少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2007/03/28 サイダー雄二

 タミヤ祭りと卒業式について日記が書きたい
 書く時間も気力もなくなって、これではせっかく無職になっても意味がないなあ。
 焦り禁止って感じで。
 四月からがんばるとかそういうことはでも言わない
 

2007/03/23 ツーストライクスリーツー

 僕はもう何も産めなくなってしまった。
 無鉄砲に突き進んでいく勇気もなくなった、

 と言い切ってしまうとファンが泣くので言わない。
 こんな落ちぶれた僕でも全国にまだ10人くらいはファンがいるはずなので
 彼ら彼女らのためにも僕は
 「するべきことをしなければならない。」
 
 
 
 今不思議な現象が起こった
 脱力的で非生産的だった僕の心に異変があった
 白いキャンバスに向かい合った瞬間から何か
 少し希望というか
 推進力のようなものを得たような気がする。
 ありがとう、読者諸氏。
 
 
 
 
 ティーンエイジャーの心をわしづかみにするためには
 大人である自分を一度何処かに置き去りにしてみなければいけない。
 恥ずかしいとか、みっともないとか、遅れてるとか、バカだとか。
 そういった感想を自分自身にぶつけて、自己嫌悪に陥るような、
 そんなことは、あってはいけない。
 
 道化とはそういうものだ。
 子どもに好かれる大人はいつだってとぼけ顔を演じている。
 僕は道を歩けば子どもが飛びついてくると言った風情に、
 子どもには好かれやすい。
 それはアンテナを子どもに合わせることができるからだと思っている。
 (もしくは僕自身が子どもなのかもしれない)
 
 
 ティーンエイジャーの心をわしづかみにしたかったら
 アンテナをティーンエイジャーに合わせる以外に仕様がないことくらい
 わかりきっていることなのに
 くだらないプライドや虚栄心がそれを妨げるのか
 道化になりきれない自分に唾を吐きかけたいと…思う?
 あれ、今なんかちょっと、ティーンエイジャーになった気分がした。
 この調子。

2007/03/19 不細工が小細工して粘土細工

 最近、思っても黙っていたり、人に言えなかったりすることが多いから、文章も乗らない。

 昨夜は一晩中英文とにらめっこしていた。久々に真面目に英文の訳を試みたわけだが、きつい。2000字訳すのに4時間かかる。昨日やっていたのは割と学術的な文章なので、わからない概念や思想は全てイチから調べ直さなくてはならなくて難儀だ。
 
 
 ところでさっき、親から電話が参った。
 まいった。
 4月からどうやって生活したものだろうか。

 「学校の先生?えー、なんなんよ、そんなもん。ニートだよニート。でへらでへら」

 なんて言い切れたら楽なんだが。
 やはり私立高校の教員にでもなるのが一番楽なんだろうけどなあ。
 気乗りしないねえ。
 坊ちゃん文学賞ほしい。
 

2007/03/18 まんまサイヤ人

 ダチョウ倶楽部ーム。
 ダチョウ倶楽部の本を読みながらダチョウ倶楽部の曲を聴いたりダチョウ倶楽部が出演したときのナインティナインのオールナイトニッポンを聴いたりナイナイナを見たりお笑いウルトラクイズを見たりダチョウ倶楽部のつかみはオッケーという速攻で最終回を迎えた幻の冠番組に思いを馳せたり。ググっても全然出てこないのが悲しい。
 『ダチョウ・ダンス』という曲は、ダチョウ倶楽部の代表的ギャグのほとんどが散りばめられた名曲。『OH!神様』は「神様も、領収書をもらうときは、上様なのかなあ」という竜ちゃんのせりふの言い方が面白くて仕方がない。今では入手難なんだろうか。買っておいて良かった。

 あと、落語ブーム。
 ちょっと僕も落語をやってみようかと思う。
 「ド落語」という新たなジャンルを開拓しよう。
 「ドラくご」と言ったほうがいいのか。
 そのうち発表します。

 と思ったら林屋たい平がすでにやってるんだなあ
 でもドラえもんに対する愛情だけは負けないから
 がんばります
 

2007/03/15 サイコほらホラー最高

 間が空いたけど、ほとんど家でのんびりする時間がなかったから仕方がないのです。
 医者、バイト、掃除、ドラクエ、無銘喫茶、チョコ作り、ネットラジオ、ブックオフ、SOHO、等々。
 
 
 バイト、友達の紹介で、西浦和駅集合ってんで
 高田馬場で用事あったから寄ってそして池袋経由で西浦和へ。25キロほど走る。
 が、西浦和駅があまりにも栄えていなさすぎて駅があるのに気付かず5キロほど行きすぎた。
 やけに遠いと思ったら。それでプラス10キロ。
 なのにまだ集合時間まで45分くらいあって難儀。
 疲れ果てて、寒いし、困って、お金ないから、お店にも入れなくて、というか、マクドナルドとかそういう100円であったまりつつ居座れるような神がかった店が西浦和にはない。本当に何もない。駅から離れたらどころか、駅前にすら何もない。キオスクしかない。コンビニは駅の裏に隠れてて最初発見できなかったし何故か扉が開けっ放しになっていて(なぜなんだ!)立ち読みしてても寒いしうまい棒も置いてないしところどころ商品がスカスカになってるし。唯一文明を感じさせるものとしてドトールがあったけどコーヒー一杯と居座り45分に金使うのもったいないし、したらどうにか近所にコインランドリーを見つけて、そこで休憩。別にあったかくはないんだけどひとまずじっとしてても死なない程度のうすいぬくもり。本を読む気力もなくてガタガタと時の過ぎるのを待ちたまに来るコインランドリアンの謎めいた視線(僕に対して謎を抱いているという意)を浴び、へへへと思ってちょっと早めにコインランドリーを出てコンビニに戻ってやっぱり寒いんだけどぼんやり何を買うでもなく選ぶでもなくコンビニの中をぐるぐると歩き回って少しでも暖を取ろうと画策していると友達から連絡があって「着いたよー」って天の助けと思ってはみたもののところがどっこい一人が二人に変わっただけで寒いのはまったく変わらない。社員の人がなかなか来なくてアンハッピーなアトモスフェアー開催。ぶるぶるしているとトラックがキキーと止まって乗りねぇ旦那って聞こえた気がしてダダッと乗り込むと動き出す。おや移動ですねと決してヌクくない車内でふるふるしているとおかしなことに気付いた、はて、いつのまにやら看板がみどりいですよ。みどりい看板というとつまりこれは高速道路ですよ。アンレマーどこへ向かうンでしょうネー、ハックションとか思ってたらなんか1時間以上経ってて、あ、雪。雪が降ってきた。と思った時にはもう吹雪に変わっていて恐怖。そういえばこの冬、一度も雪が降っているところを見たことがなかったわけだが、3月も半ばになって初めて雪が降るのを見ましたよ。ホクホク。つってもやっぱ寒い。ふと周りを走っている車のナンバーを見ると栃木。栃木?と、とちぎ。ホヤーっと感じ入っておるとまだまだ車は止まらないで移動開始から2時間が経とうとするときようやくトラックがギギギ。鬼怒川温泉駅だそうで。きぬがわおんせんえき。きぬがわ?鬼怒川ってどこなんだろう。とりあえず相変わらずの吹雪で、止まってる車が雪だるまで戦慄。おーののいたー、おののいた。おののいたことおののいたこと。おののいたこ。と。おののいたこと。小野イタコと小野イタコト。おののきました。ベリー。寒い中仕事、と言っても基本的に見てるだけ。なんかでもケーブルの配線を覚えたよ。LANケーブルのストレート配線は、白橙、橙、白緑、青、白青、緑、白茶、茶。の順だったかな。まったく、何の役にも立たない知識。でもあれですよ、もうケーブルをニッパーで切断するところからLANつくれますよ。余裕ッスよ。なんてよ。でへへ。



 寒かった。
 午前2時から午前5時まで休憩(待機)とか、また、苦しい。とうとい。
 よくある、労働はとうとい。
 
 
 
 なんといっとる場合でもない。時間をもう少しうまくつかえるようになりたいなと思っているので今日は若干早口で日記をお送りいたしました。
 
 
 ホワイトデーに渋谷系チョコレートを手作った話とかすべきか?
 と思ったけどウヘヘ。なんだってか、ほれ、うは。めんどい。
 のち。


 いろいろなことがやりたい。
 金を稼がなきゃいかん。
 そこが大きな問題だ。


 【やってること、やりたいこと】
 
 ・フリーペーパー
   ゼロ号は出した。第1号を4/14に配布。

 ・CD
   某企業の某製品のテーマソングを企画。公式化まであと一歩。あとは流行るかどうか。。

 ・ネットラジオ
   完全に趣味。火曜24時-25時。きっとすぐ自主打ち切り。

 ・音楽活動
   イカすバンド天国というダメバンドを結成したい(誰一人楽器ができない)。
   もしくはノイズ弾き語りという新ジャンルを開拓。
   駅前でチューニング狂ったギターを適当に弾きながら適当に歌う。
   まともに音楽やる気はなし。
   
 ・小説書く
   最近mixiで小説書いている人とかを見て、割といいかもと思った。
   継続は力なりと言って続けることに意義があるわけだが、僕の最も苦手なことだ。
   こつこつと小説書き続けるパワーって僕にはないから、
   1週間くらい寝ないで一気に書き上げてしまいたい。
   青春小説の構想があるのだが、どうも書く気にならない。
   とことんまで腐りきった、ダメな人間だ僕。
   できあがったら坊ちゃん文学賞にでも応募しよう。

 ・サイト作る
   渋谷系サイトとか、ひたすら漫画の最終回について語るサイトとか、
   色々考えているのだがどうも面倒である。
   
   
   
 ここに挙げたものの中で半年以上続くものが幾つあるかといったら、
 たぶん一つか二つだと思う。
 そういう絶望感が僕を包んでいてまたやる気が減退する。
 何か大きなものを失うか、誰か大切な人を生け贄にする以外に心を奮い立たせる方法がないなんて、あまりにも悲しく、虚しく、最悪。そういうベジータがバビディに魂売るみたいな行為、嫌だな。ベジータは誇りを保っていられたけど、僕はどうかな。より堕落して、どうしようもなくなるのかもしらんし。こうやって文章をガーガー書いていることがやっぱり、中学生の時くらいから、僕の精神をつなぎ止めてくれているんだろうなあと思う。最近は書いていないから精神が不安定なのかも知れない。いや、書いてた頃はもっと不安定だったんだけど。さてどうするか。
 こんな流行らないHPで流行らない文章の垂れ流しをいつまで続けるんだろうか僕は。
 

2007/03/12 ロト→ロトの子孫→ローレシアの王子

 打ちのめされました。
 僕はいったい何を憎んだらいいんだろう。
 何を愛したらいいんだろう。
 どこにもイケナイ。
 一歩引く、その体力がもう無い。
 俯瞰するには翼が必要だよ。
 物見やぐらを建てる、その経済力はどこから捻出するんだ?
 心が割れたり、脳味噌にすきまが空いたりすると、
 どうやら言葉も断片的になって、うまく意味にならない。
 幸せや不幸せは割と客観的なものかもしれない。
 僕から離れた僕が僕を見て判断することなのかもしれない。
 攻撃から守るためにバリアを張った心には
 幸せだろうが、不幸せだろうが、何も届かない。
 僕は僕から出て行かない、引きこもりながら震えているだけだから。
 僕の中にずっと僕が閉じこもっていると
 幸せとか、不幸せとか、楽しいとか、苦しいとか、何も関係がない。
 ただとまどっているだけ。
 この状況を知れなくて、何もわからないで、茫然自失。
 勇気を僕に。強さを僕に。
 そう願うだけ。
 何の実感もない。手応えもない。美味しいものと、不味いものも、わからない。
 甘いものはうまい。苦いものはまずい。
 その程度の判断しかできなくなってきている。まるで子どもだ。
 
 
 
 真夜中の風よ熱も魂も奪い取ってくれ
 不意に妙な気にさせて
 笑いながら狂うような
 狂いながら笑うような
 そういう暴走のやり方を教えてほしい
 無我夢中に生きるにはもう
 何かを失うしか
 誰かを生け贄にして生き延びるしかないのだろうか



 こういう勢い
 ある方角に向いているベクトル
 一直線のエネルギー

 そういえば僕たちができることは
 好きなものを好きと言うことか
 嫌いなものを嫌いと言うことか
 もしくは何も言わないか
 この三つしか選べない。
 若い人は何も言わないために喋り続ける
 何も考えないために何かを考える
 面倒なこと、大変なこと、難しいこと
 すべて置き去りにして、ここにある材料だけで作れるものを作る
 ままごとのように、土と水と枯れた枝や葉だけで
 想像力をふくらまし閉じられた世界を創りあげる。
 無限の空間の中に自分の居場所を探すこと、
 もしくは自分の現在位置を確かめることは非常に困難だ
 仮想の世界を設定して、座標軸を恣意的に定めて、
 それでようやくほっと一息つける。
 好きなものを好きと言ったり
 嫌いなものを嫌いと言ったりすることを
 おっかなびっくり、時にはやけくそになって喋り続ける
 ままごとの中で
 
 一直線のエネルギーは決して論理性を生まない
 一直線のエネルギーはえてして混沌としている
 一直線のエネルギーの上では
 過去も未来もない
 現在の点の連続
 だから論理性を産まない
 そんな断片の積み重ねしか生み出せない
 僕はそういう
 そういう

2007/03/11 母さんいちいち口うるさい(それは愛)

 ドラえもん観てきました。昨日。
 奇跡的に早起きして、10:40からの回に間に合った。
 どうしても10:40からの回でないとダメなのだ。何故かというと、
 うちから最寄りの映画館(自転車で10分)のユナイテッドシネマとしまえんでは、
 3月10日(初日)の10:40からの回の上映終了後、
 ドラえもんの握手会が開かれるのを知っていたからだ。
 
 ドラえもんの握手会がある
 →ちびっこたくさん来る
 →映画に対するちびっこの反応がわかって楽しい
 →あとちびっこがドラえもんに会って喜んでるところが見たい
 →っていうか僕もドラえもんに会いたい

 そういうわけで朝早く起きて行ってきた次第。
 休日は全席指定らしい。パンフだけ買ってスクリーンへ。
 ちびっこがうじゃうじゃ。
 ちびっこは楽しい。
 ちびっこは何をしてもいい。
 ちびっこは上映中に喋ったり叫んだり歌ったりしてもいい。
 むしろそれが醍醐味。
 
 ↓こっから映画の感想。ネタバレは少なめにします
 
 エスパー魔美(マジカルマミー)やコンポコ(トンポコ)、
 ライオン仮面やらオシシ仮面やらを登場させるサービス精神はグッド。
 (まだ見てない人は探してみてね!)
 
