少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2013/03/30 土 同一人物

 記憶禁止イベントに行ってきた話(もしかしたら続く)

 それとは関係のないメモ
 ・なーにが留学だよ(世界というものについて)

2013/03/29 金 対等力

 鍋をした。おいしかった。お世話になった。
 仕事の関係の集まりだったんだけど、そこにいる全員(七名)が小沢健二さんのことが大好きだという、状況。
 やはりそれはうれしいことですよ。
 ちなみに、七人目が来るまで最年少だった。
 よく考えたら仕事場では基本的には最年少なんだった。
(同い年が一人いたかな?)
 だからなんだということもないけど、それなのに割とみんなと対等のようにいられるのは、みんなが本当にいい人だってのもあるけど、小沢さんのおかげもあると思う。彼を通じればみんな平たいわけだから。仕事場では九割の人が小沢さんのこと好きなんで。
 最近、十個以上年下で小沢さんを好きだという人と友達になったけど、この場合も僕らはたぶんそれに関してはある程度平たくなれる、かもしれない。まあその人がどのくらい好きなのかということによるけど……。僕は比較的若いくせに、とても小沢さんのことが好きなので、「対等力」が高い。それで得するというか、楽しいことはものすごくたくさんあった。ただ、「生意気」なんて言われてたこともあったらしいけどねー。(本当にいつまでも根に持っている。)

2013/03/28 木 自立についての話をした

 自立ということについて、子供たち(と言っても16歳から19歳)に話した。これは近いうちに……まとめたいと思う。

「どの時間に、どこにいるか」を自分で決めることが自立なのかもしれない。それを思いのまま遂行するためには経済力がいるかもしれないし、何らかの能力が要るかもしれない。自立を支えるのはそういった力だ。
 そういうことをどこかで考えながら、高校生活、大学生活、もしくはあらゆる生活を過ごしていくのは、若い人にとって悪いことではないのではないかと、思う。

2013/03/27 水 結婚は男の墓場であるか

 友達と友達のおくさんと会った。
 最近結婚したばかりの二人。
 僕は寂しいけど、そういうものだ。

 結婚(家庭)は男の墓場だとか言う。
 結婚すると男は死ぬ。そういう場合はとても多い。
「男」は死ぬ。あるいは死んだふりをする。
 その代わりに「旦那」とか「父親」とかになるわけだ。
 それは無難だ。
 しかし自然ではない。おそらく。おおむね手抜きのたまものだ。
 そうではない何かをめざすべきだろうと僕は思う。
 彼らをはじめ結婚した友人たちを応援したいし僕も頑張る。

2013/03/26 火 眠った道を走る

 午前三時頃、交通量の少ない大きな道路を自転車で走っているときに、「もしもこの道路を走ることが初めてで、今がどこか知らないところへ向かっている途中だったら」と想像してみた。ぞわっとして、射精のような気分になった。もちろん本当は走り慣れた道だったし、行き慣れた場所に向かう途中だった。それなのに、「もしも」と想像するだけで、あんなに気持ちよくなった。僕は本当にそういうことが好きなんだよなあと改めて思った。
 知らない土地の、眠った道を走ることが、僕を何より興奮させる。
 あの感じを言葉に表すことはまだできない。

2013/03/25 月 職歴

 午前:いじめについて考える
 午後:新しい仕事の打ち合わせをする

 この「新しい仕事」が正式に決まれば、僕の人生の軌道がかなり変わり、今年度までやっていた仕事をしなくてもよくなる、と思う。手伝うことはあると思うけど、今までのように全身全霊をかけることはできなくなる。
 ここに仕事の話を書くことはほとんどないのだけど、たまには書いておこう。せっかくだから職歴みたいなのをちょろっと書きます。なんか、最近友達になった人も多いし。(その人たちがここを読んでいるかどうかは、まったく別の話ですが。)

 名古屋の高校を出て東京の大学に入り、18歳の時に最初にしたアルバイトが家庭教師。高二と中二を二年間持った。高二のほうは当初日本語を満足に話すことができない(単語でしか話せない)状態だったが「早稲田に行く」と言って聞かず、その通りにさせたら受験直前でインフルエンザにかかり早稲田を一学部も受けられず、しかしその前に受けていた明治の法学部に受かった。奇蹟としか言いようがないけど僕の教え方が良かったのだということにしている。
 それだけだと月にだいたい五~六万円くらいしか稼げなかったので、大学の斡旋で日雇いの肉体労働をたくさんした。イベントの設営が多かったが、時には死んだ独居老人の家を片付けるバイトとかもあった。給料はかなりよく、二時間で四五〇〇円とか、八時間で一〇〇〇〇円とかいうのもけっこうあって、しかも半分以上待機時間なんてのもザラだった。これでなんとか暮らしてた感はある。
 それらと並行して、大学二年の十月から近所のバーミヤンで働きはじめた。十二月の末に辞めた。いわゆるバックレである。「てんちょー、正月は実家帰るのでクリスマスくらいから出られません」と事前に三回くらい言ったのにシフト表に勝手に名前が載せられ、一向に消える気配がなかったので「絶対に出ませんからね!」と言って、本当に出なかった。そのまま新年度は行かなかった。
 大学三、四年は何をして働いていたのかあまりよく覚えていない。日雇いの肉体労働はやっていた。それから、無銘喫茶に出入りするようになって、マスターからときおり文章を書く仕事をもらうようになった。取材テープをもとに原稿を制作して、一本いくらという感じ。けっこう稼がせてもらった。あとニートさんづてで電気工事関係のバイトも少しした。あとは覚えていない。
 あ、思い出した。あこぎな商売をしていたんだ。あこぎな商売をして、調子のいい時は月に十万くらい稼いでいたのだった。それで割とさして働かずに涼しい顔を、しばらくしていたんだった。ほかにも忘れているのがあるかもしれない。

 大学を出て、何もしなかった。何もしなかったおかげでその年の夏と冬は心置きなく「おばさんツアー」を回れた。この経験がなかったら今の僕はないので、実に素晴らしいことだった。松山とかも行った。仕事は文章書きと大工をやっていた。大工は割と本格的にやっていて、おかげで道具は一式揃っている。ただ、やっぱりそんなに長い間は続かなかった。次の年の一月から飲み屋で出会ったじいさんの会社でコピーライター兼デザイナー見習いとして働いたけど、ブラック過ぎたのとほかの社員さんがあまりにもあんまりだったので二月で辞めた。
 六月から某中学校で講師として働き始めて、約二年で契約を切られた。まあ派遣切りのようなもの。ここでは本当にかけがえのない出会いがたくさんあった。
 教員を辞めて、何もすることがなくなったら「ひふみよツアー」があって、やっぱり僕の人生はそのように動いているのであった。暇でよかった。神戸とか広島とか行った。
 そしてその年、学生時代から仕事をくれていた例の「マスター」が、出版・編集社を立ち上げたので、誘われて十月から働くようになった。おおむね教育関係の文章を作っている。だいたい十月から三月までが繁忙期で、その期間だけ熱心に働き、あとの季節は呼ばれたら行くとか、家で仕事をするとかいった感じでのんびりやっている。それが三年、すなわちこの三月まで続き、もうすぐその時期が終わるというわけ。
 大学を出てからの細かい仕事を挙げればキリがない。クイックジャパンに書いていた時期もあったし、文字土方としての仕事もけっこうあった。ときおりは肉体労働もした。仕事になりそうでならなかったのもあった。先生を辞めてからだと会社と並行して再び家庭教師(中学・高校)をしたり、友達に頼まれて一年くらい塾で小学生を教えたりもした。一言でいえば僕はずっとフラフラしてきたのである。
 そいでこのたび、お金にはあんまりならないかもしれないがとても魅力的な仕事の話があって、これが本当に実現するようならば僕はもう、それが続く限りは毎日出社が必要なような仕事はしないと思う。たぶん不可能。まあどうなるか知らんけど。いい報告ができたらなーと思っております。まあなんか草育てるとかそういう、危ないやつではないのでご安心を。もしダメだったら何も言わずしれーっとまた普通に働きます。

2013/03/24 日  対等の教育(子供を馬鹿にしない、BTTFのドク)

