少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2012/05/24 木 乙酉 日本語の歌

 相変わらず音楽の話、というか歌の話を続ける。我が家は意外にも音楽一家で、幼いころリビングには常に良い音のレコードかお母さんのピアノが響き渡っていたものだ。長兄は楽器を奏で、次兄は音楽をこよなく愛している。
 ところが僕は音楽にはあんまり縁がなく、楽器もできないし、取り立てて詳しく何かを知っているということもない。日本のロック・ポップスにはそれなりに詳しいのだが、それはたぶん音楽というよりは「日本語の歌」が好きだからである。
 お父さんもお母さんも、事あるごとに歌う。それも出来合の歌ではなく、オリジナルの歌をよく歌う。お父さんの作詞・作曲した(と言われている)『どら焼きの歌』は名曲。子どもたちがテレビゲームをしているとBGMに歌詞をつけて歌うこともよくあった。ドラクエ5の街(オラクルベリーなど)の音楽が代表的である。また、オペラのように歌いながら話しかけてくることさえある。
 で、その血というか環境を受け継いで僕もよく歌う。出来合の歌も歌うけれども自作の歌、というか適当に節をつけた言葉をよく発する。それはつい最近、「よく歌ってるよね~」みたいなことを言われて自覚した。「子供ってよく歌うけど、大人ってあんまり歌わないじゃない」とのこと。なるほど。我が家には常に歌っているような大人しかいなかったのでピンとこないが、そうかもしれない。考えてみればみんなあんまり歌わないのだな。
 まーでもそういうのが歌だという認識は僕にはあんまりないかもしれないし、実際には「節」といったほうが的確だと思う。「あーどうしよう」という言葉を発するにも、節をつけて「あ~どうしよう~」としているような気はする。

 日本語で歌われる歌を聴いていると、歌詞が聞き取れないことがよくある。正確にいえば、聞き取れてはいるんだけど、文節や単語に適切に分けられなかったり、漢字変換ができなかったり、意味がとれなかったりすることがとても多い。「あー僕は音楽を聴く耳が悪いんだなあ」とずっとコンプレックスに感じていたのだが、最近、それはたぶん発音(とくにイントネーション)のせいなんだろうということに落ち着いた。そのへんのことについては2012年3月18日の記事に書いた。
 日本語の歌であるからには、日本語で歌ってもらわないとわかりゃしない、と僕の耳は判断するのである。

 どういうことかピンとこないという人は、ぜひ町田康(町田町蔵)さんの曲を聴いてもらえるといい。この人の歌は、ほとんどポエトリーリーディングみたいに、日本語の発音に忠実なのだ。ほぼ標準語だけど、本人が関西の人なのでちょっとそっちの発音も入っているかもしれない。特に初期の頃はやや関西っぽい気がする。割と新しい『脳内シャッフル革命』(97年)というアルバムが個人的にはおすすめ、それ以前のアルバムでも同じようなもんなんだけど、ややポエトリーリーディング感が強いかな。『脳内~』はもうちょっと「歌寄り」だと思う。作品の善し悪しだけをいえば、『メシ喰うな』(81年、INU)が誰がどう考えても最高なので、ぜひ聴いてみてください。
 たとえばこの動画で『倖いラッキー』という曲を歌っているが、「さいわい」「ラッキー」がちゃんと標準語の発音になっているし、サビ以外でも概ね「喋るときとあまり変わらない発音」になっている。後半の「こんなにラッキー」という繰り返しでも、「こんなに」がちゃんと標準語。どの曲でもだいたいこんな感じで、ここまで徹底して歌っている歌手を僕はほかに知らない。さすが芥川賞作家。次点はかせきさいだぁ≡かなあ。いい歌手知ってたら教えてください。※2012/06/05追記:矢野顕子さんの歌う『すばらしい日々(ユニコーン)』や、忌野清志郎さんの歌う『少年時代(井上陽水)』なんかを聴くと、原曲よりも標準語の発音に近づけて歌っているのがわかる。これらの人々はかなり発音に敏感なのではないかと思う

 このくらい発音に気を遣うと、言葉がすっと心の中に入ってくる。ただ、メロディはなかなかポップにはならない。町田康の曲は、商業音楽としてはまず売れない。メロディのポップさと日本語の発音との狭間でうまくバランスを取って、素晴らしい歌を歌う、というのが理想ではあるが、それはなかなか難しいのだと思う。小沢健二さんなんかはたぶんそういうタイプで、たとえば1stシングルの『天気読み』なんかはかなり発音を意識して作られたのではないかな、と思う。彼の曲の中でも特に日本語の「ノリ」がいい。僕はずっとこの曲が大好きだが、思えばそういう理由からなのかもしれない。ちなみに、この人が「ちょっと妙な歌い方」をするのは、「メロディと日本語とのズレ」を最小限に抑える工夫なのではないかな、と個人的にはずっと思っている。

 サビの「神様を待つ」の「待つ」(上の動画の2:35くらい)は、楽譜の上では標準語の発音とズレている。標準語では「勝つ」と同じ発音でなければならないはずだが、楽譜の上では「夏」のような発音になっていると思う。そこで小沢さんは、「つ」の音を若干下げるように歌うことで、日本語の発音に少しでも近づけようとしているように見える。彼の歌い方が独特であるというのは、発音上の必然的な工夫なのだろう。
 と、言ったところで「はぁ?」って思う人がほとんどだと思うので、試しにカバーしてる人の歌い方(2:05くらい)と比べてみてほしい。「え、一緒じゃん?」なんて反応が返ってくるかもしれない。僕はキチガイみたいに聞き込んでいるので、わずかに下がっている! とわかる(まさか錯覚?)んだけど、もしかしたら正常な人にはわかってもらえないかもしれなくて、ちょっと不安。耳のいい人は、僕の言っていることが妥当なのかどうなのか、判断していただけると倖いラッキー。
 原理主義者の僕は、「このカバーの人は音を外している!」と言いたくなってしまうんだけど、それがたぶん昨日書いた「ドレミでものを考えない」ということの具体例。この人はドレミでいえば音を外してはいないんだろうけど、小沢健二さんの口から出た音とは違う。だから僕は「外している」と思う。そして僕はカラオケに行くと、こういうところを完全再現したくなってしまう、というわけ。ただ、いかなキチガイの僕でも完全にってのは難しくて、なかなか満足のいく歌い方はできないんだけど。

2012/05/23 水 甲申 ドレミ

 僕は自分の血液型を知らずに二十年ほど生きてきたし、初めて献血をして自分の血液型を知ってからも、そのことと自分の性格や行動とを結びつけて考えるようなことはまずしない。とはいえ、完全にそれから逃れることは難しく、心のどこかで多少は気にしてしまっている。血液型判断というものはそのくらい引力の強い考え方である。

