2003年6月後半の行い(Jacky)

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2003.6.30(月) 最終回

君にいっつも。
2003.6.29(日) 馬鹿博物館、通称バカパク

賢史が来いって言うから行ってくる

2003.6.28(土) 俺も小沢~

時間は一直線か?

ので

たれたれ流しのトイレだから
たれたれ流しのトイレなのに
たれたれ流しのトイレなればこそ
なんとなればたれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレはしかし
たれたれ流しのトイレじゃないぞ

戸惑う。

たれたれ流しのトイレなのに
たれたれ流しのトイレなのに
たれたれ流しのトイレなのに
たれたれ流しのトイレなのに
たれたれ流しのトイレなのに
たれたれ流しのトイレなのに
なのに
なあ

谷崎潤一郎の曰く
文学は音楽的要素+視覚的要素


今の気分
今の気分を
うまく言えたことがない
うまく言えたことがない
うまく言えたことがない

たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
なのに


こういう文字列を見たときに読者は

うまく言えたことがない
うまく言えたことがない
うまく言えたことがない

を見てこれを「一行」として捉えることを学習し

たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ
たれたれ流しのトイレ

を鼻から「一行」として捉えるのだと思う
そのへん意識した方がいいか。

2003.6.28(土) フェンシング by 新聞

たまさかとか、またぞろとか。

口臭除去剤を、頭から、浴びて、シャッフル。



小説家に求められているのはストーリーテラー(タモリ)としての能力であり
奇抜な
感動的な
新進気鋭な
感傷的な
エキセントリックな
センチメンタルな
物語を創り出す能力などは
さまで
要求されてはいないのかなと思う。



文学史におけるナントカ派というのは常に
姿勢と手法を問題としているわけであり
的な色彩が濃いわけであり
的な色彩が濃いわけであり
といった様相を呈しているわけだ。



ラーメンを作るという行為は人間の三大欲求に関わってくることではないのですよ
誰もラーメンを作ることとセックスをしないし
誰もラーメンを作ることで睡眠をとらないし
誰もラーメンを作ることを食べない。



そういった物語を考えるとき彼らは
小説家とは別の作業をしているのであり
小説家ということばの意義を広めようとか考えないでください



ノーナッテマッタ
ノーナッテマッタ
No natte matta
ジンシンノラン
壬辰の乱
壬申の乱



離婚の原因は
性格の
which



のーなってまった
自信
のーなってまった
自信



のたもうた歌
のたもうた歌



のんたんの歌
千秋
のんたんの歌
千秋



たれたれ流しのトイレだから
付近の人がとっても困る

2003.6.27(金) 2002.2.6(水) クイズ浜口おさち

ずいぶんとぞんざい。
すいぶんのそんざい。

せんざいとぜんざい。

しゃんぱんとしんぱん。
しゅんぶんのしんぶん。


文法的には色々なパターン

~的な色彩が濃い、という言葉。





原罪は冤罪。
現在は免罪。





現在も健在?


善哉に洗剤が点在。




最近はなんだか大学校のほうでもこのような僕の文章を嗜む人々が多く出てきて
なんか知らんけど誰かが情報を廻しているようだな。
喜ばしいことだ。
これで僕の大学校でのポジションもようやくあやうくなるかというとこだ。

裸で目隠しして横たわっている写真がどうしてそれほど物議を醸し出すのかが分からない。
クラシカルコンシークエンスパーティーに行ったことを書くことが内輪ネタなのか否か。
自分の文章がセンスの悪い人間の言葉で再配布されるのだとしたら
少し残念だなあと思う。


なんでしょうか。僕がここに批判めいたことを書くときは
あくまで一般論として言うのであり
個人を中傷する気はさらさら。
例えばたまたま誰かの言動が僕のマイナスアンテナに引っかかったとしても
僕はその人を憎むわけでも蔑むわけでもなく
「そういった言動をとる人」を憎み蔑むわけであり。
いわばカテゴリに嫌悪するわけであり。
抽象的なかたまりに対しせせら笑うわけであり。
馬鹿そのものを見下しているわけであり。


馬鹿であるその人を見下すわけではないのである。
罪を憎んで、人を憎まずというやつか。


は。糞理屈。




阿呆論理。


馬鹿吾。



本日はー。夕方に図書館へ行ってお友達とおしゃべりをしていましたよ。
菅野美穂のヌーディティの話題になったとき
「あれ別に使えねえ」
おなごに向かって口走った彼に劣る!ヒット賞。

9時~1時半まで労働したのち
自転車にまたがってさあ帰ろうか
って鍵がねえや
はは。
どうしよう。
ちょっぴりその場でくすぶった挙げ句かついで帰る。
帰宅は3時半とかですよ
2時間も自転車をかついだり押したり
押したりって言ってもずっと後輪を上げておかねばならぬわけですから
ってね、見てるほうは後輪上げて自転車を運ぶなんて
見てるだけだとなんか楽そうに見えるでしょうよでも辛い
めっちゃ疲れて死にそうになって途中交番を見つけたから

