少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2022.3.31(木) 中晦日 タモリンピック2 輝く
2022.3.25(金) ZOKU-SHINGO(2)
2022.3.24(木) 保留、待つ、祈る/「わからない」という方法(5)
2022.3.18(金) タモリンピック/「わからない」という方法(4)
2022.3.15(火) 「わからない」という方法(3) ジャッキーさんという立ち止まり方
2022.3.12(土) 「わからない」という方法(2) わからないもんはわからない
2022.3.11(金) 「わからない」という方法(1) わからないってわかってほしい
2022.3.7(月) 近況 FF6、まなび、鈴木先生
2022.3.3(木) haircut100(積み上げる)

2022.3.31(木) 中晦日 タモリンピック2 輝く

 12月31日が大晦日なら、8月31日が高晦日で、3月31日は中晦日としたい。小晦日は2月末とでもしましょうか、30未満の晦日は2月だけなので。言うまでもなく晦日は「三十日(みそか)」が元のこと。
 8月31日は「夏休みの終わり」として僕は大好きなのだが、地方によっては必ずしも2学期が9月1日に始まるわけではないし、大学は10月から始まったりするので、大中小には含まれない例外的な呼称として「高晦日」を提唱したい。高まっていく感じも夏っぽくていい。


 こないだタモリさんについて書いた(3月18日)。ものごとに対する僕の態度はかなりタモリさんに近い。影響を受けているのもあるし、共感するからファンになったというのもある。
 タモリさんは相手の言葉をあんまり否定しない。ツッコミとして「いやいやいや」と言うことはあっても、「自分の意見」によって相手の意見を否定することは少ない。ものすごくくだらないこだわりを発揮して我を通すようなことはあるが、たいてい「何をくだらないことを」で済まされるようなもので、「意見が分かれる」ような事態にはまずならない。もちろん、それをジョークとして楽しむような場、たとえば明石家さんまさんとのトークなんかだとむしろ、わざと対立するような立場に回ったりはする。時と場合に応じて自分の意見を隠したり、曲げたり、捏造したり平気でできる。それは前回紹介した言葉で言えば「なりすまし」というタモリさんの基本芸の一環である。
 タモリさんは姉の一人いる末っ子だという。末っ子にもいろいろあろうが、一つのタイプとして「上に合わせる」能力が発達する場合が多いように思う。僕もそうである。自分が何を望もうが結局は力のある上の人間(兄姉や両親など)の決定に従うしかない。ある意味では従順に、他人の意見や要望に合わせていかないと、平和に暮らしていくことはできないのである。
 しかし一方で末っ子というのは最も非力で可愛い存在なので、甘やかされる面もある。だからここぞという時にはワガママが効く。「いやだ!」と徹底的に主張すればたいていのことは通ってしまう。たとえばタモリさんは幼稚園に通うことを自ら拒否したという。末っ子ならではだと思う。第一子なら許されなかったかもしれない。
 基本的には周囲に合わせ、自分の意見や要望を自在に操りつつも、譲れない一線というのは絶対に譲らない。「これだけは」というところだけは何があっても守り抜く。それがタモリさんと僕に共通する末っ子の一つのタイプだと僕は思っている。

 原則として「なりすまし」を行い、どんな役割でも器用にこなしてしまうが、一方で「ワガママ」も力技で通してしまう。それがタモリさんであるし、僕である。末っ子の類型としてそういうタイプがいると思う。
 こないだの記事で紹介した、2012年の27時間テレビでの最後のスピーチ。番組のコンセプトを一気にひっくり返してしまうような問題発言をサラッとしてしまうのはまさに「ワガママ」でしかない。だけどそれはタモリさんの場合、許されてしまう。大物だからというだけではない。ふだんどんな状況にでも順応して「なりすまし」を頑張っているがゆえに、たまのワガママくらい許されてしまうのだ。日ごろ可愛くて従順な末っ子だから、たまにはワガママが許されてしまうのである。(いつもワガママな末っ子の場合はもちろん別である。)しかもそれがなんともチャーミングだったりしてしまうのが、末っ子のズルさというもの。

 僕も他人に合わせるのは苦でないし得意だと思う。幼少期をそうやって生き抜いてきたので身に染み付いている。自分の意見なんてものはどうでもいいというか、自分より力を持った人間の前では何の意味もない。自分の考えとはまったく矛盾する意見を聞かされても「そうなんですね」と平気で言える。ただし、「僕もそう思います」とは言わない。「〇〇なんかはそうですね」と限定して肯定することはある。そういう能力ばかり磨かれている。嘘にならない範囲で、相手を否定することはしない。むしろ部分的には肯定さえする。タモリさんがウクライナについて述べたあの言葉(前記事参照)は、まさにこれである。番組に合わせつつ、ギリギリ嘘にならないところで華麗に通した。

 きょうだいというのは敵だろうか? 味方だろうか? 時と場合によってどちらでもある。どちらにもなる。こちらを攻撃してくる時もあれば、思いっきり甘やかしてくる時もある。僕の人間関係の基礎は3人の兄との間で形成されたものなので、「関係というのは一筋縄ではない」ということがまず先にある。「この人は敵だ」「この人は味方だ」ということは基本的にはない。どんな相手でもタイミングによって敵になったり味方になったりするものだ。自分と意見が合わないような人がいたとして、それだけでその人を否定するのは極端だし、「自分と合わないような意見」の中にも、「ある点については認められる」ということがほとんどの場合存在する。相手の意見をまるっと否定してしまうということは、その「認められる」ところまで否定してしまうことになるので、まず間違いなく誤りである。そもそも「自分の意見」が正しいかというと、その確証もない。正しい時もあれば間違っている時もある。しかも、「全体がまるっとすべて正しい」なんてことはまずないし、「全体がまるっとすべて間違っている」ということもまずない。だから「意見の対立」なんてものはそもそも考えるだけ無駄なのだ。あるのは現実だけ。それがジョークになって楽しいのなら対立すればいいだけのこと。その会話をみのりのあるものにしたいなら、「対立」なんてので白黒つけるよりも、「現実としてどうするのがみんなにとって良いのだろうか?」を考えた方がいい。その時には「意見(個人の感想)」なんてものは脇に置いたほうがいい。と、ぼくは思います!©️ちばてつや


 昨夜、中晦日を越えた4月から遠い大学へ進む高3と会って4〜5時間くらい話した。1年ちょっと前にひょん(?)な繋がりから大学受験の面倒を見ることになったのだが、結局あんまり僕は何もしてない。ほとんど彼女が自分で進路を切り開いてしまった。それでも「向こうへ行く前に会いたい」と言ってくれて、たまたま僕もすぐに時間がとれたので話す機会がつくれた。しばらく連絡をとっていなかったので「もう会えないのかな〜」と思っていたのだが、それはやっぱりいくつになってもなくならない杞憂癖で、僕が思っていたよりもこちらのことを慕ってくれていたようで嬉しい。そういうところで僕はまだまだ自信がない。
 自分にできそうなことで、すべきと思うのは、こういう人から見て「いいな」と思ってもらえることだ。「なりたい大人」みたいに言われたら慌てて否定はするのだが、「なんかいい感じに見える人間の一例」として数えてもらえるのはたいへん幸福。
 何度めかに会ったとき「おざきさんの話し方が好き」と言ってもらえたことがあった。ある喫茶店の角の席。たいへんありがたい。確か「話をちゃんと聞いた上で、ただ肯定するのではなくてそれについて自分の考えたことを言ってくれる」というような話だった。ただ否定する大人も雑ならば、ただ肯定する大人も雑なのだ。たぶん上記したような態度が彼女にとっては良かったのだろう。
 対立などない。
 高校生の女の子と、その倍という年齢の男性が話をすれば、当然「違う考え」がそれぞれにある。しかし「100%違う」というわけはない。どこかに「同じ考え」の部分はある。同じであることに頷き、違うことに頷きはしない。頷かないけれども、「違う」ということに大きな意味などないので、「ふむふむ」と思う。そうやって互いに提出し合ったものが積み上がっていく。積み上がったものを見ながら話は進んでいく。戻ったり混ざったりもする。もちろん譲れないところは絶対に譲らない。譲らないからと言ってすなわち攻撃ではない。ただ譲らないだけ。僕なりの誠実さである。タモリさんもそうだろう。
 久々に会って、これからも仲良くできそうだと思えて、嬉しかった。人と人とは違うものだし、人と人とは同じものなのである。完全に同時に。


