少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2021.8.28(土) シン・エヴァンゲリオン大魔神
2021.8.23(月) 自分の生き方について

2021.8.15(日) 令和はバランスの時代
2021.8.14(土) 誰も救えない/理性と論理
2021.8.12(木) 老人と子供のポルカ
2021.8.6(金) ネッシー
2021.8.5(木) すん誕
2021.8.4(水) 一瞬の永遠、混沌の秩序(向陽高校演劇部に伝わる練習台本「サイレント・シーズン」より)
2021.8.2(月) 釈迦とピーター・パン

2021.8.28(土) シン・エヴァンゲリオン大魔神

 エヴァーに乗るというのは、他人からの客観的、数量的な評価を自分の価値とする、ということ。
 すなわち、「尺度」によって測られ、束ねられる世界に存在するということ。
 大小や強弱といった、数直線上に表示できるような尺度。その、一本の線の上にすべての人間が存在する、というのがエヴァーが必要な世界の価値観。
 その世界では、そのように人間は「同質」なものとして束ねられて存在している。物差しの上に、人間が一列に並べられる。
 競争や勝敗や序列を生み出す、評価というもの。エヴァーはその象徴。他人と向き合えない人ほど、そっちのほうに走りたがる。自分と誰かを比べたがったり、順位を気にしたりする。とにかく褒めて欲しがる。認めて欲しがる。
 エヴァーのいらない世界は、他人の評価や言葉に依存せず、他者も、自分の弱さも素直に受け入れ、「ありのまま」生きていける世界。それで人とともに生きていく。
 素直で仲良しの世界。『シン』はその説明で、TVシリーズ最終話の壮大なリメイクだという話は、こちら


『大魔神』『大魔神怒る』『大魔神逆襲』3本を立て続けに観た。学割1000円×3。アマゾンのプライムビデオでも見られるようなので、皆様よかったら。特に1、3作目が好き。

 チケットは前後左右に一席ずつ間隔を置いて売られた。最後列は片側三席だけで、その真ん中に座る。左右にも後ろにも誰もいない。けっこう空いていて、前方も端の方は人が少ない。それでも誰かが咳をする。息を殺す。

 神を軽んじたら罰が当たる。それを僕はけっこう当たり前だと思うが、そうは思わない人たちが大魔神シリーズではむごたらしく死ぬ。
 大魔神シリーズでは「神はいる!」「神の怒りはある!」といったことが何度も繰り返される。特に1と2。洗脳のように。僕は3がめちゃくちゃ好きである。3では、疑いの余地がないように思える。
 もちろん神は尺度と無縁。だから僕は『大魔神』が実に好きだし、これからはそういう世界に少しずつなっていくはずである。

 3作目『大魔神逆襲』を観て、自分史的にものすごいことがわかったのですが、書くとあまりに大変なので9月4日のウーチヤカ大放送で話そうと思います。

2021.8.23(月) 自分の生き方について

 たぶん「執筆中」のほうにいつか書くことだけど、いつになるか分からないので先に記しておく。

 2012年12月2日の『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』全話視聴&ロケ地巡りオフ in 高円寺で出会った岐阜在住の留年女子高生(当時)と久々に話した。末っ子の我々がいかに人生を舐めきって暮らしているかという話に花が咲いた。家族で一人だけ助かるとしたら我々が助かる(助けてもらえる)のだろうし、仕事をバックレたり約束をすっぽかしたりするのも平気、なんてことを冗談まじりに話せてしまうのもすべてを舐めきっている証拠。
 彼女は「男男女」の末っ子で、僕は「男男男男」の末っ子だし、その間の年齢差や環境もかなり異なるわけだから、それなりに違いはある。僕は可愛がられ大切にされるのと同じくらい虐げられ軽んじられていたと思うが、たぶん彼女は「可愛がられ大切にされる」の割合が僕よりは高かったろう。数々の超おもしろいエピソードもそれを物語っている。
 それでも合意する部分はかなり多く、たとえば「我々は辛くなる前に逃げる」というようなこと。責任感がない。結局は誰かが助けてくれると思っている。本当に舐め腐っている。
 でございますので、このホームページで語られるようなことはすべて、世の中と人生を舐めきった、生まれてこのかた終始安全圏にいるような人間のたわごとである。一応本心も述べておけば、もちろんそれでも色々辛いことはあった。
 兄に面倒を見てもらったことが多いため、相対的には親の直接的な愛情やしつけを浴びた量が少ない。たとえば箸の持ち方を間違って覚えてしまった(のちに自分で矯正したが自信はない)ことに象徴されるが、常識や「当たり前のこと」が伝言ゲームのように変形して定着してしまっている可能性が高い。加えて、おそらくは生来の注意欠陥、多動、狂気的な性質などによって、特に幼少期から思春期にかけてはうまくいかないことも多かった。常に上(年の近い兄が三人いるということの脅威を想像していただきたい)のご機嫌を伺いながら生活するため、本音は言えず、積極的に行動もできない。それで「言葉や行動に起こさず内にこもって考え続ける」というじつに溌溂としない性質を帯びてしまったのではないかと推察される。また、十分に育ってからは家庭内の問題に悩まされ、部屋の隅で密かに泣いているような思い出が色濃い。
 ただ一方で、可愛がられ大切にされてきたのも事実。両親はもちろん、兄たちはみな僕のことが大好きであり、可愛くて仕方がなく、こっちからしたら虐待にしか思えなかったりもするのだが、たくさんたくさん遊んでもらえた。かけがえのない、素晴らしい思い出が、それぞれの兄に対して無数にある。

