少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2020.11.30(月) 換金とカルト
2020.11.27(金) So kakkoii 松島
2020.11.26(木) ザコ発見機
2020.11.21(土) 人類みな依存症
2020.11.18(水) 犬ショー
2020.11.17(火) 返報性否定人間
2020.11.16(月) 夏の終わり
2020.11.15(日) お金と性はもう終わり
2020.11.11(水) 11ぴきのねこの日
2020.11.10(火) 仲良しの参考文献
2020.11.5(木) いい子のはしご
2020.11.4(水) 続・匿名の距離感
2020.11.3(火) 匿名の距離感
2020.11.2(月) 「サービス期間は終わったのさ」
2020.11.1(日) そう! 今はただ その時のつづき

2020.11.30(月) 換金とカルト

 理屈が立ち行かなくなって維持できなくなると、組織や集団はある種の宗教団体(カルトと呼ぶ)のようになる。
 カルトのようになると、換金に理屈が要らなくなる。
 本来、換金には理屈が必要なのだが、カルトは換金に理屈を必要としない。
 お金が動くとき、そこに理屈がないならば、そこには信仰がある。
 そしてその信仰を出発点に、すべての理屈らしきものは組み立てられる。

 もちろん話はお金(貨幣)だけではない。ある種の信仰は、たとえば労働力を基本として、様々なものを搾取する。そしてそれを搾取だとは思われない。
 だから別にそれで成立する。ただ、もしその集団が、それ以前には「信仰」ではなく「理屈」の力によって維持されていたのだとしたら、それは「カルト化した」と言われるような現象がその間にあったと疑われる。

 理屈が捨てられ、信仰が育つ。そしてその信仰から、再び理屈が沸いて出る。
「信仰が育つ」過程には、たいてい「感動」がある。これが既存の理屈を有耶無耶にする。
 そしてもちろん「囲い込み」も行われる。
 外部をシャットアウトして、内部を感動で満たし圧力を高める。
 仲間意識が、絆が強くなる。「敵」をつくればさらに深まる。
 そこからは縦に横に広がっていくばかりである。

 換金の額(縦)も、信者(横)も増えていく。
 はじめの理屈は新しい理屈に置き換えられる。

 はじめの理屈はどこへ行くのか? わからない。
 もう用済みになったとしたら、その限界はどこにあったのだろうか?
 だって途中まではうまくいっていたはずなんだもん。
 縦が溢れたか、横が溢れたか。
 あるいは単に時間の問題だったのか。

 小規模であれば、あるいは短時間であれば成立するが、膨らむとダメになる理屈はある。というか、ちいさな理屈というものは、「膨らむ」ということに対応しない作りをしている場合が多いのだと思う。
 10人くらいまでは平和に成立していた集団が、20人、30人となると、うまくやれなくなって、仕方なく「カルト化」していく、という流れはけっこうよくある。

 資本主義ちゅうものは、「膨らむ」ことを前提とする。それにそぐわないものが、世の中にないわけがない。無数にある。たぶんすべては時間の問題で、それがだんだん明らかになっていく。
「膨らむ」と「カルト」は仲が良い。ほとんど一心同体と言ってもいいくらいだ。
 カルトを避けたいなら、膨らむことも拒絶したほうが無難である。
 それが「貧乏は正しい!(でも、楽しくない)」という警句の意味なんじゃないかしら。
 カルトほど楽しいものはないし、膨らむことほど気持ちいいことはないんだから。

2020.11.27(金) So kakkoii 松島

 かわいい男の子が好きである。かわいい男の子が好きである、ということをジャキーさんが白状したのはもしかしてこのホームページでは初めてなんじゃないだろうか。過去ログを検索してみると「三浦大地」についてはこの15年くらい一度も書いていないらしい。そんなことあるか? 検索がバグってるのかもしれない。そう思うくらいに僕は大地の率いるFolderというちびっ子グループが好きである。(Folder5とは別のものですよ。)本当のこと言えたんで、気分いいなあ!
 ちなみに本名であり現在の活動名である「三浦大知」で検索すると、2006、2012、2020年の記事がヒットする。もちろん今の大知も大好きなんだけど、小さい頃から好きだったのです。

 冒頭で「かわいい男の子」と書いたけど、僕の気持ちはたぶんちっとも性愛ではないし、美少年の造形の美を愛でたいのでもない。結論を先に言ってしまうと、おそらく僕は「大好きなマンガや児童書に出てくるような男の子が、実際に存在しているという事実」が好きなのである。
 三浦大地という存在をこんなにも好きであるのは、彼があまりにもスペシャルだったから。9歳でデビューした時点で、歌とダンスがあんなにも素晴らしかったのだ。それだけでなく、というか、そういう事情も手伝って、彼はとってもかわいい。そしていいやつそうである。僕にとって大地はそういうスターなのだ。
 僕の好きなマンガや児童書に出てくる子供たちの多くもまた、スペシャルである。ここではとりあえず男の子だけに限定して話を進めるが、彼らはかわいかったり、かっこよかったり、素晴らしかったり素敵だったりする。ズッコケ三人組でもなんでもいいが、ああいうのは果たして、ウソなんだろうか? ホントウなんだろうか?
 ウソなんじゃないか、と思うこともある。だけど、たとえば三浦大地のような「ウソみたいな存在」が実際にいてくれることによって、ホントウかもしれない、と思うことができる。そして、彼のようなスターが一人いてくれるだけで、身近にいる「ちょっとした三浦大地」の存在にも気づけるようになる。さらには、自分だって「ほんのちょっとした三浦大地」なんじゃないか、と思うこともできるし、あの彼もその彼も、実は「誰か」であったり「ちょっとした誰か」であったりするんじゃないか、と。うーん、今日はなかなか、勢いで書いているから、ちょっとわかりにくいかもしれないんだけど、なんとなくで伝わってくだされば幸い!
 ウソみたいなホントウの話、というのが、世の中にはある。ちょっと信じられないようなことだけど、こんなことが実際にあったんだよ、と。そういうことがたくさんあればあるほど、世の中ってのは本当になんだって起こりうるんだって思える。そういうのを「夢がある」とか言うわけだ。

 ここで例に出した三浦大地という存在は、歌とダンスがめっぽう上手で、テレビの中で活躍する大スター。ほとんどスーパーマン、あるいは天才と呼ばれる人である。僕の言う「かわいい男の子」というのは、もちろんそういうスペシャル人間のことだけを指しているわけではない。
「かわいい」ということは、僕にとって、それだけで十分に能力なのである。歌もダンスもできなくたって、テレビにも出なくたって。ただ、歌とかダンスというものは、ものすごく短時間で「かわいさ」を他人に伝えることができる、というだけなのだ。テレビというものは、ものすごくたくさんの人に、同時に「かわいさ」を届けられる、というだけなのだ。
 最近、YouTubeでSexy Zoneの曲を踊る小学生の動画を見たけど、けっこうかわいかった。これも「短時間で」「たくさんの人に」伝えられる方式である。

「かわいい」ということが実在する、というだけで僕はずいぶん助けられる。なぜならば僕は「かわいい」ということの存在がよき世の中にとってきわめて大切だと信じているからである。今日はまさにSexy Zoneの松島聡(敬称に困る!)23歳の誕生日なんだけど、彼はとてもかわいい。10年後もかわいいだろうか? 20年後は? 50年後は? わからないけど、とにかく23歳になった彼は現在、とてもかわいい。見た目が、というだけの話ではなくて、総合的に、一つの存在として。僕にとって彼はもちろん「かわいい男の子」である。

 かわいい男の子は、世の中にある夢を証明する存在なのだ。それはもちろん「かっこいい」でも同じこと。「かっこいい」にも夢がある。だから僕は「かっこいい男の人」も大好きである。「かっこいい男の子」だって、非常に痺れる。三浦大地で言えば、『Lady Butterfly』って曲とか、『Everlasting Love』とか。「子」と「人」の境界ってのは実のところよくわからないけど、なんか全体的なバランスで決まる(決めてる)んだと思う。
 かわいい、かっこいい、というのは、すごく乱暴に言えば「よい」ということの仲間である。かわいかったりかっこよかったりする彼らは、「よい」をやっている人たちなのである。つまり、かわいかったりかっこよかったりする人たちは、その存在を見せびらかすことによって、「世の中にはこんなによいものがある」ということを伝えているのだ。「世の中にある夢を証明する」とはそういうニュアンス。人生は生きるに値する、だってこんなによいものが実際にあるんだもの! と思わせてもらえること。

 今日は推敲しない!