余談。
 スピッツの『みそか』という曲のサビに「混ざって混ざってでかすぎる世界を塗りつぶせ/浮いて浮いて浮きまくる覚悟はできるか」というのがある。混ざるには浮く必要がある。まず浮いて、それで混ざって、塗りつぶす。僕らこれから強く生きていこう、行手を阻む壁がいくつあっても。
 歌い出しは「輝け不思議なプライド胸に」、これがようやくわかってきた。まず輝かなければなりません。「輝くということは、ただちょっと偶然に立ち話をしたような他人にも元気を与えるということだ。」って村上龍botが言ってた。

2022.3.25(金) ZOKU-SHINGO(2)

 楳図かずお先生の新作『ZOKU-SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館』は、六本木ヒルズの「楳図かずお大美術展」で1月28日から3月25日まで公開された、101枚からなる連作絵画。すべての作品にそれぞれタイトルと1行から数行程度の言葉が付されていて、絵本のようにストーリーを追って読むことができる。
 この日記では、すでに2022年1月31日の日記でちょっと触れた。あわせてどうぞ。
 以下はメモのようなもの。


『ZOKU-SHINGO』は今のところ、本などにはまとめられていなくて、展覧会に行って見るしかない。正確に引用するのはまず不可能で、不正確に引用したくはないので、僕が考えたこと、感じたことを中心に書いてみる。

 作品は2回見にいった。2回ずつくらい見たので、4回くらい見た。加えて、気になる作品は何度も見たので、それ以上に見ているとも言える。
 でもはっきり言って言葉で表現できる感想はほとんどない。だけどこの連作を僕はとても好きなのは確かで、何も書かないよりはあとのために何かは書いておこうと思う。

 ロボットの子どもたち、さとるとまりんは「王子と王女」と冒頭で提示される。しかしその後、その点に触れられることはない。ただ終盤、シンゴについて、また自分たちについて話し合う場面に、よく目をこらすともともとは「(自分たちは)誰なんだろう? 王子と王女なの?」みたいなこと(いずれも記憶をもとにした不正確な引用)が書いてあったらしい痕跡を見つけた。一度書いて、消した文字がうっすらと見えるのである。
 楳図先生は最終的に「王子と王女なの?」という台詞を削除したわけなので、もちろんそれは作中には存在しない言葉として考えるべき。しかし一度はそれが書いてあったのだということが、僕にはともかく愛おしい。自分たちを王子と王女だと思うのって、なんだかすごくいい。

「男の子と女の子」であり「王子と王女」のさとるとまりんは、とても仲良しである。作品の最後には、2人でシンゴについて調べたり考えたり書いたり描いたりしている姿が見られる。このシーンの幸福感は本当にすばらしい。誰がなんと言おうと、仲の良い人たちが仲睦まじく永い時間をともに過ごしている姿は素敵である。
 楳図かずお先生もたぶん、それを「良いこと」だと思っている。

 とつぜんだが、ゴミの山でさとるを発見して連れ帰るロボット精神科医(だっけ?)のドクター森は、おそらく人間である。人間であるからには○である。(『わたしは真悟』参照)
 さとるとまりんは、ラストシーンでドクター森を訪ねるが、そこに彼はなく、代わりにキューブが置かれてある。キューブというのはルービック・キューブの形をした四角い物体。すなわち□である。
『わたしは真悟』において、ロボットのモンロー(シンゴ)ははじめおそらく□で、それから△になり、○になる。(何を言っているかわからないと思いますが、そういう漫画なのです。)
 ではその続編ともいえる『ZOKU-SHINGO』において△とは何か? クライマックスに登場する東京タワーであろう。東京タワーは、さとるとまりんが巨大キューブから脱出して逃げると、いつの間にか眼前に登場する。その後タワーから逃げて振り返ると、タワーは消えている。
 ドクター森も、訪ねると消えている。流行りの考察めいたことをすれば、東京タワーとドクター森は同一で、東京タワーが消えると同時にドクター森も消えているということではないか。そしてキューブという□に変化する。
『わたしは真悟』は□→△→○の順をたどる進化の物語だったが、『ZOKU-SHINGO』はその逆、○→△→□という退化の物語なのではないか、と言うことができる、かもしれない。

「進化の物語」たる『わたしは真悟』は、さとるとまりんという人間の男の子と女の子が主人公だった。「退化の物語」たる『ZOKU-SHINGO』は、さとるとまりんというロボットの男の子と女の子が主人公だった。
 進化も退化も、子どもが基準となる。しかもそれは「男の子と女の子」である。
 みたいなふうに、一応はまとめられる。

 楳図先生がインタビューでもおっしゃっている、進化しすぎたらいったん退化して、元に戻ろう、というのは、その基準はやっぱり子どもにある。参考:わたしはカズオ  楳図先生は全身全霊、全人生で、それを証明している人である。その子どもたちである僕たちも、それを絶対に引き継いで生きていかねばならないな、さとるとまりんがずっとシンゴのことを研究しているように。
 なんてことを僕は本気で思っているのですよ。

 僕は子どもとして、男の子として、女の子と一緒に、楽しく生きていきます。そして子どもというものについても、一緒に考えていくのであります。

2022.3.24(木) 保留、待つ、祈る/「わからない」という方法(5)

「わからない」とは、保留すること。武富健治先生の漫画『鈴木先生』で最も有名なエピソード「鈴木裁判」(生徒たちが先生を裁判にかける場面)の結末は「保留」であった。

「ぼくたちがはっきりと自信を持って一致した答えを出せる時が来るまで――! 期限なしで…時間をくださいませんか!?」(※「期限なしで」に傍点。7巻「@鈴木裁判その10」出水の台詞)

 初めて読んだとき(2008年10月)はたぶん、「えっ、結論なし?」と肩透かしをくらったような気分になったと思うけど、今はただ感服する。未熟な中学生が、しかもその集団が、簡単に結論など出せるわけがない。大人でも同じだ。完熟した大人というものが存在するのなら、その人は結論を出せるのかもしれない。でもふつう人間は未熟なものだ。「それでもひとまずこう進む」という冒険のような態度しかありえない。

『鈴木先生』では全編通して「保留」が通底する。保留の教科書のようなものである。ぜひその視点を持って読んでみていただきたい。「わかる」ということがいかに危険で、バランスを欠いているかが非常によく分かる、と思う。


 教育というものが「待つ」ということそのままだったりすることはたぶんここにも何度か書いた。待つことは希望とつながっていて(エスペラールとエスペランサ)、「保留」とか「わからない」ということも実は似たようなもんである。さらにいえば「祈る」ということも。

 前回のタモリさんに関する文章で、彼が「祈るだけ」という表現を使ったのに注目した。「ウクライナに」「平和な日々が来ることを」「祈るだけ」という、3ブロックすべてが素晴らしい。
 おさらいすると、「ウクライナの人々に」等と言わないのがまず正確である。焦点は「ウクライナ」という土地(国)にあって、そこに関わる人々すべてがその当事者である。決して「ウクライナ人」とか「ウクライナに住む人たち」だけがつらいめにあったり、殺されているわけではない。ウクライナにいる人たちの中にはいろんな人がいるし、ウクライナにはいない人たちの中にも、この問題と深く深く関わっている人たちがものすごくたくさんいるはずなのだ。
 また「平和な日々」という具体性のある、生活実感を想起させるような表現も良い。「平和が来ることを」とはニュアンスが違う。「平和ってなんですか?」と考え始めるとキリがない。そしてひょっとしたら数百年単位で、あるいは永遠に来ない。でも「平和な日々」といえば、「(身近で多くの人が殺されるような)社会的な不安がない暮らし」を指しているとわかりやすい。個人的な不安なら生きている限り、きっとあるけれども。
 そして極めつけは「祈るだけ」。祈る以外にすることはないというのである。すさまじい。「我関せず」ということでもあるのに、そこを批判している人をまったく見なかった(探せばいるのかもしれない)。