 世の中が理不尽であることは当たり前だと思っている。兄たちは僕を時にいじめた。今思えばそれは、向こうからしたら遊んでいただけなのだろうし、幼い僕が何か悪いことというか、そぐわないことをして、それについて怒りや憤りをぶつけただけなのかもしれない。当然しつけでもあったろう。こちらがいくら被害者ぶっても、向こうにも言い分はあったに違いない。あるいは、本当にただ無邪気だっただけなのだ。あっちだってまだ子供だったんだから。
 そして時に、思いっきり可愛がってくれた。僕が幼い頃から藤子不二雄先生の『少年時代』という漫画を愛読していたのは、タケシという少年の理不尽な振る舞いに、真実を見たからなのだと思う。タケシは主人公の新一に対して、のちに「ツンデレ」と表現されるような態度を取る。二人きりの時は大親友のように接し、他の仲間がいるところでは独裁者として君臨する。贔屓はしない。その二面性が新一にとっては「理不尽」で「不可解」に感じられたはずだが、人間というのは結構そういうものなんだというのを、僕は兄たちとのスリリングで幸福な生活の中でもうよく知っていたのだろう。兄たちも『少年時代』をとても好きだった。同じことを感じていたのかもしれない。

 僕の世の舐めかたは、「結局は誰かが助けてくれる」という甘えでもありつつ、「秩序」なるものに対する疑いと、開き直りでもある。
『少年時代』は「愛とにくしみのドラマ」(第一話より)だという。愛とにくしみが同時に存在し、時に入り混じり、反転し、ぐるぐるする。そういう物語なのだ。ところが世の中は、愛は愛で、にくしみはにくしみというふうに分けたがる。それが秩序というものだ。
 人間の混沌をそのままにしておかないために、社会がある。秩序がある。僕はどうやらその内面化(インストール)に失敗してしまったようだ。混沌に美を見る度合いが、社会の許容量を超えてしまってる。

 僕は早々にお金を諦めた。できるだけたくさんのお金を得ようという欲を捨てた。そもそも持っていたかどうかもわからない。お金は社会秩序の根幹である。本当にそれが僕には肌に合わない。秩序から逃げて、かつお金を得ようというのは、あり得ない。それはお釈迦様の手の内から逃げられない孫悟空に近い。お金という秩序から1ミリも離れていない。
 なんてことを書きますとね、だからもう書くことが嫌になるんですけど、どうせそんなに多くの人は読まないからギャンブルのつもりで書いていますが、「だったら金を使わないで生活してみろよ、お前だって金という秩序の中にいるだろうが」みたいな人が出てくるんですね。
 そりゃそうです。だから、のらりくらりと生きてるんですよ、僕は。
 ただ、お金をたくさん得ようという意識を、あんまり持っていないというだけ。そりゃ、たくさんもらえたらラッキーと思う。別に当たり前のことだと思うけど。
 あんまりがつがつしていたくないってだけなの。
 のらりくらり、必死にならず、お金に踊らされずに生きていたいだけ。

 ところで税金ってのはものすごいですよね。たとえば所得が1000万円だと、税率は33%になるのです。控除額は1536000円だから、所得税180万円(+復興税と、場合によっては消費税)。個人事業税が発生するなら50万とか。加えて、東京都だと住民税が100万円くらい。国民健康保険だと、限度額いっぱいで80〜100万円くらいになる? 国民年金は約20万円。(いろいろ間違ってたらごめんなさい。教えてください)
 400万円前後が、税金的なものたちに消えていく。そうしますと、事業主の場合、「たくさん経費を使って税金を安くしよう」という心が生まれる。
 ここが問題なわけです。「税金を払いたくないから、たくさんお金を使わなくては」になる。
 経費でさらに100万円使えば、33%の33万円が「浮く」。さらに使うと所得が900万円を切るので、税率が23%に下がる。同期して住民税や国民健康保険料なども安くなる。
 気持ちはものすごくわかるし、単なる商売の定石なんだけど、ただ現実として、できるだけお金を使わない方が、手元に残るお金は多くなる。33万円浮いたといっても、67万円は減るわけなので。
 もちろん、それは「経費」として使うのだから、その後の商売は有利になる。だから全体的に見ればお得。一面、真理。「今年はちょっと売上が多いから、古くなってきたパソコンをそろそろ買い替えましょうかね」というのは至って自然。わかります。
「今年はちょっと売上が多くて、税金が多くなってしまうから、もう一店舗増やそう」ということもあるだろう。新店舗を出すのに500万円かければ、上記の例だと所得は500万円になり、税金はずいぶん安くなる。しかし僕の性分だと、これはやらない。拡大路線だから。
 500万円かけて新店舗を出せば、税金は安くなるし、将来的にも大きな利益をもたらすだろう。お金がどんどん増えていく。次の年にはたとえば、所得が1500万円くらいになるかもしれない。
 そうすると、また経費を使いたくなって、新店舗をもう一つ出そう、という発想になる。キリがない。これが「常識」であり、「秩序」なのである。経済は回り、発展していく。世の中のお金の量が増えていく。
 そういうことは、本当に性に合わない。

 大きくなることは良いことだ、と、根本的に思っていない。いや、根本的には多少思っていたのかもしれないが、生きているうちに、思わなくなってきた。お金が増えることは良いことだ、と、昔は思っていたのかもしれない。タッパーみたいなのに小銭を貯めて、その額の増えていくのが楽しかった時期もある。だけど、貯めていたお金は、少しずつ減っていった。使ったわけではない。おこづかい帳をつけていたが、合わない部分がたびたび出てきた。「数え間違い」と言われて、ずっとそう思っていた。だが、実のところそれは税の徴収だったようである。末っ子は、そういう環境に生まれることもある。

 お金がほしいとか、こんな生活がしたいとか、有名になりたいとか、たくさんの評価を得たいとか、そういうことを思ったことが、まったくないわけではない。だけど、どんどんなくなっていった。平和に生きて、ほんの少しだけ世の中をよくしていけたらそれでいい。世の中をよくするというのは、自分の周りのささやかな世界を、美しくしていくというくらいの意味である。庭に柿の木を植えるとか、そういうレベルで良い。すてきな友達と、すてきに生きていくだけで良い。
 そのために工夫をする。その時にお金というものを経由というか、通過することもある。お金は「あればあるだけ良い」のではなく、「あるだけあれば良い」。ある額に応じて工夫をする。できるだけ減らないように、できるだけ増えるようには願うけど、あんまり優先はしない。優先しなくてもなんとかなるように、工夫に工夫を重ねていく。

