少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2021年5月  2021年6月  2021年7月  TOP
2021.6.30(水) RF試論(推しについて7)
2021.6.29(火) CルドンBルー
2021.6.26(土) 僕考最メ喫
2021.6.23(水) 帰納と演繹・頭上の石
2021.6.22(火) 小沢健二・青春はいくつもある
2021.6.21(月) 超越者たち
2021.6.18(金) ガソリンの揺れかた
2021.6.17(木) 出でよ!五聖獣!
2021.6.16(水) まずマッチングアプリをやめろ
2021.6.15(火) 男と女(推しについて6)
2021.6.11(金) 理屈とポジションと気持ち
2021.6.10(木) お金が悪い(推しについて5)
2021.6.9(水) ナチュラルに性を売買する2(推しについて4)
2021.6.8(火) ナチュラルに性を売買する(推しについて3)
2021.6.7(月) 何が好きかで自分を語る(推しについて2)
2021.6.6(日) 所属、差異、従属(推しについて)
2021.6.5(土) 杉村太蔵(41)
2021.6.3(木) 雑記 予告やメモなど/後継
2021.6.2(水) 女を売った金で女を買う
2021.6.1(火) 読書と筋トレ(趣味について)

2021.6.30(水) RF試論(推しについて7)

 たしか赤木かん子さんが仰っていたはずだがソースが見つからない。読書する子供には大きく二つの流派があって、リアル系とファンタジー系である。リアル系はノンフィクションをはじめ、「本当にあった」とかたるケータイ小説や怪談などを好む。ファンタジー系は指輪物語などのハイファンタジーをはじめ、ハリー・ポッター、ナルニア国といった現実とは一線を画した舞台のものを好む。そのちょうど中間にあるのが『ズッコケ三人組』シリーズで、これはどちらの流派の子供でも読めるから、大ヒットしたのだ、と。説得力ある素晴らしい論考で、感激したのだが、原典がわからない。ゆえに僕のオリジナルな考えも混じっていると思います、すみません。

 リアル系とファンタジー系。これは「子供の読書」に限った話ではないように思う。
 先日、お友達の山猫スズメ先生にお誘いいただいて、エロ漫画研究家の方にインタビューをする企画に参加した。Twitterのスペース機能を使った音声座談で、気楽なものである。そこで「最近の若い人はエロ漫画なんか読まない」という話題が出た。それに関して、飛び入り参加した漫画家のあほすたさんが、このように語っていた。いわく、「特に女の子は、エロに興味があったら生身のほうに行っちゃうんですよ。すぐ行けるから」とのこと。
 エロにもリアル系とファンタジー系はある。生身じゃなきゃ意味がないという人もいれば、二次元じゃなきゃ無理という人もいる。その中間にあるのがなんだかはわからないが、AVとかグラビアといったものがなかなか廃れる気配を見せないのは、そのあたりがちょうどいいということなんだろう。(「ズッコケライン」とでも呼ぼう。)

 マッチングアプリを濫用するのは明らかに「リアル系」を好む人たちである。あほすたさんのいう「生身に行く」というやつだ。肉体的につながることで充足する。
「推し」というのは、基本的には「ファンタジー系」に属するもののはずである。手が届かない。しかしかなりのグラデーションがあって、認知されることもできるし、トップオタ等として「特別扱い」を受けることも可能だ。なんなら「繋がる」こともある。ことと次第によっては「リアル系」とも見える。
 個人的には、ここにおける「ズッコケライン」はジャニーズだと思う。だから覇権を取れたのだ。認知されたりつながったりすることは極めて困難(戦略次第では不可能ではない)だが、実在の人物だし、コンサートで「会う」ことは割と簡単に(ファンクラブに複数名義で入ったりして……)できる。
 一方、コンカフェや配信者あたりだと、容易に繋がれるし(ほぼ)直で金を渡して認知されるのも秒で可能。これはかなりリアルに寄っている。
 ラブライブ!とかヒプノシスマイクなど、2.5次元を前提としたようなコンテンツは、ファンタジー寄り。2.5次元要素のほとんどない二次元は、ファンタジー系の王道である。
 それと実際の子供の頃の読書傾向は、けっこう重なるのではないか? というのが、僕の仮説というか、直観。いかがでしょうか。

 ノンフィクションや、ケータイ小説や怪談のような「本当にあった」系のお話を好む(好んでいた)人は、どちらかといえば生身の人間をダイレクトに求めるのではないか。ファンタジー系の物語を好んだ人は、「推し」文化のほうに行きやすいのでは。と。ヤンキーはセックスしてオタクはアニメ観る、みたいな、みもふたもない話になっちゃいそうですが、意外とそのくらい世の中って変わってないんじゃないかという気もする。


 僕は岡田淳さんという児童書作家がとてもとてもと〜〜っても大好きですが、彼の書くお話には「学校や家の近所からなにか不思議な世界や出来事にまきこまれて、また日常に戻る」という構造のものが多い。
「本当にあった」でもなく、「完全なフィクション」とも思えない、エンデの『はてしない物語』もそうだが、現実にあった出来事なんじゃないか? いやまさか? でも……と思わされてしまうようなところがある。これも「ズッコケライン」であっておかしくないと思うのだが、なぜかズッコケほどのメガヒットにはならない。
 それは構造というよりも、また別のところに要因があるんじゃないかと思う。ファンの欲目で言うようなところもあるが、子供にウケるには、ちょっと上品すぎるのかも。
 一方で岡田淳さんには「こそあどの森」シリーズのようなハイファンタジー(?)もあって、これはけっこうヒットした。きっとファンタジー系の子供たちに響いたんだと思う。
 そんな彼を敬愛してやまない僕は、マッチングアプリもやらないし、推し文化にもはまらない。きっと現代の文化に染まるには上品すぎるのだろう。というか、大人になるということは、言い換えれば、社会に適応するというのは、そういうことなのでは。僕には愛する「大きな岡田淳愛読者」が何人かいるが、みんなあまりにも美しすぎて、とても社会に適応しているとは言い難い。
 でもだからこそ僕たちが幸せになることは義務だと思います。

2021.6.29(火) CルドンBルー

 シールドンビールーという三ノ輪の洋菓子喫茶に行ってきた。あす6月30日で閉店だという。行ったこともないお店に滑り込みでスタンプ押しに行くような真似はあまり好きではないのだが、よく通りかかっていたし、人のすすめもあったので、というか行きたかったので、恥をしのんで。
 恥をしのんで、という感覚は大切だと思う。僕はこれから、欲望を満たしに、果たしに、ほぼそのためにのみ、行くのである。恥でなくて何であるか。どうしたって醜態を晒さざるをえないわけであるから、できる限り気配を消して、遠慮がちであらねばならない。
 昨年末に閉店したビーラジルシーヒーという喫茶店は、本当に大好きだったし、かなりよく通っていたお店だったのだが、それでも終盤毎日のように通って行ったのはそれなりに恥をしのんだ。しかし、きっと僕らのような者が惜しんで通うことが店主さんたちのある種の励みにもなるはずだ、そうあってくださいと願いながら、毎日毎日、静かにコーヒーを飲みに行った。結果的にそれは正解であったと思う。

 9時開店。5分前に着いた。雨が降っていた。合羽ついた自転車置いて、5分散歩して、戻ってくるともう二組のお客がいた。「三千何百何十円です」。330円前後のケーキを10個くらい買ったわけだ。次の方は「千何百何十円です」。こりゃー、あっという間になくなるわけですよ。昨日はお昼には完売していたらしい。今日はもっと早いのでは。
 順番を待っている間に、おばあさんが計ふたり、ケーキコーナーを素通りして喫茶スペースに入っていった。僕のような恥ずかしい(?)存在とは違って、毎朝あたりまえにコーヒーを飲みにやってきている「常連さん」なのだろう。
 店名シールのついた180円の焼き菓子と、すすめてくれた友達へのお土産としてフルーツタルトを持ち帰りにして、店内で食べられるケーキセットをブルーベリーケーキで注文。お席でしばらくお待ちください、あとでまとめて会計します、ごめんなさいね今ちょっと人手がなくて、というような感じで、本当に忙しそうであった。僕の後ろにはすでに列ができていたのである。えっ。ケーキの箱詰め、会計、喫茶営業を一人でこなすのであろうか?(人手はあとでふえました。)
 4人がけのテーブルが4つ、6人がけが1つ、2人がけが1つ。さっき別々に入って行ったおばあさんふたりは、2人がけの小さなテーブルについていた。混むことがわかっているのかもしれない。僕は一番奥の、4人がけの席についた。朝日新聞と東京新聞があったので、いつも読まない朝日新聞のほうを広げて待った。途切れることなくケーキを買いにくるお客さんがあり、喫茶スペースにも人が増えてきた。
 手が空いてきたわけでもなかろうに、お店の方がおしぼりとお水をたくさん持って、座っているお客に配っていった。「ケーキセットはなんだっけ? ブルーベリーだっけ?」「はい、ブルーベリーです」と答えたあと、また戻ってきて、「ごめんなさい、お飲みもの」「あっ、ホットコーヒーで」聞かれないということは問答無用でホットコーヒーなのかなと思ったのだが、ちゃんと言えばよかった。
 席に着くなり写真を撮りだしたムスッとした顔のオシャレっぽいおばさんがクリームソーダを注文。お店の方は一瞬、厨房のほうを見て、「あ……」というような声を出したが、「はい、大丈夫です、クリームソーダ」というような答えを返した。「それと、イチゴのショートありますか」イチゴのショートは、少なくとも僕がきた時には一つもなかった。しかしその後、そのおばさんのところにはちゃんとイチゴショートが届いていたので、新たに作って持ってきたのだろう。それがわかって聞いたのだろうか。意外とベテランなのかもしれない。そもそも僕のような新参はなんの文句も言うべき立場にはないが、いやいやこんな忙しそうにしてる時によーもクリームソーダとか、店頭にないケーキを頼めるな? とは思った。よく来ているのか初めてなのかは知らないが、こういう時には歯を食いしばってコーヒーか、カフェインを取りたくない時にはミルクか何かを頼むのがセオリーだと僕は勝手に思っている。もちろん、クリームソーダを摂取したり撮影したいという欲望を満たしたい、果たしたい、という気持ちは尊重されねばならないが、それこそ恥をしのんで、という感覚はとても大切であって、あんなにムスッとしたまま注文しなくても、と、ぼくは思います!(C)ちばてつや先生
「ごめんなさい〜お忙しいとは思うんですけどどうしても最後にここのクリームソーダが摂取したくて〜」というような顔をするのが、けっこう大事だと思うのだ。とくだん言葉にしなくても、顔でいいと思う。顔で伝わる。なんせ何十年も商売をやってきている相手なのだ。少なくとも、伝わるようにがんばるのは、たいせつ。
 そういえばさっき書いたビーラジルシーヒーの終わりかけの時も、初めて来たような人ほど複雑なメニューを頼んだり、おかわりしたりするのであった。それはお店の人からしたら嬉しい部分もあるかもしれないが、90歳も近いおばあさんが連日、いつもより数段忙しく働かなければならなくなるという事情を、想像してのことだろうか? せめてそういう顔をしてほしいものだ、とその時も思った。いや、第三者の勝手な要望ですけれども。僕らは歯を食いしばっていつもコーヒーを頼んだ(コーヒーの味こそ絶対に忘れたくないと思ったからでもあった)。とはいえ、モーニングはよくいただいていたし、毎日のようにやってきて地味に忙しくさせてるのは誰あろう我々のような名残惜しみ系のお客でもある、というのも間違いないのだが……。
 9時半過ぎくらいまで僕はいたのだが、意外と「野郎」系の喫茶利用者は少なかった。野郎というのは山田芳裕先生の名作漫画『大正野郎』を語源とする造語で、「レトロ好き」とか「純喫茶好き」みたいな人たちのことである。もちろん僕も野郎なのであるが、野郎であることはけっこう恥ずかしい側面もあるし、やるなら堂々と、振り切ってやったほうがいいというのも『大正野郎』から学んだ。昭和に生まれたが大正に憧れすぎて、大正時代っぽい価値観や生活スタイルをできる限り身に纏っていようと努力する青年が主人公である。いま世の中には昭和野郎や平成野郎がけっこういますよね。いやー、山田芳裕先生はすごい。「野郎」というのはかなり普遍的な概念なのだ。
 喫茶スペースにいたのは、およそ半数がいつも来ているらしいおばあさんたち。おじいさんは一人もいなかった。おそらく洋菓子喫茶というのが大きいのだろう。女性を呼ぶ。コーヒーでなく紅茶を飲んでいる方もいらっしゃった。ワクチンはいつだとか、どういう感覚だったとか、そういう話が聞こえてきた。
 最初に来ていたおばあさんふたりのテーブルにトーストが運ばれてきた。モーニングだという。そういうのもあるのか! バターとジャムをつけてもらっていた。すると別のおばあさんが「この人たちだけなのよ、ジャムバターをつけてもらえるのは!」と、また別のおばあさんに解説していた。
 コールドン・ブルー(CORDN BLEU)というお店は彼女たちの日常の中にあって、その日常は明日も明後日も続いていく。これからはどこで朝の一服をするのであろうか? 最終日でもないからか、すでに語り尽くしたのか、そんな話は一切聞こえてこなかった。ただ今日という日常の中で、あすワクチンを打つだとかそんな話をしていた。最後まで、人々の日常の中にありながら終わっていけるみたいだ。とても美しい気持ちになった。僕は今日、ただここに欲望を満たしに、果たしにきてしまったのであるが、もちろんそれだけで終わらせてはいけない。そういう行為に手を染めてしまったからには、ここで知った美しさを、自分の人生の中にちゃんと取り入れていって、輝いてみんなに見せていかなければならない。
 南千住駅近くにあるMというお店でモーニングをいただこうと自転車で走る道すがら、古い喫茶店を見つけた。覗いたら店主はおじいさんで、お客もみんな男の人だった。ここにもまた、別の日常が続いているのだ。