2020.11.26(木) ザコ発見機

 雑魚発見機。高校生だった友人が、スマホの待受画像を水着の若い女の子に設定していて、「これ雑魚発見機なんですよ。これ見て『ウェーイwwwなんだよこれwww』とかいってツッコんできたやつはザコなんです!」と言っていた。ザコ発見機。
 雑魚発見機。10ほど年下の、ある友人はとても強面な外見だが、それでいてシャープでハンサム、他人を圧倒し黙らせる厳かな雰囲気を持ち、頭は良く経験も豊富で、振る舞いや喋る内容も常識的ではない。大抵の人は怯えたり、讃えたりする。彼も雑魚発見機なのである。彼に出会って「〇〇さんすごいっすね! まじパネエッス!」みたいな態度をとる人間はザコなのだ。
 彼は人間を値踏みしている。そんな自分に対してどんな態度をとるのかをしっかり観察している。へりくだったり、遠巻きにする人間はザコである。彼は彼にとって魅力的であるような人間をちゃんと愛するし、そういう人を求めてもいる。
 たとえば「美人」と呼ばれるような女性が、「美人ですね」と言い寄ってくる男や、近寄りがたくてあからさまに敬遠してくるような男に好意を抱くだろうか。健康な人格であれば、「頼むから人間扱いしてくれよ」と思うはず。
 雑魚発見機。ここで言っている「ザコ」とは、「相手を対等とみなさず、上か下かのどちらかに設定した上でコミュニケーションを取ろうとする奴」。世の中の人の何割かは「対等」ということに慣れていないか、知らないので、相手が自分より上なのか下なのか、ということでスイッチを切り替える。自分が上なら大上段に構えるし、自分が下なら靴でも舐める勢い。

 さいきん僕の周りの女の子はことごとく気が狂っていて、その周りにいる男の人もことごとく頭が狂っている、らしい。とある友達が毎日のように色々と近況を送ってきてくれるのだが、彼女の話をかいつまんで要約するとこう。「付き合ってもいいかなとさえ思っていた仲の良い男友達が、わけのわからないタイミングでいきなり告白してきてドン引きし、一気に冷めて興味がなくなった。そしたら男のほうがなぜか急に偉そうになって上から目線の説教じみた話を始めたり、かと思えば謝ってきたり自虐的なLINEを送ってきたりする」みたいな。
 ふつーの男ってのは、つーか人間ってのはこのように、「上か下か」のどっちかの振る舞いしかできないのである。だから急に偉そうになって説教を始めたり、かと思えば自虐的に「どうせ俺なんて」モードになったりするのだ。対等ということを知らんからな…
 告白のタイミングがバグってる人ってのは、たいてい同じ病なので気をつけたほうがいい。相手と呼吸を合わせるという気がない。「付き合ってください」と告げれば、「はい」か「いいえ」のどちらかが返ってくる。「はい」ならこっちが上だし、「いいえ」ならこっちが下になる、というくらいのことしか考えていない。ゲーム脳。
 ↑の例の場合は、「いいえ」と言われてんのにプライドが邪魔して下になりきれず、なぜか「説教」ということになってしまった。バグの上にバグの重なったかわいそうな状況。哀れ。で、きっちりその後に「下」に潜り込んで自虐する。

 ふつーの男とかふつーの人間ってのはそのようなものなので、仲良くするなら「ふつー」ではなくて「りっぱ」な人のほうがいい。これは本当にそう思う。上か下か、でしかものを考えられない人と付き合ったってろくなことはない。割り切ってうまく利用するつもりならそれはそれでいいが、意外とコストやリスクが大きいってことは覚悟すべきである。ふつーの人はすぐストーカーとかになるし、借金とかするし、裁判とか起こすし、怒ったり不機嫌になったり、殴ってきたりするんだから。想像以上にあいつら、ギャンブルもやるし風俗も行くしね。
 明石家さんまさんがよく言っているが、「好きな男性のタイプは優しい人、って言う女よーいてるねんけど、狙てる女に優しくすんのは当たり前や!」これほんまそう。↑の例でも、バグ告白より前は「優しい」「いいやつ」と彼女は彼のことを絶賛していたのだ。そりゃね、誰だって「狙ってる女」に対しては優しかったり、いいやつぶったりすんのよ。そんで付き合ってからとか、結婚してから「豹変」ってことになるわけじゃ。優しくするなんて簡単なことだよ、「定石(≒常識)」をそのままやればいいだけなんだから。
 もっといえばデスねー、「恋愛」っていうパッケージの中に、「優しい」ってことも含まれてるんですよ。「この人は優しい!」と思うってことは、そりゃ単に相手が「恋愛」の教科書通りに手順を踏んでるってだけなんですよ。
 プレゼントをくれたり、誕生日や記念日を覚えててくれたり、わざわざ遠回りして見送ってくれたり、細かいことを褒めてくれたり、別れ際にハグしてくれたり、家に着くころに「無事に帰れたかな?」ってLINEしてくれたり、まーそういった全てのことは、「優しさ」っていうより「恋愛」じゃないですか。「恋愛」のボックスセットの中に同梱されてますよね?
「優しい」とか「いい人」って思うのは、単に相手が「恋愛」の手順を忠実に踏んでるだけ、という可能性が極めて高い。その人は言われた通りのことをそのまんまやれちゃうバカで、すなわち常識的な人で、「いいやつ」な側面もある。「普通」だっていうことです。あなたが普通の人ならば、そういう普通の人と付き合って一緒になって、あれこれムカついたりトラブったりしながら「子は鎹(かすがい)」でしばらくは共に過ごしてそのうち離婚すればいいと思います。(僕は、「普通の人同士の結婚」の離婚率はどんどん上がっていくと予想しておりますし、それがあまりにも当たり前のことになってべつに悪いことだとも思われなくなるだろうなと考えています。)

 ザコは上か下かしか考えません。そういう人たちがかりそめにでも対等っぽい関係を築けるように設計されたのが「恋愛」というパッケージ。でもその賞味期限ってのはせいぜいもって数年のもので、その期間のうちになんとか身を固めさせるための制度が「恋愛結婚」。かつてはそれが永続し得た時期もあったのかもしれないけど、今はちょっと難しいんでしょうね。だってお互いが「上か下か」しか考えない、相手のことを「敵にしか思っていない」ような人たちなのだ。恋愛の魔法が解け、そこに「必要」も特にないとなれば、別れようって話にもなるのです。男の方が無条件で「上」だって言えちゃうような、思えちゃうような時代でもないしね。

2020.11.21(土) 人類みな依存症

 依存症についてはずっと興味がある。もっと詳しく言えば、「依存症やそれに似たような状態(洗脳や強すぎる執着心など)になりがちな人の心」について長い間考え続けている。いわゆる恋愛感情も「強すぎる執着心」の一種で、依存状態と本質的にあまり変わらないと僕は思っている。「恋愛などない」という有名な(?)僕の主張は、「それは執着ないし依存でしかない」という意味である。
 たとえば僕はある時とある凶悪犯罪に強い興味を持ったし、今も持ち続けているのだが、それは「凶悪だから面白い」のではなくて、その手口に「洗脳」というテクニックが用いられ、「依存」という(あるいはそれにかなり近い)心の状態を巧みに利用したものだったから。ホストや地下アイドルなどに興味を持つのも、そこに「洗脳」や「依存」があるゆえ。この場合は双方に依存性がたぶんあって、ほとんどの場合、共依存と呼ばれる状態になっている。
 地下アイドルを辞めたはずの女の子が、少し経つとSNSのアカウントを復活させて、「配信」や「撮影会」などをまた始めたりするのも、「依存」と関係があると思う。地下アイドル時代からほとんど収入にはなっていなかったはずだし、再開した活動でも普通のアルバイトのほうが効率がよさそうに見える(「普通のアルバイト」がまったくできない人なら別だが、おそらくごく少数)ような場合、お金とは別の動機があるはずだ。

 具体的な例を挙げつづけたらキリがないし、なぜ僕がそのあたりに興味を持つのかというのも話し始めたら果てがない。ただ今考えている要点だけを記しておく。


 僕は正直言ってくたびれているのだが、それはどうも、薬物依存症の援助者の肩に降り積もる疲労にちょっと似ている気がするのである。不遜と思う方はどうぞ。でもそれが実感なのだ。そして同様に、薬物依存症の援助者が抱く喜びと、似た喜びを僕も持つような気がする。
 それは「よくしたい」という意思に伴う普遍的なものなんだと思う。
 教え子から教えてもらった(いいフレーズだ)松本俊彦先生の『薬物依存症』という本に次のような文章があった。

 これまで二〇年あまりにわたって薬物依存症臨床に携わってきて、私なりに強く感じていることがあります。それは、自分の目の前を実に多くの薬物依存症患者が通り過ぎていきましたが、そのうち、自分が助けることができたと実感できている患者がどのくらいいるのかというと、その数ははなはだ心細い限りである、ということです。薬物依存症者の支援とは、まさに「笊(ざる)で水をすくう」作業とよく似ています。
 その感覚はおそらく私だけのものではないはずです。薬物依存症の専門医も、刑務所や保護観察所のスタッフも、警察官や麻薬取締官も、そしてダルクの職員も、薬物依存症支援にかかわる援助者の多くが、何度となく「またか!?」「いい加減にしろよ」と内心舌打ちしたくなるような事態、すなわち、この「笊で水をすくう」かのごとき徒労感を経験しているはずです。こればかりはどうにもしようがないことです。おそらく薬物依存症支援とは、本質的にそもそもそのような仕事なのでしょう。
(松本俊彦『薬物依存症』ちくま新書、2018/P255-256)

