2003年7月の行い(Jacky)

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相変わらず下らないラジオが流れるし
高校生は愚かな文章を書く。


自分専用の言葉だけでしか文学ができないのなら三流だ。
特別な言葉を使わなくてはならないなんてボキャブラリーが貧困な証拠。
ついでに言うなら、憎しみは不快感しか産まない。
MegのGROOVE TUBEを聴いた。The Flipper's Guitarのカバー。
新しい存在としての要素は欠片もない、二流カラオケ機種のよう。
どうしてこうも退化できるんだろう?
エネルギーに任せて同じ言葉を繰り返し叫び続けてきたこの僕だけど
若さを武器にしすぎていた、僕ももちろんそうだし、あなたたちだって盲目すぎた。
汚くて。
自分のくだらなさを認識できるようになれたらいい。
つまらないくせに偉そうだから
才能も意欲もないくせに、中途半端に表現の世界に踏み込む。格好良い気になってみる。
そういう枠組みを俯瞰できるように早くなれるといいのに。


もう随分と前になるけど、ある日、ワクグミマンがうちにやってきて、パラダイムという単語を教えてくれた。お礼にオヤスミマンを献上した。パナマウントという単語の意味はいまいち理解しきれなかった。どうでしょう。あなたの家には、ワクグミマンが参上しましたか。
広がっていくパラダイム、と少し前の僕ならば書いただろう。それは、詩のようなふりをしたかったからだ。でも、広がっていくパラダイム、という言葉は、意味として、パラダイムが広がっていく、という言葉に他ならないのであって、それは詩ではない。他の言葉で代替の利く言葉が詩であろうはずがない。いい気になっていただけだ。ひねろうとしてひねること。文章をひねりすぎると、ひねることばかりに躍起になると、そのひねり方が通例化する恐れがある。文体が村上春樹のようになってしまうかもしれない、上手なんだけど、ねちっこくて、これ見よがしな感じに。本当にいい文章は自然な形をしているものだろう。
君たちが何かを越えたいと願うとき、まずそれに近づこうとするのは何故だ?どうして越えるために遠ざかっていくことを思いやりもしないのだ。例えばとある尊敬する人物への自己同一願望というのは、越えようとして近づいていく志向であるが、近づこうと考えるのは危険ではないのか。近づこうとする志向は目標を「極限」的な位置として定め、永遠に近づき続けていくということだ。だとしたら君たちは、近づこうと志向する限りにおいて、一生その目標に達することはできないし、また達することができたとしても、いったい何人がその後の舵取りを征服できるのであろうか。目標《ターゲット》を到達地点として定めてしまうということは、自らの範囲をも限定してしまうことに繋がりはしまいか。
文字と絵画の互換性について。絵画は文字には成り得ないけど、文字は絵画に成り得る。
坂道で、電動アシスト付き自転車にのったおばさんに追い抜かれた。
心臓の形は誰も似通ったかっこうをしているが唇は、千差万別。
歴史というのは時間の存在を肯定し、それを前提とした概念なのかもしれない。ということは、歴史を考察する上で最も重要なのは四次元的な視座を身につけることだと思われた。どうも自分は三次元的な枠に囚われすぎている。小さな箱の中に閉じこめられているのだ。「人間の精神は入子型構造をしている」と僕が唱えるのにはそういった意味もあるのかしらん。
今日は幾つかの新しい枠組みを手に入れることができた。「枠組み」という言葉自体が実は余り好きではないんだけど、便利だ。まず、文学というのは、いや、文学に限ったことでもないが、枠組みと細部が対話を交わすという性質がある。物語の細部が枠組みを形作り、解釈を左右するというのは当然の話だが、逆に解釈が自らに都合の良い枠組みをでっち上げるために物語の細部を左右することもあるということだ。これは大学の「文学」の授業で得た。次に、歴史に対する四次元的考察のパラダイム。意外に思われるかもしれないが、もちろん赤面は伴うにしろ、僕はこの言葉が嫌いではない。三次元世界には限りがある。宇宙を三次元と定義するのであれば、宇宙は決して無限ではない。四次元というのはたいてい、三次元と呼ばれる「空間」に時間の概念をプラスして出来上がったものと定義される。ドラえもんの四次元ポケットというのをわかりやすく説明してみよう。ここに箱があるとする。その箱の大きさは時が経っても変わることがないとしよう。しかし、現在の箱と、一秒後の箱と、二秒後の箱と、三秒後の箱と、といった具合に、時間の概念をそこに持ち込んでみれば、どうだろう。あらゆる時間において箱が、すべて同じ「四次元」という場に存在するならば、箱の大きさは無限大になる。ポケットの中の空間というのは実に狭苦しいものではあるが、ポケットの内部を四次元的世界であると定義するなら、そこに広がる空間の大きさは何にも束縛されることはない。ところで問題は、例えば箱なら箱であるが、四次元世界においては、その箱は定まった形状をしていないということである。現在の箱と一秒後の箱では多少なりとも差異は存在し、その僅かな差異が際限なく繰り返された結果、数十年後かにはもとの箱の面影さえも危うくなっているのだろう。また、四次元において箱は、箱でなかった時代をも包括して箱なのだという捉え方も存在することを忘れてはならない。万物は流転し、歴史の中で同じ形をしていることはない。刳り抜かれたとある一時代の風景を、そのまま別の時代に当てはめることはできない。すべて歴史と呼ばれるものは、そのようである。歴史は四次元的に考察しなければならないのだ。簡単に言えば、千年前にそれがそこに存在したからといって、九百年前や八百年前にもそれがそこに存在したと考えるのは、ナンセンスなことだ。大陸すらも移動をするのだから。お茶の水大学だって、昔はお茶の水にあったのだし。
二日や三日がとても長く感じるのならば、作戦は成功したと言っていい。僕は広大な枠組みの要求される思考を重ねているつもりであるし、今回からはその量も三十倍になり、一通りでない。偉そうに聞こえるだろうが、一ヶ月間を有効に、とでも言っておく。ここに記された概念や枠組みを全て理解するのなら、少なくとも僕と同じかそれ以上の土俵に現在立っているということがいえる。仲間が欲しいと最近思う、他人の心が覗けない以上、自分と似通った思考体系を有する人間を見いだすのは難しい。この月記が足がかりになるのなら、それが一番よい。
読書の際にイージーな書物を選んで読む、ということに、思想があるということを知った。これも新しい発見。いつか整理がつけばまとめようかと思う。


いつも空回りをする。僕のやっていることと言えば、高校時代と何一つ変わらない。調子に乗ったそのあとで落ち込むというスタイル。そのサイクル。
嫌うべき表現を全て排斥した後には芸術が残らねばならないのに、なかなか難しい。
堅いだけが全てではないのに。
下らないことを発見する能力に自分は長けていると思う、というより、下らないと思うようなことが僕には多い。だけど無意識のうちに自分がその下らないものの中でにやにやしているということは意識できる、ただ、意識はできても解脱することができない。


極楽とんぼのラジオを聴いてみた。開始ゼロ分で大喧嘩。屁をこいたこかないで大喧嘩。それが10分か20分くらい続き、四方山の話をして、コーナーに移ってだらだらとやっていたら石橋貴明さん登場。突然乱入し何もかもをぶち壊していくこの人は凄い。生放送をやらせたら天下一。数年前の27時間テレビで企画そのものを粉々にうち砕いて最高の笑いを生み出したこの男。まさに破壊神。このラジオでも結局その登場から番組が終わるまでの約一時間は貴明さんが一人で番組を仕切っていたようなものであった。素晴らしい。極楽とんぼに山本は必要ないと豪語しリスナーからファックスを募る。空気の読める偉大なリスナー達は山本を徹底的にこき下ろす。その中で70歳の山本ファンが電話で弁護する一場面があったがしかし貴明さんは…最強でした。あっぱれとんねるず。あっぱれ石橋貴明。あなたって神。お笑い神髄。サンクス。


「起きるべきか寝るべきか、それが問題だ。」
「馬鹿!寝るなんて言うな、お前は起きるんだ!」
「もう…起きてたっていいことなんかないよ。これからもこんなふうにつらい生活が続いて行くんだったら、いっそ今のうちに寝ちゃったほうがいいんだ。」
「起きたくて起きてるわけじゃねえよ!別に寝る理由なんかなんにもねえから、なんとなく起きてるってだけ。」
「おれ、もう寝たいよ!起きてるのが苦痛なんだよ!」
「寝た人間は二度と起き返らないんだ。」
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、寝て、寝てたまるか、寝てなんかたまるもんかよ…俺は、俺は、俺は、起きるんだ!」
「おれが起きてて得をする奴はいないけどよ、おれが寝たら喜ぶ奴がいるんだよ。」


誰かに嫌われていると実感することは辛い。軽んぜられていると実感することは辛い。その人が本当に自分のことを嫌っているかとか軽んじているかとか、そんなことちっとも問題ではない。
僕が普段から叫び散らしている様々なことを、気付いているのに黙っていられる人たちがいる。格好良いと思う。かと思えばその人がとても下らないことを鬼の首でも討ち取ったかのように大々的に発表し偉ぶっている姿を目にしたりする。或いは全く気付いていないのかもしれない。だけどもしその人にとても美しく機知に富んだ文章を書く能力が備わっていたのだとしたら、僕がこうして普段考えたり叫んだりしていることって全く無意味。
世の中で最も信用できない人間は、自分が愛していたり、尊敬していたりする人間だ。彼らはみんな、一様に僕のことを心から嫌っているに違いないのだ。
偉そうにしてるのは開き直っているのです。開き直ることが恥ずかしいことはわかっています。それすらも開き直ってみようということで、って実はその「開き直ることを開き直る」という言葉をさも「どうだ面白い言い回しだろう面白い考え方だろう」とでも言わんばかりに言い立てたり書き立てたりすることはめちゃくちゃ恥ずかしいことなんですがそこらへんまでを全て自覚した上で【この数行を書いてみよう】というのですよ。ああ恥ずかしい。
マッハ赤面。
「あたし、あなたのこと昔からずっと好きだったの。」「昔って、どのくらい?」「二光年前くらい」