2021.6.26(土) 僕考最メ喫

 僕が考えた最強のメイド喫茶。
 まずそれは飲食店ではない。椅子と机がある。その空間にメイドがいる。終わり。
 あ、なぜ最近メイド喫茶やコンカフェの話ばかりするのかというと、そこが「(主としてある程度文化的な背景を持つ)女が女を安売りする現場」として代表的な場所だと思うから。
 なぜ安く売ってしまうかというと「みんなけっこうやりたいから」で、つまりそこは「やりがい搾取の現場」でもある。「やりがいを持って女を安く売れる場所」なのである。
 また、だからといって数ある職種の中からなぜそれが選ばれるかというと、メイドの店で働く人たちは「メイドの店で働く以外の発想を持っていない」からでもある。それが最も楽に、楽しく働けて、そこそこ稼げるのだと思っている。それは他の選択肢を「知らない」ということでもあるだろうし、実際に「ない」ということでもあるのかもしれない。それは教育と社会の不備である。
 で、さて、そこに「お給仕」はない。何もしなくていい。飲食店の届け出はそもそも出さない。どんな場所でもできる。
 客は入場料を払う。また一定時間ごとに料金が加算される。飲食代は発生しない。チェキや物販はメイドが自由に用意し、自由に価格を設定する。その場で作った折り紙の鶴を千円で売るなどして良い。
 階級制を導入する。仮にブロンズ会員、シルバー会員、ゴールド会員とする。ブロンズ会員が入場料1000円、10分につき500円だとしたら、シルバー会員は入場料2000円、10分につき1000円。ゴールド会員は入場料5000円、10分につき3000円、といったようにステップアップしていく。通えば通うほど、お金を使えば使うほど高くなっていく。たとえば10回来店したらシルバーになり、プラス5回でゴールドになる、など。その上のプラチナ会員は入場料10000円、10分につき10000円とか。
 メイドはそこに「いる」。客はコミュニケーションを試みることができる。客の個人情報は顔写真とともに管理する。
 もちろん「つながり」「ストーカー」などが発生する。
 おわり。

2021.6.23(水) 帰納と演繹・頭上の石

 これから書くことは僕が考えたのではなく僕のポケモン(そして僕もその人のポケモンでもある)が話していたことを僕なりに変奏して書くフィクションです。実在の(略)
 大昔から表示させている「⇒この作品は~」という文言は唐沢なをき先生の『ホスピタル』のオマージュです。

 帰納型と演繹型がある。
 帰納型は、たくさんのサンプルを収集し、そこから法則を導き出す。
 演繹型は、すでに身につけた法則をもとに、具体的な事例に対処していく。
 対人関係の話でもある。

 帰納型の人は、いろんな人と関わり、その人のことを知ろうとする。
 演繹型の人は、すでに知ってしまったことをすべての事例にあてはめる。
 もちろん一人の人間の中には帰納も演繹も備わっているものだが、どちらに偏っているか、というので「型」と呼んでみた。

 たとえば、キャバ嬢の帰納型と演繹型を考える。
 帰納型キャバ嬢は、たくさんの客を個別に研究する。そしてやがて、「客とはこういうものか」「営業職はこういうヤツが多い」「広告系はこれだから」というふうに、法則を導いていく。
 演繹型キャバ嬢は、そのような法則をもとに、「客にはこう接すればいい」「営業職だからあの手を使ってみるか」「広告系にはこれが効くんだよな」というふうに、各事例に対処していく。
 すなわち、帰納型キャバ嬢は「新人キャバ嬢」の振る舞いに見え、演繹型キャバ嬢は「ベテランキャバ嬢」の振る舞いに見える。その定義からして当たり前だが、「帰納⇒演繹」という順序をとるのである。
 優秀な人は、帰納と演繹を繰り返して「法則」に磨きをかけていく。常にアップデートしていく。新人とベテランの間を行き来する。
 しかしいつか、「法則はもうこれで十分だ」という境地に達せば、「演繹」だけでやっていくようになる。もう「サンプル」は要らない。

 頭上に投げた石はいつか止まる。一番高いところで。

 演繹型に固定されるというのは、「結論」が常に先にあるということだ。
 学校の先生は5年か10年も働けばだいたい演繹型になっている。
 生徒のサンプルはもう1000人規模で集まっていて、もう十分と思うのだろう。
 それでも個別の生徒に一人ひとり手ぶらで(結論を用意せずに)向き合ってくれる先生は、いい人間だと思う。(大切にしよう!)

 帰納をやめて演繹のみに生きるようになるのは、人のさだめといえるくらい自然なことかもしれない。頭が固くなるとも言う。
 これがすごく若い段階で訪れることもある。「どうせ私なんて」「どうせ男なんて」「結局女は」といった発想は、もう帰納する気がなくなった演繹人間たちの口癖である。十代二十代ですでにそうなっているケースはかなり多い。

 どこかで帰納を再開しなければ、頭上の石はそのまま落ちてくる。

「何をしてもうまくいかない」というのは、「何」の中身をもう増やす気がなくなったということだ。そのくらいつらかったのだろう、そう思うのも仕方ない。
 しかし、それを放っておくと、その法則をもとにあらゆる事例に対処するようになる。
「何をしてもうまくいく」というのも、「何」の中身をもう増やす気がないということだ。いや、増えたとてうまくいくと信じているのだ。そういう人は、うまくいくことばかりするようになるか、うまくいってなくてもうまくいっていると思い込むようになりがちだと思う。「同じ法則が導き出されることを前提に帰納を行う」である。でなければ演繹の際に用いる法則が変わってしまう。それはあまりにも都合が悪い。
 人間は変わりたくないのだ。恒常性(ホメオスタシス)を維持したいのだ。体温からしてそうなんだから。
 帰納は、すでにある「法則」をぶっつぶす可能性を常にはらむ。
 それにワクワクしなくなった時、希望を持たなくなった時、頭上の石はそこで止まる。

 泣いている時、「泣いている」という状態を維持することが気持ちよくなってしまうようなことがある。
「私なんて」を維持したほうが楽なのだという境地はそれに似ている。

2021.6.22(火) 小沢健二・青春はいくつもある

 保健所の検査通りました。29日(以降)に新しい営業許可証がもらえて、そこに有効期限が記されているはず。前回と同じ6年間なら2027年6月いっぱいの許可になる。夜学バーは2017年4月開店なので、ほぼ10年。(※ややこしいのだが、僕がお店を始めた時には「Bar brat」としてすでに2年弱営業していた。)

 2017年2月22日に小沢健二さんの『流動体について』というシングルCDが発売された。「意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」というフレーズを当時、東京の街でお店を営むことになったばかりの僕はいつも口ずさんでいた。意思はお店を変え、お店は都市を変えてゆく。宇宙の中で良いことを決意する都市に。
 さらにさかのぼって2016年5月6月のライブ「魔法的」で、この『流動体について』を含む7つの新曲が発表された。その後音源化された曲としてはほかに『シナモン(都市と家庭)』『フクロウの声が聞こえる』があるが、どちらも歌詞に重要な異同がある。また『涙は透明な血なのか?(サメが来ないうちに)』『飛行する君と僕のために』『超越者たち』『その時、愛』はいま聴くことができない。
 それでも超空間の航路を通り、時間軸を曲げて、「魔法的」のことを思い返してみる。ちょっと検索すれば歌詞を文字起こししているページが複数見つかるし、勝手に歌詞カードを作った友人もいた。ブートは無数にあるということだろう。そういったものの助けを借りつつ「魔法的」について考えれば考えるほど、48歳であのようなすばらしい作品を新たに創り出せる人物を僕は永遠に尊敬していかなければならない、としか思えない。
 今は子どもがまだ8歳と4歳ということだが、これが16歳と12歳とかになったら、また創るものや語ることが変わっていくのだろう。
「魔法的」の頃には小さな第一子しかいなかった。おそらくそのため、魔法的の歌詞はむしろ難しい。彼がいつか大人になったとき、「うちの父ちゃんは自分が3歳くらいの時にすっげえ歌詞を書いていたんだな」と驚くのではないだろうか。つい最近発表された『ウルトラマン・ゼンブ』『エル・フエゴ(ザ・炎)』『泣いちゃう』という曲たちは、「8歳でも十分に理解できる歌詞」だと僕は思う。もちろん「理解」にもいろいろあるが、まったくピンとこないことはないだろう。小沢さんもそのようなものとして書いたのだと思う。一方「魔法的」の曲については、たぶん「3歳のこの子が理解できるように」という気持ちはない。「いつか理解してくれたら」と、かなり遠くを見て書かれたのではないかと勝手に思っている。
 僕が「魔法的」の新曲を、とりわけその歌詞を果てしなく好きな理由はたぶんこれ。ひたすら遠くを見て書かれている。
 2019年11月のアルバム『So Kakkoii 宇宙』で初めて発表された(先行シングル含む)4曲の中では『彗星』『失敗がいっぱい』『薫る (労働と学業) 』はどちらかといえば小さな子どもにも分かりやすいようなもの(『彗星』はやや難しいけど)だと思うが、『高い塔』はもっと遠くを見た曲だと思う。これのみライブで演奏されていないし、なぜかカラオケにも入っていない。僕はこのアルバムでは、最も詩的と思えるこの曲が圧倒的に一番好きである。
 だからといってそうでない曲が嫌いだというわけではない。『ウルトラマン・ゼンブ』は次男の発想がもとになったという。だからその4歳次男がわかるような曲になっているんだと思う。『エル・フエゴ(ザ・炎)』は長男の発想だという。だから8歳長男がわかるような曲になっているのだと思う。それはそれであまりにもすごいことだ。
 小沢さんとエリザベスが映画をつくって上映していた頃、ある友達が「小沢さんは新しいフリッパーズ・ギターを組まはったんや!」と言っていた。その表現がどうかは置いといて、小沢健二さんという人は一貫して「合作」の人なんだとは思う。実は孤高の芸術家ではなくて、ほとんど常に誰かとの合作の中で作品を生み出している人なのだろうと。だからこそ、バンドは数年で解散し、以降は「ソロ」としてずっと活動している。その都度、いろいろな人たちといろいろな「合作」をするには、むしろソロでなければできない。わかりやすい例では『ブギー・バック』や『球体』は合作そのもの。
 今はその主たる合作相手が、長男や次男だったりするのではないか。ということは、彼らが育つごとに、違った雰囲気の作品がどんどん出来上がってくるということも想像できる。もちろん、子供たちとばかり合作をするのではないだろうけど。
 最近の小沢さんの作品の一部は「幼稚」と表現することもできるようなものだが、子どもとの合作なんだから当たり前である。そしてその子供たちはやがて思春期を経験し、大人になっていく。そうしたらもう「幼稚」ではない。ふたたび「若者の葛藤」や「青春」が歌われ、ひょっとしたらフリッパーズ・ギターをしのぐほどのすさまじい作品を生み出してしまうかもしれないのだ。『青春はいちどだけ』という曲がフリッパーズにはあるが、それも「僕が飛ばしすぎたジョーク」ってことになってしまう。青春は、いくつもある!