 それと似ているんだか似ていないんだかよくわからない話。最近音楽のことを何回か連続で書いていて思ったのは、自分がいかに音楽について無知であるかということだった。そこで音楽に関する本を買ってきて読んでいるのだが、どうも僕は音をドレミで認識していないような気がする。できないと言ってもいい。僕は楽器をしないので、音はもっぱら声というアナログ楽器で出すのであるが、その際にはドレミという考え方は必要ない。そのおかげでドレミに常に無頓着でいられる。だからこそ自分には、歌手の歌い方を真似ることができるのだろうし、逆にいえばそういう歌い方しかできなかったのだろうと思う。
 もしかしたらある種の人は聞こえてくる歌を無意識にドレミに変換していて、それをもとに自分の声帯を震わせているのではないだろうか。カラオケで棒読みのような歌い方をする人は、ドレミで歌ってんじゃないか。
 こういうことを言っていたら、ある友達に「そりゃ、ジャッキーさんが演劇やってたからですよ」と言われた。なるほど演技というのは、声の微妙な高低や強弱などが重要な要素となっていて、歌もそれに近い要素を持っているはずだ。当然演技における声の高低というのはドレミではない。つまり僕が「ドレミに変換している」などと無茶苦茶なことを言ったのは大げさで、単に演技が下手というか、声に表情をつけることが苦手だというだけのことであって、何も「ドレミ」なんていう特別な言葉を持ってくる必要はない。そりゃまあ僕だって基本的にはそう思うけれども、言ってみるのは無意味ではないかもしれない。
 人間にとってドレミのような12音階的な音の刻み方は非常に心地よいらしいから、知らないうちに声帯は自分の音を均等に刻んでしまっているのかもしれない。それに慣れていくと、いつの間にかドレミのような音しか出せなくなるのかもしれない。そういう人は歌が上手に歌えないのかもしれない。音符通りには歌えたとしても、それを外したり崩したりして微妙な表現を加えるということは得意でないかもしれない。
 ドとドのシャープとの間に一つの音も存在しないような、デジタル的な歌い方、というのがあるかもしれなくて、デジタル的なしゃべり方、というのもひょっとしたらあるのかもしれなくて、それらが伝える意味というのは、デジタル的になって、人間としてのあたたかみだとか、微妙な感情の機微だとかいうものは、薄れていくのかもしれない。もっともっと人間は複雑なもので、ドレミで割り切れるようなわけがない。
 僕はボーカロイドってあんまり好きじゃないんだけど、それはなんでかっていうとたぶん、デジタルな歌い方にしかならないからなんだろうな。どれだけ調教したところで、人間の声には敵わないと思う。中田ヤスタカ系の音楽も。
 先日、エイプリルズとPANDA1/2を目当てに、「ネオ渋谷系」的な音楽のライブを聴いてきた。五組のバンドが出演していたんだけど共通して感じたのは「歌がデジタル的」だっていうこと。表情に乏しい。なんでなんだろう、考えてみれば渋谷系の代表といわれる小沢健二さんって、ものすごく豊かな表情を持った歌を歌っていたんだけどな。ピチカートの野宮さんやスチャダラのボーズさんもそうだ。それが何をどう勘違いしたのか、そのフォロワーと言われるような人たちっていうのは、あんまり表情がない。カジくんもそうだし、渋谷系とはズレるけどファン層がかなりかぶる、くるりなんかもそうだ。渋谷系ファンが聴いていたのは、歌ではなかったんだろうな。決して悪口ではなくて、渋谷系っていうのはそういうもんだったんだと思う。ソウルなんてない。意味なんてのもない。だから小沢健二さんは音楽的には渋谷系じゃないのかもしれない。いやもう、もちろん、渋谷系っていう分類自体がどうなんだってのはおいといて。もう何周もしてるからいいじゃない。
 だからこそ、ネオ渋谷系ってのはピコピコしてるんですよ。元々の渋谷系には情緒も意味もなかった、というより、ネオ渋谷系の人たちは渋谷系から情緒や意味を読み取らなかった。だからピコピコに行ったんです。ピコピコ音楽ってのは、デジタルですから。そこには均等な音、すなわち僕の言うドレミが前提としてある。音なんて、もっと自由に刻まれていいはずのものなんですけども。
 ところで、さっき出てきた僕の友達はビッグバンドをやっていて、楽器はトロンボーン。トロンボーンってのはアナログ楽器だ。鍵盤やフレットみたいなもので音が分断されていないという意味で。ヴァイオリンなんかもそう。僕がこういうわけのわからないことを言ってもわかってくれるっていうのは、ひょっとしたら数ある楽器の中からトロンボーンを選んだ、アナログ精神みたいなものを持っているからなのかもしれない。だからこそ『まなびストレート!』が好きだったりするんでしょうね。そこは絶対に繋がっていてくれないと困る。
 これからもっと音楽のことを知っていくにつれて、また考えが変わってきたりするのかもしれないけど、基本的なことはこのようだろう。僕は歌が好きで、音の刻み方は自由であればあるほど好みだ。ドレミが嫌いなわけじゃないんだけど、それが邪魔になって不自由に、あるいはつまらなくなってしまっているというのは、あるんじゃないかと少なくとも今直観的に思う。

2012/05/22 火 癸未 古典

 小松英雄さんの『丁寧に読む古典』が面白い。この本のせいで、受験で叩き込まれた一般的な古文についての考え方を根本から解体する必要に迫られてしまった。最初から小松さんの言うような考え方で読んでいればよかったと思いつつも、まあ、一般的な考え方をこれまでそれなりに身につけて来たからこそ、崩すということがやりやすいという側面もある。大学に入ってからは、できるだけ受験っぽい読み方をしないように心がけてきた(そのせいで他人に教える時にいろいろ忘れてしまっていたりして困るのだが)から、彼の考え方に違和感なくスッと入っていけた。
 要するにまあ、「丁寧に読みましょうよ」ということ。テクストや言葉そのものと、誠実に向き合うということ。慣れてくると「読む」ということはマニュアル化してしまいがちだ。つまり手抜きをするようになる。そうではなくって、丁寧に丁寧に、ちゃんと読んでいきましょうよと、当たり前のことを小松さんは言っていて、それって実はとても簡単なはずで、だけどなかなかできないこと。研究者だって仕事でやってんだから、忙しいんで、あんまり丁寧にやってられないってのもあるんでしょう。しかしまじめにやるなら、そういうわけにはいかないと。

2012/05/21 月 壬午 八年周期説

「お笑い八年周期説」というのがある。知りたい人は調べてください。僕にも八年周期説があるのではと思った。

 1993 『山そう村の大事けん』
 2001 『少年三遷史』
 2009 『たたかえっ!憲法9条ちゃん』

『山そう村~』は、小学校三年生のとき、「作文」の授業で書いたものであって、たぶん僕が初めて書いた創作で、「書くのって楽しいなあ」と思ったのはこれが最初。原稿用紙にすると十枚くらい。なかなか面白い。
 僕の人生における最初の転換期は、この翌年、四年生の時だ。今日は深入りしないけれども、この時期を境に僕の性格は劇的に変わる。劇的というのはなかなかいい、この時期から僕の生活はしばらく、毎日が劇のようになるのである。

『少年三遷史』は、高校二年生のときに書いた戯曲。部活で上演もした。16歳までの僕の人生を総決算したような作品で、かつ、その後の僕の生き方の概ねが表れてもいる。
 高校入学時に僕は第二の転換期を迎える。性格を変えたわけではないが、高校デビューみたいなもんをして、ずいぶん調子に乗っていた。演劇を始めたのも大きい。17歳になると女の子と親しくなったり、学ぶということに本格的に目覚めたりもする。大きな大きな転換期の、ちょうど真ん中にあったのがこのお芝居だった。そして名作。

『9条ちゃん』は、2007年ごろから第三の転換期に向けて着々と準備を続けていた僕が、その証明として書いた小説。ここから現在にかけて、自分の断片を拾い集め、少しずつ大きなかたまりにするための作業を続けている。

 それで、ということは2017年くらいに、第四の転換期の記念碑のようなものが現れるのだろうと予想される。まあ、具体的にいえばたぶん結婚して子供が生まれてるか、その準備段階にいる頃だと思います。そんできっと何らかの形で童話作家のような人間になっていくのではないかと推測しますね。
 そのあとの2025年になると、これはもうさっぱりわからない。2020年ごろにまた考えることにしましょう。

2012/05/20 日 辛巳 食べものも詩がよい

 僕はグルメに興味がない。「おいしいもの」にもあまり興味がない。食べものの味を「意味」だとするなら、僕は詩のような食べものが好きだ。詩は言葉の意味よりも「意味以外の要素」を珍重する。僕はつまり食べものの味よりも「味以外の要素」を重視したいのである。何千円、何万円と出してうまいものを食べるより、近所のうどん屋やカレー屋に行きたい 。たとえおいしくなくても、自分や母親や、好きな人の作ったものを食べたい。できれば一人よりもみんなで食べたい。なんてのは、ま、当たり前のことなんだけど、それが詩である、なんて表現をすると「あーなるほど」って思っちゃう。