「すいませんこの自転車あずかっておいてもらえませんか」

もう警察は信じねぇ!
なんだあの態度は。
くそう。
僕は泣きながら再び自転車をかついで帰った。
この「かついで」というのは比喩でない。後輪を持ち上げながら運ぶと手がめちゃめちゃ痛くなる。しかも疲れる。パーツがももにごつごつ当たる。両手で持ち上げても同じ。というわけで肩の上にかつぐしかない。というわけ。すると肩がめちゃくちゃ痛くなる。死ぬかと思う。
そんな僕の後ろ姿を見て手伝う素振りもお見せにならない警察官と通行人。
通行人などはわざと目をそらすわけで。
例えば二人なら。後輪を持ち上げる係とハンドルを操作する係とに分担すれば
すっげぇ楽なわけで。
でも
みんな冷たいわけで。
深夜でも人通りのある駅前などを通っても
いや待てよ
別に冷たいわけじゃない
優しくないだけか。

僕は辛い余り余りに他人に求めすぎていたわけで。
そんないつも辛さメーターをぶら下げて歩いているわけでもない僕の姿は
何の同情も誘わないわけで
たまによろめいてみたって
阿呆か僕は。何を甘えているんだろう。
たまによろめいてみたって
誰かが自分に何かをしてくれるだなんて
考えるだけで
それだけでおこがましいというか
偉そうじゃないか。何様だ。

死ぬかと思うけどどうしようもならぬ。
まあなんというか疲れたわけで。
家まで帰ったわけで。
は。
この気持ちこれ以上何が言えるどう言えるだろう。
たまによろめいてみたって
誰かが何かをしてくれるわけじゃなくて
泣いてみたって
泣きついてみたって
すがってみたって
すがりついてみたって
偉そうなだけ
とても偉そうだ。
たまによろめいてみたって
疲れているよ辛いですアピールを繰り返してみても
何の同情も誘わない僕は
とても偉そうで。

ひとつもいいとこないということ。

その時に僕の流した涙は恐らく
究極の汚い涙。


じゃあね
あとで寄るよ

2003.6.26(木) こっぱずかしさこっぱみじん

教会通りに

上昇


上京する日も気のせいで労務省は綴り


2050、鬼門へ。
鬼の住処へ
唯携五冊源氏
唯だ携える五冊の源氏
合宴忘家郷
合い宴しみ家郷を忘る
守庚申
庚申を守る
0630、鬼門より解脱。


何にせよ女の子とこれほど語れたのは久しぶりだな。良いことだ。
しかも『饗宴』であり『国家』であり
『ソクラテスの弁明』であったことは悦ばしいことである。
と、誤解も正解も無いように付け加えておこう。




エレベーターの哲学というのを考えてるのはたぶん僕だけじゃなくって




上昇するエレベーターのせいでロードショーに遅れ




飴をよく売るこの土地では
神さまを祀るこの場所では
キンモクセイもねウゴウゴ・ルーガ
すぎ(たかお)るから

黄身にいっつも
しょうゆをかけて眠りたいよ

腫れた瘡蓋って
気味が悪くてもういい


衛藤ヒロユキ『天使待ち』より


エビフライ・エビフライ・エビフライ
この辺りのアジサイには丁度良い季節になっただろう


松山千春&ムッシュかまやつ『羨みから毛を伸ばせ』より




楽しかったー。
久しぶりに真夜中のターンテーブルが一分間に45回転で回った感じ。

弾き語りするあの人の手が
その気になる何秒かがわかったよー



そして
そっとクイズを出すよー

2003.6.25(水) 孤児孤児

図書館で鹿児島大学の紀要を読んでいたら鬼が来た。
女の子の、源氏物語を研じるがましまして、
ああ、やっべえ、惚れそう。
どん欲な人は好きです。


どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
兄妹揃ってお前らきちがいか
きちがいだ
きちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
きちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
きちがいだ
兄妹揃ってお前らきちがいか
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
きちがいだ
きちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
きちがいだ
きちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
どいつもこいつもきちがいだ
きちがいだ
きちがいだ
きちがいだ



