少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2012/06/30 土 壬戌
悪い病気みたいだ。
何かを淘汰しようとしているとしか思えない。
まるであの『間引き』のように。
一週間、ずっと寝込んでいた。
頭が働かなかったので書くこともできなかった。
完全にリズムが崩れたが、これからは新しい。
直感は本当に正しい。とはいえ
僕の悪い病気も、どこかで何かに繋がるのだろうか。
それともただの邪悪で終わるんだろうか。
2012/06/26 火 戊午 不良少年とキリスト
もう十日、歯がいたい。だれかズルフォン剤を僕にください。坂口安吾の『
不良少年とキリスト』は、歯の痛みに悩まされながら太宰治の死について語ったエッセイ。歯がいたいといえば、これを思い出す。それから死んだ友達のことを考える。彼は僕にとってやはり大きな存在だったのだな。大学でお互いのプライドを刺激し合った唯一の存在だったし、漫画についてまともに語ることができたのは彼が初めてだった。なんだかんだ、レポート作成のために大学に泊まり込んだりしたようなこともよい想い出だ。
歯が痛いと死人のことを考える。安吾の場合は太宰の死がタイムリーだったからということでもあろうが、僕の場合は安吾のせいもあれど、歯の痛みっていうのが死のように辛いものであるからでもありそうだ。痛みには外的なものと内的なものがあるように思うが、歯の痛みというのはそのどちらでもなく、どちらでもあるような気がする。何か生命そのものを感じさせるような痛みだ。
歯が痛い、と言っても、おそらく虫歯ではなくて、以前に通っていた歯医者があまり良質なところではなかった(と僕は思う)ため、奥歯のかみ合わせが悪くなり、負担がかかって、歯茎のどこかで炎症でも起こしているのだろう、と解釈している。練馬区内のとある評判のよい歯医者に行ったら、「とりあえずかみ合わせだけ調節して様子を見ましょう」ということだった。昨夜は死ぬほどに辛かったのだが、朝起きたらだいぶおさまった。ただこれは、「虫歯の痛みは夜に強くなる」ということでしかないのかもしれず、不安は残る。虫歯であっては困るので、なんとかこのままよくなってほしいものだ。
本当に大変なことになる前に日頃の口腔ケアに多額の投資をしようと考えている。これまでの不摂生を考えればそのくらいは身体への責任であり義務だ。
死んだ西原夢路(キラキラネームではなくペンネーム)という男は、そういえばまるでM・Cであって、フツカヨイ的な奴だったね。小説も書いていたし。太宰と違うのは才能がなかったことと、女にモテなかったことか。全然違うな。彼はたといフツカヨイを取り去ったところでまっとうな人間にはならなかった。が、根は驚くほど真面目で、だからこそフツカヨイ的になりすぎていた。
「真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。」と安吾は言っているけれども、彼ももう一歩、素直になりさえすれば、わからなかった。晩年に書いていたライトノベルを僕は読んでいないが、何度も何度も稿を重ねて書き直したというその作品は、おそらく彼が素直になるための、「真に正しく整然たる常識人」になるための、地道な作業だったのだろう。その道の半ばで死んでしまったのは、なぜだったか。彼はついに素直にはなれなかったのか、あるいはそれまで身体が保たなかったのか。
僕だって彼の知る通り「真に正しく整然たる常識人」なんかではなかったし、彼が知っている僕は今の僕よりもずっと邪悪だった。それも残念なことだ。僕も素直になるための道半ばにいて、歩き方は僕のほうがずっと上手だった。彼はまっすぐにしか歩けず、それで歩きづらくなって酒を飲み、わざと千鳥に歩いているうちに、崖から落っこちた。そういう感じだろう。
ああ、本当に、素直になるなら、彼に対して初めて素直になるとしたら、彼が死ななければよかったのにと思う。このように度々、感傷的になるために彼の名前を利用するというのは、もし彼が見ていたら血反吐をはくくらい嫌がるのであろう。これは僕の慰みであって、恨み節でもある。生きていてくれたらこんなことはしないのだ。彼が生きている限り、僕は一生、彼に対して素直になることはなかった。それほど彼のプライドを真に傷つけることはなかっただろうからだ。もしその時が来たとしたら、彼の才能が開花した時だったかもしれない。お互いが素直になれた時。
僕らは互いを罵倒し合った。彼は晩年、それが冗談であるかどうかがわからなくなってしまっていた。薬のせいだろう。くだらねえもんだ。そんな人間がまともな小説を書けるとは到底思えない。僕と仲がよかった頃の彼は、まだ「真に正しく整然たる常識人」となれる資格を有していたかもしれないのに。邪悪の道にしか進めなかったのはなぜなのか。それで結果的に道を捨てることになってしまったというのに。これはもう、珍しい僕の後悔と言っても問題はない。
2012/06/25 月 丁巳 人前で眠ること/秩序というもの
人前で眠る、ということにひどく抵抗がある。「みっともない」と思うからだ。なぜそう思うのかはわからないが、公共の場で堂々と寝ている人に対してはいつも「みっともない」と感じる。それを自分にも当てはめているのであろう。それで僕は比較的、人前で眠ることは少ない。
どういうわけだか電車の中だけは例外で、自分もよく眠るし、眠ってる人を見てもそれほどみっともないとは思わない。まあ、「許している」ということなんだろうな。「これはまあ、しょうがないよね~」とかって。で、人によっては電車の中で眠ることを「許さない」人もいるだろうし、反対に「喫茶店でも、図書館でも、学校でも公園でも許す」という人もいるかもしれない。基準はさまざまで、僕の場合はなぜか「電車の中はオーケー、それ以外の公共の場はダメ」という感じになっている。
ここでいう「人前」あるいは「公共の場」というのは、どこをさすんでしょう? 僕が勝手にしている定義だと、「知らない人が一人でもいればそこは公共の場」。では「知らない人」とはどこまでを指すのか? まあ、「家族でも友達でない人たち」ってところでしょうかね。「知人」「知り合い」程度だと、まだ「公共」って感じがする。友達でも、僕の場合は相当信頼している相手じゃないとまず眠ったりはしない。
じゃあ、電車はなんで、僕の中では「許されている」のか? 立派に公共の場のはずなんだけど。これはちょっと謎。でもたぶん、電車の中で居合わせる人たちってのが「あまりにも他人」だからだと思うな。常に大きな音がしてるから、ちょっとした寝息やいびきが目立たないってのもある。電車の中では、他人はあまりにも他人。要するに僕は、電車の中にいる人たちをほとんど「人間」と見なしてないんですね。悲しいことだなあ。でも電車ってなんか、そういうところあるんだよね。なんか。そういうことなので、「あまりにも他人」ではない他人(友達や知人など)がいる場合は、電車の中でもまず眠ることはない。眠っていたら信頼されていると思ってくださっていいです。あるいは本当に死ぬくらい疲れているか。
それから、さっきから僕が「眠る」と書いているのは、主に「居眠り」のこと。居眠りって何かというと、ここでは「座りながら眠る」ことだとする。机に伏せて眠るのも含む。横になって本格的に眠るのは、気にならない。これも不思議。
まとめますと、僕は「電車の中以外の公共の場で座りながら眠ることにひどく抵抗がある」。
そういうふうに昔からずっと思っていて、大学に入るまでは授業中に眠ったことはほぼない。昔の日記を見ると一カ所だけ「授業中に寝たー」みたいなことが書いてあるけど、あんまり覚えていないな。まあ、わざわざ書くってことは、普段は寝ていないってことだと思います。うん。なんか、やってみたかったんでしょう。
もちろん、眠気がこないわけではなくって、そんな時はずっと闘っていた。根性。時にウトウトすることぐらいはあるけど、どうしても「みっともない」が勝つので、「いかんいかん!」と目を見開いて我慢していた。
ま、種を明かせば、つまんない、もしくは緊張感のない授業の時はずっと誰かと喋っていたり、落書きしたりしてたから、眠くなることがなかったってのもあるでしょうねえ。それでも中三とか高三の時はどんな授業でもかなりマジメに受けていたので、根性って面もある。ってーか、子供って「疲れる」って概念を持ってないじゃん。だからだと思う。僕は少なくとも大学入るまではずっと子供で、体力が有り余っていたから、なにも授業中に体力を回復させる必要はなかったのだろう。部活の後輩に「ジャッキーってサイボーグみたいだよね。ジャッキーが疲れているところなんか見たくない」とか言われて、「あーそうか僕は疲れないように見えるのか」って思ってたけど、今思えば本当に疲れたことなんてなかったような気がする、あの頃。
大学に入って、授業があまりにも面白くなかったから、「いっぺん寝てみようかな」と思い、クッションみたいなのを持って昼寝に臨んだら、あまりにも気持ちがよくて、「みんなはこんなことをいつもしていたのか……こんな気持ちいいこと、いっぺん経験したらそりゃしちゃうわなあ」と思って、「授業中に寝るやつはみっともない! アホや!」という偏った考えを修正し、寝る時は寝るようになった。が、大学を出てからはまた「人前で寝るなんてはしたない! 絶対しない!」って思うようになって、電車以外の公共の場で座りながら眠りこけたような記憶はない。まあ、実際には「ここで寝ておかないと死ぬかもしれない」っていうせっぱ詰まった状況もきっとあっただろうので、どっかでやってんだろうけど。
