少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2020.6.24(水) 書くことの速度
2020.6.21(日) 精神的過労
2020.6.18(木) 寅さん
2020.6.8(月) かっこいい世界は探せばきっとある
2020.6.7(日) カッコつけたくなる夜がみんなみんなみんなあるから
2020.6.6(土) やな事あってもどっかでカッコつけろ
2020.6.3(水) ペロ……これは青空

2020.6.24(水) 書くことの速度

8
飛び出しナイフは好きです
ぞくぞくします
なんて書いたやつがいた
そんな書きかたには速度がない
ってこう書くのもおっつかっつだけど
でも書くことの速度がへんにゆっくりで
いらいらすることがある
誰も光速では書けないのだろうか
(谷川俊太郎『少年Aの散歩』)

 手塚治虫先生が晩年、アイディアだけは売るほどある(でもそれを書く時間が足りない)というようなことを言っていたらしい。偉人たちになぞらえるんじゃないが、忙しい現代人の一人である僕も書くことが追いつかない。
 書くことが仕事であるような人たちでさえ、書くという仕事に追われて書く時間が足りないということはいくらでもあるだろう。沙村広明先生は代表作『無限の住人』について「俺の30代を食い潰した漫画」と書いていた。
 引用した詩の一節はニュアンスがちょっと違う。たぶん「書くことの速度」というのには二つの意味がある。若き才人にありがちなことだが脳細胞が暴走気味に加速して溢れ出す言葉に対して筆や口がついてこず、それで周囲を振り回してしまうというようなのが一つ。そしてまた一つは、表現そのものの速度である。この詩の少年の焦燥感は主に後者のほうだろう。
 言葉には速度がある。それを自在に操るのが詩人というもので、僕はそれに憧れて、目指して詩人を標榜する。
 時に光速に近いような表現を目指して芸術家は奮闘する。時にその逆で、止まったように遅々とした時間を作り出すことにも尽力する。そしてその二つは当然似たようなものである、というのが芸術家の常識であろう。だから永遠と瞬間はたいがい同一視される。見つけたぞ、何を、永遠を、それは太陽に溶ける海だ、というのも一面はそうだと思うし。
 長々と書くのが僕の癖だが、しかし光速のように一瞬で描ききることも趣味である。どちらかを理想とはしないでおきたい。どちらも行き来できるのが詩人だと思う。タイムトラベラーのようなものである。
 昨日久々に佐藤春夫の詩集をぱらぱらとしていた。「魔女め/魔法で/おれの詩形を/歪めをつた!」というごく短い四行で、十分にものは伝わる。そしてカッコいい。かと思えば、永遠のように永い(しかし頁数にしたら驚くほど短い!)小説もつくれるのが佐藤春夫の凄さだと思う。
 何度でもカッコつけて書くけど僕は時間を愛している。時間は詩人のものである。

2020.6.21(日) 精神的過労

 精神的に過労。肉体的にはやや労。
 どっかでドカンと休むぞ僕は。いつまでもあると思うな無休の店。
「ドラえもんに休日を」という有名な話がありますがジャキえもんにも休日がなくてはならない。とりあえず6月中はあれこれやる。7月どうなるかわからないが8月、半月くらい休みたい。あるいは一月まるっと休んでもいいかもしれない。7月20日から8月31日までが理想。お店だけでなく、あらゆるジャッキーさん的活動を休みたい。不可能だし日記はむしろ書くと思うけど。
 SNSに吐きたくないのでこちらにいろいろ書いてしまおう。

 具体的にいいたくないことだらけなのでがんばって抽象的に。
 みんなあたまわるい! ということに尽きます。おわり。

「みんなあたまわるい」というのは意訳すれば、「みんな勝手だ」ということ。さらに意訳すると「決して僕にとって都合の良いように振る舞ってくれない」ということ。
 つまり僕は勝手なことを言っているわけです。それをわかるから、どうにもなんなくて、あーあ、って思うだけ。

 僕はお皿を二つ用意して、一つには柿を、一つにはりんごをそれぞれ切る。僕は柿が好きである。柿は僕が食べるつもりで用意している。ゆえに柿を僕の席の前に置く。りんごはみんなのいるテーブルの上に置く。さらに、柿を勝手に食べられないようにラップをかけておく。そしていったん、僕は退出する。
 しばらくして帰ってくると、ラップは勝手に剥ぎ取られ、柿はひとかけらも残っていない。テーブルのうえのりんごは手付かずである。僕は泣く。おしまい。
 そういうことばかりがあるのだ。
 そりゃ何も言わずに柿を置いといたら、食べていいと判断する人もいるだろう。僕が悪い。おわり。

