少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2022.10.3(月) 学校で何を学ぶか
2022.10.6(木) 11/1、ひとり芝居をやることにした
2022.10.13(木) プロと同一性
2022.10.18(火) 速度、体温、色気
2022.10.21(金) 旅めも(新潟、新発田、酒田、秋田、仙台、上越、熊谷)
2022.10.29(土) お誕生日公演のお知らせ

 うさぎとたぬきと柿(夕方の部)→終了
 うさぎとたぬきと柿(夜の部)→終了

 とりあえずライブ配信限定。17:20ごろと22:20ごろ始める予定です。見た人はなんらかの方法で拝観料をください。迷ったら2112円とかでおねがいいたします。→おこづかい
 きょう(11月1日)おたんじょうびだし!


 夕方の部の配信動画を見ました。BGMが小さめに聞こえていますが、会場ではもうちょっと大きいです。夜の部はちょっとだけ大きめにやってみます。

2022.10.29(土) お誕生日公演のお知らせ

ジャッキーさんお誕生日記念
劇団ぼく 第1回公演
『うさぎとたぬきと柿』
令和4年11月1日 火曜日
夜学バー(台東上野2-4-3 池之端すきやビル301)にて
木戸銭二千円 通常営業の木戸銭込み(つまり観覧料は実質千円)
奨学生は五百円引き 小中高生等は任意の額を適当に
入れ替えなし 2回観る人は投げ銭どうぞ

<1回目>
17時開場 17時20分ごろ開演 18時までに終演予定

※18時から22時まで通常営業

<2回目>
22時(実質18時)開場 22時20分ごろ開演 23時までに終演予定

※23時頃から25時頃まで通常営業


脚本 僕
演出 僕
照明 僕
音響 僕
制作 僕
その他すべて 僕


 本企画の趣意は2022.10.6(木)の記事にも書いていますのでご参照ください。
 改めて書きますと、僕は昔から「演劇はもっと身近で、手軽であるべきだ」と思ってきました。今回は夜学バーのカウンターの中を舞台とし、客席を客席とします。このお芝居のために新たに買ったのは暗幕とマジックテープくらいで、あとはすべてお店にあったものを工夫して使います。
 といってやはり「いつもの空間」とは違う、特別な空間にしたいと思っています。非日常感ならぬ、非夜学バー感のある舞台。それでいて使っているものはすべて夜学バーにあるもの。どんな場所でも工夫次第で舞台になり得る。いつでも、どこでも、演劇はできる。簡単に。そのことを証したいというのが最大の動機です。
 だからこそ、というのでもないですが、準備期間はものすごく短いです。構想はそれこそ何年も前からあって、夜学バーを開いた時から「いつかここでお芝居をやりたい」と思っていたのですが、脚本を書き始めたのはなんと28日の朝。現在は明けて30日の午前2時なのに、まだ書き終わっていません。たぶんあと3分の1くらい。もちろん演出もつけていないし、稽古もできておりません。ただ、頭の中には断片的にいくらか映像は浮かんできております。
 あと63時間でなんとかなるのか? そのうち使える時間は……あんまり考えないことにしましょう。今回のテーマは「気軽に」なのです。演劇は気軽に、簡単にできるものでなくてはならない。
 お金も時間もかかって、人もたくさん関わって、練習はハードで、そのうえ特別な道具や技術まで求められる。会場や稽古場をおさえたりスケジュールを管理したり、お客を呼ぶには宣伝も必須。演劇をやるってのはふつうそういうことだから、そうそう流行るわけがありません。
 正直言って、こんなにハードルが高いと衰退は必至でしょう。僕は演劇について、世の中をよくするよいものであると基本的には思っているので、衰退はできるだけしてほしくない。もっと世の中にあふれていてほしい。そんな願いをこめて、今回は気軽に、適当に、だけど真剣に、本気でやってみます。よろしくお願いいたします。

 ところで、演劇をやっている人はヤバい人が多い(と、僕は思います)。理由の一つは「ハードルが高いから」ではないでしょうか。ヤバい人でないと始めにくい、続けにくいというのが、現代日本の演劇の最大の問題とさえ思っております。「ヤバい」とは何か、ってのは置いといて。