あ、電車の中では眠る、っていうのは、僕の場合は「そういう旅行」を高校時代からし続けていたからかもしれない。どこに行くのも無銭旅行同然だったから、当然宿なんか取らず、電車の中以外では眠る時間がなかったのだ。あとは野宿だった。「電車の中では眠るものである」という必要に迫られた認識が、いつしか定着しちゃったのかも。
さて……ここ数年の僕の日記は、「どうでもいい話が長々と続いてから、最後に短い本題がくっつく」という形が多いのですが、今回もそうなりそうだ。
「公共の場」には「秩序」というものがあるんですね。
それを乱してはいけないのです。
たとえば「私語は禁止」ということになっているのだったら、私語はしてはいけない。
それをすると、秩序が乱れる。
秩序というものは少しでも乱れると、そこから波及してやがて全体を瓦解させてしまうようなものなのです。
小さな声で私語をしたところで、誰にも迷惑はかからないかもしれません。いや、本当は多少迷惑なのです。でも、我慢できる程度のことだから、みんな黙って見逃しているのです。
でも、その小さな秩序のほころびは、少しずつ大きくなるかもしれないのです。誰かが私語をすることで、ほかの誰かも私語をする。その声はだんだん大きくなり、頻度もだんだん高くなる。あるいは、私語以外の迷惑行為をする人が出てくる。ある行為が秩序を乱すと、それに乗じた別の行為がさらに秩序を乱していく。
「公共の場」には、秩序というものがある。
赤信号も、誰かが無視した瞬間に秩序が乱れて、みんなが渡り始める。
ああ、そうか。現代日本の電車の中にはそもそも「秩序」なんかなくって、壊れるものなんて何もないだろうと僕は思って、それで電車の中では眠るのか。
大学時代につまんない授業で寝てたっていうのは、あえて正当化するならば「講義の内容や形式に対する批判」と言えなくもない。「学生が堂々と眠っていても問題がないような(そして単位ももらえてしまうような)講義なんだから、僕が眠ったところで乱れる秩序なんてのはそもそもないのだ」なんていうふうに。まあねえ、秩序というのは一人一人が作るものだから、僕が本当にマジメだったら「こういう状況でも僕だけは眠らずに、秩序を作る努力をしますよ!」ってなるはずなんだけど、残念ながらそれをする価値がまったくないくらいつまらない授業だというのが、当時の僕の認識だったわけだ。
「場」というものを支配するのは、秩序です。
「みんなで話す時には、みんなにわかるように話をする」というのも、場において守るべき秩序の一つ。Aさんのことを知らない人がいるのに、「Aさんがさあ~」なんて話ばっかりしてたら、知らない人はつまらないでしょ。そういうことを気にしない人って、案外多い。せめて「Aさんって人がいてね~」から始まらないと。こういう一言が「秩序を作る」ってことなんだと思う。
電車の中やファミレス、喫茶店などでは僕は極力携帯電話での通話を控えているのですが、控えない人もいますよね。特にファミレスなんかだと、平気で大声で喋ってる。でもあれって実は、けっこう秩序を乱してんじゃないか。声を出すことが秩序を乱すんじゃなくって、「不自然な声が聞こえてくる」っていうのが。僕はやっぱいまだに、携帯電話で一人で喋ってる人の声ってのはなんだか気持ちが悪いよ。
「公共の場でいかにふるまうか」というのは、その人が「秩序」というものをどのように考えているかということを映し出す。
とはいえ、「秩序は絶対に乱してはいけないのか」という話もある。そういうわけではない。たとえば芥川龍之介の『杜子春』。「何があっても声を出さないでいろ。そうすれば仙人にしてやろう」と言われた主人公の杜子春は、何があっても口をつぐんでいたが、お母さんがひどい目にあう場面を見て思わず「お母さん」と叫んでしまう。オチは「もし声を出さなかったらお前を殺してしまうところだった」というものだ。禁止事項をばか正直に守るよりも、状況をそのつど的確に判断するほうが素晴らしいということである。
意外と本題(?)が長くなった。この話は「怒られないことがすべて許されているわけではない」という話題に繋がるんだけど、それはまた後。
2012/06/24 日 丙辰 後悔は保留の結果
後悔する人がいる。
僕は後悔なんかしたことがない。
いや、もちろんあるにはあるのだが、「あ、しまった」くらいの軽いやつだけである。
「あ、しまった」は人生において何よりも重要な一言だと思う。ちょっとしたことでも「あ、しまった」を口に出してみることで、大きな失敗は未然に防がれる。大きな後悔をする人間というのは、この「あ、しまった」という一言を保留し続けて、その結果いつの間にか「わー、しまったあ」になり、「うぎゃー、もうどうしようもない」になってしまうような人なのだ。
「あ、しまった」を口に出し、その失敗による損失をなんとか調整、補填して、明日をより良くしようとするのが人間である。損失は小さければ小さいほど、早ければ早いほど埋めやすい。だから「あ、しまった」をできる限り迅速につぶやくのが「後悔しない生き方」の秘訣なのだ。プライドの高く、欲の深い人間にはこれができない。
若い女の子と話していて、「まあ、後悔しないようにねえ」なんて偉そうに言ったら、「よくわかんない」みたいな返答が来たので、大いに安心したことでありました。若くして後悔なるものを知っているような人間は、決して大成しない。それは「若い頃は無鉄砲なのがよい」というような意味ではなくて、「後悔なんてのは自分の非を認めようとしない人間が怠惰と頽廃の末にたどり着く最終的な安楽の地である」という意味。島本和彦先生も『逆境ナイン』に書いていたな、「できる男にふり返っているヒマなど――ないっ!!!」
過去の不摂生さえも「だからこそ、今」なんて思えてしまっている僕は、どこまでも藤子・F・不二雄先生の『あのバカは荒野をめざす』を名作と崇めているのです。
2012/06/23 土 乙卯 まなびオールナイト行こうよ
無銘→池袋、新文藝座まで歩きまなびオールナイトの前売り券を買う→とらのあな→もうやんカレー→ブックオフ→カラオケ→ゲーセン(縦シュー、ヴァンパイアセイヴァー)→ゲーセン(マジアカ)→江戸浪漫
28時間くらい学生みたいに(学生なんだが)遊んでいたわけですが充実していました。
僕らは人を褒めねばなりません。
そして他人の自意識を研究、考察、批評し、的確に悪口を言わなければならないのであります。
みんなでまなびオールナイト行きましょう。
2012/06/22 金 甲寅 全部だきしめて キンキと拓郎の比較
『吉田拓郎と坂崎幸之助のオールナイトニッポンGOLD』という番組で、吉田拓郎さんが、キンキキッズの曲の中で好きではない曲は、『全部だきしめて』だと言っていた。拓郎さん自身が作曲した曲(作詞は康珍花)で、自分でも何度も音源化したりライブで歌ったりしている。
好きではない理由は、「本当に字余りがうまくはまってない、腹が立つくらい」とのこと。つまり、「吉田拓郎の曲ならではの歌い方」が、キンキキッズはできていない。拓郎さんが「ふわりが独特」という言葉で表す、あの絶妙なリズム感を再現することは、本人以外にはなかなか難しいらしい。
楽譜の記号には四分音符とか八分音符とかいうものがあって、これらは一小節を四つに割ったり八つに割ったりしたときの長さを表す。十六分音符なら十六分割している。と、小学校で習った覚えがある。
拓郎さんの歌い方はたぶん、一小節をかなり細かく区切っていて、その中に非常にたくさんの音(文字)を乗せている。しかも一つ一つの音同士の距離は均等ではない。おそらく僕らには均等のように聞こえる箇所でさえ、拓郎さんの意識の中では微細な差異があるものとして一つ一つ区別されているはずだ。
拓郎さんの「音同士の距離の取り方」のわかりやすい例は、『全部だきしめて』だとたとえば「間抜けなことも人生の一部だと」というところ。キンキの光一くんの歌い方と比較することでよくわかる。光一くんはこのように歌う。(※シングル音源)
【A】ま ぬ け な こ と も じ ん せ い の い ち ぶ ~ だ と ぉ ー
ところが拓郎さんだと、たとえばこんな感じ。(※tropicalバージョン)
【B】ま ぬ け な こ と も じ ん せ い の い ち ぶ だ と ぉ ー
一応解説すると、光一くんのほうではすべての文字の間に「半角スペース」を一つずつ挿入しているけど、拓郎さんのほうでは「も」の後ろに「全角スペース」を、「の」の後ろに「全角スペース+半角スペース」を置いている。その代わり、光一くんのほうには「~」という記号を入れて、全体の横の長さは同じになるように調節している。だいたいこれで合っているだろうと思う。ブラウザによって崩れたらごめんなさい。
拓郎さんは、時間をかなり細かく、そして自由に刻むことができるので、「も」の後と「の」の後に、他の箇所とは違う長さの拍を置くことができる。しかし光一くんにはそのような芸当がおそらくできなくて、すべてを均等の拍に揃え、「いちぶ~」の「~」のところで調節しているのである。
少しだけ関係があるようなないような話で、小沢健二さんは近年のライブではほとんどすべての曲の音をやや下げて歌っており、音をのばすところ(「~」)で正しい(?)音程に調節している。たとえば「ラブリーラブリーウェイ息を切らす~」だったら、「ラブリーラブリーウェイ息を切ら」までの音がかなり下がっていて、「す~」の途中から上がっていき、そのためこちらの耳には「すぇ~」のような、ちょっと違和感のある響き方をする。(している、はずである、と思う。僕は主張する!)