Web日記において。書いたものがリアルタイムでWeb上に反映されない場合、要するに今のこのページのように、最大一ヶ月のモラトリアムが用意されているような状況では、その文章は即効力を持たない。これは重要。Web日記の特性を利用した緻密で卑俗で巧妙な技術、=不特定多数の人間にわめき散らしているフリをして、実は特定の個人だけに向けて、その特定の個人が喜ぶような文章をでっち上げて、その特定の個人が自分のことを快く思うように仕向けたり、心配させたり、おっとりとさせたりする。そういうことが容易に可能。僕くらいになると、特に。しかしそれがとっても汚くて卑しい手段だって僕は知っているから、ここに罪らしき罪は全くないのだと思う。問題はそのことの低俗さに気付かないで偉そうにただ気持ちよくなってるだけの人。自覚がたぶん、もっとも大切。つまり、僕が日記更新スパンを引き延ばしたことによってある程度はその利己的個人狙い打ちメッセージの作成を回避することができているんじゃないかなと思うわけだ。ただ、批評も同時に遠ざかっていくということは忘れてはならない。欲しい、批評。
ついてきてますかー。
今の僕は文章の中に引用句を隠したりとか、特定のごく狭い限られたジャンルでの教養を持った人間にしか理解できないような文章は、書いていないつもり。だから、もう読み手にも言い訳の理由はなくなったと思うし、もちろん僕にとっても、それは表面的な知識での武装や不可解な語彙構成・無駄な改行・知名度の低いカタカナ語などによる「はぐらかし」が不可能になったということだから、赤裸々。どうなんだろう。僕は意図するしないに関わらず、意味不明な文章しか書けないのだということが露呈しただけのような気もする。
ところで、今日挙げたような理念は気分屋の僕のこと、明日になったら全く無視して文章を書いているかも知れないし、それどころか、明日突然に日記更新ペースを以前のように戻すのかもしれない。全く迷惑な性格。


僕の知り合いで、Web日記をやっている人が数多あるけど、そのWeb日記の中の、数割は、僕の今まで書いてきた文章の真似、である、とまでは思わないが、とりあえず僕の今まで書いてきた文章に「酷似」してきている、ということは絶対に、誰にも否定はできないはず。今までは、余りに偉そうになるので明言は避け、日陰からちくちく、彼らへのメッセージを暗に巡らせ続けてきたが、今回はちょっと開き直って言う。それは登場する単語そのものをとってもそうだし、文体はもちろん、造語や引用の精神とか、「読み手のだまし方」や「知識のひけらかし方」といったインチキ手法、果ては似非イリュージョンの現出術に到るまで(ちょっと大袈裟に、かっこよさそうな表現に変換しています)、その酷似性は実に幅広くそして確実。僕は自尊心を保つためにこう思うことにしています。「俺のほうが素晴らしい」と。
で、僕が丸三年続けたスタイルを変えてみようかと思ったのはそのためなんですね、そりゃその「数割」の内の更に何割かは明らかに僕の影響を受けていて、中には「ハイぱくりですヨ」なんて自分から認めちゃうような奴だっていたりするんだけど、それでも僕が「似てるな」と睨む全員が全員、そうであるとは言えないわけだし、おまけに、自分でぱくりだと認めちゃっている人々をとってみても、彼らの文章は必ずや、彼らの生きてきた全てが詰まっているものであり、基本的には彼らのオリジナルであるのだから、僕が気にしている表現や手法の多くは恐らく、僕とは何の関係もないところで集められた材料で、僕の知らない思考過程を踏んで、だが結果的に僕の文章に酷似した形として表出している、というだけ。何が言いたいのかというと、「結局はWeb日記なんて、誰が書いたって似たような形式に落ち着くんだ」と。この考えに辿り着いたのは随分と前のことだと思うが、今まで言っていなかったような気がするので、言う。つまり僕が自分のオリジナルだと思ってやってきたことは、確かに自分のオリジナルではあったわけだけども、しかし同時に、他の多くの日記作者たちにとっても、同様にオリジナルであったわけだ。僕の考えてきたことや、やってきたことというのは、考えてみれば当たり前のことだが、ごくごく在り来たりなことで、誰にでも思い付く、くだらないワープロ遊びに過ぎないわけだ。そしてこのくだらないワープロ遊びにとどまり続ける限りは、本当は文才に乏しい他の作者たちと肩を並べ、同じ土俵で戦い続けなければならないということで、確かな苦痛がそこにはある。僕は毎日、他人の、素人の文章を覗き見ては、しかめっつらをしている。なんて語っているのだろう!と。それは自らが、過去を振り返って赤面することとよく似ている。そしてたぶん、僕よりも進んでいるだろう何人かは、僕の文章を見て赤面して、軽蔑しているんだろう。そう考えると、余りにも虚しい。それだから僕は、何かもう一歩だけ、冷静になれる眼が欲しかった。というわけ。
ちなみに改行を少なくすると、かなり文章のメリハリが問われるようになる。今更だが痛感してしまった。今まで以上に語尾や語調に気を遣わなければならないが、面倒くさい。
「近代文学と映画」という授業に、小説家の星野智幸さんがいらっしゃり、これまでに執筆された自身の作品のうち幾つかを、映画との関連を交えて解説し、朗読までされて、おまけにメキシコでの生活についても語られて、非常に興味深い講演だった。ラテンアメリカ文学に対する興味が押さえきれなくなり、すぐに感化される男だと揶揄されるかもしれないが、メキシコに行きたくなってしまった。しかしそれよりも、得られたことと言えば、星野氏が映画に関連する、決して新しいわけではないのかもしれないが、斬シンで実験的な文学的手法を、意識的に、かつ強欲に採り入れているという点への、彼に対する新しい驚きと、更なる好感であった。なんというかね、意識して文学できないといけないと思うのですよ、いけないというよりは、楽しくないというか。とある芥川賞作家が、「書くものの根底にあるものはいつも同じだから、文章を書く上で迷ったり、行き詰まったりすることは絶対にない」とおっしゃっていた。そういう態度も理想ではあろうが、僕が好きなのは、もっと、苦悩の上に苦悩を重ねて、絞り出された文学的思惟を、鮮やかにして華麗なる文体で描ききり…みたいな、青臭い表現なので途中で止めたのだが、まあそんな感じ。星野氏の作品に対する態度は本当に素晴らしかった。手法自体はフランスやラ
テンアメリカの作家たちをモチーフにしたものが多いようだが、それは「輸入」と言ってしまって良いのかも知れない。途轍もなくためになった。早稲田大学に通って良かったと思った。
偉そうな女の人を見た。いや、「偉そうな」というのは僕の主観により捉えられた彼女の「雰囲気」であって、言動が偉そうだったわけではないのかもしれない。どうにもこうにも。分析がしづらいが、なんか、偉そうだった、というか、これ見よがしであった。金持ちの男と付き合っている、という事実は、使いようによっては大爆笑を生めるのではと思うのだが。「自分はオトナである」という主張を支持するための、主張が、よっぽどあからさまで、萎える。
卑劣で愚劣で下劣なキテレツ。

