少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2017.02.28(火) ペンギン村ージェットシティ
人間ってのは、「10歳」という時を境に、大きく変わる。
もしも、実年齢で10歳を過ぎているのに、変わっていなければ、その人はちょっとおかしい。10歳よりもわかいのにもう変わっているならば、ちょっとませているというか、心の発育がよい、ということだ。
人は、だいたい10歳くらいで、変わる。
だいたい10歳くらいから、「生きる」ためのことをするようになる。
それよりも前は、「生きる」ためのこととは、ぜんぜん無関係なことをしている。
たとえば、10歳をすぎると、「蓄積」ということをするようになる。
蓄積というのは、論理とほぼイコールである。
経験と言ってもいい。
学習と言ってもいい。
わけわかんないだろうか? まあ聞いてください。
子どもの目には、すべてのものが新鮮にうつっている、と、よく言う。
人生経験が少ないのだから、大人に比べれば知らないものが多いし、見渡せばどこへ行っても初めて目にするものばかりだから、当たり前といえばあたりまえ。
しかし、子どもというものは、べつに「初めて見た」わけでなくとも、ものごとを新鮮に感じてしまうものなのだ。
逆に言うと、一度見たものを、「一度見たな」と思って、新鮮に感じなくなれば、それはもう、子どもでなくなる階段をのぼり始めている。
だいたい10歳くらいで、その階段をのぼりきって、新たな地平にたどり着くのではないかな、というのが、今日の話。もちろん根拠などない。たぶんそうだろうな、と僕が勝手に思うだけだ。
一度見たものを、「一度見たな」と思うことは、蓄積であって、経験であって、学習であって、またそれはだから論理の入口でもある。
だって、過去に経験した「A」ということと、いま経験している「B」ということを、「同値である」と認識したときに、人は「一度見たな」と思うのだ。
式で表せばたぶん「A⇔B」みたいになって、論理の基本である。(つまり数学の基本である。)
という意味で、「一度見たな」と思うことは、蓄積とか経験とか学習とか論理という、人間が社会で生きていくためにかなり重要なことの始まりを示している、のだと、考えている。
同じ絵本を何度読んでも面白いのは、「蓄積」をしないから。
「ちがう本を読みたい」と思うのは、「蓄積」を求めているってこと。
10歳よりずっと若くたって、当たり前に「ちがう本」は読みたがるはずだけど、ひょっとしてそれは「蓄積」の第一歩なのじゃないかなと思う。「本というものは、面白いものだ」という一般化をしていて、かなり高級な欲求だ。ある本「A」とある本「B」が、どちらも面白い(面白いという意味で、等しい価値をもつ)ことを期待してるわけだから。こじつければ。
だから子どもが、「ヤダ、その絵本は前に見た」ってことを言い出したら、もうその子はその瞬間、子どもでなくなろうとしている、ということに、僕のこの話に従えば、なる。
そういう「ヤダ」を第一歩として、子どもはどんどん色々なことに飽きていって、「蓄積されるもの」や「ステップアップするもの」に興味を持つようになる。
たとえば、プラレールをつないで、線路をどんどん長くしていくようになる。電車の名前も、たくさん覚える。
どれがどのくらいの速度で、どれがどのあたりを走っているのか、を知っていく。
で、10歳にもなれば、その感覚はだいたい完成している。
感覚が完成すると、今度は、「この感覚を基盤として、学習をして、生きるために役立てよう」という気になっていく。
知識や能力を、あるいは感性を、自分の中に育てていく。
ここからが「新たな地平」。
僕にとって、それを切り開く切っ掛けになったのは、手塚治虫だったんじゃないかな。
僕が手塚にはまったのは7歳か8歳くらいの時で、10歳より前だから、「ませてた」ってことになる。手塚と出会って、僕は「この人の作品はどれも面白い、もっとこの人のまんがを読もう」と思うようになった。それで次から次へ、読んでいった。
岡田淳さんも、そんな感じで、「この人の作品はぜんぶ面白い。次を、もっと次を」と読んでいった。ほかの作家さんやシリーズに関してもおなじだ。
そうやって僕は大人になっていった。
僕はよく小沢健二さんのことを書くけど、それもそうだ。「この人は」ということで、自分の中にどんどん蓄積させていった。
それが十代の終わりには橋本治さんになったり、いろいろなものに対してそうやって学んで、僕はどんどんかしこくなっていった。
それは「生きる」ためのことだった。
でも、今おもう。
「そんなのぜんぶ、二の次なんだ」。
生きるためのことなんて、二の次だ。
いや、生きることは大切だから、大切なんだけど、でも、それはやっぱり、二の次の大切なんだ。いちばんのたいせつは、それじゃない。手塚から始まる僕の「蓄積」は、いちばんのたいせつじゃない。
手塚から始まる蓄積は、僕の人生の質を保障してくれている。圧倒的に。
そのおかげで僕はいま、かなり幸せな人間になれている。
このホームページも、その「人生の質」とやらの一環だ。
でも、そんなことは、二の次の大切。
本当に大事なのは、別のことだ。
なんてことを考えながら、
こんなことを書いた。
この社会で「生きる」ということとは、あんまり関係のないところに、ペンギン村はある。
(ペンギン村というのは、『Dr.スランプ』というまんがで、アラレちゃんたちが住んでいる村ね。)
だからこそ、それは本当に最も大切なことなのではないか、という、非常に抽象的で、観念的で、意味わかんないことを、僕は言っている。
10歳より前。「蓄積」と関係のない世界で、僕が好きだったもの。
それをいちばん大切にしていきたいなと、急に思ったのだ。
手塚にはまるよりも前に、僕は藤子不二雄のまんがを当たり前に読んでいて、それは本当に当たり前だったから、「好き」とさえ思わずに、げらげら読んでた。(今でも、げらげら読んでる。)
詩的にいえば、それは、「どこにも積み重ならないもの」。
ただそれのみとしてあるもので、何かと関連づけてみたり、何かを考えたり語ったりするための前提や材料には、ならないもの。する必要のないもの。
それが一番大事なんだ、というのは、たぶん言うまでもなくて。
だってそれはつまり、川だったり雲だったり、バッタだったり、っていうことだから、「自然を大切に」と言う人は、みんな知っている。
あるいはそれは、お父さんやお母さんでもあるだろうから、「親孝行」みたいなことを良しとする人には、もうとっくにわかっていること。
今更ながら、そう思うのだな。
文化というのは、パンの上に塗るバターやあんこ(名古屋人ですから)みたいなもんだ。もちろんパンも文化、あるいは「文明」と言うべきようなもの。
それはそれとして愛すべきものとしてあって、でもそれは10歳よりあとの話なの。
手塚から始まる僕の人生は、良くも悪くもそういうものなんだな。
それとは別に、「積み重ならないもの」も確かにあって、それも愛すべきもの。
星空のようなもの。
でも、べつに星空を見て、「きれいだ」なんて思わない感じ。
ただ走り出したくなる感じ。
冬のやきいものにおいみたいなもの。
それを「風情がある」なんて思わない感じ。
10歳よりあとのことは、ただの文化でしかないんだから。
そゆ※気持ちをいっしょに持っていられる人と、いっしょにいるのがいいと思う。
※アラレ語
2017.02.23(木) 意思は言葉を変え言葉は××を変えていく