 人生とは詩情である。人生の素晴らしいことのほとんどは、詩情で説明できそうだ。
 2002年の8月15日、僕はこの日記で「真にはなべて形而上学的なものにこそ全ての価値があるのではないかと思えてきました。」などと書いた。「形而上学的」なんて難しい言葉を使っているけれども、今の僕が言うならこれはすなわち「詩情」のことですね。

2012/05/19 土 庚辰 歌とは詩である

 音楽には「聴く」という態度と「参加する」という態度がある。どちらも好きなのだが、楽器を使わない僕の関心は、いずれにせよ「歌」のほうに傾く。僕は歌が好きだ。そもそも言葉が好きだからである。
 と言うと、「歌詞に重点を置いている」ということだと思われそうだが、それは一方では当たっていて、一方では当たっていない。僕の好きな言葉とは実は、詩としての言葉だからである。詩の言葉について詳しくはこの文章の下のほう、佐藤春夫先生の『新体詩小史』からの引用をお読みいただきたい。
 佐藤先生曰く、詩というのは「その意味を重んずるよりも言葉の持っている別の要素を意味以上に珍重して使っている」。歌の言葉も同じだ。意味よりも意味以外の部分にこそ歌の本質がある。だから僕は、もちろん歌詞に重点を置くけれども、その歌詞の意味するところに必ずしも重点を置くわけではない。歌詞の言葉が、どのような意味と意味以外の要素によって成り立ち、また支えられているかというところを大切にする。つまり言葉と、声の様子と、声以外の音との「関係」をこそ聴くのである。また、歌うのである。
 つい最近まで僕は、カラオケに行くと「いかに歌を再現するか」に心血を注いでいた。物真似に非常に近いわけだが、僕の意識の中では「そこまで含めて歌」なのだ。すなわち、声の様子。微妙な音の振れ方やビブラート、歌唱におけるあらゆる工夫の「再現」こそを、自分がその歌を「歌う」という最良の方法としていた。
 今はどうなのかというと、もう少し進んで、「自分の声を前提とした場合、どのような歌い方が最も適切か」ということだとか、「そもそもこの歌はどのように歌われるべきか」などを考えている。つまり、自分の声とオリジナル歌手の声は違うのだから、歌い方だって違っていなければならないはずだし、オリジナル歌手の歌い方以外にも適切な歌い方はあるかもしれないということに、ようやく気づいたのである。十年以上、物真似のように歌い続けて。もちろん、物真似スキルをある程度磨いた後だからこそ、それをすることができる。ピカソが実はデッサンめっちゃ上手いとか、そういう話。
 歌というのは、歌詞があって、メロディがあって、それを声に出せば歌というのではない。そこにあるあらゆる状況を材料として、どのように歌うのが最も良いのかということを考えながら、一瞬一瞬の声を調整していくことが歌である。そう思い至った時、「歌がうまい」とはどういうことかがなんとなくわかった。
 これは歌だけでなく、すべての楽器や、音楽に参加するあらゆるものに共通して言えることだと思う。「どのようにするのが最も良いか」を、その一瞬一瞬で考える。いわゆるフリーセッションではたぶん、その神経を極限まで研ぎ澄まし、次の瞬間の音を決めていく。オーケストラではたぶん、演奏者は瞬間ごとの指揮者の所作から意図や解釈を汲み取って一つ一つの音を決める。固定的な「グループ」だって似たようなことをやっているのだろう。ただ、たとえばバンドという形式はそういったことがなあなあになりやすい。堕落しやすい。すべてのバンドが堕落しているわけではないが、堕落していたってそれなりに形になってしまうのがバンドというものだ。
 僕はもちろん、歌詞の意味も大切だと思っている。しかしそれは、歌詞の意味が、歌詞の意味以外の要素や、その曲に関わるあらゆる要素と有機的に絡み合っていて、結果として一つの作品として味わえるような時である。歌詞だけを切り取って評価することもあるが、それは歌詞だけを評価しているのであって、音楽を評価しているのではない。
 PIERROTというヴィジュアル系バンドはヴォーカルのキリトを指揮者として、音楽に関わるあらゆる要素について気を配り、「PIERROT」という一つの作品を作り上げた。彼らのテーマをたとえば「覚醒させるためのアジテーション」としよう。そのために彼らは彼らなりの最良の音楽とパフォーマンスを、バンドイメージとともに練り上げた。そのテーマが、彼らの意図した通りに、意図した人たちへ伝わったかどうかは定かではないが、僕はこういうバンドが本当に好きである。

2012/05/18 金 己卯 グループとセッションとオーケストラ

 グループというのは「固定」されている。セッションとは「一時的」なもので、流動性や一回性という性質を持つ。オーケストラは「統率」であり、指揮者が全体を支配する。かりにポピュラー音楽をこの三種類に分けるのだとしたら、僕が好きなのはオーケストラと、ぎりぎりセッションであって、グループというのはあまり好きではない。
 ソロ歌手が、アルバムごと、曲ごとに演奏メンバーを変えて曲を作るのだとしたら、それは「セッション」に近いだろうし、シンガーソングライターがセルフプロデュースをして、演奏者にあれこれと指示出しを行うのなら、「オーケストラ」に近いということになる。「グループ」というのは、ジョンとポールとジョージとリンゴでビートルズ、といった固定された状況である。
 ただし、かりにビートルズのリーダーがジョンで、ポールとジョージとリンゴが彼の指示をハイハイと聞いているだけの存在であったとしたら、このバンドは少し「オーケストラ」っぽい。しかし実際はジョンとポールが中心となっていて、ジョージとリンゴも(よくわからないが、多少なりとも)オリジナリティを持ってグループに参加していたはずだから、「オーケストラ」とは違う。(もちろん、実際のオーケストラの演奏者に個性が一切認められていないと言いたいわけではない、比喩としての話。)
 忌野清志郎はRCサクセションのあと、アルバム数枚ごとにバンドを組み直して、数え切れないほど多くのバンドを生涯に持った。僕の用語を使えば、清志郎がしたかったのは「グループ」ではなく「セッション」だったんじゃないか。
 グループは固定的なものであるがゆえ、グループの音楽は「グループありき」のものになりがちだ。「音楽」を目的とし、「楽器」や「演奏者」を手段とするなら、グループは手段が先にあって、そこから目的に向かっていく形になる。手段が同一ならば、目的すなわち彼らの奏でようとする音楽も同じようなものになるだろう。そして、実は聴き手のほうもそれを求めがちだ。好きなバンドがずっと同じような音楽をやっていてくれたほうが安心できるというファンは多い。「あのバンドは変わってしまった」という嘆きの声は、よく耳にする。THE ALFEEなんかは、固定化したグループの典型かと思う。あれはあれで僕はもちろん、好きなんだけど。
 メンバーがずっと同じでも、意欲的なバンドならば常に新しいものを生み出すことはできる。しかし、あの電気グルーヴやゆらゆら帝国でさえ、「このメンバーでやれることはやり尽くした」というような意味の言葉を残して休止や解散に至った。メンバーが固定的であるということは、やはりどこかに限界があるということなのではないかと思わされる。結成二十七年経って一度のメンバーチェンジもなく、未だにアルバムごとに変化し続けているBUCK-TICKというバンドはかなり異色だ。もっとも、変化といえるほどの変化ではないと見る向きもあるかもしれないが。
 セッションは「一時的なグループ」であるので、手段と目的という言葉で語るならほとんど相違はない。オーケストラになると、目的と手段は逆転する。あるいは、「部分」よりも「全体」がより重視される。表現する結果のために個性を殺すべき場面もある。練習風景は、「じゃーとりあえず合わせてみようぜ」ではなく、「こういう音にしたいんで、こういうふうにお願いします」という感じになる。
「じゃーとりあえず合わせてみようぜ」だと、その集団はあくまでも個人の集まりであって、それぞれの個性がぶつかり合って奇蹟のような音が出たり、あるいはお互いがお互いの音を尊重し合って、最も心地よい音を探り出したりするのだと思う。それでうまくいくことだって非常に多いのだとは思うが、しかしそれは多くの場合(特に後者の「探り出す」パターンでは)、「個人同士の最大公約数的な音」にしかならない。僕がバンドを「つまらない」と思うのは、主にこれが理由である。
 椎名林檎が東京事変を組み、中村一義が100sを組んだ時、ソロ時代からのファンのうちには「つまらなくなった」と言う人が多かった。それはそうだ。バンドを組むということは、時として「メンバー同士がお互いの音や思想を尊重し合う」ということになるのだから、個性は薄まる。たとえば「メンバーに理解できないような歌詞」や、「メンバーの思想と合わないような歌詞」だったら、意思疎通が難しくなるだろうことは想像できる。ガチガチの共産主義者がいるバンドで、「金儲けは尊いぜ~」みたいな歌を歌うのは、ちょっと想像がつかない。熱心なユダヤ教徒のいるバンドで、ユダヤ教の神の名を連呼するような曲は、歌えないのではないか。これが固定的な「グループ」でなかったら、「あの人はやめて、他の人にしよう」とできる。多少大げさな例だったが、でも音楽の自由さっていうのが排除によって担保されるというのは、一つの事情としてあるはずだ。「グループ」は排除を禁止する。
 グループの奏でる音楽ってのは、人に聴かせるための音楽じゃなくて、自分たちが演奏するための音楽なんだろう。セッションもそうだ。「聴く」よりも「参加する」ことに意義がある。バンドのライブに行くことを「参戦」と表現する文化があるが、それは「バンド」というものがもともとそういう性質のものだからだ。バンドの音楽なんか、聴いたってつまらない。参加しないと楽しくない。実際バンドのライブに行ってみれば、ちゃんと音楽聴いてる人なんてほとんどいない。みんな騒いでいるだけだ。
 バンドのライブってのは、輪にならない盆踊りだ。盆踊りは好きだが、あれは輪になって踊るから楽しいのであって、輪にならない盆踊りは楽しくない。それぞれが好き勝手に踊るだけのディスコやらクラブやらと同じだ。いずれもやはり好きではない。
 音楽には「聴く」という向き合い方と「参加する」という向き合い方があって、どちらも素晴らしい文化だと僕は思うが、前者を愛する立場に立った時の僕は、オーケストラのようなものをより好むし、後者についてはグループみたいに固定化したものよりもセッションのような流動的、一回的のもののほうが楽しいんじゃないかと思う。仲良しグループで楽しくやるのもいいけれども、それってのは学校の教室にあった閉鎖的な島宇宙と同じように、とても淋しいものなんじゃないかと。

