少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2006年11月27日~2007年3月  2007年4月前半  2007年4月後半  TOP
2007.04.15 毎月の環境学会々報創刊号、新歓
2007.04.12 [大長編]警察に踏み込まれて死にたくなる→弥勒菩薩としてのスネ夫→小沢健二の「神様」
2007.04.10 ウーチャカ大放送のテーマ
2007.04.09 フジッコーズ・ギター論~フリッパーズ・ギターと藤子不二雄~
2007.04.08 見えなくなるまで、僕は見送る。
2007.04.07 日記をつけるということ
2007.04.06 [レポ]『悪魔のいけにえ』と滝本竜彦トークショーと魔界塔士Sa・Ga
2007.04.05 [レポ]THE CORNELIUS GROUP SHOW (渋谷AX)+立川談志とMGMミュージカル
2007.04.04 神様とは
2007.04.03 毎週ネットラジオする宣言
2007.04.02 ロックは初期衝動!~KENZI、INU(町田町蔵)、町田康~
2007.04.01 花見 人はなぜ桜を見て涙するのか
2007.04.01 エイプリルズの話

2007.4.13(金)~15(日) 夜中の牛乳を濃いホワイトにして

 しっぷーどとーの三日間。
 ほとんど家にいなかったがために更新できませんでした。
 帰って2時間寝てまた出かけるといった風で。
 ところでしっぷーどとーという言葉をGoogleで検索してみたら
 見事に吾妻ひでお先生の『不条理日記』が一番上に来て嬉しかったよ。


 ●13日
 田町の某編集プロダクションに行ってフリーペーパー『毎月の環境学会々報』の仕上げ&印刷&折り。
 A4を四つに折ってハガキとかフライヤーと同じ大きさにしました。全8ページ。
 かなり綺麗なデザインになって、内容もなかなか。みなさん是非手に入れてくださいねー。
 特別に表紙だけ公開。


  


 詳しい宣伝は仮ホームページで。
 これを作るのに田町で12時半まで作業。
 それから高田馬場の部室(ダミーサークル笑い飯主催O氏の自室)へ行って
 できたての『環境月報』とcali≠gariを焼いたCD-Rをプレゼント。
 二人で翌日(新歓企画「裏おのぼりさんツアー」)のためのネタ出し。
 なぜ卒業生が二人して新歓の企画を練っているのだろうかという疑問は愚問。
 それがダミーサークォリティ。
 あとレジュメ作ったりして、朝6時くらいに寝る。


 ●14日
 10時過ぎに起きてネタのための買い物でハンズ行ったりブックオフ行ったり。
 まぁ新歓の話は、写真が出来上がってからまた詳しく書こうかな。
 このサークルでは僕はいつも一番気の狂ったことをしているので
 ここに書くのははばかられるなぁ。
 この日もメイド服着て桜田門と議事堂前を闊歩したり。おっとここまで。
 後輩の一言:
 「ジャッキーさん、言ってくれればやおきんこちゃんの衣装持ってきたのに!」

  ※やおきんこちゃん:
   うまい棒祭りで誕生したよくわからないキャラクター。メガうまい棒早食いを得意とする
   作家・架神恭介さんのブログでも参照してください。
   …いま「やおきんこ」でググったらこのブログが最初に出てきたよ。恐ろしい。
   っていうか架神さん!なんで僕だけ目線がないんですか!!肖像権が!!いやむしろ面白いけど。

 新歓を3時くらいで切り上げて(完全燃焼)、渋谷へ。
 (検閲削除)

 ●15日 
 イベントが22:00に終わって、それからご飯食べて、24:00から新宿駅で労働。
 この仕事が実に緩くて、ニートのS氏から誘われてやっているのだが、
 この日はまず1時半まで待機。1時半から2時まで駅の中をぷらぷらして、5時まで待機。
 待機中はニート氏と学術的で衒学的でオタクで馬鹿馬鹿しいことを話すのが非常に楽しい。
 で5時くらいから30分ちょいぼんやりして仕事終了。
 でも家に帰ったのが8時前。まぁいろいろとご飯食べたり。
 11時半くらいに再び家を出て労働を。
 これはまた別の人から紹介されてやってみてる大工の仕事。
 要らない技術がいっぱい身につきます。本棚買ったとき組み立てるのとか早くなりそう。
 解体は楽しい。ストレス解消にも良い。これは14時から19時半くらいか。
 でも帰宅が22時くらい。何やってたのかというと
 19歳のにーちゃんと自転車について語ってた。
 今度二人で箱根越えするかも。
 …って、「自転車旅行してみたい」ってくらいの未成年の初心者に
 いきなり箱根を経験させるのはほとんど鬼。現人鬼。

 で25000円。
 しかし大工って、ヒゲとか長髪が多いなー。面倒なのかな。
 粉塵とかで身体悪くしそうだから早めに辞めよう。
 でもまぁとりあえず半年くらい、10月に慶應に入るまではやってみようかしら。
 身体動かさないとまずいしね。

 3日間ほぼノンストップで働いたり遊んだりしていたような気がする。さすがに若干疲れたけど、
 0時から4時くらいまで寝て、なんだか眠れなくなってしまったので日記書いてます。いま16日の朝。
 うー宇宙船サジタリウスが見たい。


 いやー。それにしてもこの日記は多重人格のように色んな要素がごっちゃになっているなあ。
 そうだ、THE WHOでも聴こう。
 なんかでも最近は渋谷系的なことばっか書いてるかも。本当は嫌なんだけど。
 もっとごちゃごちゃにしていきたいな。
 読むほうとしてはブログかなんかにしたほうがカテゴリ別に読めていいのかな?どうでしょう。
 適当に意見くれると嬉しいです。
 この真っ白いバックにフォントサイズ3(なんか古い言い方だな)で書くスタイルが好きな人いるかなー。
 7年間基本的に変わってないからすでに伝統だよね。

2007.4.11(水)~12(木) 落語天女コレクターズおゆい

 この日記は、長くなります。
 がしかし、気合い入れて書くので、よんでください。
 1週間ぶんくらい書いたんで、しばらくこれ、読んでてくださいね。
 いや更新はするけど(たぶん)。

 目次
 1 ゴールデン街の一夜
 2 早朝、マクドナルドで
 3 区役所とブックオフ
 4 警察とチェイス
 5 警官、家に上がり込む
 6 警察についての考察(岡林信康『おまわりさんに捧げる唄』)
 7 布団のなかの絶望
 8 弥勒菩薩としてのスネ夫 ~ドラえもんの人生哲学~
 9 「神様」とはなにか?
 10 小沢健二の「神様」観


   1

 昨夜は新宿ゴールデン街のとあるバー(通称:あひる社)で夜通し飲んでいた(珈琲とか)
 音楽ライターのS氏が僕の持っていた浅羽通明先生のニューズレター「流行神」を見て
 「お、流行神だ。懐かしいなあ」と発言。なんてことだ、
 こんなところにかつての浅羽氏のファンがいるなんて。
 S氏いわく、
 「浅羽通明は大好きでよく読んでたよ。でも、浅羽通明なんか読んでたら
  どう考えても女の子にモテないような気がして、すっぱり読まなくなった」
 モテたくて…か。いや僕は反例になりたい。
 ほかに、初見のお客さんに「牛乳好きですか?」と問われ
 好きだと答えると「僕ァねぇ、牛乳がネェ、大好きなんですよ!」と熱弁を振るわれる。
 「やっぱり十勝ですよね!」と。「しかし十勝は、小田急OXでしかほとんど売ってないのですよ!!」
 しらんがな、と思いながらもそうですよねそうですよねと相づち。
 その後も延々と牛乳についてフワフワした解説を聞かされた。
 「牛乳はねその存在が良いんですよ牛乳が牛乳たればその日はもうオッケーっていうか云々」
 あとはJETHRO TULLやTHE WHOが出ているビデオを見たり
 真夜中にコンビニ行ったりして政治とか宗教について、
 あるいは音楽について語っていた。
 「THE WHOのリズム隊はやっぱり凄いね」
 「小沢健二の『犬が吠えるがキャラバンは進む』も、リズム隊が肝だ」
 「変拍子を牛耳っているのはリズム隊だから」

   2

 そんなこんなで夜は更けて、早朝に店を出る。
 朝イチで役所に行こうと思っていたので、5時から9時くらいまで
 帰り道にあるマクドナルドでひたすら『流行神』のバックナンバーを読みまくる。
 死ぬほど面白い。
 そうか、人間宣言は虚妄だったのか。
 (ちなみに「虚妄」は中川八洋用語である。)

 な感じで感激して読んでいると
 途中、日雇い労働者風情の若者が店長を叱りつける光景が見られた。
 発端はちょっとしたミス(ストローつけ忘れたとか、そんなん)
 「だいたいよぉ“ちょっと待ってください”ってなんだよ!
  なんでテメェが俺に対してタメ口キーてんだよ、バイトじゃあるめぇしよぉ
  俺とオマエとどっちが偉いんだよ言って見ろよ
  俺は金払って来てんだよ、朝っぱらから金払って気分悪くされちゃたまったもんじゃねぇよ
  これが夜とかだったら我慢して家帰るけどよ、今何時だよ朝だよ朝から気分悪いだよこっちはよ
  テメェ店長だろ?向いてねぇよさっさとやめちまえよ。
  ハイじゃねぇんだよオイなぁ誠意見せろって言ってンだよ云々かんぬん」

