少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2011/08/31 一休

 母上様、お元気ですか。昨夜杉の梢に明るく光る星一つ見つけました。星は見つめます、母上のようにとても優しく。私は星に話します。
「くじけませんよ。男の子です。寂しくなったら、話しに来ますね。いつか、たぶん」
 それではまた、お便りします。母上様。一休

2011/08/30 人称

 うなぎおいしかった。
 たらふく酒も飲んだ。
 なんか、三人称に慣れてくるとそっちのほうが楽になる。
 ジャッキーはうなぎを食べた。たらふく酒も飲んだ。
 さて三人称というのは不思議で、原則として語り手に人格がないんで、筆者(作者)の主張や、話の核心というものがどこにあるのかわかりにくい。すなわち、僕の本心がどこにあるのかが明瞭でない。昨日の「第168話」なんてまさにそうだろう。僕は何が言いたいんだ? 「あなたにさわりたい」という間接的な、誰かへのメッセージなのかもしれないし、「あなたに対する感情がどういうものなのか自分でわからない」という告白なのかもしれないし、認識ということに対する一般的な意見書なのかもしれないし、「友達として付き合っていく中でお互いに探っていく」というところがメインなのかもしれないし。よくわからない。
 実は、自分でもよくわからない。
 どうも僕にとって小説(三人称の文章)というのは詩のようなものらしい。ほとんど自動筆記のように、何も考えずに書き始めて、いつのまにか書き終わっている。テーマやメッセージなんてものは、考えているような考えていないような、それすらよくわからない。書き始めている時は考えていても、いつの間にか忘れていたり、書きながら一瞬だけそういったものがイメージできたり。
 そういうのが楽しいからたびたび書いていこうかなと思う。
 一人称も、二人称も、それぞれ違って、みんな楽しい。

2011/08/29 第168話 触れる

「○○さん、僕はあなたにさわりたい」
 日本橋ヨヲコ先生の『CORE』という短編まんがを読んで影響されたジャッキーは友達の○○さんという女性にそう言った。
「それは、どのような意味で?」
 きょとんとしつつ、○○さんは返した。
「わからないけど、いろいろさわりたい」
「おっぱいとか?」
「それはべつにいいや」
「すると、おしりとか?」
「それもいいです」
「ってことは……ふともも? 二の腕?」
「そのへんも特には」
「えっ」
 ○○さんは、てっきりおっぱいやおっぱい類似箇所のことを言っているのかと思ったため、意外そうな顔をした。
「じゃあ、どこをさわりたいの」
「べつにどこってこともないです」
「はあ……まあ、要するに私と付き合いたいってこと?」
「違います」
「じゃあ、えっちなことがしたいの?」
「しようと言われれば辞さないけど、そういうわけでもなくて」
「わけがわからないよ」
「さわりたいって言うからいけないのかな。えーと、ふれたい」
「どう違うの?」
「それも違うのかな。えーと、手のひらであなたの体のどこかにふれたいということではなく、なんと言えばいいのか、どこかでどこかにふれたい」
「どこかで、どこかに……はあはあ」
「もうちょっと言うと、ふれてもいいような状況にいたい」
「んー」
 ○○さんは、ちょっと考えた。
「結局、付き合いたいってことなんじゃないの?」
「いえいえ全然」
「全然!」
「あ、いや」
「いいけど。付き合うっていうんじゃないなら、さわらせないわよ」
「そうですよね」
「普通、そうでしょ」
「普通そうだから、お願いというか、確認してみたんですよ」
「付き合ってくれって言われたら、考えるけど」
「○○さん、僕のこと好きなんですか?」
「そりゃ好きよ」
「僕も好きです」
「ありがとう。でも付き合いたいわけじゃないんでしょ?」
「そうですね」
「えっちなことはしたい?」
「辞さないです」
「したいってわけじゃないのね」
「はい」
「あたしもそうね。辞さないけど」
「辞さないですね」
「辞さないね」
「辞さないのに、付き合わないと体をふれあわせることができないというのは、妙だなと思って」
「うーん」
「で、だから、いっそやっちゃおうってことになりがちじゃないですか」
「あー。確かに」
「いっそやっちゃおう、はもっと妙なんですよ」
「屈折してる」
「そうそう。いっそやっちゃえば、開き直って、行くところまで行けば、わかりやすい関係になるから。でもそれ妙で」
「うん、辞さないってのは、イヤじゃないってだけのことで、したらしたでいろいろ、なんかあるもんね。よくも悪くも」
「それで『辞さない』なんていう、口ごもった言い方になるんですよね」
「そうなんだよね。実際、するかっつったら、やんない」
「かといって、そこまで行かずに、ただ体をさわったら、セクハラということになったり、あるいは、お互いに妙な意識を持ってしまったり。認識というか」
「認識が違ったら大変だもんね」
「もし僕が恋愛感情を持たずに○○さんにふれまくってて、だけど実は○○さんが僕に恋愛感情を持ってるってことになったら、いろいろ大変だし」
「反対に、あたしがジャッキーのこと嫌いになるとか、実は嫌いだとか、セクハラしてくるような子だとは思わなかったとか」
「でも、そういうのって本当は、友達として付き合っていく中でお互いに探っていくというか、わかっていくものですよね。ゆっくり」
「うん。どうして急に、そんなに焦りだしたの?」
「なんでかなあ」
「それはやっぱり、下心じゃないけど、恋愛感情か、あるいは明確な性欲が関係しているんじゃないの?」
「そうかもしれなくて、それがちょっと不安なんですよね。だからこう、詳しく話してみているってのもあって」
「ゆっくりやろうよ」
「そう……ですね」
「とりあえず、電車でも乗ってみる?」
「電車?」
「長いこと乗んの。山手線とか」
「ああ!」

