少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2012/07/30 月 壬辰 思い出がいっぱい

さりげない瞬間さえ 私の宝物
こころのアルバムに 貼ってある


 CoCoという5人組(当時)アイドルグループの『思い出がいっぱい』という曲。作詞は及川眠子さん(残テの人ですね)。作曲は岩田雅之さん(個人的に好きなのはSMAPの『俺たちに明日はある』とか吉田真里子さんの『どうしてRhapsody?』)。
『らんま1/2 熱闘編』の主題歌で、もう長い間ずっと好きな曲の一つ。

 何度も「忘れない」というフレーズがリフレインして、そのつどコーラスがかぶさる。「忘れない(この空を) 忘れない(この夢を)」「忘れない(あの虹を) 忘れない(あの愛を)」と。


 過去、現在、未来のすべてを、この曲は歌っている。(歌詞

 一番では、登校風景が歌われる。「始業ベル気にしながら 駆けてくるクラスメイト」「夏草が薫る歩道」「微笑みで始まる朝」。
 ノスタルジックな情景が、現在形で語られている。
 これは、「いつもと同んなじ」「さりげない瞬間」だ。そんなものでも「宝物」として、「こころのアルバムに貼って」おく。
 ここでは「こころのアルバムに貼ってある」と現在完了で歌われている。「宝物」を貼りつけておくことは、継続的にしてきたのだろう。「私」はこれまでもずっと、さりげない瞬間を大切に、毎日を生きてきたのだ。ここの歌詞は、「こころのアルバムに貼っておこう」では絶対にいけない。意志ではない。希望でもない。実感なのだ。

忘れない(この空を)
忘れない(この夢を)
あなたといま分けあう 優しい季節
悲しくて(揺れた日も)
嬉しくて(泣いた日も)
大切な思い出なの

 今日のこの空も、いまのこの夢も、忘れない。「貼ってある」という実績があるからこそ、「忘れない」と誓える。「忘れたくない」よりも確信に満ちた言い方ができるのは、「私」がこれまでも、いろんな空を、いろんな夢を、忘れずに生きてきたからだろう。現在形の歌詞に挟まれた「貼ってある」という完了形からは、そういう事情を感じさせられる。過去があるから、信じられる。
「あなたといま分け合う 優しい季節」。生きる喜びに満ちた素晴らしいフレーズだと思う。一つの季節の中には、いろんな「日」がある。悲しくて揺れた「日」も、嬉しくて泣いた「日」も、すべて「優しい季節」の中にあって、大切な思い出としてきらめいている。

 二番は、過去形の歌詞。「陽の当たる渡り廊下 友達に打ち明けたね」「切りすぎた髪を悔やみ 眠れない夜もあった」。一番に出てきた「貼ってある」の具体例と言えそうだ。これらもおそらく、「優しい季節」のうちのある「日」なのだろう。
 この後は「眠れない夜もあった」を受けて、「いつかは笑えるかしら」と続く。未来形の疑問文。辛いことも、思い出としてとっておけばいつか笑える時がくる、だろう。そう予感して、あるいは信じて、「貼って」おく。

さざ波がさらうように はかなく消えた恋
痛みが過去形に 変わっても

忘れない(あの虹を)
忘れない(あの愛を)
そうオトナになっても なくしたくない
はしゃいでた(いつだって)
悩んでた(いまだって)
まぶしさは終わらないの
 
 過去が、現在と未来につながる。
「痛み」も「あの虹」も「あの愛」も「はしゃいでた」り「悩んでた」ことも、すべて過去のことだ。でも忘れない。オトナになってもなくしたくない。なくすことはないだろう。その証拠に、「いまだって」悩み続けている。過去が現在につながっている限り、終わることはない。

忘れない(この空を)
忘れない(この夢を)
あなたといま分けあう 優しい季節
悲しくて(揺れた日も)
嬉しくて(泣いた日も)
大切な思い出なの

 サビを繰り返す。過去は現在に続いている。そして現在は未来へ続いているだろう。過去を大切にしてきたように、現在も大切にしていけば、未来だってきっと大切なものになる。なっていく。
「優しい季節」がもしも終わっても、「まぶしさ」は終わらない。すべては「大切な思い出=宝物」として、こころのアルバムに貼ってある。
「貼って」おくことは、すなわち過去を、現在を、未来を大切にすることそのものだ。過去を現在につなげ、そして未来を切り開いていくために必要なことなのだ。

 この曲は、僕のこころのアルバムにずーっと貼りつけられてきた。小学生の時 以来ずっと。当時僕はこの曲を聴いて、なんだか知らないがとてもざわざわした気分になっていた。たぶん僕は自分でも気づかないうちに、過去を大切にすること、現在を大切にすること、未来を切り開いていくことを、この曲から教わっていたのだと思う。だけど、もちろん子供がそんなこと、言葉にできるわけがない。だからよくわからなくて、「ざわざわ」とだけして、とりあえず貼っておいたのだろう。
 今ならよくわかる。「あなたといま分けあう 優しい季節」を、実感として知っている今なら。


『思い出がいっぱい』にまつわる思い出は、何も小学生の時のものだけではない。高校生の時、らんま好きの子がいて、その子とたぶんこの曲の話を少しだけした。「いい曲だよねー」「ホントそうだよねー」くらいのものだったかもしれない。よく覚えていない。何年か前にその子とカラオケに行って、リクエストして歌ってもらったら泣きそうになった(泣いていたかもしれない)。そういえば僕はこの子と、「優しい季節」を過ごしていたのだった。
 それこそ、悲しくて揺れた日も、嬉しくて泣いた日もあった。そういや酷いこともされたし酷いことも言ったし、中身がいっぱい詰まった甘い甘いものです(イェイ!)。泣き泣きの一日や、自転車の旅や、書き表せれない。だって多いんだモン!(「書き表せれない」ってなんだよ! 「書き表せない」でいいだろ!)
 で、その「優しい季節」ってのは終わったような気もするし、何も終わっていないような気もする。むしろ今こそが本番であるような気さえする。本当に、まぶしさは終わらない。なんでかっていえば、僕が(僕らが)過去を、そして現在を大切にしてるからなんだよね。それはもうまさに『思い出がいっぱい』に歌われているね。
 自己嫌悪してしまうような、今すぐ土下座して謝りたいような思い出のほうが多いかもしれないけど、そういう問題ではなくて。いろんな日があったけど、すべては「優しい季節」の中にあって、それは結局、終わらないまま今まで続いているんじゃないかという気がするよ。

 特別な人、ってのはいて。中でも本当に特別な人とは、結婚でもしたりして、一生をともにするってことになるんだろう。でも全然そうじゃないところで、特別な人ってのはいる。もう十年近く会っていない、高校の部活のW先輩でもそうだし。稲武でお世話になった藤原さんもそうだし。山奥で自転車乗ってたらバンに乗せてくれた酔っぱらいの沖田さんでもそうだし。美瑛で出会った旅人の「ミスター(自称)」でもそうだ。そういう特別な人たちのおかげで、僕の人生の質というのは担保されている。そういう人たちとの思い出は、すべて宝物として「貼って」ある。何も変わらずまぶしさを保っているし、きっとまた再会するだろうとどこかで信じてもいる。今はただ、未来から見れば「会わなかった期間」だっていうだけだ。
 もちろん、よく会う人たちだってそう。

 こういう話になると僕はつい熱くなってしまう。愛を感じる。
 ところで『残酷な天使のテーゼ』って凄い曲ですね。歌詞の内容をよくよく考えてみると、なんだか「女の人が、男の人が自分から離れていってしまうことを予感して、でもそれはその男の人のためには良いことだとも思っていて、正当化したり、諦めたり、男の人に期待を向けたりしている曲」なのかなって思う。「ほとばしる熱いパトスで思い出を裏切るなら」ってのはすごいフレーズだ。「あなたなりの想いがあって私とのこれまでの関係を否定するなら」ってことかしら。『思い出がいっぱい』の裏側にある世界って感じ。全然違う曲っていうことではなくて。

2012/07/29 日 辛卯 101

 このページを読んで、「これはちゃんと完全な形で読まなければいけない」と思い、明治大学現代マンガ図書館というところで全九回分を複写させてもらってきた。帰ってきて通して読んで、いろいろ迷ったけど、先のページを自分なりに補完しようと決めた。
(ここで問題になる最後の記事は、いじめに関する内容で、大津の例の事件のことを思い出しながら読んだ。もし読む時期というものがあるのなら、今しかなかったと思う。正直に言ってしまえば、僕は、多くの人に読んでほしい。読むべきだ。)

 この連載は誌上で始まり、誌上で終わった。単行本化は永遠にされない。だからこの連載の内容と関係があるのは、この雑誌の読者だけだ。
 関係のない僕や僕らがこの連載の内容に踏み込むのは、お門違いかもしれない。しかし、この連載の最後の記事に「ヤングサンデー及び類似の若者雑誌」等と書かれているように、対象となっているのは「ヤングサンデー読者を始めとするすべての若者」であるように見える。本文の趣旨からいえば、そうであるはずだ。これは「ヤングサンデーとの訣別」であるのと同時に、「(愚かな)若者との訣別」である。
 若者である僕は、当事者としてどうしても黙っていられなくなってしまった。だから余計なことを試みる。

 この記事のメッセージは強烈だ。なぜ強烈であるかといえば、たぶんこの記事が「一般に開かれたもの」ではないからだろう。この記事は明らかに対象者が限られていて、「多くの人に読んでもらいたい」という種類のものではない。だから単行本にもならない。
 雑誌という一過性のメディアで「終わる」ことによって「別れ」は達成される。だから、単行本になってはいけない。「若者」の住む世界に再び開かれてはいけないのである。たぶんネットに転載されてもいけないし、読まれてもいけないかもしれない。僕はこの記事を読んではいけなかったのかもしれないとすら思う。
 もしも「若者」がこれを読めば、それは「別れたはずの会いたくもない相手と再会する」ということになる。それはたぶん、すべきでない。
 といって、不完全な状態でネット上に存在しているというのも、気持ちの良いものではない。(僕はオミカンヒメさんのおかげでこの連載を読もうと思ったので、感謝しています。もしも機会があったらコピーを差し上げたいです。)
 さんざん迷ったあげく、「読もう」ということで落ち着いた。
 本当に申し訳ないですが、この文章が完全に埋もれてしまうのは本当に惜しい。この文章に触れる人の中にはきっと、500人分の働きをする人がいる。もし一人でもそういう人がいたらと思って、読んでみた。
 この「読む」という行為が、どういう意味を持つのかは今の僕にはよくわからないのだが、今はこれしか思いつかない。
 ホンモノのオリジナルを読みたい方がいればどうにかバックナンバーを探していただくことにして、とりあえず僕のよくわからない声で読んでみました。
 なぜ声なのかといえば、いろいろあるのですが、とにかくこれしかないような気がしました。
 オミカンヒメ様のHPを見ながらお聴きいただくとわかりやすいかと存じます。

2012/07/28 土 庚寅 (東京都・二十代)

