少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2011/09/29 なにもない
この一週間、何もしていない気がする。
二日酔いと風邪によって大半は寝て過ごした。
そうでなくても何もなければとにかく寝ていた。
夭逝した華倫変の漫画で『忘れる』という六ページの短編があって
その冒頭はこうだ。
家には
人がいない
誰も
帰ってこない
誰が帰って
こないのかも
もう忘れた
私は眠る
日々 眠る
しなければならないことが
ないから一日じゅう眠る
しなければならないことが
あっても眠る
眠れない時は
薬を飲み
お酒を飲んででも眠る
眠るということは
死に近いことだと思う
よく眠る人は厭世的な人が
多いと何かで読んだ
自分も そうなのかなと
思いながら眠る
一日じゅう
何十時間でも眠る
こんな調子で、六ページずっと、女の人の一人称のポエムが続く。非常に良い作品なので『高速回転は光うさぎの夢を見るか?』という短編集を見かけたら、ぜひ読んでみてください。
一日八時間以上眠ると脳細胞は死んでいくという。
そのせいか僕はいろんなことを忘れる。
すべて忘れる。
すべてを忘れたとしても
どれだけ脳が腐っても
せつないという気持ちだけは残る
と華倫変は書いていた。
それを読み返して僕は少し泣きたい気持ちになった。
今日は僕の勤めていた学校の、高等部の体育祭がある。
これを書いている今現在でも進行中だ。
誘われていた。
行けばちやほやしてもらえることはわかりきっている。
しかし複数の取るに足らない理由が大挙して
僕を家の中に閉じこめようとしている。
僕はそのことに小さな安心感を抱いている。
この感じが人を「引きこもり」にさせるのだろう。
取るに足らない理由が、巨大な生きる意味を駆逐する様はまるで
蟻の群れが大きな虫を倒す
たいまつを持った旧石器時代の人々がマンモスを倒す
そういった快感……カタルシスがあるのかもしれない。
それが癖になると、もう
大きな虫やマンモスのような
巨大な意志を存続させていくことはできなくなる。
取るに足らない意志を、散漫に持ち
欲望の赴くまま、食いたいものを食おうとする
そのために、一時的であれ共闘する
それが気持ちよくて、楽なのだろう。
この二ヶ月、よくものをなくした。
「なくす」ではなくて「なくした」なのは、僕がものをなくすのは、この二ヶ月に限ったことではないからだ。
昨日も五千円分くらいのものを紛失した。
二ヶ月で五万円分以上はなくしているだろう。
手袋(6000円くらい)、ヘルメット(10000円くらい)の部品、iPod(15000円くらい)、草履(2000円)、スピードメーター(5000円くらい)、ハサミ(100円)、リップクリーム(100円)三つ、排気ガス用のマスク(4500円くらい)、自転車を入れるバッグ(6000円くらい)、帽子(値段不明)複数、傘(数百円)複数……などなど、パッと思いつくものだけでこんなくらいだ。忘れてしまったものもまだまだあるだろう。二ヶ月でこれだ。
充分にこれはちょっとした障碍か病気だろう。
しかし、思う。五万円と言っても、なくした時にかかったお金ではない。お金は、買うときにしかかからない。
もっとシンプルに生きたいんだ、たぶん本当は。
「無力だった日は充電していただけ」って中村一義が歌ってた。
太陽を隠す雲の気持ちを考える、想像力。
僕が僕として生きて行くには……
些細なことがたくさんある。降り積もっている。
人から借りている本を読まなくてはならない。
DVDを見なければならない。
アフタヌーンが三ヶ月分たまっている。
部屋を掃除しなければ。
新聞を読まないと。
結局そういう、「ねばならぬ」が、人間を圧迫しているんだ。
「働かなくては」が一番だけど。
そういったストレスやプレッシャーとどのように向き合っていくか。
だからそこで「追わない」なのかもしれない。
瞑想の境地。
認めること。しかし執着しないこと。
ああ。あと少しスイッチが入れば僕はまた再び
傍若無人になれる。
まともなことを言うのは飽きたんだ。
あたらしい本を書こうかな
とか思うのも
一つの巨大なプレッシャーだ。
それを蟻たちが食い潰していくし
時にはこれが食い潰す蟻の側に回ることだってある。
そうして八方ふさがりになってしまう。しまいがちだ。
それをもちろんバカらしいと思うし
心と身体の、バランスの問題だからと
諦めてしまうようなつもりもない。
考えたり、瞑想のまねごとをしながら
詩を書きながら
立つべき場所を探すしかないのだ。
人と会うと
わからないことも多い。
わかることもある。
しかしわかったことが相手にはわかってもらえなかったりする
僕のわかったことを話すと
わかってないねと言われる。
そうなると僕は本当にわかっているのかいないのか不安になる。
揚子江気団なんてことをここで言う
神経の図太さが昔はあったのだ
他人というものが存在していなかったから
今は他人がある
それを自在に消せるようになったって
別に問題はないのではないかと思える
他人、他人、他人
そのことを僕は意識しすぎる
なぜならば、他人とは、人が生きる上で、絶対に無視できない、
もっとも大切なものの一つだからだ。
他人を意識するということと、
他人に媚びたり、合わせたり、
よく見られたいと思ったり、といったこととはもちろん違う。
他人を殺す時にだって、他人を意識する。
僕は他人を殺そうとする時もあれば
愛しいと思う時もあって
そのたびごとにもちろん他人を意識する
そのことを実は
停止させていいときだってあるのかもしれない。
僕は他人から見下されたり、笑われたりするようなこともする
そのほうが全体としてよいと思うからだ。
そのためには恨まれ、嫌われることもある。
ある程度計算していることだ。
もちろん計算できなかったり、計算が外れることも多い。きわめて多い。
しかし計算しているというのは間違いがない。
そんなことやめてしまえばいいのかもしれない。
完璧を追究すると
こういうのが書けなくなるし
これすらもの凄く不十分だ。
これを十分にしたからといって
そこになにがあるのか
なにかがあるという確信が今は持てない。
とにかく部屋を片づけたい。
ただ一つ確かなのは僕はとても寂しい。
おもたい くるしい
さみしい
2011/09/26 まるいかたち
ちょっと休憩。
2011/09/24 詩
ほんの偶然のような気がするけど、家に帰って、寝て、朦朧とした意識の中で手に取ったのが、『愛…しりそめし頃に…』の第二巻だった。
巻末に、藤子不二雄A先生による、藤子・F・不二雄先生を追悼した特別編『さらば友よ』が載っていて、その最後のコマに、「さらば友よ」と題された詩が綴られている。
あの日ぼくは
きみと出会った
まぶしいあこがれの
季節のさなかに
ぼくは きみと会い
きみとたたずみ きみと語り
きみと走り
きみと立ちどまり
きみと泣き きみと笑った
やがて時が過ぎ
きみと別れの日がきた…
さようなら きみのぼく
さようなら ぼくのきみ
さようなら さようなら