 「ドラえもーーーーん」でOPが始まったのは好感が持てるが、
 「ーーーー」がもうちょっと長かったらもっと良かったかなあ。
   
 ストーリーと作画はかなり良い。
 オリジナル要素を濃くした割にはうまくまとまったほうかと。
 文句ある人もいるだろうが、90年代末期の諸作品に比べれば…。

 文句言ってる人はだいたい大人で、
 彼らが子どもの時に見ていた「旧作」も、
 あら探ししようと思えばいくらでもできると思うんだが、
 子どもの頃は文句も言わず楽しんで、「名作だ!」とか言ってたはず。
 『新魔界』にしたって、今の子どもたちからしてみれば十分に「傑作」だろう。
 大人は「作品」に口出ししてはいけない。
 子どもが楽しんでいるのに、その親が「最近のドラえもんは駄作だ」なんて言ってるのは
 実に嘆かわしいことである。
 制作側に直接口出ししたり、投書を送ったりするのは大人しかできないから、
 そういう風に関わっていくべきだ。
 大人は黙って、投書しよう。
 もしくはインターネットで意見を垂れ流せば良いよ。

 満月博士が魔法世界では満月牧師になってるとか、
 ほんやくコンニャクを多用してストーリーの矛盾点を消そうとしてる部分とか
 細かい工夫がなかなか効いていて良かった。
 
 しかし謎なところも多い。
 「ホーキングとかんたんな物体浮遊術しか使えない」とか言ってるのに
 何故か変身の魔法が使えたりするジャイアン達とか…
 石ころぼうしが「盲点星」に変更された理由は何か、とか…。
 「盲点星が割れる」という演出がしたかったんだろうか。
 それなら「石ころぼうしが破れる」とか「どっか飛んでく」とかでも良かったのになあ。
 ちっ。好きなのに。石ころぼうし。
 北風がくれたテーブルかけ→グルメテーブルかけの変更はわかるけど。
 
 ギャグもほどよく入っていて、良い。
 しかしメジューサがちょっと怖くなさ過ぎ。
 旧作のメデューサがグロすぎたってのはあるが。
 まぁメジューサにまつわる「意外な」設定を考えたら、
 あんまりグロテスクにはできなかったんだろうと思うけど。
 このメジューサにまつわる新設定、僕は嫌いじゃないです。
 なんでこんなにメジューサがクローズアップされてるのかと思ったら
 そういうことでしたかと。
 全体的に、漫画版や旧映画版を知っている人でも
 「次はどうなるんだ?」と(ある程度予想はできたとしても)
 ワクワクしながら見られる構成になっていて、
 その点は『のび太の恐竜2006』からずいぶんと進化した点。
 
 そういえば、例の「おしまい」の部分が弱かったなあ…。
 もうちょっと盛り上げて欲しかった。
 パラレルワールドの説明も旧作のほうがわかりやすかったなあ。

 あとラスト。
 「大長編では、現実世界に影響を及ぼしてはならない」
 という大前提を忘れてしまったのか?
 映画版『夢幻三剣士』のみ例外的に「大きな影響」があるけど、
 あれはあくまで例外であってほしい。
 映画の演出としてはラストのホウキは凄い良いんだけど、
 ドラえもんの映画として考えると、あんまり現実をいじってほしくないなと。
 まぁそれを言ったら『宇宙開拓史』の雪の花や
 『鉄人兵団』のリルルの生まれ変わりをも否定することになってしまうから
 あんまりうるさく言いたくはないのだが…
 あそこまではっきりと魔法世界の影響を暗示させてしまうと、
 「風だよね、きっと」が薄くなってしまうんじゃないかなあとか。
 チンカラホイでスカートがめくれ上がる、それだけでもう「リルル級」の変化なんだよ!
 だからホウキを映しちゃうのはやりすぎっていうか。
 まぁ映画としてはいい演出だからいいんだけどさ。
 
 なんつうのかね、魔法は無いんですよ。
 現実世界にも魔法はないし、のび太の世界にも魔法はない。
 だからこそ『魔界大冒険』には夢がある。
 のび太も僕らも、魔法に憧れるという点では同じ地平に立っているから。
 なのに、のび太の世界にだけ特権的に「魔法世界の影響」を与えてしまっては、
 僕らの世界とのび太の世界との間に差別化が起きてしまって、
 「のび太の世界ばっかり、魔法世界の影響受けちゃって、ずるい!」
 僕なんかはそう思ってしまう。

 そうは思いながらも、
 せめてのび太の世界でだけでも、魔法世界の影響があるなら、
 それはそれで夢があるかもしれないなあ、とも思うので
 この辺は完璧にシュミの世界。
 今回に関してはどっちでもいいですよ。ただ、
 今後の作品で「やり過ぎ」がないことを祈る。
 学校が山の上にあるとかね、やり過ぎだから。大好きだけど。
 今回のホウキも、大好きだけど、やり過ぎかも。っていうところだね。
 良いと思うんですよ、演出としては。
 だけどドラエモニアンとしては…って同じこと何回も言ってるね。
 
 さて映画の内容についてはいくら語っても語り尽くせないんだけど
 映画が終わった後、おねーさんが出てきて
 「今回の映画は面白かったかなー!?」って客席に問いかけた。
 するとちびっこたちが、大きな声で、
 「おもしろかったー!!」
 と答えた。
 つまりこの映画は成功だったということです。
 もちろん大人が見てもかなり面白い作りになっていたとは思うし、
 その点は僕も確信できる、
 でも子どもたちの生の声を聴くと、大人の視点からの評価なんてもうどうでもよくなる。
 子どもたちが楽しみにしていて、で、見て楽しんで。それだけでもう。
 ドラえもんとの握手会(実際には撮影会)でも、
 どの子もやっぱり楽しそうにドラえもんとふれあっているんよね。
 
 で、僕も年甲斐もなく、
 ドラえもんと写真撮ってきましたよ!
 
 
   
 
 ついでだからコスプレ写真も載せておきます
 
 
 



 総括。
 今回のドラえもん映画は、良かった!去年より良かったかもしれない。
 来年はもっと良くなるように祈り…これ毎年言ってるな。
 でも毎年ホントによくなってってるから
 完全オリジナル作品でも同じくらいの、いや今年以上のクォリティが出せるといいなと思う!
 期待しますよ!
 というわけでこんなんで。

2007/03/10 第2007回三頭政治

 一応新しいサイト作ってるんだけどね。
 実に一月半振りの更新。
 いや実はたまに更新してるんだけどスグ消してるんですよ。
 なんでかなあ。
 書くのが恥ずかしくってね。
 でも、基本的に誰かから「更新しろ!」と言われたら
 更新することにしているのです。
 「ファンですいつも楽しみにしてます」とか言われたら特に
 何かいいことの一つも書かなくてはならんのかなあという気になってきます。
 
 
 
 今日はドラえもんを観に行ってきます
 初日に、としまえんの、握手会のある回(まだ席あるかなぁ)に行けば
 きっとお子たちがわんさかいて豊かな反応を返してくれることうけあい。
 早めに行かないと、これは、閉め出されてしまう。
 で夜はテレ朝で去年の映画『のび太の恐竜2006』が放映されるのでそれも観る。予定。
 
 そういうわけで今日はドラえもんの感想的な日記をうpしようかと思っておりますよ。
 
 
 
 ところでWeb日記も7年近くやってると
 あのことはもう書いたかな、これも過去に書いてるかな、なんて思って
 結局何も書けなくなってしまうことが多いです。
 これから少し話そうかと思っている太宰治のことにしたって、
 きっと僕は何度となく同じようなことを言っているはずで。
 それはまぁうそつ機とソノウソホントの違いくらいのもんだと思ってくだされば幸い。
 
 
 
 僕は過去、太宰治のファンだった。今もファンである。
 ただ、「好きな作家は太宰です」と言うのがしばらくずっと恥ずかしくって公言は避けていた。
 今でも若干恥ずかしい。
 それは何故かというとひとえに『人間失格』という作品のせい。
 僕はアレが嫌いだ。
 太宰は高校の時に真剣に読み始めて、主要な作品はその頃にすべて読んだ。
 思春期に太宰と出会った人間としてごく典型的なはまり方だと思われる。
 おっと、「すべて」というのは嘘だ。『人間失格』だけは読まなかった。
 『人間失格』を読んだのは確か、20歳になってから、早くても19歳の時だったような気がする。
 大学2年か3年。
 
 大学1年の時に全集を買って、ほとんどの作品を読み直していたにもかかわらず、
 頑なに『人間失格』だけは読まなかった。
 ベストセラーを読まない気取った若者や
 ホワイト・アルバムが一番好きだと言う者を軽蔑するビートルズ・ファンとか
 そういった心理状態からそうなったんだと自分では思いたくない。
 そういうんじゃなくて、どちらかというと
 あ、そういえば僕は村上春樹の作品はおおかた読んだけど、
 『ノルウェイの森』は読んでいない。


 単純に僕は『ノルウェイの森』が嫌いなんだ。
 読んだことないけど。
 『ノルウェイの森』を読んで、頭をおかしくしてしまった人を僕はたくさん知っているから。
 (特に女の子に多い)
 同じように
 『人間失格』を読んで頭をおかしくしてしまった人や
 太宰治を嫌いになってしまった人や
 あるいは大好きになってしまった人をたくさん見ている
 そしてそれらの人々が何の魅力も発していないという事実もなんとなく知っている。
 だいたい『人間失格』が好きとか、『人間失格』で太宰にはまったとかいう人に限って、ろくなのがいない。
 これはだいたい間違いない、
 僕は単純に『人間失格』が嫌いだった。
 20歳近くなって、読んでも、「ふうん」という印象だった。
 もちろん、思春期真っ盛りの頃に読んでいたらどうなっていたかわからない。
 中学時代は村上龍に傾倒していたような僕だ。(それが悪いわけじゃないけど)
 『人間失格』を読んでしまっていたら、と思うとぞっとする。
 あの本は18禁に指定すべきだと思うし、課題図書だの、「新潮の100冊」なんかにされるのは、
 これはなんだ、思春期の脳味噌を破壊しようとする行為にしか思えない。
 もしくは、太宰治の正当な評価を妨げようとする政治運動か?
 
 太宰文学の面白さというのは『人間失格』の中にはないと思う。
 なぜこんなにもてはやされているのかがわからない。
 文章だって決して美しくはない。『斜陽』なんかに比べたら。
 同じように暗い作品の中でも、『桜桃』や『ヴィヨンの妻』のほうが衝撃的で、文章も綺麗だと思う。
 『人間失格』は「わかりやすい太宰像」がそこに描かれているから「代表作」なのだ。
 適度に長くて、適度に面白くて、何より暗い。
 「みんなの思っている太宰治」というのが『人間失格』であり、
 『人間失格』を読んだみんなが「太宰治ってこういう人」と思いこむ
 これのくりかえし。イメージの再生産。だから嫌だ。
 一度このようなサイクルの中に入ってしまった人は、
 簡単にはイメージの渦から逃げ出せない。

 太宰治は自殺した。
 だから代表作は『人間失格』。
 もしも太宰治が自殺せず、谷崎潤一郎のように長生きして、
 『走れメロス』のような作品を書き続けていたとしたら?
 代表作の中に『人間失格』が挙げられることはなかったかもしれない。
 『晩年』や『人間失格』にみられる暗さよりも、
 『富岳百景』以降に取り戻した希望や、前向きさや、純粋の文学性の高さのほうがクローズアップされていたかもしれない。
 太宰治の代表作を『人間失格』であるとする向きは、いわゆる「作家論」の弊害のようなもの。
 つまり、作品の背後に作者の姿を見る、という方法。
 「太宰はこの時、こういう出来事があって、こういう精神状態であった。だからこういう作品を書いたのであり、この作品に出てくるこの人のモデルはだれそれだ」などと、意味もないゴシップ的な情報を並べ連ねて「文学研究」と称していた時代の名残。
 別に作家論が悪いというわけじゃない。むしろされてしかるべき。ただ「作家研究」と「作品研究」が余りにも結びついてしまうと、太宰という人間自体が「作品」であるという向きに凝り固まってしまうと、『人間失格』的な作品ばかりが取りざたされることになり、他のすばらしい作品たちが霞んで見えなくなってしまう。たとえば僕の大好きな『座興に非ず』なんか、話題に上ったことすらない。ああいう、「暗いけど明るい作品」が書けるのは凄いなあ。
 暗い作品や、思春期向けの作品ばかりが「代表作」としてクローズアップ現代される現代。そういう風潮が僕は嫌いで、「太宰治ってそういうのばかりじゃないだろ!?」と思っていて、それで『人間失格』が嫌いになって、『人間失格』が好きだという人のくだらない与太話を聞かされてうんざりして、また嫌いになって。読んでみて、それでも好きにはなれなくて。いや、つまらなくはなかったんだけどね。面白かったんだけど、騒ぐほどでもないというか。
 
 
 
 長くなってしまったが、そろそろドラえもんを観に行かないといけない。
 僕が納得できる理由なしに『人間失格』が好きだとか言っている奴は本当に
 考え直したほうがいいと思う。とりあえず他の作品をがーっといっぺん読んでみたらどうかね。

 9:13
 人生\(^o^)/オワタ

 紆余曲折を経て
 3:07現在、ようやく古事記が終了。
 全部やるのはやっぱ無理だ。朝までに近代文学と国語表現論が終わればよしとしようガハハハ。
 終わらなかったら最悪、国語表現論は学校で書くしか。

 はてさて。寝るつもりが
 一個片付けてしまった。とりあえず依頼原稿を書き終えたぜヒャッホーゥ!
 さて次は古事記かね…マンドクセ('A`)

2007/01/23 あれれ・・・仮面が・・・ふたり?

 タイトル考えている暇もありません。
 水曜の午前9:00までに
 依頼されてる原稿一本、レポート5本、小レポート5、終わらせます。
 無理っぽいけどまぁなんとかしますよ
 水曜9時までに最低でも原稿1、レポート3、小レポート5 は終わらせないとアウト。
 留年ということです。
 まぁでも僕は1時間くらいパラパラと本読んだだけで
 平家物語のテストをほぼ完璧に解答できる男ですから!
 余裕っすよ!
 ところで今2007/01/23 3:35です
 これからの予定
 ・7時くらいまで寝る(起きられるのか?)
 ・10:30に練馬でメガマック喰いにいく
 ・午後は家に客人が来るのでやれないような…
 ・夜、本気出す
 あれれー、レポートやれる時間が正味12時間くらいしかないよー
 原稿に2時間
 レポート1本につき2時間
 で考えるとちょうどこなせるか(あ、小レポートが余る…)
 
 まぁうだうだ言っててもしょうがないので
 卒論の時と同じく奇跡を期待して
 実況していきます
 ちなみにTo doをまとめよう
 
 ◎水曜提出 古事記上巻に関して然るべき題目で書け(手書き 2000字)
 ◎水曜提出 本年度とりあつかった作品や作家、メディアを対象にしてジェンダーの視点からレポートしなさい。参考文献を三点以上用いること。(A4 自由枚)+小レポート5枚
 ◎水曜提出 国語表現について (2800~4000字)
 ◎木曜〆切 依頼原稿
 ◎木曜提出 「読書論」を一冊読んでレポート(3000字+自由枚)
 ◎木曜試験 資料組織概説及び演習(だっけ?)
 ◎金曜提出 学習モデルを用いた指導案と学習レポートの作成

 よし、まとめたらなんとかなんとかなりそうな気がしてきた。
 そういうわけでいったん寝る。

2007/01/12 今際の際知ろう

 ぐるぐる回る60秒をくりかえして
 ぐるぐる回る60分をくりかえして
 ぐるぐる回る24時間をくりかえして
 ぐるぐる回る365日をくりかえして
 ぐるぐる回る100年をくりかえして
 ついにそれまで円環的構造に見えていた時間が
 直線に変わって
 とほうに暮れる
 時間は永遠ではないのだ
 僕らはどこかに行かなくてはならない
 (時間なんていうものがなかったら!)