10
12歳が4歳を殺したという事件に関連して、遺族が、「少年法を改正してほしい」と語っていた。要するに、このガキを罰せよ、殺せ。ということだが、この人はたぶん、『ドラえもん のび太と海底奇岩城』を観たことがない。観たとしても、楽しめなかったのだと思う。報復ということ。それ自体の悲しさに気が付かないのかと思う。ところで、ここで僕は、自分を棚に上げている。基本だ。ずっと主張しているのだけれども、もしも「棚上げ」をすべて禁止したら、いったい誰が他人を、たしなめられようか?
最近僕の中での名言が生まれた。「おつかれなさい」。
「徹夜」で語り合ったりすることを僕と、僕の友達の女の子は「庚申を守る」と言っていて、昨日僕らは庚申を守らなかった。「守庚申」という行事について知らない人があれば、調べてみたら面白いかと思う。僕は喋ることが多い。たくさん喋る。偉そうに喋る。語ることがやっぱり、色々なことを整理したり、記憶を定着させたりするのには都合が良い。僕が求めているのは最良の聞き手なのかも知れない。だから僕は、常にみんなに、頷いてくれることを期待している。
りんごの果実が、りんごの木に「なる」。果物などが木にぶら下がっている状態を、「なる」と言いますが、では。「この木、なんの木、木になる木」とすると…想像できます?これ。
理系。言い尽くされてきた議論というのは、いちばん価値があるのかも知れないと思った。なぜならば、言い尽くされてきた議論における新しい発見とは、本当に新しい発見であるはずだし、その他にも幾つか要因があると思う。それで今日は、例の如く、「文系」の視点から「理系」について考えてみた。文系の捉える「理系」という概念は、定義が難しい。どうしてかと言うと、「理系」という定義は「理系」という概念が存在するという「仮定」を立てた上で初めて、帰納法的に導き出されると僕は考えるからだ。文系の中には「理系」がこういうものであるというアバウトで抽象的な一次的な定義があり、それに基づいて現実の具体的な人物をその中にカテゴライズし、名簿に挙がった人々の「性格」(ターム〔術語〕化してます)を帰納して、そうして出来上がるのが「理系」の二次的な定義、になるんじゃないかと。そしてそのどちらの定義も、負けず劣らずアバウトで抽象的であり、個人の主観によって差異は広がる。なんて、今日の本筋とは全く関連のない「よたっぱなし」が長くなったが、ところで本題。母校となる「向陽高校」の愚昧なる女教師が、「現代文」の読み解き方について、このような説明をしていた。「評論はその場、その場の表現だけを見ればある程度は読み解けるけど、小説は最初から最後まで全ての表現が関連している」この女教師は愚昧ではあったが、時にはこのように僕の脳内に何らかの言葉を刻みつけた。つまり小説は、あるところで登場した表現が「伏線」となって、数千行を飛び越えて別の地点で作用する、ということが起こりうる。だから、読者はその小説に登場した全ての表現や行間の感触を覚えていなければならない、ということになる。ここで「理系」に関する話に戻ると、仮に「理系」(もちろんターム化している)があまり読書というものをしないのであるなら、このような、「小説」の特性であるところの「伏線」を張ったり、或いはそれを見抜くという能力が「理系」の中には養われていないのではないだろうか?くだらない邪推を持ち出すならば、もちろん全くないとは言わないが、数学に伏線を見いだすことは難しい。少なくとも文学的な伏線を見いだすことは困難であろう。数学とは文学とは別の次元の芸術じゃないかと僕は考えている。して、そういったことを考えていて今日、僕と同じ「国語国文学科」の男友達と話していて、「理系には言葉遊びができない」という言葉を男子校出身のその男から聞いた。「理系」が「伏線」を知らないのであれば、会話の中で「言葉遊び」を試したり、前の話題に出てきたネタを次の話題にも引っぱり出して、そう、久々に引用を使うなら「二つに分かれたストーリーが新しい世界を作る(cornelius『太陽は僕の敵』)」、こういったことができないというのは至極、得心である。だから「理系」の奴らはテレビとマンガと女の話、それもごくごく表面的で、芸術的な香りの全く感じられぬ話題のみしか振り回せないのではないかと思う。ところで、もうわかっている人にとっては退屈かもしれないけど、僕が「理系」という言葉を術語的に使う時には、一つの重要な、読解に必須である「クセ」があるということを、これを読んでいる方々の脳味噌には留められていて欲しいと願う。なんか文句のある人は、その辺ちゃんと汲み取った上でなんか文句を言って欲しいんだけど、無理だったら無茶な文句でも聞き入れたいと思います。一応。
わかりにくいかなあ。具体的に説明します。「理系(一次的定義)」→「小説を読まない、etc.」→「理系(二次的定義)」という枠組み。そして更に言うと、導き出された「二次的定義」はその基盤となった「一次的定義」と全くの同義であって、「二次的定義」が導かれると言うことは帰納法上の「仮定」である「一次的定義」の「証明」ということなのです。「二次的定義」が成立した瞬間に歴史が変わったみたいに、「一次的定義がもともと定義されていた」という状態になって、仮定が仮定ではなくなり、「小説を読まない」という要素が「一次的定義」の中に既に取り込まれている状態になるわけで。
まとめ。「理系(一次的定義)」→「小説を読まない、etc.」→「理系(二次的定義)」=「理系(一次的定義)」⊃「小説を読まない、etc.」
要するに「再定義」が行われるわけだ。例えば、「あいつは理系だから本なんて読まないだろう」と言ったとき、その時点で「理系とは本を読まないものである」という定義が生まれ、「あいつは理系だから話してても面白くない」と言った瞬間に、「理系とは話しても面白くない人々のことである」と定義されてしまうわけだ。これはジョン・デューイの言う「経験の更新」というものに類似している。たぶん後述。
これ、実は月末に一部書き足してるんだけど、なんかちょっとわかりやすくし過ぎちゃったね。これじゃ差がつかない。

11
三周年。それに気付いてメールをくれた方が。有り難いことです。この文章を当日に公開していたらきっとめちゃくちゃいやらしいオーラを放っていたことであろうと考えると月記の効力恐るべし。
一昨日の話に関連して。某サイトの目安箱とやらに「僕って白居易?」なる言葉を書いた。管理人はこの言葉を解読してくれたのであろうか。ちょっと難しいかもしれないなあ。っていうか難しいなあ。僕って意地悪なついでに、無駄な教養をひけらかしちゃって。
更新停止すると自分の愛され具合がわかりますがそれを期待していたと思われるのは厄介なことである。でも事実。
NHKでジミー大西の取材番組。名古屋出身の僕は毎週『クリフハンガー冒険隊』というローカルな番組をいつも見ていて、土曜の真昼。学校から帰るとクリフハンガー。僕が見ていた頃、冒険隊の隊長はジミーちゃんであった。クリフハンガーは今でこそGoogleで検索しても11件しかヒットしないという誇れるほどのマイナーさだが、当時の名古屋人はみんな見ていた、特に小学生は。そしてもちろん、僕だって例に漏れないことは先に述べてある。名古屋人にとってジミー大西とは冒険隊の隊長。それ以上でもそれ以下でもなかった。だから画家に転向すると知った時はちょっぴり悲しくもあった。そのジミー大西の特集がNHKでやるというのだから、名古屋人としては見逃す手はない。ああジミーちゃん!とても懐かしく様々の想い出が蘇ってきました。でもそんなのよりも僕が注目したのは、画家としての彼の言葉。僕と僕の大好きな藤子不二雄(A)先生が大好きな画家ルネ・マグリットなどは、自分の作品について語るとき、まるで哲学者さながらの表現でもってその幻想性をサポートして見せる。彼の場合は自己の作品に言及することも決して陳腐にはならない、ちっとも安っぽくはないのだ。僕は語ることのない芸術家、例えば画家など、の語る言葉というものには興味があって、ジミーちゃんの逐一の発言はいちいち身体を傾けて聞いた。その中にこんなせりふ。「エジソンの言葉で、99パーセントの努力と1パーセントのひらめき、なんてのがありますけど、あれって誰かが訳間違てるんちゃうかと思うんですよね。僕は1パーセントのひらめきと、99パーセントの遊び心やと思うんですよ。1パーセントのひらめき、それは間違ってない。それは正しいこと言ってる。でも、誰が99パーセントも努力します?」僕は驚いた。Thomas Edisonの例の言葉とは、僕の知る限り、「Genius is 1 percent inspiration and 99 percent perspiration.」訳として僕が好きなのは「天才は1パーセントの霊感と99パーセントの発汗である。」英文で韻を踏んでいるのだから訳文でも押韻を忘れぬべきだという精神が滲み出る名訳。ここで注意したいのは、inspiration(霊感)には「才能」なんてはっきりとした意味合いはないのだろうし、perspiration(発汗)に「努力」というニュアンスが含まれているかどうかは、誰にも判断できるものではないということだ。果たして彼がこの二つの英単語を踏まえていたかどうかはわからないが(もし知らなかったのだとしたら、指摘は恐ろしく的確なものである)、ジミー大西の言葉は、このような考えがあったのではないだろうかと推測される。芸術家はまず、ふとした瞬間に一陣のひらめきを得る。そうしてそのひらめきを自らの芸術の中に取り込んでいくために、あれやこれやと汗を流し、楽しみながら試行錯誤をして、最終的に一つの作品を作り上げていく、そんなところなのかもしれない。ひらめきは一瞬だが、その「100倍」もの時間が、「遊び心」によって費やされていく。それがエジソンにとっては発明であり、つまり芸術じゃないかと思う。(エジソンを例に出すとき、発明とはもはや芸術でしかあり得ないのではないか)。僕の頭にはエジソンが、一瞬のひらめきと豊潤な遊び心によって、数々の実験を繰り返し、ついに歴史的な大発明を成し遂げたという、その一連のプロセスがほとんど具体的な映像で浮かぶ。ちなみに、その映像の中のエジソンの顔が、クリストファー・ロイド(=『BACK TO THE FUTURE』のドク)と同じものであるということは、僕だけの、また別のお話。ジミーちゃんはまた、岡本太郎先生から頂いた手紙の中の「キャンバスからはみ出せ」という言葉にこだわりを持っており、その中に自分なりの哲学を見出そうとしているようだ。こういうすべての姿勢は、一昨日登場した星野智幸氏の、芸術家としての態度と相通じるものがあるように思う。そういう人たちが僕は好きだ。直感だけでなく、実験的な遊び心によって、発想をどこまでも広げていくべきだ、と、エジソンが語っているように思えてならない。
ところで、そのジミーちゃんの番組を見ていたらビーチ・ボーイズの曲がBGMに使われていて、で、聴いた瞬間にピンときたんだけど、その曲はThe Flipper's Guitarのdolphin songにサンプリングされている曲だった。なんか嬉しかった。
最近はまってる言葉。「東京筆おろし」。唾棄枕。