 このホームページはお金にならない。そのうち課金窓口くらいは用意するけど、有料コンテンツには絶対しない。(詳細はいつか書きます。)
 このホームページを有名にしたいとも思わない。友達と出会ったり、再会するためにやっているから、もちろんいろんな人に広まってほしくはあるんだけど、「多くの人に」とは思わない。量じゃない。うまいこといいところに伝わっていくといいなとは、思っています。
 だから今やってること、文章とかラジオとかみんな、自分が自分のことを通すためにやっているだけ。
 自分が有名になりたいとも思わない。30人だけ知ってるナゾの仙人になりたいものだ。

2021.8.15(日) 令和はバランスの時代

 ってさっきテレビでつんく♂さんが言っていた。
 令和、というかこれから20年くらいは、僕がここで20年間言い続けていることがことごとく実現に向かって行くと思う。「ほら見ろ!」ということが最近多い。妄想! ついにくるったか! なんて声は無視!

僕にはどうしても受け入れられない人間がいる。その多くが、教師だ。
彼らは何なんだろう。どうしてあんなに「正しい」ことばかりを知り尽くしているのだろう?
僕の全ては彼らによって完全に否定されてしまう。
自信を失い、途方に暮れる。「僕はココに居てはいけない人間なのだろうか」と。
生きていくことに希望が持てなくなってきてしまう。
きっと社会のゴミだ。
僕は「正しい」ことなんてしたくない。だからはみ出すに決まってる。
彼らが勝手に定めた正しさに振り回されるのは御免だ。
人は自分なりの正しさを持っている。
「正しい」ことを知り尽くしている頭の堅い教師達は、他の正しさを受け入れようとしない。
そういう人間はたくさん居るだろうと思う、
しかし教師という職業は発展途上のガキ共に無理矢理そいつを押しつけようとするからタチが悪い。
教師の「正しさ」と子供の正しさが食い違っていたとすると、子供の正しさは「間違い」だったことにされてしまい、
子供は教師の「正しさ」が本当に正しい唯一絶対的な正義だと認識してしまう。危険だ。
そしてそれができない子供はそれだけで教師からは問題児として扱われる。御免だ。
…だが、そういう風にして世界はバランスを取っているのであって、
そうでなくなれば社会の崩壊は目に見えている。
だけど、僕は世界なんて崩れてしまっても構わないとさえ思う。
自己中心的な考え方しか出来ない僕だからこそ、そう思う。
だってそっちの方が面白いじゃないか。
生きているうちに二つ以上の世界を味わいたいよ。
壊れてしまえ、「A」の世界め。
(2001年12月4日の日記より)

 とは言うものの、まさか世界は崩れることを選ばない。「ではどうしたらいいのか?」を考えて、「ある特定の正しさが世界のバランスを支えるのではなくて、一人一人がバランスを取っていくしかない」ということには割と早く到達した。2006~7年くらいにはそう思っていた。

 僕の考え→。なんで学校に「部活動」ってのがあるかっていうと、放課後も学校に縛り付けておくことで生徒たちが学校の外で暴れるのを防ぐって意味があるんだってね。それと同じで、一日中会社に縛り付けておかないと、人間何をしだすかわかんない。暇を与えればそれを持て余すのが人間の性質。犯罪率とか上がるでしょう。それに、仕事が減って、夫婦が同じ空間にいる時間が増えれば・・・離婚率も上がるんじゃない?
 社会はそうやってバランスをとってきたんだろうから。
 そう簡単に変えられるもんじゃなかろうと思うんだけど。
 
 だからといってやんなくてもいいようなことをわざわざ作ってやることもないよねえ。
 一人あたりの労働時間を半分にしてやれば、倍の人間が働けて、失業なんてなくなる。
 給料はもちろん維持。その代わり、会社全体の仕事量を減らす。
 不可能じゃないと思うが。
 一日だらだらと働くより、半日に集中すれば能率も高くなるはずだし
 九時から一時まで働く人と、一時から五時まで働く人に分ければ、
 昼休みとか設けなくていいから効率いいんじゃないか。
 一日置きに勤務させるとかもいいね。
 出勤日は毎晩飲みに行けるから経済効果もアルヨ。
 
 人間に暇を与えるとやばいっていうのも、今はそこまで問題じゃないんじゃないかしら。
 だって娯楽が増えているものね。特にインドアの娯楽が。
 レンタルビデオ屋とか繁盛するんじゃないかしらね。
 ゲームももっと売れるだろうし。
 ま、極端な話レンタルビデオ屋に行かなくても今はWinnyがあるし
 Amazonやヤフオクもあるし
 一日中2ちゃんねるみる人もいるだろうし、アニマックス垂れ流しってのもいいなあ。
 一歩も家から出なくても娯楽が楽しめる。
 むかしは映画館行かなきゃ映画観れなかったけど、
 今はすぐDVDになるし、
 Winnyもあるしっていう。

 そうだ!レンタルビデオの出前っていうのはどうだろう。
 ネットか電話で作品名を指定すれば30分以内に届けてくれるっていうのは。
 これは、TSUTAYAなんかでやり始めたらきっと成功するんじゃないかなあ。
 返すときも、もちろん電話一本で。
 どのみちそのうちそうなるんじゃないのかしらね。
 小説版魔動王グランゾートで、ほとんどすべてのものが出前になるっていうのが描かれてるけど。
 あれは2035年くらいの話だったかなあ。
 
 
 そうやってインドアの娯楽っていうのはもっと増えていくし、
 もっと手軽なものになっていくと思う
 それによって人々の心は荒んでいったり、不健康になったりするかもわからん
 が、
 「暇つぶし」の手段がより多く、より手軽になっていくということは
 休みが増えても対応できるってことで。
 今、社会人で、毎日会社に行っている人で、
 「毎日、暇だ。たすけてくれ」
 なんて思っている人はいるんでしょうか。
 土日は疲れて寝て終わりって人も多いでしょう。
 週休4日でINじゃぁな~い?
 
