少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2021年8月  2021年9月  2021年10月  TOP
2021.9.30(木) 夜学バー訴求計画3(目の前論序)
2021.9.23(木) 夜学バー訴求計画2
2021.9.22(水) 夜学バー訴求計画1
2021.9.20(月) 友達より大事な人
2021.9.17(金) 友達とやる仕事
2021.9.15(水) 友達列伝番外 お勉強の想い出
2021.9.6(月) SMLサイクルをまわせ!?

2021.9.30(木) 夜学バー訴求計画3(目の前論序)

 つづき。
 先週の木曜に打ち合わせをしました。話しているうちに、「ドラえもんの空き地」みたいな話から「子供」とか「若い人」に向けた視点が面白いということになり、そっち方面で練り直すという流れに。そして一週間、とくに連絡はない。このまま立ち消えるのもありうるパターン。おねげえだー、乗りかかった船だしやりたいな。
 詳しくは日紀やウーチヤカでもふれたので略。(なんで3つも似たようなことをやっているのだろう? でもこれが人生に、あとから効いてくるのだ、静かに、たぶん。)

 夜学バーというお店は、はっきり言って儲かる構造ではない。バカに見つかったら終わりだけど、見つからないように全力でがんばっているので、おそらく永遠に見つけてなどもらえないだろう。バズったら終わりだし、バズらない。なぜ終わりなのかというと、変容してしまうから。
 最近、価値観が変わっていってしまう、という考え方をよくする。たとえば風俗で働くということ。短期的にお金が儲かるのは確かだし、仕事自体は割り切ってできて、心が傷つくこともないとする。人にもバレないもしくはバレても問題ないとする。ただ避けられないのは、価値観と美意識の変容だと思う。それを良しとするかどうか、という検討は、必ずなされるべきである。
 仕事そのものや、客との関係によってもいろいろ考え方は変わっていくと思うし、何よりも交友関係が変わるのが大きい。いやわたしは同業者と友達にはなりませんと言っても、目に入るのは同業者だったりはする。儲けるためには努力が必要で、その努力というのは基本的に、同業者と自分とを比べるところから始めるのが普通だから。

 葛根湯という人はTwitterでこう書いた。「性産業に一度足を踏み入れれば否応なく競争原理に組み込まれて視野狭窄に陥る、脱出困難になるリスクについては過去に散々書いてきた。性産業を許容すれば裾野は若年層に広がる。/そのまま業界内で加齢しても誰も助けてくれない。/これほど当たり前に買うことが許される社会を変えないといけない。」
 まこと、その通り。「競争原理に組み込まれて視野狭窄に陥る、脱出困難になる」というのが、僕のいう「価値観と美意識の変容」の一部にあたる。中毒も似たようなものだろう。価値観の最上位にアルコールがくるとか、ドラッグがくるとか、セックスがくるとか。恋愛がくるとか。なんでも。それを基準に価値観が組み直される。そして元にはなかなか戻らない。それ以前の自分とは、かなり違った自分に変わる。

 金という大きなものに飲み込まれるのも似たようなものだ。あるいは、評価とか。たとえばバズること。褒められること。儲かること。それが大切になってしまう。そのことが気持ちよくなってしまったら、あらがうことが困難になる。
 自分だけは大丈夫、それを逆手にとってなんとかしてやる、なんてのは、難しいですよ。目の前にあるものに人は左右されてしまうものだから。僕なんかは目の前にスマートフォンがあれば死ぬまでいじくってしまいますもの。目の前にバズがあれば狙ってしまうし、目の前に金があれば掴んでしまう。そういう環境にいてはいけない。なぜいけないのか? そうでない今の自分があまりにも好きで、すでにそうなってしまっている人たちを自分はあんまり素敵だと思えないから。

 期せずして、最近こっている「目の前論」というのの序章になりました。

2021.9.23(木) 夜学バー訴求計画2

 つづきです。

 夜学バーの存在意義は、「仲良し社会」にあるべき場のプロトタイプを提出することであり、そこでふさわしく振る舞うための勘所や能力を身につける練習場たること。
 などと言われても、「ハァ?」でしかない。これをわかりやすく言い換えるのが難しい。
 ダイバーシティ(多様性)社会の中で、互いを尊重し合いながら生きていくための力……?
 そうだと言えばそうである。世の中がダイバーシティを志向するようだから僕も、それなら「仲良し」が必要だよねと思うのである。
 でも、そのように表現することを僕の美意識というか、意地が許さなくて、なんか別の言い回しはないものかと思っていたりする。ありきたりな言葉はありきたりの場に宿る。

 差別がオワコン(コンテンツとしては終わった、ということは小山田圭吾さんや小林賢太郎さんを利用して世間の皆様がよく証明してくださいました)なのは明らか。これからは圧倒的に「対等」の時代。しかし「誰とでも仲良くする」ということは現実的ではない。「誰とでも適切な距離感で接する」という方向でなければおそらく成立しない。そして、本当の意味で「誰とでも」ということもほぼ不可能であろう。日本がクラスタ(小集団)社会である限り、「近い世間」と「遠い世間」は厳然としてあり、その成員間での交わりはかなり限定される。
 夜学バーは、その店名や立地条件、広報の仕方などによって、お客さんはあらかじめ淘汰されている。ダーツ投げてテキーラ飲んでセックスしてバーベキュー! みたいな人は少ない(いないとは言わないし、いてほしいが、事実としてたぶん多くはない)。本を読んだりする人が比較的多い。そのようにある程度限定された客層であってさえ、世の中には本当にいろいろな人がいるので、「対等(誰とでも適切な距離感で接する)」を実現することは容易でない。

