少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2021.11.30(火) 静岡への金勘定
2021.11.24(水) 藤原紀香(終)
2021.11.23(火) 鳥山明、藤原紀香
2021.11.22(月) 直接いうか、SNSか、藤原紀香
2021.11.16(火)〜19(金) 名古屋、大垣、金沢、高田、上田、小諸、熊谷
2021.11.14(日) なめられる光のぼく 暗躍する闇のぼく
2021.11.12(金) 仲良しの発想 補講
2021.11.5(金) JFK(ジャズフォークジャッキー)
2021.11.1(月) 私にハッピーバースデイ

2021.11.30(火) 静岡への金勘定

 新幹線の中です。節操ないようですが小旅行です。ただ静岡に行くだけです。一晩過ごして、明日は清水、沼津、熱海、伊東あたりに寄れたらと思っています。
 金券ショップで東京都区内→静岡の新幹線自由席5480円と、小田急の株主優待券550円を購入。もっと安い店もあると思いますがそこは誤差。静岡駅までは「ひかり」で乗り付け、明日は寄り道しながら各駅停車を乗り継ぎ、小田原から新宿へ優待券で。あひる社(地下のバー「ドクターヘッド」が明日から営業開始なのだ)にでも寄りつつ自転車で帰るかな。
 ところで、静岡→小田原のきっぷは1690円。しかしこれだと距離が100キロ以下になり、途中下車できない。国府津までのきっぷを買えば1980円で途中下車できるようになるのだが、静岡→清水240円、清水→沼津770円、沼津→熱海420円、熱海→小田原418円、ということで、ICでピッピすれば1848円。伊東まで足を伸ばす場合はちょっと変わるが、国府津まで買うよりは安いだろう。
 一応やってみるか。熱海→伊東は330円。伊東→小田原は682円。国府津までを買う場合は1980円+660円=2640円、ピの場合は240円+770円+420円+330円+682円=2442円ということで、圧倒的にピ。
 結果。行きは5480円、帰りは2398円(伊東に行くなら2992円)。静岡→新宿をJRにすると3410円なので1000円以上お得なわけである。いくつになっても貧乏性(いくつになってもあまえんぼうの節で)。

 今日は、マンホールの写真を撮り、本を2冊読んで、ちょっと夜学バーに寄って新人(いつまで新人なのだろう?)のf氏に申し送りをして、19:49の御徒町発に乗った。21:02に静岡に着きます。2500円の宿があったのでとりました。
 今夜はとりあえず、3軒ばかり行きたいお店があるので行って、あとはちょっと歩いてみようかな。自転車は持ってきてるけど雨なので。明日は主に喫茶店とか。スガキヤはちょっと難しそう。

 計画していたわけではなくて、突発的に今日、思い立ちました。何かあるといいな。

2021.11.24(水) 藤原紀香(終)

 幸福に暮らしております、ジャッキーです。
 11/2223の日記に対して、なんと3通(おそらくはすべて別人)ものお便りがメールフォームから届いています。こんなことは初めて、もしくは20年弱ぶりでございます。わざと炎上してバズを狙う人の気持ちがちょっとわかりました。わかりましたがそういう野蛮なことはしません!(野蛮って言葉好きだなあ。)
 22日の日記のような文章を読んで嫌な気持ちになる人がいる。23日の日記のような文章も、誰かにネガティブな感情を引き起こしうる。知ってはいたけど、知らなかったなあ~。(参考文献:中村一義『いつか』)

 名前欄には、1通めは「こんにちは」、2通めは「ピンス焼き」、3通めは「匿名」とありました。1通めは23日の日記に引用したもので、これは匿名と言っていいと思います。2通めは一応ハンドルネームらしき感じですが、内容を見ると僕の知人ではあるがあえて名前を明かさないようなので、半匿名という感じでしょうか。3通めは「匿名」というからには匿名だと判断します。

 2通めはけっこう長く、プライベートな内容も含まれるものでした。どなたであるかの見当はつきます。そのまま引用してあれこれ言うと、いざこざがありそうなので怖いのですが、色々考えたうえでちょっと触れます。僕の考えていることを改めて述べるための良い素材となるから、利用させていただきます。それをもちましてご愛顧いただきましたこの「藤原紀香」シリーズの結びといたします。

(略)自分のせいにする癖が抜けないし直そうともしてないので日々すごく疲れます。自分のせいにすることの悪い点が「自分がキツい」以外よくわからなくて、直す必要があるのかわからないし。よい直し方があればいつかどこかで教えてください。

 ここからは、このお便りが「匿名」であるという前提に立って書きます。語りかける相手は頭に思い浮かんでいる「たぶんあの人だろうな」という人物ではないものとし、一般論として書きます。ただしそのうえで、頭に浮かんでいる「あの人」のことを「ちょうどこの件によくあてはまる具体例」としては適宜想像しながら書くことをお許しいただきます(強引)。

 おそらくこの方は、「人とともに生きる」ということが身にしみていないのだと思います。常に自己完結していたいのです。それが楽だからで、その「楽さ」と、そうしないで生きることの「大変であろうさ」を天秤(量的!)にかけたとき、「楽さ」のほうに軍配があがるということでしょう。だとしたら、それを「直す必要」を見いだすには、「自己完結ばかりしているよりも自己完結しないでいるほうが幸福になれそうだから、多少大変であろうとも後者を選びたい」というようなことを確信を持って思えなければならないと思います。「直し方」は簡単で、「自己完結しない」というだけです。
 もちろん、「自己完結しているほうが幸福である」と思っていて、そこから動かない場合には、「直す必要」は生じませんので、そのままでいることが選択され続けるのが自然です。

 自己完結とは、原因や責任、「非」といったものを何か特定のものや人(複数の場合もある)に帰結させ、それで納得(結論)してしまう、ということです。

 自己完結とは、自分で決めてしまう、ということです。これは内面の問題です。自己決定(自分で選択すること)は外面の問題ですので、違う話です。
 むしろ自己完結というのは、意外と自己決定とは相性が悪いのです。内面で「こうだ」と決めてしまえば、もう自分で決定することは何もないのです。すべてを自分の外部(「現在の自分」以外のもの)に帰するということが、自己完結ということでもあるのです。

 ○○大学に行きなさい、と親から言われたとする。自分は親から言われたから○○大学に行くのだ、と、自分がその大学に進む(目指す)理由を「親の要望」に帰結させてしまったら、もう自分では何も考えることがありません。
 もちろん、「自分が行きたいと思うからこの大学に行くんだ!」と決めることも、似たようなものです。そういった理由がいくつあろうと、同じことです。ある理由に帰結させる、結論づけるという時点で、もう「考える」ということは訪れません。それが自己完結というものです。
 何かを決めてしまったら、それは完結した過去となり、あとは自動的に進んでいくだけになります。選択も判断ももう訪れません。
 誤解されると嫌ですが、僕はすべての自己完結的行為を否定するのではありません。当たり前に誰もがやることです。ただ、そうでなくてよいような場面でも、ろくに考えず手癖でそればっかりをしていると、「自分」ばっかりになってしまいますよ、という警鐘です。自己完結は用法用量を考えて、計画的に。

 誰かと食事に行こうという話になって、相手が「近くにマクドナルドあるね」と言ったとする。それに対して、「この人はマクドナルドに行きたいんだな」と思って、食事先を決める(具体的には、マクドナルドにする)理由を、「相手の希望(だと自分が読み取ったこと)」に帰結させたら、もう何も考えることはありません。

 自己完結とは、自分の内面でものごとを決めてしまうことです。「近くにマクドナルドあるね」と言われて、「マクドナルドに行きたいんだな」と決めてしまうことが、自己完結なのです。そこには「人とともに生きる」という発想がありません。めんどくさいから、自分の中だけで処理しているだけです。僕がよく言っている「仲良しの発想」という概念の核心は、実のところ「自己完結しない」ということなのです。(今そう思いました。)

「人とともに生きる」ことがしんどくて、「自分だけで生きる」ことが楽だと思って、後者ばかりを選択しているうちに、自己完結が癖になっていきます。いわゆる「認知の歪み」なるものを抱える人は、たいていこのプロセスを通っていると僕は直観しています。

 引用に戻ります。「自分のせいにする癖が抜けない」のは、「原因や責任、『非』といったものを自分に帰結させ、それで納得(結論)してしまう」ということが、楽だからですね。ほとんどいつでも採用できる最強の公式だから、ややこしいことは何も考えなくていい。何かあったらとりあえず「自分が悪いんだ」で思考停止してしまえる。
 なぜそうなってしまうかというと、他人(外部)のせいにしたくない、という謙虚さや優しさでもありましょうが、根本的には「自分の外側にある世界」というものが怖いからだと思います。できるだけ関わりたくない。自分の内部だけで処理できるものなら処理したい。そしてそのことに特に問題はないと思っている。それが「人とともに生きるということが身にしみていない」ということです。

「ぬいぐるみに話しかける」ということも、自己完結の一種とみることができます。怒らないでくださいね。「みることができます」と僕は言っているだけで、ほかのみかた、考え方も当然あります。『魔女の宅急便』というアニメ映画をそのような路線で解釈する人もいると思います。キキは「人とともに生きる」ということが身にしみてきたから、ジジとは言葉が通じないままなのだと。つまり、それまでのキキは、ジジを「自己完結の道具」として使っていたとみることができる。でもキキはいろんな人とのふれあいや様々な経験を経て、「人とともに生きる」ということを知っていって、「自己完結」をしなくなっていく。だから、ジジも「本当の言葉」で喋れるようになったのではないか、と僕は思ったりします。そこからが本当の友情。もちろん、飛べなくなった時の話ではなくて、ふたたび飛べるようになった後の話です。

「自分のせいにすることの悪い点が『自分がキツい』以外よくわからなくて、直す必要があるのかわからないし。」
 と書いてくださっております。これは話の核心だと思います。
 悪い点があるとしたら、すでに述べたように、「人とともに生きる」ということができないことです。これができたほうが幸福であると思い、かつ幸福になりたいとも思うなら、直したほうがいいし、今のまま自分一人の内面に閉じこもって生きていたいなら、直す必要はありません。

 おそらく、現状このような考えをお持ちの方は、そもそも「人とともに生きる」ということがなんなのかまったくわからないし、それをしたほうがいいのかどうかもあんまりよくわからないことでしょう。僕が何か助言するとしたら、「とにかくそのようなことを常に考え続けるしかない」です。僕はなるべく多くの人が「人とともに生きる」ということを大切にしていったほうが嬉しいので、そういう方向性のことを言います。

 ちなみに、「人とともに生きる」というフレーズのネタ元は山本正之さんの『黒百合城の兄弟』という18分以上におよぶ名曲です。ネットで歌詞は読めますが、できればじっくりと曲を聴いて味わってほしいです。僕は小学校5年生、10歳の時にこの曲を聴いて、以来胸に刻んで生きております。あまりに僕がその『あああ がらがらどんどんどん』というライブ盤を好んで聴くので、同じ年度の1月28日、11歳になっていた僕を長兄が名古屋の東別院ホールというところに連れていき、山本正之さんのコンサートを聴かせてくれました。人生初のライブ経験です。長兄とは『さようなら、ドラえもん』を一緒に観てともに号泣したり、名古屋市美術館のマグリット展にともなって開催された藤子不二雄A先生のトークショー(僕がハガキを当てた!)に一緒に行ったりしたすばらしい想い出がたくさんあります。『オトナ帝国』も「観たほうがいい」と言って小牧まで自転車で連れてってくれたな。すっごい余談。その他キリのないオタク英才教育については言い尽くせないくらい感謝しております。