 「人間はなんのために生きているのか」なんて
 とっくの昔に忘れてしまった
 いや
 そもそもそんなことを考えたことがあっただろうか?

 「自分はなんのために生きているのか」でもいい
 そんなことを考えたことがあったかどうか


 自分を取り巻く「世界」について考えたことは?
 もう何もかも忘れてしまった

 
 少し努力をして思い出してみようかと思う
 「人間はなんのために生きているのか」という問いは
 「人間はなにかのために生きているのだ」という前提に立った問いで
 僕には「人間はなにかのために生きている」という前提がうまく飲み込めなくて
 それで考えるのをやめたような気がする
 
 同じように「自分はなんのために生きているのか」という問いも
 「自分はなにかのために生きているのだ」という前提に立った問いで
 なんか「自分はなにかのために生きている」という前提に実感が持てなくて
 それで考える価値がないと判断したんだったような気がする
 
 昔の話。
 
 
 中学くらいの時は
 「正しい」結論を導き出せそうにないことは考えないようにしていた
 死刑の是非とか。
 あの頃は「正しい」結論というものがあると信じていたわけだ


 「正しくない結論」を「正しくない」と知りつつも
 それでも背負って生きること
 それが「思想」であることを知ったのはもっとずっとあとの話。
 
 「正しくない結論」を「正しい」と思いこんで背負うことは
 「思想」というには浅はかすぎるし
 「正しい」宗教にはほど遠い。
 もちろん、「正しくない」宗教なんて存在するわけはないのだが
 (信者でない人の大部分に)「正しくない」と信じられている宗教も数多くあるようだ。


 ところで「正しい」宗教とは
 「正しい」ことを「正しい」と信じることだが
 「正しい」ことを「正しい」と信じるためには
 その宗教が「正しい」宗教である必要がある
 
 このメビウスの輪の中にどうにかして入り込むことが
 「宗教を信じる」ために必要な唯一のことのようだ
 そのきっかけを与えるのが布教する者たちの仕事らしい

 どんな宗教を信じる時でも
 この「メビウスの輪の中に入り込む」という瞬間があって
 それはもっとも神秘的な瞬間だろうと思う


 「人間はなんのために生きているのか」という問いを立てるためには
 「人間はなにかのために生きている」という前提をまず受け入れないといけない
 これがぐるぐると回る「てつがくてき」思考の輪の中に入り込むために
 必要な唯一のことのようだ
 それは宗教を信じ始めるときの神秘的な瞬間によく似ている
 僕はまだ「てつがく」のメビウスの輪の中に入り込めないでいるのかもしれない。
 (あるいは、いつの間にか抜け出してしまったか)


 最近ある女性から
 「人間は何のために生きているんだろうって考えたことある?
  (私はいつも考えているんだけど)」
 的なことを言われて

2007/01/10 高2なのに小2麻痺

 あの頃の僕はとにかく人から誤解されることが嫌いだった
 本当の僕はそうじゃないのにと、憤っていた
 泣いていないのに泣いていると思われるのが嫌で嫌で
 むりやり笑顔を作ったりさえした
 
 本当の自分なんていうものが存在するという思いこみに裏打ちされた
 実にばかばかしい悪い癖だった
 自分がどこかに存在しているだなんて幻想を
 イメージの断片が寄せ集まった総体としての自分が
 どこかにいるんだなんていう妄想を
 抱いていた僕は本当に浅はかだった
 
 僕はどこにもいない
 誰が「いる」と主張しようとも、僕はいない
 確かだ
 名前を呼んだだけで何かを説明したような気になっていた
 名前をつけただけで何かを分析したようなつもりになっていた
 
 でもそんな卑怯者の僕も存在が否定された今となっては愛すべき故人
 
 僕はこれからどういうつもりで「僕」という言葉を使っていけばいいのだろうか
 「彼」と、他人を指すような気持ちで言うのだろうか
 僕はいないのに、誰のために僕は「僕」と言うんだ?

 なんとなく信用できるような気がするのは肉体だけだ
 けど怪しいもんだ
 こうしているときにふっと手を止めて
 じっと見つめていると
 指先からゆっくりと砂になっていくような錯覚に陥る
 それがじわじわと進み心臓に達したときを想像すると
 ドキッと
 胸のなかが一瞬「空腹」で満たされたような状態になる
 口の中の感覚がなくなって、思わずぺろりと舌を動かす
 
 しばらく息苦しい
 
 こんなことがいつまで続くんだろう
 下唇が自分のものとは思えない

2007/01/05 小2休み

 実家に帰っていました。
 実家から帰ってきました。

2006/12/30 ナゴァチワ

 書かないと手が鈍る、と言って、書くだけでは。読まないと目が濁る、と言って、読むだけでは。というわけだが、どうしていいのかわからない。生きていると、それだけでむらができる。まぁそのバニラアイスにチョコレートがコーティングされて木の棒が刺さったやつがあって、パリパリとチョコレートが剥がれ落ちて、その状態にナッツがいっぱいくっついて非常にぶかっこう…って意味不明だ。



 原宿
 →いちょう並木
 →東京タワーから続いてく道にあるドンキホーテで六本木メイド服の完成度を再確認

 いや、なんていうんですかその「六本木メイド」っていうのが
 ドンキホーテに6990円で売られているわけですが
 それが、もう、他のドンキ系メイド服の中ではダンチですね。
 断然トップのすばらしさ。
 ドンキ六本木店には大量のメイド服が展示されてて、実際に手で触って確認できるのですよ。

   「六本木メイド」は、まず白黒が基調になっている、というか白黒しか使ってないのが好感度↑
 というか僕はメイド服買うとしたら白黒しか買いませんね
 ネクタイはあってもなくてもいいんだけど、六本木メイドには有り。
 頭はもちろん白のヘッドドレス。ひねりのない奴。王道が好きなので。
 耳とかは、年に数回くらいでいいです。
 シャツが白で、その上に黒い生地のワンピース。
 半そで白シャツの上にノースリーブの黒ワンピがきてるのがポイントですね。
 で、腰回りにはさらにエプロン、と。
 何よりも注目すべきはスカートで、
 なんと、エプロンを含めると5層構造になっている。
 上から、白エプロン+黒スカート+白フリル+黒ツルツル+黒アミアミ
 ツルツルとアミアミは逆だったかな。買って確かめないとな。
 他のやっすいメイド服はせいぜい、エプロン含めても1層~3層程度なんですよ。
 ほらエプロンとスカートが一体化してるのもあるから。
 それが「六本木メイド」は、5層ですから。
 まぁエプロンは独立してるからスカートだけで4層と言ったほうがいいかな。
 
 そういうわけで一押しは「六本木メイド」
 いやゲーセンのプリクラコーナーで見かけてから気にはなっていたんだが
 今ならパッケージがゆうこりん。
 これは買うしかないですね
 1日バイトしてその金で買おう。
 ワチャゴナドゥードゥフォーミー

2006/12/28 クックドゥードゥーフォーミー

 写真家は文系でも理系でもない言語をしゃべる人が多い
 かと言って体育会系でもないし
 謎の言語だ
 「芸術」とはそういうものなのか?
 
 革命ってなんだよ!
 
 それと四十近くなってもどうしようもない人ってのはやはりいるんだなと実感した

2006/12/27 茄子の果実

 遅まきながらアニメ映画『茄子 アンダルシアの夏』を観た。
 これは黒田硫黄の『茄子』という連作短編漫画の一篇が原作になっているが、
 内容はなんとスペインの自転車レースを扱ったもの。
 こんなマイナーな素材をよくアニメ化しようと思ったものだ…

 結論から言うと、良作。
 今となっては、劇場で観たかった!
 以前は
 「黒田硫黄をジブリ絵でアニメ化?ふざけんな!」
 とか思っていた
 確かに単行本のおまけページを読んでみるとアニメも十分面白そうだなとは思ったが
 劇場公開時期を逃しているので観るチャンスもなかった

 で実際に観てみるとやはりどこまでもジブリ絵だ
 黒猫なんてどうみてもジジだし!あのゴーグルもどっかで見たぞ!
 しかしそれはそれでそれなりにはまっていた
 大泉洋を始めとする芸能人の声優たちも意外と良かった
 (そう!声優に芸能人を起用しているのがジブリくさくて嫌だったのだ!)
 エンディングテーマも忌野清志郎だし、こだわりが見える。
 
 黒田硫黄の絵がジブリ風に変身しているのに余り違和感がなかったのは
 原作にあまり手を加えず、忠実に、いやほとんど「完璧に」再現しているからだろう
 (せりふとかほぼそのまんま使っている。これほど原作に優しいアニメもなかろうに)
 それに一番の見せ場であるゴール付近での競り合いのところではちゃんと黒田絵になっていた。
 迫力あって良し!
 CG的なものを使いまくっていたのがアナログアニメ世代としては少し気になったけど
 じゅうぶん許容範囲。

 で、僕が映画『茄子』を評価する理由をちょっと述べておこう。

 漫画『茄子』になくて映画『茄子』にあったもの、それはまず「色」だ 
 漫画『茄子』は白黒でトーンもほとんど使っていないため、
 人物と自転車の見分けがつきにくかった。しかも舞台はスペイン。
 聞き慣れぬ人物名がたくさん出てきて頭がこんがらがった読者も少なくなかろう
 そうでなくても自転車レースはマイナーなスポーツであり、
 「先頭交代」という概念すら知らない人も多いと思うし
 あの漫画だけで自転車レースの魅力が十分に伝わったかどうか。
 正直言って、漫画『茄子』は自転車を知らない読者には不親切だった。

 しかし映画『茄子』には色があり、さらに「声」があった。
 人物の見分けがつく、個性が際だつ、といった効果だけでなく
 茄子やワインの色彩やアンダルシアの風景が鮮やかに映し出されている。
 これだけで物語の魅力は格段にアップ。
 
 さらにレースの「動き」が誠に正しく、余すところなく描写されているのが凄い。
 嫌というほど先頭交代しているし
 風向きに従って斜めに並ぶとか、ギアチェン、ダンシングなどの表現もきっちりと見せる。
 原作では表現しきれなかった部分を補完しているという点で映画『茄子』はすばらしい!

 もちろん黒田硫黄の「味」がすべて活かされているというわけではない。
 そういう意味では僕はやはり原作のほうが「好き」だ。
 たとえばラストなんかは原作のほうが余情があっていいと思う。
 映画ではぺぺが茄子を食べるところまで描いてしまっているし、
 そのあとすぐにスタッフロールに行ってしまうから
 あの印象的なラスト・シーンが流れてしまっている。
 
 
 
 ともあれ映画『茄子 アンダルシアの夏』は良い作品だった。
 観てたら自転車に乗りたくなってきたので、
 今からロードで国会図書館あたりまで走ってきます。
 と、その前にチューブ取り替えなくちゃな。

2006/12/25 やえばのブーメラン

 1月8日の「ヤギOナイト」のチケットがとれまちた
 60席限定と聞いてヒヤヒヤしていましたが
 なんと整理番号4ばん!
 ヤギOナイトは元川本真琴のタイガーフェイクファさんが
 毎年(たぶん)お友達らと3人でやってる手作り的なライーブで
 よくわかんないけどたぶんミュージカルかなんかやるんではないですか
 僕も山羊座に生まれたかった…
 
 
 それにしても2000円+ドリンク代は安すぎるだろ常識的に考えて…
 しかも会場が大学の最寄り駅である高田馬場。
 これは。
 2月には久しぶりに奥井亜紀さんのライーブ
 4月にはコーネリアスのライーブ
 (・∀・)ウマシ!
 
 
 けどライーブなんて嫌いというか苦手
 タダなら行くけど、よほどでなければ自発的には行かない。
 タイフェイ、奥井亜紀、コーネリアスなんかはホントに特別措置。
 忌野清志郎だけは純粋に楽しめたなあ。
 クラブに行くのも苦手。

2006/12/24 愛はジャスコ

 ウーチャカ大放送聖夜編が終わりました。
 楽しかった。
 13~15人(ひょっとしたら、もっと)くらい聴いてくれたようだ。
 今までで最高の動員数かも。
 みんなイブの夜に何やってんだと。
 
 
OP Special Radio/三重野瞳

ドアをノックするのは誰だ?/おジャわ健二

行け!ザンボット3/無敵超人ザンボット3OP

稲穂/ジャッキーとスピッツ
一年中クリスマス セロリ・パセリ/所ジョージ
とまりぎ/奥井亜紀
恋をしようよ/武田真治
どう見ても精子/VIPPER

雪が降る町(メリクリバージョン)/ゆず
12月24日/Pizzicato Five
Christmas In Haiti/Would Be Goods
I Don't Intend To Spend Chirstmas
新曲めどれー(X'mas mix)/CECIL

聖闘士神話(English Ver)/影山ヒロノブ
ペガサス幻想/ナイトメア

ゲスト:矢崎隆雄さん

未定/VIPPER(VIP HOP)
クリスマスと黒いブーツ/BLANKEY JET CITY
今北産業/VIPPER(VIP HOP)
完全メイドのロックリスマス/完全メイド宣言

Merry Christmas Mr. Lawrence -Theme-/坂本龍一
神を忘れて、祝へよX'mas time/高橋幸宏
スプーン一杯のクリスマス/MOONRIDERS
ハッピークリスマス/川本真琴(ジョンレノンカバー)

赤鼻のトナカイ/ナイトメア
Slide/Flipper's Guitar
White Love Story/Raphael

讃美歌/Plastic Tree
きよしこの夜/Pizzicato Five
Tagtea/奥井亜紀

雪が降る町/UNICORN

SATSUGAI/Detroit Metal City

Thank you for the music/cornelius


 ケーキを作って実況しながら以上のような曲を垂れ流し。
 ケーキうますぎワロタ
 『雪が降る町』は泣けます

第十六回ウーチャカ大放送


↑のアドレスをクリックしてプレーヤーで開く
一度保存してから再生してもOK!