12
ここ数日の話に関連して。しつこいようだけど、Webサイト日記について。/「わかりにくい言葉を、適当に、余りに散文的に散りばめておけば、それでイリュージョン、馬鹿らしいです。もうやめたら?って思うんだけどな、そういう文章を書いている人々には。でもそれはやっぱり一つの通過点だと思うし、或いはそのジャンルをもうちょっと突き詰めていけばまた新しい芸術性が生まれてくるのかも知れないとも思うから、応援はしている。でも、僕がやってしまったことをやっているのを見るのはちょっと、こっちとしては嘔吐感がある。」気恥ずかしいよね。というか、実は恐怖でしかないんだ、そういうのは。僕の発想が実は陳腐なものであるとか、誰にでも思い付くとか、誰にでも流用が容易だとかさ。自分の表現が全て取るに足らないものだと言われているような。失礼だけど、僕の眼には、僕より文才(ここではこう限定しておく)のない人々がそれをやっているように見えるから、余計に怖い。本当は僕は、その「自分の眼には文才の無いように見える」人々と、同じレベルでしかないんじゃないかって心配になる。それを否定できる根拠はどこにもないんだし。
僕は恥ずかしげもなく色々なことを喋るんだけど、それは意味のあることだと思ってやっている。世の中にはそういうことに関しては実に寡黙で、本当は何も考えていないだけかも知れないけど、その人達は自己言及の馬鹿らしさをよく知っているか、或いはたぶんそれで格好良さを演出したりしたいんだと思う。Web上における自分のキャラクターにそぐわないからとかって理由でたぶん、寡黙を貫き通すんだろうと思うけど、僕は馬鹿馬鹿しいことでもなるべく語れるところは語っていこうと思う。実は実に恥ずかしいんだけど、まあ仕方ない。そのくらいは我慢。これも「アレ」なんだけどさ。
千葉県野田市在住の娘が我らの「国語国文学科」に存在した。そしてその娘が偶然にも赤い洋服をまとっていたので僕はこう言ってやりました。「やあ、のだの《だ》はひらがなだね。だから君は、赤いシャツを身につけているのだね」彼女及び取り巻きの2、3人はきょとーんとしていました。これが国語国文学科の現状か!若者の活字離れは著しい!とかなんとか思うわけですがこれは単に彼女らの運が悪かったわけであって教養とか素養とかいうものには大して関わってこないだろうと思います。つまるところ僕は夏目漱石『坊つちゃん』に登場する「野だ」と「赤シヤツ」のことを話題にしていたわけだが、それは理解されなかった。彼女らは「たまたま」その作品を読んでいなかったわけだ。それは仕方のないことだ。実に運の悪いことだ。運でしかないですよ、そういうのは。
今日はちょっと抽象的になったかな。フワフワしてる。たぶん明日からはまた戒めます。

13
僕はど根性ガエルが好きだ。アニメから入ったんだけど漫画も好きだ。京子ちゃんとひろしのあの微妙な関係が大好きだ。微妙と言えばきんぎょ注意報はめちゃくちゃ微妙だ。しかしいつの間にか僕はあの世界から抜け出せなくなっていた。狂おしいほど激笑。

14
頭の悪い人と話をするのは辛い。本当に辛い。
昨日はクラスメイトの家にお泊まりでした。ゴキブリをやっつけた。仲間にはならなかった。
別に僕が誰とどのような性交渉に及ぼうと余計なお世話だ。頭の悪い人と話をするのは実に疲れる。
自分の日記、2002年9月辺りを読み返していたら実に面白かった。その後でその年の11月辺りを読んでみたら阿呆ほどつまらなかった。とても恥ずかしくなってしまった。
プラグマティズムのジョン・デューイという人はその著書『民主主義と教育』の中で「教育とは経験の更新である」と言っている。これは即ち「行動を展開させていく中で、ある経験を暫定的な真理の尺度として一時的に規定し、また新たな経験に出会った際に、暫定的な真理の尺度とその経験を比較、検討し、必要であればその中に採り入れ、更新し、これを繰り返す」ということらしいが、これは「人間の認識は入子型構造をしている」という僕の主張に非常に似通っているのではないか。入子というのは箱があってその箱を開けるとまた中に小さな箱があってそれを開けるとまた…っていう例のあれ。ちなみに理解を助けるために付しておくと、プラグマティズムというのはアメリカ合衆国に生まれ、その風土と歴史とを色濃く反映させた独自の哲学であり、「客観的真理などは存在しないのだから、現実のみを重視するべきだ」といった考え方をしている。もともとの意味は「行動主義」ということだから、まあ自分で行動して経験したことだけを信じましょうみたいなことだと思ってくれれば。さて「暫定的な真理の尺度」とはジャッキー哲学におけるところの「認識の箱」である。僕たちはそれぞれ小さな「認識の箱」の中で暮らしている。その中で「何かに気付くとき」、その箱は開いて外に出られるわけだが、どういうわけかその箱を開けるとまた新しい大きな箱がその外にあって、その新しい大きな箱を開いて外に出るためには、また新しくもっと大きな枠組みに気付かなければならない。そういうことの繰り返しで人間の認識というのは成り立っているんじゃないかと。だからまあ入子型というより逆入子型の構造をしているのかな。ピアジェという人が使った「シェマ」という概念も参考にしていただければ理解は深まるかも知れない。似ている気がする。教育心理学の本を読めばだいたい出てくるでしょう。
まあ難しげなことを書いたけど単に今まで認識の入子型構造について(余りにも恥ずかしい考えなので)説明したことがなかったからちょっと説明してみただけ。

15
この日付を示す数字は邪魔っけであることに気が付いた。これでは何の意味もない。「月記」と称していながら「日」の概念を持ち込むとは如何なることか。それにこれでは毎日きちんと書かねばならぬという迷惑な義務感が付きまとい文章がだらだらになる恐れがある。そんなことはまあ最初からわかっていたがなんだか突然鬱陶しく思えた。何よりも、これではトピックごとの理解が困難になるのではないか。だからこの日付を示す数字はなくしてしまおうと思う。でも「実は毎日書いていますよ」という雰囲気を醸し出すために今までの分は残しておこうかと思う。というわけでここからスタンスが変わります。



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今の僕はかなり言葉に気を遣っていない。意味だけを重視している、と思う。

ふかわりょうはやはり天才だ!昨日(14日)彼のラジオを聴きながらそれを再認識した。著書である『ミツバ学園』を読んだ時に初めて感じ、CD『ロケットマンデラックス』で確信、そして昨日、理論的側面からも認識を新たにすることができたのだ。例えば「名前のついていないものに名前をつけよう」という趣旨のコーナーでは、「《深爪しすぎた足の小指》のことを《ピスタチオ》と呼ぶ」というネタ葉書に対して、彼はこうコメントをした。「これはね、《ピスタチオ》という言葉の響きは日本人にとって、なんかジョーカーっていうかね、トランプで言うと《2》くらいの強さを持っているんですよ。だからもうピスタチオという言葉の持つ響きを何に当てはめるかということは、本当にそれこそ日本中で会議しなければならないくらい重要なことでね、軽はずみに決められることではないんですよ」これを聞くだけでもう、ふかわりょうがいわゆる「シュール」という概念についてどれほど深く考察を重ねているかが分かるだろう。彼は全ての葉書に対してこのように機知と才気に溢れたコメントを寄せる。そのひとつひとつが非常に深い考察と傑出したシュールな感性によって支えられている珠玉のコメントなのである。「あるあるネタ」を募るコーナーでは「日曜日の朝は必ずどこかで誰かが止め忘れた目覚まし時計が鳴っている」という、一見何でもないようなネタに《限りなく10アルーに近い9アルー》(最高は10アルー)を与えた。それはふかわりょうがこのネタに対して非常に深い考察をしていたからに他ならない。素人目には取るに足らない、しかし彼は「これは非常に深い葉書なんですよ」と言い、こう続ける。「いいですねえ、休みだからって土曜日に家族揃ってどっか泊まりで出かけちゃったんだけど、目覚まし時計は次の朝もいつもと同じ時間に鳴り続けて、それは誰も止める人がいないんだよね」…なんという考察力だろうか。ふかわりょうは送られてきた(おそらくは山のように積み上げられた膨大な量の)葉書を一枚一枚読み、その上でこの葉書を選び出したわけであるが、一枚一枚を読むのに費やせる時間はさほど多いものでもなかっただろうに。ふかわは一瞬の直感でこの葉書の深みとシュールさを掴み取ったのだろうか。或いはよほど丹念に読んでいったのかもしれないが、インスピレーションは瞬間的なものであろう。これはふかわの考察力がずば抜けているということの証明である。本にしろCDにしろ、ネタ葉書への考察にしろ、ふかわりょうはテレビのアドリブには弱いと言われてしまうが、時間をかければ最強の天才なのだ。

ちなみにこの月記に改行が少ないのは、トピックをわかりやすくするためと、僕がかつて友人から「改行も才能のうちだね」と言われたことがあって、じゃあそんな要素は排斥してやろうと思ったわけです。これは文学じゃないから。