 しかし祈るというのは、「何もしない」とまったく同じではない。祈るからには、生活をしっかり、美しくやらねばならない。(個人の見解ですが、祈る人が自堕落で醜悪な生活をしていたら、その祈りは天に届かないと思うので!)
 祈るという聖なる行為には、「神に恥じない生き方をする」という前提がある。(個人の見解です。)
 人事を尽くして天命を待つ、という言葉があるが、人事を尽くさぬところによき天命は来ない。神は自ら助くる者を助く、とも言う。昔の人はたぶん、「祈るからには悪いことはできない」という気分を持っていた。願掛けの断ち物とか、バチが当たるとかいう考えもたぶん同じ気分からきている。
 祈るというのは、個人の見解ですが、「自分の生活をしっかりとやりつつ、良きことを願う」こと。自分の持ち場で、自分にとって大切なものを大切にしつつ、自分やその周りの人の幸福のために働く(労働というだけの意味ではない)。
 世の中というのはすべて繋がっていて、小さな善行は大いなる善に必ずや結びつく。そう信じることを「祈る」というのである。

 自分が今、こうして美しく生きていることが、ひいては世界のどこかでつらいめにあっている人をいつか救う。そんなわけないだろう、と思う人もいる。不安になって、自分の持ち場から離れ、遠くへとお金や時間を投げてみたりする。それは祈りではない。単純に「行動」である。
 個人の見解ですが。
 自分の持ち場から美が、善が、真が、天を通じて、あまねく世界へ届くのを願う。それが祈りである。想像できないかもしれないが、それが祈りなのだ。祈りでは満足できない人は、もっと具体的な「成果」を求める。目に見える「経路」を求める。
「わたしの善意が報われたという、わかりやすい証拠がほしい!」と。
 バチあたりめが。(個人の感想です。)

 祈りが正しく、行動が間違っている、というわけではない。行動は行動で、直接的に誰かを救う可能性がある。一方で、救うって何? それは本当に救いになってるの? 自己満足になってるだけじゃない? みたいな疑念はもちろん常にあって、僕に言わせればそれは大抵の場合「わからない」。ゆえにより確実に手触りのあることだけをして、祈る、という判断も、僕はかなり正しい態度だと思っている。

 これはただの行きすぎた理想主義。みんなが自分の持ち場で清く正しく強く生きていれば、全体も清く正しく強くなりやすいだろう、という。もちろん理想は理想なので、それをやりつつ、何か実効性のありそうな「外部に働きかける行動」も同時にやるというバランスで実際はいろんなことをうまくゆかせる努力をしていくことになるのだろう。ただ個人の判断として僕はそういうこと(外部に働きかける行動)をほとんどしないというだけ。せいぜいこういう文章を書くくらい。持ち場だと思っていますので。


 なんかあんまりわかってもらえないような気がして不安なのですが、僕は何かを諦めているわけではなくて、むしろ希望しか持っていないのです。希望が祈るとか待つということにしかないと思っていて、それぞれの人間にはそれぞれの持ち場があると思っているだけなのです。

 Aという場で美しくある人が、Bという場でも美しくあるとは限らない。もしBでは醜く、Aでは美しいというのが絶対に間違いないのだったら(これは比喩ですよ!)その人はAにいたほうがいい。その人がもし、Bという場所に今いるのなら、たぶんAに行ったほうがいい。しかし、だからといって、誰かがその人をBからAに連れていこうとする時には、また少し考えるべきことがある。その「誰か」は果たして、BやAにおいて美しい人なのかどうか。
 その「誰か」は、そこでしゃしゃり出ることによって、何かをぶち壊してしまうかもしれない。その「誰か」の持ち場は、AでもBでもないかもしれない。そうだとしたら、その「誰か」にできることは、「祈るだけ」なんじゃなかろうか。

 これは単純に、人間関係についての話でもあります。

2022.3.18(金) タモリンピック/「わからない」という方法(4)

「タモリステーション〜欧州とロシアの狭間で ウクライナ戦争の真実〜」と題された番組が「緊急生放送」という形で2022年3月18日(金)20時から2時間ほど流れた。「タモリSTATION」という番組は1月にも特番としてやっていて、今回はその第2弾。前回は大谷翔平特集だった。
 すでに話題になっているが、タモリさんは番組の最初と最後にチラッと喋っただけで、2時間ほとんど黙ったままだった。
 タモリさんが言葉を発した部分だけを、できるだけ忠実に文字起こししてみる。

<冒頭>
タモリ「こんばんは。タモリステーション、タモリです。」
大下「今日はタモリステーションという場をお借りして、緊迫するウクライナ情勢について緊急生放送という形でお送りします。本来、タモリステーション、別のラインナップも用意されていたと思いますが、今夜はウクライナ情勢ということで、2時間、さまざまな角度で考えていきますので、タモリさん、番組をご覧いただいて、また少し、お話を伺えればと思います。」
タモリ「はい。」
大下「すみませんがお付き合いください。」
タモリ「はい、どうぞどうぞ。よろしくお願いしまーす。」

<終盤>
大下「タモリさん改めまして、今日はタモリステーション、2時間にわたって、ウクライナについてお送りしてきましたけれども。」
タモリ「まあ、あの、こうしている間も、大勢の人がウクライナで亡くなってるわけですね。というより殺されてるわけですから。まあ色々ありますけども1日も早く、平和な日々がウクライナに来ることを祈るだけですね。」
大下「タモリステーションという場をお借りして今日は、お送りしてきました。」

 番組の最初と最後で、ふだん『ワイド!スクランブル』で司会を務める大下容子アナウンサーが、「タモリSTATIONという場をお借りして」と口にしている。「タモリさん、番組をご覧いただいて」「すみませんがお付き合いください」とも言っていて、まるでタモリさんは番組の外側にいるかのようである。タモリさんの卓上にだけ資料等も何もない。
 今回のこの番組は、タモリさんの番組、というよりは、タモリさんがテレビ朝日(?)に貸し出している番組、という感じらしいのである。

 タモリさんが2時間ほぼ何も喋らなかったのは、あらかじめ決まっていたことなのだろうと大下さんの態度から読み取れる。タモリさんは番組を「観る側」として座っていてもらうのだということは冒頭でちゃんと説明されている。そして最後に一度だけコメントを求める、という流れもおそらく決まっていたこと。「また少し」と事前に表現されているように、ごく短い言葉であることも織り込み済みだったと思われる。


 ここまでは未来人に向けての前置き。最後のコメントの内容に僕はとても感動してしまった。タモリさんは「大勢の人がウクライナで亡くなっている」「平和な日々がウクライナに来ることを」と表現している。ここがすばらしい。もしこれが「大勢のウクライナ人が亡くなっている」とか「平和な日々がウクライナの人々に来ることを」とかだったら、それは思想的な、政治的な発言である。
 ここに表出されているタモリさんの価値観は《大勢の人が殺されているのはよくない》《平和な日々が望ましい》というくらいのことで、それ以外のことではない。ほかには何も言っていない。

「色々ありますけども」「祈るだけ」このあたりにタモリさんらしさがある。僕がタモリさんを好きなのは、また僭越ながら親近感を抱くのは、何よりこういうところである。
 つい最近この日記に書いた「『わからない』という方法」というのは、橋本治さんの書名が元であるが、内容的にはタモリさんのような態度を書いているつもりなのだ。
 タモリさんの「色々ありますけども」というのは、「色々あるけど、とりあえずいま自分に言えるのはこういうことだけだ。あとのことはわからない」というようなニュアンスなんじゃないかと僕は勝手に見る。あるいは「どうでもいい」という気分もあるのかもしれないし、タモリさんの胸中はもちろんまったくわからないんだけど、とにかく僕が感動したのは「タモリさんは不正確なことを何も言わなかった」という事実。

「大勢の人がウクライナで亡くなっている」、これはたぶん間違いのないことだ。死んでいる人の国籍とか、死んだ理由とか方法とか、軍人なのか民間人なのかとか、そういうことは実のところわからない。僕はそう思っている。せいぜい言えるのは「大勢の人がウクライナで亡くなっている」らしいということ。「殺されている」と言って問題はないだろうということ。それだけはたぶん確かで、誰が死んでて、誰が悪いかとか、どうすべきかとかはわからない。いち日本国民たる自分がどう行動すべきか、どう思うべきかもわからない。ただ「平和な日々が来るように祈る」ということくらいしか、すべきとわかっていることはない。だから「祈るだけ」と「だけ」をわざわざつけている。(「祈るだけですよね」と字幕をつけている動画を見たが、絶対に「ですね」である。ここで同意を求めるような言い方をするはずがない、とタモリファンの僕は主張します。)
「平和な日々」と言っているのもいい。「平和が来るように」なんていう曖昧な、抽象的な言い方じゃなくて。どんな状態なら平和と言えるか、それは誰にもわからない。実感できるのは具体的な「日々」だけなのである。