 なんてことを書くと、「いいですね上がいて」「恵まれてますね」「家族仲がよろしゅうてほんにうらやましい限りでおま」「自慢ですか? あなたみたいに幸福な幼少期を送ってきていない人もいるんですよ?」「自分はぜんぜん家庭環境が違ったのでジャッキーさんみたいにはなれないしそういう考え方はまったく同調できないッスね」みたいなことを言われるかもしれない(妄想)けど、直近の旅行記(11月18日ぶん)にちらっと書いたように、僕の家庭にだって色々あったし、気持ちだけでいえばすっごくつらい思いも僕なりにしてきたし、何より「それ」を掴んで離さず、肯定したのは僕自身ですから……。「がんばって肯定まで持って行った」って言ってもいいくらいですよ。超! 恵まれていることを否定は一切しませんし、めっちゃ恵まれている! と心底思うけれども、そう思えないようになるルートだって無限にあったはずなんです。その僕の努力! 性分! 粘り強さ! といったものも含めて「恵まれている!」とおっしゃるのなら、「そうなんですよ~天才なんで~テヘヘ~」と本心から答えます。

 このくだり、全体と無関係ではございません。他人に対して、「あなたは○○だから△△だけど、わたしは○○じゃないから△△はできない・なれない、すなわちだめなにんげんだ」なんて思うのも、自己完結です。
 村上龍さんが「才能のない連中は理由を欲しがる。」と言っていた。(参考:2013年6月25日の日記
 目の前のものや起きていることについて、自分なりに「納得」したい。そのためには「理由」がなくてはならない。そう考える人はとても多い。「すべては○○学会の陰謀だ!」「NASAが裏で糸を引いている!」「宇宙人のしわざだ!」こういったものも、「何か特定の理由や原因に帰結させなければ安心できない」という事情に由来するのだろう。

 自己完結する人は、他人のことも完結させたがる。「この人はこういう人で、こういう事情があるからこうなっている」みたいなふうに。それで「答え」を出して安心する。
 人間は個別にポツポツと存在していて、それぞれが完結して独立している。そういうイメージ。

 僕の大好きな歌手であるAmikaさんの代表曲『世界』は、「あたしの世界とあなたの世界が隣り合いほほえみ合えるのなら」と歌う。



 世界と世界とは橋をわたして繋がることもできるし、溝に水を流して川にして、そこを泳ぐ魚をみて一緒に楽しむこともできる。僕はこういう「世界観」が好きで、人とともに生きるとはそういうことかもなあ、と思う。
 大切なのは、Amikaさんは「個人」について歌っているわけではない(と僕は捉える)こと。あくまでもそこで表現されているのは「個人の世界」である。それぞれの個人は一つの「世界」を持っていて、同じ世界にいるということはない。だけれども、その世界同士は仲良くすることができる。

 自己完結をもっぱらにしたがる人は、「自分には自分だけの世界というものがあり、一方で他人にもそれぞれの世界がある」ということをあまり前提にしていない。自分に見えているものが世界のすべてであって、そのすべてを自分の内面に押し込んでいる。そして「これはこうだ」「これはこうだ」と、パズルのようにガチャガチャやっている。

 世の中には他人というものがいて、その人ごとに世界を持っている。まずこのことをわかるというのが、「人とともに生きる」ことの第一歩かと僕は信じます。

 自己完結の人(たくさんの人を同時に思い浮かべながら考えています、決してただ一人だけのことを言っているのではございません、さっきからずっとそうです)の特徴として、「言葉にされたことしか認識しない」というのがあります。さっきの「近くにマクドナルドあるね」という例がまさにそうです。「マクドナルド」と言われた瞬間に、「この人はマクドナルドに行きたいんだな」とか「マクドナルドと言うからには、マクドナルドに行けばとりあえずこの人は不満を持たないのだろうから、マクドナルドに行くのが無難のはずだ」といったことを思う。
 自己完結の人には「自分の内面」しか存在していないので、「言葉」という、目の前に投げられた実在のもの以外をあんまり認識できません。「マクドナルド」と言われたからには、目の前にあるのは「マクドナルド」だけなのです。
 相手がどういうつもりでマクドナルドと言ったかは、わかりません。それなのにたとえば「マクドナルド? なめてんの?」と思ってしまったりもします。早合点というやつです。これも納得と結論を重視する自己完結人間にありがちなこと。

 また戻ります。(自分のせいにする癖の)「よい直し方があればいつかどこかで教えてください。」これについては、すでに書いたように、「自己完結しない」ということしかないと思います。そのためには、「人とともに生きる」をすることです。そのためには、そのことばかりを考えるしかないです。具体的にどうすればいいのかは、僕にはわかりません。
 ただおそらく、23日の日記に書いた「わからない」と「そうかなあ」はかなり使えます。それによって「言葉」を無効化するのです。自己完結しがちな人は、相手から発される「言葉」に頼りすぎています。それを無くせば、自分の内側から言葉が出てくるかもしれないし、相手の向こう側に言葉が見えてくるかもしれません。もちろん「自分の内側から出てくる言葉」も「相手の向こう側に見える言葉」も、妄想にすぎない可能性は大です。それに対しても「わからない」「そうかなあ」を土台としつつ、「実際どうなのか」を勇気出して確かめていって、トライとエラーを繰り返し、その中で苦痛や不安や不快感を味わいながら、自分を鍛えていくしかありません。そうして「人とともに生きる力」を磨いていくのです。そういうふうに泥臭く努力していく以外に、道などあるはずないでしょう。

 岩泉舞先生の「想像するから怖くなる」という文章も、参考になるかもしれません。むかし麒麟さん(一つ年上の、20年来の親友)がよく言っていた「想像力に勝る現実はない」という名言を思い出す。



 3通めについて。これはすぐ終わります。すっごく嬉しかった! メアド欄に24時間で消えるという捨てアドが入力されていて、最初は「こわ! 読まんどこ……」と思ったのですが、よく考えるとわざわざ捨てアドを取るという手間をかけてくれたわけだし、万に一つ、自分を喜ばせてくれるような文面かも知れないと、おそるおそる、薄目で、一文字ずつ慎重に読んでいったところ、最初の数行で「これは大丈夫そうだ」と思ったので、全部読みました。結果、僕は救われました。完璧な気分になれました。そういう力が、人間にはあるのですな。ありがとうございます。匿名で、だいたいの身分はわかったけど、実際どの人かはわからないし、詮索や邪推は本当にしたくない(だから匿名の文章は受け取りたくないのだ)から、それが誰なのかについては考えません。ただ、ともかくありがとうね。ひきつづき尊敬してね。
 お返事は24時間で消える捨てアドに送りました。これははっきり言って、直接感謝を伝えたかったからです。せいぜいあと1時間くらいで消えるのでしょう、見られなかったらすみません。気が向いたらまたご一報ください。


 藤原紀香 おわり

2021.11.23(火) 鳥山明、藤原紀香

 昨日の日記(たぶん)に感想が届きました。匿名かつメールアドレスもダミーで、お返事できないため、こちらで反応します。断りもなく(断れないし)一部内容を載せます。

一番最近の日記を読みました。
このようなことが過去にもたくさんあるなら、自分に問題があるのでは?と、どうして思わないのでしょうか。仲良しになったとしても、いつも最終的には、不和が生じたり、フェードアウトされたりするのであれば、どうして自分を省みないのでしょうか。
すべてのケースにおいて、相手がやり方を間違えたのであって自分に非はない、なんてことがあり得るでしょうか。

>このようなことが過去にもたくさんあるなら、
 あのやりとりはすべてフィクションです。部分的に実体験に基づいていますが、たくさんと言えるほどはないです。
>自分に問題があるのでは?と、どうして思わないのでしょうか。
 登場人物は二人おり、「僕」と言っているほうだけが僕(の気持ちや主張を反映している)というわけではありません。かりに僕が「僕」のほうに完全に自らを仮託しているのだとしても、これを書いている僕は「この『僕』という側には問題がある」と明確に思っています。僕は「僕」というやつに、問題があると思って書いています。それを「問題がないと思っている」と解釈されるのは、僕は嫌です。しかしそう伝えられない僕が悪いです。僕に問題があります。
>いつも最終的には、不和が生じたり、フェードアウトされたりするのであれば、
 そういう経験はありますが、いつもではありません。長く仲良くしている(と僕は思っております)友達、大切な人がたくさんいます。
>どうして自分を省みないのでしょうか。
 省みた結果、あのような文章を書きました。それは「性格が悪い」とか「趣味が悪い」と言われるような行為なのかもしれませんが、その前段階として、かなり真面目に、そして自分自身の「悪さ」に絶望しかけながら、おそらく深く、省みてはおります。
>すべてのケースにおいて、相手がやり方を間違えたのであって自分に非はない、なんてことがあり得るでしょうか。
 そういう考え方を僕はしません。そもそも「どちらかに非がある」という考え方を僕はとりません。「そうなってしまった」というだけです。昨日の日記はそれを文学的に(?)表現した文章でもあります。
 昨日の日記は、「相手がやり方を間違えた! 相手が悪い!」という文章ではないつもりです。「お互いに何かを嫌だと思っていて、それらを同時に解消する方法が当面見当たらない」という悲劇のつもりです。
 おそらくあなたは、僕がそのような考え方をした(している、しがち)と思っているのですよね。僕が過去に、そのようなことをしたとか、そのようなことを言ったとか、またはこういうところに書いたとか、したのかもしれません。そのあたりのことは何も分かりませんが、とにかく今の僕が主張したいのは、今の僕はそのような考え方をしないように努めているつもりで、ではどういうふうに考えるのかというと、「いろいろなことが折り重なってその結果に至る、その中で自分が『改善』すればより良い結果になったようなことはあるはずなので、それがわかれば『改善』を目指すという選択肢を積極的にとっていきたい」です。そして昨日の日記の中で言いたかったのは、そこを前提として、「こういう悲劇は起こりうるんだけど、さあどうしましょうかね、困りますね」です。
 ちなみにあの日記のように架空の男女が話す形式の日記は、2004.2.24(火)(TBE16話)の「松屋の豚めし」の話や、見つからない(消したのか?)けど、部屋の中に毛が落ちていたことを咎める話とか、いくつか書いています。そのシリーズのつもりです。セルフオマージュ。松屋の豚めしの話は、今読み返したら昨日書いたのと似たようなディスコミュニケーションを扱っていて面白いです。変わらなさと見ることもできるし、成長と読むこともできそうに僕は思います。だからなんだということはありません。叩かないでください。


 本件に限らず、僕という男性自他認者が、男性を登場人物として「日記」を書けば、そりゃ書き手とその男性が同一視されるのは避けられないことです。ただ昨日の日記に関しては、フィクションであり、人物も双方架空であり、すべての言葉が僕の創作したものです。だから男も女も僕なのです。もちろん、僕の内面的性質がより多く反映されているのは男のほうであって、女のほうは理屈で考えて台詞を言わせているようなところがあるので、男≒僕くらいのことは言えると思います。そうであるにしたって、あの文章から、上記のご指摘のようなことを「書き手である僕」が考えていると読み取るのは、ちょっと無理があるのでは? と思います、が、それも僕の筆力とか、想像力(そのように解釈される余地を事前に想像し、防ごうとする力)のなさが原因の一つです。僕は昔から、その種の誤解をあんまり恐れずにあれこれ書いてしまいます。悪い癖ともいえますが、それが常に悪いとも思いません。

 まとめます。僕は「自分に問題があるのでは?」と常に点検するよう努めているつもりでございます。自分を省みるのも、人並みかそれ以上にはよくやっていると自分では思っています。「すべてのケースにおいて、相手がやり方を間違えたのであって自分に非はない」なんて考え方はしません。そもそも「非」なんていう考え方をまずしないのです。「天秤型平等主義」なんて言葉を使って過去に書きましたが、「量的にバランスを取る」というのはあまりにも単純な、野蛮な考え方と思います。ある状況に至るには、いろんな原因がたくさんある。どれか一つとか二つに特別大きな比重が置かれるとは思えません。ましてや、その絞り込まれたいくつかの原因に「責任」を押し付けて、「悪い!」と糾弾するようなのは一層なお野蛮です。
 そういう人がとても多いのもわかります。昨日の日記に書いたのは、そのような考え方の招いた悲劇(とは言い切れないかもしれないけど)でもあります。