 「暇つぶし」のために地域が振興すると思うねえ。
 地域で「部活動」やればいいんよ。
 サッカーやったり将棋やったりさあ。それって健康じゃんか。
 そういう街作りを国ぐるみで、ムリムリ?ありあり!INじゃぁな~い?!



 「やあ、これは見事な机上の空論というやつですね」(あ~る)
 「気を悪くするわよ」(椎子)
 
 
 
 
 土日を休みにして月に20数日働くよりも、交代勤務で15日ずつ働かせたら、
 会社の死んでる日もなくなっていいと思うのだが。
 一日休暇もらえば三連休が作れるわけだしさあ。
(2006年4月19日の日記より)

 今だったら「給料はもちろん維持。」とは言わない。給料は下がります。そのぶんお金を使わない。暇つぶしは安くすませ、時間ができるぶんがんばってお米を炊いたりしてください。
「Winny」という文字が出てきますが、これで本や音楽や動画を違法ダウンロードして楽しんでいた人がけっこういたんですよ、当時。まだ電子書籍や音楽配信や動画配信がほとんどなかったころ。今は合法で有料で、ずいぶん健全になりました。僕の言ってること、予見的といえば予見的ではないですか。Uber的なこととかも書いてあるし、暇つぶし地域振興みたいなのは、サードプレイス的なの全般、あるいはなんかイベントバーとか○○カフェとか、生涯学習とか読書会とか勉強会とかそういうのも想起させる含みがある。

 こっからさらに15年、いろいろ考えたことが、15年ぶんの日記に書き込まれていて、ようやくそれが実現しつつある。たとえば今やシェアサイクルが23区内のほとんどの地域をカバーしている。これは僕にとって画期的だった。「あ、僕の望むような世界ってちゃんと近づいてるんだ」と思ったものです。
 もちろんバカはいっぱいいるんだから、そう簡単にはいかないけど、令和がバランスの時代だってのが確かならば緩やかにでもそうなっていく。だからもう僕は、そこに関しては何も言わなくていいんだと思う。もう十分に尽くした。ここから先は「ほら見ろ!」しか言葉は出てこない。じじくさい、嫌ですね。
 令和はバランスの時代ですから、もう「みんながバランス重視で行かざるを得ない」ということはハッキリしている。その段階で「よーしバランスを取るぞ」と言い始めても、もう遅い。いち早くバランス力に舵を切った(結果的にそう言える)ハライチの澤部さんは、今ほとんど天下人である。今から彼に追いつくのは難しい。
 幸いなことに僕は、20年くらいバランスを意識してやってきたので、「やべ、バランス取らなきゃ」なんて焦り方をする必要がない。これからゆっくりと、次のことを考えられるのだ。(もちろん、もし令和がバランスの時代じゃなかったら大変なので、そこについてはずっと注意して検討はし続けますけど。)

 これから起こることに対しては、しばらく恐れる必要がない。「その次のこと」を考えるターンだ。今起きていることを見て、今のことを考えるんじゃなくて、けっこう未来のことを考えなければならない。今の延長線上にある未来ではなくて、今とはほとんど切れた、ぜんぜん別の価値観の未来を、である。それこそ「バランス」などというすでに常識となった考え方とは、まったく違うところにある新しい世界を。そうしなければ結局は、この時代の価値観に溺れて死ぬだけ。
 もうそれに集中したいな、とは思いつつ、これまでのことをまとめる作業はしておかなければならない気はする。証拠として。散歩と、仲良しと、バランスと、遠心と、いろいろなことを。
 昨日のと合わせてこれが最終回です。次回からは別の番組が始まります。

 シャ乱Q結成は1988年12月とのことで、平成の始まる前月。92年にデビューして95~97年は紅白出場、97年からモー娘。のプロデュースを始めて99年にLOVEマシーン。以後は不動の地位。そういう人が言うのだから、頼もしくって、上記のようなことを書く気持ちになれた。

2021.8.14(土) 誰も救えない/理性と論理

「何遍言ったって通じやしない、ってこたぁ置いといて、僕ぁ言う。」(中村一義『魂の本』)


 SOPHIAというバンドの代表曲『街』では「街はまたいくつも戸惑いを投げかける "ここにいる"と大声で叫ぶけど 僕のこの小さな傷だらけの夢と苦笑いじゃ今は誰も救えない」と中盤で歌われ、最後は「いつかこの街で安らぐ場所見つけ 相変わらずの苦笑い浮かべる僕の ah すぐ傍に君の笑顔が欲しい 失くせないもの一つだけこの街で見つけたよ」と結ばれる。
 まあ、そんなところなのだろう。そこまで行ければ十分だ。
『ゴキゲン鳥』とか『ビューティフル』も、似たような話。

 最近だんだんわかってきた。僕のしもべは全員差し歯……じゃなくて、やはり「誰も救えない」ということが。ある友達がかつて「一人の人間が救えるのはせいぜい一人の人間だけ」と言っていた。たくさんの人間を救おうとすると、夜回り先生みたいになるんだろうな。僕はあの先生がいろいろととても好きだけど、あれはできないし、僕の役目でもない。あるいはザ・ノンフィクションに出てくるような人たち。たとえば岡崎のお寺の「おじさん」とか。ああいうふうじゃない。僕は。子供だし。

 問題を抱えている友達が何人もいる。この1年半で加速したはず。僕が「まっすぐ」な人間であれば、彼や彼女にはっきりと「こうしなさい」と言って無理やり何かをさせたりとか、「おれにまかせろ」と言って世話を焼いたりということができるかもしれない。僕はそういう性分ではない。型にはまることを拒絶し続けてきたがゆえに、他人に「型」を提示することもできない。能力として欠けている。行雲流水、眺めるように、ただ冗談を言ったり、かんたんな励ましをかけることしかできない。そういう係なんだと思ってさえいる。
 ピーター・パンは決してウェンディを救わない。原作を読んでほしい。まったくそういう話ではない。彼が誰かを救っているとしたら、ティンク。

