少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2016.04.30(土) 「会えない事になった日」/プラトンとの哲学
あなたに会えないことになった日
昼ご飯は急に豪華になる
今日なんて五品も作ってしまった
それをテーブルに並べて
時間をかけて全部食べたあと
皿を洗いに台所へ行って
そこで初めて悲しくなった
(Amika/ランチ後 2nd Album『会えない事になった日』より)
↑でリンクしたPV、素晴らしいのでぜひ。画質悪いですが、Amikaさんがいかに丁寧に、「自分の顔」と「自分の声」で歌う人か、よくわかります。こういう人を僕は心から愛します。永遠にファンでしょう。
今日はたのしみにしていた予定が一瞬で消え去ってしまって、途方に暮れて上記のような気分になった。余談だけど「皿を洗いに」っていう歌詞が、とても好き。Amikaさんは「お皿を洗いに」って言わない。たぶんどの曲でもそう。かわいこぶったりしない。そこがAmikaさんの音楽のひとつの本質だと思う。同じアルバムの『オレンジの匂い』という曲でも、「甘そうなやつを手に取るでしょう」と歌う。甘そうな「やつ」であって、甘そうな「の」とか甘そうな「もの」ではない。「やつ」。ここにAmikaさんのAmikaさんらしさがある。Amikaさんだけの「自分の言葉」がある。そして僕はそこに美しさをみる。
暇になってしまって、本当は無限にやることがあるのだが、気力がないから読みたい本を読んだ。納富信留『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』。
この本と、プラトンについてはいくら書いても書き尽くせないので、今の僕に最も重要なところだけを引用しておく。『饗宴』で美について書かれている内容に関連した部分。
美を追い求める者は、若い時に、まず一つの肉体の美に進み、その肉体をとことん愛し、美しい言論を生み出します。美少女、あるいは美少年に出会い、その神々しい美のまぶしさに、心が奪われるでしょう。若者はその人に向けて、恋文を綴り、会えないもどかしさに歌をうたい、失恋の痛手に詩をよみます。そうして美を経験するのです。
しかし、この道行きで、一人の相手に留まっていてはなりません。その美しさはかならずしもその人だけに宿るのではなく、美しい肉体の上で同じ姿で現れている。それら数多くの美しい肉体を求め、愛しながら、美が同じ一つのものであると悟るのです。その時、一人の肉体にだけ囚われていて、「あなたが世界で一番美しい」とか、「あなた以外に美しい人はいない」などと思ったとしたら、それは本当の美を見ていないことになります。もっと言うと、その相手の美すら分かっていないのです。同じ一つの美がさまざまな人の肉体に宿ることを知り、それらを愛すること、それが美への階段の第一歩です。
一人の相手への耽溺や執着から解放され、すべての肉体において美を観て取ることができるようになると、それを超える、尊い美が魂、つまり精神や人格に見出されるようになります。ある人が、たとえ見た目では美しくなくても心映えで優れた人であったり、振る舞いや態度が立派であると気づくと、その人々を愛し、その若者たちをより善くするような言論を生み出します。今度語りだす言論は、見た目の美を謳いあげる美辞麗句ではなく、精神の美しさを称揚し、それを促進する言論です。
精神的な美は、個人の心や行動に留まりません。それは人々が集まって作り出す共同体の営みや法律にも見られます。ある国家は、人類として誇るべき立派な社会制度や生活慣習や伝統文化を持っている、そういった美をより高次のものとして観て取るのです。
人間や社会の目に見えない美をことごとく観て取ることができたなら、次に知識の美へと導かれます。知識という抽象的な対象に「美」を感じるとは、不思議で理解しがたく思われるかもしれません。しかし、たとえば宇宙の成り立ちを探求する科学者は、天体の秩序に無類の美が現れていることを観て悦びます。また、数学の世界に親しむ者には、数や数式の神秘的なまでの奥深い真理に、美としか言えない価値を見出すでしょう。美への歩みは、人間やこの世界を超えて、私たちを普遍的で絶対的な存在に関わらせます。
(納富信留『プラトンとの哲学 対話篇をよむ』岩波新書新赤版1556、2015 P137-138)
愛とはシーン(場面、局面)であり、そのような美しい関係の存するところに宿るものだ、というふうに、僕はずっと書いてきた。
では「美しい」とは何か?
それについて書いてあるのがこの箇所だった。
美とは、宿るものである。
だから僕は、たとえば、あの喫茶店のお姉さんの小さな所作や笑顔に「美」を観取する。花にも美をみれば、星にも、お母さんにも、好きな女の子にも友達にも。森にも自転車にも。あるいは言葉そのものにも。
宿っている美を見抜く力や、その質のことを、美意識という。
浄土真宗大谷派では、「いのちが私を生きている」という言い方をする。私が生きているのではなく、いのちが私を生きている。
美もたぶんそういうようなもので、あの人が美しいのだというよりは、「美があの人に宿っている」のだ。
だから、いろんな人に宿る美を観ているうちに、だんだん「美」なるものが見えてくる。帰納されて、わかってくる。そのために僕たちは、次々といろんな人やものを好きになってしまうのだろう。「好きなものは多いほどいいのにぃ~」と中村一義さんは歌った(『いつか』)が、美を知ってしまえば、あるいは美を知るために正しいほうへと進もうとすれば、そうなるのは当たり前なのかもしれない。
僕もたくさん人を愛し、たくさんのものを愛している。
それは誇らしいことなのだ。正しく美へと向かっていく道すじなのだ。
もしも好きな女の人から、「あたしのどこが好きなの?」と問われたら、もう答えられる。「あなたのなかに美を観ているのだ」……怒られるか、ね?
あなたは美しい、というのではなくて、あなたの言葉や振る舞いや、心から滲み出てくる何かしらの何か(何だよ)に、美が宿っている。だから好きなのだ。そう胸を張って言えるような完璧な想いが僕の恋でありますように。
【附録】対応する『饗宴』本文(二八)。
さて、この恋のことに向かって正しくすすむ者はだれでも、いまだ年若いうちに、美しい肉体に向かうことからはじめなければなりません。そしてそのときの導き手が正しく導いてくれるばあいには、最初、一つの肉体を恋い求め、ここで美しい言論(ロゴス)を生み出さなければなりません。
しかし、それに次いで理解しなければならないことがあります。ひっきょう肉体であるかぎり、いずれの肉体の美もほかの肉体の美と同類であること、したがってまた、容姿の美を追求する必要のあるとき、肉体の美はすべて同一であり唯一のものであることを考えないとしたら、それはたいへん愚かな考えである旨を理解しなければならないのです。この反省がなされたうえは、すべての美しい肉体を恋する者となって、一個の肉体にこがれる恋の、あのはげしさを蔑み軽んじて、その束縛の力を弛めなければなりません。
しかし、それに次いで、魂のうちの美は肉体の美よりも尊しと見なさなければなりません。かくして、人あって魂の立派な者なら、よしその肉体が花と輝く魅力に乏しくとも、これに満足し、この者を恋し、心にかけて、その若者たちを善導するような言論(ロゴス)を産みだし、また、自分のそとに探し求めるようにもならなければなりません。これはつまり、くだんの者が、この段階にいたって、人間の営みや法に内在する美を眺め、それらのものすべては、ひっきょう、たがいに同類であるという事実を観取するよう強制されてのことなのです。もともと、このことは、肉体の美しさを瑣末なものと見なすようにさせようという意図から出ているのです。
ところで、人間の営みのつぎは、もろもろの知識へと、彼を導いていかなければなりません。このたびも、その意図は、かの者が諸知識にある美しさを観取し、いまや広大なものとなった美しさを眺めて、もはや家僕輩のごときふるまいをしないように、ということにあります。つまり、一人の子供の美しさ、一人の大人の美しさ、一つの営みの美しさというように、ある一つのものにある美しさを大事なものとし、それに隷属して、愚にもつかぬことをとやかく言う、つまらぬ人間になりさがらぬように、ということにあるのです。むしろ、かの者が美しさの大海原に向かい、それを観想し、力を惜しむことなく知を愛し求めながら、美しく壮大な言論(ロゴス)や思想を数多く産みだし、かくして、力を与えられ、生長して、以下に述べる美を対象とする唯一特別の知識を観取するように、というわけです。(中公バックス 世界の名著6『プラトンI』より 鈴木照雄訳)
さて、その事柄に向かって正しく進んでいく者は若い頃に、美しい身体に向かって進んでいくことをもって始めなければなりません、そしてまず第一に、もし導者が正しく導こうとするなら、その人は一つの身体を恋し、そこにおいて美しい言論を生まなければなりません、しかし次ぎにはその人はどんな身体であれ、その上にある美は他の身体の上にある美と兄弟であることを覚り、そしてもし姿の上にある美を追求する必要があるなら、いずれの身体の上にある美も一つで同じであると考えぬのはまったく愚かなことだと覚らなければなりません。そしてこのことをよく考えて、すべての美しい身体の愛人(エラステース)となり、一つの身体に対する強烈な恋を軽蔑し、些細なことだと考えてその緊張を緩めなければなりません。しかしその次ぎは、魂のうちなる美を身体のうちなる美より貴重なものだと考えなければなりません。そうすると、魂が善良であれば、色香は僅かしか持っていなくとも、その人には満足であって、これを恋し、これのために心配して、その若者をいっそう善いものにすることの出来るような言論を生み出したり求めたりすることになります。その結果身体に関する美がまったく些細なものだと考えるために、さらに事業や法律のうちにある美を観察して、この美はいずれもたがいに同類であるということを見るように強いられます。しかし事実の次ぎには、もろもろの知識へ導いていかなければなりません、それはさらにもろもろの知識の美を見るためであり、そしてすでにたくさん美を眺めることによって、もはや奴隷のように一人のもとにある美、たとえば一人の少年とか一人の人間とか、一つの事業とかの美に満足し、それに隷属して、俗悪で度量の狭い人間であることを止めるため――いや、むしろ美の大海原へ逃れ去り、これを長めながら尽きぬ愛知心によって多くの美しい堂々たる言論と思想とを生み、遂にはそこで強力になり、成長して或る唯一の知識を見きわめるためでありますが、その知識というのは、次ぎのごとき美を対象とするものなのです。(角川ソフィア文庫、山本光雄訳)
さて(と彼女は語り始めた)、この目的に向って正しい道を進もうとする者は、若い時から美しい肉体の追求を始めねばなりません。それも、指導者の指導が宜しきを得たならば、まず最初に《一つ》(原文傍点)の美しい肉体を愛し、またその中に美しい思想を産みつけなければなりません。次にはしかし彼は、いずれか一つの肉体の美はいずれか一つの他の肉体の美に対して姉妹関係を持っていること、また、姿の上の美を追求すべき時が来た場合、《あらゆる》肉体の美が同一不二であることを看取せぬのは愚の骨頂であることを彼は悟らねばならぬのです。が、またこの事を悟った以上は、その愛をあらゆる美しい肉体に及ぼし、そうしてある《一人》に対するあまりに熱烈な情熱をばむしろ見下すべきもの、取るに足らぬものと見て、これを冷ますようにせねばなりません。その次には彼は心霊上の美をば肉体上の美よりも価値の高いものと考えるようになることが必要です。またその結果彼は、心霊さえ立派であれば、たといあまり愛嬌のない人でも、満足してこれを愛し、これがために心配し、青年を向上させるような言説を産み出しまた探し求めるようになるでしょう。こういう風にして彼はまた職業活動や制度のうちにも美を看取しまたこれらすべての美は互いに親類として結びついていることと、ひいてまた肉体上の美にはきわめて僅かの価値しかないことを認めるように余儀なくされねばなりません。そうして職業活動の次には、その指導者は学問的認識の方へ彼を導かねばならぬのです。それは彼がこれからは認識上の美をも看取することができ、またすでに観た沢山の美を顧みて、奴隷のように、一人の少年とか一人の人間とかまたは一つの職業活動とかに愛着して、ある個体の美に隷従し、その結果、みじめな狭量な人となるようなことがもはやなくなるためなのです。むしろそれとは反対に彼は今や美の大海に乗り出してこれを眺めながら、限りなき愛智心(フィロソフィヤ)から、多くの美しくかつ崇高な言説と思想とを産み出し、ついにはこれによって力を増しかつ成熟して、これから私が述べようとしているような美へ向うある唯一無類の認識を観ずるまでになることが必要なのです。(岩波文庫、久保勉訳)
2016.04.29(金) ななねんまえ
「混みすぎたら僕たちが困るから誰にも教えないと言ってたのに」
(Amika/ナンを食べにいく)
最近、ついに「何を見ても何かを思いだす」を是とし始めたので、引用の美学を発揮させる頻度が増えてきた。
京都に住んでいる七年前(!)の教え子が帰省していたので会ってきた。僕が四谷三丁目の「私の隠れ家」に連れていくのはよほど信頼している相手だ。だって混みすぎたら困る。名店だからもうすでに混みがちだけど、ランチを避けて行けばだいたい座れる。いいバランス。あんなに狭い店で、五時間くらい話し込んでしまった。
僕が教えていた(そんな大層なものでもないのだが)時、彼女は中学二年生で、いつもクールな感じだったため自分はあまり好かれている感覚がなかった。むしろ嫌われているかな、くらいに思っていたのだが、僕が辞めて向こうが高校に入って文化祭でばったり会ったとき、「HPよく読んでますよ」と言われて、めちゃくちゃ喜んだのを覚えている。そういうことのためにもやはりこの場は必要である。
彼女は本とか読むし、自転車とか(本格的に)乗ってるし、美意識もしっかりしているし、怠惰や自己嫌悪も身に備えていて、僕の信頼する人物像として適格だ。いろいろの話をしたが、ともかく「京都にいる僕の友達と仲良くしてくれ」と半ば人間関係を押しつけるようなことをして別れた。
人と人とをつなげたい、という欲求が特別強いわけではない。ただ、そういう気分がまったくなければおざ研のような「場」など作らないわけだから、やはりそれなりにはある。でも今回は、「つなげる」という意識でそれをすすめたわけではない。「たぶんお互いにお互いが必要であろう」と思っただけだ。一度は会ってみてほしい。それでたぶん互いの世界は広がる。互いに広げ合える。その後仲良くなるかどうかは知らないけど、活かそうと思えばいくらでも活かせるものになるはずだ。たとえただ一度の邂逅であっても。試験管に別の薬品を突っ込んでボーン、みたいな、そういういたずらな気分もあるし、そのくらいには僕はその二人のことを好きだし信頼している。
昨日の楽しさがまだ余韻として残ってた、ってのもあるかもしれないけど。
なんてことを書いてしまうと妙なプレッシャーになりそうだけど、せっかくなので。これも教育家のしごと。
2016.04.28(木) ファンミ(友人の友人)
マイミクさんと、そのマイミクさんのマイミクさんと、バ~ミヤンでオフ会した。オフ会というより共通のマイミクであるマイミクさんのファンミ(ファンミーティング)のような形であった。要するに一人のマイミクさんがいて、僕もそのマイミクさんのマイミクさんもそのマイミクさんのマイミクでありファンでもあるというわけである。(要せてない)
今度こそ要するに、三人で飲んだ。一人は僕と初対面。友達の友達。二人をつないだ友達からすると、「仲の良い友達どうしがなぜかバ~ミヤンの同じテーブルにいる!」ってことで、いたく興奮していらっしゃった。これまで以上に打ち解けた気がする。
・僕
・共通さん
・初対面さん
の三人。
まず黒霧島の900mlボトルを頼んだんだけど、まだ半分以上残ってるときから共通さんが「いいちこも頼む? いいちこも頼もうよ??」って何回も言うので、いいちこシルエット720mlも頼んだ。朝にはほとんどなくなっていた。すごい。
初対面のマイミクのマイミクさんは、僕がそうだったのと同様に、とくに緊張するでも気を遣うでもなく、そこには三人の空間がちゃんとできていた、ように思う。レジ横のおもちゃコーナーで騒いでたときは瞬間最大風速が記録された。「友達かよ!」って共通さんに突っ込まれたけど、友達だよ! バ~ミヤン行ったら友達なんだ!