 傲岸不遜に聞こえるでしょうが、僕は「賢い」ということに関しては、それほど賢くない人たちには想像も及ばないくらい賢い部分を持っています。それほど賢くない人たちが考えるようなことは、だいたいもうすでに「前提」となっていて、いちいちそれを書きません。なぜかといえば、面倒だからというだけです。それは不誠実でもありましょうが、ホームページの日記でくらい多少不誠実でいたって許してくれよ、と誠に勝手ながら思っています。一方でふだん、生身の人間と向き合っている時の僕は、できるだけ誠実でいたいと心がけています。ただ、その誠実さにつけ込まれて、不当に不利益を受けているな? と感じたら、誠実さなんてものはいったんわきに置いて、自分の身と心を守るほうを優先して動きます。

 ご指摘いただいたようなことは、僕の中ではもう「前提」です。「相手に問題があるのか? 自分に問題があるのか? どこに非があるのだ?」というような葛藤はとうに何度も踏み越えて、「非などない」というところに達し、それを練り上げている最中です。それは昨日の日記の彼女が言うように、とても独り善がりだとは思います。しかしそのようにいさせてほしい、というのが僕の欲求です。

 高校生の頃から思っているのは、「どうしてホームページに書いたことについて、とやかく言われなくてはならないんだ!」ということ。それは「好きにさせてくれよ」というワガママでもありながら、本質的なところでは、「ホームページに書いたことを、他人が勝手に解釈して、それをすべて僕の本音・本心だと思われるのは嫌だなあ」という悲嘆でした。
 書かれたことは書かれたこととしてあり、解釈は解釈としてまたあって、僕という人間はまた別にいる。その三つがごっちゃになってしまうことがなんだか僕は嫌だったんですね。そりゃしょうがない、そういうもんだろうと思うからどうしようもないですし、基本的にはやはりワガママでもありますが、「書かれたもの=解釈したこと=僕」という等式は非常に厄介なもので、それはどうにか解体できないものかな? とずっと考えてはきています。

 読む側としての僕が導入したのは「わからない」「そうかなあ」という二つの言葉です。はっきりしないことはすべて「わからない」で処理します。ある程度はっきりしていることでも、「そうかなあ」で処理します。そうすることによって、書かれたものはすべて不確定なものとなり、書いた本人とはっきり結びつけられることもなくなります。
 たとえば僕がAさんと会った後に、Aさんが「マジむかつく。殺したい」とツイートしたとします。それは僕のことかもしれないし、僕のことじゃないかもしれません。そしたらもう「わからない」で処理します。そして忘れます。
 あるいは、「松屋の豚めしって値段が安いだけあって、安っぽい味がする」というツイートを誰かがしたとします。この人は、松屋の豚めしを憎んでいるのか、意外とけっこう好きなのか、これだけではわかりません。だから「わからない」とします。「てめえ! 松屋の豚めしの良さがわからんのか!」などという突っかかり方はしません。
 あるいは、「松屋の豚めしは、美味しくない。100円程度の価値もない」というツイートを見たとします。僕は松屋の豚めしを美味しいと思っていて、とても好きで、1000円くらいの価値があると思って、愛していたとします。それで僕が思うのは「てめえ! このやろう!」ではなく、「そうかなあ」です。それで終わりにします。

 ところで、僕はここまで、松屋の豚めしのことを、好きとも好きじゃないとも書いていません。どちらだと思いますか。僕は、べつに松屋の豚めしが特別好きだというわけではないし、嫌いでもありません。ただこれほど「松屋の豚めし」という言葉を連発したがるということは、このフレーズにいくらかの思い入れはありそうです。それは2004年2月の日記に書いているから、というのが大きな理由だと思いますが、そもそも2004年2月にあんな文章を書いた時点で、かなり好きなフレーズだったのでしょう。なぜ気に入ったかは、まったくわかりません。なんとなくです。いや、違うかも。そういえば若かりし頃に富士見台駅前の松屋によく行っていて、貧乏性なので並盛に紅生姜とフレンチドレッシングと七味をこれでもかと載せておりました。それを「フレンチ紅生姜丼」(豚はどこいった?)などと称して友達のニートさんと横浜の松屋に行った際などにやって見せ、爆笑を得た楽しい記憶とか。牛めしが豚めしになったのもなんだか面白い現象でした。当時の松屋というブランドの絶妙な立ち位置も懐かしく思い出されます。そういった想い出や時代性によって、松屋の豚めしは僕にとって青春の味的な存在となったのでしょう。

 認知の歪みというのは、ある時点で結論をつけてしまうことです。認知を歪ませないためには、結論をつけないことです。そのように僕は思って、「わからない」「そうかなあ」を駆使するようにしています。「だろう運転」と「かもしれない運転」の違いです。

 先日の小山田圭吾さんをめぐる問題って、だいたいそういうことだったと僕は思っています。「インタビュー記事(およびその切り取りブログ、報道、SNSなどのさらなる副次的な情報)に書いていること=読み手が解釈したこと=小山田圭吾さん本人」という三位一体を、みんな自然にやっていて、それで起きた悲劇です。「わからない」「そうかなあ」という立ち止まり方をする人がもっと多ければ、あんなに大騒ぎにならなかったのにな、そのほうが良かったのにな、と僕は思います。
《事実→本人→本人が喋ったこと→ライターが聞いて書いたこと→読者の解釈→切り取りブログ、報道、SNSなど→それへの解釈→解釈→解釈→……(解釈が無限に続く)》といったふうな伝言ゲームの中で、情報は「事実」や「本人」というものからかけ離れ、暴走していきました。それらはすべて独立に捉えたほうがいいはずです。

 昨日(2021/11/22付)の僕の日記を読んで、「ジャッキーさんはこのように思っている!」と解釈するのは勝手……というか自然なことでしょうが、でも、本当に僕が何をどのように思っているかはわからないはずです。わからないでほしいです。これもわがままですが、わからないでください。結論をつけないでもらいたく存じます。

 改めてはっきりと言っておきましょう。僕は昨日の日記に登場した「僕」のような考え方をそのまましているわけではございません。ベースは自分の思考ですが、実際に僕がメインで採用している考え方とは異なるところがたくさんあります。同一視するのは勝手……というか自然なことでしょうが、なにとぞ、同一視しないでいただきたい。これは僕からの、わがままなお願いでして、べつにそれを受け入れないのも勝手……というか、自然なことだと思います。



 余談ですが僕はくだんのメールを受け取って、「a@a.com」というまず間違いなくダミーな差出人アドレスを見た瞬間に、すごく嫌な予感がしました。メアドを書かないと送れないメールフォームに、嘘のメアド(だと思います)を使ってまで送ってくる人は、ものすごく怖いのです。かつてそれですごく辛い気持ちになったことが複数回あるので、読みたくないな、とまず思いました。開いてみて数行を読んで、やはり匿名で身分(どういう人だとか、僕とはどういう関係なのかとか)を明かすつもりもなさそうだし、すごく嫌な予感のする文体だな、と思って、読むのはやめよう、ととりあえず決めて閉じました。読んでほしい、という想いは文面から伝わってきましたが、自分の心を何よりもまず守りたかったのです。それからしばらく、ずっと「どうしよう」と考えていました。手は震え、動悸がおさまらず、完全に動揺しきっていました。コーヒーをいれて飲みましたが、動作がおぼつかなくて難儀しました。僕は過去のトラウマ的な経験からメアド必須にしているのですが、嘘のメアドを使った文章は何度か届きました。それはもうほぼ無条件で読まないことにしています。実際何通かは一文字も読んでいません。でも、今回は最初の数行になぜか(気を抜いて)目を通してしまったので、震えと動悸が止まらない、という状況になって、一体何が書いてあるのか、それは自分を傷つけるのか、あるいは勇気づけるのか。何もかもわからないけれども、とにかく不安と不快感でいっぱいになりました。どうにかしなきゃ、と思って最初に考えたのは、「先ほど届いたメールを僕は読んでいません、人となりを明かすか、最初の数行に僕が安心して読めるような文面を付け加えて再送してください」と日記に書くという対処です。でもそれで、相手の神経を逆撫でしてさらに嫌な言葉や行動を導いてしまったらもっと怖い、嫌なことになります。やっぱり無視しよう、と思いましたが、最初の数行のうちに「かつてあなたを尊敬していた者です」みたいなことが書いてあった(正確な文言を引っ張ってこないのは、できるだけそのメールを見たくないからです)ので、気になったというか、じゃあそれなりの誠実さを持って向き合ったほうがいいのかもしれないな、とも思いました。でも、「今は尊敬していません」ということは明らかなので、僕に対してネガティブな言葉がそこに書いてあることは予想できました。また再び尊敬してほしいものです。また尊敬してもらえたら嬉しいです。でもまた尊敬してもらうための努力は特別にはしません(というか、できません。どういう人なんだかも知れないし、どうすればいいかが皆目わからないので)。引き続き自分が良いと思うふうに、自分なりに誠実にやります。
 しばらく経って、身体の異常が落ち着いてきたので、勇気を出して薄目で見ました。意外と短かったので、恐る恐る読んでみました。上記の内容がメインでした。それで、お返事しました。どこかで誰かが、「なるほど、そういう考え方もあるのか」とか、思ってくださったら僕は幸福です。そのためにホームページをやっています。

