント的なものがあったから行ってきたのですが、とても感動しました。

 大人になると凹むのにも気を遣う。
 もっと昔みたいに何も考えずパッカーンとしたいもんですよ。
 毎日瞑想みたいなことをしています。

2013/04/09 火 9条ちゃん改稿してます

 僕が初めて書いた小説『たたかえっ!憲法9条ちゃん』は、同人誌として現在第三版まで出ています。僕がつくった本の中で最も売れたものです。このたび第四版というか、新版として出る計画が持ち上がったので、みたび改稿しています。
 初版から第二版の間にはかなり多くの加筆があります。二版と三版はほとんど同じです。そして今度出るかもしれない(出ないかもしれない)新版は、数十ページの加筆と、割と抜本的な手直しを予定しています。
 その作業がけっこう大変なんで、ちょっとへこたれ気味です。でもやんなきゃしょうがないから、真剣にやっています。

 割と抜本的に手直しをするので、「この物語はどういう物語なんだろう?」といろいろ考え直しています。
 作者がいろいろ言うのはどうなんだってのもありますが、性分なんでたまに書いてしまいます。この物語はどこまでいっても知恵院左右の物語だったなーとやっぱり、何度読んでも思います。新版ではマモルの物語としても成立するようにしたいです。
 執筆から四年経って、改めて読んで改めてわかったのですが、知恵院はマモルに恋をしていたんですね。そして、それが恋でしかないことを知ったのですね。たぶんそういう話だし、きっとそういう話になるべき話ですね、これは。現状でそうなっていないとしたら、どうにかそのようにしなければなりませんね。
 反面、マモルは知恵院に恋をしていませんね。じゃあ、なんだっていうのか? というと、それがあんまり充分に描かれていないので、今はそこを考えているところです。
 そこのところをきちっとしないと、続編の『39条ちゃん』がうまく書けなくなっちゃいます。
 知恵院視点で見ると、恋をして、それが恋でしかないことを知って、いったん振り出しに戻るのが『9条ちゃん』。改めて関係を構築し直す(そういうふうにする予定)のが『39条ちゃん』。まだ書いてないけどいつか書きたいと思っている『739条ちゃん』では、もしかしたら「安定」がテーマになるのかもしらんですね。

 計画というか、皮算用というか、まだ書くかどうかわかんないところも含んでいるし、新版とかいうのが本当に出るかもわからんのですが、どうであれ僕はたぶんこのシリーズを永遠に愛し続けるし、考え続けるでしょうね。
 それは高校二年生の時に書いた『少年三遷史』というお芝居も同じです。
 もちろん『おなちん』も『はつでん部』も。
 いずれも僕がものごとを考える際の一つの基準になっていたりします。
 4/28の超文学フリマにも新刊を出す予定ですが、その作品もそのようになるのでしょうか。執筆期間があまりにも短くなってしまいそうだから不安だけど、なんとか出るといいなという感じです。

2013/04/08 月 寂しい

 僕も人間ですので、ついついSNSとかをチェックしちゃったりするわけです。Twitterとかそういうのに時間を割いちゃうことがけっこうあったりします。それは必要経費といえばそうなんですが、そのせいでするべきことをする時間が削がれてしまったりもするわけなんで、コントロールできないとあきません。
 ついつい携帯を見ちゃうとか、そういうのって、「寂しいから」だと僕はずっと思っていました。実際それは要因としてかなり大きいと思います。でもそれだけじゃないんですね、きっと。僕の場合はですが、たぶん「思っていることを言葉にしたい」っていうのが大きいと思うんです。「伝えたい」ではなく「言葉にしたい」で、その時点でおそらく、欲求の大部分は解消されます。
 たぶん携帯でちまちま、Twitterだのなんだのに書き込むことってのは、実は「言葉にしたい」という欲求のあらわれなわけで、ってことはそういう気分になっちゃったら、手帳にペンで書いちゃえばたぶん、その欲求の大部分は満たされるということです。
 手帳にペンで書けば、自己完結できます。そこからずるずると何かに引きずり込まれるということがありません。他人のどうでもいい書き込みを延々読んじゃったり。
 もちろん、「寂しい」という気持ちはそれとは別なわけで、だいたいの事情は寂しいから延々読んじゃうということなのでしょう。
 しかしね、大人というのは寂しいと思ってはいけないものなんです。より正確にいえば、そのことを外に見せてはいけない。甘えるべきところで甘えるのが大人ってことかもしらんです。それができない人は酒だの風俗だの、別のもので心を埋めようとするわけです。ドラえもんにもそういう話がありましたし、『やすらぎの館』というF先生の短編も思い出されます。
「寂しい」と「言葉にしたい」が、僕を動かすわけですが、正直言って「寂しい」というのは邪魔だし、何より辛いことなので、どうにかなんとかしたいです。
 そこで、寂しさを紛らわすための手段として「言葉にしたい」欲求を利用する、というのはアリかなと思っています。一石二鳥。考えてみれば中学生くらいの頃からずーっとそういうことをしていました。中学生の頃はホームページを持っていなかったので、ノートに日記を書いておりました。毎日書いていたわけじゃありません。寂しいときにだけ書きました。「ああ、いつも日記が三日坊主で終わる僕はだめなやつだ」なんて当時は思っていましたが、「寂しい」という動機がなければ書けるわけがないし、その頃はまだ言葉にすべき思いもそれほど大きくはなかったんですね。