 最近、とある公共施設の学習室を利用している。「エアコンの設定温度は28度でおねがいしますう」という旨の張り紙があるにもかかわらず、だいたいいつ行っても27度、ひどいときは25~26度になっている。僕は毎度入室するや否や28度に設定し直すのだが、その時の人々の視線が気になって困る。なんだか悪いことをしているような気分になってしまう。しかし僕の行為は誰からも責められるべきことではないはずだ。28度というのは何となくそうなっているようなことではなく、部屋に貼ってある鉄の掟なのである。それが気にくわなければ利用すべきでない。
 僕は学習室の設定温度が28度と知っているから、半袖半ズボンに念のため上着を一枚だけ持って行く。25度だと耐えられないほど寒い。もしこの学習室が「設定温度は25度」という決まりだったとしたら、長ズボンを履いたうえでパーカーなどを持参するか、あるいはその学習室は利用しないだろう。
 しかし、それでも僕の心にはわずかながら「悪いなあ」という気分が残る。「ここを利用している人たちの中には、きっと28度よりも27度のほうがいいと思う人もいるんだろうなあ」とか思う。でも、決まりは決まりだから。それを破る時には、相応の理由がなければ。
(ちなみに僕は何度か朝に一番乗りしたことがあるが、いずれも開館時にはエアコンはついていなかった。つまりエアコンの温度を決めるのは常に利用者であり、施設側ではないはず。)

 エアコンの設定温度が28度と決まっている中で、27度に下げるのは「ズル」だと思う。ズルというのは基本的に「自分のことしか考えない」という気分から発生する。
 で、いつ行ってもだいたい27度になっているということは、誰かが27度に下げて(あるいは最初に設定して)、それを誰も戻さないということである。
 なぜかというと、僕も感じてしまう例の「悪いなあ」という気分のせいだと思う。少しばかり肌寒く感じだとしても、「まあ、27度を望む人もいるんだから仕方ないか。ちょっとくらい我慢しよう」くらいに思っているのだろう。あるいは、「ラッキー。今日は27度だ。28度の決まりだけど、このままにしておこう」という、便乗ズル野郎もいると思う。っていうかたぶん便乗ズル野郎だらけなんじゃないかな。28度だと暑いと感じるような体質の人はどうやら多いらしいので。
 誰かが最初にズルをして、ズルい人たちは見て見ぬフリをしてそのズルに乗っかる。そういう状況ってけっこうあると思うんだけど、ズルはズル。みっともないです。誰かが赤信号を渡ったのを見て、そのあとについていく人たち。カゴの中にゴミの入っている自転車を選んで、重ねてゴミを捨てていく人たち。
 最初にやった人もズルいが、便乗する人もズルい。設定温度を27度にした人もズルいが、それに気づいていながら「もうけ、もうけ」とそのままにしておく人たちもズルいのだ。

 ……なんつって、本当にくだらない、情けないことを書いてしまった。投書かと。エーしかし、これは重要な問題なのですよ。

2012/07/24 火 丙戌 革命的半ズボン主義宣言(再)

 復習:半ズボンに関する文章。
 2009/07/11
 2011/05/18

 上のは革命的半ズボン主義宣言、11日の記事を探してみてください。下のはオマケ。前後の記事もなかなか面白いので暇な人はどうぞ。

2012/07/23 月 乙酉 無期停学

 佐藤春夫と村上龍と僕の共通点と言えば「無期停学」。
『わんぱく時代』と『69 sixty-nine』とは、事実と虚構との鮮やかなる協和によって「真実」を描こうとした自伝的青春小説の傑作である。
 岡田淳さんが『竜退治の騎士になる方法』で「うそでなければ語れない真実もある」と書いているが、まさにそのようなこと。
 僕も僕なりのウソを書いてみたいものだ。

2012/07/22 日 甲申 邪悪とは

 つまるところ、「自分のことしか考えていない」がベースにあると思う。
「ズルをする」ということは、まさにそれだ。(邪悪という言葉の反対を正義だとすると、正義を「ズルをしない」ということだとした、中央公論8月号に載っている橋本治さんの文章はまさしく。すばらしいので図書館へコピーしにいこう。)

 ある友達が、「AKBの邪悪さについてはずっと考えている」と言っていた。そういえば僕はAKB48を邪悪な存在だと思う。それはなぜなんだろうか?
 たぶん、「自分のことしか考えていない≒ズルをする」ということが、どこかに潜んでいるのだろうと思う。
「自分のことしか考えていない」は、たやすく「誰にも迷惑かけてない(から、いいじゃん)」に転化するだろう。
「誰にも迷惑かけてない」は、他人のことを考えているようでいて、実は自分の利益しか考えていない時の発想なのである。そもそも、果たして本当に、「誰にも迷惑かけてない」なんて状態が存在するのだろうか?
 僕はこれをかなり疑わしく感じている。

「誰にも迷惑かけてない」は、「自分だけが利益を受けているが、その利益のせいで誰かが不利益を被ることはないはずだ」という言い分である。
 不利益が目に見えていないだけなんじゃないのか? と思う。
 授業中に漫画を読む生徒が、「誰にも迷惑かけてないから、いいじゃん」と言うとする。これは本当か? 先生の「士気」や、教室の「秩序」には、明らかに影響している。それを「誰にも迷惑かけてない」と言えるのか?
 AKB48に対して感じるのも、そこだ。

「誰にも迷惑かけてない」という形で、自分の利益だけを見つめ、周囲への影響に目をつぶることは、僕が思うに「ズル」である。

 車が通ってないときに赤信号を渡るとする。それを小さな子供が見て、「赤信号でも気をつければ渡ってもいいんだ」と思うかもしれない。「実際そうだろ、気をつければ渡ってもいいんだよ。子供だってそのくらいわかるよ」と、僕も本音では確かにそう思う。その子供が信号無視をして交通事故に遭うことは、生涯一度もないかもしれない。しかし、この時に子供の中で起こるであろう内面の変化は、実は、ちょっと、ただごとではない。
 たった一本の論理だけで、その他の論理のすべてを見ないフリしてしまうのは、きっと「ズル」だ。「赤信号を渡ったっていいんだっていう教育をしたっていいじゃないか」という一本の論理のみによって、「だから自分は子供が見ていても赤信号を渡る」としてしまって、いいのだろうか。果たしてそれが、妥当な教育の在り方だろうか。
 この子供が、このとき、「ルールは破ってもいい」とか「大人は平気でルールを破る」とかいうことを、“深く、深く心にしまった”としたら、どうだろうか。
「ルールを破るのって、カッコイイ」というイメージを、“深く、深く心にしまった”としたら。
 赤信号を渡るのには、相当な勇気と、思い切りが必要だ。僕は、人間の成長の過程において、「自分の判断で赤信号を渡る」ということが通過儀礼としてあるような気がする(経験しない人もいるかもしれないが)。この通過儀礼の在り方や質は、「大人たちが赤信号に対してどのように接しているか」によって決まるだろう。「大人が赤信号を渡る」ということが、必ずしも「子供の教育に悪い」と言いたいわけではない。良いほうに転ぶかもしれないし、良くするも悪くするも見る側の問題だってのもある。しかし言えるのは、「必ず何らかの影響があって、それはあなたが想定している影響だけとは限らない」ということ。
 ポイ捨てだってそうだし、なんだってそうだ。

 AKB48や、それを愛する人たちの在り方は、必ず社会に何らかの影響を与えている。それに対して僕は直感で「邪悪!」と断じる。
 なぜ邪悪と思うのか。それはたぶん、AKB48の様子が、社会に対して「ズル」に近い価値観を肯定する方へ向かわせる何らかの影響を与えているのではないのかと、思うからだ。それはたぶん、最終的には「自分のことしか考えない」というところに向かっていくものだろうと思う。

2012/07/21 土 癸未 肉声を聴く

ぼくたちの近代史
「日本の現在」を考える1

 現在、ネット上に上がっている「講演」の類で、おすすめしたいのがこの二つ。上のほうは1987年のもので、僕がものを考える際の一つの基準になっているもの。下のほうは2012年、もう八年くらいずっとこの人の本を読んだり話を聞いたりしているが、この講義が最も入門に適しているばかりか、内容もわかりやすく、かつ重大。旬なのでぜひ。星新一が好きな方は、「2」をご覧ください。
 時間がないから……という方も、どうかこことかここ(ほかにもあると思う)なんてのもありますし……それでiPodとかにmp3で入れて電車とか乗りながら聴くってのは、どうですかね……。

 文字もいいけど声もね! ってのを言いたいのもありますのよ!

2012/07/20 金 壬午 歌を自分のものに

 こないだ一人でカラオケに行ってその音を録音してみた。
 で聴いてみたら面白かった。
 いかに生き生きと、自分のものとして歌うか。
 音と感情の躍動の方向へ自由に。
 というのもあるが単純に表情だったりもする。
 口の形は、表情に直結している。楽しそうな声を出すには楽しそうな顔をしなければならない。一人きりのカラオケボックスで何をやっているのだってことでもあるんだけど、真顔で陽気には歌えない。
 それはもう人と話すのでも同じですよね。
 演技と、歌と、生活とは、すべて同じ。

 音楽の礎は歌だと思う。そしてそれは演技かもしれない。
 それらは生活と同じものであるとしか思えない。

 本当に、口の形、特に口の中の形は、発声を左右する、というか発声というのは、腹と喉と、口の中の形と、唇あたりとの兼ね合いで生まれるはず。
 その中でも意識されづらいのが「口の中」だと思う。
 けど演技ってのは実は、ほとんどここで行われているような気がする。
 口笛だって全部ここで音を作る。当たり前なんだけど。
 で、笑顔の声を出すには笑顔になる。当たり前なんだけど。
 悲しい声では悲しくなる。

 ということは、自分の顔で歌えば自分の歌になる。
 歌いながら自分の顔になる、というのは、けっこう難しいんですよね。
 学校の合唱なんかでは、顔や姿勢から指導される。「あごをひいて、目をかっぴらいて……」みたいな。あれをやると、個性がなくなる。合唱だからそれでいい。一人で歌うなら、別にそうでなくてもいい。
 アイドルが同じような歌い方なのは、アイドルの表情をしているからかもしれない。
 僕が歌を好きなのは、そこからその人がよく見える、少なくとも見えやすいからなんだろう。
 先日、けっこう長い友達と初めてカラオケに行って歌を聴いたら、彼のことがそれまでよりもよくわかった気がした。より好きになった。そういうことはよくある。

 それにしても歌は難しい。僕はこんなもっともそうなこと言ってますがなかなか身体がついていかなくて困ります。ま、気持ちですよね、気持ち。歌はある側面から見た自分そのものなんだから、それはそれとしてそれなのです。