大切な人がいるとき、そのすべてはこういうことだろう。
また寝て、夜になって、矢口高雄先生の『ふるさと』を手にした。
矢口先生の作品は『蛍雪時代』をはじめとして、節目節目で僕の目をはっきりと開かせてくれる。
生きるということについて考えた。
つまり生活ということを。
そういえば浅羽先生が最新の「流行神」で、生活ということについて書いていたっけ。
僕には正しいことがわかる。わかりすぎるほどにわかる。
これだけは絶対に正しい、と胸を張って言えることがある。
そう思わなければ、僕は僕の愛しているものたちを信じていないことになる。
ところが、僕自身が、そのように正しい振る舞いをしているかどうかは、まったく別の問題だ。
「うそでなければ語れない真実もある」と、岡田淳さんの『竜退治の騎士になる方法』という本に書いてあった。そういえば、僕はある人にこの本を贈ったことがある。精一杯の心をこめて。
フィクションは、事実ではないけど、だからこそ、理想ということを描くことができる。現実にはあり得ないようなことも、描ける。僕たちはそれをヒントに、理想へと一歩ずつ、ゆっくりと、近づいていかなくてはならない。
いくつになっても、人は、自己嫌悪ということをする。反省もする。理想の自分と現実の自分との落差に悩む。
嫌煙運動をする人が、ヘビースモーカーだってこともある。たばこは社会から消すべきであるという理想と、たばこの快を求める自分という現実とが、あまりにも乖離していて、苦しむ。
フィクションは、フィクションである以上、そこに描かれている理想は、決して現実にはあり得ない。
ノンフィクションと銘打たれている作品であっても、作品となってしまえば、それはやはり事実から外れる。
生身の人間と、スクリーンに映し出されたその人の姿とでは、同じ人間でも、まったく違う。スクリーン上の彼は、その一時の彼でしかない。彼の下に降り積もっている、数十年間の彼のことは、いっさい無視されてしまう。しかし生きている人間というものの中には、時間が蓄積されている。
着飾った自分は、作品だ。僕が偉そうに何かを言うとき、それは作品だ。
生きている僕は、ちょっと違う。
今月、二回ほど飲みすぎて、二日酔いになった。
僕は以下のことを心にとどめるべきであろう。
僕は酒に弱い。
そのことから逃げ続けた十年間だったように思う。
そもそも、僕は十六歳くらいの時に急性アル中で病院に運ばれているのである。その頃から量だけは飲めたので、調子に乗ってがばがばやってたら、倒れた。「ジャッキーはよく飲めるからザルだと思ってたけど、ザルじゃなくってでかいボウルなんだな」と当時、友達から言われた。うまいことを言う。ザルはあふれるということもないし、重たくなることもないが、ボウルはなかなかあふれないかわりに、蓄積されてどんどん重たくなっていく。
自分は若い、と思いたがり、自分はそこそこ酒に強い、と自惚れ、自分は飲んだらダメになる、ということを冗談交じりに語り、といった酒とのつき合い方は、やはり「若い」からこそなんだと思う。
そういう思いがどこかにあるから、冷静に酒量やペースを調整することができなくなる。
もちろん、自分はそんなこと、十年くらい前から心得ているつもりであって、飲み方もずいぶんうまくなってはきたが、やっぱり、調子に乗ることも年に何回か、あるんですね。
酒をやめる、だの、控える、だのといったことは言わないし、考えもしない。僕は一人の時には酒を飲まないので、連続飲酒という意味ではまったくアル中とはいえない。
酒を飲んでも飲まれるな、って言葉に結局は尽きる。
敵を知り己を知れば……ってのもそうだ。なんだ、やっぱり『逆境ナイン』にすべてが書いてあるのではないか。
本当に僕はまんがが好きだな。
さて、詩でも書こう。
2011/09/23 詩
言うべきことはすべて詩になってあふれてくる。
言わなくてもいいようなことをここには書こう。
言わなくてはならないことは本当にすべて詩になるか
直接、届くべき人のところへ届く。
【集会のお知らせ】
9/23(祝・金) 13:00~(予定)
JR南武線/小田急線 登戸駅から、多摩川のほうへ歩いていくと、小田急線の鉄橋があります。その下が会場です。来ればわかります。
知ってる人も知らない人も適当に集まって酒を飲んだり話したりするだけの簡単な会です。夜までやってると思います。
HP
第ゼロ回の模様
2011/09/22 たずね人
は(粘)さんの、2009年の年賀状を見て感じ入った。
僕の好きなものばかりコラージュして、わざわざ絵を。
もしまだ見てたら連絡ください。保谷あたりでお会いしましょう。
オイちゃん、また、昔の友達、いつでも連絡ください。
また会いたいです。
僕がこのサイトやめない、ほとんど唯一の理由は再会のためです。
2011/09/21 第170話 瞑想
心が落ちついているとき、気がつけば健康な生活をしている。
健全というのは、頭の先から足の先までを貫いて一つだ。
分かたれるものではない。
正しく食べ、眠り、すこやかに性欲さえはっきりと満たされて。
「ところで」
と彼女は風呂上がりにヤクルト飲んでる僕に言った。
「なに?」
「あ、私のこと愛してますか?」
「愛してるわけないでしょ」
「愛してるって言ってください」
「いいよ」
「ありがとうございます」
「ところで?」
「悩みがあるんです」
と彼女は風呂上がりのヤクルトを飲み干した僕に切り出した。
「なに?」
インターネット中毒。
彼女はTwitter、Facebook、mixiをはじめ、2ちゃんねるやニュースサイト、友達のブログ、メールチェックなどあらゆるインターネット回線による誘惑に日夜悩まされ、学生時代までは大好きだった読書や唯一の趣味である編み物がまったくできなくなってしまい、果ては料理をするのにもトイレやお風呂に入るのにも携帯電話を片手に持たないではいられないのだという。
「どうにか、この中毒状態から抜け出したいんです」
彼女は僕のことを撫でながら懇願するように言った。
瞑想をしよう、と目を閉じると必ず雑念がつきまとう。何も考えないようにしよう、頭を空っぽにしよう、と思えば思うほど心は動揺し、次から次へと雑念が噴出してくる。
肝心なのは、考えないことではなくて、考えてしまったことを、意識しないこと。追わないこと。無視すること。流すこと。
出しっぱなしにして、放っておくこと。
「瞑想をしてみよう」
僕らはそのように目を閉じた。
まだ僕が、彼女を愛する以前の話。
ちょ……
2011/09/20 2000.9.11
東海豪雨から11年、ついにまた豪雨がきたらしい。
僕の実家の近くで、避難勧告が出されているのは以下の小学校学区。
* 北区:辻・清水・金城・東志賀・城北・光城・川中・味鋺・西味鋺・楠・如意・楠西
* 守山区:守山・西城・白沢・鳥羽見・二城・志段味西・瀬古・志段味東・吉根
見事に我らが母校のあたりは外れている。川沿いなのに。だからこそあのあたりは交通の要所にもなったし、ナゴヤドームだってできたってわけか。