2020.6.18(木) 寅さん

 9時の回で錦糸町楽天地『男はつらいよ』第一作観て葛飾柴又、高砂、立石、四つ木あたりうろついてきた。15時間くらい外にいた。
 寅さんがもしカッコいいのだとしたら彼がオリジナルのスタイルを持っていて、それがキマッてる、サマになっているからだろう。物売りの口上がスラスラ出てくるのも一つ。単純にその真似をしても仕方ないことはわかりきっている。ではいったいカッコよくありたい僕のような人は寅さんのどこを参考にしたらよいのだろうか。
 とりあえず何も参考にしない。「サマになんなきゃしょうがねえな」ということを学ぶのみである。さあ自分は何がサマになっている。何をキメられる。そういうところ。
 知らないお店に入って知らない人と出会う時、僕はどういう人として捉えられるだろうか。何か一つの良き統一感を持った存在としてそこに居られるのであれば、たぶん「カッコいい」というんでいいと思う。まだまだ全然それはだめ。
 もちろん僕は「自分はこういうものである」というカッコたる自己イメージを持たないようにしているし、「時と場合によって自分の在り方をどのようにでも変えていく」ということを是ともしている。それが得意であるとも思う。そうであっても、それを一つの良き統一感としてまとえることができなければ、「なんかしんないけどこの人はカッコいいな」にはならないのだ。きっと。
 しばらくの僕の課題。文章を詩にする次は、存在を詩にせねばならない。

2020.6.8(月) かっこいい世界は探せばきっとある

 視野ということでいえば、こんな話をまさに今日聞いた。
 普通の人の中には、「あんまりやる気がない」という人たちがいる。この人たちは放っておくと働かない。働かないのに浪費するからお金に困る。そこでサラ金がこの人たちにお金を貸す。サラ金はしっかりと取り立てる。取り立てが来るからヤバイと思って金を用意するため働く。その働いたお金の一部が税金として国に渡る。サラ金が取り立てた利息の一部ももちろん税金として国に渡る。
 サラ金の存在意義とはそういうところにあるのだ、という話。放っておくと働かないような人にお金を貸すことによって、尻に火をつけ働かせる。借金をガソリンにさせるようなイメージ。それで国全体の生産性はちょびっと高まり、税収も増える。経済は回っていく。サラ金はそういう意味で「世のため人のため」になっている……という理屈があるのだと、かつて某消費者金融で働いていた人から聞いた。研修とかで教えられるのだろうか。
 サラ金がなければ発揮されない生産性があり、サラ金がなければ発生しない税収がある。サラ金(消費者金融)を利用したことのない僕は、考えたことがなかった。ちょっと視野が広がったぞ、やったー。

 もしサラ金にそういう存在意義があると認めるのなら、例のりりちゃんの裏引き(うらびき・うらっぴき)ってのにも、ひょっとしたらちょっとはそういう面がある。(※女の子が男性から対価なしにお金を受け取ること。主に虚偽の事情や虚偽の恋愛感情によってその気にさせる。5月16日5月31日参照)
 またその話か、と辟易するのは早計にござる。けっこう大事なことなのだ。
 りりちゃんの主な顧客(?)は「夢も希望もない貧乏サラリーマン」らしい。女の子にモテたことはなく、SNSも苦手、これといった趣味もない。たまの風俗がけっこうな楽しみ。仕事は真面目に勤めているが、それが生きがいというほどでもない。いまだにガラケーだったりする。といった人物像を僕は想像している。
 無茶苦茶なことを言うようだが、もうサイコパスだと思われてしまうかもしれないが、お金に困っている(という設定の)りりちゃんにお金を渡すために多額のキャッシング(借金)をして、その返済のために労働意欲が多少は湧き、もしかしたらちょっとくらいはその人の生産性が上がるかもしれない、という発想も、あるにはある。ただ漫然と働いていただけの生活に、とりあえず「借金を返す」という目的が加わる。その借金は、かわいそうな女の子を救うために自らの意志で背負ったのだ、というカッコよさもあると思えばある。
 それがいいとは言わないが、おそろしく悪いとも言い切れないのではないかな、というふうに、視野を広げに広げると思えてきてしまう。