光一くんがしていたのは音の「ヨコ軸」のズレの調整で、小沢さんがしているのは音の「タテ軸」の調整だ、ということにでもなろうか。
光一くんは「いちぶ~」の一カ所だけで調節したけれども、吉田拓郎さんの場合は、この「ヨコの調整」を、適当な箇所で感覚的に処理しているわけである。感覚的と言っても、先のラジオで「何度歌っても同じふわりになる」と語っており、彼の中では確実に「これがベストだ」という調整の仕方があるようだ。
拓郎さんの歌のうまさというのは、たぶんこの「音のヨコ軸についての感覚的な処理」にあって、それを正確に真似することはかなり難しい。坂崎さんでさえ、「全然違う」と喝破されていた。
で、僕は今それを練習中だということです。まあ、やってみたら別に難しいことではなくって、かなり忠実に再現できている気はする。だけどきっと本人に言わせたら「全然違うじゃねえか、ふざけんな!」ってなるんだろうなあ。さすがに。
それから余談だけど「君が泣くのなら」の「な」は、『LOVE LOVEあいしてる』という番組で拓郎さん本人に突っ込まれていたとおり、CD版でもキンキは歌えてない。拓郎さんの「な」はもっと低い。彼は「誰もこの半音を歌ってくれねえんだ」と嘆いていたけど、僕はちゃんと歌ってますよ!(練習した)
もちろん、キンキのはアイドルポップスだからわざと歌い方をわかりやすいように変えているんだ、というのもあるんだろう。たとえば剛パートの「淋しさの嵐のあとで」の部分は、拓郎さんのと違いすぎて、意図せずこうなったとはとても思えない。それにしたって拓郎本人が気に入ってないというのは、どういうことなんでしょう。歌唱指導はしなかったのか、したけどこうなったのか。わからないけど、ともあれ面白い。そしてよい歌だなあ。
2012/06/19 火 辛亥 初心
毎日が抱き枕「抱き枕は、一枚(一人)の方がいい・・・自戒として」
感動したから貼っておきます。こちらはお友達のブログなのですが、四年間以上にわたって抱き枕に対する愛と感謝を綴り続けています。何かを好きであるとは、愛するとはどういうことであるのか、という問いへの一つの返答です。
抱き枕、と聞いて「なんだそれ?」「なんかきもい」「よくわからない」と思うのは、たぶん当たり前の感覚なんだろうと思います。そして、「だけどそれを心から好きな人たちがいる」ということも、きっと当たり前に想像がつくと思います。しかし、「彼らはそれをどのように好きなのか」ということは、よくわからないのではないでしょうか。もちろん、「好きな理由」は十人十色なので、『毎日が抱き枕』を読んだところで「抱き枕erの心理」なんてものはおそらくわかりはしません。
この方が抱き枕について何を、どのように語っているのかを知ることの意味は、たぶん抱き枕とは関係のないところにあります。
抱き枕のブログだから、「抱き枕カワイイ! ドゥフフ!」とか言ってるようなものだと思ったら大間違い。このブログの抱き枕に対する視点は本当に多角的で、いつも思いも寄らないところから考察の矢を飛ばしています。
「好き」ということや「感謝」ということを表現する一つの形として、「考える」ということが存在する。それは本当に素敵なことだと僕は信じています。僕でいえば、『まなびストレート!』というアニメの研究本。あれは本当に、まなびたちへの愛の表明であり、感謝の表明でした。あんなに魂をこめてラブレターを書いたことは、ほかにありません。
『毎日が抱き枕』は、そういうことをもう四年間もやっているブログなのです。
で、特にリンク先の記事。これはすばらしいですよ。ともあれごらんあれ。泣く人は泣くでしょう。
2012/06/18 月 庚戌 老人
もう老人のようなものだから近所のパン屋のカレーパンが食えない。
ブロードウェーに行って、絵夢でサバ定食に冷や奴をつけて食べて、おいしくコーヒーを飲み、やきやで立ち飲みをして、久々にEdenで飲んだ。
2012/06/17 日 己酉 エッチだってしたのにふざけんなよ!
とある女性アイドル(19)が、週刊文春誌上において元彼と名乗る男から「15~16歳当時の交際」について写真やメール付きで暴露された、件。
暴露されたメールのうち、一つの全文がこれ。
あたし諦めれん
ほんとにここまで好きに
なったのはじめてなの
こんなに同じ人のことず
っと考えてるのだって初
めてだしこんなに指原の
こと好きっていってくれ
た人も初めてだし
エッチだってしたのにふ
ざけんなよ!