ただ、そういうふうにすぐ友達みたいにはしゃげたのは、二人とも共通さんのことが大好きで信頼してるからなんだな。お手洗いに立っていなくなると「やっぱり共通さんはかわいいね~おもしろいね~」みたいな話を二人でしてたよ。それだけで「同じ価値観!」ってなるよね。なんか、「この人をこういうふうに愛せる人はいいひとだ!」って思える感じ。そういうのが共通さんにはあって、だからファンミって言えちゃう。
こういうことはmixi日記で書こうと思ったんだけど、mixiの喧伝のためこっちにも書くことにした。mixiはいいよ。うん。
三人で飲んで、あれこれ喋ったり、ガストランダム(知ってる?)で遊んだりして、いよいよ終電がないぞ!ってなったあたりで、近所に住んでる友達(僕のマイミクで、共通のマイミクさんとも面識がありファンでもあるからファンミ参加資格としては完璧)を電話で呼び出した。いい迷惑だとは思うが、こういう高校生だか学生みたいなノリはやっぱり良い。素敵じゃないか。
5時に閉店するまでいて、その後はココスの朝食バイキングに行った。ファミレスをハシゴするって始めてだ。直前にバーラー(バーミヤンラーメン)を食べてしまっていたので食べるのも苦行だったし睡眠不足だったのでじつにねむかった。でも、なんか、とてもよかった。
こういうのはやはり原点的である。ピボットみたく、ここに軸足を付けて生きていけたら。
2016.04.27(水) 恋と快楽(プラトンの場合)
「それでは」とぼくは言った、「もしもある人が、その魂の内にもろもろの美しい品性をもつとともに、その容姿にも、それらと相応じ調和するような、同一の類型にあずかった美しさを合わせそなえているとしたら、見る目をもった人にとっては、およそこれほど美しく見えるものはないのではないか?」
「ええ、たしかに」
「そして、最も美しいものは、最も恋ごころをそそるものだね?」
「もちろんです」
「とすれば、真に音楽・文芸に通じた人は、できるだけそのような調和をそなえた人たちをこそ、恋することだろう。逆に、この調和がないならば、彼はそのような者を恋しないだろう」
「恋しないでしょうね――少なくとも、その欠陥が魂のほうにあるとするならば」と彼は言った、「しかし、身体のほうに何か欠陥があるだけなら、がまんして、なおすすんで愛する気持になるでしょう」
(プラトン『国家』第3巻402D、岩波文庫版・上P220-221、藤沢令夫訳)
ともに美しい「魂の内の品性」と「容姿」とが調和したとき、「見る目をもった人」にとってそれは最も美しく、最も恋ごころをそそるものだとプラトンはソクラテスに言わせている。
真に音楽・文芸に通じた人は、ようするに正しく芸術を愛するような人(見る目をもった人)は、そのような調和をもった人をこそ恋する。
また、たとえその調和が崩れていたとしても、その原因が身体のほうにある(つまり、魂のほうはきわめて美しい)のならば、「がまんして、なおすすんで愛する」とのことだ。
この箇所を読んで、「ええ、たしかに」と、
ソクラテスの取り巻きになったような気分で頷いてしまった。
僕は「美しい魂は肉体をも美しくさせる」とある程度まで信じている。健全な精神を持って丁寧に生活している人は、世間での数直線的な判断基準における美醜(くそくらえですな)にかかわらず、きまって美しいものだ。屈託なく笑えば愛らしい。美しさを知り、求め、そのために心の鏡をピッカピカに磨き続けているような人は、当然その容姿も美しくなる。
もしも、どうしようもなくその身体が「美しくはない」と断じざるを得ないようなときがあるとしても、魂が美しくありさえすれば……というのは綺麗事でしかないのかもしれないが、プラトンはどうやらそのようなことを言う。そうかもしれない、とくらいには思う。
自分にとって「好き」とか「好み」であるということは、どういうことなんだろうか。魂の内の品性と容姿とが調和している状態、とまずは言うことができるが、問題は「調和の結果がどのような美しさであるか」ということだ。それが「好き」の源であり、「好み」となるのだろう。
それは、また綺麗な言い方をしてしまえば、身体によって先導される調和ではなくて、常に精神が主導する調和である。
それはたぶん一つには「自然」ということだと僕は思っている。ありのままを受け入れる強さを持っていること。ひょっとしてそれが、「
神様を信じる強さ」なのでは? と思ったりもする。
自然というのは、「自ずから然り」と書く。「なにもしなくてもそうである」ということ。それは自分が生まれてきたままの姿や性質、または環境等を受け入れることであり、神のみこころを愛するということである。「全ては、運命の想うままに。」「全ては、みこころのままに。全ては、あの“なすがまま”に…。」
という気分だ。
あるがままを受け入れた上で、それを土台として、自分が培ってきた美意識を、その上に積み重ねて生きているような、そんな容姿をしている人間が、僕は好きだ。
プラトンのいう調和なることを僕なりに言い直すと、それは「自然な身体のうえに美意識が飾られている」という言い方になる。
それは僕の考える人間の美しさというものの必要条件だ。
ソクラテスの話はここで終わらない。美しく調和した人間には恋ごころがそそられるものであるが、それは「過度の快楽」から遠ざけておくべきだと彼は言う。
「わかったよ」とぼくは言った、「君にはそのような恋する少年が現にいるか、あるいは以前にいたのだね。そしてぼくは、君の言うことに賛成するよ。ところでしかし、次の点に答えてくれたまえ。――節制と過度の快楽とのあいだには、何か共通するものがあるだろうか?
「どうしてありえましょう」と彼は答えた、「そうした快楽は、苦痛にすこしも劣らず、人に思慮を忘れさせるものではありませんか」
「それなら、そうした快楽と、ほかの徳とのあいだには?」
「けっしてありません」
「それでは、傲慢や放縦とのあいだにはどうだろう?」
「何にもまして最も共通するものがあります」
「ところで、性愛の快楽よりも大きくてはげしい快楽を、君は何か挙げることができるかね?」
「できません」と彼は言った、「またそれ以上に気違いじみた快楽も」
「しかるに、正しい恋とは、端正で美しいものを対象としつつ、節制を保ち、音楽・文芸の教養に適ったあり方でそれを恋するのが本来なのだね?」
「たしかにそのとおりです」と彼は答えた。
「そうすると、正しい恋には、気違いじみたものや、放縦と同族のものは、何ひとつ近寄らせてはならないわけだね?」
「近寄らせてはなりません」
「してみると、いま言った快楽は近寄らせてはならないことになるし、またそのような快楽には、正しく恋し恋されている二人は、けっして関わり合いをもってはならないことになるね?」
「ゼウスに誓って、ソクラテス」と彼は言った、「けっして近寄らせてはなりませんとも」
「それではどうやら、いま建設している国家においては、その線にそって、恋する者はその恋人を説得した場合、気だかく美しいものを目ざしながら、恋する少年に対して自分の息子にするような仕方で口づけをし、ともに過し、触れなければならないというふうに、君は法に定めることになるだろうね。そしてほかのいろいろの面でも、自分が熱心になっている相手と交際するのには、けっしてそういう限度をこえた交わりがあると疑われないようにしなければならない、そうでなければ、無教養で美の感覚がないという非難を受けることになろう、とね」
「ええ、そのようにします」と彼は答えた。
「さあそれでは」とぼくは言った、「音楽・文芸についてのわれわれの議論は、これで完全に仕上ったと君にも思えるかね? とにかくそれは、しかるべき本来の終局点まで、到達してしまったのだからね。音楽・文芸のことは、その終局点として、美しいものへの恋に関することで終らなければならないはずなのだ」
「賛成します」と彼は答えた。
(402E-403C、P221-223)
ここはいわゆるプラトニック・ラブについて語られているのだと思うけど、注意すべきなのはここで語られている恋とは主に「成人男性の少年への恋」であるらしい、ということだ。詳しいことはわからないので教えてほしいんだけど、たぶんそれは「女性への恋」ではない。この頃のアテーナイ市民はどうやら、上記のような「美しさ」を女性には認めていなかったのではないか、という気がする。いちおう参考として『古代ギリシアの女たち アテナイの現実と夢』(桜井万里子、中公新書1109、1992.12)という本を読んでみた。結局ハッキリとはわからないんだけど、どうもそういう雰囲気はありそうだ。
アテーナイの妻たちは、歌舞や詩芸をたしまなかったという。それをしていたのは妻となるような女ではなく、ヘタイラという「売春を生業とする自由人または奴隷の女」らしい。そういえば江戸時代にも、男たちは妻にではなく芸者にそれらを求めたのではなかったかしらん。このヘタイラとか芸者という存在は、ずるい。「恋」と「快楽」とをかしこく両立させる装置である。
プラトンは、少年には「恋」のみを求めるべきとした。それは一方で、妻に「生殖と快楽」を、ヘタイラに「恋と快楽」を、それぞれ担わせていた、ということを裏側から語っているのかもしれない。(このあたりは適当です。)
で、そういうことになると、ここでプラトンのいう「過度な快楽」という言葉には、生殖という可能性は秘められていないという話になる。つまり、(こんなことを言うと怒られるのかもしれないが、)快楽のための快楽、のようなことか。妻との性愛は別に存在していて、そこにもまた別の快楽があったのだろうが、少年やヘタイラとのそれとは違った質のものであったのではと想像する。
何がいいたいかといえば、プラトンがここでいう「恋」と、現代のわれわれがする「恋」とは、けっこう違う種類のものなんだろう、ということだ。今われわれは異性に恋をするとき、その先に生殖を見ている(じつに近代的なことだ)。そして快楽を求める時には、妊娠の可能性ということを少なからず考慮に入れてそれをする。
少年愛の場合は、「恋」と「生殖」が両立することは絶対にない。だから、「恋」だけが独立して存在していられるのだ。そこにおいては、「恋」が「快楽」と離れて独立する、いわゆるプラトニック・ラブがありうる。しかし、「恋」と「生殖≒快楽」が両立しうる、結婚の可能性さえもつ男女間の場合にはどうなのだろうか?