おそらく町の作りとして、名古屋城とか栄のあたりには水が来ないような作りにはなっているはずだ。庄内川や矢田川の堤防は、北のほう(田舎のほう)のほうが低くなっていると聞いたことがある。それでも辻・清水・金城(我が家からかなり近い)のあたりまで避難勧告が出ているというのはよっぽどだな。
でもどうして、矢田川のほとりにある我が家のあたりは平気なんだろう、本当に。あの辺こそ、北側の堤防が高くなっていて、すべての水が守山区のほうへ流れていくとか、そういうことなんだろうか。それとも、庄内川と矢田川の間があそこらへんから離れてくるからなんだろうか。たぶんそういうことだな。
ま、しかし、地元の友達から今メールで「昨日は中央線が止まったけど今日は普通」とメールが来た。11年前ほどではないのだなと、ほっとした。
ちなみにこの友達は、当時僕と一緒に豪雨のあと腰まである氾濫した水の中でキャッキャ遊んだ奴である。そん時の日記参照。
2011/09/18 彼女
彼女は齢十八にして、すでに無数の名文と詩を遺している。
初めて彼女の文章を読んだのは、彼女がまだ十五歳の時だった。
それから三年間、いや、実際にはまだ仲良くなって二年くらいしか経っていないのだが、その短い期間に僕は、なんとたくさんの彼女の言葉に触れたであろうか。
手紙をやり取りするわけでもなく、長いメールをするわけでもない。会っても話し込むわけでない。ただたとえば夜に公園で、僕がビールとか飲んで、彼女が横で三ツ矢サイダーとか飲んでて、蛙の声に耳を傾けながら、じゃれ合って遊ぶような。あるいは芝生の上に、あるいは畳の上に寝転がって、何をするでもなく、まどろんだり、つつき合ったり、意味もなく笑ったりして過ごした。
僕はたしかに膨大な言葉を彼女のために生み出したが、それが僕の意図した通りの意味を持ったことは少なかったかもしれない。
彼女は直接的には僕のためにあまり多くの言葉を生み出さなかったように見えたが、しかし振り返ってみれば、彼女の生み出したあらゆる言葉はすべて僕のために存在していたのだとも思える。
彼女の無数の名文と詩は、誰に向けられたものでもないように見えるが、本当は常に誰かに向けられていた。そういう仕組みになっている。
詩的に言えば、彼女の言葉とは、すなわち彼女のたたずまいなのだった。
横顔と言ってもいい。
人間はただそこにいるだけで、誰かに何かを伝えてしまう。
彼女の文章はそういうものだった。
彼女は「表情」に乏しい。
そのことを僕は彼女の欠点だと思った。
たしかに、そう言ってしまえばそうなのだろう。
だけどそれは、世間の一般的な価値観や、僕の個人的な考えに基づいた判断でしかない。考えてみれば、僕と彼女の二人きりの世界というものを想定した時、そんなものは欠点でもなんでもないことに気づく。
僕たちは公園で蛙の声を聞いていればいいわけだから。
近い将来、笑いながらピーマン焼いて食ってればそれでいいわけだから。
僕が僕として彼女に接することと、僕たちが僕たちとしてそこに存在していることとは、違う。
僕は彼女をよく叱った。しかし思えば僕が彼女を叱責したのは、そこに第三者がいたときばかりだったような気がする。そうでなければ、第三者の関わる話をしていたときか。二人きりの時に、その場における彼女の行動や言動に関して、叱りつけたようなことが、果たしてあっただろうか。思い出せない。
あったかもしれないが、僕はたぶん、非常につまらない気持ちで、それをしていただろうと思う。第三者がいるときに彼女を叱るのは、ある種の使命感とか、自らを正しいと信じる心のようなものがあったし、それは実はそこにいる第三者に向けてのメッセージでもあったりするのだが、二人きりの時に彼女を叱るほど、くだらないことはない。まあ、米粒とか残したら本気で叱るけど。んー、あんまり覚えていないのでこの話題はもういいや。
僕たちが個人と個人であることと、僕たちが僕たちとしてあることとは、違って、前者の状態にあれば「叱る」ということもありうるが、後者の状態にあれば、そういうことはありえない。僕たちは僕たちなのだから。
第三者がいると、僕たちは僕たちになりにくい。三人で僕たちになることは、ひょっとして不可能でもないが、たぶんそれはほんの一瞬の奇跡に終わるだろう。基本的には、第三者のいる空間では、僕と彼女は僕と彼女という個人同士でしかいられない。
個人として個人と関わるのは、実はなかなかつまらない。
彼女はたぶん、いつの間にかそのことを知っている。
僕も、少なくとも彼女に対しては、今は、個人として関わっていくことにあまり魅力を感じない。
こういったことに気づくのに、僕は二年もかかったわけだ。
きっと彼女は最初から、あるいはごく初期には、知っていただろう。
僕は彼女をとても愛している。彼女も僕を愛している。
そう思った時、「愛とは局面だ」と言った昔の自分を思い出す。
なるほど、僕が彼女と一緒にいるとき、確かにその局面は愛だ。
それが永遠に続くものかどうかは、勿論わからない。
恋愛になるようなことはないだろうし、憎しみに変わることもないと思う。
が、愛という局面がいつの日か生まれなくなってしまうことはないとは言えないし、今だって二人が一緒にいれば必ず愛という局面が生まれるのかというと、そういうことでもないだろう。愛とはやはり、一瞬の奇跡だ。
この三ヶ月ほど、僕は彼女の言葉にほとんど触れていない。
書けば悉く名文になるのだろうから、僕は彼女の文章を勿論読みたい。
だが、「書け」ということは言わない。少し前なら言ったかもしれない。だが、今はもうできない。
その理由は、上に書いた通りである。
ただし、「過去に書いたものはすべて残しておけ」とだけは、相変わらず言い続けることにしよう。
2011/09/17 おとなの論理
大人の論理と子供の論理がどう違うか。
子供の論理は一本筋が通っていて、正しい。大人の論理は、たくさんの筋が複雑に絡み合っていて、結論だけを見れば必ずしも正しいとは言えない。だが世の中は、大人の論理によってできあがっている。
子供は、正しくない大人の論理を糾弾する。大人はそれを、正しいだけではダメなんだと喝破する。子供はやがて大人になり、世の中には「筋」がたくさんあるのだということを知り、そのことを子供に教える。
ただし多くの大人は、膨大な数の「筋」を、扱いきれずにもてあましている。すべての「筋」を使いこなせる大人などいない。子供は本当は、その点をこそ糾弾しているのだというのに、大人が言うことはいつも同じ、「世の中には複数の筋がある」これだけだ。
子供は、やがてたくさんの「筋」の存在を知る。だが大人は、その使い方を教えてはくれない。子供はそうやって、そういった大人になってしまうのだ。
大人の論理を超えなければならない。
2011/09/14 辛卯紀行(一) 少年時代の長い道
鈍行列車を乗り継ぎ、新潟県上越市の直江津駅に着いたのは日付も変わる頃だった。ぼくは担いできた自転車を袋から出して組み立て、一路走り出した。月はあるが、曇っている。やや暗い道を、よく調べもしないまま出発した。海岸線を西のほうへ走っていれば間違いはない。線路を越えてしまわないように注意してさえいれば、迷うことはないだろう。