白竜



この世からベタがなくなったら
ペン入れの間に合わなかった富樫義博のように
味気ないものだろうな





シュール・レアリスミックシュール・レアリスミックシュール・レアリスミックシュール。






特に言うことはないな、さっきの女の子のこと以外。
負けそうだ、ああいうタイプの鬼には。
がんばらんといかんかなとちょっと思う。


爆笑問題カウボーイはスペードのエースとか言って


僕は太古の昔より
女の子からエネルギーを得て活動しています
元始、太陽だったからね。女性は。
光合成みたいな。


蚊とか蝿よりも蟻だ、蟻。
我が家には
人間よりも蟻の数のほうが多い。
多勢に無勢である。
もはや征服されていると言っても過言ではなかろう。
玄関先にだんご虫。


太田光、岡田淳、小沢健二、奥井亜紀。
僕の人生に影響を与えた人物には、「お」で始まる人が多い。
大槻ケンヂ。
奥田民生とか、小山田圭吾もそうだ。
思えば僕の本名も、尾崎という。
最も影響を受けたのはやはり家族たちであり、家族たちは奇しくもそろって尾崎である。
尾崎豊も嫌いじゃなかったな。
大友克洋、岡村隆史。及川光博。

でもそれはねえ、別に、日本人には「お」で始まる名字が多いってだけで
例外を挙げれば藤子不二雄、太宰治、谷川俊太郎、町田康、手塚治虫、植芝理一、ジェームス・マシュー・バリ。
武田鉄矢、タモリ。
こじつけ判明だよね。こじこじ。

2003.6.24(火) おかえりマサイ

爆笑問題カウボーイを聴きながら。
いいなあ。東京。


テックトゥをしていない。
だから人生に“色”がない。




「音姫」の音って聴いたこと無いの。
男の子だし。
気になるな
聴いてみたいな
CD出ないかな



女装して
女の子のトイレートに忍び込もうかな



出ないかな
マキシ


音姫のマキシ



男の子のトイレートにもどっか探せば音姫あるよね
でも使えないよね
まずこしつってはいらないしね
もったいないしね

電気



ビリビリ
デジタルDG




うるせぇボケなす××人あらまー
おとといきやがれこのクソ坊主
さっさと帰って糞でも食べて犬の死体でオナニーしろよ
そいつは名案気が付かなかった早速帰ってやってみよーっと
犬の死体で尿道オナニーその後きれいに食べちゃおう
猫の死体もなかなかいけるぜもっといいのは人だけど
一番美味しく召し上がるには死後二週間の腐りかけ
なーんだお前も死体マニアかそれなら最初に言ってくれよ
この前渋谷で見つけたんだよ
美味しい死体を喰わせる店を





とても共感のできる歌詞ですね。





これは自分のことを歌っているのでは、
と錯覚してしまうほど。





要するに《時間の神さま》である円ちゃんが普通の人間になった、ということは
その時点で時間による束縛から解脱している、というか
「運命」とか、「過去」や「未来」というものの必然性、
「そうあらねばならない」「そうであらねばならなかった」というしがらみから解放される、
ということなんですが…。

そんなことはたぶんあれを見ていた誰一人、そして後から脚本を読んだ中でも誰一人、
考えようともしなかったと思うんです。
それは脚本家であり演出家であった僕の力量不足によるところで
伝わらない思想は存在しないのも同じです。
ので
ここで僕が何を喋ったとしても無意味なこと。
でもなんか今日読み直してみて色々と思い出したりしたので愛すべき蛇足。
もう二年も前ですか!ひゃあ。

つまり時間を管理する役目を負った神さまがいなくなるわけです。
だからその後は、それぞれの時代はそれぞれの時代の望むように常に変動し続けるわけで。
「時間」という概念自体が意味を持たなくなっていくと。

重要なのは時間の神さま自身がみずからその役目を放棄した、ということで。
決まり切った一直線の時間概念を要無きものと判断したということ。
秩序としての時間よりも平安で誰もが幸せに生きられるような時間へと向かって。
だから神さまの消滅後は、時間という概念そのものが全体として変動を続けていく…

一直線に過去から未来へと進み、善し悪しに関わらずそれをただ維持していく、という仕事を
神さまは請け負っていたわけですが
それがなくなれば当然悪い時代は良い方へ向かおうとする。
全ての時代、全ての瞬間瞬間がより望ましい方向へと変動しようとする。
言うなれば歴史全体が動き続けて行くわけです。
そういう恐ろしく広い視野のすさまじいエネルギーの流動をイメージしていたような気がするのですが…
まあ、僕の力量では舞台に上げることもできず、
それらしいせりふや演出もつけることができなかったわけで。

で、今生きているこの世界はその「理想(イデア)」の状態へ向かう途中の状態で。
こうしている間にも歴史はどんどん動いていっているのだろうなあと。
そんなことを考えて、いたような気がするんだけどなあ。
舞台に乗せたって面白くも何ともない、ただの暇つぶし的な空想ですわ。