2012/07/19 木 辛巳 まずい飯を食う

 正直言って、毎日うまいものを食っているわけではない。僕は食べるもののほとんどを自炊でまかなおうと心がけているのだが、それだとまずいものに出会う確率はけっこう増える。食材の質や、料理の上手い下手ももちろんあるのだが、たぶん今の世の中、何でもモノがうますぎて、そのせいで僕ごときの作ったものは相対的にまずく感じられてしまうのではとも思う。
 僕はグルメではないので、ポテトチップスをどうしてもうまいと思ってしまうし、サイゼリヤのミラノ風ドリアも、ガストバーガーも、たいていのああいうものは「うまい、うまい」とか言いながら食ってしまう。西友のアジフライもうまい。近年はそれらを「うまいと思わないことにしよう」と決めて、あんまり食べないようにしているのだが、たまに食うとやっぱり「あー、うまいなー」となる。
 人間に「うまい」と思わせるようなものを作るのは、たぶん簡単なのだ。油なんだか、怪しい添加物なんだかわからんが、「こうすればうまいものを作れる」という法則は、きっとすでに飲食物業界にはある。
 しかし、うまいからといって身体にいいわけではない。ポテトチップスばっかり食ってるわけにはいかんし、ミラノ風ドリアばっか食ってるわけにもいかんだろうから、自分で飯を作る。
 しかし自分で作る時には「こうすれば絶対うまくなる」という法則がない。なんにでもマヨネーズやチューブみそをかければだいたいうまくはなるのだが、それら調味料は結局のところ「こうすれば絶対うまくなる」という飲食物業界の法則によってできているので、かけるとミラノ風ドリアのうまさと同質になってしまうのである。
 マヨネーズ的うまさ。身体に良いとは思えないが、うまい。ポテトチップス的うまさ。これらから遠いところに「うまさ」を求めるなら、信頼できる店に食べに行くか、自分で調理するしかない。
 で、自分で作ると、たまにおいしくない。ポテトチップス的なうまさを基準にすれば、とてもじゃないが食えないと思えるものも多い。
 でも食うのである。それしかないのである。
 毎日おいしいものを作れる人(うちのお母さんとか)を心から尊敬する。

 僕は毎日うまいものを食っているわけではない。むしろそれほどおいしくないものをばかり食べている。「自分で作ったものはなんだってうまい」とずっと思っていて、今でもそうは思うのだが、あんまり作ることに慣れすぎるとそういう気分もだんだん減っていく。
 そのうちになんだか、「うまい・まずい」という考え方そのものに疑問がわいてきた。うまいとはなんだ? まずいとはなんなんだ? 食事というのは、どうあるべきなのだろうか。
 うまいとかうまくないとか、もうどうでもよくなってきた。うまいものを食いたければ毎日チョコレートでも食ってればいいのだ。
 一束100円のパセリをそのまま食って心から「うまい!」と思うわけでもない。でもサラダに入れて食べる。トマトは小学生くらいのころまで好きではなく、ずっと我慢して食べてきた。今も好物ではないが、毎日食べる。人からもらえば歓喜する。
 最近は食事に、うまいもまずいもないのではないかとさえ思う。極端にうまかったり、極端にまずかったりするものは異常なのではないか? 「畑でとれたてのキュウリ」とかは死ぬほどうまいのだろうが、その「うまさ」はなんか、チョコレートやミラノ風ドリアの「うまさ」とはまったく違うところにあるのではないか? これらの「うまさ」を一緒くたにしてしまって良いのだろうか?
 マヨネーズ的、ミラノ風ドリア的、チョコレート的うまさと、あまりに塩を入れすぎた時のまずさ、これらは一本の数直線上に表せるかもしれない。しかし、「うまさ・まずさ」を表す指標は、もちろんこの一本の数直線だけではない。
 僕はこの一本の数直線をいったん無視したい。というか最近、ほとんど無視しているように思う。これを無視すると、ふだん僕が食べているもののほとんどは、無表情で、無機質である。
 そのうえでうまいものを食いたい。

2012/07/18 水 庚辰 「国民の生活が第一」には思想がない(ごくよい意味で)

 政治のことは本当にわからないので下手なことは言いたくなかったが、指原さんの「エッチだってしたのにふざけんなよ!」によって初めてAKBについて語ったように、「国民の生活が第一」というすさまじい党名によって僕は初めて政治について何かを言ってみたくなった。
「国民の生活が第一」は、小沢一郎という人が民主党から独立して旗揚げした政党の名前であり、投票のための略称は「生活」とすることに決まったようだ。

 党名なのに、「○○党」や「新党○○」といった形式でなく、主語・述語と修飾・被修飾関係が整っている。面白い名前の党はほかにも「たちあがれ日本」があるが、衆参合わせて49議席(タッグを組んだ新党きづなと合わせて58議席)という巨大な規模のものは初めてのはず。
 この党が、この先どこまで伸びるのか、あるいは衰退するのかは、僕にはよくわからない。しかし「反増税」「(将来的な)脱原発」という方針は、かなり聞こえのよいものだし、何よりも「国民の生活が第一(生活)」という党名の持つパワーはすさまじいので、僕はひょっとしたらひょっとすんじゃないのかという気は少ししている。
 Wikipediaを見ていたら「政治的思想・立場」のところに、上記二点に加え「地域主義」とあった。なんのことかはよくわからないが、これも聞こえはよい。みんな故郷は大好きだし、「地方分権が正しい」という刷り込みも受けているはずだから。
 これらはもちろん「与党の側とは逆のことを言ってみた」というだけに過ぎないのだろうし、小沢一郎さんや党員のみなさんの本音がどこにあるのかは知らない。しかし政治というのはひょっとしたらこのように、まるで自分の本来の意見を殺した上で議論を進める「ディベート」のような方法だってとっていいのではないかという気もする。

 一つの意見があれば、反対意見もある。そういう単純なことを見事に思い出させてくれた。与党・野党がこぞって「増税」と「原発容認(寄りのこと)」を言い出したところで、「それ以外の意見もあるんですよ」という形で、それとはまったく逆のことを言う。選択肢が一つしかなくなってしまったところで、もう一つの選択肢を出す。政党政治のまっとうな在り方って、こんなふうなんじゃないかね。せめて。
 政党政治である以上、「政策を個別に選択する」ということは国民にはできない。だからせめて、「一番声の大きい奴らとは別の考え方をする政党」はあったほうがいい。これまでは社会党とか共産党とかが担ってきたのだろうが、彼らの力がさすがに弱体化しすぎてきたところで、やっと現れたのが「国民の生活が第一」、ってことなんではなかろうか。
 政治に必要なのは、絶対的な正しさではなく、ましてや一貫性でもなく、このように「全体のバランスを取る力」なのではないかと思う。

 そのように、少なくとも今回は「バランスを取った」ように見えるこの党は、それでは何の信念もないのかといえば、もちろんそうではない。党名にあるように彼らの信念は「国民の生活が第一」である。それだけなのだ。あくまで「国民の生活が第一」なのであって、「自分たちの思想・信条」は二の次になる。「自由民主党」だの、「民主党」だの「共産党」だのというのは、党名の中に「自分たちの思想・信条」が入ってしまっている。「国民の生活が第一」は、そうではない。
 いや、民主は「民主主義」の民主だから、「国民が第一」という意味だ、だから同じなのではないかという意見もありそうだが、僕はそうは思わない。民主主義はあくまで「主義」(思想)であって、狭義には選挙や代議制などをもすでに含んでいる。つまり、「私たち(の思想)は国民(の思想)の代表です」というのが「民主党」の意味するところである。しかし「国民の生活が第一」となると、思想は関係ない。「国民がどう考えるか」ではなく、「国民の生活はどうであるか・どうなるか」というところに関心があるのだ。これは大きな違いではないかと僕は思う。民主主義というのは、言ってみれば「国民から言質を取る」ということでしかない。だから、騙してしまえばそれまでなのだ。

「国民の生活が第一」という党は、思想を語らない。語るのは第一に「生活」である。思想は固定的で、永遠に変わることがないが、生活は流動的に、いくらでも変化する。「国民の生活が第一」は、名前だけを見ればおそらく日本で最も柔軟性のある政党だ。たとえば国民の生活のためには民主主義をやめればいいということになったら、やめることができる。しかし民主党は、民主党である以上は民主主義をやめることはできないだろう。そこが大いなる差である。
 ということは、「この政策では国民の生活が悪くなる」ということになれば、いつだって政策を変えてしまっていいわけだ。国民だって勘違いはするし、生活だって変わっていく。「おい、公約と違うじゃないか」と突っ込んだところで意味はない。大事なことはそんなんじゃない。国民が言えるのは、言うべきなのは「それでは国民の生活が第一とは言えませんよ」というたしなめだけである。そのたしなめに従って、少しずつ政策と「国民の生活」とをすりあわせていくのが、この党名から見える彼らの姿勢、のはずなのだ。

 僕は言葉にこだわる人間で、今も言葉の話しかしていない。前述したように、小沢一郎さんや党員のみなさんの本音は知らない。いや、おそらく彼らは党名をまったく無視した政治をするだろうとすら思う。しかし、かりに党名だけに注目するならば、この名前はなかなかすごい。繰り返しになるが、この党名には「思想」がないのである。自分たちの意見を第一に「国民の生活」に委ね、個々の主張や政策はそれに応じて変えていくことができるのだ。
 彼らが、自分たちの従来(本来?)の意見とはおそらく異なるのであろう「反増税」や「脱原発」といった政策を看板のように掲げているのは、「国民の生活が第一」という党には思想がないからである。
 今回、彼らは自分の意見をいったん殺し、「多数派とは少し異なった意見を出しましたよ、もしこちらのほうがあなたがたの生活にとって有益ならば、こっちを選んでください。もしそうでないならば、あちらのほうを選んでください」という問いかけをした。つまり、「国民の生活を第一に考える以上、自分たちは当選しなくても別に構わない」である。自分たちがかりに掲げた政策が、もしも国民の生活にとって有益でありそうならば、その時にこそ自分たちが選ばれればいい、という考えである。はずなのだ。党名がもし、その党の内実をそのまま表すものであるとしたら。他の党の主張する政策が採用されたとしても、それで国民の生活のために有益であるならば問題ない。もちろん、「これが国民のために最も有益な政策です!」と掲げて当選を狙うのが一番なのではあろうが、今の政治システムと人類の叡智レベルでは、国民の投票に委ねるしかないのである。「国民の生活が第一」は、そのことに気づいただけでもう十全に偉大だ。
「投票されなくてもいい」ということを前提にした政党は、たぶん日本で、いや世界でも初めてじゃないかと思う。「国民の生活が第一」という党名は、それがゆえにスゲーのだ。


 余談だが僕は「生活」という言葉が好きだ。「日常」ではなく「生活」が好きだ。福満しげゆき先生の『生活』および『僕の小規模な生活』は名作である。もしも彼らが「国民の幸福が第一」という政党名であったならば、また話は違ってくる。「幸福」というものが、あまりにも抽象的で、空想的な概念だからである。「生活」はもっと、地に足が着いている。