 公園の近くを自転車で走っていたら、女の人が、自転車に乗っている小学校二年生くらいの男の子を羽交い締めにしていた。
「ちょっと手伝ってください!」と彼女は僕らに言った。
 何でも、子供が足を怪我していると。確かに、裸足のあしのうらからけっこうな量の血が出ていて、傷口はぱっくりと割れているようだった。ただ、見たところ「血がだらだらと出続けて止まらない」といった、致命的な話ではなさそうだった。
 女の人は、どうやらその子供を病院に連れて行きたがっているようだった。しかし子供はそれを拒否して、泣き叫んでいる。
「私、赤ちゃんがいるんですよ。だからこの子を病院に連れて行くことはできないの」と言って、彼女はつまり僕らがこの問題を、彼女の満足するように解決させることを望んでいるのだった。
 その女の人は何者なのかといえば、何者でもないようだ。たまたま公園にいたら、足を怪我した子供がいて、その子が自力で家に帰ろうとしていたので、捕まえて、病院へ搬送しようとしているようだった。
「聞いてくださいよ!」と子供が、僕らに向かって言った。
 彼の主張は、このようだった。「自分は一人で家に帰れる。だから、構わないでほしい。それなのに、この女の人がしつこく、事を荒立てようとしている。迷惑だ」
 僕は彼に同情した。
「彼は一人で家に帰りたいと願っているので、そのようにさせてあげたい。しかし一人でこのまま帰らせるのは確かにやや危ないし、あなたも納得しないでしょうから、僕らが後ろからついて行って、何かあったら、もしくはありそうなら、すぐ対応するようにします」という意味のことを、だいぶ違う言い方で伝えた。彼女は満足してどこかへ行った。
 自転車に乗った子供は、怪我をしていないほうの足で、裸足のままで、アスファルトを蹴って、少しずつ進んでいった。サドルが高いせいで、よろよろとしか進めないようだ。
 僕らは彼のあとをつけた。すると、さらに後ろから、四人くらいの子供たちが駆けてきて、自転車の子を囲んだ。
 さっきまで一緒に遊んでいた子たちらしい。「怪我をしたのは自分たちにも責任がある。家まで送っていこう」というようなことを言って、ともに歩き出した。怪我をした子ははじめ拒否していたように見えたが、やがて受け入れた。
 僕らは彼らのあとをつけた。
 ゆっくりと二百メートルくらい歩いて、コンビニの前で彼らは止まった。子供たちは怪我をした子を残してコンビニに入っていった。しばらくして、ティッシュのようなものと、水か何かを持って出てきた。応急処置をして、再び歩き出した。
 また二百メートルばかり歩いて、小学校の門の前に彼らは座りこんだ。そこから先は見ていない。

 たぶん、彼らにとっては大冒険だ。きっと忘れないだろう。もしかしたら何かを学んだだろう。もちろん楽しかっただろう。どのみち何かが残ったろう。むりやり病院に行くより、僕は良かったと思う。もしも彼の傷がその後、とても悪くなって、足を切断するような事態になったとしたら、救急車を呼ばなかった僕らの罪は重いのだが、申し訳ないが賭けさせてもらった。
 あの女の人の行動が、間違っていたとはさすがに言わない。しかし彼女が「子供の傷」しか見ていなかったのは確かだ。その傷がどのくらいのものであるのかは、彼女にも、僕らにも、わからないものだった。だから、救急車を呼んだり、病院に連れて行ったり、大人の力で応急処置をしたりすることは、最善と言えば最善だった。でもなぜだか気が向かなかった。
 なんだか知らないが、彼は泣き叫びながらも冷静だった。彼は傷や痛みに泣いていたわけではない。自分の意思が尊重されないことに泣いていたのだ。だから僕らに最初に「聞いてくださいよ!」と言ったのだ。彼はパニックを起こして泣いていたのではなく、自分のことを自分で決められないという不自由さに泣いていたのだ。僕にはそうとしか思えない。まったくの他人から、意に反した行動を強いられるのは、誰だって嫌だ。
 彼女は「子供の傷」だけを見ていて、決して「子供」そのものを見ていなかったのではないかな、と思う。大人はしばしば、子供に対して「一方的な目線」を送る。そして「決めつけ」と「理不尽」を産む。そして子供が最も嫌うのは、この二つなのである。僕は本当に、そうだった。決めつけられることと、理不尽なことが大嫌いだった。要するに、大人になめられたくなかった。人間として尊重されたかった。
 子供は能力が低い。それは否定できない。しかし子供だって人間である。少なくとも、やがては一人前にならなければいけない存在だ。そして子供というのは、たぶん一人前になりたがるものである。一人前になりたがらなくなれば、それはもう子供ではない、のかもしれない。
 大人の使命は、子供を一人前にさせることであって、自分の勝手を押しつけることではない。「一方的な目線」は、「押しつけ」でしかない。

 大人は子供を甘やかす。可愛がる。よしよしする。すごいねーと言う。猫なで声で話す。わっしょいわっしょい、持ち上げる。それは大抵が、「一方的な目線」である。
 おそらく、そういう時期はあっていい。しかし、「一人前」になろうとする子供にとっては、そんなことは必要ないと思う。もしかしたら逆効果だ。それよりも、「尊重」してあげたほうがいいんじゃないだろうか。なんか、「子供扱い」されている小学生くらいの子供を見ると、そう思ってしまう。

 僕、わりと子供に好かれるんですよ。それがどうしてなのか、なんとなくわかった。「子供扱い」しないからかもしれない。どうしてもね、こう、照れもあって、「でちゅよー」みたいな、そういう態度取れなくって、「えっとねー」みたいなふうになる。
 中学生相手だと、大人相手に話すみたいに、難しい単語とか言い回しとかは使えない。小学生を相手にする時も、同様に単語や言い回しを変える。それより下の年齢なら、また変える。ただそういうことをしている。「でちゅねー、よちよち」みたいな感じではなく。

 僕は、知り合いの子供とかと遊ぶ時、ほかの人みたいに、「でちゅねー」ができないから、ちょっとコンプレックスというか、「何恥ずかしがってんだよ、馬鹿だな」って自分に対してずっと思ってきた。もっと自分の精神年齢をわざと落として、「でちゅねー」ってやったほうが、子供に対してウケがいいわけだから、そうすべきだと、ちょっとだけ思っていた。でも、そうとばかりも言えないんだなー。
 確かに、「でちゅねー」はウケる。それでけっこう楽しんでくれたりもする。子供の発達段階によっては、それをしたほうがいい場面もあるかもしれない。しかし、逆にある程度発達してしまった子供に対しては、無意味だったり、逆効果だったりするんじゃないかとも思う。

 僕はたぶん、会話が成立する限りは、相手のことを尊重しようと思っているんだろうな。赤ちゃんに対してだったら、また別の接し方があるんだけど。
 だからわりと、友達になれちゃうんじゃないだろうかな。
 最近『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をPART3まで全部観直した。この作品の最大の魅力だと僕が思うのは、マーティとドクが、50近い年の差があるにも関わらず、大親友であるということだ。ドクはマーティを一切子供扱いせず、対等に接する。僕にはこの魂がすり込まれているのだろう。たぶん永遠にそうだ。
 それは岡田淳さんが小さい頃に『ドリトル先生航海記』を読んで、ドリトル先生が「少年を子ども扱いせずに対等のおとなのように話をしてくれ」たシーンから、「世界はやっていける、人生は生きるに値する、ひとは信頼できるという感覚」を得たという話に、非常によく似ている。詳しくはここ
 僕にとって、「人生は生きるに値する」と思わせてくれた作品とは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だったのかもしれないなとさえ、思う。

 ドクやドリトル先生は、相手が「一人前」だから、対等に接していたのではないと思う。そうではなくって、相手が「一人前」になるための手助けをする上で、絶対に、対等に接することが必要だったのだ。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のPART2・PART3は、17歳の青年マーティの成長物語としてみることができるわけだが、それを見守り、支えていたのは老科学者ドクである。ちょっとだけこの映画の話をする。
 観たことのある人は、PART3で、最後にドクがマーティの前に現れるシーンを思い出してほしい。ドクが現れたのは、マーティが「ロールスロイスとの衝突事故」を起こすはずの時刻よりも後である。ドクは「マーティがニードルスの挑発に乗り、ロールスロイスとの衝突事故を起こす」という歴史を知っていた。これを回避させるため、もう少し早くに現れても良かったはずなのだ。実際は、マーティはドクの直接の助けを借りることなく、冷静にニードルスの挑発をかわし、起こるはずだった事故を逃れた。シリーズを通じてマーティが人格的に大きく成長したため、未来が変わったのである。ドクはおそらく、マーティの成長を信じていたのだろう。ひょっとしたら、試していたのかもしれない。いずれにせよ、ドクはマーティが「一人前」になったことを、見届けに来たのだ。
 ドクは、意外と教育者だったのだと僕は思う。大人として、上から目線でものを言うだけが教育ではない。マーティにとって最良の教育とは、ドクがマーティの親友になることだった。そのことがマーティを「一人前」に育てたのだ。
 ドクは科学者としての信念で、「歴史を変えるようなことはしてはいけない」と基本的には思っている。だからドクはマーティに、事故のことを教えなかった。教えるチャンスはいくらでもあったのに。しかしドクはもちろん、大親友が事故に遭い、不幸になることを望んではいない。だから、ひたすらマーティの成長を願ったはずだ。自分の手で歴史を改竄することはできない、しかしマーティがもし、自らの力で、未来を変えることができたら。そう願っていたことだろう。意識していたかはわからないが、そのための行動も積み重ねてきたはずだ。だからこそ、ラストのあの素晴らしい台詞がある。未来は自分で作るものだ、と。

