少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2021.10.31(日) あしたおたんじょうび
2021.10.30(土) 加齢と老練とお金(課金予報)
2021.10.19(火)〜21(木) 2年ぶり名古屋(変化に対応する)
2021.10.18(月) 準備する(近況)
2021.10.11(月) 早合点
2021.10.5(火) ワクサベ
2021.10.4(月) 搾取と花火
2021.10.3(日) 103の日

2021.10.31(日) あしたおたんじょうび

 ややフライング気味ですが、明日のお誕生日を前にして「セルフレジ」というお会計ページを作成。トップページからも飛べます。金や金!
 僕は本当にお金儲けには向いていないので、いい子にしておこづかいを待つことにします。やんやかした理屈はレジのページにあれこれ書いたので、よかったら読んでみてください。
 要するにいわゆる「乞食」行為で、そういうことをWeb上でやっている人のほとんどを、僕はけっこう冷ややかに見ております。なぜかといえば、そこにあんまり理屈がないからです。みんな「お金をください!」としか言っていない。なぜほしいのか。なぜあなたはそれをもらえるのか(重要)。それはどのような意義のもと使われるのか。そういったことを自分なりにはっきりとさせた上で、せいぜい堂々とやろう、というわけです。

 まだ「セルフレジ」のページには書いていない(説明4として、今度書くかも)のですが、これから世の中は、「クラウド養い・養われイング社会」になっていきます。何度かTwitterでは触れました()。みんなが少しずついろんな人に財産を渡して、みんなが少しずついろんな人から財産を受け取る。そういう世の中になっていくだろうと僕は思うので、ちょっと自分も進めておこうと。

 僕はみんなにあげられるものがあんまりないけど、なんとか「発散する(輝く)」ことくらいは、と思っています。僕なりに責任を感じているのです。次の一年も、けっぱります。

2021.10.30(土) 加齢と老練とお金(課金予報)

 電気グルーヴの石野卓球さんがどこかで、「昔は言葉にしないと伝わらないと思って、ラップでやたら長い歌詞を歌ってたけど、だんだん言葉じゃなくても伝えることができるようになっていって、どんどん歌詞が減っていった」みたいなことを言っていた。(記憶によれば2007〜8年ごろの雑誌で、小山田圭吾さんが小沢健二さんの直近の活動について聞かれて「面白いやつだよね」って応じたインタビューが載った号。いろいろ違ったらごめんなさい。もっと昔の発言と混同してるかも。家にあるはずなんだけど、この卓球さんのインタビューまで切り抜いたかはわからない。)

 若い時は言葉が多い。「そして僕は喋りすぎた!」とフリッパーズ・ギターも歌っていた。経験の蓄積と反比例して、口数は減っていくものだ。それなのに老人は語りたがる。だから言葉が空を切る。
 本当は黙っていくことが正しいのだ。そして時折、鋭い一言をシュッと出す。重みで勝負していく。だからこのホームページみたいに、いつまでも饒舌でいるのはどーなんじゃろか。でも筒井康隆先生が近著『老人の美学』で、年寄りは黙って、自分史でも書くのがよかろうと仰っていた。書くぶんには問題なさそうだ。読もうという人しか読まないのなら。

 老人は焦る。残された短い時間で、若者に「すべて」を伝えようと息巻く。しかしそんな言葉は届かない。響かない。返ってこない。その老人は知らない。時間がどれだけ雄弁かを。自身に宿った膨大な時間が、すでにすべてを語り尽くしていることを。何を言っても蛇足になるのだ。
 老人は全身で語っている。言葉など必要がない。本人だけがそれを知らず、「伝えねば」とつんのめる。ほとんど言葉は無駄である。ただ補助線として、時おり少しを吐けばよい。その鋭さを磨くのは、また時間である。時間をかけて尖らせていく。
 優秀な若者は、老人を見抜く。その中にある時間を読みほどく。彼らの目を信頼し、自らの時間を信頼する。そのために、生まれた時から、膨大な時間が目の前にある。

 僕の言葉も減っていくだろう。減らさねばならない。書く言葉もシャープに、スマートにさせていきたい。分量の話ではない。無駄を削ぐということでもない。すべての文字が有機的に絡まり合うような文章でなければならない。結果それが僕の形とならなくては。
 もっとふざけたいものだ。

 自分は変化していく。並行して周囲の環境も変化し、他人も変化し、関係も変化する。それを「受け入れる」なんてのは当たり前で、重要なのは「対応する」こと。受け入れた上で、どう変えていくのか。
 変わらないために変わり続けるんだよ、なんてことを言う。まったくその通り。僕が僕であるために変わり続けなきゃならない。「変わんないねえ」と僕はよく言われるが、めちゃくちゃ変わっているからこそ、なのだと思う。
 ドラえもんを好きであることは変わらない。でもその「好き」のあり方はもちろん時により変わっていく。ドラえもんへの理解や愛は深まる一方だ。「ドラえもんについては、これでよし」「これが結論!」なんて、終わりにしたことは一度たりともない。僕は永遠に彼らとともに生き続けるのだ。絶対に。それだけはもう決定していて、どのようにともに生きていくか、というのは、柔軟に変えていく必要がある。でなくば朽ちる。