 僕は薬物依存症支援の仕事に従事する者ではないけど、果たしてこれは「薬物依存症支援」の現場にのみ言えることだろうか、といえば、そうではない。かなりいろんな「現場」に対して言える。わかりやすいところでいえば、ケアとか教育とかに従事する人が味わいがちな「徒労感」も、かなり似たものだと思う。
 僕のいる「現場」にだって、同じようなことがたくさんある。最も身近なところだと家庭ってのは、そういう局面が非常に多い場だろうと思う。
 みんなそうだろう、と僕は言いたいのだ。それはもちろん「多かれ少なかれ」の話ではあるし、「見えやすいか見えにくいか」「感じやすいか感じにくいか」はそれぞれの現場次第だし、各人の認識にもよる。僕はたぶん最近けっこうそれが見えやすく感じやすい状態にあって、それでくたびれているのである。
 同時に、喜びについてはこうある。上記に続く部分。

 それでも、たとえば地方のダルク・フォーラムに講師として呼んでいただいたときに、何年か昔に少しだけ治療を担当し、その後、突然来院しなくなった元患者と再会することがあります。「どうしているのかな。逮捕されたか、死んでしまったかも……」と勝手に思い込んでいた元患者から、「先生、お久しぶりです。あのときはお世話になりました。いまはダルクの職員として頑張っています」と声をかけられたときのうれしさを想像できますでしょうか。目頭が熱くなり、思わず駆けよってハグしたいほどの感動が沸き起こります。そして、どうやら紆余曲折を経て何とかダルクにつながり、そこで職員として薬物依存症者の支援をしている現在の苦労話を聴いていると、「どこかに笊があって、うまくそこに引っかかってくれたのだな」と、素直に運命に感謝したくなります。
(同書P256)

 これはまともな教員だったら心当たりがあると思う。僕はとてもまともな教員なのでとても心当たりがある。「教員」という職業でなくとも、極めて広義の教育者として生きている人だったらきっと覚えがある。覚えがないなら、あまりいいやつじゃないんだろう。

 このような徒労感と喜びは、「人と関わって生きている人」であれば共通して感じうるものだと僕は信じる。人と関わって生きている人は、誰でも「極めて広義の教育者」で、それを意識しているかどうかで、徒労感や喜びを感じるかどうかが決まるのではないかな。僕は良くも悪くもめっちゃんこ意識してしまっているので、たぶん人一倍そういうものを強く感じている。

 人は、多かれ少なかれ「依存」を抱えている。だから、そういう人と関わりながら、「(相手や自分や世の中を)よくしよう」という意思を持って生きていると、「薬物依存症の援助者のような」徒労感や喜びを感じることがある。
 わかりやすくするため極端に言い換えれば、「人は誰だって依存症者なので、善なる意思を持って人と付き合うということは、薬物(アルコール含む)やギャンブルなどの依存症者を支えて生きていくことと構造的には非常に似ていて、そのときに生じる徒労感や喜びも、質的には似ているところがあるんじゃないか」ということ。
 で、僕は非常に善なる(と僕は思っている)気持ちのもと、かなり多くの人と付き合いを持っていて、かつ「世の中をよくしよう」という意思も強く持っているので、そういう徒労感や喜びが、体感的にけっこう多いのである。
 そんで僕はめっちゃくちゃくたびれているし、そして、めっちゃくちゃ喜んでいる。まったく何もしたくないような今も。


 この数週間、教え子(教員として勤めていた学校に通っていた生徒)がたくさん僕のお店を訪れてくれる。Aという学校の子も、Bという学校の子も。比較的よく会う子も、1年ぶりくらいの子も、10年ぶりに会った子も。そしてみんな少しずつ、あるいは劇的に、僕の目から見て「よくなって」いる。彼ら彼女らは、自分たちがよくなることによって、世の中をよくしていく。それはもちろん「教え子」に限らない。関わった全ての人について同様だ。

 誤解されては困るのだが、僕は世直しなど考えていない。急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしていない。(参考文献:映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』)
 ただ「悪くなる」よりは「よくなる」ほうがいいだろうと思っているだけ。
「よい」とはどういうことか、ということを、常に考えながら。
 なぜそう思い、そうするかといえば、大した理由はない。生きるにあたってとりあえずその方角に顔を向けているだけ。そのほうが自分が楽しく、気持ちよく生きていけると思うから。
 世の中が悪くなるよりも、よくなるほうが、自分は生きやすいと思う。もちろん、「自分にとって」よくなる、ということでしかないから、これは単なる戦争、もしくは革命である。ひっそりやってる。
 死ぬまでの時間をどう使うか、という答えとしては、別に悪くはないと思ってやってる。


 そうした体験を重ねるなかで、あるとき私の頭のなかで一つの考えが閃きました。それは、こういうものですーー誰が支援しても「笊で水をすくう」感じだとすれば、いっそのことその「笊」を何枚も重ねて「多重構造の笊」を作ったらどうだろうか。そうすれば、漏れ出る水は少なくなり、笊の目の上に残る水は多くなるのではないか。
(同書P256)

 僕はけっこう殊勝な、立派なことを考えている。そういう人が日本にたとえば五万人くらいいたら、「多重構造の笊(ざる)」は「網」くらいになる。五百万人いれば、布くらいになるんじゃないでしょうか。そんで誰かを温めうるんじゃないでしょうか。ああえらい、えらい。えらいえらいですよ。えらいえらい(名古屋弁で「とても・くたびれた」の意味)。

2020.11.18(水) 犬ショー

 最近本とか読んでていろいろなことが疎かになっている。やることはいくらでもあるんだけど、今はなんか本とか読みたい。
 たまに「どのくらい本読むんですか?」とたずねられるけど、常に何かしら手元にあって読み進めていて、それが5冊くらい同時にあるし、バックグラウンドでは500冊くらい同時にある。そのうち480冊くらいはたぶん一年以上開かれることがない。300冊はきっと永遠に開かれない。最後まで読み通されるのは50冊くらいで、うち速読や流し読みが40冊くらい。そしてバックグラウンドを含めた「手元の本」は常に増え続け、またいつの間にか減っている(忘れているとも言う)。だから、どう答えていいのかわからない。
 最近読んで面白かった本とかためになった本、それによって考えたことなどはたくさんあるが、いちいち書いていると大変だし、一冊の名を出せばほかの499冊がどこかに行ってしまうような気がしてなんとなく黙っていたくなる。
 その日の食事をわざわざ書かないし、行った喫茶店もわざわざ書かない。もし書けば、その喫茶店以外が消え失せてしまう気さえする。
 誰と喋ったとか、何を見たのかも書かない。
 ただその中からたまに選んで、楽しいことを書く。
 全部同じにしておきたいのだろう。

2020.11.17(火) 返報性否定人間

 最近あんまりご陽気な感じのことを書けていない。論理性と詩情のバランスはなんとなく気に入ってきたから次はもうちょっとユーモラスに寄せるふうに努めてみよう。下手にやるとスベルので気をつけながら。ちょっとずつ。そのうち心がけ始めます。

 返報性というのは、「他人から何かをしてもらったとき、お返しをしなければと思ってしまう」という心のしくみのこと。できるだけこれを働かせたくない。人から何かをしてもらっても、お返しをしよう、とは思わないようにしている。
「得をさせてもらった」からと言って、「同じだけの得をさせてあげよう」と自動的に考えてしまうのは、おかしい。
 それによって相手のことが好きになったとしたら、その「好き」という気持ちだけ大切に蓄えておけば良いのではないか。
 べつに相手のことを好きにならなかったとしたら、べつにそのまま何もしなくていいんじゃないか。
 好きな相手には良いことをするし、そうでない相手には積極的に良き働きかけはしない。それで良いのではないか。

 誰かに何かをしてもらった時、「自分が得をする」ということと、「それによってその人のことを好きになる」ということは別。「得をした」は「得をした」で独立している。そうでなければ、「お金をくれる人を好きになる」という身も蓋もない状況を肯定することになる。
 僕なんかお店をやっていますが、「たくさんお金を払ってもらうほどその人のことを好きになる」なんてことをしたら、夜学バーという名店(!)の「名」は一瞬にして地に落ちます。百歩譲って多少は好きになってしまったとしても、それを行動に出したら終わり。簡単な例を出せば、「たくさんお金を払うお客が、あんまりお金を払わないお客を不快にさせるという状況を許す」ことになってしまう。
 払うお金の多寡に関わらず、いやな人には「だめです」と言い、いい人には「やったね!」と言う。別々のことである。それでいいのだ。