本放送は23時から。
それまでは適当に垂れ流しされています


【mixiウーチャカ大放送コミュのトピック】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=13500956&comm_id=538428

「詳しくは↓へ!」
今回はクリスマス特集。
それ的な曲をたくさんかけます
メインはケーキを作る、です
ゲストあり、2chとのコラボ(?)あり
(ジャッキーさんが叩かれるところを実況するかも)



「おわび」
すみません、ラジオドラマは時間がなくて作れませんでした。
次回かならず。

12月23日(土)第16回ウーチャカ大放送やんよ

第十六回ウーチャカ大放送
12月23日23:00~イブの夜まで

「イブイブも 零時を過ぎれば イブの夜!
 ウーチャカ大放送イブの夜だからケーキツクリスマスペシャル」

誕生日スペシャルの時に作れなかったケーキを
イブイブの夜からイブの夜にかけて作ります!
作ってる過程はもちろんラジオで実況&写真うp
写真はたぶん掲示板に。

夜を彩る選曲はもちろんクリスマス的な何かを心掛けます!
リクエストある人はどうぞ!

また今回は豪華ゲストとして
孤高の詩人・矢崎隆雄さんをお招きして語るコーナーを
予定しております
矢崎さんの詩が読めるブログ→http://yazakit.jugem.cc/
忙しい方なので余り長い間はご出演されないと思われますが
生放送は初めてとのことなのでみなさんお楽しみに!

そしてなんか突発的に「ラジオドラマ」がスタートします。
詳細はまったく未定です。

放送はとりあえずケーキが完成するまではやります。
2時くらいまではかかるんだろうと思われますよ。

ほか、スカイプ・MSNメッセ音声チャットなどでゲスト出演していただける方はご連絡ください。本番の夜に自宅まで押しかけてこられるのも歓迎します。

それでは23日の深夜にお会いしましょう。グ~~レイトォ!


※「ウーチャカ大放送」とは
インターネットラジオ。
mixiコミュニティ→http://mixi.jp/view_community.pl?id=538428
iTunesとかWinampとかWMPとか、
ほかどんなプレイヤーでもたぶんたいてい聴けます
当日の夜発表されるURLをクリックして再生するだけで
聴ける!のでみなさん聴いてください
URLはこの日記上に公開します。

今年最後の放送ですお

2006/12/22 0息

 しが身近
 天空からじわじわと夜のように降りてくる
 窓や衣服のすき間から入り込んでいつの間にか胸を締め付けて支配する
 怖すぎて朝までは眠れない
 怖すぎて夕方までは起きられない

 恋をしようよ
 パーラーラー パッパラッパーパラー
 パーパーパ パッパーラー パーパー パーパーパー
 パッパラッパー パラー パーパーラ
 パッパーラ パーパー パーパーパー

 押し入れを抜本的に整理していたら過去の遺物が死ぬほど出てきた
 ジャッキー全集が出版されたらこのへんのは最終刊に収録してほしい
 小学生の時に書いたポエムとか発見
 中学生の頃の長い長い日記が一番泣ける
 ああいう文章は今でも強い
 心に迫って掴みかかってくる
 これが僕だけに響くのではなく
 誰の心にも響かすことのできる「中学生日記」を書くことができたら
 と思う。

2006/12/21 毛深

 明後日のラジオで作るケーキは
 「ブッシュ・ド・ノエル」という よくわからんチョコバナナ的なものに一応決定。
 オーブン不要、フライパンで焼くケーキだそうだ。
 携帯コンロを使って部屋の中で焼きながら実況します。


 選曲もだいたい決まってきた。

 『神を忘れて祈れよX'mas time』(高橋幸宏)
 『tagtea』(奥井亜紀)
 『雪の降る街』(UNICORN)

 あたりは、泣けます。僕が。

 ラジオドラマとゲストの件については
 まだまったく手を着けていません

 が。
 今回は最初で最後と言わんばかりに気合い入れてやるつもりなので
 みなさま是非聴いてくださいね
 URLは当日22時ごろ発表して、それから一時間程度メンテナンスやマイクチェックなどしつつ適当な音源を垂れ流しているので
 22~23時の間にスタンバイしてくれているといいです。
 がんばるんで、がんばってください。

2006/12/19 ネオセックスデス

 少し間が空いてしまいました。
 上のほうに書いてあるように23日の夜から24日の夜(!)にかけて
 インターネットラジオやるから是非聴いてね。
 ちょっと早めに垂れ流しやってると思うので、適当に。
 
 やっとドラクエ4クリアしたので日記が書けます。
 もう10回以上はクリアしてるかもしれないドラクエ4。
 何度やっても楽しいものでありますよ。
 なんでだいまどうは
 公式ガイドに載ってるのにおにこんぼうは
 載っていないのか。
 出てくる場所はほぼ同じなのになんでなんだぜ?
 
 しかし、にしても、寒い。なんだこれ。
 
 最近いくつかのプロジェクトが同時進行していて忙しい
 はずなのにザンボット3観たりドラクエ4やったり
 MMR読んだりしてる。こんなんでいいのか、いかん。
 いかんがとりあえずザンボット3とMMRは消化せなならん。
 図書館から借りてる本も6冊読まねばならん。
 年内にそれだけ終わるかな…。
 来月末までにレポート数本、試験が数本に
 現在取り組んでいる最も大きなプロジェクトを完成させなければならない
 (これはまだ言えない)
 友達と組んで英語の参考書を作ろう!的なプロジェクトもある。
 名付けて「MMABKSプロジェクト」である!詳細は秘密。
 しかし僕はこんな遊びほうけていて
 相方のほうばかりやる気満々でござるよ。
 いやしかしオタクにとって絶え間ない情報収集は不可欠なんですよ
 アニメ観て漫画読んで本読んで映画も観て、っていう
 これをこなさずしては、僕は僕を維持していくことができないわけです。
 それをやりながら各プロジェクトの詳細を練っていくのだ。
 ザンボット3を観ながら、ドラクエ4をやりながら、MMRを読みながら、
 アイディアはガンガンガンガン湧き出てくるわけだ。
 さっきから「プロジェクト」という言葉を使っているが
 どうもくすぐったい。でもかっこつくから使うのだ。
 MMABKSは、あんまり難しいことになるとちょっと語学と受験勉強から離れすぎてた身としては少々きついので
 (つっても家庭教師やめてからまだ2年経ってないのか)
 MM的な要素の取り込み方について考えることにした。
 が、しっくり決まらない。うーんどうしたものか。
 あとは「毎月の環境学会」についてとか
 デトロイト・メタル・シティ渋谷系まとめの更新とかも年内にはかたづけておきたいし
 『人と超人』を訳すのもまだ途中だし。
 …いつまで市川訳を使っている気だ岩波文庫!ってかそれすらもずーっと品切れ状態やんけ!
 喜志訳に変えるか、ジャッキー訳を採用したまえ!!
 採用してくれるんなら半年以内に全文訳す。すいません半年はかかります。
 1ページ目を訳すにあたってイギリスの召使いについて調べまくってたら
 それだけで1日使ってしまった経緯あり。
 そうでなくとも長いし、第三幕なんて、読むのも苦痛なのに、訳すとなると、厳しすぎる。
 まあどうでもいい。
 そうだ!しのう。

2006/12/15 マグナ・カルタ

 受験生のころターゲット1900という英単語集をブックオフで100円で買って
 1から1900までの英単語の通し番号を年号に見立てて
 紀元元年から1900年までの世界史的な事件をわかる限り書きまくり
 英単語と年号とを同時に覚えるぞーみたいなことをしていたのを思い出した。
 
 中学三年生の時はマグナ・カルタなんて知らなかったけど
 友達と年号対決をしていて
 マグナ・カルタだけは僕は知らなくて
 (暗記に使ってた資料になぜか載ってなかったらしい。他はすべて覚えてた)
 それでマグナ・カルタだけは忘れない。
 っていうか今の中学校ってたぶんマグナ・カルタ習わないよね
 習った覚えないもん
 それどころか授業を聴いていた覚えすらないんだが。
 いやでも教科書で太字じゃなかった(もしくは載ってなかった)気がするマグナ・カルタ。
 今にして思えばそんな教科書はすっごいダメな教科書だなーと思うんだけど
 そういうマイナーさとマグナ・カルタという語呂の良さとで
 僕はすっかりマグナ・カルタの虜である。
 マグナ・カルタに関する本も買ってきて読んじゃうよ!
 あー。それで今日はマグナ・カルタの日なんですよ。

2006/12/14 >>僕の才能にBET

 してくれる方を広く募集。
 仮に僕が株式会社を設立して、
 一株1500円程度の株券を発行したときに
 確実に一株以上買ってくれるという方を歓迎します。
 メールでもくだされば、予約しておきます。
 
 
 中村一義の初期作品及び当時の彼のことを僕はしょきよしと呼ぶ。(『犬と猫』~『主題歌』あたり)
 黒夢の初期作品及び当時の彼らのことを僕はしょきゆめと呼ぶ。(ビジュアル系だったころ)
 BUCK-TICKの初期作品及び当時の彼らのことを僕はしょきちくと呼ぶ。(恥ずかしいころ)
 
 村上春樹の初期作品及び当時の彼のことをどう呼ぼうかと考えた時に困った。
 上の例で「中村」を消して「一義」の面影を残したように
 「村上」よりも「春樹」の面影を残したい。だってみんなハルキって呼ぶんだもん。
 すると候補は、
 しょきるき。しょるき。しょきき。はるしょき。はしょき。うーん、ピンとこない。
 しょきはるき。そのまんますぎる。はるきしょき。ん?はるきしょき。おお、
 決定!これから僕は
 村上春樹の初期作品及び当時の彼のことを
 「春樹初期時代」と呼ぶことにします。
 これは柔軟に「春樹初期時代の作品」「春樹初期時代の彼」などとも使用可能。
 「春樹初期時代はさ~…」なんて発話しても良さげ。
 英訳すると“Good Old Haruki”か。
 定冠詞をつけて“The Good Old Haruki”などとしてもいいと思う。
 まー「古き良き春樹」って言っちゃったほうが無難かつ語呂も良かったりするけど
 「春樹初期時代」は必ずしも村上春樹の初期作品及び当時の彼を肯定的に捉えるための用語ではないので
 (英訳でGoodって言っちゃってるけど気にしな~い、いつだってノープロブレムよん)
 公式的には!「春樹初期時代」と言うことに。
 「古き初期春樹」は支離滅裂である。
 
 あ別に僕は春樹初期時代を肯定的に捉えるわけでも否定的に捉えるわけでもないし
 特別に村上春樹を好んで読むというわけではないですよ。
 村上春樹で特に好きな作品は?と聞かれたらひとまず「別に~」と答えます。
 それから考う。

2006/12/13 ザザンザーザザン ザザンザーザザン ザザンザーザザンはゆかいだなー

 「行け!ザンボット3」
 
 ザザン ザーザザン ザザン ザーザザン
 ザザン ザーザザン ザザン ザーザザン
 ザンボット3 ザンボット3
 ザンボット3 ザンボット3 ゴー
 あいと ゆうきと ちからとが
 しずかに ねむる うみの そこ
 とびたて とびたて とびたて
 みっつの メカが ひとつに なって
 せいぎの すがた きょだい ロボット
 そのなも われらの ザンボット3
 たたかえ われらの われらの なかま
 ひろい うちゅうへ はばたいて ゆけ
 ザザン ザーザザン ザザン ザーザザン
 ザザン ザーザザン ザザン ザーザザン
 ザンボット3 ザンボット3
 ザンボット3 ザンボット3 ゴー
 
 
 名古屋テレビが世界に誇るアニメ『無敵超人ザンボット3』を観てますよ。
 大山のぶ代の声久しぶりに聞いた。
 面白すぎて眠れません。眠いのに。
 あとなんか急にドラクエ4がやりたくなったりしてる
 読みたい漫画も、読まなきゃいけない本も、
 やらなきゃいけない仕事も、さまざまの用事も、いっぱいある
 そう。仕事といえば現在、計画が二つほどあって
 うまくいけばうまくいくんだけど
 そのためには努力しなくては。
 ああ。

2006/12/12 胡頽子くれよ!

 考えることが面倒になるときもあります

2006/12/11 飛ばされた腰抜け

 1日抜けてしまったか。ぬかった。
 記憶力が減退してきた。僕が誰かと何かを話したとして、
 それがどんな想い出であったかが思い出せない。


 タイ映画が最近元気なようですよ。
 我らがトニー・ジャー主演の『マッハ!』(タイ公開2003)『トム・ヤム・クン』(同2005)、
 タイのアスリート達がそれぞれの身体能力を活かして武装ゲリラと闘う『七人のマッハ!!!!!!!』(同2004)など。
 この三本はそれぞれ3~4回ずつくらい観ている。
 はやくトニー・ジャーの新作が公開されないものかと心待ちにしている次第。
 もう笑うしかないほど人間離れしたアクションの凄さは
 予告編を見て想像してもらうとして(もちろん本編はもっと凄い)。
 『マッハ!』 『トム・ヤム・クン』

 これらの映画を観ていて思うのは
 タイ人って、本当にタイのことが好きなんだなあと。
 『マッハ!』では奪われた「仏像」にタイ仏教への厚い信仰心を込めて表現し
 『七人のマッハ!』では国歌によって祖国愛を鼓舞され武装ゲリラに立ち向かう姿を描き
 『トム・ヤム・クン』ではタイの象徴たる「象」と国民との深い絆を映し出す。
 どの映画でも「古式ムエタイ」という伝統的なタイの格闘技が使われ、
 「信仰」や「祖国」や「象」、そして「家族」を踏みにじる連中と闘い、そして勝つ。
 なんともわかりやすくて、気持ちいい!
 タイを踏みにじる行為も本気で描いているところがまた良い。
 仏像や寺院を破壊したり、女、子ども、僧侶関係なく無差別殺戮したり、象を投げ飛ばして虐待したりと、容赦ない。
 監督はメイキング映像でこう語っている。
 「このシーンを観たら、タイ人はみんな怒ります」
 日本には汚されたら誰もが怒るようなものがないんだけど
 タイとか、たぶん多くの国家では当たり前のことなんだよな、これって。

 日本映画って、クランク・インの時にお祓いをするくらいのことは今でもするのかな?
 『トム・ヤム・クン』とかの特典映像を見てると、
 特に危険なシーンを撮影する際などにはお祓いやお祈りをその都度に何度もするのは当たり前、っていうような感じがあった。
 日本だと拒否反応を起こす人がいたり、
 形だけの「祈り」を捧げる人がほとんどだったりするんだろうけど
 「信仰」のあるタイ人は本気。
 映画が無事に完成できたのは信仰のおかげ、神様のおかげである、という認識すら持っているらしい。
 こういうのって実に羨ましいことだと思う。
 いや、昔は日本もそうだったわけで。
 日本は先進国で、タイは発展途上国だから。タイが遅れてるだけだから。
 なんて言ってしまえばそれまでなんだが
 この二つの価値観が同時代的に存在していることは事実。
 どうしても比較してしまうじゃないか。
 国家を愛したり信仰を重んじたりすることが「気持ち悪い」とか「全体主義的だ」とか
 思う人もいっぱいいると思うんだけど
 いつからそうなってしまったんじゃろうのう。

 アクション・シーンだけじゃなくって、そういう意味で観ても『マッハ!』系列の作品は面白い。
 『七人のマッハ!』なんかは、トニー・ジャーが出てないぶんアクションが若干弱いが、
 そのぶんストーリーや演出のほうに力が入っている。
 伏線とかいっぱいあって、ちゃんと活かしてるし。
 最も陰惨で、最も感動的なのもこの作品。
 ぜひ実際に作品を観てもらいたいんだけども、
 信仰や伝統や家族や国土やetc.が残酷かつ冷徹に踏みにじられていく過程が、辛すぎて泣ける。
 
 
 こういう映画が世界的に認められるっていうのは、やはり、
 そういうふうになっていくということなのだろうか?
 それとも単なるエキゾチシズムなのだろうか。
 
 トニー・ジャーが『トム・ヤム・クン』の宣伝のために来日した時のインタビューで、
 「日本映画を観て憧れていた桜を生で見ることができるなんて、本当に感動しました」
 と言ってて、ああ日本も捨てたものではないのになあと少し思った。

2006/12/09 おや、まだ敬語?