 小沢さんは、これも勝手な分析にすぎないが、「合作」の時はかなり相手と溶け合って作る人だと思う。自分のイメージを具体化するのを手伝ってもらうというよりは、相手の価値観や技術にむしろ融合してしまう。夜中にコンビニ行ったりしながら「ラララ~」とか言って作る。意外と他人に影響されやすいというのもあると思う。だから自分の作品でありながら「みんなで作ったもの」に当然なる。「僕のコンサートって、なんかレイブみたいなんですよ」というかつての発言もたぶんそのようなニュアンスなのだろう。
(ここでいう「合作」とは、実際に作業をともにするというだけでなく、『アルペジオ』が漫画家の岡崎京子さんとの合作だと言うようなニュアンスも含む。)
 逆に「合作度」があまり高くないような時は、『高い塔』のようなものを作ってしまうのかもしれない。いや、それはあまりにも勝手な推測だ。『高い塔』だって「そういうものを作らせてしまうような相手」との合作かもしれないのだから。となると「魔法的」というものは、「3歳の子ども」という脅威的な可能性の容れ物を相手にした合作だからこそ、どこまでも遠くへ、無限に行けてしまったのではないか、という気がしてならない。

2021.6.21(月) 超越者たち

「よき風を吹きおこす人々 君は友達と呼ぶだろう 長い時間続いていくよ 友情」
 すばらしい歌詞だ力あふれすべてを捨てて僕は生きてる。
 22日、すなわち明日、というか実はこれを書いている45分後の15時半、保健所がやってきて営業許可更新のため立ち入り検査があるので、掃除や補修、備品の買い足しなど色々してへとへと。お店は趣味同然だがこういう時はやはり労働である。ここ数日はそれで潰れた。夜通し作業して朝の9時半に寝て13時半に起きた。たくさん寝たい。
 これに通ればもう5〜8年くらい(よくわからない)営業できるわけだが、今回いろんな箇所をチェックしていたら、同じ場所で続けるのは今回の更新で限界という気がする。2017年4月開店の夜学バーは、2026〜27年にはもうないかもしれない。10年も同じことをやったら長すぎる気はするし、まあいずれにしてもそんなもんだろう。ってことは、次のことを考えねばならない。ブレーン募集。
 ちなみに通らなかったら十中八九しばらくのあいだ営業停止です。
 今は通学路をちょっと外れた「Iコーヒー」にいて、しょうが焼き定食を食べ、コーヒーを飲んでいるところ。ここはたぶんほぼ「喫茶好き」的な人たちに見つかっていない僕の聖域である。もちろんサンクチュアリと読んでください。おばあさんと娘さんと、さらにたまにその娘さん(小学生)がいる。長い時間続いていくよ。あそろそろ出ないと。たっぷりのサラダに味噌汁、コーヒーにはお菓子もついて、750円。

 子供のころに見た幻だと 大人になった君は思うかな
 だけど怪獣が炎を吐く天空に
 超空間の航路はあり 純粋な力だけが通る

2021.6.18(金) ガソリンの揺れかた

 ガソリンの香りがしてる
(BLANKEY JET CITY『ガソリンの揺れかた』)

 この「してる」は名古屋弁である。
 標準語の「してる」は標準語の「自殺」の発音(たぶん)。
 名古屋弁の「してる」は標準語の「ウケる」「ビビる」の発音(たぶん)。
 ブランキージェットシティは名古屋のバンド。作詞作曲ギターボーカルの浅井健一さんは名古屋市名東区出身の生粋で未だに正統の名古屋弁で話す。曰く「地元の言葉で喋るのは当たり前のことだしね」。かっこいい。僕も名古屋弁で喋りたいけど、なかなか彼ほどは出せない。
 ブランキーおよび浅井さんの曲は、名古屋弁ならではのメロディ(ピッチ)や言葉遣いがけっこうある、と僕は見ている。いちばんわかりやすいのがこの「してる」だと思う。
 ぜひ曲を聴いていただきたいが、引用したのは第一声。いきなり名古屋弁フレーズで始まる。「してる」の「て」が一番高く強い音になる。この発想は名古屋人ならではなんじゃないか。
『クリスマスと黒いブーツ』という曲の「君の顔を見てるんだ」の「見てる」も、ちゃんと名古屋弁の発音になっている。標準語の人ならもうちょっと「て」を低くするのでは。
 標準語を使いこなす名古屋人も、この「してる」の発音は抜けづらいらしい。最近仲良くなった18歳の名古屋出身女性は、これを方言だと気づいてさえいなかった。ちなみに「やってる」「知ってる」は標準語の「引っ張る」みたいな発音になる。
 この若い娘さんもベンジー(浅井さんのこと)を知っていた。名古屋では一番のスターなのだ。こないだテレビでスピードワゴンの小沢さんが、「なぜスピードワゴンは二人とも愛知県出身で名古屋吉本(NSC名古屋校)出身なのに、あんまり名古屋をアピールしていないのか?」と問われて、「名古屋の代表はブランキージェットシティなんですよ」と答えていた。

 もう二度と出会えれないなんて
(BLANKEY JET CITY『黒い宇宙』)

 この「出会えれない」は、名古屋人からしたら割と自然。名古屋の人(特に子ども)は「もう食えれん」とか平気で言う。ちなみに「れ」に強いアクセントがある。「食べれん」も言う。「ら抜き」も「れ入れ」も、名古屋ではそれなりに普通に使う、と思う。
 たぶん、名古屋人にとっては「れない」「れん」というのが大事なのである。「歩けれん」とかも言う人は言う。「殴れれん」とか。

『ガソリンの揺れかた』ではほかに、「揺らしてるだけ」の「だけ」がちょっと名古屋っぽい。「だ」がすごく強い。「だけ」とか「いる(居る)」は「射る」「蹴る」のような発音になる。
「揺れかた」の「かた」も「射る」みたいな発音になるので、「青空」みたいな感じになります。「か(ぞ)」が強い。

 と、書いてはみたけど、あんまり標準語のイントネーションに自信がないのでものすごく間違っている可能性も。
 方言というものが、その人の作って歌う曲に強く影響を与える、というのは浅井さんの場合はまず間違いなくあって、そこが独特の味を持たせるし、名古屋で(もちろん全国的にもだが)未だに人気があるっていうのも、それと無関係ではないような気がしている。名古屋人の言語感覚、いや「音感」にマッチしているんじゃないかと。

 で、僕の音感も名古屋なので、文章にもどこか名古屋っぽいものがにじみ出てるかもしれない。「にじみ出てる」は「て」を強く発音します。
 最後から二番目の邪魔者。←とくに意味はなし

2021.6.17(木) 出でよ!五聖獣!

「久しぶりー」
「久しぶり」

 ここは地の果て、流されて、俺。

「わーなんか、老けたね」
「え? あ、そ、そう……? タハハ」

 今日もさすらい、涙も枯れる。

「かんぱーい」
「かんぱい」
「はーおいし。ん? ドッタノ。もっと明るい顔しなよ」
「してるよー、何言ってんの」
「最近さえてないじゃん。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫」

 ブルーゲイル。涙はらって。
 ブルーゲイル。きらめく力。

「あ、たばこ吸っていい?」

 海をめざして翼をひらく。
 はがねの機体、野心を乗せて。

「改札口で叱られてるの、お前の父ちゃんじゃない?」
「え?」

「昨日、幼稚園で何やってたの?」
「え?」

「お前の寄せ書き、スカスカだな!」
「え?」

「お前の弟がいじめられてる原因、お前なんだぞ!」
「え?」

 風か嵐か、青い閃光!

「疾風のように、ザブングル、ザブングル」
「ハヤテのように、ザブングル、ザブングル?」

「正体を見せろ! キエエエーー!」
「ギャーアァ! ワアアアギャー! ギャーアァ!」

 キラキラ……パラパラ……。
 グエー! バサバサバサバサ〜〜。

「お待たせー」
「あっ、久しぶり」
「久しぶりだねー」
「わーうれしいなー」
「んふふふ、何言ってんだか」
「だって何年ぶりだろう?」
「変わんないねえ」
「きみもほんとにかわいいよ」
「何言ってんだか」

2021.6.16(水) まずマッチングアプリをやめろ

 マッチングアプリで出会えるような人間はマッチングアプリをやっているようなやつだけ。「マッチングアプリをやっている人にもまともな人はいるよ!」あ、そ、そうですか……。
 こっから本当にテキトーな偏見というか思い込みを書きます。マッチングアプリは圧倒的に男性に有利です。なぜならば、マッチングアプリをやっているような男性は徹底して低レベルだが、マッチングアプリをやっているような女性の中には、それなりにまともな人間がいるから。
 なぜそうなるかというと、女性が安売りを強いられているからですな。
 いろんな事情で。
 比較的まともな女性が、出会いがないので、仕方なくマッチングアプリで男をさがすわけですが、そこにいるのは「徹底的に低レベル」な男だけ。もちろん彼女たちもそのくらいは当然わかっていて、「その中から掘り出し物を探す」能力を高めようとするが、これがなかなかうまくいかない。そこに良い男なんていないので。
 うまくいった! と思うのは、「まあこのくらいの相手で別にいいか」と妥協しただけ、ということだと思う。
 いやいやジェッキーさん、いまはどんな男もどんな女もマッチングアプリをやっていますよ、むかしとは違うんですよ。そこにはすべての人間がいます。
 そんなことはありません! 「そこにいる人間が人類のすべて」だと、あなたが思っているだけです。
 僕の友達のぺ~こくんは、めちゃくちゃいい男ですが、たぶんマッチングアプリをやっていません。(よね?)
 それは「Twitterに表示されている情報が世界のすべて」だと思ってしまうことに似ております。自分向けにカスタマイズされたタイムラインでしかないのに。
 世界を狭めると効率化します。だからみなさん積極的に世界を狭めておいでです。
 スマホの中の狭い世界を、さらにどんどん狭くしていきます。
 あと人間は自分の働いている業界(つまり所属)を世界のすべてだと思っちゃうね。少なくとも自分の働いている業界の外は「お外」だと思うようになるね。で、自分の働いている業界のことを誇りに思うようになって、自分の働いている業界を過剰に良いモノと思ったりするね。そのくせ口では「いやー」とか言うね。
 そして果てには、自分の考えていることを全てだと思って、その外は「お外」だと思って、自分の考えていることを誇りに思って、自分の考えていることを過剰に良いモノだと思います。え? 僕もそうですけど、あなたもそうだったらそういうことじゃん。
 それなんでそうなるかっていうともう世界が狭くなっちゃってるからだね。いろんな本を読もうね。
 僕は昔の本を読んだりしますね。今日はえんどコイチ先生の『死神くん』と『アノアノとんがらし』を読みました。
 それは別に世界を広くはしないけど、狭まってしまった部分を自覚することはできるね。
 むかしのぼくを思い出せるから。

 マッチングアプリはどんどん「条件」を狭めていく。
 狭くして狭くして、最後に残った人間たちと「会う」わけですから。
 それを繰り返していくと、「どうやらこの条件は正しいな」「この条件は違うな」と、学んでいって、「条件の最適化」が行われて、「比較的マシな相手」と出会える可能性が高まっていく。
 世界を狭くするというのは、条件を絞っていくということ、すなわち、徹底的に要らない情報を捨象していくことである。
 そろそろつまんなくなってきましたか? そういうことですよ!(負け惜しみみたいですけどね)
 もちろん狭くしていくってのは求心的ってことです。「最高の条件が揃った人間」に向かって行く。そして広くしていくってことは、遠心的、とにかく遠くへ、すべての条件から解放されること。博愛という、自由!
 自由になりたいなら今すぐにマッチングアプリはやめたほうがいい。世界を愛したいのなら。が、いろんな事情で、それしかないっていうのなら、もうそれしかないのでしょう。
 あとあれです、マッチングアプリ「も」やってたほうが世界広いじゃん、っていう考え方もある。それはそう。だからタイトルにある「やめろ」というのは言い過ぎた。
「うるせー! どうでもいい! 暇つぶしだしストレス解消だし気持ちよくなりたいしとにかく恋愛がしたいの!」
 あ、そ、そうですか……。そうですよね。
「ほかにねーんだよ! 急いでるんだよ! おまえがいい男を紹介しろ!」
 将棋道場に行くのはどうでしょうか。年寄りと子どもしかいないようなとこがいいと思います。
 年寄りからパワハラを受けたらごめんなさい。
 なんとかなりませんかね。
 マッチングアプリしかないっていうのもわかるような気はする。
 ここが男性としての僕の限界だ。
 フラメンコ教室でどうでしょう。

2021.6.15(火) 男と女(推しについて6)

 しっぴつよてい
 ポジショントークの話↓うまく書けなかったが、この話題につなげたいと思っていたのかもしれない。男がこれを書いているのだ、ということを僕も読む人も意識すべきだろう。
 男は得をしているとか有利だとかそういう話というよりは、非対称性をどのくらい意識しているのだろうか? ということを僕は問題にしたいのだと思う。
 あときもい男性のきもさについて。「おぢ(おじさん)」というのは、男性のきもさを凝縮した概念であって、男性嫌悪でもなければ30代以上の男性を嫌悪する表現でもない。主として男性が他人に対するときに発現させるきもさ、うざさ、むかつくところ、そういうものの宿りきった人間のことをさしている。「おぢなどと言って年を取った男性を差別するのはひどい」という文句を聞いたことがあるが、年を取った人間を差別したいのではない。きもさを糾弾したいだけである。
 しっぴつよてい

 ↑ひとまずこれでほぼ言い尽くしているのでまた今度。
 自分は男であって、能力があって、家族にも人にも恵まれて、おそらく今後も「なんとかなる」。
 誰が言うか、が重視されるこの世では、僕の言うことは大きな意味を持たない。
 それどころか、僕が「誰」なのかということだけが問題にされる。
 あほくさい。そんな構造には付き合っていられない。
 僕がどのような属性を持っていて、あなたが僕のことをどう思ってきているのか、ということをベースにして読み取りを始められるのはやっぱり不快だ。まあそれはある程度仕方ないというか当たり前のことなんだろう。うんざりしてきたな。みんなが書くのをやめちゃう理由がよくわかる。
 嫌いだ。人を「誰か」だと思うことは、その人を潰すことになる。なんでそんなことがわからないんだ?
 個人なんてない。そういう発想がつまんないって思うなら、もう忘れちゃってるからだよ。
 飽きるってのは忘れちゃったってことだからね。
 それは何かをどこかに固定させて置いてきたってことでしかないんだよ。
 人と共に生きるっていうのは、「一緒に行く」ってことでしかない。がんばろうねカムパネルラ。(光よ、一緒に行こう。)