批評者の不在、っていうのが痛いよな。つまんない作品には誰も本気で批評をつけてくれない。
僕だけだよ、僕の書いたものを真剣に分析しているのは。
今日は久しぶりに昔書いた文章を読み直していました。
どれもこれも
面白い!
僕の感性によったらそれなりに面白いものばっかりなんですよ、これが。
稚拙だし、恥ずかしいことは恥ずかしいんだけども
それなりにエネルギーだけはあって
自分で書いたものだから何が意図されていてとかこれにはこういう意味も込められていてとか
ニュアンスとかイメージとか
そういうのも全て「僕なりの解釈」で、わかっちゃってるから。かたまっちゃってるから。
だから面白いな、と感じられるんだけど
それを他人が鑑賞したらどうか。
何らの先入観も先行するイメージも予備情報も持ち合わせていないまっさらの脳に
果たしてどれだけ訴えうるのか?
これが自信なくて自信なくて
矢崎隆雄名義で頻繁に発表し続けている詩のようなものも
これでいいのか?これでいいのか?といつも戸惑いつつも
溜まりきった汚いものを排泄するかのように吐き出し続けていますが
どうなんでしょうね。
批評者の不在。
つまんないんだからしょうがない。
訴えかけるものがなければ批評しようという気も起こらぬ。
精進が必要だなあと思って今日も
恐怖。

そ。

いつも恐怖と、
戦ってばかりいるのです。




19:30~24:00までarbeiten
はは。
高校の英語と中学の数学
数学楽しいな。
ややこしいやつが好き。
純粋の発想でなんとかなるようなやつ。
舟でなんかい往復したら全員向こう岸につけるか、みたいな
そういう類は大好きだったなあ。

ああそろそろ高校数学に手を伸ばしてみようかな
とりあえず矢野健太郎の数学物語でも読もう。








松屋にて。

店員「食い逃げだぁ」

2003.6.23(月) コーン風呂敷

はは。ざまあ。み晒せ。晒せ。ケロッグコーンフロスティが各界で超賛美。嵐の絶賛。なんとなれば美味いのだ。本日も小生はケロッグコーンフロスティサンダーボルトを購入し食す。中途半端な町田康調に戸惑いと羞恥心を隠し切れぬまま完食。ふは。ふはは。知ってるか、あなたたちご存じですか、森永ダースがあたかも古生代中生代新生代と律儀に堆積してきたかのような三層構造になっているということを。試しにあなた、そうそこのあなた、10℃程度で保冷しておいた森永ダースの側面を八重歯でカリッとやってみたまえ。そらみたことかパリッと剥がれたは新生代の地層、また再度側面へ八重歯にて打撃を講じてみたまえ、そら剥がれ落つるは古生代の地層。ただ中生層を残すのみとなった。しらんかったやろ、しらんかったやろ、ふはは。




日本の国土ー。




ふふ。はは。癖んなる。やめららん。こら、やめららんね。書庫。
早稲田大学、の中央図書館、の雑誌バックナンバー、書庫。
ふは。月刊カドカワのバックナンバーはっけん。厳かなる文学界群像文芸春秋宝石等の立ち並ぶ文学雑誌の棚にて
武田信治のどアップはっけん。ふふ。ふは。ははは。
新潮45はっけん。
ひゃ。や。国語と国文学中古文学解釈と鑑賞俳壇歌壇白樺アララギ立ち並ぶ文学雑誌の棚にて
ビートたけしのコマネチすがたはっけん。
やめららん。こら、やめららんね。書庫。




あー何だな。ほんとにいい。これ。どんだけ。こんだけ。なんか死ねるわ、ここで。なわとびをしよう。ここで。
したら係員の人におこられるわ。鼻つままれてほうりだされるわ。まどから。
紙ヒコーキの如く爽やかに鷲は飛んでいくと思うね。はは。




たひとに軽んぜられん為には如何に生きるべき。たひとに侮られん為には如何に生きるべきか。
たひとに虐げられん為には。たひとに優遇せらるる為には。たひとに冷遇せられん為には。


並大抵でない。吝かでない。やぶさかでない。
とんねるずの曲でいちばん好きなのは一番偉い人へ
次がガニ




性行為。




ゆきずりの火山灰。鹿児島をりょこうしてたら悪いことはいわんからそういうことになる。
しょっぱなから諦めて上京。火山灰に慣れすぎた体躯。





風と光が貴女に恵む様に最初から感じた。
緑の中で貴女は硝子よりも透き通って見えた。
急に。
貴女の瞳から来るその力は軽い衝撃波。



鷲もその位の事が吐ける様に成りたい
鷲もその位の事が吐ける様に成りたい

いつでもくじけそうなときは
奴の顔と今までに
してきたことを思い浮かべている。


哲学書でも読み漁るか?それこそ愚の骨頂だね!
だけど無意味じゃなかろう。

将来について


将来のことなんて
大学にいると話せない
全てが具体的だからだ、奴ら
夢なんてないからだ
現実的な夢、それって現実だろ?