 某ドラえもんサイトのチャットにはまりにはまっていた僕。
 当時15歳とか。
 平日は学校から帰ってから夜中眠るまでの間、
 休日は起きてから夜中眠るまでの間
 ずーっとチャットに入り浸っていた(わりと誇張なし)。
 なので当然、自分よりも年上の人と話したりすることも多かった。
 三十代以上は少なかったけど、高校生、大学生、二十代の大人はけっこう多かった。
 僕は「ある信念」を持ってその人たちと接するようにしていた。
 それは「敬語を使わない」ことだった。

 ネット上に身分の差なんてない。それは年齢についても同じだ。
 ニートが「社長です」と言ったり、
 12歳が「40歳です」と言ったりすることもできるインターネットでは、
 ハンドルネーム以外の情報はほぼ意味をなさない。

 もちろんフォーマルな掲示板などでは「全員に敬語を使う」のが基本であり礼儀。
 (当時はネチケットだとかネットマナーだとか言われていたが、悲しいことに現在では死語である)
 しかし「ドラチャ」は、性質として非常に良い意味での「馴れ合いの場」だったから
 「全員が敬語」よりは「全員がため口」という状況のほうが
 参加者がより楽しめて、また簡単にうち解けることができた。
 あのとき出会った友達と、いま同窓会が開けたらどれほど楽しいかと思う。
 みんな、これ見っけたらメールください。


 あの頃は「みんながため口」で良かった。
 いわゆる「目上」の人たちも、むしろそれで楽しめていたようにも思う。
 僕も何人かの「目上」の人と実際に会ったが、
 その時も敬語や丁寧語なんて一度も使わなかった。
 でもそれで良かった。友達であることに年齢なんて関係ないと実感できた。
 
 だから僕はSNSが本当は好きじゃありません。
 インターネットに現実的な価値観を持ち込んだから。
 それはそれでそりゃいいんだけどさ。
 たとえばmixiなんかで、若者が目上の人に「ため口」で接したら
 「きさま年上の者に対する態度が云々」と怒られることもあるだろうと思う。
 絶対ある。
 実際僕も、三十過ぎてからmixi誘われて初めてインターネット界にデビューしたような人から
 インターネット上での行動について、現実的な価値観において説教されて閉口した覚えがある。
 その頃はまだ僕も気づいていなかったのだ。
 常識が変わりつつある、いや、むしろすでに変わってしまっていることに。
 正しいのは僕ではなく、その人だった。
 その人の価値観のほうが、いまや、少なくともSNS上では、正しい。らしい。
 僕が心地よいと感じていたあの世界は失われてしまった。
 そのことに気づいてから、それまで以上に「2ちゃんねる」を閲覧するようになった。
 安住の地はもう、そこにしかない。
 2chでは目上も目下も関係なく、レスから滲み出る人間性のみによって判断される。
 それはそれでそりゃそら恐ろしい世界ではあるけれども、
 なんとなく僕なんかは安心してしまうところがある。

2006/12/08 ギブミーアグミ

 先日オーストラリア人とカナダ人の二人連れと話す機会があった。
 英語はある程度得意だがそれはほぼリーディングのみの能力であって
 話したことはほとんどなかったから意思の疎通にちょっと苦労した。
 でもジャパニメーションすげえ。
 『ドラゴンボール』『AKIRA』『攻殻機動隊』『ハイジ』『エヴァ』などを中心に、
 出るわ出るわジャパニメーション。
 言葉は通じなくてもかめはめ波は通じる。
 これは何ともすばらしい。
 まさかオーストラリア人&カナダ人と一緒に声を揃えて
 
 「鉄雄ォオオオオオオオオ!」

 と叫ぶ日が来るとは思わなかった。

2006/12/07 ひしめき合ってイナバウアー

 幸村誠の『プラネテス』を読んだ人間は
 必ず一度はPHASE16冒頭のしりとりシーンを日記のネタに使う。
 ほとんど通過儀礼のようなものである。
 かく言う僕も例外ではない(たしかここの日記じゃなかったけど)
 「必ず一度は」なので再び使ってみる。
 
 
  ハチマキ「毛虫」

  タナベ 「し~~…… 塩ジャケ」

  ハチマキ「け? け…… け~~…… けんばん…… ハーモニカ!」

  タナベ 「かみのけ!」

  ハチマキ「まーた「け」かい!」

  タナベ 「もうないでしょ?」

  ハチマキ「………… あるよ




          結婚しよう




                  「う」だよ?」

  タナベ 「うん」

  ハチマキ「よしゃ、お前の負け」


 なんか友達のWeb日記で『プラネテス』について書いてあったのでこのしりとりの内容の一部をコメント欄に書き込んだら「解説たのむ」とか言われたので途方に暮れて今日は『プラネテス』。

 『プラネテス』の作品の魅力は別にこういうところにあるわけじゃないんだけど、
 『プラネテス』の偉大さ、すごさはこういうところにあるわけじゃないんだけど、
 このシーンにはやられたよ。
 なんだよカラーページ4枚全部しりとりに費やすって。
 なんだよ「結婚しよう」がカラーかつ見開きって。しかも引きの画って。
 心得すぎ。

 現在連載中の『ヴィンランド・サガ』を毎月楽しみに待っている僕ではあるが
 こういうのも描けることを知ってしまっているがゆえに、
 なんだか『おひっこし』が描けることを知りつつも『無限の住人』を読み続けることを余儀なくされている沙村広明ファンのような気持ちになりつつあるのを禁じ得ないでござるよけんいちうじ。
 いや『無限の住人』はもちろん面白いんだけど。面白いんだけど!
 『ヴィンランド・サガ』はアフタヌーンで3本の指に入るくらい好きなんだけど、
 好きなんだけど!
 
 
 
 ね。ところでしりとりの話に戻る。
 別に僕が今さら言うまでもないんだが、ここで注目すべきはタナベですよ。
 タナベの萌え具合ですよ。
 ハチマキは最後に「よしゃ、お前の負け」と言っているが
 本当に「負け」たのは実はハチマキのほうではないのか!
 タナベはハチマキに「結婚しよう」の一言を言わせんがために、
 プロポーズの言葉をひきださんがために、
 そのため執拗に「け」で終わる単語で返し続けたのではないのか!
 先に求婚したのはハチマキではなくタナベであり
 ハチマキはタナベの巧妙な罠にはまっただけではないのか!!
 そんなタナベに萌えて何が悪いか!
 何が悪いか!!!!
 
 でも、一番注目すべきなのは
 このしりとりのお題が「宇宙に関係あるもの」であることだ。
 このしりとりが宇宙空間で行われているということだ。
 ハチマキが「結婚しよう」と言うとき、
 背景いっぱいに鮮やかな青い惑星が描き込まれていることだ。
 だから、このやりとりはカラーでなくてはいけなかった。
 心得すぎ。
 『プラネテス』が「手塚以来はじめて宇宙を描ききった漫画家」と言われている(いや、友達がそう言ってただけなんだけど)のは、こういうところがしっかりしているからだと思う。
 言葉遊びの面白さそのものよりも、その演出が神がかっている。
 「宇宙に関係あるもの」で「結婚しよう」が出てくるのは、もう、なんかよくわかんないけどなんかいいよね。なんだかよくわかんないんだけどなにか圧倒的で壮大なものを感じるよね。毛虫やけんばんハーモニカはたしかに宇宙に存在しているものだし、同じように「結婚しよう」も間違いなくこの宇宙に存在しているものである。ここまで徹底的にあらゆるものを宇宙と向き合わせて描いた作品は他にないと思う。ほんと。
 いや実際、『プラネテス』では宇宙という存在を常に読者に意識させようとする描き方がされている。ここまで丁寧に、しつこいくらいに宇宙空間と空を描き込み尽くした漫画はそうそうないって。地上シーンでの空の描かれたコマの多さと、青空や雲のきめ細やかな描写は異常というほかない。
 あと『プラネテス』のカラーページをカラーのまま単行本に収録した講談社の裁量もすごい。
 心得すぎ。
 PHASE18の見開きなんかカラーじゃなかったら意味ないもんね。
 
 
 
 褒めすぎたな。
 あーアフタヌーン発売まであと20日近くあるじゃないか。死ぬ。

2006/12/06 22:16
 卒論\(^o^)/オワタ

2006/12/06 20:19
 あと4枚!そしてあと2時間で48時間経過ですよ!!ぎりぎり

2006/12/06 17:01
 さぼって帰宅。48時間まであと5時間しかない。もう諦めた。

2006/12/06 10:13
 仕事終えた。
 これから学校行ってきます。6限まであるけど、5,6はさぼろうか知らん。
 卒論よりもむしろ出席日数とテストで留年の可能性が大きいあるよ。
 それならそれでまぁいいんだが。

2006/12/06 8:43
 昨夜はうまいこと筆が進まなかったので、今夜にかけます。
 という言い訳。けっこう寝ちゃったな。まあ仕方ない。

2006/12/06 2:17
 もう疲れたから第4節省いた。あばばばばばばば
 第三章に入ります。
 ようやく具体的な話ができますよってに。

2006/12/06 2:00
 夜食ですう。
 やばいお。第二章第4節から進まないお。
 おっおっお

2006/12/06 1:25
 28枚ですう。
 やばいなあ…あと8時間で12枚か。ぎりぎりな気がしてきた。

2006/12/05 23:59
 26枚。この速さなら言える!

2006/12/05 23:09
 詰まってきた

2006/12/05 21:52
 23枚。昼間さぼりすぎた。
 でも目標は明日の朝です。
 まだ卒論とりかかり初めてから24時間も経ってないけど、
 48時間以内に完成したら本当に神だよね。
 でも明日は一日中授業だから、朝までに完成しないとそれは不可能。
 寝られない寝られない。

2006/12/05 20:44
 と思ったけどのんびりしてしまた
 今度こそ再開 とりあえずコピってきた資料読む

2006/12/05 20:05
 ただいま帰宅し申した。
 図書館で資料をコピったり借りたりしてきた。
 ついでに買い物もいっぱいしてきた。
 Jackyむだづかい!
 すべては卒論のあとのお楽しみ。
 さて再開。

2006/12/05 12:02
 油そばたべてる
 今日は2時ごろからちょっと仕事して、歯医者行って、図書館行って、
 帰って書いて、明日の朝くらいには40枚埋まってるといいんだがさすがに無理。

2006/12/05 11:46
 調子に乗って川本真琴聴きながら小休憩。めしくう

2006/12/05 11:22
 20枚突破\(^o^)/
 折り返したぜ!我ながらすごー!

2006/12/05 9:33
 文献読むのと構成まとめるのに必死で進みません><
 木曜とか無理だったかも。でもやるんだよー

2006/12/05 9:16
 国立国会図書館のサイトで検索したら
 まるまる使えそうな記事を発見したので後で大学の図書館行こう。

2006/12/05 7:06
 翻訳に関する文献が部屋の隅のダンボールの奥底にしまい込まれてて出すのがおっくう。
 困ったなあ。なしでいくか。うむそうしよう

2006/12/05 6:56
 上手い具合に3時間だけ寝ることに成功。再開。

2006/12/05 3:41
 やべーこっから先が見えない。二章と三章の内容はだいたい頭の中にあるけど
 一章の内容がまだすっかり未知。あばばばばばば
 眠い。5分だけ寝たい。だめ?

2006/12/05 3:29
 やっと序章が\(^o^)/オワタ ここまでで6枚。約5000字。

2006/12/05 2:23
 とりあえずいま4枚弱ってとこ。つまり10分の1弱終わりました。余裕じゃね?
 サマセット・モームと学習指導要領について語っているところ。
 ちなみに卒論のテーマは
 「国語教育と英語教育の融合 『ピーターとウェンディ』をヒントに(ウルトラ仮題)」
 という感じ。それでなぜモームなのかは秘密。
 バリと同じくイギリス作家だから?いやそういうわけではない。

2006/12/05 0:52
 余裕・・・っ!
 執筆再開

2006/12/05 0:31
 夜食にはぼくの考案したあたらしい料理!その名も「納豆柿ピー」!
 超うまい!でも歯が痛いだから柿ピー食べるのつらいよ…
 もうしにたえてしまいたい。

2006/12/05 0:27
 もうやめよかな…  

2006/12/05 0:21
 先生にメールした。問題山積みで進まない。1時間くらい執筆ストップしてるわけだが。
 夜食たべよかな  

2006/12/05 0:07
 友達からメール「卒業論文指導記録?あれもらったの前期だよ」
 人生\(^o^)/オワタ
 探してもないのはわかってる。たぶん休んだ時に配布されたんだ。

2006/12/05 0:04
 卒論面接って何!だれと面接すんの!いつ!