2021.6.11(金) 理屈とポジションと気持ち

 金持ちと貧乏人がいるとする。そこへどこかから声がする。「金持ちはみんな性格が悪いんだよな!」と聞こえたら、金持ちは怒るだろうか? 怒る人もいるだろう。「あ? 俺の性格が悪いってか?」と。「貧乏人ってのはみんな根性がねじくれてんだよな!」という声が聞こえてきたら、怒る貧乏人はいるだろう。「あん? 俺の根性がねじくれてるってか?」
 声は、その金持ち(金田さんとする)を悪く言ったわけではないし、その貧乏人(ビボちゃんとする)を悪く言ったわけではない。ただ意見を表明しただけである。
 それを間違っていると思うなら、「金持ちにも性格の良い者はいる」「根性のねじくれていない貧乏人もいる」などと反論すればいいし、無視してもいい。
 世の中には愚かな考えの人がいるもんだ、と絶望に浸ればいい。
 だから「絶望させやがって!」という怒りならわかる。「バカは死ね!」とか。
 でも実際はたぶん、自分が悪く言われたような気持ちになって怒ったり嫌な気持ちになったりする人が多いのだと思う。
 もちろんその声の主が明らかにこちらを金持ちや貧乏人と認識しており、自分もそれを否定できないという状況の中で、面と向かって言われたのであれば、それを攻撃と受け取ってしまい、怒ったり傷ついてしまうのは自然かもしれない。でもそうではなくて、金持ちは性格が悪いという主張を聞いたというだけなら、別に何も感じなくていいと思う。
「東大生って〇〇だよね」という声を聞いた東大生(戸田くんとする)は、「そういう東大生が多いとこの人は思っているのだな」と思うしかない。
 これも東大生と知った上で面と向かって(耳に入るとわかっている状況で)言われたなら、攻撃かもしれないので、そこを確かめた上で、怒っていいかもしれない。でもそうでないなら、別に何も感じなくていいと思う。
 一般論としての意見と、自分の属性とは、分けて考えたほうが平和である。

「金持ち」や「貧乏人」や「東大生」という属性と、自分自身とはイコールではない。「すべての金持ちは嫌なやつなので、金持ちであるあなたは、嫌なやつである」というところまで言われて、初めて「失礼だ!」とか「そんなことはない!」とやり返すべきである。
「金持ちはみんな嫌なやつだ!」と言われただけなら、「自分は金持ちとカウントされていない」という可能性がある。「金持ちはみんな嫌なやつだ! あんたは金持ちだ!」まで言われたら、これは自分が攻撃されていると認定して良いだろう。殴りましょう。
 コンカフェオーナーは全員キモい、と誰かが言うかもしれない。「じゃあ俺はキモいってことか!」と嫌な気持ちになるコンカフェオーナー(コンちゃんとする)はいるでしょう。しかしその「コンカフェ」という範囲の中にそのお店が含まれているかどうかはわからないのである。「あ、ごめんなさい私の中でそのお店はコンカフェではないのであなたはコンカフェオーナーではありません」という場合もある。逆に、「うちはコンカフェではないので自分はこの範囲に含まれないな」と思っていても、「えっ、いやあなたのとこはコンカフェですよ、だからあなたキモいですよ」となるかもしれない。
 望月めるという人がかつて、「コンカフェのオーナーやるような奴は全員キモいから言う事聞かなくて大丈夫」とツイートしていた。これに対して怒ったり傷ついたコンカフェのオーナーやるような奴がいたかどうかは知らないが、「へーそうなんだ」と思うしかないのではないか。
「だいたいバーやるような奴はみんな自意識過剰だしまともな仕事つけない奴なんだよね」と言われても僕はまったく気にならない。ほぼ当てはまるので反論もしない。また「バーやるやつってみんなバカだよね、頭悪いよね」と言われても、僕は頭がいいと思うので何も傷つきません。「お前はバカだ!」と言われたら、「はぁ?」と胸刺してから言います。
「バーをやる人間はバカで、あなたはバーをやっているので、あなたはバカだ」と丁寧に言われたとしたら、それは僕に対する攻撃だし、間違っていると僕は思うので、暇な時だったら「え、なんでバーやる人間はバカなんですか?」というところから解きほぐしてみるかもしれない。なんであれ自分にとって面白い流れになるように努める。面白くなりそうだったら深掘りするし、そうでもないなら適当に笑いにして流す。
 あと、お店の名前に「バー」がつくというだけで自分としてはあまりバーをやっているという気持ちはない。お店をやっている、という気持ちである。お店は良い。お店というものが大好きだ。だからバーをバカにされたところで何も感じないし、もちろんお店をバカにされたところで、それで僕の「お店というものが大好きだ」という気持ちは損なわれやしないので、特に何も思わない。暇で面白そうだったら何か言うかもしれないというだけ。
 コンカフェのオーナーは全員キモい、と言われて、キモい自覚があるんだったら「まあそうだな」だし、ないんだったら「自分はキモくないから関係ないな」で終わりなわけだ。「そんなこと言うなよ、〇〇さんが泣いてるじゃないか! 〇〇さんはキモくないとおれは思うよ!」とかはまあ、言ってもいいのかもしれない。

 そのように切り離す、「分けて考える」のが僕の基本信条なのだが、「ポジショントーク」が嫌いなわけではない。むしろすごく好きかもしれない。その立場でなければ、その人でなければ言えない、説得力を持たない、面白くならない、そういうことはある。
 だからこそ、ポジショントークであることを隠すべきではないと思う。しっかりと、私はこういう人間で、こういう立場だからこういうことを言うのである、と表明したほうが潔い。
 たとえば夜にお酒を出す飲食店を経営している人が、「時短営業も酒類の提供停止も間違っている」と言ったとする。そこにどこからも文句の出ない、筋の通った理屈はあるだろうか? 時短営業や酒類の提供停止をしたほうが感染者数が少なく済むのだろうから、そっちのほうがよいではないか、という理屈をひっくり返せるだろうか? 「だって経済を回したほうがいいじゃないか」との言い分はあろう。でも果たして営業時間と酒類を制限するのとしないのと、どちらが「結果的に」経済がよく回るのか、ということの計算をした上でのことだろうか? そしてその計算は、妥当なものなんだろうか?
「経営が苦しいんすよ、正直金がないんす」と言ったほうがわかりやすいし、誰が聞いても「そりゃそうだろうな」と思うだろう。
 これは「あのですね、そういうことするとダメなんですよ」と一般論を言うよりも、「嫌なのでやめてください」と個人の感情や気持ちを示すほうが効果的である、というのに似ている。「それはあなたの感想ですよね?」と言う人もいるだろうけど、「はいそうです」と言えばいいだけのこと。
 無理して穴ぼこだらけの一般論を唱えるよりも「経営が苦しいんすよ」という声を発したほうがいいかもしれない。その声とそれへの同情は「票」にもつながる。それをこわがって、エライ人は少しくらい何か考えてくれるかもしれない。
 もちろん、一般論は一般論で強い。理屈は理屈で力を持つ。だけど不完全な理屈は逆効果なことも多いのだ。不得意な人が無理して理屈を唱えるのは本当によくない。素直に言えばいいのだ。

「…ねえ つきあうって何?
 佐藤君は どうしたいの?
 何がしたいの?」

「ど… どうって……
 オレは オレは
 オレは
 山田さんに さわりたい

 そうか
 最初からこう言えばよかったんだ」


 多分 君達は言葉が多すぎる
 多分 君達は考え過ぎている
 多分 君達はいつか別れて
 この告白さえ思い出になる日が来るだろう

 だから若人よ
 嘘臭い くどき文句を語るのなら
 いっそのこと体目当てだと言って欲しい

 それは意外に純愛だ

 (日本橋ヨヲコ『CORE』)

2021.6.10(木) お金が悪い(推しについて5)

 ぜにのないやつぁ俺んとこへ来い!
 俺もないけど心配すんな
 みろよ青い空 白い雲
 そのうちなんとかなるだろう! ハッハッハ……!
(植木等『だまって俺について来い』)


 とにかく金が無い、らしい。ある人が就職してしばらくした頃に「みんな金がないんや!」とよく言っていた。数年前のこと。マスコミ・エンタメ業界のけっこう中枢で、流行を扱う仕事だから、その感覚はきっと妥当なものだろう。たぶん今も「みんな金がないんや!」ということに変わりはないと思う。
 ほかにもいろんな友達(特に女の子)から「結局、みんなお金がないんだよねー」とここ数年、よく聞く。なんか、どうもそうらしい。そういえば僕にもお金がない。ハッハッハッ!
 飲食店の時短営業や酒類提供停止により急増した路上飲みは、けっこう前から流行る兆しがすでにあった。みんなお金がないのだ。ストロングゼロ的なものもすでに覇権だった。歩きながらとか、座り込んでとか、そういう飲み方は増えていたと思う。みんな金がないから。
 本当にさまざまなことが「金がない」で説明できてしまう。こじつけだろうが辻褄は合ってしまう。
 またある友達が、「(みんな)旅行とか行くお金ないから展覧会や映画行くのよね」と言っていた。これもけっこう前からそうだった。「推しについて2」で取り上げた短歌も、お金のかからないのが人気の秘密であろう。SNSもお金がかからない。いわゆる「純喫茶」なるものも、客単価は数百円。フルーツサンドとクリームソーダとプリン頼んだって余裕で千円台に収まるはず。
「お金がかからない」ことが流行るのは僕はうれしい。それでいいじゃん、別に金かかることしなくてもさって思う。だけどみんな(誰?)は、お金がかからないことを積極的に好むわけではない。お金がないからやっているのだ。お金があるなら別のことをするだろう。
 お金がかからないことを積極的に好むなら、「青い空 白い雲」これだけでよい。散歩して花でも見たらいい。でもみんな(誰?)は、お金の量の調整レバーを上げ下げして、時に応じた額を払う。こんなこと言いたくはないがそれは良いとか悪いではなく当たり前のこと。1円も使わないとなると選択肢はかなり狭くなる。お金を使ったほうがそりゃ選択肢は広くなる。たくさんのことができるようになる。すると楽しめる可能性は高まり楽しみ方も増えてハッピーである。当たり前。
 みんなそれぞれのお財布事情の中で、それに応じて「やること」を決定している。そりゃそうだ。僕だってお金がないので高いお肉は買わない。
 でもたとえば僕の場合なら、お金をあんまり使わないから、あまり稼がなくていいのだという順番である。それであんまり普通の生き方をしていない。
 高いお肉を食べたいなら、たくさん稼ぐ必要があるが、僕は別に高いお肉を食べたいと思わないので、稼ぐ必要を感じず、稼がない。それで永遠に貧乏である。
(論理的には、高いお肉を食べたくなくても高い野菜を食べたいなら稼ぐ必要が出てくるので前の一文には不足があるのだが、そういうことまで説明したくなるのは僕の非常に悪い癖なので、説明しないように頑張ります。)
 一方、「高いお肉を食べたい」と思う人は、稼がなければならない。
 10万円の服を着たければ、10万円よぶんに稼がなければならない。
 楽しく生きていくのにはお金がかかる。お金はどこからやってくるのか? 自分で稼ぐのだ。しかし「実家が太い」人の場合は、それほど稼がなくてもお金を確保しやすい。(「太い」というのは利用可能であることも含んでいます。(また説明してしまった。))
 たくさん稼いでいる人が豪華な生活をしているのであれば仕方ないと納得もしやすいが、自分とそうは変わらない収入のはずなのにどう考えても自分より豪華な生活をしているのを見ると、ズルいと感じる。自分もそのくらいの生活はできなくてはおかしいし、できないと嫌だ。無理をしてでもその水準を実現したくなる。
 5000円のものよりも20000円のものを使いたくなる。だって20000円のを使ったほうが褒められるし、良いと思ってもらえるし、モテるし、自分の気分も上がるし自分を認めてあげることもできるし良いことばかりなのだから。それを「実家が太い」というだけでいともたやすく実現している人たち! あるいは、たとえば容姿や「性」などを活かして誰かから提供(援助)してもらえている人たち!
 お金が悪いのである。
 そしてそのお金というものは、誰にでもたやすく、すぐに、たくさん稼げるものではないのである。
 世の中はそういう仕組みになっている。なぜだかわからないが。
 どうしてNHKの正社員とコンビニのアルバイトとではあまりにも得られるお金が違うのか?
 同じでいいじゃん、それが文化的ってことだろ、と思うのだが、いろんな理屈と歴史があって現在はそのようになっている。
「お金がほしい」と思っても、そう簡単にお金は手に入らない。
 では「お金がほしい」と思わなければいいのだが、なかなかそういうわけにもいかない。なぜならば、お金があったほうが圧倒的に「得」で、たいていの人は「得をしたい」と強く願っているから。
「最低限の生活ができるお金があればいいよ」と言える人は平和である。ただ、意外とその人の描く「最低限の生活」というのは、それなりに高めの水準だったりする。
 みんな(誰なの?)はお金におびえている。かなりたくさんのお金がなければ楽しく生きていけないし、子供を「満足に」育てられないと信じている。お金は、人々をそのように脅す悪いものである。
 人々は脅されて、こわがって、あまりお金というものを直視できないでいる。「とにかくたくさんあればあるだけよい」と思っておけばいいのだと信じている。そのくらいお金が、お金がないことによってもたらされると信じこまされている将来の不幸が、怖いから。