直江津から糸魚川までは三十キロ以上に及ぶ自転車道が通っていた。国道八号線を走るトラックの恐ろしさから、ぼくは自転車道をひたすら走ることに決めた。暗く、細く、植物の茂った道。自転車のライトを最も明るくさせて、くもの巣に絡め取られながらずっと走った。スピードが出せなかったり、目の中や口の中にくもの巣が入ることは確かにストレスだったが、トラックにおびえておっかなびっくり走るよりはよいように思われた。
ぼくが向かっているのは、直江津から七十キロほど離れた朝日町、および入善町という集落である。北陸本線が近くを通っているのだが、あと二日で青春18きっぷの期限が終了する九月九日の夕方、突発的に思い立って東京を飛び出したため、終列車でも直江津までしか来ることができなかったのだ。直江津で始発を待てば、最初の目的地である泊(とまり)駅に着くのが午前九時ほどになってしまう。しかし自転車ならば順調にいけば朝方、明るくなったころには泊駅周辺に着くだろう。だが早く着きすぎてもつまらない、ゆっくり、時速二十キロ前後のペースで、たっぷり休憩も取りながら進むことにした。
糸魚川までは、暗く、細く、植物の茂った、くもの巣だらけの道がひたすら続いた。闇の支配する小さなトンネルもいくつか通った。真夜中ひとり、見知らぬ田舎道に自転車を走らせる時の気分は、経験したことのないものはわからない。孤独であり、退屈であり、何より静かである。そして、時々突如として得も言われぬ心地よさが全身をつつむ。あの感覚をなんと表現したらよいのだろうか、空を飛ぶとか、風に溶けるとか、どんなありきたりな言葉を試してもしっくりこない。土地の空気に酔い、頭から夜に取り込まれていく。頬に流れる風が冷たければ、自分の形を確かに知れる。
やがて自転車道が尽きると、主に八号線の最左車線を走ることになった。幾つかの道の駅を横目に見ながら、先ほどまでよりさらに退屈な時間を一時間、二時間と肌に染みこませる。身体が地面のほうへと落ちていくような気分になる。親不知という峠ではっと目がさめた。海沿いとはいえ山奥の、狭い道の、急な上り坂、連続する長いトンネル、そこを走り抜ける大型トラックの風圧が自転車を大きく揺らした。
一瞬でも気を抜けば、即死する。気合いを入れ、強くハンドルを握り、重心を低く落としながら、獣のように神経を研ぎすませて、ペダルを踏む足に力を込める。一秒でも早く親不知を抜けたいが、急いては事をし損じる、命がかかっているのだ。それでも時速五十キロ以上のスピードで、一気にトンネル内を駆け抜けた。精神力を一挙に消耗し、その先にあった道の駅で仮眠を取ることにした。
三十分ほど気を失っていたら、空はもう薄明るい。すぐに出発した。すると、終わったと思っていた峠道がふたたび顔を現した。やはり明るくなるのを待って正解だったな、と思いつつ、またトラックとの駆け引きを再開させた。
泊には、それからほどなくして着いた。地図を確認しながら、すでに廃校となっている山崎小学校への道を急ぐ。すっかり朝である。田んぼの広がる見通しのよい道を、くねくね曲がりながら走っていった。一度行きすぎたが、ついでに山崎神社に参拝した。べつにちっとも有名な神社でもなんでもないが、鳥居にせよ、本殿にせよ、境内にせよ、いずれも感動的なほど美しかった。どこの地方に行っても、このくらいの歴史と霊験を感じさせる荘厳な神社はごろごろしているだろう。そこが日本という国のすごいところだよな、と思う。これほどすばらしいものが、とくに地元の人のほかからは重んじられることがない、そのくらいに「すばらしい神社」などというものはどこにでもありふれているということなのだから。
少し引き返して、小川のほとり、山のふもとに山崎小学校はあった。正確にいえば、その跡があった。木造校舎は最近取り壊されたようで、真新しい町立の公共施設が建っていた。
山崎小学校は戦時中、藤子不二雄A先生が疎開した際に通っていた小学校で、あの名作まんが『少年時代』の舞台になった場所だ。
今回の旅の目的の一つは、『少年時代』と、その原作となった柏原兵三氏の小説『長い道』の舞台を訪ねることだった。この二作は内容的にかなり酷似しているが、もちろん異なる点も多数ある。まず、前者の舞台は行政区としては「朝日町」で、泊駅を最寄りとする。後者はその隣の「入善町(にゅうぜんまち)」、入善駅を最寄りとする。二つの町は十キロ程度しか離れていない。
どうしてそこが食い違うのかというと、A先生の疎開先が朝日町であり、柏原氏の疎開先は入善町だった、という明解な事情がある。疎開当時、二人は同じ小学五年生であり、ほど近い集落において、似通った体験をしていたということだ。この運命的な符合が、A先生をして『少年時代』を描かせしめたと言って問題はないだろう。もちろん、『長い道』が稀な傑作であるということは言うまでもないこととして。
隣り合った町にいた二人の体験は、重なるところも多かろうと思われるが、当然重ならないところもある。よって、『少年時代』には描かれているが『長い道』には描かれていない、という場面も多々ある。そういったシーンはA先生の体験がもとになっているのだろう。
たとえば『少年時代』で、東京から疎開してきた主人公の進一が地元の少年と山に登ってアケビや野イチゴを食べたり、ユリネを小川で洗って食べたりするシーンは、『長い道』にはない。また、畑からスイカを盗んで小川に流す、というのも『長い道』には描かれていない。
山崎小学校の裏手には、『少年時代』で見たあの場面そっくりの山がそびえ立ち、おそらく当時とほとんど表情を変えないままたたずんでいた。また、小川が山上から校舎の脇へと注ぎ込んでいた。ぼくは幼少時代から数え切れないほど読み返してきた『少年時代』の各場面を思い出した。これで今までよりももっと、あの作品をぼくは愛することができるだろう、という確信とともに。
山崎小学校から五キロは離れた泊駅の駅舎も、『少年時代』に登場する。大人になった進一が泊駅に降り立つ、あの冒頭のシーンそのものの風景がまだそこにあった。ぼくは九月十日ぶんの青春18きっぷのスタンプをそこで押してもらい、電車に乗るわけでもないのに構内に入ってみた。東京へ向かう方角を確かめ、進一の乗った列車が走っていく光景を思い浮かべた。それを追いかけるタケシの姿も合わせて。
『長い道』の舞台は、入善町の上原小学校。ここもとうに廃校になっていて、しかもインターネットで調べても住所がわからなかった。訪ねるのは不可能か、と一瞬だけ思ったが、地図に「上原保育所」や「上原公民館」などを確認できたので、その周辺を散策してみることにした。小学校が今は保育所や公民館になっている、ということは十分にありうる。
入善駅よりやや西の、線路と八号線に挟まれたあたりに行ってみると、驚くほどすぐに上原小学校跡は見つかった。神社の向かいが公園になっており、何気なく入ってみたら記念碑があったのだ。さらに柏原兵三氏の文学碑もあった。大江健三郎が文章を寄せている。