2012/07/14 土 丙子 集った仲間たち

 まなびオフ、まなびオールナイト上映、無事けがもなく終わりました。
(『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』というアニメのことです。)
 オフには11人の参加をいただけました。サイゼリヤの一角を占領して、ぎゅうぎゅう詰めで11人、とても楽しかったです。
 オフ会と、オールナイトでの制作陣によるトークショーで思ったのは、意外とシナリオについては語られないんだなあ、ということ。脚本の金月さんが来ていなかったからというのもあると思うんだけど。
 アニメってのは映像作品なんで、シナリオにばかり目を向けるのは確かにアンバランスかもしれないけど、演出というのは物語をより伝えやすくするための手段だと僕は考えてしまうので、どうしても「お話」について語りたくなってしまう。
 どれだけ素晴らしい技術を使おうが、それが物語を彩るために効果的に作用していなければ、僕にとってはあんまり意味がない。

 オールナイトが終わって、公園で何人かで話をしていたら、初めてまなびを見たという男の子が、「アニメを見て癒されるだけでなく、素晴らしいと思ったらそれを現実にも反映しなくてはいけない」(大意)というようなことを言った。あくまで大意というか、僕は彼の言葉をそのように解釈した。
 まったくその通りだと思う。それこそが『まなび』の訴えかけていることだとも思う。『まなび』を消費するだけで終わってしまったら、それこそ「駅前のダンスイベント」(物語の中で、「みんなで作る学園祭」と対置される形で登場する)を消費者として楽しむ、ということと同じになってしまう。
『まなび』は、「みんなで何かをすることは楽しい」というメッセージをもちろん持っているし、それと同じくらい強く、「消費するだけではいけないのではないか」という疑問も投げかけている。それは「受け身でいるだけではダメだ」というメッセージかもしれない。みかんというキャラクターはまさに「受動」から「能動」に変わったし、めぇの「私たち、ここにいていいのかな?」というセリフも同様だ。
 僕は『まなび』をそういう物語だと思うので、「『まなび』面白いよねー」「かわいいよねー」「素晴らしいアニメだと思うよー」で終わるのではなく、「さて、自分は」と振り返ってみることが大事なのではないかな、と思っている。もし、まなびを見て素晴らしいと思うならば、自分の人生の中にその「素晴らしさ」はあるのか、ということを考える、べき、なの、では、ない、かな、とか。

 しかし、正直言ってシナリオについて考えるのは難しい。さらにそれを言葉にするのは難しい。「感じる」ということだけでも充分かもしれない。だけど世の中には言葉にすることが得意だし、好きだという人もいて、言葉を求める人たちも大勢いる。誰かがその役割を担わなければいけないような気がする。
 僕も少しくらいは手伝いたい。

2012/07/13 金 乙亥 のろけ

 のろけという癒しを知ると人はのろけないではいられなくなる。
 アニメや音楽で癒しを得ようという人も愚かしい。
 癒しとは、のろけやアニメや音楽で得るべきものではない。
 現実を見た方がいい。

2012/07/12 木 甲戌 僕は心が狭い

 アート側の人たちってのは、本当に楽しそうじゃない。だからこっちも楽しくなれない。「ほら、素晴らしいことやってるんですよこっちは。理解しなさいよ。理解できないなら二流ですよ」という傲慢な態度すら感じさせられる。でも、そういう態度のほうがモテたりする。心の狭い僕はそれが許せない。すっごいつまんねー男が、アートぶって音楽とかやって、すっげー楽しくない音と言葉を連ねてモテてるって状況が、本当に反吐が出るほどいやなのです僕は心が狭いから!

2012/07/11 水 癸酉 ビートルズは楽しくない

 最近、友達がよくビートルズの悪口を言っているので、僕もビートルズについて考えてみた。僕はこれまでも「ビートルズ型のバンド」の悪口を言ってきたが、その源泉もなんとなく見えた。ビートルズはモテているから、ムカつくのである。
 ビートルズはアートかエンターテインメントかでいったら、彼らはたぶんアート側の人たちである。アート側の人たちが、すまし顔で音楽をやって、媚びもせずモテているから、僕はビートルズが好きじゃないのかもしれない。
 ビートルズ嫌いの友達はブライアン・セッツァーのこの動画を見せてくれたが、これは本当に楽しそうだし、無意味なパフォーマンスに満ちている。(特にベース。)ビートルズにはこのノリがない。米米クラブとか氣志團みたいなエンターテインメント性、客に媚びる感じがない。それはビートルズがアートだからだ。少なくとも66年以後は確実にアート側に寄っていると思う。アート側の人たちは「僕らのやってることには価値がある」と信じているから、すまし顔で「どう? 素晴らしいでしょう」と言ってくる。向こうから歩み寄ってくるということはまずない。しかも、アート側の人たちというのは、ほぼ例外なく楽しそうではない。
 友達は「『Help!』はマシ」って言ってたけど、ビートルズで楽しそうな曲といったら確かに65年の『Help!』以前で、『Rubber Soul』以降は減っていく。特に「最初のロックアルバム」とか言われる66年の『Revolver』以降だとほとんどない。
 アルバム『Help!』までは他ミュージシャンのカヴァー曲を収録しているが、『Rubber Soul』からはオリジナル曲のみになっているのも、この時期にアート側に寄っていったことを表していると思う。
 また、同じくらいの時期からビートルズはライブをやらなくなっていく。65年ごろのライブはかなり楽しそうだし、観客も熱狂どころか発狂している。

 バンドを、アート側のバンドとエンターテインメント側のバンドとに分けるなら、66年以降のビートルズはおそらく前者。で、アート側のバンドっていうのは、モテる。誰にも媚びず、ただ演奏しているだけでモテる。だからモテたいやつはバンドをやる。情熱がなくても、愛も心もなくっても、ただ演奏しているだけでモテるから。
 モテるためにバンド始めるやつのバンドは、必ずなんちゃってアートバンドになる。情熱があってバンドを始めるやつは、楽しむためにバンドをやるのだから、自然とエンターテインメント系のバンドになるのではないかと思うのだ。
 ビートルズは、アート側のバンドの始祖である。
 無表情で歌うバンド、あるいは、ヴォーカルの声に表情がないバンド(ロキノン系だよ!)は、もうすべてアート側のバンド。すなわちビートルズの子孫たちだ。本人たちは楽しんでいるのかもしれないし、ライブをやれば恐ろしく盛り上がるのだろうが、それはやっぱ、「みんなで楽しむ」ってことにはならないと思うね。自己満足のために音を出し、自己満足のために盛り上がっているんだから。楽しめない音は音楽にはならないってHysteric Blueも歌ってますが、それは本当に音を楽しんでいることになるんでしょうか。僕にはドラムパターンに合わせて運動してストレス解消しているようにしか見えません。それを思い入れと勘違いによって「音楽を楽しんでいる」というふうに曲解しているんでしょう。僕は言い切りますよ!

 生きていくのは難しい。
 人はつい感情的になると吐き捨ててしまう。
 感情的にならないためには数日前に書いたように冷静さが必要だ。
 そうではあるが、誰にだって失敗はある。
 言ってはいけないことを言う場合もある。
 言ってはいけないことは言ってはいけないことを連鎖的に導きやすいから、誰かがどこかでやはり冷静になってそれを受け止め、時にはたしなめたりすることも必要になる。
 自分が「正しい」と信じたことを言うだけで、言い方によっては、他人を著しく、無駄に、傷つけてしまうことも非常に多い。
 僕も、人を傷つけないように生きていくことは、まだ本当に得意なわけではない。ただ自分がほとんど怒ることのない(と僕は思っている)性格であることは幸いで、それで一歩立ち止まることだけはそれなりにできると思う。

 正義感というものは基本的に「固い」ものだから、それを中和するくらいの柔軟性がなければ困る。「……待てよ」を折を見て注入し続けないと正義感はすぐお節介やら凶器に変わる。
 僕はだいたいのことを前向きに考えるものだから、何かまずいことがあってもそれほど動じない。雨降って地固まるなんて言葉を思い浮かべる。悪い状況は好転するように願い、祈り、働きかける。
 問題、衝突、騒動、そういったことが起きるのは、人間が二人以上いたら当たり前のことと心得る。その中でどのようにバランスを取っていくべきか。
 とにかく言葉に気をつけるしかない。
 一度失敗してしまったら、その後の言葉にとりわけ気を遣う。
 言葉だけでなく、もちろん、いろんなことがそうなんだが。たとえば言葉。

 僕はちょっとしたことで容易に傷つく。怒らないから、そのぶん傷つく。
 でもさほど辛いというわけでもない。
 別に傷ついてもいいと思っているに違いない。
 というより、傷ついた時にはもう、いかにして癒すかということしか考えないから、「ああ、傷ついた。嫌だな」と思う暇がない、そうするように努めている、というようなことでもあるのだろう。
 いかにして癒すかを考えると、それはもう大抵は解決させるしかない。

 誰かが傷つく。その人は泣くかもしれない。怒る人もいる。じっと黙り込むかもしれない。人それぞれだ。僕は言葉を探すだろう。
 誰かが煙草をポイ捨てする。それを見た人が、「あなたは最低だ。人間のくずだ。死んだほうがいい」と言う。ポイ捨てした人は、「なんでそこまで言われなければならないんだ、たかがポイ捨てじゃないか」と言う。「たかがとはなにごとか」と、もう一人は返す。
 そのような光景はやはり何よりも醜い。
 そのようにだけはなんとしてもならぬように、ゆっくりと生きていきたい。言葉が誰かに届くまでには、意外と時間があるものだ。
 とりあえず、落ち着くことにいたしましょう。

 7月12日(木)、無銘喫茶を13時から(要望があればさらに早く)営業することにいたしました。「そんなに早く行けねえよ!」というまっとうな生活をしている方々からの声が聞こえてきそうですが、これはつまり「いつもは20時にならないと入れないが、今回は17時とか18時でも入れる」ということでもあるので、「いつもは開店が遅すぎる」と思っている方にはよい機会かもしれません。どんな店なのか、詳細は「」より。マニアはお気づきかもしれませんが、このサイトの12周年記念を兼ねています(7月11日開設)。高校生以下は無料で持ち込み可、大人は適当に(ガキ向けの夕飯とかあるとモテますね)。僕はまた大瓶でも買っていこうかな。

 ぴあのまなびチケット、まだ24枚くらいある(11日15時ごろ現在)みたいなので、セブンイレブンかサークルKサンクスに行って四角い機械でPコード「597-069」を打ち込み、2405円(手数料込み)払って発券してください! また、12日木曜日の木曜喫茶昼から営業もよろしくですー。

2012/07/10 火 壬申 第十話「集う仲間たち」

 七月八日の夜中、二時半頃から、ツイッターで、七人くらいで、ずっと『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』というアニメについて話していた。日曜の夜中だから、人は本当に少なくて、その中で偶然に起きていた「まなびファン」たちが、誰が声をかけたでもなく語り始めた。懐かしい匂いがした。
 まるでかつての「チャット」のようで、久しぶりに「インターネットだ……」と実感した。画面上にはほとんど、僕たちしかいないかのようで、閉じた密室みたいだった。そのせいかみんな、なんだか熱くなっていて、少々気恥ずかしいことも言っていた。閉じていれば、熱気がこもる。それも含めて本当に、昔のようだった。
 同じものを愛する人たちが集まって、閉じたところで、わいわいがやがや、作中の小ネタをちりばめたりもしながら、とりとめもなく話す。底流しているのは「まなびは素晴らしい」。それだけで果てしない安心感がある。