 僕の最も古く最も親しい友人は、希死念慮(死にたい気持ち)が非常に強い。10年くらい前からずっと「借金(奨学金)を返し終わったら死ぬ」と言っている。彼が生きている理由は、曰く借金のみなのである。
 僕としては、彼が生きる理由をもう一つくらい持ってくれて、借金を返し終わったあとも生きていてもらえたら都合が良い。しかし彼にそれを望むのは酷である。だから次点として、「年老いて死ぬまで借金を返しきれなければいい」とも思う。永遠に借金を返し続ける限り彼は死なないのであるから、永遠に借金がなくならなければ彼は永遠に死なず、僕は永遠に友を失うことがない。
 彼を殺さないためには、たとえばこういう方法がある。僕が彼に土下座をして「金を貸してくれ」と言う。しかし彼は借金返済中の身であるから、貸せる額には限度があるだろう。それでも僕は血を吐きながら「もっと貸してくれ」と言い続ける。情に厚い彼(大企業の正社員!)は、サラ金で借りてきて僕にお金を貸してくれるかもしれない。(あくまでフィクションであり、彼にお金を無心するつもりは微塵もありません。)
 すると、彼の借金は増える。おいそれと返せなくなる。死ねない。めでたし、めでたし。(リアルに考えるとたぶん彼は途中で精神崩壊を起こしてまったく働けなくなるので絵に描いた餅です。)

 くだらない冗談に時間を使ってしまったが、まあ、その、そういう考え方も極端にいえば、あると思うです。本当に、何がしあわせかわからないので。
 26歳で死んでしまった西原(にしはら)という友人も、「ばあちゃんが生きているうちは死ねない」とよく言っていた。彼が死んだ時、そのおばあちゃんがご健在であったか僕は知らない。
 人は意外とそういうささやかな執着で生きているような場合もあると思う。
 何が人を生かすか、とか、何が人を動かすか、何が人の生きがいになるか、というのは、外野にはわからない。りりちゃんを例に出せば、彼女に300万円を渡したある「おぢさん」には家族がまったくおらず天涯孤独で、りりちゃんを「娘」だと思っているそうである。りりちゃんも彼を「お父さん」のように思っている、という設定なのだ。その関係のベースには「嘘」があるわけだからもちろんちっとも健全ではないが、真に邪悪かといえば僕らには何も言えない気がしてくる。
 お金は流れていくもので、本質的には数値でしかない。りりちゃんは前の担当(ホストのこと)に、たぶん20歳から21歳にかけての間で6000〜7000万円ほど使ったとのことだが、そういう世界も存在するのだ。普通の人たちの視野にはまず入らない、広大な片隅の世界が。

「がんばる」という価値観は、こういった視野の中ではちっぽけなもんだ。生きるというのは本当は、圧倒的に「質」の問題。どれだけのお金を持っていようが、どれだけの借金を抱えていようが、それが数量化できるようなものである以上、あまり格別の意味は持たない。問題はそのことが「質」として当人にどう迫ってくるかである、と、思う。
 僕はそのりりちゃんという女の子のことをどうしても「カッコいい」と思ってしまう。それは彼女が「質」の世界で生きているように見えているから。オリジナルである、ということ。彼女の言葉は借り物ではない。今まで誰も言ったことのない言葉を話している。
 そういう自負はありますか。

 たぶん「カッコつける」はその自負を持つことで完成する。
 K DUB SHINEというラッパーの曲に『オレはオレ』ってのがあって、「誰もオレからオレを奪えねえ 絶対オレよりオレを使えねえ」ってのでPV含めて超面白くて僕はめっちゃ笑っちゃうんだけど、バカにするってニュアンスではなく凄すぎてもう、突き抜けすぎて笑うしかなくなっちゃう感じ。ケーダブさんってめっちゃカッコつけてて、行きすぎてて滑稽にも見えたりするんだけど、本気っていうのは間違いないからリスペクトも同時にしちゃう。金八先生みて感動しながら爆笑しちゃうような。そういうパワーってのはもう「質」だなと。ケーダブさん、自分のカッコよさを信じて疑ってなくて、しかも確かにオリジナルだから。