『長い道』は、ぼくが言葉を重ねる必要など一つもないくらいに、誰の目にも明らかな名作だ。未読の方は、今すぐに図書館に行って、中公文庫のこの作品を探してみてほしい。四百ページを越える長編だが、退屈を感じる暇はいっさいない。そしてできれば、A先生の『少年時代』も合わせて読んでみてほしい。子供の情操教育にもふさわしい。ぼくも兄たちと一緒によく『少年時代』の場面の真似をして楽しんだものだ。幼かったぼくらにとって、この作品におけるA先生の過剰な描写は「笑ってしまう」ようなものでもあり、半ばネタにするような気分ではあった。しかしそれは根底に流れる重厚で重要なテーマを肌でわかっていたからこその、愛の表出だっただろう。とくに次兄とは未だに、顔を合わせればときおりは『少年時代』の話になる。ぼくら兄弟がつながっていられるのは、「この作品を愛している」という点にもかならず遠因があるはずだ。
上原小学校の跡地を歩いていると、『長い道』のいろいろな場面がまざまざと浮かんできた。
タイトルにもなった「長い道」とは、小学校から主人公・潔(『少年時代』では「進一」)の疎開している家へと続く道、すなわち通学路のことだ。小説によれば家から学校までは三キロほど離れており、その間に踏切がある。線路を越えると行程の三分の二ほどを歩いたことになり、道の先に小学校が見えてくるという。作中では舟原小学校と呼ばれているその学校の学区は、「浜見」「野見」「山見」と三つの地区に分けられていて、潔の家は「浜見」だというから、それが海の近くに位置していることは明らかである。もう一人の主人公である進(『少年時代』では「タケシ」)も浜見の者で、家は漁業も営んでいる。だから、小学校から線路のほうへ歩き、そのまま海のほうまで続いている道を行けば「長い道」を体験することになるはずである。ぼくは自転車を押して歩き出した。
八百メートルほど進むと、確かに線路があったが、踏切ではなく、地下にもぐってトンネルを抜けるようになっていた。しかし道の作りからして、そのトンネルはあとから掘られたものと考えられた。おそらく戦時中は踏切だったのだろう。あるいは昔からトンネルだったが、小説の中では踏切ということにしたのかもしれない。そのまま進んでいくと、一キロほど行ったところに、驚くべきものを発見した。それが何かは言わないでおくが、その道が「長い道」であることを証明し、「浜見」というのがそのあたりを指すことを示すような証拠といえそうなものが、あったのだ。ぼくは一気に興奮した。作中で描かれていた小川もすぐ近くに流れている。
作中では三キロと書かれていたが、実際は二キロ弱ほどであった。「家から浜までは走れば五分とかからない」ともあったので、自転車に乗って海へ向かってみると、なるほど数分とかからずに海岸へ出た。海まででも三キロはないだろう。潔はここで泳いだのだ。ほんの少し東のほうを見ると船着き場があって、ここから進の家の舟は漁に出ていたのかと思われた。
二キロのところを三キロと書いたのは、作劇上の演出でもあろう。しかし小学生の子供にとって二キロというのは果てしなく長い。そしてこの「長い道」は、単純な距離としての「長さ」をあらわすものではない。やはりこの道は、三キロあったのだろう、とぼくは結論した。
ぼくは長い道を小学校に向かって立ち、そびえる日本アルプスを眺めた。
「あまり合わない背広を無理にきると綻びる。喧嘩をしたり、自殺をしたり騒動が起るんだね。」(『吾輩は猫である』)
2011/09/13 Twitter脳の恐怖
掲示板にacurryさんが貼ってくれた記事
記事に対して何かを言うっていうよりは、ここの読者さんに対して書きます。「論争に加わろう」ってんじゃなくて、「これを材料にちょっとなんか言おっかな」くらいに。不毛にならないように。
acurryさんが貼ってくれた記事で紹介されている、二つ目の(なんとか社長日記のやつ)を読んで。
このけんすうさんという人は、僕の姉okadaicと一緒に「カニトピクルス」なるサークルとして『カニトピクルスのTwitter本』という同人誌を作っておりまして、その本が販売された冬コミではわが“背徳”の三魔天による『Twitter脳の恐怖』を委託させていただき、その節は非常にお世話になりました。ちなみにカニトピクルスのTwitter本は、姉の記事以外はほとんど読んでいないのでよくわからないんだけど、たぶん『Twitter脳の恐怖』とは主張が正反対なのだろうと思います。
けんすうさんはたぶん文章が下手です。最近のブログ記事だけを見ても、
「自分を成長させる環境を全力でゲットするためだけをがんばる」
「僕みたいな器用じゃなく、才能がない人はで戦えない人は社会人になったときに弱くなっちゃうんですよ」
「僕は基本的に人間が感じる平均的なダメなところはすべてダメな平均的な人間なので」
「世界最大の実名SNSのマーク・ザッカーバーグさんは」
といった、非文か非文寸前の表現が随所に見られる。
まあ、これは推敲不足なのかなとも思えるんだけど、「意味は通じるし文法的にも大きく間違ってるわけじゃないんだけど、なんだか読みにくい」ようなところもたくさんある。
「というわけで、今後何年も働くことになるという前提では、最初からいい環境をゲットするための準備を、大学生の時からがんばったほうがいいんじゃないかなーと思っています」
ってのがあるんだけど、
「というわけで、何年も働くことになるという前提で就職するのなら、入社してすぐにいい環境をゲットできるように大学生のころから努力しておいたほうがいいんじゃないかなーと思っています」
とか書いたほうがたぶん伝わりやすい。
けんすうさんは、文章表現力が乏しい、もしくはかなり手を抜いている。それは絶対に間違いがないことだと思います。
そういう人が長い文章を書くと、こういう記事になっちゃったりすんだよなー、と、件の記事を読んで思いましたよ。
この記事、非常にわかりにくい。そうなると記事の本質とか真意といったものが見えづらい。そうすると誤解が生まれやすくなる。
読解力もたぶん優れてはいない。
その点に関してはacurryさんが貼ってくれた記事の人が僕が感じたのと似たような内容をすでに書いているので略すです。
あと、けんすうさんのコメント欄にもいろいろ書いてあるです。
そんで本題として、もの凄く過激なことを言いますけれども、この程度の表現力・理解力しかない人間が、大声で自分の意見を下手くそで長ったらしい文章にして発表しているっていう状況が、僕はとても嫌いなのだ。
けんすうさんはコメント欄でもいろいろやり取りしてるけど、国語力が低いから、議論にならないんだよね、たぶん。
僕はべつに、「能力のないやつは意見を言うな」とか言いたいわけではなくて、自分の能力に即した意見の言い方があるんじゃないかね、ということを言いたい。国語力がないなら、もっとシンプルに書けばいいのにな、と思う。「身の程を知る」というのは大事。
もう少し過激に言うと、文章が下手くそな人がネットで意見を言うってこと自体を、僕はあんまり好ましく思わない。ネットって、自分の言いたいことが相手にちゃんと伝わってるかどうかを判断するのが極めて難しいから、「百万人が読んで百万人が真意を掴めない文章」ってのが平気で存在しうるんだ。
