少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2017.03.09(木) 卒業式

 卒業式だった。
 この日にしか明らかにならないこと、というのがある。
 去年もそうだった。“この日”になって初めて、声をかけてくれる子がいる。それはこの一年のことがすべて詰まったような声で、とても重みがある。嬉しい。

 僕の授業はかなり特殊である。誤解を恐れずにいえば、手を抜いていない。「子ども相手なんだから、このくらいの説明でいいだろう」ということは、まずしない。「これだけ説明すれば、この中の何割かは理解してくれるだろう」というレベルのことをする。言葉数が多いし、「断定」をあんまりしないので、わからない人にはわからないかもしれない。
 子どもは、「こうである!」と言われることに慣れていて、それを言われれば、「そうなんだ」と思う、素直な生きものである。思わなければ、それは「反抗」になってしまうので、意図的に「反抗しよう」と思わない子は、たいていは「そうなんだ」と思う。そのどちらでもなく、「そうかなあ」と保留できる人は、たぶんかなり少数なのだ。
 僕は、「こう考えると、こうなりますが、こう考えた場合、このようになるし、ほかの考え方をすれば、まったく別の考え方になるでしょう」というふうになるように、努めている。
 あるいは、「一般的にはこう言われますが、そうかなあ、と思ってみてください。どうでしょうか。たとえばこのように考えることもできますし、他の考え方もあります」とやる。
 それはもしかしたら、とてもわかりにくいやり方なのかもしれない。

 去年卒業した生徒と、食事(カレー)を一緒にしたとき、「先生の言ってたことで、いちばん役に立ってるのは“かもしれない運転”です!」と言っていた。
 こうだろう、と一つだけの予測で突っ走るのではなく、ああかもしれない、こうかもしれない、というふうに、いろんな可能性を考えてものごとにあたれ、というはなし。
「えー、むずかしい。どうしたらいいんですか?」とたぶん、当時その子は言った。それに対して僕は、何事につけてもとりあえず「そうかなあ」と思うべし、みたいなことを言った。
 彼女はそのことを挙げてくれたのであろう、たぶん。
「そうかなあ」という、保留の態度は、とても大事だ。僕の授業は、たぶんそれでかなりの程度、一貫している。

 でも、「そうかなあ」と思えるのは、じつはかなり高級なことなのだ。
 だから、僕は「そうかなあ」の実演を、授業を通じてしていたつもりなのである。


 高3の三学期、あるクラスで「スピーチ」をさせた。数分間、自由に何でもしゃべっていいよ、という丸投げ授業だが、卒業間近の彼女たちが、「自由に」と言われて何を話すのか、興味があったのだ。もちろん、そこで話されたことに対しては、僕は持てる限りの能力をすべて使って「ツッコミ(コメント)」をして、「少しでも誰かにとって実りのある話」に導いていこう、と意気込んで臨んだ。
 初日の発表者は6人。そのうちの5人が、なんと「自己紹介」をしたのである。
 ちょっとまて、高3の三学期に、自己紹介って、なんぞ?
 しかも、その内容といえば、だいたい以下のようなものである。「○○××(名前)です。誕生日は◎月□日、血液型は△型です。……えーと、好きな食べものは◇◇です。おわります。」5人のうち4人までが、このレベルか、それに毛が生えた程度のものであった。(1人はけっこう「いい自己紹介」で、かなり褒めた。)
 このような展開は、僕にとって喜ばしいことではなかった。すなわち、指導の失敗である。一年間、自分はいったい何をやってたんだ、ぜんぜん教育なんてできていなかったんじゃないか……と反省した。
 しかし、ここで折れるわけにはいかない。なんとか、「少しでも誰かにとって実りのある話」にするため、ツッコミ(コメント)を入れなければ。