有名になれば
笑っていいともで
藤子不二雄A先生とかをお友達として呼んだりできるわけだ
いいなあ小山田。
いいなあ…

常套句について


秩序なし

と言いたいときに

秩序Nothing

と言ってしまうか

秩序ナッシング

にするか

秩序ナッシングスゴナチェンジ

に逃げ込むか。


そのようなことに関連付いたお話。


例えば僕は「生物学上女」とかいう表現が嫌い。
「生物学上は女」とかだと目も当てられない。
「生物学的には女」とかね。
どうせなら「生物学上的には女」くらい開き直ってもらえると良いのだがね。

で、Googleという検索エンジンにかけてみた。ぶるるん。

生物学上女 130件
生物学上は女 121件
生物学的には女 199件
生物学上的には女 1件

だそうで。

あ、別にこの表現が出てきたら一も二もなく嫌いだというわけではなくて
特にプロフィールや自己言及的な文章の中にこれが出てくるとね。
「一応女」と同じニュアンスを含んでいる場合にはたいてい、良い気分にはならない。

そう。僕は「一応女」も結構イヤで。
まあこの言葉が蔓延してくれているおかげで「一応男」という言葉に奇妙さが生まれるわけだけど。

なんで嫌いなのかっていうと勘の良い日本国民であればお分かりの通りこの言葉には私は女を捨ててるのよ的な私は女を捨ててる特別な存在なのよ的な私は女を捨ててる特別な存在だから他の女どもとは一線を画している個として際だった人物なわけでオラてめぇら俺様を奇異な目で見つめ他人とは違った個性溢れるエキセントリックガールとして俺様の存在を積極的に肯定しやがれ的なオーラが感じられるではありませんかいやらしオーラが。どう、どう、どうよアタシ的な雰囲気が醸造されていることではありませんか

要するにフワフワした自分を何とかして規定したい、とか
何の取り柄もない自分を何とかして特別な存在たらしめたい、とか
そういった「他人と一緒でいたくないんだ願望」の余りにも顕著過ぎるあらわれではないですか。

ってこんなこと書くのも実は嫌なんです。
自分で言うのもなんだけど僕はもうすぐこの次のパラダイムへ飛翔するところだから。

とりあえずここではその「特別でいたい願望」を「俗っぽい」ものだと言っておきましょう。
「俗っぽい」ものとの距離の取り方として、幾つかの段階があるんだと思います


・「俗っぽい」という概念を知らない段階

・「俗っぽい」という概念は得たが「俗っぽい」ものを認識する能力に欠けている状態

・「俗っぽい」ものを「俗っぽい」と自分なりに認識し定義づけられる段階

・「俗っぽい」ものを「俗っぽい」として嫌悪する(反俗)段階

・「俗っぽい」ものを「俗っぽい」として嫌悪する(反俗)ことを「俗っぽい」と感じる段階

・「俗っぽい」ものを「俗っぽい」として嫌悪する(反俗)ことを「俗っぽい」と感じ嫌悪する段階

・「俗っぽい」ものを「俗っぽい」として嫌悪する(反俗)ことを「俗っぽい」と感じ嫌悪することがばからしいなあと感じる段階

・「俗っぽい」ものに何の抵抗も感じなくなる段階

・僕のまだ到達していない未知の段階


僕はいま反俗嫌悪段階と反俗嫌悪ばからしい段階と何も感じない段階とを行ったり来たりしている感じです。
ちなみにさっき「パラダイム」なんていう言葉をけろりと吐いちゃってた僕は、何も感じない段階だったんじゃないかと思う。
でもそれと同時に反俗嫌悪があって。更に自分のそういった反応に呆れ返っている自分もいて。
だからこんなことを書くのは少し抵抗があったりするのですが
余りにも枠組みの狭い人々が世の中には多いと思ったので
今日のところは完全に反俗嫌悪の立場になりきってですね、ちょっとしゃべくってみようかなと。

あのー。恥ずかしくないんですかね、生物学上は女。とか平気で言えちゃう人って。
別にその言葉使ってるからいけないわけじゃなくて、
その言葉を使う時に少しでも「あーこの表現よくあるけどまあ敢えて使っちゃおうかな」くらいのことを考えてたら
それはむしろ良いことかも知れない、
たとえ自分には引っかかったとしてもそれが効果的であれば根っから語彙を殺してしまう必要はない。
問題は何の批判意識も持たずにポイポイポイポイ、無意識のうち常套句に蝕まれていてそれに気付かない状態です。
たぶん一年か二年経ったらそういうのってわかってくると思うんだ
僕も二年だか三年だか昔に書いた文章を読み直したりするとそんなのばっかでもう大変!だし。
時間がなんとかしてくれるとは思っても
どうにも、今現在の自分がそれを見て腹を立ててしまうのだからしょうがない。
ストレス解消にこんな文章を書いてしまうわけだよ

で、なんで例として挙がってるのが「生物学上女」なのかというと
単に最近よく見るからです。後輩のサイトのプロフィール、とある大学生のweb日記、その他にも何度か目にした、
たった数日の間で。