いつもならこういう、個人の内面や生活に関わる内容をほぼ名指しで書く、なんてことはしないのだが、今回はあまりにも考えさせられたので例外ということにした。
このメール、本当に文学的で、正直言ってしびれた。文学的ってなんだよって話ではあるけど、「行間から滲み出てくるものがある」というくらいの意味。
彼氏から別れを切り出されて、「諦めれん」から始まって、いかにあなたが好きであるか、特別な存在であるかを饒舌に語った後、二行空けて唐突に
「エッチだってしたのにふざけんなよ!」
とくる。
この一行に僕は打ちのめされてしまった。
エッチ「だって」したのに。
「だって」ってなんだよ。
このニュースに初めて触れてからもう何日も経つが、僕の頭はこの「だって」について考えることにエネルギーを費やし続けている。
このメールが本物かどうかは知らない、しかし、リアリティはある。
二行の空白が持つ力は凄まじく、誰かが創作したのなら拍手を送りたい。
こんなに好きだ、という内容のメールを打ちながら、つもりにつもった想いが爆発して、ついに出た言葉が「エッチだってしたのにふざけんなよ!」。
ここから先は、「このメールは偽物かもしれない」という前提に立って、「もしこういうメールを15~16歳の女の子が、例の元彼と名乗る人間が語るようなシチュエーションで送っていたとしたら、その文面の裏にあるものは何か」ということを書いてみる。実際にこのアイドルがどう思っていたかとかは、事実がわからない以上は、考えることができない。そこで、「もしそういうメールを打った子がいたとしたら」という仮定のもと、その「彼女」の内面について、ちょっと考えてみたい。
「エッチだってしたのに」。
「エッチまでしたのに」とは違う。
「エッチまでしたのに」は、「エッチ」が一つの到達点、ゴールである。
ここには、「好きになった、付き合った、キスをした、エッチまでした」という、順序がある。エッチというものが、恋人関係の最後の、究極の行為として語られるのが、「エッチまでしたのに」だ。
ところが、「エッチだってしたのに」は、そういうニュアンスを持たない。少なくとも、弱い。
「エッチだってしたのに」と言うと、「エッチ」が、独立する。
恋人たちの行為の、一連の順序の中に「エッチ」が組み込まれているのではなくって、恋人たちの行為はそれとしてあって、それとは別のところに、エッチが存在しているかのようだ。
「だって」は、オマケなのである。
「お金だってあげたのに」という言葉を考えてみる。
「ダイヤだってあげたのに」「クルマだってあげたのに」でもいい。
こうなると「貢ぎ」である。
「お金まであげたのに」は、恋愛の最後には出てこない。「お金をあげる」は、男女関係の到達点にはなり得ないからだ。あくまで「こんなに好きだ」「こんなに尽くした」という主張の、一つのオマケ、ダメ押しのオプションとして、「お金だってあげたのに」がくる。
「お金だってあげたのに」と言われた男(あるいは女)に、ダメージはない。ちょっとした良心の呵責はあるかもしれないが、「そうだよな……おれ、お金もらってるんだよな……」と深刻になって、「ごめん、考え直すよ」ということには絶対ならない。「それはそれだろ、所詮『だって』なんだしさ」となるのが普通、なのではないかと思う。
しかし、「エッチまでしたのに」と言われた男(あるいは女?)は、けっこうズシーンとくるのではないか。「そうだよな……おれ、この子とエッチまでしたんだもんな……」と深刻になって、「ごめん、責任取るよ」となるようなルートも、ありそうなもんだ。
この違いは、「お金」と「エッチ」の質的な違いだけでなく、「だって」と「まで」の間にある、対象への考え方や価値観の違いでもあるはずだ。
なぜ彼女は、「エッチまでしたのに」と言わなかったのか?
「エッチ」なんてもんが、それほど重要ではなかったということだ。
それは単に、「ビッチだから」とか「最近の若者の性意識は乱れていて」とか、そういうだけのことではないのかもしれない。
つまり逆に、「エッチなんてしなくてもよかったのに」ということでもあるのかもしれなくて、そして僕は、こっちを考えるとぞっと恐ろしくなる。
「エッチだってしたのに」からは、「エッチの必然性」が漂ってこないのだ。
「エッチだってしたのに」のエッチは、到達点でもなければ、通過点でもない。ただの「オマケ=オプション」なのだ。「こんなに好きで、ついでにエッチだってした」というニュアンスさえ読み取れないではない。
それがよいことか悪いことか、わからないが。
15歳(16歳?)の彼女には、たぶん、「エッチ」というものがまだピンと来ていなかったんではないかと思う。「エッチ」というものが、恋人同士という関係において、どういう意味を持つ行為であるのか、ということを深く考えてそれをしていれば、「エッチだってしたのに」は出てこない。
少なくとも、彼女にとって「エッチ」がもっと神聖であったり、崇高であったりするようなものであったら、ここでそんな生々しい言葉は出てこない。そんな神聖であったり、崇高であったりするようなものを、「エッチ」なんていう単純な記号で表すこと自体、するはずがない。少なくとも、するべきではない。
言ってしまえば、彼女にとって「エッチ」は、あんまり美しくなかったのではないのかな、と思う。汚かった、醜かったというのではなくって、「よくわからなかった」んじゃないかと。
ただ、記号として、経験として、「エッチをした」ということがあって、その内実が彼女の内面に深く食い込んでくるということはなかった。
「エッチだってしたのにふざけんなよ!」という文面だけを見ると、そういうことを僕は考えてしまう。実際に彼女がどう思っていたのかは、知らない。ただ、このメールに僕が感じた「文学的」なる雰囲気は、こういうところから出てきていたのだろう。
これが、「エッチまでしたのにふざけんなよ!」だったとしたら、「あんなに美しいことを、私たちはしたじゃないの!」という怒りにだって聞こえる。しかし「エッチだってしたのにふざけんなよ!」だと、そこまでの響きにはならない。「女の子にとってとっても大切な『エッチ』という行為を、私はあなたとしたのよ?」というくらいになる。本当に細かいことだけど、僕にはどうしてもそのように聞こえる。僕でなくとも、この二つのフレーズに確かな差を認める人はいるはずだ。携帯で「まで」を打つのは、「だって」よりも少ない操作で済むのだし、その選択肢だって当然あったのだ。
もちろん、「まで」とすると重たく、生々しくなりすぎるから、あえて「だって」という軽い言葉を選んだ可能性もある。しかし、メールの全体に漂うあのせっぱ詰まった精神状態の中、彼女は果たしてそんな気のつかい方をしただろうか。
わからない。わからないんだが、「エッチだってしたのにふざけんなよ!」という言葉の持つ異様な迫力は、上述したような事情から生まれているように思う。
15歳だか16歳だかの彼女は、「エッチ」なんかどうでもよかったのかもしれない。だからこそ、メールの前半では「こんなに好きだ」「好きだと言ってもらえたのが嬉しかった」という内容だけが語られた。
もちろん僕は、それに対して「エッチよりも『好き』を重視するなんて、かわいいな、純粋だな」なんてことはまったく思わない。むしろ、こんな恋愛は気にくわない。要するに「エッチ」という、二人の「関係」を美しく奏でられる可能性を秘めた素晴らしい行為を二の次として、「好き」だの「好きと言ってくれた」だの、自分本位で一方通行な我欲を剥き出しにしているところに、悲しささえ感じる。
そういう恋愛は、15歳や16歳では当たり前なのかもしれない。が、だったらそこに「エッチ」がある必要はない。それはこのメールにおける「だって」が証明している。この「だって」は、「エッチなんてなくてよかった」ということを語るものなのだ。「エッチだってしたのに」なんて言うレベルのお子様は、エッチなんかしちゃいけない、それは
邪悪な
セックスである。
2012/06/16 土 戊申 パラレル同窓会
去年、友達の結婚式に行ったら同窓会のようになって、僕は泣きそうになってしまった。今年の初めには本当の同窓会(高一のクラス)をやって、とても楽しかった。先月は英語の先生を囲む会が開かれた。会というには小規模だけど、社会の先生と友達と三人で一緒に食事をしてお酒を飲んだのは、去年の三月。(すべて高校の関係。)
今年の夏には、友達の女の子の結婚式二次会、という形で、同窓会のようなことが催される。
「という形で」というのがミソで、たぶん大がかりな感じではなく、きっとビンゴみたいなのもなくって、彼女いわく「普段の服で」「わいわいがやがや」「そこここで同窓会になってる会」というふうなものらしい。
彼女、というのが同じ部活の子で、なんだかんだと、本当に僕は彼女のことが好きであるし、彼女もなんやかやと、ちらほら事あれば連絡をくれる。なんで僕らは仲がよいのか、一言で言っちゃえば、「だいたいのノリ」とか、「ざっくりとした大まかな価値観」とかが、合ってる(かみあう)ということなんだと思うんだけど、すなわちやっぱ、「大切に思うことがなんとなく重なる」っていう感じなのかね。うまく表現することが非常に難しいんだけれども、「同窓会みたいなことしたいよ~」「あの子も呼びたいよ~」っていう想いが、実際実現させちゃうくらい強いっていうことが、まさしくそれなんだろうな。
四月に、我が家でお父さんの還暦を祝う会を催したんだけど、僕がいちばん兄弟全員に声をかけやすい立場(末っ子)だったので、僕が幹事(?)のような役をした。それと同じような感じで、この会を実現できるのは、彼女だけだよなって思う、当たり前のことなんだけど。
彼女が集めたいと思うメンバーの中に、僕が集めたいと思うメンバーはとてもとてもたくさん含まれていると思うんだけど、僕には彼ら彼女らを集める力はたぶんない。彼女の引力で、みんなはきっと集まると思う。わいわいがやがやできると思う。しかも、建前として「結婚式の二次会」ってのがあるから、義理のほうも刺激される。「一生に一回のことだから」って。本当に、僕にとってはありがたいことで、ほとんどあらゆることに優先させて僕はそこに行くだろう。こないだ、文学フリマを欠席して英語の先生を囲む会に行ったみたいに。いやもう、ありがとう。
きたる、何年後かの僕の「結婚文化祭」も、同じように気の抜けた、「そこここで同窓会になってる会」にしたいものだ。奥さんのほうの友達もいるはずだから、どんな雰囲気になるんだかわかんないけど。今から楽しみで仕方がない。僕の引力はその頃、どのくらいになってるんでしょうか。きっと東京でやると思うんだけど、名古屋から来てくれるような人ってどのくらいいるんだろう。今度の会みたいなのを通じて、一人でも多くの友達と、友達であることを分かり合いたいもんだな。そんでいざって時、「あー、ジャッキーがなんか面白そうなことやるから、行ってみるか」なんて思ってもらえたら、いいなー。
2012/06/15 金 丁未 邪慰安
本当は邪悪じゃないはずの人が、背伸びして邪悪になっている。
色々の事情があって邪悪になっている。
本当は素敵であるはずの人が、背伸びして陳腐になっている。
若いということは、自分の魅力に気がつかないということでもある。
煙草をすい、酒を飲み、
恋をしている。
順番を間違えた。
まさかそうとは思わないから
迷ってまた繰り返す。
間違ったら、また考え直せばいい。
それを見守る親の気持ちは。
2012/06/14 木 丙午 漫画界の性的な話
実際、自分では漫画家としてやっていく間に、そんな嫌な目にはあっていないんですけど、他の人から話を聞いたりすると色々とあるみたいなんで……。特に女性漫画界のひどさなんかはよく聞きますからね。そういう醜いドロドロした部分もかなり多い世界なんですよ。(こせきこうじ先生インタビュー)
こういう! 話を! 聞くと! 昨日書いたような! 性的な! ことを! 考えてしまいます! よね!