2021.11.22(月) 直接いうか、SNSか、藤原紀香

「私のわるぐちをSNSに書いたでしょ! 嫌なことがあったなら直接言ってよ!」
「えっ、なんで?」
「なんでって……????」
「なんで嫌なことがあったのに、それを相手に直接伝えるなんて労力を払わなきゃいけないの」
「だって、言われなきゃ直せないじゃない」
「え……でも、SNSを見たんだよね?」
「うん」
「じゃあ、直せるよね????? 直接言わなくても、どうせSNSで見るんなら、同じじゃない」
「それはそうだけど、同じことなんだから、直接言ってほしい」
「同じことなんだったら、労力の少ないほうを選ばせてほしいんですが」
「SNSのほうが労力が少ないの?」
「うん、だって愚痴だもん。吐き出したいときに、吐き出したいことを吐き出しただけだもん。しかもこうして相手に伝わってるんだから、一石二鳥だよね」
「でも、私がSNSを見なかったら、直せないよね」
「そうだね」
「じゃあだめじゃん」
「いや、別に直してほしいわけじゃないし」
「でもそれじゃ、同じことをまた私はしちゃうかもしれない」
「そしたらまたSNSに書くよ」
「それも見なかったら、また繰り返すよ」
「うん、そしたらまたSNSに書く」
「私は見ないかもしれないよ?」
「うん。別にそれでいいよ。直接言うのはちょっとむりだから」
「何がむりなの?」
「面倒だし、気まずいし、なんか強制してるみたいで嫌なんだよね。こっちが勝手に嫌だと思っただけなんだから、それを押し付けるのもなんか。ね」
「でも、してほしくないことなんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、してほしくないって言ったら?」
「うーん、でもほっといたら自然にするってことは、君はそれをしたいってことだよね。だったらそれをするなって僕が言うのは、君の自由やけんりを奪ってしまうことになるよね」
「別に絶対したいわけじゃないんだよ、嫌だって言われたらしなくてもいいくらいのことなんだよ」
「嫌だって言わなかったらするってことは、したいってことだよね。それを禁じるのは僕にはちょっと、なんか申し訳ないっていうか……」
「あのね、正直、どっちでもいいの。してもしなくても。なんかなんとなく、してるだけなの。だから嫌って言われたら、なんの負担もなく、すぐやめられるの。だから言ってほしい」
「いやーでも言うのもこっちはストレスだからさ。嫌なことがあったらまたSNSに書くから、テキトーに見ててよ。たまたま見かけたら、ってことで」
「私、嫌なの。SNSに書かれるのが」
「名前とか出してないし、わかんないようにしてるし」
「いやいや、そういうんじゃなくて、あなたがSNSに書いてる、それ自体が嫌なの。他人がわかるかどうかは問題じゃないの」
「なんで?」
「なんでとかじゃなくて、嫌なんだよ。もうほんとに嫌なの。なんで直接言わないの? って思っちゃうの」
「えー、そう言われてもな。僕は書くことによって精神の安定を得ているわけだよ。書かなかったらストレス発散できないんだよ」
「だったらせめて、私の知らないアカウントとか、見てないところでやったら?」
「それだと意味ないんだよね。本人が見るかもしれないっていう状況じゃないと」
「え? 見てほしいんじゃん。だったら直接言えばいいじゃん」
「見てほしいけど、直接言うのは嫌なわけでさ」
「ズルくない?」
「ズルいかもしれないけど、そうなんだもん」
「だったらさ、逆に私にしか見えないアカウント作ってもらえたらいいのかな」
「それほぼ直接言うのと同じだよね笑、それに一人しか見てないのも張り合いないしな……」
「張り合い?」
「意味っていうかさ。僕は別に、君にだけ伝えたいわけでもないし、ただ吐き出したいわけでもなくて。それを読んだ人がなるほどとか、わかるわかるとか、自分も気をつけようとか、思ってくれることも期待してるんだよね。いいねとか、拡散とかされたら嬉しいし」
「えーなに、承認されたいの?」
「それもあるし、役に立ちたいってのもある。僕はこう考えました、って書いて、なるほどそういう考え方もあるのか、とか思ってもらえると、なんか世の中にちょっと役立てたような気がするんだ」
「うわっ、なんかもうそれ、死ぬほど独りよがりな気がする」
「そうかな?」
「そうだよ」
「えー、そうでもないと思うけどな。それし、だとしても、独りよがりだとしても、別にそれをやっちゃいけないってことはないよね。僕はそうしたいんだからそれは尊重してもらいたいし」
「私はやなんだよね」
「それはごめん。でも直接言うのはしんどいし、愚痴らないのもしんどいし、愚痴るならあのアカウントで言いたいし」
「それがわかんない。なんで私から見えて、他の人からも見えるところで、私についての愚痴を言いたいの?」
「はっきりと正直に言えば、自分を不快にさせた人間のためになんか言葉を使いたくないのかもな。でもまあ改善というか、それを二度としないでくれるほうが僕にとっては都合がいいので、本人には知ってもらいたい。でもその本人のためだけに言葉や時間や労力を割くのは、だるい。別にやめてもらわなくたっていいんだもん、ちょっとくらいなら我慢できるし、あんまり不快にさせられるようなら、もう関わらなければいいだけだし。そもそも愚痴ってのは第三者に言わないとあんまり意味がないようなものだから、他の人にも聞いてもらいたい。しかも、それを読んでなるほど、わかるわかる、そういう考え方もあるのか、元気が出ました勇気が出ました、ためになりました頭が良くなりました生きる力が向上しました、なんて効用をほかの人に与えられるかもしれない。いやー、なんて効率が良いんでございましょ」
「へ、へえ。はぁ、そう……。私が嫌だっていう、その気持ちは全然尊重してくれないのね」
「うん。だって僕は君に、すっごく腹が立っていたんだもん」
「いまは?」
「怒ってはないけど、この人は自分を不快にさせる可能性の高い人だ、というふうには考えてるよ」
「友達に対してそういうふうに思うんだ」
「そりゃそうでしょ。別に嫌いだってわけじゃないよ。好きだよ。でも不快にさせられる可能性は高い」
「じゃあ、そんな人と付き合わなきゃいいじゃない!」
「は? なんで? それはこっちの勝手では? そして同時に、あなたの勝手でもあるのでは?」
「不快にさせられる可能性の高い人と、こうして喋ってるのがわからない」
「可能性は可能性だからね。気持ちよくしてもらえる可能性も同じくらいかそれ以上に高いし、何より、好きだってことだよ」
「不快にさせられる可能性が高い人を好きなの?」
「可能性だけの話だから。好き嫌いとは別だし、気持ちよくしてもらえる可能性とはほぼ独立した話」
「わ、わからない……。私だったら、この人は私を不快にさせる! と思ったら、関わらないようにするけどな、それこそ」
「えー、僕はけっこう君を不快にさせてないかい?」
「うーん、でもそれ以上に気持ちよくさせられることのほうが多いし、何より、好きだから……」
「同じでは?」
「同じか」
「同じである」
「なんかでもなんか、なんか変だ」
「僕が可能性とか訳のわからんことを言うから、訳がわからんだけで、だいたい同じような感覚なんじゃないかと思うよ」
「ともかく、私はSNSに私への愚痴を書かれるのは嫌です。それが共有できないなら他の何が同じだろうが、今日の私は満足しません」
「僕はSNSに君への愚痴が書きたいよ。君に直接言うのは嫌だし、何も言わないとストレスが溜まって醜くなって死ぬよ」
「そうですか」
「はい」
 おわり。

2021.11.16(火)〜19(金) 名古屋、大垣、金沢、高田、上田、小諸、熊谷

 Twitterのこのツリーで実況してみている。あんまり自分の行動をそのまま書くことはしないんだけど、某夜学スタッフから「ジャッキーさんが旅行できる世界線(は最高)!」みたいなことを言われたので、元気な姿を見せるためと、わずかに存在感を示すために。そしてもちろんSNSに載せているのは単なる広報に過ぎない。並行してホームページでもやる。
 あんまり元気な姿を見せても、「感染拡大犯!」と思われてしまいそうで難しいが、なんとか許してもらいたい。いろんな人に会いたくて、その中にはやっぱり、そんなに長くは生きないかもしれない人だっている。お店や場所も同じ。家族もそう。


 火曜(今日)から東京を離れております。どこへ行くかはまだナイショ。帰ったらそのまま、金曜23時から26時まで夜学バー開けるので、来られる方(帰れる人)はぜひおいでください。誰もこないとさみしい。そしてこういう変則的なことするとけっこうほんとに誰もこない。シェア自転車とか駆使してなんとか。ハローサイクリングドコモ・バイクシェアをあわせれば23区内ならけっこうカバーできます。


16日
 とりあえず朝の新幹線で名古屋に来ました。名駅の5・6番線には無印の「ベルマート」がたぶん残っている。幻?(追記:5・6番線と7・8番線は無印だった。)
 A駅で下車。某喫茶へ。このお店は5階建て(!)である。3階から5階までが客席だが、いつも5階に通される。三階はいつも常連さんと思しきお年寄りで賑やかで、5階は静か。4階には一度、背広きた50代くらいの男性が座っていたことがある。
 先月名古屋に来たときに初めて訪れて、その翌日も来た。今日で3回目。言うことはない、最高。11時には閉まるようだ。ぎりぎり間に合った。
 持参した自転車(どこへでも足元にはあの日から大好きで連れてゆく白いキャリーミー)で北上、「たんぽぽ」は現在10時30分ラストオーダーで11時まで、間に合わず。たまたま地図で見かけた、母校近くの喫茶某へ。最高。お手洗いが離れにあって、そこを体験するだけでも行く価値がある。9時から16時だそうな。
 想い出の尾陽神社そばの「愛」。日替わりランチを、と言ったら「牛丼しかないの」と。牛丼に木綿豆腐とねぎの赤だし、お魚の煮たの、みかん、麦茶。ママはなんらかの取引をしにきた営業マンと話し込んでいて、なぜかずっと営業マンの彼女が母親に支配されていて云々、という話題。「そんなん虐待だがね!」と名古屋弁が響きわたる。幸福である。
 鶴舞公園近くの喫茶「パーク」、ここは最高。BGMが和なのが異空間感を演出する。ミルクセーキを飲む。「どうぞ、どうぞ」「おおきに」と、品のあるおじいさん店主が柔らかく接してくださる。イナシュン先生の新書をちょっと読む。お店を出て、ちょっと倒れそうになった。あまりにも名店。や、名空間。15時まで。
 ちょっと迷ったがやはり前回も来た吹上のSは外せない。コーヒー飲む。これで3杯目。4杯以上はチッときついなーと思いつつ、次の行き先もコーヒー屋さんなのであった。たぶんデカフェ頼む。
 ここまでは今ここ(喫茶S)で書いている。前回同様、おばあさんたちが井戸端会議。今日はマスターもいるけど、そんなにしゃべらない。スガキヤの話とか、食べ物や料理のことをやんややんやと賑やかに話している。幸せなお店だ。やっぱり来てよかった。
 余裕がある時に、「考えたこと」みたいなこともたぶん書きますので、とりあえずは行動録。

 高校1年生の時の同級生である浦野くん(神奈川在住)が「Einsiedlerkrebs Kaffee Kiosk」(←読めない)という間借りカフェをやっていて、毎月第3火曜日は今池のHAPUNA COFFEEにいる。先月に引き続きやってきた。デカフェのコーヒーを注文。美味しい。
 今回はあんまり人と会う予定を入れていない。ここにも特に予告なくきた。あとは今夜、中学の同級生(たしか中1の時に同じクラスだった)と会うくらい。彼女とは中学を出てからほぼ会ってなくて、成人式で久しぶりに顔を合わせておそらく連絡先を交換したのだろう、それから2回くらい、数年おいて長電話をした。26の時に久々に会った。数年ごとに僕のほうから連絡をとって会う。今回は3年か4年ぶりだと思う。
 毎回驚かされる、というか、感動させられる。彼女は絶対に、数年おきに何かを大きく変化させている。それは決まって内面的なことだ。30過ぎると内面はもう変化しない、と僕はおおむね思うが、もしかしたらこの人は例外かもしれない。変な言い方だが定期的に観測したくなるのである。
 いま15:23。これからどうするかを考えちゅう(土佐弁?)。

 いま17日の16:03、定光寺の山の中にいる。東海自然歩道のど真ん中にある石のベンチにリモートオフィスを設置してこれを書いている。暗くなる前にサッとだけ。(灯りなど一切ないので暗くなったらほんとうに死ぬ。)
 石のベンチの上にキーボード付きのiPadを置き、地べたに座る。ジーパンが汚れると嫌なので、その辺に落ちていた生の木をお尻に敷いてみると、これがいいあんばい。タバコは吸わないので、昨日つねかわで買ったサワーシガレットを嗜みつつ、実家から持ってきたほうじ茶を飲む。
 鳥が鳴く。どんぐりが落ちる。遠くでガサゴソ言っている。

 昨日の話に戻る。浦野くんのカフェで雑談したのち、古出来にある、以前に通りがかって偶然に知ったアンティークショップへ。素敵な色合いの古いものがたくさん。その中から、ミノルタの電池チェッカーロボと、仲良しシリーズロボ丸くんを衝動買い。なぜか店主さんのご実家で取れたという唐辛子を大量にいただく。めちゃくちゃいいお店。近所だし毎回来たい。
 それから熱田の気になるお店を覗こうと思ったのだが、荷物ができてしまったのもあって、いちど実家に寄ることにした。これが大正解だった。ゆっくりできた。なんせ2年くらい、ほとんど会って話していなかったのだ。ご飯を食べさせてもらって、お父さんからレコードやオーディオの話を聞く。ほとんど「習う」という感じ。レコード針のアームの角度のこととか、MQACDのこととか。オスカーピーターソントリオの『You Look Good To Me』という曲でMQA音源を聴かせてもらう。よい音源を、よい機材で、よい位置で聴けば、それがいい音だというのが僕でもわかる。というか、生まれた時からそういう音ばかり毎日聴いていたので、いい音というのがなんとなくでもわかるように育ったのだと思う。これは次兄も言っていたことだけど、ほんとうにありがたいことだ。
 時間が迫ってきたので家を出る。つねかわに一瞬寄って、ふ菓子とサワーシガレットだけ買う。66円。おばちゃん、先月あげた拙著『小学校には、バーくらいある』を読んでくれたそうだ。楽しんだと言ってくれた。そう、僕の心にはこのお店は、ああいうものとして存在しているんだよ。ふ。
 20時前に待ち合わせ場所へ。ちょっと時間があったのでお父さんから借りたモンキーで自転車のブレーキを直す。同級生と合流。23時くらいまで話す。いっぱい話したしいっぱい聞いた。友達はいつでもいいもんだ。
 彼女はやはり、今回も変化していた。変わっていくというのではなくて、なんというのか、伸びている感じがある。成長というのともちょっと違う。ただ長さが変わっていくというか。芯にあるものは変わらない。
 禁煙したとか、そういうことがたとえば「おお」となる。マラソンのタイムもどんどん縮んでいるらしい。僕たちの共通する課題は、「そういうことが頭打ちになって、いつか伸びなくなった時、どうあるべきなんだろう?」ということだった。僕は「存在」だと考えた。
 剣の達人は剣を持たない、という言葉(誰が言ったかは知らない)が僕は好きである。剣の道を極めたら、もはや剣を持つ必要さえなくなるという逆説。トークを極めたら、喋る必要などなくなる、みたいなことである。もうただ、そこにいるだけでいい。
 今日、ちょっとこの考え方が深まった。剣の達人は、剣を持たないのではなくて、そもそも持てないのではないか。剣って重いから、年取ったら振り回せなくなる。だから、剣は持てない。だけどめちゃくちゃ「強い」。なんにつけても我々は、その境地に行かなくてはならないのである。これについてはいつか詳述するであろー。
 別れて、僕はその近所の最近できたらしいV系バーを覗きに行ったがやっていない。名古屋の中心部にあるV系バーは3軒行ったことがあって、金山、新栄、東別院。今度は黒川にできたそうなのだ。ネットで見たらキリトさんのエッセイ集『思考回路』とか置いてあったから、気になる。
 その近所の、インターネットでの宣伝をそれなりに頑張っている新しい店に行ってみたが、中から騒がしいあまり品のない声が聞こえてきたので、やめた。
 どうしようかなーと思ってだらだら歩いて考えたが、繁華街に行くのはやめて地元駅近くのジャズバーに行くことにした。これがまた大正解だった。今日は音楽の日、ジャズの日なのだ僕にとって。