 もちろん、そもそも、人が人を救おうだの、変えようだの、好転させようだの、おこがましいという以前に、困難である。容易でありゃー、やればいい。でも難しいのだ。容易にやろうとするなら、「型」を作らないといけない。そうでさえ、人生のすべてをそれに費やす覚悟がないとできない。少なくとも、複数の人を相手にはできない。
 それで僕はせいぜいニコニコしていることを選んでいる。今のところは。

 もう一つの絶望、たとえばこの架神恭介さん(もう15年近い付き合いになる……)の最近のこの日記
 末尾に「理性も論理も通用しない世界」とあるが、架神さんはまさに理性と論理の人。昔から一貫してそう。理性と論理がぶち当たる壁とは、もちろん「理性も論理も通用しない世界」で。
 本田議員の話だけじゃなくて、最近なら小山田圭吾さんのこととか、テレビやSNSの世界で起こっているさまざまなことのすべてがそう。理性や論理なんてものは、そもそもメインではない。サブなのだ。そこをしっかり受け入れなければならない。
 理性や論理が通用する世界は、どこかにはある。しかしそれはサブであり、メインではない。そして人間の集団というのはおそらく、危機や不安の最中にあると、サブを捨ててメインを取ろうとするものなんじゃないか? 少なくともここに生きているとそう思う。
 平均的な人間というのがいるとして、その人が理性や論理に弱かったとしたら、人口の半分以上が理性や論理に弱いということになる。たとえば架神さんの「理性と論理」はどんなに低く見積もっても人口の上位5%に確実に入ると僕には思える。1%でもまったくおかしくない(日本人口で考えると100万人以上いるし)。架神さんがすごい人というのもあるが、そのくらい世界(日本でもいい)には人がたくさんいて、そのくらい「理性と論理」なるものはサブなのである。
 学歴(というかここでは学校歴、もっと言えば大学歴)だけで考えますと、あるサイトによれば旧帝大と早慶上智以上(以上ってなんやねん)に入学する人の割合は人口の4%だという。架神さんは早稲田大学の第一文学部ご出身にあらせられますので、大学の名前(と学部)だけで考えたらまあ5%以内と言って問題ないと思う。
 しかも、僕は同じ大学に通っておりましたので自信を持って言いますが、架神さんほどの理性と論理を備えた人間は、あの大学においてもせいぜい数パーセント、どんなに多く見積もったって10%も絶対にいない。
 もちろん大学がすべてじゃないけどね、なんていう当たり前のことはわざわざ書くのが面倒なので、僕は普段あんまり書かないのだが、それだと伝わらない、という話である。理性と論理に秀でた人間であれば、そんな当たり前のことは当たり前に前提として読んでくれるのだが、そうでなければ、「こいつ学歴だけで考えるとかマジ頭わりー」と思われてしまう可能性がけっこうある。そういうことなのだ、架神さんが言いたいのは。たぶん。
 この4%って数字はどこから出てきたんですか? ちゃんとしたソースがあるんですか? というふうな攻撃もされるかもしれない。テキトーなサイトから拾ってきただけなんだけど、まあある年の受験生人口かなんかを入学者数で割ったんだろうから、誤差は当然あるとしてべつに目安にはなるんじゃないかしら。理性と論理に秀でた人なら「ソースはようわからんが、まあそんくらいで別に違和感はないし、論旨に影響するほどの誤差はないだろう。とりあえずそういうことにしといてやるか。」くらいに思ってスルーしてくれると思う。
 ちなみに別のページだと「早慶以上」が2.53%とのこと。これは大学名と計算方法が明示してあった。
 さらに別のページでは、「難関国公立」と「早慶上理ICU」を合わせて4.3%とのこと。
 で、こういうことを書けば書くほど「学歴主義だ!」と批判される可能性が高くなる。ほんとに、いやね。

 本当に、最近本当に実感しているのだが、世の中に「理性と論理」なんてものは、ほとんどどこにもない。もちろん「理性と論理」の係を担っている人はいるのだが、数は少ない。多いように見えている人は、そういう人の多くいる環境にいるってことだと思う。ツイッターの「トレンド」からいろんな人のツイートを眺めたり、いろんな街を歩いたり、いろんなお店に入ったりしてみればわかるはず。
 なんて書くと、想定される悪口としては、「バカしかフォローしてないだけ」「こいつの行ってる店がバカばっかなんだろ」みたいなの。悪口に論理とか筋とか関係ないの。もっとひどいのもいくらでも来うる。
 もし、理性と論理を備えた人間がもっと多ければ、感染症だってこんなに流行ることはない。恨んだって仕方ない。そういうふうにできている。

 そういうことなので、もう、いやね。
 僕は誰も救えません。その無力さがつらい。でも「失くせないもの一つだけこの街で見つけたよ」と言えるくらいの幸福は、僕は持っている。僕は。そのくらいのもんなのだ。それを他人に分け与えることは、できない。ただニコニコして、少しでも良いふうになることを祈るしかない。
 また、世の中に生きているほとんどの人は、「理性と論理」を十分に携えていない。そっちのほうがメインなのだ。理性と論理を正しいと叫ぶのは、少数派のワガママにすぎない。革命はいつもインテリが始めるが、というのと同じ理屈。
 このホームページは、少なくともいくらかは、他人に良き影響をもたらすために存在しているのであり、そしてここに書かれている文章は、かなり上等な理性と論理をベースにしている。
 僕がつらくて孤独だと感じるのは、実に順当なわけである。

 だからといって、世の中をよくしようという態度をやめはしないし、理性と論理、その結晶としての言葉への信頼を手放すつもりもない。
 ただ、徒労が多すぎましたね。休むかも。

2021.8.12(木) 老人と子供のポルカ

 助けてーーーーー!!
 やめてケレ やめてケレ やめてケーレ コロコロ


・これまでのあらすじ
2021.4.24(土) 緊急事態宣言
2021.5.1(土) ゴールデンウィークという常識1
2021.7.15(木) 中根千枝(94)先生と感染症
2021.7.30(金) 班分け社会と予防接種