たとえば会話だったら、相手がわかってくれているかどうかを逐一確認できる。相手が理解しようと努めて聞いてくれるなら、誤解は最小限に抑えられるだろう。「相手に伝わるように意識して会話をする」ってのは文章の上達にもつながると思うので、文章が苦手な人はまず会話を磨くのもいいんじゃないかしら。ネット上の議論って不毛になりがちだけど、その原因は「意見が相手に伝わらないまま議論が進んでいる」ってことに尽きるんだもん。
まあ……どれだけ文法的・論理的には完璧な文章を書いても、その通りに読んでもらえるわけではない、ってことのほうが大きいと思うんだけどさ。読解力の話。「思いこみ」って話でもある。ぜんぶ国語力なんだけどね、たぶん。
たまたまけんすうさんをやり玉にあげてしまったけど、彼に恨みがあるわけでもなければ、彼が特別に国語力が低いというわけではない。たぶん、ネット上で文章を書く人の中ではむしろ下手ではないほうなんじゃないかな。それだけ平均点が低いということなんだけど。
身の丈にあった意見の言い方ってのが、あるんですよ。黙ってるほど馬鹿げたことはないんで、みんなどんどん何かを言えばいいと思うんだけど、自分をよーく見つめて、自分に合った方法でしたほうが、伝わりやすいよ。伝わらないっていうことが、いかに不幸かっていうことを、もっと考えたほうがいいんじゃないかと思いますう。
2011/09/12 4日の日記の補足
一部地域でちょっとした反響を得た4日の日記ですが、アフタヌーン2004年10月号には稲見独楽先生の四季大賞受賞作『獅子狩り』が掲載されていたことも付記しておかなければ。ひょっとしたら彼は『謎の彼女X』よりもこっちのほうを読むためにこの号を一階に置いていたのではないかな。というのは、稲見独楽先生の処女単行本『弾丸ティアドロップ』が一階の本棚に置かれていたから。(もちろんこれは僕も買った。)
『獅子狩り』は投稿作としては出色の作品で、これに目をつけていたとしたら、やっぱりさすがだなーと思う。
死んだから言うんじゃないけど僕は西原のこと好きだったし、今も含めて嫌いだった時期なんかないんだよね。何年かしたらまた仲良く酒でも飲んでたんじゃないかなーって思うのが、本当に惜しいところ。
たぶん、おそらく、彼のほうも僕を嫌いだってんじゃなかったと思う。だけど、好き嫌いってのと、仲良くするしないってのは、違うんだな。特に、ずっと仲良くし続けるってのはやっぱ難しくって、蜜月と言えるような期間を過ぎて疎遠になったり、つかず離れずをくり返したり、いったん絶縁して、いつの間にかまたつき合うようになっていったり、いろいろある。んで、それは、好きとか嫌いとかってのとは全然関係なく起こるんだよね。ただし、お互い好き合っていれば、また重なることはあるだろうってのが、僕の信じるところで、だからこそ惜しいってのがある。僕が西原と会わなかったのって、たったの数年間でしかないんだから。電話は何度かしたし、サイトも見てた。
「生きていれば」ってのは、すごく大事なんだ。リブ。リブだよ!
2011/09/11 すいませんでした
↓の日記がアップされてませんでしたね……どうもすみません。
ちょっと旅に出ていました。
見捨てないでください。これからもどうぞよろしくお願いします。
帰ってきて、人から貸してもらった『正義の禄号』(龍幸伸、月マガ連載)という漫画を読んだ。
「涙腺崩壊漫画」とか言ってたが、こんなもんで涙腺崩壊とは笑止。が、いい作品なのは間違いない。二巻で終わりなのだが、ちゃんとやることやっていて、まるっきり王道、テンプレ規格外のシーンが一個もない(そこが二巻で終わる理由な気もするが)。
余談だけど主人公の正太と禄郎(ロボット的なもので、正太と合体して戦う)には、『ゲンジ通信あげだま』のあげだまとワープ郎を思い出させられた。けっこう似てるので、もしかしたら意識してるのかも。
何はともあれ、非常に面白くって、よくできた漫画。こういう作品が続かないというのは、なんとも悲しいことよ。次回作が出たら絶対に読みます。
(追記)「涙腺崩壊漫画」ではなくて「涙腺刺激漫画」とのことです。それなら完全に納得。彼のような冷血人間の涙腺がまさか崩壊するわけないですよね! すみませんでした。
2011/09/09-10 長い道
泊、入善、高岡、氷見
それから福井で、日本縦断マラソン中の先輩を激励し
んで名古屋でも行ってこようかな。
Fミュージアムがそれなりに嫌いなので、原理主義者の僕はあんなところには行かず(実はまだ行ってないんですよ)、富山に出かけることにします。
2011/09/08 理解
英語を日本語に変換してから理解することと
英語を英語としてそのまま理解することとの間には
当然隔たりがあって
同様に人間を理解しようという時にも
相手を「自分の言葉に変換して」理解することと
相手を「相手そのものとして、そのまま」理解することとの間には
やはり隔たりがあるのだろう。
人間は異質なものを嫌う。
だから異質なものに出会うと、それをどうにか「自分と同質なもの」として理解できないものかと苦しむ。
「あの人はああいう人だ」の類はそれだ。
異質であるというモヤモヤを、モヤモヤのまま処理することが苦しいから、一言でまとめる。「あの人はああいう人なんだ」
本当は、異質である他人を、異質である自分の言葉によって理解したり、分析したりなどということは、できるはずがない。
要するに、ベタだが、
人間は自分の思うままに世界を料理し、消化している。
それをできるだけ丁寧にやろう、というのが僕だったわけだが
異質なものを異質なものとして理解することはできないものだろうか?
混沌としたものを、混沌としたまま理解することは、不可能か?
それはすでに「理解」とは言えないものなのかもしれないが
詩を分析することは、愚かとまでは言わないが
それは実は詩をほんの断片的にのみ理解するための、途方もない遠回りにすぎない。
詩のような人間がいたとして。
そのような人間を分析することは、
詩を分析することと同様に、遠い。
そのことを僕は知っていたから、詩のような人間に対しては、ほとんど何も考えずに接してきたように思う。あるいは、試験的に「散文たれ」と呪文をかけてみたこともあったが、あまり成功した例はない。散文は散文、詩は詩ということなのかもしれない。
ただし、詩が散文に化けたり、またその逆ということになれば、どれだけ楽しい世界が広がっていくことだろう、とは未だ想い続けている。
が
詩を詩として読み、音を音として聴き、目に映るものをありのまま受けとめる。人を人として受けとめる。
すこし奇妙で、病的、呪術的かもしれない。神秘的かもしれないが
人を人として感じる。ということが、ありうるのかもしれない。
2011/09/07 戦いはいつも孤独なもの
正しいと思うことを叫んでもそれが派閥しか作らないのだったら意味がない、と見るか? 愛する人がその派閥に入ってくれないのなら仕方がない、と見るのか?