 録画はして、あとで有料(2000円とか)で売るつもり。生配信はYouTubeで「やれたらやる」。考え中。やるとしたら、このホームページにだけこっそり貼りますので、直前のチェックをお忘れなく。画質や音声はたぶん悪いというか、僕のやっていること、やりたいことは伝わらないと思いますから、できればおいでください。僕は素顔でやりますがみなさんはマスクを着用するとより安全でしょう。ドア開けて換気扇+高級空気清浄機でがんばります。

2022.10.21(金) 旅めも(新潟、新発田、酒田、秋田、仙台、上越、熊谷)

 19日から旅行に出ている。いまは新幹線の中で、ひとまずはメモ。もうちょっとエモいバージョンも書きたいと思っておりますが、細切れになるかも。

 3日間乗り放題の「JR東日本パス」が3日前までしか購入できないということにピンときておらず、19日出発なのに20日からしか買えなかった。19日は別途きっぷを購入して新潟へ。株主優待割引を3400円で買ったので1000円引きくらいにはなったかな。もちろん自転車持参です。
 新潟駅には18時16分着。CHIOSCOでカフェラテとエスプレッソ。前日に朝までゴールデン街を回っていた(月、ビ、パ、GHE)のと新幹線酔いで体調思わしくなく、ひとまずお酒はやめといた。ペがさす荘でも最初はノンアルコールビールにして、そのあとビールやジン、ワインなどをゆっくりと飲んだ。ラム鍋おいしかった。お客はほかに3人いて、店主の奥さんもいた。人が少なくなったところでスペース配信を3時間ほど。いい対談になったと思う。アーカイブはそのうちどこかにUPすると思いますが、しばらくは夜学バーのTwitterから聴けます。
 優しく泊めていただいて、朝方出立、0851→0929新発田。「珈琲詩織」でモーニング。最高だったのでお店のインスタ(ようやく動かそうという気になった)でレビュー。「三角フラスコ」でコーヒーチェリー茶いただく。豆も買う。前回お伺いした時に話していたコーヒーリキュールはなんと二日前から公式リリースだったそうで、「ちょうどご連絡しようと思ってたんですよ!」なんというタイミング。持っている。夜学バーで今日から飲めます。
 1117→1305酒田。残念ながら今回も「喫茶マリン」はやっておらず。「喫茶ケルン」へ。ブレンド、雪国、ボサノヴァ・デイジーをいただく。息子さんご夫婦からたくさんお話聞かせていただく。詳しく書きたいところだが涙を呑んで略。川柳集買う。そしてなんと「雪国」専用のグラスを一ついただいた(内緒だよ、SNSには書かないよ!)。
 1530→1726秋田。「しののめ」行ってみたらちょうど店主さんがいらっしゃったのでほんの少しだけお話をする。「猫が死んじゃったからね。もうしばらく営業してないんだ」とのこと……。
 hirakuに行きはまやさんに会う。連絡もせず突然行ったのにすごく喜んでくださった。持つべきは友!
 開和食堂まで走るも、やっておらず。昼だけなのかな。なかぞの食堂で肉鍋定食500円。
 1910→2130仙台。ひとまず宿(3000円)へ。お風呂に入って身の回りをあれこれ整える。仙台の町を走り回る。あの店がなくなっている、こんな店できたんだ、など。某店の前に勝手に『あたらよのスタディ•バー』献本。さて仙台といえばリチクク。ドアを開けるなり「ジャッキーさん!」と酔っぱらいながらじゅんさん。スリランカポークカレー、ライオンスタウト、ジャズボール(本場)。お客さんのおみやげで塩やきそばとシャインマスカットもいただく。そばの神田、半田屋、ぐら、きっこうちゃん、タコさん定食の幸男など。10年やってたお店を立ち退きで閉じねばならないというお姉さんのお話を聞く。今は水木金でリチクク、土月火に自分の店、とのこと。新しいお店できるといいな。応援。
 そして仙台といえば「くも」。このお店は本当に好きだ。みんな絶対にこの2店だけは行ってください。いも焼酎の水割り、お湯割り。宿に戻る。
 なぜかものすごく胃もたれして気持ち悪く、全然寝られず焦る。0931→大宮→上越妙高→1245高田。「喫茶シティーライト」へ。書きたいこと山ほどあるがまたどこかで。89歳。ものすごく元気だ。3年前より1年前より、今が一番元気なのが本当にすごい。年齢も違うが、ケルンの井山さんがお店に立たなくなって弱っていってしまった(らしい)のと対照的だと思った。僕はこのお二方を色々な面でけっこう重ねていた。
「喫茶秋」へ。おばさんたちの噂話ラジオが毎度面白い。たぶんほとんど見つかっていない名店。ここにだけこっそり書き記す。(こういう情報は価値がある人にとっては本当に価値があると思うのですよ。)
 自転車で上越妙高まで走る。地図にない新しい道路ができつつあり、新幹線と高田とがちょっと近くなりそう。変わっていくものだ。
 1500→長野→1633熊谷。いまここ。「モリパク」と「A.L.F Coffee」に行く予定。どちらも営業しているかは不明。「セーヌ」にも行きたいが時間ないかも。その後1916→1946上野の新幹線に乗る予定。で夜学バーを営業します。続きや詳細は未定ですが、この旅は確実に僕にいろんなものを与えてくれました。たぶんこの文章では伝わらないだろうけど、会いたかったたくさんの人たちにようやく会うことができた。3年くらい会わなかった方も多い。こういうことにわずかなお金を使っているのです。