 またいつもの思い出話になるが、2000年ごろに僕は「ドラえもんチャット」に入り浸っていて、その時の雰囲気が今でも本当に好きだ。今の若い人はチャットルームって言ってピンとくるのかな。ツイッターやSNSのように「アカウント」が存在するわけじゃなくって、名前だけ打ち込んで「入室」する。で、「入室」している人たち同士だけが、話をする。「アカウント」がないから、「入室」していない人の情報は、どこにも表示されない。また、「入室」があればもちろん「退室」もあって、その人がその場に「いる」か「いない」かが、明確にわかるようになっている。ツイッターだったら、いつの間にかタイムラインから消えてしまったりするけれど、チャットルームは「部屋」だから、入退室をその都度表示する。(たまに退室しないで寝ちゃう人なんかもいたけどね。)

 ツイッターで、そういうような雰囲気になったのは初めてだった。日曜の真夜中、っていうちょっとした背徳感も、とても懐かしい。次の日に学校があろうと、テスト前日だろうと、あのころは夜中までチャットに入り浸っていた。徹夜して話し込むこともざらにあった。次の日に大切な予定があればあるほど、盛り上がった。
 僕は、いつも言っているとおりツイッターがとても嫌いだ。ツイッターで知らない人となれ合うってこともあんまりない。ただ最近、『まなび』のオールナイト上映が決まってからは、オフ会を主催することもあって、まなび関連のことをたくさん書き込んでいた。今回、メインで話し合っていたメンバーは、ほとんど全員がまなび上映会に参加するし、大多数はオフ会にも来てくれることになっている。数日後には顔を合わせるわけだ。そういう事情もあって、僕は珍しく熱く熱く、ツイッターなんぞで盛り上がってしまった。
 僕はインターネットを、「実際に会う前提で知り合う場」だと考えている。「チャット」の時代は、もちろんそうではなかった。でも、あのころに「会えない」ことの辛さや儚さを身にしみてわかってしまったから、「これからは会うために知り合う」と決めたのだ。だから実際、ネット上ではそのように人と接してきた。しかし……七月八日の真夜中は、その前提を少しだけ外していたかもしれない。だからこそ、僕はその空気を「懐かしい」と感じたのだ。
 もちろん、数日後には彼らと顔を合わせる。だからこそ僕は彼らととても仲良くしている。理屈ではそうだ。が、感覚としてはやはり彼らは僕にとって「知らない人」であり、「インターネットだけのつきあい」なのである。まだ。だからこそ、育める関係がある。だからこそ、感じあえる空気がある。それこそが、僕が十二年前に大好きだった「インターネット」の醍醐味だ。

 例のドラえもんチャット――「ドラチャ」の話を、僕はプロフィールに詳しく書いている。無人島からビン詰めの手紙を流すように、あのころの友達が見つけてくれることを密かに願いながら。それで実際、そのチャットの管理人である「とも」が、掲示板に書き込んでくれたことがあった。

「"想い出"となったこと、申し訳ない。
 街であっても気付かない、そんな脆い関係だからこそ、
 俺たちは楽しめて、そして"想い出"として残せるのだと思う。」

 彼はそう言った。
 そうなんだ。それを僕は、実は知っている。
 みんなに会えなくなったことは淋しいが、会えないからこそ、そういう脆い関係だったからこそ、あの楽しかった時間は成立していたのだし、今や最高の「想い出」となっている。僕にとっては、ほとんど思想の源泉にさえなっている。
 だけど、それはそうでも、僕にはもう無理だ。会えないことは辛すぎる。それに、「人間は顔を合わせ、膝をつき合わせてなんぼ」だってことくらい、大人になった僕にはわかりきっている。それにもう、時代は「チャット」ではない。ツイッターやフェイスブックでは、僕らの愛したあの空気は味わえないだろう。と、思っていた。
 ところが、そうでもなかった。
 たった一晩のこと。そして、おそらくあとわずか数日のことではあるが、僕は再び「チャット」を味わうことができたのである。知らないはずの人と、まるで本当に友達みたいに、朝まで語り合うような。恥ずかしいことを言っているようだけど、これは本音なんです。いつものことです。
 それを可能にしてくれたのは、なんといっても、絶対に『まなびストレート!』という作品の力だと思う。

 そもそも、オフ会をやろうと思ったのは、オールナイト上映が発表された直後に、ある人が「誰かオフ会やってくれないかな」と言ったのを偶然見たからである。僕は直感で、なぜかわからないけどその時すぐに、「やりましょう」と声をかけた。それまで一度もやり取りをしたことのないような相手だった。そうしたら彼は、ネット上の「まなび仲間」に積極的に声をかけてくれて、すぐに何人かが集まった。
 僕の印象でしかないけど、キチガイみたいにまなびが好きな人って、オフ会って形で「みんなで集まる」ってことに、『まなび』を感じてるんじゃないかな。っていうと抽象的すぎるか、その、つまり……。

「まなび」を受ける皿を持ち合わせている人は孤独だと思う。みんなが持ってないから、持ってるだけで孤独。だからこそ「まなび」と出会ってしまった人は、わくわくきらきらの学園祭を作らないといけないのですよね。そういう人生を歩むんだってことを、決められちゃった感じがありますよ。まなびに。

 ええ、それは見ててすごく思いました。まなびオフ会の話を聞いたときも、だからこそ通じ合えるんじゃないかなあと。

 上のほうはツイッター上での僕の発言で、下のはとあるまなびファンの方。非常に恥ずかしいことを言っているようですが、本気なんですよ!
「だからこそ通じ合える」っていうのが、僕にとって本当に心強い一言だった。嬉しかった。そう、まなびはそういう作品だから。
 ちょっと気持ち悪くなりますが。まなびが転校してきて、みかん、むっちー、めぇ、ももをはじめとする聖桜学園の生徒たちは、つながったわけです。「わくわくきらきらの学園祭を作る」っていう、共通の目標に向かっていったわけです。あるいは、「みんなで何かをする/作り上げる」っていう楽しさに目覚めたわけです。聖桜学園の生徒たちにとってのまなびの存在は、僕たち視聴者にとっての『まなびストレート!』という作品の存在に、そのまま重なるんじゃないかと。
『まなび』の第十話のタイトルは「集う仲間たち」。うん。これぞまなびのテーマの一つなんだと思う。「集う仲間たち」。それを心から素晴らしい、素敵だと思うから、僕らも『まなび』の旗印のもと、集いたくなってしまうんだろう。
 だから、基本的に「オフ会」が好きではない僕が、わざわざ主催しようなんて、直感で即決したんだと思う。(ちなみに「オフ会」は好きじゃないけど「ネットで知り合った人と会う」のは好きです。)
『まなび』って、そういう力を持った作品だ。観る人の生き方に影響を与えてしまいかねないような。で、オフ会に来ようって思ってくれた人は、きっと『まなび』からそういうパワーをもらっちゃった人なんだろうなって勝手に思ってる。「影響された」じゃなくっても、「背中を押された」くらいのことは、あるんじゃないかって。

 共通項が『まなび』であったからこそ、「集まる」っていうことがそれ自体で素敵なように思えるのだし(少なくとも僕はそうだ)、チャットのような雰囲気で語り合うこともできた、んだと思う。オフ会で、会ってみたところで、何も変わったりしないかもしれない。そのまま二度と会わない人もいるかもしれない。僕らは今のところ、『まなび』で繋がってるだけだから。けど、それだけでも充分だし、たとえ二度と会わなかろうが、一度『まなび』で集まったこと、それ自体が大切になるはずだ。まなびたち五人の付き合いは、きっと永遠に続いていくだろう。しかし、一緒に学園祭を作り上げたみんなが、永遠に付き合っていくわけではない。でもそれでいいのだ。会うとか会わないとか、実はささいなことなのかもしれない。「あのとき僕らはそこにいて、同じことを感じていた」という、それだけで充分なんだって、二度と会えなくなってしまったドラチャの友達から、僕は教えてもらって知っている。

2012/07/09 月 辛未 二次創作のエロ同人誌は邪悪そのもの

 僕はたとえば『ふたりはプリキュア』(2004年放映)というアニメが好きだが、この作品のエロ同人誌を読みたいとは思わない。邪悪そのものだと思う。
 エロ同人誌というのはこの場合、「作品制作とは無関係の素人がプリキュアのキャラクターを使って性行為などを描いたエロ漫画を販売目的で自費出版したもの」である。僕はこういった類のものはすべて嫌いだ。あきれてしまう。
 僕はプリキュアが好きなのだ。美墨なぎさが、雪城ほのかが、その他の登場人物が好きなのだ。好きな女の子をモデルにしたエロ漫画を読みたいですか? 読みたい人は邪悪でしょう。
 僕のイメージでは、二次創作のエロ同人誌というのは「中学校の時に好きだった女の子の見た目や名前をそのまま使ってエロ漫画を描き、それに値段をつけて売る」ということとまったく同じなのである。
 なぎさが可哀想じゃないか。
 たとえば芦田愛菜ちゃんで考えてもいい。芦田愛菜ちゃんがエッチなことしてる漫画を描いて売る、っていうことをしたら、芦田愛菜ちゃんが可哀想じゃないか。仮に芦田愛菜ちゃんが死ぬまでその漫画の存在を知らなかったとしても、普通の感覚をしていたら良心が痛むでしょう。芦田愛菜ちゃんのことが好きだったら、そういうことはしないと思いますけど!
 どうして、「好きだ」と言っておきながら、その相手にとって不名誉であったり、恥ずかしかったり、事実無根であったりするような内容を描いて、売るのでしょう。「好きだから、エッチなことを妄想してしまう」というのは別に、構わないと思いますよ。仕方ないことだ。でも、なんでそれを売るのか。なんでそれを買うのかね。こっそり描くのもいいと思いますよ。どうして人に見せようとするんですか。失礼じゃないか。可哀想だろうに。
 アニメや漫画のキャラは、文句言わないからね。それで調子に乗ってるんだよね。まったく、それって「拒否されなかったからセクハラじゃない」っていうのと一緒だね。僕はアニメや漫画のキャラクターに人格が宿っていると考えるキチガイオタク野郎なんで、本気でそういうことを思うよ。人格があるからこそ「好きだ」と思えるんだもん。
 で、そういう感覚がない、すなわちキャラクターを人格として愛し、尊重していないような作品が素敵であるわけがない。描いている人も、読んでいる人も、ひたすらに邪悪。僕は大嫌いです。その作品、キャラクターを愛しているという自覚があるのならば、今すぐにすべてを捨てていただきたい。