考えすぎのような気もするっちゃするんですけど、どこにでも性的なことが、はびこっているというのは、そういうことなんですよ!
あるべきところに! 性的なものというのは! あるべきで! あるべきでないところには! あるべきで! ないというのが! 秘め事なので! 当然と! 思う! わけなんですけれども! なくてもよいようなところに! 必然として! なぜか! 性的な! ことが! あるような! ことが! 僕は! 気になるんですよ!
2012/06/13 水 乙巳 少しずつ性的な話
世界は性的なことで満ちている、ということが大人になるにつれてどんどんどんどんわかってきて、何を見ても結局性的なものが関わっているのだろうと勘ぐってしまう、だから僕は福満しげゆき先生に共感してしまうのだよなあ。
ここにも、そこにも、あそこにも、性的なことが関わっているんですよ!
絶対にそうなんですよ!
だけど、意外なところに性的なことが存在していないということも、僕は経験として知っていたりもするんですよね。だから! こそ! 悩ましいわけですよね!
つまり、どうとも言えないということなんですね。
性的なことがあるかもしれないしないかもしれないわけですよ!
ので! そんなこと気にすることがばかばかしいということに! なる! わけなんですが、でも絶対、あそこにはあるだろ! ってことが! あるわけですよね。いや実に。本当に。
でも意外なところになかったりもするんですよ!
たいていのところにはありますけどね!
意外なところにないんですよ!
だからわかんないんですよね!
どうでもいいんですけどね!
でも大人の世界ってのは本当に性的なことに満ちていますよ。
どんだけAVの世界っていうのは、色とりどりなんですか。
驚きますよ。何万人、何十万人と! 何百万人と!
出てますからね! 本当に! 絶対に! 色々と!
2012/06/12 火 甲辰 悟りを開きかけた
お酒を飲んで肉を食べたら、酔っぱらって食あたりを起こした。
お酒を飲んだり肉を食べたりすることには慎重にならなければならない。
丸一日使い物にならなくなってしまった。
やっぱ酒はうまいものに限るし、食べ物も豊かなものに限ります。
2012/06/11 月 癸卯 0か1か
何かを犠牲にして何かを手に入れる、という考え方は、その犠牲にした「何か」に対する義理を欠いている。
手に入れるべきものならば、手に入れればいいし、手に入れなくてもよいようなものは、手に入れなければいい。
一つ一つ吟味していくだけの話。
2012/06/10 日 壬寅 経験を必要としない時代
『失われた手仕事の思想』(塩野米松・中公文庫)という本を読んだ。職人さんたちの仕事が紹介されている。「昔はよかった」「自然に帰ろう」的な主張の本なのかなー、と思ったら違って、そんな陳腐なもんじゃなかった。
普通なら、こうくる。「手仕事は失われてしまった、我々は手仕事を取り戻さなければダメだ。」「大量消費社会の中で職人の作ったものが売れなくなり、後継者不足も深刻だ。このままでは手仕事が滅んでしまう。」
ところがこの著者は、「取り戻そう」も「滅んでしまう」も言わない。「手仕事の時代は終わったのだ」と言うのみ。
手仕事の時代は終わり、いずれ新しい時代がやって来る。今はその過渡期で、いろいろ問題が起きているが、必ずや安定するはずだ。そのための新たな道を模索する際に、「手仕事の時代」の倫理や職業観が指針になるだろう、と。
手を失った時代の思想は、それはそれとして新しく作り出されるものである。思想には流行がある。しかし、そこから人間がいなくなることはないはずだ。<改めてその時代に適した「人間」という概念が生み出されるのだろう>と、本文にはある。
絶望のような、希望のような、バランス。
この本の終わりのほうに、「経験を必要としない時代」という小見出しを見つけた。
これに出会えただけで、僕にはこの本を読んだ意味があったと思う。
経験。
昨日、「人生の本質」なんてことを書いたけど、そうだ、「人生の本質」ってのは、経験のことだったね。
『Peter and Wendy』という小説で、ピーター・パンは「経験」を知らない存在として描かれている。「1」は知っているけれども、「2」を知らない。「2」を知っている、すなわち「経験」を知っているということが、大人であることの条件なのである。そのことは物語の冒頭で、ウェンディの幼年時代のエピソードとして象徴的に描かれている。
「そうさすべてのことがめずらしく 何を見ても何をやっても嬉しいのさ そんなふうな赤ん坊を 君はうらやましく思うだろう」って、かまやつひろしさんが『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』って曲で歌ってた。
あるいは、とよ田みのる先生の『友達100人できるかな』2巻の最後の話、シンジローって小さい子が出てくる話で、「花を楽しむのは大人だけである 子供達(かれら)の目には世界は等しく輝いているのだ」ってある。
浦沢義雄先生も、「感動なんて目の濁った大人がすることだ」って。
そんな表現の例はいくらでもあるだろう。
人間の本質ってのは、「経験」ということにある。
「1」を経験できる特権を子供は持っていて、大人は「2」以降の数字を担当する。
(こんなようなことを
十代の時にすでに言っていた僕は偉いよね~)
「2」を知ったからこそ、人間は人間として文化を持てたはずだ。
その「経験」が、必要とされない時代が来ている。
こじつけてみれば、コンピュータってのは「0」と「1」でできているわけで、「2」ってないんだね。
手っていうアナログな道具は無限の回数を繰り返していき、少しずつ技術を蓄積させていく。それが「職人技」と呼ばれていた。職人技は、とにかく何度も手を動かして、慣れて、学んで行くことだと例の本に書いてあった。技は、学ぶことはできても教えることはできない、とも書いてあった。
コンピュータは、まあ、「AかBか」っていうデジタルな道具。
すっごくわかりやすく、そういうふうになっているんね。
将棋の羽生さんが、「年をとって読める手の数は減ったが、読まない手の数は増えた」というようなことを言っている。つまり、「昔は読まなくてもいい手を読んでいた」ということだ。
これが「経験」というやつ。
コンピュータにもある種の「経験」は可能なのかもしれないけど、どこまで行けるもんなんでしょうね。
経験を必要としない時代の中で、コンピュータに囲まれて、手や身体はどのように振る舞っていくべきか。
それを考えることがたぶん「新しい道の模索」であって、そのヒントってのはやっぱ、どうしても「手」ってとこにあるんだろうね。
そうじゃないと嫌だよね。
って、そういう気持ちを持っていない人が意外と、意外と、多いのですが。
2012/06/09 土 辛丑 人生の本質(むしり取った衣笠)
「××の経験が、○○で生かせたの!」
っていうことを鼻息荒く報告してくれる娘に、僕は反射的に
「それは人生の本質ですね!」
って返してた。
反射的に、とは言っても、実際はちょっとした心の手続きがあったにはあった。「え、それって、人生の本質なんじゃないの?」って、思った瞬間にもう、「人生の本質」という言葉が口をついて出ていた。口に出してみてから、「うん、そうだ。それはまさしく、人生の本質だ」とゆっくり確かめた。
人生の本質というのは、朝に覚えた英単語が、夕方に読んだ英文に登場するようなことなのだ。
いま、勉強を教えている中学生の子が、たとえば何か偉大なことをしたら、僕は当然「すごい!」と驚嘆する。そうしたらその子は間違いなく、「やってきましたから!」とドヤ顔で言って胸を張り、一拍ばかり置いてから「つちかってきましたから!」と言う。そういうことになっている。もう百回くらいやってるような気がする。
「やってきましたから」「つちかってきましたから」……これこそが人生の本質。この子は若くして人生の本質を知っている。こんな偉大な言葉をさらっと、かつ面白がりながら連発できるってのは、実に優れた感覚だと思う。しかも濫用もせず、たいていは本当に「やってきた」「つちかってきた」ことにしか使わない。