2020.6.7(日) カッコつけたくなる夜がみんなみんなみんなあるから

 前回

 関西出身の友達と「カッコいい」「カッコよくない」ということについて話していたら、「ジャッキーさんの言うカッコよくないってのは、おもんないってこと?」と言われた。その通りだと思う。「ダサい」と「おもんない」はたぶんだいたい同じ。だから「カッコいい」と「おもろい」も近いはず。
 そう、面白くないのだ。独自でない言葉は、おもんない。どっかで聞いたような言葉。すでに誰かが言ってたようなこと。受け売り。儀礼としての意味しかない。

「がんばる」には失敗がない。がんばっておけば無難である。がんばるだけで安心できる。不安も心配も発生しない。「がんばる」だけで面白くなる可能性はほとんどないが、怒られたり叩かれたり非難されることもまずない。

 儀礼的な意味しか持たないような言葉、というのはすなわち「がんばります」のようなこと。とりあえず「がんばります」と言っておけば無難である。面白くはない。沢尻エリカさんみたいに「別に」と言ってくれたほうが面白い。ただし、怒られる。
 普通の人は「がんばります」のほうを取って、「別に」とは言わない。
 そりゃ「別に」じゃまずい、面白いけど怒られる。だから「面白いし怒られない」という線を狙ってコメントするのが「上手」ってもんだと思う。おもろい奴、というのはそういうバランス感覚に長けているのだ。

 独自性のない無難な言葉は、面白くないけど怒られない。独自性のある言葉は、面白いかもしれないけど怒られるかもしれない。どちらにも「かもしれない」がつくというのは、言ってみるまでわからないということ。つまりギャンブル、賭けなわけだ。「おもろい」とか「カッコいい」といった称賛は、賭けの結果にしか得られない。ウケるかスベるか、言ってみるまでわからない。ギャグやジョークや冗談は、常に賭けごとなのである。カッコいいかどうかだって、カッコつけてみないとわからない。勇気も度胸も覚悟も必要。そういうようなものだからこそ、あえてそれをする人はカッコよく見えるんだろうし、面白くも思えるんだろう。
 この、新型コロナウィルスって言うんですか? 2月くらいからの数ヶ月で、その人が面白いかどうか、カッコいいかどうかってのが、SNSやなんやを通じてずいぶん見えてしまいましたよね。僕の見る基準は、独自かどうか。すでに誰かがどっかで言っていたようなことじゃないか、どうか。その人自身の、胸から湧いた言葉であるか。ちゃんと自分の頭で考えてひねりだした発想なのか。勇気や度胸や、覚悟はあるか?
 だいたいは借り物の言葉を書いているか、自分の言葉と無邪気に信じてクリシェ(久々に使うなこの言葉!)を吐いておりましたわね。風潮に流されて。しっかりと大地に足を踏み締めて、自分だけの言葉を握りしめておかなければ、アイキューみたいなもんは維持できない。ただなんとなく決定してしまったことに、なんとなくそれっぽい言葉を言い訳のように付け足しただけみたいな文章が無数にあった。もうちょっとカッコつけたっていいのにな。もうちょっとくらい面白くたって、べつにバチなんて当たりませんよ。

2020.6.6(土) やな事あってもどっかでカッコつけろ

 いちおう前回の続き。

「ダサい」という言葉を僕はけっこう使う。もう死語なのかもしれない。今、特に若い人は「ダサい」という事態をそれほど恐れていないように思える。
 僕は「ダサい」ということをかなり恐れている……というよりも、「カッコいいほうがいい」と信じている。みっともないのは嫌だ。できるだけカッコいい振る舞いをしたい。
 ところが、「カッコつける」というのはどうもコスパが悪いと思われているらしい。確かに、カッコつけるにはコストがかかる。資材も覚悟も能力も要る。時には我慢すら要求される。そうやって全力でカッコつけたところで、「カッコいい!」と思われてそれで終わり、一文の得にもならない、というんでは、やってられんというわけだ。
 SNSをご覧。「見栄を張る」くらいなら多少あるかもしれないが、「カッコつける」はなかなかない。バズらない。「これカッコいいよね」「いいね」という第三者同士の共感によって「カッコよさ」がバズることはあるかもしれないが、カッコいいと思っているその普通の人たちはべつにカッコつけていない。
 カッコつけてる人もいると思うし、つけてスベってる人もいるだろうけど、ともあれ僕は、SNSってのはカッコつけるのに向かないと思っております。それが流行るってことは、やっぱカッコつけるってのは時代遅れなのかもしれない。