 中学を卒業するとき、友達の家がやってる喫茶店にみんなで泊まって、一晩中しゃべり続けた夜がありました。ある女の子のことを僕は助けたくて、しかし絶対に助けることができないという、葛藤に悩まされた夜でした。あまりにも巨大な夜だったから、すぐさま僕はその時のことと、その思いを長い文章に書き留めました。大きな思いが僕に書かせたわけです。僕が日記のようなものをパソコンで書いたのは、それが初めてだったと思います。いつかは公開したいけど、恥ずかしいのとプライバシーの問題でおそらく永遠に無理でしょう。

 そのときは「大きくて、重たくて、抱えきれないから書くしかなかった」だったんです。今もおおむね、そのような気分で書いています。それはたぶん性分です。
 大きくて、重たくて、抱えきれないという状況を寂しいと言う場合もあるのかもしれない、と今思いました。

2013/04/07 日 好きなど無い

 好きなどない。恋愛などない。
 何かを「ない」と仮定してみることは大切です。

2013/04/06 土 許してほしいですワーイ

 咳が止まらず、ちょっとしたことで落ち込みます。
 来たるべきハイテンションに向けてちょっとお休み中なのです。
 こう見えて……というか、どう見えているか知らないけど、
 豆腐か硝子かみたいなもんなんで。
 最近ちょっと気を抜けるようになったから
 どーっと疲れが出てきているのです。

 仕事の繁忙期も終わり、教えていた子はちゃんと大学に合格し
 未来への見通しもつきかけてきた。
 ようやく安定するのかと思ったらふいに何もかもが怖くなりましたね。
 ある意味では安心のせいです。気を抜いても大丈夫な状況になったから、存分に気を抜きたいわけです。こわばっていた精神をいったん、崩壊させて、もっぺん組み直そうとしているんだと思います。
 今は「あー、これで僕はメンヘラに戻れる!」って感じです。
 でもメンヘラでいてはいけないのでそのうち盛り返すと思います。
 ただしばらくちょっと死んでるかもしれません。

 三月末から四月頭にかけて、僕に五ポイントくらいのダメージを与える出来事が十五個くらいあって、七十五ポイントのダメージを受けて、割とフラフラですのです。
 それでも僕は二〇〇〇ポイントくらいの貯金があるので大丈夫です。
 ただちょっと十五カ所くらい蚊に刺されたような感じで、少々困っております。
 だからいろんなことを許してほしいですワーイ。
 しばし気を抜きます。
 こういうところが大人じゃないっていうんだろうけど。

2013/04/05 金 

 昨日書いたことに関しては色々な意見や思いが当事者にはあると思う。
 とりあえず僕はああいうことを言ってしまった。
 僕は愚かかもしれないが、もうよくわからない。
 無責任だとか勝手だとかいう話もあって、それは確かにわかる。
 ただ物事には幾つもの側面があって
 ある面では良くないような態度を取ってしまう理由もどこかにはある。