 ↑ここまでは喫茶店で書いて、自分のお店に移動して筒井康隆大先生の『老人の美学』を通読(実はまだ読んでなかった)。良い本でした。再開。

 加齢には変化が伴う。それは老練でなくてはならない。若い頃にできたことをキープする必要はない。ただその時々で、美しいと思える様にあるだけで、ただひたすらにその美意識を問われる。
 いま僕は170cmに51〜52kgくらいで、歩いたり走ったりよくするのでそれなりの筋力はある。高校時代からこの体型、体格はほぼ変わっていない。筋肉がついたぶん重たくなったというくらいである。ただなんとなくぼんやりと生きていてそうなっているというわけでは決してない。僕は、ひとまずそのような状態の自分がまだ好きなのである。そのために、よく歩きよく自転車に乗り、階段を昇降し、夜中にラーメンなぞあんまり食べず、できるだけ良きものを口にする。かっこつけて背すじを伸ばす。ふざける。歌う。そういったたゆまぬ尽力のたまものとして、現状の自分がある。
 髪型も変わらない。伸びてきたら自分で切る。いいかげん床屋にくらい行けとよく言われるのだが、20年近く自分の髪に鋏を入れていると、それなりのコツもつかめるし、問題は感じていない。何より今のところはまだ、バスルームでセルフカットする自分のことが好きなのである。人生で初めて床屋に行く日には、何らかの必然性がほしいよね! みたいな欲もある。うーんたとえば、むかしの教え子が美容師かなんかになってて、「先生の髪をカットするのが夢でした!」とか言われたら、一も二もなく切ってもらいます。そういうの、ないかなー。そこでためらわず「切って!」と即断できる自分も、好きなのだ。
 そういうふうだからこそ、自分と周囲の目の変化には敏感でいなければならない、といっそう思う。「おっとそうきますか、だったらここは変えちゃおう!」と的確に判断できる、美意識のコックピット。

 昔は自転車で東京から名古屋や軽井沢まで走ってたんだけど、はっきり言って東京〜小田原間とか東京〜高崎間あたりは、走っていてもそんなに楽しくはないし、疲れるし足痛めるし時間かかるし日焼けするし排気ガス吸うし、メリットをデメリットが上回るので、もうそこは輪行しちゃう。電車に積んで、美味しいところだけ走る。それを「なめとるな!」と昔の自分は怒るだろうか? 「ごめんな、まあこのくらいは許してくれや。その代わり箱根は一息で登れるぜ。今のお前の半分以内の時間でな!」とか告げてみる。「ま、金があるならいいんじゃないの」ってたぶん彼は言うだろう。ああ、新宿まで自転車で行ってな、小田原までは金券ショップの株主優待券で乗るから、500円くらい余計にかかるぜ。でもポカリとすき家の料金を考えたら、ほとんどトントンであろう? おお、それはなんかむしろ楽しいな! なるほど! メモメモ! 目に浮かぶ。で、小田原から豊橋くらいまで走って、名鉄乗って、神宮前の喫茶店行く。運賃は定価でも1070円。1500円くらい上乗せするだけで、350kmが200kmちょいに短縮されるのだ。静岡のどっかで一泊(昔は野宿か徹夜でしたが、今なら安いホテルとって飲み歩きます)するなら、一日100km。ヨユーなのである。
 そう! 若い頃は愚直にまっすぐ走るだけだったが、手練れてくればこのようにさまざま工夫をこらし、ぜんぜん別の楽しみ方ができるようになるわけだ。これが老練。1500円を「安い」と見るかは経済状況次第だが、正直言って20歳くらいの僕でも、このプランはかなり安く見えているはずだ。だって150km走る間ってめっちゃのど渇くしお腹すくから、どうしても牛丼くらいは食べなくてはならない。時間がかかればそのぶん何度も食べたくなる。350km強を通して走っていたのは、単に若さゆえの「意地」でしかなかった。「名古屋まで自転車で帰ったよ!」とイキるためだけの。そして今はもう、そういうイキりがさして美しいと思えないところまでは老いた。現在は、上記のように「こうすれば1500円で250kmに! おトク!」とかいって、また別のイキり方をしているのである。

 この類の話はキリがないくらいある。羽生善治さんのこととか、今が旬なら新庄剛志さんのこととか。
 老いとともに洗練されていって、別の形の美しさにとどまる。それを死ぬまで続けるのだ。

 あさって(11月1日)のお誕生日を機に、このホームページも22年目にして初めて、課金システムを導入いたします。有料コンテンツが生まれるわけではありません。外部メディアの中抜きも生じません(クレカ手数料はご寛恕を)。なんで急に? っていうのとか、詳しくは専用のページを現在作成中。あしたの0時くらいに公開できたらいいな。

2021.10.19(火)〜21(木) 2年ぶり名古屋(変化に対応する)