人生の本質というのは、「やってきた」「つちかってきた」ことを、発揮することである。その繰り返し。そう言われてみると、そんな気がしてきませんか? 僕はします。ほぼ反射的に「それは人生の本質だ!」と口をついて出た、その瞬間から、僕は絶対にそうなんだと信じ込んでいます。少なくとも、僕は人生の本質ってそういうもんだと思う。じゃなかったら反射的に出てこない。
「それは人生の本質!」って、反射的に言えちゃうっていうのはまさに、「やってきた」「つちかってきた」ってことの証明。だと、思うダスよ。
まあ、やってきましたから。
つちかってきましたから。
2012/06/08 金 庚子 定期的に自画自賛
久々に、十七歳の時の日記を読み返した。六月からさかのぼって、五月のはじめまで読んだ。ちょうど受験勉強を始めた頃だ。
面白い。これはモテるよなー。いや、もっとモテてもよかったよ。もっとモテたってバチはあたらないくらい、イカしてんだけどな。まあ、見せ方が中途半端だったってのと、おおっぴらにモテるだけの度胸が僕にはなかったんだよね。
見せ方が中途半端ってのは本当にあって、今読んでうなっちゃうくらい凄い記事って、やっぱ一割か二割くらいだったりするもんね。そんだけあれば十分だとも思うけどさ。しっかし、当時、僕のことを好きだった人は本当にいいセンスしてたんだね。
本当にみなさんありがとうございます。そこそこ立派になりました。
2012/06/07 木 己亥 ナチュン
夜中に漫画について話をしながら、「誰も音楽なんて聴いていない」っていうのと似て、「誰も漫画なんて読んでいない」っていうのもあるなと思った。
2012/06/06 水 戊戌 総選挙
AKBに関してはそういえば一度も何も書いたことがなかったような気がする。言うまでもなく邪悪なんだから言わなかったということだろうと思う。
きょう第四回総選挙があって、事情があって放送を全部見た。
言うまでもないようなことがたくさんありすぎて、何を書く意味もない。
ちょっと適当な思いつきを書いてみる。
1985年におニャン子クラブが誕生して、「歌謡」というものは死んだのではないかと思う。1980年頃の、いわゆるたのきんトリオのあたりにはそういう傾向はかなり強まってきていたのだろうが、ダメ押しがおニャン子だった。すなわち「歌なんか別にどうでもいい」ということになった。
1989年に美空ひばりが死んで、いよいよ「歌がうまい」ということが誰にもわからなくなった。それまでは「歌がうまいってどういうこと?」と問えば、「美空ひばりの歌を聴いてごらん」と言えたが、それが言えなくなった。「歌がうまい」ということの基準がどこにもなくなった。
AKB48の女の子たちは、大半が美空ひばりの死後に生まれている。総選挙での上位16名だかのスピーチで、「歌」について話した人は一人もいなかったようだ。
彼女たちにとって、「票数とはみなさんの愛」であって、「選挙とは戦い」であるらしい。「勝つ」という表現を使ったスピーチが心に残っている。
そして彼女たちはアイドルであって、ただ単に「見られる側」であって、見られることによって心の充足と幸せを得ようとしているらしい。
彼女たちは「見られる人たち」だ。どれだけ歌と踊りをがんばっても、それは「見られるため」でしかない。見られるために、過呼吸になるほど、肌が荒れるほど、歌って踊る。で、彼女たちにとってその「見られる幸せ」っていうのは大きい。
一位になった大島さんが言った「もう一度この景色を見たかったです」という言葉。あれって実は「見たかった」んじゃなくって、「見られたかった」だと僕は思うよ。「もう一度この見られ方をしたかったんです」が正しい。
アイドルなんてのはまあ、ちゃんと歌ったところで歌なんて聴いてもらえないんだから、ちゃんと歌うだけ無駄であって、だからこういうふうになったってことなのかもしれなくって、だから悪いのは結局、客の側なのかもしれないんだけど、そうだとしたら、それは本当に淋しいことだなあ。
彼女たちの「がんばり」ってのは、何で評価されるかっていったら、いかにたくさんの人に見られるか、ということだけであって、どれだけ上手に歌を歌うかとか、どれだけ上手に踊るかとかいったことではない。
どれだけお客さんと素敵な時間や空間を作るか、ということですらない。
どれだけファンをいい気持ちにさせるか、ということですらない。
彼女たちが自分のがんばりを確認する方法は、「票数」しかない。点数。どんだけ学校が好きなんだか。
だから「票数が愛」っていうことにしかならない。
これほど悲しいことはないと思うよ。
お父さんやお母さんに、テストのたびに、「何点だった?」って聞かれる悲しさっていうのは、僕はあると思うんだけど、そんなのみんなとっくに麻痺しちゃっているのかもしれない。
ああ、あほくさい。こんな、言うまでもないことを言ったって面白くもない。
僕はどんな事情があろうともAKB48を応援している人を無条件で、ただそれだけで強く軽蔑します。そういう意思表示は、したほうがいいはず。
2012/06/05 火 丁酉 X
過ぎたるは及ばざるがごとしと言います。
腹八分目という言葉もあります。
あまり欲張らないこと、寂しがらないことですね。
それができれば苦労はしないのですが。
ところでTOSHIとYOSHIKIさえいなければ僕はXというバンドが好きなんだと思う。
TOSHIのヴォーカルとYOSHIKIのドラムに面白みがないから僕はXをほぼ聴かない。
あの工夫のない歌い方と、バンバンバンと単調なリズム。
曲も歌詞も好きになれそうな要素がほとんどない。
そういう僕みたいな人はみんなhideが好きなんじゃないかと勝手に思っている。
2012/06/04 月 丙申 もう見られなくていい川本さん
先日、小さなライブハウスに行った。弾き語りが中心のおとなしいイベントだった。三組の出演者がいて、いずれも女性のシンガーソングライター(および彼女を中心とするバンド)だった。
僕の目当ての方は、言葉が客席に届くように歌っていた。その他の方々は、失礼だが、自分に向かってしか歌っていないような感じがした。これは僕が、その目当ての方が好きであって、そして曲をすでに一度は聴いたことがあるという事情が作用しているのかもしれないが、少なくとも自分なりには、そのような事情を差し引いて聴くように努力していた。その上で、二組の歌は「届かないな」と感じた。
先日ぼんやり路上ライブを聴いていたら、なんとかという男性ソロ歌手が、「君を守りたい」という内容の歌を歌っていた。まさにその言葉がサビになっていた。「よくもまあ、こんなに独りよがりな歌を作って、歌えるもんだ」と驚きあきれた。
「君を守りたい」という言葉は、実に独りよがりだ。「君は守られる存在で、僕は守る存在だ」というポジションを、勝手に定めている。人間関係ってのは、少なくとも素敵な人間関係というのは、「守る・守られる」という単純な言葉だけで表現されていいようなものではない。しかしその歌は、「君を守りたい」がメインテーマのようだった。
「僕は君のことが好きだ。だから守りたい」というのは、男の身勝手でしかない。一方通行の、上から下に注ぐような愛情しか知らない人間が、こういうことを言う。
そのライブハウスに出演していたある女性歌手も、「君を守りたい」というような意味の歌を歌った。また、「あたしを抱いて」みたいな歌も歌っていた。
僕は「愛されながら愛したい」(Folder『パラシューター』)が、まあ、比較的正しいんだろうなと思っていて、「愛されるよりも愛したいマジで」とか「愛するよりも愛されたい誰もが淋しすぎて」とか、そういう感覚には与さない。ちなみに僕がこの日目当てだった歌手はまさに『愛し愛されて』という曲を最初のCDに入れている。
「愛する」と「愛される」は、せめて、同時に起こるようなものであってほしいというのが僕の感覚なので、「愛したい」と「愛されたい」が単独だとどうも、片輪のような気がしてしまう。理想を言えば、愛というものを能動と受動に分けること自体、僕は嫌いなんだけど!