 時として、自立しろという大人が一番自立を阻んでいたりする。
 安定しそうなら波紋を投げたほうがいい。
 静かに終わって行くよりも。

 正直に言って今の僕にはもう何もわからない。
 メンヘラ気味だから少しお休みしなければならない。

2013/04/04 木 子供からの卒業

 2008年6月から2010年3月までの22ヶ月間、とある中学校の先生をしていて、そこで仲良くなった子たちとの関係がずっと続いている。年に何回かその子たちに招集をかけて、学年やクラスを問わず、みんなでお話しする会というのを三年間ほど続けてきた。
 集まってくる子は、僕の授業を受けた子もいれば、受けてない子もいる。その割合はだいたい半々か、受けてない子のほうが多いくらい。学校の外で知り合った子もいる。また、その学校とは直接の関係がない、ネットで知り合った高校生の子なんかも呼んでみたり、あるいは大人も交えて話をしたりと、ごった煮の会だった。(僕は「ごった煮」が好きらしい。)
 この3月28日と4月2日にも、そういう会をした。合わせて20人くらい(中には両方来てくれた子もいる)の子供たちが来てくれた。こういう会はこれで最後にする。
 続けたところで、これ以上良いことはないだろうと思うのである。


 僕がこの会を定期的にやってきた理由(ねらい)はいくつかあった。

【1】知らない大人と話す機会を持つこと
【2】「場」というものを意識すること
【3】自立した人間になること(自分の意思を持つこと)

 最初のはわかりやすい。子供は基本的に「知らない大人」と話す機会がないので、無理矢理その機会をつくってあげれば良い刺激になる。大人のほうも、中学生や高校生と話す機会というのは基本的にないので、喜ぶ。子供たちの集まりの中に大人を何人か呼んでみたり、子供の会を木曜の昼間に開催して、夜になればそこへ大人が集まってくるという形にしたりしていた。
 そういう機会でなくとも、僕がやっていた木曜喫茶だの、今やっている木曜□だのというに来れば、いつでも大人と話すことができる。子供たちがもし「知らない大人と話すこと」を望むなら、ここに来ればいい。そういう選択肢を与えた。
 ただ、実際に通ってきたのはせいぜい三名ほどだ。
 高校生には、平日の夜に時間をつくって新宿にやってくる、というのはさすがに難しいのだろう。
 それに、やはり大人と話すことは彼らの大部分にとって難しいようだった。
 だからこそ、彼らが高校生以下のうちは「無理矢理機会をつくる」ということをしてみていたのだ。そしてもう、彼らのうちの大部分は大学生等になるのだから、その必要はなくなる。

 二つ目は、僕が最も気にしていたことだった。
 僕が彼らを集めていたのは、基本的に「バー」のような空間である。
「一つの場を、みんなで共有する」ということを基本とした場である。
 この辺の詳しいことはこのページの下のほうを読んでもらったほうがいいかもしれない。
 僕は子供たちに、「場」をつくっていく力を身につけてほしかった。
 この点に関しては、多少はそういう力がついただろうとは思うが、さほど意味があったとは思えない。「やらないよりはまし」くらいのレベルだったかなと思う。
 種はまけたと思うが、発芽するのを見届けることはできなかったというか。

 三つ目は最終目標。
 自立というのは、僕の言葉で簡単にいえば「どの時間、どこにいるかを自分で決められる」ということだ。
 3月28日と、4月2日はずっとこのことを意識していた。
 18歳を過ぎたら、もうそれはできていなければならない。
 だから僕はもう呼び集めないでおこうと決めた。
 もうこういった会は開かれない。
 あとは僕は淡々と木曜日におざ研に座っているだけだ。


 とても正直なことを言えば、「あんまり意味がなかったな」という思いがある。
 子供たちを集めて、話をして、というのは楽しかったし、みんなも楽しくて新鮮な気持ちだったと思うけど、それだけだった。
 もちろんたぶん、良かったこともたくさんあった。来てくれていた子の人生にきっと少なからぬ影響を及ぼしただろうと思う。
 しかしそれだけでは「場」の在り方を変えていくことはできなかった。
 なぜか。
 それは僕がいるからだと思う。
 この辺に関しては書くのも野暮ったいし、恐ろしく時間がかかることなので詳しくはまあ、ってことにするけど。


