少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2017.01.25(水) すりよるおじさん

「若い人に人気の何か」を褒めるおじさんは、その「何か」を褒めている何パーセントかの若者のことばかりを気にかけていて、それに興味のない実はけっこう多くの人たちのことが目に入っていない。それが実際に何パーセントかというのはわからないけど、学校という空間にいるとどんなものでもせいぜい数パーセントから数割くらいじゃないのかなって思う。過半数を超えることなんてまずない。
 だからそういうおじさんは、別に「若い人」なるものに優しいわけではない。そのほんの一部に目を向けているだけ。でもそれでわかった気になるおじさんはいる。

 そういうおじさんの手をすり抜けて、自分なりの美意識を高めていくためには、「若い人に人気の何か」から逃げることも一手だと思う。

2017.01.15(日) 神が秘められているような(ある光)

 神様、というものが、「あらゆる神秘的なもの」を象徴的に表す言葉として使われることがある、と思う。
「神秘的」というのは、オカルトな、霊的なことではなくて。

 人間は時に、論理や理屈、常識や道徳など、どんな観念的なものよりも、ひとすじの肉体性を信じる瞬間がある。
 肉体性。「感覚」と言ってもいいかもしれない。

 自分が幸福に感じる瞬間を思いだしてみる。いろいろあるが、たとえば真夜中に、静かな田舎道とか、日本海の海岸線とか、峠とかを自転車で走っている時。こころが昂揚して、目にうつるもの、音、頬を切る風、ハンドルの手触り、すべての感覚が、幸福や美しさとでもいうべき、一つの答えに収斂されていって、それが世界そのものとまったく合一する、というような、不思議な状態。
 それを言葉で説明することはできない。仕方なく僕なら「詩」と称した文字の羅列をものしてみて、やはり上手には表現できずに、「こんなもんか」と妥協する。でもその「詩」をあとから読み返してみると、その時の感覚がほんの少し、よみがえる。
 2002年の10月、今も続けているあの詩のブログを開始したのは、「意味のないことを書きたい」という強烈な欲求に突き動かされていたからだった。その頃僕は受験勉強の真っ最中で、「論理」「理屈」「常識」「道徳」などの観念的な世界にどっぷり浸かっていた。それで苦しくて僕なりに肉体のほうへ向かっていきたくて、でもそのことをはっきりとわからなかったから、文字を使うほかに術をわからず、意味を抜くことによって「感覚」の世界に入っていけることをどうにか発見したのだろう。
 書いている時は、ほぼ「トランス」していた。狂ったピアニストのようにキーボードを叩いた。感覚を文字にし、その文字によって感覚を次から次へ引き出していく。論理も文法も整合性も要らなかった。その解放感が心地よかった。
 すべての文字が、心の中にある一つの答えに収斂されていく。それを言葉で説明することはできない。塊のようでいて、この世界そのもののようでもある。そのものというか、ルールというか、縁起のようなものかもしれない。
 そういう気分は、「神秘的」の片隅にあるものなんじゃないかと。

 心の中にある、言葉で説明できない何か。それによって引き起こされる、明らかに正常ではない状態。人が、信じられないような不思議な経験をするのは、そんなときなんじゃないか?
 神様や魔法や奇蹟や妖精は、人の心が作り出したものだという。だからそれはインチキや勘違いなんだってことではなくて、そのような不思議が人間には、ひいてはこの世にはあるのかもしれない、というわけで。
 手かざしで病気が治ったり、気功の力で人が吹っ飛んだり、っていうのは、人間の心の働きで説明がつく、らしいし。
 可能性が あるんじゃ ナイノ。

 それで、全身で感じる、あの感じのこと。
 自転車で「いい道」を走り続けていると達する、完璧な瞬間。
 それがある以上、神様もいる。
 神秘的というのは、「人智を超えた」ものだとずっと思っていて、科学的な僕の脳は、「そんなことは結局、本当はないんだ」と考えていた。でも神秘的というのは、「神が秘められているような」と読み替えれば、「超えた」ではなくって、「人智の中にある」ものなんじゃないか、と。
 人の心はそれだけすごい。光もあれば、虹もある。
 割り切れるものではなく、その意味で常に唯一無二。