この日記は面白いもので、ぼんやりと考えていることが、書き続けることによってだんだん形になっていく。「自由」と「平等」についてはもう何年も、それこそ10年も20年も考え続けているんだけど、
昨日書いたことは現段階での一つの答えになっているような気がする。自由と平等、なんて言うと堅苦しいというか、真面目くさいというか、意識高いような感じだけど、僕なりに定義するそれらは、ひとまず「ほかのどこでも聞いたことのないような言い方」にはきっとなっていて、とりあえずこのサイトの目的というか、意義としては適っている。
このサイトでは、「読む人がこれまでに考えたり聞いたりしたことのないこと」を書きたいと思っている。どこかの誰かがすでに言っているようなことを言ったって、まったくしかたがない。僕が書くのなら僕にしか書けないことを書くほうがいい。だからどうしても自分の話が多くなってしまう。でも、自分の話ってのはどうかすればちゃんと世の中とかほかの人のことに繋がっていくはずだから、それを信じてとりあえずはやる。
自由とはなにか? 平等とはなにか? そういうことをいくらずっと考え続けていても、結論なんてものは出てこない。でも、自分なりに考えを進めていくなかで、「セーブポイント」みたいなのはあって、「あ、この発想はちょっと面白いな、ただしい言い方に近そうだな」と思うと、たとえばここに、書き留めておくようにしている。じりじりと、にじり寄るように、進んでいって、少しずつセーブしていく。昨日書いたことは、わりと重要なセーブポイントだったかもしれない。
「平等とは、自由を認めあうこと」なんていうふうに、結論めいた言い方をしてしまうと、「いやそれはちょっと、違うんじゃない?」とか思われてしまいそうだし、僕だってそこだけを切り取って今、あらためて見つめ直してみると、「そう言い切っていいものだろうか」とためらう。でも、僕はいきなりポンと、「結論!」というふうに言っているわけではなくて、少なくともこのサイトだけでいっても、16年半くらいのあいだ、じりじりとやっていて、昨日だけでも数時間かけてジリリ目覚ましを鳴らしてるんで、とりあえず少なくとも自分の中でだけでいえば、「うん」と思える。僕の「結論めいたこと」は、16年半日々流動し続けているものの、最新のあり方を切り取っただけのもので、明日にも明後日にも、これから先もずっと、流動し続けていく。で、そのたびに僕だけは、「うん」と言い続けていくことだろう。
地球はぐるぐる周りながら、ずっと球体を保ち続けている。球体の表面は刻一刻と切り替わっていくけれども、そのどの瞬間を切り取っても地球がまったく「美しい」のだとすれば、それはそれでとてもいいのだ。流動体というのは、究極にいえば地球もそうだし、宇宙もそうだ。
「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えていく 躍動する流動体」と、昨日発売された小沢健二さんの『流動体について』という歌にある。
なるほどなあ、農村は言葉ではあまり変わらないかもしれないもんなあ、だけど都市は言葉で変わるよなあ。それは都市が「自由」だからか。「都市の空気は自由にする」とも言うし。
そんなことをとりあえず思いつつ、だけどもうちょっと、歌詞の世界をいったん無視して、頭を広げて考えてみると、流動体。流動体と言うならば、都市だけでなく、国もそうなら、地球もそうで、宇宙も巨大な流動体だ。だから「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」とも『流動体について』は歌うのかもしれない。
決意。決意には意思が関わる。これが「行動」でないのが面白い。決意や意思が、ひょっとしたら宇宙を変えていくかもしれない。それが良いものであれば、よいふうに変わる可能性がある。宇宙は流動体だから。そんなことはべつに、歌われてはいないけれども、ただそういうふうな広がりを感じることもできる。(そういうのを名曲と言うのだよなあ。)
僕の好きな、新庄剛志さんというかつての野球選手が、『しくじり先生』という番組に出ていた。新庄(親しみをこめたよびすて)は、僕が唯一心から好きだ、尊敬している、と言い切れる野球選手である。スポーツ選手の中で、ピカイチに好きだ。その理由を語りだせばキリがないので割愛するが、番組の中で新庄は、奥さんとの離婚についてこのようなことを言っていた。
新庄は現役を引退して、バリ島に行って、「ここに住もう」と直観的に決めた。その時に、奥さんにメールで離婚を告げたという。番組のなかで新庄は当時の心境として「自由になりたい」「おれは自由だ!」という言葉を使っていた。奥さんは「そういう人なんだから仕方がない」と、わかってくれたらしい。(その心中は、察することができない。)
僕が新庄を好きなのは、数々の偉業はもちろんだが、それを根本的に支える「自由さ」だ。と言って、彼が魅力的なのは「自由だから」ではない。「自由の素晴らしさ、自由の楽しさを誰よりもよく知っていて、そのことを僕たちに伝えてくれるから」なのだ。
阪神からメジャー、日ハムへという意表を突いた移籍劇もそうだし、「新庄劇場」と呼ばれた数々のパフォーマンスや、有名な「敬遠球をヒットにする」「オールスターでのホームスチール」という神業プレーだって、彼が「楽しい自由の人」であることの証明である。
今は一人でバリに住んでいる。ムチャクチャだ。でも、彼は憎まれたり、嫌われたりということがあまりない(僕調べ)。たぶんだけど、「人に迷惑をかけたり、不快にさせる」というのを最低限に済ませる賢さと、能力と、人柄を持っているってことなんじゃないかな。番組では新庄を指して「スーパースター」と言っていたが、なるほどスターとはそういうものなのだろう。
新庄は、自由であることを世間から認めさせてしまった。なぜならば、新庄の「自由」は、とても楽しそうで、見ている側も楽しくなって、それでいて、人に迷惑をあんまりかけないからだ。
僕はそこに「自由の本来のありかた」を見る。ただ気になるのはやはり「メール離婚」を突き付けられた奥さんのほうだが、もし彼女が本当に「そういう人だから仕方ない」と納得していて、それで今も楽しく生きていられているのならば、それこそが最大の偉業かもしれない。
見ているだけで楽しくなってしまう、新庄という人。もしも彼から「自由」を奪ったら? そんなことは実際、不可能だろうが、もし彼が自由を失えば、その魅力は半減どころか、まったくなくなるかもしれない。
残念ながら彼のような生き方は、ふつうの人にはできるものではないが、世の中のよいありかたを考える材料には、なるのかもしれない。そういう点で僕は新庄のことがとっても好きなのだ。
日記というのも流動体で、書き始める前にはぜんぜんわからなかったことが、書き終わるころには見えてきたりする。書くつもりのなかったことまで、気がついたら書いてしまっていて、「どこに着地させればいいんだろう?」と考えながら、最後には本当にとんでもないところに行き着いたりもする。それが流動するものの楽しいところだ。
新庄の話が続いて恐縮だけど、彼は本当に流動する人だ。阪神からメジャーに移るフットワークからしてすごい。調べてみると、日本人野手として初のメジャー選手はイチローで、二人目が新庄。しかしデビュー日はたったの一日違いらしいので、事実上は「この二人が初」と言ってもよさそうだ。メジャーから帰って彼は日本ハムファイターズに入団するが、その理由は「本拠地を北海道に移したばかりで、環境が一新される。ここから自分ひとりでどれだけ球団を強く・面白くできるかと思って」みたいなことを言っていた。そして彼は実際、札幌ドームを満員にさせ、三年目の開幕直後に「今年で引退します!」と宣言してその年に見事チームを日本一に導く。これ、千年前なら神にされてるでしょ。