「ありがとう。ちょっと短かったかな。ところで、あのさ、どうしてきみは自己紹介をしたの?」

 これは、本当に、素直な疑問である。
 でも、座って聴いていたほかの子たちは、そんな疑問を、持っていなかったかもしれない。「この人、なんで自己紹介なんてことを始めたんだろ?」と思った人は、果たしてあの場に何人いただろう。
 問われた子は「えっ」と困っていた。考えたことがなかったのだろう。
「何も話すことがないから」と、ある子は言った。
「何も話すことがないと、なぜ自己紹介をするの?」
 と僕は、できるだけ嫌な言い方にならないように、かさねて聞いた。
「え……なんか、何も考えなくていいから」
「なるほど」
 なるほどである。
 何も考えたくなかった、ということだな、と僕は納得した。
 全員に同じことを聞いたが、彼女たちの意見を総合すると、「スピーチとかだるいから、以前に話したことのある内容で、何も考えずにするすると言葉が出てくるようなことで、短く済ませられることといえば、まあ自己紹介」ということらしかった。
 考える=だるい、実際のところ、かなり多くの人にとって、そうらしい。

「うん、自己紹介をした理由はわかってきた。そんならさ、なぜ自己紹介をするってなって、誕生日と血液型を言ったの?」

 こう聞くと、どの生徒もいちど、言葉に詰まる。
 そのあとで、答えられる子は答えてくれるわけだが、ある生徒の口から出てきた言葉は、あるいみ完璧なものだった。

「そういうもんだから」

 そういうもんだから! そのとおりだ!
 心底から、納得した。
 彼女たちは、「自己紹介とはそういうものだ」と思っているから、「自己紹介をする」となったら、誕生日と血液型を言って、それから好きな○○とか、所属している部活とか、住んでいる場所を言って、それでオワリとするのだ。
「そういうもんだ」と彼女たちは思っている。
 それで僕は、どうしてもこう思う。

「そうかなあ」

 50分の授業で、6人の発表、1人あたま3~5分発表して、それに対してまた何分間か、僕やほかのみんなとの質疑応答がある、となれば、時間はギリギリ足りるかな、というところ、だと思っていたのだが、さにあらず、15分くらい余ってしまった。みんな、30秒で終わっちゃうから。
 それで僕は、黒板に「なぜ人は、話すことがない時に自己紹介をするのか」「なぜ人は、自己紹介をするときに、誕生日や血液型を言うのか」と書いて、それについて話すことにした。
 詳しいところは省くが、けっきょく、「そういうもんだから、と考えて、その通りに行動して、それでいいのか?」と疑問を投げかけて、終わった。


「子どもに、どうして赤信号を渡っちゃいけないの? って言われて、なんて答える? “危ないから”、って言う? もし、その道路がまっすぐで、一キロくらい先まで見渡せて、それで車が来ていなくても、“危ないから”って言うの? もしかしてみんな、“そういうもんだから”って、言う? それっていい答えなのかね?」

「だってさ考えてみてよ、みんながさ、親とか先生とかに対して、むかつくとか、うざいとか、ヤだなと思うときって、けっこう“そういうもんだから”みたいなことを言われたときじゃない? あるいは、ぜんぜん何も考えずに、“あれをしろ”とか“これはダメ”とか、言われたときじゃない?」

「“そういうもんだから”っていう言葉は、そういう言葉なんじゃない? 僕たちは、できるだけそういう言葉を、子どもとか、ほかの人に投げつけてしまわないように、したほうがいいんじゃないのかね。どうして赤信号を渡っちゃいけないの? っていう質問には、ほかにも絶対、いい答え方がある。それを考えられるようになるために、みんなはこれまで“勉強”なんてことをさせられてたんだと、僕は思いますよ。」

「“そういうもんだから”という言葉をつかうのは、危ない。なぜかというと、その言葉を受け取った人に、“この人はわたしのために何も考えてくれないんだな”と感じさせてしまいそうだから。自分のために何かを考えてくれている、という実感は、その人にとって、たとえば小さい子どもにとって、とても嬉しくて、生きる糧になるようなことなんだと、思うんだけど。」