2022.10.18(火) 速度、体温、色気

 新宿の珈琲貴族エジンバラで母と子の家族会議が行われていて、なぜかそこに呼ばれた。ちょっとした事件(省略するがけっこうそれなりな大ごと)があって母親が上京してきており、その顛末をLINEやDMで聞いてたらいつの間にか「親に紹介したいので来て」って話になっていた。それが21時くらい。22時過ぎには現地にいたから僕もえらいものだ。なんつっても「速度」が大事。
 なんで呼ばれたのかはよくわからないし、本人もあんまりよくわかってないのかもしれない。たぶん友達をお母さんに紹介したかったんじゃないかな(そのまんま)。その子は僕のことがとても好きであるし、僕もその子のことがとても好きであって、さすがに親友のようであるから、「この人はわたしの本当に大切な友達なのだ」ということを親に示したかったんではないかと思う。それをしてどういう意味があるかはわからないが、「紹介したいから来て」って言葉をそのまんま解釈すればまずはこのようになる。また逆に、「わたしの親はこういう人間なのだ」ということを僕に示したかったのでもあるだろう。それによって「わたし」への解釈がより深まり、友情だってそれで深まりうる。今後「お母さんがさあ」という話になった時、すんなりと「ああお母さんね」ということを言えて、その逆もあって、親子の会話として「ああジャッキーさんね」がすんなりと通る。そういうふうにある意味、風通しがよくなる。それが「紹介」。そんな良き予感もあって僕は「めんどくさいけど行くか〜」とスピード感を発揮したのである。すなわち、行かないよりも行ったほうがいいから。すべては仲良しのため。
「速度とか温度とか色気とかがないとダメなんだよね」と彼女は言った。この3フレーズはのちに本人によって「速度体温色気」に改定された。ちなみに色気というのはちょっと前にLINEしてて、ある人物について僕が「彼の文章には内容しかなくて、色気とかがないよね」というような批評をしたのが元になっているのだと思う。また速度に関しては谷川俊太郎『少年Aの散歩』の「そんな書き方には速度がない」「誰も光速では書けないのだろうか」という一節を思い出す。影響なのか共鳴なのかともかく我々の間にはあれこれの相互作用があって、彼女の口から発せられた「速度、体温、色気」という三拍子は、いずれも僕が長いこと意識してきた言葉たちではあるものの、改めてこのように(それこそ速度をもって)並べられると、「なるほどそういうことだったのか」「そういうふうにこれらは繋がっているのか」と僕に新しい感興をもたらした。言葉は僕らをぐるぐると循環し、常に新鮮な血を連れてくるのである。この巡りこそが友情なのだ。(なんかそれっぽいことを言ってみている。)
 それはどんな友達だってそう。良き友達とは良き血液を循環させるような関係にある。もちろん頻度は色々で、数年ぶりに会ってお互いに「あーいい血を交換できたな」と思えるようなのも。要するに「刺激を与え合う」ってやつだが、それは強い刺激でもいいし、優しいマッサージくらいのもんでもいい。温泉に入るようなことでもすごくいい。