2006/12/05 0:00
 30分ほど友達と電話して書式はわかった!
 しかし卒論と一緒に提出する「卒業論文指導記録」なるものを持っていない!
 いつもらえるのかもわからない!っていうか何も聞いてない!架空のものかと思ってた!
 現在べつの友達に問い合わせ中。

2006/12/04 23:05
 適当に本をパラパラしながら、800字詰めでとりあえず1枚書きました。順調順調。

2006/12/04 22:22
 書式とかがよくわからないので友達にメールしてみます。

2006/12/04 22:16 卒 論 実 況

 今から卒論の製作を開始します。
 「執筆」ではありません。「製作」です。
 今からネタ出しします。
 もちろんある程度発想はあるのですが、目次とか章立てとか構成はまったく考えていません。
 参考文献もほぼ読んでいません。
 今日、製本の予約をしてきました。あとには引けません。
 15日までに提出なので、14日の午後7時までに製本屋に持って行けば勝ち。
 が、大事を取って13日には持っていきたいと思っています。
 しかし、13日まであと9日もあります。
 9日間も卒論のことばっかり考えるのは嫌です。なので
 
 
 12月7日(木)までに「完成」させます。


 正味3日間といったところか。
 ここでいう「完成」とは、「とりあえず規定の枚数(32000字、800字詰め原稿用紙40枚)を埋める」ことです。
 枚数さえ埋めればどうとでもなるので、
 あとは13日までの間、ぼんやりと参考文献を飛ばし読みしながら
 適当に書き直したり書き足したりすればよいかと。

 ちなみにこれまでの実績を申し上げますと
 今日、別の1600字のレポートを10~15分程度で終えました。
 夏休み末にやった16000字のレポートは4~5時間でねつ造しました(引用だらけで)。
 4000字なら1~2時間で終わらせる自信があります。
 なので、早ければ明日にでも終わるでしょう。
 しかし、明日は歯医者があるし、文献を漁りに図書館に籠もったりせねばならんし、
 明後日は10時40分から19時30分までぶっ通しで授業と、意外とスケジュールは過密です。
 死なない程度に頑張ります。

 そういうわけでこれから数日間は卒論実況日記になります。
 ときどき更新するのでよろしくおねがいします。

2006/12/03 キャサリン磯部

 現代は情報操作の時代だ。
 特にテレビの力は強大だ。インターネットほど情報の取捨選択を迫られない、
 という「イメージ」が一般にもたれている。
 だからテレビの言ったことだと割と信じてしまう。
 久米宏や筑紫哲也の言うことが「正しい」「まっとうだ」と信じてしまう。
 本当は、テレビであれラジオであれ活字メディアであれ、
 誰かの言ったことや書いたことというのは必ずいずれかの方向に偏っているわけで
 それらをことごとく信じれば「あらゆる方向に偏った」
 バランスの悪い人間ができあがってしまう。
 
 
 昨晩、テレビでとある芸人がドラえもんについて話していたらしい。
 その内容は、僕も何人かの友人から伝え聞いただけなのだが、以下のようなものらしい。

 「ドラえもんには単行本未収録作品が二つあり、ひとつは「独裁ボタン」といって、押すと気にくわない人間が消えてしまうボタン。最後にはのび太以外に誰もいなくなって、ドラえもんが電信柱の陰から『独裁者は寂しいんだよ』と言って終わる黒い話。もう一つは「バラバラボタン」といって、押すと身体がバラバラになり、また他人や動物の身体をくっつけることもできるというもの。あまりにグロすぎて未収録である。こちらも電信柱の陰からドラえもんが囁くというオチだ。どうして子どもに夢を与えるはずの『ドラえもん』にこんな作品があるのかというと、当時作者の藤子・F・不二雄先生がスランプ状態でアイデアに詰まっており、相方で不気味な作風を得意とする藤子不二雄A氏がブラックなアイデアを提供したためである。」

 この文章の中には、間違いが10カ所以上ある。
 というか、ほとんどが間違い。
 あえてどこがどう違うかとは言わないが、9割9分9厘は誤りだと思ってもらいたい。
 でも、テレビでまことしやかにこのようなことを言われると、
 多くの人は信じてしまう。それで次の日学校へ行って
 「知ってる?ドラえもんって…」と語り出すのである。
 
 この番組は実は、信憑性のうすい都市伝説を扱う番組だったようで、
 もともと「これは嘘かもしれないし、本当かもしれない。」という前提があったようだ。
 …が、なお悪い。
 情報に対する責任を完全に放棄しているわけで、
 まったく、悪しき「情報攪乱」である。
 仮に「嘘かもしれないし、本当かもしれない」前提で放送したとしても
 多くの人は「半分くらい」信じてしまう。それで次の日学校へ行って
 「知ってる?ドラえもんって…らしいよ」と語り出すのである。
 (そして「らしいよ」はそのうちに消える)
 
 9割9分9厘誤っている情報を、「半分くらい」信じてしまったら、
 4割9分9厘前後も誤ってしまうのである。
 けしからんことである。
 こういう情報操作・情報攪乱が普通に行われてしまっているのは嘆かわしい!
 
 そもそも都市伝説というのは、ふつう「検証不可能な」ことを語るものであって、
 このように「ちょっとしたファンであればすぐに誤りだとわかる」情報を
 「都市伝説」と銘打って流すのはいかがなものか。
 検証可能である時点で「都市伝説」ではなくて「デマ」になると思うのだが。
 
 
 あとドラえもんファンとして言わせてもらえば、
 A先生のアイデアが採用されたっていうことだけはやってほしくなかった
 なんでかは、わかってくださいよ。

 
 じゃあ、上の文章はどこがどう間違ってるか知りたい人はメールでもください。
 それかググレカス

2006/12/02 kbys

      ,.ィ , - 、._     、 
.      ,イ/ l/       ̄ ̄`ヽ!__ 
     ト/ |' {              `ヽ.            ,ヘ 
    N│ ヽ. `                 ヽ         /ヽ /  ∨ 
   N.ヽ.ヽ、            ,        }    l\/  `′ 
.  ヽヽ.\         ,.ィイハ       |   _| 
   ヾニー __ _ -=_彡ソノ u_\ヽ、   |  \    宇宙人など 
.      ゙̄r= 
.       l    ̄リーh ` ー‐‐' l‐''´冫)'./ ∠__    実在  
       ゙iー- イ'__ ヽ、..___ノ   トr‐'    /    
       l   `___,.、     u ./│    /_    しない!
.        ヽ.  }z‐r--|     /  ト,        |  ,、 
           >、`ー-- '  ./  / |ヽ     l/ ヽ   ,ヘ 
      _,./| ヽ`ー--‐ _´.. ‐''´   ./  \、       \/ ヽ/ 
-‐ '''"  ̄ /  :|   ,ゝ=<      /    | `'''‐- 、.._ 
     /   !./l;';';';';';';\    ./    │   _ 
      _,> '´|l. ミ:ゝ、;';';_/,´\  ./|._ , --、 | i´!⌒!l  r:,=i    
.     |     |:.l. /';';';';';|=  ヽ/:.| .|l⌒l lニ._ | ゙ー=':| |. L._」 )) 
      l.    |:.:.l./';';';';';';'!    /:.:.| i´|.ー‐' | / |    |. !   l 
.     l.   |:.:.:.!';';';';';';';'|  /:.:.:.:!.|"'|.   l'  │-==:|. ! ==l   ,. -‐; 
     l   |:.:.:.:l;';';';';';';';| /:.:.:.:.:| i=!ー=;: l   |    l. |   | /   // 
       l  |:.:.:.:.:l;';';';';';';'|/:.:.:.:.:.:.!│ l    l、 :|    | } _|,.{::  7 )) 
        l  |:.:.:.:.:.:l;';';';';'/:.:.:.:.:.:.:.:| |__,.ヽ、__,. ヽ._」 ー=:::レ'  ::::::|;   7 
.      l |:.:.:.:.:.:.l;';';'/:.:.:.:.:.:.:.:.:.|. \:::::\::::: ヽ  ::::::!′ :::|   .:/ 
.       l |:.:.:.:.:.:.:∨:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.!   /ヽ::: `:::    ::::  ....::..../  






 










ワキワキ              ワキ                  ,ヘ 
    ., --、   i´!⌒!l  r:,=i                  /ヽ /  ∨ 
   .|l⌒l l   | ゙ー=':| |. L._」 ))           l\/  `′ 
  .i´|.ー‐' |   |    |. !   l     ワキワキ   _|     こ の 俺
  |"'|.   l  │-==:|. ! ==l   ,. -‐;      \     
  i=!ー=;: l   |    l. |   | /   //       >     以 外
  │ l    l、 :|    | } _|,.{::  7 ))    ∠__      
  |__,.ヽ、__,. ヽ._」 ー=:::レ'  ::::::|;   7          /   に は な !
  \:::::\::::: ヽ  ::::::!′ :::|   .:/          /_    
    /ヽ::: `:::    ::::  ....::..../  ワキ           |  ,、 
                                l/ ヽ   ,ヘ 
                                    \/ ヽ/ 
       ↑キバヤシ(本体)









 

2006/12/01 新・クレヨンちゃん

 金曜ロードショーでALWAYS三丁目の夕日見ました。
 なかなかおもしろかった
 雑誌のくだりにだけは心ときめいた
 しかし映画クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲を越えることは
 できなかった
 パソコンやりながら観てたので偉そうなことは言えないんだけど。

 昭和30年代の「思想化」は
 すでにクレヨンしんちゃんがやってしまっていて
 思想的な裏付け、下地がすでにできあがっていたため
 三丁目の夕日では「思想」などを省いて
 つまり対置される価値観(現代など)を描かず、
 そこにあったS30年代だけを描けばよかった
 ということだろうか。
 まぁ、三丁目の夕日は面白いけど特別にすごい作品ではないので、
 テレビでやってろ、って僕は思いまちた。
 浅羽のミッチーがなんと言うのか気になる。
 

 浅羽のミッチーといえば最近創刊された幻冬舎新書で
 『右翼と左翼』なる本を出していました。買ってしまいました。
 まだ読んでいませんが。卒論提出が14・15日なので、
 できればそれまでに読み終えたいと思います。

 そんな折り、とある授業で、とある先生が、
 教育基本法改正について熱く語っておられた
 いま、教育基本法に関する話題はリトマス試験紙のようなものになっていて、
 右か左か、中性(もしくはノンポリ)か。
 はっきりと結果が分かれます。
 もちろんいま言っている右だの左だのという言葉が
 どのくらいの妥当性を持っているのかは不明なので
 浅羽氏の著を読んでからまた考えます
 みなさんも興味があったら読んでみてください
 と、宣伝しつつ媚びを売っておく。もしかしたらまた見られているかもしれない
 浅羽先生、以前は悪いことを書いてすみませんでした。反省してます。尊敬してます。
 「作家としては評価しない」というのは「決して文章はうまくない」という意味であって
 その。(フォローになっているだろうか)
 先生のお考えにおなりになられているお考えは僕は好きです、その、あの。あばばば
 
 ※以前ここに「浅羽通明は言ってることは面白いんだけど、作家としてはどうかねー」みたいなことを書いたのをどういうわけだか本人に見られたらしく、酒の席でそのことを明かされたことがあるわけです(当時彼は早稲田大学で教鞭をとっていた)。冷や汗ものでした。決して悪意はないんです!むしろ好意あっての!当時まだ僕は『大学で何を学ぶか』くらいしかまともに読んでおらず、あの本の文章が個人的におもしろくなかったというだけで、あの、そのあのなおsgmのあんもれああh
 
 言い訳終わり。
 これを見ている浅羽氏にゆかりのある人よ、どうかご本人に「オザキはアサバを崇敬しており、最新の著作もいの一番に購入し耽読しているようです」とお伝え下さい。どうかどうか。やややや
 自分でメールするほどの勇気はないのだ。そんなこと言われても本人困るしな。
 もう少し媚びを売っておこう。
 日本現代文化論が浅羽氏じゃなくなってから学校に行くのが面白くなくなった!
 国文科の生徒も「ネ申講義がなくなった」とぼやいております
 注:ここで言う「ネ申」とは、「授業一回も出なくても学年末テストに何か書きさえすれば優か良が必ず来る」という意味です。僕は優より上の秀でした。フヒヒヒ
 よし、このくらいキーワードを挙げ連ねておけばいつか本人が検索してやってくるだろう。
 「俺はネットはしないが自分について書いてあるホームページは全てチェックしている。君のも見た」と言うくらいだからきっと見るだろう。ウフフ。どこでもドア。
 
 言い訳終わり。
 
 
 話が逸れたわけだが。
 9月に東京地裁で「君が代歌わなかった教師が処罰されるのは違憲だ」という判決が出ました。
 まあ「法的には」妥当な判決であり、この結果自体には僕は異論ありません。

 しかしその、
 「思想・良心の自由に従って、教師には君が代を歌わない権利がある」というのは
 ちょっぴりおかしいんじゃないかと思いますよ。
 
 僕自身の日の丸・君が代等に関する個人的な感情で言うのではないので誤解しないで欲しいんですけど
 (別に個人的な感情なんてないので)
 以下、ちょっと右寄りの言い方をしてみます。

 入学式や卒業式といった「式」は、イコール「儀式」であり、
 「儀式」とは厳粛に、その儀式を催す共同体の歴史・文化・伝統・慣習などに従って厳かに行われるべきものである。
 でなければ「儀式」は本当の意味で形骸化し、意味を持たないものになる。
 逆説的に聞こえる人もあるかもしれないが、「形式を重んじる」ことが「形骸化」なのではない。「形式を重んじず、ただ式の執行だけを行う」ことが本来の、悪しき意味での「形骸化」なのだ。そもそも「儀式」が「形式ばった」ものであるのは当たり前であって、「形式ばって」いるからこそ民俗学的な意味での「儀式」としての役割を果たすのだろう。
 
 で、教員ってのは基本的に「公」務員であり(私立学校の教員もそれに準ずると思う)
 学校現場においては「公」の代表として振る舞うべきではないだろうか。
 少なくとも、教員は生徒の模範となるべき存在であるのは確かだろう。
 教員が、「私は自分の考えに従って、都教委の意向を無視します」と言うのならば、
 生徒たちはこう言うだろう。
 「じゃあ、僕は自分の考えに従って、先生の意向を無視します」と。
 そのとき先生は何と答えるのだろう?
 
 教員は、自律した個人であると同時に公の代表でもある
 そういった自覚を持ってもらわないと困る。
 自律した個人で「ある前に」と言ってしまいたいくらいだ。
 公務員として、せめて学校にいる間くらいは、いや、最低でも「儀式」の最中くらいは、
 「個」を封印し、「公」の代表として行動していただきたいものだと思う。
 
 東京地裁は「強制は違憲」と言うが、「指導が違憲」であるわけではない。
 「しなさい」と命令し、従わない場合に処罰することは違憲であるかもしれないが、
 「するべきだ」と考え、従うように促すことは
 むしろ教育者としての義務である。
 
 「国旗・国歌は国民に強制するのではなく、自然のうちに定着させるものだ」というのが国旗・国歌法の趣旨らしく、そのことをタテに「強制させてはいけない」と言う人がいる。
 しかし、「自然と定着させる」とはどういうことだろうか。定着させるための働きかけをまったくしないでは、定着するわけがない。法律を制定した意味がまるでない。
 強制させない形で、定着させるように指導するのが、教育者のなすべきことなんじゃないかね。
 「強制」の意味の取り方によっては反論があるかもしれないけど。
 ともかく教員は、当局の犬であるべきなのである。
 教育者としての自覚を持つこととは、イコール、国家の犬として生きる覚悟を持つことである。

 当局のやり方に異論があるのならば、組合の中で徒党を組んで、内側から改革してください。
 学校は、労働運動の場ではありません。
 あくまで子どもたちを教育する場。
 教員が、自分勝手に、国歌歌わないとか、ガキじゃないんだから。
 儀式なんだから歌えよ。模範になれ。決まったことだろ。文句あるなら放課後にやんなさい!