 班、という言葉はあまりわかりやすくないのかもしれないが、「階級」「階層」よりは日本の実情に合っていると思う。日本は「かたまり」で分かれるのが伝統である。詳しくは中根千枝先生や阿部謹也先生へ。
 若者と高齢者、というのも、かなりざっくりとではあるが、階層というよりは班分けで、若者の世界と高齢者の世界とは切れている。だから違った動きをする。大きく雑に括れば「現役」と「隠居」。子供はその間を行き来する。(僕は子供の犬です。ワンワン。)

 こういう話題は戦々恐々。世の中にはいろんな人がいらっしゃいます。日本という国はそのようにバランスを取っていくのでいいんだと思います。
 何を言ったって誤解されてしまうのも、そういったバランス取りの一部。世の摂理。粛々と従うのみです。世の中にはいろんな人がいらっしゃって、それで成り立っているのです。その一部を嫌だと思ったって、なかなか殺すわけにいきません。

【研究】
 少なくとも今年に入ってから、東京都の新規陽性者数に占める65歳以上の割合は、全年代の新規陽性者数の増減とおおむね逆(負)の相関が見られる。3ページめのグラフを参照。1ページめは全国版だが、こちらもだいたい同じ。
 全年代の新規陽性者数が多くなれば高齢者の「割合」が減り、全年代の新規陽性者数が減れば高齢者の「割合」が増える。言い換えれば、高齢者の新規陽性者数の増減の波は比較的小さいということだろう。
 同じグラフで65歳以上におけるワクチン接種の割合も確認できる。4月から始まってはいるが、本格的には5月から。2回め接種が進むのは6月から。
 6月から7月にかけて全年代の新規陽性者数が減る。この時高齢者の「割合」は一旦やや増えたのち減って、負の相関が少し崩れる。7月に新規陽性者数が急上昇した時は高齢者の「割合」が減って、また負の相関を示す。
 直近は、全年代の新規陽性者数が急上昇し、高齢者の占める「割合」が減っている。実数はどうか。このページの「2」によれば、高齢者の新規陽性者数の山は、全年代の新規陽性者数の山とかなり似ている。ほぼ正の相関。全年代の新規陽性者数が増えれば、高齢者の新規陽性者数も増える。ただしその増減の波は比較的小さい。
 若い人は増減の波が大きい。高齢者は小さい。だから「高齢者の占める割合」は、全年代の新規陽性者数とはおおむね負の相関になる。
 高齢者だって増える時に増え、減る時に減っているのだが、その増減の波が小さいため、全体が増えている時には「高齢者の占める割合が減りました」ということになる。
 なぜ高齢者では増減の波が小さくなるのかといえば、単純に行動力と元気の差、人と触れ合う機会や程度、人数、範囲の差だろうか。高齢者の最新の波が1月の半分程度になっているのは、ワクチンの効果もあるかもしれない。
【研究終わり】

 もともと若者の世界と高齢者の世界というのはほぼ切れていて、若者がウェーイって騒ぎ立てたら若者にウィルスが流行るのであって、それがそのまま高齢者の感染者数にも反映されるのではない。「ある程度の影響」にとどまる、と僕は思う。高齢者がウェーイって騒ぎ立てたら、高齢者にウィルスが流行るのであって、若者には「ある程度の影響」を与えるにとどまる、と思う。少なくともこれまでの流れだと、「ある程度」の範疇を超えるより前に「波」はおさまり、二つの世界は再びそれぞれに閉じていく。
 若者はウェーイって言ってウィルスを流行らせていく。若者たちはいくつかの「班」に所属していて、いずれの班も「ウェーイ」ってしてないのであれば、その若者が感染する確率は低くなる。「ウェーイ」ってしてる班にいっぱい所属していると、そのウェーイ多島海は連鎖してすべてウィルスに沈む。その班に高齢者がいれば、伝播する。それが「ある程度の影響」であるが、高齢者の世界はあまり元気がなく、ウェーイってしないので、その波は小さい。
 いま、若者たちはめちゃくちゃウェーイ!!!ってしてるので、波が大きい。それはもちろん高齢者の世界にも飛び火するわけだが、高齢者の世界はウェーイってしないので、相変わらず波は小さいままである。
 若者たちは元気で、無症状感染の率も高いと思う。いや、仮に高くなくても、無症状感染の若者と無症状感染の高齢者であれば、前者のほうが他人にうつしやすい生活をしている場合が多いはずだ。平均的には必ずやそうだろう。
 若者たちはウェー〜!!!!イ〜!!って言って無症状の状態で、あるいは症状の出た状態でウィルスを運ぶ。若者というのは、65歳未満の現役世代のことを言っている。

 みんな老人のような生活をすればいいのでは? あまり働かず、喫茶店に行き、新聞を読んでは?
 それでは世の中が回っていかない!
 では、老人が回せる世の中にしてみては?
 老人と子供で回せる世の中にしてみては?

 番外編。
 老人と子供と、女性で回せる世の中にしてみては?
 その時、成人男性らの真の役割が見えてくるであろう(適当)。

2021.8.6(金) ネッシー

 ネッシーはいる。なぜならばネッシーがいる証拠があるのだ。
 ネッシーはいない。いるとしたら起こるはずのこれこれの現象が起きていないからだ。

 これと同じことをみんなやっているだけ。
 ネッシーがいる派は、ネッシーがいる証拠をできるだけたくさん探し出す。
 ネッシーがいない派は、ネッシーがいるとしたら起こるはずの数々の現象を例に出し、そのいずれもが確認されていないことを示す。

 ネッシーがいる派は、ネッシーがいない派の論証を崩そうと頑張る。
 ネッシーがいない派は、ネッシーがいる派の出した証拠を崩そうと頑張る。

 彼らの主張は、明らかに間違っているものもあれば、間違っているとは言えないものもある。筋が通っていることも多い。しかし結局のところ、ネッシーがいるかいないかは、はっきりしない。