 タモリさんは「ほぼ確実にわかっていること」だけを言って、ほとんどあらゆる価値判断をそこに込めなかった。僕もそういうふうに生きていきたいし、やってるつもり。「でもジャッキーさん、なんかいろいろお気持ち表明するじゃないですか!」って言う人もいるかもしれないけど、そりゃ自分がこだわってることにはこだわるよ。タモリさんだってそうでしょう。だから他人の結婚式で新郎にタックル何度もかましたりしちゃうのです(詳しくはWebで)。
 自分がこだわってるようなことでもなく、自分とは直接関係もないようなことについては、不正確なことは言わない。何かを言わなければならないとしたら、ほぼ確実にわかっていることだけを言う。それが誠実ということだと思う。タモリさんはその点とことん誠実なのである。

 タモリさんの趣味は「なりすまし」で、タクシーの運転手さんにウソの職業をかたって信じ込ませるのが楽しいらしい。どんな職業にでもなりすませるように新聞を隅々まで読むようになったという。これがタモリさんの誠実さである。とんでもない嘘をついているのに、できるだけ嘘を言わないように努めるのだ。
 あのタモリさんが「欧州とロシアの狭間で ウクライナ戦争の真実」なんて冠された番組のど真ん中に座っていること自体がとんでもない嘘だし、そもそもテレビに出ている「タモリ」という存在そのものがかなりの大嘘なはずである。タモリさんはいわばタモリという存在になりすましている(うまいこと言ったで!とは思っておりません、若干恥ずかしいです)わけで、だからこそその最中に嘘はできる限りつかない。

 もしタモリさんが、大真面目にウクライナ情勢についてテレビで話して、つい不正確なことを口にしてしまったら。何か政治的に偏った発言をしてしまったら。それは「タモリへのなりすまし」に失敗したということになる。そんなものをもう誰もタモリだとは思わない。だから2時間黙って、確実なことだけを口にした。さすがプロのタモリだ。プロタモリ。


 2012年の27時間テレビの司会はタモリさんだった。東日本大震災の翌年ということもあってテーマは「団結」。すごいでしょう? 孤高のタモリさんとはまったく縁遠いテーマ。でもタモリさんはそれをこなしてしまう。りっぱに「団結」という大嘘を演じてしまった。
 そして番組の最後、こうスピーチしたのである。

「まー27時間を振り返って、団結、団結と言って、団結したんですけども、そのぶん国民からは離れたかもしれません。(「近づいた、近づいた!」「大丈夫ですよ!」と周囲からツッコミ)…大丈夫ですか。えーテレビを見ていてくれた方々、そして、見ない方にも、感謝を申し上げます。どうもありがとうございました!」「どうもタレントの皆様方、本当にありがとうございました。ありがとうございました。系列局の皆様方、ありがとうございました。」

 この正確さ。「団結」をテーマにしたテレビ番組としては成立させた(その立役者になりすました)が、その外側にいる「国民」はまた別の話である。テレビを見ていた人とはせいぜい擬似的な「団結」はできたとは言えるかもしれないが、テレビを見ない(見ていなかった)人についてはどうか?
 本当は、団結というのならば「国民」みんなで団結しなければならないはずだが、そんなことがこんな番組一つでできるわけがない。そもそも団結というものは、団結していない者たちと分断することが前提にある。もしも本当に国民全員が団結したら(またはそれを強要したら)全体主義である。自由などそこにはない。タモリさんがそういうことをわからないとは思えないし、好きだとも思えない。だから団結という大嘘を一応は演じつつ、最後に「喋らなければならない」状況になった時には、いっさい嘘をつかない。僕が思うに、タモリさんはそういう人なのである。
「テレビを見ない人にも感謝を申し上げます」と言ったのは、「テレビに関わっている人たちだけの団結」というのは絶対に嘘、欺瞞、偽善と思うからであろう。せめて感謝の範囲だけは、すべての人に広げる。

 それにしても、ここでタモリさんはなぜ感謝をしたのであろうか?
 何に対して「ありがとうございました」なのであろうか?
 いろいろ考えることはできる。おそらくタモリさんは「番組」になりすましていたのだ。番組を代表した、番組の立場になったスピーチなのだと思えばわかりやすい。「この番組をぶじ成立させてくださってありがとうございました」と。だから視聴者(と非視聴者)のあと、タレントや系列局に対して感謝を述べたのである。番組からの、あるいはその顔であるタモリからの、あるいはフジテレビからの感謝なのである。そう考えると、完璧に筋が通っている。

「私たちのワガママでこんな番組をやって、団結とか言って、お金を稼いでおります。それが成立したのはタレントの皆様、系列局の皆様、視聴者の皆様、そしてその他の(ダシにされた)すべての皆様のおかげであります。どうもありがとうございました!」

 タモリさんの凄まじさは、このように徹底した論理性にあるのだと僕は信じて疑いません。

2022.3.11(金) 「わからない」という方法(1) わからないってわかってほしい

 僕が何にそんなに怒っているのかようやくわかった。「『わからない』という方法」なんて題にしといていきなり「わかった」とはなんぞって感じでもあるがわかった。
 いまとても膨大なことが頭の中にあって、それをいま書ききることはできないし、(これから寝るので)多くは忘れてしまうかもしれないが片鱗だけでも書き留めておく。昼間にここに書いていたけっこう長い文章はいったん保留にするが、「わかった」内容にかなり深く関わるので次の記事にすると思う。

 僕が怒っているのは、なめられているからである。なぜなめられるのかというと、僕が女の子で、かつ9歳の男児だからである。すなわち差別に対して怒っているのだ。
 社会的には成人男性としか見なされない僕がこんなことを言うのを「よくない」と思いますか? そういう人がいるとしたら、僕が怒っているのはその人に対して。
 これは決して「当人の主張する性別や年齢を尊重すべきだ」という話ではない。そんな小さい話をしているのではない。そんなふうに(自分の知能や関心領域に合わせて)他人の言っていることを矮小化してくる態度に僕は怒っているのである。
「そんなゆうたかてあんさん、わかるように言わんのが悪いんやないの」
 それはそうなのだ。僕には僕の考えていることをみなさんにわかってもらうための能力(と根気)に欠けている。だから僕の思っているのとは違うように受け取られてしまう。こちらから見ると「矮小化」と言いたくなるような解釈をされる。
 なぜそうなるのか? 一つには、僕が女の子で、かつ9歳の男児だからである。もう一つには、ゆえにみなさんが決めつけてくるからである。(そういう人しかいないわけではないが、少なからず存在するそういう人に対して僕は怒っている。)
 みなさんは、あなたがたは、僕の言っていることを「わかった」と規定する。

 友達の定義とは何かをさっき、戯れに考えていた。「わかった」としないこと。レッテルを貼ったり、ジャンルやカテゴリや属性を当て嵌めたり、決めつけたりしない。その人そのものとしてのみ、その人を捉える。そういう存在が「友達」である。友達とは「わからない」ものなのだ。
 この説明、わかるだろうか。「わかる」と思う人はよっぽど僕の言っていることを理解してくれる人か、軽率な嘘つきであろう。また上記の定義について「それは間違っている」と断じられる人も怪しい。「自分はこう思う」ならともかく、「違う」と言うのはかなり難しいと思う。

 少なくとも僕は、友達というのは「わからない」ものであり、「お前はこういうやつだよな」と決めつけてなどこないと思っている。「君ってこうだよね」と言う時は、必ず事前に合意がある。そういう合意は友達という関係の中でたくさん結ばれるから、「お互いをよく知っている」という状態にはなる。それは決して一方的な決めつけではない。相談による取り決めである。
 ゆえに、「わかった」という目線を勝手に送ってくる人間を友達とは思えない。