僕はけっきょく、例の正直なことをいえば、異性に「恋」のようなことをするとき、プラトンのいう「快楽」を同時に意識する。「恋」だけが独立するときもあるのかもしれないが、その場合は「恋人」という関係への発展を求めることはないので、それは一般にあまり「恋」とは呼ばれない。
主観的にも客観的にもそれが「恋」であるようなとき、僕は「恋」と「快楽」とを両立させようとするだろう。
さあ、僕のこの感情を、プラトンは「恋」と認めてくれるのだろうか?
もしもプラトンが生きていて、女性の魂の内にも「美しさ」を認めたとしたら、それでも彼は「恋」だけを独立させようとするのだろうか?
僕は、女性の魂の内に、そしてその容姿の上にも、「美しさ」を見て、そして恋をする。それはプラトンのいう恋と、矛盾しない気がする。現代日本のプラトン(自称)である僕は、彼の言葉のうえにそれを付け加えてみたい。そんで正直に恋をして愛を育もう。
2016.04.26(火) たとえそれがステテコでも
23
風にひるがえっているものはいいな
たとえそれがステテコでも
(谷川俊太郎/少年Aの散歩)
本とか読んじゃう系の人って心の中にいろいろ言葉を蓄えてると思うんですけど、僕にとって高校生の時に読んだ『少年Aの散歩』という詩はそれで、いつも体内にあって折に触れ顔を出してくる。今日もこの「23」の箇所が胸に浮かんだ。
僕の心のいくらかは確実にこの詩でできていて、本当によく思い出す。そういう、自分と切り離すことのできない文章や詩は無数にあるけど、とりわけこれはエッセンスだ。(日記のタイトルにもしている。)
僕のことを好きな人は、そういうものまで含めて、僕のことを好きになってくれるんだろうか? というと、どうも女性というのはそういうあたりけっこう柔軟というか、素直なようで、わりあい「好き」と言ってくれる傾向にある、と思う。それでずいぶん僕も救われている。
では、自分はどうだろうか。「好きな人が好きなものは好き」であるかどうか、という話は
前にしたけど、僕はときおり嫉妬してしまう。素直に受け入れて好きになれることのほうが多いけど、やっぱり妙なプライドやこだわり、あるいは独占欲のようなものが邪魔をして、すっとそこに入っていけないこともある。
その人の一部であるようなものを愛せないようでは、その人を愛しているということにならないのではないか。「こんな自分はよくないなあ」とずっと思ってきた。
でもなんか最近、そういう妙な色々が、薄れてきたように思う。そして今日、「あ」って気づいた。
たとえそれがステテコでも。
この一節が頭をかすめたのだった。
風にひるがえっているのだ。それは。
胸をはって、誇らしげに。
ステテコであろうと、なんであろうと、その意味で堂々と、立派なのだ。
その人の心の中で、風にひるがえっているものは、なんだって尊いのである。
もちろんこんなのは、理屈のうえではとうの昔に考えていたことだ。わかっていた。しかし、その理屈が自分の一部であるような詩の一節とリンクしてしまうと、だんぜんそれは「実感」である。
その人の胸の中で、ないし体内のどこかで、それは「風にひるがえっている」。そのおかげでその人は生き生きと生きて、素敵であって、僕はその人を愛している。そういう当たり前のことも、実感できなければただの空論だ。言葉というのは、時間をかけて様々な実感をもたらしてくれる。風にひるがえりながら。
どんな言葉であろうと、「いいな」と思える。そんな気持ちを、「たとえそれがステテコでも」というフレーズは僕にもたらしてくれたのである。
ある人から「これは私です」とすすめられた文章を何編か読んで、いずれも素晴らしく、ふと「僕も邪念がなくなったもんだな」と思った。好きな人の好きな歌なんか聴いて、素直にいいなと口ずさんでみたり。風にひるがえっているものは良い。たとえそれがステテコでも。
2016.04.25(月) 明日さえ教えてやれないから
尾崎豊の命日だったのでゴールデン街のチャンピオンという店に行って『僕が僕であるために』を歌ってきた。
『自由への扉』『存在』『太陽の破片』など、好きな曲はたくさんあるのだが、今日はなぜだかこれにした。
今この歌詞はとても胸に響く。
引用しようかと思ったけどすべてがその通りすぎてどこかを切り取って貼ることができない。ともかく、「それでも生きて行かざるを得ない」ってやつだ。
2016.04.24(日) ゆうなぎ
「誰の為とかじゃなく、なぜだか、人が好きだからなあ。
それが、僕の中にある、全ての始まりと思うから…。」
(中村一義/ゆうなぎ)
先日「どうしてそんなに優しいんですか」と言われて、嬉しくなりつつも、自分はそんなに優しい人間じゃない、とも思い、でも確かに、優しさみたいなことはずっと意識して生きてはきたので、それはうまくいっているのだなあと、やっぱり喜んだ。
僕はたぶん原則として優しくない。人の気持ちがわからない。察することができない。やっぱり自分が可愛い。自らの利益を第一に考える。それはわかっている。だからこそ、「優しい」ということを意識しなければ、それをできないのだ。優しさに憧れて、どうやらそのようでありそうなことをできる範囲で実践してみている。でも本質は冷たい人だから、どっかで急に冷たくなってしまうことも、あるかもしれない(こわいね~)。
基本的にはサイコパス的な人間なのだとおもう。
あんまり僕は他人のことを考えない。「人のために」なんて考えない。なんて冷たい人間なんだろう、と悩むことにさえ飽きたくらい、小学生の時からずっとそうで、それは長らくのコンプレックスだった。「どうして自分はこんなに冷たいのか?」「どうして自分は“かわいそうな人”に同情することがまったくできないのだろう?」自分には共感が欠如している。自分勝手なやつ。最低だ、僕って。そう考え続けてきて、今に至る。つまり今でも、そう思って時に、つらい気持ちになる。つらい気持ちになることさえ、自分本位ゆえだよなと、また暗くなる。
だけど、上に引用した『ゆうなぎ』という曲にあるように、僕は「なぜだか、人が好き」なのだろう。その一点だけは絶対に本当で、胸を張れる長所だ。だから「優しい」ということを実践するのに苦はないし、むしろ楽しい。生きがいとさえ言える。そうでなければ学校の先生なんて職業を選びはしない。
「それが、僕の中にある、全ての始まり」……『ゆうなぎ』ではそう歌われるが、いや、本当にそうなのだろう。僕はたとえば、家族が好きである。父も母も兄たちも。祖父も祖母も親戚も。それはすてきにすばらしいことだ。(もちろんトラブルがなかったわけではない。「幸せ者め」なんて言う人がいたら、「そうそう楽な青春でもなかったんだ」ということは主張しておきたい。)
人が好きである、というただ一点のみによって、どうしようもないサイコパス系統の僕も、なんとか優しさのようなものを獲得できたのだろう。人が好きだから、人に優しくすることが、自分の利益になる。そうすると嬉しい。自分本位な僕の心はそれで満たされる。
なかなかうまいことなってきた。
ところが困ったことに、そっちが癖になると今度は自分のためのことが全然できなくなってくる。自分のためのことをすると、「あー今の時間は自分のためだけに使ってる時間かも」って思えてきて、「どうせ自分のためにしかならないことなんだからしなくてもいいや」になったりする。なんとも混乱したことよ。でもやっぱり自分の身は可愛いから、根源的な欲求には素直に従うし、できるだけ健康にいいものを食べたりもする。そんな生活をしていく中で人に迷惑、負担、心配をかけたり、ひどいときには傷つけてしまう。どうもぶれている。うまいこといかない。うーん。
自分のことが好きか、と問われれば、好きであると答える。昔から好きだったわけじゃなくて、努力して(?)だんだん好きになった。でも、「自分が好き」ってところに落ち着いてしまうと、それ以上もう何もしなくてもいい、ということにもなりかねない。「自分はもうこれで自分から愛されているんだから、このままでいい」と。そういう停滞、怠惰は趣味じゃない。そろそろ自分を嫌いになる、とまではいかなくても、「もっと、こう……」と思うようなステージに進むべきなのかな? よくわかんないけど、いろいろ考えてみてる。(なぐさめてしまわずに。)
2016.04.23(土) ディスコミュニケーションまとめ
ディスコミについて書いた文章を引用しまくりたいと思います。総集編です。たぶん長いです。
まず一番古い記事は2000年の9月25日。《植芝理一の「ディスコミュニケーション」、最終回しちゃいましたね。》とある。植芝先生に敬称をつけていないのが若さゆえであります。この頃にはすでにずいぶん好きだったようだ。高一の15歳。
たぶん初めて読んだのが中一か中二の頃。1999年の3月7日の日記(中二の終わりですね)には、長兄の引っ越しに際して《ディスコミも持っていかれるのだろうか。心配だ。》と書かれている。この兄の本棚には好きな作品が無数にあったはずなのに、まっ先に(というか唯一)心配しているところから見て、よっぽど好きだったのだろう。それ以前の記述はない……というか日記自体ほとんどつけていないので、わからない。
HP開設後はいっぱい出てくるんだけど、気になるところだけ抜粋してみる。
・2000年11月13日 《好きな漫画家といったら五位以内には必ず入る植芝理一。》
・2001年11月25日 『天使が朝来る』(11巻)について書いています。
・2003年4月12日
《ディスコミュニケーションという漫画を読み直していました、
僕のYMO好きの原点はこの作品なのだし、
早稲田大学への興味の源もこれ。
宗教を考えるようになったり、
子どもと大人の境界線についてとか
総合を作り上げるための個々自体には統一性は必要ないんだ、とか
このサイトを立ち上げるにあたっての理念のようなものを抽出したり
いろいろと役に立つ漫画であった。
世界の構築の仕方みたいなのも学べていたらいいなあとは思ったり。》
・2003年6月19日
《天使が降りてきて撃ち殺すんですよ。
「あの時わたしたちはキスをしたせいで“天使”に殺されて大人になったんだ……」
まんまるの鬼火じみた発光体に羽がついたようなものが無数に空から降りてきて
その中の一体がレーザービームみたいな真っ直ぐの光線を発射して身体を貫く。
男の子と女の子は血を噴き出して倒れ、そして死ぬ。
傷口からリンガ(男性器の象徴)とヨニ(女性器の象徴)がそれぞれ体外へ出、空中に浮かぶ。
二人は全てを忘れて何事もなかったかのように生活するんだけど
それから一生、リンガとヨニは男の子と女の子の頭の上に浮かんでいるのです。
けれどもそれに気が付くのは本当にほんの一握りの人だけなんだってさ。
だからみんな、大人になった瞬間のことも、そしてもう既に大人になってしまっていることさえ気付かずに、
大人としての生活をいつのまにか送っている。
詳しくは植芝理一の『ディスコミュニケーション』11巻「天使が朝来る」。》
・2003年10月 《早稲田に入ったのもディスコミのせいなのであってね…》
・2006年5月2日 《ディスコミを好きということは僕のことを好きということだ。》
・2010年4月6日
《記念の光。
そういえば『ディスコミュニケーション』という漫画の第十一巻に「天使が朝来る」という話があって、男の子と女の子がキスをした瞬間に空から天使たちが降りてきて二人を撃ち殺す、という場面があった。
それはとても残酷で、しかし限りなく美しいシーン。
空から降りてくる、無数の天使たちの光。
撃ち殺された二人の、身体の内側から湧き出してくる光。
「輝きだした僕らを誰が止めることなどできるだろう」というのが浜崎あゆみの『Boys&Girls』という曲の歌詞にあったけど、たぶんそれこそが、記念の光。
もう後戻りはできない。
それがゆえに悲しくて、それがゆえに幸せであり、それがゆえに何かを信じ続けなければいけないという意志を、生まれて初めて本当に手にするような瞬間。》
・2010年8月8日
《意外とディスコミについて語っていなかった。
『ディスコミュニケーション』(通称ディスコミ)というのは、講談社の月刊アフタヌーンで連載されていた植芝理一先生の漫画で、最初の読み切りが掲載されたのは91年。それから17冊の単行本が刊行されている。