そのあとはバリ島に移住。『しくじり先生』では、「明日ベネズエラに行きたいと思ったら行くし、イタリア行きたいと思ったら行くし、福岡に帰るかもしれないし。一日で変わる」と言っていた。天晴れ。それが流動体ですな。
僕は残念ながらというか、それほどゲキテキな変動を球にできるような球ではないのだが、じゃない、急にできるようなタマではないのだが、流動的でありたいとは常に思っている。
流動的であるためには、常に変わっていることを自覚していたい。でないと、固まっていることに気づけないかもしれない。それに、形はいくら変わっても、その中身というか、本質みたいなものは、保っていたい。だから、こうして日記という形で書いて、確かめているわけです。
あ、それは、「深い愛を抱けているか? 誓いは消えかけてはないか?」(『流動体について』)みたいな感じで、常に問いかけるようなのと、似ているかもしれない。
だけど意思は言葉を変え、言葉は××を変えていく。
どう変わっていくにせよ、「宇宙の中で良いことを決意する」のは、忘れたくないな。
ところで、これ、「宇宙の中で、良いことを決意する」ともとれるし、「宇宙の中で良いこと、を決意する」ともとれる。おもしろい。どっちも似たようで、どのみち大切ですね。
このたびの小沢健二さんの新譜には、『神秘的』という曲も入っているのですが、これはもう、今は僕は語る言葉をもちません。ろんりてきに言葉にするよりも、聴くときに生まれる胸の詩情を、じっと転がしていたいです。
2017.02.22(水) 不倫の日
不倫というものは当たり前に行われている。それは男女を問わない。
不倫とは既婚者のいる人がすることで、結婚していなければ単に「浮気」とだけ呼ばれるけど、たぶん理屈は同じ。ここから先「不倫」と「浮気」が混在して書かれますが、どっちも同じようなことだと思ってくだされば幸いです。
2016年1月のベッキー・絵音と2月の狩野英孝(淫行じゃないほうね)を代表として(?)、芸能界では「不倫・浮気」が取りざたされることが多い。もちろん「芸能界で不倫が増えている」という話かどうかはわからない。「そんなもんは昔からいくらでもあったけれども、それをめざとく見つけてはわざわざ報道するようになった」というだけなのかもしれない。「深いことを考えず、不倫を見つけたら報道していい」というノリは、昔はなかったのかもしれないのだ。(今もあるかは知らないが、ありそうに思えるほどの報道の嵐である。それでも氷山の一角なのではあろうが。)
清水富美加さんがカナブーンのベーシストと不倫していた、というのが今最もホットな不倫ニュースだけど、そんなもん個人の問題なんだからほっといてやれよ、とは思うよね。「不倫」というくらいだから、それは「倫理的によくないこと」で、だからみんなの前で怒られるんだ、という理屈は、まあ、そりゃそうだよな、とくらいにはわかる。
最近は、ちょっとでも「倫理や法にそむく」ことがあれば、どれだけでも公然と怒っていい、という風潮がある。芸能人が踏切に立ち入って写真を撮るとかって事件があったら、「けしからん!」と即座に言うことができる。昔はそんなことなかったのかというと、そういう人もいたかもしれないけど、やっぱそんなに、そんなことはなかったのではないだろうかなあ。
これまで「なあなあ」で済まされてきたような、「よくないこと」が、「よくない!」ととりあえず言われる、生きづらい世の中だ、というのは、今や誰もが言っている。こないだ乗せてもらったトラックの運転手さんも言ってた。何もかもが厳しくなって、「あそび」がなくなっているって。
ほのかりんさんという人が、19歳で酒を飲んでいた、ということで、サクッと芸能界からいなくなるとか、いやいやそれは。って、誰もが思ったはずだけど、それを「いやいやそれは!」と言うことは、ほとんど誰もしなかった。したとて、意味はなかった。かなり多くの人が未成年から酒を飲んでいるが、それとは全然別の話で、「バレた」からダメなのだ。(『鈴木先生』の「@教育的指導」を思い出しますね。)
駐車禁止やスピード違反で取り締まりを受けたときに、「誰でもやってるじゃん!」と叫んだって、意味がないように、見つかってしまったら、もうアウトらしい。
現代では、何か倫理や法にそむくようなことをしようと思えば、「こそこそやる」が原則で、それができなければ、「アウト!」と言われる、ようである。
で、浮気なんてのはありふれております。誰だってします。
「浮気をしない人もいるよ!」という言葉も真実ですが、「浮気をする人はめちゃくちゃ多い」も真実。その数が昔に比べて増えているかはわからないけど、なんとなく思うのは、「その数において男女の差が少なくなっている」のではないかと。(芸能界の報道では相変わらず男のほうにパートナーのいる場合が多いけど、たまたま僕の身の回りで女性が浮気したって話が最近よく聞こえてくるので、こう仮説を立ててみた。)
世の中は男尊女卑をやめよう、という方向に進んでいて、男女平等をうたっているのだから、「男は浮気をするものだ(してもいい)、女は浮気をしないものだ(してはいけない)」という、おそらく昔はあっただろう考え方は、古いものとなり、否定された。
これは「男は煙草を吸い、女は吸わない」というのが、否定されつつあるのと似ている。これまでは天地の差だった男女の喫煙率の差が、どんどん少なくなっている。
酒も同じだと思う。昔に比べれば、男女の飲酒の量や率、頻度などは、差が狭まっている。
なぜ、かつては女性は、浮気・煙草・酒などを楽しめなかったのか? それは、もちろん「子どもを産む」からでしょう。
浮気をすれば、誰の子どもかわからなくなったり、配偶者以外との子どもを産んでしまったりする可能性が出てくるし、喫煙や飲酒は胎児に影響を与える、ということになっている。だから、女性は浮気・煙草・酒などをしないほうが、未来を考えた上で無難、ということになっていた。
しかし、「そんなのおかしい、平等じゃない」という声が上がる。当然だ。僕もそう思う。「避妊をしたり、計画的に喫煙や飲酒をコントロールすれば、未来を心配する必要はほとんどなくなる」と、科学の発展したこの世の中では、かなり大きな声で言える。「だいいち、わたしは子どもを産む気はありませんから」という主張さえ、できるようになった。浮気も喫煙も飲酒も、責任を持って自己判断すればよい、ということになった。
浮気・喫煙・飲酒。これらと同じようなものに、「自慰行為」もある。
「男はそれをするものだが、女はしないものだ」という、一昔前の常識は、どんどん意味を失っている。女性がそれをすることは、今や当たり前だし、特段恥ずかしいことでもない。特段、というのは、男がそのことを告白する恥ずかしさと、それほど大きくは変わらない、という意味だ。少なくとも、付き合ってる男の子にならそれを言える、という女の子は、だいぶ増えてきただろう。仲の良い女友達には言っている、という人もいるはずだ。男だって別にそんなに、それについての話はしないのだ(中学生を除く)。男だって、恥ずかしいのである(中学生を除く)。