19日
 Jisshitsu2時間しか寝ず新幹線。名古屋のお店のことなど調べていて寝られず。6時42分の便に乗り8時22分に名駅(メーエキ)着。各停で熱田まで。尾頭橋に停まるのが新鮮。
 とある喫茶店へ。すべてが完璧で全部を満足した。すべて、完璧、全部、満足、どれも同じ意味なので4倍だと思ってほしい。要するに「これでよし」。
 このお店には僕の好きなもののすべてがあった。要素が並んでいるというのではない。たった一つの本当のすべてが単純にあったのだ。これもあってこれもあって、という条件の話ではない。すべて、という唯一のものが一つだけあった。
 それで僕の今回の旅行は十全となった。約2年ぶり(要出典)の名古屋である。もうこれでよい、これから何があっても幸福は続く。そう思っていた。実際そうだった。今は帰りの新幹線の中。『舞姫』みたいだ。
 そのお店でおばあさんたちの名古屋弁を浴びに浴び、ああこれが回復というものなのかと思った。回復。元に戻る。僕は生まれた状態になった。そして言語を覚えていった。瞬時に。
 300円のモーニング。コーヒーと、豆菓子(ハーフタイム)、ゆで卵、トースト。これでよいのだ。産声が窓になる。
 フレッシュはスジャータ。
 自転車で東へ。さまざまの風景を横目に見つつ、瑞穂区の「あみん」という喫茶店でまたモーニングをいただく。小倉トーストとソーダ水。独特の話し方。中日新聞を読む。あんこは自家製だそうな。「リビングカフェ ティアレ」に入る。リビングである。ここは誰にも教えたくないくらいすばらしい場所だが、ここまで行く人はなかなかいないだろうし、きっと喜ばれるだろうから記しておく。やわらかいコーヒーを飲みながら、本を50ページくらい読んだ。「このお店は、いつまでいても良いですからね」とわざわざ言ってくれた。
 雁道あたりをざっと見る。シャモニー(新潟に同名の有名な地方チェーンがある)では何かのロケをしていた。パーラー曽我は9月いっぱいで閉店という貼り紙があった。
 北上、待ち合わせまでにちょっと時間があるので、桜山珈琲というところに寄ってみる。夕方からは習字教室になるようで、若いお客が多かったのもそのせいなのだろうか。想い出の八幡湯と村雲公園をチラッと見て、向陽高校の正門に行くと、ボードバカ氏がすでにいた。自転車にパーカー、だいたいおんなじようないで立ちである。
 高校の様子をともに見る。工事している。本校舎には半分覆いが掛かっていて、校庭にプレハブ。プールは跡形もなかった。南校舎の屋上にはソーラーパネルが見えた。
 自転車で吹上のほうを走る。彼に教えてもらった20円のゲーセンがあったのはこの近くだ。SJという喫茶店に入る。勿体ぶりたくなるくらいすばらしい。コーヒー飲んで、しばらく話す。世情と仕事の話である。
 同じく103(1年3組)の同級生であるU氏が間借りカフェをやっているというので向かう。そこにh氏来る。R先生来る。考えることがたくさんある。
 ボードバカ氏と、喫茶SJを出て自転車を押し歩きながら「結局、変化に対応できるかどうかだ」という話をした。ずっと同じではもうだめだ。それを確かめるために、僕は名古屋に来ているのである。そのことがはっきりとわかった。
 たとえば教員というものは、その授業(ないし生徒との関わり方)のスタイルによっては、「一方的に話す」ということが常態化する。「上から下へ」という滝のような情報の流れに慣れ切ってしまう。自分は変化するし、相手も変化するものだから、本来は関係というのも変化するものであるはずだが、変化させられない人もいる。R先生は、それが彼の持ち味でもあるのだが、一切の変化がない。環境が変わっても、目の前にいるのが「教え子」ではなくても、彼は常にどこでも「先生」でい続けようとする。そのフィールドに場を、人を、誘導していく。
 どこであってもそこは彼にとって教室であり、目の前にいるのは生徒たちである。決して、「五人の対等な人間たち」という構図にはならない。年長者はどうしても前者になってしまいがちなので、意識して僕は後者をめざす。まったく別のタイプの「せんせい」なのだと改めて思う。
 そういえば最近僕のことを「せんせい」と呼ぶ人が増えた。18歳とか21歳とかそのくらいの人たちなので、友達というよりは先生なのだろうが、先生というよりは友達である。そのくらいが僕も心地よい。
 舌鋒とんがらせ続けるR先生にお暇を告げ、h氏と歩きながら語る。伏見まで。これからお仕事なんだという。終わって都合が合えばちょっと飲もうという話になった。お互い消化不良だったのだ。彼女も教育関係の人間だから、いろいろ考えるところがあったらしい。
 高岳の宿にチェックインし、ちょっとだらだらした後、すぐ近くのトロワシスというバーに入ってみた。前にどこかで飲んでいた時、どなたかから、「名古屋で飲むといえば、僕はあそこくらいしか知らないですね」と店名を聞いた。インターネットで調べてもほとんど情報がない。良い香り。
 看板もない目立たないビルの怪しげな階段を登っていく。カウンター5席(実質2〜3席)とテーブルが一つの小さなお店。飲むものは決めていた。棚を見ると、ある。ジェムソンをストレートで。
「珍しいですね。ジェムソンがお好きですか」
「ええ。実は大曽根のほうにあったバーで、ジェムソンの大好きな……」
「それはもしや、先日亡くなられた」
「ご存知ですか。今朝知りました」
 ナゴヤドーム前矢田駅前に2019年末まであったアマチュアというバーのマスター、つるさんは、6月9日に亡くなっていた。新幹線で久々に彼のFacebookを見たら、熱海旅行から帰宅した直後に逝ったと。トロワシスには二度ほど来たことがあるらしく、映画の話なんかをよくしていたそうな。大腸ガンだったと。で、大腸ガンというのは、ストレートで強い酒をガンガン飲むような人がかかりやすいのだと。まさにつるさん、年がら年中ガブガブとジェムソンをストレートで飲んでいた。それでお店も辞めたのかもしれない。今や何もわからないけど。3年休んで昼の飲食をやると言っていたけども、3年は治療に専念して、きっと治すぞって意味だったのかもしれない。一度僕の夜学バーに来てくれた時も、異様に喜んでいた。そしてよく酒を飲んだ。飲ませるべきじゃなかったのかもしれない。でもなんにしたって、すべて彼らしい。僕にとってはただ、彼との最後の時間を自分のお店で過ごせたことが誇らしいというだけ。
 二杯目はカリラをストレートで。謎の暗号、10/0713で30。
 時間が迫ってきた。千種でh氏と合流。MKKのGJで26時まで話す。その後、新栄の梅小路あたりに行ってしまったのが悪かった、宿に帰ったのは6時くらいだった。
 名古屋市出身の友達が、夜中の新幹線で名古屋に来て、実家への電車もないし特に行くところもないから栄のマックにいる、なんて言うので、僕の知っているお店を紹介したら、どうも話が通じない(僕のことは知らないと言う)らしく、気になって様子を見に行ったのだ。なるほど、店主はすっかり出来上がっていて、まともに頭も動いていなさそうだった。もともとそんなに頻繁に通っているでもないし、少なくとも2年は行っていないので、まあ仕方ない。その子の始発(瀬戸線)まで付き合うことになった。もともと20日の午前に会う予定だったので、前倒しになったと考えよう。ということでこの日は昼前まで寝た。