 僕がなぜ、このHPを続けているか。カッコつけているのである。これ本当に。「15歳の時につくったテキストサイトを20年間続けている」ってな、カッコいいではありませんか。SNSが流行ったからずーっとSNSばっか見てて、昔作ったサイトやブログはすっかり放置してしまっている、というのは、僕からしたらずいぶんダサい。
 そりゃ、SNS、たとえばツイッターのほうが、手応えがありますよ。こんなホームページやってても誰からも「いいね」されない。掲示板やメールフォームが動くのは年に数える程度。のれんに腕押し、さみしいですよ。どんな長文を書いたって、いくら心をこめたって、読まれたかどうかさえわからない。評価は良し悪し以前にまったくゼロ。こんなことやっててなんか意味あんのかな、と幾度思ったか。それでもやめないのは、やっているほうがカッコいいと思うから。そしておそらく本当に多少はカッコいいのであるから、たまにある手応えがガツンと大きかったりする。その喜びがまあ競馬で大穴当てたくらいの中毒性で、ほんだらまーちょっとこの調子でやったろまいかと思うわけです。※やったろまいか=やってやりましょうか
 それにしても、どんだけ何を書いたって誰からも何も反応がない、というのはツラいことです。僕は独り言のつもりで書いているのではなく、誰かに伝えようと思って書いているのだから、その感触がまったくないのはじつにさみしい。そこで、僕の読者は全国に30人くらいいるはずだ、その30人は黙ってこの文章を読みながら、それぞれに何か感心したり役立ててくれているにちまいない、と信じることで、なんとか心の平安を保っているわけです。だから別に、こんなことを言っているからといってわざわざメールとかくださらなくてかまいません。なぜならば、「反応がなくてさみしいので何か言ってください!」と懇願するなんてのは、それこそカッコよくないもんね。「反応がなくてさみしいけど粛々と更新し続ける」という姿のほうが、断然カッコいい気がするじゃない。だったら僕は「カッコいい」のほうをとりたいのである。

 ツイッターでも、僕はちっともバズらない。バズりたいんだけど、「○○、××だから△△なのに、□□なの最高なんだよな」みたいな、バズツイートにありがちな文体はマジでダッセー気がするので徹底的に避ける。代弁者ぶるのも共感を煽るのもカッコ悪い。批難や炎上はさらなり。そうならないよう慎重に、「客を選ぶ」ような書き方をする。わざとわかりにくいというか、よく考えないと少しもわからないようなことを言う。そうするとフォロワーもさして増えないしいいねもそれほどもらえない。むしろいいねが20か30くらいつくと「カッコ悪いことを書いてしまったのではないか」と反省し、削除したりする(病的)。
 もちろん「カッコいいこと」を書いてそれなりの反応をもらえることもあって、そういう時は素直に嬉しい。だいたいせいぜい30くらいなんだけどね! ひとクラスぶんくらいが、たぶん僕のキャパシティの限界なのだ。


「カッコいいかどうか」「ダサくないかどうか」を、僕はそのくらい気にしている。緊急事態宣言の前後(現在も含む)、お店の経営者として、どう振る舞ったら、どんなふうに対応したらカッコいいだろうかと、ものすごく考えている。
 お店を閉めるか、開けるか。開けるとしたらどのように営業するか。いずれにしても、どこでどのようにそれを表明するか。考えるべきことは無限にあるのだ。

※都の基準によると飲食店の場合、「休業」でも「時短営業(ふだん20時~5時のあいだに営業していた場合)」でも感染拡大防止協力金はもらえることになっている。もちろん、協力金は要らないから通常営業する、という選択肢もある。協力金をねらいつつ、こっそりと夜間営業する悪い店も少なくない。