 速度、体温、色気。いずれも「内容」ではないし、量というよりは質の話。速ければいいってわけでも熱ければいいってわけでもない、また色気の「多い」ことがそのまんま魅力なわけでもない。美として成立しとるかどうか。
 文章というのは非常にわかりやすい。速度があって、体温があって、色気のある文章でなければならない。あるいは演技というものも、それらがすべてなければ(僕にとっては)つまらない。そして当然人間というものは、速度があって、体温があって、色気がなければ、つまらんわけである。そして、そういうものの存在をちゃんと知っていて、嗅ぎ取れたり読み取れたり、見惚れたりできなければならない。
 年の離れた友達とも「仲良し」だと思えるのは、同じものが好きだからではない。同じものを見たときに、同じような速度や、体温(温度)や、色気を感じ取れていることがお互いにわかるから。だからこそその場にある速度、体温、色気をうまく使って、楽しい時間を共有できるわけである。その、間合いみたいなもの。同じセリフ同じ時思わず口にするようなありふれたこの魔法で!

2022.10.13(木) プロと同一性

 オカリナを拾った。練馬区富士見台、かつての散歩コースのさなかで。何気なく吹いてみた。小中学校で習ったリコーダーの要領でなんとなくペポペーポリとチャルメラみたいな音を出す。この偶発性。十分に音楽である。十分に芸術である。この線で僕はずっとやるのかもしれない。

 プロというのは「再現性がある」ということだろう。だからお金になる。そもそもは素人が、つまり普通の人が、なんとなくやったことがたまたま凄かったりして「うおお」ってなった、それに再現性を求めたのがゲージツ(art)の始まりだろう。
 たまたまやったことがなんか凄かった。「それ、凄いね」ってなって、「どうしたらもっかいやれるだろう?」と誰かが考え、工夫して努力して、「だいたいいつでもできる」ようになったのがプロであろう。
 洋食屋で、10回に1回はうまいけれども、10回に9回はまずいというとき、それは「プロの技」と言われない。それでも愛され、その洋食屋が繁盛するというとき、その洋食屋は「味」以外の何かを再現できているのかも知れなくて、その点でそのお店は「プロの技」を持っている可能性がある。あるいはもちろん、「味がたえず不安定であり、何回かに一回は奇跡的においしい」という状況それ自体が「再現性」という話になれば、それを「プロの技」と考えることもできる。再現性っていったいなんなんだということではあるが、ともかく安定しているってことなんじゃないかと思う。この洋食屋が一年を通して常に美味しいものを提供したり、常に不味いものを提供した場合には、まずは「話が違う、詐欺だ」となるだろう。前者の状況が続けば「おいしさのプロ」となり後者が続けば「まずさのプロ」となる。んーまあなんだかわかんないですね。でもそういうことなんだと思います。

 要するにプロというのは同一性なのですかね。「間違いなくここはこのお店である」というふうにお客が思えればそれはプロなのかもしれない。
 古い店舗をリフォームして、経営も息子の代に譲った洋食屋。内装も食器も味も人も以前とは違う。それでも「このお店だ」と思えるなら先代のプロフェッショナルは継続している。「こんなもん○○亭じゃねえよ、○○亭のモノマネじゃん」なんて言われたんじゃ、先代のプロフェッショナルは途絶えたとみてよい。