人前で、それについての話をしている男がいたら、はしたないとか、下品だと僕は思うし、同じことを女性がしていても、はしたない、下品だ、と思う。その程度には、このことは男女平等に近づいてきている。もちろん、完全に同等ではないし、今だって男のほうがそれをする回数や率は上かもしれないが、以前に比べたらぜーんぜん違うはず。
男女の差別は、そのように、緩やかではあるが少なくなっていて、だから女だって平気で浮気をする。不倫をする。「男がそれをするならば、女だってそれをしていいに決まってる」というのは今や当たり前の論理で、当たり前の気分だ。それを否定すれば「差別」である。
「女だって自慰をする」「女だって性欲がある」「女だって浮気をする」というのは、すべて繋がっている。
まあ、一方で、やはり男女差というものは歴然とあって、「だけど女は、男のように、誰とでもいいから回数や人数を増やしていきたいわけではない」という原則もあるようだ。「いや、わたしは誰とでもいいから回数や人数を増やしたい」という女性もいるかもしれないが、そういう人は未だに「男っぽい考え方だね」と、女性からすら思われる、はず。
女子からの多大なる共感をも得て大ヒットしているハロー!プロジェクトは、ある時期までほとんどの曲の作詞・作曲をつんくという人が手がけていた。モーニング娘。デビューより前に、彼がシャ乱Qというバンドで歌っていた曲に、こんな歌詞がある。
「きっと女の子のほうから 欲しいと言い出したってOKだよ」(『My Babe 君が眠るまで』)
女子の性欲肯定ソングである。このとき1995年。シャ乱Qといえば「水商売」のイメージとともに語られることが多く、実際その筋の女性たちから熱烈な支持を受けていた、らしい(ちゃんと示せるソースはない……)。
そういうシャ乱Qのつんくが、後々「ハロプロの人」となり、それが女子からも大きな支持を集めるというのは、とても面白い。「つんくはわかってる!」とビール片手に叫ぶ女性の姿を、僕はどれだけ目にしただろう。いやほんと。「秋元はわかってる!」と叫ぶ女子の姿は、見たことがない。
余談でした。
男女差がなくなっていく、平等になっていく、というのは、僕に言わせれば「自由になっていく」である。というか、であるべきだ。平等になっているのに、不自由になっているのだとしたら、非常に勿体ない話である。
平等とは自由への扉である。だから、自由に繋がらない平等は、ほんらいの平等ではない、と僕は思っている。
シャ乱Qの1992年のデビュー曲『18ヶ月』は、「あなたの夢が叶ったら わたしの夢叶わない」というフレーズがサビにある。これは平等と自由が達成されないパターンで、当然悲劇だ。
そのちょうど十年後の2002年、モーニング娘。の『Do it! Now』では「あなたが持ってる未来行きの切符 夢は叶うよ 絶対叶うから 行こう」と始まり、「私の持ってる 未来行きの切符 あなたと二人できっと叶えたい I Love you」と終わる。これは、平等と自由に向かっていく誓いの歌であって、悲劇ではない。
「未来行きの切符」は、お互いが持っていて、その行き先が同じであるか、別であるか、同じ列車に乗るのか、そうでないのか、は明らかにされない。いずれにせよ、「あなたはあなたで夢を叶えるべきだし、私は私で夢を叶えます、あなたと二人で」と歌っているようだ。ここで切符の行き先や時刻は、たぶん関係がない。「あなたと二人で」とは言っても、「あなたと一緒に」とは言わないところが、ニクいのである。
歌詞の全体を見渡すと、どことなく別れの匂いが漂っている気がするが、それは「切符」の行き先や時刻が違うからではないか? と思う。「どんな未来が訪れても」「いつもいつまでも何年経っても 決心したこの愛が続くように」「間違ったってしょうがないでしょう 迷ったって始まんないでしょう」とかいった言葉が、その不安感を想起させる。でも、この歌詞の視点人物(主人公)は、「愛の形はイメージ通りです 恋の行方はあなたと二人です」と言う。(ここでも「一緒」とは言わない!)そして「あなたの胸の中で いつまでも」である。遠距離恋愛でも始めるのか? 何かお互いの夢のために、一時的に離れる決心をしたのか? そういった想像が膨らむ。だけどシャ乱Qの『上・京・物・語』のような、悲劇的な別れでは、たぶんない。『Do it! Now』の二人が別れるのだとしたら、それは一時的なものだし、心は離れないし、よりよい未来のための決断なのだ。(少なくともこの視点人物は、そういうふうなことを言っている。)
めっちゃくちゃ話がズレている。話題は「不倫」なのであった。平等と自由、ということを言いたいがため、つんくさんの話が長くなってしまった……。
『Do it! Now』では、「お互いの夢をそれぞれ叶える、だけど愛は続く」という誓いというか、そういうものが歌われているような気が、僕はする。で、それは互いに自由を認めあう、ということでもあるのではないかな、と思う。そのことを平等と言うのだろうな、とも。
(男の視点がないから、よくわかんないけども。それはリスナーが埋めるところなんでしょう。)
で……不倫というのは、実は「自由の行使」なんですね。恐ろしいことに。
この話、新書一冊分くらいになりそうなんですよね……。このあとSMAPとかイギリスのEU離脱の話とか、2016年と2017年に起きた無数の事件にがんがんつながってくるので……。そんなものを読みたい人もいなかろうし、さわりだけにします……ね。
世の中は「自由」という方向にちゃんと向かっている。だから「自分より大きなものの一部として生きる」ということが、どんどんなくなっていく。
自由の自は自分だから、自由ということを考えるとどうしても「自分」というものが基準になる。そうすると、「自分を包みこんでいる自分より大きいもの」が、邪魔になるのです。それはSMAPだったり、EUだったり、夫婦だったり。いみじくも星野源が「夫婦を超えていけ」って歌ってますけど。
「自分を包みこんでいる自分より大きいもの」の最たるものは家族で、これが現代人には本当に邪魔なんだ。若い人はもう「自由」というほうに進んでいるのに、上の世代はぜんぜんそうじゃないから。上の世代ってのはどのへんをさすのかというと、「不倫はダメ、絶対! だけど男は浮気くらいするものだ」っていう世代。特に「女が浮気するなんて!」という感覚が、当たり前にある人たち。
そういえば岡村靖幸さんが、1990年にすでに「Sexしたって誰もがそう簡単に親にならないのは 赤ん坊より愛しいのは自分だから?」(『祈りの季節』)と歌ってますね。家族(家庭、子ども)よりも「自分」を優先する、だから子作り以外の目的でセックスしまくる、って話。岡村ちゃんの世代(1965年生まれ)は、その「上の世代」との分かれ目のあたりにちょうどいるのかもなあ。
岡村ちゃんが20歳のときに、男女雇用機会均等法というのができる(施行は翌年)。ということは、岡村ちゃん世代が大学を出る頃には、一応男女の雇用機会は均等ということになっている。それはけっこう、たぶん大きい。
「家族」という「自分より大きいもの」は存在しているけど、自分は「自分」のほうを優先したい。不倫の起きるメカニズムって、そういうものでは?
「自分」よりも「家族」が優先できるなら、不倫なんてしないもんね。
(かく言う僕も、「自分」を優先したくなる現代人ですよ、もちろん。だからこそこうして、考えて、どうするべきかを悩むのです。)
ほんじゃあキムタクは、いったい「何」を優先したんでしょうね?