2017.01.14(土) こまけーこたーいいんだよ、

『ポッピンQ』というアニメ映画がとても好きで、ついつい学校でもその話をしてしまった。前の授業で何をやったのか、黒板に「練馬」なんて書いてあったものだから、「練馬→大泉→東映→ポッピンQ!」と連想が働いたのである。
 誰も観ていないだろうな、と思っていたら、ある女子生徒がキャーと声上げて、とても面白かったらしい。めっちゃ泣いた、とも。『君の名は。』はクソつまんなかったと言うので、そういう(どういう?)感性の子なのだろう。
 ともあれ、高校1年生の女の子がイイと言うのには、ちょっと安心。そういうふうに、届く人のところに届いたら、いいなあ。

 新宿で舞台あいさつがあるというので二回目を観に行った。監督、とてもいい人だと思う。こういうことなんだよな、と思えるような、良き人柄の方と見えた。プロデューサーの方も、キャストの方々も、みんなイイ感じで、和気あいあいとしていて、はたから見る限りにおいては、よい現場だったんだろうなと思った。特にキャストの方々が、作中の内容をよく覚えていて、それをネタにしていろいろ冗談言ったりとかもしていて、なんだか演劇部だったころを思いだした。演劇部にいると、過去にやった舞台や今練習している芝居の内容やセリフを、すぐ引き合いに出してきたりパロディにしたり、楽しかったなあ。その感じ。愛された作品なのだな、と。作中の矛盾点というか、突っ込みどころについても笑いながら突っ込んでて(ダンス中の音楽はどこから聞こえてくるの? とか)、うんうんそうだ、こまけーこたーいいんだよ、と改めて。

 こまけーこと考える人は、こまけーことを考えてしまう。「女の子たちがかわいかったから観た」と言った先の女子生徒は、たぶん、あまりこまけーことを考えていない。そういえば『ガーリッシュナンバー』というアニメに対しても、「内容がどうこうじゃなくて、主人公の性格がホンットにだめ!」と素直な感想を出していた。
『ポッピンQ』は、中高生が観るべきものだと思って、でもひねくれた中高生は、あんまり気に入ってくれないだろうな、と予想していたが、何のことはない、ひねくれていない中高生は無限にいるのだ。忘れるところだった。

というわけで本渡上陸作戦、今回の任務はこれにて、しゅーりょー。

2017.01.13(金) ネットと日常

 これは押しつけになりますがきいてください。
 僕の好きだったインターネットというのは、「インターネットと日常が切れていた」インターネットです。インターネットはインターネット、日常は日常、と、はっきり分かれていて、ネット上に日常の事情や人間関係は持ち込まないし、日常(家庭や学校や職場)でインターネットの話はしない。そういうふうに分かれていたからこそ、インターネットはファンタジーな空間で、楽しかったのだ。
 今はもう、そんな時代じゃない。それはわかっているし、ある程度は従うつもりだ。しかし、「分けておきたい」と思う人もたくさんいるのは間違いない。
 ネットはネット、日常は日常。
 だけど、もちろん、「両方を知っている人」同士であれば、こっそりと、他の人にわからないように、その世界を横断することは、むしろ楽しい。だってそれは「その人たちだけの秘密」になるから。
 インターネットを日常と切り離すと、「秘密の楽しみ」も生まれるわけだ。
 今の時代、ちょっとがんばれば、生徒がここを見つけることは難しくない。二秒で見つかる。もし見つけたら、ニヤッと笑って、心にとどめて、ほかに人のいないところで、こっそり耳打ちでもしてくれ。そうしたら素敵な「秘密の共有」が始まるし、ふたつの世界の純粋さも、保っていられる。
 野暮なことはするもんでない、という話なのだ。

2017.01.10(火) ABCD包囲網

 ABCDという言葉を使えばABCDの世界に取りこまれてしまう。あなたはあなたであるというのに。今さらだが、「性別を気にしたくない」と言う人が、「性別を気にしないぞ!」という“気にしかた”をせざるを得なくなったりというのは、ちょっとした不幸だと思う。
 ABCDの世界にはAとBとCとDしかいない。「いや違う、今やABCDというのはあらゆる性的少数者をシンボル的に表しているのだ」という話もあるのかもしれないが、基本はこの四種類だと思う。シンボルとなるからには、「多数派と認められる」という民主的な手続きによって、そうなっているのだろう。
 たとえば、ABCDの世界にはA党、B党、C党、D党があって、議席の過半数、いや3分の2以上を占めている。E党以下、少数議席の党も加わって、たとえばぜんぶで500議席あるとしよう。その500議席の中での多数決で、ABCDの世界は動くし、たぶん世論もそれと遠くない動き方をするはずだ。
 ABCDという在り方を認めることは、その多数決によってつくられた世界の中に住む、ということ。
 それはそれとして存在を否定することは難しいけど、「自分は結局、なんなのか」ということを見失わないようにしたほうがいいだろう、とは思う。
 自分はABCDである、あるいは、それに共感する者である、と自覚すると、それを標榜する集まりに顔を出すようになったりして、次第に取りこまれていく。
 だめなわけではないけど、「自分」はだんだん変容していく。
 だめなわけではないけど。