 たとえば、ジャッキーさんという芸術家(!)が何かをやるとき、「これはジャッキーさんだ」と思ってもらえれば同一性が確保されており、「ジャッキーさん道のプロ」として認められるが、「こんなもんジャッキーさんじゃねえや」「ジャッキーさんも終わったな」「ジャッキーさんのこんな姿見たくなかった」と思われれば、その思った人にとってジャッキーさんはもうプロではない。ゆえにお金も支払われなくなる。ところが同時に、「さすがジャッキーさんや!」と思う人もいるかもしれないし、「初めて知ったけどジャッキーさんってすてきにすばらしいね」と思う人もいるかもしれない。プロにとってのお客さんというものはそのようにして減ったり増えたりする。
 プロは、可能な限り過去の自分との同一性を保持しながら、新しいお客の獲得のために自分を的確に変えていかなければならない。もちろん過去のお客だけでやっていこうとするなら何も変える必要はない。ずっと同じでいればいい。
 50年営業している赤ちょうちんの飲み屋では、変化を求めるお客はほぼおるまい。店主のほうも新しいお客をそれほどに求めてはいない。知らない人が入ってきたら嬉しいかもしれないが、その獲得のためにお店を変えようと思う人はさほどいないだろう。
 もちろん、例外もある。たとえば老舗のそば屋がたまたま美少女アニメのワンシーンに使われ、聖地巡礼の若いお客がどっと増えたとする。これをいやだというお店もあれば、ありがたい、うれしいと捉えるお店もある。そして「○○ちゃんそば」みたいなアニメになぞらえた新メニューをつくっちゃうような場合もあるだろう。でもそれはたまたまそうなっちゃったから乗っかったということで、自分から手を挙げてアニメに出たわけではないはずだ。
 インスタでバズったりするのも似たような話で、喜ぶお店もあれば迷惑に感じるお店もある。二度と来ないような人たちが同じメニューばかりを頼んで写真を撮り、そのせいでいつも来ているお客さんの席がなくなったりする。お金は儲かるが、こんなことがやりたくて店をやってんじゃねえんだと思う人はいると思う。テレビに出ない取材拒否のお店は、こういうことを恐れてきたのだろう。「SNS拒否の店」ってのはなかなか難しい。そうは言ってもこっそり投稿されてしまうことはある。

 知らないあいだにSNSでバズっちゃってお店の様子がすっかり変わってしまう、というのは、同一性の喪失ともいえそうだ。以前のお客はいくらか離れるだろう。メジャーデビューしてインディーズ時代のファンが離れるみたいなものでもある。かつてのファンから「プロ」として愛され続けるには、それでも自分は自分であるとアピールして同一性を認めてもらわねばならない。
 近所の中華屋さんがまさにSNSでバズっちゃって、テレビにも何度となく出て、以前に増して忙しくなった。店主が高齢なのもあって営業時間も短くなった。客層はだいぶ変わった。僕が通い始めたころは深夜2時くらいまで明かりがともっていて、仕事を終えたスナックのママとそこの常連客なんかが締めの一杯を楽しんでいたりした。最近は21時くらいに閉めるようになった。ずっと店主一人でやっていたのが、手伝いの若い人が一人か二人、常にいるようになった。年齢のこともあるし、もしかしたらその中で後を継ぐ人が出てくるかもしれないんだから、そのことをいやだとは言わないが、ずいぶんお店の雰囲気は変わってしまった。それは事実である。
 もしSNSでバズらなければ。テレビにも出ていなければ。あのおばあさんは今でも一人で深夜まで鍋を振っていたかもしれない。スナックのママも飲みに来ていたかもしれない。僕はもちろん、そうであってほしかった。なによりも僕がお店を終えたあとにすべり込んで夜食にもありつけたんだから。「明かりが消えてても入っちゃっていいよ。」と言ってくださったのが本当にありがたかった。でもその生活を続けることがご本人にとってよかったかはわからない。あまりに重労働すぎたのも事実だから。
 いったいどっちが幸せなのだろう。近所の人たちばかりを相手に夜中まで一人で鍋を降り続けるのと、近所の人たちに加えて各地からやってくる「観光」の人たちを相手に人を使ってせわしなく働いて21時に店を閉めるのと。他人がどうこう言うことではないし、もうそうなっているのだからこれが正しいのではあるが、僕が行く頻度はかなり低くなってしまった。もうあの頃の感覚にはなれないのだ。でもあのおばあさんのことも、あのお店のことも大好きだからたびたび行かなければ後悔するのもわかりきっている。だからもちろんたまには行っている。だけどなんだか淋しいのである。それは僕が個人的に今のそのお店に対して、かつてのそのお店と同じだという気持ちを持てないから、「同一性」がどこか薄らいでいるように思うからなのだ。
 そういうことは僕個人に対しても、僕のお店に対しても、そのほか僕のやっていることのすべてについて思われてきたはずである。たとえばこの日記にしてもそうだ。誰からも同一性を感じ続けてもらうってのは本当に難しい。『タモリ倶楽部』とか『徹子の部屋』ってのは本当にすごい。『踊る!さんま御殿』も25周年だという。彼らはマイナーチェンジを続けながら、芯にあるものを絶対に揺らがせず、多くの人たちから「同一性」を認められている。僕も本当はそのようでいたいのである。