 目には目を、歯には歯を、というのは野蛮だと思う。同じように、金には金を、プレゼントにはプレゼントを、というのも同様に野蛮なのだ。それは「天秤」の考え方だから。(2017年2月2日の日記参照。)
「これだけのことをしてもらったのだから、これだけのことを返す」というのは、野蛮な平等主義であって、そういうのは間違っている、と僕にははっきりわかっている。

 僕のよく言う「バランス」というのは、「つりあっている」という平等状態を指すのではなくて、「美しい配置である」というくらいの意味。さまざまな(時に無数の)傾きが同時にあって、全体としてそれが美しい、ということ。
 みんなは「釣り合う(差し引きがゼロである)」という状態ばかりをイメージしたがる。本当に差し引きが好きだね。差し引きってのは客観的なもので、量的で、責任がないもんね。自分で「選ぶ」ということがいらないもんね。「美しい」というのは個人的で、質的で、すべて自分にかかってくる。「選ぶ」ということが必要になる。だからしんどくて、みんなやらない。
 返報性を野放図に働かせるのも、楽だから。差し引きだけを考えれば、自動的に人間関係が成り立っていくから。でもそれで形成される「関係」って、「美しさを選ぶ」ことができないような関係だから、僕は嫌なんですね。
 天秤なんて、それぞれだからつまんない。同じテーブルの上で、なんかやろうよ? それが仲良しってもんのはじまりなんですからね。ただそんだけの話なの。

2020.11.16(月) 夏の終わり

14
麦藁帽子がもう
どんな夏のイメージも喚起しないことに
気づいていない大人が多すぎる
(谷川俊太郎「少年Aの散歩」『メランコリーの川下り』より)

 起きているのはすべてこういうことだ。みんな気づいていないようだが、麦藁帽子みたいなものは本当にたくさんある。昨日の記事でいえばお金と性、見た目。そして数値化のできるおおよそ何もかも。もう「喚起しない」のだ。それに気づいている人たちがちゃんといる。

 どんどん新しくなっていく。たとえば気候変動という問題があるとして、それを「食い止めたい」と思ってしまったら、自ずと選ぶ道は決まってくる。だけど古いままの人たちはなぜか「それ」を選べない。選び方を知らないのだろう。選んだことがないのだから。
 選んだことのない人たちと、選ぶことに慣れた人たちがいる。(「遊ぶ」と言い換えたってよい。)
 たぶんそんだけのこと。麦藁帽子のことに気づいていないというのは、「麦藁帽子とはこういうものだ」という、最初に知らされた内容を永遠に抱きしめているということ。選んだことがないから、新しいことを手にできない。
 そのせいでみんな足踏みをしている。よくわからないことをずっと言ってる。「自ずと明らか」であるようなことが目の前を通り過ぎても、それを掴み取ることができない。

 どうすればいいのかというと選ぶしかないし選ぶことに慣れるしかない。しかしみんなは自主的にそんなことはしない。したことがないのだからその発想さえない。文句ばっかり言う割に一向に「選ぶ」ということをしないから、これこの通り膠着している、というのが現代社会のあらましだと思う。
 僕は別に「みんなでちょっとでも良くしていこうよ!」と言いたいばかりではない。それもあるけど、それ以上に、「まあそういうことなんで、せいぜいフンワカいきましょう」って感じ。

2020.11.15(日) お金と性はもう終わり

「お金と性(sex)はオワコン」って僕はもうずっと言ってます。
「オワコン」ってのは「終わったコンテンツ」という意味で、「旬が終わった」というくらいのニュアンスでも使われます。
 お金が「コンテンツとして」終わった、っていうのは、お金はもう意味がないよね、もう要らないよね、ぶっちゃけもう機能してないよね、といった意味ではなくて。違いまして。むしろ逆。「お金について幻想を抱くのはもうやめて、機能をしっかり見つめましょうよ、もうそういう時期ですよ」ということ。
 お金は多ければ多いほどいい、という価値観はもうやめよーぜ。何をするのにどのくらいのお金が本当に必要なのか、ということを冷静に考えましょうぜ、と。さらに言えば、僕たちがお金を使ってすべきことは何なのか、別にお金を使ってまでしなくてもいいことが、けっこういっぱいあんじゃないか、と。
 年収いくらです、とか、いくら儲けました、とか、そんなんじゃお金にならないよ、とかってのは、「お金をコンテンツ(それ自体に意味のあるもの)だと思っている人」の戯言です。
 お店をやっていますと、年配の方から、「でも、それじゃ儲けになんないだろう」というようなことを言われることが多いです。人生の先輩として僕のやり方を心配してくださっているのでしょう、しかしその前に問うべきことがあるはず。たとえば僕がこのお店を通じてどのくらい儲ける必要があるのか、それは達成できそうなのか、といったこと。
「それじゃ儲けになんないだろう」という言葉には、「儲かれば儲かるほどいい」という価値観が含まれている、と僕は感じます。「もっと儲けなきゃダメだよ」と。「お金をコンテンツ(それ自体に意味のあるもの)だと思っている人」は、そりゃそう言うでしょう。でも僕はそう思わないので、「はあ」です。
 僕は僕なりにお金の機能というものを考えて、その結果いまこういうことをしているので、僕のその拙い「機能」観についてアドバイスをくださるならありがたい。しかし「もっと数量を増やしなさいよ」と言われても、「はあ」なのだ。

 かりに僕の資産が10億あったら、誰も「もっと儲けなさいよ」と言わないと思う。10億あるかもしんないじゃん。なんでそこを確かめないんだろう。
 1円もプラスを出す必要がないなら、儲かるようなお店をやんなくたっていい。それは誰にでもわかることなのに、「儲かんないでしょ」とまず来るのは、「お金をコンテンツだと思ってる」からです。
 僕に資産が10億なくても、貯金が500万円くらいあって、持ち家もあって、とりあえず健康で、年金も払ってるんなら、別にそんなに儲かるお店を作らなくても良くないですか? 利益が月に15万円で、確定申告の結果は非課税で、住民税とか超安くなって、ってのを一生続けるつもりなら、成立するじゃんね。たとえばの話ね。
 子供だって育てられると思うよ。本当はどのくらいお金が必要なのか、ってのをちゃんと考えて、自分が本当はどのくらい「資産」を持っているのか、ということに対してわかっていれば。
 たとえば、僕は当面クラウドファンディングなんかやる気ないけど、子供が私立大学行きたいと言ってて、でも現金ないや、と思ったら、やるかも知んないね。で、ちゃんと集まる気がする。「ジャッキーさんの子供を大学にやるためなら、10万くらいなら出すよ」って人、それなりにいるかもしれない。そういう資産はそれなりにある(はず)。
「ジャッキーの子供はよお、俺が大学に行かせたんだよお」って言える人が何十人とかいるの、それなりに面白い。本当にやったら、その際はよろしくです。

 お金ってのは、わらしべから変化しうる色々なものたちのたった一つでしかなくて、「唯一の指標」ではない。英語だけが言語じゃないのと同じ。ほんとに。

 性もそうで。セックスはオワコン。まだセックスとか言ってんの? 古っ! ださっ! って思う。別に性行為をすべきでないとか、することがダサいってんじゃないよ。素晴らしいですよ。ただ本当に、それはもう「コンテンツ(それ自体に意味があるもの)」ではない。
 いっぱいしたから偉いとか、とにかくやりたいとか、性的な作品に惹かれるとか、性自認とかそっち系のことも含めて、それ自体はもうどうだっていいんだよ。
 見つめるべきは「機能」。どのように働き、それがなんの意味を生み出すか、ってのは時によって変わる。定まった単一の意味などない。いいですか、そうなんですよ、かつてみなさんは、「セックスには定まった単一の意味がある」と思い込んでいたのですよ。その考え方、価値観を古い! と僕は言いたいのです。
 まだセックスで消耗してんの? って、本気で思ってますからね。新しく書かれた小説とかにセックスシーンがあって、それがまさしく旧態依然とした描写だったりすると、「えっ、まだセックスそれ自体に意味があると思ってんの?」ってビックリしちゃう。
「相対化」って言うんですか? そういうことを性に対して、もっとちゃんとしないと。「性ってのはこういうもんだ! こういうふうに大事で、こういうふうに人間の核心にあるものなんだ!」っていうのは、前時代的な思い込みにすぎません。
 これからは「機能」の時代です。機能ってのは、その都度違った意味を生み出すものです。
 意味はもう固定されません。流転します。機能がそれを動かすのです。

 それは「見た目」とかでも、たいてい全部そうで、みなさんが後生大事に思ってきたものたちはことごとく終わっています。でもそれをあんまり言うと戦争なので、とりあえずはこのへんにしておきます。