 あれ、教育基本法の問題はどこへ?
 また今度にします。

    2006/11/30 大山のブヨ

 自分の息子には「夜露死苦」と名付けようと思っている。
 「矢崎夜露死苦です。夜露死苦!」と快活に挨拶させる予定。

 というくらいに未来が見えない。
 ヴィジョンレスな若人。
 僕に最も頻繁に冠される言葉は「才能の無駄遣い」
 今日もじゃぶじゃぶと湯水のように無駄遣い
 時間が過ぎていくということ。

 ひとつの可能性を失った瞬間には
 同時にどれだけ多くの未来における可能性が失われていることか。


 たとえば、いま一枚のコインが表と裏を示す確率が同様に確からしく、
 また一つのサイコロが1から6までの数値を示す確率が同様に確からしいとして
 コインとサイコロを順番に投げ上げてみよう。

 ここで、コインの表裏とサイコロの出目との組み合わせをすべて、
 樹形図によって書き出してみてほしい

 まずコインをトスしてみて、表が出た時に
 失われてしまったものの大きさは計り知れない
 (樹形図にある、「裏」から先の可能性を全て黒く塗りつぶしてみると、何ともむなしい気分になる)
 
 表裏と出目との組み合わせの総数は2×6=12通りだが
 12回試行すればすべての結果が得られるというものではない
 時には無駄な試行も生まれる
 「最低でも12回は必要」なわけだ。
 20回やっても、30回やってもすべての結果が得られないかもしれない。
 たぶん努力とはそういうものだ。

 そういった努力を怠れば
 12回のうちのわずか数回ぶんしか得ることはできず
 さらにもう一回サイコロを投げた時に、
 そのときに味わう絶望感は、
 …そのときにならなければわからないかもしれないが、
 じつに圧倒的なものである。


 可能性はたし算によって計算されない
 必ずかけ算によって算出される
 だから失うときも、ひき算ではなく
 わり算によって失われていく

2006/11/29 抱き合って舐るの

 書くぞモードになると不思議にいろいろなことが浮かぶようになります
 それは、けして、やなことあったけどブログに書くネタできたぜキャッホーイ
 なんてのとは違うものだ
 と思っていたい。


 でも片っ端から忘れていきます
 みんな備忘録の意味もあって日記をつけるわけですが
 思えば僕が日記を付け始めたのは中学生のころ。
 どの本を読んでもその作者は「昔から日記を付けていた」と口々に言うので
 そういう人になるためにはそうか日記を付けないとダメだ
 と不純な動機で書き始めてはみたが当時の日記帳を読み返してみると
 3日連続したあとには2週間後の日記といった具合で
 まったく続かない。
 毎日書けるようになったのはここに公開するようになってからです。
 誰にも見せない日記が続いている人というのはすごいと思います。
 
 あのころ僕の本の作者たちは日記をつけるのと同時にメモをとる人も多かった
 藤子・F・不二雄先生もメモ魔だったというし
 文豪・小沢健二もそれらしきものをおしゃれカンケイで公開していたし
 唐沢俊一が中学生の頃からつけていたというメモ帳は圧倒的な分量。
 そう!内容よりも分量に憧れる、さらに具体的に言えばその装丁にしびれるのだ。
 メモ帳というよりは、もう、メモ本。厚み。存在感。超クール!

 最近はハードディスクも大容量になっていて
 最低でも200~300ギガバイトくらいは欲しいなと。
 そういうわけでちょっと買ってみたのは全240ページにわたる
 タテがA5で横がB6の変形サイズ。
 でっかくてカバンに入れるのがしんどいけれども
 こう愛着が。

 知識を入れてもすぐに忘れてしまうのは人間の悲しい性。
 ノートパソコンの内蔵ハードディスクは小容量で
 せいぜい数十ギガくらいしかないので、
 古いもの、いらないものはじゃんじゃん削除していかないと
 すぐにパンパンになってしまう。このパンパンが!
 だから外付けハードディスクを取り付けて、
 そこにバックアップをとるようにしようと。
 思って、メモ帳ですよ。
 
 
 そういう、メモ帳などの外付けハードディスクを
 使っているのかいないか知らないが
 「歩く辞書」…Walking dictionaryと呼ばれる人が時折いる。
 先に挙げた唐沢俊一もそうだし、高校のときの英語の先生は誰からもそう呼ばれていたし、
 また僕の身近な友達にもそう呼べるような人が何人かいる。

 僕もそういう人に憧れます。が、
 辞書というのはあくまでも「引く」「読む」という機能しかない。
 それをうまく「活用」できるかどうかは別問題だ。
 記事と記事とを「関連づけ」させたり、わかりやすく「翻訳」したり、
 あるいは「計算」したり、ということもできない。
 辞書とはあくまでハードディスクであって、
 それを活かせるだけのスペックが備わっていなければ意味がない。
 生かすも殺すも、「CPU」や「OS」や各種の「ソフト」次第ということ。

 で、「歩く辞書」と呼ばれている人の中にも、同じ事情を抱えている場合がある
 と…僕はこれまで生きてきた中で感じている。

 知識はふんだんにあり、状況に応じてその知識を「引く」ことはできるのだが、
 どうも我田引水というか、「状況」と「知識」との関連づけが甘かったり
 ――極端に言うと、ドラえもんの道具だったら何がほしい?それで何をしたい?
 という話をしているときに、
 どういうわけだか「どこでもドア」の実現する可能性について
 最新の研究に関する知識を交えながら話し始めたりとか。
 間違ってはいないんだけど、どこかずれている、といった印象を受けることもある――
 また、応用が利かない、という現象もたまに見られる。
 まるで企業のカスタマー・サービス嬢が
 顧客の苦情を「マニュアル」片手に、もういっぽうの手のひらで転がし続けているような
 そんな無益な議論が、「歩く辞書」と誰かの間で交わされている光景も
 これまで何度か目にしてきた。
 
 
 膨大な知識は使いこなせてこそ博識。
 知っているだけでは知っていることにはならない。

 知者不言、と言うが
 「唖の美学」を心にとめて
 でしゃばりすぎんようにしたいと思うよ。


 とりあえず何でも知ることが前提なんだけども。

2006/11/28 ジャンピング逮捕っていうレベルじゃねーぞ!

 うおおおおおおおおおおおおおおお!
 今、カウンターが199999だった!
 200000は自分でとりたかったのに…連続更新不可なので断念。
 踏んだのだれ?名乗り出てね。

 今更新したらだった
 199999の画像は勢い余って200001で上書きしちゃったよ…残念
 これからもよろしく

2006/11/28 ジャンピング逮捕

 またかと思わないでください。
 自慢の八重歯が痛みます。
 
 知的好奇心は、誰もが持っているけれど、その種類や度合いがそれぞれに異なる
 といったところか。
 一日中数学の問題と睨み合っているのを幸福に感じる人もいれば
 江戸時代はこうこうで、で現在はこうでみたいなのを楽しむ人もいる。

 NHKの番組で「知るを楽しむ」というシリーズがあるが
 何を知りたいかというのは人によってさまざま。
 円谷英二のことを知って嬉しい人がどの程度いるだろうか?
 向田邦子のことは?
 両方は?
 
 「あいつは知的好奇心に欠ける」とか
 「知的好奇心のないものは、ばかだ」とか
 言う人も実際にいくらかいると思うんだけど
 知的好奇心とは何でも知りたがることではなくて(それだとただの好奇心だ)
 自分の「知」が反応する何らかの対象について知りたいと思うこと
 わかりやすく言えば「知りたい」と思うような異性のタイプは十人十色であり
 たまたま人気のある女の子や男の子もいるというだけの話だ。
 西洋古典哲学のことを知りたがらないからと言って、知的好奇心がないわけではない
 好みが違うだけのことだ。

 ただ問題は、どこまでを「知的」なものとするかだ
 知りたい対象が人間であればストーカーや追っかけ
 ファンシーなものならばミーハー
 アニメやマンガならばオタク
 ミッチーならばベイベエ
 または男子
 学問的なものが対象だったら、勉強家とでもいえばいいのか。
 どこまでが「知的」で、どこまでがそうでないのか。
 難しい問題である。
 「知的好奇心のないやつ」を蔑視する人は、そこらへんのところをどう考えているんだろう。

 「本を読まないとだめだ」とことあるごとに口にする人って、
 「本」を、どういうものだと考えているんだろうか?
 ただ文字が羅列してある冊子であればいいのか
 と
 そういう問題提起でした。

2006/11/27 教育ガク(((( ;゚Д゚))))ブル

 本日(!)の日記が早くも大反響。
 暇な奴はいるもので、過去ログ漁って「飲酒記事発見!」なんて
 わざわざ送りつけてくる輩もいて実に閉口。いやいい客だ。
 探せばもっと色々犯罪吐露記事くらいありそうなもんだが。
 
 とりあえず日記というかこの文章書きを続けていく意志はあるので
 数少ないジャッキーさんファンのみなさまは気を落とさず。
 ただ昔のようにありのまま書くことはできなくなったと嘆いただけで
 いや、かといって「エアロバキバキ」的なビッグマウスを吐けば
 また叩かれて晒される
 過去ログを読めば個人情報なんて全てだだ漏れる。
 コーネリアスが12年前のいじめ暴露発言で未だに叩かれているように
 一度言ってしまったことは取り消しがきかない。
 いつまでも平和な「ホームページ」でありたいものです。

 閉鎖する気にならないのは
 生き別れたあの人やあの人と再会できる場があるとすれば
 それはmixiではなくこちらだから。
 あの人やあの人にもう一度会いたい。
 僕は彼らの住所もメールアドレスも知らないが
 彼らはここのURLを知っているもので
 閉められない。
 とりあえずナキモノ(旧dolis party)が消えないうちは僕も消えません。



 ジャッキーさん氏の文章が好きだからやめないで!
 なんてアイドル歌手みたいな扱いを、もっとしてください。
 もっと気の利いたことを書くべきか。
 
 
 
 (ここからひたすら映画とミュージカルの話)
 
 
 先日名画座へ『サウンド・オブ・ミュージック』と『雨に唄えば』の二本立てを観てきました。
 『サウンド・オブ・ミュージック』。高校生の時以来に観ました。
 なんと美しい映画だ。
 男爵夫人引き際いさぎよさすぎ。
 なんでもないシーンでも大いに泣きわめけ。
 これってロリコン映画だったんかなー。
 雷を怖がる子どもたちがマリアのベッドに集まる場面なんかは、
 笑えるし泣けるし  
 ラスト・シーンのジョークは最高
 「罪を犯しました」ってやつ。いいオチのつけかただと思う。
 
 ナショナリズムやパトリオティズムなるもの、つまり愛国心とか愛郷心とかいわれるものが
 ストレートに表現されている映画というのは、けっこういい映画だったりする。
 『七人のマッハ!!!!!!!』然り。(それだけしか知らない)

 『七人のマッハ!!!!!!!』では、小さな村がゲリラに占領され、無差別殺戮に脅されてすっかり覇気を失い、抵抗の気力すら失っていた村人たちが、たまたまラジオから流れてきたタイ国歌を聴いてナショナリズムを昂揚させ、涙を流しながら大合唱。「ときの声」を挙げて素手でマシンガン持ったゲリラに立ち向かっていくという凄まじくパワフルな場面が観られます。トニー・ジャーらのアクションだけでなく、そのあたりも見所よ。

 『サウンド・オブ・ミュージック』では「エーデルワイス」が何度も歌われます。これは国歌ではないけども、劇中ではナショナリズム及びパトリオティズム的な思想が溢れんばかりに詰め込まれた良い使い方をされています。歌詞もまさしくそんな感じ。

 こういうのに胸を熱くするっていうのは、
 やっぱり僕には保守主義の才能があるのかもしれない。

 30過ぎて左翼ぶってる頭空っぽのおっさんはどうかと思うよ。
 「反体制」気取るにはそれなりに思想がないと。
 反抗的態度は条件反射だけで可能だが、(中学生、いや、小学生にだってできる)
 保守的な態度についてはそうはいかない。
 「保守」というのは単に「現状維持」というだけのものではないので。
 “何が正しいのか”を見極める必要がある。
 
 反体制っていうのは、条件反射的に体制=権力=政府・国家・学校などの方針に対して
 間逆の意見を唱えてさえいれば体裁が整うらしく
 たまにいる、そういう、いんちきな鏡みたいな人間が。

 ところが、保守主義というのをある程度勉強してみると
 現体制や世論が何を言っていようとも、
 “正しいもの”はそれ独自の方法で自律的に存在するといった風情があって
 ちゃんと頭で考えたり肌で感じたりしながらでないと
 自分の立場や行動を規定することができないわけだ。
 話が長くなるので保守主義についてはまた今度。
 
 『サウンド・オブ・ミュージック』にみんなが感動するのは
 音楽がすばらしいのはいうまでもないし、
 子どもたちとの心のふれあいや、思春期の移ろいやすさや、大佐とマリアとの恋愛や、
 キリスト教的な愛や
 くすりと笑えるエスプリや
 さまざまな要素があるけども、愛国心や愛郷心、
 美しい山や川、それらを全身に抱いて、思わず歌い出したくなるような心。
 音楽の生まれた理由になるようなものが、この映画にはあって
 それが安心感や、心地よさを感じさせるんだろう。
 だから、『サウンド・オブ・ミュージック』を嫌いな人はだいたい左翼です(偏見)。
 『サウンド・オブ・ミュージック』は反ナチだけど、
 だからといって左翼映画ではないのでありますよ。
 だってアメリカは連合国側ですのでね。
 
 ところで、最近ファレリー兄弟監督、ジム・キャリー主演の
 映画『ふたりの男とひとりの女』を観ました。
 『メリーに首ったけ』とか撮った監督です。
 『メリー』は、キャメロン・ディアスでなかったら絶対に日本で当たらなかった、
 凄まじい内容の映画です。あまりつっこむと怒られそうなので余り過激発言はしませんが。
 で、『ふたりの男とひとりの女』は、それ以上に凄まじい映画。
 あらゆるタブーや度を超えたさまざまな差別表現を含みながらも、
 家族愛・恋愛成就・主人公の成長など、アメリカ人の好きそうな要素を盛り込みまくった傑作です。
 ラスト・シーンが結婚式なのも、『バブル・ボーイ』『マテリアル・ウーマン』をはじめ、
 僕の好きなアメリカン・コメディの王道。
 