 僕は9歳なので、考えている内容と、それを表現する能力との間に乖離がある。100のことを考えているとしても、20しか説明できない。それを「20だ」と思ってもらえればまだいいが、「10だ」とか「5だ」と思われることもある。もちろん「30だ」と思われることもあるし、「200だ」と思われることもあるかもしれないが、いずれにしても間違っている。「100だ」と言い当てられる人は奇跡でなければ誰もいないだろう。なぜなら100を説明する能力は僕にはないのだから。
 別にこれは僕だけじゃなくて、ほぼすべての人がそうだと思う、程度の差こそあれ。だから、「わからない」でいいじゃないか、と思うわけなのだ。
 この人は20のことを言っている、しかしこの人がどのくらいのことを考えているかは、わからない。
 そう捉えてもらえるだけできっと僕はいつでもニコニコしていられる。だけどそうじゃないから、「どうして勝手に決めつけてくるの?」と怒ってしまう。悲しんでしまう。
 目の前に提出されたのは、「20」なのである。それはそのまま受け取ればいい。しかし、それと、それを発した人間の内面とは、別なのである。内面のことは「わからない」。
 それが友達関係で言ったら「親しき仲にも礼儀あり」なんだと思うし。

 世の中のことについても、わかった顔で語る人の多いこと。テレビやインターネットで得た情報をもとに「わかった」と思うらしいが、その情報の向こうにある真実は、わからないでしょう?
 テレビやインターネットで見た情報は、さっきの例で言うと「20」なのである。その「20」しか与えられていない以上、それで判断するしかない。それは一面、確かである。しかしそれが「テレビやインターネットの向こうにある真実」と同一であると思うのは、飛躍だ。
「自分が得た情報からはこういうことが読み取れたが、本当のところはわからない」
 というのが謙虚な考え方というもので、せいぜい
「とりあえずこれこれの情報が本当だと仮定して考えてみると、こういうふうに解釈するのが妥当だとは思うが、自分の知らないことや誤った情報を信じている部分もあるだろうから、確実なことは言えない」
 くらいだろう。
 そして、ふたたび情報を精査したり、解釈の精度を高めたり、ということを果てなく繰り返して、可能な限り「本当」に近いと思えるようなことのほうへ常に更新していく。結論など出ない。「わかった」顔なんて永遠に、冗談以外じゃできやしない。

 謙虚で、慎重な人でありたいとおもう。他人の内面も、テレビやインターネットの向こう側も、自分ごときがわかること、知っていることなんてごく一部なのだ。
「業界」の人は、自分の業界のことにならとても詳しいと思っていて、「自分はこの業界にいるから、あなたの知らないようなこともたくさん知っている。だからあなたよりもわたしの言っていることの方が妥当性が高い」みたいな態度をとりがちである。でも、ひょっとしたらズブの素人が言っていることのほうが真実に近いかもしれない。僕はそういうことにも怒っている。僕は9歳で、どんな業界にもいないから、バカにしようと思ったらいくらでもできる。

 僕はそれなりにかしこいし、それなりにかわいいし、それなりにかっこいい。だからなのかなんなのか、それを引き摺り下ろそうとする人がいる。できるだけ僕を低くして、なんかの安心を得ようとする。やめてほしい。もうちょっと仲良くしましょうよ。
「じゃっきーさんじゃっきーさん、あなたは自分で思っているほどかしこくもかわいくもかっこよくもないのですよ」
 は? なんでそれがわかんの?
 ってことを僕は言いたいのね。僕が何をどのくらい思っているかを勝手に判断しているすべての人に。

2022.3.12(土) 「わからない」という方法(2) わからないもんはわからない

<おさらい>
 僕が女の子だというのは2008年12月8日・11日・12日の日記や、2009年1月17日の日記などに少し書いている。(もっと前や後にも書いているかもしれないが見つけられない。)ずいぶん若い時の文章なので恥ずかしいが、笑顔でなでなでしてほしい。いまならもうちょっとうまく書けそうなのでそのうち。

 僕が9歳だというのは今更のことすぎて書いたのはごく最近、2022年1月24日。でも僕が子供でしかないってのはまあ明らかだと思う。

 そういう、女の子であって子供である、幼稚な僕はずっとこのホームページの中で叫んでいる。「なぜわかってくれないんだ!」と。そしてかしこい(かしこいのである)僕は続いてこう考える。「僕のことをわかってほしいわけではない、わからないということをわかってほしい」。

 2013年10月1日の日記に、「どうしてこの人たちは、僕の頭の中をそんなに狭い範囲に刈り込むんだ!」とある。こればかりを僕はずっと言っている。古くは2000年11月5日の日記で、さとうまきこ先生の『わたしの秘密の花園』から不正確な引用をしながら、
「生徒が言いたいことを無視して彼らは勝手な思想と先行したイメージを基に自身の論理を展開するでしょ。」
と記している。いま言うようなこととほぼ同じ。「そうかなあ?」みたいなことも書いてあるけど、古い記事なので許してください。ここではジャッキーさん全肯定の精神で!

 ちなみに正確な引用としては、
「ほんとうにわかってほしいことは、だれも、なかなか、わかってくれない。それなのに、こういうことにかぎって、すぐに気づかれてしまう。」(P141)
「ほんとうにわかってほしいことは、だれにもわかってもらえないのだ。そして、うっかりしゃべると、いまみたいに、みんなに笑われる。」(P161)
がすぐに見つかった。
『わたしの秘密の花園』は、作者の少女時代をモデルとした回想録のような児童小説で、自然と死と物語の匂いに満ち溢れた名作。さとう先生は初等学校から成城学園で、このお話に出てくる学校も明らかにそう。僕が2008年から2010年まで働いていた学園である。知らず導かれていたのだなあ。
 そういえば大好きな「ミステリーシリーズ」の舞台もだいたいあのへん。小さいころは経堂とか小田急線とか「何それ?」って思ってたけど。モロくんちも世田谷の金持ちだったんだなー、なるほど。(詳しくはさとうまきこ『ぼくのミステリー新聞』『ぼくのミステリーなあいつ』『ぼくらのミステリークラブ』をぜひ読もう! 僕の原点の一つである。)

 ちなみに日記全体を「"わかってもらえない"」で検索すると、こう


 僕が7歳の時にサザンオールスターズが『シュラバ★ラ★バンバ』という曲を出した。サビは「修羅場穴場女子浮遊〜♪」「愛乃場裸場男子燃ゆ〜♪」と歌われ、「シュラバラバンバ」というズバリそのもののフレーズは出てこない。それがおかしいと思ったか面白いと思ったか、僕は替え歌としてサビを「シュラバラバン〜ンバ〜♪」と歌ってみた。それを聞いていた兄が、「ブヒャー! 歌詞間違えてやんの! ダサー! あれは修羅場穴場女子浮遊って言ってんだよぉ〜〜???」みたいに煽ってきて、「違うよわざとそう歌ったんだよ」と説明したのだが、「グヒ〜〜〜〜!!! ごまかしてやんのぉ〜〜〜クソダサ〜〜〜〜!!!」とか言われて、僕は深く傷ついた。これが有名な「シュラバラバンバ事件」である。一生忘れない!