 テーマは「みんな仲良く」(Nakayoshi in Diversity!)。
 なんだけども、本当にランダムに人を選んで同じ箱に入れて、「さ、仲良くしてください」としてもたぶんうまくいかない。それを「楽しい」と思うには、かなり高度な好奇心と寛容さが必要だろう。世はそのような成熟を見ていない。それで、「夜学バーと聞いてなんとなく気になっちゃう人」をターゲットに絞り、同じ箱に入ってもらいましょう、というのを今は実験として、やってみている。そしてある程度はうまくいっている。

 現実的に、この日本において、どのような形での「仲良し」が可能なのか。まったく違う価値観の人間同士がとりあえず仲良くすることも必要だが、一時的な関係の場合はあまり深まりを持たない。ある程度は近い価値観(クラスタ)の人間だと、一時的な関係でもそれなりに深く仲良くすることができたりする。完全に別の文化の人同士だと、「ハロー、どこからきたの? 仕事は何やってるの?」からスタートして、うっすらとした世間話くらいまでがようやっとだが、ある程度あらかじめ共有していることがあれば、かなり深いところまで潜っていける。そのテーマを限定するのが「〇〇好きの集まるバー」なわけだが、夜学バーはその裾野をできるだけ広くとろうとしている。「〇〇」というテーマに閉じると、深くはなっても広がっていきにくいのである。

 とりあえずちょっとは考えが進んできた。これから取材の打ち合わせなのでいったん筆をおきます。もしかしたら、また次回。


2021.9.22(水) 夜学バー訴求計画1

 僕の主導する「夜学バー」に珍しく取材依頼がきた。4年半やってメディアに出たのはゼロ(たぶん)である。かつて教え子が、大学の授業で制作する冊子に載せたいと取材・撮影しにきて、原稿は完成したけど配布中止になってお蔵入り、なんてこともあった。あとは……なんかあったっけ。忘れていたらごめんなさい。教えてください。
 少なくとも商業メディアからは一度も、打診すらありません。なぜか? わかりにくいからでしょう。

 かつて「無銘喫茶」というお店で働いていた時には、新聞にも載ったしテレビにも2回密着された。(その動画は、こないだ「平成のジャッキーさん展」で流しました。)
 無銘喫茶の立ち上げ人の1人であるY氏は、「テレビに出るのまでは簡単ですわ〜、ツボさえおさえてたら勝手にやってきますわ〜」みたいなことを言っていた。僕はツボをおさえていないので、テレビは決して来ないのである。

 テレビが来るためのツボとは何か? 僕なりに考えてみると、「わかりやすさ」と「その存在意義」かと思う。まず、そのお店がどういうお店で、どこが特別なのかが明確であること。できればワンフレーズで表現できることが望ましい。そこがフックとなって、「へー」と視聴者の目を引く。無銘の場合は、「日替わり店長」というキーワードがあった。毎日店長(責任者)が変わるなんてスゴい! ということ。
 は? 毎日店長が変わるとか、そんな店いくらでもあるだろ、とお思いのあなた! 2000年代半ばまでは、そんなもんどこにもなかったのですよ。無銘喫茶がその道を切り拓いたと言っても過言ではないのです。だからテレビが何度でも来たのであります。
 無銘喫茶の開店は2002年。その頃は世間にまだ「日替わり店長」という概念は(たぶん、ほぼ)なかった。僕が通い始めるのは2005年で、週に1日立つようになるのが2008年。ちょうどこの頃に(姉妹店の「無銘食堂」ともども)取材がいっぱいきていた気がする。
 開店から「バズる」までにはたぶん5〜6年かかっている。だから夜学バーも6年経てばバズる、という話ではない。無銘には「わかりやすさ」があった。それをワンフレーズで表現もできていた。そして「存在意義」も明確だった。いくつかあるが、よく取材でスポットを当てられていたのは「夢を叶える」すなわち自己実現である。
 ふだんどんな職業をしている人でも、週に1日だけ、あるいは月に1日、または単発1回限りでも、「自分のお店」が持てるのだ、という視点。「お店やさんごっこ」で気軽に自己実現! というストーリー。ここ5年くらい、ほぼ同じ発想の「イベントバー」的なものが大人気だが、その原点は無銘喫茶にある、と僕は信じている。しかしその子供であるはずの僕は、その方針を継がなかった。2012年11月1日をもって僕は無銘喫茶から離れ、翌月一日から自分のお店(おざ研→ランタン、夜学バー)を始めた。

 わが夜学バーには、わかりやすさがない。存在意義も曖昧である。いったいなんなのだ? どういう意義があるのだ? というのは、正直言って僕にもよくわかっていない。だから取材も来ない。今回お声がけいただいて、ちょっと困っている。メディアに訴えかけるための準備が、まったくないのだ。

 ご依頼くださったのは、まだ始まっていない新しいメディアで、場所や人などを映像と記事で紹介する、その第一弾として夜学バーを選んでくださったとのこと。いやー、よくぞこの「絶対にバズらないお店」を真っ先に選びましたね。感動しています。なんとかします。
 なんとかしますというのは、上記した「わかりやすさ」と「存在意義」を、少しくらいは考えてみますということ。もう4年半もやったんだし、ちょっとくらいは簡潔に言語化できないといかんなと、ちょうど考えていたのです。
 あんまり詳しいことはまだわからないのですが、このメディアは芸術畑の人たちが指揮をとる、芸術畑の人たち(美大生とか)をまずはターゲットとしたものらしいので、そんなにど直球にわかりやすくなくてもいいし、むしろ分からないくらいがちょうどいいのだろうとは思うのですが、「わからない」というのは「届いた」ということが前提なので、少なくともそこを意識していっぺん、自分の今やっている夜学バーというお店はいったいなんなのか? ということを考えてみようと思って、この記事を書き始めたわけです。「よくわからないように届ける」を目標として。
 そんなふうに考えているわけなので、たぶん僕の記事はバズりませんけど、いいんですかね……。でも、お受けするからには少しは皆様の心に引っかかるものになるよう頑張ります。ぜひ一番手、やらせてください! 順番変えないで!