 で、『サウンド・オブ・ミュージック』ってのも、家族愛、恋愛成就、主人公の成長、ってのがちゃんとあって(結婚式のシーンもあるね)、テーマだけ搾り取るともう『ふたりの男とひとりの女』とまったく同じ。というか、ファレリー兄弟が王道ハリウッド映画のパロディとして映画を製作していると言ったほうが近いか。同じようなテーマでも、完全に美しい『サウンド・オブ・ミュージック』と、完全におぞましい『ふたりの男とひとりの女』。面白い対比として観られました。
 

 さて、すっかり『雨に唄えば』のことを忘れてた。
 実はこの二本立て、僕はこっちのほうを目当てに行ったのである。
 『雨に唄えば』は、僕の大好きなジーン・ケリーが主演し、スタンリー・ドーネンと共にメガフォンをとった1952年のMGMミュージカル不朽の名作。
 劇場で観たのは初めてなんだけど、いや。今見るとかなりシュール。MGMミュージカルってのはたびたびそうなんだけど、ストーリーにまったく関係ないシーンの多いこと多いこと。え?今のシーンは何だったの?と思わせる場面や、『サウンド・オブ・ミュージック』と続けて観てよくわかったが、はっきり言って冗長と言わざるを得ないような箇所もないではない。
 いやしかし、そういうところも全部含めてMGMミュージカルなのであるよ。これこそが娯楽の真骨頂なのだ。僕は愛してやまない。ストーリーが紋切り型であろうと…『雨に歌えば』は、トーキー黎明期の雰囲気をコメディ・タッチに上手く抉り取ってあって、当時のMGMミュージカルの中では「まだ」ストーリーに凝っているほうではあるが…かまわない、意味のないシーンやギャグがあっても、ただ豪華なだけのあからさまな宣伝用画面が連続しても、いいんだ。それが娯楽。ザッツ・エンタテインメント!
 歌と踊り、それがすべて。ジーン・ケリーが、デビ・レイノルズが、ドナルド・オコナーが…心の底から楽しそうに歌い、踊っている姿が僕らを幸せにするのだ。真夜中の1時半、映画の失敗に絶望しきっていた3人が、突然天啓を得て、成功を確信する。そして言うのだ。
 「これはいける!23日は記念すべき日になるよ!」
 「24日よ。今は朝の1時半だもの」
 としゃれた会話を交わし、突然歌い出す。名曲『Good Morning』だ!
 『Good Morning』は歴史に残る名場面で、深夜に独特の謎めいたあのテンションと、ナイス・アイディアに高まりきった上機嫌を最高の歌とダンスとでうきうきするようなエンタテインメントとして表現している。この場面の3人は、本当に仲が良さそうで身もだえするほどにいとおしい。そう、「友情」というテーマが添えられているのも『雨に唄えば』の名作たる所以の一つだ。ひとしきり歌って踊り終わった後にソファに倒れ込んで3人で大笑い!しかし次の瞬間、冷静に考えてみるとすぐにその計画の実現があまりに難しいことがわかる。それで一同、意気消沈。そのテンションの下落具合がまたたまらん。
 
 僕の好きな映画の一つとして、『ザッツ・エンタテインメント』シリーズというのがある。MGMの総集編映画なのだが、上に書いたように、当時のハリウッド映画、ことにMGMミュージカルというのは、ストーリーそれ自体はさして目新しいものはなく、かの名作『雨に唄えば』でさえ冗長に感じることすらある(初めて観た時はすべてのシーンで昂奮したけど)。そこで、歌とダンスを中心に名場面だけを切り貼りして作られたのが『ザッツ・エンタテインメント』である。
 高校のころ、この映画をカタログ代わりにしてMGM映画を観まくった。特にジーン・ケリーとフレッド・アステアが大好きで、近所のレンタル店を回り、二人の出演している映画で、借りられるものはほとんど借りた。
 アステアはMGMの一番のスターで、日本でもピチカート・ファイヴが「アステアみたいにステップ踏んで」と歌ったり、立川談志をして「フレッド・アステアと大地真央は別格」と言わしめるほどだ。所ジョージがナンバーズのCMで壁や天井を歩くCMを覚えているだろうか?あれはフレッド・アステアの『恋愛準決勝戦』という映画のパロディなのである!
 『ザッツ・エンタテインメント PART2』では、そのジーン・ケリーとフレッド・アステアが案内役を務める。30年ぶりの共演で、当時ケリーは63歳、そしてアステアは76歳である!よぼよぼじいさんを想像するなかれ、二人は数々の名場面を紹介しながら名曲『THAT'S ENTERTAINMENT』を歌いながら走って、跳ねて、踊りまくるのだ!これを観たときは感動して泣いた。
 聞けば、当初は踊る予定はなかったのだが、アステアがこんなことを言ったそうだ。「話すだけでなく、踊らないと。我々はもう動けないのだと思われるぞ」と。いや、76歳のじいさんだったら、誰だってもう動けないと思いますよ。どっこい、現役ダンサーも顔負けのダンスを披露するんですな。これはもう、最高のファンサービス。しかもケリーとの共演っていうのが、また。
 
 というわけで、人でなし映画ばかりを好んで観ている僕も、
 実は好きな映画っていうと真っ先に挙がる映画の一つが
 『ザッツ・エンタテインメント PART2』である。あ、どうでもいいけどね。
 
 
 ミュージカルについて語ったついでにもう少し。
 僕の尊敬するタモリはミュージカル嫌いで有名だが、曰く
 「なんで突然歌い出すんだ?意味がわからない」だそうである。
 しかし僕は、突然歌い出すのも「映画のお約束」の一つだと思っている。
 それを否定したら、他のすべての「お約束」も、どうなの?って話になる。
 例えば、ホラー映画で女の子が一人で森の中に入っていってしまうこととか。(普通行かないだろ!)
 『悪魔のいけにえ』とか、あからさまに怪しい家の中になんで入って行くんだよ?
 仮面ライダーの変身中は敵が攻撃しないとか、
 都合よく雨が降ってくるとか、まあいろいろあるが、
 それらは全部「演出」なわけで、
 ミュージカルで突然歌い出すのも「演出」の一つだと思えば、
 まぁそれはそれで楽しめるんじゃなかろうかと思う。
 リアリズムを追究すると映画ってのは絶対つまらなくなる。
 どこかに予定調和がなくては…。
 
 
 
 さて今回も長くなったものだ。
 ストレス解消に良い。
 ちゃんと読んだ人、もしいたら、ごめんなさい。
 君の大切な時間、使ってくれてサンキュー。(cornelius/THANK YOU FOR THE MUSIC)

2006/11/27 正看マッサージ

 小説には二つの要素がある。
 音楽的要素と視覚的要素である。
 と言った谷崎潤一郎は私小説をほとんど書いていない。
 だからどうしたという話だ。

 また異なる切り口で小説をぶった切ってみると
 たとえば外面的要素と内面的要素とでも。
 「物理的な現象を描く」か「心理的な現象を描く」か。
 極端に単純化して言い切ってしまうならば、
 前者はライトノベルやら大衆文学やらに近く、
 後者はいわゆる純文学とかそういうものに近づく、のかもしれない。
 この分け方に僕は完全に賛同するというものではないが、
 まぁそういう考え方もできる。と

 私(わたくし)小説は「私」の私生活(同語反復的である)を描く。
 私小説は写実主義、自然主義の文学など、リアリズムを追求する思想と仲がよいため
 外面的要素をあまり激しくいじくり回すことができない
 過激な描写や有り得ない表現はできないのである。
 ところが内面的要素は、所詮目に見えないものであるため、
 何を書いたっていい。
 心に思いついたことをそのまま書けば
 それは作家の私生活の「心理的な部分」を正しく描写したということになり
 私小説として立派に成立するわけである。

 「心に思うだけなら自由」と言う。
 僕なんかは、けっこう、思ったらそれだけで悪だと思ったりするが、
 ひとまず罰せられることはない。
 殺したら逮捕ですが殺したいだけなら逮捕されないと。
 また「殺したい!」と交番の前で大声で叫んだり
 「殺したい。」と紙に書いておまわりさんにつきつけても
 とりあえず注意されるだけで済むんじゃ…ないかな。態度にもよるけど。
 本人のいる場所で言ったのでなければ良いんではないかね。
 これが本人を目の前にしての「殺すぞ!」や
 明確な意志をあらわにした「殺してやる!」になると
 事情は変わってくる気がするけど。

 僕ももう22歳。
 本当ならば、あと数ヶ月後には就職して、まっとうな社会人として生きていくはずの年齢。
 どうやらまっとうとは言いづらい社会人になってしまいそうだが
 大学を出たら社会人。いや、成人したら社会人だ、と本当は言ってしまいたい。
 とうに二十歳を過ぎて、分別もわきまえ、左翼的な態度もどこへやら、
 すっかり丸く、そして、堅くなりました。

 自分自身が変わった、というのはもちろんある。
 しかしそれ以上に環境が変わった。社会が変わった。
 インターネットに関する事情が、どうも変わって来た。

 綾瀬女子高生継続的集団レイプ&想像を絶するほど凶悪な類の暴力による殺人及びコンクリ詰めによる死体遺棄事件ってのがずいぶん昔に起きまして、あれは犯行グループの全員が10代だった。
 10代というのはどうしようもなくバカだ。だから日本では成人は二十歳。
 10代は無茶をする。簡単に人を殺す。
 いじめやリンチの方法も残虐きわまりない。
 たまに、「暴力なんかよりも無視されるほうが辛い」などと言うバカな大人がいるが
 そういう人はいじめに関する想像力が足りない。
 10代って奴は、陰湿な見えないいじめとは比べものにならないくらい、やる。
 バカだから。
 報復せよとか言う人もいて、それはそれで正しい。が、
 10代の考える報復とはまず第一に殺すもしくはそれに準ずるほどの苦痛を与えることだし
 報復された10代は報復を企てた側に殺すもしくはそれに準ずるほどの苦痛を与えることで
 報復の報復をするだろう。
 同害復讐法というのがかつてあったけど、
 復讐というのは、根深い慣習、宗教もしくは絶対的権力で統制しない限り、負の連鎖にしかなりえない。

 ここのところ、2ちゃんねるなんかでは、
 むちゃくちゃやる。
 「祭り」と称して個人攻撃しまくり。
 標的にされた人の人生をむちゃくちゃにする。
 なんでかっていうと、
 2ちゃんねるユーザーに10代が増えたから。これはもう間違いない。
 もしくは成人しても精神年齢が10代っていうドキュンが増えてきたのかな?
 何にせよ歯止めがきかない。
 とことん自己中心的。
 想像力がない。
 屑。
 
 ネチケット、ネットマナーなんてのは死語。
 2ちゃんねるを中心に、道徳や倫理観なんてのは消失している。
 かと思えばmixiなどSNSがネット初心者を大量生産し
 彼らの多くがmixi=インターネットは現実生活と地続きになっていると思いこんでいる。
 そういう認識はもちろん間違ってはいないが、
 少なくとも一昔前までは、インターネット生活と現実生活は別物である、
 という考えが主流だったように思われる。
 リアルでネットの話をすることがタブーであったり、またその逆であったり。
 そういった認識を持っている人が非常に多かったような気がするのだが。

   現実の倫理観や常識を100%ネット上にも持ち込もうとする、
 ほとんどmixiでネットデビューしたような人
 (チャット、BBSなどの小さなネットコミュニティを経験していない)
 が大量にいる一方で、
 道徳観や倫理観など元々持ち合わせてもいなければ、
 インターネット、特に2ちゃんねるという場において
 画面の向こう側を想像する能力が完全に欠如した単細胞人間がこれまた大量にいる。

 もはやインターネットは「はざまの世界」ではなくなりつつある。
 曖昧性がなくなってきた。これは大変だ。
 2ちゃんねるに象徴される文化とmixiに象徴される文化との二分化。
 匿名文化と非匿名文化と言ってしまって良いだろうが
 鬱陶しいことにmixiにも2ちゃんねる文化を内面化している人がおり、
 またその逆もある。
 で、僕のように「はざまの世界」としてのインターネットに心地よさを感じていたユーザーも
 少なからずいるわけだ。
 この、インターネットへの認識によるいざこざは、
 ネットの世界、現実世界どちらにおいてもお盛んになっております。
 うまく使いこなせれば、上手に立ち回れれば良いんだが。

 そうもいかないものでね。
 僕も「責任ある年齢」になってきたし
 社会もネットに対して「あいまいであることを許さない」態度を取るようになってきた。
 この真っ白いキャンパスの上で無責任な文字を踊らせているようなことも
 もうできなくなってきた。

 外面的要素は特に危ない。
 「今日、友達と一緒に映画を見に行った」と書くだけで
 後々、何かのトラブルの元にならないとは限らないのだ
 ということをやっとつよく認識することになった。
 Ezで過去ログを公開していることだってあぶない。
 どこかで、今日、酒を飲んだ、なんてことも書いているかも知れない。
 何かのきっかけでそれが僕を攻撃するための武器に変身するときが来るかもしれない。
 インターネットは、いまやそういう場所だ。
 
 それで、この「ホームページ」をどうするべきか、ずっと考えてきた。
 答えらしい答えはないが、
 「ここに何かを書くとして」、もはや僕には当たり障りのないことしか書けない
 「事実」すら書くことができない。
 だから「日記」を「日記」として公開することは、不可能である。

 ただ、日記にも二つの要素があって、
 それは外面的要素と内面的要素だ。
 前者がつぶれた。
 
 谷崎潤一郎は内面的要素に偏りがちだった当時の文壇に背を向けて
 双方を再び融合させた正しい文学を書いた。と思う。
 
 僕はもう谷崎潤一郎にはなれないのだなあ、と大仰なことを言ってみる。
 さらに私生活を書けない僕には自然主義文学作家にもなれない。
 島崎藤村にもなれない。
 なんつーか外面的要素をまったく書かずに内面を表現することも無理なわけよ。
 「つらい」「困った」「うれしい」「幸せだ」は書けるが
 その理由を書くこと能わず。
 なんてこった!
 つまり、何もしゃべり出すことができない。
 自分や、その周りのことに関しては僕はもう書けない。
 今日長々と書いてきたのは日記にはさようならという内容だ。
 
 今後、何について語り出すかはまだ未定。
 当たり障りのない範囲においてなら、まだ自分のことについても書くかもしれないし
 まったく別のことを書くかも知れない。
 とにかく、何かを書きたい欲望はあるし、
 書かなくてはいけないような気もする。
 だって書かないと、タイピングが遅くなっちゃいそうだからな。

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