20日
 前々から恋焦がれていた高岳の喫茶Yへ。すばらしいお店だった。豆菓子はプチテイスト。男性には青いのを、女性には赤いのを出しているようだった。16時か16時半くらいまでとのこと(メモ)。
 イナダシュンスケさんのあんかけスパ論(「名スパ」はB級ではなくちゃんとした洋食である、という主旨)を読んで、10年弱ぶり(要出典)2度目のあんかけスパをユウゼンで。ふだん決して出されたものを残さず、ご飯粒の一つまで見逃さない僕が、最後まで食べられなかった。ちゃんとイナシュン氏の言いつけを守り、ミラカンは避けてピカタを頼み、ソースを絡めずに食べたのに……。ユウゼンのピカタは洋食的には邪道のやつらしいので、そのせいかも。ちなみに前に食べたのは名駅地下のチャオで、その時は気持ち悪くなって熱が出た。次はヨコイで食べてみる。また具合悪くなったら、もう一生あんかけスパは食べない。
 今日の待ち合わせは金山。少し時間があったので、鶴舞の喫茶パークを覗いてみたが、すでに店じまいの様子。尾陽神社が近かったので行ってみる。ここは村雲公園と同様、高校の演劇部時代に稽古場として活用していた。向陽高校は定時制があったので、全日制の完全下校はたしか17時半。17時10分くらいには部活を終えなければならない。そんなんで戦えるわけがないので、夕刻から公園や神社で練習をすることがあったのだ。
 藤子不二雄A先生の『少年時代』に出てくる神社のように、境内までまっすぐの階段を登る。これが好きだった。はじめの鳥居をくぐってすぐ、砂利になるより手前のアスファルトのゾーンが僕らの場所。アベマキという保存樹の立っているあたり。蚊に刺されながら、薄暗い中で立ち稽古していた想い出がサッと甦る。
 その裏に「愛」という喫茶店がある。ビッグコミック、オリジナル、モーニングなど、僕が読んでいる雑誌がずらり。安いし雰囲気も良いし、ああ、こんなところに高校時代から通っていれば、僕の人生も心中もずいぶん穏やかで豊かになっていただろうに。しかし残念ながら、わずか300円を捻出する経済感覚が当時の僕にはなかった。一冊でも多くの漫画や本やCDを買いたかったのだ。その価値観がその頃の僕を育てたのであるから、何も文句はないのだが、ちょっとでも違う価値観があれば、もっと別の、しかもちょっとは良い自分になっていたかもしれない。そういうふうに考えるのはたぶん意義深い。これは単なる後悔や反省ではない。生き直しである。選ばなかった事から、選んだ事が浮き彫りになる。もう一人の自分から、紛れもない現実の自分が投射される。セルフ聖地巡礼は、パラレル同窓会に近い。いろんな僕に出会う旅。もちろん、むかしのぼくに出会う場所(Kannivalism『ぼくの場所』)でもある。
 モーニングで『望郷太郎』読んで、ビッグコミックオリジナルに目を通して、時間が近づいてきたので金山の方へ。前にひろりんこ氏と鼎談をしたてぃむてぃむというお店でもっつ氏と落ち合う。孫らしき小学生の女の子が、おしぼりを持ってきてくれたり、注文を取ってくれたりした。17時に閉まったので、満というすぐそばのお店に場を移す。ここにも子供がいた。18時くらいまでだいたい2時間ほど話した。
 彼が持ち込んでくる話はいつも面白い。僕が持ち込む話もたぶん面白いのだろう。あっという間に時が過ぎた。「これでしばらくは会わなくてもいいかな」という満足感もない。定期的に刺激をもらえる貴重な人材。
 ボ、U、h、R、もっつ、ひろりんこ、これらの人々は、ほぼみんな2000年(ひろりのみ2002年)に知り合っていて、昔の日記や「活字芸術」(今は見られない)なんかを漁ると、どこかに何度も登場している。イニシャルやあだ名を堂々と表記しているのは、そういう歴史があるからなのだ。時効というか。それにしても、高校時代は僕にとって本当に重要な時期だったのだなあ。
 実家に帰る。金山からは8kmくらい。押して歩いた距離も含めれば昨日からすでに30kmくらい転がしていると思う。キャリーミーというシリーズの小さな白い自転車。親子丼をお母さんが出してくれたが、眠すぎるのと、昼間の名スパが効いているのか、4分の1くらいしか食べられなかった。わかめの炒め物も少しだけ。とにかく仮眠を取ろうと、ほうじ茶を一口だけ飲んでリビングに倒れ込んだ。お母さんがそっとざぶとんを半分に折ったような枕を差し出す。次に巨大なドラえもんを「これは抱き枕」と押し付けてきた。抱きしめて眠る。テレビの声が聞こえ続ける。タオルケットのようなものが下半身にかぶせられる。これはお父さんかもしれない。幸福な人間でございます。
 2時間くらいして起きて、残りの親子丼を食べて、野菜ジュースをもらう。お母さんが手作りのおもちゃを自慢してくる。お父さんから音源をもらったりオーディオの話をしたりしたかったけど、時間も元気もないので今度。
 高齢者なので、万に一つでもウィルスをうつしたくないから、宿をとったというのもある。泊まっていって欲しそうだった。玄関で2人に見送られて出立。報徳湯で汗を流す。僕の卒園した幼稚園のすぐ隣にある銭湯。報徳といえば二宮尊徳。縁を感じて好きである。番台横の駄菓子コーナーにSexy Zoneのくじがあったので引く。20円。菊池風磨。