 というわけで、ここから考えます。

 さっきメールで想定質問集がきました。取材者さんがこのお店の特徴をよく理解してくださっているのが伝わってきます。それら質問に素直に答えるだけで、夜学バーがどんなお店かはだいたい言葉にすることができそうなのですが、こっちのイメージが散漫だと、喋るだけ喋って「あとは任せた!」と丸投げ状態になってしまい、いきおい記事や動画も散漫になってしまいそうなので、ある程度こちらでも「わかりやすさ」と「その存在意義」を軸にして固めておかねば。えーっと……。
 すべて考えながら書いています。散歩です。

 そもそも、このお店はなんのためにあるのか?
「世の中をよくする」まずはこれしかない。
 基本的に、商売というのはすべて「世の中をよくする」ために行われなければならない。
 という考えを、まず前提とする。

 僕のいう「世の中をよくする」というのは、もちろん「仲良し社会の実現」である。
 まだまだ、わかりにくいし、具体性に欠ける。
 仲良し、という言葉が曖昧だからいけない。
 でも、あえてそれを押していってもいいのかもしれない。
 今んとこ、「仲良し」という言葉をめっちゃ強調してる人っていないですよね、たぶん。
 でも絶対、遅くとも嵐が覇権を握ったくらいの頃から、もう世の中は「仲良し」を志向して動いていると思うんですよ。

 ただ難しいのは、「仲良し」と聞いた時に、みんながイメージするものと、僕が伝えたいイメージとが、食い違う可能性がかなり高くて、その説明が非常に大変だということ。
 仲良しのお店です! と言ってしまったら、「むり!」といきなり拒否反応を示す人はとても多そうだから、単に「仲良し」と言うだけでは不足な気がする。「届かない」になりかねない。
「〇〇な仲良し社会」みたいに、補足をつけることで「あなたの考えている仲良しとは違う可能性がありますよ!」というアピールをするのはありかもしれない。

 つんくさんが「令和はバランスの時代」と言った、その辺りを攻めるのもありだ。
 また「夜学バー」と言うくらいだから「学ぶ」ということに触れておくと「わかりやすさ」に近づくだろう。
 すると「場のバランスを学ぶバー」くらいのキャッチフレーズに落ち着くか。
「場」という言葉も、いつの間にか言い古されてしまった観があるが、だからこそわかりやすくもあろう。

 仲良しの実現には、「バランス」と「距離感」が肝になる。
 仲良しの発想とは、「誰とでも近い距離になろう!」というのではなく、「誰とでも適切な距離(感)でいよう!」という考え方である。
 人それぞれ「仲良し観」は違う。互いに持ち寄った感覚(距離感、または距離観)を、各々その場で調整しながら「その場限りの現状最適な仲良し」を実演してみる、というのが夜学バーという場の理想的なあり方なのだ。
 ゆえに時には「不干渉」や「沈黙」が選択されることもある。
 そのように夜学バーは場としての様相を「持ち寄られた価値観」に応じて変える。それっぽくいえば、インプロビゼーション(即興による演奏や演劇など)のインスタレーション(場自体が作品であるような芸術の型)なのである。
 その場に入ると、即興でその場に参加することになる。実のところどんな場だってそうなのだ。ただそれを強く意識しているのが夜学バー。だからチャージ(席料)は演芸場をまねて「木戸銭」と表現されている……のかもしれない。後付けのこじつけ。
 と、ここまで書いて、なんとも「わかりやすさ」から遠いものよ、と頭を抱えてしまった。ウウ。

 場のバランスを学ぶバー。
 即興演劇であり、空間芸術であるような。
 それはもちろん教室でもある。
 なーんて、そういう言葉をいくら並べたって「僕の考えた最強の○○」にしかならない。
 上滑りする。
 独り善がりにならぬために、「わかりやすさ」と「その存在意義」が必要なのだ。

 場のバランスを学ぶって何? どういうこと? とまず疑問が来る。
「日替わり店長のバー」のような、パッとイメージを描かせる力がない。
 わかりやすくやれてりゃ、言えりゃ、苦労はせんですなあ、本当に。
「誰でも1日店長になれる」とか、そういうの。
「友達のつくれるお店」「○○好きの集まる店」そういったもの。
 そういうんがないからこそ、今の夜学バーのわけのわからないすばらしさが実現しているわけではあるが、もう一歩、ほんの少しだけわかりやすい、「大ヒント」みたいな言葉があればいい。夜学バーという四文字がすでにまさにそれなんだけど、あともう一歩だけ。

 とりあえず、「想定質問集」に長い長い回答を書いて送った。もったいないのでそのうち夜学のHPに公開させてもらおうかしら。
 続きはごじつ!