2011/08/28 第167話 藤子・F・不二雄ミュージアムへ

 2011年9月3日、川崎市にオープンする「藤子・F・不二雄ミュージアム」。その先行内覧会のチケットを手に入れたジャッキーは、悩んだあげく、ドラえもん好きの女の子を一人誘って行ってきた。
 女の子は、飛び回るようにはしゃいでいた。しかしジャッキーの面持ちは、終始陰鬱なものだった。
「キャー! 見てみてジャッキー!」
「どう……したの……」
「案内の表示が全部藤子キャラだよ! 凝ってるー」
「ん……そうだね……」
 ジャッキーは気のない返事を返した。
「楽しくなさそうだね?」
「んー……まあ……よくできてるね」
「うん。さっき行ったトイレもね、壁にいろいろ貼ってあったりね、手を抜いてない感じがして、いい感じ。あー、いいな。あっちこっちにドラえもんとか、コロ助とかパーマンとか、いっぱいいてさ。幸せー。こんな、藤子キャラに囲まれた空間で暮らしたいなー」
「あはは……。そうだね」
「つまんないの?」
「んー……いや……べつに」
「いいよお。遠慮しないで。率直な感想聞かせてよ。あたしよりはジャッキーのほうがずっと藤子不二雄詳しいから、なんかあたしの気づかないような、ダメなところがあるんでしょ?」
「え……と……」
「いまどんな気分?」
「いきぐるしい」
「どうして?」
「なんかね、イオンにいるみたい」
「イオン?」
「あのほら、郊外にある」
「ショッピングモールみたいな?」
「うん」
「全然違うじゃん」
「違うよ」
「うん」
「でも、田舎のおじいちゃんちと、イオンと、どっちが近いかって言ったら、イオンのほうが近いよ」
「そりゃそうだろうけど」
「のび太の家は、どっちかっていうと田舎のおじいちゃんちに近いし、F先生のお宅だって、田舎のおじいちゃんちに近いと思うよ」
「イオンよりはね」
「そう、イオンよりは」
「求めすぎだよお」
「わかってる」
「ここはミュージアム、博物館なんだから、のび太の家とかF先生のお宅とかと比べるのは変だよ」
「比べてるわけじゃ……ないんだけど」
「でも、言いたいことわかるよ。無機質だよね」
「うん」
「まあ、これが世間のF先生に対するイメージってことでしょ」
「そうなんだよ。だから嫌なんだ」
「F先生がクリーンなイメージで通ってるのが嫌だってこと?」
「そういうことじゃないよ。F先生はクリーンだよ。誰よりも」
「そうだよね。あ、見て! 手塚先生からのハガキだよ! 『まんが道』に出てくるやつだ! わー、初めて見たあ! まんがのまんまだね」
「うん、何度見ても、グッとくるね。これは」
「見たことあったんだ?」
「高校生の時に二回見た。川崎と七戸のF展に行ったから」
「名古屋から行ったんだあ。ほかのも?」
「うん、だいたいその時に見たかな」
「えー! そうなんだ。あたしみんな初めて見るよ。本とかで見たことあるのもあるけど、実物はぜんぶ初めて」
「ふふ。僕も当時、そんなふうに目キラキラさせてたと思うよ」
「今もキラキラしてる」
「あ、そう?」
「うん。こういうのは、何回見たって色あせることないよね」
「そうだね、見たことないのももちろんあるし――わっ。こ、この本棚はすごい。これは来てよかった」
「だねー!」
「うん、うん、まったく!」

 まったく、よくできてる。ジャッキーは何度となく思った。素敵だなと思うところもたくさんあった。しかし、なにか、なぜだか、釈然としない気持ちがある。どうも好きになれない。それは実は、二度の「F展」にも感じていたかも知れない気持ちだった。吉岡海底駅に作られたドラえもんの街にも、津軽海峡を走るドラえもん列車にも、等しく感じていた、ほのかな違和感。
「でもさ、ドラえもんとか、F先生の作品って、本当にいろんな人から、たっくさん、愛されてるんだって思わない?」
 彼女に言われて、ジャッキーはハッとした。
 そうか。
 ここには愛が満ちあふれている。
 だから居心地はよい。
 でも、ここにあるのは、「F先生への」愛なんだ。
 違う。僕はF先生を愛したいんじゃない。
 F先生の作品を愛したいのでもない。
 確かに、僕はF先生も、F先生の作品も、愛してる。誰よりも。何よりも。
 それはそれとして、あって。
 でも愛っていうのは実は、そういうことじゃないと思う。
 片想い、信仰、思いこみ。ああ、なんだそういうことか。
「わかった。僕は愛し合いたいんだ」
「きゅ、きゅうに何を言いだすのよ」
 彼女は顔を赤らめて、目を伏せた。
「あ、ごめん。エロい意味じゃなくて」
「そんな意味にはとってません!」
 ぷくっとふくれて、ジャッキーのほうに目を向けた彼女は、彼の表情にさっきまでとはまるで違うものを感じとった。
「――どうしたの? 何がわかった?」
「愛っていうのは一方的なものじゃない」
「うん。お互いに愛し合ってこそ愛だ」
 うんうんうん、と頷く彼女。
「双方向的なもの、ってのもちょっと違う」
「あ、前に言ってたあれ? 愛とは局面だ、みたいな」
「そう。まさに。さすが」
「ちゃんと覚えてるんだよ」
「ありがとう。そう、愛って場面とか、局面とか、その、シーンみたいなもんだと僕は前に言ってたんだよね。愛し合うってのは、実は行為じゃなくって、ある種のシーンにつけられた名前なんだ」
「相変わらずよくわかんないけど、なんとなくわかるような」
「ここには愛というシーンがない。作る側も、訪れる側も、なにか一方的な気持ちでもって、この場を作っている。だから僕は好きじゃないんだ」
「人工的だから?」
「わかんない。それもあるかも。ってかなんか、人工的ってことと人間的ってことは、似たような字面であって、意味は正反対なのかもね」
「人間は人工物じゃないもんね」
「キャラクターってのは、人間じゃないんだな、ってことを、強く思うよ。この博物館を見ていると」
「そっか。ドラえもんがキャラクターなんだね、ここでは」
「それだ」
 二人は屋上に出た。「原っぱ」と名付けられたそこには、おなじみのあの空き地が再現されてあって、例の土管が積まれていた。二人は苦笑いしつつ、ぼんやりと眺めていた。
「あの空き地って、こんなふうだったんだね」
「うん、あたし、土の上に雑草がやたら生えてるようなとこ、想像してた」
「僕も」
「ま、いろいろと事情があるんでしょ」
「子供の遊び場に、大人の事情か」
「そのうち工事の手でも伸びてくるのかな」
「それはないだろうね、大人の事情で」
「はは」

