少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2021.10.18(月) 準備する(近況)
2021.10.11(月) 早合点
2021.10.5(火) ワクサベ
2021.10.4(月) 搾取と花火
2021.10.3(日) 103の日

2021.10.18(月) 準備する(近況)

 最近の僕。

・日記(これのこと)
・日紀(通称:日本書紀。トップから実は飛べる)
・日報(夜学バーのジャーナル)
・ウーチヤカ大放送(きっちり毎週やってる)
・詩(ハイパー・トニック・セツノーナル)
・お店(夜学バー、ほぼ毎日営業)

 日記は飛び飛び。本当は「執筆中(Googleドキュメント)」の方を進めたいのだが、何も更新しないのは嫌なので、ちょこちょこと。
 日紀はとりあえず意地でも毎日って感じでやってる。たまに忘れるが、後からでもとにかく埋める。2000年代前半のスタイル。
 日報は1週間とか10日とか溜めて、暇な時に書く。
 ウーチヤカは週のどっかで時間とれそうなとき、きっかり2時間と決めてスマホの前でだらだらと喋っている。これは恥ずかしいし、質(?)にばらつきがあるので、正直聞いてもらいたいわけではない。ごくごく一部のマニアと、自分のためにやっております。
 詩は、詩情が高まってきた時に書く。その瞬間を一瞬でも逃したらもう書けない。最近も何度かグッと来た時があったが、逃してしまった。残念だ。好きなフレーズが二行ぐらい浮かんでも、5秒後には消えてしまう。今日久々に書いたが、最初に浮かんだフレーズはほぼ原型がない。悔しい。
 夜学は言うまでもなし。みんな来てちょ。

 ずっと言ってるがお話も書きたい。ただ、今は読む時期(すなわち考え、熟成させる時期)な気がしていて、途切れることなく図書館で借りたりどっかで買ったりしている。「執筆中」という名の、考えまとめ文章も、そのせいで止まっている。
 そういう時期ってキリがなく続くもので、高野文子先生のように本当に果てしなく間があいてしまう。一応気をつけてはいます。
 もうすぐお誕生日(11月1日)。祝ってね。

 実は、近々名古屋にちょっと行く。まだ親にも言っていない。友達や先生とは何人か会う予定。好きな店にも顔を出す。また、帰った頃に愛する人物が上京するので、その人に会う。今はそれらが楽しみ。本当に、この2年弱は移動をほとんどしていない。3日くらい大阪のホテルに意味もなくカンヅメしたのと、上田や小諸から諏訪にかけてを自転車で走りに行ったくらい。本格的に寒くなる前に、自転車の旅もしたい。お誕生日付近かな、それは。
 名古屋にももちろん、自転車は持っていく。白いキャリーミー。小さいやつ。
 今日、180円のコーヒー屋で鏡を見た。自分はとても可愛かった。ハッ、可愛いっつったら揶揄されたり、「そこじゃねえだろ!」みたいなこと言われる(超根に持ってる)けど、知らねーよっと。
 別にその姿を永遠と思っているわけではない。次の一瞬も可愛くあろうと思っているだけだ。僕の言う「可愛い」は「格好良い」とほぼ同義。「サマになってる」でもいい。とっちゃん坊やだろうがなんだろうが、それで成立させりゃ問題ない。
 んで、成立してるかどうかは、僕と、僕の友達がなんとなく決めるのだ。
 自転車には永遠に乗り続けるだろう。名古屋のことも愛するだろう。矢田川を歩いて感慨に耽るだろう。散歩をし、詩を書くだろう。そのすべてが僕にとって「これでよし」と思えて、胸を張れて、その様子がみんなにとっても「そうだね」ってくらいであれば、すなわち、これまで通りに浮き続ければ、それが「成立してる」ってことだと僕は思う。浮きまくる覚悟ならとうにある。
 そのために友達に会う。先生に会う。世界を確かめる。待ってろ、「これでよし」。
 自分が愛せる自分でいれば「可愛い」と思えるし、それを誰かが認めてくれたら「格好良い」になれる。
 背すじを伸ばして、準備する。

 ある面では、どんどん孤独になっていくのだろうが、先鋭化して行って、いずれ仙人になるということだ。そして洞穴の中で、誰かが来るのを待っている。大好きな人と遊びながらね!