 ネッシーなんかいてもいなくても、どっちでもいいじゃないかという人たちもいる。
 ネッシーがいようがいまいが、どっちにしても大切なのはこういうことじゃないか? と提案する人もいる。

 ネッシーのことなんか考えるだけ無駄だろう、と最初から考えない人もいる。
 そもそもネッシーとは何か? を懸命に追究しようという人もいる。

 ネッシーがいると言われればいると思い、いないと言われればいないと思う人もいる。実際、これが一番多勢を占める。
 そのことを実は両派ともよく知っているから、いかに人々を説得するかに力を注ぐ。
 それで票を稼ぐ。数で競おうというわけだ。
 そして戦争は泥沼に至る。

 ネッシーという存在について祈るだけの人もいる。
 ああ、ネッシー!
 それだけを念じる。いるもいないも関係ないし、祝福しているのでも、おそれているのでもない。
 ああ、ネッシー!
 それだけである。

 森に入って深呼吸して、「ああ!」と思うだけの人もいる。
 ネッシーなど意識の片隅にもない。

 ネッシーがいるならば、ネッシーと良き関係を築かねばならないし、ネッシーがいないなら、とくに何も考えることもすることもない。
 問題なのは、どうもネッシーはいそうだという気がする場合。
 その場合は、やはり「もしネッシーがいたとするならば」を考えるのが良いのだろうが、その時に過剰に「いる」ことを前提に考えすぎるのは良くない。ネッシーはいないかもしれない。「ネッシーがいなかったとするならば」を同じくらい良く考えないといけない。

 ネッシーがいた場合のことと、ネッシーがいなかった場合のこととを、同じくらい考える。
 それが平等であり、みんながそういうふうに考える結果として、平和があるのではなかろうか。

2021.8.5(木) すん誕

 スンドリー・誕。
 サーティエイト。
 エイトフォーその後に。
 ギャツビーつけて
(死なない程度に)格好つけて。

2021.8.4(水) 一瞬の永遠、混沌の秩序(向陽高校演劇部に伝わる練習台本「サイレント・シーズン」より)

 人々は色々考えすぎている……というよりも、僕が考えないようなことを考えている人がいて、その人と関わりを持つと、僕が考えていないようなことを考えているので齟齬が生じ、面倒なことが起きたりする。面倒である。
 これはどの人とどの人との組み合わせにもあり得ることで、人付き合いというものの面倒くささとはまずこれである。自分が考えているようなことばかりを人は考えていてくれない。こちらが考えていないことばかり考えていたりする。

 誰が何を考えていたっていいじゃないか、というのが僕の考えである。だから僕は他人が何を考えているか、ということをできるだけ気にしないようにしている。しかし「他人」のほうでは、他人が何を考えているのかを気にする人がけっこういて、すなわち僕が何を考えているのかが気にされてしまう。そこで齟齬が生じる。
 僕は「誰が何を考えていたっていいじゃないか」という考えで、その「誰」には自分も含まれる。ゆえ、自分が何を考えているか、ということにも無頓着である。だから「あなたは何を考えているのか」と問われると、ふだんまったく何も意識していない僕は「え? あ、えー……あー」と困り果ててしまう。
 何も考えていない、とは言わない。ただ混沌としているのである。秩序がない。いろんなことが同時に考えられている。だからあえて「何」と問われると、「何から話せばいいのだろうか」と悩んでしまう。まさかすべてのことを口にするわけにはいかない。その中には反社会的なことだとか、目の前の人を不快にさせたり傷つけたりする内容も含まれるはずだから。
 僕は自分がそうなので、他人だってそのように混沌としているとある時期までたぶん無意識に思い込んでいた。今はもしかしたら、自分よりもずっと秩序だった人というのがけっこういて、そういう人は「今自分が何を考えているのか」をはっきりと意識しているのかもしれないと思うようになった。「今私はこう思っていて、それであなたに対して腹を立てているんです」と、はっきり意識している人がけっこういるのではないか、ということだ。僕はそういうはっきりとした意識の状態があんまりない。腹が立つ、ということは僕にだってあるが、それと同時にかなり色々なことが起こっている。傷ついたり、相手について、自分について、その状況について、社会について、世界について、世の中について、法則について、その他さまざまなことを一気に考えている……のかもしれない。それすらもわからないくらい、混沌としている。
「今自分が何を考えているのか」を割とはっきり意識できる人がいるのだとしたら、その人が「この人は今何を考えているのか」を考えたとしても不思議ではない。なるほどそうかと、最近ようやく思えるようになった。
 とはいえ、僕はまだ「この人は今何を考えているのか」と考えている状態の人と、どのように接したらいいかがわからない。そのように考えているのかもしれないな、と思うことができるだけだ。なんとかして、何を考えているのかをがんばって固定させて、その人に告げるべきなんだろうか? たいていの場合、そこまでやる義理もなければ、意味もなさそうに思えて、やらない。やろうとしたことはあるが、良い状態を導けた記憶はない。

 僕はどうも自分の考えというものを体系的にまとめあげるのが苦手だ。もう何年かしたらそういうことにも挑戦してみたい。本当は今ごろそれをやっている予定だったのだが、今の僕にはまだ無理だ。
 詩が気楽だというのはそこであろう。しかし気楽にやりすぎて、その質はといえばいつも微妙。作り込むタイプではないというか、作り込めるほど完成されていないのだ。めざすべき完成形が見えていない。これも混沌としているからであろう。混沌としたものを混沌としたまま具現化するのが僕にとっての詩作で、それをどうやったら「完成」させられるのかが皆目わからない。そろそろこのことに真剣に向き合おうとやっと思い始めたところ。
 小説も詩のように何も考えず書き進めて、そのせいでいつも華麗には着地できない。文学なんてのはそんなもんだろうと無責任に思って、それでよかろうとも思うが、それにしては質が良くない。これにも時間がかかりそう。