もう一人(一組)は、ポエトリーリーディングを交えながら陶酔した感じで歌っていた。歌は上手いと思うんだけど、その上手さを他人に伝えるために使っているのではなく、自分で納得するためにだけ使っているような感じを受けた。
歌詞は、正直言って、何を歌っているんだかまったくわからなかった。聞き取れないのではなくて、音としてははっきり聞こえるんだけど、頭に、心に入ってこない。全部ひらがなで聞こえてくるような感じ。おそらくそれは「詩的な歌詞」だからということになるんだろうけど、僕にとってはとりわけ印象的なフレーズもなかった。「歌を届ける」のではなくって、「芸術作品としての私を観客に見せる」というスタンスであるのならば、これはこれでいいのかもしれないと思ったけど、個人的には好きではなかった。
ところで、ミュージシャンがライブでほぼ例外なく言う「今日は来てくれてどうもありがとう」系の言葉について。(「集まってくれてどうもありがとう」「わざわざ聴きに来てくださってありがとうございます」等々、様々にパターンがある。)
こんなテンプレートと化した、挨拶みたいな言葉(っていうか挨拶)に突っ込みを入れたってしょうがないような気もするが、そういうところにこそ何かがあるかもしれないので。
まあ、遊びだと思って書いてみます。
この言葉っていうのは、演奏者と聴き手を明確に切り分け、「歌っている私」と「聴いてくれている皆さん」というポジションを定める。
この「くれている」というのが重要だ。「ありがとう」という言葉によって、「歌を届ける側」と「歌を受け取る側」という関係よりも、「歌を聴いてもらう側」と「歌を聴く側」という関係が強調される。そうなると、歌い手が「見られる側」であり、聴き手が「見る側」であるという意識に繋がってしまうような気がする。
「見られる側」としての意識が肥大化すると、「ステージ上の私が輝いてさえいればいい」という独りよがりなパフォーマンスになりがち、なのではないか、と思ってしまった。
歌手とは、決して「見られる」存在ではなく、「歌を歌う」存在であり、それ以上でもそれ以下でもないと思う。
僕は、「歌を届ける側/歌を受け取る側」という構図すら、別に正しいとは思わないし、「歌を聴いてもらう側/歌を聴いてあげる側」という構図ももちろん正しくないと思う。「構図」なんていう言葉を使うことがまず馬鹿げているのかもしれない。歌は自由にしていればいい。歌をどこかに位置づけようなどということ自体、おこがましいことなのかもしれない。だから「聴き手」とか「お客さん」なんて言い方もあまりよくない。歌手が歌手であることは役割だから仕方ないんだけど。
そんな話をしていたら、「そういえば前にタワレコに川本真琴のインストアライブ聴きに行ったとき、一度も『ありがとう』って言わなかった」とある人に言われた。僕も一緒にいたのだが、気がつかなかった。「よく覚えているねー」と言ったら、「『あ、言わないんだ』と思って新鮮だった」と。なるほど。
僕がそのインストアライブで覚えているのは、川本さんが(確か、ステージに直接)座りながら演奏をしていて、その姿がほとんど見えなかったことだ。その場に立つか、椅子に座ってくれれば見えるはずなのだが、構いもせず座っていた。「見られている私」という自意識は、たぶんそこにはまったくない。
川本さんは、ひょっとしたらもう「見られる側」っていう感覚がほとんどないのかもしれない。でも、とても楽しそうだった。
「見られる側」という意識が強くなりすぎると、歌は自由を失うと思う。だから歌を聴く人も、あまり「見る側」という意識を強く持ちすぎないほうがいいんだろう、と思う。歌は繊細で傷つきやすい。もちろん「ありがとう」を言わないほうがいい、なんて馬鹿げた話ではない。素敵な言葉なんだから、使えばいい。ただ、ステージに立つ側ばかりが一方的に「ありがとう」を繰り返すような光景は、ちょっとバランスが悪い。
2012/06/03 日 乙未 切り離す
自分と切り離すこと。
所属や誇りが、人の心を縛り付けている。
○○に所属している人が、○○を非難する言葉に出会うと、ひどく傷つく。
○○に誇りを持っている人が、○○を非難する言葉に出会うと、ひどく傷つく。
ついつい自分と結びつけてしまう。
人間は、所属や誇りを離れては、ものを考えられないのだろうか。
「人はどうしても、自分の背景と切り離してはものを考えることができない。自分もそうだ」と、少し年上の友達が言っていた。
僕はといえば、切り離して考えることはずいぶん上手だと自分では思う。
切り離すというよりは、距離を意識するというか。
「この意見は僕が○○だから出てくるのかもなー」と、思うだけは思う。
思って、疑う。それをしないと安心できない。
もちろんそれが十全にできているかはわからない。
しかし、僕は「切り離したい」と思っているので、「この意見は、切り離したとしても一つの意見として成立するのだろうか?」と常に考えている。
ただし、「これは自分の事情と切り離すわけにはいかない」と思うような時もある。そういうことを否定してしまってはいけないとも思う。
「完全に切り離すなんてことはできないよ」と言われたら、確かにそうだろう。それにしても、「だから切り離さなくていい」というわけではないと思う。切り離すべきところでは切り離すべきだし、切り離したほうがいいようなら切り離したい。
人間関係についても、僕は嫉妬深かったり、臆病だったり色々するので、そういった自分の感情や事情をもとに他人を、あるいは他人の言うことややることを判断する、なんてことはしたくないし、していないつもりだ。できていないかもしれないのでできるようになお精進する。
自分と切り離してものごとを考えられないものだろうか。
それはとてもどうやら難しく、小さな悟りのようなものかもしれない。
2012/06/02 土 甲午 会わなかった時間
ぐうたら精神にそむいて、とある学会の発表を聴きに母校へ行ってきた。
知らない人と知り合うというのはよいものです。
こないだ久々に、高校一年生の時に同じクラスだった女の子と会って話した。面と向かってまとまった話をしたのはそれこそ高校一年生ぶりだったかもしれない。長電話は何度かしたと思うけど。それでも何でだか、会おうよっつって会って、いろいろな話ができて、その時間をお互いに素晴らしいと思えるというのは、実によい。これが友達というものか。
変わっていないこと、変わっていること、なんだってあるけれど、「会わなかった時間」は、僕らを引き裂きはしなかった。会わなかった時間を、僕らは正しく過ごしたのだった。当時僕らの仲を決定的に近づけたのは、漫画家の夜麻みゆき先生の話題だったけど、僕らは相変わらず夜麻先生が大好きだった。「なんであんなに好きだったんだろうね」なんて話にはならない。「やめてその話、泣いちゃう」なんて言ってる。
十年という時を限りなく別々に過ごしたものの、結局「やあ」とかって再び出会った。別のルートを選んでも、同じ点に合流するような。それでお互いが摘んできた花を「あーそれ綺麗だね」「それもねー」とか言い合えるような。
美しく言うとそんな感じでしょうね、友達と会うというのは。
会わなかった時間が、短かろうが長かろうが、友達と会うというのはそういうもんだ。一日だろうが一年だろうが、十年だろうが三十年だろうが、同じことだ。そんな歌を、去年のコンサートで山本正之先生が歌っていたな。『卒業の味噌汁ライス』って曲。
今日、夜麻みゆき先生がユーストリームで作画風景を配信していた。今度復刊される『レヴァリアース』の登場人物、ウリックとシオンのペン入れをしていた。
夜麻先生には、作品をまったく発表しない時期が五年くらいあった。
『刻の大地』という未完の作品は、止まったままもう十年が経つ。
でも別に構わない。