2021.10.11(月) 早合点

 てめーのチンケなものさしでかってにおいらを矮小化すんじゃねえ!! なんて怒ってたのはもう15年位前なのかもしれませんね。もう怒りはしません。ただ悲しくてめそめそします。
 そういうことが数日で三件くらいあった。

 嫌だなあ、と思うことはいまだになくならない。僕が嫌なのは、早合点されることだ。もう「早合点」という言葉でいいような気がしてきた。
 ちょっと早いんじゃないですか? 合点が。
 どれだけ分かったと感じてもそこを離れてはいけないってグニュウツールが言ってたよ。
「分かった」と感じること、すなわち合点は、あなたの感想にすぎないですからね。
 それ自体は罪じゃないけど、それを相手に投げつけたら、戦争だろうが……!
 戦争じゃねえのかよ……!

 合点が訪れたら、危険と思わねばならない。
 合点というのはゴールである。ゴールなどそうそう訪れない。しかし面倒くさがりの脳は、あるいは機能は、いったん訪れたと仮定して、先へ進もうとする。はい、この面クリア。ということで終わりになる。
 人生に区切りなどなく、ひとつながりの面なのである。
 ひたすらに横スクロールが続く。どこまで行ってもゴールはない。
 その中でどう生きる? という話で、早合点する人はそこが知れてる。

 早合点と言えば徒然草で、石清水八幡宮に登らなかった仁和寺の法師。
 ふもとの寺だけ見て、これが石清水かと早合点して、帰って行った。
 彼は、それはそれで幸福だったろう。極楽寺も高良も美しかったのだろうし。
 早合点は幸福のもとである。

 中村うさぎ『愚者の道』に曰く。

 おそらくナルシシズムにとって、「思考」は恐ろしいものなのだ。何故なら、「思考」とは「明晰である」ことを求め、「明晰である」には「客観性」が必要となるからである。客観性を持てば持つほど、人は万能感を失っていく。自分は世界の中心であり、全知全能の神であるとすら思いたいくらいなのに、「客観性」という名の神が、それを否定するのだ。(「敵はどこにいるのか」)

 思考を止めれば、客観性は無視できる。万能観を保持できる。「早合点」とは、「そこで思考をやめて、幸福になる」ということなのである。
「わたしは、あなたについての思考をここで止めました、わたしはいま、ハッピーです!」
 そういう宣言をされたのです。僕は。ぜっっっっったいにゆるしません!

 幸福というのは、終わりなのです。人はその気になれば、いつでもすべてを終わらせて、幸福になることができる。早合点という魔法によって。ただし、それで幸福になるのは、その人だけなのだ。ぜっっっっっっったいに、ゆるさない!!!

2021.10.5(火) ワクサベ

 喫茶店にて。

高齢女性「息子が 俺はワクチン打たないんだって 信じられないよね 塾の先生で 子供と接するのに 今はオンライン授業だからって言って 生意気だよね イチローと同い年だよ かたや世界のイチローで ほかの子たちがね それで もし両親のどっちかにうつって 死んじゃったりしたら きょうだいみんなで恨んでやるって 奥さんからもね 打たないなら出てけって 言ったらしいの そしたら 打つって」

 被差別者になるかならないかは、普通は選びとれないものだけれども、ワクサベに関しては、自分でどちらかを選ぶことができる。一般に、基本的には打たない方が差別されるので、打たないことを選べば被差別者になれる。そして、打つことを選べば、差別する側に回ることになる。「やめなよ」と言えないなら、それは加担である。

 打たないのは迷惑だ、というのが論理であるが、迷惑な人間はいじめてよい、排除してよいというのも、差別の一形態なのではないか。そして迷惑というのは感想か、主張に過ぎない。
 ということは、「迷惑」以外の感想ないし主張しか存在しないようなところにいれば、差別されないかもしれない。うまいこと泳がねばならない。くだんの「息子」さんは、「ワクチンを打たないのは迷惑だ」という主観・主張の支配的な世間に生きていたから、恨まれたり追い出されるか、その価値観に身を委ねるかの選択を迫られて、折れた。そもそも逃げ場はなかったのだ。加害側に回った彼を、誰も責められない。