そうやって考えることが馬鹿馬鹿しいから、僕らは一人一人が水の惑星を目指して育んでいくんだろう、自然のまま美しく。そうするべきなのだろう。
僕らは太陽の周りをぐるぐると回るある惑星なのであって、そういった宇宙の法則に基づいて、繋がっている。はずだ。その調和する点を維持し続けるために、毎日を働く。繁栄する星も、荒廃する星もある。戦争のない星もあるかもしれない。水のない星、大気のない星……なんだってある。どんな星だってあるが、大切なのは調和なんだ。
戦いはいつも孤独なもの。
双子星が踊る、それが美しい調和なら。
2011/09/06 球体論ふたたび
人間は球体であって
ベクトルではない
僕は地球のようでありたい
2011/09/05 訣別
なんとなく欠番
2011/09/04 第169話 比翼連理
二人の男がいた。
二人は同じ大学に入り、同じクラスになって、偶然同じサークルの門を叩くが一ヶ月でともに辞め、同じ授業を受け、同じラーメンを食い、同じ友達と遊び、同じ漫画について語り合った。そして同じく互いを軽蔑し合った。
もちろん二人は親友だった。
片方は煙草を吸い、もう片方は吸わなかった。
片方はやがて精神病にかかり、大量の薬を飲むようになった。
二人とも酒をよく飲んだが、片方は酒で薬を流し込んでいた。
二人とも女をよく愛したが、片方は片想いをして、よく酔って叫んだ。
二人とも自転車と将棋が好きだった。
二人で自転車に乗って旅行をしたことがあったが、二人で将棋を指すことはなかった。
片方は大学を五年かけて卒業したが、片方は四年で出た。
それでも奇しくも、二人は同じ年に教職に就いた。
同じ漫画を好み、同じ仕事に就いた二人は、互いの違うところが許せなかった。それで二人は仲違いをして、晩年は会うことがほとんどなかった。
そう、精神病を患った方の男は、二十六歳で死んだ。
彼は高校生の頃から小説を書いていて、あと少しで商業作家になれるかもしれない、というところで、死んだ。デビュー作になるはずだった作品は、第十三稿まで進められていたが、未完成のままだった。
だから彼の作品は、誰かに認められるということがほとんどなかった。
彼はジェームス・ディーンにすら、なることができなかった。
遺稿のタイトルは『ヒヨクレンリ』という。
会うことのなかった数年間のうちに、もう一人の男も小説を書くようになった。そしてそれを同人誌として出版していた。彼の作品はごく少数の人たちにではあるが、とても愛された。
死んだ男は、生きている男の作品を読むことがなかった。
生きている男も、死んだ男の作品を面白いと思ったことがなかった。
二人の人生は、DNAの螺旋のように、つかず離れずをくり返していたようだった。おそらく、再びどこかで繋がるのだろうと、少なくとも生きている方の男は漠然と思っていた。しかし、死別した。
ある日、生きている方の男は、死んだ男の形見分けのため、彼の住んでいた家を訪れた。そして初めて彼の本棚を見た。
生きている方の男は、死んだ男の本棚を見て、目を見張った。
2011年の2月に死んだその男は、ある月刊漫画雑誌を、2002年から2011年の3月号まで、一冊も捨てずに本棚に保管していたのだった。
二人は出会って間もなくから、その雑誌についてよく語り合っていた。
そして仲違いをした後も、お互いに一号も欠かすことなく、その雑誌を読み続けていたのだった。
本棚の隅に置かれた最新号の、その何冊か隣に、なぜか2004年の10月号が置かれていた。バックナンバーのほとんどは二階に保管されていたのだが、なぜかその号だけが一階に置かれていたのだった。
生きている男は、背表紙を見ただけでその理由がわかった。それは、『謎の彼女X』という作品の、読み切りが掲載された号だった。
「植芝理一の短編がアフタヌーンに載っていた。本当に面白かったよ」
と、死んだ男が七年も前に言っていたことを、生きている男は思い出していた。二人とも、植芝理一という作家の、『ディスコミュニケーション』という作品が大好きだった。
「『ディスコミ』なんか読んでるからお前はそんななんだよ」
と、死んだ男は生きている男によく言っていた。
「お前もな」
と、生きている男はその都度言い返していた。
その植芝理一の『謎の彼女X』が連載になった2005年5月号から、生きている男もアフタヌーンを欠かさず買うようになり、その時から今に至るまで、一冊も捨てずに自宅に保管し続けている。
死んだ男も、まったく同じように、アフタヌーンを買い続けていたのだ。
そして、また驚いたことには、何年も会っていないのに、生きている男が「面白い」と思って買っている作品の多くが、死んだ男の蔵書の中に発見できた。アフタヌーンの作品は言うまでもない。『少女ファイト』があった。『鈴木先生』があった。『キャノン先生トばしすぎ!』があった。
漫画というものを媒介に、二人の人生は、ほとんど離れることなく繋がり続けていたのだった。
しかし、これからどれだけ面白い漫画が登場しても、死んだ男がそれを読むことはない。本棚に整然と並んでいる『ディスコミュニケーション』を見つけて、生きている男はしばらくその場にたたずんだ。
それから改めて本棚を眺め、「欠けている」部分にいくつも気づいた。
あの作品を読め、この作品は面白いぞ、と、言いたい気分に駆られた。
それが伝わることは二度とない。
その感想を聞くこともない。
「やっぱりお前は、どうしようもないクズなやつだけど、漫画に関してのセンスだけはすっげえいいよな」
と、お互いに言い合うことも、もうない。
そうか、あいつは『鈴木先生』の最終巻が出る前に死んだのか。
自分の最新の本棚と比較して、生きている男は一粒だけ涙をこぼした。
彼のために泣いたのは、生涯でこの日が初めてだった。
2011/09/03 右から左へ受け流す
「自分は自由に育てられてきたので、子供も自由に育てたい」
「自分はお金をかけて育てられたので、子供にもお金をかけてあげたい」
思考停止。「そういう育て方が子供にとって良いほうへ働くのか」という検討が一切ない。あんたはそれで無事に(と、自分では思ってるんだろうね!)育ってきたのかもしれないが、子供がそうなるとは限らない。そうなるのが良いのだとは限らない。
「自分がそうされて嬉しかったから、他人にもそれをしてあげる」
というのは押しつけでしかない。独善的だ。
多くの親はそれで失敗しているのだと思う。
「自分は○○してもらえなかったから、子供には○○してあげたい」というのも同じだ。思考停止。すでに終わってる。
自分のことはどうでもいいんだ、自己中が。子供のことを考えろ。
冷静に。
それと、「自由に育てる」とか「お金をかけて育てる」という言葉には、具体性がまったくない。具体性がないから、結局「自分が親からされたことをそのまま子供にする」ということにしかならない。それでいいのか? という検討をやりすぎるくらいにしないと、いや、したとしても、うまくいくとは限らない。
三割の人事を尽くして、七割の天命を待とう。
ドラえもん誕生日おめでとう、今年も僕におめでとうメールが来ました。
2011/09/02 尊敬する女の人