僕がディスコミを読み始めたのは遅く、確か中学一年生の時で、単行本でいうともう11巻が出ていたかいないかというところだった。六つ離れた兄の机に無造作に山積みになっていた不思議な装幀のこの本を思わず手に取ってしまったのが運の尽き、それから十数年ずっと僕はディスコミの引力に魂を縛られ続けているのだ。
初めてディスコミの表紙を目にした時の感覚というのは、おそらく七十年代末の中学生がYMOの1stアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』のジャケット(海外版の、ヘンなメガネをかけて扇子持った着物姿の女の人の頭からたくさんの銅線が飛びだしている絵)を見たときの感じに似ているのではないかと勝手に思っている。……海外版だから、当時の中学生が見ていたのかどうかよくわからないのだけれども、ディスコミ一巻の表紙は間違いなくあれを意識して描かれている。
一巻の表紙は、制服の上から着物柄の布をまとった松笛と戸川(主人公、恋人同士)が寄り添っている構図なのだが、松笛は扇子持ってヘンなメガネをかけて頭に不思議なかぶりものをしており、そのかぶりものから生えている木の枝が例の銅線にそっくりな広がり方をしているのだ。しかもメガネからは銅線が生えている。これは植芝先生がYMOの大ファンで、作品の中にもYMO的な雰囲気を採り入れているからだろうと思う。そのせいで僕はYMOの大ファンになってしまった。まったく影響されやすいものだ。
ディスコミは、松笛という謎の高校生と、彼に恋をしてしまった戸川という女の子の恋愛物語である。松笛は町外れの小さなビルに、大量の気味の悪いガラクタに囲まれて一人で棲んでいる。二人はつきあい始めるのだが、そのつきあい方というのが不思議な様子で、松笛が戸川の涙を飲んだり襟足を剃ったり一日中監禁しておしっこを我慢させたり、歓喜天というインドの神像の前で血を交換し合って二人で異世界にトリップしたりと、はっきり意味不明である。
僕は恐らく生まれながらに変態だったが、ディスコミによって開眼させられて今はこのような具合である。女の子を好きになったらなにはなくとも涙を飲みたいし、交合(ミトウナ)の儀式や歓喜天の儀式(前述)もできることなら行いたい。ビニールごっこ(互いに大きなビニールをかぶって身体をまさぐりあう)もしたいし、かばんなめ男となって夜の町に出没したい。スカートの中にもぐるのも大好きだし、許されるなら女の子の全身に絵を描いたり、または描かれたりしてみたいわけである。
僕の大好きなディスコミという漫画はそのように変態的だから軽はずみに人に勧めはしない。でも信頼できる(あるいは、したい)相手には教えたり貸し出したりもする。(ただし男性にはあんまり紹介しない。女の子には「わかってくれ」と思いながら勧める。)そしたらある女の子から、「面白い。私にとって完全にど真ん中なのに、なぜこれまでこの漫画を知らなかったんだろう、クイックジャパンとかで紹介されたりもしてないよね?」と言われた。確かにあのような軟派サブカル雑誌には決して取り上げられない。黒田硫黄は表紙にまでなったけど。ディスコミは「流行り」とか「お洒落なイメージ」とはまったく無縁な孤高の作品で、浅野いにおとか羽海野チカとか、市川春子とかとは一切重なるところがないのである。一般性もなければ「通好み」でもなく、かといってマイナーでもなく、好きな人は猛烈に好きであるというこの立ち位置は一体なんなのだろう。
僕はまたある友達から「私の周りには松笛男子がいっぱいいる」と言われたことがある。要するに「私の友達にはディスコミファンの(ことに松笛に自分を重ねたり憧れたりする)男の子が多い」ということなのだが、僕はこんなことを言われると腹が立ってしまう。
ディスコミのテーマっていうのは何かというと、一つには「純愛は時に変態的な形で現れる」である。ディスコミは変態的な性愛しか出てこないけれども、そのすべてが純粋で美しい。どれだけ変態で禁忌的で冗談みたいな性癖が登場してきたとしても、その芯には必ず誰か大切な人への“想い”がある。「誰でもいいからやりたい」よりも、「あの人のぱんつを食べたい」と心の底から願うほうがずっとずっと健全なのである。
変態であるということが「健全で純粋で美しい愛の形である」ということを示すこともあるのだ、ということをディスコミは僕に教えてくれて、それで僕は全てを許されたような気になる。僕は変態なのだが、「別にそれでもいいんだよ」と言われたように感じるのだ。「それは意外に純愛だ」と。
現在連載中の植芝先生の『謎の彼女X』を読んで、僕は「植芝先生はどうして僕たちの好きなものをこんなにもわかっているんだろう」と思った。謎彼は、主人公の男の子が好きな女の子の唾液をなめる話なのだが、そういう奇抜で変態的なモチーフを選びながらも思春期なりの綺麗な愛と絆を真剣に描いていて、連載の最初の数年間は毎月身もだえしながら読んでいた。そういえばディスコミで「好きな人のだ液は甘いんだよ」と松笛が戸川に言うシーンがあって、経験のなかった僕は「そうなのか!」と思って、「でもきっとそうなんだろう」と思って、実際にそうだったのである。それによって僕の植芝先生への信頼は揺るぎないものになった。
ディスコミというのは、人間の根源的な部分に訴えかける作品である。もはや僕にとっては聖書である。軽々しくジャンルとして括られたくなどないのである。たとえばあなたがキリスト教の信者で、「自分の周りにはクリスチャンが多いんだよねー」などと軽々しく言われたら、多少は気になってしまうはずだ。「僕は僕で真剣に神様やこの世界のことを考えているだけなのに、どうしてそういうふうにジャンルとして括られてしまうのだろうか。私たちや神様のことを特別知っているわけでもないのに」と。しかもそこに若干の呆れた、ないし侮蔑的なニュアンスが込められていたとしたら、きっと腹が立つ。「あたしの周りにはゲイが多くて~」みたいな告白にも、腹を立てたっていい。
「ディスコミ好きな人ってあれだよね、○○な男が多いよね」という言いぐさは、「クリスチャンって○○だよね」とか「ゲイって○○だよね」とか言ってるのと同じである。「ディスコミ好き」を一つのジャンルとして統括して、そこに何かしらの傾向を見出そうとするのなら、それは「偏見と差別」でしかないのだ! 僕は僕で真剣に、個人的にディスコミを信奉しているのであって、それはつまり自分や自分の性癖や好きな人や、あるいは自分の生きているこの世界というものを見つめ続けているということに他ならないのであって、同じくディスコミ好きでも、彼とは具体的な性癖も好きな人も、見えている世界も違うのであるから、一緒くたに語られることは全身で拒否したいのである。
……と言っても、同じものを信奉しているわけだからどこかしらに共通点はおそらくあって、その部分を指摘されて怒るというのは実にお門違いなので上に書いたようなことは常に黙っている。
言いたいのは「僕は他のディスコミファンとは違うし、彼も他のディスコミファンとはまた違うのだ」ということ。そういう作品であればこそ、流行らなかったし、特に注目もされなかった。「こういう層に受ける」というのがまるでないので、売り込みようがないのだ。種々の変態が偶然のように見つけてきて、はまる。孤高の存在であるというのはそういうことで、ファンもまた孤高であって徒党を組まない。だから僕は、他にどんな人がディスコミを好きであるのかちっとも見当がつかない。時折どこかで出会っても、「どうしてこの人はディスコミを好きになったんだろう?」といつも思うのである。
僕が男性にディスコミを絶対に勧めない理由というのはこれだろう。》
・2012年2月27日
《その代表にして、僕が心から「傾倒」しきっている唯一の漫画家が『ディスコミュニケーション』『夢使い』『謎の彼女X』の植芝理一先生である。
傾倒、心酔……そんな言葉ではまったく不十分だ。
僕は「オススメの作品」を問われたとき、決して植芝先生の作品を挙げない。『謎の彼女X』の連載が始まって間もない、ごく短いある一時期を除いて、他人に大声で勧めたことはたぶん、なかったはずだ。特に『ディスコミ』に関しては、「この人になら」と思った相手にだけ、小さな声で、「よかったら……」と勧めてきた。『ディスコミ』にはモチーフとして密教がよく登場するが、僕にとっては『ディスコミ』という作品そのものが密教の経典のようなものなのである。軽々しく他人に勧めるようなものではない。このへんのことは、以前にも書いた。(
2010年8月8日)
植芝先生の作品は、常に「僕だけのもの」なのである。他人と共有したいなんて思わないし、「みんなに読んでほしい」とも思わない。上に挙げた作家・作品たちはすべて、僕が正しいと思う価値観がいっぱいに詰め込まれたもので、それを人に勧めるというのは、「これが理想なんだよ! わかってよ!」という叫びにほかならない。しかし植芝先生の作品に関しては、そういう想いを持たない。それはたぶん、「僕だけのものでいいし、そうあるべきだ」と思っているからだろう。「僕だけが植芝作品の理解者である」という傲慢な意味ではなくて、「誰にとっても植芝先生の作品は『自分だけのもの』なんだ」というようなニュアンス。だから、誰かに導かれて植芝先生の作品を読むというのは、違う気がする。なにかの偶然で、つい手にしてしまった。そういう出会いが正しいのだろうと思う。》
・2014年1月1-2日(一部改訂)
《新年を迎えて最初に読む漫画はなんにしようかな? と思って手に取ったのが植芝理一先生の『ディスコミュニケーション』だった。
(略)
それで久々に一巻を読んでびっくりした。「ここに何もかもすでに書いてあるじゃないか!」とぶっ飛んだ。なんて素晴らしい作品なのかと感動しながら。
恥ずかしいのを承知でいえば、僕は松笛になりたくて、戸川と出会いたかったのだ。でも、たぶんすでになっているし、もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。強くそう思った。見た目も松笛と矛盾しない。
もしかしたら近いうちに、「ディスコミから考える恋愛」みたいな話を、書くかもしれない。
とりあえず今回は、思わず泣いてしまった第3~4話の『心臓の鼓動』から、少し引用するにとどめよう。
(松笛)
人間はね――
みんな電波みたいなものを持ってるわけね――
その電波はスピードも振動数も波長もひとりひとり違うわけね―― 本当は僕たちという存在自体が――
――振動とそのずれの間にあらわれるゆらぎの矢みたいなものなんだけど――
好きになるってのは互いにまったく違った電波が受信されて共振するってわけね
初めて僕の中に戸川の「好き」っていう電波が飛び込んで来た時 僕は本当にびっくりしたわけね
それがね――非常に特殊な形態をもった電波だったわけね
僕が今まで見たことのないスピードや波長だったわけよ
これならもしかしたら“向こう側”への壁を破れるかもしれないって そう思ったわけね
《略》
戸川といっしょにいると
いろんなヴィジョンが見えるんだよ
《略》
光の向こう側?
それを知るためにおれたちはこうやってふたりでいるんじゃないか
《略》
(戸川)
松笛くんがなにを見たのかはわたしにはわかりません
それは わたしは結局の所わたしであって決して わたしは松笛くんではないからなのです(当たり前だけど)
もしかしたらわたしたちが誰かを好きになるという秘密はそこらへんに隠されているのではないだろうかなんて 考えたりしたのでした
このあたりの言葉は、最近の僕の考えや気持ちにとても近い。(正直、前半の電波うんぬんの部分はよくわからないけど。)
僕にもいろんなヴィジョンが見えていて、でもそれはおそらく好きな人と同じヴィジョンではない。同じヴィジョンを共有することが美しいような気がするけど、同じ画面でそれを見ることは絶対にできない。同じだと確信することは不可能なのだ、という前提からしか、結局二人で歩いていくことなどできないのだろう。
戸川のいう「光の向こう側」と、松笛のいう「向こう側(への壁)」というのは、同じなのか。違うのか。そんなことは問題ではないのか。よくわからない。
ひとまず僕が思うのは、「破るべき、壁のような光」はあるのかもしれないということ。いったい、その向こう側には何があるのか?