 接種完了率は全人口の6割を超えた。1回接種は7割を超えている。どんどん趨勢は変わっていく。初めは「俺は打たない」と言っていた人も、さまざまな理由で「やっぱ打とう」に舵を切ったのだと想像する。10月はやや感染がおさまってきているが、接種者への特典や優遇は増えていきそうだし、冬にはまた流行るだろうから、まだまだ接種率は上がるはず。日本の場合、じわじわと率は上がっていって、80〜90%くらいまでは達するんじゃないかと根拠なく思う。
 差別のない空間は減っていく。ナチュラルに横行して、そこに非接種者がいるかもしれない、とさえ意識されなくなる。実際、いる確率は相当低いし、いたとしてもその人が反発して声を上げることはほとんど考えられない。透明になる。日本の差別はここに完成する。

 そして1年くらいで風化する。期間限定の差別意識だとは思う。一時的に、ワクチン非接種者は「ケガレ」として扱われるだろう。そして時が経てば、忘れられるだろう。打つ人は打つし、打たない人は打たないよね、というところで、安定するんじゃないかしらね。
 そして、「なぜあの頃はあんなにヒステリックだったんだろう」と振り返る。ちょうど去年の4月から5月にかけての、緊急事態宣言下の雰囲気を思い出すときのように。商店からトイレットペーパーがなくなった時のことを笑うようにナ。
 ベクレルだ、シーベルトだという単語はとうに聞かれない。

 何も悪いとは思わない。用心すべき時に用心するのは当たり前のこと。その慎重さが日本の空気の良いところである。同じパニックでも、破壊や暴動よりは粛々と静かにトイレットペーパーを買いにいく方が平和かもしれない。

 被差別者となるか、差別者となるかを選択できる稀有な環境にある。打った人はもう選べないが、まだ打ってない人は、打たない限りその選択が常にずっと目の前にある。
 打たないことを選んだ上で、被差別者とならないためには、逆に自らが差別者となるしかない。「ワクチンを打つ人間は愚かだ! 自殺するようなものだ! 世界の陰謀に加担している!」といったふうに。個人的な意見として、これは分が悪いと思う。
 差別することを受け入れるか、差別されることを受け入れるか、いずれも受け入れず、戦うか。

 参考文献:藤子・F・不二雄『流血鬼』

 差別者だけの世界(吸血鬼だけの世界)は平和である。
『流血鬼』という作品は、被差別者である人間(=流血鬼)を、吸血鬼の世界に引き入れることで、差別のない美しい世界が実現した、というふうに読むことができると思う。冒頭の高齢女性が話した例は、まさにこれなのだ。その小集団(小さな世間)は、ひとまず平和になっている。そしてそれを堂々と、喫茶店で言えるくらいには、もうちょっと広い世間でもその感覚は通用しているのであろう。被差別者であった息子さんは、自らが折れることによって、世間に平和をもたらしたのである。
 吸血鬼たちは「私たちに噛まれなさい、素敵な世界が待っている」と迫る。人間はそれに抵抗するが、いざ噛まれてしまえば、「夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」と歓喜する。
 今ごろその息子さんも、「ああ、なんで自分はあんな意地を張っていたのだろう」と回顧しているかもしれない。

 被差別者は、差別者とはものの見え方がまったく違う。噛まれてしまえば夜の美しさを別の視点から味わうことができるようになるのだろうが、かつての暗く静謐な夜を楽しむことはもうできない。
 不可逆な変化である。みんな静かに表情を変えていく。面白い日々が続いている。

2021.10.4(月) 搾取と花火

 搾取されている気がする。ちょっと前まではそんなふうに思うことがなかった。すべて勉強だ、いずれ自分のためになる、そう考えていた。それは実際そうであった。しかし、たしか去年の誕生日前後だったと思うが、それを「やめよう」と明確に決意した
 面倒があるのが嫌なのでちゃんと書いておきますが、これらは決して個人に対して言っているのではありません。20人の個人になら言っているかもしれませんが、1人や2人の個人を思い浮かべて言っているのではないです。だからすべての「それってわたしのことですか?」という疑問には「違います」と先に答えておきます。
 また、僕が誰のことも搾取していないという話でもない。僕はたぶんさまざまな搾取をしてきた。今もしているかもしれない。それと僕が搾取されているというのは別の現象である。どちらも減らしていきたいのである。
 毎日膨大な「助けてくれ」が届く。それが手のひらであれば僕は手を伸ばそう。石つぶてであれば、どうか逃げさせてほしい。花火であれば、近づくことはできません。