2011/08/27 第166話 エロ本とピンク少年

 未明、あるバーで、“エロ本健全委員会”と“エロ本不健全協会”との白熱トークバトルが行われていた。
「思春期の男の子が、エロ本を読むことは健全である。読まないほうが不健全である」と主張するのは、エロ本健全委員会の代表を務める高校一年生の少年だ。対して、「エロ本は存在自体が不健全であり、社会に悪影響を与える」と、エロ本不健全協会の精鋭たちが叫ぶ。
 協会の大人たちは、彼を「ピンク少年」と罵倒し、その不健全さについて強く批判した。そのままではろくな大人にならない、云々。
 ピンク少年は、大人たちの勢いにたじろぎながらも、エロ本を健全であるとする主張を曲げようとはしなかった。
「なんてピンクな子だ」
「身体の芯までピンクに染まっている。もうどうしようもない」
「かわいそうに」
「こういう子が将来セクキャバに行くのね」
 協会側は、少年に対して同情と悲嘆の眼差しを向けていた。
「どうして、どうしてエロ本を読んではいけないのですか?」
 少年の声は虚しく店内に響き渡った。しばしの沈黙。
「……あのね、エロ本というのは売春と同じことなのよ」
「そうだ、嘘つきは泥棒の始まりというのと同じだ」
「エロ本は売春の始まりだ」
「売春は法律で禁止されている」
 少年には、大人たちの言っていることが理解できなかった。
「なぜですか! エロ本と売春は違います!」
「違わないのよ」
 協会の女性が、彼に平たく冷ややかな視線を投げかけた。嘆息とともに。
 この“エロ本売春説”に関する協会側の主張はこうだ。エロ本というのは「女性の性を金で買う」という点で売春と同じことである。若い頃から「女を金で買う」ということに慣れてしまうのは不健全でしかない。普通は、男性が女性の性に触れるためには、「親密な人間関係を構築する」ということが必要となり、そのために男性は「いい男になる」とか「女性とよい関係を築く」という努力をしなければならない。女性の性が金によって手に入るということになれば、男たちは「いい男になる」や「女性とよい関係を築く」という努力よりも、「お金を稼ぐ」という努力を優先させるようになる。そのような社会は不健全である。
「つまり、めぐりめぐって、エロ本の存在は不健全な社会を作ることになるんだ。結果的にそうなるんだ」
「で、でも! 性欲を満たすことは必要じゃないですか。性的欲求を我慢しろと言うんですか?」
「我々は何も、自慰行為までを否定しているわけではない。それをするのにエロ本を用いるということが、不健全だと言っているのだ」
「いや、だって、どうせなら気持ちいいほうがいいじゃないですか」
 少年の発言に、場は凍りついた。「Oh...」という嘆きと絶望の声が口々から漏れ聞こえてきた。
「ピンクにもほどがある」
「もう取り返しがつかない。然るべき施設に収容すべきだ」
「なぜです、ご飯だって、どうせならおいしいほうがいいでしょう」
「では君は、少しでもおいしいご飯を食べるためなら不健全なことをしてもいいと言うんだね」
「人を殺してでも、ほしいものを奪い取る。そういう発想なんだね」
「そんなことは言っていません」
「同じことだよ。だいたい、どうせなら気持ちいいほうがとか、どうせなら美味しいほうがというのは、“足るを知る”という精神を知らない人間の言うことだね。心が貧しい」
「そうだ。このままでは、際限のない欲望のために、どんな不健全なことにでも手を染める、そういう人間になってしまうぞ」
「いいかい、自慰行為にはね、プラスの自慰行為と、マイナスの自慰行為があると考えてくれ」
「プラスとマイナス?」
「そうだ。快楽を得るために行うのがプラスの自慰行為であり、欲求を鎮めるために行うのがマイナスの自慰行為だ。プラスの自慰行為を求める人間は、際限のない欲望を肥大させてしまい、犯罪やエロ本閲覧などの不健全な行為に身を落としてしまいがちだ。マイナスの自慰行為は、湧き出てくる性欲を抑え、自らをなだめ落ちつかせるために行うものだ。前者はエロ本のようなものを必要としがちだが、後者には不要である。というか、エロ本を用いた時点で、それはプラスの自慰行為ということになる。プラスの自慰行為は不健全であり、マイナスの自慰行為は不健全とまでは言えない」
「つまりだ、立ってしまったものを鎮めるのであれば、エロ本は不要のはずなんだ。立っていないものをわざわざ立たせるためにエロ本を用いるとしたら、それは単純に快楽を目的とした自慰行為でしかない。勝手に立ってしまったもの、あるいは、むらむらときて、ちょっと触っただけで立ってしまうような状態のものを鎮めるのに、エロ本は本来不要なはずである。むらむらしていないところからむらむらを作り出すことがエロ本の本質的な役割だ。すなわちエロ本とは快楽のためのものであり、欲求を鎮めるためのものではない」
「だけど、だけど……僕は射精がしたいです!」
 少年は、泣きそうになりながら叫んだ。
「しても、いいんだよ」
 大人たちは優しい声で彼をさとす。
「そうだよ。射精をしてもいいんだよ」
「そのためにエロ本を用いるのは、不健全だというだけなのよ」
「エロ本のような強い刺激に慣れすぎると、女の子の体の素晴らしさや、有り難みというものがわからなくなって、『終わったら帰れよ』とか言い放つような冷たい男になってしまうよ。エロ本は、女の子の体を“モノ化”させる作用を持つんだ。女の子はモノじゃない。もっと大切にすべきものだ」
「だけど、だけど、だけど、だけど……!」
 顔をくしゃくしゃにさせながら、少年は声を絞り出す。
「僕は、エロ本を使って、自慰行為がしたいんです!」
「なぜなんだい」
「気持ちいいからです!」
 協会の大人たちは、絶句した。少年の泣きじゃくる声だけが残った。
「手遅れなんだね」
「ピンク少年、君はもう……」
 ワーッ! と声をあげて、協会の女性がせきを切ったように泣きだした。
 お葬式のような空気。
 笑顔を浮かべる者はだれもいない。
「エロ本が、エロ本が、読みたいよう! 読みたいよう!」
 少年の声は風に消されても、ラララララララ、間違っちゃいない。
 そしてナイフを持って、立ってた。
 そしてナイフを持って、立ってた。
 そしてナイフを持って、立ってた。
 そして……

2011/08/24 第165話 粒でできた絵のように

「ジャッキー!」
 突然声をかけられて、ジャッキーは当惑した。
「どなたですか?」
「あたし、覚えてない?」
 そう言われると、「覚えてない」とは言いづらい。
「ええっと……なんとなく、その……」
「えへへ」
 女の子は笑ってきびすを返すと、そのまま走り去っていった。
 かげろうの先へ。
 陽射しにジャッキーは、くらりと軽いめまいを覚えた。
 晴れた日の、仕事帰りの、ほんの一瞬のできごとだった。