これは難しい話ですけどね。
僕なりに報道(死ぬほど見ましたし読みました)を整理して考えると、少なくとも「SMAP(という5人ないし6人)」ではなかった、ようだ。
では「家族」なのか? 「事務所」なのか? そのへんはわからない。
僕は「自分」だったんじゃないかな、と思う。
自分が格好良くいるために、最善と信じる選択を彼はしたんじゃないか、と。
木村君はそういう人だ、なんて知ったような口はきけないけど、そう思うと僕にはしっくりくるんですね。
木村君にとって「格好良い自分」(そうでありたい自分の理想像)とは、必ずしも「SMAPのメンバーと一緒にいる自分」とか「飯島さんの手腕によって演出される自分」ではなかった、のかもしれないな、と。細かい事情はいろいろあるだろうから、本当のところはまったくわかんないけど、もしも彼に「決める権限」があったとするなら、の話。
不倫の原因となる気分は、「家族よりも自分を優先する」こと。
それは「自由である」ということと深く結びつくから、その気分自体を悪いとは、もう言えない。
「家族のため」だの「配偶者のため」だのというのは、幻想に過ぎない。お人好しの我慢に過ぎない。
今や「自分のため」が原則である。
そのくらいに今の世の中には自由が満ちているのだから、不倫や浮気は増えていく。「だってしたいんだもん」でおしまいだ。そのくらい人々はこらえ性がないし、こらえる必要を感じていない。
「なぜ、自分の欲求を抑えなければならないのか?」という問いが根本にある。
自分、というものと「欲求」なるものが、社会を失った現代人にとってはほとんどイコールだから、「自分の欲求を抑えるということは、自分が自分でなくなることだ」くらいに感じてしまう。
もしも、不倫をしないような人間になりたかったら、方法はある。「自分というのは不倫をしないものだ」と思えばいい。(この話はキムタクの話と直結しております。)
不倫をする自分はかっこ悪い、と思えば、不倫というのは自分にとってかっこ悪いのだから、する可能性は低まる。(あたりまえ体操~)
女性なら、「浮気をしない自分は美しい」「けなげでいちず」「かわいい」「女として魅力的だ」「その証拠にカレは今日も愛してくれたワ(90年代初頭までは見かけた表記)」と思えばいいわけだ。
男なら、「今日も素敵な女性に午後アプローチされたけど断りました^_^」「俺は浮気に人生かけてるわけじゃないんでね」とかいって、「ああ、なんて自分はクール!」と思えば、いいわけね。ようするに、「それがかっこいい」と思うべきなんね。
当たり前たいそう~。
「不倫する」に価値を置けば、不倫をするし、価値を置かなければ、不倫しないわけ。あたりまえ~ あたりまえ~。
愛がほしい、性的欲求を充足させたい、誰かから求められたい、自分に価値があることを証明・実感したい、すべすべの誰かの肌、さみしさを埋めたい、知的好奇心を満たしたい、安らぎたい、恋愛のドキドキを味わいたい、新鮮味を楽しみたい、などなど、不倫の価値というのは、たくさんあります。
それらをはるかに凌駕する価値を、「自分」の中にセットしなきゃ、不倫は、そりゃ、しますよ。
自分の「中」でなければ、たぶんだめ。もう道徳も倫理も死んでるし、「○○のために」ってのが、制度的な強制がなければ維持しづらいっていうことも、あたりまえ体操なんで。
たとえば、「家に帰れば嫁がいるんだから嫁とすればいい」っていうふうに、不倫しない理由を自分の「外部」に設定すると、「今日は帰っても嫁がいないからな……」とか「嫁とはご無沙汰だし……」とか「あんなやつ、もう知らん!」(親鸞と変換された)とかになる。
「ダーリンがいるもん!」ってだけ思ってても、「ダーリンとけんかしたぁ~(酒ガブガブ)」とかいってキッチンで友達と電話しながら酔っ払ってたらイケメンの水道屋さんがやってきて「奥さん!」「どうぞ」なんてこともね、あるわけですよ!
「不倫をしない理由」を自分の外部に設定する人は、「不倫をする理由」も、自分の外部に設定するの。ようするに、人のせいにするんです。
「だって……さみしかったんだモン」の類ね。これほど邪悪なことはありません!
「ダーリンが相手してくんないからぁ」ってのは、単純に「人のせい」だから。
「あんただって去年、浮気したでしょ!!」ってのは、これは「目には目を」という伝統的な考え方なので、僕は「それは不自由な平等主義だな」と思いますけど、気持ちはわかりますね。僕もやっぱり、そういうふうにも考えてしまいがちです。でもそれだって「人のせい」の一種なのれす。
「不倫をしない理由は、ダーリンが好きだからです。今日はダーリンが好きではないので、不倫をします」に、簡単になっちゃうのです。なぜならば、優先されるのは「自分」だから。
「自分」を優先する、なんてことは、もう当たり前の事実なんだから、そこを前提として工夫していかないと、たぶんなかなかうまくいきません。
「私は自分を優先するダメなやつだ! 自分を優先するのをやめたい!」といくら思っても、そうそう変わるものではないのだ。
それよりも、「私は○○な自分を優先する」の「○○」をなんとか調整していくことのほうが、簡単なのではないか?
けっこう身近なおしどり(?)夫婦が、不倫でもめた、ってような話を聞いて、ああ、本当にそんなことはごくありふれているのだなあ、と思った。男だろうが女だろうが、不倫はする。そんなもん、当たり前なんだ。今は「自分」を優先する時代なんだから。
もしも「不倫する自分」を優先してしまうのを、やめたいのであれば、「不倫する自分」を嫌いになって、「不倫しない自分」を好きになるしかない。とことん。
そんなん、「ああ、またやってしまった~」っていう自己嫌悪に陥るだけなんじゃない? って気もするけど、それはたぶん「嫌い」という感情が強いからで、「不倫をしない自分が好き!」ってほうに行くことができれば、ちょっと変わってくるのではないかなあ。
苫米地英人さんが、「コンフォートゾーン」ってことを言ってる。人には「こういう状態が落ち着く」という感覚があって、そこにとどまろうとする。布団からなかなか出られない人は、布団の中がコンフォートゾーンになっていて、「カーテンを開けて朝日を浴びる」はコンフォートゾーンではないのだ。
となれば、いちど「カーテンを開けて朝日を浴びる」のほうへコンフォートゾーン(心地よい状態)をずらしてしまえば、「あ、目が醒めた。陽が差している。もう布団から出てもいいんだ。やった! 起き上がってカーテンをあけよう!」と思うことができる、っちゅうわけ。「布団の中」というコンフォートではない状態から、「朝日を浴びる」というコンフォートな状態に、早く持って行きたい! と思うことができれば、ちゃんと起きられるってこと。
「不倫する」ってのがコンフォートゾーンになっている人は、「不倫しない」をコンフォートだと思えばいいんだね。このりくつでいうと。
どうしても、「やる」ってことがコンフォートだと、初期設定は「浮気する」のほうになっちゃう。少なくとも、そういう人は多いよ。
男はそうだし、女のほうも、だんだんそのようになってきている、っていう話。たぶんもともとそうなんだけど、これまでは社会的にかなりきつく禁じられていたのが、緩くなってきたからね。女の子だって戦っていいじゃん!(例:初代プリキュア)みたいなノリで、「女だってやりたいよ!」です。
平等だなと思うのは、「男だからって、そんなにやりたがんなくたっていいでしょ?」という男も、けっこう増えてきているようだってこと。草食系とか言われますね。
それは「男だからって煙草を吸うこともないよね」「なんで酒なんか飲まなきゃいけないの?」っていう若い男がどんどん増えているのと一緒。だいたい50歳以上(特に55以上かな)の人になると、そのあたりに言及して「最近の若者は~」と言い出します。男女雇用機会均等法のなかった時代を知っている人たち。(そんな単純な話か? とも思うけど、とりあえず単純化してみています。)
男がオートマ限定で何が悪い!? とかも、そうなのかも?