 語尾の9割以上が「よ」だったのがちょっと面白かった
 格差社会というのはこういうことなんだと思った。
 ここで問題。
 この文脈での「格差」というのが何を表すのか、思うところをメールでください。

   3

 さてマクドナルドを出て区役所へ。
 住民票を移したり年金についての話を聞く。
 学生になれば年金は免除。手続きもまぁ面倒じゃない。
 慶應通信課程に入って免除すればすぐに元が取れることが発覚。
 将来年金もらえなくなるけど。
 だって手塚先生や藤本先生や石ノ森先生みたいに60そこいらで死んだら
 元も子もないわけだしね。

 ちょうど10時過ぎたから近くにあるブックオフで本を物色。
 トイレ行きたくなったので2冊だけ買って帰る。

   4

 ここからが本題。

 家まであと数百メートルばかりだというときに
 警官2名とすれ違う。
 嫌な予感がしたんだけど案の定、
 追いかけてくる。
 真っ昼間ですぜ?
 無灯火も信号無視もしていない、ただ走っているだけで追いかけてくる彼ら。
 そんなに怪しいですかねー。
 他にも自転車乗ってる人たくさんいたのに。
 こんなに好青年なのになぁ。服装もちゃんとしてて、いい男なのに。もう。

 本気でトイレ行きたかったし、家もすぐそこだから、
 わざわざ止まって職務質問されるのは嫌だった。
 どうせ防犯登録を照会するだけなんだし。
 「あ、そうだ。家の前に自転車止めて、トイレ行ってる間にやっといてもらえばいいんだ」
 とナイスアイディアが思いつき、
 少しだけスピードを速めて家の真ん前で追いつかれるように調整…
 しようと思ったら、こっちは少しスピード上げただけなのに
 向こうはぐんぐん加速してくる。(なんか音とか空気感でわかるのだ)
 これじゃすぐ追いつかれちゃうよ。
 「ごめんなさい、うんこしたいんで。家すぐそこなんで、家の前でお願いしますよ」
 と言ってみたのだが、
 「今すぐ止まりなさい!」と来る。聞く耳もてって。
 若干かちんときた僕はここで悪いクセが出た。
 「なんぴとたりとも俺の前は走らせねぇ!」とか、
 誰も元ネタがわからぬであろう『F-エフ-』のせりふを叫びながらペダルを踏む。
 「加~速する~~♪」なんて歌って。
 向こうは「待て!こら!」と大声で叫んで(ご近所に聞こえるじゃないか)追いかけてくる
 必死のようす。
 したら見事にカーブのところで警官がスリップ。
 あちゃー。
 これはまずい。
 怒られそう。
 200メートルを13秒で走り抜ける僕のスピードについてこられなかったと見える。
 言ってる場合じゃないや。
 でも気にせず何食わぬ顔で自転車を止め、落ち着いた感じで鍵をかけ、
 「じゃ、防犯登録照会のほう、お願いしますね」って言って
 家に入ろうとするとウデを掴まれる。
 なんだこやつ、とムッとして振り返ると、
 悪いことにそのとき、向かいのおばちゃんとか、近所の人が何人か外に出てたんだよねー。
 ガーデニングか、買い物に行くのかしらないけど、バッドタイミング。
 恥ずかしくて、一刻も早く家の中に入りたくて、構わず振り切って(感じ悪いな)
 ドアを開けて家に入ると、
 警官も中に入ってくる。
 あれー。警官って無断で家の中に入れないんじゃないの?
 とりあえず僕はトイレ。

   5

 ベテランぽい警官と、若手の警官の二人組。
 若いほうは外で防犯登録照会やってる。ベテランは家に入ってきた。
 トイレから出ると若いほうも家の中に入ってきていて(また無断)
 呆れたというかもうあきらめの域。
 「ドアくらい閉めてくださいよ、ご近所さん見てるんだから」
 とこちらから言うと、しぶしぶドアを閉める警官さん。
 「身分証を見せなさい」
 「持ってないです」
 これは本当だった。だって、今住民票うつしたばっかで、保険証もないし、
 免許も持ってないし、学生証見せればよかったのかな。更新されてないけど。
 あるいは年金手帳とか?
 身分証持ってないってことになって警官がしめしめという顔をするのが
 非常に気持ち悪くて、吐きそうになった。
 ほんと、げっそりした。一瞬。
 面倒になったから布団に入って本を読むふり。
 しかも吾妻ひでお先生の『逃亡日記』
 若干狙ってます。
 
 でも、ここから。ここからですよ。
 ここから先はもう書きたくないし、思い出したくもないくらい。
 警察ってすごいね。
 家の中にあるあらゆるものに嫌疑をかける。
 たとえばホットケーキミックスの粉が箱から出して開封して洗濯ばさみで止めてあったら
 とりあえずなめてみるみたいなね。
 「ペロ…これは青酸カリ!」みたいな。バーロー。
 僕の自慢の自転車(盗まれたくないから家の中に保管してある)を見るや
 「防犯登録は?」
 「いや、してないです。ネットで買ったものなので。」
 「それじゃ、車体番号は?」
 「これはもともと完成車じゃなくてフレームから組み立てたものなので、車体番号は存在しません」
 と言っているのに、じろじろとなめるように見て、無造作に触って、しまいには
 がちゃん、とせっかく立てかけてあった自転車を倒してしまう。迷惑な話だ。
 「この自転車が盗品かどうかは、すべてのパーツを洗わないとわかりませんよ」
 と、うんざりして僕が言うと、さすがに自転車は諦めたらしい。
 その後も家の中のあらゆるものに文句をつけ続ける警察。
 確かに小汚いけれど、本棚を見たら真面目な人間だってわかりそうなものだが。
 数百冊から千冊単位に及ぶ藤子不二雄コレクションを見たら
 「これは、失礼しました。ご協力感謝いたします」と言って敬礼して帰るくらいの
 そーゆー教育を施すべきなんじゃないのか?警察も。

 頭の中には岡林信康の『おまわりさんに捧げる唄』が回る。

 「あんたのやってることはまるで、
  くみ取り式の便所の仕組みをほったらかしにしておいて
  出てきたハエを一生懸命追ってるようなものさ」
 「チョウチョやトンボは待ってましたと捕まえられるけど
  トンビやカラスは平気な顔して抜けていく
  そりゃあそうだろ、犬が主人に噛みついたらえらいことさ」

 家のカギについてるメップル(『ふたりはプリキュア』より)と、
 十徳ナイフを見て、
 「きみ、これはいかんよ」と。

 「いや刃渡り的にはまったく問題ないでしょう。いちおう調べました」
 「銃刀法的には確かに大丈夫だが、軽犯罪法に引っかかる」
 「しかし、以前に警察官に相談したところ、これなら大丈夫と言われましたが」
 「とにかくこれは犯罪にあたる」
 「だってダイソーで売ってるんだからしょうがないじゃないですか」
 「とにかく。正当な理由なしに持ち歩いてはいけないんだよ」
 「自転車が壊れたときやビール飲むときに大活躍するんですよ。すごい便利ツール」
 「はやく支度しな」
 「?なんの支度ですか?」
 「光が丘(署)行くぞ」

 みなさん聞かれましたか!署に行くですって!
 善良な市民たる僕に、なんたる。
 まぁこういうのは任意同行だって知ってるから
 「いやだいいやだい」とゴネましたよ。
 そしたら向こうも折れたのか、(折れるしかないよな)
 「ここで取り調べするか?」
 それが妥協かよ!どっちも嫌だよ!
 だいたい取り調べってなんだよ!脅しのつもり?
 当然ゴネる。
 「いやだいいやだいいやだいいやだい」
 さすがに警官は「このわがまま太郎!」とは言わず
 (元ネタ気になったら夜麻みゆき『レヴァリアース』読んで)
 「じゃあ最後に、カバンの中身だけ見せてくれるかな?」
 もう、4キロくらい痩せた。なんなんだろうこれは。
 カバンの中にはもちろん何も危ないものは入っていない。
 「流行神」とか、役所でもらった書類とか。
 ブックオフで買った本が『不良少年』という題だったので、
 もし見せたら若干面白かったかもしれないけど。
 「あの、この本は焚書本ですかね?」なんつって。
 いや、治安維持法施行当時は
 スタンダールの『赤と黒』読んでただけで捕まったらしいから。