「……というようなことがあって」
 と、ジャッキーは飲み友達の女の子に話してみた。
「ふうん」と、彼女は気のない返事を返す。彼女は水割りを注文した。
「僕は、おかわり」
 ジャッキーは選ぶ間も惜しいとばかりに三杯目も同じ酒に定めた。
「不思議じゃない? あとでメールしてくるでもないしさ」
 BGMに混ざって、洗い場の食器の音が聞こえてくる。狭い店だ。
「べつに。友達が多いってことでしょ」
「僕に?」
「そう」
「多すぎて覚えてないって?」
「そうなんじゃない」
「だとしてもさ。何も言わずに、しかも笑って、ものっすごい笑顔でさ、走ってったんだよ。やっぱ変だよ」
「変な子なんでしょ」
「うん。絶対に変な子だ。でも、それで覚えてないなんてこと、あるかな。あれだけ変な子なら覚えてないわけないもん」
「かわいかった?」
「ん……まあ」
 男の本能で、ジャッキーは口ごもった。
「ふーん……」
 ぐいっ、と彼女は水割りを飲み干す。
「それ、たぶん知り合いじゃないよ。そういうきちがいなんだよ」
「やっぱそうかなあ」
「そうでしょ。そういうきちがい。きちがいって思ったら、だいたい解決するもんだよ。世の中の不思議なことって、だいたいきちがいなんだから」
「そっかあ」
「それよりさ。あたしはジャッキーのこと尊敬してるんだよ」
 いきなり褒められて、ジャッキーは頬をゆるませた。
「なんで?」
「なんでじゃないじゃん。わかるでしょ」
「ごちゃごちゃ言ってるだけじゃん」
「いろいろ、ほら、総合的に。日記とかも読んでるし。本面白いよ」
「あ、そう? いや、嬉しいな。そんな話になるとは」
「うん。でもさ。よくわかんないんだよね。尊敬してるんだけど」
「恋なんじゃないの、恋」
 先手を打つ。
「それはないんだけど」
 彼女もやっぱりわかっていて、定跡通りにぴしゃりと収めた。このコンビネーション、二人がどれほどに長く深く酒を飲み交わしてきたか。
「なんていうかなあ。具体的じゃないんだよね」
「ん?」
「わかんないの。尊敬してる。それだけって感じ。だからって距離も感じないし、気も遣わない。尊敬ってなんだろね」
「べつにどうでもいい感情なんだろね」
 苦笑いをしながら、氷だけになった焼酎のグラスを傾ける。
「好きってこともそうなんだよね。ジャッキー好きだけど、好きなだけなんだもん。あのさ、変な言い方、悪く思わないでほしいんだけど、役に立つとかそういう面もあるんだよね。楽しいっていったら楽しいんだけど、べつにそこが問題じゃなくて。一緒にいたいってのも違って。べつに会わなくてもいいし。でも好きで尊敬してて、だけどそれだけで。わけわかんないね。ごめんね」
「ソーリーね。そうだね」
 ジャッキーはわけのわからない受け答えをしながら、彼女の言っていることを整理しようとした。酒が入って感覚や思考が研ぎ澄まされる場合もあれば、まったく逆のこともある。今回は後者らしかった。酔いの、もやっとしたかたまりが思考の視界をさえぎって、全体像がまったく見えない。
「さっきのさ、女の子の話ね。なんであの話をしたの?」
「えっ、ダメ出し?」
「違うけど、気になる」
「理由なんてないよ」
「そこなんだね、たぶん。そこなんだ」
 彼女は上目づかいで空気を見つめ、確かめるようにつぶやいた。
「んーと、不思議だったからね」
「それジャッキーの都合だよね。うーんと……」
「うん、あんまり考えてなかった。いつものことじゃない? えっと」
 そこからジャッキーは、五秒間、じっくり考えて、少し諭すような感じで、慎重に言葉を選んで言った。
「そういうのこそ、なんで言うの?」
「わかんない」
「だよね。わけわかんなくなってきたね」
「そうだね。さっきの女の子の話が、本当に気になってるんだ。なんか、不思議な話だよね、あれって」
「うん。言ってるじゃん」
「そうそう。言ってるんだけど。エピソードがっていうんじゃなくて、そのエピソードを語る、誰かに語るってことが、なんか不思議。それをあたしが聞いてるってのも、なんか変」
「たぶん、どんなエピソードでも、変なんだよ」
「あ、そうだ。それだ!」
 彼女はきゅうに、顔をあげて、目を見開いた。それでジャッキーのほうを見た。
「それだよ。さすが」
「うん」
「エピソードって、変だ」
「かもしれないね」
「なんかこう、オムライスにポッキー突き刺す感じ。ごめん、酔ってる」
「こっからじゃん、いつも」
「そうだけど」
 彼女はうつむく。ジャッキーは、今度は十秒間以上、考えた。
「……それはさ、さっきの、僕に対する気持ちっていうか、想いとは、関係があるっちゃあるんだけど、本質的なところではないと思うよ。つまり、んーと、んー……。あー、そう。僕に対する想いとは関係があるんだけど、尊敬とか、好きとか、そういうところに関係があるわけじゃないと思うよ。っていうか、それを、そういう言葉で言っちゃったから、こんがらがってきたんだよ」
「そっかな。……そうかも。じゃ、なんて言えばいいの?」
「言葉なんか、いらないのさ!」
「んーまあ、そうなんだけどさ」
「いや、それは嘘で」
「なんだよ!」
「いらないってか、あのー、単語じゃないよね。名詞じゃないね」
「じゃあなに、形容詞?」
「それも違う。なんかもう、言葉だよ、言葉」
「あー。いつも言ってるやつ」
「そうそう」
「さすがだね」
「つってもね。もっとわかりやすく言えればいいんだけどね」
「なんか、ってか、我田引水?」
「言うようになったね」
「うん。でもそれでいいよ。正しいんだもん」
「はは。そこ、越えたいな」
「越えてよ」
「うん」
「じれったいよ」
「わかった」
「じゃ、今度ほら、あそこ行こう」
「あそこね。わかった。あれしよう」
「あれしようね。んで、飲もう」
「あれをね」
「そう。あれを」
「うん、そうだ」
「僕のこと、忘れないでね」
「思い出させないでね」
「そうしよう」
「そうする」
「そろそろ出るか?」
「もう一軒!」

2011/08/23 責務

 アメリカから帰国中の少年と、馬場で待ち合わせて、早稲田大学の構内歩いて観光して、学生会館横領して喋って、部室が開いたから入って、現役の子と話す。歩いて新宿行ってカレー食ったり、本屋行ったり。
 なんつうか、年下の子とつき合うときは、目上としての責務みたいなのを各種果たすってだけで、もう楽しいんだよね。そういうもんなんよ。
 それは、飯おごるとか、そういうんじゃなくてね。

 年上の人とつき合うときは、僕は、そういう年下になるようにしてる時と、そうでもないときがある。いろいろある。

 自分が年上であっても、年下であっても、「責務」みたいのを楽しめるんなら、僕はとことんまで楽しみたい。
 って、一年後に読んで意味わかるんだろかね。

2011/08/22 褒められた

 ある女の子が、僕の『女の子のちんちんって、やわらかいと思う』(略して『おなちん』)って小説読んでくれて、とっても喜んでくれたみたいで、その子が妹に読ませたら、また喜んでもらえたみたいで、姉のほうから、ちょっと興奮気味にメール届いた。僕、生きててよかったって思うの、こういう時だっつうのは、ほんとにわかりやすく、当たり前に、そうなんです。
 コミティアで、三十代か、ひょっとしたら四十代のお客さんが、「(『おなちん』は)今年のベストです、生涯でもベスト10に入ります」と言ってくれて、これもまた、幸せ。本当に嬉しい。全身から射精とはもう、だいたいこのこと。
 また、ちょっとした事故で、小学五年生の賢い女の子が、僕の『たたかえっ!憲法9条ちゃん』を楽しく読んでくれているみたいで、これもまた、幸せ。ついに読者が、10歳から75歳まで広がった。すげーな! って思う。
 それとか、五十代の女性の方が、息子さんや娘さん、あるいは職場の方とかに、僕の話をして、このホームページや9条ちゃん勧めてくれて、それで娘さんなんかが喜んで読んでくれてるって聞くと、これもまた幸せ。
 自慢だよ、もちろん。でもね、こういう興奮の感覚を忘れないようにしたいね。永遠に。ずっと、こうして日記書いてて、今読んでもすげー面白いのばっかなんだけど、まったく反応とかもらえなくって、それでも書き続けて、今時空をこえて教え子とかが貪るように読んだりするの、すっごい嬉しい。とか、清水でこないだ会った友達に、2004年のある日記を「ベストです」って言ってもらえて、ググッと湧いた。報われた気がする。なんかほら、『FRIENDSHIP』って曲で、「報われることもある 優しさを手抜きしなけりゃ」なんて歌詞がある、あんなんだ。
 もうホントね、あんまり評価されないもんだから、自信がなくって。ずっとこのホームページも、それでいったん閉めちゃったりもして、だけどやめないでよかったよ。そんで本とか作って、ある程度褒めてもらえて、本当に報われた気がする。僕の人生、手抜きないからね。無力だった日は充電していただけって思うからね。
 僕はずっと、ずっと、ずーっと、「褒められたい!」ってのがあって。褒められるために生きてたようなもんかもしれない。そういえば、小さいころ褒められたような記憶がない。親からも兄弟からも。先生から褒められた数少ない言葉は、やたら覚えてる。中学一年生の時に「謙譲」って漢字が読めて、褒められた。「すごいねーよく読めたねー」って。バカにされてるような雰囲気もあるけど、どうやら多くの、受験を経験していない中学一年生は「謙譲」って字読めないんだね。で、そんなくだんないことずっと覚えてる。褒められたことが少なかったような気がする。
 なんかね、「すごいねー!」とか「年ごまかしてんじゃない?」とか、「頭いいね」ってのは、全然、まったく、褒め言葉じゃないような気がするっていうか、言われた当人は褒められたって認識ないと思う。僕だけじゃなくって、けっこうそうなんじゃないかな。どうかな?
 じゃ、褒められるってなんだっていう、ね。それはもう、なんか、今ようやくわかった気がする。これもあれです、いつものあれだ。関係です。
 言葉!