 秩序だたせたいとも思っているし、混沌の質を上げたいとも思っている。どちらかといえば後者のほうが気楽だが、それが最近頭打ちというような気持ちもある。前者はとても気が重い。よほど心底、秩序が向かない。解決法を探っていこう。

2021.8.2(月) 釈迦とピーター・パン

 ともだちの725さんにすすめられた『〈責任〉の生成――中動態と当事者研究』(國分功一郎、熊谷晋一郎)という本を読んでいる。まだ三分の一くらいだが、メモ。
 ASDと診断されている綾屋さんという方の知覚に関する記述が興味深い。僕が3ヶ月くらい前に書いていたこととけっこう重なる。

 僕はたまたま、大袈裟にいえばすべてのものが平等にしか見えない病気なので、あらかじめ序列やルールを頭に入れて(プリインストールして)おいてそれに従って生きるよりも、その都度結び直される流動的な「関係」に目を向けたほうがやりやすい。秩序を意識するより疲れない。いや、そもそも秩序を意識することがほぼ不可能なのである。たぶん頭の作りがそうなっている。その都度考えるか、身体に習慣づけさせるしかない。前者の自由を謳歌しつつ、後者を駆使して社会に許しを乞うほかないのだ。
2021年5月5日の日記より)

 すべてのものが平等にしか見えない、というのは、綾屋さんの経験で言うところの「外部からの複数の刺激が等価に受けとめられ、絞り込みとまとめ上げがうまくいかない」(P62)というのに近い。
 おそらく僕はかなり軽症のほうだろうが、「いま集中して意識しているもの」以外のものは、忘れたり軽んじたりしやすい。それは、集中している対象を除いたすべてのものが等価になっているからだと思っている。物理的にも、観念的にも。だからすぐ頭を打つし、すぐものを忘れる(物理的にも観念的にも)し、その瞬間に意識していない相手のことは徹底して意識していなかったりする(これは本当に申し訳ない)。その代わり、その瞬間に意識している人のことは徹底して意識していると思う。

 すべてのものが等価に見える、といえば、釈迦の悟りとはそういうものだと聞いたことがある。目の前にある石ころと、自分の母親とが等価になるような境地。『Peter and Wendy』のピーター・パンは割とそれに近い。

 ピーターは「2」という概念を知らない。ふたたび繰り返すということを知らない。だからすべてのことが新鮮に思える。何度も何度も戦ったはずの相手とでも、まるで初めての対戦であるかのようにワクワクできる。それがピーターの、永遠に子供たる所以である。大人というのは「2」を知っている、ということなのだ。(この辺詳しくは過去ログを検索してください。)

 すべての知覚、外的な刺激が等価なものとしてやって来るということは、あらゆるものが〈この〉性をもつものとして経験されているということです。(略)この部屋には無数のイスがありますが、多くの人はそれぞれのイスについて気にかけたりしない。なぜならそれらは「イス」という一般名で把握されているからです。しかし、あらゆるものが〈この〉性をもって経験されるというのは、まるで一つ一つのイスが名前を持っていて、自己主張しているかのように感じられるということです。すると、その人は外界から、到底処理しきれない、途方もない量の情報を受け取ることになる。
(前掲書P65)

 すべてが等価に見える、平等に見えるということは、カテゴライズという省略をしないで、一つ一つを一つ一つとして捉えてしまうということでもある。たとえば僕は学校の先生をやっていても、常に生徒が「一人一人」として見えていて、だからすごく大変で、疲れて、楽しい。ところが、それを「生徒」というジャンルやカテゴリとしてまとめてしまう先生はおそらくかなり多い。そのほうが楽だと言えば悪口のようだが、そうでもしないと普通の人にはやってられない、いや、普通の人は自然にそうするものなのかもしれない。イスを「イス」という一般名で把握するように、生徒たちもまた「生徒」という一般名で把握するのが当たり前なのかも。
 それを僕は「カテゴライズという省略」すなわち手抜きというふうに思って、長らく批難し続けてきているのだが、なんのことはない、それって普通の人が普通に、自然に暮らしているだけなのだ。僕は普通の人の普通の行為に文句言ってるだけで、普通の人からしたら「は?」って感じなのだろう。非常に申し訳ない。

 普通の先生は、新しい生徒に出会うと、過去のよく似た生徒を記憶から探し出してきて、そのカテゴリに当てはめようとする。毎年やってくる膨大な生徒を、いちから理解していくのは骨が折れる。だから「こういうタイプの生徒」というふうに、一般化してしまう。
 ピーター・パンにはそういうことができない。女の子を見れば「女の子だ」とは思うが、カテゴライズといえばその程度である。その先は何もない。ピーターは何も覚えてなんていないから。ピーターには参照できる過去なんてないから。ピーターはたぶん、目の前で母親(すなわちウェンディや、ジェーンや、マーガレットなど)が殺されたとしたら、おそらくその瞬間ものすごく悲しくて大泣きするだろう。そして次の瞬間には、もう忘れているだろう。すでに新しい発見や冒険にウキウキし始めているだろう。

 ピーターは常に、途方もない量の新しい情報を受け取っている。だからいつでも楽しくて仕方ない。そしてピーターはすべてを忘れる。だから負担がないのである。
 しかし、僕はたくさんのことを覚えている。
「2」というものを知っている。だからとってもつらかった。
 しかし、だからこそ僕はウェンディとともに生きていくことができる……はずである。一歩間違えば僕もピーターのように、ウェンディ、ジェーン(ウェンディの娘)、マーガレット(ジェーンの娘)……というふうに遊び継いで行くだけの存在になっていたのかもしれない。でもそこまでの境地に僕はいないし、幸いにたくさんのことを覚えていて、それを上手に使う努力もしてきた。バランスの取り方を練習してきたのだ。

 引用した過去の日記にある「秩序」というのは、イスを「イス」としてまとめるようなことである。生徒を「生徒」としてまとめ上げるのが、秩序というものである。
 僕はそういうことがある程度できない。
 大げさにいえば、生徒と鹿とが区別できない。
 なぜ鹿が出てくるかというと、鹿が好きだからである。

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