2021.9.20(月) 友達より大事な人

 初めて自転車で稲武に行った日から21年。ターニングポイントの1つ。行きたいな稲武。

 お店に来てくださった方から2021.9.6(月)の以下の一節をお褒めいただいた。褒めるっていうか、なんかジャッキーさんの悲哀が垣間見られて云々ということ。

 そうなると、僕にできることはなんだろう。
 先月も書いたが、ただニコニコしている。ただ友達として存在している。

 自分は、ほぼ無条件にあなたの味方です、と思って生きる。「ほぼ」というのが、友達ってことだと思う。友達は、友達でなくなることがあるから。だからこその救いもあると思う。だけど「絶対」とか「特別」を求める人たちは、友達という脆弱な存在にさして重要さを感じないかもしれない。だから徒労感はある。でも友達には、友達でいること以外には何もできない。「ほぼ」ではありますが、ぎりぎりまで愛しています。

 なるほど確かにいい文章ですね(自画自賛)。
 困っている人は、100%の救いを求める。完璧に助けてほしいと願う。当たり前である。気休めよりも真の救済がほしいのだ。しかし「ある1人の友達」がそれを与えてくれることはない。そうなったらもう友達じゃない、「友達より大事な人=依存先」なのだ。
 自分を完璧に助けてくれるもの。恋人でも、神でも、言論でも活動でもなんでも。そっちのほうが友達なんかよりずっと確実。医者も薬もホストもそう。自分の中に強固なアイデンティティを一つ、設定してしまうこともそう。「私は〇〇である」と宣言して、「そうですね!」「いいですね!」と言ってくれる存在(仲間、支援者、共感者等々)を実感することも。
 そういったものたちに比べて「友達」なるものは曖昧で脆弱に見える。だから切り捨てる。そして孤独となり、上記のようなものたちに囲い込まれて抜けられなくなる。

 ア、ウウウウ……脳内に声が響いてきた……。「私はどうせ、もともと友達なんかいないから、その話は私には関係ありません」
 出、出ーーーー!(懐かしい)
 人の話を聞いて、そこに出てくる当事者の状況や環境や事情の中から自分とは異なる部分を探し出して、それをもって自分とは関係ないと断じ、それ以上考えることを拒絶す奴〜〜〜〜〜!!

「はい、そのお話の中ではその人はうまく行って非常によろしかろうと思います。しかしその人は両親が離婚しておらず、私の親は離婚しておりますので、このケースは私には当てはまりませんから、私のこの状況を好転させるのに一切の意味を持たないですね。では次、お願いします。」
「はい、貴重なお話ありがとうございました。そのかたのお写真を拝見いたしましたところ、私よりも数段、容姿に優れているように思われますので、その話をそのまま私に適用させるのは不可能だと判断いたしました。お忙しいところご足労感謝もうしあげます。」
「はい、もう一度確認させてくださいませ。その人は○○大学をご卒業してあそばされますよね。次、お願いします。」
「はい、その方はご実家が土地付きの一軒家で、父親はすでに死亡しているものの母親との関係は良好ということでしたよね。私は生活保護を受けている母親に嫌われておりますから。では、次。」

 Ah! 漫画を読もう! 君の約束通り手を繋いで! Ah! 夜にはお別れです! 林檎と苺が腐る前に! Ah! 夢は広がる! 君の約束通りキスをしながら! Ah! 君とはお別れです! 最後の晩餐楽しみましょう!
 漫画にはいろんな境遇の人が出てきて、ほぼ全ての登場人物が自分とはほぼ一致しない状況や環境や事情の中にある。漫画に起こることは現実にはほぼ起こらないので、何の参考にもならん! というわけではなくて、その中からなんか本質的っぽいものを学んで、自分なりに生活の中に役立てていく、というようなものなんだと善良なるオタクの僕は思います。
 そしてその何の役にも立たんかに見える「自分には直接役立たない具体例の数々」というのは、「友達」というものにけっこう近いのではないか。
 これが、特定のキャラクターを「推す」という事態になると、冒頭に申し上げた「友達より大事な人」になってしまう。依存先になる。恋人や神に求めるものを、キャラクターに求めるという話になる。
「友達」のような依存しない距離感で、あらゆるものを見つめて役に立たせるバランス感覚さえあれば、人生は少しずつでも好転していく、と僕は信ずるものでありますが、

「私、漫画読まないし、読んだとしても推しを作ること前提なんで、この話は私にはいっさい関係ないですね!」

 という声が……ウウウウ……脳内に……響き渡ります。
 人の話を抽象化して、自分に関係のあるレベルまで変容させてから受け入れる、というのが、聞き手とか読み手の役割であって、聞いたり読んだりすることの醍醐味だと僕は思います!

 核心は「漫画」にあるのではなくて、「『友達』のような依存しない距離感で、あらゆるものを見つめて役に立たせるバランス感覚」にあるのです。
「だったら、どうすればいいの? 漫画は無理なんだけど?」
 と言われて、僕はいつだって困ってしまう。
 たまたま僕の中には漫画があるだけ。
 あなたの中にあるものや、あなたの目に見えるものからどうにかするしかないので、あなたの中にものを増やしたり、今見えてないものを見ようとするしかないんじゃないでしょうか。

2021.9.17(金) 友達とやる仕事

 本所一丁目に、高校の同級生の関わったおしゃれカフェがオープンした。大学の同級生だった西原くんが死んだのも本所一丁目である。僕も今、旧本所区内に住んでいて、どちらも自転車で10分かからない。今日はその生きているほう、U氏(このHPではたいていN氏)に会ってきた。常駐じゃないし店員さんでもないので、探し出して行ってみても彼はいません。あしからず。
 会うのはかなり久しぶり。現在の話、未来の話、過去の話のバランスがよくて、とても健やかな気分になった。友達はいつでもいいもんだ(参考文献:岩沢厚治『シュミのハバ』)。彼はゆずのファンなのである。僕がゆずをけっこう好きなのはこの人の影響。東京ドームの「ゆずのみ」に連れて行ってもらったことがあります。