光を見るだけなら、ひょっとしたら誰にだってできるのかもしれない。でも松笛が言うには、それを破り、その先を見ることができるかどうかというのは、二人にかかっているらしい。だから、松笛と戸川はそのために二人でいる。
「そんなことのすべて 僕らが見た光」って、小沢健二さんが『恋しくて』という曲で歌っていた。あれは別れの歌のようだ。むりやりくっつけると、この曲の二人には向こう側を見ることができなかったのかもしれない。
上に引用したところを注意深く読むと、どうやら植芝先生は、「二人が一つになる」ということをあんまりいいことだと思っていないのかなと思える。第15~16話あたりを読むと、それをほぼ確信できる。「一つになる」というのは、恋愛において適切なことではない、と言っているようにさえ僕には思える。
たぶん、二人が一つにはならず、「二人」のままでいるべき理由とは、それぞれのヴィジョンの中にある光を破るためなのだ。そしてその光とは、たとえば「自分自身の心の中にある光」みたいなものなのかもしれない。
初期の戸川は、このようなことをくり返して言う。「わたしは松笛くんの謎をとく義務があるんだから!!」それはもともと投稿作であり、読み切りとして書かれた第一話のラストにも出てくる。
(戸川)
あのね松笛くん
私は松笛くんの謎を解くまでずーーっと松笛くんの注文を受けていくからね
どういうわけか私は松笛くんが好きになっちゃったんだからさ
松笛くんの謎を解くことは私自身の謎を解くことでもあるの
私はね そう思うのよ
そうなの 松笛くんって本当に変わってるのよ
何考えてるのかよくわからないしさ 変な行動も多いしさ
でも私が松笛くんを好きだってことは確実なのよね
どんな女の子や男の子にも その謎を解かなきゃいけない男の子や女の子がひとりは必ずいると思うの
だから私が松笛くんを好きになったってことは――
――私が松笛くんの謎を解かなきゃいけない人間だということなのよ
私はなんとなくそう思うのよね
「謎を解く」というのは、「理解する」ということではあるだろう。しかしそれは、戸川が松笛のことを一方的に理解するのだというよりも、松笛が松笛自身のことを理解する、ということのほうが大切な気がする。同時にそれは、戸川が戸川自身のことを理解するということにもなる。
おそらく、相手のことを理解するということはできないのだ。相手のヴィジョンを見ることは不可能である。だから、「相手に相手のことを理解させあう」という形でしか、「謎を解く」ということはできないのだろう。「光の向こう側」へと、お互いを導いていくということ。
恋人同士が二人でいることというのは、「相手のことを知り、理解する」ことに始まって、「自分のことを知り、理解する」ということに終わるのではないだろうか。お互いのことをわかり合うという作業は、「自分が相手のことを知るため」ではない。きっとそれは手段でしかなくて、本当は「相手が相手のことを知るため」や「自分が自分のことを知るため」に行うのだ。
たとえばこう。自分のことを知りたいという相手が目の前にいたら、自分のことを知らせるための何らかの作業が必要である。その作業のうちに、自分も自分のことがわかってくるのだ、とか。本当はたぶん、もっとずっと果てしなく複雑な事情がたくさん絡み合って、「謎を解く」と表現するにふさわしいような、特別なわかり方に結実するのだろう。
旧版のディスコミ最終巻(13巻)の最後には、松笛が涙を流せるようになる、というエピソードが載っている。これはたぶん、松笛が松笛自身を理解するための大切な一歩だったんじゃないだろうか、と思う。「向こう側」への確かな一歩。松笛も戸川も、そういうふうに一歩一歩を踏みしめていって、きっと最後にはお互いの謎を解く……「解いてあげる」のだろう。
恋人たちはお互いの謎を解くために、膨大な時間を過ごしす。心の中にある光は、混沌として未分化。謎そのもの。それを破ると、何があるのか? 虹を架けるような誰かが僕を待つのか? すべての時間が魔法みたいに見えるか? 願いは放たれるのか?(このあたりについては小沢健二さんの『ある光』という曲と、「無色の混沌」と題されたエッセイを参照。)
恋人のおかげで「わかる」ことは無数にある。ひょっとしたらいつか「向こう側」だって見えるのかもしれない。
自分というのは謎そのもの。それを解くカギになる人は、きっとどこかにいて、どこにでもいるものではない。「好きになる」というのは、「この人の謎を、わたしなら解いてあげられる」でもあるだろうし、「この人なら、わたしの謎を解いてくれる」でもあるだろう。そうだとしたら、『ディスコミ』のいう「好きになる」というのが単なる「恋心」(戸川がコウサカくんに抱いていたような)とはちょっと違うというふうに思えてくる。二人が好き合ったのはたぶん、「この人はお互いにとってのカギである」と直観した、ということにちがいない。
とかいうきざなこともたまに書いていきますよ。
もちろん現実的には、たった一人の人間「だけ」が謎を解くための要因のすべてになるわけではなくって、もっといろんな人やものとの関係がものを言ってくる、ということではあると思うけど。それにしたって最終的なカギを握る人ってのも、やっぱりいるってことなんでしょう。それがもし「ともに子を産み育てる相手でしかありえない」なんていうことを言われたら、「そうかもしれないな」とくらいには僕は、思います。》
なんだかよくわかんないけど、とにかく僕がディスコミ好きだってことはなんとか伝わるかな……。
2016.04.22(金) いい男br>
「あなた」といるとき、頭の中では常に詩が流れている。というか、そういうものを詩というのだ。それが言葉でさえあれば。
たとえば知らない土地を自転車で走っていて、どうしようもない、何とも説明できない気分になることがある。「説明できない」と告白することを僕はもう怖がらない。そんなときこそ、詩の出番なのだ。自分の頭の中を、心を、流れていく言葉たちに耳をすます。それだけで詩ができる。あとはほんのちょっとの論理的思考でもってそれをどこかに書き写すだけだ。
なんてかっこつけたことをいつも言ってしまって恥ずかしい。でもまあ僕はそういうかっこつけた文章が好きだったんだから仕方ない。せいぜい堂々とやろう。
何を怖がることもなく、自分が自分らしくいられることを大切にしたいですね。それをやっぱり、生きてると忘れがちになる。古い友達に会ったときだけでなく、いつでもそれがわかるようにしていたい。改めて。(こういう何でもない感想がたぶんのちのち効いてきたりするのです。)
浮かれ浮かれてる恋のはじめは
コーヒー豆の蒸れるのを待つ
急須に注ぐお湯の冷めるのを待つ
そういう時間に似ているのです。
2016.04.21(木) わが詩学(1.5)
ポルノグラフィティの懐かしい『パレット』という曲にある。
「変わらずそこにあるものを歪めて見るのは失礼だ
だって知っている言葉はほんのちょっとで
感じれることはそれよりも多くて
むりやり窮屈な服着せてるみたい」
だから散文ではなくて詩がひつようなんだと思う。
人間はありのままにものを見ることはできないと言うし
見たものを正確に言葉で表現することもできない。
できないのに、それをしようとするのは失礼だ。
「あなたってこういう人だよね」という言葉がよく人を傷つけるように。
たとえ喜ばせたとしても、やはりその人を封じ込めてしまうように。
人を決めつけるのはとても酷い。
そのために僕は一桁の頃から泣いてきたなあ。
だから詩を書ける人はそうすればいいんじゃないか。
恋人の部屋に初めて行ったら、もう詩を書くしかないのだ。
愛する人の素敵な一面は説明するよりも詩にしたい。
「あたしのどこが好き?」と問われたらまず詩を書こう。
夕焼けの、とか、星空に、とか、
パンジーが、とか、そういうふうでいいんだ。
胸を張ってそう答えたい。
2016.04.20(水) 遠い島で見た夢の続きを
禁断の扉を開けてしまった。僕はインターネット・アーカイヴなんていう趣味の悪いものを好まないのだが、出来心で、むかし読んでいたテキストサイトのURLを入力した。2002年まではさかのぼることができた。それ以前のものはなかった。中身は読まずにページを閉じた。
そのサイトで1998年から2000年くらいにかけて書かれた文章はとても僕を育てた。中学から高校にかけてのころだ。僕の書くものがけっこう詩的なわけは、かなりの程度彼の影響である。文体や感性や思考法に、多大なる影響を受けた。そういうサイトはもう一つあるのだが、どちらも「小沢健二」というワードで検索してたどり着いたものだったと思う。そしてその双方の管理人さんと、十数年後に僕は出会い、お酒を飲むことになる。どう考えてもそれは幸福でしかない。
その二つのサイトは、まだ存在している。一方は古いログを片付けてしまったが、一方はすべて残している。前者は2010年代に入ってからもごくまれに更新されているが、後者は十年以上いっさい更新がない。
僕は本当に、「絶対に会いたい」と思う人なのだ。「好き」という気持ちが確かであれば、著名人であろうが、個人サイトの管理人だろうが、チャットの友達だろうが、つくせるだけ手をつくす。それで会えた人はたくさんいるけど、会えない人のほうが多いし、そのまま死んでしまった人もいる。連絡は取れたのでいつか会えるかも知れない、という人もいる。
生きていればいつか会える、ということを信じている。だからこそ、逆に、生きていなければ絶対に会えないのだ、ということも痛切に感じている。
僕はその二つのサイトの管理人さんに会うことができた。本当に幸せなことだ。一方はずっとネット上を追跡し続け、SNSで少しずつ交流させていただいた。一方は掲示板に登録されていたアドレスに思い切ってメールを送った。
その後者のほうの方が言ってくださったことなのだが、「メールの内容がちょうどよかったから返信する気になったし、会うつもりにもなった」のだそうだ。「なんか妙なテンションの読者も多いから。神みたいに扱ってくるような……」と言葉は続いた。
僕は彼にメールを送るとき、「生身の人間に向けて書いている」ということをとことん意識した。絶対に、無礼のないように。敬意を払いつつ、神格化もせず、十数年間の思いを素直に書いた。
そういうことは、どんな有名な、偉大な人に対しても意識している。相手は人間なんだ、ということだけは、絶対に忘れない。
そう思うからこそ、本人の公開するつもりのない文章を、非公式に覗き見ようというのは、できなかった。自分がそれをされたら、きっと嫌だから。第一そんなことをしなくても、本人に連絡をとる術を僕は持っている。彼は現在を生きているのだ。生身の人間として。そしていつでも会えるのだ。だから、趣味の悪い出来心を起こしたことを、ここでこっそり謝罪しておきます。
でも、99年くらいだったか、『天気読み』のことを書いていた(たしかそれを僕は検索で見つけたのだ)文章は、もう一度読んでみたいなあ。あと『雪が降る町』についてのほんの短い記述とかも。ああいうちょっとした言葉たちが、僕をここまで育ててくれたのだから。
……いや、やっぱり違う。読まなくていい。それはちゃんと僕の中に生きている。息づいている。だからもう、必要がない。読まなくてもいい。いくらでもまた作り出せるのだ。ここでこうして。そして誰かがそれを読み、何か栄養にかえてくれる(たぶん)。そういうふうになっているのだ。世界は、何処も。
筒井康隆『美藝公』について書いたもの。
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2016.04.19(火)
体中の愛がうたいだしてる
ぼくらの鼓動は
全てのはじまりだよ ハレルヤ
(奥井亜紀/晴れてハレルヤ)
どら焼きを食べていたら、「やっぱりドラえもんが好きだとどら焼きも好きなんですか?」と聞かれた。僕はよっぽど幸せそうな顔をしてそれを食べていたのだ。それで「好きな人が好きなものは好きですよ」と答えた。
僕には「好きな人が好きなものには嫉妬する」という性質も確かにあるので、これは大げさというか若干ウソが入っているなと自分でも思いながらそう言った。どっちが本当なんだろうか。
でも原則として、どう考えても「好きな人が好きなものは好き」なのだ。そこを勘違いしては絶対にいけない。そのうえで嫉妬はする。そしてたぶん、その嫉妬の内実をちゃんと見極めることが本当は大事で、目をそらそうとするとどんどん膨らんで破綻する。それがわかるくらいには僕はすでに静かである。
最近はとみに静か度が増してきて、好きな人が好きなものに耳を傾けるときの姿勢へ次第に嫉妬がへってきて、いい意味で沈んできている。沈めば沈むだけ人は静かになる。それについては落ちこんでいても晴れやかでも実は同じことなのかもしれない。