女であることにちょっと譲歩してみる
そんなイージーな方法で自分を規定しようなんて甘い。
そんな有名な方法で他人の意識を向けようだなんて
あとで赤面するだけだと思うけど。

何でこんな確信に満ちているのか、僕。

↑あと一年くらいしたらこの一行がたまらなく嫌いになるだろう、と思った。
もう今使ってる意識のハコは、そろそろフタが開きかけているんだろう
で、このハコから出たらまた新しいハコの中にいる自分に気付くんだ。
そうやって少しずつ、思考のワクを広げて行く
もうすぐに見えるだろう、新しいパラダイムが
というのは、そういうことを言っている。かも知らん。

2003.6.22(日) フロスティはうまい(歌が)

詩について。

1 そしてそっとクイズを出す
2 そしてクイズを出す
3 クイズを出す

1が上級で
2が初級
3は詩じゃない
みのもんた。




森永ダースのCM撮影が
ローマに決定
スチュワーデスさん
ボンジュール
飛行機乗って
ワイン飲んで
ダース食って
寝る
ところがローマでは
スペイン階段が工事中で
撮影は中止
あら
がっかりしたから
ホテル帰って
あー眠い
寝てました
ホント俺
何やってんだろ
ってな気分も吹っ飛ぶ
森永ダース
エンゼルの鍵プレゼント中




以前、この日記に
“単純なヴォーカルギターベースドラム編成のバンド的お芝居”についての痛烈なる批判を書いた。

今日ネットサーフィンをしていたら
偶然それに近い文章を見つけた。

とあるミュージシャン(こういう表現をしたらこの日記の中では彼に決まっている)が
バンドをやろうとした時に何故かベースドラムギターのような形になるのは無意識の人真似(コピー)である、と
いうようなことを、言っていた。

もうこれリスペクト対象への自己同一化願望、その末期的症状。

往々にしてあるんだよね、ああこれ自分と同じこと言ってるわとかさ、
他のリスペクターから見たら何とも煩わしいというか、偉そうなこと感じるの。



本当に馬鹿な奴は


「俺と太田光の脳味噌は同じ仕組みで動いている」


ぐらいに言っちゃう。


「その証拠に俺“たち”は、非常に似通った生い立ちと知識体系的なバックグラウンドを持ち合わせている」


とか、もう、末期。




芸術ってなんでしょうか。

フワフワしたものさ。




芸術ってなんでしょうか。

フワフワしたものさ。

霧や霞のようなもの

変幻自在の不定形スライム

渚のシンドバッドのように浮気がち

とにかくフワフワしたものさ

深い谷では

仙人はカスミを食べて生きているのさ

2003.6.21(土) 見上げたらモーニング娘。夜にはぐれて朝焼けのベランダで戸惑っている

午後七時ごろ畳の上に寝転がりつつ絶望や渇望や失望や切望と闘い/差し迫っている労働の尊さによるプレッシャーに全身を殴打/され得るだけされ続けていた僕は身悶えと輾転反側をリピートしながらリピートしながらリピートしながらリピートしながら西方浄土への強い憧れを江戸人並みに絶叫そして近所の目/ならぬ耳を気にして赤面して自らを要無き者と認定していた。ロシア文学で言うならば余計者だと。

そんなこんなで僕は藻掻き喘いでいたわけです。もがきあえいでいたわけです。ひえだのあれとは無関係に。
折しも


くじけちゃだめだよ
いつでもひとりじゃない


そんなフレーズが脳味噌の中にフイッと侵入してきました天から。
それがワタルの主題歌だとわかるまでに数秒を要しました。
したらなんか俄然元気になってしまって労働に精が出る精が出る精が出る精が出る。


ああっはっっはっっははははああはあ
『ワタル』からではなく
メロディからではなく
単純にフレーズそのものから
脳味噌に直接降って沸いたように現れたこの感覚
うまく云えない。
云えるようになったらたぶん一人前なのだろうなあ。


なんつうか予備情報ではなく言葉そのもの。
意味ではなくフレーズそのものの持つイメージ。
別に「いつでもひとりではないのでくじけてはいけません」という意味がここで問題だったのではなく
そのフレーズ全体が持つイメージ
響きから来る直感的な印象。
それが僕を元気づけたわけであって
べつに「おおそうだくじけちゃいかんわな。ひとりじゃないディーン」とか思ったわけでは全然なくて
単純にそのフレーズが持っているパワーが作用したというか。
とりあえずなんか新鮮な気分だったと。