 僕はもしかしたら、誰とでも対等になってしまう人間なのかもしれない。だから「でちゅねー」ができないし、怪我した子供に干渉しすぎる女の人にも共感できなかった。それが僕なりの教育なんだろう。

2013/03/23 土  秘密

「絶対に秘密だよ」と言って語り出されることがある。
 語るほうも馬鹿ではないから、「この人なら大丈夫」と思って話す。
 語られたほうは、「人の口に戸は立てられぬ」という言葉の通り、どうしても誰かに話したくなる。それで恋人や家族に話してしまう。あるいは、「その秘密とは直接は関係がなさそうな人」に話す。
 関係がなさそう、というのは、具体的には秘密の当事者と直接やり取りをする可能性が極めて少ない人、たとえば、「同じコミュニティには属していない人」である。恋人や家族は、その条件に当てはまる場合が多い。
 これが繰り返されて秘密は広がっていくわけだが、際限があって無限に広がっていくわけではない。なぜなら秘密を語る人はできるだけ「関係のなさそうな人」に話すわけだから、話された「関係のなさそうな人」は、「関心がない」にほど近く、その次に話す人も、話す動機もなかったりするのである。そのように秘密は薄れていく。
 しかし世の中にはもちろん軽率な人間というのがいて、「関係がなさそう」という判断を誤る。それで「秘密がバレる」がやってくる。
 秘密は秘密なのだから、薄れさせていかなければならない。
 薄くなった秘密は噂になって、世の中を駆け巡ることがあるが、薄いから信憑性は持たない。

2013/03/22 金  文学と酒

 花見をした。十年前に出会った人たち。彼らはもともと、とあるWeb文学賞の集まり(のはず)だったのだが、僕はその文学賞には一度もエントリーしたことがない。どうして知り合ったのかといえば、酔っ払った西原が彼らと飲んでいる最中になぜか僕を呼び出したのである。西原とは僕の大学の同級生である。
 よく覚えている。僕は家にいた。電話があった。池袋まで飲みに来いと酔っ払った西原が言っていた。急に呼び出されるのは嫌いではない。むしろ大好きだった。それに東京に来て間もなく、まだ遊ぶ友達もいなかったので、彼からの誘いは有り難かったような気もする。
 行ってみたら、これがまた本当に酷い会で、僕にとっては違和感なく楽しく、そのままどういうわけだかその集まりにある程度居着いてしまった。呼ばれる会もあれば、呼ばれない会もあったが、西原と絶交状態になるまでは、つかず離れずだったと思う。
 それから西原が死ぬまでは彼らと会うことはほとんどなかった。一人だけ仲良くしていた人はいたが、僕を含めてみんなで集まるということはあんまりなかった。通夜で集まって、「まあ、花見でも」みたいな話になった。そしてそれは三年続いている。

 十年経てば人生は進む。様変わりする。
 しかしこの文学というよりも強く酒に繋がれた関係はなかなかしぶとい。

 年齢はまちまちで、今日は還暦がどうだって話が出てきてびっくりした。
 子供が就職したとか、前期分の学費がどうとかというのも。
 働き過ぎているということだったり、お店がやりたいということだったり。
 性別が変わっている人もいる。
 だけど何が違うんだかよくわからない。何も違わないような気がする。
 文学と酒がいかに強いかということだろう。
 書く書かないではなく……おそらく。
 そして何よりも酒。
 なんだかもう日本はこれでいいような気がします。

 少し離れたところで花見をしていたほかのグループの一人が突然立ち上がってハーモニカを吹き、長渕剛を歌い出した。
 文学と酒、それ以外に何もないだろうと思っている僕は、むなしさと息苦しさを感じたのでありました。

2013/03/21 木  場所

 木曜□。賑やかな夜だった。
 やはり、こう……場所というのは大切ですね。
 漫才はあまりにもせわしない。
 だからタモリさんとさんまさんの間にはあの小さなテーブルが必要だったのだ。(昔の笑っていいとも!を知らないとわけがわからないと思いますが。)

2013/03/20 水  おざ研

 昨日は祝前日だったので、木曜ではないがおざ研を開けた。
 来てくれたお客さんは3人で、1人は木戸銭を1000円入れてくれて、1人は貧乏なので321円で、もう1人は払い忘れて帰ってしまった(僕も気づかなかったので悪い。そういうときは「今度まとめて」でかまいません)。
 そうするとひとまず一晩で1321円である。うーん。
 しかし、少人数となるとそのぶん会話の密度は濃くなる。なかなか楽しかったなと僕は思う。
 多いときは合計15人くらい来てくれて、毎回このくらい来てくれたらやっていけるなーなんて思うのですが、まあ、いろんな日があっていいんです。多少の赤字なら被る覚悟はあります。(もちろん被りたくはないけど。)それ以上のものがあるのだ。
 とにかく、みんなの中に定着するように、黙々と続けていくのみです。

2013/03/19 火  アイドルとは企業である

 利潤を上げるための様々な事情(外的要因)に従って行動するのがアイドル。すなわちアイドルとは企業の末端(もしくは単に商品)である。言葉にしてしまえば当たり前の言い方になりますね。
 事情(外的要因)が行動を決定するので、アイドルという職業に就いている人間自身の中身や内面というのは二の次になる。
 中身や内面が問題にされないから、彼ら彼女らのインターフェース(情報を発信する外面の在り方)は容易に「取り替え可能」である。方向性を変えたり、キャラクターを変えたり、メンバーを変えたり、といったことが、「外からの要請により」可能である。
 それは「なかったことにする」をたやすくさせる。
 SMAPなんか典型だと思うが、メンバーが一人消えようが、事件・事故を起こそうが、酔って裸で叫ぼうが、いつの間にか「なかったこと」になっている。
 アイドルにとって大切なのは「現在」である。
 変化することによって減るファンよりも、変化することによって増えるファンのほうが一人でも多く、一円でも利潤が高くなれば、それは成功なのである。常にその時点での「現在」の利潤だけが問題になるのがアイドルである。
 そのことで悩む「個人としてのアイドル」もきっといるだろう。
 それで辞めたり、開き直ったり、「少しでも」と努力したり、してはいるんだろうが、ジャンル全体の在り方は簡単には変わらない。
 商業的に展開しているあらゆるコンテンツについて似たような事情があるはずだが、最も純化されたわかりやすいモデルがアイドルだろうと僕は思う。

 アイドルは悲しいかな変わっていく。あるいは、「外的な要請により」変わらない。変わる場合、それまでのことは「なかったこと」になる。
「僕たちの現在を見て!」「私たちの今を見て!」になる。
 そりゃ、過去にばっかりこだわっちゃ、くだらない。
 でも、過去にまったくこだわんなくって、いいのか? と思う。
 人間は過去を背負う。アイドルは原則的に過去を背負わない。
「過去がない」というのが、アイドルの人間離れしたところなのではないだろうか。

 過去があるとしたら、すでに物語化されたものでしかない。
 SMAPは再現VTRの中にも森くんを出さず、6人だったはずの時代を振り返る映像でも「そして5人は……」なんてナレーションが入れられていた。まあ、けっこう昔の話だが。
「SMAPは5人」ということで物語になって、ファンはそれを受け入れることを強要される。実際に受け入れないファンだっているんだろうが、そんな一部のファンのことはわりとどうでもいい。大切なのは「現在の利潤」で、「昔からの根強いファンを喜ばせる」ことではないのだ。
 最近、ジャニーズ界にちょっとした変化がある(あんまり詳しくはないが、握手会をやり始めたり、曲中の客席とのコミュニケーションを多くしたりしている)ようだが、それはひょっとしたら昔からのファンや、「ジャニーズとはかくあるべし」という哲学を持っている人たちにとっては受け入れられない話かもしれない。しかしアイドルは残念ながら利潤を追求する存在である。オブラートに包んだ言い方をすれば、「みんなのもの」である。「みんなのもの」だから、「みんなから愛される」じゃなければいけない。昔からのファンなんか、どうでもいいのである。一貫性も哲学も要らない。「最大多数の最大幸福」というのを目指すのである。