 その時から自分に流れる「わかってもらえない真実の血」(参考文献:島本和彦『逆境ナイン』3巻←10歳までには読んでいる)の呪いは続いている。わかってはもらえない、それはもう受け入れた。だが、「わからない」はずのことを「わかった」と思われるのはいまだに我慢ならない。絶対に許さない。これは思想である。哲学である。ないし信仰である。「わかった」という決めつけよりも「わからない」という謙虚さのほうが美しいし、いろんなことがうまくいくはずと信じるのである。


 長くなったがここまでは前置き。以下は昨日の昼間、(1)よりも以前に書いていたもの。


 8日の守庚申でラジオ(音声配信)するにあたってTwitterで「ジャッキーさんに語ってほしいこと」アンケートをとった。4項目×2問の中に「社会批判・時事ネタ」というのを入れておいたのだが、見事にこれだけ1票も入らなかった! 僕は嬉しくなってしまいましたよ。だれも僕にそういうことを期待していないのだ! っても1問につき16〜17票しか入ってないんですけど。なんでこんなに僕は人気がないのだろう!?(それもまあ、僕のいいところだと思うから、良し。)
 いや、まあ、「社会批判・時事ネタ」ってのをみんな、なんだと思ったのか、にもよる。この日記とかであれこれ書いてるのも「社会批判・時事ネタ」って言えなくもないし。逆にみんなそういう、「いつもジャッキーさんが言ってるようなこと」には飽き飽きしてて、「そういうのはもういいよ」と思ったのかもしれない。かしこいのでそういうことも考える。「そんなのはいいから、恋バナしろよ恋バナ!」と思っている人は、それなりにいると思う。

 個人的には!「社会批判・時事ネタ」みたいなことからできるだけ離れていたい。不易と流行なら極端に不易に偏っていたい。『鬼滅の刃』も読んでないし、最近ならコロナ、ワクチン、ロシア、ウクライナ、そういった単語をこの日記に(まだ)あんまり置いときたくない!
 それらのことについて考えていないわけではなく、むしろよく調べているし、考えている。でも別に何かを言う必要を感じていない。

 昨日、お店にきてくれた友達から、「ジャッキーさんは今の戦争のことについてどう思っていますか?」と聞かれた。直接そういうふうに投げかけられれば、もちろんそのとき考えていることを話す。こういうところにはあんまり書かないというだけで。
 上記の質問については、たとえば「戦争」という言葉をどのように使うのが適切であるか、ということなんかも考えたくなる。戦争ってなんですか? いまどこかで戦争が起きているのだとしたら、それはどういうものなのか? と。(3/12追記 で、こう言ってるときっと早合点して笑ったり怒ったり、たしなめたりする人がいる。それを嫌だなあ! って言ってるのが3/11の文章です。)

 せいぜい心がけているのは、「自分が体感したこと以外は何もわからない」ということだ。あるニュースを耳にしたとき、「耳にした」というのはほぼ間違いなく真実であろう。だがそのニュース自体が真実かどうかはわからない。そういう謙虚さ、慎重さ。
「戦争が起きています」と僕は聞いた。間違いなくそれは聞いた。本当に戦争が起こっているのかどうかはわからない。
 わかるのは、「戦争が起きている」と誰かが言っていて、それを「そうなんだ」と思っている人もいるらしいということ。
 だからおそらく、戦争と言えそうなことが実際に起きているのはおそらく確かなのだろう。しかし、といって「戦争が起きていると認識するのが妥当である」とまではいえない。


 ここまで書いたところで、お客さんが来たので書くのをやめた。昨日の夜の話。
 続き。


 たとえば、ある国の政府や首脳やその振る舞いについて何かを断じている人たち、僕は意地悪とかではなくて、「どうしてそう判断することができるのだろうか?」と素朴に思う。
 日本に住む一般の人間が、はたして何を判断できるというのか。少なくとも僕には難しい。何が本当で、何が本当じゃないか、その裏に何があるのか、ちっとも知らないし、わからない。
 同時進行で、いろいろなことが無数に進んでいる(おそらくそのはずである)。そのすべてどころか、たぶん1%さえ把握することはできない。だから「わからない」とまず思う。
 わからないからって考えることをやめたり、考えたことを行動に反映しないのも意味がないので、「とりあえず現時点ではこのように認識することにして、ついてはこのように行動しよう」とは努める。

 テレビもインターネットも、新聞も他人も、思惑に沿って情報を出す。思惑次第でどちらへでも偏向する。捏造もフェイクもやろうと思えばやりたい放題。そこを足場に何かを考えたり語りあうのもたぶんあほらしい。しかし、あほらしくとも、それ以外にやりようはない。ここで「真実」を探究しようとすると、逆に視野狭窄に陥る場合も多い。
 ともかく現段階では、「そうなんだ」とは思いつつ、「わからない」と立ち止まるしかない。「わかった」には行けない。行けてしまう人は、「とりあえずこれを信じる」ということをしているのだろう。僕は何も信じられないから、どこにも行けない。「わからない」とただ思うだけ。
 無理してわかる必要も感じていない。無理して(それが正解かもわからないのに)「だれがわるい」とか「どこに分がある」とかを「わかる」ことは、僕にとって何の意味もない。

「そんな悠長なことを言っていると、日本が滅びますよ!」みたいなことを言う人がいそうに思う。怖い。滅んでほしくない。僕は僕なりに、滅ばないために自分ができることを考えて、やります。それは「戦争反対!」とSNSで叫んだりデモに行ったり、何かを悪者として扱ったりすることではない。何かを「わかる」ことでもない。僕はそういうのしない。なんでしないかって色々理屈はつけられるけど結局のところ「なんとなく」かもしれない。わからない。でもとにかくしない。したくないので。たくさんのことを考えた上での直観で。

 この文章を書いているのだって、日本が滅ばないためなのだ。いや滅ぶってなんなん? とは思うけど、まあともかくなんか嫌な感じにはなってほしくない。自分が嫌な気持ちになりたくないので、日本も滅んで(?)ほしくなくて、そのためにできることはする。それが僕にとってはたとえばこのようにものを考えることなのである。それがどうして日本が滅ばないことに繋がるのかって? わかりません。そう思うから頑張る。

 この発想はたぶんテロリストと似通っている。それって悪いのか? わかりません。たぶん悪くないと思う。個人的に、爆弾も持たず、ナイフも火炎瓶も持たず、まちなかで黙ってゴミを拾うようなテロリストです。

2022.3.15(火) 「わからない」という方法(3) ジャッキーさんという立ち止まり方

 4日くらい経って怒り(?)がおさまってきたがもうちょいと。

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。
(石川啄木『ココアのひと匙』より)

 僕が自分をテロリストだというのは(10年とか前にTwitterで「なんだ、あなたはテロリストか」と言われたこともあります!)、ここにある「言葉とおこなひとを分ちがたき」「奪はれたる言葉のかはりに/われとわがからだを敵に擲げつくる」という記述を踏まえてのこと、かもしれません。
「真面目にして熱心なる」がゆえ、「納得しないこと 簡単にはうなずけない」(岡崎律子『A Happy Life』)わけです。

「言葉とおこなひとを分ちがたき」というのはあるていど性分だと思いますが、「奪はれたる言葉」というのはそれなりに後から得た実感で、兄たちや学校の先生はずいぶんとこれに寄与してくれたなと思います。兄たちにはいまだに逆らったことはありません(正確には、あったが勝てないので学習性無力感によりかわいい犬になった)が、先生たちにはずいぶん歯向かったものです。
 今は無意味な争いはできるだけ避けます。「言葉とおこなひ」とを分けることがだいぶ上手になりました。テロリスト卒業です。退役テロリストって感じ。有事には立ち上がれるよう鍛錬は怠らず。

「言葉とおこなひとを分ちがたき」という状況がなぜ困難(かなしみ)を生むのかというと、社会と折り合いのつかない「言葉」(思想と読み換えてもよい)を胸に持ってしまったとき、「おこなひ」も反社会的になってしまうから。
 すごく単純な言い方をしてしまえば、既存の「レール」の上を走れない場合、脱線=暴走するしかないということ。
 その道や走り方がどれだけ安全でも、既存のレールを走っている側から見れば、道なき道を走る車両は「暴走」でしかないのである。
 テロリストというのは、その暴走した「言葉」(思想)を暴走した「おこなひ」に変えてしまった瞬間に、問題となる。社会から排除されねばならなくなる。早い話がそれは法律(等)違反となるからである。
 法律(等)の範囲内におさまっているなら、その「言葉」(思想)も「おこなひ」も暴走ではない。ちゃんとレールの上にいる。はみ出せば排除され、処罰がくだる。

 高校3年生のある日、同級生のTくん(雷帝ことGrozny氏)が唐突に金髪で登校してきた。彼はすぐさま教室から排除され別室に収容された。彼はそのまま不登校になった。
 学校からしたらテロリストである。そういうことです。多くの説明は要らぬでしょう。そういうことがあらゆる「社会」にある。
 ちなみに、自慢じゃないがそのころ彼には僕しか友達がいなかったと思う。今でもたまに連絡を取ったり会ったりしている。これ読んでたら連絡をよこせ。テロリスト同士(同志!)気が合ったというか、その学校には他にテロリストらしいテロリストがいなかったということであろう。(僕も停学、正確には無期謹慎処分を受けたことがある。罪状はまさしくここでいうテロに該当する。)