21日
 6kmくらい走り、初日に行って感動した某喫茶をもう一度訪れる。喫茶店趣味をスタンプラリーのように楽しむ方も多いようですが、僕はもう、とにかく好きな場所に何度でも行きたい。常連になりたくないとも思わない。なりたいとも思わない。ただ郷に入って郷に従うのみ。2回目にしてすでに「これこれ」と思いつつ堪能。近くのヨーグルト屋さんでヨーグルト飲んで新聞読む。名鉄乗って鳴海、喫茶Pへ。ここもすばらしい。
 Pは、前に行った時は夕方までやっていたのだが、最近は12時で閉めているらしい。喫茶店というのは老いとともに縮小していくことが多い。生命のように先細っていく。近所のとある喫茶店も、最近ご飯ものの提供をやめて、食べ物持ち込み可というシステムを導入していた。僕はそういうお店がけっこう好きである。変わってゆくのは寂しいが、それは「変化に対応する」という柔軟な姿勢でもある。それで少しでも長く楽しく続けられるのであれば、いくらでも縮小していってほしい。金沢の有名な喫茶店も、どんどん営業時間が短くなっていて、今では1日に2時間しか開いていないらしい。でも、それでいいのだ。それでこそ喫茶店は、人生そのものと言えるのである。
 そ、今回の旅のテーマは「変化に対応する」なのだ。
 古い友達とずっと仲良くしていられるのは、お互いにそれができているからなんだろうな、とも思う。
 緑区からぶらぶらしながら北上し、南区、瑞穂区、昭和区、千種区、東区、北区と跨いでいった。まっすぐ行けば15kmくらいだが、あちこち寄り道したのでもうちょっとか。
 新瑞橋のユニーでスガキヤ食べたなとか、ああここはあの子の家の前だとか、学校の近くにこんなお店があったのかとか、ボンボンセンターだ今度飲みたいなとか、この公園であの子と会ったなとか、花火したなとか、うおおこの交差点の渡りにくさ、とか、いろいろ思い出しながら走る通学路に、アロンという喫茶店を発見する。これまでまったく気が付かなかった。入ってみる。名店。すばらしい。高校生の僕は、もしこのお店に入ったとして、何かを感じただろうか? どういうふうにカッコつけていただろうか? 日記にはどう書いていたか? 並行する世界の毎日 子供たちも違う子たちか ……ナンテ気取りすぎ
 参考文献:小沢健二『流動体について』(2016/2017)、Gackt『Vanilla』(1999)
 大曽根の大好喫茶Vがお休みだった(閉業でないことを祈る)ので、やる気をなくしてなぜかツイキャス配信しながら地元の聖地巡りをしてみる。三つくらいあります
 一本目は某宅、幼稚園、南荘、喫茶I、中学、矢田川河川敷、つねかわ。
 おばちゃんいなかったので、おじちゃんに後で来ますと言って、
 二本目はガスト、トンネルから小学校学区中心部、小学校一周、中学通って喫茶I。
 16時までだからとしめだされる。つねかわ戻ったらおばちゃんいたのでみそおでん(ごぼうの入った練り物と厚揚げ)、チーズマヨたません、もちチーズ、ライフガードを頼んでしばし世間話。小学生の女の子たちが2グループ、駄菓子を買いにやってくる。男の子の姿はまったく見ず。恥ずかしいけど拙著『小学校には、バーくらいある』を手渡す。つねかわ出てくるので。
 三本目は矢田川側から木ヶ崎公園(これも小バーに出てくる)、矢田橋渡って守山図書館(小学校中学年の時に通い詰めてデビルマン、まんが道、ちばてつや少女漫画、手塚全集などを読みまくった)、ユニー(現ピアゴパワー、奥井亜紀さんの『Wind Climbing〜風にあそばれて〜』『晴れてハレルヤ』はここで買った)、守山文化小劇場(高校演劇部の地区大会会場)などの聖地を通る。大森の某喫茶(友達がかつてバイトしていたらしい)まで(6km)。
 ミックスジュース飲んで、覚王山まで(7km)走ることを決める。桜花ラーメン休みだったので空腹のまま、あの伝説のアピタ横通って山を登り、cestaでチェコビールとアブサン飲む。ここも当たり前だけど2年かそれ以上ぶり。世間話する。主にやっぱりコロナ禍下の話。あと、名古屋は文化がない、という話。本当に僕もそう思う。がんばってほしい。がんばろうぜ。夜学バー2号店やりましょうよ。
 名古屋港まで電車で行って、猫と窓ガラスというお店に入る。ジェムソンとエズラ飲む。90年代からファンである福岡史朗さんと何故か電話がつながる。今度ライブ行きます。
 予定よりちょっと遅い新幹線に乗る。

2021.10.18(月) 準備する(近況)