 その善し悪しは別として、アイドルとはそういうものなので、「変わってしまった」と嘆くのはお門違いなのである。相手は人間ではなく、利潤を追求する企業なのだ。
 で、当然これっていうのは何もジャニーズやAKB48といった、いわゆるアイドルに限った話ではない。企業の末端として存在するすべてのコンテンツに、多かれ少なかれそういう要素はある。みんなそことの折り合いをつけて、なんだかんだうまくやっているのだ。折り合いの付け方が下手な人は、売れないか、売れすぎる。
 あるいは、あまり売れないが根強いファンに支えられてなんとか食って行けている人もいれば、食っていけないけどほかに収入があるとか資産があるとかで、割と好きにやっている人たちも多いだろう。
 アイドルにしたって、「○○アイドル」みたいな形で間口を狭め、一定の小さな規模を保ちながら細々とやっているケースもあるかもしれない。そういう場合に関して、上に書いたようなことがどこまで適用できるのかはちょっと怪しいところだ。それがもし「利潤を一定にするための努力」を意図的に最優先しているのであれば、極めてアイドル的であると思うし、「自分の理想とするアイドルとしての在り方を絶対に曲げない」という信念のもと活動し、結果的にファンが一定数で維持されているのであれば、それはかなり「アーティスト的」とでも言えそうなものになるわけである。

2013/03/18 月  伊集院光と糸井重里

 僕はあんまり好きじゃないんです。
 すごいと思うし面白いとも思うけど、それと「好き」とはまた別です。
 僕は深夜ラジオが好きだけど、伊集院さんのラジオは一切聴かない(何年かに一度、聴こうとするんだけどいつも途中でやめちゃう)。RPG好きだけどMOTHERシリーズはやったことがない。
 なんでなんだろうか、って考えると、やっぱり心なんじゃないかと、曖昧ながらそうとしか言いようのないことを思うのです。
 でも別にそれだけというわけでもないです、たぶん。

 もっとわけのわからないことを言うと、たとえば糸井さんの得意技は「自然で人間味のあるように見えるものを人工的に作る」ことです。
 悪く言えば「受け手を転がすのが上手い」です。
 MOTHERシリーズファンの言葉を聞くと、そういうことなんじゃないかな、と思います。MOTHERシリーズの特徴と言われる「自由度」や、「一見意味のなさそうな会話やイベントなどの持つ含蓄」とかは、きっとすごいんだろうと思うけど、僕くらいひねくれてくると、たぶんそれを面白いとは思わないんだろうなと直観しています。
 僕は糸井重里さんの仕事に心を感じたり、善い人格を感じたことはありません。
 伊集院光さんについても同じような感想を持っています。
(彼らの人格が邪悪だと言っているのではなく、仕事についての話です。)

 そもそもこの二人を比べてみようと思ったのは、「あ」という変な名前の友達が、吐き捨てるようにこう言ったからです。「伊集院と糸井重里とAKB48以前の秋元康は、同じようなもんですよ!」その時期の秋元康についてはあまり詳しくないのでわからなかったのですが、伊集院・糸井の線は割とはっきり見えたような気がしたのです。
 一言でいえば「あざとい」ってことだと思うんですけど、そう言ってしまうだけでは足りない気がするので、心とか人工とか言ってみました。

 伊集院さんは、非常に面白いことを言うのですが、心がないよなーっていつも思って、途中で消します。
 ラジオでは、構成作家の「渡辺くん」という人が、伊集院さんが面白いことを言うとケラケラ笑うのですが、あの人を置くことによって「リスナーとの関係」を破棄してるように思えます。「伊集院-リスナー」という構図ではなく、あえて「伊集院-渡辺くん-リスナー」のような構図をわざと作って、リスナーと距離をとっている。距離をとるからこそ、カリスマになるのかもしれません。
 人間が人間である限り、カリスマにはなれないのです。人間が人間であることをやめたとき、カリスマになれます。作りものならカリスマになれますが、人間はカリスマにはなれません。

 こういうことを書くと両者のファンの人に怒られそうですが、怒らないで、ご意見をいただければ嬉しいです。

2013/03/17 日  歌の意思、意志、心

 ひろりんこ氏の3/16付の日記。

 僕はHysteric Blueというバンドが大好きなのだが、その元メンバーであるヴォーカルのTamaちゃんとドラムのたくや(楠瀬拓哉)さんが「シャボン」というユニットで新曲を出していたことを不覚にも今日まで知らなかった。
 BIG VENUS(曲の前に本人コメントあり)
 公式サイトのインタビューを読んだら、以下の内容があった。

 “あ、やっぱTamaちゃんは歌手としてプロなんだな”と。基本的なことがしっかりできていて、意思もある。

 ひろりんこは「意志」という言葉を使っていたけど、この二つの言葉は同じように使われていると思う。僕に言わせれば「心」という言葉になる。
「歌は心」っていう言葉、昔はピンとこなかったけど、今はわかる。心とは、意思のことであり、意志のことなんだな。
 インタビューの中でTamaちゃんが、たくやさんのことを「歌心のあるドラマー」と表現していたけど、彼らの曲には心を感じる。だから好きなんだよなー。

 心のある歌を愛したいし、歌いたいと思いますよ。
「心ない歌ばかり流れては消えてく どこまで単純な人たち」
 って歌ったのは清春さん(SADSの『TOKYO』って曲)だけど、
 たくやさんは最近清春さんのバックでドラム叩いてる。
 清春さんが昔黒夢ってバンドを一緒にやっていた人時さんは
 ヒスブルのサポートドラムやってたんだよな。
 なんかいい話だなと思います。

2013/03/16 土  人間の中身について

 中身のない歌を歌っていた人が
 中身のない絵を描いて
 中身のない言葉を吐き出している

 中身のない人はオシャレだった
 中身のない人はサブカルだった
 中身のない人は
 中身のある人に導かれ
 しかし次第に反発し
 別れた

 そして今
 中身のない絵を描いて
 中身のない言葉を吐き出して
 相変わらず中身のない歌を歌っている

 しかし誰にだって中身がないわけではない
 中身のない人はオシャレでそしてサブカルだった
 オシャレやサブカルに中身はないが
 その隙間には中身があった
 中身のない人はその隙間に気がついていなかったのだ
 そしてかつてのパートナーはその人に
 そのことを教えてあげることができなかった

 かつてのパートナーには中身があったが
 だからこそ中身のない人の中身のなさに甘えていたのだ
 二人の中身はある時期きっとバランスが取れていた
 だがいちど歯車が狂えば
 二度とかみ合うことはない

 二人は
 唾液の交換をためらった

 人間の中身は唾液にあるのだ
 唾液を美味しく交換し合ってこそ
 中身は共鳴し交歓するのだ
 中身のある人は唾液を送り続けたが
 中身のない人は自らの唾液を飲み込み続けた
 中身のない人には自信もなかったのだ
 そして中身のある人にも
 中身のない人の唾液の味を吟味するには
 少々若すぎたのだった

 そして中身のない人は
 中身のある人の唾液を拒絶するようになり
 自らの唾液だけを飲むようになった
 中身は目覚めないまま
 中身のない人の体内で眠り続ける

 いつか目覚めるかもしれないし
 永遠に目覚めることはないかもしれない

 中身のない人は新たな唾液を求め歩くかもしれない
 中身のある人は唾液についてさらに考えを深めていくだろう
 それでどうなることかはわからない
 すべては彼ら次第である

2013/03/15 金  あきらめるなー 携帯電話のデータ編

 高円寺で、友人二人とご飯を食べている最中にボーンと携帯が大破した。別に爆発したわけじゃないけど、飛び出してはいけないコードが急に飛び出してきた。本体とディスプレイとを繋ぐ線で、押しても引いても画面はまったく反応しない。食後、近くにあったソフトバンクショップに持ち込むと、「直せませーん」と。
「電話帳などのデータを取り出すことはできますか」と問うと、「可能性はあります」と言ってくれたので、任せると、「無理でした」と言う。
 ちょうどそろそろスマートフォンにしようかと思っていたので、機種変更をすればよかったのだが、データがすべて消えた状態からスタートするのはほぼ確定という話だったので、「自分でなんとか頑張ります」と告げて店を出た。
 家に帰って携帯電話を分解してみた。(分解すると法に触れる可能性があると後で知った。もうしません。)完全に断線していることがわかり、絶望。いろいろ試してみたが、無駄だった。
 ネットで検索してみると、同じ状態になった先人がいたので、その人がやった通りにしてみた。おそらくディスプレイが映らなくなっただけで、本体自体は正常に動いているはずなのだから、完全なるブラインド・タッチで操作し、メモリーカードにデータを移すことは可能であるということだった。
 やってみたが、まるで雲を掴むように手応えがない。まず、電源が入っているかどうかすらわからない。電池パックを入れ直してから電源ボタンを長押しすれば、電源が入っている状態にできるはずなのだが、その際にネットワーク自動接続がどうたらみたいな表示が出る可能性もあるらしく、どのタイミングで待ち受け画面になるのかわかりづらい。僕の携帯電話はスライド式だったので誤作動防止機能がついており、タッチパネルである操作をしたり、側面のボタンを押すことによって解除できるのだが、解除するボタンと機能をオンにするボタンが一緒であるため、現在がどっちの状態なのかわからない。何しろ画面がまったく映らないし、音も出ないのだ。
 待ち受け状態になってから、先人がネットに書いている操作を試せばいいのだが、途中で暗証番号を聞かれる。ところが僕は暗証番号をちゃんと覚えていなかった。いくつか思い浮かぶのはあるのだが、どれが答えなのかわからない。とりあえず入力してみるものの、それが合っているか間違っているかを確かめることはできない。
 こうしたいくつもの試練を経て、メモリーカードへのデータ移行は行われるわけだが、成功しているかどうかは、わからない。成功していたとしたら、長ければ一時間くらいかかるそうなので、一時間待たなくてはならない。さらに悪いことに、我が家にはその「マイクロSDカード」というメモリーカードを挿入できる機器がないため、一時間待った後も成功したかどうかを確かめられないのであった。