2011/08/21 神雷神王(ゴッドライジンオー)

『絶対無敵ライジンオー』というアニメが、小学校高学年から中学生にかけて本当に心の底から好きだった。主人公は陽昇学園5年3組のクラスメイト18人。学校の教室が変形して司令室になり、プールや校庭や体育館に隠されたロボットに子供たちが乗り込んで悪と戦うという、なんともワクワクする設定だ。
 放映されたのは91年。本放送当時は小学一年生だった。このたびオールナイトイベントがあって、脚本家の園田英樹先生と声優の松本梨香さん、まるたまりさんがいらっしゃってお話を聞くことができた。その後で、全51話中15話をぶっ通しで観た。
 やっぱり、子供の頃好きだっただけあって、自分の一つの原点になっている。この作品では「迷惑」という言葉に反応して怪物化するアークダーマという兵器(?)が登場するのだが、第一話では「排気ガスなんて迷惑だ」、第二話では「ゴミなんか迷惑だ」、第三話は「テストなんか迷惑」、第四話は「木を切り倒すのは迷惑」……といった言葉がきっかけで怪物(邪悪獣)が現れる。この作品に底流する思想が見えてくるだろう。実はそういう作品だったのだ。
 このアニメにはまったから、僕は排気ガスを憎むようになったのか、はたまた、排気ガスを憎むような子だったから、僕はこのアニメにはまってしまったのか。おそらくどっちも正解だろう。僕とライジンオーは、切り離して考えることはもはやできない。

 僕がかたくなに塾に通わなかったのも、第15話『マッハ9で飛べ!』の影響が少なからずあるだろう。「鳳王」というロボットを操縦する絶世の美少年、月城飛鳥くんは一流の中学校に合格するために一流の塾の入塾試験かなんかを受ける。だが、その最中に邪悪獣が暴れだし、飛鳥くんは苦悩の果てにテスト用紙を破り捨てた。「勉強は一人でもできるけど、地球防衛組(5年3組のこと)は18人揃ってなきゃダメなんだ!」と飛鳥くんは塾の窓から飛び降りて鳳王に乗り込み、戦闘の現場に向かったのだった。
 決断の時、飛鳥くんの頭の中では、矢沢校長先生の言った「昔は塾なんてなかったからのう。昔はみんな自分一人で努力したもんじゃ。一所懸命にな」という言葉が何度もくり返される。僕の頭にもそのフレーズが刷り込まれていたのだろうか、塾なんか行かないで、一人でがんばるという価値観が、僕の思想の底の底に存在する。
 飛鳥くんは窓から飛び降りる間際、塾の先生から「この塾に入らないと、いい学校には入れないんだぞ!」と叱責される。振り返り、微笑みながら返した言葉が「そうと決まったわけじゃないでしょ!」これがもう、格好良くて仕方がない。全然意識してなかったが、独学という勉強スタイルに対しての僕のこだわりは、このときの飛鳥くんへの憧れがあったんじゃないかと思う。
 もちろん、僕が塾に通わなかった理由はそれだけじゃなくて、とあるミュージシャンの方が同じようなことを言っていたとかもあるけど、でもやっぱり、自分で考えて決めたな。塾はお金もかかるし、時間の制約もある(地球防衛組としての活動ができなくなる、というイメージがあったのかもしれない)から、いいことなんか一つもないと思い込んでいたし、今でもそう思っている。塾に行かされている子供たちは本当にかわいそうだ。塾に通いたいとか、通うのが楽しいと思ってしまっている(いつの間にか思わされている)子供たちも含めて。

 小学生くらいの子供って、平気で「お金がすべて」みたいなことを言うんだけど、あれはなんなんだろう。ライジンオーの精神って、あるいは宇宙船サジタリウスの精神っていうのは、絶対にそういうところには行かないようなものなんで、僕は「お金がすべて」なんて思ったことは一度もなかったと思う。ライジンオー見てたらそうはならない、ということでもないんだとは思うけど、そう思わせないための優れた洗脳手段の一つにはなりうるだろう。ライジンオーのようなアニメであふれているべきだ。排気ガスも、ゴミもテストも、自然が消えていくことも、塾通いも、すべて迷惑だ。そう思うのは健全だ。18人の個性豊かな地球防衛組のメンバーの中には、誰一人として「お金が大好き」っていう子供はいない。健全だ。サジタリウスのクルーも、お金と人情の狭間で常に苦悶し、葛藤する。なんとも健全だ。
 本当に、ほとんど意識していなかったけれど、あんなに大好きだったライジンオーのお話の中には、やっぱり僕が今「正しい」と思う考え方のタネになったようなものがたくさん含まれていて、子供向けアニメの力ってのは巨大だよと思った。あの頃の子供で本当によかったよ。ギリギリ間に合った。

 それから、ライジンオーって楽しいアニメだなとも思った。楽しいアニメの最高峰は『飛べ!イサミ』かな。楽しい、ってことは重要だけど、作品を語る上であんまり問題にはされない。『究極超人あ~る』が今もオタクの心をとらえて話さないのは、あれが「楽しい」からなんだと思うんだよなあ。楽しさっていう尺度をもって作品に接して、評価したっていいはずなんだけど、どうもそういうことにはならないんだよね。
 誰かが言ってた。「仲良きことは美しきかな」じゃなくって、「仲良いことは、楽しい!」って、そういうふうに思うほうが正しい。「美しきかな」ってのは、確実に子供の目線ではなくて、大人の、おっさんとかじいさんとかの目線なんだよね。
 ライジンオーにはまったきっかけは、実は小説版だったんだけど、そっちのほうでは「大人と子供」っていう対立軸がとても強調されていた。あれが僕に及ぼした影響は計り知れない。角川スニーカー文庫から園田英樹さんが出しているので、見かけたら読んでみるのもいいと思います。アニメ見るのは大変だから。

2011/08/20 籠の鳥のロック

 本が読みたいよう! って、
 ああ! そんな日記なら幾らでも書ける!
 もっと誤解を恐れずに! もっと自由に! もっと許すんだ、
 許そう……すべて。
 禁止事項が多すぎた
 のかもしんねーっすな。
 の、音楽。