「君がこわがってるギリギリの暮らしなら なんとか見つかるはずさ」と歌った尾崎豊は26歳で死んでしまった。絶望的なことである。
 お金と幸福との排他的癒着を解き、本当の幸いに至る別の方法も考えたほうがいい。リスク管理として。お金が簡単には得られないなら、お金以外のものもちゃんと懐に確保しておいたほうが安全ではないか。仲良しはその一例である。散歩もそう。みろよ青い空 白い雲

2021.6.9(水) ナチュラルに性を売買する2(推しについて4)

 若い世代にとって「売る」ことはもう当たり前である。「買う」ことが当たり前なのと表裏一体だと思う。自らが「推す」という行為を自然にするので、「推される」ことも自然に受け入れる。
 自分が誰かのプロフィールの一部となることに抵抗がない。P2Pのイメージに近いかもしれない。みんながみんなのプロフィールをお互いに補完しあっている。
 誰もがみんな「アカウント」という形で、自分の依り代(これもポケモンの一種か)を作る。それに「フォロワー」というものがついて「いいね」と褒められる。そういうことに慣れているから、「推される」ということにも別に抵抗がない。むしろ「推されたい」とさえ思う。
 その気持ちに何も悪いことなどない。みんながみんなを好ましく思い合う、というのは平和である。ただ推されるためには性的アピールが手っ取り早いし、性的な部分を認められると簡単に気持ち良くなれるという場合もとても多いので、そういうものが多くなる。それは果たして健全だろうか? 健全と思う人は思えばいいが、僕は不健全だとはっきり思う。
 なぜ不健全かは説明できない。同様に売春も不健全と思うが、その理由を説明できない。そして、不健全だからなくすべきかというと、世の中には「必要悪」という便利な言葉があって、それを存在させなくするのはかなり難しいということになっている。

 僕なりに言えば、性の売り買いは「仲良しの伸展」を阻害するから嫌いである。僕は「仲良し」をよしとする。
 他人の性をその手にしたいのであれば、仲良くなればいい。そのために努力すればいい。それによってみんなが仲良しを上手になる。それを僕は良いと思う。でもお金はその過程をすっ飛ばす。「だってモテる奴が得するじゃん、自分らみたいに絶対モテない人間は永遠に他人の性を手に入れられないのですが?」という声が僕には聞こえる。「必要悪」はそこに生まれる。「絶対モテない」と自認する人たちの救済のために。
 すなわち、「性を手に入れる努力を諦めて、金を手に入れる努力をする」という方向性が許される。資本主義とは(そして男性社会とは)そういうものらしい。(それにしても、「性を手に〜」という表現は便宜上としても品がない。やめよう。)
 初めからお金を持っている人は楽である。この考え方を導入するとまた話が長くなるのだが、いわゆる「実家の太さ」というやつ。実家が太いと、「金を手に入れる努力」すらそこそこで良いことになる。また、自らを売ってお金にしなくても生きていけるわけだから、性的アピールに必死になることもない。(金持ちは自分を売らない、と言っているわけではありませんが、売っているケースは貧乏人と比べて少ないでしょう。)
 その不公平さ、選択肢の偏りを、僕は不健全と思うのかもしれません。
 みんなに等しく売買(春)の機会が与えられているのではない、ということ。金があるやつはいくらでも買えるし、金があるやつは売る必要に迫られない。モテるやつは金に頼る必要がないし、モテるやつは売ればいくらでも売れるから金が集まってくる。そういう非対称さ。
 それでいえば「仲良し本主義」のほうがまだ公平な気がする。もちろん「わたしには生まれついて仲良しの才能がねえんだよ! どうしようもなくねえんだよ!」という人もいて、そのセーフティネットはあったほうがいいのかもしれませんけど。それでも生まれながらの差は、お金や容姿ほどにはないと思う。それに、人と人とは仲良くしたほうがいいと僕は心から信じている。
 お金で性を買うのではなくて、仲良くなって性的に成就するほうが「健全」である、という主張なのだ、これは。
 性を売ってお金や自信にするのではなく、人と仲良くなって生活や精神をよくさせるほうが「健全」なのではないか、という提案でもある。
 それがすぐに誰にでもできることではないのは承知だが、わずかずつでもそっちを目指したほうがいいのではないか、という気持ちの表明である。

「推す」「推される」という関係に「仲良し」は前提とされていない。推す側の片想いを、推される側が許容するというだけだ。
 そこでやりとりされるものは性であったり、「(主としては性的な経路を通る)癒し」であったり、「承認」や「自信」や「お金」や「肩書き(プロフィールの一行)」であったり。あるいは「恥ずかしさの払拭」「コンプレックスの解消」といったものもある。悪いことばかりでもない。最近読んだ『新人漫画家、風俗嬢になる』という漫画は、「(必要がないならやらないにこしたことはないが)私は風俗をやってよかった」と提示していた。コンプレックスがなくなり、自分らしく生きられるようになった、というようなニュアンスである。
 人と仲良くなる、そういう能力を身につけるためのステップとして「売る」ことが一時的には必要であったり、手っ取り早かったりすることはある。何より具体的には、お金が手に入る。上記の漫画でも、風俗で稼いだお金をまず腋臭症の手術にあてている。それをしていなければ、この主人公が前向きに自分の人生を生きていくことはかなり困難だったはずだ。
 まったく自信のない人が、「推される」ということによって自信を手にして、そこから自分の人生を作っていく。そういうルートは多々ある。だから個人的には、そこにいつまでもとどまっていたってもうそれ以上いいことはないのではありませんか、と思う。でもわかる。同じところにいたほうが楽だから。それに、自分は本当に自信がついたのだろうか? というのに確信を持って答えるのはかなり難しい。そこにいれば自信が供給される。「その道」を歩くことの既得権益が目の前にあるのに、それを捨ててまで別の道に進むことはないだろう。実によく理解できる。
 性を売る(ものすごく広義に捉えてください)ことによって、とりあえずの「仲良しっぽい関係」は成立する。買う側にとってもそうである。性や金を介さずに人と仲良くする自信はないが、それさえ介せば仲良さそうな関係がつくれる。だったらそれでいいではないか。
 だってそれが資本主義であって男性社会なんだから。
 核心はここで、資本主義であって男性社会であるようなこの世の中を最高〜!って思うなら、きっとそのままでいいんだと思う。
 僕はそういうものが嫌いだし不健全と考える(条件なしの仲良しこそが真の健全!)ので、性や金が「仲良し」よりも前に来るのは嫌だ。

 やむにやまれず性を売買することを否定はしないが、そこがゴールだという人は、「金と男を至上とする」価値観を良しとするんだろう。それが自身にとって都合が良いということだろう。それでいいならそれでいいが、そりゃーモテないぜ、と思う。だからモテるために金や性が要るループ。それが「今まわっている社会」というものなのだ。

2021.6.8(火) ナチュラルに性を売買する(推しについて3)

 この話は書き出すと長くなりそうなのでいったんごく簡潔に。(もうすぐ寝るから。)
 推しというのは「推す」と「推される」のセットで成り立つ。
 それは「売る」と「買う」でほぼ置き換えることができる。
 推しとは人間やモノ、概念の売買である。その中心にあるのは「性」である。

 若い女の子はナチュラルにコンカフェやガールズバーで働く。ナチュラルにパパ活をする。

 若い女の子は自分がおじさんたちから求められていることを知っている。それがお金になることを知っている。だから、無料でおじさんたちと接することがもったいなくて仕方ない。
 どうして私(たち)は、お金をもらって提供できるようなことを、無料でやっているんだろう? これは搾取だよな。だったらお金をもらったほうがまだよくないか?
 彼女たちは、かつて「男性に気を遣う」ということを求められたことがある。それを無料でしなければならない空間と、有料でする空間があることも知っている。どちらも避けられないのであれば、お金をもらったほうがよいではないか、というのは自然な発想である。
「男性の前で、(男性が望むような)女性として振る舞う」ということが、それだけでお金になることを知っているし、お金にならない場所でも、それを求められることがいくらでもあることを知っている。
 しかし、彼女たちはすでに「平等」という概念を知っていて、それがいかにおかしなことかをわかっている。どうして男性と女性とは平等であるべきなのに、私たちは男性の前で「相手の望むようなあり方」を強いられることがあるのだろうか?
 どうやら、それは避けられないらしい。テレビを見ても学校にいても、家庭でもインターネットでもどこでも、男性と女性とは明らかに非対称である。「平等」というのはタテマエで、達成の目処のない努力目標で、つまり現状じゃウソらしい。
 そういう状況は明らかにあって、別にフツーのことだから、それを徹底していやがるのは損である。それに、「男性が望む女性」というものを、自分がすべて拒絶したいわけではない。男性が女性に「着てほしい」と思う服の中には、自分が「着たい」と思うものもけっこうある。メイド服はまさにそれだし、たまにセーラー服とか着られたらなおよい。それで褒められてお金ももらえる仕事がある。それが男性に搾取されることでしかないのはなんとなくわかっているが、どこにいたって同じようなものなんだから、まあいいんじゃないの。そういうもんでしょ、とりあえず。
 男性の前で(男性が望むような)女性として振る舞うことが、得意であったり、今のところ特に苦痛も感じないという人もいる。その場合、ガールズバーは比較的楽で、少しは時給の良い仕事である。ガールズバーとは呼ばれなくても、「若い女の子が主に店番を務める、専門的な調理技術などは求められない飲食店」というのは(都会には)たくさんある。そういうところでも、男性に対して無理に「いい顔」をして接客しなければならない(客がそれを望む)場合は多々ある。それが嫌でなければ、あるいは老舗スナックのママのように上手くコントロールできるのであれば、向いているだろう。どうせどこにいたって、「女」でいることを求められる点では大して違いはないのだ。
 完全に私見で、すべてのケースがそうであると言うつもりもないが、今コンカフェ(メイドの店含む)・ガールズバーやそれに準ずる「性を売る店」が大流行している背景には、働く女の子たちのそのような「諦め」があるのだと思う。
 どうせどこにいたって、「女としてのいい顔」をしなければならないんだから、だったらそれを逆手にとって、自分に都合の良い働き方をすればいい。これがさらに開き直ると、パパ活(もちろん大人なしの場合もある)や頂き女子に発展していく。
 男ってのは基本的にそういうもんなんだから、客として割り切って接すればいいんだよね。
 と。

「推される」ということは「売る」ということである。
 僕はそう思うが、当事者がそう思っていない場合はけっこうあると思う。そういう人は、たぶんここに書いているようなことも考えたことがない可能性が高い。売らせる側や買う側にとっては、そのほうが都合が良い。
「推す」ということは「買う」ということである。
 僕は買う人にそう思っていてほしいのだが、「応援する」とか「推す」という言い方によって、「彼女(と自分)のためにお金を出しているだけなんだけど、何が悪いの?」とシンプルに思っている場合もかなりあると思う。
「そこには応援してほしい人と応援したい人との合意があって、そのあいだをお金が動いているだけなのだから、何も悪いことはない」と、みなさんそうおっしゃるのでしょう。
 まあでもそこで売られているのは性ですよね? と僕は思うが、「違う。性ではない。個性だ。この女の子そのものだ」と言われたら、そうですかと引き下がるしかない。売る側も、「そうなんです私は性を売っているのではなくて個性を、人格の全体を、わたしという人間そのものをある種の作品として表現し、それにお金を出していただいているんです」と言うかもしれない。お店は「そういう人たちをつなぐマッチングシステムがコンセプトカフェというものなのです」とか言うのかもしれない。
 たいそうなことでございますが、人をお金で売り買いするというのは、そもそもあまり健全ではないと僕は思います。見返りは一切なしに「応援」するっていうのならまだ理解はできる。会いもしないし話もしない、メッセージも送らない。お金だけ送る。

 メイド服など特殊な衣装を着た不特定多数(キャストに増減や入れ替わりが全くないのならちょっと違った意味合いにはなる)の女の子たちと「会話ができる」ことを売りにしているようなお店や、むしろ会話のほぼないことを実質的な売りにしているようなお店に男の人がたくさん来てたら、どこをどう見ても「性を売っている」のだと僕は思うのだが、どうもいろんな理屈があるらしい。そこをいかに説明(言い訳)するか、ということも昨今の「性売り」業界の一つのトレンドであるような気さえする。