2012/07/08 日 庚午 信用とは自分の問題である

 福本伸行先生の『賭博黙示録カイジ』という漫画の最終巻、カイジは「兵藤」という男とのギャンブルに負けて指を切り落とされる。事後、カイジは兵藤のイカサマに気がつき、それを見抜けなかった自分を責める。「どうして自分はあの時、運を天に任せてしまったんだ。もっと冷静に、深く深く考えをめぐらせていれば、イカサマに気づくことはできたはずだ。土壇場で信じられるものは自分しかないと、わかっていたはずじゃなかったのか――」という意味のことをカイジは泣きながら心に叫ぶ。

『ナニワ金融道』を読み返していて、何度もこのシーンを思い出した。作中で借金地獄に陥る人たちは、皆どこかで判断を誤っている。それも、かなり早い段階で。「どうしてそこで街金に行ってしまうんだ、もっと他に方法はあっただろうに」と、ほとんど常に思いながら読んでいた。
 大きな判断ミスは、たいてい思考の放棄から起こる。最後まで諦めないで粘り、考え、その時点での最善手を繰り出し続ければ、勝てる。『カイジ』でいえばパチンコ「沼」編なんかまさにそうだ。『ナニワ金融道』でも、最初に金に困った段階で「……待てよ」と立ち止まり、最善手を熟慮していれば、夜逃げする羽目になんかならなかったであろうケースが、圧倒的に多い。『ナニワ金融道』で描かれているのは、「金の怖さ」ではなく、「思考を放棄することの恐ろしさと愚かしさ」なのだと僕は思う。主人公の灰原が何度も窮地を脱することができたのは、「最後まで諦めないで粘る」ということをしたからだ。

『ナニワ金融道』では、「他人を信用して保証人になったら、いつの間にか多額の借金を負っていた」というケースが非常に多い。これは「人を信用してはいけない」というメッセージなのだろうか? たぶん違う。これは「人を信用するというのは、自分の責任である」ということだ。裏切られたのは裏切った相手のせいではなく、それを信用した自分の責任なのである。簡単に人を信じてはいけない。信用する前に、よく考える。考えた上で、信用するかどうかを決める。もしも信用して、ここにサインしたら、どうなるのか。考えられるあらゆる未来を想像し、秤にかけ、熟慮する。決して「この人には世話になっているから」とか、「数十年来の友人だから」などという理由で軽はずみにサインしてはいけない。そのことによって行く行く自分や家族が破滅するだけでなく、その友人までも破滅させてしまうかもしれない。「保証人になる」ということは、「相手に金を借りさせる片棒を担ぐ」ということでもあるのだ。自分が断れば、その人は借金を諦めたかもしれない。そしてその借金は、諦めるべき借金だったのかもしれない。そういうことをちゃんと考えて、「この人はこの金を借りるべきなのか」「そうだとして、自分はその片棒を担いでも大丈夫なのか」「もしこの人が逃げた時、それを引き受ける覚悟と能力が自分にあるか」などなど、考えることはいくらもある。そのすべてに納得してこそ、サインはすべきだ。すべてに納得しないのならば、そのサインが「ギャンブル」であることを自覚しなければならない。
「人を信用する」ということは、他人の問題ではない。自分の問題である。他人事だと思ってはいけない。人を信用するかどうかは、「自分で考える」のである。それさえちゃんとしていれば救われたであろう人たちが、『ナニワ金融道』にはたくさん登場する。「浅慮」ということの愚かしさを描いたのが、この作品である。

2012/07/07 土 己巳 素敵な欠席

 夕方六時から約束があったのだが行かなかった。実は数日前、集合時間と場所を決めた段階で自分は行かないだろうと予感していた。自分はそこにいないほうがいいと感じたのだ。自分がいないほうが楽しいだろうと。それは卑屈な意味ではない。
 たとえば出席者の中に、僕のことを頼ってしまう人間がいると、僕はもしかしたらその場にいるだけでその人の成長の芽を摘んでしまうことになるかもしれない。あるいはもっと単純に、僕がいないことによって実現する雰囲気とか、話題とかがあったりもする。また僕は割と積極的に喋るから、その他の人がひたすら聞き役になってしまうことも多い。そういう状態が実は僕はそんなに好きではないのだ。
 自分が行かなければ、その場の状況や話題を知ることはできない。別にそれでいい。彼らは楽しいかもしれないが、僕は楽しくない。もちろんそれでいい。その場にいて得られる「楽しさ」とは別の満足感を僕は得るのであるから。
 零時くらいに連絡してみたら、まだ飲んでいるから来ないかとのことだったので、深夜一時半ごろに合流した。それから午後二時まで話した。ある人からは、「君が来なかったおかげで素敵な時間が過ごせた」と、皮肉ではなく言われた。自分は間違っていなかったようだ。そして非常に勘のいいある人からは、僕が行かなかった理由をほぼ見抜かれていた。さすがだ。その人は「教育者の発想ですね」と言ってくれた。実に嬉しい。

「自分がいない場合のこと」を想定して、そちらを適切に選ぶというのは難しい。そういう考え方はだいたい「いらない遠慮」になってしまう。「○○さんも来ればよかったのに」と心底から言われたりする。「来ても楽しかっただろうけど、来なかったからこそ今日の素晴らしい時間があったよね」と言われるような欠席の仕方は、なかなか難しい。「来なくてよかったぜ」も「来たらよかったのに」も、どちらも淋しい。

2012/07/06 金 戊辰 成長と感情について(信じたいために疑い続ける)

 石川啄木の詩を思うたび、この人がもう数十年生きていたらどんな詩を書いていたのだろうかと考える。考えたところで何もないが。


 人がより素敵に変化することを「成長する」と言う。
 僕はそれを見ていることが好きだ。
 こんな世の中で、未来への希望というのはそういうところにしか見いだせない。
 僕は希望を見たいから、できる限り誰かの成長に加担したくなる。
 それで先生をやったり、もう先生でもないくせに子供たちにあれこれと関わりたがったりする。
 別に子供たちばかりでもない。誰だってずっと成長しうる。
 ただ、やはり自分より年上の人間に希望を持つことは難しいとは感じている。
 Don't trust over thirty.とはよく言ったもので、本当にだいたいそのくらいの時期に、人は固まってしまう。
 なんでか。

 大人には実績がある。
 三十歳くらいになって、結婚したり子供ができたりすると、特に男性は、「自分は一人前だ」と思ってしまうようだ。
「一人前だ」まではいかなくても、「今の自分は今の自分でいいんだ、このままで十分なんだ」と、自己肯定する。
「自分を疑いなさい 多角的に見なさい そんなチャチな物差しじゃ 絶対にサバ読んじゃうもん」って、cali≠gariってバンドが歌ってた。
 三十歳くらいになると、自分を疑うってことをしなくなる。それは「自分は素晴らしい」と信じ込むことでもあるし、「自分はダメなやつだ」と信じ込むことでもある。すなわち「自分はこういうヤツなんだ」という思い込みが強くなって、そこでそのまま膠着する。それはすなわち「社会とはこういうもんだ」という思い込みを固定化させることでもある。
 わかったように世の中を語る人間は、自分のこともすっかりわかっているかのように錯覚している。そして「かもしれない運転」や「だったかもしれない運転(運転?)」を怠るようになって、「頭が固い」と若者から煙たがられる。
 三十年の実績が、「自分は三十年間無事に生き抜いてきたんだから、これでいいんだ」という錯覚を招くのだと僕は思う。凡人が、三十年ごとき生きたくらいで、何をわかるというのか。せいぜいぼんやりと、向かうべき方角が見えるか見えないか、という程度が関の山なのではないだろうか。二十七歳の僕は少なくともまだ、そのあたりにしかいない。
 三十歳くらいになると、人は一切の成長を放棄し始める。もしくは「成長とはこういうことだ」と決めつけて、その定義に則った成長をしか望まなくなる。裏付けは彼らの「実績」である。

 高校生の女の子が先日、憤って僕に訴えかけてきた。「学校で、男の先生が、とても感情的に怒っていて、とてもみっともなかった。でもそれを礼讃する風潮が一部にあって、それが解せない」というような内容だったと思う。その先生は三十代で、最近子供が生まれたばかりだという。「子どもが生まれたあとの男性は妙な正義感にとりつかれる」というような表現をその子がしていて、なるほどそういう傾向はあるなと思った。以下、その子との会話の中で考えたりしたこと。(だから、何割かは彼女の意見も含まれているかもしれません。)

 僕は最近、冗談で自分の肩書きを「自意識研究家」とか「自意識評論家」とかって言うことがある。その立場からこの問題について考えると、「子供が生まれて初めて生命の尊さについて目覚めた」ってことなんじゃないかなと思う。生命が本当に尊いのかどうかは知らないが、まともに生命について考えたことがないような人ほど、子供の誕生で舞い上がって「生命は! 尊い!」とか言い出しそうな気がしませんか? 僕は自意識研究家としてそう断定したいですね!
 その先生がなんで怒っていたのかというと、避難訓練の時に生徒たちが不真面目だったからなんだってさ。あーあーそういうことか。「キミタチは3.11をワスレタノカ!」的なことなんでしょうかね。震災に直面して初めて「生命の尊さ」とか「社会の歪み」みたいなことについて考えるようになったって類の人なのかもしれないな。自意識研究家の邪推ですけどー。
 って、ここまでだとまだ「自意識」の研究にはなってない。「その先生が自分自身についてどういう意識を持っているか」が自意識研究である。その人をよく知っているわけでもなければ、その場に居合わせたわけでもないので何もかも邪推でしかないわけだが、彼は酔ってますよ。
「俺はお前たちに死んでほしくないんだよ!」って、狂ったように叫んでたらしい。完全に陶酔。それで生徒たちはけっこう感動したんだそうだ。でもさ、その感動って「あー、私たちってこの先生に愛されてるんだ!」っていう感動でしかないわけね。伝わったのは「俺はお前らが好きだ」っていう内容だけで、するとそれって「俺のために避難訓練はちゃんとやれ」ってことになるじゃん。変だよね、それは。「俺はお前らに死んでほしくない→だから俺を悲しませないためにお前らは避難訓練をちゃんとやらなければならない」ってことだもん。
 感動した生徒たちは「愛されている」ことに喜ぶだけで、「次からはちゃんと避難訓練しよう!」って思った子は少ないだろうし、いたとしても次回までには忘れているよ。ほぼ無意味。それが証拠に、「先生すみませんでした、もう一度避難訓練をやらせてください!」って頼みに行った生徒はいないわけでしょう?(いたらごめんなさいねー。)
 教育なんだから。必ずしも「俺はお前らが好きだ」を伝えることが教育ではない。避難訓練をちゃんとやらないなら、ちゃんとやるように指導するのが教育。その指導の方法として、彼のやり方が正しかったとは僕には思えない。
 彼は彼の自意識をみんなの前で発現させただけ。「俺は生徒たちを愛している(そんな自分は素敵よね)」って。「俺は大震災についていろいろなことを感じ、また考えていて、ゆえに避難訓練は大切だと思っている(そんな自分は立派よね)」って。
 まー……本人からしたら「そんなこと思ってない! 勝手な分析はやめてもらおうか!」ってことになるんだろう。そう、自意識研究には根拠なんかなくって、当人にとっては滅法失礼な行為だということは承知。他人からの伝聞だから事実誤認もあるだろうことも承知。でも、まあダシにさせてくださいよ。これも教育の一環なんだから。
 少なくとも、「僕が聞いた話だけから判断すれば、あなたの行為はそういうふうに見えるのですよ」ということは言えるんじゃないかと思う。怒るのはいいけどね、自意識が見えるとみっともないよ。本当に。
 たぶんその先生が言った内容はもっとたくさんあって、まっとうなことも含まれていたんだろうとは思うんだけど、でも僕に訴えて来た子の印象に最も残った言葉は「俺はお前たちに死んでほしくないんだよ!」だった。ツイッターとかで「感動したー」とか言ってる子も、そこが一番印象的だったみたいだし。だとしたら、やっぱ間違えているよね。見せ方を。順序を。だから自意識が過剰にはみ出す。