2012/05/17 木 戊寅 英語じゃん!

 僕はそういえばマイケルジャクソンとかビートルズにはまったことはない。レッチリとかレディオヘッドとかもよくわからない。ビートルズとビーチボーイズはアルバム全部持っているし、フーでもスミスでもウィルコでもケイクでも、パイロットでもスティーリー・ダンでもドクター・フィールグッドでも、好きといえば好きなので、たまに聴くこともないではないが、別にそれほど入れあげるほどでもない。持っている音源の数はかなり膨大だと思うが、曲名を知っている「洋楽」の曲は数える程度だ。
 なんでなんだろう、と思ったら、たいした理由ではなく、「英語だから」という一言でカタがつくことだった。先輩のバーでマイケルジャクソンのPVを見ながら「何で僕はこういうのにシビれないんだろう、こないだも無銘でマイケルのPV見てみんなギャーギャー騒いでいたけれども……」と思った矢先、ピンとひらめくように「英語じゃん!」という言葉が口をついて出た。なんだ、そういうことか。
 英語だから、と一口に言うが、英語であるという事実は、実にいろんなものを含んでいるはずなのである。文化とか、感覚とか。そういうもんが「日本の耳」あるいは「日本の身体」の権化のようなもんである僕にはわからない。のだろうなと。
 それと僕は別にロックが好きじゃないんだな。ビートルズ型の「バンド」は本当に好きじゃない。そこにキーボードが足されようとパーカッションが増えようと、ビートルズを軸にしたような編成のバンドはどうも好きになれない。なんでかっつったらバンドってのは「グループ」だから。「オーケストラ」や「セッション」はとても好き。「グループ」って、やじゃん。学校のこと思い出したらさあ。
 だったらバンドでもなければロックでもなさそうなマイケルジャクソンくらいは好きになれそうなもんだが、だめだ、英語だから。
 そういうわけで僕はあんなに通い詰めたシェイクスピアにもイマイチはまれないのかもしれない。もとは英語だもんな。
 ところで、「英語だから」っていうのが言えてしまうのはすごいですね。世界にはいろんな言語があるのに、こんなにも英語ばっかりだ。
2012/05/16 水 丁丑 植芝理一先生についてきた理由

 植芝先生は藤子不二雄先生の『T.Pぼん』が大好きで、それがきっかけで藤子不二雄ファンクラブに入り、「自分も漫画を書いてみよう」という気になったのだとか。なんで自分がこんなにも植芝先生を愛しているのかといったら、理由はきっとここにしかないのでしょう。藤子の魂が正しく継承されているからこその、あの作品なわけです。ちなみに植芝先生はリーム・ストリームというキャラが大好きだそうで、某イベントで植芝先生の直筆リームを見て卒倒しそうになりました。
 好きなF作品を聞かれると僕は、「短編とドラえもん。それから『モジャ公』と『T.Pぼん』」と言うことにしています、たぶん十年以上前からずっとそう。だから植芝先生が『ぼん』好きだということには感動しました。先日、父の還暦祝いで久々に会った長兄からも「全集のぼん買ったか?」と問われ、ああ、そうだ我が家には太古より『ぼん』の魂が充満していて、自分はなんと幸せで誠実な家庭に育ったものかと、そういった面だけを顧みるならば本当に思うのでした。
 僕は「おすすめの漫画」を問われた時に植芝先生の名前を挙げることはしませんし、「好きな漫画」を聞かれても言わないかもしれませんが、心の中では植芝先生のことしか考えていなかったりします。面白いとか好きとかそういった次元を超えて、植芝先生は僕の中に息づいているのです。そうなった理由の一つとして、やはり藤子不二雄とか、『ぼん』があるんだなと思って、嬉しくなってしまいます。

2012/05/15 火 丙子 立ったままパソコン

 僕は座るのが苦手だ。座っていると肩が凝ったり腰が痛くなる。姿勢が悪いのだ。姿勢を良くしようと無理してピンとしていたら、それも逆にあんまりよくないことらしくて、ついに腰痛のような状態になってしまった。ネット上ではずいぶん前から、「毎日六時間以上座っている人は死のリスクが云々」というニュースが駆け回っている。
 僕は二度寝を防ぐため、朝ご飯を食べたら用が無くても外に出て、安いカフェーなどで本を読んだり仕事をしたりするようにしていたんだけど、昼ご飯までそうしているとだいたい四時間くらい座っていることになる。そうなるともう、疲れてきてしまうのである。もうちょっと若い頃はそんなことなかったんだけど、やっぱり若さの上にあぐらをかいていてはいけないのである。
 カフェーに行くのは楽しみでもあるので、それをやめようとまでは思わないが、家でも外でも座ってばかりいるのはさすがによくない、と思って、パソコンの置いてある座卓を撤去した。で、パソコンをタンスの上に置いた。立ったままパソコンが使えるようにしたかったのである。
 しかし、タンスの上にディスプレイを置くと、キーボードを置く場所がなくなる。知恵にあふれた僕はすぐさま100均に行って、伸縮性のつっぱり棒を二本と、お茶などを載せる四角いお盆を買ってきた。お盆の左右につっぱり棒をガムテープで留め、お盆からはみ出したつっぱり棒(二本の足のようになる)を、タンスとパソコンの間に突っ込む。そうするとパソコンの重みでお盆は宙に浮く格好になるから、その上にキーボードを置くのである。
 マウスもキーボード同様お盆の上に置くことになるが、ちょっと手狭なのでキーボードのテンキーをカスタマイズしてマウス代わりに使えるようにした。KeyPointerというソフトを使うと便利である。
 本も、江戸時代の人が使っていたようなイメージの、譜面代みたいなやつを冷蔵庫の上に置いて読んでいる。そうすると家の中で座っている時間がほとんどなくなる。疲れるからパソコンもやりすぎることなく、なかなか良い具合、のはずだ。
 とはいえ、こういう新しいスタイルをやってみると、いろいろと不具合は出てくる。さらなる工夫を重ねて、快適な状況を作っていこう。
 ちなみに新しいスタイルだと、一歩も歩かずに藤子・F・不二雄大全集を手に取れるのでとても便利。もちろんいちばん取りやすいのは『ドラえもん』である。