座右の銘は
「甘い水を飲み干した/カップの底に注意書き」です。



甘い甘い
みずみずしいみずにみたされていて
注意書きはしとくけど飲んでから、みたいな。
そんなのがいいよね、本当にね。

水、
透明だけどね。




後悔マイナス時は、真剣勝負。




SOS
時計よとまれ
2003.6.20(金) 上沼エミネム

哀愁の漂う金曜日に皆様いかがお過ごしでしょうか。
哀愁のただよう金曜日にみなさま如何おすごしでしょうか。


今日も朝日新聞に国民の国語力低下について書いていた。
「~に書いていた」という用法は主語が無生物であるとき一見妙に思えるかも知れませんが
その主語が「新聞」(特に朝刊)である場合にはまかり通るようです。
だけども
問題は今日の雨。傘がない。

高校二年生に英語を教えています。
みなさんはa natural part of Japanese discussionsという言葉を日本語に変換できますでしょうか?
どうも日本語力の低下が著しいのだ。
英語の名詞句を日本語の名詞句に置き換えることができない。


関川くんというこのページに旅行記を書きおろしてくれている友人からメールが来ました。
タイトルが

マホメットたかた

なんなんだろうね、このセンスは
勝てませんよ、ほんと。
『瀧と瀬戸』ってなんのことかわかりますか?
2003.6.19(木) 僕の名前は江戸川ソニン

非常に疲れるスタンスは唾棄し破棄します。
通常営業の開店休業で。




ロマンチックラブイデオロギーについてのまとめ。
“イデオロギー”という概念(なんというパラドクシカルな表現だろう)は、
「本人は気付いていないが実はもうそれに取り込まれてしまっている」という状態であるときに
最もその意義を強めることになります。

明治時代は離婚率はべらぼうに高かった。
子どもが死産したり誕生直後に死亡したり、
或いは母胎が出産に耐えられず他界するというケースも多かった。
それは女の子が12歳とか13歳とかで強制的に結婚させられていたということと深すぎる関係があります。
まあこれは当たり前のこと。
というわけで「結婚を遅らせようキャンペーン」が大々的に催されるわけです。とりわけ女学雑誌などで。

キャンペーン効果でそれまで12~14歳で結婚していた女の子たちやまた男の子たちにも、
数年間のモラトリウムが設けられることになります。
そしてそれは当然「恋愛をする期間」として機能することになりました。
現代の言葉を使えば、いわゆる《思春期》の少年少女たちです。これも当たり前のこと。

《子ども》という存在が近代になってから誕生した概念であるというのは有名な話ですが、
もちろんそれ以前にも「大人のちっちゃいやつ」としての《子ども》は存在していました。
しかし《思春期》という概念が生まれたのは(こと日本では)名実ともにこの時代からだったのではないでしょうか。
それまでの少年少女には反抗することも恋愛することも許されず、
大根を引っこ抜くように《大人》になっていくことが多かったのだから。

数年間のモラトリウムを与えられた少年少女は、当然のように恋をします。
たぶんセックスもしたでしょう。
恋をして、セックスをすると、なんと困ったことに、恋をした相手と結婚をしたくなります。
子どもなんかできてしまった日には結婚しないとどうしようもありません。
明治時代に今のようなピルだのコンドームだのは存在していなかったはずですから避妊にも一苦労です。

こうやって“家”制度は崩壊していったのだ…
という論が展開されるかといったら、実はそうではありません。
“家”制度は実は、非常に巧妙な形で生き残っているのです。

自由恋愛が政略結婚、お見合い結婚の制度を徐々に崩壊させていったのは事実です、
現代では94%以上が恋愛結婚である、と聞きました。
残りの6%はよっぽど頑固な家柄か、どうしようもなく××な人なのでしょう。
しかし“結婚”という制度に基づいた“家”制度そのものが崩壊したわけではありませんね。
単に“家”制度が、“結婚”という制度の中に“恋愛”を取り込んだ、という、ただそれだけなのです。

“恋愛”を“結婚”の中に回収していくことで、恋・セックス・結婚の三位一体化を図ったのです。
「恋愛をして、セックスをしたら、“結婚”をしなくてはならない」という今では当たり前の図式を、
《道徳》という非常に巧妙な形で我々の意識の中に植え付けていったのです。

そして現代、日本ではだんだんと、階級制社会を形成するところの“家”制度というものが首をもたげてきています。
さて、政略結婚がなくなったのにどうして階級制社会というものが形成され得るのか?
それはずばり、《学歴》です。

日本一の官僚養成機関である東京大学を例にとりましょう。
そこに通う学生の親というのが、年収を平均すれば千数百万円、その職業を調査してみると、
なんと弁護士、医者、中小企業の社長、大企業の幹部クラスで八割が占められているそうなのです。
また、慶応・早稲田に通う学生の親の年収は平均900~1000万弱くらいだということです。

この数字が何を意味しているか。
みなさん自分の心の中を覗いてご覧なさい、
あなたが大卒なら、中学出て働いている異性と恋愛をして結婚をする、ということが考えられますか?
あなたが農業従事者なら、大企業のエリート社員と恋愛をして結婚をする、ということが考えられるでしょうか?
知らず知らずのうちに我々は同じステイタスを持つ相手を恋愛対象に選んでいるのです。
そして多くはそこで、結婚を前提とした選別を行っているはずです。