 昨日書いたことと繋がっているわけです。

2017.01.09(月) デスボリード(1)

 たとえば、「デスボリード」という製品があるとする。デスボリードは海外からの輸入に頼っていて、実はその製法の過程でたくさんの人が殺されているらしい。それで人は叫ぶ。「デスボリードは邪悪!」
 しかし、デスボリードの輸入と販売で生計を立てている人は、「デスボリードの製法過程で命を落とすのはすでに死刑が確定した者だけで、当国の法律でも認められた正当な手続きだ!」と言う。
「でも。世界中のデスボリードの九割は日本が輸入し、消費している。日本がデスボリードの輸入をやめれば、少なくともその製法の過程で死ぬ人はかなり減る。ある国では、デスボリードを作るために死刑を廃止にできないでいるらしい。日本の姿勢次第で、その国から死刑をなくすことができる」
「ああ、あなたは死刑反対論者なんですね。そんなに死刑がいやなら、まず日本から死刑をなくすことから始めたらいかがですか。ほかの国のことをとやかく言うのではなくて。それに、あなたはデスボリードの恩恵をまったく受けずに暮らしていると言えますか? 言えないでしょう。デスボリードのおかげで、日本は豊かさを保っていられるのです。やめろと言うなら、代替案を示してください」
「百年前にはデスボリードはなかったわけだから、その頃のやり方に帰れば良いのではないですか」
「不可能。携帯電話のない世界を想像できますか?」
「デスボリードと携帯電話は違います。私は、デスボリードがなくても生きていけます」
「それはあなたの勝手だ。ただのわがままだ」

2017.01.08(日) 内省

 こなすべきことが多すぎるため、しばらくそちらにしゅうちゅういたします。
(ものを書くのは、むしろ増えるかもしれない。)

 求められたらできる限り応じる、というのは僕のいいところでもあるけど、たぶん今そのせいでがたがきている。
 誠に勝手ではございますが今年は少々休業いたします。

2017.01.07(土) 直観と予感

 行くべきか迷って、だらだらして、結局行ってみたら、行ってよかったと思う、なんてことはよくある。
 博打なんだけど、虎穴に入らずんば虎子を得ず、可能性があればそっちに行ってみる、という精神は忘れたくない。
 直観は信じてもいいが、予感はたやすく信じないほうがいいのだ。
 予感を信じる、というのは、「だろう運転」になる。
 直観は、どちらかというと「かもしれない運転」で、そっちのほうがむしろ安全、かもしれない(直観)。

2017.01.06(金) 神様を信じる強さ

 ってのは、わかった、つまり、「かもしれない運転」なのだ。
 奇跡も、魔法も、妖精も。
 あらゆる神秘的なことは、信じるに値する。

 神様が目の前にいない以上、「いる」と言い切ることは誰にもできない。
 でも「信じる」ことなら、誰にでもできる。
「信じる」というのは、そのものずばり、「かもしれない」ということだ、よく考えたら。
「絶対にこうなんだ」と強く思うことは、意外と「信じる」ではなくて、ただの断定。そこに、神秘性はない。
「たぶんこうだろう」というのも、「信じる」というより、「予想」とか「決めつけ」。
「かもしれない」にこそ、神が宿っているのではないか?
 テキトーに聞こえるかもしれないけど、意外と。

 神様は、目の前にいないからこそ、いる「可能性」だけがあって、そこに「信じる」の余地がある。「かもしれない」が生まれる。
 もし神様がハッキリといるのなら、そこに「可能性」は生まれない。
 奇跡も、魔法も、妖精も、目の前にないからこそ、信じられる。
 祈るときに目を閉じるわけだ。