 もっとも、当事者たちはいたって単純に「まあべつにいいじゃんそんなこと」と思っているんじゃないかと思う。
 女の子、お店、客、がここで言う当事者。
 そういう仕組みがすでにあって、もう回っているし、それに納得する人だけがここにいるんだから、何も問題はないでしょう、と。
 もちろん、何が消耗し、何が失われてしまうか、さまざまな具体例を「当事者」は見ているはずで、良き面ばかりではないことは承知であろう。しかしすでに自分たちは参入してしまっているし、時を戻すことはできないから、これでこのまま、マイナス面でなくプラス面を見てやっていかなければならない、と思っているんじゃなかろうかと想像する。かりに悪だとしても必要悪であろうよ、とか。
 あるいは、何も考えておらず、「この《文化》はすばらしい!」と信じ込んでいるだけの人もいるのかもしれない。まあそれはそれでよい。疲れた人間を癒やす職業があって何が悪いか、といえば、何も悪くないのだ。キモいだけで。
 疲れて帰って夜中にテレビつけたら『けいおん!』がやってて、あずにゃんカワユスなあ~とか言って癒やされることを悪く言うつもりはない。(それに癒やされねば生きていけないような状態に陥ることは予防したほうがいいとは思う。)

 ねます。この話はもうちょっと続くと思います。(って書く時ほど続かなかったりするので、読みたい人は何か一言……。)

2021.6.7(月) 何が好きかで自分を語る(推しについて2)

 昨日の記事を書いてから、この記事(稲田豊史「『オタク』になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの『本数をこなす』理由」)を読んだら、根本的にはかなり似たようなことが書いてあった。僕のほうが1日はやく公開している。しょうこはこちら

「所属」ということが可能なほど大きなもの(メジャー)はもうない。だから小さなものをいくつも「従属」させるしかない。というのが、僕とこの稲田さんに共通する大意だと思う。
 似たようなことを書いているのにバズり具合は全然ちがいますなあ、ワッハッハ。
 もし僕がここに書くものをそのままどこかのネット媒体に転載したら、果たしてバズるだろうか、と考えると、まあバズらないような気がします。炎上もしない気がする。そのような書き方をしてしまっている。
 でもいいんだ僕は30年後にバズるから……。2050年の「Ez50周年オフ会」には時の内閣総理大臣(杉村太蔵)も出席する予定だから……。

 ずいぶん前から時おりネットで見かけるマンガのセリフで「何が嫌いかより 何が好きかで自分を語れよ!!!!」(西公平『ツギハギ漂流作家』最終話より)というのがある。2006年だそうな。週刊少年ジャンプで半年もたず打ち切りになったようだが、このセリフだけは(『ONE PIECE』が由来という勘違いを受けつつも)生き続けている。15年前、この言葉がウケるような状況があって、今も続いているのだろう。実際Twitter検索にかけるといまだに毎日大量にツイートされているのがわかる。
 何が好きかで自分を語る、というのがまさに「推し」という文化である。2006年といえばAKB48が『会いたかった』でメジャーデビューする年であり、その状況はまさに熟しつつあったと言えヨウ。
 この方向性が行きすぎた結果、みんな「何が好きか」でしか自分を語れなくなってしまっているというわけだ。
 その極致がホストブーム、ホス狂い女子の増加(物的証拠なし)だと思う。
 いずれも今に始まったことではないが、スマホゲームやアイドルやバンド、コンカフェ等々への課金も「何が好きかで自分を語る」ということの発展というか、安直な具現化である。

 昨日も書いたけど写真を撮ってSNSに上げるとかいうことも、「私はこれが好きです、これをいいと思いました」という表明によって自分を語ろうとしている。そこではただ「映えているか」ということだけが問われる。いや最近はもはやそれさえ重視されていない。ストーリーやフリートはすぐに消えていくので、それほど映えにこだわらなくても問題ない。とにかく「何が好きか」「何をよいと思ったか」を表明すればよいことになってきた。「映えているかどうか」という「差異」の時代は終わりつつあるのだと僕は思っている。みんなが撮っているものを撮ればそれでいいのだ。クリームソーダとかね!
(そもそもそんなに映えばっか考えて生きている人は多くなかったんじゃないかとも思いますが、しかし一時期は少なくとも今以上に意識されてはいたはず。)
 写真だけでなく、もちろん文字でも同様。「好きである」「よいと思った」という表明が手軽な自分の説明となる。Twitterでは「ほんとすこ」(古い)とか「すき」「しゅき」「よき」「尊い」等々をよく見る。
 と、僕は思っているのですがどうでしょう。ご意見ください。

「何が好きか」だけでなく、「何をやっているか」「何をつくっているか」「何をかじっているか」も、「何を従属させているか」のうちである。今の人は、複数のものを従属させることによって自分を語ろうとする。昨日の記事も参照。
 みんな(誰?)がすぐに短歌をやりたがるのも、というか、「短歌やってる」とTwitterで表明する人が多い(僕の観測範囲の偏りもあるにせよ)のも、短歌というものがものすごくお手軽に「なんかやってる感」「芸術(創作)かじってる感」を持てるからだろう。「短歌やってます」というのは誰にでもすぐ通じる。説明がしやすい。もちろん絵もそうだが、短歌は絵よりも善し悪しの判別がつきづらいので、かなり気楽に参入できる。
 写真もそう。善し悪しの判別が難しい(あるいは、そこそこのものでも良く見えやすい)。ただ機材を買ったりなど参入障壁がそれなりにあるので、やはり短歌に軍配が上がる。
 小説は書き始めるハードルがやや高い。また、ある程度長く書く必要があるし、優劣の判別もしやすい。
 短歌が最強だと思う。次が写真。「歌人。写真も少々。」みたいな自己紹介の人を僕はかなり怪しんでいる(差別)。

自称写真家で詩人で歌人で俳人で廃人な酒呑み。鉄道と艦船と航空機とサッカーと美術鑑賞とアニメと漫画と特撮と海洋生物とDARIUSが好きなZUNTATAファン。吉田類の酒場放浪記観ながら呑むのが生き甲斐。出身は新潟。中二病罹患中。早く老害になりたい。

歌人・エッセイスト・写真家。何気ない世界を何気なく生きる。あいまいを愛しています。ことばと短歌。日常をフィルム写真やフィルム風エディットの写真で残しています。/ Photography / film /daily lives / poetry / #100of100portrait #午前の空気

短歌/カメラ/映画/ハロプロ #asu_tanka.#asu_camera

福岡市在住。34歳。 今後、福岡でクロスアートのコミュニティ作りたい。短歌。音楽。最近急激に映画をたくさん見始めた。お勧め知りたい。リーマンヒップホップ(サブスクで配信中)。お笑い。ランニング。iPhoneカメラでプチインスタグラマー

ツイートはすべて愛です / 絵と写真と短歌 / ご依頼はDMまで

自然 花 ワンコ 神社 写真 短歌 焚き火 日本人はおにぎりおむすび(御結び)と言おう 足るを知る『ら』抜き言葉は美しくない 椎名林檎赤いリンゴ hide BUCK-TICK GONZO 海外ドラマ 岩下の新生姜 蛙監督カエルの顔 自衛隊に感謝!!マーク

エッセイを書き、短歌を詠み、写真を撮っています。読んでよかったテキストをよくシェアします。服と本屋も好き。

超多忙中につきリプ出来ません。 詩や短歌や写真、呟きなど。読書大好き。怖い話好き。紫陽花大好き。画像は撮った物とフリー素材。セクハラ勧誘即ブロック。DM基本しません。 #夏彩妙 時折つける自作タグ #ASD #生きる #詩 #写真 #エッセイ #140字小説 #短歌 #俳句 #本 #読書 #積本

 たとえばこんな感じ。何が好きか、何をやっているか、つくっているか、かじっているか、で自分を語っている。それを複数挙げて、自分の輪郭をふちどっている。エッセイや読書も人気ですね。手軽だから。
 今に始まったことではないが、だからこそ、そろそろその空虚さに気付いたっていいと思う。

2021.6.6(日) 所属、差異、従属(推しについて)

 何かに「所属する」ことによって自らの確かさを確認していた時代があった。アイデンティティの基礎を「所属」に置いていた。それがいつしか「差異を誇る」時代へと変わっていった。他人と違う自分を見つける、主張することをアイデンティティとしていた。最近はそれが「自分に従属するものを説明する」という行為に置き換えられている。
 自分に従属する、というのは、何かに所属することとは気分として逆である。「俺は生活保護を受けている!」と誇るとき、その人は生活保護に所属しているのではなく、生活保護を従属させている気分なのである。生活保護という外部によって自分を表現しようとしている点では同じだが、気分はずいぶん異なると思う。
 その気分の象徴は1996年に登場した「ポケモン」だと思うが、さらに遡ると『ジョジョの奇妙な冒険』第三部以降(1989〜)からメイン戦闘システムとなる「スタンド」がある。ただ僕の肌感覚としては『ジョジョ』が現在のような覇権を握るのは2000年代に入ってからで、とりわけ2ちゃんねるを中心にネットの共通語となってから、さらに言えばニュー速VIP板のできる2004年以降なのではないかという気がする。おそらく最も読まれていて人気があるのは第五部(1995〜1999)までだが、2000年前後にそこまでをまとめて読んだ読者が多かったのではないだろうか。ネットでよく引用されるシーンやセリフも第五部までのものが多いと思う。この時期に多くの人が、「ああ、そういうふうに面白がるものなんだ」というふうに、ネットから『ジョジョ』の読み方、楽しみ方を学んだのではないか。
 ポケモンもスタンドも、すごく大雑把に言えば「主人公の代理で戦うもの」である。デュエルモンスターズ(1999年〜)のようなカードゲームも似たような性質を持つ。自分ではなくキャラクターが代わりに戦うといえばどのゲームもそうだと思うが、たとえばマリオやドラクエなどは「主人公=自分」という感覚が強い。「従属」の感覚はなく、単純な「同化」に近いものが多かったと思う。ポケモン、スタンド、デュエル(『遊戯王』)はいずれも、明確に「戦わせるもの」と「戦うもの」が分かれている。「戦わせるもの」は「戦うもの」を従属させ、使用する。ユーザや読者は「戦わせるもの」のほうに同化する。

 ところで、2000年代半ばくらいまでは「ジョジョが好き」というのは「差異」だった。「ジョジョが好き」ということで「他人と違う自分」という気分を持てた。それこそが、当時まだジョジョが今ほどの覇権作品でなかった証(物的証拠はないが……)だと思う。2021年の今となっては、「ジョジョが好き」と言っても他人との差異は生まれない。「ドラゴンボールが好き」や「スラムダンクが好き」と似たようなものになっている。
「鬱病」や「服薬」もその頃までは差異だった。「病んでる自分」「薬を飲んでいる自分」が特別なもので、それをアイデンティティの拠り所にできた。今は誰もがカジュアルに鬱病を表明し、服薬を隠さない。もう特別なものではない。いま、人々はそれらを「従属」させるようになっている。病気や薬をポケモンのように操って、それをもってアイデンティティの一部となしている。
 どう違うか。かつて、「鬱病なんだよね」「薬飲んでるんだ」「手首切っちゃった」といったことは、その人の「全体」であった。メンヘラという一言の中に所属することであり、それによって他の大多数の人間たちとの差異を誇ることができた。ずいぶん少数派であった時代はそうだった。いまはとても少数派とは言えないので、所属とも差異ともならない。今は、それが自分の「一部」として説明されるものになった。
 現代は「説明」の時代なのである。自分というものを説明したがっているのである。それは何かに所属することでなくてもいいし、他との差異を強調するものでもない。ただ「自分はこうである」と説明できさえすればいい。アイデンティティの確保も、一時期と比べればずいぶんと楽になったものだと思う。
 ただ、たった一つだけでは「説明」にならない。かつては何か一つの巨大な性質を主張するだけで「自分」というものを立ち上がらせることができたが、今はそうでない。「私はこうで、こうで、こうなのです」という説明がしっかりと必要になってきた。ポケモンを複数持たねばならんのである。カードゲームでたとえるならば、デッキを組む感覚に似ている。

 私は□□という薬を常用しており、〇〇くんを推しています。△△というコンセプトカフェに通っています。
 このようにカードを並べるわけだ。
「推し」という文化が流行るのは、手軽にいくらでもカードを手にできるからであろう。「〇〇推しです」と表明するだけでよい。そこに多少の(もしくは多額の、だが)課金をすれば、「推し感」は高まる。「推し」というのはまさにポケモンである。自分の代わりに戦ってくれる存在である。
 推しを三つくらい作っておけば、説明に困ることはない。「おまえはだれだ?」「自分とはいったいなんなんだ?」といった声に怯えなくてすむ。
 推しは自分に従属するものである。自分が主で、推しが従である。推しは自分の代わりに戦う。輝く。良いことをする。自分は何もせず、推すだけで良い。
 こういったことはもちろん、今に始まったことではない。でも、今とりわけ強くなっている風潮だとは思う。
 もう所属も差異もいらない。「何かが好き」という気持ちさえあれば、それがどんなものであろうと、どんなにありふれたものが対象であろうと、「推し」を作ることができて、それが自分を説明する一行となる。
 向精神薬だって、みんなカジュアルに飲んでいるし、もはやそれだけで「メンヘラ」とは呼んでもらえない(呼んだら誰かから怒られるだろう)。だけどそれが、自分を説明するための一行になる。自分の記述が一行増える。それだけで現代の人は安心するようだ。
「本が好き」とか「純喫茶が好き」とかも同じである。所属と言えるほど本気で好きなわけではない。趣味としてはありふれている。でもそれでいいのだ。記述が一行増えるから。そのためにクリームソーダを頼むのだ。
 エヴァを見るのも映画に行くのも、記述を増やしているのである。
 あらゆるものを写真に撮るのもそうかもしれない。
 自分に従属するものを増やしていく行為である。
 自分の外部にあるものを寄せ集めて、一所懸命自分を説明する。
 そうやって自分を無くしていくのである。
 そうやってわからなくなっていくのである。