 少しゴネてみたら、
 「いやだいいやだいいやだいいやだ…」
 「なんだその態度は!」と態度が急変。豹変。
 お得意のアレだね。テクニックだね。
 すごんで見せればだいたいひるむっていう。
 めんどくさ。
 「でも、警察は僕が嫌だと言ったら勝手に中を見ることは許されないんだよね」
 「よく知ってるじゃないか。でも見せなさいと言うことはできる。見せなさい」
 「はぁ…。ま、何かの縁だから見せますよ」
 と、仕方ないからカバンの中身を全部出す。
 すると出した後にまだカバンの中をまさぐるベテランポリス。
 したら奥のほうから自転車用のライトが出てきた。
 ここでベテランポリス目を光らせ
 「これはなんだね?」と詰問。
 「いや、見ての通り自転車のライトですが」
 僕はわけがわからなかった。
 自転車のライトを持っていると罪になるなんて法律がいつできたのか。
 ベテランポリス、ヤングポリスに
 「ちょっと、これがさっきの自転車に取り付けられるかどうか調べてくれ」
 「うへ、もしかして盗品だと思ってんの?」
 「そういう可能性もある」
 「プロですね。でも取り付けられないですよ。それ、取付部分が壊れてるから」
 「いよいよ怪しくなってくるな。なぜそんなものを持ち歩いているんだ?」
 「ライトについてるフックで、服やカバンに直接つけるんですよ」
 「なるほど。苦しいが納得したよ」

 どこまでも、犯罪の可能性が多少でもある限り疑い続ける警察のプロ根性。
 ちょっと感心したのは事実。
 「さて。行くぞ」
 唖然。
 おそるおそる聞いてみる
 「どこにですか?」
 「署だよ」
 うんざり。もちろん再びゴネて結局行かなかったけど。

   6

 それで警官はいきりたって帰って行った。
 感情的にはならなかったまでも、終わりのほうは僕も相当に嫌な市民になっていたから。
 あれもこれも疑われて、気持ちのいいわけがない。

 布団に入って、いろいろ考える。泣いたりはしなかった。
 けど、静かに緩やかに絶望は布団のすきまから、シャツのすそから、
 穴という穴から入り込んでやがて頭蓋骨の内部を埋め尽くした。
 それは人類や社会に対する根本的な諦念だった。

 そういうものは、誰しも中学か高校くらいの時に感じるものであって
 僕も例に漏れずそうだった。
 でも普通の人はキャンディーズのマイクみたいに青春とともにそこへ置いて行くもの。
 そしてすべて忘れていく。
 あるいは「はしか」みたいなもんだ。
 だけど僕は今でも世界や人間を信じたいと思う心がどこかにあって
 それが破壊されるとすっかり落ち込み、ふさぎ込んでしまう。
 あきらめきれていないということ。あらゆることを。

 まず、この社会で保証されている安全や平和というのは、
 「秩序」というものに基礎を置いて成立している。
 そして秩序というものは、
 「他人を徹底的に疑う」ことを前提にして保たれている。

 その代表格となるのが警察という職業で
 彼らは市民が通常なすべき「疑いという行為」の大部分を請け負っている。
 警察が代わりに「疑う」ことによって、
 市民たちはいつもギョロギョロと目を動かして猜疑心を研ぎ澄ませる必要が
 少なくなる。
 まぁ、当たり前の話だ。

 単純な話、検閲や職務質問は
 実際に悪人を捕まえることもできるだろうし、
 犯罪抑止力にもなる。
 どこにでも交番があったり、警官がぶらぶらしているというだけで
 治安はあるレベルまで保たれる。

 そういう意味で警察は必要悪であって、
 彼らはその職業としての性質上、
 「どんなことにでも疑いの目を向ける」ということが強いられる。
 その疑いの度合い、つまり疑り深さが強ければ強いほど、
 世の中の秩序を秩序たらしめる力が強く働く。

 わかりやすく言うと
 警察がいっぱい疑わなければならないということは
 それだけ人びとが悪いことをする可能性が高いということである。
 人間が性質上、悪だから、警察は市民の安全のために疑わねばならん。
 つまり警察という存在は、これも当たり前のことなんだが、
 性悪説を肯定する際の根拠になる。
 警察が働けば働くほど、疑えば疑うほど、性悪説は強化される。
 警察が働けば働くほど、疑えば疑うほど、人間は悪い生き物だということになる。
 考えてみれば当たり前のことなんだが、今日のできごとで実感させられてしまった。


 岡林信康が『おまわりさんに捧げる唄』の中でこう歌っている(っていうかサビ)。

 「おまわりさん あんたがまじめに働けば 働いただけ
  世の中悪くなる どんどん悪くなる 気がする」

 これは、さっき言った
 「警察が働けば働くほど人間は悪い生き物だということになる」と呼応する。
 岡林が僕と同じことを考えたのか、別の根拠を持っているのか、
 それとも「気がする」とあるように本当に単なる直感なのかはわからない。
 高校生の時に初めて聴いたときも激しい衝撃を受けたが、
 今になってもう少しこの曲の意味がわかってきたような「気がする」。

   7

 こんなことを考えていて
 人間というものに絶望を覚えた
 恥ずかしい話だが、僕は人間が怖い。
 裏切られるのも怖いし、道を歩いていて殴られるのも怖い。
 かわいい女の子が人を傷つける嘘を平気でついているのだと思うと
 悲しい。
 そしてこうやって思うことは、
 僕は誰よりも他人を疑って生きているということの証でもある。
 裏を返せば、
 僕はいつも誰かが僕を裏切るのではないかと疑っているし、
 道を歩いていると誰かが殴りかかってくるのではないかと疑っているし、
 かわいい女の子を見ると、「ひどい嘘も平気でつくんだろうか」などと妄想する。
 疑っている。

 そうして自分のこともいやになる。
 こんなことは中学生まででやめておけばよかったのに。
 それと僕の悪い性質。「もったいない病」ってのがあって
 辛いこと、悲しいことがあったときに
 「まぁいいや、ぽーん」って忘れることは簡単かもしれないんだけど
 なんかもったいなくて忘れられないっていうか
 マゾヒストなのか、ナルシストなのかわからないけど
 苦しみの感情をそのまま捨ててしまうと
 なんだか勿体ないような気がして
 心の底から忘れてしまうまでとことん苦しむ傾向にあるみたいだ。
 もちろん「忘れるのは簡単」とか言ってるけど、やれって言われてもできないよ。
 何かがそれを引き留める。
 そういう自分もあまり好きではない。
 むろん死にたいとか思ってる自分が最も嫌いだ。
 なんて考えてると面倒くさくなって、ああ、人生やめたいと。

 ツービートのギャグで、
 「うちの兄貴が精神おかしくなっちゃって、
  車に飛び込んでも死ねない、
  海に飛び込んでも死ねない、
  電車に飛び込んでも死ねないってんで、
  それで悩んじゃってね、
  自殺しちゃいましたよ」
 ってのがあった
 死ねないから自殺する。
 自殺できないから死のうとする。
 ああ、なんかパラドクシカル。
 でもそんなようなもんかもしれん、とも思う。

 「死にたい」と思うのは
 生命を感じるための手段だと言う人もいる。
 よくリストカットすると、生きている実感が湧くといわれるが、
 それと同じこと。
 死にたい死にたいと毎日思っていて、陰鬱な毎日を送っていると
 時おり生命が輝いた瞬間
 海と太陽が混じり合った時のようなまぶしさを人生に対して感じることがある。

 ビートたけしが「振り子理論」というのを言っていて
 「悪いことが思い切りできるやつは良いことも思い切りできる」そうだが、
 生へ向かうベクトルと死へ向かうベクトルに関してもそれと似たようなもんで、
 絶対値は等しいんじゃないかと。
 死にたいと思っている人は、生への執着、というか、生きることへの思い入れのようなものが
 非常に強い人なんじゃないだろうか。

 たとえば、「うまくいかないから死にたい」と思うような人って、
 「うまくいくべきだ」という「ねばならぬ」に支配されている人であって
 それって、「生への執着」にほかならんのではないかと思う。
 もっと気楽にやればいいのに。
 生きることに「ねばならぬ」を導入して、必死になってしまうから、
 つまづいたときに全てを投げ出したくなってしまう。

 ま、僕もそのようなもんで
 「ねばならぬ」に縛られすぎているのかもしれない
 (このへんの下りについては大江イオンという人がちょっと書いていた)

 ともあれですな、警察踏み込み事件をきっかけにしていろいろなことを考えた。
 ふだんから自分に抱いているコンプレックスとか、
 自分の嫌いな部分とか、
 未来についてのこととか。
 僕は自分が好きすぎるがゆえに、自分が自分の理想像から遠のけば遠のくほど
 「あーもうやだ!」ってなって
 「死んでみよう」って思って
 「山の斜面を利用して首を吊ってみようかなー」って思う。
 割と本気で思うのですがうつ病ではないです。病院とか絶対行かない。
 最近はわりと冷静だし。何するにつけても。

   8

 けどまぁとにかくどん底でした。精神状態は。
 どうでもよくなって、トカトントン、ってどっかで聞こえた気がして、
 めんどうだから自殺でもするか、と、
 方法をいろいろと思案していたが、やはりまとまらない。
 山の斜面で首つりは吾妻ひでお先生が失敗しているからだめだなあとか、
 くだらないことを本気で考えていた。
 布団の中で。
 煩悶しながら。輾転反側というか。頭の中は死ぬことしかなくて。
 と言ったときにピンポーン。
 あー居留守つかおう。
 警察かもわからんし。ああ。やだやだ。
 とか思ったけど、何か不思議な力が僕を玄関に向かわせた。
 「どちらさまですかー」
 「小包でーす」
 はて。小包が来る予定などないのだが。
 ガチャっと開けたら郵便局の人がなんかでかいものを持っている。
 とりあえずサインして、受けとる。

 ぼんやり開けてみたら、びっくりした。
 完全に目が覚めた。
 死ぬかと思った。
 
 その時に書いた臨場感のある文章を載せてみよう。


  ふるえが止まらない。
  正直、いろいろあって死のうと思っていたところだった
  さっき警察にいじめられたりして世の中にぜつぼうして
  郵便局の人がこれを届けてくれなかったら
  いまごろ僕は山の斜面を利用して首をつっていたかもしれない

  現在、別の意味で死にたいです。
  セキトモっつったら、あなた、
  『刻の大地』でいったらカイですよ!