 最近の僕。

・日記(これのこと)
・日紀(通称:日本書紀。トップから実は飛べる)
・日報(夜学バーのジャーナル)
・ウーチヤカ大放送(きっちり毎週やってる)
・詩(ハイパー・トニック・セツノーナル)
・お店(夜学バー、ほぼ毎日営業)

 日記は飛び飛び。本当は「執筆中(Googleドキュメント)」の方を進めたいのだが、何も更新しないのは嫌なので、ちょこちょこと。
 日紀はとりあえず意地でも毎日って感じでやってる。たまに忘れるが、後からでもとにかく埋める。2000年代前半のスタイル。
 日報は1週間とか10日とか溜めて、暇な時に書く。
 ウーチヤカは週のどっかで時間とれそうなとき、きっかり2時間と決めてスマホの前でだらだらと喋っている。これは恥ずかしいし、質(?)にばらつきがあるので、正直聞いてもらいたいわけではない。ごくごく一部のマニアと、自分のためにやっております。
 詩は、詩情が高まってきた時に書く。その瞬間を一瞬でも逃したらもう書けない。最近も何度かグッと来た時があったが、逃してしまった。残念だ。好きなフレーズが二行ぐらい浮かんでも、5秒後には消えてしまう。今日久々に書いたが、最初に浮かんだフレーズはほぼ原型がない。悔しい。
 夜学は言うまでもなし。みんな来てちょ。

 ずっと言ってるがお話も書きたい。ただ、今は読む時期(すなわち考え、熟成させる時期)な気がしていて、途切れることなく図書館で借りたりどっかで買ったりしている。「執筆中」という名の、考えまとめ文章も、そのせいで止まっている。
 そういう時期ってキリがなく続くもので、高野文子先生のように本当に果てしなく間があいてしまう。一応気をつけてはいます。
 もうすぐお誕生日(11月1日)。祝ってね。

 実は、近々名古屋にちょっと行く。まだ親にも言っていない。友達や先生とは何人か会う予定。好きな店にも顔を出す。また、帰った頃に愛する人物が上京するので、その人に会う。今はそれらが楽しみ。本当に、この2年弱は移動をほとんどしていない。3日くらい大阪のホテルに意味もなくカンヅメしたのと、上田や小諸から諏訪にかけてを自転車で走りに行ったくらい。本格的に寒くなる前に、自転車の旅もしたい。お誕生日付近かな、それは。
 名古屋にももちろん、自転車は持っていく。白いキャリーミー。小さいやつ。
 今日、180円のコーヒー屋で鏡を見た。自分はとても可愛かった。ハッ、可愛いっつったら揶揄されたり、「そこじゃねえだろ!」みたいなこと言われる(超根に持ってる)けど、知らねーよっと。
 別にその姿を永遠と思っているわけではない。次の一瞬も可愛くあろうと思っているだけだ。僕の言う「可愛い」は「格好良い」とほぼ同義。「サマになってる」でもいい。とっちゃん坊やだろうがなんだろうが、それで成立させりゃ問題ない。
 んで、成立してるかどうかは、僕と、僕の友達がなんとなく決めるのだ。
 自転車には永遠に乗り続けるだろう。名古屋のことも愛するだろう。矢田川を歩いて感慨に耽るだろう。散歩をし、詩を書くだろう。そのすべてが僕にとって「これでよし」と思えて、胸を張れて、その様子がみんなにとっても「そうだね」ってくらいであれば、すなわち、これまで通りに浮き続ければ、それが「成立してる」ってことだと僕は思う。浮きまくる覚悟ならとうにある。
 そのために友達に会う。先生に会う。世界を確かめる。待ってろ、「これでよし」。
 自分が愛せる自分でいれば「可愛い」と思えるし、それを誰かが認めてくれたら「格好良い」になれる。
 背すじを伸ばして、準備する。

 ある面では、どんどん孤独になっていくのだろうが、先鋭化して行って、いずれ仙人になるということだ。そして洞穴の中で、誰かが来るのを待っている。大好きな人と遊びながらね!

2021.10.11(月) 早合点

 てめーのチンケなものさしでかってにおいらを矮小化すんじゃねえ!! なんて怒ってたのはもう15年位前なのかもしれませんね。もう怒りはしません。ただ悲しくてめそめそします。
 そういうことが数日で三件くらいあった。

 嫌だなあ、と思うことはいまだになくならない。僕が嫌なのは、早合点されることだ。もう「早合点」という言葉でいいような気がしてきた。
 ちょっと早いんじゃないですか? 合点が。
 どれだけ分かったと感じてもそこを離れてはいけないってグニュウツールが言ってたよ。
「分かった」と感じること、すなわち合点は、あなたの感想にすぎないですからね。
 それ自体は罪じゃないけど、それを相手に投げつけたら、戦争だろうが……!
 戦争じゃねえのかよ……!

 合点が訪れたら、危険と思わねばならない。
 合点というのはゴールである。ゴールなどそうそう訪れない。しかし面倒くさがりの脳は、あるいは機能は、いったん訪れたと仮定して、先へ進もうとする。はい、この面クリア。ということで終わりになる。
 人生に区切りなどなく、ひとつながりの面なのである。
 ひたすらに横スクロールが続く。どこまで行ってもゴールはない。
 その中でどう生きる? という話で、早合点する人はそこが知れてる。

 早合点と言えば徒然草で、石清水八幡宮に登らなかった仁和寺の法師。
 ふもとの寺だけ見て、これが石清水かと早合点して、帰って行った。
 彼は、それはそれで幸福だったろう。極楽寺も高良も美しかったのだろうし。
 早合点は幸福のもとである。

 中村うさぎ『愚者の道』に曰く。

 おそらくナルシシズムにとって、「思考」は恐ろしいものなのだ。何故なら、「思考」とは「明晰である」ことを求め、「明晰である」には「客観性」が必要となるからである。客観性を持てば持つほど、人は万能感を失っていく。自分は世界の中心であり、全知全能の神であるとすら思いたいくらいなのに、「客観性」という名の神が、それを否定するのだ。(「敵はどこにいるのか」)

 思考を止めれば、客観性は無視できる。万能観を保持できる。「早合点」とは、「そこで思考をやめて、幸福になる」ということなのである。
「わたしは、あなたについての思考をここで止めました、わたしはいま、ハッピーです!」
 そういう宣言をされたのです。僕は。ぜっっっっったいにゆるしません!