 いま、山道を男女カップルが通りがかったので挨拶したら、ちょっと会話になって、同じく東京からの帰省組だと分かったので、お店の名刺を渡してみた。おもろい。

 そこはバーボンがたくさん置いてある。エヴァンウィリアムズ12年をロックで、1776をストレートで、ワイルドターキーケンタッキースピリットをハーフショットで。ヴァージンが好きだと言ったら、「もうああいう雑味の多い、下品な味のバーボンは日本には入ってきてないねえ」とのこと。本国に行けば飲めるらしい。もちろんマスターはそういう味のバーボンも大好きなんだと思う。
 ここは本当によいお店だ。ご夫婦が仲良しで、一緒に深夜2時までお店にいる。いろいろお話をさせてもらった。バーボンのことやジャズのこと。勉強になる。またコント。
 帰って、お風呂に入って、着替えて寝た。


17日
 19日の10:59、金沢から上越に向かう新幹線の中で書いてます。

 17日は昼くらいまで寝た。起きたらお父さんがご飯を作ってくれた。のんびりしてから出かけて、とりあえず中学の同級生の実家でもある喫茶Iに行ってみたがやっていなかったので、大親友たかゆきくんの実家すぐそば(よく一緒に遊んでいたらへん)の喫茶Vへ。コーヒーを飲む。あまり良いことではないのだがカフェイン中毒気味なので、頭痛やだるさが出る前に補給しないといけない。
 それにしても名店である。朝6時から10時半までがモーニング、夕方は何時くらいまでやっているかわからないが、食事はたぶんずっとできる。ところでここいらの喫茶店(といってもVとDのことだが)はなぜか豆菓子ではなく柔らかくて甘いお菓子を出しがちな気がする。より深い調査が必要。
 その後、特になんの予定もないので、どーしよっかなーと思って、急に思い立って定光寺(じょうこうじ)に行くことにした。定光寺と名古屋人が口にすれば、それはお寺ではなく山を意味する。天気もいいし、そうだ山に行こう。お父さんや、たかゆきくんや添え木さんたちとよく虫取りなどに行ったものである。
 大曽根駅から330円、わずか20分でもうそこは山。冗談じゃなくて本当に山。山奥。名駅(名古屋駅のこと)からでも510円、33分で山なのだ。
 切り立った崖の上みたいなところにホームがあり、多治見方面で降りると山側のトンネルを通って下界へ抜ける。無人駅で改札はない。切符を入れる箱が置いてある。最近はICの機械が設置されているが、入場用と出場用の二台あってそれもまた古めかしい。
 トンネルを抜けると木々に覆われた山と、岩だらけの渓流が見える。橋を渡って川を越えると定光寺というお寺に続く参道にあたる。山を下る小さな急流をはさんで片側に車道が、もう一方に薄暗い山道が並行している。
 僕はまだその大きな川の手前にいる。自転車を組み立て、記念写真を撮って橋のほうへ走り出すと左手に長屋がある。ここに昔きっぷの売店があっていつも買っていたなと懐かしく思い出していると、信じられない光景に出くわす。喫茶店があった。
 電車の中で「定光寺 喫茶店」なんて調べて、山の上の池のほとりに古い喫茶店があるからそこに行こう、峠の茶屋は間に合わないから、などと計画していたが、駅前も駅前、すぐのところに喫茶店があった。松屋コーヒーの看板に「喫茶 玉川屋」と書いてあって、メニューも表に貼ってあって、パトランプ(愛知や岐阜の喫茶店には決まってついている)こそ回っていないが営業中とは書いてある。吸い込まれるように入った。果たしてそこは喫茶店であった。当たり前だけど。Google Mapで検索しても何も書かれていなかったが、確かに現役の喫茶店だった。
 僕は本当にこんなお店に憧れていた。山の上だか山のふもとで、人里離れて猫や犬と暮らしつつ、勇気ある旅人ばかりを相手にして静かに優しく商売をしているおじいさんのお店。創業は大正、おじいさんのおじいさんの代から続いているそうだが、喫茶店になったのはいつからかわからない。300円のコーヒーを飲み「TEA TIME」をつまみながらいろいろお話をした。
 狐や狸のお店は普段見えない。何回も、少なくとも10回以上は定光寺を訪れているはずなのに、かつての僕の目には見えていなかった。いや、見えていたのかもしれないが、ドラえもんの「石ころぼうし」という道具みたいに、まったく気にしていなかったのだろう。人間というものは、自分の欲しているもの以外を見ることができない。僕はいま、ようやくこのお店を欲するような人間に成長したということか。狐や狸が人をばかすということの正体も、実のところそういう部分があるのではないか。「私のことが見えるの?」という妖精とかのアレも、欲しているから見えるのだ。必要だから会えるのだ。
 ただ、ちょっと思う。僕はこのお店に確実に「懐かしさ」を感じていた。もしかしたら、その昔お父さんと一緒に訪れたことがあるんじゃないだろうか。これは発見ではなくて、再会なのではなかろうか。そのおじいさんは鉱石を取るのが趣味のようで、店中いたるところに飾っていた。うちのお父さんも鉱石や化石を趣味の一つとしていたから、ひょっとして。お父さんに聞けばよかったのだが、忘れていた。
 山小屋のようなお店。山を訪れた人間であれば、それだけで受け入れてもらえる場所。「子供の時にだけあなたに訪れる不思議な出会い」というのはとなりのトトロの歌の歌詞だが、このフレーズはあまり好きではない。それを本気で欲するのがたまたま子供ばかりだというだけで、いつだって欲すれば会えるんじゃないのかね。子供って一体、なんのことなんだろうかね。
 お店を出て、自転車で山を登る。変速機もない小径車(キャリーミーという車種)にはちょっときつかった。池の周りをぐるっとしたあと、自転車を持ったまま東海自然歩道をさまよった。山道! これぞ定光寺! 植物と鉱物以外のものがまったく何もない空間、時間。これを僕は長い間求めていたように思う。山の中腹あたりに石でできたベンチがあったので、そこにiPad載せて、お尻に生木を敷いてこの日記を書き進める。(このことはすでに書いた。)
 暗くなってきたが、せっかくだから定光寺のお寺のほうを見てみる。一六五段だったかの長い石段を上り、戻ってくる。そして今度は道路ではなくて、山道の方を通って下山。暗いうえにボコボコの路面で、階段も多く自転車を持ちながらでは難儀したが、なんとか楽しく降って駅に戻る。そして、もう一度あのおじいさんのお店に入ってみる。ここから、21日の昼に執筆。
 見たことのないベルギービール350円。なぜこの銘柄なのかと聞いたら、「買い値がわからないから」とのこと。でもほとんど利益などないという。そりゃそうだろう。ティータイムを二袋いただく。
 最近はお客さんが少なくなったとこぼしていたので、皆様ぜひ愛知県を訪れたら定光寺へ。

 ぎりぎりにお店を出て、自転車をそのままかついで長い階段を登り、ホームで畳んでいたらちょうど電車がやってきた。17:34定光寺発。何も考えずとりあえず電車に乗ったが、スガキヤが食べたくなったので鶴舞で降りることにした。18:02、ドアが開いて降りようとしたら、出入り口の脇に見知った顔があって、反射的に「あれ、〇〇さん!」と声が出た。奇跡のようなものはあるのだなあ。その人はいま東京に住んでいる。今年の春に湯島(僕のお店があるエリア)で出会い、同郷なのもあってすごく仲良くなった。ほぼ毎日どうでもよいLINEを交わしている。確かに数日前、「これから名古屋に帰る」「えっ、その日は僕も名古屋にいるよ!」なんてやりとりをしていた。特に遊ぶ約束などはしていなかったが、いま近くにいるんだな〜とは意識していた。まさか同じ電車の、同じ車両に乗っていて、僕がまさに降りようとしたドアの前にジャスト立っているとは。中央本線の沿線に住んでいるわけではなく、瀬戸線から大曽根で乗り換えてきたらしい。なぜか一緒に降りて、「えー!」なんて言い合ってから、彼女は再び電車に乗って、動画やら写真やらを撮ってくれた。僕も撮ろうと思ったのだがスマホをカバンの中に入れてしまっていたので、せめてカッコつけてポーズ取った。すぐにその写真が送られてきた。いやー。
 鶴舞図書館のスガキヤへ。特製ラーメンに五目ごはんとサラダのセットをつけ、ソフトクリームのミニをコーンで。870円。高級! ノーマルのラーメンは330円なので、いかに豪遊か。たまにしか来られないからね。おみやげもいっぱい買った。
 制服の高校生男子たちが数人でソフトクリーム食べてた。このスガキヤは図書館の地下、高校生のたくさんいる学習室と同じフロアにあるのだ。懐かしい。高校が近いので僕もよくここで勉強してた。僕が大学に受かったのは鶴舞図書館(と東図書館)のおかげである。
 さーてこれからどうするかなー何も決めていない。今日は定光寺に行くことさえ急遽決めたのだ。本当に予定がない。誰とも会う予定がない。とりあえず鶴舞といえば、ということでやんBARというお店へ。数年ぶり。このお店の内観は、僕の理想にかなり近い。カウンターがL字かV字、ないしコの字だったら完璧だ。フィディック12年の水割りとジェムソンのソーダ割。メモ:名古屋ハイボール(サントリーオールド+ジンジャーエール)
 内観の文化度はかなり高く、やんさんもかなり教養深い方とお見受けするが、話題がそういう方面に行くことはたぶん少ない。そのあたりのバランスをもうちょっと研究したい。
 女子大小路のHというバーに行ってみた。3ヶ月ほど前にできたお店で、すごく若い人が店長で、TikTokで集客したりしているのに興味を持った。合う・合わないで言ったらまず間違いなく「合わない」ほうのお店なのはわかっていたが、一か八か、ひょっとしたら何かあるかもしれないと。前金で3000円払うとコインが9枚もらえ、チャージで2枚、ドリンク1杯ごとに2〜3枚減っていく。誰が考えたシステムなのだろう、最近「これ系」の店でよく流行っている気がする。
 上記のシステムだとコインを使い切るのに3杯飲まなければならない(2枚使って店員さんにごちそうもできる)ので、ジントニック、いいちこ水割り、はちみつ酒のジンジャー割りをいただく。薄めに作ってもらえて個人的には嬉しかった。このあとも飲むつもりなので……。
 母体は日替わりのイベントバー的なお店らしいが、ここは店主Fさんが基本的に1人でやっていて、たまに「コラボ」があるらしい。この日はコイン2枚でマッサージしてくれるお姉さんがいた。Fさんのお店づくりの方針、方向性は嫌いではない。飲み屋としてはいいお店だと思う。ただお客さんたちの意識のステージが僕とは全然違う。「繋がりましょうよ!」みたいなノリの人もいたし、とにかく大声で自分の話を繰り出し続ける人もいた。一方で、すごくおとなしくてよい感じの人もいた。こういう人たちばっかりだったらなあー。そのうちもう一回くらい行くかも。研究。
 文化的な場所に行きたくなって、円頓寺のバーパプリカへ。パプリカはたぶん筒井康隆先生の。こちらも数年ぶり。ハイランドパークストレート。なんだったか(忘れた)のソーダ割。愛知の地ウィスキー「キヨス」ストレート。思ったより飲んでしまった。世の中のこと、演劇のこと、色々のことをぼちぼち話す。こういう場所が必要なんですよ。芝居小屋の入り口に併設されている4席程度の小さなバー。名古屋にはこのような「思考を噛ませた会話」が自然に生まれてくるお店が非常に少ない、気がする。あるのなら教えてほしい。
 せっかく名駅付近にいるので、特殊音楽バースキヴィアスに寄ろうと思ったが、タッチの差で閉まったらしい。今度いきます。帰りにもう一軒くらい、と思ってアサヒバーという昭和レトロ系バーに寄った。とてもいいお店だと思う。店主と5秒くらい喋るとだいたいのことがわかる。こういうお店で大切なのはたった一つ、「人格だよ」(参考文献:日本橋ヨヲコ『G戦場ヘブンズドア』)。今度ゆっくり行きたい。明日のためにお酒じゃなくてパインジュースかなんか飲んで、たません食べた。無理せず帰宅、寝る。