 みんなで話してる時には、いろいろ気の遣い方ってのがあると思うのね。
 話すのが苦手で、周りは初対面ばっかだ、って子が来たら、最初は場に入って行けないのは当たり前なんだよね。もちろん、入って行きたいって意思を見せないその子のほうにも問題はあるんだけど、それも含めて「話すのが苦手」っていうわけでもあるんだから。僕の個人的な考えとしては、そういう子がいたら、そういう子を含めて場をつくっていくために、いったんはその子に気を遣った場の設定にすべきだと思うのよ。
 でも、みんなそういうことは苦手なわけね。いつまで経っても苦手なの。そういうとき、僕はたいてい何も言わないで、ただ見ている。だって「ほらもっと○○くんに話を振ったりしないとダメじゃないか」なんて、言えないでしょう。言ったら馬鹿でしょう。「だれか○○くんに話を振ったりしないかなー」とか思いながら見てるんだけど、みんなそういうところはシビアで、結局は自分や、すでに構築された「自分たち」を中心にして話をしちゃうんだよね。
 もちろん、「○○くん」に気を遣う子もいますよ。いるけど、場の総意がそういうふうになるわけではないから、諦めちゃうんだよね、途中で。「ああ、この子は打っても響かないな」と。「こいつが喋らないのはこいつのせいだ。僕は一度話しかけたし」って、そっからもう二度と話しかけなくなる。それはシビアだけど、仕方のないこと。そういう形の教育ってのもあるわけだし、それが悪いとは僕も思わない。
 僕はそういうの見て、「そうだよなー、結局そういうもんでしかないんだよなー」とだけ思うのです。
 誰が悪いわけでもなくって、そういうもんなんだよなと。
 っていうか、誰が悪いのかといえば僕でしかないんだよね。
「○○くんが会話に入ってこないことについて、ジャッキーさんは何も言わない。だからこの場ではきっとこれでいいんだ」という意識が、どっかにあるんじゃないかと思う。
 僕はどうしてもそういう存在になってしまうのかもしれない、一人だけ年上だから。
 そうだとしたらそれほど僕にとって面白くないことはない。
 すべて押しつけられているようなものだから。
 それは僕が大人だから仕方ないんで、文句も言えない。

 でね、これは子供たちだけの話じゃなくって、大人もそうなんだよ。「なんでもっとみんな仲良くできないのかなー、カウンターの中にいる僕には、何をするにも限界ってもんがあるんだぜ?」って、だいたいいつも思ってる。
 まあ、それも含めて原っぱなんで、いいんですけどね。


 とあるアニメのオフ会に行って、二十代以上の男ばっかりがいるところに、一人だけ女子高生がいたんですよ。僕はちょっと遅れて行って、「あれ、女の子が一人だけいるぞ?」って驚いたんですよ。んで、その女の子に誰も話しかけたりしてないのに気づいて、「こりゃー可哀想だな」って直観的に思った。でも席が遠かったし、遅れてきたからその子がどういう存在なのかもよくわかんなくって、ちょっと様子見してた。だって、「そういう子」なのかもしれないから。「話しかけてほしくない子」「喋るのが嫌いな子」なのかもしれない。だから誰も話しかけないのかも、なんて一瞬は思った。でもねえ、そんな人間、いないって考えたほうが絶対にいいですよ。実際、たぶんいないですよ、話すのが嫌いな子なんてのは。だったらオフ会来ないって話です。
 それでチャンスを探して、なんか適当なタイミングで声かけて、できる限り喋ってみた。それでその後、「オフ会のときジャッキーさんだけ話しかけてくれたー」みたいなことを言ってもらえて、「ああよかった」って心から思った。話しかけられて嫌な人なんてのはいないんですよ。そういう人がいると思いこみたがるのは度胸のない人間の言い訳なんであってね。
 クラスで孤立する子ってのはそういうもんでしょ。本当は友達だってほしいし、話したりもしたい。そういう子が多いですよ。ごくまれに、一人でいることのほうが楽だって子はクラスにはいるけど、さすがにオフ会にはいません。わざわざやって来るのは人を求めているからです。

 そういうことをね、原っぱ経験の浅い人たちに求めるのは不可能なのかもしれない。
 それで僕は徒労感とか申し訳なさを感じたりもするわけです。
 まあ、そんなにみんなに優しくする理由もないわけだしさ。
 仕方のないことだ。


 理由になってないけど、いろんなこと考えてね、もうこういうのはいいだろうって思った。僕は夢を見すぎていたんだと思った。そんなにうまくはいかないよなって思った。もしもっと良い場をつくろうとするなら、もう百倍くらい僕は彼らに対して普段から能動的に働きかけるべきだったけど、それをする義理は、それこそないし、お節介も焼きたくない。
 うーん……もう、とにかく木曜□にでも遊びに来てくださいとしか、僕は言えない。上には、わけのわからないことしか書いていないので、答えはみんなで見つけてもらうしかないんで。
 当初書こうと思ってたこととだいぶズレたけど、このくらいでいいんじゃないかという気はする。
 また木曜日にでも会いに来てください。
 あるいはメールやなんかで呼び出してください。お茶でも。

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