 僕はもう絶望しかけた。こんなもん、無理に決まってるだろ! と思った。しかしすぐに妙案が思いついた。さて、なんでしょうか?
 結論からいえば僕はメモリーカードへのデータ移行に成功したわけですが、さて、どうやって工夫したのでしょう。

 もう一台同じ機種を手に入れて、同時に操作する、というのを最初に考えた。しかし僕が使っていたのはわりといいやつで、今買おうと思ってもそれなりの値段がする。探すのも大変だし、手に入れたとしても、同時に操作するには二枚のUSIMカード(これを入れないと携帯電話が使えない)が要るので、ソフトバンクの「ガラケー」を使っている人を一人、連れてこなくてはならない。例の高円寺のソフトバンクショップに聞いてみても、すでに在庫がないとのことだった。
 次に思いついたのが成功したわけなんだけど、それはずばり「音」。
 携帯電話に耳をつけて、わずかな機械音を聞く。
 電源がついているかどうか、動作しているかどうか、データを移しているかどうか……を、わずかな(本当に、人間の耳では通常聞きわけられないのではと思うほどわずかな)音から察知しようと試みた。もしかしたら勘違いだったのかもしれない、と思えるほど、わずかな、わずかな音を頼りに、少しずつ操作してみたら、もしかしたら成功したかもしれない、と思えるところまで行けた。
 で、翌日怪しげなショップで白ロム(からっぽの携帯電話)を2800円くらいで買ってきてUSIMカードとメモリーカードを入れたら、あらあら! データは無事に復旧しましたよ、という話。

 長々と、面白くもない話を書いたが、何が言いたいのかといえば、「みんな、あきらめるな!」ということだ(!!!)。いや本当に。
 ソフトバンクショップの人は、「まあ、99%不可能ですね」くらいの温度で対応してきたので、僕もほとんどアキラメモードだったんだけど、自分でいろいろと試行錯誤してみたら、成功しましたよ。みなさん、これ、同じ状況だったら、復旧に成功してますか? どうですか? 僕、ちょっぴりすごくないですか?
「わずかでも可能性があるならそれに賭ける」ってのは少年漫画の王道だけど、なかなかできないことですよね。でも諦めるのは本当に最後の手段だもんね。
 電話帳が消えたら、あの人ともあの人とも連絡が取れなくなる。少なくとも、取りづらくはなる。ってことを考えると、「諦める」ってのができなかったんですよ。人との繋がりが断たれるってことが、僕の一番悲しいことかもしれないので。生きている限り、完全に切れることはないし、いつか向こうから連絡してくれるかもしれないしな……なんてことも考えましたが、それでもやっぱり、消えないに越したことはないと、がんばったわけです。
 自分は本当に、寂しがり屋なんだなあ、って思いますよ。

 ただ、本当に諦めざるを得ないような時は、きっぱりと諦めるのも大事かなとも思います。僕はそれはけっこう得意です。諦めないぞと頑張って、いざ諦めなければならなくなったら、「そんな日もある」と諦める。これで、けっこう生きるのが捗ります。でもやっぱ、諦めずに、成功したほうが良い時のほうが多いですよね。あーよかった。

2013/03/14 木  世界に入り込むこと

 いろいろのことについて考えています。
 少し前に、「あるジャンルを好きになると、そのジャンルを好きであるということを楽しみたいがゆえに、評価が甘くなるということが絶対にあります。」と書きました。
「世界に入り込むこと」っていうのが一つ、なんかあるんですね。

 クルマを走らせると、排気ガスが出ます。
 しかし、窓を閉め切ってさえいれば、クルマに乗っている人はその排気ガスを吸いません。
 自転車に乗っていると、その不公平さをいつも理不尽に感じます。排気ガスを直接吸い込むのは、自転車に乗っている僕たちなのです。クルマに乗っている彼らは、排気ガスを吸いません。締め切った車内が実際、どの程度よい空気なのかは知りませんが、まずは車外に排気ガスが出て行くのは間違いありません。
 しかしクルマに乗っている人は、そのことを気にしません。「ああ、また空気を汚してしまっている……自転車の人や歩行者に申し訳ない……」といつも思いながらクルマに乗っている人は、そうはいないのではないかと僕は思います。

「世界に入り込むこと」とは、そういうようなことなんじゃないでしょうか。僕はそんな気がしています。
 どんなジャンルでも、入り込んでしまえば、「排気ガスを気にしなくなる」ということが起きるものです。
 ジャンルに限らず、一つの作品でも、人間でも、なんだってそうです。それは時に「恋は盲目」とか言います。恋の出す排気ガス、恋の相手の出す排気ガス、そういったものが見えなくなるのが恋です。(それで僕は恋が嫌いなんでございます。)

 意識していたいですよ、排気ガスを。
 人を轢き殺す可能性を、事故死の可能性を。
 作られた過程を。いろいろの事情を。
 駐車場の問題を。
 お金の動き方を。
 果たす役割を。広告の在り方を。
 なんだって、いくらでも、考えることはあるけど、
 別に何にも、考えなくなる。
 それが「世界に入り込むこと」なんじゃないかと
 僕は思ってしまいます。

2013/03/13 水  スネ夫パネル

 やや暗いことばかり書いていますが、数日前にこのサイトのメールフォームからとても嬉しいメールをくれた知らない人がいて、とても救われました。
 むかしとても辛かった時にスネ夫パネルが届いて救われたことがあったけど、人生にはそういうことがあるんだよね、本当に。ナワのようにね。

 そのメールに何が書いてあったかというと、いろいろ書いてあったんだけど、「正しく生きるための材料になる作品を教えてください」というのが一つの核だった。僕はこの言葉をずっと誰かに言ってほしかったような気がする。

僕はオタクだから、「作品」の力を信じている。オタクだから、漫画やアニメには人を正しく導く力があると信じている。だけど僕の好きなものは、あまり売れない。売れないのだから、人に勧めても、良い反応ばかりが得られるわけではない。それでずっと勝手に孤独を感じていた。今でも感じている。
 でも、「一人じゃないな」と思える時がやっぱりあって、そんな時に本当にすがすがしく、生きていくことを完全に肯定できるような気分になる。
 自分は一人じゃない、孤独じゃないと想い続けるために生きている。みんながそう思っていたらよりよい。

2013/03/12 火  知り合いなん?

 有名人が死んだとき、泣いたりする人がいますが、
「知り合いなん?」っていつも思います。
 僕にはそういうタイプの想像力が欠けているので、
 よくわかりません。

 若くして死んだようならショックですが、
 いい年で死んだなら「あー、もうそんな年齢だったのか」と思って、
「残念だなあ、寂しいなあ」とか思います。

 たとえば今、ナインティナインの岡村さんが死んだら
 僕はとても寂しいです。
 もうラジオ聴けないのかーと思うと残念です。
 そのように具体的に、かつ利己的に思うでしょう。
 それだけだと思います。
 泣くとしたら、自分のために泣くでしょう。

 知り合いでもない人に対して「なぜ死んだ! おれを残して……」なんて言ったら、ちょっと変な人ですよ。
 僕にはそういう想像力はありません。
 そういう思い入れ方はできません。

 橋本治さんにしても、一度だけ講演会のあとサインをいただいたことがあるだけだから、もし亡くなっても(一度だけ言葉を交わしたことがあるので表現が「亡くなる」になりました)悲しいかどうかわかりません。ただ、サインをいただいた時のことを真っ先に思い出すでしょう。そして、「もしかしたら仲良くなれたかもしれない可能性」を思って、ため息でもつくと思います。
 お父さんやお母さんが死んだらしばらく息ができないくらい辛いと思います。

 有名人というのは僕にとってそういう距離です。どこか遠くにいて、生活している人です。
 ある有名人が死んで、「泣いた」と言っている人がいて、思いました。僕にはそういう想像力はないと。球技大会や卒業式で、盛り上がったり泣いたりできないし、ライブとか行っても我を忘れてギャーっとかできません。