18日
 両親と朝ごはん食べる。と言っても、両親はそれぞれ別のことをしていて、僕だけ座って用意されたご飯食べた。幸福。ハァー家だ〜僕の家だ〜みたいな感じ。僕はけっこう幸福な人間なのですよ。恵まれてるね! とは思ってもらいたくもない(それでも色々あるのですから!)けど、まあもしそう言われたら、「そう! 恵まれてんですよ!」と言い返したい。恵まれてるわ〜本当に。でもその恵みを手に入れたのは、自分自身のこの手ですからね! 与えられたものをちゃんと(自分で選り分けたうえで)掴んだんですよ! この考え方たぶん大事。
 両親に見送られて(幸福)家を出る。自転車で走っていて振り返ったら、ベランダからお母さんが見てた(幸福)。
 JRで大垣へ。ほとんど時間がなかったが、喫茶店に一軒だけ。最近できたお店らしいが、もう30年はやっていそうな貫禄があった。ここはすごい。名店。ここだけのためにでもまた大垣に寄りたい。近くに素敵な旅館もあるし。
 大垣といえば「アピオ事件」と僕が呼んでいる、2001年12月23日のあれ。興味ある人はその日の日記を読んでみてください。アピオ事件の当事者はみんな(僕以外)東海高校の1〜2年生だったんだけど、あのノリは大学生のノリなんだなと大学に入ってしばらくしてわかった。東海高校ってめっちゃ頭いいから、勉強だけじゃなくてそういう「ノリ」さえもフツーの高校生より先取りしてんですね。こないだ世を徹して朝の5時半くらいに湯島の街を歩いていたら、スーツ着た社会人の集団が大学生みたいに「ウェーーーーイ」(意訳)って大声で騒ぎ散らしてて、めちゃくちゃひどい言い方をすると東海高校の逆なんですよね、これは。先取りじゃなくて後取りというか。(これ以上は自粛。)
 僕は東海じゃないんだけど、東海の人たちとよく遊んでいたおかげで「先取り」ができていたから、大学生になって大学生みたいなああいうノリをあんまりやんなくて済んだのかもしれない。どうせやるなら早めにすませるのがよい、ということはたくさんある。
 大垣よ、あの時は僕の友人たちがごめんなさい。僕も一緒にいてはしゃいでいたので共犯です。とても好きになったのでお許しください。
 特急しらさぎに乗って金沢へ(1021→1248)。米原でスイッチバックするの知らなかった。いや、乗ったことはある気がするから忘れていたのかな。みんなで座席をくるっと反転させるのすごい。一度ぜひ、名古屋・金沢間を乗ってみてください。米原まで新幹線で行ったほうが楽だけど、特急はやっぱり味があります。
 金沢の目的は主に喫茶店。まずKへ。僕のおばあさんがやっていた喫茶店と同じ名前なのもあって思い入れがある。とてもいいお店だし、漫画雑誌もいっぱいあるので近所にあったらめちゃくちゃ通ってると思う。つい最近まで台東区の稲荷町でやっていた「ヤマ」というお店に似ている、と個人的には思う。そういえば名前も似ている。
 ぶらぶら散歩しつつ、市場を覗いたりなどして喫茶K(またKだ)へ。やきそばとコーヒー。金沢に来たら、このKと次にいくLの2軒に寄れさえすれば幸福である。この幸福は、分かち合うべき人もいるので詳しくは書かない。Lについても同様。有名なお店なので特に隠したいわけでもないが、おいそれとは文字にできない。
 夜、居酒屋ともちゃんにたまたま通りかかってイン! カウンター5〜6席のみの小さな飲み屋さん。甲府の路地にありそうなお店。日本酒(立山)2合、おでん、牛すじ、かに。深夜喫茶(!)ぎんぼしで休憩し、新天地の満月喫茶(フルムーンカフェ)へ。ここは2016年6月21日、小沢健二さんの「美術館セット」で初めて金沢に来た夜、通りの雰囲気と店名と外装にピンときてたまたま入り、すっかり気に入った。客層はけっこうムチャクチャだし、店主もずっと濃い酒飲んでていっつもベロンベロンなんだけど、僕にはまったく嫌な気がしない。なぜこのお店だけは好きだと思えるのだろう。それはもう「人格だよ」としか言えない。僕は単純にこの人のことが好きなのだろう。飲みすぎて早死にだけはしないでほしい。(名古屋のバー「アマチュア」のマスターみたいに。)
 この日はそれで満足して、宿に帰って寝た。


19日
 少し時間があったので尾山神社と鼠多門を見て、喫茶Kにもう一度。コーヒーだけさっと飲み、自転車で駅まで走って新幹線に飛び乗る。上越妙高下車(1057→1159)。高田まで走る。まずシティーライトに行ってみるが、扉は開いているが真っ暗でもぬけのから。ママに電話してみるも出ない。どうしたんだろうと思って、書き置きでもしていくかと思っていたら奥からおいでに。体調が悪いので午後は閉めて病院に行くとのこと。ご挨拶だけはできてよかった。どうかお大事に。
 思わぬ時間ができてしまったので、ちょっと戻って「絵本とのみもの プー横丁」へ。プーブランチ450円をいただく。薄いバタートースト2枚が愛おしい。カウンターに座ったが特に会話をするでもなく、だけど店主の雰囲気がとてもよく、それだけで満足だった。これも人格であろー。
 13時に開くはずの喫茶A、開いていない。10分くらい待ったが開かない。いよいよ時間が余ってしまった。高田の街の、まだ行ったことのないエリアを走ってみる。竹内電気商店、気になる。
 ゆっくり上越妙高まで向かう途中で、越善というそば屋さんでちょっと腹ごしらえ。山菜そば310円。上田へ(1400→1440)。故トルコロックさんをしのぶ。名店「故郷」はどうも閉業したらしい。大好きな喫茶Kだけ寄ってコーヒー飲む。180円! しなの鉄道で小諸に移動(1520→1540)。山を登って「茶房 読書の森」へ。山、めっちゃ大変だった。そのぶん走りがいがあってよかった。僕は意外と肉体派なのである。痩せてるから軽いし、自転車でのクライムに向いているんだと思う。
 読書の森は宿泊もやっていて、去年の9月頭に泊まった。それ以来。顔を見ただけで「夜学バーの」と思い出してくれて、ものすごく喜んでくれた。きてよかった。気が合うというか、互いに価値観で引き合ったようなふうに僕は感じている。『小学校には、バーくらいある』を2冊贈り、物々交換として彼らの作った本を3冊もいただく。茶房ではコーヒーとすいとんを。本当はいろいろ森の中を見ていきたかったけど、時間がないので小一時間ほどで下山。しかし数分の差で電車が行ってしまう。
 ここからは22日の夜営業中、お客を待ちながら執筆。敗因は、山の中が真っ暗でブレーキをいっぱいに踏み続けたこと。もう一つは、読書の森にスマホを忘れてしまい、取りに戻ったこと。うー。こんなことならもう1時間くらいゆっくりしていけばよかった。田舎は本数が少ないのである。ともあれまた、近いうちに泊まりに来よう。
 ゲストハウスはいいな。予約というものがあって、「ああ来週〇〇さんが来るんだな」と思いながら待つことができる。読書の森のように茶房が併設されていれば、今回の僕のような突然の来客に驚くこともある。フィッシュマンズに『感謝(驚)』って曲があるけど、いいフレーズだ。
 時間が空いたので、小諸の街を自転車で走り回りつつ、月を見る。今夜は限りなく皆既に近い部分月食で、澄んだ信州の空気によく映えていた。バーとかあったら一杯飲みたかったが、良さそうなお店が見つけられず前回も訪れた洋菓子屋さん「花川堂」の喫茶部へ。色々と、素晴らしい。おすすめ。前に来たときはお客のおばあさんがケーキをご馳走してくだすったっけ。#かわいいぼく
 しなの鉄道で軽井沢へ(1854→1920)。いったん改札を出て、ぐるりとだけ見回してから新幹線へ。たがみよしひさ『軽井沢シンドローム』に出てくる喫茶店「ら・くか」のモデルとなった古月堂というお店は、もうなくなっているようだ。たぶんもう15年近く前、初めて軽井沢へ来たときに寄ったことがある。箸袋が家のどこかにあるはず。
 熊谷へ(1940→2013)。安中榛名と熊谷に停車する、東海道新幹線でいえば「こだま」のような便。自由席それなりに混んでいた。出張や観光の人がどんどん増えてきているみたいだ。
 1時間半ほどしか滞在できないので、急いで自転車を組み立てる。A.L.F.Coffeeというカウンター4席くらいしかない小さなカフェが大好きなのだが、毎回僕が来る日に限って閉まっている。今回も例に漏れずお休みとSNSで確認。某家系居酒屋に向かう。角を曲がると、灯籠がともっている。開いている!
 ここはもう、店主自ら「知る人ぞ知る」お店にしたいと言っているので、絶対に教えない! 僕はお散歩でぶらぶらしているときにたまたま見つけて、お店なんだか家なんだかもよくわからないまま、勇気を出して扉を開けて、たどり着けた。勇者でなければその道は開かれない。本当にこんなお店は、日本中探したってなかなかない。僕が言うのだから間違いない。店主夫婦はたぶん30代くらい。小さなお子さんが二人いる。料理はすべて美味しく、しかも安い。完璧という言葉を捧げたい。一年半まるっと休業して、今月から金土のみ再開しているという。電話がかかってきても出ず、知り合いにもあんまり伝えていないらしい。足を運んだ人にだけ、再開していることがわかるというわけ。再開後5回目の営業に僕がたまたま巡り逢えたのは、縁というほかない。そもそも他所者でここにたどり着けた時点で奇跡なのである。いや、はや、本当に、このお店は、そういういろんな理由があって、本当にもうかけがえのない存在なのだ。何よりこれを、若い人がやっているのがいい。向こう50年の大きな希望である。できれば長い間、続けていてほしい。
 僕は年寄りのやっているお店がとても好きだが、年寄りでなければいけないわけではもちろんない。年寄りが好きだというよりは、年寄りの持っていがちな様々なアドバンテージが僕にたまたまフィットするということなのだ。このお店は、その「アドバンテージ」をかなり多く持っている。それがいったい何なのかは、今はナイショ! そのうち詳しく書くこともあるかも。ともあれ、若い人でも「それ」を実現することは可能なのである、という眼前の事実が、僕を大いに勇気づける。ありがとうございます、本当に。
 ゆっくりして、生ビール(一番搾り)とハイネケン、塩ネギのったお豆腐とナシゴレンをいただく。はー、満腹。またすぐにでも行きたい。行こうかな本当に。でも金土だから、お店を休まなけぁいけない。いや、開店を今日みたいに、23時くらいにしたらいいのかな? あるいは誰かに立ってもらって、22時くらいで交代するか。検討しよう。
 少しだけ(5分くらい)時間があったので、名店の存在を確認する旅へ。なんと、あの「ふみ」が閉業しているようだった。シャッター閉まってるところなんて初めて見た。もうだめだ。熊谷へ来る理由の一つが急に消えてしまった。もう一つ、「セーヌ」を見てくる。こちらはやっている。ただ、マスターがお元気かどうかはわからない。ひょっとしたらもう、息子さんだけになっているのかも。たぶん2年くらいは行ってないからなあ。内装から何からとにかくすごいのでぜひどうぞ。
 どのお店も、ALFとさっきの居酒屋は若い人のお店だから特に、本当に末長くがんばってほしい。そのためには僕くらいのもんでもそれなりに通って、お金はともかくモチベーションに少しでも寄与できたらと思う。