「あなたがなぜそれを好きなのか知りたい」という欲求は、ひょっとしたら恐怖への扉だ。その奥には悪夢のような理由が墓碑銘のように刻まれているかもしれない。だから踏み込めない、そんな時もあった。でも、そこで一歩を踏み出す勇気が、すべてを善くしてくれることを僕らはもう知っている。
悲しみさえも幸いへの道だと知っている。
夜麻みゆき先生の『レヴァリアース』(
ここで無料で読めます。読んでください)という僕にとって聖書のひとつであるような漫画の中に、こんなシーンがある。
めんどうだ、貼りつけてしまえ。(引用の範囲)
3巻P72
3巻P73
学ぶとか知るとかいうことを考えるとき、僕はいつもこの場面を思い出す。
知るコトを知るために学んでいる。
そういうことなのかもしれない。学問についても、恋人についても、この世界についても。美とか愛というものを考えるにあたっても。
知ることは怖い。想像力は恐ろしいものだ。
だけど。だからこそ人を救う力にもなる。
それは魔法と同じことなんだろう。
恐れずに僕たちはキャラバンを進めていくことにしよう。
レヴァリについてはさんざん書いたけど今読めないものもあるんだろうな。あとで時間があったら掘り出して引用するかも。ともかくこれがなかったら今の僕はないのです。
あたし
あたしには何年か前につきあっていた人がいて、その人のことが本当にすごい好きで、その人もあたしのことが本当にすごい好きなんだってことがあたしもわかって、だからそれについ甘えてしまって、だってそれはずっと会えなかった日々が続いていたから仕方がなくって、今考えるとひどく意地悪だったかもしれないようなことをしていたけど少なくともあたしは本当にすごく幸せで、そしてその幸せはたえがたい寂しさとともにきっと長い間続いて、それでもいつかは寂しさがなくなって幸せだけが残る日がやってくるんだと信じていた。確信していた。毎日一緒に眠って、起きて、ごはんを食べて、その人は出かけてあたしはその人のことを一日中ずっとずっと待ってたくさんのことを考えて、その人が帰ってきたら一日の中でもっとも幸せな時間が始まって眠って起きてごはんを食べてってことが永遠よりも長く続いていくのだとあたしの身体は疑いもなく信じきっていた。今も信じようとしている。あたしは今でもその人のことが好きだ。
その人は今ごろどこかでたぶん新しい恋人をつくって幸せに暮らしている。なんでそう思うのかというとそうとでも思わないとなぜか苦しくて仕方がなくなるから。何度も何度も忘れようとかあきらめようとか思ったけどそのたびに死にたくなるくらい泣いて泣いて泣いて泣いてだからもう忘れようとかあきらめようとか思わないようにしようと思って、いつかもう一度その人はあたしのもとに戻ってきてくれるし、たとえ戻ってこなくてもあたしがその人のことを好きでいつづけることでその人の迷惑にならないのだとしたらあたしがその人のことを好きでいつづけることが悪いことではないのだからあたしはその人のことを一生好きでいつづけるんだと決心して今でも本当にそう思っている。
だけどあたしは寂しがりやで弱虫で泣き虫で誰かの力を借りないと何もできないだめな女だから毎日の職場のストレスや不安に押しつぶされそうになって毎月の重い生理の時期には感情も神経も精神のすべてが不安定になってひょっとしたらこのまま頭がおかしくなってビルの外に飛び出して落ちて死んでしまうんじゃないだろうかと思って、それもいいかもしれないとまで考えてしまうようになって、そうすると本当に何もかもがうまくいかなくなって、だからあたしはいろんな人と会う。
大学出たばっかりの何もわかんないあたしに会社の人はみんな優しくしてくれるしインターネットで知り合った男の人たちもあたしの吐き出したネガティブな日記をみて積極的にいろんなところに連れ出してくれようとする。会う。会う。会う。暇があればとにかく人に会う。男の人と二人きりのときもあるし、複数の男の人と同時に会うときもあるし、そこに女の子がいるときもあるし、もちろん女の子たちと遊ぶことも多い。そういうふうにたくさん遊んで、どこでもいいからどこかに行って、何でもいいから何かをして、話をして、ときおりだれかの肩や腕に触れたりして、何かかわいいしぐさをした時には頭をなでたりもして、逆になでられたり、さわられたり、ちょっとしたスキンシップをして、それで、少しだけ気を紛らわせる。お酒も飲む。飲んでちょっぴりふらふらになったら家に帰って、すぐにお風呂に入ってすぐに寝て、起きて、また仕事に出かける。あの人のことを考えないために他の人のことを考えて、いつのまにか本当にあの人のことをすっかり忘れてしまって、ときおり思い出すと、本当に悲しくて苦しくて寂しくて不安な気持ちになるから、また誰かと会って、遊んで、そういうことの繰り返しでどうにか生きている。
あたしは、だって、本当に死にそうなんだから、そういうふうにしていのちをつないでいくしかないのだから、そういう思いでただただ素直にそういうふうにやってきた。だけどそういうあたしの態度を非難したり、悲しんだりする人がいることを今更ながらつい最近しった。あたしの前で泣いた人もいた。いつもはあたしが泣くほうだから、どうしていいのかわからなかった。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。あたしはだめな女です。何もかも最低の女です。だけど切実なんです。本当にあたしはもう死ぬんです。誰かと一緒にいなければいけないんです。本当はあの人と死ぬまで一緒にいたいけど、そんなこと不可能だということがわかっているし、本当にあたしはあの人のことが好きなのかということもわからなくなってきているし、もちろん好きだし会いたいしぎゅってしたいしちゅうもしたいけど、したからなに? したからなに? したからなんなの! あたしは、だからもう、これしかないの。
あたしはあの人が本当にすごい好きで、あの人のことを一生好きでいつづけることにして、それだけが今あたしにわかっているすべてのことで、そのほかのことはなにひとつわからない。でも、ただひとつだけわかっているこの単純な誓いでさえも、年を重ねるごとにだんだんうすまってきている。あの人のことを考えることで気持ちよくなったり、少し前向きになったりすることが少なくなった。ほとんどなくなった。あの恍惚、高揚、みなぎる気力。今はもう何もない。ただ暗くじめじめとした狭い通路をあたしはとろとろ進んでいる。あたしは、今遊んでくれてるどの人よりもあの人のことが好きだ。本当に好きだ。心の底から。こんなに愛した人はあの人以外には誰もいない。だけど。だけどあたしは、今遊んでくれてるこの人たちを誰よりも大切にしないといけない。そうしないといけない。あたしは。だからごめんなさい。ごめんなさい。本当に。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。あたし、誰にあやまっているんだろう。でも、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
(2008-08-10)
2016.04.18(月) 水晶
単体で美しいものなどあるのだろうか。
美とは結晶するものだ。
それは配列、もしくは結びつき。
複数のものがどのようにあるかという、その関係の中にしか美はないのではと思う。
ふたりの人がいて。
それが美として配列され、あるいは結びつくというのは、一つの奇蹟である。
ただしそれは偶然にのみ起こるのではなくて
両者の美へ向かう強い意志によっても実現される。
しかし時に欲求が、その美を脅かす。
告白で崩れる友情のように。
恋する心が美の配列を乱してしまう。
それを怖がると、恋する心は封じ込られたりする。
でもそれではせいぜい石英ほどの輝きしか持てない。
水晶のようにキラキラと瞬くには
完璧に手を取り合って踊らなくてはならない。
息を合わせて。
そのステップの描く模様が美であれば
シーンは何かしら愛を産むだろう。
恋愛でなくても。
2016.04.17(日) われは知る、
人と話していて、石川啄木(なぜか変換できない)の『
ココアのひと匙』みたいな雰囲気だなあ、と思ったのだが、すぐに「いや、それってすごく失礼な話だな」と思い直した。『ココアのひと匙』は「冷めたるココア」の「うすにがき舌触り」を書いた詩であって、それはかなしき、かなしき詩なのである。
でも、詩という表現分野において意味などというものはその構成要素のほんの一部でしかなく、佐藤春夫先生言うところの言葉の手触りとか目方とか光沢とか、そういったものについて言えば、その時の僕の気分はやはり『ココアのひと匙』であった。意味はまったく正反対で、僕は非常に幸福であったのだが、しかしそのときの気分の音色は、やはりその詩のそれだったわけである。
それにしても『ココアのひと匙』という詩は、意味のうえにおいても、かなしみの中にどこかしら優しさが滲み出ていて素晴らしい。華倫変先生の作品もそうなのかもしれない。(おたくだからなんでもすぐにつなげてしまう。)
そう思うと、やはりそのときの僕の気分は、意味のうえにおいても、『ココアのひと匙』だったのかなあ、という気はする。
テロリストというのは単に僕たちのことだったのかもしれないからだ。
それで幸福になったって誰も文句は言えないだろう。
2016.04.16(土) ナンパする勇気
高円寺の渋谷系系(≠渋谷系)イベントに行って数年ぶりの友人・知人さんたちにたくさん会う。
あの頃は僕も若かったけど今はもうそう若くはない(当たり前だ)。
それにしてもフロアに響き渡る『ある光』とか『カウボーイ疾走』は最高である。
また、あまり話したことのなかった人と親交を深めるなど。
人を知っていくのは本当に楽しく喜ばしい。
知らないことを知っていくのも楽しいし
その人の中に自分の知っていることを発見して
同じものが互いの中にあるのを味わうのもまたいい。
なんか両側からトンネル掘って繋がったみたい。
ところで
少し前にここで「人は、どんなことを通じてでも、誰かに、何かを伝えてしまう」と書いた。それはほんのちょっとした所作でも。似たようなことは
ここにも書いている。
僕はナンパというナンパをしたことがないし、知らない人に声をかけるのは得意ではない。あまりそうは思われていないのかもしれないが、やるときは思いっきり勇気をだして、心の中で「エイヤ!」と気合いをいれて、ようやくそれをやっている。その一歩がかけがえのない出会いになることを既に予感しているからだ。声をかけている時点で、たぶん僕はもうその人に惚れているのである。だから苦手なことをがんばってでもやるのである。
それは一目惚れに近い。「この人はいいひとだな」とか「気があいそうだ」とかを直観して、「声をかけなきゃ」と思ったりする。変なやつだとか、怪しいやつだとか思われるのを覚悟して、勇気出して、声をかける。
思えば大学時代、同じ講義をとっていた知らない女の子に声をかけたのもそうだった。最初は「ハァ?」って感じで避けられたが、今では大親友である(いつもシウマイありがとう、なかなかお礼ができません……)。本当にあの時、勇気を出してよかったと思う。
もちろんこれは女性に限らず、男性についてもそうである。こないだ日本シャットダウン協会というバンドのライブにお邪魔してボーカルのいそぶちくんという人にあいさつをしに行った。もちろん初対面であって、ネットでもさほど交流が深くもなかったので、ガチガチに緊張した。向こうのほうがずっと年下なのだが、話しかける瞬間は本当にばくばくだった。でも、もちろん、話しかけてよかったな、と思う。向こうだってそのほうが嬉しいはずなのだ。
その「一歩を踏み出す感じ」はとても大切で、よく書く話だと高二のとき北海道でミスターと名乗るおじさんにナンパ(?)されたときホイホイついていった判断とかもそうだし、反対の立場ならば初めてのお客さんがおざ研のあの重いドアを開ける瞬間もそうだ。一歩踏み出すと、何かある。
「勇気を出して歩かなくちゃ 宝物をつかみたいから」ってやつだ。
2016.04.15(金) よいこ悪い子ふつうのこ
「届かないこれって最高の1cm…」(『愛の才能』)
「10分後にはキスしてるかもしんない 今生まれたの」(『10分前』)
「1秒後占うほうが ずっと難しいことだって気づかない」(『キャラメル』
「恋してキスして抱き合うって最高!」(『マギーズファームへようこそ』)
それが新しいってことならば横たわる
近づく月のような緊張感で
指先が動かす空気の流れ
すっと吸った
胸にも脳にも澄みわたる青空のような夜
「ロブとローラがついにウェディング ゴールドフライヤーのトップトピックス
てことはついに再結成? 伝説のオリジナルメンバーで」
(『マギーズファームへようこそ』)
例えばそこには五十余年ぶんの時間があった。
それは融け合ったり単にくっついたり
反射し合ったりしてすべて関係していた。
炎色反応は何色になるのか?