2012/05/14 月 乙亥 Angel恋をした研究

「静かな静かな夜にあなたを想っている Angel 恋をした」

 堀江由衣さんの『Angel恋をした』という曲(作詞曲は岡崎律子さん)の歌い出し。過不足のない完璧な詩。「Angel」の挿入によって意味も語感も何もかもが一変する。

「静かな静かな夜にあなたを想っている 恋をした」

 だったとしたら、なんの面白みもない。また、

「静かな夜にあなたを想っている 恋をした」

 だったとしたら、味気なさすぎる。
「静かな静かな」という反復が生み出すのは、リズムだけではない。「静かさ」を強調しているのと同時に、「想い」をも強調している。さらに、「Angel」という語のもつイメージを縁語的に引き立たせてもいる。騒々しい場所にAngelは現れないのである。そしてもちろん、この「恋」の切なさを演出してもいる。

 それにしても「Angel」の挿入はすさまじい。意味という側面から見ると、これは「Angelが恋をした」なのか、「Angelに恋をした」なのか、「少女が恋をした、その様子(または心)はAngelのようである」なのか、「恋をした、そこにAngelが降りてきた」なのか、「恋をしたとき、そこにはAngelが降りてきている」なのか、「Angelは恋の象徴である」なのか、「恋とはAngelである」なのか……ほかにもいくらだってあるだろうが、そういった意味の広がりをこの「Angel」は持っている。

 全体の語感もいい。試みにローマ字で表記してみよう。

「sizuka na sizuka na yoru ni anata wo omotte iru ANGEL koi wo sita」

 小文字部分を見ると、k,s,tを中心として、zと、n,y,r,wといった柔らかい音、そして母音で構成されている。使われていない子音はh,g.d,b,p,それからch(ち),ts(つ)など。
 以下に内訳。(ttはワンカウント)

 k(3) s(3) t(3) z(2) n(4) m(1) y(1) r(2) w(2) 母音(4)

 大文字のANGELに見られるGEは、日本語ではjのような発音だ。Lは「r」または「ゥ」という弱い母音として考えればいいと思う。ところが堀江さんはこのLをほとんど発音していないので、ここではノーカウントにしておこう。Aは母音、Nは「ン」にする。すると内訳は次のようになる。

 k(3) s(3) t(3) z(2) j(1) n(4) m(1) y(1) r(2) w(2) 母音(5) ン(1)

 k,s,tは、口の中の前のほうで軽く発音されるので、唇で発音するb,pや、口内の中程でやや強めに発音するg,dなどと比べてエネルギーがかからない。ゆえに、かすかな、澄んだイメージを比較的持っているはずだ。zとjはk,s,tなどのグループに比較的近い位置で発音し、g,b,dほどの強さはない。強度としてはpよりちょっと弱いくらいかと思う。n,m,y,r,wはさらに弱い音。母音は舌をほとんど使わない。
 ちなみに使われなかった子音について。発声練習で「はとぽっぽほろほろはひふへほ」なんかをやるとわかるんだけど、「は行」というのは意外とエネルギーが要る。あ~わ行までなら発声で一番疲れるのはこの行だ。この曲のサビで「遠く離れていても」という歌詞があるんだけど、やっぱり「は」のところはかなり強く発音されている。というより、「は」が強い音だから、その位置に置かれているのかな。g,d,b,pは言うまでもなく、強めの語感を持つ音と思う。chやtsはzやjの周辺に位置づけられそうだ。

 というわけでこの一節は、弱めの無声音と破裂や摩擦のない弱い音を中心に構成されていて、語感の面から見ても「Angel」のイメージにふさわしい清潔さと柔らかさ――「静かな静かな」という言葉に象徴されている感覚――を持っているんじゃないかな、と。
 なんと素晴らしい一行か。ちなみにこの曲は『堀江由衣の天使のたまご』のエンディング・テーマです。あなたのハートにエンジェルビーム。

2012/05/13 日 甲戌 アキラ

 昨日みたいな気分が、小林旭の歌を聴いたらもうどうでもよくなった。

2012/05/12 土 癸酉 故意に必要なのはそんなんじゃない

 コスミック・インベンションの『コンプリート・ベスト』なるものがCD発売されていたことを半年遅れで知り、即座に購入。いいバンドですねー。『YAKIMOKI』や『ゆでたまごちゃん』のポップ感とかわいらしさは殊にすばらしい。通して聴くのは初めてなのでワクワクしております。本当に嬉しい。

「表現」という言葉を用いたり、用いないまでもそのような雰囲気の内容を言ったり書いたりする人がいると思うのですが、その中でも、自分と考え方の合わない人が僕は特に苦手です。困ってしまいます。まったくもって僕は勝手で小さな人間です。
 そういった人たちの「表現」を見ると、僕は驚異を感じるのです。さらに、そういった「表現」が、誰かに受け入れられているのを見ると、僕は怖くなります。
 もうちょっと気を確かに持ちたいものですよ。
 世の中が僕の好きなものだけでできていればいいんですけどね、そうもいかないもんでね。こっちが認識を改めればいいだけの話なんですが、まだまだ若いですね、僕も。あんまりそういう感じなんで、会いたくないとか行きたくないとか、そういう気分になっちゃったりして。
 孤独だなーと思って、だから会ったり行ったりすると、きっとさらに孤独なんだろうなーって思って、いやになっちゃうわけです。
 このような状況を打開するために、また工夫が必要です。

 もちろんね、同じ考え、同じ価値観の人間なんて、そんなに多くはないわけです。大切なのは折り合いです。だから僕は「折り合えるのかどうか」を考えて、折り合えそうであれば、それは「同じ」だと見なすようにしました。人間が千差万別、それぞれに違うものであるならば、結局は「折り合えるのか」しかないように思うんですね。
 ところが、折り合えない人もいるんですよ。折り合い方が圧倒的に違いすぎて、うまくいかないケースとかも。「それって折り合ってるんじゃなくって、あんたが折れてるだけじゃないか」とか、「どうしてそんなに、他人のことをむりに折ろうとするんですか?」とか、そういうふうに。折れもせず、折りもせず、ただ折り合うという、そういうのって難しいみたいですね。折れもせず、折りもせず、折り合いもせず、ただ黙っているとか、何もしないとか、目を背けるとか、そういうパターンもあります。それがもしかしたら、一番辛いかもしれません。