 法律(等)というのには、明文化されていない「なんとなくの決まり(共通認識)」みたいなものも含まれます。違反したら排除されるようなもののこと。


 僕が学んできた重要なことは、「システムの中にいると、はみ出す可能性が出てくる」ということである。僕みたいなもんは、「言葉とおこなひとを分ちがたき」もんですから、システムに入ったらもう、はみ出さずにはいられないのであります。いくら少しは上手になったと言ったって。
 つまり「決まりを守れない」のです僕は。両親によると僕の幼少期の口癖は「なんでいかんの」(「ノンポリ天皇」に近い発音)だったそうな。まさしく「納得しないこと 簡単にはうなずけない」。
 トゥイターでこんな投稿を見た。

この研究が面白かった。ASD児は定型児と比較して「最終的な目的を達成する為に不必要だと判断した動作は教えられても行わない」つまり、蓋を開ける前に2回叩いてから蓋を開けると教えられても蓋を開ける為に蓋を叩く動作は不必要だと判断できるので叩かないらしい。(元ツイート、「自閉症スペクトラム障害における過剰模倣と適応行動の関連性」という論文の冒頭部が画像で添付されている)

 不必要だと判断したら教えられても行わない。ううむ、「わたしにもおぼえはある」(岡崎律子『A Happy Life』)。 
 幼い時、若い時はとりわけその「判断」が未熟なので、歯磨きとか無駄じゃんって思っちゃったら虫歯だらけになるわけなのです。
 そういう子が世の中でうまく生きていくには、「独自の判断を控え、教えられた通りに行うよう訓練する」か、「独自の判断の精度を上げていく」かという方法がまず思いつく。僕はかなり軽度なので前者もできる限りは努力しつつ、後者を重点的にがんばってきたのだと思う。
 後者に振る度合いが大きいと、当然「システム」の中にいるのは効率が悪い。独自の判断をそもそもさせてもらえないから。逆に前者のルートを重視したいなら「システム」に頼るほうがいいだろう。

 いま「システム」と呼んでみたのは、「既存の制度、組織、方法論etc...」すなわちさっきの比喩では「レール」と言っていたようなこと。「法律」「校則」「一般常識」「世間の目」なんかも含まれる。
 そういうのに合わせてやっていくのは(僕には)無理(と判断させていただいております)なので、せいぜい矛盾しない(逮捕されたり嫌われすぎない)程度にまで社会・世間と折り合いはつけつつ、それでも決して死なないように「独自の判断の精度」を高めていく。そして何より大事なのは、よき友達を多く持つ。それが僕の一所懸命考えた、現時点での生存戦略。


 僕はそのような「システム」からできるだけ離れていたほうが生きやすい。「独自の判断の精度」を高めるための機会も得やすいし、自分にとって都合の良い友達も作りやすい。システムよ消え失せろ! と言っているわけではない。僕なりの距離のとり方なのである。
『鬼滅の刃』を読んだことも視聴したこともない(正確には漫画もアニメもチラッとみた上ですぐやめた)のも、実のところ「システム」から距離を取りたいから。僕からしたら流行もシステムなのである。そこに「入る」と、「はみ出す」ということについて気を遣わなければいけないから面倒くさい。「独自の判断の精度」はさして磨かれない(個人の感想です)わりに、労力がやたら大きい。あと直観で「不必要」と判断するんだと思う。
 流行は流行でいいんだけど、多くの人が飛びついていて、それについてすでに言われていることたちに特に興味が持てず、現物を見ても楽しくないなら、僕は無理しない。めんどいし。やたら何でも見ないほうが視界が広くなるってこともあると信じているし。
 流行りものはすべてスルーするかっていうとそうでもなく、たとえば『ふたりはプリキュア』(初代のこと)なんかは大喜びで見ていた。ってもう18年も前なのか。最近だとそうですな、『明日カノ』とか? あ、『半沢直樹2』とか!(1作目はスルーした) いやほかにも色々あると思います。『アナ雪』大好きです(古い)。『チ。ー地球の運動についてー』とか。あとぼる塾とか好きだし……。あんまり思いつかないけど、でもなんかピンとくればちゃんと注目するのです。

 ともあれ、「大きな流れ」に飲み込まれてしまうと、(僕にとって)見えるべきものが見えなくなってしまうんですな。選挙とかワクチンとか戦争もそう。不遜とは存じますが僕はあんまりそういうことに関わらないほうが世界はほんのちょっとだけ幸せに向かうような気がするのです。関わったほうが全体の幸福度を上げるという人もたくさんいるかもしれませんが、僕は僕のことをそのようなものだと考えています。「みんな〜! そういうものとは関わらないほうがいいよ〜!!」と言いたいのではありません。「そういうのに関わらないほうがいい場合もあると思う」くらいに思っています。


「星座から遠く離れていって景色が変わらなくなるなら ねえ本当はなんか本当があるはず」と偉い人は言いました。「本当のことへと動き続けよう 生まれ落ちるあたらしい世界」とも言いました。本当なるもんがあるのなら。「神様がいるならば、もし神様がいるのなら、それが知りたくて立ち止まる今日の昼下がり」(ゆず『てっぺん』)って感じで、きっと立ち止まることが大事なのです。流れに乗るのが向いている人もいるんだろうが、僕はちょっと自分の机で図鑑とか開いてたいんですよね。それで誰かがたずねてきたときに歓迎する用意をちゃーんとしておく。僕の歴史(アーバン・ブルーズ)への貢献。


「わからない」というのは「立ち止まる」ということなんだと思う。「わかる、わかる」「わかった、わかった」「つながる、すべてつながる(©️武富健治『鈴木先生』)」と進み続けてしまうと、危ない。たまに立ち止まり、必要なら戻らねばならない。それがきっと楳図かずお先生のいう「人間退化」なのだろう。

 立ち止まるために、流れない。時に何もしない。そういう「係」でいたいと勝手に思っている。

2022.3.7(月) 近況 FF6、まなび、鈴木先生

 8日(火)の夜中25時から28時くらいまでラジオする。stand.fmとTwitterのスペースを同時に放送してみようと思う。ウーチヤカ大放送庚申バージョン。

 先週から友達と3人でFF6(ファイファンろく)をプレイしながら話す配信もしている。第1回はこちら。これも「Talking」ページにリンクしておかないと。あ、ファイファンろくってのは『ファイナルファンタジー6』という1994年に出たゲームのことです。
 一緒に話しているのは、ogtyこと高1(103)のクラスメートであるグッチョさん、その妻かつ僕とも15年くらい友達のとまてぃ。ちょっと飛ばし気味でプレイしてしまい(ogtyがゲームうますぎるため)未プレイ者にはちょっとわかりにくかったと思うので、次からは割とゆっくりやろうという話になっている。FF6知らない人も、ぜひ暇つぶしに視聴してみてほしい。まだ慣れてないしストーリーも序盤なので盛り上がりに欠けるかもしれないが、だんだん白熱してくるはず。
 FF6という作品の何が素晴らしいかというと、ひとまずこちらのブログ(1 2)をぜひ読んでみてほしい。(書いた人が「えっ、あれまだ残ってたの? 消さなきゃ!」とか言っていたので、こっそりこの記事だけを読んでくださいね。)
 阪神・淡路大震災とか地下鉄サリン事件とかのまさに前年、「世界がほぼ滅びる→崩壊後の世界を生きる」という内容のゲームがかなりの本数(日本だけで260万本だそうな)売れたというのは、注目に値するというか、少なくとも「ちょっと面白いな」くらいには思えるのではないでしょーか。実際ほんとに奥深い物語で、僕は初めてプレイしてから28年間、ずっとこのFF6というゲームを「使い」続けております。とまてぃもそうだと思うし、このサイトを技術的にも支援してくれている2つ年上の加藤曳尾庵さんや、高校の2年後輩であるひろりんこくんなどもFF6の大ファンで、大いに語り合ってきた。
 ただ、FF6って「ゲーム」としてはそんなに名作でもないよね、というのは信者たる僕ですらちょっと思う。めちゃくちゃ面白いのは確かだが、「プレイの心地よさ」や「クリア時の快い達成感」といった観点からすると、微妙と言わざるを得ない。僕やとまてぃが好きなのも主にはシナリオと一部のシステムにあって、正直ゲームバランスはめちゃくちゃだし、全体として快適さもいまいち。そういうことさえ含めて我々(J+T)は愛しているわけだが、生粋のゲーマーであるogtyとしてはそりゃそんなでもなかろうなあ。それでも2周はしてるらしいからえらいもんだけど。(ogtyもえらいしFF6もえらい。)
 というわけなので、実のところ今更このゲームをプレイするよりも、「わかってる」我々(!)みたいなもんのオタク語りを「へー」とか言って見てるくらいがちょうどいいんじゃないかと。つうわけで我々みんな忙しく、特にあとの二人は子供がまだめっちゃ小さいのでキツそうだが、なんとか終わらせますので、ぜひついてきてくださいね!