まあ、そうだとして。どうやって「お布団ぬくぬく」から「カーテンシャーっ!」に変えればいいのか?
どうやって、「浮気する」から「浮気しない」に、コンフォートゾーンをずらせばよいのか?
……苫米地せんせいのご本を読むのがよいのではないでしょうか。(DVDは10万円です。)
ここまでの話を一言でいうと、「やっぱり自分、てことだよな。」
人のせいにしている以上、何も変わらない。というか、人のせいにしていると、自分がコロコロ変わってしまう。「きのふの是はけふの非なる」(『舞姫』)だ。
で、本題ってのはじつは、「自由」なんですね。
「不倫しない」を強要すれば、それはもう「自由」ではないんでね。
「お前が不倫しないなら、俺も不倫しない」は、不自由な平等だ。エラーや例外を許さない、冷たい契約になりかねない。あるいは、それを逆手にとって、ズルが起きたりする。契約書の裏をかく、みたいなね。そこでまたもめる。
いっぺん不倫が発覚して、そこから配偶者の厳しい管理下に置かれて生活している、というパターンを知っているが、それはほんとうに息苦しい。
もちろん、覚醒剤の常用者が、獄中に隔離されることで一時的にはクスリを抜くことができる、ってのもあるんで、必要な時はあると思うんだけどね。
人がヤバイことになっている時は、強制的にどうにかする、ってことも大事だったりする。一時的に自由を奪って、惨事を防ぐ。気持ちのいいことではないけど。
でも、そうやっていったんはクスリの抜けた人も、シャバに出ればまたシャブに手を出してしまう。再犯率は非常に高い。
だから大事なのは、結局ね、「するなよ」と強制することでも、「やめてくれ」と懇願することでもなく、「いいんだよ」と言ってあげること、なんだろうな。水谷せんせいありがとう。
だって、それがその人の、その時点での「自由の行使」なんだもんな。
それによって著しく傷ついたならば、「つらいよ」と言って、泣けばいい。それは泣く側の勝手だ。それも自由の行使。
「あなたのそれまでの自由の行使を、私はすべて認めます。受け入れます。しかし、あなたはもっと、自分に自信を持っていいし、自分というものを強く、素敵に持っていい。手伝えることがあるなら、一緒にやろう」というくらいのことを、僕は言い続けたい。
善人くさいかもしれないけど、核心は「自分」なるものにしかないのだから、「あなたは自分というものをより素敵なふうにつくっていってください、自分なりに」と言うのが、意外といちばん良いのではないか、と。
水谷が言ってることってのも、結局これかな。
彼は、「自分」なるものをつくっていくために必要なことも、ちゃんと言ってる。
それは、「誰かのために何かをすること」。何でもいい。でもそれが、次第に「自分」をつくっていく。しかも、素敵に。
偉そうなことを言っておりますが、くり返しますと僕も「自分のことを優先してしまう現代人」で、そのために人を傷つけることは死ぬほどあります。この文章もほぼ自分のために書いています。おゆるしを。
↓やはりというか、滞っています。思いつくことは多いのにまとまらない。根本的に問いつめ煮詰めているところ。
2017.02.16(木) おみせをはじめます
フライング告知しておきます。99%は確定事項として動いているものの、9JCのこともあったし、何が起こるかわからないのでアレなのですが、とりあえず。
場所は湯島。上野・御徒町から徒歩圏です。
店をまるっと、僕ともう一人で管理するので、「週に一日」というのではなくて、毎日営業します。もちろん、毎日僕がいるわけではないですが。
形態としては、カウンターのみのバー。月一でおざ研のような持ち寄りの日をつくったり、さまざまイベントをやったりします。もう一人の管理人はお昼の営業(カレーやナポリタンを作ってくださるそうです!)と週末を盛り上げていただき、僕は主に夜、という感じ。
それは「ふつうのバー」なのか、というと、やはりせっかくやるのだから、ただのバーにはしないつもりです。
テーマは二つあって、一つは「流動性」。柔軟性と言ってもいいです。もう一つは、「大人」ということです。
つまり「オーセンティックな大人のバー」ということ、ではありません。そもそも「オーセンティック」とは、どういう意味なのでしょう……。調べたら「本物」「正統的」といった意味らしいです。そういうものではない、まったく新しい存在の場所に、できたらいいな。
大人、ということを考えようとすると、自然と子どもとか若者とか、大人ではない存在のことを考えるし、大人ってなんだ? という疑問も当然、わいてきます。
そのあたりを究めるための場所にしたいな、ということです。
「本当に誕生するのはパパとママのほうで 少年と少女の存在はベイビーたちが続けていくよ」
↑小沢健二さんがツアー「魔法的」で演奏した、『涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)』という曲にあった、とても印象的な歌詞です。
ピーター・パンが常に子どもであるのに対して、ウェンディは大人になるし、その娘だっていつかは大人になっていく。
でも、その娘(ジェーン)だって、やがて大人になり、母親になり、子を産み育てて、その子がまたピーターに出会う。
ピーターと出会うような、あるいはトトロと出会うような? 少年や少女は、常にいて、ただその中身だか外側だかが、入れ替わっていくだけ、なのかもしれない。
パパやママは、子が生まれた瞬間に「そうなる」けれども、子どもは「常にいる」。それを象徴的に体現したのが「ピーター」なのかもしれない。
では大人とは、どういう時に「なる」ものなのだろうか?
あるいは、どういう存在が大人と「される」のか?
そして、大人と「されない」人がいるとしたら、どういう人なのか?
それに対して、ある限定的な側面から仮説を立てて、実践してみようという、お店です。(意味不明ですね。)
店を通して、大人が誕生していって、しかし大人ではない存在は、「常にいる」という状況が、一つの理想かも知れません。
と、このあたりは非常に、抽象的な話。詳しいシステム的なことは、考え中です。
この後の流れとしては、
2/20(月) サイトつくる(予定)
2/22(水) くわしいことを書きはじめる(予定)
(3月中にどこかで集まりが持てたらいいなあ)
4/1(土) オープン
4/2(日) 花見沢俊彦(新宿中央公園)
という感じです。いま、いろんな人と会って、話して、知恵をいただいているところです。興味あるひとは、ご連絡ください。とりわけ、お店に立ってくれる働き手や、提携・コラボレーションのお相手、宣伝してくれる人、一緒に考えてくれる人など、募集中です。よろしくです。
2017.02.13(月) もうすぐ春ですね
なくなりそうな、春爛漫なこの桜に、
なぜ泣くの? なぜ、泣くの?
ただ、なんとなく、ね。
なくなりそうな、あの純真無垢な時代に、
なぜ泣くの? なぜ、泣くの?