 単純に「感染者数を増やさない」ことだけを考えるなら、お店を完全に休業させるのが一番だというのはまず疑いない。そうするとして、ではどのようにそれを言えばカッコいいのか、というのを次に考える。「こういうわけで休業いたします」という、「こういうわけで」の部分が鮮やかでなければカッコつかない。たとえば、「感染者数をできるだけ増やしたくないので休業します」というのは、まあただの普通の発想なので、とりたててカッコよくはない。鮮やかでない。それどころか、「とにかく一人でも感染者数を少なくしたいのだ」という、一種盲目的な単一の目的にのみ心を奪われているように見えるという点で、僕からしたらあんまりカッコよくないのである。つまり、「あんまり考えてない」ように見えるのだ。実際、考えれば考えるほど「一人でも感染者数を少なくする」ことのみに集中するのは視野が狭いように思えてくる。
 まずどのくらいのペースでどのように感染者数を操作していくのがベターであるかとか、あるいはそもそも封じ込めをすべきかどうか等々という議論があると思うけど、そのへん深く立ち入るのはやめて、その他で。
 たとえば経済的な事情。僕の実入りは当然減る。世の中のお金の流れもそのぶん鈍くなる。あるいは精神的な問題。好きなお店が閉まっていて、何があっても絶対に行くことができない、という状況はささやかな絶望である。一つの選択肢がいっさい奪われることになる。実際に選ぶかどうかは別として、「選びうる」ということによる安心感は意外と大事。夜学バーに行くことができる、ジャッキーさんという人に会うことができる、というのを「安心」だと思う人は、いないとは思えない。このホームページだって、「ある」というそれだけで安心してくれる人はいるだろう。20年もやってるんだから。5年ぶりに開いて、「ああ、まだあった」と思って、なんとなく嬉しい気分になって、特に読まずにブラウザを閉じる、という人だっているんじゃないか。「おいおい読んでくれよ」と思うより先に、「存在そのものが価値である」という動かぬ事実に僕は歓喜するでしょう。夜学バーだって存在(営業していること)そのものが価値であると僕は信じているし、世の中をよくするという大義を持ってやっているのだから、閉まっているよりは開いているほうがいいはずだとも思う。
 また、そもそもの話、「この小さなお店がいま完全休業することによって、感染拡大防止にどのくらいの貢献ができるだろうか?」という疑問がある。もちろんゼロではないし、もし僕が感染してしまえば、そこから複数の人にうつしてしまうこともあり得る。消毒、換気、身体的距離など相当気を遣っているつもりではあるけど、大丈夫ということはまったくない。しかし、それは当然ながら可能性としてかなり小さい。少なくとも4月上旬にはそう判断していた。毎日いろんなデータや意見を注視したうえで、自分なりにそう考えた。状況が変われば、「小さい」から「けっこうなハイリスク」になったかもしれない。そうしたらまた違う判断を改めてしただろう。
 要するに僕は「賭け」をしていたのだ。リターンに比してリスクがごく小さければ賭けるし、大きければ賭けない。ごく小さいリスクで経済的精神的に自分や周囲や世の中を利するのであれば、賭ける。そのリスクが大きくなってきたら、スッと身を引く。そういうふうに考えていた。で、そうすることがカッコいいだろうとも思っていたわけだ。

 結果として、お店は毎日営業させた。SNSをほぼ停止し、情報は公式HPにだけ載せるようにした。路地に立てていた看板も撤去した。東京都から「感染拡大防止協力金」をもらうためには20時までの営業にする必要があったので、17時から3時間だけ営業して、日に0~3人程度のお客があった。
「一度に入店できるお客は○人までといたします」とか「○人以上連れ立ってのご来店はお控えください」とか「混雑時は入店をお断りすることがあります」とかは、書かなかった。書かないほうがカッコよかろうと思った。たしかにあの張り詰めた時期にたとえば10人というお客を一度に入れるのはちょっと厳しい。しかし、そんなことにはならないとほぼ確信していた。宣伝をあまりせず、来て下さいとも言わなければ、多くともせいぜい2~3人の来客にとどまるだろうと。実際その通りだった。今ふり返れば、もうちょっと来てもらえるように工夫したほうがよかったかな、とも思うが、マアあんなところが落とし所でしたでしょう。
 なぜ「書かないほうがカッコよかろうと思った」のかというと、「門前払いする可能性」を感じさせたくなかったから。「来てもいいけど、混んでたら入れませんよ?」という態度はとりたくない。それはもちろん感染拡大防止のためなので正しい態度ではあるのだが、同時に冷たい態度でもある。こう書くと、「うわあウチの店はそれ書いてた、批判された~」と思ってしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、これは夜学バーの場合の話。うちは徒歩圏内にお住まいのお客さんが現状あんまりいないので、たいていの人は「わざわざ」おいでになる。そういう人を門前払いするわけにはいかないなと。顧客のほとんどがご近所さん、というお店の場合は、「ごめんなさいまた今度~」でもいいんじゃないかしら。