 6日久しぶりに『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』全話観た。今年で15周年(1月〜3月放送)だし、まなびカルト(偏執狂的まなびストレート!信者の通称)の変太郎さんが「今日もバイト午後出ろって言われたけど断りました^_^約束がちげーぞとかいってなんか若干キレられたけど午後は出なくていいって言ったのそっちやんけ。ちゃんとあらかじめ確認しといたからな。今日はやらなきゃいけないことがあるんだ。俺はバイトに命かけてるわけじゃないんでね。」という名ツイートをしてから10周年(12月31日)。
 何回見ても素晴らしい作品だ。そして僕はやはり金月龍之介さん(全話脚本)の言葉遣いが好きだったんだなと改めて思う。きめ細かな論理性を備えつつ、そこからの逸脱もうまい。節々に「趣味」の出てる感じも良い。この作品がどういうふうに作られたか細かくは知らない。セリフにだって指示も修正もアドリブもあるだろうけど、「言葉選び」に関して言えば90%以上は金月先生の仕事だろう。「面白さ」もさることながら一番すごいのは「気遣い」で、説明が難しいが普通の人なら見逃してしまう「穴」をいちいち埋めてくる感じというか。可能な限り欺瞞を排除しようと努めているように思える。フワッとした、雰囲気だけで押し通すような言葉が全然ない。ほとんどすべての言葉に筋が通っている。外れたフレーズはちゃんと「詩」として成立している。(僕は信者なので聖典はそのように解釈します。)
 詩として成立しているっていうのは、論理にカチッとはまっていなくても、邪魔なわけではなく、なんかどっか遠くへ飛んでいって、それはきっとどこかで芽吹いて花を咲かせるのだろう、と思わせる強度を持っているということ。この言葉はここにあって良いものだと納得できるというか。この人は確かにここでこう言ったのだと思えるというか。
 高校1年生の男子、女子、20代初頭の女子2名、僕、の5人で見た。改装前の旧生徒会室みたいな、雑然としたあひる社の7階で。一番後ろで手ぬぐい噛み締めてました。

 ↑の高校生女子と、20代初頭女子のおかげで最近、いろんなことができている。5日にこの二人(通称プリキュア)でお店に立ってもらった時、高校生がギターを夜学バーに置いてったので狂ったように練習している。ちなみにほぼ完全に初心者である。コード丸暗記は面倒なので記号から理論的にコードを割り出せるようにしたくて勉強を始めた。高校で音楽選択にしてよかった。たとえば○M7は1、3、5度の3和音である○に4個目の和音としてM7(長7度)を足したもの、と考えると、なるほど○を押さえた状態からM7に該当する音(完全8度の半音下)の足された状態にすればいいのだ、とわかる(合ってる??)。すると覚えやすくなる。仕組みがわかると面白い。しばらくがんばってみる。

 高校生が企画した武富健治『鈴木先生』を語る会、なかなか日程が決められなかったり、当初のタイトル「鈴木戦争」が今ちょっと使いにくくなってたりして難航。面目ない。しかし武富先生にもご協力いただくので、何としてもやりましょう! 誰も来ないとしんどいので、これを読んでる方、ぜひ『鈴木先生』を読んで、いや読まなくても、来てください本当に。お金はそんなにかかりません。僕やJK氏が会ったことない人や、あんまり会ったことない人だとなおよいです。今のところ21日の予定。詳しくは夜学バーのHPやTwitterをチェック。

2022.3.3(木) haircut100(積み上げる)

 しばらく伸ばしていた髪を切った。やはり自分にはこのほうが合っている気がする。我ながらかわいい。自分で切るのでいつもだいたい同じになるが、微妙な違いもわかる。切るごとにほんの少しずつ上手くなっていくのもわかる。技術が身についていく喜び。

 積み重ねる。それだけだぜよ。

 僕が自分で髪を切るのはなぜだろうか。一番はお金がかからないから。第二に「自分でやれる」領域をそこに確保したいから。そして、「積み重なる」からだと思う。もし、いっさいの上達がなかったら僕はとっくに床屋なり美容院に行っているだろう。味のあるバーバーを探し歩くことに躍起になったり、古くさい髪型を色々試しているかもしれない。それはそれで楽しいであろうし、そこに積み上がっていく何かも当然あるはずだが、今のところ僕はこっちを選んでいる。

 お父さんは自分で髪を切る人で、僕も切ってもらっていた。世襲。

 中学の同級生のキマタくんの家が床屋で、同級生はけっこうそこで切ってもらっていた。キマタがそれを継いだかは知らないが、「床屋の息子が友達にいる」というのは一つの事情である。理容師という存在が、技術が、身近にあったということだから。

 かつてカリスマ美容師というのが流行って、これまた中学の同級生のタニモトくんが「美容師になりてえ」と言い出した。その後「やっぱり消防士にしようかなあ」と悩んでいた。記憶がおぼろげだが、たしか父親が消防関係だったかなんか。結局どんな道を選んだのかは知らない。谷本会いたいな。彼はなぜか僕のことが好きだった。今の僕をなんて言うだろう。Facebookでも掘るか(いた、消防士っぽい、友達リクエストした、便利だ……)。

 特段上手なわけでもないが、大きく失敗しないくらいには上達した。髪を切るのが。そうやって積み上げていく。10年、20年と。地道だが、数ヶ月に一回のことで、その間は全然別のことをしている。全然別のことを積み上げている。
 世の中にはけっこう、この「積み上げる」ということを信じない人がいる。その癖はそう簡単に変わるものではない。積み上げりゃいいのに! なんかいろんなことを、ものすごく些細なレベルであっても、ほんの少しずつ積み上げていけば、なんかしらいいことあるかもしんないのに! みたいに思える人は、貯金とかもできる。えらいもんですな。
 一方、積み上げる、ということを信じず、拒絶さえするような人がいる。積み上げると崩れそうで怖いのだと思う。怖いからこそ意味があるというか、意味があるようなことはたいてい怖いわけだが、そういう恐怖の克服だって「積み上げる」ことによって可能になるわけだから、「怖い」と思うだけの人はずっと怖いままである。もちろん、ひょんなことからそれがパッと平気になってしまうこともあるが、天の導きのようなものだろう。待っていれば必ずそれが訪れるというわけではない。

 と偉そうな僕も、自分を「積み上げ上手」とは思わない。面倒くさがりだし、怖がりだし、いろんな欠陥があるので、積み上げられないものはとことん積み上げられない。できないことばっかりである。だからこそ、せめてできることは積み上げていこう、というふうに思っている。「『自分でやれる』領域をそこに確保したい」とさっき書いたのは、そういうことである。そういう領域はどこにでも作れるわけではなくて、たまたまそこに作れそうだったから、とりあえず作っておく。でなければ「領域」はちっとも広がってくれない。不器用なもんですから。
 たとえば僕は絵が下手だ。少しずつ積み上げれば、少しずつ上手くなっていくはずなのだが、ものぐさなのか諦めているのか、絵の下手な自分が好きなのか、そういうことをしようとしない。そこは現状僕にとって「積み上げる」の可能な領域ではない。でも「髪を切る」ならできる。とりあえずできることからやっているというわけ。
 こう書くともちろん、「あージャッキーさんはそういう領域があってよござんすね、アタクシにはなーもありませんから! 残念!」という声が聞こえてきます(被害妄想)。それに対して僕は、「さいでっか」としか言いようがありません。大変ですね、分かります(大分の法則)。ぼちぼち行きましょう。

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