この熱、ももとせ。
(100s『ももとせ』)
熱はどうしても散らばっていってしまう。
なんてことをもうずっと、考えているが
エネルギー保存の法則というのも一方にあって、
散った熱はどこかで何かを暖めたり、
冷えをなだめたりしている。
あるいは新たな高まりのために、今はなりをひそめているだけ。
芸術ってのは魔法のようなもので、
それは神だか悪魔だか、何か神秘的なものが司っている。
芸術家はその力を借りる。
だから芸術家はそれを語る言葉をふつう、持ち合わせないけど、
同時に評論家でもあるような芸術家は
蛇足のように付け加えたりはしてしまうものなのだろう。
それはポップにとっては意外と重要で、
ある種の異常な天才でなくとも、
そういう蛇足を参考にして修練を積めば、よいものが生み出せたりする。
ベジータや本阿弥さやか、亜弓さんなどは、
悟空や柔、マヤといった本当の大天才にかないはしないものの、
ともあれあそこまで迫ることができた。(できている。)
そういう人は、たとえばポップミュージックの世界にもいるでしょう。
マンガの世界にもいるでしょう。
(というか基本はそっちでしょう。)
桜が散っていくのも、花火が散っていくのも、
消えていくというよりは、溶けていくもの。
流れ星だってそうだと思う。
だから優しさの中へ消えていくわけだ。
春には桜。夏には花火。
秋は枯れた葉、冬は雪か。
あのように消えていくものは、すべて熱にたとえられて、
見えなくなっても、どこかで何かを暖めたり、
冷えをなだめたり、
あるいは新たな高まりのために、なりをひそめているわけだ。
花や葉は土にかえる。
雪は地下に沈み、あるいは川になって流れていきます。
花火はくすんだ匂いと灰をしか残さないけど
まあきっと、網膜や心に残るのでしょう。
(実はこっちのほうがわかりやすい)
心の中には、光があるらしいですから。
散らばったものと、同じものが集まるわけではないけれども
熱はまた高まる。
いろんなところで、合わせたら同じだけの熱が常にあり続ける。
それが生態系の面白いところだと思う。
ずっと会ってない人も、
どこかで熱を上げたり、下げたりして
誰かと集まったり、離れたりして
死んでしまった人も、
死ぬっていう強烈な熱を最後にばらまいて、
それを受け取る人たちがいたりする。
(誰かを悼む火の煙る炎 高く高くと燃え立つ)
(僕は今 慈しみの中)
熱は散らばり、散らばったすべての熱は生き続ける。
だから、見た目には何もかも元通りになっても
それは地球が一回転するのと同じで、
無限にくりかえされていくことの一周を目撃したに過ぎない。
(愛すべき生まれて育ってくサークル)
Ecology of Everyday Lifeなのである。
(イッツマイライフ だから~♪)
2017.02.10(金) 16:54 過ちについて
あやまちをおかすことは、仕方がない。誰もがあやまちをおかす。
いけないのは、「これはあやまちではない」「あれはあやまちではなかった」と思いこむことだと思う。
あやまちは、あやまちなのである。
というか、それをあやまちだと思うことからしか、ものごとは切り替わらない。もし現状が「これでいい」でないのなら、どこかにあやまちがあったのだ。
で、「これでいい」というのはほとんど常に誤謬である。誤りである。
生きている限り、「これでいい」とは思わないほうが、妥当だし、たぶん楽しい。(全ての審判は死ぬ日で十分だ。)
現状が「これでいい」とは思えない以上、どこかにあやまちがあるので、「これはあやまちではない」と思いこもうとしているものが、危ない。
「あやまちではない」と思う時点で、けっこうなかくりつで、あやまちだと思う。
それをあやまちだと認めることから、「だったらそれを無駄にしないようにしよう」と、前を向けるのであって。
誤って、それを認めるからこそ、未来をよくしていける。
夜回り先生こと水谷修さんはこう言う。
「いいんだよ。昨日までのことはみんな、いいんだよ。今日からは、水谷と一緒に考えよう。」
これがすべてである。ほぼ真言(マントラ)に近い。
いいんだよ。間違ってしまったことは、それで。
過ぎたことだから。だから過ちと言うのだから。
その過ちをひっくり返すために、その後の人生があるのだから。
それが後に優しさに変われば、逆転なんだから。
いけないのは、「これでいい」とむきになることで、そうしたら、そこから動かない。そのままだ。
ココアでも飲みながら、顧みないと。
ただ、太宰治の『
トカトントン』的な、解離とか離人症とか呼ばれる何かによって、「どうでもいいや」になって、くり返してしまうような質のあやまちもあるらしいので、その場合はまた違った心がけなのだろう。
自分が自分である、という現実感よりも、ほかのものが優先してしまうとき。その場の流れだったり、「気分」だったり。あやまちはそこにしのびこむ。ずるい人の悪い意思が、そこにつけこむ。
それをくり返さないためには、どうしたらいいのか。「自分をしっかりもつ」ということくらいしか、ないのだろうか。
自分が自分である、という現実感を、しっかりもつこと。
でなければ、「自分を大切に」なんて言葉は、空虚だろうな。
ああ、そのためには、一体どうしたら。
「自分」を強く、するしかない。悔しいけど今は、そこまでしかわからない。
いじめに勝つ方法も、たぶんそれしかない。それと同じように悲しいが、それと同じように、そこに希望をかけるしかない。
あなたはかしこく、優しい人なんだから、絶対にできる。
(いつかどこかの誰かにこの応援が届くとよいなあ。)
2017.02.05(日) トランプ(ルールの中で工夫して勝つ)
トランプをやっている間は、トランプしかできない。
だから僕は、トランプがあんまり好きではない。
いや、トランプ自体は好きだと思う。でも、「トランプをやっている状況」というのを、積極的に作り出したいとはあまり、思わない。
だって、トランプをやっている間は、トランプしかできないんだもの。
もちろん、トランプをやりながら、楽しくおしゃべりしたり、それによって仲が良くなったりは、するだろう。
だが当然、楽しくおしゃべりをするために、トランプをする必要は、あんまりない。
トランプをしている間は、トランプ以外のことをする可能性がとても低くなってしまうし、話題もトランプの試合情勢に関することに偏りやすくなるので、何もせずにおしゃべりをしていたほうが、おしゃべりの内容自体は充実するのではなかろうか。
「何を話していいのかわからない」と困っている人同士なら、トランプをすることによって、「トランプの試合情勢」という話題が生まれるので、言葉を交わすとっかかりができ、それによって仲が良くなり、やがてトランプの試合情勢以外の話題へ移っていくと思われるので、そういう意味では意味がないということもない。
でも、「トランプの試合情勢」を言葉を交わすとっかかりにする必要も、本当はあんまりない、と僕は思う。
知育とか、子どもがルールの中でものごとをする練習といった目的のためならば、とても役立つと思うし、大人であっても、ある目的意識のもとでトランプをするのならば、きっと実りのある活動になるだろう。
でも、そういうことでもないならば、あんまり積極的にトランプに参加しようとは思わない。
少し前「人狼」というゲームが流行った。けっこうよく誘われた。でも、ほとんど断った。一度だけやったことがあるが、それは「たまたま迷いこんだ会合が、ぐうぜん人狼をやるための集まりだったので、流れで参加した」という事情だ。もちろん、面白かったし、ほとんどの相手が初対面だったが、ゲームを通じてすぐに打ち解けた。
しかし、それだけの話だ。
ボードゲームの類も、ほぼ同じ感想を抱いている。それをやっている間は、基本的にそれしかできない。
スポーツ全般に対しても、そのような態度だ。
ルールのないところから、あえてルールのあるところへ飛び込んでいくことの魅力が、僕にはあんまりわかんないのだ。
根本的にルールが嫌いなんだと思う。
ルールに縛られている間は、ルールを守らなければならない。
人はどうやら、意外と、ルールの中にいると安心するし、その中でいかに工夫して「勝つ」か、ということに、熱を上げる。
そう、トランプは、あるいは人狼やボードゲームやスポーツは、最終的に「勝敗」にいきつく。不自由だ。
ルールの中で工夫して勝つ、ということを、人は人生を通じて行っている。
だから、上に挙げた種々の「ゲーム」たちは、人生の縮図なんだろう。
それは人生の練習なのだ。
でも、ここでいう「人生」というのは、「現在の支配的な価値観の中で一般的とされる生き方」にすぎない。
逆に、「ゲーム」を通じて、「支配的な価値観」を支配的たらしめている部分も、あるんじゃないか? ワールドカップだ、オリンピックだ、を頂点として。
トランプっていうあまりにも一般的なゲームは、当たり前に存在しすぎていて、当たり前に人々に「そういう価値観」を再確認させる。
不自由、と僕が信じる価値観を。
つまり「ルール」を。「ルールの中で工夫して勝つ」ということを。
でも、ルールを守る必要のない人たちが、どこかにいて、ルールのなかで頑張っている人たちを、利用している。
トランプ的なものたちは、そういう人たちのために存在しているのではないか? とさえ思うことがある。世の中には、ルールのない遊びや、決まり事が流動的に変わっていく遊びが、無限にあるし、その場で作り出すことだってそれほど難しくない、と思うんだけど。(小さい頃には、それができていた人も多いのでは?)