2020.11.11(水) 11ぴきのねこの日

 今日は11月11日で、ワンワンワンワンってことで、犬っぽいから逆に猫の服を着ていこうと思って「11ぴきのねこ」のTシャツを選んだら、「11」月「11」日だから断然こっちじゃん! ってなって、にこにこ過ごした。
 そしたら次の日に会った友達が(急に未来日記)11ぴきのねこのかばんを持っていて、ああ、友達! ってすごく思った。このまま次の日の話を続けます。
 また別の友達とそのあと会ったんだけど、同じものを見て似たようなことを言うような場面がけっこうあって、安心した。「僕ね、これ好き」「あ僕も好き」「でもこれはちょっと、ヤ」「わかる僕も」

 核心は「同じ」であるっていうところにはない。「差し引き」ではない、というところにある。また、わかりにくい話が始まる。
「これだけのことをしてもらったから、これだけのことを返そう」とか、「このくらい悪いことをしてしまった気がするから、これくらい謝っておこう」とかいうのは、差し引きの考え方。同値を目指す。平等を目指す。対等を目指す。
 しかし対等ってのは「互いが対等であると仮定するところから始まる」のであって、「目指す」ものではない。(参考:2019/08/12

「ごめんね、」は完結していて、しかも先へ続いていく。これは別に「ごめんなさい、」でも同じ。
「すみませんでした。」「申し訳ございませんでした。」は、完結していて、過去形で、そこに留まる。
 前者のような謝り方(言葉選びだけの問題ではなく)は、彼らの仲を先へ繋げていく。
 後者のような謝り方は、その場で差し引きをして、そこで終わる。
 このニュアンス、わかりにくいと思うけど……。
 たぶん友達っていうのは基本的に前者型なの。
 ごめんね、どうしよう? ごめんなさい、これからやるね。

「あなたに迷惑をかけました、負担をかけました、そのことを謝罪いたします」という宣言に終わるのでは、もうそれは「友達ではない」ことの表明を兼ねている。
 なぜならその目線は「自分の目線」でしかないから。「ぼくたち」じゃないから。
「一対一の関係」であって、「ふたりの関係(ふたりという関係)」じゃない。
 そう差し引きというのは、「一対一」が前提なんですな。
 A氏の持ち分と、B氏の持ち分があって、そっから差し引きする。
 そうじゃなくて。「ぼくら」というものが、時に応じて変形していくだけなんだよ。
 友達というのはね。

「あなたに迷惑をかけた」「わたしはそれについて謝る」
 これが、差し引き。一対一。分離してる状態。
 友達ってのは「達(ダチ)」ってだけあって、つまり「おれら」なんだ。
 取引じゃない。「ふたり」という単位でものを考えるのが、友達ってものなのだ。「さんにん」でも「よにん」でもいい。
 それって実は結婚とかだってそうなんだけどね。
 だから本当は友達も恋人も結婚もなんだって同じなんだと思う。
 目が四つになって、口が二つになるってだけ。

『11ぴきのねこ』という絵本について考えてみると、あれはもう、11ぴき(まあ、とらねこ大将を除いた10ぴきと言ったほうが正確かもしれないけど)が、どう考えても「ぼくたち」だもんね。全員で「われわれ」なんだもんね。それでいて、意外とみんなてんでばらばらに遊んだりもしている。
 あれは友達とか、仲良しってことでいいと思う。

 すごく難しいことなんだけど、「ごめんね、」という言葉が、友達の間で成立するためには、その人たちが一緒にその言葉を見つめて、その先を一緒に作っていかなきゃいけないんだな。
 どっちかがどっちかに、えいや、って投げつけるようなものじゃないんだな。
 そうするくらいなら、何も言わずにいた方がいいのかもしれないよ。
 独りよがりに終わってしまうより、ゆっくりやったほうが自然なことも多い。

 いやほんと、「ありがとう」っていい言葉です。

2020.11.10(火) 仲良しの参考文献

 忙しい! から更新が絶えだえ! でもがんばります、おたよりお待ちしています!!(返信先が明記されていたら晒したり日記でお返事したりしませんよ。)
 お礼だとかお返事だとか、いろんなことが遅れています。こちらもがんばります。

 高校時代の恩師と連絡を取りあったり、15年くらい前からの友達と今さら仲が深まったり、11年会っていない生徒がお店に来てくれたり、僕の人生のテーマである「再会」ということを考えると非常に充実した毎日。12年前の生徒で、けっこうずっと仲良くしている子が相変わらず仲良くしてくれていたり、3〜4年前の生徒が最近成人してお店に来てがぶがぶ飲んでくれたり。まあほんと自分は幸せだと思います。

 なにか重要なことを書くためにエディタを開いたのに何を書こうとしていたか忘れた。もう、こういうことばっかりだ。「そんなこと誰にだってあるよ」なんて慰められるパターンはほんとにやだ! 3日に一度くらいある人と、毎日百回くらいある人とじゃ、大変さはきっと違うでしょ?
 なんか、「誰にでもある」ことを問題にしたがる人は、その頻度や程度を度外視するよね。やあよねえ。
 そういうところで「あたまがわるい」みたいなことはバレてしまうのでごわす。
 と、書いたところで思い出した。『蓮と刀』のことだ。

 最近僕は「仲良しの発想」というフレーズを頻繁に使って、何かを語ろうとしている。仲良くするとはどういうことか、については、橋本治さんの『ぼくたちの近代史』および『蓮と刀』に実はだいたい書き込まれている。両書のタイトルを「過去ログ」ページの検索窓に入れてみると、名文美文がざっくざく。ぜひおためしください。古いのは恥ずかしいから新しめのをね。

『蓮と刀』については2016/06/29をこないだたまたま見つけて読んだ。いい文章だった。
「感動しない人を探して」ってあるけど、感動しない人はちゃんといる。4年前にはまだ自信がなかったみたいだけど、今なら胸を張って言えるな。感動しない、目の濁りきってないままずっと生きていく人は、絶対にいる。
 そういう人はなぜか、たぶん永遠にこの人はそうなんだなって思わせてくれる。楳図かずお先生なんか本当にいい例で、希望だ。そういう人たちと永遠に仲良くしていくことだって、絶対にできるし、できると思って生きていきたい。

『ぼくたちの近代史』に関しては、例えば2015/04/14(庚申)とか。これはまだ読み返してないけど、引用部長いので参考になるかも。

 長い文章なんか読めない、だるい、って人はこれでも聴いてください。本当に。お願いだから。

2020.11.5(木) いい子のはしご

 ふっと立ち寄った近所のお店で説教をくらう。まだ慣れないが、余程嫌だということはない。何を言われても自分は自分の信念でやっている。彼や彼女にも自身の信念がある。それをいきなり押し付けられるのは面倒だが、加齢とともに起きやすくなるバグなのだろう。
 お説教の中には、自分のためになることだってちゃんとある。聞くべき持論もある。「僕の話は聞かないだろうし、聞いても理解はすまいな」と思いながら、酔ったママさんの話にひたすらうなずく。美味しい料理をつまみ、キープしてあるボトルからお酒を注いでソーダで割る。
 良い店なのだ。みんな彼女の人格に惹かれてやってくる。客層は主に30代前後の男性と、50代くらいまでの女性たち。50を過ぎた男性は見かけず、多分ごく少ないだろう。老人は嫌いだ、話が長いから、とのこと。ここのママもたいがいなんだけど。
 ともあれ上手く「客層」をコントロールしている、ということだ。初めからそうできていたわけではなく、いろいろやっているうちにそうなったのだという。そうする方が楽だし、そうでなければやっている楽しみがない、ということでもあるだろう。ただ儲けようとだけ考えたら別の力学があるんだろうが、彼女は別にたくさんのお金が必要な立場ではない。それでも「このお店も潰れそう」と今日は何度か言っていた。さすがにお客の戻らない状況が一年近く続くと、そう思いたくもなるらしい。半年前ならまだ笑っていられても。

 そのすぐ近くに、2年くらい前に高校の先生だった人が早期退職して開いたバーがある。ここは元々経営的にふるわないお店で、どう見てもそれはまず第一にテナント選びの失敗なのだが、今年の春からは幾重にも輪をかけて厳しそうだ。いつ辞めようかを常に思案し続けているような状態で、やけっぱちのように営業している。安いし店主も人がいいので僕は大変気に入っているのだが、お店を一つの「場」として捉えている感じはなく、人と人との線的な繋がりしか存在できないような作り方をしているから、相当通わないとここで顔馴染みはできなかろうなという気配がある。(ディスっているのではなくて、飲み屋というのは基本的にそういうもんである。)ほとんど喋ることもなくハイボールを一杯だけ飲んでお店を出た。