 上野へ(2136→2242)、夜学バーを23時から26時まで営業。意外とお客さん来る。嬉しい。実は、僕が旅行から帰ってきた日はお客さんが全然来ない、というジンクスがある。がんばって17時までに戻ってきてるのに、22時くらいまで誰も来なかったりすると、何のために一所懸命、断腸の思いで電車に乗って来たのだと情けなくなる。きてくれた皆さんありがとう。そしてすべての潜在的顧客に、おめでとう。

 いま22日の23:03。急いで予定をこなして必死に17時にお店を開けて、6時間たちますが一人もお客がありません。愛知県瀬戸市に住む古い友人の名言で、「そんな日もある。」

2021.11.14(日) なめられる光のぼく 暗躍する闇のぼく

 光のぼくはなめられとる。なぜならば闇のぼくを知らないからだな。闇のぼくは暗躍しすべてを焼き尽くす昏い火である。
 闇のぼくは恐ろしい、感情を度外視して実利を取るサイコパスでありつつ、反面は自分の感情を何よりも大切にする保身的なナルシシストでもある。そしてすべてを焼き尽くす。
 僕の楽しみ方をよく知っている人は、もちろんそれをわきまえて、上手に活用する。
 あまり知らないと、「なめる」という形で、軽んずる。困ったものだ。
 なめくさるような人たちが思うよりたぶんずっと僕という人は目が見えている。そして「なめとるな」と思っている。
 光のぼくには隙がある。なめくさる奴らからしてみたら、「ふっ、うまく構えているつもりだろうが、俺には見えるぜ! その隙が!!」というつもりなんだと思うんだが、無論それは囮である。その空隙には闇がある。闇と無を取り違えてしまったのだ。
「ふりに決まってんじゃん。あえてやってんだよ。」

 たとえばAさんにはBさんの思惑の8割くらいが手に取るようにわかっている。本当にそうかはともかくとして、「8割くらいわかっている」と思ってしまっている。その時点で、その関係はもうおしまい。

2021.11.12(金) 仲良しの発想 補講

 仲良しとはなんじゃろうか。僕は仲良しがどうたらといつも主張している。「仲良しの発想」という連語で用いることが比較的多い。
 いまいち伝わらない(伝えるのが難しい)ので何度でも書くが、僕の主張は「誰とでも仲良くしましょう」「できるだけ多くの人と仲良くやりましょう」では、ない。自分にとって必要な人と必要な程度の「仲良くする」を実現させましょう、というだけのことである。
 人と人との間には適切な距離というものがある。その距離を互いに見極めて、ちょうどいい関係を築いたり、築かなかったりすることによって、各人にとって心地よい環境が出来上がる。
 Aさんとは仲良くしたほうが(自分にとってもAさんにとっても世間にとっても)よいが、Bさんとは別に仲良くしなくても問題がない、というとき、Aさんとは仲良くするがBさんとは仲良くしない。それでいいのである。それをわかるために「仲良しの発想」が必要だし、それを実現するためにも「仲良しの発想」は必要なのだ。

「仲良しの発想」すなわち、誰かと仲良くしようという心持ち・心構えは、「ある人と仲良くなる」ためにも必要だが、「ある人と別に仲良くはならない」ためにも必要なのである。もっと詳しく言えば、「ある人と別に仲良くはならなかったことに対して、まあそれでいいのだと思う」ために必要。

 今日、僕はあるお店に入った。初来店であった。通学路から遠くはない、新しいお店である。レコードを聴かせ、コーヒーやお酒を出す、カウンターとテーブルのある、小さなお店。お客は他に誰もいない。
 僕はそこで考える。このお店にまた来るか、どうか。言い換えれば、このお店と「仲良く」するか、どうか。来るとして、どのくらいの頻度で来るか。どういう気分やタイミングのときに来るか。そのお店との関係や距離を、測る。
 そのお店に特別に独特な美意識は感じられず、音も、コーヒーの味も僕が良いと思うような良さはなかった。お菓子はロータスだった。またロータスかと正直思う。別に悪くはないのだが、またロータスかとは思う。また酸味の効いたこの味か、とか。マイルスがかかってて、ポリスとかあるけど、バーボンが全然ないな、とか。もちろんそれらはみんな僕の好みにすぎない。そして好みこそ、「仲良くするかどうか」に関する重大な要素である。
 もちろん僕は面倒で偏屈なことを言っている。カウンターの、一番音の良さそうな席に座り、じっと音楽に耳を傾けつつ、コーヒーを味わう。その間ずっと、店主の一挙手一投足を意識する。この人と、このお店と、僕は仲良くなるんだろうか?
 わからない。だけど、お店のほうからは別に「仲良くなろう」というアプローチはない。どちらかというと、「ワタクシはこんなに素敵なお店を作りましたよ、さあ味わってください!」という態度で、じつに現代的な風だと思った。そしてその「素敵なお店」のうちに、店主は含まれていないかのようであった。本当に単なる感想だけど、もしも店主の立ち居振る舞いが、(僕にとって)めっちゃカッコ良かったら、全然話は違ったのだ。
 孤高にカッコつけるなら、もっとカッコつけてもいいと思うし、そうでもないなら、「仲良くしよう」というアプローチがもっとあったら僕は嬉しい。それは「話しかけてくれ」「笑いかけてくれ」というような話ではない。空間の作り方の話。内装、ものや席の配置、音の大きさ、明るさ、その他あらゆる、その中に存在するものたちのバランスによって、「ようこそ」という、言葉を圧倒的に超えた歓待の声を作れる。それがお店というものだと僕は思っている。
 お店があって、そこにお客が入ってきた。そうしたらもう、お店とお客との対話が始まる。店主は通常、お店の一部である。お店から離れてしまってはならない。しかし彼はまるで店の外側にいた。遠隔操作で店を動かしているかのようにさえ思えた。その空間の中にはまるで僕しかいなかったのだ。お客は店内にいるのに、店主は店内にいないのである。それでいいとするなら、店主はせめて、そのご自慢のアートの一部になっていなければならない。
 ずいぶんと勝手なことを言っていますよ、僕は。「悪い」と断じたいわけではない。ただ僕は僕なりに、「仲良しの発想ってもんがないな」と勝手に判断する。
 マイルスのレコードが終わったあと、またマイルスの別の盤をかけた。なぜそうしたのだろうか? おそらく、僕という人間との「対話」を考えてのことではないと思う。そうだったら申し訳ないです。僕が「うおおっ! その盤はっ!」とかいって反応するかどうかを試したのかもしれない。キラーパスとして。でも、いくらなんでもそれに大したメリットはない。
 彼は彼なりに、自分の好きなお店をやりたいのだろう。「ぼくの考えた最強の空間」を作りたいのだ。そこにやってくるお客は、その美意識を吟味して、イエス・ノーを判定し、イエスに振れれば、通うようになる。そのように、たぶんこの店主は、お店というものを考えているのだと思う。
「どうでしょうか? ワタクシは素晴らしいものを作ったという自負がございます。ご判定をお願い申し上げます!」そんな感じ。そういう態度に、僕は「仲良しの発想」を感じないというわけ。
 お店でなくて、人と人でも同じこと。
 や、これは僕が嫌なやつと思われないためにちゃんと言っておきますが、そういう態度のお店が悪いとか嫌いというわけではありません。お客とのあらゆる意味での対話を放棄していたほうが、心地よいと感じる人もかなり多い。ただ、しかし、だったらもっとお店の作りは違ったふうにしたほうが僕は好きである。
 カウンター席が設置されているのは、ドリンクの提供が楽なのと、友達や「常連」が来たときに喋りやすいからなんだろう。しかし「一見さん」が座った時には、やや居心地が悪いような気はする。でもカウンター以外には、テーブルがたった一個あるだけである。あそこに1人で座るのも気が進まない。店舗設計と、お客との距離感とがいまいちマッチしていないように感じた。音楽を聴かせたいなら、もっと相応しい配置があると思う。客席と、スピーカーと、店主の位置との。
 文句ばかり言っているようだけど、色々と気になるお店ではあった。今度夜に、お酒を飲みに行ってみようっと。

 上記の例で僕は、始終「仲良くな(れ)るかどうか」ばかり考えていた。「仲良く」というのは、店主とではない。店主を含んだ、お店とである。会話なんて一切なくて良い。ただお互いに、心地よい関係を築けるかどうか。
 で、たとえば僕が「このお店とは仲良くしなくていいな」と思ったら、別にもうそこへ行かないだけの話である。人間関係でも同じ。「誰とでも仲良くしなければならない」というのは、お店に置き換えたら、「どんなお店にでも通わなければならない」と同じで、そんなわけない。行きたいお店にだけ行けばいい。
 反対に、「このお店と仲良くしたい」と思ったらば、通えばいいし、その際には、そのお店と仲良くできるような振る舞いを心がける。カフェでもお肉屋さんでも、スーパーでもコンビニでもなんでも。
 人と人でも、完全に同じことである。
 その見極めが上手か、下手かということがある。
 人はけっこう、長い目で見れば本来は通わないほうが良いようなお店に通ってしまうことがある。ホストクラブや風俗通いは、人によっては破滅を招く。
 ジャンクフードを食べすぎちゃうとか。
 変な男に引っかかっちゃうのと似ている。まったくうまくいくはずのない恋愛に入れ込んじゃったり。
 そういうことで身を持ち崩すのはなぜかというと、「仲良し」という発想がないからだと僕は思う。仲が良いか、どうかではない、別の軸で行動を決定してしまう。気持ちいいとか、寂しさが埋まるとか、ただなんとなくとか、同情とか惰性とか。
 仲良くできるものに踏み込み、仲良くできないもの、しないほうが良いようなものには、踏み込まない。この辺は綺麗事ですけど、「仲が良い」ということをもっと重視したほうがいいと僕は信じる。
 でも、それをうまく運用するには、「仲が良いとはどういうことか?」をしっかり考えなくてはならない。そこがしっかりしていないと、「ドラッグと仲良くする」みたいなことに、安易になる。ドラッグと仲良くするのは不可能ではないが、かなり難しい。たいてい付き合い方を間違えてしまう。

 美意識というものがあって、それによって仲良くする、しないを判断したり、どのような仲の良さをよしとするかを決めたりするのが、たぶん良い。まずはその美意識なるものを育てなくてはいけないわけだが、さあ、どうすればいいんでしょうね?
 自分が何を美しいと思うか、思ってきたか、そういうのをかえりみたり、探したりするしかないだろうと今のところは思います。海を見たり山を歩いたり。

2021.11.5(金) JFK(ジャズフォークジャッキー)

 金曜の19:32、お客はお一人、馴染みの人。読書なさっているので僕も日記でも書こうかな。

 お父さんはジャズが好きで、お母さんはフォークが好きである。
 その影響をダイレクトに受けて、僕はジャズとフォークの人である。
 ジャズとは自由であり、フォークとはメッセージ。
(この文章はすべて、僕が勝手に主張しているだけで、典拠も論拠も根拠も何もありません。)

 対極にあるのが、オーケストラとロック。
 オーケストラは秩序であり、ロックは反抗。

 より秩序だっていて、統率と約束を重んじるのがオーケストラ的なもので
 自由とバランスと行き当たりばったりがジャズである。

 あるエネルギー(主に抑圧)に対して、「僕は嫌だ!」と反抗の声をあげるのがロック。それは「声」でありさえすればいい。ロックとは叫びなのだ。「ウォー! ガァー!! なんとかー!!!」で問題なく、それで聴衆が「ギャアアー!!!!」と応答できるのがロックである。ロックの成立要件は「熱狂」のみ。