2017.01.05(木) 意識高い

「意識高い」ということの定義を思いついた。
「意識高い」というのは、「高低という尺度を持っており、高いことをよしとし、できれば高くありたいと思っているさま」。
「高くなくてもいい」「低くていい」と思っているさまを、「意識低い」と言う。
 一方、「高低という尺度」を持っていない人たちは、「意識高い」でもなければ、「意識低い」でもない。
「高低という尺度」を持ってしまうと、その時点で「意識」なるものに取り込まれてしまう。
「意識」というのは、すなわち「高低」なのだと思う。


「高低」という尺度を持っている人たちは、「こっちの水は高いよ」という感じで、人をおびき寄せる。寄ってきた人に対して、「ここにいれば高くなれる、高くあれる」と甘くささやき、囲い込む。
 そして「低い」におびえさせる。
「低くありたくない、高くありたい」と思わせる。

 高低とは、さらにいえば数値とは、そういう性質のものだ。
 ……尺度とは、と言ってもいいのだろうか。

 優劣も善悪も、高低とよく似た性質をもつ。
 いつか、そういったものが一緒にある世界へ。


 高いも低いも、ある以上、ある。
 たとえば、高いことが善くもあれば、悪くもあり、どちらともつかなかったり、善悪がめまぐるしく入れ替わったり、そういうふうでも別にいい。
 尺度自体がいけないのではなくて、尺度が固定化するといけないということなのかも。

 流動体について。

2017.01.04(水) ポッピンQ

 東映アニメーション創立60周年記念作品『ポッピンQ』面白かった。

 ものを評価する時に、因果が逆転してしまうことがある。
 たとえば、
「関係が育まれていく過程をじっくり描くなら、あそこで手を繋ぐのは早すぎる」
 みたいな言い方。
 これは、おかしい。
 事実として、そこで手を繋いでいるのであるから、それを前提に話すべきなのではないだろうか。
「あそこで手を繋いだことによって、二人の関係は……」というような語り方になるのが、自然だと思う。
 あるいは、
「あの二人、まだ手を繋ぐには早かったよね」
 と言うのならわかる。
「制作者側は、こういうことを描きたかったはずだが、それはこれこれの理由により、達成できていない。よって減点とする」みたいな言い方が、批評にはけっこうよく見られる。

 たぶん、子どもは、描かれたものをそのまま受け容れる。
 それは、空が青く、雲が白いのと同じように、所与のものである。

 あるふたりのキャラクターがいて、きゅうに仲良くなっていたなら、二人は仲良くなったのである。「何も描かれていないのに、きゅうに仲良くなるのはおかしい」と言うのは、それこそおかしい。仲良くなるにはもちろん理由がある。それが劇中にはっきり描かれなかったとしたら、描かれなかったところに「何か」があるのだ。我々は「何かがあるんだな」と思うしかない。
 その「何か」を想像したり、感じたりすることも、鑑賞ということの一部だろう。

 とはいえ、作品を享受する側として、その「何か」がちゃんと描かれていたほうが気持ちが良い、という事情はあるかもしれない。そういう人にとっては、その「何か」が逐一描かれない作品は、つまらないと感じるかもしれない。


『ポッピンQ』のなかで、今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの木の橋を、陸上部で短距離走をやっているいすみ(伊純)が走り抜ける、というシーンがある。
 橋の長さはちょうど100メートル。計算によれば、これを11秒88で走り抜けないと、橋が壊れて転落してしまう。(説明が難しいので簡単にだけ書くが、いすみのライバルのななは、かつて「11秒89」の記録を出していて、11秒88を出せば、いすみは数字の上でななに勝つことになる。)
 ここでの突っ込みどころは、「なんで橋がちょうど100メートルやねん!」「なんで都合よくいすみの目標タイムと一致すんねん!」。
 いすみはここで、「無理」だと尻込みするのだが、そのときに「落ちたら死んじゃうし……」といった心配は、一切出てこない。周りの面々も、「落ちたら死亡」的なことを、まったく言わない。いやいや、普通だったら危険性とかも問題にするだろ?
 でも、『ポッピンQ』ではそんなことは、一切、無視なのである。
 橋がジャスト100メートルである理由も、走り抜けるべきタイムがいすみの目標と一致することも、転落によって死ぬ可能性も、どうでもいいのだ。
 だって、これはアニメだから。
 異世界のお話だから。
 そういうことが「そういうこと」として与えられているのだから、そういうこととして受け容れるしかないのである。それを「おかしい」と言うのは、野暮なことだ。
「うそでなければ語れない真実もある」とは、岡田淳さんの『竜退治の騎士になる方法』に登場するフレーズだが、まさにこれ。