「それはひいては、“自分は生きていてもいいんだ”とかっていう、自己肯定とか、自信とかっていうものに繋がっていくと、僕は思うのですよ。」


 なーんてことを、ついつい、語ってしまったわけだ。これを「価値観の押しつけ」と思われる方がいたら、申し訳ない。僕はこのくらいのバランスの取り方しか、今はまだできないのだ。
 学校の先生として、そして僕個人として、「何も考えないでいたい」とか「そういうもんだから、そうする」といった考え方について、「そういう考え方もあるよね、それもいいと思うよ」なんて、言えないもの。
 もし僕が「それもいいと思うよ」って言うんだとしたら、「まあ、それをバカって言うんだけどね」みたいな、ひどい一言を、付け加えてしまうんだもん。それは学校の先生として、できないこと。だからしない。「(そのままだとバカってことになるんだけど)」というのを心の声として、「そういうの、僕はよくないと思うんですけど」とだけ伝える、というのが、せいぜいそのときに僕ができたこと。


 こういった授業を通して、誰が、何を思ってくれたかはわからない。
 言えるのは、一学期、二学期とがんばってきて、三学期にフリーテーマのスピーチをしてもらったら、上記のような内容を話す人が、けっこうな数でいた、ということである。
「力不足」というやつですね……。
 次の時間からは自己紹介はかなり減ったし、べつのクラスではそのように内容のないスピーチをした人は一人もいなかったので、あれはあのクラスのあの時間の「空気」のせいだった、ということではあろう。しかし、そのような「空気」が醸成されてしまった責任は結局のところ僕にあるので、もうちょっとうまいことやれたらよかったなあ、と反省している。
 ただ、同じように言えるのは、当然のごとく「おもしろいスピーチをしてくれた子も、そのクラスの中にちゃんといた」ということ。あの「空気」をはねのけて、話してくれた。そのことについては本当に感謝である。
 さっき、6人中5人が自己紹介、と言ったが、つまり残りの一人は「ちゃんとテーマのある話」をしっかりしてくれたのである。そしてその子は、卒業式のあとに僕のところに(4人くらいで連れだって)来て、「先生の授業と紙(プリント)、とても好きです」的な温度のことを、言ってくれたのである。(そのあとさらに、その子のお母さんからも声をかけていただき、「うちの娘が」と、おなじようなことを言っていただいた。)
 ああ、ちゃんと届いているんだな、と、嬉しくなった。その、連れだって来てくれた4人の子の中に、例のクラスの子は3人いて、そのうちの2人は、果たして僕の授業を楽しんでくれてんだかどうだか、よくわかんなかったのだ。けっこうちゃんと授業を聞いてくれているようではあったけど、それが「面白いから聞いている」のか、「いい子だからいちおう聞いている」なのかは、ぱっと見じゃわからない。(わかる子もいるけど、勘違いだったらイタいので、わからないことにしている。)
 最後になったけど、わかってよかった。ほんとうに。

 そのように、卒業式の日になって、ようやく言葉をくれる子がいる。くれない子もいる。顔を合わせられなかった子もいる。でも、まあ、わざわざ言葉にしてくれなくても、好ましく思ってくれていたり、何かが伝わったような相手は、いるはずだ。そう思っていないと、やってられない。伝わらなかったように見えても、何かをこびりつかせることはできたかもしれないし。教育なんて、すぐに効果が出るようなもんじゃないんだし。

 そういえば、「先生の授業は、国語なんですけど、なんか、ほかの全部の授業を一緒にやってるような感じがして面白かったです」と言ってくれた子がいて、これはじつにじつに嬉しかった。じっさい僕はそれを目指している、というか、国語の、特に現代文の授業ってのは、そうでなければいけない気がする。明治維新がどうの、とか、鎌倉幕府がどうの、という話は、一年のうちに何回もしたなあ。