もっと実際的な話をすると、例えばあなたが高校生だった場合、
同じ学校の同じ学年の異性に恋をすることが多いんじゃないでしょうか。
それは要するに、そうするのが一番手っ取り早いからです。
そして「同じステイタスを持っている」ということが最も容易に確認できるからなのです。
それに、同一のコミュニティにおいては出会う異性の絶対数が飛び抜けています。
同じコミュニティに属していれば、学校にしろサークルにしろ漁業組合にしろ、
親密になる異性の絶対数は他コミュニティのそれと比較すれば圧倒的なはず。

何よりもやはり心理的に、我々は確実に似たようなステイタスを持ち合わせた相手を恋愛対象として選んでいるはずです。
東大の学生が××大学と合コンをするでしょうか?
いや、しないでしょ。
恐らく東大の学生の中では××大学の学生と付き合うことなど、まさに《ステイタス》に反する行為なのではないか。

このように、かつての《お見合い》や《政略結婚》といった「階級制社会形成制度」を、
我々は知らず知らずのうちに内面化(これ重要な言葉よ)し、
自分たちが主体的に行っていると思いこんでいる恋愛、そして結婚という行為が
実は階級制社会の維持・発展のために寄与されているのだということに“気付かないで”いるのだ。

と、いうようなことを
文学の授業で聞いた(半分くらい)








天使が降りてきて撃ち殺すんですよ。

「あの時わたしたちはキスをしたせいで“天使”に殺されて大人になったんだ……」

まんまるの鬼火じみた発光体に羽がついたようなものが無数に空から降りてきて
その中の一体がレーザービームみたいな真っ直ぐの光線を発射して身体を貫く。
男の子と女の子は血を噴き出して倒れ、そして死ぬ。
傷口からリンガ(男性器の象徴)とヨニ(女性器の象徴)がそれぞれ体外へ出、空中に浮かぶ。
二人は全てを忘れて何事もなかったかのように生活するんだけど
それから一生、リンガとヨニは男の子と女の子の頭の上に浮かんでいるのです。
けれどもそれに気が付くのは本当にほんの一握りの人だけなんだってさ。
だからみんな、大人になった瞬間のことも、そしてもう既に大人になってしまっていることさえ気付かずに、
大人としての生活をいつのまにか送っている。
詳しくは植芝理一の『ディスコミュニケーション』11巻「天使が朝来る」。









早稲田の学生が美人局とレイプで捕まったらしいです。
色んなとこで言われましたが
僕じゃありません。





髪を切って
めちゃくちゃ礼賛されています。

「よくなったよくなった!」

「さわやかになったよね!」

「絶対前よりいいよ!」





切って正解!









ありがとう
嬉しいです
でも
今までの僕って
全否定

2003.6.18(水) 一日初潮

ブック・オフにて。



店員「おURRREEEEYYYYYYYYYYYYYいただける本などございましたら是非お持ちください。」
2003.6.17(火) 人間は全くの白痴の状態で生まれてくる――J・ロック

松屋にて。


客「松ください。」

店員「松一丁。」

2003.6.16(月) 炊き込みタモリ

今日は久しぶりに週刊少年ジャンプを読みましたので
その感想を書こうかと思います。



えー。まず『ONE PIECE』ですが。


驚きましたねえ

ルフィが本当はゴムゴムの実を食べていないことが明らかになってますね。


じゃあ何故ルフィの腕が伸びるのか、
そのあたりも明らかになっているようです。

びっくりしました。
驚きましたよ。

まさかルフィが
波紋の力で関節外してたなんて。



実にびびりました。
まさか波紋とは。

物理的攻撃が通用しないのも波紋のおかげだったんですねえ。



次に『SLAM DUNK』ですが。


あのカンバン付きの不良である桜木花道がバスケ部に入部するなんて驚きですよね!

でも入部したての花道はキソばっかり。
一刻も早く試合に出てスラムダンクをキメたい花道としてはやっぱりもどかしさを感じていることでしょう…


いつまで経ってもドリブルの練習。
来る日も来る日もダムダムダムダム…
ダムダムダムダム

ダムダムダムダム

ダムダムダムダム

ダムダムダムダムダムダムダムダム

ダムダムダムダムダムダムダムダム

ダムダムダムダムダムダムダムダム



ムダムダムダムダムダムダムダムダ


ムダムダムダムダムダムダムダムダ




無駄無駄無駄無駄
無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!!








次に『DRAGON BALL』ですが。


鳥山明先生の新連載であるこの作品の主人公は《悟空》というんですね、

「オッス、オラ


オラ



オラ



オラ




オラオラオラオラオラ
オラオラオラオラオラオラァ!!!!


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