ナイナイの岡村さんは前田忠明さんのことを「東京のお父さん」と呼び、東海林のり子さんのことを「東京のお母さん」と呼んでいました、以前ラジオで。
僕にも「東京のお兄さん」と呼んでいる人がいるのですが、その方の奥さんが脱帽するほど素敵な方で、僕が心から尊敬している女の人って、身近なところだと今は彼女だけかもしれないなあと思う。ほかに尊敬する女の人っていうと、高校の演劇部の先輩とか、何人かの高校時代の先生のことを思うんだけど、ずっと連絡も取ってないからね。
姉のことはとても愛しているけれども尊敬にはほど遠い。(って言うのも半分はネタだったりするんだけど。)
また、ときおり「女性は無条件で尊敬する」なんてことも言うんだけど、実は嘘なんだよね。嘘っていうか、もっと詳しく言うと「女性は無条件で尊敬しうる」なんだよね。つたわんないかもしんないけど、そういうニュアンスがあるんです。
尊敬する女の人。
以前、長いこと仲の良い女の子から「あなたは女の子を尊敬したことがないんじゃないの?」というような意味のことを言われたけど、そうではなくて、僕がそう簡単に身近な人を尊敬しないというだけだと思う。男とか女とかじゃなくて。
自分の母親のことは尊敬と言うと妙だけど、本当に素敵だと思う。で、世の中の「お母さん」たちの何割かは、同様に素敵なのかもしれない。だけど実の息子でもなけりゃ、その素敵さってのを知ること、感じることができないから、結局尊敬ってところまで行かないんだよね。
ところが、例の「東京のお兄さん」の奥さんは、ほとんど唯一、僕が実の母以外で身近に感じている「お母さん」で、その声も直接聞こえてくる。世の中の「お母さん」の中には、このくらい素敵な人があふれているのだろうなあ、と妄想している。お母さんとかおばさんの力ってすごいのだ。
あるいは、先日京都に行った時にとてもお世話になった方の奥さんとも、少しだけお話をしたけど、なんて素敵な方なんだろうと思った。その時に抱いた気持ちは尊敬という言葉にけっこう近い。
だから、なんてことはなくて、僕は、というか若い男の人っていうのは、「尊敬できるような女の人」と出会う機会が少ないっていうだけのことなのかもしれない。若者である僕の生活スタイルだとどうしても、「お母さん」とか「奥さん」という存在と知り合うようなことは多くない。付き合うのはどうしても若い(年齢という意味ではなくて)人ばかりになってしまう。
そこにあって、件の奥さんの声が直接聞こえてきたり、子育ての場面を間近に観ることができたりするのは、僕にとってとても新鮮で、大事なことだって思う。
僕が「尊敬」なんていう重苦しい言葉を使いたくなるような相手っていうのは、やっぱり言ってることやってることに対して常に「正しい!」と唸ってしまうような人なんだよね。有名な人でいえば岡田淳さんとかね。
でも、身近には「すごい!」とか「好き!」はいても「正しい!」はあんまりないんだ、僕がとても偏狂なのかもしれないけど。
その中でいて「東京のお兄さん」夫妻っていうのは。子供が健やかに育ってくれるといいなあ。
ただし、「女性は無条件で尊敬しうる」ってことも実はちゃんと心から思っているわけで、どんな人でも数年後には僕はその人のことを尊敬しているのかもしれない、ってけっこう本気で思っている。あ、いやどんな人でもってことでもないんだけど。でも僕にとって女の人ってそういう存在です。
こういうふうに書くと、「つまり良妻賢母がいいってこと? 考え方が古いよ」みたいな類のことを思われるかもしれないけど、そういう言い方で表せるようなことばかりを言っているわけではないし、「古い」ではなくて「普遍的」であることを信じるです。
2011/09/01 干支の算出方法2
2011年1月8日の日記で、「干支の算出方法」というのを書いた。補足をここに記しておく。
「干支の算出」が役立つのは主に年号と結びつける時であるので、年号から干支を割り出す方法を考えてみた。
60ある干支のうち始めは「甲子(かっし)」である。
十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の、甲と子を組み合わせたものだ。
西暦で最初の甲子は、4年。(この頃にはまだ干支はないが。)
最新の甲子は1984年で、次は2044年である。
十干は十種類しかないので、甲がつけば必ず一の位が4になる。
乙がつけば5、丙がつけば6になる。
1辛 2壬 3癸 4甲 5乙 6丙 7丁 8戊 9己 0庚
(しんじんきこうおつへいていぼきこう)
と覚えてもいいかもしれない。
子は、西暦4年から数えると次のようになる。
4 16 28 40 52 64 76 88 100
西暦100年が子にあたり、すなわち
100、400、700、1000、1300、1600、1900が子(庚子)である。
これを覚えておけば、たとえば1912年は、子であって、かつ末尾が「2」なので壬、すなわち壬子。
とりあえず、このくらいが限界か。
あとは、偶数年の十二支は子寅辰午申戌に限られ、奇数年は丑卯巳未酉亥というのを知っておく。
そして、10年ごとに見ていくと、偶数年の十二支は子→戌→申→午→辰→寅→子の順で変わっていく。つまり、1900年が子だとしたら1910年は戌、1920年は申。ちなみに末尾が0なので十干は庚。当たり前だが60年で一回りする。
奇数年の場合は丑→亥→酉→未→巳→卯→丑。
なので1900年、1912年が子だとすると1922年は戌。1932年は申。
「ね、いぬ、さる、うま、たつ、とら」「うし、い、とり、ひつじ、み、う」を覚えると便利といえば便利かしれない。
演習問題:次の年の干支を答えよ。
1 894年
2 1500年
3 1953年
4 2112年
答え:
1 1000年が子→880年も子→892年が子→2年後だから寅、4なので甲→甲寅
2 1600年が子→1480年も子→20年後だから子戌申で申、0なので庚→庚申
3 1900年が子→1948年も子→5年後だから巳、3なので癸→癸巳
4 2200年が子→2080年が子→2092年が子→20年後だから子戌申で申、2なので壬→壬申
一応、逆のやり方についても考えよう。干支から年号を割り出したい。
1辛 2壬 3癸 4甲 5乙 6丙 7丁 8戊 9己 0庚
これを覚えれば、一の位はすぐにわかる。
あとは、100年から300年ごとに子がやってくることを知っておけばよし。
たとえば、「17世紀で庚申にあたるのは何年か」を知りたいとき。
まず、一の位は0になるのがわかる。
1600年が子だから、申は1608年から12年ごとにやってくる。
その中で、一の位が0になるのは、1620年と、その60年後の1680年である。
戊辰戦争の年号がわからない時。だいたい19世紀後半くらいに起こったということを知っていれば、
・戊なので一の位は8
・1900年が子→1780年も子→1804年が子、1808年が辰
すなわち、一の位が8になるのは1808年と1868年のいずれか。19世紀後半だとすれば1868年が正解。と。
四則演算が苦手な人は今からでも遅くないので算数をやりましょう。
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