「お店を完全に休業させる」か、「工夫したうえで毎日開け続ける」かという選択が眼の前にあって、僕は後者を選んだわけだけど、その理由は、「そのほうがカッコいいと思ったから」でしかない。結局のところ。要点は「工夫」である。ただ毎日開け続けるだけなら、別に大してカッコよくはない。その中でどういう工夫をしていくか、というところが、カッコよさの見せ所。毎日最新のニュースやデータとにらめっこして、政府や都の動向をうかがいつつ、「それならこうする」「そしたらこうだ」という具合に、一日一日、考えて考えて判断し続ける、そういう姿勢を常に見えるようにしておくことが、カッコよさの演出としてはよかろうと思って、そのように工夫した。見えすぎないよう、こっそりと、しかし見たいという人の目には届くように。その案配が、カッコよさというものを生むのだと信じて。

 休業を選ぼうが、時短営業しようが、通常通りやろうが、秘密裏に闇営業しようが、結果的な判断は僕にとってはどうでもいい。その姿がカッコいいかどうか、なのだ。問題は。
 そういう観点で言うと、個人的にやだったのは、「こういうわけで」をしっかりと表明してくれるお店があんまりなかったこと。「こういうわけで○○します」の「こういうわけで」がなくて、ただ「○○します」だけを言う人の多さ。あるいは、「こういうわけで」の中身が、ただの一般論だったり、政府や都の言うがままだったり、すなわち「自分の言葉」がそこにない、という場合の、多さ。「本当のスタイルはオリジナルであるコト」(三浦大知『Free Style』)って歌詞をこないだ引用したけど、その人独自の言葉っていうのが、あんまりなかった。もちろんその人が書いてるんだからその人の言葉ではあるんだけど、どうも「どこかで誰かが既に言ってた」というようなことばかりで。

 なんでそういうことになるのかというと、たぶんみんなは「カッコいいかどうか」というのをあまり問題にしないんでしょうね。なるほど、僕の孤独の核心はそこなのかと、思わず膝を打ちました、そう思った時に。
 カッコつけるというのは、コスパが悪い。じゃあ、どうすればコスパがいいのかといえば、「努力」ですね、もう。「がんばる」ということです。うー、ようやっと「カッコつける」の対立概念(だと僕が急に考え始めた)「がんばる」というのが出てきた。さすがに長いので次に続けます。


 忘れないように大事なところだけ書いておく。

「がんばる」というのは、数直線的な、度合い的な、数量化できるものなんですね。「質」というのは問われない。しかし「カッコつける」というのは、質しか問われない。
「がんばる」というのは結果を求められない。求められたとしても二の次になる。「がんばったからえらいね」というふうに言ってもらえる。しかし「カッコつける」というのは、結果以外は何もないようなものである。
 だから「がんばる」はコスパいいのだ。「がんばる」をしさえすれば、褒めてもらえるのだから。数直線的にただ積み上げていくだけで、そのぶん評価をしてもらえる。ところが「カッコつける」っていうのは、ただそれだけで褒めてもらえることはないですね。結果として「カッコいい」が現前しない限り、ほとんど無意味。だから誰もやんねーのかー! と、僕は驚いております。よかった、気づけて。

 すなわち、「○○します」とだけ言えば、とりあえず「がんばった」というところにカウントされるのだ。「こういうわけで」は質の部分だから、別になくてもいい。そこでヘタを打つよりは、何も言わずに「がんばります」だけを言ったほうが、失敗がない。
 そう、失敗がないのだ。「がんばる」は失敗ということがない。「カッコつける」なんてもう、失敗だらけですよ。あるいは、失敗か成功か、判定できないことばっかりです。だって基本的に、手応えってえもんがないんだから。
 だからね、「休業」を選択する人が多かった理由はこれでわかる。休んだら失敗がない。営業したら失敗するかもしれない。そこなんだろうな。「カッコいい」を考えてしまう人は、「営業しないと工夫のしようがない、工夫しないと、カッコつけられない」ってところに頭がいくんですよね~。そんでついつい、「賭け」じみたことに手を出してしまう。