 もう少し戻ったところに60代くらいの夫婦がやっているバーがあって、長いカウンターの手前にママさん、奥の方にパパさん(そう呼ばれている)というのが定位置。ここも安いしご夫婦も人がいいのでちょこちょこ行っている。「安い」「人がいい」だけで行くには足るのである。おしゃれめな内装で洋酒が揃っていてコーヒーも出る、雰囲気のあるバーで、20代から40代くらいの若いお客が多いのだが、なぜかほとんどホワイトカラーがいないらしい。職業を聞かれたので「ライター」と答え、仕事内容を説明したら、「つまりコンピュータを使う仕事ね」と変換され、以来そのように紹介されることもしばしば。
 そう、紹介。このお店は「紹介」というシステム(?)がある。ママさんとパパさんはお客さんの職業やパーソナリティをよく把握していて、「この人はね、こういう仕事をやっているのよ」という具合に紹介してくれるのだ。お店のLINEグループも存在し、よく飲み会やイベントごとも行っている。「ママさん」「パパさん」という呼称にも表れているように、ここは疑似家族のようなお店なのである。

 いずれのお店も、僕にとって「居心地」は必ずしもよくはない。むしろ座りが悪いと言っていい。でもたびたび足を向ける。なぜ行くのかといえば、そこに酒があるから、ではなくて、そこにいる人と空間に興味があるから。自分とは全然違う考え方やバックグラウンドを持つ人たちばかりがいる。そもそも店主たちがそうだ。だからこそ、居心地は別によくないこともある。説教されたり存在を軽視されたらはっきりと嫌な気分になる。
 だけど勉強になる。そういう空間で自分がどう扱われるのか、どう振る舞えばどうなるのか、なんてことも面白い。異質なのである。

 快か不快か、でいうところの、不快を恐れているとまずい。不快を恐れて、確実な快楽を求めるのならば、キャバクラだかガールズバーに行った方がいいに決まっている。しかしそういったお店はお金がかかる。ない袖は振れない。それに「快楽」がまず間違いなくやってくるということは、打ったボールが常に取りやすいところに返ってくるということ。楽だし、それはそれで気持ちが良いはずだから、それでいいと思ってしまったらそれでいい。だけどあんまり上手にならない。僕は上手になりたいのだ。
 そのためにちょっとした説教さえ受け入れるあたり、意外とスポ根なのかもしれない。

2020.11.4(水) 続・匿名の距離感

 「あ」さんからさらにメッセージが2通届きました。よーし、徐々に「関係」が見えてきたぞー。こういうことだぞー。ちなみに僕は前回のメッセージを「不快」に思ったわけではありません。その辺りが僕のよく誤解されるところです。精進します。最初のメッセージが来たこと自体は嬉しかったですし、二通目、三通目はもっと嬉しかったです。おかげさまで「あ」さんが「あ」さんとして僕の前に存在し始めた気がします。
 最初のメッセージの段階では、こちらからは「そちら」がほぼ見えませんでしたので、何かを言った場合、どういうふうに受け取られるか、という想像もできませんでした。それでも僕は頂いた言葉に対しては何かを言いたくなります。それが今回は「手厳しいお叱り」として伝わったようです。べつにその受け取り方が間違っているとか嫌だとかいうのではないのです。ただ、そう伝わったのは「たまたま」です。
 同じ文章でも、もしかしたら「口汚い罵り」として伝わるかもしれないし、「愛のある説教」かもしれないし、「手厳しいお叱り」かもしれない。「ストレス解消の捌け口にされた」かもしれないし、「持論を展開するためのダシにされた」かもしれない。どう伝わるかは「そちら」の受け取り方次第で、「そちら」が匿名(こちらからほぼ見えていない状態)である限りは、こちらでは事前に予想できません。
 もし、友達であったり、こちらからなんとなく「そちら」が見えていて、「関係」の見当が少しでもついていたら、「こういうふうに伝えたい」という方針が立てられます。今回はそれが難しかったので、暗闇に向かって石を投げるような文章になってしまいました。
 その暗闇の向こうに、傷つき得る「人間」がいることはわかっていたのですが、先に暗闇から石を投げてきたのは「そちら」なので、こちらも闇雲に投げ返してしまった、という感じです。大人げないことです。もうちょっと優しいイメージの文章を書くべきだったと反省していますが、「無理して優しくしない」と宣言したばかりということもあって、つい「手厳しい」感じになってしまいました。うーんでも、「無理しない」と「慎重にやる」を両立させられなかった感はあったかも、ここはちょっと僕が悪かったです。暗闇に石を投げるなら、さらに神経を研ぎ澄ませたってよかった。

 でも言い訳をさせてほしい、闇の向こうにいるその相手は、いったい僕と仲良くなりたいんだかそうでもないんだか、わからなかったのだ。これまで(この誕生日を迎えるより以前)の僕だったら、「仲良くなりたいと思ってくれている人かもしれないし、仲良くなれるかもしれない」という仮定をまずして、その仮定に従ってごくごく優しい文章を書いたかもしれない。でも、それはもう無理なのだ。それをこれ以上徹底させていたら、本当に死んでしまう。信じてもらえないかもしれないけど僕はそのくらい過剰に優しかったのだ。

 僕は僕の美学に従う限り、「その石の投げ方は当たったら痛いよ」と思わざるを得ない。石をくれるなら手渡しか、差出人を明記して郵送してもらうか、のほうが安心だし非礼でない。相手は良かれと思って石を投げたのかもしれないし、文面からして悪意のある感じではなかった。が、僕はもう石に怯える普通の人だから、「怖いです」と正直に表明します。(これは「不快」と同義ではありません。)
「あ」さんに言いたいことは、「僕たちが仲良くなれるかどうかを一緒にゆっくり確かめましょう」という一言に尽きます。「仲良くなりましょう」ではありませんし、「仲良くなりたい」でもまだありません。あまりにも僕には「そちら」が見えていないし、「そちら」も僕のことはインターネットを通じてしか(おそらく)知らないのでしょう。それでも、もしもこの先何らかのやりとりを(何十年かけてでも)積み重ねていけるのならば、「確かめる」ということはゆっくりとやっていけるはず。よろしければぜひ、お願いします。

 しかし、昨日の文章は「あ」さんのために書いたわけではありません。その他の、匿名でモノやメッセージをくれた方々も例にしか過ぎません。「匿名」というのが何なのか、考えてみた結果です。僕の散歩の「ダシ」になったということです。
 ダシにされた方々にとって、僕の書き方はあまり優しくなかったかもしれない。だけど、これまで優しくやってきて思ったのは、「初手で優しくされると、永遠につけ上がり続ける人がいる」ということ。僕はなんとなく、女の子たちの気持ちがわかってきた。こういう気分で常に生きているのだなと。優しくしたら、つけ上がるじゃん、男って。で、もちろん女もつけ上がる。
 だからあんまり優しくしたくない。もう嫌なんだ、「友達になれるかも!」って思ったら、ただ搾取されるだけってのが。それは僕が間違っていた。「友達になれるかも」という欲の出し方は、だめ。逆手に取られちゃうから。いつの間にか友達になっていた、のでなければ。
「友達になりたいなー」と思いながら、清く生きて、そのうちに友達になれてたらワーイだし、そうじゃなかったらそういうもんだと思うだけ。こちらに清さが足りなかったか、向こうが清くなかったってこと。「清い」なんてものの喩えの言葉ですよ、もちろん。
 
 とよ田みのる先生の名作漫画『友達100人できるかな』に、「友達には優しくするものじゃ」という素晴らしいセリフがある。どう素晴らしいかはぜひ読んでください、全5巻、夜学バーに置いてあります。友達には優しくするものだけど、友達になりたいという下心から優しくしてしまうと、それは順序が逆ってもんで、相手がもし悪い人だったら利用されて搾り取られる。無条件に優しくするのは友達になってから。
 よーしじゃあ厳しくしよう! ってことじゃなくて、フラットにいることでしょうね。優しくもなく厳しくもなく、自然にしていること。僕が「無理しない」って言ってるのは多分そういうことで、自然にやってて結果的に優しくできてりゃそれはそれでいい。「ここは優しくしとくか」ってわざわざやるのは、あんまり良い結果を生まない。

 話題は「仲良しの発想」なのであった。差出人不明のファンレターに対しては「仲良しの発想」を持つことができない。返信する術がなければ「一方的」にしかならない。「一方的」は「仲良し」の対局にある。「一方的」は矢を飛ばしたり石を投げたりするようなことで、それをお互いにやったところで「双方向的」にしかならない。これも「仲良し」とはまだ遠い。仲良しとは一緒にニャーニャーと鳴いてキャッキャ笑ったりするようなことである。もちろんインターネットででもできる。

2020.11.3(火) 匿名の距離感

 メールフォームからこんなお便りが届きました。「あ」というお名前で、特に具体的なプロフィールもなかったので無記名(匿名)と同等として勝手にフリー素材として転載させていただきます。(うちのメールフォームは名前を入れないと送れないので、とにかくなんでもいいから入れてみたのだと推察しました。)

「仲良しの発想」というのが、曖昧すぎてわかりません
理解してみたいのですが……
これは「仲良しの発想」だが、これは違う、という言い方ではなく、「仲良しの発想」とはこうである、と説明することは難しいのでしょうか