 恋をしたいですね。

2012/05/11 金 壬申 分析と総合

 分析し、しかるのちに総合する。
 それは近代的思考とかいうものの基本であるらしいのですね。
 そうだとします。(今日は)
 分けて、合わせる、という。
 頭があって、胴体があって、手があって足があって、いろいろあって、それが全部つながっているようであって、そのつながり方を観察してみると、それはどうやら人間である、というようなことだと思います。
「あー人間だ」じゃなくって、「頭があって、胴体があって……」として、しかる後に「なるほど人間である」とするのが、分析と総合ということかと、存じます。
 もちろん最初に、「あー人間だ」はあるんでしょうけども、その後で、もうちょっとよく見るわけです。「茶髪だな」とか「タバコすってるな」とか。そんで「ヤンキー的な臭いがして怖いから近寄らないようにしよう」とか。
 そういうことはたぶん、できると思うんですよね。でも、誰もがやっているわけじゃないんですよね。たぶんね。
 やってない人もけっこういるんです。まったくやってない人はいないでしょうけれども、あらゆる場面においてやっている、あるいは「いま現在、できる」という人は、多くないというか、まあいないでしょう。
 でも、練習すれば、あるいは意識さえすれば、たいていの人はたいていの場面でできるようになるというのが、たぶん分析と総合という、近代的思考とかいうものの基本であるようなことなんだろうと僕はいまは思います。近代という時代において、誰でもが近代人になれるのだとすれば、近代的思考というのは、誰にでもできるようなことであるべきだと思うので。
 だから、言ってしまえば、近代において「わかる」というのは、分析と総合をもって行われるようなことになるんじゃないですか、おおむね。
 だとすれば、近代的に思考したいような人は、そういう「わかりかた」を身につけたほうが、いいんじゃないかなー
 と、まあ、思っているし、思いたいわけなんですけれども、そんなに簡単に事は運びませんね。得手不得手はありますし、不得手から得手に変わっていくのには、わりといろいろな障害のあることが多いのです。
 僕は高校以降の数学をほとんどサボりましたし、やってみてもあまり得意ではありませんでした。恥を忍んで告白しますと僕は数学は苦手だと思います。最近数学をちょっとずつやっておりますが、やはり他の分野ほどはピンと来ません。しかし、いつかピンとくると信じておりますし、少しずつピンと来ています。しかし、この「ピンときかた」は、高校時代に数学が得意であったような人、すなわち世に理系と呼ばれるような人たちの多くの「ピンときかた」とはだいぶ違うだろうなと思います。僕の「ピンときかた」はおそらく少し特殊で、高校生のころだったら同じアプローチをしたところでピンとこなかったかもしれないのですね。今だからピンとこられるのではないかと思うのです。しかし受験というのはそう何年も待ってくれませんから、僕は数学で受験することを諦めざるをえなかったと、そういう感じの事情なのかもしれません。今言えば。
 受験生ってのはあんまり悠長なことを言っている余裕はないものですから、ピンとこないものはピンとこないと、早々に切り捨てることも得策かもしれません。五年後や十年後にしかピンときようのないことに時間を費やすのはあほらしいですから。僕は幸い、国語と英語と世界史にはとてもピンと来ていましたからよかったのですが、しかしその科目のうちにも、当時はあんまりピンと来ていなかった部分もやっぱりあるのです。同じ科目とはいえ、その中身は一枚岩ではないわけですから。
 それでも運良く、なんとかなったのは、おおむねピンときていたからです。大事なところはピンときていたからです。もし大事なところでピンときていなかったらどうなっていたのかと考えると、ちょっとこわいですね。
 ピンとくるまでには時間がかかるんです。もちろん、時間の問題じゃなくって、「障害」の問題だと僕は思いますので、上手にその障害を取り除くことができれば、わりと短時間でピンとくることはできるとは思いますが、やり方によってはそれを取り除くために、永久に感じるような膨大な時間と手間を費やしてしまうこともあるのです。これは勉強のことだけを言っているのではなくって、なんについてだってそういうもんだと思いますね。結果的には、時間のかかることが多いです。みんなそんなに器用じゃないわけですので。加えて、暇でもないので、一度ピンとこないと諦めてしまったものは、永遠にピンとこなかったりもします。
 僕は数学について、ピンときたいので、今それなりにやっています。僕の「ピンときかた」はずいぶん回りくどいので、ずいぶん回りくどいやり方をしています。自分としては、急がば回れというイメージで、くどくど回っておりますよ。
 まーしかし、この回りくどさを、17歳だか18歳だかの自分に押しつけることはできませんね。それをしたら、彼はたぶんあんなに楽しい一年間を送れなかったでしょう。もっともっと周りの人たちに負担をかけていたかもしれませんし、逆にほとんど誰にも迷惑をかけなかったかもしれません。なんにせよ、楽しくなかったか、違う楽しさに目覚めていたことでしょう。
 えー、そういうことです。

2012/05/10 木 辛未 パラッパラッパー

 幾らでもいろいろとあります。
 なんだか幸せなわけですが
 困ることも多いので
 申し訳なく存じます。

 無銘喫茶は人がいて本当に楽しいですね。
 久しぶりの人に会うのもいい。
 いつもいる人がいるのはとてもいい。
 僕は本当に本質的に原っぱが大好きですから
 それにまつわる思い出話ももう何度もしているけれど
 やっぱり外に出て「入れて!」とか「入る?」とかってので
 育ってきたもんですから。
 で、その前提を持たない人ってのはちょっと大変なんですね、ああいった場においては。
 んなもんで、何度も言ってますがこれ
 そのノーカット版としてのこれ
「他人と話す」ってことを考える時には、これも大事。

「なんか、遊んだことないような人達の為に、遊んだ側の人間が一生懸命説明させられる。」(橋本治『ぼくたちの近代史』河出文庫版 P188)

 遊んだことあんの? って思うことが多いです。
 ホントに遊んでたの? って思うことも多いです。
 遊んでたのなら、どうして? ってのも。
 僕はもう徹底的に、遊ぶために生きていますし、遊びをせんとや生まれけむって思います。
 遊ぶために必要なのはどうしても、時間として、空間として、人と人との間としての「場」ってことになるんですよね。
 本当は世の中、すべて遊びでいいんだって思うんです。
 ある若い人と話をしていて改めてそう思いました。
 あまり遊んでいないように見えたから。

2012/05/09 水 庚午 おもんぱかる

 コメダ珈琲店で素敵な時間を過ごした。
 しかしやっぱり思うことは多い。
 帰ってから大いに落ち込んだことです。
 他人というのはまったく、何も慮ってはくれない。当然。
 だからこそ、大量の他人の中にまみれると、なかなか身動きが取れなくなって、だからこそ、確固たる自分というものが欲しくなる。
 確固たる自分。要するには、自分は何を好きかということ。
 だいたいは決まっていても、細部を揺さぶられることはある。
 そうすると動揺しますね。

 面倒だから、やはり、一対一の生き方をしたいと思います。
 しかしそうともいかないのが悲しくて、工夫が必要となるわけです。

2012/05/08 火 己巳 乱数

 乱数だからなー、ってのはある。
 結局おおむね乱数な訳で、すべて正確に予測するのは難しい。
 それでやっぱり、まずい事態が起こったりする。
 なんだけどもまあ、どうにかがんばっていきますかというところ。
 特に他人という代表的な乱数といかに付き合うか。
 それが人生の課題でありますね。