ルールには流動性がない。
トランプをやっている間はトランプしかできない、ということが、僕にはとてもつまらなく感じてしまう。
トランプがいつの間にか手裏剣になって、忍者ごっこにでも変わっていけばいいんだけどな。大人だって、誰だって。
【↓の補足】
>「こないだは映画デートだったんだから、こんどは遊園地いこうね」とかでもいい。
>この「だったんだから」が、等価交換の発想を示している。
>「遊園地いこう」ではなく、その前に「だったんだから」がつくのだとしたら、たぶん根底に「天秤」がある。
これはさすがに「天秤」ではないのでは? という指摘があった。
確かにその前に書いているような意味とはずれるが、広い意味では天秤かな、という意味で書いた。
デートの内容として、映画や遊園地をある種の「重み」があるものとして捉えて、比較している、ように思えるから。
遊園地に行く必然性があるから遊園地に行くのではなくて、前のデートは映画という種類のものだったので、それとは違うものとして、似たような「重み」を持つ遊園地を選択した、という感じ。(わけわかんないかな)
遊園地に行く理由を、映画という別のものに求めている点で、天秤的であり、等価交換的発想に近しいなと。
遊園地に行く理由は、遊園地の中に、あるいは、遊園地と自分たちとの関係の中にあるほうが自然では? と僕は思うので、「こないだは映画デートだったんだから」という言い方は、あんまり好きでないのである。
2017.02.02(木) 天秤型平等主義(量的)と質的平等としての自由
天秤型平等主義とは、「あなたはこれだけの利益を得たのだから、平等主義的観点から、わたしも同じだけの利益を得るべきなので、あなたの天秤に置かれているものと同じ重さのモノを、わたしの天秤の上にも置かせていただきます」という考え方。
「あなたはお肉を二枚食べたのだから、わたしにもお肉を二枚食べる権利が生ずる」という主張のもとになる気分で、量的な判断基準である。
ただしこれは、「後手」であることが基本。
「あなたはこれをしたんだから、わたしも」という、後手の発想。
すでに邪悪な空気が立ちこめているのだが、これが先手に回ると、さらに雰囲気が変わってくる。
「わたしはこの利益が得たいから得るのだけれども、その代わりあなたにも同じ利益を得ることを許す」
「あなたはこういう利益を得た・得ている・または将来的に得る“はず”だから、わたしにも同じ利益を得る権利が生ずる」
こういった態度が「先手」である。
「あなたが浮気をしたのだから、わたしもする」(後手)
「わたしは浮気をするけれども、あなたにだってそれを許しているのだから問題ない」(先手1)
「あなたは浮気をした・している・または将来的にする“はず”なので、わたしもする」(先手2)
ここに複数の問題が生じるであろうことは想像に難くない。
その根本をたどっていくと、やはり「量的」であることがあげられる。
「一回は一回」の発想。
この量的発想の中では、「あなたは浮気をしたのだから、わたしはあなたの財布から1万円いただく」ということは、原則として許されない。「浮気」と「お金」は、同じ数直線の上にないので、量的な比較ができず、平等が実現されない。もしそこを交換しようと思えば、交換比率(レート)を設定して、「両替」を行わなければならない。「ほかの人と手をつないだら5000円、キスをしたら1万円、最後までしたら3万円」と、事前のあるいは事後の取り決めが必要となる。
または、「わたしは5万円ぶんくらい傷ついた。この傷を埋めるには5万円いただかなくてはならない」という、慰謝料または損害賠償の考え方になる。
欲望が通貨になっている。欲望資本主義とは、かく意味であったか。
「あなたの満たした欲望(=利益)は、5万円ぶんのものであるから、わたしも5万円に両替しうるなんらかの欲望(=利益)を得なくては平等ではない」というのが、僕のいう「天秤型平等主義」なのだ。
「あなたはお肉を三枚食べてもいいよ、わたしはお肉を二枚と、たまごをもらうから」(スガキヤの特製ラーメンを二人で食べる場合)
これは人間社会の約束ごととして、とても普通に行われていることだ。「こないだはあなたの観たい映画を観たんだから、こんどはわたしの観たい映画を観よう」であるし、「こないだは映画デートだったんだから、こんどは遊園地いこうね」とかでもいい。
この「だったんだから」が、等価交換の発想を示している。
「遊園地いこう」ではなく、その前に「だったんだから」がつくのだとしたら、たぶん根底に「天秤」がある。
天秤は「重さ」(量的な、数直線で表せるもの)を測るので、「平等か、そうでないか」が、簡単にわかってしまう。というか、それをわかるためのものが天秤で、それが人の心の中にある。
僕の心にも天秤はある。それがさまざまな負の感情を呼ぶ。
これをなくすのが、いわゆる「悟り」に近づく一歩だろう。
お釈迦様は天秤など用いない、と思う。
だが、まあ、完全になくすのは難しいし、人間社会ではむしろ不便かもしれない。うまくつきあっていきたいものだなあ、と今のところは考えている。
そしてさらに考えたいことは、「では、質的平等というものは存在するのか?」ということ。
あるいは、平等とは量的なもののみをさすのだろうか?
そんな気はする。
たぶん質的な平等というのは、「平等」という言葉では言い表せない境地なのだと思うのだ。
それはたぶん、「自由」という言葉をもって表される。
ほんとうの自由は、平等を侵すのではないか。そしてそれは、それでよいのではないか。
あとはバランス。美意識と優しさの問題。
美意識も優しさも、バランス感覚をさすのだと思うが、前者は空間的、後者は時間的なものですね、たぶん。(優しさとは未来を考えることだ、という定義を最近したので。)
自由とは、質的に平等であるような状態である。それは、量的な平等とはぜんぜん違う。
ふつう質的な平等というと、さっき挙げたような「お肉とたまごとの交換」のようなものを想像するのではと思う。同じ数直線上にないものどうしの交換。でもそれは、レートを設定しておなじくらいの数値にそろえるプロセスをほぼ必須とするから、じつに量的で、等価交換の原則から一歩も外に出ていない。
そうではなく、質的な平等(=自由)とは、いかなる交換も必要としない境地なんじゃないのかな、と直観的に思っている。
それを「交換である」と思った瞬間に、量的になるからだ。
だから、自由を目指す人は「奪われても与えることから」という発想に至る(尾崎豊『
自由への扉』)。
このいましめ、万事にわたるべし。(徒然草92段)
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