昨日(14日)書いた入れ子型構造(「れ」を外に出すことにした)への説明がわかりにくかったのと、新しい発想を得て(箱が一つ開いて)多少ばかり思想を更新してしまったので、ここに再度記しておく。どうも哲学は更新されていくものらしい。『音楽と人』という雑誌で小沢健二と大槻ケンヂが対談をしたことがあり、その中で小沢と大槻は次のような内容で盛り上がっている。どういうことかというと、例えば森高千里なんかは客観ではなく主観で書いているから「これはなんでこうなの?」というものがなく「女の子パワー」に溢れる「もう理由なさそうでばっちりオッケー」な歌詞が作れるんだけど、小沢や大槻には非常に強力な「俯瞰の自分」というものが存在してしまっているために、そうはできない。彼らのように「意識的な男」は「経験と学習による構成」に向かってしまうというのだ。大槻はCHARAを引き合いに出す。CHARAは「好きな映画」を訊ねられて「ゴダール」と答えたそうだが、小沢や大槻は「俯瞰の自分」に邪魔をされるため、たとえどれだけゴダールが大好きだったとしても余りに恥ずかしくてそんなことは言えない。つまり僕らの世代で言えば「村上春樹が好きだ」と言うのがつい憚られてしまうのと似ている。それが堂々と言えてしまう人は、「俯瞰の自分」を持っていないか、あるいは「俯瞰の自分」の眼が「村上春樹」を許容、肯定しているか、そうでなければそういった枠組みをすでに越えてしまっているかのいずれかではないかと思われる。最後の場合に関しては少し難しいかも知れないけど暇な人は考えてみてください。さて、これの何が入れ子型構造に関わっていくのかというと、実はこういうこと。僕らは一つの「認識の箱」の中に入っているわけで、その箱は自分が新しい何かに気付くことによって開き、新しい外の世界に出ていくことができる。でも箱の中にいる自分の力ではその箱を開けることはできなくて、自然と開くのを待っているしかない。さて認識というのはそんなにも受動的なものなのかというと、実はその箱の外側にもまた別の自分がいて、その外側の自分が蓋を開けて箱の中の自分を「発見」し、真上から「俯瞰」することによって、新しい何かに気付く(自覚する)のだ。つまりその時に自分は自分を客観的に分析することができたということである。中に入っていた自分は箱の外に出て、外側にいる自分と融合をし、ほんの少しだけ大きな新しい自分になる。でもすぐに自分はまた違った、さっきよりも少しだけ大きな箱の中に入っているということに気付く。そうして再び、箱の中にいる自分は外側の自分がいつか蓋を開けて「発見」してくれるだろうと期待しながら待っている、というわけだ。これが無限に繰り返されていく。これが更新された僕の「認識の入れ子型構造論」の凡そである。まだ自分の中で整理がついていないので書かないが、この入れ子はいつも玉葱のように中心から外に向かって「部屋」が広がっていくのかというと、どうもそうではない気がする。もう少し複雑な形、例えば箱の中に小さな箱が二つ入っていてそのどちらか一方の中にはまた小さな箱が入っていて、というような、そんな感じではなかろうかと考えている。

これは文学ではないが明らかに文章である。文章には段落があってしかるべき。だから改行をしなくては。だってよく考えたら今はもう日付もなくしてトピックごとに一行あけて書いてるんだからわかりやすくするもくそもないからね。

ジャイアンってすごい言葉だと思いませんか。ほらこの文字を見てくださいよ。見れば見るほど笑えて来ませんか。ジャイアンジャイアンジャイアンジャイアンジャイアン。どうしてみんなそんなに平気でいられるの?無批判に受け入れられるわけ?

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ゴムをつけるということは 投稿者:ジャッキー  投稿日: 7月18日(金)01時31分35秒

「俺は快楽のためだけにお前とセックスをする」
という宣言である。
それを相手が受け入れるのなら
その女はよっぽどその男のことが好きなのか
あるいはよっぽどセックスが好きなのである。

http://homepage2.nifty.com/ozakit/



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他人のHPの掲示板に書き込んだ内容をそのまんま自分のHPに転用するのはかなり失礼な行為なのではと思う。

知り合いの高校二年生が書いた文章の中に「自分らの年齢で『生と死』について考えている人は少数だ」と書かれていたが、そんなことはないと思う。むしろ逆じゃないかな。「生と死について」くらいしか考えることがないんだよ。それで少し格好つけてる。

受験のために、金払ってまで塾に通うのってやらしいじゃないですか。ガツガツしてて。勉強します。受験に照準合わせてます。みたいなオーラ。そこまでしなくちゃ受験を乗り切れないんですって宣言してるようなもので、プライドの高い僕のような人間は、塾に頼った時点でもう「負け」だと思ってしまう。あたかも、「受験のための勉強」なんてしてません、受験なんて視野に入れてませんみたいな顔をして、家の中でこつこつと物の本などを読んで、何万も何十万も払って塾に通っている連中にコンプレックスを感じながら、なにくそと思って、例えばテストでいい成績をとるとか、そういうのが気持ちよいのであって、つまり、自分が受験産業の中でストレンジャーであること、つまり異質な存在であることが重要なわけだ。みんなが一様に他力本願まるだしで金に物を言わせて塾に通って餓鬼みたいにガツガツとして「受験向けの勉強」とやらをする。それがスタンダードになっている。だから僕のような目立ちたがり屋はそういうスタンダードから外れていたいと常に思うわけで。まずこれが第一に僕が塾を嫌う所以である。塾に行ってまで受験のために勉強をするっていうその「姿勢」が僕から見て「負け犬」。でもそんなことを言うと「塾って楽しいんだよ。ためになるし。行ったこともないクセに否定すんなよ」とかって反駁する奴がたまにいるんだけど、そんなのは関係ないんだ、このブルジョア。そう、僕が塾を嫌う大きな要因の一つに、ブルジョアに対してのコンプレックスというのがある。参考書を買うくらいだったら1000円とかで済むのに(僕は結構ブックオフで買ってたし)、どうして何十万も払って塾なんかに行くのか。そんなに金が余っているのか。ベタだけど貴様らは、靴が見えないと一円札を焼くようなタイプの人間だろうが。よく知らないんだけど河合塾とかで一回授業受けると何千円とかするわけでしょう。もっとかな。考えられないですよ。自分で勉強してたらその数千円が浮くわけで。んで、その浮いたお金でドラえもんの単行本が何冊買えますか。ことによったら数十冊買えちゃうわけですよ。考えられない。
さて(改行をしてしまった)、たぶん塾に通う人っていうのはこういう理由があって通ってるんだと思います。
①自分で勉強ができない(勉強の仕方がわからない)
②自分で勉強ができない(勉強をする気になれない)
この二つが大きな要因として挙げられると思うのです。つまり「教材」と「環境」を求めるわけですが、これらを求めて塾に通うような奴は、【①頭が悪い ②意志が弱い】のであって要するに馬鹿ということ。
「友達が行ってるから」とか「面白いから」という理由はもっともらしく聞こえる。塾という場をレジャー視した考え方で、ディズニーランドに5000円払って入るのと塾の講義に5000円払って出席するのは等価であると見なすわけだ。この考え方は素晴らしいが僕の嗜好には全く合わない。そんなに金かけてレジャーに走るのはやはりブルジョアの所作だからだ。
小沢健二さんが予備校に通ってた理由はたぶん「成績良かったから授業料タダだし模試でいい点取るとお金もらえるから」ということだったと思う。なんて格好良いのだろうかと思うがテレビで塾とか言ってないって言い張るのはどうかと思うぞ。もしかして「塾」じゃなくて「予備校」だもんねみたいなそういうロジック?
さて、何故突然こんなことを言い出したのかというと、僕と親しいとある女子高校生が突然塾に通うとか言い出して、そのことがすごくショックだったのと、それに伴って受験生だった時分に仲の良かった友達が今まで一緒になって否定していた「塾」に突然通いだしたときの寂しさみたいなものを思い出したからだ。なんだか自分の信念が負けたっていうか、友達を塾に取られたような、そんな感覚。奪われた。喪失。とても悲しい。単にそんだけ。要するに「疎外感」が怖いわけ。しかもこれは信念とか、ポリシーとか、思想とか哲学とか。そういう心の問題にも関わってくることだから、その「疎外感」は並みじゃない。ああ。寂しい。
個人的には、時間や空間、そしてひょっとしたら思考や行動までを、塾というものに束縛されてしまうのが、煩わしい。自由がいいんだ、自由が。勉強しながら女の子を抱いてたって、いいじゃないですか。塾ではできぬ。
うわー最悪だーと言い訳させてください。未来の僕よ。

非の打ち所のない文章なんて僕には書けっこないのだが、この真上の文章は酷すぎる。昔の日記を読んでいると、たまにめちゃくちゃ面白いが、とてもつたない。この真上の文章も酷すぎるので消したいけどもったいないから消さないです。いやでもそう酷くもないな。by月末の僕。

「今年はやけに大学見学や旅行などで東京に行く女の子が多いね」と地元(名古屋)の友人にからかわれた。「JRから報奨金でももらえるかな」などと返したら、「いや、自分は何処へでも自転車で行くから差し引きゼロだろ」と、こう来る。誰もが最低でもこのくらいの会話ができたら楽しいかと思う。これらはメールで交わされたのだが、彼とは生で喋るときも少し神経を使う。うまいこと言ってやらないとなあと思うのだ。でもこういうのは、糸井重里が太田光との対談で言ってたんだけど、反射神経みたいなもので、特に意識することなくキャッチボールしてしまう。要するにアンテナの周波数がギャグヘルツで調整されていれば自然に天から降ってくる数多のネタをうまいこと掴むことができるのではないかとね。