2012/05/06-07 日-月 丁卯-戊辰 あお

 家のことなどをし、荻窪駅までキックボードで行った。四キロくらい。キックボードについては今度また詳しく書きたい。そこから普通列車で名古屋まで。その間に珍しく読書が捗った。いつもなら途中で気持ち悪くなってしまうのだが。
 名古屋駅から、栄の大津通にある「ラシック」前へ。大津通が歩行者天国になっているというのは知らなかった。あきいちこさんというミュージシャンがストリートライブをするそうなので、見に行ったのだ。『Beautiful Days』『「あ」のつくことば。』『あお』『雲の行方』の四曲。
 2005年9月12日、名古屋ハートランドで「名古屋百歌」というイベントが行われた。奥井亜紀さん、篠原美也子さん、橘いずみさんという素晴らしい、本当にすばらしい三人による、弾き語りを中心としたイベント。最後に三人で美也子さんの『Life is a traffic jam』を歌った。アンコールがあって、もう一回歌ったのをよく覚えている。
 そのイベントのオープニング・アクトとして登場したのがあきいちこさんで、当時21歳。僕は誕生日がまだだったので20歳だった。同い年で名古屋出身という親近感もあって、初めてのミニアルバム『歌種』を買って、サインをいただいた。「応援します」と言ったと思う。
 僕は『歌種』をかなり気に入ってしまって、いまだによく聴いている。七年間、ときおりライブの日程をチェックしては、「いけねーなー」とつぶやくのを繰り返していた。そもそもライブが好きではない僕は、行くならワンマンライブか路上ライブにしようと思っていて、そうなるとなかなか帰省のスケジュールとは合わないでいた。
 それで今回やっと、タイミングが合った。僕は『歌種』以降のCD(基本的にライブ会場でのみ販売)を一枚も持っていなかったので、「これこれこういう者なんですけど、当日はCD買えますか」と問い合わせてみた。買えますよと返答をいただいたので、少し多めにお金を持っていった。
 大津通での三曲目『あお』という曲は、『歌種』に入っている曲で、そのあとの『雲の行方』とともに、空を題材にしている。大津通の上の空は青く晴れ渡っていて、遠くに雲も流れていて、風が吹いていて、絶好だった。終わったあとに、「『あお』が聴けて嬉しかったです」とお伝えしたら、「いらっしゃることがわかってたので」とのお返事。僕が見にくるということで、『歌種』の曲を歌ってくださったようだ。本当に嬉しくなった。最近出たアルバムにも『あお』は入っているので、もともとやる予定はあったのかもしれないけど、それにしても。天気も含め、いろいろとタイミングがよかったんだなあ。
 七年ぶり二度目ということで、あきいちこさんも大いにお喜びだった。七年間のご無沙汰を詫びつつ、来て良かったと思った。CDは6種類買ったが、そのすべてにサインを入れてくださった。いずれも一筆添えられていて、奥井亜紀さんと同じだなと思っていると、二人は今でも交流があるようで、今度の奥井亜紀さんのハートランドでのライブも見に行くのだとか。そのうち会場でお会いすることもあるかもしれない。
 あきいちこさんは19日に高田馬場の四谷天窓で3マンライブがあるようで、予定があえば行こう。これからはたびたび東京にも来るみたい。
 帰ってきてからはずっとそのCDを聴いているが、いいな。ひねくれたようでいながら、やっぱりこういう音楽が好きな自分がいる。

 愛や恋の形は十人十色
 正しさという鎖はほどいて
 誰かが示す幸せの地図なんて
 ひとつも役に立たないみたいだ

 求めあう引力があれば それだけを信じられるなら
 もう二度と迷うことはない 臆病な目をそらさないで

 どんなときも
 間違っていても遠回りでも 私の隣にはあなたがいて
 最後まで疑わずに 真実の橋を渉ろう
(あきいちこ『Cross the Bridge』)

 これは二番。一番のサビは「人知れず 二人にしか渡れない橋を渉ろう」。この曲に示されている「祈り」のような想いが僕は好きだし、これこそが恋愛や人生に向き合う際の唯一の道であるような気がしている。
 こういう落ち着いた曲も、『WONDERFUL』のような軽快なものも、どちらも魅力的。ライブでも、七年前は緊張していたのがわかったけど、今はのびのびとして、空にどこまでも響き渡る感じがあって、とても心地よかった。


 それからもう一度、名古屋駅まで戻る。合計5キロくらいだが、キックボードならあっという間。都会での利便性と機動性では、総合的に自転車を凌駕している。技術的な面についても、自転車以上に難しく、自転車と同等に奥が深い。
 ナナちゃん人形前では、同級生数名と先生が待っていた。僕が2002年ごろの日記で「英語の先生」とか「英語教師」とか言っていれば、たいていは彼のことである。沖縄系の居酒屋に行って、歓談した。七人。生徒が六人。うち五人が一年生の時の同級生というのが、何とも。やはり妙な人間ばかりがそろったクラスだったということだろう。
 この先生に会うと身が引き締まる。しかし少しずつ、話せるようになっている自分に気づくのがまた嬉しいものだ。
 以前お会いした時に岡田淳さんの本をお薦めしたら、読んでくださって、「僕は神戸まであの先生に会いに行こうと思っていたんだ」とまで。「ぜひぜひ、僕も行きたいです!」とすぐさま答えた。もしそんなことになったら、それほど楽しい会はない。「あの人なら会ってくれるよ」と先生は言ったが、僕も同感である。
 受け持っていただいたのは三年生の時だけだが、その時のノートを持って行った。自分でも驚くほどに網羅性が高い。彼の言った言葉がおそらくほとんど、余すところなく書き込まれている。このノートを読み返すのが、僕にとって最も効率の良い英語の復習になることは疑いない。僕はこの授業を通じてものの考え方を学んだと思う。もちろん彼は英語以外の何も教えてはいないはずなのだが、僕はそこから勝手に学んだのだ。ものを考えるというのはどういうことか。あるいは、学ぶということはどういうことかを。それに関してはいくら感謝してもしきることはない。


 その後は、珍しく名鉄に乗って「すんたん」の家におじゃました。朝七時くらいまで寝ずに話していた。おかげで疲れた。そのまま夜まで名古屋にいる予定だったが、はやめに東京に戻らなくてはならなくなってしまった。しかし喫茶店のモーニングとスガキヤには行けたのでその点では満足。モーニングサービスはもはや、どの地方に行っても当たり前にあるが、「ブレンドください」と言うと「モーニングはおつけしますか?」と聞かれる文化は、さすがに東京にはない。ジャムトーストとポテトサラダと大根サラダとゆで卵がついてきた。ふるさとの訛なつかし「停車場」の珈琲たのみ腹もふくれる。

たたかえっ!憲法9条ちゃんRemix

2012/05/05 土 丙寅 黒猫の交尾

 浅羽先生の講演に行ってきました。この人に会うと身が引き締まる。リンク先の本はほんとうに名著なので、見かけたらぜひ読んでみてください。

 なんといいますか、やっぱり僕も本当にいろいろなことを考えますが、ほんとうにいろいろなことが考えられるし、ほんとうにいろいろなことを考えられないものなんだなあと、思います。

 ↓のほうに十年前の文章を載せましたが、うねってますねえ。こういう感じ、いいですね。歌かダンスのようでもありますし、詩のようでもありますが、いずれでもない、特殊なリズムがありますね。それと昔の文章を読んでいると、今では恥ずかしくてとても言えないようなことを書いていたりしますが、だいたいは今でも変わっていません。もうもちろんあれほどの温度で太宰治のことを書けないが、嫌いになったというのでもないので。面白いものです。

2012/05/04 金 乙丑 皐月屋舞

 把握できないくらいたくさんの人にメールを返していません。本当に申し訳ありません。
 本当にいろいろと事情があるのです。
 その事情の最大は僕の内面にあります。
 幾つになってもあまり変わらないです。
 健康的な生活も崩れがちです。
 五月だからなのかなー。
 そろそろお母さんに会いに行かないといけません。

 とりあえず元気を出そうと思いますが、特に依存するもののない僕はどうしていいのかわからないのです。だいたいは寝ます。どれほどドラえもんが好きでも、ドラえもんに依存するわけでもない僕は、どういう時であっても「ドラえもんを読んで元気を出そう」には決してならないのです。「お母さんに会って元気を出そう」にもなりません。「ダメだからお母さんに会おう」くらいのことはあるかもしれませんけど。とにかく僕には依存するものが何もないのです。そういう人はたくさんいると思いますが、辛いものですよね。
 やらねばならないことが一つあるだけで重たく、苦しいのですよ。重大な、本当に絶対にやらなくてはならないことがいくつかあって、そのプレッシャーが大きすぎて本当に、もう何もできなくなっています。週末に名古屋に帰って恩師に会うので、十年前から何かを拾ってこられたらと思います。

2002.12.27(金) 思春期だよ!ドラえもん

半人前の僕ですが結構毎日のようにいっちょまえに部屋の隅っこじっと見て飯も喰わず生意気な奴です。
いつもいつも後ろ向きなのが僕ですが
特に辛いことがあるわけでもなく
唯ぼんやりとした不安と
自己中心主義故の憤り
現実と理想、その間をすきま風が往来
そして各種のアンビバレンス
幾重にも層たる自らの内部に眼を廻したりして
発狂寸前で。

そういうとき僕は人に見せてはいけない顔をしていると思う。
泣いたりしないで大人になれない
から
平安人さながらに
号泣(ごうなき)
したりと
最近はどうもなんだろうこれはその
絶叫ですか
多い、むべ。

大抵自分がへこんでいるときとかって誰かに知ってもらいたいとか
思うんじゃないかね。
「どうよ、俺様こんなに悩んじゃってるよ!思春期だよ!すげぇだろ!」的な
アピールが
蔓延しとるんちゃうかと思うんですが
僕も
例に漏れず
例外に漏れます。

つまりそのこれはなんだろうどうもあのあれあれだえっとうんアピりたい。
アピりたいやん。
「大丈夫?」とか言われたいやないの。


ぼく「ぼくなんてどうせっ誰にも必要とされてないんだっ」


って言ったら


美女「そんなことないわよっ」


って
言われたいやん!