  っていうかスネ夫ですよ!


  死にたいくらい悪いことがあったら
  死にたいくらい良いことがおきた
  運命なんてものはナワのように
  よいこととわるいことがからみあっている
  そう教えてくれたのはドラえもんだったね

  ああ、僕の自殺を止めてくれてありがとうドラえもん
  っていうかスネ夫  
  いまわりと本気で書いてます


 何があったのかというと、こういうこと。


 


 もうね、死んでもいいと思ったよ。
 届いた直後は、ガンガン痛々しい文章を書いたさ。


  これは、翼の勇者たちのころのイベントで
  前スネ夫役の肝付兼太さんと少しだけ対話を交わした
  カルトクイズで誰もわからなかったようだから手を挙げて
  「スネ夫のうた」をワンコーラス歌ったら
  「きみうまいねー 今度ぼくのかわりにうたってよっ」
  とスネ夫の声でいわれた
  あのとき以来の感動だ…
  なんでか僕はスネ夫にえんがあるようだ


  https://ml.webshogakukan.com/doraemon/enquete/sch07_pre_form.html

  あらためて調べたら抽選で5名様だって…!
  しかも金曜日にドラえもんチャンネル内で当選者発表があるらしい!

  夢のようだ…死にたい


  それにしても深遠なる絶望孤独地獄を突き抜けて爛れた餓鬼腐海の最下層まで落ちたら
  底の底の底のほうに顔のある花が笑うオアシス的しあわせの泉が湧いていたかのような絶妙なタイミング。
  スネ夫は僕がこのタイミングで久々に死にたくなることを知っていたのか。
  ありがとうスネ夫。本当にありがとう。スネ夫に一生ついていきます。
  植芝理一が『ディスコミュニケーション』で
  やたらスネ夫(作中ではスネオ)をプッシュしていたのはそういうことだったのか。
  さすが植芝先生だぜ!


  ああああ目に見えて少しずつ成長するのではない幸せがここにあったとは !!!


 もうなんか意味不明なこと言ってますが…
 そうなんですよ!
 エイプリルフールの日にドラえもん公式サイト「ドラえもんチャンネル」が
 「スネ夫チャンネル」というウソサイトに変わっていて、
 そこで「スネ夫サイン入りパネル」が抽選で5名様にプレゼントってのがあったんです!
 いつの間にかですます調になっているが、まぁいい。
 5名様ですよ!
 全世界中のスネ夫ファンの中から5名!!
 これはもう、筆舌に尽くしがたい喜びだった。

 ま、ホントのトコロを言うと「死にたい云々」は
 その後に来るアレアレア(喜び)を強調するためのブラフ(用法合ってるか?)で
 さほど本気じゃないんだけどね。
 絶望して死にたくなってたのは本当だけどべつに実行のレベルじゃない。
 みんなそんなもんでしょ?


 いいことがあれば、悪いこともある。
 小学生のころ、ドラえもん44巻の『サイオー馬』を読んで以来、
 しばらく僕はそんな考えに支配されてきました。


 
 (てんとう虫コミックス『ドラえもん』第44巻)


 いいことがあったら「次は悪いことが…」と思い、
 悪いことがあったら「次はきっといいことが!」と言い聞かせ。
 今でもちょっと、そういうところがある。

   9

 この間少し書いたけど、
 最近「神様」について何人かで話すことがあった。

 「神様の存在を信じる」ということと
 「ある神様の存在を信じる」ということと
 「ある宗教を信仰する」ということと
 「宗教を肯定する」ということと…
 それぞれニュアンスが違って、
 しかも「神様」も「宗教」も人それぞれにとらえ方が異なる。
 そういうことをはっきりさせずに「神様はいるのか」という議論が進むから
 とてもごちゃごちゃで意味のない話し合いになっていた。
 それはそれで面白かったけどね。
 そもそも論は好きじゃないけど、
 「神様」とはまず何か、ということを考えないと
 神様を肯定も否定もできないんじゃないかね。

 みんな神様っていうと、キリスト教の神やアッラーのような一神教の神様や
 日本神話やギリシャ神話などに出てくる神々を考えているみたいだった。
 つまり具体的な姿を持つもの。
 でも神様っていうのはそういうのばっかりじゃなくて、
 神道でいう「八百万の神」っていうのは具体的な姿が見えづらくて、
 100年使ったら家具が神様になったりもするし(九十九神)
 アニミズムとかシャーマニズムとかの方面に行くと
 もう少し別の見え方がするだろうし。
 仏教におけるホトケは神様なのか?とか
 そういうところをどう処理するかによって
 「神様はいるのか」という議論の中身は変わってくる。
 まず「神様とは何か」という問題を解決しないと。

 この話は本当に長くなってしまいそうなので、
 僕の考えを簡単に述べるだけにとどめよう。

 神様というのは、神秘的な力。人智の及ばない、見えないもの。
 僕が好まない言い方でいうと「科学で説明できないこと」を司っているもの。
 例えば、「悪いことがあったら、それだけいいことも起きる」という迷信じみた信仰を
 僕が信じているのだとしたら、僕は神様を信じていることになるだろう。
 そういうものだと思う。

 仏教に神様はいないし、創価学会にも日蓮と池田大作はいても神様はいない。
 でも創価学会の人が、
 「お題目を唱えて信心すれば必ず良いことが起きる」みたいなことを言えるのは、
 彼らが神様を信じているからだ。
 (まぁ僕に言わせれば信心をして良いことが起きるのはある程度「科学的に」説明できるが)

 運命というのはナワのように良いこと悪いことがからみあっている。
 このことを信じるのは神様を信じるということに等しい。
 二十二世紀先端科学の化身であるドラえもんがそれを言うんだから面白い。
 ドラえもんは科学まんがでもあるが、人智を超えた現象もたくさん描かれている。
 『大長編ドラえもん のび太の魔界大冒険』のラストで、
 のび太が「チンカラホイ」と言ったらしずちゃんのスカートがフワッと舞う。
 あのシーンにも神様は棲みついている。
 「魔法を信じ続けるかい?」じゃないが、魔法や超能力を信じることも、
 神様を信じるのに等しい。
 魔法や超能力を信じるのに、「神様はいない!」と言うのは、
 「神様という姿をした具体的なモノは存在しない」という意味でしか成立しないと思う。
 少なくとも僕の定義では「神秘的な力を司っている」のが神様なのだ。

   10

 と、実はここまでは壮大な前置きだ。
 いつも我田引水で申し訳ないのだが、小沢健二の『天使たちのシーン』という曲の話。
 これは非常に長い曲で、なんと13分半もある。
 それに比例してかファンからの人気も高く、
 特に曲のラストを締めくくる以下のフレーズは大槻ケンヂも大絶賛していた。

  神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
  にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている

 この「神様を信じる強さを僕に」の部分が、
 ファンの間で最も議論される箇所だ。
 「神様を信じる強さってなに?」
 「そもそも、神様ってどんなん?」

 小沢健二の曲で「神様」が登場するのは何曲かある。

  雨のよく降るこの星では 神様を待つこの場所では
  木も草も眠れる夜が過ぎるから(『天気読み』)

  神様がそばにいるような時間 続く(『ローラースケート・パーク』)

  shake it up, boogie back
  神様がくれた 甘い甘い milk and honey(『今夜はブギー・バック』)

  「神様はいると思った 僕のアーバンブルーズへの貢献」(『ある光』)

 など。これらを見ていると、僕の「神様観」がすっぽり当てはまる気がしませんか。
 神様は、造物主でもなければ、具体的な姿をしたモノでもなくて、
 「運命」とか「偶然」とかっていう、神秘的な力の司る領域。
 「偶然に生まれた素敵な瞬間」「運命的に出逢った君と僕」なんていうの。
 大槻ケンヂとの対談で「『ロマンスの神様』は近いかも」なんて言ってたけど、
 それと照らし合わせても、納得できるんじゃないかと。