 さて、成長。
 その先生、かなり膠着しているような気がします。膠着していると、もちろん柔軟性がなくなる。柔軟性がないというのは、他人の意見を参考にしないってことで、要するに独りよがりなんですよ。いい大人が平気で感情的にギャーギャーわめくのって、「そこに他人がいて、それぞれにいろんなとらえ方をしうる」んだってことを忘れているからだよ。それを前提にしていたら、喋るとき慎重になるはずだもん。「どういうふうに話せばここにいるみんなにできるだけ伝わるのかな」って。
 それをしないっていうのは、「自分はこれでいいんだ」って思ってるからね。「他人に合わせて変える必要はない、ありのままの自分をぶつければわかってもらえる」って信じ込んでるんじゃないかねー。なんだろうね、その自信は。これが僕の言う「一切の成長を放棄した状態」ね。
 むやみに自分を肯定すると、人は感情的になりますよ。感情的になるっていうのは、自分が正しいと思ってるってことなんだよ。「……待てよ」がないからね。「……待てよ」があれば、感情的にならない。怒りの感情よりも、「自分が悪いのかもしれないよなー」って思いが先に来れば、怒らないんだ、人は。疑うことを忘れると、人は感情的になります。
 たとえば僕が漫画読んで号泣するとき、「自分が正しい」って、やっぱ思ってるね。そこには「……待てよ」はありません。「……待てよ。このシーン、本当に感動的なのか?」が先に来たら、泣かないもん。「うん、このシーンは感動的だ、自分のとらえ方に間違いはない!」って自信がないと、泣けない。感情っていうのはそういうもんだと思う。

 感情って言うのは臨界点なんで、そこへ行ってしまえばもうそれ以上の成長はない。だから時々「本当か?」と抜き打ち検査をしてやるといい。それで「うん、本当だ」となったら、そこで泣けばいい、笑えばいい。怒ったっていいかもしれない。「信じたいために疑い続ける」っていうのは、そういうことだろう。

2012/07/05 木 丁卯 据え膳とは何か

 僕の信頼する腐女子(※別に腐女子として信頼しているのではなく、友達としてそして漫画を愛する人として信頼しているという点に注意)と緊急会議を開き、「据え膳とは何か」について考えたので記しておきます。

 まず、「据え膳を食う」ということは基本的に「悪いこと」であるということを抑えたい。なぜ悪いのかといえば、日本には「働かざる者食うべからず」という美徳があるからだ。(だからもしそれを美徳としないのならば、いくらでも据え膳を食えばいい。)
 据え膳というのは、「労せずして」食うものなのです。他人に据えてもらう膳ということです。それは美徳ではない。悪なのである。堕落しているのである。少なくとも生産的ではない。据え膳ばかり食っていると料理の作り方を忘れてしまう。「うまいもの」がどういうふうに作られているのかということがわからなくなってしまう。それはひいては、「うまいということがわからなくなる」といったような事態にまで発展すんじゃないかと僕は危惧しておりますよ。おかーさんや奥さんの作ったご飯を平気で残したり「おいしくない」とか言っちゃったりする人は、邪悪そのもの。据え膳ばっか食ってると、そういう人間になるってこってす。

 この「据え膳」という考え方をBL方面に敷衍したのが僕の先日の記事だったわけですが、ちょっと説明不足というか、まだ「据え膳」というものについて十分な理解を僕自身が持っていなかったために、曖昧な書き方になってしまった。
 究極的には、BLにおける据え膳の極みは、「そこにすでにホモが描かれてしまっている」もの。すなわちBLコミックや、女性向け二次創作の多くはこれにあたる。
 同人誌なんてのは、ほとんどが「読む側にとっては」据え膳なんだってことです。それは男性向けでもそうですね。男性向けの場合、エロい漫画は「据え膳」で、エロくない漫画は据え膳ではないってところかな。エロくないものをいかにしてエロく捉えるか、というのが読む側の腕の見せ所になるわけ。腐女子の場合は「ホモでないはずのものをいかにしてホモにするか」というところが肝要だったりする、と思う。なんて言うと、優れた腐女子はこう言うかもしれない。「いや、もともとホモな組み合わせを『発見』しているだけなんです」と。こういう腐女子をこそ僕は一流と賛美したい。

 前も書いたけど、腐女子の本質っていうのは「解釈」と「激情の暴発」であって、「欲望」ではない。少なくともそうあるべきではないと僕は思っている。たとえば何か漫画を読んでいる時に、「おいおい待てよ……どう考えてもこの二人はデキているだろう……そうとしか思えない……なぜこのタイミングで二人同時に姿を消すのだ……」とかいった「解釈」がまずあって、その気持ちが蓄積してやがて「激情」となり、「このエネルギーをどこかにぶつけなければ!」となって、「暴発」する。その結果生まれ落ちるのが、二次創作なのである。べきだと思う。僕は。
 それがなんですか? 最初からホモってるような漫画を読んで何が楽しいんですか? あんたそれ、ただエロいだけでっせ。性欲を「腐女子」のせいにすんなよ! とかまあ、割と思ってます。手段と目的がひっくり返ってる。

 いつも思うんだけど、安易にセックスを描くBLを僕は二流だと思うんです。それは男性向け(男女のエロ)や商業誌の作品でもそう。「あなたにとっての理想の関係はセックスだけでしか描けないんですか?」ということね。あいつら、「男同士の素敵な関係」をセックス以外の手段で表現するだけの想像力がないんだよね。だから安易に肉体を使うんだよね。そうじゃないんだよね。本当は、一緒に弁当食ってる姿を描くだけで十分だったりするのにね。
 ドラゴンボールでたとえますよ。悟空とベジータのホモ漫画を描きたいんだったら、セックスさせる必要はないんですよ。一緒にメシ食ってるとこ書くだけでいいんですよ。ちょっと前にグミのCMで、ベジータが悟空に「グミくれよ!」って叫ぶやつあったじゃない。あれでいいんですよ。本質的には、セックスは腐女子の必修事項ではないはずなんです。あれは「性欲」の発現でしかないから。あるいは、関係を描くための一つの手段だから。あくまでも「たくさんあるうちの一つの手段」だから。恋人同士は、セックスだけで繋がってるわけじゃなくって、一緒にご飯食べたりするわけでしょ。いっぱい喋ったりもするでしょう。素敵な関係であれば。そういうところを描かなくて、なにがボーイズ「ラブ」なのかと。てめーらが好きなのは「ボーイズ・セックス」だろ!

「据え膳」とは「労せずして得る」ということだ。「労せず」というのは「過程をすっ飛ばす」ということで、すなわち「目的だけを得る」ということ。そうするとどういうことが起きるかというと、手段と目的が一体化して、さらには転倒するんですね。
 目的は「ラブ(愛)」で、「セックス」はその手段にすぎないはずだった。本来「据え膳」というものは「目的だけを得る」なので、「ラブ」だけを描けばいいはずなのだが、「ラブ」を描く力量のある書き手はそうそういない。ここが問題だ。
 力量がないと、どうしても「ラブ」よりも「セックス」の比重が大きくなってくる。簡単に描けるから、描いてしまうのだ。そして困ったことに、セックスさえ描いてしまえば「ラブ」をも描いているような気になってしまうのである。そうすると、手段であるはずのセックスが目的を浸食し始めて、いつの間にか手段と目的との区別がなくなる。手段であったはずのものが目的になってしまう。そしてセックスばかりになる。ラブはどこにいったんだ? セックスから勝手にラブを読み取るのは、本当に愚かしいですよ。セックスさえすればそれだけで「相手からの愛」を感じますか? 「私は愛のあるセックスを描いている!」と思うのならば、「セックスのない愛」を描いてみてください!

 と言いつつ、僕はセックスだけを頑なに描き続けながら、その中に膨大な熱量の愛を実に見事に封じ込めている漫画家を知っている。ゴージャス宝田先生である。あの人の中では「セックス」と「ラブ」は不可分なものだ。しかし「セックスとは切り分けることのできない愛」を描くというのは、本当に難しい。それこそ素人にはそう簡単にできるものではない。それができている作家を僕は心から尊敬します。本音を言えば、僕はセックスと結びついた愛を力の限り愛しているので。

 セックスだけを描くことによってラブをも描いてしまおうなんていう、怠惰なことを考えてはならない。それは不可能である。ラブによってセックスを描くことも、たぶん難しい。セックスを描きたいなら、「ラブと一体化したセックス」を描かなければならない。しかし、それを描くことができれば、真に名作だということである。『ラブロマ』と、『キャノン先生トばしすぎ!』と、『ナニワ金融道』と『ナチュン』(!)と……、知る例は数えるほどにしかない。
「据え膳」というのは、このような手抜きのことを言うのではないかと思う。ラブをすっ飛ばしてセックスをする、ということである。ラブはラブ、セックスはセックス、そして、ラブ&セックスはラブ&セックスなのである。

2012/07/04 水 丙寅 ナニワ金融道が名作たるゆえん

 今日は「朱美」についてのことだけに絞って少しだけ。
『ナニワ金融道』は28歳の灰原達之が帝国金融という金貸し業者に就職して、大阪一の金融マンを目指すという筋。この作品の評価はもちろん、「金」とそれにまつわる「人間」を描いたというところなのだが、「男女」を描いた作品でもある、と思う。
 物語の中盤で灰原に朱美という恋人ができる。それ以降、朱美はたびたび登場するのだが、その「たびたび」の登場の中で、灰原と朱美との関係や、二人の関係と仕事や世の中との関係といったことが、かなり深く描き込まれている。
 僕はたぶん、「金と人間」を描いたというだけではこの作品をこれほど好きになっていなかっただろう。青木雄二先生は同時に「男女」を描いているし、「一組の男女と、その外側との関係」をも描いている。初めて読んだ時に小学生だった僕がそこまで読み取っていたかどうかは知らないが、たぶん何か感じるところはあっただろう。僕は意外と直感の人なのだ。
 また見方を変えて、「朱美という女」の描かれ方だけを見ても、この作品の圧倒的な魅力の秘密がかいま見られる。