 幸福というのは、終わりなのです。人はその気になれば、いつでもすべてを終わらせて、幸福になることができる。早合点という魔法によって。ただし、それで幸福になるのは、その人だけなのだ。ぜっっっっっっったいに、ゆるさない!!!

2021.10.5(火) ワクサベ

 喫茶店にて。

高齢女性「息子が 俺はワクチン打たないんだって 信じられないよね 塾の先生で 子供と接するのに 今はオンライン授業だからって言って 生意気だよね イチローと同い年だよ かたや世界のイチローで ほかの子たちがね それで もし両親のどっちかにうつって 死んじゃったりしたら きょうだいみんなで恨んでやるって 奥さんからもね 打たないなら出てけって 言ったらしいの そしたら 打つって」

 被差別者になるかならないかは、普通は選びとれないものだけれども、ワクサベに関しては、自分でどちらかを選ぶことができる。一般に、基本的には打たない方が差別されるので、打たないことを選べば被差別者になれる。そして、打つことを選べば、差別する側に回ることになる。「やめなよ」と言えないなら、それは加担である。

 打たないのは迷惑だ、というのが論理であるが、迷惑な人間はいじめてよい、排除してよいというのも、差別の一形態なのではないか。そして迷惑というのは感想か、主張に過ぎない。
 ということは、「迷惑」以外の感想ないし主張しか存在しないようなところにいれば、差別されないかもしれない。うまいこと泳がねばならない。くだんの「息子」さんは、「ワクチンを打たないのは迷惑だ」という主観・主張の支配的な世間に生きていたから、恨まれたり追い出されるか、その価値観に身を委ねるかの選択を迫られて、折れた。そもそも逃げ場はなかったのだ。加害側に回った彼を、誰も責められない。

 接種完了率は全人口の6割を超えた。1回接種は7割を超えている。どんどん趨勢は変わっていく。初めは「俺は打たない」と言っていた人も、さまざまな理由で「やっぱ打とう」に舵を切ったのだと想像する。10月はやや感染がおさまってきているが、接種者への特典や優遇は増えていきそうだし、冬にはまた流行るだろうから、まだまだ接種率は上がるはず。日本の場合、じわじわと率は上がっていって、80〜90%くらいまでは達するんじゃないかと根拠なく思う。
 差別のない空間は減っていく。ナチュラルに横行して、そこに非接種者がいるかもしれない、とさえ意識されなくなる。実際、いる確率は相当低いし、いたとしてもその人が反発して声を上げることはほとんど考えられない。透明になる。日本の差別はここに完成する。

 そして1年くらいで風化する。期間限定の差別意識だとは思う。一時的に、ワクチン非接種者は「ケガレ」として扱われるだろう。そして時が経てば、忘れられるだろう。打つ人は打つし、打たない人は打たないよね、というところで、安定するんじゃないかしらね。
 そして、「なぜあの頃はあんなにヒステリックだったんだろう」と振り返る。ちょうど去年の4月から5月にかけての、緊急事態宣言下の雰囲気を思い出すときのように。商店からトイレットペーパーがなくなった時のことを笑うようにナ。
 ベクレルだ、シーベルトだという単語はとうに聞かれない。

 何も悪いとは思わない。用心すべき時に用心するのは当たり前のこと。その慎重さが日本の空気の良いところである。同じパニックでも、破壊や暴動よりは粛々と静かにトイレットペーパーを買いにいく方が平和かもしれない。

 被差別者となるか、差別者となるかを選択できる稀有な環境にある。打った人はもう選べないが、まだ打ってない人は、打たない限りその選択が常にずっと目の前にある。
 打たないことを選んだ上で、被差別者とならないためには、逆に自らが差別者となるしかない。「ワクチンを打つ人間は愚かだ! 自殺するようなものだ! 世界の陰謀に加担している!」といったふうに。個人的な意見として、これは分が悪いと思う。
 差別することを受け入れるか、差別されることを受け入れるか、いずれも受け入れず、戦うか。

 参考文献:藤子・F・不二雄『流血鬼』

 差別者だけの世界(吸血鬼だけの世界)は平和である。
『流血鬼』という作品は、被差別者である人間(=流血鬼)を、吸血鬼の世界に引き入れることで、差別のない美しい世界が実現した、というふうに読むことができると思う。冒頭の高齢女性が話した例は、まさにこれなのだ。その小集団(小さな世間)は、ひとまず平和になっている。そしてそれを堂々と、喫茶店で言えるくらいには、もうちょっと広い世間でもその感覚は通用しているのであろう。被差別者であった息子さんは、自らが折れることによって、世間に平和をもたらしたのである。
 吸血鬼たちは「私たちに噛まれなさい、素敵な世界が待っている」と迫る。人間はそれに抵抗するが、いざ噛まれてしまえば、「夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」と歓喜する。
 今ごろその息子さんも、「ああ、なんで自分はあんな意地を張っていたのだろう」と回顧しているかもしれない。