 だから「神様を信じる力」というのは、
 たとえば「悪いことがあれば良いこともある」を信じることでもいいし、
 「信じることは真実へと繋がっていく」(これは僕が昔言ってたフレーズ)でもいい。
 くじけた時に「神様なんていないんだ!」と投げ出すのではなく、
 運命や偶然、迷信的なご都合主義の思考さえも受け入れ、信じて、じっと待つ強さ。
 「呑み込まれていく魔法のようなものを待」つことも、それに近い。(『恋しくて』)
 それは音楽が奇跡的な音色を奏でる一瞬のようなもの。
 混沌とした街の中で、美しいメロディが突き刺してくるその瞬間。
 絶望の布団の中にスネ夫のサイン入りパネルが届くような絶妙なミラクル。
 これが僕のいう「神様」だ。それならば、僕は信じる。
 恋愛が一生続くことを信じるとき、心の中で美しい花火が散るでしょう。
 それが神様の存在証明になる。

 ああ、ここから先は『毎月の環境学会会報』で書きたい!
 この神様云々の話は、実は最新アルバム『毎日の環境学』にも通ずる。
 少しだけ言ってしまうと、全てを受け入れて、肯定すること。
 そしてそれは、思ったよりもずっと難しいということ。
 中村一義の言う「博愛」にも繋がるのかもしれない。
 あらゆるものは、生態系のように繋がっている。だから『Ecology of Everyday Life』なのだ。


 というところで、警察についての考察から始まった大河的な小沢健二論は閉じさせていただきます。

2007.4.10(火) しっとしとるしととしとうしとるしとととしとっとるしと

 カントリーマアムたべたい。
 あああおおおgかおgkろあprwが」kろpr
 書けない。


 仕方ないから「ウーチャカ大放送のテーマ」の歌詞でも書くか。
 と言ってもメロディを作るにあたって仮に書いたもので
 5分、下手したら1分くらいでちゃちゃっと作った、
 単なるそれらしき言葉の羅列です。
 今週の放送に間に合わせるために、仮歌でもいいやとわーわー作った
 そのうち本物の歌詞書きます。
 メロディも適当すぎるのでもうちょっと練りたいワー


 「ウーチャカ大放送のテーマ(DEMO)」
 作詞:Jacky
 作曲・編曲:小西康陽、Jacky
 ヒント:ロケットマン(ふかわりょう)
 うた:ウーチャカオールスターズ

  ※僕らの心の中に鳴り響く
   僕らに心の中をさらけ出す
   これはウーチャカ大放送
   惑星の燃え尽きる夜に生まれる

  昨日と今日の狭間から
  新しいフレーズとメロディ
  それぞれの暮らしと生命の中へ
  笑いも涙も 禁忌を越えて

  そしてまた明日が来る
  出逢いと別れとが混じる
  時計の針の先まで心研がせて
  地球の奏でる音符だけをつかみ取ろう

  ※くりかえし

 “ウーチャカ大放送” ORIGINALLY TERMED BY 田中裕二(爆笑問題)


 聴いてみたい人は毎週火曜日、午後24時からの
 ネットラジオ「ウーチャカ大放送」をチェックしてねー



 さてと。
 カントリーマアムがないと僕は動けない。
 頭が一日中死んだままになっているというか。
 こうやって毎日日記を書く(といっても、これを書いてるのは実は11日なんだ)
 ということが、なんとか生きるリハビリというか、なんだ。その、
 筋トレみたいになればいいなあと思うよ。
 はい、もうこれで、自己言及はやめた。
 しばらく日記のことについて日記では触れないようにする。

 久々にルバイヤートでも書くか。


 耳鼻咽喉科の変態プレイ
 五つの穴をフル活用
 顔の中にある空洞をすべて
 やわらかなクダでつらぬきとおす

2007.4.9(月) 四苦八苦費

 今月まだ1日しか働いていません。仕事くれ。
 っていうかこんなんで生活できるのか?ん?
 副収入があるとはいえ、微々たるもんですんでね。

 ま、今日はとある二組の二人組について書いてみます。


 さっき古いビデオを何となく再生してみたら、
 コーネリアスの小山田圭吾が
 「テレフォンショッキング」のゲストに出ている映像が入っていて。
 それで藤子不二雄A先生をお友達として紹介していたんです。いや、懐かしい。

 僕の大好きな二人組というと、「藤子不二雄」「フリッパーズ・ギター」
 どちらも「ふ」から始まるという、奇妙な「ふ」合。
 この二組の接点ってのは意外とあって、
 テレフォンショッキングの件もそうだし、
 小山田圭吾は高校の卒業アルバムにFFランド版『ドラえもん』の第1巻を持って写ってるようです。


   ↓小山田圭吾が卒アル用に撮った写真(高校)-『クイック・ジャパン』Vol.3より
   ←ココ


 ちなみに僕も、そのことを知らずに高校の卒業アルバムに
 『ドラえもん』てんとう虫コミックスの第1巻を持って写りました。
 いや本当に知らなかったんですよ。これは本当に偶然です。
 だって、知ってたら僕だってFFランド版持って写ってるもんね!(これが証拠)


   ↓ジャッキーさんの卒アル写真(高校)
   


 いやー個人情報もくそもないですな。
 しかしあのお堅い高校がよくこんな写真許してくれたもんだ。
 まぁいいや。
 よく見るとなぜかカバンしょってるし。

 それにしても、この写真やけにカワイク写っていて自分ではないみたいだ。
 それとも、数年前は僕もこんなにカワイかったんだろうか?
 そういえば、当時この写真を見た同級生の女の子から
 「ちょっと何カワイイ顔して写ってんの!」って怒られた記憶が。

 まそれはどうでもいい。
 ちなみにこの小山田圭吾衝撃の卒アル写真が載っている『クイック・ジャパン』Vol.3の表紙は、
 小山田圭吾が藤子不二雄A先生のFFランド版『魔太郎がくる!』第5巻を持っている写真になってます。


   


 なんとも。どこまで藤子不二雄好きなんだこの人は。


 小沢健二もエッセイなどでドラえもんの話題を何度か出したことがあるし
 スチャダラパーも藤子好きだったな。

 そういうわけでまぁ、フリッパーズ・ギター周辺の、いわゆる渋谷系の方々は割と
 藤子不二雄が好きな人は多いです。
 ファン層もかぶります(僕もそうだし)
 それは偶然ではないと思うのですよね。

 男の二人組っていうのはそれだけで魅力がありますよ。
 ここからは若干妄想になるけど
 小沢健二はエッセイ『DOOWCHTYALIKE』の最終回(「無色の混沌」)で
 二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテルとして
 「仲が悪い」というのがあると言っているが
 男同士の場合は実はもう一つすかさず貼られるレッテルがあって
 それは「仲が良すぎる」ということ。
 つまり「男色の気がある」と。

 フリッパーズ・ギターの「やおい同人」は当時いくらか出回ったし、
 たぶん今でもあるでしょう。
 同じように、
 F先生とA先生がそういう関係であるということを妄想してハァハァする腐女子さんも
 少なからず存在するわけで

 男の目から見ても、
 仲が良くてお互いの能力を極限まで引き出し合って、
 双方に好影響を与えながら一緒に活動している二人組というのは
 一種、あこがれのような感情を抱きます。
 これは僕だけじゃないと思う。
 コンビで活躍している芸術家というのは、
 「友情」の最上級の表象だといえるんじゃないかと。
 そこには「二人」であるがゆえの閉じられた宇宙があって、系があって、
 感性と神経とで繋がれている一つの世界がある。
 「誰も触れない二人だけの国」、まさに。
 それで僕らは美しさを感じる。

 CHEMISTRYというデュオがいて、
 この名前は「二人の歌声が化学反応を起こす」
 …みたいな意味合いでつけられたんだときいたことがある。

 化学反応は神秘的な現象だと思う。
 そりゃあ、法則に基づいて機械的に行われる作業だと言ってしまえばそれまでだが、
 少なくとも肉眼で捕らえることのできない世界で静かに秘密裏に進んでいくプロセスであるとも言える。
 水面下、二つの異なる個性がぶつかり合って化学反応が起き、
 そして紡ぎ出された旋律やイメージの結果が僕らのもとに届けられる。

 作品はいつも知らないうちに創り上げられていて
 とつぜん完成品として僕らの目の前に現れる。
 いつだってそうだ。
 不意打ちのプレゼントのような。
 トンネルを抜けた窓の外にあるきらめいた海のような。

 突然に告げられた愛の告白
 あたためられて膨張した想いがついに炸裂する瞬間!
 一瞬、クラッとする。

 それが芸術なんだと思う。

 コンビの生み出す芸術は、ふたりの間の秘密事。
 宝箱の中身を開けて、みんなに見せびらかす、その愉悦。
 それを共有するよろこび。

 ふたりだけの秘密基地で作られた、ふたりだけの宝物。
 それはいつでも懐かしくて、楽しくて、物寂しい。
 だからフリッパーズ・ギターは解散してなお(いや、解散したからこそ?)
 僕らの心からいつまでも離れないのだろうし
 藤子不二雄が合作をやめても、ふたりに絆がある限り、
 机を並べて同じ漫画を書いていたころの甘酸っぱい秘密の感覚が
 その作品の中に、あるいは「藤子不二雄」という名前の中に生きている。