最近サボり気味です。なんていって、本当は全然サボってませんが、こういうウソはばれませんね。

とある大切なお友達が現在とある合衆国(メキシコではない)に住まっておられるのですが、今だと時差が14時間あるみたいなんですよね。ちなみにたぶんサマータイムで。日本が夜11時だと、向こうは朝の9時。なんか『ドラえもんのび太と夢幻三剣士』の主題歌でそんなような歌がありましたが、まさに「遊べない♪」ですよね。でも僕らの場合、それは特に重要な問題でもなくて、今までその子とお話をしていました。お察しの通り時差の話になったわけなんですが、その時に少し頭を掠めたことがありました。何かというと、その合衆国で14時間経つと日本の時刻になるということは、14時間経ったらもしかして彼女は、「現在」の僕と同じ時間に存在するんじゃないかなと。でも場所が遠いから、実際には会うことができない。じゃあ合衆国から日本まで来れば14時間後の彼女は「現在」の僕と同じ空間にいられるかというと、そうじゃなくて。例えば彼女が例の合衆国から僕の住んでるところまで物理的に接近してきたとすると、僕がいる「現在」という時間はどんどん彼女から遠ざかっていってしまうのではないだろうか。つまり、時間が空間に左右されてしまうというわけだ。本当は、そういうふうにできているのかもしれない。
ところで、先に例示した『世界はグー・チョキ・パー』という武田鉄矢一座の名曲は、「一緒に遊びたい けど/アメリカ10時で もう夜/北京は8時で まだ朝/遊べない」と歌っています。(ところで本筋から離れると、どうして前者は国名なのに後者が都市名なのかという突っ込みを入れることができて、それはつまりこういうことかと思われます。例えば早稲田大学において、出身地をたずねあっているときに、岩手県盛岡市出身の人はたいてい「岩手だよ」と言うけれども、愛知県名古屋市出身の人は必ず「名古屋です」と答える。まあそんなところなのかもしれぬ。ちなみに愛知県出身者は、別に名古屋市出身でもないのに「名古屋だぜ」と吐く輩が多い。「愛知」と言え「愛知」と。このプチ似非ペテン師。)ごめんなさい本題。この歌詞(武田鉄矢氏による)の凄いところとは、物理的に遊ぶことの不可能な距離にある二地点間で、時差だけを問題にしているところじゃないかな。奥が深い。まあ現在はIT社会ですから物理的な距離が意味をなさなくなってきてはいるんですけども。
前半部分を少しだけかみ砕いて書きます。自分で勝手に図とか書いてみると楽しいかも知れません。
ここでは時間という概念を「過去から未来に流れる大きな川」だと考えてくださって結構です。川の流れが「時間軸(X)」、川幅が「空間軸(Y)」になります。空間座標は普通、例えばXYZとおくことが多いですが、「タテ・ヨコ・タカサ」の3つの軸で表されるべきものです。それをYという一つの軸で表そうというのは一見乱暴なように見えますが、この場合は大丈夫でしょう。まず、現在問題にしているのは「日本」と「とある合衆国」との間にある位置関係なわけで、つまり地理的な概念です。地球の表面を語る時に高さの概念は必要ありませんから、Z軸は消えるわけです。では縦の概念はどうなるか。川をモチーフに考える場合、縦の概念(「経度」と言っても構いません)を水深に見立てて考えることもできます。しかし現在は「時差」を問題にしているわけだから、あまり厳密な計算が要されるというわけでなし、横の概念だけで十分です。あんまりややこしくなると読者だけでなくて僕までわかんなくなってっちゃうので。あとこの捉え方は「地球は丸い」という事実を考慮すると多少無理があるのですが、まあ丸い川だと考えてください。それこそ無理がありますけどね。そもそも四次元を図示すること自体がナンセンスか。で、例えばですねえ。僕が(X,Y)=(0,0)という位置にいて、その子が(X,Y)=(-14,14)という位置にあるとします。X軸は一時間ごとに1ずつ動きます。Y軸は僕や彼女の動作によって変化します。そして地球上には「時差」というものがあるので、Y軸の数値が変化するのに伴ってX軸にも一定の変化があります。お分かりのことと思いますが、ここでは「一時間の時差が生じる距離=1Y」という定義です。一時間の時差が生じる距離というのは地域によって違うんですけど、まあその辺はアバウト。つまりYが1減れば、Xが1増えます。簡単に言うと、「距離が縮まれば時差が縮まる」というだけ。
僕から見て-14Yの位置にいる彼女は、14Xという時を経れば、X軸において「現在」の僕と並びます。僕と同じ時間軸には存在しているわけですが、如何せん距離があるので、会うことはできません。その距離を無理矢理縮めようとしたらどうなるか?彼女が僕に会うためには14Yの距離を移動しなければならないわけです。14Yの距離を埋めようとすると、同時に14Xの「時差」が加算されます。彼女が僕のもとに物理的接近を果たした時には、例え一瞬で移動したとしても、いつの間にか14時間の時が経っていて、僕に会うことができるかどうかは疑わしい。僕が14時間そこで待っているとか、ちょうどその時間を狙ってその場所にいるようにすれば、会うことができます。人々はそうやって時差を調節しているわけですよ。(ちなみにIT社会においてはこれを考えるのがまた面倒くさくなります。通信の問題があるからですが、これはまあ「電波や回線にも【物理的】な時差が生じる」と考えれば解決できるかと思います。)
この理論は、たぶん誰もが間違っていると感じるんじゃないかと思うんですが、否定する根拠はなかなか見つけられないかもしれません。もしそうだとしたら、こういうのを「逆説」というんですね。数年前に中公新書で『逆説論理学』という本を読んだことを思い出しました。アキレスはいつまで経っても亀に追いつけない、ということを否定するのは、かなり難しいみたいです。
でもまあ適当に書いたんで暇な人はあら探しするか、或いはこの不完全な理論を完璧なものに仕立て上げてくださると嬉しいな。
追伸:「丸い川」のくだりがもし理解できない人がいたら、メールください。丁寧に書き加えます。
やっぱ書いておこうかな。地球は丸いんだから、Y=24のとき、それは同時にY=0になるということです。だから川も、同じ方向に進み続けたらいつか元の位置に戻ってくるような仕組みでなければいけない。ちなみにこの丸い川をぐるぐると回り続けると螺旋状の軌跡が生まれることになりますね。どうでもいいんですけど。

人んちに行って、ビデオ見ながら、シャントリのウィスキー(500)を二人で飲み干して、四回くらいやって、二日酔いになって、『シェーン』見て、飲み会(クラシック・コンサート→クラス懇談会)に行きました。二日酔いで気持ち悪くて、しかもその状態で一時間半もの間自転車漕いで集合場所まで行って、死ぬかと思ったんですけど、迎え酒っていう概念を僕は信じます。飲みまくったら二日酔いが収まって、かなり楽になった。クラスの僕ラヴァーと喋ってたら八本くらい歯が浮いた。自分のこと好きな人を困らせたり喜ばせたりするのって、楽しいんだけど、イージー過ぎるな。ところで僕くらいのキャラになると一気のみとかさせられないわけがなくて、困った。でも僕は賢ちゃんという友人の曰く「ザル」ならぬ「でかいボウル」(その心は《沢山入るけど入れすぎるとあふれる)らしいから、ある程度まではかなり平気。楽勝。クラスメイトが好きな人に電話をかけまくってたんだけど、一回もつながらなくて、試しに僕が自分の電話でその人に電話してみたら、一発で出て、かなり面白かった。それが初トーク、って軽く微妙。まあ混沌とした雰囲気のまま飲み会は続きます。色んな人がいます。みんなハイテンションでビリビリきてます、パワフルワールドも全開中です。『VS騎士ラムネ&40炎』のオープニングテーマを参照してください。まあでも高校の時にいつも行ってた東海高校という学校の演劇部、奴らとの飲みほどではない。飲み会が終わったら女の子が一人ぶっ倒れられたので救急隊員がいらっしゃって病院に運ばれ(尊敬)ました。その後まもなくして男の子が一人逝きました。救急車を呼びました。再び救急車が来ます。来ました。活字芸術の『神聖王国』を参照してください。でも救急車さんには帰ってもらいました。救急車へのキャンセル技を見たのは初めてです。もうガードなんかしていられません。もうめんどくさいから参照がどうのとか言いません。置いてってやる。月の初めの決心はなんだったのか。ああもう適当に書く文章は適当にやることにします。現在適当です。かなり。でも極力わかりやすくします。プライド的に。で、華麗なるキャンセル技で救急車を蹴散らした彼は高田馬場駅から徒歩三十秒のクラスメイトの家に運ばれて寝かされました。僕もその家に泊まることにして、他の人々も同じようにしたので、その家には累計で十数人のクラスメイトが出入りしたことになり、家主は相当の迷惑を被りましたが午前五時ごろまではいやな顔ひとつしていませんでした。午前五時ごろまでは。さて、ここからプチ二次会。バルトークいやバカトークで盛り上がりましたがあまり文学的とは言えませんでした。特にオタクの人が帰ってからは。エロトークがメインだった時間帯もありました。一番面白い人が酔ってうざいキャラに変貌してたので痛かったですが基本的にめちゃくちゃ楽しかったです。おっとそこで三人目がダウンしました。なんという時間差。フローリングとはいえ家の中がげろの海です。もし僕の部屋でこれをやられたら、僕の部屋は畳であるので、取り返しつかないから、畳の弁償はもちろんのこと、たぶん全部喰わせます。げろ。さて。そんなこんなで朝になりました。五時ごろに僕は帰りました。みんな寝たのでいちはやく。泊まりの時に早朝、一番最初に帰るのは高校時代から変わっていません。なんとなく松屋にぶらりと入って、牛めしの並盛を食べようとして、すこし茶目っ気を出して、「大将。並盛ジョニー。」などと上々なジョークを飛ばしたりしてみたのだけれども、松屋が食券制の店屋だということに気づき、冗長な空気を回避するがため、必死になって、無生物である自動券売機を擬人化して話しかけているちょっとファニーで夢見がちな少年的な色彩を身に纏ってその場を取り繕いました。さすが僕。