 フォークはメッセージ! 祈り! 光! 続きをもっと聞かして!
 フォークとは「言葉を届ける」ことが前提としてあり、「意味」というものに執心する。祝詞やお経に近いものである。「弾き語り」という言葉はフォークのためにあるようなものだ。

 小沢健二という人の音楽は、基本的にフォークである。あれは(僕のこの暴論に則れば)ロックではない。
 小山田圭吾さんが小沢さんのソロデビューライブ(93年)を観て「尾崎豊みたいだった」と言ったという有名な話があるが、真実だとすれば小山田さんは鋭い。尾崎豊もロックではない、あれはフォークである。
 尾崎豊は反抗の人ではない。たとえば『卒業』という曲にあるのは、反抗ではなくて、過去の反抗に対する述懐と、「疑問」である。尾崎豊は徹底して疑問の人であり、晩年の『自由への扉(ALL HARMONIES WE MADE)』でついに一つの結論に達した、のだと僕はもう本当にしつこいくらい何度もここに書いている。

 尾崎豊の『卒業』の歌詞を思い返してください。「夜の校舎窓ガラス壊して回った」と、反抗(?)についてはすべて過去形で、「俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか これからは何が俺を縛りつけるだろう あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分に辿り着けるだろう」など、疑問については現在形になっております。
 本当に、『卒業』ほど過去形だらけの曲はなかなかない。これは「反抗」の曲ではない。反抗のあとの曲である。

 晩年に彼がたどりついた境地は「ハーモニー(調和)」で、『自由への扉』の歌詞をよく読んでみますと、「一人一人の

 ここまで書いてたぶんお客が来たので、そのまま放置していました。今は8日の深夜、明けて9日です。庚申の日ということで珍しく朝までお店を営業しているのですが、お客がいなくなったので書きます。でも散歩に出ているだけなのでまた途切れるかも。

 ジャズは自由と即興。オーケストラは統率と形式。
 フォークはメッセージと意味。ロックは反抗と叫び。

 また止まって、今は9日の夕方16:14。吉祥寺の喫茶店にいます。ここは最高。すべてが同時にある。時間に差別がない。扇風機が回り、火鉢の上に薬缶が置かれている。すべての季節があるし、さまざまな宗教が同居している。アイヌの絵と西洋画と、中国の絵と、神棚と地蔵と招き猫とパンダと寄せ書きと、写真と工芸と、骨董と、お花と、ラジカセとテレビと、ビンのコカコーラありますと、お祭りとクリスマスと、バットとゴルフクラブと破魔矢と、コンクリートと座布団とイグサと、椅子と、ああ本当にあらゆるものが同じ空間に存在している。
 前にも日記に書いたが、お水がまず出されて、お茶と注文した飲み物がほぼ同時に出てくる。磯部焼きとお煎餅と、大量のお菓子がドドーンと置かれる。問答無用で。すべてが同時にある。時間を愛する者としてこのお店ほど幸福を感じる場所はない。

 なんかもう書き始めた最初のテーマがどうでも良くなってきたというか、書くべきことはもう書いたのに、終わらせられてないから続けなければいけないような気持ちになっている。

 僕はジャズでありフォークである。前者はこの記事の体たらくからも明らかだろう。フォークであるというのは、散文的であるということなのかもしれない。散文。だから散歩なのだ。僕は詩人と自称することがあるが、それは散文家の憧れ、ないものねだりなのかもしれない。いやきっと、そうだろう。
 詩の自由と散文の自由とは、違うものである。詩はどこにでも行ける。散文はどこまででも行ける。ただし、戻ってこなくてはならない。詩人は去れる。

 散歩する僕は夢想する。いつの間にかここからワープして、知らないどこかの土地をぷらぷら歩いていたらなと。そういう錯覚もする。実際にそんな事態は訪れまい。訪れまいが、訪れるかもしれないと思って、遠くへと散歩を続けるのである。

 わかるかなあ。
 わかんねえだろうなあ。

 ↑これほんとにわかんないでしょうね。ググってください。
「いやきっと、そうだろう。」ってのも、『カーテンのせい』という曲からです。

 散文家は詩人に憧れる。詩人は散文家には憧れない。憧れたとて意味がない。散文の解体したのが詩であるから、二度と元には戻れないのだ。その破滅に、散文家は憧れる。散文家は破滅できない。憧れ焦がれて、死ぬことはある。

 しかし散文家の、詩人を想う心こそ、詩情の中の詩情かもしれない。佐藤春夫という人は、実のところそういう人だったのではないかと感じる。佐藤春夫は誰よりも何よりも詩人であると芥川龍之介は言って、僕も当然首肯するものだが、それは詩というものへの強烈な憧れの結果なのかもしれない。
 大親友の堀口大學によると、佐藤春夫は若き日、習作を無数に構想する一方で、なかなか作品としては完成させなかったという。あの膨大な作品を遺した佐藤も少なくともその初期には、矢継ぎ早に大量生産をこなしてしまうようなタイプの天才ではなかったようだ。
 日本人より日本人らしいアメリカ人、なんてキャラクターがアニメ版の『丸出だめ夫』に出てきたが、「詩人よりも詩人らしい散文家」というのがいて、それが佐藤春夫だったんじゃないかなあ、なんて。
 論拠なきテキトーな感想ですが、思います。

 僕はロックに憧れるフォークシンガーなんだけど、岡林信康がフォークからロックに転向して、それを欧米のミュージシャン(忘れた)に聴かせたら、「こんなん俺たちのモノマネじゃん、日本人なら日本人の音楽をやれよ」みたいなことを言われて、それで演歌をやったりエンヤトットや御歌囃子(おかばやし)というジャンル(?)の創出に繋がっていったそうな。
 似たような感じで、僕も出自をフォークに持ちながら、そうばかりでない自分らしい形式ってもんを探し続けているのだと思います。
 ロックよりロックなフォーク、ってのもいいし、まったく新しい存在のもんでもなんでもいい。

 ちなみにこういう文章はチッと坂口安吾の影響なのかもシンマイ。でもいろんなものが混じってる。すべてのものが同時にある、ってのが好きだから。

 ジャズでフォークなんだけど、ロックとオーケストラにも憧れる。それでうまいことバランス取って、すべての象限を自在に泳ぎたい。


「それが僕にとって生きることなんだ それは僕の後ろに未来を生み落としたいため」(岡林信康『絶望的前衛』)
「何年先も皆でいたい 好きな言葉で唄っていたい それが僕の人生の全てなんだ」(kannivalism『クライベイビー』)

2021.11.1(月) 私にハッピーバースデイ

「出会うときはいつでーもっ!!」(ライブ版)

 新品〜ん〜の私が手〜を〜振る♪


 お誕生日。前日の21時から25時までと、15時から24時までお店(夜学バー)を開けておりました。かねてからのいわゆる「欲しがり」顔により、たくさんの人からお祝いしていただきました。合計13時間で17人(+閉店後にやってきた通りすがりの酔っぱらいさまおふたり)の来客。別にみんながみんなお誕生日をお祝いしにきてくださったわけではなく、ただ偶然という方も多かったと思うけど、さみしくなくてありがたかったです。そのほかSNSのリプライ、DM、LINE、メールフォーム、郵送など様々な形で。しかし、実際、モノも言葉も顔もいりません! 祈りをください! 両手を広げて、空に祈りを!!(なぜかムック)

 僕自身、家族や友人たちのお誕生日が頭に浮かんでも、照れくさかったり緊張したりして結局祝わずに通り過ぎてしまうことが大半なので、そういうサイレントジュビリー(適当)も十分に意味あることだと思いたいです。
 僕がお誕生日であるということを、事前にせよ事後にせよ、今この瞬間にでも、ちらとでも意識して、ポジティブな気分を少しでも持ってくださった方のすべてに、心から感謝申し上げます。

 なぜ自分の(ここ大事)お誕生日がそんなに好きなのか、ということを改めて考えてみたら、「境目」が好きなんでしょうね。大晦日とお正月、夏休みの終わり、サイト開設日など、日付をまたぐ瞬間に何かが切り替わるような感じが。それはお昼の12時ちょうどにまばたき一つで世界が切り替わる岡田淳さんの『ようこそ、おまけの時間に』のイメージだし、8月31日の深夜に目を覚ますとカレンダーが「9月0日」になっているというさとうまきこさんの『9月0日大冒険』のイメージでもある。
 時間は、本当は切り刻むことができない。時計の針は暴力的である。しかし、それとは全然違った意味で「境目」というものはある、のだと思う。

 0時を過ぎたら歳をとる、なんてのもおかしな話だが、しかし地球がぐるっと一回転する以上、その周辺のどこかに境目はある、のかもしれない。だから、というのは後付けだが、今回は3日前に「しあさっておたんじょうび」とツイートし、2日前に「あさっておたんじょうび」、前日に「あしたおたんじょうび」、当日「きょうおたんじょうび」、そして翌日に「きのうおたんじょうび」とツイートした。これを書いているのは3日のお昼だが、今日と明日にも「おとといおたんじょうび」「さきおとといおたんじょうび」とツイートするつもりである。お誕生日というものは、そのくらいに幅があっていい。今は僕にとって、「お誕生日みっかめ」である。まだまだお誕生日まっただ中なのだ。
 11月3日は手塚治虫先生のお誕生日でもあるので、アトムのトレーナーを着ている。そして路上でマンホールを撮りながら歩き、好きな喫茶店でカタカタしている。ほかに誰もいない。必ず二杯分のコーヒーがいただける。今日はおだんごとおまんじゅうをくださった。最近サービス過剰だが、申し訳ないとは思わない。87歳になるそうだ。僕はこのお店を、変な言い方になるが看取りたい。そのために少しは堂々としている。

 ところで、11月1日はアット・ニフティのお誕生日でもあるらしい。アット・ニフティは1999年11月1日にニフティサーブとInfoWebが合併してできたそうだ。僕の2001年11月1日の日記に書いてあった。で、アットニフティとはこのホームページのサーバを運営している会社である。地主さんみたいなもの。お世話になっております。

 僕は最近、自分が9歳だとわかった。9歳なら、誕生日を迎えると10歳になるのか? と問われたので、「いまはここのつで、こんどきゅうさいになります」と答えた。というわけで今はきゅうさいです。来年はまたここのつになります。
 性同一性障害というのは、肉体的または社会的な性別と自認する性別とが一致しないというようなことだと思うが、肉体的または社会的な年齢と自認する年齢とが一致しない、上記のような人間は、「年齢同一性障害」とでも言えそうである。
「ピーターパン症候群」という言葉がすでにあるが、ピーター・パンの原作(小説版)をだいぶ読み込んできた僕なんかからすると、「ピーターパンってそういう存在じゃなくない?」と思うことが多いので、これからは「年齢同一性障害」と言うことにする。
 僕は9歳なんですけど、肉体的にも社会的にも9歳じゃありません。だから生きづらい。でも、「9さいだ!」って主張したら、「そうだよねえ〜よしよし」って言ってくれる人だっているわけだから、そういうふうに生きていけばいいやって思ってます。肉体的にも社会的にも9歳じゃなくたって、誰かとそれで合意できちゃえば、一緒に楽しく遊べるんだから、何も問題がない。
 大切なのは数字ではなくて、誰かと一緒に楽しく遊ぶことなのだ。
「僕は9歳です! そのことを認めてください!」とは言わない。
 普通の9歳だから。

 かなしいおしらせです。
 開設以来、毎年ニフティさんからお誕生日をお祝いしてもらっていて、その文面をコピペするのが恒例でしたが、今年からメールの形式が変わり、文字ベースではなくなってしまった(おめでとうサイトに遷移させられ、その先には「画像」が待っている……。)ので、こちらに掲載することができません。
 すべては変わり過ぎて行くけど、僕はずっと変わりはしない。太陽とか冒険とかクリスマスとか黒いブーツが、子供の時からただ単純にただ単純に好きなだけさ。好きなだけさ!

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