 こわいので念を押しますが、休業という判断をディスっているわけではまったくありません。毛頭。その理由についても、みんないろんな事情があるんだから、文句も何もないのです。ただ、あんまりみなさま、「見せ方」ってのを工夫しませんよね、と。
 判断があって、その理由がある。そこについては、他人がとやかく言うことではない。僕がとやかく言いたくなっているのは、「カッコよくなくてもいいの?」ということ。どんな判断であれ、理由であれ、できるだけカッコよく見せたほうが得だと僕は思うんだけど、どうもそういう工夫を目にしない。それよりも「自然体で誠実そうな感じ」を伝えたほうがメリットがあるということなのだろうか。うん、たぶんそうなんだろうな。というのが、今のところの僕の感想。

 やー、ほんとに、たとえば「残念ですが休業します」と言ってた人! いったい何が残念なのですか? 「○○なのが残念ですが」といった明確な説明が、意外とされてなかったりする。また、「残念だけど、こういう事情があるので、休業します」という、「こういう事情があるので」も、言わない。そこがちゃんとわかんないと、「残念なんだったら休業しなければいいのでは?」という疑問がわいてしまう。そしてできれば、「こう考えて」というのもほしい。「○○なのが残念ですが、こういう事情があるので、こう考えて休業します」だったら、わかるのだ。カッコいい可能性が、ようやく出てくる。


 でもほんと、たぶん、カッコよさなんてのはどうでもいいんじゃろう。
 僕は大事だと思うけど。
「みんなと同じようにしたほうが得じゃん」が、源泉なんじゃないかな。「カッコいい」ってのは基本的に独自である、オリジナルだということなので、正反対。(僕の思うカッコよさ、ということかも知れませんが。)
「○○なのが残念ですが、こういう事情があるので、こう考えて休業します」のように言ってしまうと、独自性が出てしまう。だから「残念ですが」くらいがいいんじゃろうのう。
 そのほうが、「みんな」の仲間として溶け込めるのだもの。
 そうしたら孤独じゃなくいられるんだものね……。
 孤独でもカッコよければ孤高と言われるんで、なんとかそこでやっていきたいな。

2020.6.3(水) ペロ……これは青空

 すごい、面白い、すてきな、かしこい、美しい、などなど人を褒める言葉は無数にありますがここではそういったプラスの言葉をひっくるめて「ペロい」とでもしておきましょう。僕はペロい人に会いたい。
 ペロい人のいるお店に行きたい。だがしかしなかなかペロい人てのはいない。ペロい人がやっているお店だとかペロい人たちが多く集まるお店というのは本当に数少ない。年数を重ねたお店であれば自然とペロみが出ていたりもして、そのような喫茶店なり居酒屋なりというのに最近はよく通っている。ただ、そのペロさはあくまでも「重ねた年輪」のペロさであって、古木の圧倒的な存在感というものである。澄んだ青空のような普遍性とはちょっと違う。
 僕が真に求めるのは、青空と浮かぶ雲のようなペロさであって、変幻自在にその形を変えていくようなものである。夕暮れも夜も明け方も飲み込むような空である。僕はそういう人でありたいしそういうお店や場所を作りたいと願うので、できるだけペロさに磨きをかけるべく日夜ペロペロがんばっている。
 本当にもう正直な言い方をしてしまうと、せめて僕くらいにはペロい人がもっといなければいけないと思う。そういう人たちを探して東奔西走、どこにでも行ってみるのだが、どうもペロんない。ペロフェッショナルなハイペロー空間にはなかなか巡り合えない。
(パロ→ピロ→プロ→ペロ→ポロと出世していく)
 もちろん食べ物や飲み物がおいしいだとか優れた商品を扱っているとかいうことはある。内装が素晴らしいということもある。しかしそれは「プロ」ということではあっても、人の持つペロウな魅力とはまた別のこと。いくらコーヒーが美味しくても、それだけでは「プロ」にとどまる。ペロというのはもっと総合的な、全人格的なことなのである。

 と、いうところまで書いてしばらく放っておいてしまった。どうも要素が足りない気がした。一日置いて、何人かの人と話してようやくわかった。そうか重要なのは「かっこいい」(あるいは単純に「良い」)ということについてオリジナルの価値観を持っているかどうか、なのだ。それがペロ。待て、次号!

 キリ番440000を踏んだ方からメールフォームでキリリク代わりに「2010年3月21日2020年3月1日の文章」が好きだと言っていただけたのでご紹介しておきます。
 豆腐のやつ、なんとなく覚えていますね……。いったい何を思って書いたのだかはよくわかりません。ちょうど10年の幅がありますが二つともノリが似てていいですね。こういうのもどんどんやっていこう。

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