顔も微妙だし、身体も微妙だし、これといって取り柄があるわけでもないのに、妙に男にモテる。そんな女がたまにいる。つうか僕の周りはそんなんが多い。これ何故かというと、別にその女に何か特別な魅力とかオーラとかオーラ力とかが秘められているというわけでは全然なくて、単にそいつが、「あたし、二千円でもオッケーよ」的な雰囲気をふんだんに噴出させているからに他ならない気がする。そうしてそういう女に惚れるのは大抵がモテない男だ。自分に自信がないもんだから、ちょっと女の子に喋ってもらえたりとかすると、「いける」とか勘違いしてね。単に誰とでも笑顔で会話してあげるっていうささやかな優しさがそこにあるだけだというのに、なんか、勘違いしちゃってね。それで女の子のほうも、「あらあたしってモテる?」とか勘違いしちゃっちゃってね。モテているのは事実だが、よく見ると不細工にしかモテていなかったりして、でもあえてよく見ない。見ないふり。
ところで、そういう女を男性編に置き換えたのが、まさに僕だと思われる。でも男の場合、ただ喋ってあげるだけでは女の子はついてこない。男がそういう立場にあるためには、ある程度の魅力が必要なわけである。その点小手先のショウネス(showness,造語)に恵まれた僕は運が良い。別に実際的な魅力がここで問われるのではなくて、要するに「凄そうに」見せればいいわけだ。そうするだけの天分が僕にはあるのだ。はははは。でも実際に何らかの能力が僕にあるかと言われれば、ない。たったひとつの天才は、単に「すごく見せる」というそれだけに尽きる。別にすごくないのにすごく見せるのは、簡単なんだけど、でも、大抵の人はできない。恥ずかしくってね。要するに僕は恥知らずであり、恥さらし。まとまった!

大学のクラス内で、僕ととある娘との間が怪しまれている。他にも僕と仲の良い女の子だっているのに、ちっとも怪しまれないのはどういうことだろうか。まあどうでもいいんだが。

麗しのサブリミナル。
オーチャード・カジュエン。

新聞で、「ビル所有者、全員否認」という見出しを見つけた。でも僕の瞳が脳味噌に送りこんだのは「ピル所有者、全員避妊」という文字列であって、なんだ当たり前のことじゃないか、と思った。

好きでもない男にその愛を告白されて、どうしても断り切れなくて、なんとなくOKしてみる。そんな感じでつきあい始めたけど、やっぱり気持ちが乗らなくて、逆にこれでは無礼だなどと思うのは、この時点では遅すぎるんだけど、気付いただけでも評価してあげる。結局彼女は仮面の彼氏を僅か二週間でクーリング・オフ。こんな話はよく聞きます。恋人のクーリング・オフ制度ってのは誰が決めたわけでもないけど機能している。しかも期限は無期限だ。何年経っても可能。でも悪徳な商社は腹いせに嫌がらせとかしてくるから気を付けよう。僕の小学校から高校までの同級生で、たいへんなナイスガイがいたのだが、女の子にふられて、その女の子と新しい彼氏に毎日のようにいたずらメールを送り続けているという惨劇。そのナイスガイぶりは12年間同じ学校に通っていた僕はそれなりに熟知しているつもりではあったが、変わるものである、らしい。恐ろしい。
岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』から、「広告の形而上学」という論文として抜き出されて、よく教科書や参考書などに載せられている文章がある。僕はこの文章がなかなか好きで、以前にもこの日記で語ったことがあるのだがそれというのも、論文のくせに言い回しがしゃれているのだ。「言語についてソシュールは」「マルクスはどこかで」など、これだけだと別にどってことないような気もするのだが、全体的に見てなんとなく僕は好きである。まあその辺は本筋に関係がない。さて彼は、「商品は広告同士の差異によって評価される」というのだが、それは要するに恋人を選ぶときにも言えそうだ。人は人を見るときに、その商品の本質ではなく広告を見て評価をするところが大きい。例えばカタログショッピングのように、見た目と値段と機能だけを見てチョイチョイとチョイス、そして実際に商品を使ってみてがっかりする。その挙げ句がクーリング・オフだ。どうもイージーだ。そういうのを繰り返してから僕を好きになる人がいるのだとして、そういう被クーリング・オフさんらと同列に並ぶのはどうもごめんである。だから僕は契約的な男女関係は好きになれないのである。常に世の中で一番がいいね。

なんか、とあるクラスメイトの女の子の家で、ずっと彼女に説教をしていたんだけど、比喩が会話の六割を占めた。これは恐ろしいことである。バアムクウヘンがどうとか、雑草がどうとか、クーリング・オフがどうとか。会話が豊かになるのは確かだが、実りがあるかは微妙である。どうも困った。しかし世の中には殆ど比喩を使わないで生きている人もいる。たぶん。少なくとも意識はしてない。偶然に、例えば春とかに、「今日は夏みたいに暑いね」と言うと、それは確かに比喩なのだが、ひねり出された比喩ではない。意識的に、ある程度複雑でそれでいてわかりやすくて面白い比喩が言える人って、素晴らしいなと思っている。今日はなんだか、ちょっとだけ近づけた気がした。説教されている身なのに彼女は大爆笑してくれた。優しいだけなのか、なんなのか。

自分よりも世界の狭い人と会話をしていて、僕には殆ど得るところがなかったのに、反対に相手から「今日は充実した会話ができた」などと言われたら、ちょっと悔しくなる。人生はギブアンドテイク、無銭飲食は犯罪。

セックスの中には二つの大きな役割がある。「快楽を生むものとしてのセックス」と「生殖行為としてのセックス」であるが、100%確実な避妊を伴ったセックスは、もはや生殖行為ではない。抱き合ったりキスをすることと本質的には同じである、用いる器官が違うだけだ。そう考えればセックスを禁忌だとする要素はどこにもない。ただ楽しむためにセックスをするのがどうしていけないのか誰か答えられるだろうか。恋人同士が生殖の可能性を伴わないセックスをするのなら、それはビリヤードをしたり、ボウリングをしたり、カラオケをしたりすることと何ら変わりはない。運動量の面から見ればセックスは立派なスポーツであるとも言える。例えばバスケットボールだ。
バスケットボールが生殖行為であるとしよう。バスケットボールをすると子どもができてしまう。すると男女の間で軽々しくバスケットボールをすることはできなくなる。でもバスケットボールは楽しい。だから是非ともバスケットボールがしたい。そこで例えば、手袋をはめてバスケットボールをすれば子どもができなくなるのだとしたら、誰もが手袋をはめてバスケットボールをするのではないか。
同じことだ。避妊をすれば子どもができないのだとしたら、誰もが避妊をしてセックスをするのではないか。100%確実な避妊方法があるのだとして、それを実践するのなら、それはもはや生殖活動とは言えない。単なるゲームであり、スポーツだ。恋人同士が楽しむための、単なる一種のツールである。もちろん、セックスが好きではないのならしなければいいし、反対に大好きならばどんどんやるがいい。楽しむためにセックスをする。気持ちいいからセックスをする。それがどうしていけないのか。咎める理由はどこにもない。さらば道徳。

ふるさとは名古屋である。現在は東京都練馬区富士見台在住で何故そうであるのかと言ったら野比のび太らが住んでいるのが練馬区月見台であり富士見台はそのモデルになった土地だと勝手に目星をつけたから。実は先日、検索で我がHPを訪れたという若者からメールを頂いて、彼はここ富士見台に住んでいるらしかった。手塚治虫氏も富士見台に住んでいたのですよと聞かされて、ははあと思った。F先生は手塚先生をいたく尊敬していらっしゃったから、これを意識していたと考えて不思議はない。ちなみにドラえもんに登場するキャラクターのうち、スネ夫のみがその住所を明らかにしている(練馬区月見台すすきヶ原3-10-5)が、僕の住所を知っている人がいれば見比べてみて欲しい、数字までもがずいぶんと類似しているのがわかるだろう。ファンとしてはかなり幸せなところである。