 ちょっと気持ち悪い話になってしまった。
 話題を変えよう。
 フリッパーズ・ギターの小沢健二と小山田圭吾、
 どっちが藤子不二雄A(安孫子素雄)先生で、
 どっちが藤子・F・不二雄(藤本弘)先生であるか。

 結論から言うと、F先生が小沢さんで、A先生が小山田さん。
 小山田さんがA先生と仲がよい(悪くはないだろう)ってのもあるけど
 理由はもう少しあって。

 まず、F先生の『ドラえもん』は小沢でいうと『ラブリー』。
 『パーマン』『エスパー魔美』などの一連の作品はアルバム『LIFE』とかそのへん。
 つまり、作品のポップ性というか、
 世間受けするキャッチーな作品を数多く生み出したという点で
 小沢さんはF先生である。
 あるいは、SF短編や『未来の想い出』などに見られる、
 ストーリーテラーとしてのF先生の凄み。
 これは小沢健二の歌詞が邦楽史上類をみないほどに評価されているという事実と対応している。
 かな。

 小山田さんがA先生だというのは、
 小沢さんが歌詞なら、小山田さんは音。
 もちろん、小沢さんの音作りもすばらしいし、小山田さんの言語感覚も非常に優れている。
 だからこれは便宜的に言っておくだけ。
 小沢が歌詞なら、小山田は音。
 F先生が物語なら、A先生は絵だ。
 えーっと、これもあんまりにもあんまりな単純化なんですが。
 言い換えると、「F先生は話や構成に凝る、A先生は絵や構図に凝る」って感じか。比較的。
 前者は「意味」と言い換えてもいいかもしれない。

 A先生は有名な「強調したいコマは黒縁で囲う」とか、
 「写真のような絵」とか「真っ黒い顔」とか「変な擬音」とかに代表されるように、
 技法とか、表現方法を追究している人です。
 それも、70年代から80年代にかけてニューウェーブと呼ばれる作家たちが追い求めたような、
 ある意味で衒学的ともいえる、難解な方法ではなくて、
 誰にでもわかるような単純な絵柄と構図で、だけどとことん難しいことをやってのけた人です。
 71年に発表された『明日は日曜日 そしてまた明後日も…』なんかを読むと、
 コマ割りやカメラワークの複雑さと明快さが同居して
 独特のイリュージョンを生み出していることがわかると思います。
 あ、『明日は日曜日~』が71年ってことになると、ニューウェーブの作家たちが出てくるより前なんだ。
 A先生も彼らに何らかの影響は与えているのかもしれない。なんて。
 ともあれ、「複雑さと明快さが織りなす独特のイリュージョン」。
 小山田さん、コーネリアスも音で似たようなことをやっている、と思うわけです。


 そういう感じで、フリッパーズ・ギター=藤子不二雄論は幕を閉じたいと思います。
 最後に。


 藤子不二雄は、デビュー前からデビュー直後にかけて、
 かなり手塚治虫の真似をして漫画を書いています。
 っていうかパクリと言っても過言ではないくらいタッチが似ています。
 でもそれは特別なことではなくて、
 当時の漫画家はかなりの率で手塚のパクリだったと思います。
 ただ、藤子不二雄の場合は、たぶん、似すぎでした。
 それは愛情とリスペクトの為せた業でしょう。
 もちろん意識的です。
 藤子不二雄の初期ペンネームは足塚不二雄といって、
 手塚治虫をもじったものでした。

 初期フリッパーズ・ギターも、アズテック・カメラをはじめとする
 いわゆるネオアコ・バンドの曲をパクりまくっていましたね。
 もうタッチが似ているとかいうレベルではなく。
 これも愛情とリスペクトの為せた業。
 (パクリ自体は初期に限ったことではない)

 曲名や歌詞の中に好きなバンドの名前なんかを織りこんでしまったのも、
 藤子不二雄が手塚治虫にあやかって「足塚不二雄」というペンネームをつけたのと
 同じ気持ちだったんじゃないかなあなんて思って
 ああ、やっぱり時代を超えて同じ魂が。あったんだとか、思う、気持ち悪い僕です。

2007.4.8(日) ヨハネ・シュトラウザーII世

 駅まで見送って
 サヨナラまたねを交わしあう僕ら。
 彼が階段をのぼって
 自動券売機の手前のカドを曲がりきって
 見えなくなるまで
 僕は手を振る。
 彼は決して振り返ったりしない
 それは見えない約束だった。

2007.4.7(土) 支那乳首

 毎日日記を書くということは辛い。
 高校時代の僕は本当に一日と間を空けずに書いていたから本当に偉い。
 何が辛いかというと、特に書くことがない日が辛い。
 出来事のない日は、ネタでも雑感でも、何かの感想でも、
 とりあえず何か書かなくてはいけない。
 たいていは一日活動してたらそれなりのことは考えるから、
 それを書けばいいんだけど。
 時おりそれすらも思いつかないときがあって非常に困る。
 そういう時は「辞書でも開いてネタを探す」って、唐沢商会が言っていたなあ。
 
 思うに、しかし、そういう
 「書かなくてはいけない」という強迫観念のようなものは大事。
 べつに「今日は何もなし。」とか「昨日とおなじ」とか「あさおきてよるねた」とかでも
 良いわけなんだが、それを許さない心意気。自分への枷。
 というかプライドのようなものか。
 が、実はすっごい大事。
 
 そうして僕は毎日日記を割と丹念に書き続けてきたわけだが、
 今の僕がものを考えたり、何かを書いたりすることが以前に比べて上手であるとしたら、
 たぶんむりやりにでもそれなりの量の日記を毎日書いていたのがかなり効いている
 んじゃないかと思う。

 大学3~4年になって、僕がだんだんだめになったのは
 ちょうどこの日記の更新頻度が減ってきたのに重なる。
 日記を無理して書かないでもいいって状況になると、
 「今日は何を書こうかなあ」なんて日中、思いに耽ることがなくなるわけで
 すると生活の中でなにか面白いものや楽しいことを探すアンテナのようなものが
 極端に弱まってしまう。
 それでふだん大してものを考えなくなってしまうという事態に陥る、と。
 
 毎日なんか書くぞーって心の中で思っていると
 常に脳内に緊張感がある感じで
 頭の回転数もたぶん上がってきて
 それなりのことを考えついたり、
 何かをみて面白いと感じることも増えるのではないかと。

 そういうわけで若い人には
 毎日日記を書くのを自らに強制してみるのをすすめる

 「日記をつけよう!」と若者に語りかける物書きの人は多い。
 なんでかっていうと、こういうことか。

2007.4.6(金) 政宗四郎

 【『悪魔のいけにえ』と滝本竜彦トークショー】


 昨日書いた渋谷シアターNでの『悪魔のいけにえ』上映+滝本竜彦のトークライブ行ってきました。
 例の如くももみづきという喜多方ラーメンの店に寄ってから。
 
 そもそもなぜ『悪魔のいけにえ』に滝本竜彦なのか?というと
 『悪魔のいけにえ』の原題は『THE TEXAS CHAIN SAW MASSACRE』。
 テキサス・チェーンソー・マサカー。

 「テキサス電ノコ大虐殺」の意。

 そして我らが滝本竜彦氏のデビュー作のタイトルが
 『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』。

 「チェーンソーつながり」ってだけで
 滝本氏自身はべつに『悪魔のいけにえ』が元々好きだったわけではなく、
 このイベントのために初めて観たんだそうだ。
 「非常に感銘を受けました」とのこと。

 トークライブで滝本氏は「なぜチェーンソーなのですか」と問われてこう答えていた。
 

 「『魔界塔士Sa・Ga』というゲームがありまして、そのラスボスが“かみ”なんですよ。
  どうして世の中が醜い争いや悲劇に満ち溢れているのかというと、
  実は“かみ”が退屈しのぎに人間をチェスのコマのように操っていたんです。
  それで主人公たちが「ふざけんじゃねぇ」って言って“かみ”を倒すんですけど、
  その時に使用する武器がチェーンソーなんですよ。
  だから僕にとって、チェーンソーというのは
  世界にはびこっている闇とか混沌とかあらゆる負の存在を切り刻むためのものなんです。
  作中でのチェーンソーはそういう役割として登場します。
  というのは後から考えたことで、本当はなんとなくです。」


 一応言っておくと、この滝本氏の発言はあまり正確ではありません。
 無礼を承知でSa・Gaファンとして言わせていただきますと、

 “かみ”は人間を直接操っていたのではなく、
 人間を狂わせるための間接的関与をしていたに過ぎません。
 ただ、「人間は“かみ”の手の中で踊らされていた」というニュアンスであれば、
 「チェスのように操っていた」という言い方も納得できます。
 (滝本さんもそういう意味で言ったんだと思う)