けど
恥ずかしいやん
NOT素敵やん

結構誰かと道歩いてたり話をしていたり特になんでもないようなときに
物凄い落ち込むというか、泣きたくなるというか、はかなくなるというか、しみったれたそんな時があるので
えーん えーん て
泣きべそ
かきたくなるけども
グッとこらえて
上を向いて
どうも辛(から)くて辛(から)くて
でも
たとえそこに信頼できる人とか大好きな人とかいたとしても
そういうのってなんか
恥ずいやん
っていうか
誰も得しないじゃんね
僕しか。
なんか
無意味やん。
だから
なんとかこう
保ちつつ
保りつつ
メイクオブベストイット
しなきゃならんと思うてさ。


家とかで
独りになったときに
号泣のパターンなんだけど
そこで活躍するのが文明の利器携帯電話けど
ここで
えーん えーん て
泣きべそ
かきたくなるけども

書きたくなるけれどもさ
打ちたくなるんだけれどもね
それって一番
へぼい(よわい)やん。←ドクタースランプ風
誰も得しないじゃんね。
だからまあ
からい。
平安人の如く
袖を濡らし
およよ
三枝の如く
およよよよ
電線に
雀が三羽
とまってた。



発散したい←→恥ずかしい

という葛藤がね
強い。



太宰治を読むということは
この葛藤を打破することに繋がるんじゃないかな。
太宰の作品が全てそうだってわけじゃない
けどやっぱ
太宰って
へこみ屋さんだから
しかもそれを
何万人何百万人に向けて
その苦悩を
発振してるわけで


ああ!そうか
悩んでてもいいんだ
発振してもいいんだって
思春期は思うんちゃうかな
正当性を与えてる、といったところかな。
要するに
いいオッサンの太宰治という人間がこんなに苦しんでるんだから
いま悩んでる若者である自分はちっとも間違っていないし、
それを他人や
少なくとも自分の外部へ
発振してしまうことは
決して間違っていないんだなって思って
そう考えると結構僕も弱音を吐くとき
太宰を根拠に
吐いてるような
そんな気がする。

作品の中に
「めそめそ泣いて」とか、
書いてあると
ああ、
めそめそ泣いたって、別にいいんだ
って思うんだきっと。

作品の中に
「苦悩は、経てきた」とか書いてると
ああ、いいんだ、別にいいんだよ苦悩なんか経たってさ!
とか
思うんだよ。

先生と呼ばれるに甘んじるための、わら一筋の自負は
苦悩
だけだと
富嶽百景という作品に書いていた。
それ読んで、素直に
「先生!」
って思いました。ああ。先生。



発散したい←→恥ずかしい

右側が太宰によって駆逐されるんだよ。
僕は太宰を尊敬している
太宰のようになりたいと
少しだけ思う。
(しかしデカダンは御免だ、かもしれない)

だから別に太宰と同じように
めそめそ泣いて
苦悩を経て
夏まで生きようと思ったり
模倣だな
ま模倣かも知れんけどさ

余談だけど僕は
模倣とか思われるのが嫌
太田光が島崎藤村にはまってたから
僕も島崎藤村を読もうとか
それって模倣か?
模倣だろ。
そこに軽蔑的な要素は一つもない、
だのに
「だ」のに!
世の人々はそこに難癖つける
理由を求めるんだね行動にさえも。
(人々は才能に理由を求めたがると村上龍が言っていた)

太宰と同じようになりたいから
一種のコスプレみたいに
太宰と似たよな感情を纏って
絶望に沈んだり
遺書のような小説を書いたりする
これは模倣だ
しかし
軽蔑されるいわれはあるのかと
いつも思う
あいつが面白いのは太田光の真似をしているんだけなんだって
誰が聞いても
つまらん奴の
悔し紛れの言い訳じゃないか
あいつは文章が巧い
太宰の真似だ
漱石の模倣だって
ふざけんじゃないよと
思ったりも
するんだな。
全体的に。


理由を求めてさ
自分とあいつが違うのは
仕方ないんだって
芸術家の息子だから
兄貴がたくさん居るから
運が良かっただけだとか
みんな「生まれつき」の話なんだけどね、なにもかも。
負け惜しみだね。
僕もよく
負け惜しみするよ。
自分には才能がないんだ、だからだめなんだって
何でも理由をつけて
こねくりまわして
理屈を
才能のせいにして
全て
誤魔化して
落ち込んだふりをして、
いやだ、いやだ。


みんなに見て欲しいとか常に思う、
生来の目立ちたがり屋さんだから
健やかなる時も
病める時も
みんな僕を見て!って
思うからね
けど
恥ずかしいんだよ
恥ずかしい
恥の多い生涯を送ってきましたって
凄い言葉だよ
凄い
まさにもう
それだと
思って
これも
模倣。


子供より、親が大事、と思いたい。


恥ずかしいから言えないよ
言えない
僕は苦しんでるぞ!って
言いたくて言いたくて
仕方のないときはほらこうやって
理屈をつけて
せいぜい長くして
装飾品をたくさんたくさん
本旨を覆い隠すようにしてね
隠れて叫ぶ
それも
なるべくならみんなに
わかってもらえるように
わかりやすく隠す
そして最後まで
保険をかけて
わかってくれって
自分勝手に
最悪だな。


しかしあれだよ
ドラえもん読んでると
気持ち良くなって
いやーこの世の中に
これほど楽しいことはないよなーとか
かーなり自然に思われて
爆笑しながら
あー
まだまだ生きようとか
思わないもん
そんな
生きるだの死ぬだの
悩むだの煩うだの
考えないっての



 ドラえもん「1+1は?」


 のび太「十一!」






これほど単純明快な答えが、他にあるか。
ビバ。

あきらかにキムチ

 音楽だし詩。

2012/05/03 木 甲子 正しさを

『未来ドロボウ』を読み返すのが怖い。『あのバカは荒野をめざす』を読み返すのが怖い。そうなんです。藤子・F・不二雄先生の短編は読み返すのが怖いのです。でも、僕は読み返すのです。読み返してこそわかるのです。教科書とはそういうものなのです。僕にとっては、教科書に載っていた内容で本当に教科書であるようなものは、たぶん『走れメロス』くらいですね。読み返すたびにわかることがある。だけど、F先生の短編ほど教科書らしい教科書は僕にはないですね。これを読まないで、みんなはいったいどこで大切なことを学んだり、重要なことを考えたりするというのか、未だに僕は、わからないです。十年以上も前に考えていた青臭いようなことだけど、未だに僕は本当にそう思います。

2012/05/02 水 癸亥 singin' my song for me

 週に一度の会議の時が僕は最も幸せかもしれません。

2012/05/01 火 壬戌 全国こども電話相談室リアル

 ばかみたいだ
 鳥が浮いている
 魚のように

 雨が降って
 ぬれながら走る
 帰ってきて寝る

 どんなに眠っても起きてしまう
 耳に水音
 あきらめが悪い

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