 地震と津波でたくさんの人が死んだ時も、僕は驚くほど何も感じませんでした。自分は冷たい人間だなあと改めて思いました。
 そういう想像力がないのです。
 有名人が死んだときに悲しまないことと、見ず知らずの他人が津波に呑み込まれて悲しまないことが、同じかどうかはわかりません。たぶん同じではないです。しかしそこに、何らかの「想像力」の問題があるような気が、なんとなくしています。
 このことに向き合うのが僕のこれからの何年かの課題だと思います。

 たぶん、「あるかどうかわからないものを、あると断定して考えたり感じたりすることができない」ということだと思います。
 そこに何があったのか、わからないから、心が何も反応しないのだと思います。「失われた」ことはわかるが、「何が失われたのか」がわからないから、何も思えないのだと思います。そういう想像力がありません。

2013/03/11 月  気持ちを保存すること

「好きなアニメを好きで居続けるため、愛する気持ちを忘れないために、ツイッターのアイコンを好きなアニメの絵にして、アカウントの名前も好きなアニメにちなんだものにしています」
 と言っていた人がいた。

 携帯電話のアドレスを「yoshio_love@」とかにしちゃう女の子って、好きな人を好きで居続けるためにそういうことをするのかもしれないと思ってしまった。
 もちろん理由はそれだけじゃなくって、「好きな人といつも一緒にいたい」っていう気持ちの表れの方が強いとは思うけど。

 忘れないことや、気持ちを保存し続けること、ってのは
 なんのためにするんだろうか?
 そういえば僕も中学生くらいのころ、気持ちが変わってしまうのが嫌だった。熱くなったものが、冷めてしまうのが嫌だった。だから『ラブ&ポップ』という小説の、あの一節が心に響いた。
 それについては2008/12/11 少女「的」感性についてというのに書いてあるようだ。ぜひ、どうぞ。

 うーん、「変わりたくない」が少女の感性だとしたら、「変わってしまう」が少女の前提で、少女が大人になるとしたら、それは「変わることを受け入れる」ということなのかもしれない。
 大人の女にはもしかしたらそういうところがあるが、男にはない。男は「変わってしまう」が前提にないから、「変わりたくない」もクソもない。男のくせに「変わりたくない」と言うのは、戯れ言かもしれない。まあ、「男」にもいろいろあるから、わからないが。

 乱暴に男女でぶった切ってみるが、女はもしかしたら、どこかで「変わること」に対してウダウダ言わなくなるのかもしれない。ウダウダ言い続けるとしたら男のほうである。そしてそれはたいてい戯れ言である。
 そいで今日という日に戯れ言言ってるのはたいてい男だと僕は思うんですよね。
 少年(ガキ)って言ってもいいけど。
 あるいは少年でしかないおばさん。(参考文献

 男の「変わりたくない」は、「変わる」という前提がないから足踏みなんです。「何が変わるか」という問題が目の前にないから、ただ漠然と「変わりたくない」としか言えない。そういう人の言う「忘れるな」には「何を」がありません。「何を」がないから空っぽです。なんで「何を」がないのかといえば、もともとそこには何もないからです。
 変わらないのに「変わりたくない」と言う空虚さが、愚かな男の典型なのです。愚かな男は、何もないところに何かがあると思いたがります。それで何もない場所に、何か適当な、気取った言葉をでっち上げます。見栄えのいい言葉を。そういう言葉や、人間のことを「中身がない」と言うのです。

2013/03/10 日  からあげ屋フォーエヴァー

 東中野と落合の間にからあげ弁当屋さんがあった。
 そのお店は、もと倉庫だった部屋を改装して居酒屋にしていた。
 表でからあげ弁当を売りながら、奥ではお酒を出していた。
 値段はとにかく安かった。張り紙がいちいちおかしかった。
 僕はすぐに惚れ込んで、通うようになった。
「変なお店を目指してるんですよ」
 と、たった一人でお店を回していたお兄さんは言った。
 僕はそのお店で初めてボトルを入れた客だった。
 たくさんの人を連れて行った。
 ところが3月10日の日曜日に閉まると言う。
 同じ通りの、ネパール人がやっていたカレー屋もいつのまにか閉まっていた。
 閉まらないかもしれないとお兄さんは言った。
 でも閉まるんだろうと僕は思った。
 どのみち今の気分はさみしいのである。

2013/03/09 土  ゆっくりと(夜)

 何も意味がなかったから寂しくなった
 意味のなさに直面するのは元気がないからだ。
 元気のないときには意味がほしくなる。
 本当に元気がなかったのだ。

2013/03/08 金  つぶあんとこしあん

 嫌な気分になるのは嫌だ。
 こころもちをきれいに大きくもたなければいけない。

 僕は漫画やアニメ、イラストに関していえば
 丸い顔が大好きである。
 カクカクしたのはあまり好きではない。

「絵が下手な人は丸顔を描きがち」と言う人がいたが
 だからといって藤子不二雄は絵が下手というわけではないのである。

 理屈ならいくらでもつけられるのであんまり考えすぎないほうがいいとそこで僕は思ったのであった。

 別に僕は何も憎んじゃいない
 はずだった。
 自由を奪う悪者に対して怒りを持って
 生きていると
 いつの間にか憎しみのようになる
 その憎しみがまた何かから自由を奪う力になる
 奪われた自由を取り戻そうとするのは
 なぜか「奪い返す」という言葉になるのだ。
 不毛である。
 誰かが何かを奪った、そうしたらもう
 奪い合いにしかならないのだ。

 奪われても与えることから
 と晩年に歌った歌手は26歳で死んだ。

 それが理想だということはわかっているのです。
 奪われたら奪い返したほうが楽だしスカッとする
 だけども僕らはもうそんなばからしいことをしている時間はない。

 奪われたものをふたたび手に入れるには
 もう作るしかないのだ。
 奪われたら泣きながら諦めるしかないのだ
 それが人生なのだ。
 子供が死んだ、生き返らせることはできない。
 新しく子供を作っても、その子供は前の子供ではない
 しかしその子供を特別に愛する。
 泣きながら笑いながら
 生きていくしかないのである。
 憎んでいる暇などないのだ。憎しみは暇人の感情だ。
 そんなの十年でも二十年でも前から
 わかっていることなのに遠いから人は選ばない。

 それにしても奪っていく悪者を許すことはできない。
 やはり石を持って僕は戦う。
 奪おうと思ってはいけない
 もう奪われないために戦う。
 自分の魚を食うために戦う。
 奪われた魚はもう泣いて諦めて
 泣いて諦めるしかないから今日も
 泣いて諦めます。

2013/03/07 木  眠る周期

 自分が眠りすぎるには法則がある。
 眠る。
 だいたいどんな時に眠りすぎてしまうかということは
 だいたいわかるが
 眠りすぎる時には理屈っぽいことは考えないから
   あと一歩のところでわからない。

2013/03/06 水  授業がしたい

 とは僕も思います。
 最近はひろりんこくんがhtmlの世界に帰ってきてくれたのが嬉しいです。cotonecoさんも相変わらず更新しています。僕を含めた三人は、世代は違いますが同じ高校出身です。(まあ言っても問題はないでしょう。)まあそれはそれとして、彼らがhtmlでよい文章を書いてくれているのが僕は本当に嬉しいです。3月3日のひろりんこくんの、きゃりーぱみゅぱみゅさんに関する文章は、ぜひこのページを読んでくれている方は目を通してみてほしいです。最近の彼は本当に僕みたいな書き方をしていますが、ちゃんと人に伝わる文章を心がけると、こういうふうにしかならないのかもしれません。だから彼が僕みたいであるのと同時に僕が彼みたいだということでもあります。橋本治さんみたい、って言っても別に間違いではないと思います。

 僕は授業がしたいです。しかし僕は学校で授業をするということを今のところは選択していません。学校の外で何かできないもんかと考えています。
 その一環がこのサイトであり、おざ研であり、同人誌を作ることです。
 もちろん、自分が常に「先生」であるというつもりはありません。先生の定まっている授業が学校の授業ですが、そこから離れれば「先生の定まっていない授業」も成立するような気がします。
 遠くない将来に僕がまた「先生」としてどこかに定まる可能性もけっこうありますが、今のところは、「そうでない存在」を模索しています。
「先生の定まっていない授業」は、「誰かが先生である」のかもしれないし、「誰も先生ではない」のかもしれません。
「教える」という現象はそこにはないかもしれません。
 それでもいいような授業はどこかにないだろうかと考えています。
 もちろんあると思っています。
 自分はある程度そういう存在だと思います。
(そして多くの僕の友達もまた、そういう存在です。)
 わからないのは、これをどのように展開させていくかというところです。

 わかっているのは、ひろりんこくんやcotonecoさんも「ある程度そういう存在」だろうということです。
 だから僕はうれしがっています。
 さらにもっと、こう……どうにか。はい。