 こないだKKベストセラーズから『仕事人生あんちょこ辞典』という本が出まして、僕はテープ起こしという単純作業(質や精度というものはある)で参加し、いちおう編集協力として巻末にクレジットされております。750ページあって場所取るし、3000円くらいするので買わなくてよいです。本屋で見かけたら立ち読みでもしてくださればと思います。もちろん、友人が一所懸命編集したもので、僕も楽しんでテープ起こしできたし、良い本だとは思うのですが、なにぶん大きくて高いので、すごく気に入ったらぜひどうぞ。
 たいして強くすすめないのにどうしていきなり紹介するのか。この本は加藤さんと角田さんという二人の対談で構成されているのですが、この二人は、高校(県立千葉高校1年A組)の同級生なのです。そこが実のところこの本のいちばんの魅力だと僕は思っています。
 高校の同級生で、ずっと友達として付き合いはありつつ、互いにまったく違った仕事をしていた。50歳になって、「一緒に本を出したいね」みたいなノリになり、じゃあ対談でも、とやり始めてみたら盛り上がりすぎて750ページという大冊になった、ざっくりそんな事情だと思います。
 たぶん、この二人が長い付き合いの友達でなければ、せいぜい300ページくらいに収まったのでは。けっこう膨大な時間のテープを聴いたわけですが、とにかく楽しそうだし、苦のない様子。「仕事」という意識が、ほとんど伝わってこなかった。ほっとけば1000ページにも2000ページにもなりかねないのを、わずか750ページにおさえた編集者はえらい!?……いや、正直もっと薄くしても良かったとは思う。そうすれば「情報効率」みたいなものはひょっとしたらよくなるかもしれない。でも、このボリュームだからこその、失礼を承知でいえばあほらしさというか、無用の長物感(悪口ではありません)みたいなものは削がれてしまう。その過剰さがどこから来ているかというと、「高校時代からの仲良しが50歳になってひたすら語り合っている」という情況なわけです、絶対に。
 内容だけとってみれば、この本を「必要」とする人は少ないのではなかろうかと、どうしても思ってしまうのですが、内容の外側にある「存在感」みたいなものは、僕はかなり好きなのです。このずっしりと重たい巨大な書物は、高校時代から積み上げてきた「仲良し」の結晶、でしかないので。
 念のため書いておきますが、内容が面白くないとか出来が悪いと言っているのではありません。読めばためになることはたくさんあるはずですし、索引や脚注なども狂ったように細かく作ってあり感服します。むしろよく出来すぎていると言いたいくらいなのですが、だからこそ、誰がこの熱量を受けとめるんだ? という疑問はわきます。
 思いっきり意識しているはずの分厚いベストセラー『独学大全』『問題解決大全』『アイデア大全』は、「独学できるようになりたい~」「問題解決能力を高めたい~」「アイデア力を向上させたい~」みたいな対応する欲求(需要)があって、著者の膨大な熱量を受けとめる対象がわりとはっきりしています。『仕事人生あんちょこ辞典』は、すべての働く人間が対象となりそうですが、そのうちの何人が「よっしゃこい!」とこれを購入するのか。けっこう多いといいな……と願っております。

 N氏は、ひょっとしたら今後、僕のお店で何かやるかもしれないし、T氏(僕らと同じクラスでT薬局の御曹司)と何かやるかもしれないらしいし、今日もあれこれ、仕事の展望みたいな話をした。出会って20年とか経って、友達と何かやるっていうのは、とても素敵なことだと思う。正直に言って、友達と仕事なんてするべきじゃない、という考え方はよくわかる。上で紹介した本も、もし売れなければそういう話になってしまうかもしれない。友達同士だったからあのような分量と内容になった(と僕は勝手に思っている)わけなんだけど、それが売れるかどうかは置いといて、とりあえず僕はそこに圧倒的な友情パワーを感じてしまって、「これは捨てらんないなー」と思ってしまっているし、気がつけばパラパラとめくっていたりする。つまり、なんかそういう、役に立つかとか金が儲かるかどうかとはちょっと違った価値が生まれてしまうのが、「友達とやる仕事」ってもんなんだろうなあ。もちろん、うまくいった場合の話ではあるけど。
 今後、お金とセックスはオワコン化していきます。唐突で恐縮ですが間違いありません。「まだお金とセックスで消耗してるの?」という時代が来ます。今のうちに離れたほうが身のためです。仲良しと友達の時代が来ます。「(内容はともかく、)君が友達と作ったっていうこの肉筆回覧誌はなんだかすごくいいね!」みたいな世界。オワコンというのは終わったコンテンツの略で、終わった言葉かもしれませんが好きなので使っていきます。
 日本一有名なフェミニストこと田嶋陽子先生(80)の本をいま立て続けに読んでいるのですが、「なるほどなあー、そしたらもう、セックスはオワコンですなあ」と思わされます。29年前に出た本を読んでそう思うんだから、そろそろ本当にそういう時代が来るというか、もう近くまで来ているのかも。従来の射精完了型セックスは男性が女性を支配・搾取する構造そのものなので、弱まっていくに決まっております。田嶋先生はレズビアンのメイク・ラブや70歳と60歳の男女カップルのメイク・ラブを例に挙げて賞賛するのですが、たとえばそのような愛し合い方がありふれていく未来は、ありそうなもんだと思います。(参考文献:田嶋陽子『愛という名の支配』←名著!)
 吾妻ひでお先生の超名作『エイリアン永理』に、「とにかく射精しちまえば勝ちだ」というすさまじいセリフがあります。男性の基本的なセックス観というものを端的に表しております。「射精=勝ち」なのでございます。そう、勝ち負けで考えているのであります……。
 勝ち負けで考えているから、射精した! 勝った! 終了! となる。男が女を支配するというのは、男が女に常に勝ち続けるということ。そういう構造が崩れれば、「射精=勝ち=終了」という構図もなくなるような気がします。
 では、セックスはどうやって終わりを迎えたらいいのか? ということになると、別に終わらなくてもいいし、食事の終わり時みたいに、なんとなくフェードアウトしてしまうのもいいし、「ごちそうさまでした」みたいな一言をどちらからともなく発するのもいいし。とにかく「はいここで終わり!」というのが、射精によって宣言されるというのが、べつに今ほど支配的ではなくなる時代もくるかもしれないなという話。射精はまあどっかのタイミングであったりなかったりするというだけ。はっきりと生殖を目的とするのならばもちろんメインに据えられる。