 そして花火はけむいのです。

 必ずしも、誰もがそれを美しいとばかり思うわけではありません。
(参考文献:2000年8月5日の日記)

 一方的に吐き出してくる人が多すぎる。余裕がないとけっこうみんなそうなってしまうらしい。でも関係はゆっくりとしか開きません。急がば回れ。仲良くしよう。

2021.10.3(日) 103の日

 某陽高校1年3組の同級生たちと、去年に引き続きオンラインで会談。計7名の参加。UFJPG■と、そういえば昔「活字芸術」(このHPの古いコンテンツ)に投稿してくれたことのある某M氏。同じく活字芸術に載っていたM2も誘ったが忙しかったようだ。
 毎度ながら人生には本当に色々ある。結婚していないのは僕だけで、子供がいないのは僕を含め3名。や、僕が本当はもう結婚していて子供もいるのだ、という可能性を匂わせておいた方が神秘的でいいのだが、今日はそういうことにする。
 子供がいるとたいていは、ほとんどのことが子供中心になっていくようで、「子供のいない友達とは遊ばなくなった」というパターンは多いらしい。お互いが子供を連れてきて遊ぶ、というほうが諸々都合がいいわけだ。一方で子供のいない人間は子供のいる人間を誘いづらくなる。そのように分断(流行語ですね)は起きていくわけだが、「高校の友達」ということになると、このような機会に一瞬、交わったりする。

 そう。我々はそもそも、高校の友達なのであって、なにか志を一つにして集まっていたわけではない。我々にとって遊ぶとは「共にそこにいる」という以上のものではないのであって、会話以外にすることのないオンライン上では、いまいち遊び方がわからない。我々は別に、何も話さなくたっていいような関係なのだ。顔が見られて、みんな元気であれば、それでサヨナラで別に良い。でもせっかくだからしゃべりたくって、何かを喋ろうとする。
 しかし結局のところ、「お変わりはありませんか。ありませんね。それでは」というような感じになる。子供の話をしても仕方ないし、仕事の話をしても仕方ないのだとしたら、自分の話をしようということになるはずだが、なぜかこの集まり、「最近〇〇をしてましてね!」と言い出す人があんまりいない。本当に子供と仕事以外に何もないのかもしれないが、単に思いつかない(思い出せない)とか、遠慮してるのもあるんだろう。オンラインだし、周りに家族がいたりもするし。
 それとなんというか、あえて何かを言う必要のない関係、ってのなんだと思う。内容のある話なんか、昔からほとんどしたことがない。だけども、集まってテキトーにぐだぐだしてたら、ふとした瞬間に話の端緒が切り開かれて、なんてことはいくらでもある。オンラインだと圧倒的に少ない。ファミレス行きてゃーな。
 もちろん、特に別に話すこともないまま、偶然と思いつきに任せて時間が過ぎていくような感じは、それなりに心地よい。平和だということでもある。

 ともあれ今回は、「自宅からのオンライン会談」というものの限界を知ることができた。家族を持った人間が家庭の中にいる以上、その人はどうしても「家の中の顔」をしてしまうものなのだ。自宅以外から繋いでいたのは僕だけであった。7人中5人は、すぐそばに家族のいる状態だった。もう、お前ら、来年は全員外に出て喋れよ! こないだM2と電話したときは、名古屋と東京で、お互いに近所の公園とか散歩しながら数時間話した。もし彼が家の中にいたら、あんなに奔放で笑いに満ちた、自由でかけがえのない時間にはならなかっただろう。みんなそれぞれ事情があるんで、それが現実的かどうかは別として、もしみんなその辺の公園とかにいたんだったら、またちょっと違ったんじゃないかな。お父さん度が下がって、もうちょっと個人でいられたんじゃないかな。
 あとは、みんな大人になり過ぎたんだね。いいんだよ、何も気にしないで。だけど、気にするんだろうな。なぜかといえば、ここがファミレスじゃないからだと思うんだ。すべてはそう、環境なのだ。自宅から繋ぐオンライン空間というのは、どうしても社会的な場になってしまうらしい。物理的に同じ場所にいて、家族や家庭から切り離されていたら、もうちょっとテキトーになるんだと、そしてマジメになるんだと、僕は信じたいです。
 会える時に会おう。

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