暗闇で虹のように、知らないうちに燃えて、
水上置換法で気体を集めるように
たいせつに貯まっていった。
蒸気はまつわりあいながら旋回し
いつか天をつくるべく集まって時を待っている。
そこで遊ぶ人たちは極上の笑顔で
青と白のまあドラえもんみたいな
鈴は昼間の太陽で
しっぽは夕焼けというような
とにかく空の光の化身なのだろう。
「春と夏の間の名前のない季節が終わるの
打ち寄せる波で遊ぶ君をぼんやり見ている
あたしと君の間の名前のない気持ちが終わるの
一瞬の打ち上げ花火 照らされた横顔見てた
ふたり どんな形に変わるとしてもずっと
恋人たちも仲間たちもささやくことも抱きあうことも
嘘つくのも奪いあうのも誓ったことも
ドーナッツのリング ドーナッツのリング
きっと今ここにいるためにつながってる」
(『
ドーナッツのリング』)
「未来は今夜のことを何て呼ぶだろう」(『
TOKYO EXPLOSION JP』)
みんな自分の聖書を一冊ずつ持ってんだとしたら
二つに分けたトランプをバサバサってシャッフルするように
ページとページを噛み合わせて一つにさせたい
その本は二度と開けないけど
ずっとそこにある。
2016.04.14(木) 故に餓鬼道ぎりぎりの線で
お仕事→打ち合わせ→飲みに。
京都からいらっしゃった方と話した。
気の似通った人はだいたい同じことを考えるものだなあ。
紀伊國屋に行ったらもう子どもと昔話が売っていた。
友達の文章が載っていてびっくりした。
「なんだかんだ 人は遠くから いつも言いたいことを言うけれど
あたしはあたし 目の前に続く道をただ行くだけ
今日も明日もきっと人生は 抜け道などない大渋滞
クラクション聞きながら口笛を吹いて」
(篠原美也子/Life a Traffic Jam)
「おとこたちはcome and go ガールフレンズ いつまでも
きょうを生きることだけは だれにもゆずれない
結婚も離婚も赤ん坊よりも 大切なことがある
きょうを生きることだけは だれにもゆずれない」
(矢野顕子/GIRLFRIENDS FOREVER)
あんまりこんなことを言っても仕方ないのだろうが、
物語や他人の人生をあまりにも多く知ってしまって
それに感情移入してしまうような性質の人は
あらゆる可能性を考えてしまえるから
世間的に「危険」と思われるようなことも平気でできてしまうし
むしろそっちのほうが妥当だとさえ感じる。
「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなる
なんてそんなバカなあやまちはしないのさ」
って歌があったけど、(『ローラースケート・パーク』)
若い友達の話を聞いているとどうも
「何も言えなくなる」のところに立ち尽くしている場合が多い。
それを「バカなあやまち」と言い放ってしまう勇気や
覚悟や
それを支えてくれるだけの思想や実績がまだないのだ。
そこを鍛えることこそが
成長ということなのかもしれないのである。
つまり「やっぱり自分、ってことだよな」である。(参考文献:ドゥーワチャライク)
2016.04.13(水) 窪塚も言ってた
『雨に唄えば』の『Good Morning』という曲が大好きだ。
言葉の積み重ねだけで何かが変わる夜、いつも思い出す。
奥井亜紀さんの『The day after』でもいい。
完全に性質が音を立てて変わるのだが、その瞬間の前後同士は決して矛盾しない。似ても似つかない過去と未来が手を繋いだ、というだけのこと。
それを繋いでくれたのは言葉である。
肉体によって変わる瞬間と言葉によって変わる瞬間があるとしたら、その交差する一瞬にこそいよいよ両翼で飛べるのだと思う。
2016.04.12(火) クリッと音を立てて
この急速さというか、ある方向に決まった瞬間の勢いというのは若い若くないというよりは何をどう愛して生きてきたかが表れることなんじゃないかな。
何かのファンになったらほんの数ヶ月で十年選手のファンと同じくらいの知識を身につけてしまっていたりして。たぶんおたくってそういうもん。
だけど怖いのは失速。
結局そういうことばかりくり返すおたくというのもいるのだ。
ここが更新されないときはほんとにいろいろ切羽詰まってたりするんだとご理解ください~。
詩ばかり詠んでいては猫になってしまう。詩も詠まないようでは犬になる。
2016.04.11(月) 伏線と文脈
爆笑問題の太田光さんは小説を読むとき、どんなにつまらなくても必ず最後まで読むという。「最後の一ページで面白くなるかもしれないから、途中でやめられない」と。ずいぶん昔にどこかで言っていた。
人生を一編の小説にたとえるならば、僕は人と対するとき、基本的には太田さんのような態度で臨む。最後まで読もうと努める。途中でなくしてしまったり、焼けて灰になってしまうようなものもあるけど、できるだけ途中で放り出すことのないように意識している。
小説に限らず物語というのは、最後まで読まれて完結するものである。最後の一ページで急に面白くなるとはさすがに思えなくとも、最後の一ページで伏線が回収される、ということはあり得る。そこで初めて伏線は伏線として生かされる。
また物語というのは基本的に最初から最後まで通して一つの全体である。漱石の『草枕』にあるように筋を読むばかりが読書の方法ではないのだが、筋を読まなければ全体なるものをとらえることは非常に困難になる。
部分だけを見て判断することはもちろん可能であるが、全体を見て判断するということも別個に可能である。
「予防線を張る」という言葉は、言い訳をあらかじめ用意しながら話を進めていくような方式について言われるが、張り巡らされた予防線のように見えた糸が実はまったく別の意味を持っていたなんてことはある。守るための有刺鉄線が空から見ればピストルの形をしているようなことだ。
人の話を最後まで聞かない人ってのはいて、「あ、予防線を張ってるな」と思った瞬間に、「なに予防線張ってんだよ」と言ってしまったりもするが、よくよく聞けばその予防線は最終的に美しき人格の紋様を象ったりもするのである。謙虚さだとか、慎重さだとか。
ところが、「人の話を最後まで聞く」と言ったって、その人の話がどこで最後になるかはわからない。ちょっと黙ったって再開するかもしれないし、別れたあとで「さっきの話だけど」なんて電話がかかってくることもある。
その紋様は常に再配列を繰り返しマスゲームのように運動し続ける。
人格というのはたぶんそういうものであって、だから他人の人格を決めつけてしまうことは時間を勝手に止めることに等しい。
人生を一編の小説にたとえるとしたら死んでしまった友達は未完の作品である。僕は最後まで読みたかった。だからいつまでも執着しているのだ。
「そんなもんがラストシーンであっていいはずがない」と思うから、永遠に憤り続けるのである。
僕の人格はわかりにくい。伏線に満ちているからだと思う。伏線は回収されるまで、本当の意味を隠している。そしてその伏線がいつ回収されるかを読者は知らされない。だから、伏線の上の表皮だけを見て人は言う。「あなたは」と。
筋を読むばかりが物語の読み方ではないことをとうに知っている僕はそれで別段困らない。ただ、筋も含めてあらゆる読み方を試してくれるような優しい読者を僕はやっぱり愛してしまう。
また、文脈という言葉もある。
文はうねるのである。
その波の奏でる音楽をともに口ずさめるような存在にいつも出会いたいとずっと祈ってきた。
ジャズセッションのように触れ合うならば、それ以上に幸福なことはないはずだ。
2016.04.10(日) 君にいっつも
おたくだから(という言い訳を用意して話を始めるのが僕の常道らしい)好きなものについて話すと酔ったように饒舌になる。
ただの僕の悪い癖。
思わずおくのほそ道の好きな箇所を口ずさんでしまって、聞かされるほうはたまったもんではなかろうが、しかしこっちだってその言葉の力を信じているもんだから堂々たるもんだ。
そういう過剰さを整理して盆栽のように静かに美しく居たいと考えたこともあったがうまくいかない。はさみを入れるのが自然とは遠すぎて。
サロン18禁に行き副会員証00002をGetした。00001は未来食堂の店主だから実質的には№1である。ちょううれしい。思ったより長くいてしまったが、いいバランスで関わっていきたい。
それから放送大学文京学習センターで若者の指導にあたった。途中学習支援サークル員の方も交えてお話できたりしてとてもよかった。それにしても本当に神殿としか言いようのない荘厳さ。
それからさすがに休む予定だったのだがOPEN BOOKという店に呼ばれて飲んでしまった。詩でも詠みたい気分になった。半端なワインより酔わせてくれたねって歌があったけど、おれは行かなくっちゃいけないんだよ!
時間というのは一人にも流れ、二人にも流れ、三人にも四人にも何人にもその空間にも、どこにでも流れている。空を見上げれば一人の時間、目線を落として恋人と向かえば二人の時間、前を見て歩いていけば、視界に入るすべての人と同じ時間を過ごすことになる。そんなふうに考えながら立って檸檬サワーを飲む。SPEEDのALL MY TRUE LOVEとかいう超名曲が二回もかかった。
「今こそALL MY TRUE LOVE」とは完璧な語の並びではないか!
なんて話をしたいのである。完璧なフレーズ。
「僕のいっつも荒れ過ぎの唇離れた新しいフレーズが君に届いたらいい」
僕がここに書く文章とか矢崎さんの詩とかは、このことだけを祈り続けて三千里なのでございます。
2016.04.09(土) バ~ミヤン
気が合う、ってのはすごい。気が合うと思える友達はかけがえがない。ファミレスってのはそういう人と行くもんだ。自分たちだけではなくて、店内を見渡してもたまにそういう人がいる。
それはやっぱり場面なんだと思う。
写真のような一瞬が数限りなくあって、それが永遠っていうものだから、写真というものは撮られ続けるのだねえ。
ただ本当の永遠は心の中にしかないわけだから(心の中にある光?)、写真っていうのは練習にすぎないのかもしれないなんて適当なことを考えています。
昨日の余波でShe knows.そして
散歩の意味を問いかける。
五年ぶりにビール、ってかね?