「曖昧すぎて」とはなんと。僕は具体的に書いているつもりなのですが〜。しかしわかりにくい、ストンと胃の腑には落ちづらい話なのは誰にとってもそうだろうと思うので、これからじっくり時間をかけて表現していくつもりですのでよろしければ引き続き。でもまず、今現在このトップページ(本記事を除く↓の部分)には「仲良し」という語が36個ありますので、その周辺をぜひ熟読してください。また、過去ログページの検索ボックスで「仲良し」とか「“仲良しの発想“」とかやってみると、それなりに面白い話が出てくるかと存じます。


 ところで↑のお便りは、まるで「質問箱」(そういうWebサービスがあります)ですね。匿名で、質問で、文字の分量や文体もそれっぽい。最近のトレンドなのかな。


 先日、お誕生日の前日に、ダンボールいっぱいの贈り物が匿名で届きました。当日にも、お店の郵便ボックスにやはり匿名の贈り物がありました。さらに自転車に乗って帰ろうとしたら、「誕生日おめでとう」とタメ口で(!)書かれたタグがハンドルに結びつけてあって、さすがに戦慄しました。
 その匿名の三者は、いずれも正体が判明しており、すべて別々の人物でした。Twitterで呼びかけたら名乗り出てくださったのです。ある特定の人物にストーカーされている、という感じではなくて、皆それぞれの動機でやってくれただけ。
 また、メールフォームからドリカムのハッピーバースデー的な曲の動画だけを送ってくださった方もいましたが、これも匿名(「おめでとうー」という名前)でした。どんな人物だか皆目わかりません。

 いったい、どうしてみんな匿名なのだろう? 流行ってるの? 質問箱みたいな感覚がみんな、あまりに当たり前になっちゃってんの?
「質問箱」は、「質問を受け付ける人」が設置するもので、「匿名で質問できます」というのがウリ。だけどうちのメールフォームは、「おなまえ」が必須なのですぞ。匿名のコミュニケーションは前提としておりません。苦し紛れに「あ」とか「おめでとうー」とされましても、「え、誰」ということにしかなりません。
 別に本名を書く必要はなくて、「ウサギちゃん3号」とかでもいいんですよ。だけど、その際は「初めまして」なわけだから、「自分との距離感を相手に判断してもらうための材料を提出する」ことが、絶対に要るよ。(なーんでそんなことがわかんないの?)
 そういう人は、そりゃ「仲良しの発想」なんてことはわからないし、「もっと(私に)わかるように説明してください」という意味のことを言ってくるですね。

「自分との距離感を相手に判断してもらうための材料を提出する」とは、たとえば、「ジャッキーさん、はじめまして。いつも日記を読んでいます。3年くらい前に《タモリ 惑星流し 楠美津香》と検索してたどり着きました。愛媛に住んでおりお会いしたことはありませんが、(以下略)」みたいな感じ。こうなると僕のほうは「おー、タモリさんと美津香さんがきっかけとは嬉しいな。検索して読者になってくれるなんてインターネットはやっぱりすごい。愛媛は確かに遠いけど国内だし、もしいい人だったらいずれお会いしてみたいなあ」くらいに思うわけです。
 人と人との関係ってそういうふうなもんだと僕は思ってるんですよ。名前よりも大切なこと。対面してるんなら必ずしも言葉にしなくてもいいけど、お手紙ってのは表情も雰囲気も伝えられないから、やっぱりそういう手続きが必要なんじゃないの? だって気味が悪いよ。手書きですらないんだし。
 もちろんね、言葉で情報を言われたところで、それが本当だっていう保証はどこにもない。嘘かもしれない。でもそれがインターネットだってところもある。「私はこういう存在としてあなたの前に現れました、その前提で関係を育みましょう」ということで、別にいいと思う。20年前、「男」として知り合った友達が実は「女」だった、ってことがあったけど、その「嘘」を嫌だと思ったことなんて一つもなかった。だってそれ以前に僕らはとても仲良しだったから。それでいいんだもん。ええ、性別が逆でも同じだったと思います。「仲良し」だったら。


「仲良しの発想」とはこうである、ということをダイレクトに説明してほしい、というようなことなので、試みに試みてみましょう。「お互いの間にある関係(=距離(感))を一緒に作り上げていこうとする発想」ですね。不足でしょうか? 「あ」さん。
 ちなみに僕には「あ」という名前の友達がいます。「あくん」と呼んでいます。たまに冗談で、「おい、あ!」とか言うこともあります。出会ったのがmixiで、あるとき名前を「あ」にしていたからです。だから「あ」という名前を「こんなもん名前じゃない!」と断ずるつもりはありません。しかし、「距離感を判断するための材料」を一切頂いていない状態では、どうしても名前とは思えないです。「おめでとうー」さんも同様です。
 その態度は、仲良しの発想ではない。仲良しの発想とは、「仲良くなりたい」という想いから生まれます。「あ」さんの今回のお便りには、その想いが感じられません。たぶん、あったとしても込めてないでしょう。込めようという発想がないでしょう。
 もし「仲良くなりたい」と思うなら、「関係」というものの存在をまず立ち上がらせなければならない。「私たちの間には『関係」というものがある」ということを前提にして接しなければならない。件のお便りにはそれがありません。僕だったらこう書きます。

ジャッキーさんこんにちは。私はジャッキーさんとは何度も会ったことがあって、お店にもお邪魔していますが、思うところがあるため、ここでは名前を伏せさせてください。申し訳ありません。
最近の日記によく登場する「仲良しの発想」という言葉ですが、関連する文章を何度読んでも、私には曖昧にしか理解できず、わからないというのが正直なところです。でも、この「仲良しの発想」というのが、自分にとって必要なものなのかもしれない、という気持ちはあって、もっと深く理解したいと思っています。今のところ「これは仲良しの発想で、これは違う」という、具体例を挙げた説明はかなり詳しくしてくださっていますが、「仲良しの発想とはつまりこういうことである」といった、定義というか、もっとストレートな表現で読むことができたら、私にももうちょっとわかりやすいかもしれません。もしお時間に余裕があって、「そんなのお茶の子さいさいさ」という感じで、簡単にできるようでしたら、いつか日記に書いていただけると嬉しいです。
 私が何者であるか、というのは明かさないでおきたいのですが、もしこのメールでの私の説明が不十分で、結局何を説明すればよいのか、ということがわからない時のために、あるいは日記よりも直接伝えた方が都合がよい、といった場合のために、新たにメールアドレスを作りましたので、こちらにご連絡いただければ幸いです。ひとまず今年いっぱいは毎日チェックしようと思います。(来年までご連絡がなければ、アドレスを削除する予定です。)

 わかりますかー。こうすればいいんじゃないですかー。もしも、「あ」さんが僕の知り合いで、そうと知られず匿名で質問をしたいのであれば、これまでの関係とは別の「関係」を作り上げればそれでいいんですよ。
 あるいは、もしかして、「質問」や「要望」ってのは無条件でぶん投げていいもんだと思っていますか? メールフォームがあるんだから、そこから何を投げつけられても文句は言えないよね、とでも考えていますか。それが「仲良しの発想」にほど遠いものであるということくらいは、わかると思います。
 別に僕は、メールフォームを質問箱みたいに勝手に使われても、ゴミ箱みたいに汚い言葉を投げ込まれても、そういう人がいるのは仕方ないと泣きながら諦めますよ。その中に一つでも宝があればと思って、窓口を設け続けているので。でも、もしも「仲良しの発想」という僕が勝手に唱えている概念に興味があって、それを理解したいとか実践したいと思って下さるのであれば、いつだって「仲良し」ということを意識していていただきたいものです。せめて僕にメッセージ送る時くらい、「仲良し」ってことを考えてほしいよ。でなきゃ「わかる」なんて状況は訪れませんよ。

 匿名のプレゼントやメッセージをくださった方、皆さんに告げているつもりです。匿名というのは普通、「そこに関係が存在することを拒絶する」ということです。それは原則、無礼なことです。逆に、「関係」さえあれば、名前が「あ」だってなんだって、特に名乗りもしなくたって、そこに「仲良し」は育ちます。僕はお店やってても、滅多にお客の名前を聞きません。「関係」さえあれば仲良くできると思うからです。
 もし名前を言いたくないのであれば、それなりの礼儀が必須ってこと。

2020.11.2(月) 「サービス期間は終わったのさ」

 さーて何から書こうかね、ここんとこ僕の興味は「仲良しの発想」に終始して動くことがない。その周縁がどんどん膨らんでいって百分の一もここに記せていない。もったいない。