2011/08/19 過去ログ

 くそおもしれーよ。2001年3月~2002年3月くらいの、すなわち高校2~3年生の頃の日記を読むと、こんなやつがいたら絶対惚れるなって思うよ。アンバランスで、たまに空回りで、なんか頑張ってて、危険な感じもあって、要するに全然完璧じゃないんだけど、なんとなく気になる感じ。「魅力的」って言葉でしか表現できない。何もかも中途半端な気はするけど、魅力だけはある。そういう人間だったんだなって振り返ると思う。
 上の「日記」ってとこから各時代の文章が読めますから暇な人はぜひどうぞ。「自分くらいの年齢の時にジャッキーさんは何を書いていたのか?」というようなのは非常に楽しい。安心したり、焦ったりすると思います。そのあたりは確実にアンバランス、になるようにできています。

2011/08/18 魂でダメージ三倍時代を回顧

 教え子が自分の日記で、僕の去年の7月15日の日記を引用してくれている。なんといい文章なのだろうかと我ながら思った。そうね。ホームページってのはお家だからね。リフォームがあっても、旅行に出てしまってもいいけど、うち捨てて放っておくというのは、よいことじゃないね。ものは大切にしないとね。たとえ電子空間の内であっても。

 ホームページ作って放置しているすべての人は、ここの8月17日の日記を読むといいよ。16歳の女の子の素直な気持ちだよ。

 高校三年生の一年間、僕は意地のように、ほとんど一日も欠かさず日記を書いていた。僕が受験勉強をしていたのは2002年の5月から2003年の2月までで、その頃の日記を見るといろいろと面白い。ちゃんと勉強しているし、ちゃんと遊んでいる。ちゃんとものを考えてもいるし、ちゃんと精神不安定に陥っている。他人に迷惑をかけたことも思い出す。そういえば演劇部の合宿に行って、微塵も勉強しなかったなあ、なんてことも。無意味に女風呂をのぞくフリをしたりしたっけなあ。

 5月1日に演劇部の引退式(?)があって、
 5月2日の日記が、これだよ。

「よく毎日あんなに書く事があるよね~」と、
特にウェブサイト日記書き始めのいっちょかみ連中に言われる。
はっきり言ってこの日記は殆どが「思い尽き」で、
半分以上はパソコンの前に座ってからぼーっと考えた事をつらつらと書いてるだけです。
「書く事がない」とか言って、それで終わって、その日の日記は1行で終わり。
ナンテ安っぽい。それは書こうとしてないだけじゃないすか。
僕の小学校には低学年の頃、「作文」の授業があったものだが。

ハワユー?

 次の日にはさっそく「10時間耐久勉学」なんつって、
 その次の日には、

2002.5.4(土) にょ、花は好きか…花だ、俺が取って来てやる。

受験生っぽい事を言いますが、
明日は全統模試です。
でも、
僕は受けません。
なので明日はせめて【24時間耐久勉学】でもしたいと思います。



ZONEというバンドにはTAKAYOというメンバーが。



「今から早稲田は無理だろ」と色んな人に言われます。
そりゃあぼくは勉強ができない。
第3文型はSVOだったかSVCだったか思い出せない。
高校初級の問題集が解けない。
「つきづきし」の意味がわからない。
アウグストゥスを説明できない。
どこから見てもスーパーマンじゃない。
スペースオペラの主役になれない。
危機一髪も救えない。
ご期待通りに現れない。
タメイキつくほどイキじゃない。
拍手をするほど働かない。
子供の夢にも出てこない。
大人が懐かしがる事もない。
雨降りでも気にしない。
だからといって、ダメじゃない。
閑話休題。
尋常じゃないほど勉強の出来ない自分に気がつく。
それは不安だ。
でも僕はたまに
「自分ほど頭の良い奴はいない」
と思っている(そう思わないとやってられない)ので。
馬鹿どもに負けるなんて、なんとも我慢ならないことではないかね。




そういう輩にはこう返す。
「君が俺に優る点は一つ、成績のみだ」と。








そうそう、この時期になると受験生はHPを閉める傾向にあるようだね。
僕は閉めません。
日記を書かなくなったら頭が悪くなるような気がするし、一生後悔しそうだ。

不安じゃないか。日記を書かないということは、自分が宙ぶらりんになって、
自分が「自分」としてのみ存在するということだ。
砕いて言うと、「ジャッキー」が「俺」という一固体としての存在になってしまうということ。
目に見えず移り変わっていく自分、なんだ?それは嫌だ。怖いじゃないか。恐ろしいことだ。だから僕は書く。打つ。そして、苛立つ。
ほうらみろ、不安じゃないか。




 「俺」は明日死ぬ。

 「僕は今日、死にました」ナンテ日記は更新されない。

 そう、「ジャッキー」は死なない。

 そうなのだ、「俺」は明日死ぬ、だが僕は死なないのだ。





例えば明日、僕の考えが180°変わったとする。
それを知るのは、□□□□!?












そらみたことか。そらみたことか。
そら、みた、ことか、不安じゃないか。

 才気あふれ、意味不明。
 それがこの頃の僕だったなあ。
 本当に魅力的だ。

 最初のほうの「できない」っていうのは謙遜でもなくて、本当にそうだった。当時は文型も知らなかったし、古文単語も弱かったし、世界史もまったく頭に入ってなかった。高校に入ってから一夜漬け以外の勉強を一切していないし、授業もろくに聞いていなかったので仕方ない。
 でもなぜか自信だけあったというか、自信持たないとやってられないってのがあったんだね。
 で、そっから宇宙船サジタリウスの主題歌や奥田民生の『マシマロ』を引用してくるあたり、憎いね。「~ない」の連続のあとに「閑話休題」で韻を踏んでくるとは、なかなか天性のラッパーだね。
 で、「ホームページ閉めません」っていう宣言があって。
 まあ、これは、そのほうが精神の安定が得られるということがわかっていたからとか、すでにホームページ中毒になってたからとか、そういう事情なんだけどね。たぶん。
 人から言われてやるようなことでもないから、「おい更新しろよ」って言われたからって、無理してやるもんでもない。
 ただ、そう言われるってことは幸せなんだってのは知っていてほしいし、だから、「おい更新しろよ」って、言える機会があったらいろんな人に言ってあげてほしいと思うんだよね。それは決して重荷にはならないと思う。なったらなったで、なればいいさ。いい重荷だ。
 だから、おい、更新しろよ。
 そう言われることは幸せなんだし、それに背中押されて書くようになるんなら、それも素敵なことだと思う。「あの時書いていてよかった」って、十年後に思うんだから。僕のように。それを見通しているから、最初に紹介した16歳の女の子は、やめないし、やめるつもりもないんだろうね。
 それは性格っていうか、
 僕はそうだったし、彼女もそうだと思うけど、
 他の人は別にそうでもないんだってこともあるかもしれないね
 書き続けるということに意義を感じないって人も
 いくらでもいるだろう。
 でも、井伏鱒二の山椒魚事件みたいなもんで
「すでに読者のもの」みたいな側面もあるんでね。
 悲しかったでしょ? そういう経験ないですか? なんてね。

 僕の魂は十年も前からそうやって言ってるんだ、ってだけのこと。

2011/08/17 動物のアクラータシアテル

 ドリルが、すなわち反復訓練が
 頭パーにすんだとしたら
 不真面目こそが、やっぱり実は、頭よくなる秘訣だったり
 すんのかもしんないってことですね。

 部活が
 頭パーにすんだとしたら
 まあやっぱ、要らないんではないですか。いろいろ。
 演劇をやろう、演劇を。
 部活じゃなくって、授業で。
 なんでそれをしないんかね?
 文学の範疇に戯曲が含まれるのなら
 国語と体育の間に、演劇があったっていいんじゃないのかねえ。
 理科も社会も挟まるし。