『ポッピンQ』には、そういう「うそ」がたくさん出てくる。
「普通だったらこうならないでしょ?」とか、「どういう頭してたらこれを受け容れられるの?」とか、「ちょっと都合がよすぎじゃない?」といった疑問が、大人の頭にはたくさん出てくるだろう。
 でも、実際そうなっているのだから、文句をつけたってしょうがない。
 頭を使うなら、それを前提として、受け容れたうえで、考えるべきだ。

『ポッピンQ』の主人公たちは全員中3で、エンドロールのあとで高校生に上がる。なんと偶然、全員が同じ学校に進学しており、さらに生徒会長として挨拶に出てくるのが、異世界で出会った「レノ」という男の子だった。
 こんな偶然、あるわけがないのだが、「あるわけがないのに、ある」ということは、「偶然ではない」という可能性が考えられる。
 実際、才女キャラのあおい(蒼)は、「これって、偶然かしら?」とつぶやく。
 ここで観客ははっきりと、「あ、すべてのことは別に偶然じゃなかったのかも」と考えることが、可能になるのである。
 橋の長さが100メートルであったことも、それを11秒88で走らなければならなかったことも、「偶然」なんかじゃなくて、仕組まれた必然だったのかもしれない、と思わせる。あおいの「偶然かしら?」という何気ないせりふは、そういうほうへ意識を誘導する。

 ポッピン族のいた異世界で起こったことが、どれだけ妙で、「うそ」のように思われても、それが偶然でなくて、一種の必然であったならば、べつにどんなことでもあり得て良いのである。
 まず、異世界に飛ぶ、という時点で現実的ではないのだし、何があっても別に構わないではないか。
 そのうえで、起こったことをそのまま受け容れて、分析したかったら分析すればいいし、考えたいように考えればいい。
「こんなことはあり得ない」とか「現実的じゃない」とか「展開に無理がある」とか、そんなことはナンセンスだ。実際に、それは起こっているのだ。
 また、「○○が描けていない」というのもおかしい。描かれたことがある以上、描かれていないこともあるに決まっている。「○○が描けていない」というのは思考の出発点にはなっても、終着点には決してならない。
 たとえば『ポッピンQ』には、僕の見たところ「エロ」が描かれていない。だからなんだといったら、なんでもない。ただエロくないだけである。それを批判する人がいるとしたら、ちょっとおかしな人だろう。
「○○が描けていないから、よくない」ではなくて、「○○が描かれている」で、よいのではないか?
 描かれていることしか、描かれていないのだから。
 描かれていないことは、描かれていないのだ。
 こんなふうに書いているとまた「ハイコンテクスト」とか言われるのかも知れないが、重要だと思って書いている。

 描かれていないことは、描かれていない。その「描かれていない」ことは、観客が自由に埋めることができる。「こういうふうに埋まるべきだ」と言うべきでは、ないと思う。
『ポッピンQ』をもし子どもたちが観るとしたら、そういう自由が与えられていてほしい。

2017.01.03(火) あの人のこと

 1月3日、『ポッピンQ』という映画を観た。とても良かったので、関連書籍を求めて書店に立ち寄った。18時すぎ。熱田イオン4F、未来屋書店。
 そこに、あの人がいた。
 すれ違いざま、「知っている人だ」と思った。その時点でもう、誰だかわかっていた。
 少し前にいなくなった人だ。よく似た人だろう、と思ったが、それで済ませることはできず、引き返してさりげなく、前の方から顔を見た。
 その人だ、と思った。背格好、髪型、顔、コート、スニーカー、すべてに見覚えがあった。
 一つだけ違ったのは、表情だ。

 書店の入口でダレカに電話をかけて、その顔のまま、力なく手を振った。書店の中から、十代後半くらいの男の子が出てきた。
 ふたりはエスカレーターに乗って駐車場のほうへ登っていった。僕はそれをぼんやり見ていた。
「なぜあの人がここに」とは思わなかった。十分に「居うる」のだから。
 ポッピンQの関連書籍を三冊買って、僕は僕でみんなの待ってる堀田のガストへ歩いて行った。