(重要参考人は岡林信康とAmikaさんなんだけど、ちょっと大げさだね。)
フラワーロードってのはいい言葉だ。
2016.04.08(金) 灌仏会
仕事のあとに放送大学生の若者の学習相談。なんか最近受験とか就活とか勉強とか人生の相談に乗ることが多い。忙しすぎるがうれしい悲鳴。
会社に行っていろいろ話す。行く場所があるってのは本当に幸せだ。
そのまま四谷でシースーのタイルをはちきれんばかりに赤札堂。いい店だったけど終電を逃させてしまった。ずっと藤子不二雄の話をしてたけど本当にタノシカッタ。
ばったりと友達に会い、その連れの子と、くるしゅうない、しのう。
で凪。
偶然隣り合った女性が僕の三○○の○と十三○の○○○○○のとき○むらで○○○の○○○○をした人だった、という話を聞いて驚愕した。黒夢は良い。
2016.04.07(木) 恋をしようよ
愛はその場面の美しさのことで
恋はその気持ちのエネルギーだと
なんとなくずっと思っている。
最近詩を書けば恋という言葉を使ってしまうのは
僕が誰かに恋してるとか好きだとかそういったこととは無関係に
エネルギーがあふれ出しているからなんだろう。
花を見てよしと思う気持ちが
すなわち恋であり
歩くひとあしはそれに満ちている。
2016.04.06(水) 裏さん
元AV女優さんが名前を伏せて書いていたブログを、朝、ひょんなきっかけで見つけて、一日中読みふけった。五年分、すべての記事に目を通した。僕はその人のことがとても好きになった。
僕はAV女優はもちろん、アイドルもタレントも女優さんも、ほとんど好きになったことがなかった。けれども、なぜかその人のことは、気になっていた。引退して13年以上が経っても、ずっと憶えていて、「あの人は今」といった感覚で(それ以外の目的では本当にない)なんとなく検索してみたら、そのブログに突き当たったのだ。
その人は、とても素敵な人だった。強いようで、弱いようで、やっぱり強い人だった。でもその強さは、自分でつかみ取った強さだった。最初から強かったわけでもなければ、弱さがなくなったわけでもなく、生きていくために獲得した、生活のための強さだった。だって、明らかに弱かった。でも、だからこそ、強かったのだ。
強いとか弱いとか、どうでもよくなるくらい、彼女の文章にはすべてが詰め込まれていた。
ユーモアもあった。声を出して笑った記事もあった。涙がそそられたものもあった。
小さい頃から文学や美術など、芸術が好きだったという。そういう仕事に就きたかった、でも理系科目の成績が悪くて、行きたい高校に行けなかった。そう書かれていた。
AV女優となったいきさつや理由のようなこと、幼少期の虐待や若い頃のトラウマ、恋愛のことなど、さまざまなことが詳しく、おそらくとても正直に、冷静に、時に情熱的に、キレたりもしながら、書かれていた。彼女の考え方や、思想のようなものも、伝わってきた。その端々から感じられる彼女の人格は、僕に「素敵だ」と思わせるに十分だった。
彼女は、AVに出ようと思っている人に対して、「お金が目的ならやめたほうがいい」という立場のようだった。稼ぎたいなら、一億稼ぐ覚悟で。と書かれていた。それはもちろん自身の経験や、見聞きしたことから出てくる言葉なのだろう。その重さを説得力と言っていいのなら、それは途轍もなく籠もっていた。
とても頭のいい人だと思うし、それ以上に、いい人だと思う。誠実だと思う。真面目だと思う。本当に心から思う。素敵な人だと。共感する部分も多く、友達になりたいと思うし、なれるのではないかと思う。
そのブログは七年近く更新が止まったままだ。
いつかまた更新される可能性はゼロではない。僕はたびたび覗きに行くだろう。
心から僕は彼女に惚れてしまった。
こんな文章を女性が読んだらどう思うのだろう。最近はまた、若い人も読みに来るようになった。生徒だって読むかもしれない。しかし僕は誇りを持って、僕にしか言えないことをこの場所で言い続けたい。
彼女はAV女優という職業を通じて、本来の自分とはまったく違う、架空の女性像を演じながら、それでも僕という人間に、「何か」を伝えてしまったのである。だから僕は、ずっと彼女のことを(性的な意味でなく)忘れずにいて、消息をたずねようという気になったのだ。そしたら、完璧に惚れてしまうような文章が、そこにあった。これを僕は、希望だと思う。
人は、どんなことを通じてでも、誰かに、何かを伝えてしまうし、それが「かけがえもなくすばらしいもの」であるようなことだって、いくらでもあるのだ。
もちろん、その逆もあるだろう。
人は、どんなことを通じてでも、誰かに、何かを伝えてしまう。それは絶対に、その人の人格から滲み出てしまうものだ。人格は、どんな行為にも、滲み出てしまう。たとえそれがAV女優という職業で、毎日の仕事がほとんど嘘に塗り固められたものだったとしても。そんなこととは関係なく、ちょっとした言葉の端々や、声色や表情や、こぼれ落ちるほんの少しの本音の中に、人格は宿るのである。そしてそれは、誰かに伝わる。
きっと僕はそれを現役時代の彼女の姿からなぜだか受け取ってしまい、「よくわかんないけど気になる存在」として、忘れないで生きてきたのだ。こんな形で、再会するなんて。
誰にだって、なんとなく好きなコンビニ店員とか、なぜか気になる警備員さんとか、そういう存在って、いるんじゃないだろうか。それは彼らの仕事の中に、さりげない仕草や表情の中に、人格が宿るからだ。どんな仕事にだって、どんな所作にだって、それは宿るのである。
もちろん、文章にだって、それは宿る。彼女の文章と、彼女の過去の作品との間には、相違点や懸隔など無限にあるのだろうが、決して矛盾はしないのだ。同じ人格の人間である、という一点によって。
言うまでもないと思うが、誤解されないように言い添えておく。僕はここで性的な話題をしたつもりはないし、恋心の話をしたわけでもない。人格というものの存在について強調しただけである。
それはたぶん彼女の文章を読んでもらえればわかるでしょう。
まったくそれがわからずに、彼女を傷つけるようなことばかりをした人も、たくさんいたみたいですけど。
そういう人間を僕は心から憎み、軽蔑する。
何にだって人格は滲み出る。でも、それに気づかなかったり、尊重しようとしない人間は、たくさんいるんだ。そういう鈍感さだけは、僕は絶対に許したくない。彼らはそれでいくらでも人を殺せるということに、気づいていないのだろうか。
あるいは気づいているからこそ、完全犯罪の殺人に手を染めようとしているのだろうか。
そうかもしれないな。
2016.04.05(火) どうしようもなくくだびれる毎日でした
最近学校から持ち帰ってきたノートパソコンをダイニングのテーブルに置いて仕事したり趣味の文章書いたりしているのですが、どうもノートパソコンというのはよくないですね。デスクトップ最高です。なんでかって、ノートパソコンは基本的に、画面が接地面から生えてるじゃないですか。そうすると必然、接地面(この場合はテーブル)の高さからせいぜい30センチくらいのあたりを見つめることになり、目線が下がって、首が曲がって、めちゃくちゃ肩が凝ります。また、キーボードの位置を変えることができないので、手は画面の手前(つまり、ずいぶん前のほう)に、しかも接地面の高さに固定されるわけで、同じ姿勢を続けざるを得ないことになります。これはよくない。
そういえばずっとお世話になってきた会社のほうでは、ノートパソコンを使うとき、本体の下に辞書とかを敷いて高さを出したり、外付けのキーボードを接続したりしてしのいでいたのだった。たまにけん玉やったりとか。そういう工夫をちゃんとしないと、死ぬくらい肩が凝り、数時間ごとに睡眠を取りたくなってしまう。本当にまずい。それで寝過ぎて頭が痛くなったりもする。さいあくだ。
ノートパソコンというのはデスクトップに比べて新しく、ハイテクなもので、ハイテクになると人間は退化します。ハイテクであることに焦点が当たりすぎて、人間の事情がおざなりになることがあるのです。
携帯・スマホはその最たるものですね。ハイテクで便利なのですが、そのぶん人間は色々なことをサボり、退化します。姿勢も悪くなると指摘されています。依存・中毒症状も出ます。いいことと同じくらい悪いことがある印象で、「人生はバランスで何かを勝ち得て何かを失ってく」ってH Jungle with Tが歌っていたのも、さもありなん。
今はとりあえず、ノートパソコンの下にまんがを何冊か敷いて、とりあえずしのいでいます。明日から学校が始まるので、持って行って、家ではちゃんとデスクトップを使おう。できるだけ快適な仕方を工夫しながら。
リビングの椅子にキャスターがついていないのも、立ち上がったりちょっと姿勢を変えたりすることが難しく、よくない点だ。ほんの少しの違いでもデスクワーク人間には命取り。気をつけんとな……。
2016.04.04(月) =16、違う違う、ししとう、とうっ!
花見沢の二日酔いを引きずったまま、練馬のアンデスで同業・同傾向の方とコーヒーを二杯。久々に中村橋の天龍。アルタ横ルノワールでコーヒーを飲みながら若者からの就活相談。サントリーラウンジイーグルでプレモルティーチャーズオールドバランタイン。あさり、おやこカレーと中々水割り。
なぜウィスキーには想い出が宿るのか、ということについて話した。
そういうことを考えるのは楽しい。
「こうすべき」ということが決まっていたからとて、「そうできる」というわけではない。「こうしなければならない」の域まで高めなければならない。でもそれは覚悟で、とても難しいこと。悩んで、自殺するのは、このあたりだ。
だから、簡単なのはもしかしたら、「こうでなくてもいい」と、立ち返ることかもしれない。「どうしてこうなった? こうでなくてもいいじゃないか?」「どうしてそうする? そうしなくてもいいじゃないか?」すなわち、消極的に、滅する。
認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。「AかBか」で考えるから膠着するのだ。「AでもなくBでもなくていいんだ」と思えることが、解放、ないし開放である。放送大学。
こうじゃない世界はあり得る、ということを、当たり前にしなければならない。そうでなければ、AやBにばかり拘泥して、結局どこにも動けなくなってしまう。N極とS極の間でだけ揺れて、E極とかW極の存在に気づけない。そちらのほうに歩いて行くことなど、できようもない。
藤子・F・不二雄先生の、『あのバカは荒野をめざす』を見よ。あの老人の歩いて行く方向は、どこであったか? 彼は、「AかBか」ばかりにずっと執着していた。しかし最後には、360度、あてもなく、とにかく歩き出すではないか……。
忘れていいんだよ。あなたは、生きているだけでいいんだから。あなたは誰かを永遠に愛する義務はないが、しかし幾人もの優しい人たちは、あなたのことを永遠に愛するだろう。何があっても。だからあなたは、「生きているだけでいい」と自分で思っていいのである。僕はそう思うよ。
勇気を出して歩かなくちゃ 宝物をつかみたいから
心すっかり捧げなきゃ いつも思いっきり伝えてなくちゃ
暗闇の中挑戦は続く 勝つと信じたいだから
何度も君の名前を呼ぶ 本当の心捧げて呼ぶ
この愛はメッセージ 僕にとって祈り 僕にとって射す光
そしていつか夏のある日 太陽のあたる場所へ行こう
子供のように手をつなぎ 虹の上を走るように
この愛はメッセージ 僕にとって祈り 僕にとって射す光
いつだって信じて! いつだって信じて!
この愛はメッセージ! 祈り! 光! 続きをもっと聞かして!
この愛はメッセージ! 祈り! 光! 続きをもっと聞かして!
この愛はメッセージ! 祈り! 光! 続きをもっと聞かして!
この愛はメッセージ! 祈り! 光! 続きをもっと聞かして!
小沢健二/
戦場のボーイズ・ライフ
2016.04.03(日) お誕生日おめでとう
花見沢俊彦2016無事に催行いたしました。
あんまりよくわかりませんが30人くらい来たんじゃないでしょうか。
例年通り、とくに饗応することもなく、花を見て、ただ花を見ておりました。
「気を遣う」ということをすると際限がないため、極力誰にも気を遣わないよう努めました。
それが良いことなのかどうかは知りませんが花見沢俊彦ではそうしています。
木曜喫茶もおざ研もある程度そういう感じで、それで独特の空気ができたかもしれません。
合わない人もいたと思います。「すべての人にとっての居場所」はやはり難しい。
開かれてはいるけれども、結局そこに居心地のよさを感じるかどうかはその人次第。
それは放送大学みたいなものかもしれないなー。
「門戸の広さは放送大学並」(スチャダラパー『5th WHEEL 2 the COACH』)
ともあれたぶん来年も似たようなことをやると思いますのでよろしくお願いいたします。
2016.04.02(土) 処女作とは
生まれて初めてハンバーグを作った。処女ハンバーグである。
作家の第一作を「処女作」と言うが、男性作家でも「処女」という言葉を使うのはおかしい、「童貞作」であって然るべき、という冗談をこれまで幾度か耳にした。
僕もなるほど確かにとこれまで思っていたのだが、視点を変えてみればもっとうまくいくかもしれない。
「処女作」と言う時、「処女」なのは誰であったか。作家が処女なのではない。小説の分野であれば、「小説」が処女だったのである。
だから、作家の性別とは関係なく「処女作」と言われる。
僕が小説を書くとする。書くまでは、「僕の書く小説」という概念は処女である。いざ書き終われば、「僕の書く小説」はいちど達成されたものとなり、処女でなくなる。
「その作家が書く小説」という概念は、はじめまっさらで、だんだん手垢がついていく。手垢のつき始めの作品を「処女作」と言う。
処女ハンバーグを作る以前、「僕の作るハンバーグ」は処女であった。作るまで、「僕の作るハンバーグ」は、それがどういうことかを知らずにいた。しかし作られてしまえば、「こういうものか」ということがわかり、次第に洗練されてくる。味もよくなってくるだろう。
そう考えると、ハンバーグを作る工程がなんだかエロティックなものに感じられてくる。(どうでもいい)
自分にとって、どんなものごとも、はじめは処女なのである。
当然、そのときこちら側も童貞であったり、処女であったりする。だからぎこちない。うまくいかない。
だけど時にこれ以上ない幸福を味わえたりもする。
「こんなの初めて」というやつだ。生きていればそういうことが無限に味わえる。
人間は憶える。同じことは二度と初体験できない。だから新しいものを求める。初体験を求める。それは本能であろうか。実に罪深いことである。
「初めてギターを弾く女の子」というのは、そういうふうに考えてみると、もの凄く魅惑的なのではないでしょうか。
2016.04.01(金) 初めての人
ピーターがどうして大人にならないのかといえばそれは彼にとってすべてのものが常に新鮮だからだ。赤ん坊のように。どうしてすべてのものを新鮮に思えるかといえば彼がすべてのことをすぐに忘れてしまうからである。
忘れることのできない普通の人間たち(我々)は、憶えているというすばらしい能力を駆使して生きる。辛いことも経験になる。だんだん免疫ができてくる。
初めて恋人に振られた人間はまるでピーター。赤ん坊だ。
二度目はどうだかわからない。
You always know after you are two. Two is the beginning of the end.
(きみたちだって、二つになれば、それがわかるようになる。どんなことだって二回くりかえせば、いきつく先が見えてくるものなのだ。――『ピーター・パンとウェンディ』偕成社文庫、芹生一 訳)
今年の
花見沢サイトできました。
4月3日(日)に新宿中央公園でやります。お時間のある方はぜひ、きてください。混沌とした会になる予定なので、初参加の方とか、ここの読者の方で僕に会ったことのない方とか、来て頂けると本当に嬉しいです。おざ研なきいま、集まれる機会が少なくなってしまっているので、ぜひとも……!
ブラジルでオリンピックが開かれるそうなのでGo To Rio de Janeiroですね。ご連絡お待ちしております。
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