2013/03/05 火  愛知県

 大戸島さんごさんお誕生日おめでとうございます。
 ビールが30円で飲める店があるんですよ。
 ビールだけじゃなくって、ハイボールと各種サワーも30円。
 で、飲んでみるとけっこうちゃんとしてる。偽物や、薄めてるのじゃ、たぶんない。
 大学の先輩がそこで飲んでるっていうので、ちょうど近所にいた僕は行ってみました。
 ビールは30円だけど、席料(お通し付き)が400円。そして一人最低一品の注文が必須。僕が着いた時には先輩はすでに二品目を注文していたので、僕は何も頼みませんでした。
 その先輩は同郷(県が同じで市が違う)ということもあって、長らく仲良くさせていただいております。
 隣の席には男女が座っていて、二人では到底食べきれないであろう量の料理を頼み、その半分以上が手つかずで残っていました。
 男女が席を立ち、背を向けた瞬間、僕らは隣の席から残飯をすべて取りました。
 十秒くらいして、店員さんが隣の卓を片付けに来ました。
 僕たちはとてもおなかいっぱいになりました。
 先輩は酒を五杯、僕は三杯飲み、会計は二人で1800円ほどでした。
 本当は、その男女が「よかったら食べてください」と言ってくれたから遠慮なくいただいたのです。

2013/03/04 月  レベル上げ

 そろそろ、久々に自分とでも戦うか-。
 今なら勝てるかもしれない。

2013/03/03 日  娯楽をにくむ

 僕が憎んでいるのはたぶん娯楽です。
「楽しい」「面白い」「気持ちいい」がゴールになるのが娯楽です。
 それらが出発点や通過点であるには良いですが、終着点になってしまうとよくないです。

 僕は十代の頃は人並みにテレビゲームをやっていましたが、今はしていません。今しても、娯楽にしかならない気がするからです。逆に、娯楽を超えた何かを期待できるなら、ゲームをするかもしれません。
 では当時、僕はゲームから娯楽以上の何かを受け取っていたのかといえば、わかりません。そりゃ、何であれ多少は受け取っていたはずですが、費やした時間に見合うものであったのかどうかは不明です。ただ、『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト2~5』『ファイナルファンタジー6』といった作品からは、多大な影響を受けています。また、オタク的教養を手っ取り早く深めてしまったという点で、『スーパーロボット大戦』シリーズも無視はできません。
 しかしその他の多くのゲームは、今考えてもさして意味があったような気がしません。もちろんまったく意味がなかったわけはないでしょうが、もっと別のことに時間を使ってもよかっただろうとは思います。ただ、後悔しているというほどではないです。ゲームに関して今こうしていろいろ考えることができるのは、人並みに(あるいはそれ以上に)やってきたからだと思うので。基本的には意味を意味たらしめるのは未来の自分の仕事です。

 僕がプレイしてきたゲームの大部分は、「娯楽」どまりだったように思うわけです。塵もつもれば山となると言って、娯楽だって積み重ねれば意味になるのでしょうが、程度の問題です。ちょっと無駄が多かったような気がします。少なくとも僕にとっては。
 そう、それは人によってまちまちです。僕の親しい友達でゲームに一生をかけているような人が二人ほどいて、その人たちにとってゲームをやることはほとんど生きることに等しいのかもしれません。それを否定するつもりは毛頭ないです。彼らにとってはたぶん「楽しい」「面白い」「気持ちいい」はゴールではないからです。彼らはおそらく、プレイしたすべてのゲームを良くも悪くも人生の中に取り込むことができます。だからこそゲームが好きだと言えるのでしょう。きっとだからこそ僕は彼らと仲良くできるのです。
 人生の中に取り込むことができず、ただ「楽しい」「面白い」「気持ちいい」だけを求めてゲームをするのなら、それは「娯楽」にとどまります。
 野球観戦が好きな人の中には、よく「野球で言うと」をする人がいます。人生の場面をなんでも野球にたとえてしまうのです。こういう人は野球観戦という趣味を人生の中に取り込んでいると言えるのかもしれません。僕の友達で漫画やゲームや歴史を好きな人がいます。彼と話していると、それらのジャンルからのたとえ話がよく出ます。「寄生獣で言うと」みたいな。自らの血肉として、人生に生かしているわけです。

 食べものでも、「おいしい」だけに執着すると、ともすればほとんど毒みたいなものを好んで食べてしまいます。本当においしいものというのは身体にもいいもんだと僕は思いますが、有害かもしれないような添加物のたくさん入った砂糖菓子やスナック菓子やインスタント食品や、脂まみれのラーメンなどをばりばり食べてしまうような人はたくさんいます。そういう生活を続ければ健康は損なわれます。ただそれだけならまったく害悪です。娯楽というのはそういうものではないのかと僕は思います。
 ラーメン好きだって高じれば哲学になるでしょうし、僕のいとこはスイーツが好きでスイーツライターになって本まで出しました。「おいしい」をゴールにしないで、その先に進もうとするとそういうふうになります。これは娯楽の域を超えます。

 僕にとってゲームは、基本的には娯楽どまりでした。95年以降はアニメもだいたいそうです。映画もややそうかもしれません。漫画は娯楽を超えるので、どんな作品でも人生に取り込めます。
 そういうことを見極めることが大事なのかもしれないです。
 自分にとってこれは娯楽なのか、そうではないのか。
 どのくらいそうではないのか。
「楽しい」「面白い」「気持ちいい」の先にあるものは何か。
 偏見ですが「NO MUSIC, NO LIFE」とか言ってる人たちはそういうことをちっとも考えていないだろうなと勝手に思っています。
「人生に取り込む」ということと「人生が飲み込まれる」ということは違いますが、それに気づけない人がひょっとしたら多いのかもしれないとも思います。

2013/03/02 土  邪悪と戦う戦士たち

 魔王オディオというハンドルネームの友達がいる。オディオとは憎しみという意味だとのこと。その彼が「僕はオディオの称号をジャッキーさんにお譲りしますよ。自分は相当憎しみに満ちた存在だと思っていましたが、ジャッキーさんの憎しみ量にはとても敵いません。ジャッキーさんの前で自分がオディオを名乗るのはおこがましいです」というような、だいたいそんな意味のことを言っていた。僕はそんなにも何かを憎んでいるように見えるのだろうか。確かに「尖りすぎた顎」に対する憎しみは誰よりも深い。手塚治虫先生や藤子不二雄先生の絵も、源氏物語絵巻も、日本で描かれてきた美しい顔はすべて丸顎なのに、エヴァンゲリオン的なものに出てくる人間の顎はほとんど直線のみで構成されている。そして今ではそういう尖った顎が主流のようである。この状況に対しての僕の憎しみは本当に深い。このことに象徴される、95~97年くらいから登場し始めた新しい文化への憎しみは本当に深い。
 しかし、ビートたけしさんが言っていた「振り子理論」というやつはたぶん正しくて、憎しみが激しければ激しいほど、たぶん愛情も深いのである。それらは表裏一体だ。95年以前の文化に対する愛が深いからこそ、以降のものに憎しみを燃やしてしまうのである。

 暮らしていて、邪悪な人間に対する憎しみは深い。
 僕はきっと人一倍深い。「まあ、個人の自由だよな。人それぞれだよな」とか言って、許容してしまうことが一切ない。厳しすぎるほど厳しい。僕がもし本当に「みんなからモテたい」と思うのだったら、真っ先にこの厳しさを捨てるだろう。歪んだ優しさを持つだろう。それをしないから、僕は大好きな人たちからようやく嫌われずに済んでいるのかも知れない。
 邪悪に対しては人一倍敏感である僕は、邪悪に対して敏感である人が好きだ。自分もきっと相当に邪悪であるし、まったく邪悪さのない友達だってもしかしたらいない。だから、邪悪に敏感であるということだけが、信頼の礎なのである。
 邪悪に敏感であって、「本当は邪悪でありたくない」と思っていて、「できるだけ邪悪にならないようにしよう」と努めているような人は、すぐれて美しい。たとえその人の中に邪悪のかけらがたくさん埋まっていても、それらを一つ一つ取り除こうとしているならば、その態度を心から信頼したい。そういう人が僕の周りには確かにいる。そういうことをまったく意識せずに行っている人もいる。
 毎朝一緒に、河原のゴミ拾いをしているような感覚だ。
 とても急いでいるとき、ポケットから紙切れが落ちたら、ひょっとしたら僕はそれを拾わないかもしれない。それは邪悪である。おそらく拾うと思うが、正直あんまり拾いたくはない。面倒だし、急いでいるからだ。しかし「拾わないのは邪悪である」という声が聞こえるから、たぶん拾う。
 自分の中に常に邪悪はある。その邪悪を「邪悪だ」と指摘するのは自分である。その邪悪と戦うのも自分である。邪悪さを減らすには、そういう自分を作っていくしかない。