 卒業生のうち、僕が授業を担当していたのは100人くらいだけど、この中で「友達」になってくれる子が、どのくらいいるかな。とても楽しみであります。これからもよろしくお願いしますね。

2017.03.08(水) メロディと言葉

 ヴォーカルには二種類あって、メロディを歌う人と言葉を歌う人。
 という仮説をたててみた。
 僕は言葉を歌う人がとても好きで、Amikaさんなんかはその典型。
 言葉がちゃんと言葉として伝わるように歌う(あるいはそうなるように作詞・作曲をする)。ものすごく単純には、日本語なら日本語本来の発音の仕方やイントネーションをなるべく崩さない。
 言葉の一つ一つ、音の一つ一つを、丁寧に歌い上げる。どんな言葉にも音にも、それぞれ一つずつ意味があって、大げさに言えば何千何万年の歴史の上に積み重なった、人の気持ちの蓄積がある。それをすべて引き受けて歌う。僕が初めてAmikaさんの『世界』を聴いたときに感じたのは、そのようなことだった(と今思えば思う)。
 言葉を歌う人は、メロディを平気でねじ曲げる。「音符のど真ん中を正確に発声する」ということに決して、こだわらない。上下にも、左右にも存分にぶれる。
 それは「クセ」とか「歌唱法」であったりもするが、本当に言葉を優先する人は、そのどちらでもなく、その都度その都度で、言葉によって、あるいはその瞬間の直観によって、歌い方を変える。
「おもしろい歌い方」をする人ってのはけっこういるんだけど、大抵の人は、それは広い意味では「パターン」でしかなかったりする。「こういうメロディの動き方をするときは、こういうふうに歌をいじくってみる」「こういう感情のときは、こういう感じに歌ってみる」というふうに。それで「その人独特の歌い方」っていうのが生まれて、それに慣れて心地よくなってくると、中毒みたいになって、ハマる。バンドでいうと、PIERROT、SOPHIA、CASCADE、cali≠gari(石井)……なんかはきっとそのタイプで、すっかり僕は中毒である。ベンジーや清春さんなんかもそうかも。
 すべての言葉と音と、気持ちに対して誠実に向き合っていて、決してパターン化しない、となると、やはりすごいのはAmikaさんだ。彼女のモノマネをできる人は、ひょっとしたらいるかもしれないが、「もしAmikaさんが別の人のこの曲を歌ったら」というモノマネは、かなり難しい。「クセ」や「歌唱法」ではないから。公式化できない。
 YUKIとTama(ヒスブルね)がぜんぜん違うのって、僕はそこだと思っているのです。(僕はもちろん、Tamaちゃんが好きなのです!)
(今それで聴き比べてみたけど、いやー、Tamaちゃんいいですね……。)

 YUKIは、メロディを歌っている、というか、メロディに歌わされている、とさえ思えるような歌い方……に僕には聞こえる。だからこそジュディマリは「聴きやすい」し、ポップだし、多くの人に受け入れられるし、「共感」というところにいきやすいのだと思う。だって、原則、たぶん言葉よりもメロディのほうが「ポップ」なんだから。また「多くの人に共感できる」ためには、ある程度単純でなければならない。それは「意味」だけでなくて。