 これからやってくるのは絶対に仲良しの時代。「役に立つかとか金が儲かるかどうかとはちょっと違った価値が生まれてしまう」のが良しとされる。セックスも男女ともに「頂点」というものはさして意識されなくなる。そういうこととは別の価値が生まれなければ、なんか意味なかったよね? みたいな雰囲気になっていきます。

2021.9.15(水) 友達列伝番外 お勉強の想い出

 時間があるから本を読むのだが、本を読むから時間がなくなる。他のことが先に進まない。
 世の中にはいろんな種類の人間がいて、僕は「とりあえず本を読むしかない」と思う種類の人間だが、某陽高校103(1年3組のこと)の同級生である某ドバカ氏は当時からよく「経験」という言葉を使った。彼はそんなに本を読むタイプではない(と思う)。
 ところで最近何冊か読んでいる小坂井敏晶さんもどうやら向陽高校の出身らしい。プロフィールに「名古屋の高校で陸上ホッケーを」みたいなことが書いてあったので、ほぼ間違いなくそうだろうと思ったら、やはり。同窓会の掲示板にご本人と思しき書き込みを見つけた。しかも僕と同じく早稲田大学に進んだとのことで、奇縁なり。
 上を見れば旭丘高校があり、東京大学がある。旭丘は実家から自転車で15分くらいのところにあるのだが、目指そうという気持ちはなかった。向陽高校は自転車で30分くらい。教室の後ろにあったカタログを見て名前で決めた、というのは本当だが、もちろん直観的に「このくらいのレベルならいけるんじゃないか?」と思ったのも確かである。内申点が9教科で45点満点のところ、旭丘なら43〜44(できれば45)ほしいところだが、向陽なら40か41くらいでも行けると思われていた。いま調べたら2019年度入学の合格者平均は「41.9」とのこと。当時はまだ益川敏英さんがノーベル賞を取る前(1回目のSSHよりも前で、定時制もあった頃)なので、もうちょっと低かったはず。
 なぜこんなことを書いているのかといえば、何を書こうかぼんやりしていてとりあえず歩き始めてみている。
 東大はおろか名大も自分は無理だとわかっていた。高3に上がった時点であまりにもサボりすぎていたので、文系私大ならなんとか間に合うだろうと算段した。言語が独特すぎていつもみんなの爆笑の種となっていた某ドバカ氏は、二次試験が物理のみの某国立大学へ進んだ。センター試験も合わせると理系科目だけでたぶん全配点の6割くらいになっただろう(現行は1300点中800点→61.5%)。学年で唯一出席停止をくらった二人だったが、それなりのところに食い込めたのでわずかながら恩返しができた(なんと勝手な言い分か)。
 とりあえず本を読む僕が文系のみで受験し、とにかく経験を重視する某ドバカが理系中心で受験したというのは、なんとも象徴的なことだ。ちなみに同じく103のP氏は現役で名大に入ったが、受験勉強らしいことはほとんどしなかったという。「いや、普通に宿題とかやってたし」くらいの感じだった。彼は足し算や引き算が全然できないのだが、どうやって数学の問題を解いていたのだろう。卒業してしばらくして、「お釣りの計算くらいはできるようになった」と語っていた。
 とりあえず本を読むやつ、とにかく経験を重視するやつ、ひたすらマイペースにやるやつ、いろんな種類の人間がいる。
 とりあえず本を読む僕は、本ばっか読んでて勉強していなかったため、理系科目が間に合わず(また必死にやる気もなく)英語と国語と歴史に絞った。とにかく経験を重視するやつはスノボがやりたくて雪山に近い大学を選び、その入試はちょうど物理や数学の比重が高かった。高校までの物理と数学は、おおむね「経験」でなんとかできるようなものというか、経験に強いやつにかなり向いている内容だと思う。ひたすらマイペースにやるやつは、まんべんなく能力を要求される試験にちゃんと通った。
 これはもちろん単なる自慢であり友達自慢だが、優秀な人というのはそのように、自分の適性を把握してそれに合わせて道を選ぶものなのである。えらいなあみんな。
 某ドバカは社長に、P氏は役人となった。理解あるおくさん(二人とも本当に素晴らしい人格者に思える)と複数の子がおり、たぶん幸福に暮らしている。僕もちゃんと幸福である。
 親しい友達にしかわからないことだが、三人とも結構な欠陥品なのだ。みんな頭がおかしい。それなりの学歴は得たが、実のところ大学卒業後は三人とも「まともな就職」をしなかったのである。P氏の前職は僕から見たら「超まとも」なのだが、世間的には「名大まで出てそれ?」だったろう。普通なら中日新聞とか入るのだ。僕と某ドバカはプータロー同然となった。