 被差別者は、差別者とはものの見え方がまったく違う。噛まれてしまえば夜の美しさを別の視点から味わうことができるようになるのだろうが、かつての暗く静謐な夜を楽しむことはもうできない。
 不可逆な変化である。みんな静かに表情を変えていく。面白い日々が続いている。

2021.10.4(月) 搾取と花火

 搾取されている気がする。ちょっと前まではそんなふうに思うことがなかった。すべて勉強だ、いずれ自分のためになる、そう考えていた。それは実際そうであった。しかし、たしか去年の誕生日前後だったと思うが、それを「やめよう」と明確に決意した
 面倒があるのが嫌なのでちゃんと書いておきますが、これらは決して個人に対して言っているのではありません。20人の個人になら言っているかもしれませんが、1人や2人の個人を思い浮かべて言っているのではないです。だからすべての「それってわたしのことですか?」という疑問には「違います」と先に答えておきます。
 また、僕が誰のことも搾取していないという話でもない。僕はたぶんさまざまな搾取をしてきた。今もしているかもしれない。それと僕が搾取されているというのは別の現象である。どちらも減らしていきたいのである。
 毎日膨大な「助けてくれ」が届く。それが手のひらであれば僕は手を伸ばそう。石つぶてであれば、どうか逃げさせてほしい。花火であれば、近づくことはできません。

 そして花火はけむいのです。

 必ずしも、誰もがそれを美しいとばかり思うわけではありません。
(参考文献:2000年8月5日の日記)

 一方的に吐き出してくる人が多すぎる。余裕がないとけっこうみんなそうなってしまうらしい。でも関係はゆっくりとしか開きません。急がば回れ。仲良くしよう。

2021.10.3(日) 103の日

 某陽高校1年3組の同級生たちと、去年に引き続きオンラインで会談。計7名の参加。UFJPG■と、そういえば昔「活字芸術」(このHPの古いコンテンツ)に投稿してくれたことのある某M氏。同じく活字芸術に載っていたM2も誘ったが忙しかったようだ。
 毎度ながら人生には本当に色々ある。結婚していないのは僕だけで、子供がいないのは僕を含め3名。や、僕が本当はもう結婚していて子供もいるのだ、という可能性を匂わせておいた方が神秘的でいいのだが、今日はそういうことにする。
 子供がいるとたいていは、ほとんどのことが子供中心になっていくようで、「子供のいない友達とは遊ばなくなった」というパターンは多いらしい。お互いが子供を連れてきて遊ぶ、というほうが諸々都合がいいわけだ。一方で子供のいない人間は子供のいる人間を誘いづらくなる。そのように分断(流行語ですね)は起きていくわけだが、「高校の友達」ということになると、このような機会に一瞬、交わったりする。

 そう。我々はそもそも、高校の友達なのであって、なにか志を一つにして集まっていたわけではない。我々にとって遊ぶとは「共にそこにいる」という以上のものではないのであって、会話以外にすることのないオンライン上では、いまいち遊び方がわからない。我々は別に、何も話さなくたっていいような関係なのだ。顔が見られて、みんな元気であれば、それでサヨナラで別に良い。でもせっかくだからしゃべりたくって、何かを喋ろうとする。
 しかし結局のところ、「お変わりはありませんか。ありませんね。それでは」というような感じになる。子供の話をしても仕方ないし、仕事の話をしても仕方ないのだとしたら、自分の話をしようということになるはずだが、なぜかこの集まり、「最近〇〇をしてましてね!」と言い出す人があんまりいない。本当に子供と仕事以外に何もないのかもしれないが、単に思いつかない(思い出せない)とか、遠慮してるのもあるんだろう。オンラインだし、周りに家族がいたりもするし。
 それとなんというか、あえて何かを言う必要のない関係、ってのなんだと思う。内容のある話なんか、昔からほとんどしたことがない。だけども、集まってテキトーにぐだぐだしてたら、ふとした瞬間に話の端緒が切り開かれて、なんてことはいくらでもある。オンラインだと圧倒的に少ない。ファミレス行きてゃーな。
 もちろん、特に別に話すこともないまま、偶然と思いつきに任せて時間が過ぎていくような感じは、それなりに心地よい。平和だということでもある。

 ともあれ今回は、「自宅からのオンライン会談」というものの限界を知ることができた。家族を持った人間が家庭の中にいる以上、その人はどうしても「家の中の顔」をしてしまうものなのだ。自宅以外から繋いでいたのは僕だけであった。7人中5人は、すぐそばに家族のいる状態だった。もう、お前ら、来年は全員外に出て喋れよ! こないだM2と電話したときは、名古屋と東京で、お互いに近所の公園とか散歩しながら数時間話した。もし彼が家の中にいたら、あんなに奔放で笑いに満ちた、自由でかけがえのない時間にはならなかっただろう。みんなそれぞれ事情があるんで、それが現実的かどうかは別として、もしみんなその辺の公園とかにいたんだったら、またちょっと違ったんじゃないかな。お父さん度が下がって、もうちょっと個人でいられたんじゃないかな。
 あとは、みんな大人になり過ぎたんだね。いいんだよ、何も気にしないで。だけど、気にするんだろうな。なぜかといえば、ここがファミレスじゃないからだと思うんだ。すべてはそう、環境なのだ。自宅から繋ぐオンライン空間というのは、どうしても社会的な場になってしまうらしい。物理的に同じ場所にいて、家族や家庭から切り離されていたら、もうちょっとテキトーになるんだと、そしてマジメになるんだと、僕は信じたいです。
 会える時に会おう。

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