 朱美は前身に刺青の入った、「過去のある女」だ。気丈で度胸も座っており、頭も気もよく回る。刺青ははじめ、もちろん彼女にとっても灰原にとっても「マイナスのもの」として描かれる。しかし物語の途中で、刺青によって二人が救われるという場面が描かれることによって、刺青の「マイナス」は相殺されてしまう。
 刺青にまつわる過去が、二人にとって明るいものではないことは当然である。しかし、二人はそれを受け入れて生きていくことを決めた。だから、利用できるところでは利用する。『ナニワ金融道』に描かれていることを一言でいえば、「生き方」である。「過去」を、いかにして「未来」に変えていくか、ということである。「経験こそが人生の本質である」とちょっと前に書いたけれども、人生というものは、過去の負債をひっくり返すためにあるという言い方もあるのである。生まれながらに貧乏くじを引いてしまったような人間だって幾らもいるが、その時に目の前にある何十年という長い時間は、いつの日かそれをひっくり返すために用意されているのかもしれないのである。(似たようなことは橋本治さんの『青空人生相談所』にも書いてあった。)

 また、長くなるので詳しくは書かないが、灰原と朱美は「尊敬」と「信頼」で結ばれた素晴らしいカップルである。男女間の「尊敬」と「信頼」は常にワンセットでなくてはならない、という戒めも、巧みに作中に織り込まれている。そして、「尊敬」と「信頼」で結ばれた二人であるからこそ、二人は生きられるのである。かたや金融屋として幾多の苦難を乗り越え、かたや「過去の負債」による借金を地道な労働で返し続ける。もしもお互いに巡り会わなければ、どこかで力尽きていたかもしれない。酒に逃げていたかもしれない。別の異性と付き合っていたとすれば、振り回されたり、再び騙されたりしていたかもしれない。二人は二人になれたことで、「生きる」ということに真っ向から立ち向かっていくことができるようになった。これが「家族」というものの本質であろう。そういうことをはっきりと、力強く描いているから、『ナニワ金融道』は永遠に名作だと言うのである。

2012/07/03 火 乙丑 さらにメモ。

 ナニワ金融道、五日間くらいかけて読み返した。時間かかったなあ。それについて。それから、これは日記に書くかどうかはわからないけど、秘密によって場を担保するということや、開花することでしか全うされない少年の感性のこととか。
 昔の自分の抱えていたコンプレックスのこととか、現在の自分についてとか。いろいろね。
 それにつけても時間のすばらしさよ。こないだまた『未来ドロボウ』や『あのバカは荒野をめざす』を読み返しておいてよかった。

2012/07/02 月 甲子 メモ代わりに。

 ナニワ金融道を読み返して考えた「信用」についてのことと、朱美の刺青についてのことと、カイジを読み返して考えた「自力を信じる」ということについて書きたい。やっぱり名作は読み返してなんぼですなあ。
 それから、昨日の記事を読んでくれた信頼できる腐女子と開いた緊急会議の中でわかった「据え膳」についてのことと、「アゴ=チン」であること(△と○について)、サルとバナナの関係についてなど、書くことがたくさんある。放っておくと何年も放っておいちゃうからな。やっぱネットラジオとかやって、考えていることを垂れ流すタイムを週に一度くらい設けたいものだ。都合のいい相槌役がいてくれたらいつでも始めたい ですよ
 あとヴィジュアル系におけるDir系とPierrot系とか。破滅と絶望と磔の十字架と、優しさと希望と祈りの十字架など。
 ヒマなんだけど忙しいねえ。秋から春にかけては、仕事量が去年の倍になるらしいのでほとんど時間がなくなる。あと三ヶ月で何ができるかなー。

●まなびストレート、オールナイト上映のお知らせ

 超名作アニメ『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』のオールナイト上映が池袋・新文芸坐で催されます(7/14(土)22:15~)。この作品を劇場で見られる機会は(徳島県を除いては?)永遠にないかも。わずか2300/2500円で見られるので、TSUTAYAでDVD7本(13話分)借りるより安いかもしれませんよ! まだ前売りはあるようだし(ぴあになかったら劇場に問い合わせを)、当日券も出ると思うので、予定が空きそうな方はぜひ。どんなアニメや? と思った方は、僕が昔作った恥ずかしいサイトを見てください。(総論とか恥ずかしいから書き直したいわー、ここは飛ばしてもいいです。えー、ところがこのサイト、内容はほぼネタバレなんですけれどもね。)
 当日はオフ会も開かれます。というか僕が開きます。19:30~開場前まで、サイゼリヤ南池袋公園前店で行います。19:25に入口前に集合、遅れる方はまなび関連物がある席を探してください。「芝浦」という名前で予約しております(本名じゃないよ!)。参加希望者はmailからメールでもください。もちろん、オフ会だけの参加も歓迎です。
 まだ見たことがない方はもちろん、一度は見たという方にもおすすめです。僕はもう十周以上見ていますが、未だに見るたび新たな発見と感動があります。二度、三度と見るごとにどんどんこの作品を深く知り、わかり、好きになってきますよー。
 人間が、二十一世紀を生きるにあたって大切にすべきことが、このアニメには描かれています。
 ちなみに、2009年5月に僕が作った「まなびストレート!☆徹底解析☆」というコピー本(通称・まなび本)は、三度目の改訂を施して7/14に持参する予定です。欲しい人は声かけてください。

2012/07/01 日 癸亥 なんで僕はももクロにはまらないんか

 おぱんぽんさんのバーに行ったらなんかの番組にももクロが出てたんでじっくり見た。なんで僕はももクロにはまんないのかと思った。隣にいた後輩が「最初にPV見た時は凄いと思ったんですけどねえ」と言って、それ以降は興味が減っていったという旨のことを話していて、僕もだいたい同感だ。

 僕が思い出したのは、とある腐女子の名言で、曰く「据え膳は食わない」と。この場合の「据え膳」というのは、「どや! この男の子たちカワイイやろ! この二人の関係萌えるやろ! あんたらこういうの好きやろ!」とでも言いたげなくらい、あからさまに「BLファン狙い」の作品(原作)のこと。(と僕は解釈した。)
 僕はそもそもBLファンではないが、しかし『まんが道』に萌える心情は理解できるし、むしろあれを読んで満賀と才野の関係に何も感じない人の神経を疑いたくなる。もちろん、僕はそこに「ホモ」を見いだすというわけではないし、そういう同人誌があったら「バッカじゃねーの」と思うだろう。ただ、二人の関係があまりに素晴らしいということは間違いがないので、萌える人たちの気持ちもわからなくはない。
 このとき、『まんが道』は「据え膳」ではない。作品自体が「さあ萌えろ!」と言っているわけではなく、二人の関係の中に人類普遍の真理としての「美しさ」があって、たまたま腐女子がそれを「萌え」だの「ホモ」だのとして受け取ってしまっただけだからである。解釈はおかしいが、掴んだ本質はそう的外れではない。
 僕は個人的に、BLというのは「解釈の結果」とか「説明不能な激情の暴発」とかいったものであるべきだと思う(まあ詳しい人や当事者からは反論があるんでしょうが)ので、「こんなものはいかがですか?」「いいですねえ」といったようなのは、形式にとらわれた愚かな堕落であり、「美しさ」という本質を見失っていると考える。

 で、ももクロってのはある意味本当に素晴らしいグループなんだけど、「据え膳感」がハンパない。一人一人はとても個性的で才能に満ちたいい子たちなんだけど、プロデュースの仕方が、あからさまに「こういうの好きなんだろ?」と言っている。
 曲はとにかく変で、複雑で、熱くて、前向きで、エネルギッシュなもの。衣装はアニメのコスプレっぽく、パフォーマンスは質としては実にすばらしいんだけど、たまに「アイドルだけどこういう振りも採り入れてみましたよ」といった感じの、きわどい(がに股とか)ものが出てくる。変顔したりとかもそれ。
 モー娘。や、他のアイドルだってやっていることは似たようなもんだけど、そもそもアイドルってのは基本的に「据え膳」なんですよね。ももクロも例外ではないという話で。だからなのか、僕はアイドルを好きになったことがほとんどなくって、好きになるとしたら「歌手として好き」ということにしかならない。吉田真里子さんとか小倉優子さんとか。

 据え膳ばっかり食ってると、本質を見失うのですよ。同人誌読むヒマあるんだったら原作読み込めって思いますもんね。僕は二次創作を「書きたい」と思う気持ちはわかるけれども、「読みたい」と思う気持ちがわからない。原作を読めばいいのに、と思うんだけど、要するに彼ら彼女らは原作をそれほど「面白い」とは思ってないんですよね。作品の質なんかどうでもよい、二次創作が面白くなればいいのだ、っていうことになると、いよいよ「本質ってなんだっけ?」になる。あなたたちはそもそも何が好きなんですか? と。(腐女子の中でも特に邪悪な人たちは、そもそも漫画なんか好きじゃなかったりするんですけども。僕の友達には狂ってるけど善い腐女子がいますが、彼女はちゃんと漫画が好きなようで安心します。)
 フォローを入れておくと、「(同人誌を)読みたい」と思う動機のいくらかは、「それによってコミュニケーションを取る」という楽しさがあるんでしょう。それは現実的な意味でのコミュニケーションだけではなく、「二次創作そのものによるコミュニケーション」も。抽象的だけど、そういう不思議な感覚が、あの世界にはありそうな気がする。そういうのは僕は、わりと好きです。「あー、その手があったか!」なんて思ったり思わせたりするのは、非常に楽しそうだ。

 ももクロに戻ると、自己紹介やあいうえお作文なんかも、あからさまに「こんなんどうですか? 好きでしょ!」って感じ。どうしても作られたもののような気がして、彼女たちの身体の奥底、魂からわき出てくるような感じがあまりしない。まあ、僕の個人的な見方だし、「楽しそう」なのは間違いないんだけど。そこは本当に素晴らしいと思うんだけど。
「歌(ヴォーカルという意味)」やパフォーマンスそのものだけを見れば、「身体の奥底からわき出てくるような感じ」がある。だからこそ僕は「もう一歩で好きになる」と思う。余計な装飾はとっぱらって、アニソンみたいな曲の路線もそろそろ変えていったら僕にとってはもっと素敵になる。『もってけ!セーラー服』と水木一郎を混ぜたような曲ばっかりやないか! と言うと言い過ぎかもしれないけど、「変なアニソン」も「正しいアニソン」も聴きまくってきた僕としては、あんまり面白みはない。パフォーマンスを除けば『こいこい7』の『SUPER LOVE』(林田健司作曲の名曲)以上のものではない。個人的な希望としては、『呂布子ちゃん』の『Doki!』(文句なしの名曲!)みたいな路線をももクロに歌ってほしいなーとか思うんだけどな! アニソンだけど。そしてこれでは売れないでしょう。しかし僕は熱狂的なファンになるでしょう。なんかね、好きな曲をももクロが歌ってるところを想像するとにんまりしますよ。だから、彼女たちのことは好きなんだよね、たぶん。
 本当に今日の記事は、単なる僕の個人的な趣味の話です。

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