 意外ともう、いろんなもんが
 頭パーにさせるんで油断ならん。
 僕らは気合い入れて疑うよ。それだよ。それだよ。

2011/08/16 別に何も始まりはしませんが

都内の区立中学校(以下都)「こんにちは」
地方の公立中学校(以下地)「こんにちは」
都「暑いですね」
地「そうですね」
都「ちょっとけんかしてみましょう」
地「そうですね。エヤー」
都「ギャー」
地「大丈夫ですか」
都「いえ、もう、やばいです」
地「やりすぎましたね」
都「痛いです。何をするんですか」
地「だってあなたがけんかをしようと言ったのですよ」
都「そうですけど、痛いです」
地「ごめんなさい。ところで、最近どうですか」
都「そうですね、偏差値が低いです。あなたは?」
地「こっちもですよ」
都「えっ」
地「えっ」
都「ご冗談を」
地「何をおっしゃる」
都「本当はかなりのものでしょう」
地「そんなことないですよ」
都「うちはもう本当にダメなんですよ」
地「そうですか」
都「もうホント、大変なんですよ」
地「そうですか」
都「そうなんですよ」

 僕は地方の公立中学校出身なので
 都内の区立中学校の様子がわかりません。

都「うちは○○で××なんですよ」
地「そうなんですか」
都「だけど△△です」
地「うちはこんな感じですよ」
都「えっ。本当ですか」
地「本当ですとも」
都「うちは……□□という側面もあります」
地「なんですって。それは大変だ」
都「そうなんですよ」
地「狂ってる」
都「そうなんですよ」
地「きちがいの巣窟だ」
都「そうかもしれません」
地「そうですよ」
都「でも、私に言わせればそちらも相当に荒れていますよね」
地「荒れるってなんですか」
都「荒れるというのはこういうことです」
地「それなら確かに荒れています」
都「うちも荒れています」
地「確かにそういうことになりますね」
都「そうなんです」

2011/08/15 始まりだった

 みんな「個人」という部屋の中に閉じこもって
 出ようとせんから
 みんなでいても
 まるで自分の部屋にいるみたいな顔すんだね。

 場にね、自分が参加してるっていう意識が希薄だね。
 違うか。「参加」って意識はあんだ。
「自分も場を作っているんだ」って意識がないね。

 人間って、存在してるだけで、周囲に影響与えんの。
 黙ってたって。気配消したって。「あ、黙ってる」って。
「気配消してる」って。
「つまんなさそうだな」って。

 大人なんだから、って思うが。
 みんなでいて、誰かが喋ってる。そんとき、どうすっか。
 自分の部屋にいるみたいな顔してちゃダメなんだけどね。
 人間関係ってそんな、手抜きじゃダメだと思うんだけどね。
 見回してごらんな、だいたいもう、みんな死んでる。
 死んで自分の部屋にいる。

 考えろよ。どうすべきか。
 誰かがどっかで、腹立てんだよ。
 君の態度で。
 誰かがどっかで、悲しんでる、寂しがってる。君の怠惰で。
 怠惰な態度で。
 怠慢で。

 人が話すっていうのを、言語的な情報としてしか捉えられない
 そういう人があまりに多いよ。
 自分は関係ない、自分は違う、って思ってる人も
 怪しいよ。だって多いんだもの。
 多いってか、ほとんどじゃねえの。
 そういう国なんだし、そういう生物なのかねえ。
 まずいんだが。たぶん……。

 人が話すってことには、いろいろあるんだけどねえ。
 だから相手を見るんだよ。
 耳だけじゃなくて、目でも聞くんだよ。

 だから、自分がそこに「いる」時も、
 他人の「耳」だけじゃなくて「目」も気にしなくちゃ。
 つまんなそうに黙ってたんじゃ、ダメだよ。
 いい場になんないよ。
 無責任って言うんだよ。そういうの。場に対して。
「面白そうに黙れ」よ。もっと。
 黙り方ってのも、あんのよ。ちゃんと。

 マジメなこと言いたがる奴でも、
 考えたがる人たちでも、
 関係なくそうだね。バカなんじゃないのかな。
 バカなんじゃないのかな。
 すこぶるバカなんじゃないのかな。
 嫌いだ。

2011/08/13-14 京都に行ってくるよ

 なぜかふたたび京都に行くことに。


 回帰でもなく、回顧でもなく。
 改心でもなく、革新でもなくて。
 確信、核心
 新しいテイストとスタイルを。

 改宗ではなくて、開祖でもなくて。
 宗教ではなくて。思想でもなくて。
 新しいけれども、目新しくはなくて
 新鮮ではなくて、けれども斬新で。
 ただ、浮くように。
 いつかみんなが泣くように。

 そういった志。
 自由とは魔人ブウのようなものなんだ。

2011/08/12 京都に行ってきたよ

 この歳になって石清水八幡宮に参拝したことがないというのは心憂いなあと思って、行ってきました。一人で、徒歩で。
 聞きしにまさる尊さで、涙が出そうになりました。
 本当に、行ってよかった!
 ところで、参拝者がみんな山の上に登っていったのはどういうわけなんだろう。気になったんだけど、神様にお参りすることが目的だからと思って、山までは見ずに帰った。

 旅行中はこっちを更新する予定。
2011/08/06-11 京都旅行

 京都に行ってきます。自転車です。予定は次のような感じ。今回は長距離初めての男の子と行くのでかなりゆるい。行く先々で友達に会えたらいいな。


 6日 22:00 成城学園前集合
 7日 早朝 箱根越え 夕方には清水 静岡で一泊
 8日 お昼は浜松で友達と。刈谷、麒麟さん家で一泊
 9日 京都へ 京大の吉田寮にでも泊まる
 10日 京都散策 再び吉田寮もしくは帰る
 11日 予備日 夜は新宿で無銘喫茶なのでそれまでに帰る
    ※普通列車は14:30京都発で23:29新宿着

 一応静岡では一人3000円食事・酒付きの宿に泊まる予定
(いつもなら野宿かネットカフェだけど、今回は事情があるのだ)
 吉田寮は一泊200円らしい。
 ただ、箱根で雨が降りそうなので困っている。


 メモ。
<6-7日>
 環八→246→厚木から129で南下→平塚で1号に合流
 小田原で明るくなるまで休憩。余裕があれば城・動物など見る
 箱根は思い思いのペースで登り、頂上の茶屋で待つ。
 時間あれば清水でジュース飲んで、草なぎの湯に入りたい
 静岡のホテルチェックインは一応19:00。遅れる時は連絡入れること
 180キロくらい
<8日>
 1号→「手越原」で左折→焼津を過ぎ、しまむらのある川を渡ってしばらく行くと小川小、マツダあたりのところで416が途切れる。南西方向の焼津イオンを目指す→150と合流(浜岡原発、浜岡砂丘など観光)-316-1号-右側の道、浜松でお姉さんと食事予定(150号から1号を越えてY字路の左側、大浜通りを行くと浜松駅。駅からは北西側の257)。潮見坂を登る→延々1号、豊橋で右折するのに注意
 150号線を通るため、静岡-刈谷は180キロと見積もる
<9日>
 1号、堀田で左折→伊勢大橋を越えて、桑名駅のほうへ行かずに左折、イオン桑名のほうへ→421と合流→いなべ市役所を過ぎて421ごと左折→峠を越えたあと、8号線を曲がらずに線路を越え直進、突き当たりを左折すると琵琶湖、そのまま琵琶湖の周りを回り、琵琶湖大橋を越える→再び琵琶湖を南下すると雄琴温泉(入りたい)→自衛隊、TSUTAYAを越えた「柳が崎」右折して神宮道-山中越(30号)、東山を越えて降りたところが京大。白川通りを右に曲がれば天下一品。
 160キロくらい。

 帰りは18きっぷなので一人10000円くらいにおさまる可能性も!