 せっかくだから具体的な話をしますと、
 “かみ”がしたこととは基本的に「アシュラ」を召還したことくらいです
 (アシュラはドラクエ3でいうとバラモス、“かみ”はゾーマ的なポジション)
 実際に魔物を操っていたのはアシュラで、
 “かみ”が魔物や人間を直接操っていたという事情はないと思います。
 アシュラはげんぶ、せいりゅう、びゃっこ、すざくという四人の手下を使いそれぞれの世界を統治させます。
 そして魔物に支配された世界で狂っていく人間たちの姿が描かれるわけですよ。
 つるぎのおうとか、たてのおうとか、だいじんとか。ミレイユとかがその代表でしょう。
 “かみ”は、『レヴァリアース』のシオン様の言葉を借りるなら
 「デマゴーグという集団秩序を混乱に陥れる心理的な刺激」を人間たちに与えただけです。
 確かに“かみ”のしていたことは許せないことではあるけれども、
 もしもすべての人間が憎みあわず、疑わず、争わず、絶望せずして
 一致団結して四天王やアシュラを倒そうとしていたのなら
 主人公たちの登場を待たずに世界を取り戻すことができたのではないだろうか。
 そして“かみ”も実は、そのようになることを期待していたのでは…?
 なんて想像もしてしまいます。


 なんて話を、上映終了後入り口付近にいらっしゃった滝本先生にサインをねだりながら申し上げたところ、
 「(Sa・Gaの話が)わかる人がいてよかった」とおっしゃっていただけました。
 
 いやぁよかった。
 あの滝本竜彦を生で見られて、さらにサインまでもらって、
 しかも大好きな『悪魔のいけにえ』と『魔界塔士Sa・Ga』について話ができるなんて!
 わずかな時間ではあったけどとても良い時間でありました。


 ↓ちなみにサイン。※著作権(?)保護のため署名部分は隠してあります
 

 ところで今回は友達(全員滝本ファン)を引き連れて『悪魔のいけにえ』を観たんだけど、
 序盤こそみんな怖がってたり眠そうだったりしたものの
 レザーフェイス登場後は、もう、どっかんどっかん。
 爆笑のうずでした。
 なんか彼ら、上映終わった後も3分間くらいガハハハガハハハ笑ってました。
 いや、すばらしい。やっぱりすばらしいよ『悪魔のいけにえ』は!!!


 魔界塔士SAGA
 魔界塔士 サ・ガ WSC 【ワンダースワン】

                         
2007.4.5(木) ヴィヴァルディ四股

 【コーネリアスライヴ】


 中目黒で桜と中の橋とお兄ちゃんがやってるお店を見てから
 渋谷AXのcorneliusライブ。

 最新アルバム『SENSUOUS』の曲だけでなく
 『POINT』から『SMOKE』『POINT OF VIEW POINT』『DROP』
 『FANTASMA』から『COUNT FIVE OR SIX』『STAR FRUITS SURF RIDER』
 『69/96』から『BRAND NEW SEASON』
 途中、POINTの曲→FANTASMAの曲→69/96の曲と
 時代を逆行していくかのように演奏するのでついつい
 「次は『THE FIRST QUESTION AWARD』の曲が来るのか?」と
 淡く弾ける想いを描いてみたけどやっぱりなかった。

 途中、小山田さんが客席の少年をステージに上げて一緒にテルミンを演奏したり
 客席の模様を動画でサンプリングして音と一緒にエフェクトかけたり
 舞台からサンプラーを差し出して、最前列の客にボタンを押させたり
 なんかサービス精神を感じた。
 でもMCは「こ・ん・ば・ん・わ」とか「どうも、こんばんわ」とか
 「あ・り・が・と・う」とか「どうもありがとう」とかばっか。
 (あ、「記念撮影させてください」なんてのもあった)
 一回だけギター弾きながらジャンプしてたのが印象的。
 (JUST POP UPで『カメラ!カメラ!カメラ』を演奏した時のイントロのジャンプみたいな)
 格好良かった。

 映像にも凝っていてバックスクリーンに途切れることなくヴィジュアルエフェクトが。
 終盤、『さくらさくら』の旋律を小山田さんがギターで演奏して、
 スクリーンに映し出される中の橋と中目黒の桜。
 事前に中目黒を歩いて予習しておいてよかった。

 小山田さんも老けてきて
 一般人から見るとあんまりよいルックスとはいえないのかもしれないが
 僕から見るとやはりカッコイイ。ライヴ来てよかった。

 アンコールで『SLEEP WARM』
 あらきさんが横笛を吹いてらっしゃった
 フランク・シナトラのカバー

 そういえばちょうど一年くらい前のTBSラジオ『談志の遺言』の録音を聴いていたら
 立川談志オススメのミュージカル映画という話になって
 「ジーン・ケリーとフレッド・アステアだけでまァいいよ」
 「『雨に唄えば』と『イースター・パレード』があればいい」
 「あとは『ザッツ・エンタテインメント』を。1と2まででいい」

 「FOXだと『ショーほど素敵な商売はない』はいいね」
 など、僕がミュージカル映画について思っていることをほとんど言われて
 おおおお!家元と映画の趣味がかぶった!っていうかまったく一緒!
 ってなってとても嬉しかった。
 他に家元が褒めていた役者は
 ミッキー・ルーニー&ジュディ・ガーランドのコンビにエレノア・パウエルなど。
 ドナルド・オコナーの名前も出てきたな
 僕の好きな役者ばっかりで興奮した。
 高校生のころ狂ったようにMGMミュージカルばかり見ていてよかったと思った。
 個人的にはフランク・シナトラの話をしてほしかったけど。踊る大紐育。

 まったく、ジーンとアステアで終わり。その通りだ。
 それ以降のミュージカルなんてみんなだめです。
 『ザッツ・エンタテインメント2』で年取った二人が共演して踊るシーンは…
 見るたびに泣けます

 そして本当に嬉しそうにジーンやアステアについて語る家元がとてもよくて
 また泣きそうになりました。

 さて。ミュージカル映画について語ったところで明日は渋谷のシアターNに
 『悪魔のいけにえ』を観に行きます。超名作。
 こういう映画も大好きなのだ。
 しかも滝本竜彦先生のトークライブ付きってんだから行くしかない。
 ちなみに今いちばん好きな映画は『バブル・ボーイ』

 Corneliusのライブ後、渋谷タワレコ。


2007.4.4(水) いざ酔い

 どうしても、愛されることには喜びがつきまとう。
 愛しあうことだけに喜びがあればいいのに。
 そうすれば誰も苦しむことはないのに。



 「神様」について何人かで話をした。
 特定の神様を信じていると言う人もいれば、
 無神論者と名乗っていたり、
 不可知論を唱えていたり、
 さまざまだった。

 心の中で何かを決めつけてしまうごとに、
 それだけ世界が見えなくなっていく。

 かといって神様のいる宗教を否定するわけではない
 彼らには彼らにしか見えない世界というのがある

 「神様なんていない」と頑なに叫ぶ人たちにも
 彼らなりの世界があるのかもしれない

 「いるかもしれないし、いないかもしれない」「僕にはわからないよ」
 と首を横に振る人たちにも、世界は確かに見えている。

 でも彼らはみんな、世界の材料でもある。
 
 ある神様を信じる人の見ている世界の中にも、
 ほかの神様を信じている人たちが住んでいるし、
 ほかの神様を信じている人たちの見ている世界もそこにある。

 それはとても大切な認識だと思う。
 
 「神様なんていない」と思っている人たちの世界にも
 神様はいる。
 「いるかもしれないし、いないかもしれない」「わからないよ」
 と思っている人たちの世界にも、神様はいる。
 
 絶対とか相対とかってことを言いたいんじゃない。
 すべてが渾然一体となってこの世界があるんだということ。
 切り分ける必要なんてどこにもない。
 世界中の人類すべての体積を足したのよりも、
 世界中のアリすべての体積を足したもののほうが大きいという。
 目には見えないし、実感もわかないけど、
 おそらくこの地球には、たくさんの人類や、もっとたくさんのアリがいるのだろう。
 そしてそれらはみんな、同じ生態系《ecology》の中で生きている。

 ぐるぐる回る。
 すべてのものはつながっていく。
 世界は、空の向こうもその外側さえも内包してつながっている。
 何もかも同じところにある。空間のなかに浮いている。
 僕たちはそこにナイフを入れていく。生きやすいように。
 ただただ便利なように。
 そう。
 それで神様が生まれたということ。

2007.4.3(火) 資産家の犬、犬の資産家、犬の資産家の犬

 「継続は力なり」
 という言葉が今、このサイトのBBSを開くと目に入る。
 二日前の花見のときにも同じ言葉を言われた。
 もちろんこの日記について。
 惜しいことに断絶した期間も若干あるものの、
 この7年間弱、ほぼ毎日日記を書き続けてきた。
 ここ1~2年飛び飛びなのは、本当にごめんなさい。
 もう他のところで日記書きません。(移転はありえるかもしれないけど)
 
 いま毎週火曜にネットラジオをやってて、今日で3週目。
 不定期にやってた時代から含めたら20回目。
 これも継続は力なりってもんで、客がいなくても
 (だいたい毎回3~10人程度が聴いてる)
 続けることに意義があんのかなーとか。
 それと、ラジオをやってると、一人しゃべりをしていると、
 自分がどれだけ話すのが下手なのかがわかる。
 始めた話題をどこかに着地させることのいかに難しいことか。
 二人以上でいればなんとなくボケて、つっこんでみたいな、
 それっぽいオチをつけさせることはなんとかできるし、
 相手が話している間に考える余裕もあるってもんだけど
 一人でずーっとしゃべってるとなかなかそれが難しい。
 最初っから構成とか、喋ることとか決めていけばいいんだけど、
 それだとライブ感がなくて、たぶんあんまり楽しくない。
 だったら録音していつでも聴けるような状態でどっかに置くよ。
 ラジオは生。今爆笑問題カーボーイ聴いてるけど、これ録音なんだよなあ。
 生でやってほしいなあ。ナイナイみたいに。