 やや脱線するが、原則的に僕はモテたい。恋人がいてもモテたい。でも恋人がいる時にモテても原則的に意味がないし、そう願うのは少々邪悪である。邪悪であるのはわかるが、しかし原則的に僕はモテたい。この矛盾はなんだ? と考えていくと、実は僕はべつにモテたくなどないのだとわかった。ただ好かれたいのである。僕は「付き合ってください」とか「(恋愛的な意味で)好きです」とか言われてもあんまり嬉しくないし、困る。
 たしか中学三年生の時に、仲の良かったクラスメイトから「好きです付き合ってください」を言われた。まだそういう気持ちの育っていなかった僕はただ戸惑った。「いや、そういう気はない」というようなことを返したら、「なんで?」と言われた。ツキアウトカワカンナイヨーって思っていた僕は、「なんでもくそもねーんだよ」と思いながら、「いや、あの、そういうのよくわかんないから、だれともつきあう気とかなくてうんぬん」みたいなことを言った。そしたらその子は「わたしのどこがいけないの?」と詰め寄ってきた。めちゃくちゃ困った。中学生の男子というのはそういうもんなのだ。しかし断言するが、そういう男子のほうが確実にいい男子なので、そういう男子がそういう態度を取ったら女子はむしろ喜んだほうがいいと思う。「おお、いいぜ付き合おうぜ」なんて簡単に言う男子は、マジでろくなもんではない。たぶん高校生くらいまではそうである。
 話がどんどん脇道に逸れていくが、「付き合いたいと願う」女子と、「付き合うとかわかんない」男子とは、どっちも極端なのである。どちらかがどちらかに合わせる必要はない。男子は無理して女子と付き合う必要はないし、女子は「わかんない」と言われて絶望する必要はない。そういうことをすれば遅くない崩壊は目に見えていて、悪くすれば貴重な何かを犠牲にするだけに終わる。そうではなく、それをきっかけに自分が極端であることを自覚すべきである。そして、自分と相手の間にあるものを見つめてみるべきである。(なんかこのへんのことはちらりと『おなちん』(二年くらい前に書いた小説)に書いたかもしれない。)

 僕は好かれたいが、恋愛を持ち出されると困る。僕は「恋愛など無い」という立場だし、恋愛ができるのは原則的に一人とだけである。そんな貧乏くさい前提のもとで人間関係を作っていくのはばかばかしい。僕は無意識に「あーモテたいわー」とか言ったりすることもあったが、それはちっとも一般的な「モテたい」ではなかったようだ。それは「好かれたい」であり、「その上で友達になりたい」だと思うのである。「もっと友達ほしいわー」である。(きれい事を言っているみたいなので補足しておくと、もちろんもっと直截に、「性的なことがしたいわー」だったかもしれない。また、当たり前のことだが邪悪な人間に好かれてもちっとも嬉しくない。邪悪な人間とはあまり友達になりたくないからである。)
 なぜ人は「モテたい」と思うのか? それは大いに「自尊心を高めたい」からである。「自分はたくさんの人からこんなに好かれている、つまり自分は価値ある存在なのだ」と思いたい。僕にもそういうところはある。ただし、邪悪なことをしてモテても、自尊心など高まらない。自分を不当に偽ることも邪悪である。自分を不当に偽ってモテても、自尊心など高まらない。普通の人間はそうである。邪悪なことをして自尊心を高めることができる人間こそが、本当に邪悪なのである。
 僕は自分を不当に偽ってモテても自尊心が高まらないことを知っているので、自分を不当には偽らない。正当に真って(造語)、なんとかモテたいと思う。好かれたいと思う。認められたい、褒められたい、ひいては友達がほしい。寂しいから。孤独だから。僕はずっと孤独である。孤独であることがすべてのエネルギー源である。はたから見ればあまり孤独には見えなかろうが、孤独ではないと思ってしまった瞬間に僕のエネルギーはすべて尽きるのである。だからいつまでも孤独である。昔よりは孤独ではないけど、やはりまだ孤独だと思っている。孤独だから人を集めるし、孤独だから何かを主張するのである。

 正当に真りながら、好かれるというのは、非常に難しいことである。それにはとにかく「自分」の邪悪さを取り除いていくことだ。邪悪に対してとことん敏感になることだ。
 そういうことをしていると、同じく邪悪に敏感な人たちから好かれるはずなのである。自分がそうなのだ。邪悪に敏感で、邪悪さに立ち向かおうとしている人が僕はとにかく好きである。
 一緒に邪悪と立ち向かう、一緒に河原のゴミを拾う、なんてイメージを考えると、なんかもう、自尊心とかあんまり関係がない。「仲間がいるすばらしさ」というほうへ行く。実は自尊心を高めようとするのは邪悪方面の考えなので、こっちのほうが健全である。
 だんだん見えてきた。僕は「モテたい」なんて言葉を使うべきではなかったのだ。「仲間がほしい」と言えばよかったのである。そう言ったほうが伝わりやすい。一緒に邪悪と戦いましょうと呼びかければいいのだ。(実際そんなことをしたら市民運動の人たちみたいになっちゃうけど。)

2013/03/01 金  内面と外面の話

 受験を終えた教え子がブログを開いた。
 この手(どの手かはうまく言葉にできないが)のブログは割とすぐに更新停止するケースが多いので不安だがとりあえずリンクした。僕が初年度に受け持った子の中ではキロ11くん(たまに掲示板に書き込んでくれる)と並んで見所のあった子である。
 彼女は開設して二つ目、三つ目の記事で受験について語っている。これが、僕がつい先日書いたこととかなり関連しているのでご紹介。

 結果的には、受験は彼女に良い影響をもたらしたと言えるだろう。彼女は彼女なりに自分と向き合い、自分を見つめ、自分を知ることができたようだ。

私は思いっきり何かに打ち込めたことがない。勉強についても、他人の目にはどう映ったかは別として、自分としては到底精一杯のことをしたとは言えない。そのくせいざ遊びとなると、「このままではバカになってしまう」というブレーキを作ってどこかで歯止めをかけていた。
そうやって余らせてきたエネルギーを、無為な妄想、空想に費やしては、目標ばかりを高く設定した。結局その目標を達成できず、その度に「残念だったね、まあ次があるよ」という言葉で今を薄めてきた。

塾にもずっと通った。いや、通わせて頂いていた。小学校一年生からずうっと通わせて頂いていた。
塾のある生活が当たり前であったが故に、本来は学校の勉強を全うすべきで、塾は特別なもの、という意識に欠けていた。何が大切で、何がそうでないか見抜く力を失っていた。

 彼女の「勉強」との付き合い方は、僕とは完全に反対であったらしい。それにしても、受験を終えたばかりでここまで自分でわかってしまうのはさすがに立派だ。
 ここで、「塾にばっかり通っていたから自分でやる力もつかなかったし、受験に対する動機付けも充分でなかったのだ」という論調で長い文章を書くことは容易にできる。それはたぶん真実であろうが、そんなことは本人もすでに考えているか、そのうち考えるだろう程度のことなので、別の角度から少しだけ書くにとどめる。
 僕が気になった表現は「他人の目にはどう映ったかは別として」だ。
 直観だが、彼女の受験勉強に対する「バランス感覚の不足」を象徴する一節かもしれない。
 彼女は、他人の目にはどう映っていたと感じているのだろうか?
 また、彼女のイメージする「思いっきり何かに打ち込」むことや「精一杯のこと」とは、どのようなものなのだろうか?
 そのあたりを、腰を据えて考えてみてもいいと思う。

 基本的には、他人の目に映る自分の姿は「外面」的なものである。
 自分の目に映る自分の姿は「内面」的なものである。
 自分の目にかかれば、内面は容易に外面を覆い隠す。
 他人の目にかかれば、外面は容易に内面を覆い隠す。
「自分の目」と「他人の目」との峻別について精確さを失うと、内面と外面はごっちゃになって、いつの間にか問題の本質を覆い隠してしまう。

四月からは大学生活が始まる。
できれば、その中で本当に自分が打ち込めることを見つけたい。好きなことを見つけたい。夢中になれることを見つけたい。
受験勉強というジャンルから解放されて、自分で興味をもった政治学という科目を、今度こそ全身全霊を込めて学ぶことで成長したい、と思う。
ということを戒めとしてここに記しておくことにした。

 彼女はこの文章を以上のように締めくくっている。
 たぶん彼女は「未来」を見つめ過ぎている。
 そして、「外面」と「内面」がごっちゃになりすぎている。
 外面とは、物理的なものをさし、内面とは、精神的なものをさす。
 この二つをちゃんと分けることができないと、混乱するだけだ。
 彼女くらい賢ければ、そのうちうまくまとめることはできるだろう。ただ、それがかなり遅くなってしまう可能性はあるな、と僕は思う。
 たぶんわけがわからないと思うが、僕はなんだかそのように感じている。
 もちろん、文章だけ読んだところ、っていう話だけど。

メモ
 ラーメンと性欲
 伊集院と糸井(と秋元)
 けんか両成敗?
 受験
 娯楽について

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