「自分の外部によってお手軽に自分を表現しようとした結果、自分のことがさっぱりわからなくなる」というのは、長らく変わっていない。
 とはいえ、雑なでっかいカテゴリに所属したり、他人と比較したりというよりは、「説明」のほうがずっと高級で平和だろうと思いはする。

2021.6.5(土) 杉村太蔵(41)

 橋本治最後の大予言は「杉村太蔵の未来」だったのかもしれない。

 公募のレポート一通で自民党の比例区選出の議員候補になって、二十六歳の若さで当選してしまった小泉チルドレンの杉村太蔵は、順当にいけば「シンデレラボーイ」であってもいいようなもんだったが、あまりにも幼稚な発言を繰り返していたので、政治家としてはまともなものとして扱われなかった。案の定、次の選挙では出番をなくして「元政治家」になり、「あの人は今」的な存在からハイテンションのおかしなキャラを買われて、バラエティ番組の人となっている。
 今の人は忘れっぽいから、うっかりすると杉村太蔵を「お笑いの人」と思っているかもしれないが、私はやっぱり「杉村太蔵はどうするんだろう?」と考えている。それは、京都の祇園で酒飲んで遊んでいる大石内蔵助を見て、「彼には果たして浅野内匠頭の仇を討つ気があるんだろうか?」と思っている吉良のスパイの考え方に近い。
 私はその初めから杉村太蔵には、さっさと落選してもらいたいもんだと思っていた。落選して、「俺はこのまんまじゃだめだな」と反省して、政治家となるような努力を改めてしてもらいたいと思っていた。「そういうことしてくんないと困るんだよな」というのが、期待ではなくて、杉村太蔵に注目する理由だけど。
(略)一番むずかしいのは「政治家って、本当のところどんなもんなの?」ということを、政治家以外の人間が知らないことだ。
 知らないから分からない。分からないからなりようがない。となると、まともな政治家を生み出すプロセスとしては、「若い内に一度政治家になり、“ああ、これじゃだめだ”と反省し、落選してその後にやりなおす」というものが考えられる。そういう風に考えると、杉村太蔵はまさにそのモデルケースを歩んでいるわけで、期待出来るかどうかは知らないが、日本の未来は杉村太蔵の出来如何かもしんない。
(橋本治『バカになったか、日本人』「杉村太蔵に見る日本の未来」集英社文庫 P139-140、初出「週刊プレイボーイ」2011年7月4日号 太字僕)

 杉村太蔵(親しみを込めて敬称略)は2005年に衆議院議員となってから16年間で著書を2冊しか出していない。2014年10月発行の『バカでも資産1億円 「儲け」をつかむ技術』と2021年4月発行の『〝投資〟〝副業〟お金の基本がゼロからわかる 稼ぎ方革命 』。どちらも読んでみた。彼はほぼ橋本治(崇敬を込めて敬称略)の示した通りの道を歩んでいる。
 ここんとこしばらく、杉村太蔵をテレビで見るたびに、まともなことばかり言うので驚いていた。そして橋本さん(尊敬を込めて敬称)の慧眼に改めて感服し、自分が今さら「そのこと」に気づいたのを恥じた。
 議員時代のことはほとんど覚えていない。名古屋から持ってきたテレビがどうがんばってもフジテレビだけ映らず、大好きな『めちゃイケ』が見られないことにすべてのやる気をなくしてほとんどテレビを見ていなかった時期なのだ。バラエティタレントとしての杉村太蔵は初期(2010年9月19日に「サンデージャポン」初出演)からけっこう好きだったが、「杉村太蔵は面白いなあ」という、まさに「お笑いの人」としての認識であった。
 橋本さんは、いったいどこまで「わかって」いたのだろうか。杉村太蔵の能力について。杉村太蔵が実はその初めから努力と思考と行動の人であって、落選後どころか当選前から着実に「勉強」を重ねてきていたことを。そのあたりはたった2冊の著書に集約されている。『バカでも資産1億円』は自伝的要素が強く、『稼ぎ方革命』には彼の思想とその実践について詳しく書かれている。
「公募のレポート一通で」と上記引用にあるが、なぜそのレポートが書けたのかといえば、すでに彼にその能力があったからである。そしてそのレポートを書いたあとも、自民党に望まれて「教育についての論文」を提出しているし、何度も面接も受けたうえで候補者となっている。そのすべてで彼は能力を発揮している。だから通ったのである。決して運と勢いだけの人間ではない。2冊の著書に書いてあることがウソだらけであれば別だけど、そんなことはないと思う。

 杉村太蔵は大学を中退して派遣社員としてビルの清掃をしていた。するとそのビルに入っている外資系証券会社「ドイツ証券」の偉いドイツ人に「ウチの会社に入りなさい」とスカウトされる。なぜ彼が見込まれたかといえば、「全力で掃除をしていた」ことと「受け答えに魅力があった」ことと思われる。そのドイツ人も杉村太蔵の能力を見抜いていたわけである。筆記試験と面接までの1週間、死にもの狂いで英語をやり、「証券外務員の参考書」を買って勉強する。そして見事に入社する。
 それから「レポート」を書くまでの1年強、彼は証券会社でさまざまな「努力」と「勉強」を続ける。「レポート」の内容も株価や金融に関することだったそうだ。ちなみに続けて書いた「教育について」の論文は、「教育における規制緩和」をテーマとしたとのこと。
 本人の弁によると、国会議員としての仕事もしっかりやっていたようである。失言によって辞職したわけではなく、4年間まるまるつとめ上げている。それなりに信頼もされていたようで、党関係者約3000人を前にしての「立党50年宣言」読み上げを任じられ、400字ほどの原稿をサプライズで暗誦してみせたエピソードなどは感動的。能力、胆力、行動力に恐れ入る。これは1冊めの著書に詳しい。

 2冊めの著書は(ある種のマウンティングとして)2020年6月9日に武部勤から電話があり、小泉純一郎、二階俊博、山崎拓、中川秀直との宴席に突然呼び出されて3分後に到着した、というエピソードから始まる。
 この『稼ぎ方革命』という本は徹底して「お金」の話だが、彼のフィールドは「政界」「芸能界」「民間」と広く、単に副業や投資について語っているのではない、他の人にはまず書けない内容になっている。
 彼の話は地に足がついている。実用的である。とりわけ、無料の社会的リソースを使い倒そうという提言には力がある。役所への相談は無料だから使うべし。銀行や信用金庫も、無料で金融のプロに相談できるのだから使わない手はない。議員の利用もタダである。地方議員ならメール一本で会ってくれるし、国会議員でも地域の問題などについてグループ単位で声をかければ意外と簡単に会ってくれるそうだ。具体的には5人以上が集まれば「地元選出の国会議員は会ってくれます」とのこと。これは「選挙に行きましょう」よりもおそらくずっと実効力がある。
 選挙に行くこともけっこうだが、それで変わるのはたったの1票である。ところが実際に議員に会ってみたとする。その印象を近所の人に話す。その噂は町中に広がる。投票に行くのが年寄りばかりだというのは、むしろ好都合かもしれない。彼ら彼女らの噂話は喫茶店や床屋さん、町のあらゆるところを伝って広まっていく。民主党政権が実現したのも、「政権交代すべきよねえ」という雰囲気が、喫茶店や床屋さんを伝って広まったからではないか? と僕は思っている。(そしてその火付け役はやしきたかじんの『そこまで言って委員会』だったと思っている。放送されていなかったので東京の人はピンとこないかもしれないが、地方でのあの番組の影響は当時、絶大だった。橋本徹もこれのレギュラーでなければあんなに力を持てたか怪しいし、安倍晋三も第2次政権前から複数回出演してはヨイショされ、支持基盤の強化に一役も二役も買っていたはずだ。)
 地に足のついた彼の2冊めの著書では、投資や副業のアドバイスもじつに地道で具体的なものだし、実現可能性の比較的高そうな政策提言も多数あって、いずれもなるほどとは思えるものばかり。買って読んでみてください。

 橋本治さんは「まともな政治家を生み出す」ためには「若い内に一度政治家になり、“ああ、これじゃだめだ”と反省し、落選してその後にやりなおす」プロセスを提案している。それは「政治家って、本当のところどんなもんなの?」ということを、政治家以外の人間が知らない、ということを問題としているからだ。その点で橋本さんは杉村太蔵に注目しているというのだが、もう、まさしく杉村太蔵はそういう存在でしかない。
 杉村太蔵は政治を知っている。自民党の国会議員として4年間、国政についた。小泉純一郎だけでなく安倍晋三ともそれなりに仲がよいらしい。彼は投資を知っている。証券会社に勤務し、個人としても投資で成果を上げ続けている。また株だけでなく、地元の旭川を中心に民間への直接投資も進めている。彼は民間を知っている。テレビという芸能界のど真ん中におり、国民からバカにされて親しまれ、全国をロケや講演で飛び回る。慶応の大学院に通ってベーシックインカムを研究し、地元の北海道で社会実験も行っている。また彼自身が商社の経営者でもある。
 そんな人間はほかにいない。杉村太蔵はすごい。

 では、彼は政界復帰を狙っているのだろうか? そうかもしれない。だが、彼は第1の著書によれば「一品加える」「台本を超える」人間である。
 杉村太蔵は明らかに政治を意識している。2冊めの著書には旭川信用金庫との関わりや、旭川駅前のシャッター街を利用した商店街事業への投資、音威子府村でのベーシックインカムを応用した地方活性化実験などについて書かれている。どう見ても地元を地盤としてふたたび立候補することを視野に入れているとしか思えない。だが彼の発想は「自らがふたたび議員になる」というところにはとどまらない。

 もう少し投資家として成長したら、いずれは政治に志を持つ人を支える会社をつくりたい。各党の公認を得て立候補し、ある程度の票をとって落選した場合には、その人をその後10年にわたって経済的に支援する、といった会社をつくれればいいなと思っています。そのために、投資家としてお金を出す。この本で繰り返し述べてきた、「投資家目線」での社会変革の一つです。
(杉村太蔵『〝投資〟〝副業〟お金の基本がゼロからわかる 稼ぎ方革命』「おわりに」P270、2021年4月発行)

 ここでいう「投資家として成長したら」というのは、「株などをうまく運用して資産を増やしたら」ということではなく、もちろん「投機」によって財をなすということでもない。「民間に投資することによって社会を変えていく道筋が確立してきたら」、というくらいの意味だろう。旭川市や音威子府村での活動に精を出しているのは、地盤固めでもあり、「投資」の練習でもあるのだと思う。

 おそらく、これは勝手な僕の想像だが、彼は今のところ「一人一人の一票」というものを大して信じてはいない。議員に直接会うことのほうが(彼はそんな言い方はしていないが)意義があるし、(本にそう書かれているわけではないが)それをきっかけに世論(多くの票)が動いていくこともある。一人が一票を投じるだけでなく、一人で何票も動かせる方法を考える。20万票を得て当選した政治家を直接動かせたら、20万票を動かしたと言える。噂を流して50人が投票先を変えたら、50票を動かしたことになる。
 議員を動かそうとか、噂を流そうといった話は、杉村太蔵はしておりません。僕が言っているだけです。彼はあくまでも「議員に相談しよう」というアドバイスにとどめている。ただ、こうは書いている。「国会議員にとって、地方議員の応援というのは非常に重要です。そこで『○○議員は地元の有権者を大事にしない』という評判が立つのはとてもまずい。というわけで、都道府県議会議員から声を伝えてもらえば、会ってもらえるということもありえます。」(『稼ぎ方革命』P56)
 国会議員を直接動かすのは難しくても、有権者→地方議員→国会議員という流れを作ってしまえば、影響を与えられる可能性はある。ということは、たとえ50票しか動かせない噂話でも、地方議員の選出に多少でも影響させられれば、回り回って国政にも影響を与えたことになりうる。たった一票を投じることしか考えないよりも、政治(世の中)に与える影響はずっと大きくなる。議員はやはり「評判」を気にするのだ。
 そして、そのように政治や政治家が身近になることで、候補者を見る目も養われ、一人一人が有権者として成熟していく。すなわち日本の民主主義が成熟していく。杉村太蔵が直接言っているのは、これである。
 最終的には「一人一人の一票」が大切だという考えに落ち着きたいはずだが、今のところ日本の民主主義なるものはそこまで成熟してなどいない。だからその過渡的な(?)時期には「一人で何票も動かす」ことを意識する人が多いほうがいいのではないか、また、票よりも「投資」などほかの方法による社会変革に多くの力を割いたほうがよいのではないか、というようなことを、少なくとも僕は考えています。