 僕はプロらしいプロではないが、「僕である」ということだけはやめたくない。お、「僕が僕をやめること、それが一番いけないことだよと」って歌がありましたね。cali≠gariの『冷たい雨』。こういうふうに20年近くも前に好きになったものをずっと好きでいつづけて、たびたび引用しちゃうってのも僕にとっては同一性の確認だったり、強化だったり、アピールだったりする。
 ドラえもんが好きだってのも、ずっと変わらない。もし僕が「ドラえもんね~、むかしはまあ好きだったけどねえ。今はまあ、てんでようち、としか思わないですねえ」なんて言い出したら、これは同一性の危機。アイデンティティ・クライシスってやつ。自分だけの問題ではない。他人にも影響する。

 僕が適当にオカリナを吹くとき、それは必ず僕らしい音色がする。そのことをさっき確認した。嬉しかった。「これは僕が吹いている、僕だけの音だな」と自分で思えた。みんなが思ってくれるかはさておき、とりあえず僕にとって僕はこんなところまで僕なのだ。最初はそこから始めるしかない。絵でも漫画でも歌でもなんでも、もちろんこういう文章でも、僕であるという確信が常にある。そうでなければ何もやる意味はない。

2022.10.6(木) 11/1、ひとり芝居をやることにした

 9月はチィと肩に力入った文章が多かったので10月は気軽に書いていきたい所存。

 11月1日はお誕生日。火曜日。お店もやってるんでお祝いに来てくださいましね。んで、ちょっと「アーツ&スナック運動」の永野さんに煽られた(?)んで、ひとり芝居をやるぞ。会場は夜学バー。30分から長くても50分くらいの上演時間を想定。17時過ぎからと、22時過ぎからの2回公演で、その間はまちくた氏に営業してもらって、もちろん僕もいる。2回目の公演のあとは通常営業を2時間くらいやる、という流れを今のところ考えている。
 芝居とかどうでもいい、しめやかに祝わせろ、という方は31日(25時くらいまでやります)とか2日とか3日とかにおいでいただければと思います。

 夜学バーでひとり芝居、というのは開店当初からやりたいやりたいと思い続けてきたこと。こないだちょうど「是非やってくださいよ!」と言われたんで、いい機会と。観る人いなかったらきついので、早めにここでだけ告知しておきます。せまいのでいちおう予約制。ご連絡ください(2022/10/30追記 ヨヤクあると嬉しいですが別に要りません。そんなに人来ないと思うので……)。通常営業時と同じくドア開けて常に換気扇を回し、大声はほぼ出さない予定です。拝観料は2000円。ライブ配信およびアーカイブは考え中。こちらもたぶん2000円か、もっと高い。
 有給申請と飛行機・ホテル等の手配、即座にどうぞ。

 ひとり芝居のコンセプトは本当に長きにわたって空想していた。「僕が夜学バーにいれば、ほぼいつでも上演できる」というのが根幹。一度作ってしまえば、以後はやれと言われればいつでも上演できる。できれば30分くらいの小品にして、気軽に再演できるようにしたい。
 音響も照明も小道具も装置も、お店に「すでに」あるものをできるだけ使い、新たに持ち込むとしてもそれはお店にずっと置いておけるものが望ましい。「あー、今日はあれがないから上演できないや」ということが極力ないようにする。
 スタイルは楠美津香さんを大いに参考にし、講談のような要素たとえばナレーションも入れる。机も叩く。机上には台本も置いて良いことにする。いつかいきなり「やれ」と言われても対応できるようにである。