友達だから。
すべての友達と、再び出会えるわけではない。
それは実に淋しいことだけど、大切なのは「友達であること」なんだと思う。
彼らの旅は続いていく。僕の生活とは無関係に。
僕の生活は続いていく。彼らの旅とは無関係に。
そして再び出会うまで、「会わなかった時間」のことは知ることができない。
こんな歌があった。
とおざかる君は 夕日のようだ
みえなくなるまで ぼくは見送る
ちがう道を わかれてゆくけれど
いつかどこかで また会えるから
うたを歌うよ 波おとみたいに ルルルル
ぼくのこころに 海ができた ラララ
ぼくたち ほんとは ともだちみたい
ぼくたち ほんとに ともだちなんだ
いつも いつまでも
ともだちだからね ともだちだからね
(大山のぶ代/森の木児童合唱団『友達だから』詞:武田鉄矢)
「ぼくたちほんとにともだちみたい ぼくたちほんとにともだちなんだ」
このフレーズを、十六夜、カイ、ジェンドたちに、まことに勝手ながら捧げます。ツァルにもねー。
2012/06/01 金 癸巳 ディズニーランドへ
ノイローゼになってしまった友達が僕に言う
あの楽しそうなディズニーランドへ一緒に行こうよって
でも僕は行く気がしない なぜなら彼は気が狂ってるから
(BLANKEY JET CITY『ディズニーランドへ』)
友達が発狂してしまった時のもの悲しさを歌った曲って、これ以外に知らない。とてもいい曲だと思う。
さて知人が狂った。
インドに行って悟りを開き、山にこもって、すべてを知ってしまったらしい。海を見つめたらピラミッドや大仏や戦艦大和が額に向かって突っ込んできて、第三の眼が開いたんだとかなんとか。
そんなことを大まじめに言うようになった。ブログもそれを反映したものとなっていて、まともな頭ではとうてい理解できない。
彼が狂ったのは、両親の問題とか、仕事のこととか、あるいは質の良すぎる大麻か、いろいろ原因はあったかもしれないけど、よくわからない。とにかく僕が注目しているのは、狂ってから彼は、「日本社会のおかしさ」について主張することが増えたということだ。
山形浩生さんが
最近こんなことを書いていた。
正直いって、最近のあらゆる本は意味もなく 3.11 大震災を持ち出しすぎだと思う。「アーティストのためのハンドブック」でも、大震災によりアーティストの意義が変わったとかなんとか訳者解説にある。変わってないって。ショックだったのはわかるけれど、それで自分が何かえらくなったような気分にひたってはいけない。それは高校くらいに、はじめて社会の役割とかこの世の不正とかに気がついて「世界はどうあるべきか」なんて考えはじめたとき、ついつい自分がえらくなってだれも気がつかなかった真理に気がついたように思ってしまうのと同じだ。「もっと人々が分かち合えばいい社会になるのだ!」とか「大人は強欲で汚い! もっと心を大事にする社会にしなければ!」とかね。
あの震災でもそうだ。あれを期に初めて社会の仕組みとか公共の役割とかに思いをはせた人々は、いままでそういうのを何も考えたことのない人に限って、何かそれで自分がすごく深遠なことを思いついて、だれも考えていなかったことを自分が考察しているかのような気分になって、舞い上がっている例が多々ある。「もっと人々が分かち合えばいい社会になるのだ!」とか「もっと心を大事にする社会にしなければ!」とかね。
でも、やがて高校生たちもわかるように、実は自分が考えたことの大半は、とっくに誰かが考えているのだ。そして自分の考えの相当部分は、浅知恵にすぎないのだ。でも、震災で何か深遠なことを考えたつもりの人々の多くは、高校生とちがってバカにされて成長する機会を持てないまま、そうした認識に到達せずに終わってしまっている。きみたちは何も変わっていないのに。おたおたしただけで、それに安住しただけでかえって愚かになっているのに。
狂ってしまった僕の知人は、きっちりこのパターンの中に収まっている。「どうしたら日本がよくなるかわかる?」という切り出し方で始まった彼の論は、あまりにも陳腐で、実現可能性の低いものだった。「そりゃ理屈としてはそうなんだけど、どうやってそれを実現させるの?」という疑問に対しては、「そのためにはもっとビッグにならないと」みたいな意味のことを言う。
彼は「日本はおかしい、もうダメだ」と何度も語った。
そんな彼がブログで勧めていた本は、『チェ・ゲバラ自伝』と『ゴーマニズム宣言戦争論』と、『Power of Now』とかいう本だった。最後のがわからなかったので調べてみたら、「Spiritual Enlightenment」(霊的な啓蒙)という副題がついていた。
ブログを見てみたい人は、この三冊を一気にググれば出てくるかと。
インドといえば、僕が高校生の時に読んでいた
このサイトの管理人さんも、インドで大麻かなんかをやって、妙な狂い方をした。この人はでも、ちゃんと「生還」し「再生」したみたいだ。
このページは非常に興味深いので、覗いてみてください。
この感じ。まるで自分が「全知全能」になったかのような感覚。これは海外で大麻にはまって、それ以降タバコを吸うようになったという僕の友達も、同じようなことを言っていた。スチャダラ風に言うと「すげえことに気づいたんよ」ってなことを、大麻でうまい具合にトリップできた人はけっこう言う。
話が逸れたけど、大麻にせよ修行にせよ震災にせよ、それで「目覚めてしまった」人っていうのは、山形さんが言うように「大人は強欲で汚い! もっと心を大事にする社会にしなければ!」みたいなことを言い出す。高校生みたいに。で、その主張は概ね正しい。ただ実効性と独自性がないだけで、主張としてはだいたい認められるというか、理想的でさえあるようなことがほとんどだと思う。でも、彼らの主張の仕方は、だいたい常にうさんくさい。苫米地英人さんなんかも、彼はもしかしたら本当に深い深い意図があってそうしているのかもしれないけど、非常にうさんくさい。何十冊に一冊かはとても素晴らしいと思える本があるし、どの本を読んでも、大まかな主張は結局「自分で考えて、自分で判断しなさい、誰かに騙されていてはいけません」というものなので、その点については激しく同意するんだけど、どういうわけだか全体に非常にうさんくさい。細部に関しては「おいおい……本当かよ……
」と思ってしまうようなことばっかりだ。
この社会では「正しい主張は、うさんくさい装飾をつけないと売れない」という事情が、もしかしたらあって、それを逆手にとって彼はそういう本ばっかり作ってるんじゃないかな、とすら思えてしまう。
「目覚めた人」の言うことは、だいたい極端で、杜撰で、無茶苦茶だ。どうしてそうなっちゃうんだろう。せっかくよい方向に「目覚めた」はずなのに、キチガイみたいになっちゃう。そういう人が本当に多い。エコとか言ってる人でも多くはそうだ。冷静さを失って、視野が狭くなる。ほんの狭い範囲のことだけを信じるようになる。普通の人間ってのはそんなにも不完全なのか? 結局、脳みそのキャパシティを超えちゃうってことなのかな。相当複雑に発達した頭の中でなければ、「正しい」ようなことっていうのは処理できないのかもしれない。それくらい、世の中っていうのは難しい。
単純な人が、一足飛びに難しい結論をつかもうとすると、ぎっくり腰みたいになって、倒れて、寝込んじゃう。そんなイメージ。無理はするべきでない、手元から、足下から、コツコツと。ってことだと思う。無理してデモに行ったり宗教に入ったりすることはない。それは焦りの発現でしかないんだよ。すぐにどうにかしようと思うから、スピードのありそうなほうへ向かうけれども、遠回りでも堅実にやっていったほうがきっといい。
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