肩の力を抜きます。

さて、ふるさとは名古屋であって、そのふるさとに帰っていました。行動を追ってみよう。
一日目。
オツベルときたらたいしたもんだ、稲こき機械の六台も据え付けて、のんのんのんのんのんのんと、おおそろしない音をたててやっている。部屋を綺麗にして、夜中の三時ごろ富士見台のアパートを出る。目白駅まで走ったり歩いたりして行く。10キロほどあるが自転車だと停めるところに困るし、なんとなく徒歩したい感じもあって。ポータブルMDプレーヤーで音楽を聴きながらの道程だった。始めのうちはサザンオールスターズ、しかし7,8曲聴いても全く気持ちが乗ってこないので小沢健二に切り替えたらもうテンションが上がって上がって、歌って踊りながらズンチャカ。踏みしめる道路は全てが痛快ウキウキ通り。気分的には雨に唄えばの名シーン。夜が白みはじめて、通行人の視線に照れながら「遠くまで旅する恋人に~」などと歌っていたら目白駅に到着。四時半過ぎの山手線始発に乗って品川駅へ。品川からは静岡までノンストップ、リクライニングシートで二時間は安眠。静岡と浜松で乗り換えて名古屋に着く。その間に新潮文庫の『新編銀河鉄道の夜』(宮澤賢治)を読んでいた。はまる。この人の文章って気に入ったのがあると何度も心の中でつぶやいちゃうからそのまま覚えてしまう。一番好きなのは、この文庫には入ってないけど『雪渡り』っていう話で、雪がすっかり凍って大理石よりもかたくなり、空も冷たいなめらかな青い石の板でできているらしいのです。とか、平らなことはまるで一枚の板です。とか、天才の所業。確認がめんどい。細かいとこ違ったら謝罪。電車の中で読んでた文庫でいうと、そりゃもう初めて宮澤賢治を読むわけじゃないからほとんど知ってる話なんだけど、『オツベルと象』は中学の教科書に載っていて懐かしい。「グララアガア。」は一種の流行語にさえ。語尾にいちいち「サンタマリア。」ってつけてみたりとか、ガキってそういうことが好き。あと無意味に、ハンカチとは言わずハンケチだった。僕にとっては電車の中で本を読むのは三時間が限界。まんなかの二時間は寝てたからちょうどいいか。そんなこんなでまあ快適に名古屋まで着いた。実家の最寄り駅ではお迎えのおなごがおって、【自粛】そのおなごから四回分残った青春18きっぷを10000円で買い取った。ささやかな駄賃のつもり。で、隣の駅まで行ったんだけど、後でポスターを見て気付いた。どうもこの四月から、【自粛】まあいいや。とりあえず今回は帰れたのだし。隣の駅から歩いて、我が家に行く前に、裏の川原でお休みのタイム。それから赤いママチャリにメカガードをふんだんに取り付けてあちこち、帰って、新しく入手したタイヤの細い自転車にまたがって、すごく速くて、怖くて、でもテンション上がって、雨降ってきて、多少テンションが下がって、高校の近くで女の子と、いちやいちやして、友達の家に行って、泊まって、使う宛がないからとコンドームを11個貰って、使わねばならん義務感にかられて、ちんちんがひとつしかない事実に憤りを覚える。というのは冗談であり不謹慎である。不謹慎であるから冗談と言わざるを得ぬ。これは真理。牛の乳や胃やナメック人のユビのように、せめて四つくらいはあったらなあなんて失礼な話。実際はそんなこと考えてもいないのだがなんとなく思いついたれば記す。害のある無邪気だと思っておいてください。昔から僕は嘘吐きなんだけど、そういうスタンスでこのHPもやってきてるんだけど、生真面目に全てを真だと見る人がやっぱり多くいて、無意味に怒ったり、傷ついてみたりもするみたい。そうなっちゃうならそうしたらいいやって今はなかなか開き直ってみているけども気になることは気になる。でもあえて今日は色々書いてみようと思う。限りなく嘘っぽく見せかけた真実のように見えてその実、嘘である、そんな言葉を塗りたくるのが夢なんだけど、実際は単なる真実になりがちなのだ。本当のような嘘に見せかけた真実が、一番簡単だ。おや、川へ入っちゃいけないったら。
二日目。
五時に友人の家で目を覚まし、雨が降ってたけど、いったん帰って、『あんぱんまん』のあとがきは泣けるなあとか思いつつ朝ご飯を食べてからまた高校に行って、先生とかに会って、三年生が受けている夏期講座を盗み聞きしたり。制服を着ていったから、なかなか僕が僕だと気付かれなくて、多少寂しかった。図書室に行って夏目漱石全集で『倫敦塔』を読んだりしてたけどすぐに飽きた。眠かったので比較的人気のない校舎の最上階の階段でぼけーっとしてたら浪人している友人が来てグローバルな視野でもってドラえもん談義などを繰り広げていたら夏期講座が終わって、現役の友人たちと合流をして、ユーモラスな英語教師とともに昼ご飯を食べながら四方山の話をして、僕はいい気分だった。それなりに誉めてもらったりもしたし。英語教師が消えてからもずっとまた話しこんで、また違った後輩と合流をして、マクドナルドで僕ラヴァーとデートしている後輩をみんなで冷やかしに行って、久しぶりに演劇について考えて話したりした。僕はこういう話題があんまり好きじゃなかった。なぜかというと、馬鹿らしく不毛に感じるからだ。演劇については、語りはじめればいっちょまえのことは言えているとは思うのだが、そういう自分が最も憎らしい。それだから僕は、必死に逃げた。どのように逃げるのかというと、自分と感性を同じくすると僕の勝手に思いこんでいる二つ下の女の子が同席していたから、その娘に、「こういう会話、なんていうかな、みんな、遅いね。」とか抽象的な言葉を投げかけて、どうやら彼女もこの不明な言葉を、抽象的には解読をして、頷いてくれたりもしてくれたり、本当に通じ合っているのかどうかは別の問題として、非常に気持ちの良い空間がそこにはあった。僕はだからこの娘が好きなのであって、長生きして欲しいと思っている。本当にそうであるかは別問題として、僕とここまで抽象的な言葉や観念をともにできるような「感覚になる」女の子は、他にはいないと考えている。彼女は間もなくおいとまをしたが、その後も僕らはメールを送り合い、とても気持ちの良かったこととを告げ、色んな意味で、とか、ある意味、とかの言葉の抽象的なおもしろさを共有して、様々なそういう言葉を発見、発掘、開発していて、本当に快感だ。錯覚であろうがなんだろうが重要なことだ。「共有」という面から言えば、僕はおそらくその娘となら、なんにしようかな、たとえば「まーがれっと」や「ぼぶ」といった一見在り来たりの言葉さえも特別なものとして共有できるのだろう。とてもわくわくする。まーどーでもいーや。まあどうでもいいや。彼女がいなくなると、僕も演劇談義に真剣に参加せざるを得なかった。してみたらしてみたでそれなりに楽しいものだから、何も嫌なことはなかった。ただやっぱり、背伸びしてるな、と感じることは禁じ得なかった。みんなそうだ。それは仕方ない。僕などはその最も顕著な例だと思うし。ところで先ほど僕の使った「遅い」という形容は、抽象的なんだけど、具体的に何が遅いかと考えてみても、幾つか挙げることができる気がする。やっぱりみんな、僕より若い連中は特に、「遅い」なあと思う。だけどなかなか、全体的には懐かしくもあり、なかなか楽しいトークだった。少なくとも他のところでするよりも、ラヴェルの高いおしゃべりだったかと。さてそやつらと別れて、家に帰る。ご飯を食べて、また出掛ける。たまに帰省すると会いたい人間が六万といて、じっとしてなどはいられない。中学からの友人に呼び出され、彼の家に行くと、そのまま自転車でJR三駅ぶん離れたところまで連れていかれて、とあるお店に案内されて、そのお店は、なんと小中学校の同級生が店長をつとめる居酒屋で、懐かしくて、酒を飲んで、肉を喰って、色々と喋って、夜中まで気持ちよく過ごして、本当に最高の店だったが、当然のように赤字だらけ、9月いっぱいで店を閉めるだろうということだった。実際彼は大学生なので、どれほど黒字が出ていても長く続けるのは困難であろうし、仕方のないことだったが、何となく寂しかった。18にして居酒屋やってるなんてめっちゃかっけぇしね。店のマスターであり幼なじみである彼は名古屋と京都を自転車で往復したことがあるらしく、なんと帰り道の所要時間はたった13時間だったという。僕らもがんばらなくては。そう、僕を連れてきた男は、八月の始めに名古屋を出て東京、新潟を自転車でまわり、そのまま長野を通って名古屋に帰る旅を計画していた。東京からは僕も同行することになっており、その話を聞いて、士気が高まった。ほろ良い気分で自転車に乗って帰って、飲酒運転は頭に響いて、帰宅後そのまんま寝た。
三日目。
午前中から午後にかけては世界一気持ちの良いことに時間を費やしてしまった。夕方に友人と会って、夜には登山をし、天地開闢以来一人の人間が経験した中で最も幸せな時間を過ごしたのではないかと思う。概略はこのようだが、実に密度の濃い一日だ。恋っていいなあ。帰りに松屋に寄って帰宅は真夜中。死んだように眠る。
四日目。
昼まで眠って、支度を整えて、夕方に電車に乗った。その前にちょっぴりお見送りをされてみた。なんてことない時間を過ごした。幸せを振りまいて、そのことが幸せになるなんてきれい事みたいに聞こえるけど、実際はすっごいどろどろしてるっていうか、汚いんだろうな。要するに他人を幸せにしてるふりをして自分が幸せになっているわけなんだ。それだけならいいんだけど、振りまく対象が僕の場合はやや無差別なきらいがあるから、かなり自分勝手な幸せになる。日付が変わるころに富士見台のアパートに着いて、翌日から始まる自転車旅行のパートナーと合流した。これを執筆している横で、350キロの行程を消化してきた彼は眠りに就いている。

名言。
何故山に登るのか、そこに幸せがあるからだ。

誰もシャアとアムロを一緒くたに自分のものにすることはできない。しかしララアがシャアとアムロに対して抱いていた感情というのはそれぞれに違っていたはずだ。それにも関わらず、誰にもシャアとアムロを一緒くたに自分のものにすることはできない。
抱いている感情が違っても、表向きにはそれらの感情は全く同じものだとされるわけだ。
(でもシャアは、ナナイとクェスを一緒くたに自分のものにしようとしたわけだし、ララアのことも忘れてはいなかった。)

だめだね、ちょっと気を抜きすぎた。スタイルが逆行してきている。来月はどうなるのか乞うご期待。






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