 それでも我々が不幸に陥らなかったのは、むろん「とりあえず学歴は得たから」というのは大きい。何をしてもそれなりの信用は得られるし、再チャレンジもしやすい。またあまりにもお金のない家に生まれたのでもない(とはいえ公立高校で出会い、二人は国立に進んでいるのだし、よほど金持ちだというわけではないと思う)。その余裕があってこそ、しばらくは好きなことをやっていられたのだ。
 あとは、自分の身の丈というものをよく知っていた、というのが大きい。三人とも多くを望むタイプではなかった。P氏は『ドラゴンボール』さえ読めれば幸せで、某はスノボやってりゃ幸せで、僕はホームページに文章でも書いてたら幸せだった。野望は特になし。足るを知るブラザーズ。
 意外と、遠くを見る人たちではない。自分の周囲、目に見えるところにしっかりと幸せがある。家庭を持ったり、小さな会社を作って運営したり、アニメ見て漫画読んだりっていうところで充足している。僕もけっこうそうなのだ。夢は小さい。ここでいう「夢」は「目標」のことではない。「幸福」のこと。そのぶん密度が濃いのであろう。
 また同じクラスの■氏は、子をたくさんもうけ、地元(愛知県内の岐阜)に家を建て、これまた役人として暮らしている。彼はけっこう行動的で、自転車で山々を走り回ったり海外を放浪(?)したりもしていたし、これからもするのかもしれないが、近年は何よりも家庭を重んじる。やはり自分の周囲に幸福をしっかりと作るタイプなのである。動物が好きだから獣医学部に進んだ。
 また同じクラスのG氏もそうだ。彼は何よりもゲームが好きだった。すばらしいおくさんとともに、今も毎日のように、いやたぶん毎日ゲームをやっている。ゲームが好きだからゲーム学科に進んだ。
 同じクラスのN氏は、正直に言って、彼の幸福がどこにあるのか、いまだに僕にはわからない。これまで出てきた人物の中で、最も「遠く」に目線をやりがちな人間だと思う。転職が多かったが、最近は「これだ」というものが軌道に乗ってきたようで、この先が非常に楽しみである。
 S氏は、全然会っていない。何をやっているのかたぶん誰もよく知らないのだが、それで特に問題はない。おそらく仕事をして、酒飲んで、フットボール見ているのだろう。ある意味で彼も一本通った芯があり、自分のごく近くに幸福を見出している人間なのかもしれない。そろそろ飲みにでも行こうぜよ、と思いつつ、一体何年が経過し続けるのか。それさえも「安定!」と思えてくるのが友達というものだ。
 Mとは定期的に会うのだが、僕があまりにも名古屋に帰れない状況が続いているので、ちょっと前にしびれを切らして電話した。彼もわりと遠くを見る方ではあるが、常に地に足がついている。昔の話よりも今と未来の話が圧倒的にはずむ、古い友達としては非常に稀有な存在。本当にありがたい。
 こんなことを書いていたらキリがない。みんな高校1年の同級生である。他にも親しい人は何人もいて、Mさんは僕のお店に来てくれたり、Twitterを互いに見てたりする。名古屋でも会いたいものだ。錦のバーに連れてってくれ。
 なんで高校の、しかも1年の時の友達の話をしているのかというと、とにかく彼らのことが好きだということでしかないのだが、いま僕が考えていることに関連するとしたら「まったく偶然に出会った」という点。たまたま同じクラスだったのだ。その時は仲良くても、次第に離れていくことが多いなか、なぜか彼らとは付き合いが続いている。
 友達の久保くんを分析した文章(4ページ目が面白い。1〜3は無視していいです、長いので)を読んだついでに、同じ人による友達がいない人という文章を読んだせいだろう。友達について考えたくなったのだと思う。
 その久保くんという人は、まったく身の丈を知らない、というふうに第三者からは見える。某とかPとかは、身の丈をよく知っているというか、身の丈なんてことはあんまり意識したこともないかもしれない。そういうところに、幸福の秘密はあるのではないかと思っている。久保くんが自分を幸福と思うかどうかというのは関係なく、幸福とは、「幸福」だと第三者から認められるかどうかで、社会の中で活性するか否かが変わってくるようなものなのだという、ような話。

2021.9.6(月) SMLサイクルをまわせ!?