2017.01.02(月) 十代の影ふたたび

 ふつか。
 高校時代の友達と会って話す。ずいぶん久しぶり。
 彼は、高校時代からそうであったが、精神的に正常でない。今や県知事(たぶん)からもお墨付きをもらっている。
 公的にも認められた「ヤバい奴」なわけだが、彼はしっかりとそれを自覚していて、受け容れてもいて、その点じつに謙虚である。
 とはいえ、いちばんヤバかった時よりはずっとよくなっていたようで、僕も楽しく話すことができた。
 何でか知らんが、彼は僕のことが好きである。うれしいことだ。
 簡単にいえば、僕が面白いやつだからだろう。

 彼はこう言った。
「前に君のホームページに、ミュージシャンやってる人の日記を貼ってたよね。そこに書いてあった、『でも、それは嫌なんだ』っていう一言。俺、ぜんぶあれだと思うんだわ」

 この文章のことだろう。
 彼は、とても記憶力がいい。正常ではないレベルで、よく憶えている。
「でも、それは嫌なんだ」という精神は、この記事のタイトルである「十代の影」という言葉が表しているように、若い。
 こんな若い気持ちを、三十過ぎた我々が共有して、有り難がるというのは、よっぽどあほらしいことかもしれない。ときおり自分で恥ずかしくなる。「こうじゃないほうがいいんだろうな」と、日和りそうになる。そのたびに「でも、それは嫌なんだ」という声が、胸の内から耳に届く。

 しばらく実家で過ごして、古い友達や、そこらへんの飲み屋で出会う人らと話していると、正直な話、彼が求めるような「面白いやつ」とは、そうそう出会わない。みんなそれぞれ魅力的ではあるものの、決まってどこか「これでいい」という姿勢で、生きている。
 僕は一度も、「これでいい」と思えたことがない。思おうと努力しても、ちっとも成功しなかった。

 同じ世代の人たちは、どんどん「一般」や「安定」のほうへ行き、幸福を獲得している。「子どもが生まれて、世界でいちばん自分が幸せだと思うから、誰のことも羨ましいと思わない」と、ある友達は言った。
 地元に土地と家があって、両親は公務員、自分も奥さんも公務員。子どもは三人。僕の同級生の中ではトップクラスに「ちゃんとしている」人間だ。
 そりゃ、そうなんだろうな。
 ただその友達は、さすがに僕の友達だからなのか、「家庭と仕事以外にも常に自分を広げていかないと、子どもから頼られる存在で居続けることができない」とも言う。それも同感だ。いいお父さんで、いい職業人であることが、すなわち「いい人間」「いい男」であるわけではない。「だから、知らない人と話し合える空間が欲しい。いろんな人と話して世界を広げたい。ゴールデン街の例の店みたいな場所を自分で作るか、見つけるかしないと」なんてことも言っていた。
 いいバランスの求め方だと思う。
 東京にいれば、それはある程度たやすい。名古屋市内ならば、まだありうる。しかしその外となると、ぐっと選択肢は狭くなるだろう。
 今はインターネットが発達しているから、そっちから攻めるのもありかもしれない。

 精神の正常でない彼も、実はほとんど似たようなことを言っている。「もっといろんな人と話して、世界を広げていきたい」と。彼はインターネット(mixi)も活用しているが、オフの世界でも「えいやっ」と踏み出していきたいそうだ。
 また彼は、「去年はじめて、本を読むようになった」とも言った。
「俺はさ、君とかよりも10年以上遅れて、青春時代をやっとるようなもんなんだわ」

 やっぱり、僕や彼らを動かしているのは、「でも、それは嫌なんだ」という精神なんだと思う。
 それを「十代の影」なんていう後ろ向きな言葉(三十代の僕らにとって、「十代」という言葉はもう、後ろにあるのだ)で表すのも、ちょっと嫌だ。

 カントは死ぬ間際に、1杯の紅茶を飲んで言った「これでよし!!」
 すべての審判は死ぬ日で十分だ。

 そんな言葉たちを未だに真に受けて、「これでいい」という言葉を温存している。(ちなみに島本和彦『逆境ナイン』と中村一義『ピーナッツ』からの引用)


 その後カラオケに行って、Kannivalismの『クライベイビー』とかをねっしょうした。

2017.01.01(日) Hello, Again

 晴れたれば、鮮やかれ。英語でいえばハロー・アゲイン。
 今日も元気にがんばりまーす
 KMJSかたもみじょーし!!
 モノマネにならないオリジナルな本当のスタイルで

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