 ネットを通じて知ったAyaQaさんという人もそのように、言葉を歌う人だ、と思う。夜中のツイキャスでぎこちないギターの弾き語りに載せられた歌を聴いて気になって、ライブに行ってみたのだ。
 最初の曲が『よるの独白』というので、一人で出てきて、タンバリン叩きながら、アカペラで歌う。メロディはあまり秩序だっておらず、歌われる言葉の量や熱量によって、一番と二番とで小節の数さえ違うような感じ。歌うようであり、語るようであり、実際ただ語ってるだけのような瞬間もあった。
 リズムを刻むのは本人のタンバリンだから、タンバリンを打つタイミングは完全に自由。変拍子どころの騒ぎではない。タンバリンを打って、次に打つまでの間が2秒であって、その次に打つまでの間が今度は3秒であったりしても、何の問題もない。そのゆらぎが、スウィングってえものだ(たぶん)。
 サビは、備わった感覚がそうさせるのだろうが、耳に残り、心に残る、「ポップ」と言っても差し支えのないものだったが、かといって「ゆらぎ」は失われない。とても心地よかった。
 いいな。自由ってのはこういうことだ。他人のドラムや、ギターに支配されない。ギターの弾き語りも似たようなものだが、あれだとどうしても「コード」につられてしまう。コードの範疇にない音を出してしまうと、不調和が際立つ。アカペラであれば、調和もくそもない。タンバリンはほとんど、講談で机を「バン!」って叩くようなくらいのものでしかなかった。(ピアノはその意味ではギターより自由だが、鍵盤楽器なので、ド、レ、ミというふうに分断されたデジタルな音しか、原則として出すことができない。)
 もちろん、一人でなくては自由でいられない、ということもなく、たとえばジャズのトリオやカルテットが、アドリブで優れた演奏をできるのならば、その時その人たちは立派に自由、といえるのかもしれない。(人間関係もそのようでありたいものだ。)

 AyaQaさんという人は、まことに原始的に、「歌う」ということをしているように感じた。自由、といって渾沌としすぎるでもなく、もともとポップセンスに秀でているのだろう、どの曲もサビのあたりはキャッチーで聴きやすい。こういうシンガーがたくさんいたら楽しい。

2017.03.06(月) (ヘル+スケル)ター

 僕はやらないのですが
 パチンコというものがある。
 パチンコは楽しい。パチンコは気持ちよい。お金が増えることもある。
「射幸心」なるものを煽り、人間にとって根源的な欲求をある意味では満たす。
 依存症になることもあるが、それも人間らしいといえば、人間らしいと言ってしまえる。
 誰もがパチンコにはまってしまう可能性を持っているし、「パチンコ」ではなくても、べつの何かに似たようなはまりかたをする人はとても多いはずだ。
 パチンコにはまる人を、パチンコにはまらない人は、ばかにしたり、「自分とは関係ない」と思ってしまうが、そういう「自分とは関係ない」人たちは、とてもたくさんいる。本当にたくさんいる。そういう人の存在を無視すると、世の中のけっこう多くの範囲に対して、目をつぶることになる。

「パチンコのようなものにはまってしまうのは、人間らしいことだ。」
 実際にパチンコにはまってしまうことがなくても、ツムツムや2048といった単純なゲームにはまったり、ソーシャルゲームに依存して課金しまくったり、アイドルに熱を上げたり、たばこを吸ったり、「パチンコのようなもの」は、いろんな形をとる。心当たりがまったくない、という人はあんまりいないはずだ。
 だから、パチンコにはまる、というのは、そういった人間らしさを象徴するもので、「自分とは関係ない」と思うのは、本当はまちがっている。
 パチンコは、人間の根源的な部分をえぐり出すもので、
 パチンコにはまる人たちの転落を卓抜な心理描写で克明に描いた《この作品》は、人間の深部を暴き出す歴史的快作である。


 まあ、そうなのかもしれない。
 納得もする。
 だけど、それでも僕はパチンコを好きにはならないし、パチンコにはまる人たちの転落を卓抜な心理描写で克明に描いた《その作品》も、好きになるかどうかはわからない。
 その作品に優しさを感じれば、好きになるだろうし、優しさを感じなければ、好きにならない。

 楳図かずお先生の『洗礼』を読んだ。とてもひどいことがたくさん描かれていて、怖くて、つらい。「人間の深部」とかいうものを描いている、とまさにいえるようなものだろう。
 僕は『洗礼』を好きだと思ったが、それはたぶん楳図先生がとても優しい人で、最後には、ものすごい力業で、ちゃんと何か、よいことを残してくれるからだ。悲劇のようでも、どこか光がある。
(だから『イアラ』は本当に好きですね!)

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