 僕はかねてより「エンゲキボックス構想」というのを提唱している。演劇はもっと身近であるべきで、たとえばカラオケボックスのように気軽に立ち寄って演劇ができる「エンゲキボックス」のようなものがあるべきではないか、という話。演劇というのは一人でもやれるし、どこでもやれるし、いつでもやれる。そのように自由なものである。
 しかし現実には、演劇はハードルが高く、お金も時間も人手もかかるものになっているし、そういうものだと思われすぎている。興味がある人でもなかなか参入できない。こんなことではいけない。演劇はもっと身近で、気軽で、自由なものであるべきだ。誰だっていつだってやろうと思えばすぐにできる。僕はそのことを身をもって証明するつもりなのである。いまのところ脚本は0文字だし、ストーリーも「ウサギとタヌキと柿が出てくる」くらいしか考えていない(全然違うものをやる可能性はまだまだある)。その他なんの準備もしていない。それでも11月1日にはお芝居は完成しており、かつそれなりに面白いものに仕立て上げる自信はなぜだかある。そういうものでなくてはならないからだ。

 高校3年生の4月、『ほうかごのこうえん』という劇を上演した。僕と同級生■氏の二人芝居だった。脚本はお互いの家に集まってああだこうだ相談しながら、確か二日くらいで作ったし、練習も結局、二日とか三日とかしかできなかったのではなかったか。でも30分くらいの小品で、二人しか出ないのだったら、キャッキャ楽しみながらやってたら自然とセリフも覚えるし演出も自然とついてくるものなのである。制作期間は1週間くらいだったと思うが、実に幸福な時間だった。■の家(犬山市)に泊まりに行って、近所の神社で立ち練習したのをよく覚えている。
 このホームページは10年に一度だけオフ会を開くのであるが、第1回すなわち10周年の日、会場の新宿御苑に早めに着いた僕ら二人は暇を持てあまし、ちょうど持っていた『ほうかごのこうえん』の台本を手に持ちながらだらだらと再演をしてみた。もちろん楽しかった。観客など誰もいないが、お互いがいれば十分であった。(ひとり芝居だとこうはいかない、寂しいもんである。)
 演劇というのはそのくらいゆるくていいのだ。それで楽しいし、確実に身体の中に何か育つ。それをやりたいのである。とりあえず、一人で。遠くないうちには誰か人を巻き込んで、20分くらいの台本書いて2〜3人の芝居をやりたいと思っている。

 11月1日のお芝居はぜひ観に来ていただきたい。感想は「自分もやりたい」以外にないと思う。楠美津香さんのひとり芝居を初めて見てから、僕は常々そう想っている。

2022.10.3(月) 学校で何を学ぶか

 103の日です。103とは僕の高校1年生の時のクラスの呼び名です。名古屋市立向陽高等学校では1年3組を103というのです。なぜこんな103に固執するのかといえばこのホームページを開始したとき僕はまさに103に在籍していたからです。思えば遠くへ来たもんだ。これ書いてる今現在は10月5日なのですがあえて日付をずらしてまで103の話を書いております。