 そういえば初めてネットラジオで喋ったときは本当にガチガチだったけど、
 何回目かにはもうなめらかになった。これも継続は力なりということか。
 この日記だって、断絶せずに毎日ずーーーっと続けてたら、
 読者も離れなかったかもしれないのになぁ。なんてな。


 ところで、5年前の日記をちょっと読んだ。
 なんて正直なんだろうと思う。
 覆い隠そう、覆い隠そうとしている、
 その姿勢が実はとても正直で赤裸々に感じて。

 真面目であるが故、なのかなあと。

2007.4.2(月) ロックは初期衝動

 小野島大という音楽評論家が「ロックは初期衝動」と豪語し、どのロックミュージシャンもアルバムは1stしか認めないという暴論を展開しており、「それじゃあ、あんたがいいっていうバンドはなんなんだ」と問われて、したり顔で「フリクション」と答えたという逸話を友達から聞いた。

 ロックは初期衝動。それはある意味正しいかもしれない。例えば80年代にデビューして今も活動しているKENZIというミュージシャンがいる。僕が好きなのは彼の初期シングルを集めた『KENZI '84-'86 EARLY SINGLES』というCD。(これもさっきの友達から貸してもらったのだが、どうやらかなりのレアアイテムらしく、現在はアマゾンにもカタログがなくてたまにオークションで出るのを狙うほか入手は困難っぽい。)
 84年から86年のわずかな期間でKENZIが発表した曲は実にエネルギッシュでソウルフルでオーバードライブで、まさに初期衝動に導かれて完成した奇跡的な作品。このCDでそれらを通して聴くと精神が鼓舞され、昂揚したような気持ちになる。「パルスは伝達する」ではないが、KENZIのロック的初期衝動が伝わってくる感じがして、まことにエキサイティングな名盤だ。
 
 例えば『裏切りのうた』なんてのがYoutubeにあった。これはたぶん89年の映像だから初期衝動はすでに失われているが、発表当時はさらなるエネルギーで演奏していたのだろうと考えると身震いする。
 初期衝動といえば日本パンクの金字塔であるINUの『メシ喰うな』は世紀の名盤であり、これを越えるパンクアルバムは日本ではまだ出ていないとさえ言われている。これは町田町蔵(町田康)が十代の頃に作った初期衝動に充ち満ちたアルバムであり、その後に町蔵がリリースした音源を全て足しても、『メシ喰うな』の熱量に達することはできないだろうと思う。
 Youtubeに何曲かあったけど、不完全だったり音質が悪かったりするので本当はCDで聴いたほうがいいかな。
 
 『メシ喰うな』
 
 
 『気狂て』
   
 
 
 これが町田康の初期衝動なわけだが、
 21世紀の町田康はこうだぜ!!(これはこれで名曲なんだが)
 
 
 『心のユニット』with佐藤タイジ
 


 「ロックは初期衝動」説に僕がなんとなく共感してしまうのは、単に僕が1stフェチだからだろうか。アルバムにしろシングルにしろ僕は1stが好きだ。スピッツなら『ヒバリのこころ』だし、スマップなら『Can't stop~Loving~』。小沢健二なら『天気読み』、カトゥーンなら『Real Face』。CASCADEは『VIVA!』という最初のミニアルバムが至高の初期衝動アルバム。黒夢は『生きていた中絶児・・・』が初期衝動に満ちていていい。特に『黒夢』という曲なんかは最高。
 よし、これからは初期衝動に満ち溢れた作品のことを『初期衝動アルバム』とか『初期衝動シングル』とか呼ぶことにしよう。
 『初期衝動コンピレーション』とかどっか出してくれないかなあ。
 明日はネットラジオをやるので初期衝動特集にしようかしら。
 
 【僕の永遠の愛聴盤・INU『メシ喰うな』】
 
2007.4.1

 お花見に行ってきた。2年半も会わなかった友達が来てて、サプラ~イズだった。男の子というのは何年会っていなくてもまるで昨日も一緒に居たかのように喋れるから楽だ。彼とは高校のころから友達だが、昔はお互いに好き合ってそれでいて妬ましい存在みたいな感じだったと思う。そもそも僕が早稲田に行こうと思ったのはそいつが高2の2月頃に「だんぜん早稲田行く」と言っていたというのがでかい。絶対に負けたくない相手の一人だった(残念ながら芝居の才能は僕にはまったくなくて彼には死ぬほどあったけど)。ところが彼も僕も性格破産者なので、色んなことが重なって疎遠になってしまった。こういうのは男と女が恋愛して別れるのと同じで、本当に色んなことがあって、それらすべてが意志を持ったように一つの方角に向かい出し、偶然も必然に塗り替えられてしまって、そうなる。そのものずばり別れてしまった彼女のように僕はたまに彼を思い出すし、まぁ彼も僕のことを忘れることはなかろう。ところで、こういう文章を僕が書くのは彼がすっげーいやがると思うので、もっと書く。
 と見せかけてそろそろやめる。今日は会えて良かった。また仲良くしましょ。三島の『卵』は読んでおく。
 


 世の中を動かしているのは何だろう。「楽しい日々は長くは続かない」なんて数十年生きただけで言えてしまうのはなぜだろう。穏やかに澱んでいた心地よい空気がある瞬間に弾けて、世界中の全てのスイッチがいっぺんに切り替わったかのように感じた経験が誰にでもある。またシロアリが古い家屋を食いつぶしていくかのように、目に見えないところでじわじわと侵食されていって気がつけばもう修復できないような状態に変わってしまっていることも。
 人は永遠に永遠の中にはいられない。「青春とは、夢を追い、夢に傷つき、そして終わったとき、それが青春だったと気づくもの」とものの本の中に書いてあって(何に書いてあったかわかる人は当ててみてほしい)、幼き僕は、美しくて、刹那的で、でもそのことについて無自覚的な瞬間のことを「青春」と呼ぶんだなと解釈した。そして青春は刹那的であればあるほど美しく、無自覚的であればあるほど美しいものだと。青春小説を動かしている原理はたぶんそういうところにある。
 永遠なるものの美しさは、海面を跳ねるイルカが水しぶきを尾っぽにして空中で静止する一瞬にあって、一流の写真家が全身全霊を込めてシャッターを切ってさえもつかみ取ることができない。駆け抜けていく猫だとか、飛び立っていく鳥たちのように、どこかに潜んでいてある時ふっと顔を出す、決して手にすることのできない美しさ。あまりにも無垢で、あまりにも脆い。
 僕らはもう美しいほどに純粋でもなければ、美しいほどに壊れやすくもない。それでも生きている中で大切な瞬間というものを経験することはある。できるなら宝箱にしまっておきたいと思って、できるだけ丁寧に扱っても、涙とともに流れ去ってしまう。だいたいのところ「大切にしたい」と感じた時にはもう手遅れで、「宝箱にしまっておきたい」なんて焦った気持ちになると必ず落っことして壊す。自覚した瞬間に、美しさは自らの身体から離れて対象化される。血や肉から栄養をとることのできなくなった永遠なるものは、やがて枯れ行き、朽ち果てる。そんな残骸を見て僕らは「美しい」と思うが、もちろん「美しかったはずのもの」に美しさを投影しているだけにすぎない。そんなことはわかりきっていることなのに、自分で自分を騙すように僕らはその前に立ち止まる。永遠の中に生きていることのできない僕たちには、仕方のないことなのかもしれない。
 春は出逢いと別れの季節。やってきて去るたびに僕たちは少しずつ大人の階段を登っていく。子どもの目からしてみれば、大人たちがどうして美しい桜を見ながら酒を飲むのか意味がわからないだろうと思う。僕も昔はよくわからなかった。今はなんとなくわかる気がする。あんなに美しい桜を見ていたら、酒を飲まないではやっていられないじゃないか。美しく咲き誇り一瞬のうちに散っていく桜の運命を見つめていると、過ぎ去ってしまった青春や、いなくなってしまった人たちのことや、すべての美しかったものが頭の中でないまぜになってほとんど泣きそうになる。そんな時にできることといえば酒を飲むことくらいだろう。初めて桜を見ながらお酒を飲んだ人は、絶対に泣いていたと思う(昔の人はいつも泣いているような気がする)。ゆっくりと杯を口に運んで、友達とバカな話をして、ほろ酔い気分で見上げた空から花びらが落ちてきて、僕は鼻のあたまをこする。

2007.4.1(日) エイプリルズフール

 このたびエイプリルズが4/1企画で
 『デトロイト・メタル・シティ』ネタをやるってことでお声がかかって
 根岸日記とか僕が書いてるので見てやってください

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