 Sex、Money、Lack。
 これが現代の三大要素である!(ドジャーン!)
 今さらながら藤子不二雄A先生の『魔太郎がくる!』をチャンピオンコミックス版で揃え、読み進めているところなので影響がダイレクトに出ている! うらみはらさでおくべきか! やはり修正前の版はすごい。最高。鏡を見るたびに魔太郎のモノマネをしてしまう。それはそれとして。
 セックスと金と不足。世の中にはこれしかない! 僕の最新の絶望である。何をいまさらと言わないでください、普遍的なことは常に最新でもあるのです。
 みなさま不足を感じておられて、足るを知るってことがない。それを埋めるのはセックス(性行為、恋愛、セクハラ、各種性的消費など)であり、金(によって実現できること)である。これらの悪魔合体が「推し」だったりする。自分の性的アピール(性的評価)をお金を使って高めようとするのも同様の化合物である。
 しかしセックスも金も、無条件に無限に供給されるものではない。だから求めるものは不足する。不足を埋めるためにまたセックスと金が必要になる。借金をしたり、過剰な道に走るなど無理をすることになる。その繰り返し。
 セックスと金をめぐって、たくさん傷つき傷つける。その繰り返し。
 ループにはまった人は脱出が難しい。こんな文章によってなど突破口は開かれない。ただサイクルが続いていく中で、いつか救われたらいいのにと願うだけ。ところがいつまで待っても兆しはない。死ぬしかない。
 まず不足があり、埋めようとセックスや金に手を染める。満たされない。より正確には、満たされるのだが持続しない。そりゃ、もともとの不足が解決されていないのだもの。もとを絶たねば。や、誰だってそんなことわかっている。それが難しいから、どうしたらいいかわからないから、なんなら、そんなことしたくないからセックスや金に行く。そのほうが明らかに楽なのだ。苦しみと快楽の往復を繰り返し、時は過ぎていく。
 もしそういう人がこの文章を読んでいて、どうにかしたいと思っているのなら、たとえば岡本茂樹さんが新潮新書で出した3冊の本を参照していただくといい。(『反省させると犯罪者になります』『凶悪犯罪者こそ更生します』『いい子に育てると犯罪者になります』)が、これはたまたま僕がつい最近読んだというだけで、似たようなことはいろんな偉い人がすでに言っている。手も品も違うまっとうな言説はすでに世の中に無数にある。リーチしていない、というだけではなく、おそらく多くの当事者たちには魅力も説得力を持たないのではないか。こういうのってタイミングも重要だから。
 やっぱりタイミング、だと思うべな。「そんなことわかってる」「だからどうしたらいいの?」「そんなことできないよ」で、だいたい止まる。同じく新潮新書で最近売れている『ケーキの切れない非行少年たち』『どうしても頑張れない人たち』というシリーズは、岡本茂樹先生の仕事を高く評価しつつ「だけど、それ以前の人たちもたくさんいる」ということを示そうとしている。「どうしたらいいか」はだいたいもう、わかっている。本人たちがそれに触れる幸運もわずかながらある。だからといって、それが「できる」とか「実現される」かどうかは、また別なのである。奇跡的にタイミングが合えば、「よくなる」可能性はけっこう高いと思う。だが、タイミングの合う可能性はおそらくかなり低い。
 もちろんタイミングだけの話ではない。適切な環境とか強制力とかが、その人のために用意されるかどうか、という点がたぶん最も重要だ。つまり、献身的に誰かがその人のために動かねばならない。人生を捧げて尽力する人たちもたくさんいる。でも、僕の個人的な気分だが、そもそもそこまでするべきかどうか。
 SMLの呪縛にはまって、そこから抜け出せなくなっている人たちを、そこから「出してあげる」ことを、他人が積極的にやるべきなのか? いや、そもそもこんなことを「べき」なんて言葉を使って考える「べき」か?
「べき」と言ってしまったら、価値観の押しつけである。といって、その価値観から見ればどう考えてもその人は苦しんでいる。助けてあげたい。そう思うのは自然だろう。そして実際、「たすけて」とも口にしている。
「たすけて」と言ってくる人に、こう返すのは簡単だ。「セックスや恋愛をやめ、推しをなくし、風俗、ホスト、キャバクラ、ガールズバー、コンカフェ、メイドの店、各種人身売買の現場には決して行かず、LINEはじめチャットや通話のできるアプリとSNSとマッチングアプリをすべてアンインストール、賃貸ならばできるだけ家賃の安い家に引っ越し、自炊を中心にバランスの良い食事を心がけ、外食は1000円以内。固定費と食材、消耗品など生活と仕事に必要なこと以外にはいっさいお金を使わないようにしましょう。寝る時間と起きる時間を決め、毎日明るいうちに8000歩歩き、眠くなくても7~8時間は布団に入って目を閉じましょう。お薬もやめる方向で調整していきましょう。禁煙し、お酒は日にビール500mlぶんまでで、休肝日は週に2日以上。もちろん薬を飲む場合は禁酒です。」と。でも相手はそんなことを求めているわけではない。無理だしイヤ、と思うだろう。そういうことじゃなくて、助けてほしいのだ。
 もっとちゃんと、たすけてよ!
 ありのままの私と、過去も未来も含んだすべての私を受け入れ、肯定したうえで、私にできる、私のやるべきことを教えてほしい、そして苦しみを取り除いてほしい! 誰もがそう願っている。助けるとは、そういうことだ。
「それをすべて、あなたが自分でやればいいんだよ」と言うのは簡単で、実現は果てしなく遠い。
 答えはわかっていても、それを自分でやれないから、「たすけて」と言うしかない。
 でもおそらく、自分でやるしかないということも、多くの人が知っている。「もとを絶つ」ためには。でもできないし、どうしていいのかわからない。(仕方ないから、本でも読みましょう。)

 そうなると、僕にできることはなんだろう。
 先月も書いたが、ただニコニコしている。ただ友達として存在している。

 自分は、ほぼ無条件にあなたの味方です、と思って生きる。「ほぼ」というのが、友達ってことだと思う。友達は、友達でなくなることがあるから。だからこその救いもあると思う。だけど「絶対」とか「特別」を求める人たちは、友達という脆弱な存在にさして重要さを感じないかもしれない。だから徒労感はある。でも友達には、友達でいること以外には何もできない。「ほぼ」ではありますが、ぎりぎりまで愛しています。

 過去ログ  2021年8月  2021年9月  2021年10月  TOP