 高1、高2とほぼ勉強らしきことをしておらず、高3になって初めて「勉強ってこういうことだったのか!」と感動したのを覚えております。昨夜(4日、すなわち未来でもある)夜学バーで働く来年度に受験を控えた高校生(同じ時給で働く友達の美人ママみたいになった)の「受験英語力」を問答で確かめてみたところ、だいたい高2の僕くらいと見えたので、これは大変だと思うのと同時に、まだ10月なので僕より6〜7ヶ月早い(諸事情あり僕の受験勉強は5月から始まりました)段階だというのはずいぶんな希望。ここからは狂ったように勉強しながら、狂ったように息抜きに励む、という狂騒の時代へと突入していくことでしょう。恋愛や種々の誘惑も襲い来る。楽しみですね。
 彼女に合わせて僕も国語、英語、社会の復習に乗り出してみているのですが、かなり覚えているものだし、すぐ思い出せるし、大学に入ってから今まである意味サボらずに生きてきたおかげで、「一般教養」として体内に生きている。世界史受験だったけどいつの間にか日本史もなんとなくわかるようになっていた。もちろんこれを受験レベルにまで引き上げるのは並大抵のことではないけど、ジャッキー・チュン選手としてはある程度一緒にがんばりたい気持ちはある。いい機会というか。
 それにしても、僕はなんでこんなに「勉強」ということが好きなのだろう? 放送大学に在学していると、SNSなどで「勉強大好き!」な方を多数見かける。いったいどんな魅力があるというのか。説明できるようで、難しい。問題を解くのが好きなわけではない(むしろ嫌い)し、覚えたことを証明するのに大きな快感があるわけでもない(小さな快感ならある)。
 高校生くらいだと、「勉強する」ということにまったくピンときていない人が多い。「ある程度以上に賢くて、勉強が習慣になっておらず、強制されてもいない」という人は特にそうなりがちな気がする。習慣や強制される環境がしっかりあれば面倒なことはあまり考えなくても済むが、そういうのがないと自分でモチベーションを確保せねばならぬ。しかし僕はなぜすんなりと「勉強」という世界に入っていけたのだろうか。「やらねーと舐められるから」「やらねーと自分の行きたい環境に進めないから」というセルフ脅しはもちろんある。でもそれ以上に、「これ、おもしれー!」という感動があったのである。とはいえ「感動するからやってみなよ」という雑な押し付けを他人にするわけにもいかない。感動しない人もいるだろうし、僕が感動できたのも奇跡に近い話かもしれないし。
 まあ、たまたま自分は知的なことに興味があったのである。知的とはここでは、ほぼ「因果関係」のことである。因果関係について知り、考え、使いこなすことの喜びが、「感動」として身に満ちたのであった。
 因果関係とは「こうだから、こうなる」ということで、大学受験までの勉強というのはほぼすべてがこれに尽きると言って良い。これに興味がなければ、はっきり言って無理して一般受験をする必要はないと思う。どうしても一般受験をする必要があるとすれば、辛いだろうな、と思う。
 数学でいえば、公式を丸暗記して、目の前の問題に対してただ「どの公式が適用できるか」を片っ端から試していくような勉強は、因果関係とはかなり遠い。あるいは、ひたすら問題を解き続けて覚えるとか、単語帳とにらめっこして暗記するとかってのも、それ自体はほぼ「因果関係」と関係ない。そういうことは「勉強」の本質ではないので、あまり根詰めてやっても仕方ない、と僕は思う。思う。思う。むろんぐっと耐えてそれをある程度やることで、その後の「因果関係の研究」がスムーズになるということはいくらでもあるし、それをまったくしないのでは「間に合わない」という事情もあるので、完全に否定したいのではない。ただうまいことその割合を減らしておいたほうが効率よく頭は良くなり、心も健やかになる、と、思う。
 上記はもちろん、僕が「関係」というものを愛するからである。「関係」になんの興味もなければ、自然と「因果関係」にも興味がないということになる。それならそれで良いのだが、僕は「関係」に興味を持っている人のほうが「良い」存在であると個人的に信じているので、せっかく勉強をするなら因果関係について学んだほうが絶対に「良い」と個人的に、ごく個人的に考える。

「関係」というもののすさまじさ、重要さ、大切さには、あとになって気がつく。高校生くらいではピンとこないものだ。そういう人は非常に多い。「若い時にもっと勉強しておけばよかった」とのたまう大人が多いのはそういう事情。あれは「もっと関係(とりわけ因果関係)についてよく知っておけば」という後悔なのだ。学校の勉強は「関係」についてとても多くのことを教えてくれる。ただ、学校の先生の中にはそういうことをまったく意識していない人が多いので、子供たちはあんまりそのことをよくは知らない。僕ははっきりと言っておく。学校の勉強とは、適切に向き合えばそれは「関係」の研究そのものであり、生きていく中でそれほど役立つものはないと言っていい。なんのために勉強をするのか?というと、僕の個人的な答えとしては「関係について学ぶため」である。あるものとあるものとの間には何があるのか、ということを、どんな組み合わせについてでも自分なりに考えられるようにするためである。

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