 杉村太蔵に関しては、橋本治さんの予言が当たった……というか、「提言をなぞった」形になっている。まるで杉村太蔵のほうが橋本さんの言葉に寄せていったかのように、まさにその通りになっているのだ。彼は「26歳から30歳までの間に国政の中心近くにいた人間」だが、それがいったん現役を退き、芸能界(お茶の間)や投資事業、民間企業などに関わることで「外堀」を着々と埋めていこうとしている。いつか何らかの形で政界に返り咲くことを僕は「ある」と見る。彼自身ではなく「杉村チルドレン」の当選かもしれないし、まったく違ったやり方をとるのかもしれない。杉村太蔵が総理大臣にでもなったら、若い頃から彼を知る僕たちは大爆笑しましょう。北海道知事くらいなら「まあ、そういうこともあるだろうな」と思えるような存在ではあると思う。

2021.6.3(木) 雑記 予告やメモなど/後継

 予告 こんど杉村太蔵について書きます。杉村太蔵はすごい。
 岩泉舞先生の新作『MY LITTLE PLANET』についても何か言いたい。
 夜学バーHPのリニューアルを一応終えた。もう何が正解かわからないが、ともあれ構造をややシンプルにした。こないだまで左上に「三」みたいなのつけて引き出しメニューをやってたけど、ああいうのは背伸びだったな、僕には。もうちょっと身の丈に合った作りにしました。読みにくかったらすみません。ご意見ください。ちなみにSafariだとスクロールしないので本来の動きを確かめたい人はべつのブラウザで試してみてね。
 2000年度と2020年度の日記を来月11日までに書籍化したくて、添え木(副管理人)の力も借りて割と順調に進んでいる。値段は未定だけど、ページ数が多くて少部数になるので安くはない。少部数って4冊とかですよ。4冊限定。ヨヤクがあればもっと作るけど。まだ値段決まってないけど絶対買うって人はぜひヨヤクしてください。
 こないだ試算したら500ページの場合、原価が2500~3000円。利益ほぼゼロで売っても、日記だけで1年に1冊として21冊ぶん、約60000円です。利益ほしいので4000円としたら80000円。いやー、買ってほしいな。誰が買うんだ。いずれにせよ少しずつ制作するので少しずつ買ってくだされば幸いです。
 実際のところ原価2000円で3000円で売れるくらいだとちょうどいいな。なんとかがんばってみます。
 ああそうだ、歩いて4キロ(歩かなくても4キロ)くらいのところによく行く喫茶店があるのですが、マスター(80代)から「ゲーム台の調子が悪くなってきたけど、直せる人がいなくて困っている」との相談を受けた。僕に修理は難しいだろうし、友達にも心当たりがない。お父さんだったら直せそうな気もするけど名古屋だしなあ。と思っていたら「SNSに投稿したことありますか?」と言われて、ああSNSという手もあるなと思って投稿してみたら、けっこうな反響があり、その日のうちにお手伝いしてくださる方が現れ、翌日に来てくださった。いま部品を探していただいているところ。
 高齢のママの代わりにペリカンのパンを仕入れたり、高齢のマスターの代わりにゲーム台の修理の仲介をしたり、そのていどのことだけど役に立てて本当に嬉しい。すばらしいものをできるだけすばらしい形のまま残していくことだけが僕の役目。SNSなどで広めてお客を集めたり、余計な口出しをしたり、ましてやお店を買い取って後を継いだりなんてことは、僕の仕事ではない。それは愛する時間をねじ曲げることでもある。今そこにあるもの、ずっとそこにあったものに寄り添っていたい。可能な限り気配を消して。しかしほんのりさわやかに。「若い人がくる」というのは、ものすごく大事なことなのである。しかし「若い人」ならば何でもいいかというと、そういうわけでもないのだと思う。なんとか違和感のないように、だけどちょっとの活力となるように、さりげなく通って存在したい。
 50年もペリカンのパンを出していたお店からペリカンのパンがなくなってしまったり、おじいさんたちが楽しみにしている麻雀のゲーム台が使えなくなってしまったり、というのは、防げるものなら防ぎたいのだ。そういうときだけは僕だってちょっと出しゃばる。すばらしいものをできるだけすばらしい形のまま残していきたい。彼らが生きている限り。本当はずっとと願うけど、なかなか難しいのもわかっているから、せいぜいそうやって僕はいろんなことを感じて学んで、すばらしい老人になっていこう。それが僕なりの後の継ぎ方なのら。

2021.6.2(水) 女を売った金で女を買う

 風俗店を営む人が客として風俗店に行ったなら、それは「女を売った金で女を買う」である。コンカフェ(メイドの店含む)の経営者が風俗店に行くのも「女を売った金で女を買う」だし、コンカフェ(メイドの店含む)の経営者がキャバクラやガールズバーやコンカフェ(メイドの店含む)等に行くのも、「女を売った金で女を買う」である。実際コンカフェ(メイドの店含む)経営者でコンカフェ(メイドの店含む)やキャバクラやガールズバーやピンクサロンやソープランドにお金を払っている人がいるのを僕は知っていて、なるほど女を売った金で女を買っているのだなあと思っている。
 コンカフェ(メイドの店含む)の中には「私たちは女を売っているわけではございません」という顔をしているのもあるが実際は女を売っているのでしかないと僕は思う。「当店には女性だけでなくさまざまな性自認を持った人が働いておりますので女を売っているわけではございません」というのは、女だけでなくさまざまな性(自認)を売っているというだけのことである。
 性を売っているのである。なんにしても。
「違う、われわれはメイド(ないし各種コンセプト)を売っているのである。性を売っているのではない」というのは無理がある。彼らのいうメイド概念の中には間違いなく「性」が含まれている。しかもほとんどの経営者たちはそこから性を引っこ抜こうという努力をしていないし、仮にしたフリはしていても実現はできていない。
 彼らはメイド(ないし各種コンセプト)と、そこに内包される(もしくは、それを内包する)性を売っているのである。
 それは野放しにされている。性風俗店やキャバクラやガールズバーが野放しにされているのと同じように。もちろん各種の「アイドル」も。
 なんなら、女性が店主を務めるスナックも野放しにされている。あの業態もほとんどの場合、広い意味では女という性を売るものである。
 いったい、どこまでが「許される」範囲なのか、ということが、これから検討されていくべきだと僕は強く思う。
 性を持つ者は性を求める。それは自然なことかもしれない。
 おばあちゃんのスナックにおじいちゃんたちが集まる、それは自然なことである。
(おじいちゃんたちはおじいちゃんのスナックにも集まるが、それはそれで性とはあまり関係なく自然なことである。)
 どこまでを自然の範囲として、どこまでを「許す」とするか。
 その認識がみんなバラバラだから、チグハグさに泣かされる人が出てくる。
 そこにできるだけ欺瞞がないようになるといいなと願っている。
「女を売っているのではありません」という顔をして、女を売り、その金でしっかり女を買う。
「女を買っているのではありません」という顔をして、しっかり女を買う。
 その顔に騙されてしまう人たちがいる。
 それで知らずに売り過ぎてしまう人もいる。
 しっかりと、売る人も、売らされる人も、買う人も、それを外から眺める人も、共通認識をもてればいいのに。

2021.6.1(火) 読書と筋トレ(趣味について)

 読書が自己目的化する
 すなわち本が好き! とか本を読むのが好き! みたいになっていることと
 筋トレをすることは似ていると思った。
 相違点もある
 筋トレは目に見えて効果が出る(基本的にはそのためにする)が
 読書は筋トレのような身体の変化はない
 しかし読書は「○○という本を読んだ」「○冊読んだ」という具体性を持つ。
 また「面白かった」などの形で評価を下すこともできる。
 ただそれらはカブトムシとクワガタムシくらいの違いな気がする。
 同じ蜜を吸う、似たような色した昆虫である。

 現場でたくさんのセメントを運ぶことによってついた筋肉と
 筋トレでついた筋肉と
 同じだろうか? たぶん違うのである。
 筋肉そのものの質も違ってくるはずだし、
 伴って身につく技術も違う。セメントを運ぶ技術と筋トレの技術である。
 筋トレが趣味ならば筋トレの技術が上がるのは喜ばしいことだろう
 趣味というのは閉じている
 その趣味の中で完結することを趣味と言うのである。
 自己目的化こそが趣味の原則であって
 読書が趣味の人は読書という行為の中に閉じていて
 むしろ趣味としてはそれが当たり前とも言える。

 趣味は趣味でよい
 だがその場合 趣味を趣味とわきまえたほうがよい
 閉じている限り 趣味でしかない
 そしてもし開くのならば それは趣味の域にとどまらない
 そのことは自覚されなければならない
 趣味の域を飛び出したいならば 開く 世の中に開く 外に開く
「趣味だから」という言い訳は通用しなくなる
 言い訳したいのならば趣味を趣味としてわきまえ とどめ 決してそこから出ないこと

 そうすると僕には趣味がない、いや、あったとしてもほかの誰にも知られないようにしているだろう。ごく身近な人には話したことくらいあるかもしれないが。あまりお外には持ち出さない。
 開いた瞬間、それは趣味ではなくなる。それが嫌で出さないのではない。出したくないし、出す意味もないから趣味にとどまっているのだ。
 それはその中で完結しているものだから。

 趣味を外に開いて、それでも趣味と言い張ることはできる。でもそれはよくないことだ。
 ちょっと例を考えてみる。
 本を読むことによって賢くなったり、考えることが増えたり変わったりする。本に書いてある内容を何らかの役に立たせたり、引用して人に伝えたりもする。そのとき本を読むことは「趣味」にとどまるだろうか?
 読書を読書にのみ役立て、伝える相手が趣味仲間に限るならば、それは趣味にとどまると言えるだろう。しかし読書を読書以外の役に立て、伝える対象を広く持つならば?
 それは世の中への干渉。他者への働きかけ。
 それは世の中を変える可能性を持つ。他者を動かす可能性を持つ。
「趣味」と言い切ってしまうのは、無責任に思ってしまう。

(うーん、もちろん、趣味が趣味からいっさい漏れ出さないケースなど厳密にはないのです。どうしたって趣味はその趣味の外側に影響を与えてしまう。それは程度問題ということで。ある程度までは誤差ということで……。)

 たぶん、「本が好き!」と言っている人たちのほとんどは、このような意味においては立派に趣味にとどまっている場合が多い。ただ、たまに「読書はよいことです」などと広くうったえかけるような人もいる。それはもう政治活動に等しい。
 世の中を変えうるおまえの思想を「よいものです」と他者にプロパガンダしておいてそれを「趣味です」と言えてしまう人がいたら、ウソだろと思う。詐欺師の可能性がある。
 ちなみに僕は、主として世の中をよくするために本を読むのであって、断じて趣味などではない。なんなら読書という行為それ自体はちょっと嫌いなくらいだ。手も目も疲れるしお金もかかる。肩がこり姿勢悪くなる。時間もとられる。情報を得る効率もよくはないし快感もたまにしか得られない。
 しかし僕は読書を「よいものです」と言うだろう。なぜならば世の中をよくするにはかなり役に立つ行為だからである。みんながそれぞれ、一人の時にできて、それによって賢くなったり考えることが増えたり、(よきほうへ)変わったりする可能性が高いから。みんながそれを(適切な仕方で)いっぱいするようになれば、どちらかといえば僕に心地よい世界に変わっていくのではないかと思うのだ。
 僕が「読書はよいものです!」と言うとしたら、それは世直し運動のようなもの。
 散歩も世の中をよくすると思っております。

 では、筋トレは世の中をよくするだろうか? 僕は(歩いたりセメントを運んだりすることに比べると)そうは思わないので、これを「よいです」とは言いません。歩いたりものを運んだりして自然に筋肉をつけていくほうがいいと思う。必要なだけのエネルギーを摂取するだけでいいのだ。無駄に食べるのはもったいない。筋トレをする代わりに歩いたりものを運んだりするほうがむだがないと思う。そのようにして生活に役に立つぶんだけの筋肉をつけることは、世の中をよくするかもしれません。
 もちろん筋トレによって世界はよくなる! という主張もあることでしょう。それは筋トレがその人にとって心地よい世界を導いてくれるということで、それは価値観というか、好む世界観の違いというだけ。
 僕が言う「世の中をよくする」というのは、「(自分の知覚する世界を)自分の好む世界観に近づける」ということなので、非常に独善的な発想で、他の考え方との戦争でもあります。
 それを「趣味」と呼んでしまうのは、ちょっと卑怯だと思っています。

(筋トレをするな、という話ではないです。筋トレが趣味にとどまるならば、それは何とも関係のないことです。プラモを作るのと同じです。また、ある目的のために即席に本を読んだり、ある目的のために筋トレで即席に筋肉をつけたりするのは、「手段」として当たり前のことだとも思っています。)

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