 きのう誕生日を迎えて僕はチューチューチュー歳になった。切り替わった。だからもう僕は無理して人に優しくはしないと決めた。
 これまでは「無理して人に優しく」していた。なぜならば、その領域について勉強がしたかったから。「人に優しく」をやってみて、どういう人がどういう反応をするのかを観察した。どういうふうに関係は育まれたり、腐敗していったりするのだろうとか。いろんなことを考えながら、時には多大なる不利益を被りつつ「優しく」をし続けた。文句が出ない前に言っておくけどそれは「僕が」優しいと思うようなことをであって、相手がどう思ったかは知らない。ただ僕は自分の信じる優しさを、多少無理してでも「勝手に」実践してみていた。
 その結果、いろいろなことがわかった。「仲良しの発想」がどういうものであるかというのと、そうでない発想にはどんなものがあるのかということ。だからもういいだろうというわけ。「無理して」は外します。ちょうど誕生日だし、鼠も三回鳴いたんで。フツーに優しく生きていきます。

 仲良しの発想を持っている人に優しくすれば、たいていは仲良くなれる。持っていない人に優しくすると、つけ上がって、調子に乗って、自分の利益のためにその優しさを利用する。
 もちろん、そういう人が大勢いるってのは知っていた。面倒くさがりの人はきっと、「じゃあ誰にも優しくしないでおこう」とゼロヒャクで考えるんだろうけど僕はちょっとくらい根気のある人だから、「どういう人に優しくせぬべきか」という研究を進めてみたのだ。おかげさまで「仲良しの発想」というものの正体と、その重要性をだいたいまとめることができた。
 もう、辛い思いをしてまで邪悪に付き合う必要はない。これまでだってずいぶん素直だったけど、今後はさらに正直にやる。

 たとえば僕は、基本的に黙っていた。拒否をしたり、こちらの希望を言わなかった。「仲良しの発想」を持っている人が相手ならば、それでまったく問題ないのだ。だからそれは、「仲良しの発想」を持っているかどうかの試金石になる。仲良しの発想がある人とは、一緒に考えることができる。
 仲良しの発想のない人は、こちらが黙っている限り、自分の利益の最大化に努める。「嫌だ」と言わない限りは、「いいのだな」と仮定してものごとを進める。相手の事情を想像し、考えつく限りの場合をイメージして気を配ってくれたりはしない。一個しか考えない。そして、最も自分に都合の良い「一個」を常に選択する。
 何も言わないでいると、そのことがよく見える。

「いやです」と僕はいつでも言うことができた。「不快です」「迷惑です」「やめてください」と。しかし、そんな言葉は本当は僕の辞書にはないのです。「仲良しの発想」を本当に持っている人は、決してそんなことは言わない。もしも世の中のみんなが「仲良しの発想」を持っていたとしたら、絶対にそんな言葉は生まれていない。だから言いたくないのだ。美しくないもん。

 言わずに良くなるパターンはある。僕に負担をかけてくる人がいて、でも何を言わないでみて、そのまま付き合いを続けていったら、いつのまにか負担がなくなるどころか、とても素晴らしい関係になっていた、とか。それはきっと相手が「仲良しの発想」を持っていたか、もしくは僕から飛んだ種子から芽生えてきたか、ということだと思う。
 ただ問題なのは、その兆しが1週間で出るか、10年で出るかがわからないこと。しかし10年後に効果があるかもしれない、と思って10年間付き合い続けるのはしんどい。1週間だけ付き合って、10年後に効果が出る可能性に賭けたほうが健康で経済だ。
 10年後や50年後、ないし100年後を想定することはやめませんよ、絶対に。だけどだからその人と100年付き合うのかって言ったらそういう話じゃないわけで。これまでは研究のために経過観察を長めに取ってみてたんだけど、だらだらやってもただ「甘やかす」だけなんだって身に染みた。
 これから僕が「いやです」「不快です」「迷惑です」「やめてください」を言うようになるかは、実のところわからない。美意識がそれを許さない可能性は高い。別の方法でもっと高い効果を出すという方を目指すかもしれない。ただ、必要があるなら言うべきだし、これまでだって言ってはきた。そのハードルというか閾値みたいなものはもっと下がっていくだろう。


 でもね、そもそもの話。「いや」とか「不快」とか「迷惑」なんてものは、自分の匙加減であって、自分がそう思わなきゃいいだけのことだから、相手に押し付けるのはワガママですよ、というのが僕の基本的な考え方で、「仲良しの発想」ってのもそれが本質。お互いが、っていうか全員がそう思ってたらめっちゃ平和じゃん、ってこと。そうなんだけど、そうは思ってくれない人もいる以上、「嫌だ」って言うのも自分を守るためには仕方ないんだろうな。
 僕は「不快に思うのは自分の都合でしかないから、それを相手に押し付けるべきではない」と本気で思っていますよ。これは本当。そりゃ具体的に不利益がありゃ取り返したいと思うけどね、精神的な問題は自分のせいです。悪口言われても気にしなきゃいいし、気になっちゃうなら泣くしかない。それは自分の問題です。それはそれとして対策は講じる。悪口に傷つくのは自分のせいだけど、言われなきゃ傷つかないので、その言ってくるやつを抹殺しよう、とか。抹殺するか、矯正するか、回避するか、気にしないようにするか、などなど、いくらでも解決のルートはある。責任の所在と問題解決は別っていうこと。
「私は傷つきました!」という主張に対しては、「あなたが勝手に傷ついただけでしょ」という反論がある。最強の矛と最強の盾くらい難しい話で、このルートだとかなり問題は込み入ってくる。戦争だしね。もっと単純で簡単で平和な考え方が、仲良しの発想。
 僕が「不快だ」と表明する時は、自分の愛する「仲良し」という土俵から一旦、降りるってことだから、かなり悲しい事態である。本当は絶対、言いたくないのだ。それでもそれをしなければならないのは、目の前の邪悪をどうにかして消し去りたいからでしかない。「またつまらぬものを斬ってしまった」っていう『ルパン三世』の五右衛門のセリフが、すごくしっくりくるんだぜ。
 何も斬らぬほうが刀は美しくいられるが、それでも斬らねばならん時がある。斬るべきものなんかない世の中のほうがいいに決まっているのに、現実として斬るべきものが目の前にある。
 斬らない実験はもう終わりで、これからはそれなりに斬りながら、何も斬らなくていい世の中を少しずつつくっていこう、っていうような感じ。


 僕はもっと「仲良しの発想」についてたくさん考えて、形にしていかなければならない。それが僕にとって世の中をよくするということである。視界を美しくするためにだけ生きる。目の前の花束をよけても、完璧な喫茶店の内装があって、その窓の向こうには山脈がそびえ立ち、青空との間に星々が「見える」。どこまでもどこまでも一緒に行こう!

2020.11.1(日) そう! 今はただ その時のつづき

 子供としか遊べない。
 ほんとにほんとの子供としか。
 年齢じゃなくてほんとの子供。
 ぜったいの子供。
 そうじゃなかったらいやです。

「子供」という言葉はノスタルジーや懐古のために言うのではないし、今さらモラトリアムを求めるわけでもない。「戻りたい」わけでもない。「年齢が若い」とか「短い時間しか生きていない」という意味での「子供」ではないのだ、僕が言いたいのは。
 あるいは、「年齢が若い人に特有の感覚や行動様式」を賛美したいのでもない。そういうくだんねー話は、どっかでダッセーやつらが年中やってる。
 もし僕がかつて誰からも「子供」と呼ばれて違和感のない存在であったとするなら、僕はそれを辞めたつもりは一切ない。ただその続きを生きているのだという気分しかない。そして僕は間違いなく誰かから生まれた子供である。それを永遠に放棄するつもりはない。仮に僕が誰かの親だとしても、ぜったい同時に子供でもある。
 おばあちゃんのお葬式で伯母さんが、いつもは「おばあちゃん」って言ってたんだけど、出棺のときは「おかあさん!」って呼んでた。永遠にお母さんはお母さんで、どこかでおばあちゃんに切り替わって戻らない、なんてことはないんだと思う。
 僕は間違いなくかつてと同じように子供で、でもきっと大人でもあると思う。両方、同時でいい。そんで、大人であるってだけで、子供であるということをやめちゃった人とは、半分の付き合い方しかできないんだよね。
 大人でも子供でも同時にあるような人とは、大人としても付き合えるし子供としても遊べる。なんだったら、僕が大人で向こうが子供で、「遊んであげる」ってこともあるかもしれないし、その逆で「遊んであげる」ってことだってあるかもしれない。四つもある。だから強固で、きっと永遠に楽しいんだ。

 僕は、大人の顔だけして近づいてくるような人には絶対に怯えてやる。大人は「近づいてくる」生きものだから、本当に恐ろしい。僕たちの辞書には「仲良くなる」「仲良くする」って言葉がちゃんとある。仲良しの発想を持っている。過去を過去として切り分けて、「今はただその時のつづき」ってことをわきまえてない人たちは、これが全然わかんないのだ。だから小さい僕たちはあなたを怖がるんさ。
 この歳になっても、僕はかわいいぼくだから、「近づいてくる」人ってのが歴然といる。だめだよ、ちゃんと仲良くなんないと。

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2020/11/01
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