2011/08/05 欠番


2011/08/04 洗脳

 洗脳はしばしば、「何らかの手段によって人間を正常な精神状態ではなくさせる」というプロセスを踏む。そういう状態になった人間は容易に他人の言うことを信じこむ。

 恋愛でも、たとえば痴話喧嘩がもつれて、男が女を殴って泣かせる。その後で「ごめん。悪かったよ」と謝る。そして「愛してるよ」とでも言う。妙なことに、これでうまく行ってしまう場合も多いらしい。何の解決もしておらず、結論は何も出ていないのに、「泣く」という正常でない精神状態のところに「ごめん」や「愛してる」が入ると、コロリと納得してしまうのである。
 少し前に、友達が彼女とメールをしていた。彼女は錯乱状態でわけのわからないことを延々と書き綴ってきていて、どうやら彼に対して怒っているらしい。彼は何も悪いことをしていないはずなのだが、なぜだかとにかく彼女は怒っている。途方に暮れている彼に、別の友達がアドバイスをした。
「向こうがわけのわからない、矛盾しているようなことを言ってきているのなら、こっちも混乱しているフリをしてわけのわからないことを言えばいい。矛盾には矛盾。これが基本だよ。最後に好きだとか愛してるとか言っておけばおとなしくなる」
 で、その通りにしたら、本当にそのようになったのである。
 怒っている人間というのは、中途半端に混乱している。つまり、辛うじてまだ理性を残している。そういう人間は一番タチが悪い。だから、「完全に」混乱させる。混乱しきった人間は思考力が低下して、最終的には真っ白になるから、そこへこちらの都合のよい情報を書き込んでしまえばいい、というわけだ。
 恐ろしいけれど、人間というのはそういうものなのである。
 混乱させたり、疲れさせたりして、思考力や判断力を奪う。その状態で都合のよい情報を注ぎ込めば、簡単に洗脳できる。
 カルト宗教は、精神攻撃をして心をズタボロにさせてから、「でも、うちの宗教を信じればあなたの悩みはすっかり消えます」と甘い言葉をかける。「彼氏に振られて落ちこんでいる女はヤレる」というのとだいたい同じである。また、進学や就職や、それに伴う引っ越しなどで環境が変わったりすると女の子は不安定になるので、そこもねらい目らしいのである。
 要するに、「弱みにつけこむ」ということだ。洗脳とか、人をだますというのなら、弱っている人をねらうのが一番だ。
 常識のようなもの。洗脳なんてのはごくごくありふれている。

 カルト宗教や自己啓発セミナー、大企業などは「合宿」によって洗脳を施す場合が多い。人里離れた場所に隔離して、外界からの情報を遮断した「閉じた世界」の中で共同生活を送らせるのである。そうすると人は本当に簡単に洗脳されてしまう。ほかの価値観の存在しないところで、「この価値観は正しい」ということを徹底的にやる。たとえば、ある宗教の信者だけが何百人も集まっているところに一週間も閉じこめられていれば、「おかしいのは自分なのではないか」と誰だって思うようになるのだ。いや、本当に。
 そういうことが洗脳と言うのであれば、洗脳というのは非常に広い意味を持つ。スポーツも、受験も、学校も、洗脳と言える。社会が、世間が、洗脳の装置だとさえ言えるだろう。そこから逃げるのは非常に難しいが、不可能ではない。

 尾崎豊が言ってる「自由」っていうのは、「そこから逃げる」ということだと僕は思う。有名な『卒業』という曲をよく聞くと、そのことを歌っているように聞こえるのだ。反抗によって得られるものは「仕組まれた自由」でしかない。学校を卒業しても「何か」が俺を縛り付け続ける。
 晩年の『自由への扉』では、「誰もがみな自由に生きていくことを許し合えればいいのさ」と歌った。これも本当に重要な曲だ。自由というのは、そのようにしか実現しえない。
『卒業』と同じアルバムの『Scrambling Rock'n'roll』には、こんなフレーズがある。
「君が怖がってるぎりぎりの暮らしならなんとか見つかるはずさ」

 そこから逃げるのは非常に難しいが、不可能ではない。でも、「ぎりぎりの暮らし」は覚悟しなければならないだろう。それを「君」は怖がる。「誰もがみな」が難しいゆえんだ。

「二世」として生まれた信者は、なかなかその宗教から抜けられない。そこにはいろいろな事情がある。
 不可能ではない。しかし、覚悟はしなければならない。
 結局、その覚悟をするほどのメリットはないとみんな思うのだろう。
 洗脳だろうが、騙されているのだろうが、そのほうが楽だ、と。
 むきになることもないじゃないか、と。

「鉄を食え 飢えた狼よ 死んでも豚には食いつくな」

 ってのは『Bow!』って曲だけど、
 牙の抜け落ちた人は鉄なんか食ってられないんだね。
 目の前に豚があればそれを食う。
 その豚がどんな事情を背負った豚であろうが。

2011/08/03 信仰の前に理屈は無力

 信じている人に何を言っても意味がない。恋愛でも、宗教でも、洗脳でも。理屈を言っても仕方がない。仕方がないけど、理屈を言うことしかできない。理屈に気持ちを込めるしかない。愛と情熱を込めて伝えるしかない。

 僕は他人の作った世界観に乗っかって生きているような人は嫌いだ。塾が嫌いで自学自習を尊ぶのは、その考え方に立脚している。
 日本における宗教は、すべて「他人の作った世界観」でしかない。もしも日本に国教があって、日本人の大半がその宗教を信じているような状況だったら、話は別だ。それは「みんなが共通して持っている世界観」であって、「他人の作った世界観」とはちょっと違う。イスラーム国におけるイスラム教のようなものを否定するつもりはないが、日本における「宗教団体」は、すべて否定したいのが僕の考えだ。
 だから僕は、日本にある宗教団体はすべてカルトだと思うことにしている。クリスマスに盛り上がったり初詣に行ったりするのは「慣習」と言ったほうがいい。まあ、そういった日本人独特のテキトーな宗教観を「日本教」とでも呼ぶのだとしたら、別にそれまで否定する気はない。むしろ嫌いではない。「宗教団体」ではないから、問題ないのである。ちなみに僕の一番好きな神様は「つくもがみ」で、二番目は「もったいないおばけ」(日本教においては神様と言ってしまってもいいんじゃないでしょうか)です。
 宗教とは、社会と一体化して初めて意味を持つもので、社会の中で小さなコミュニティとして存在しているだけだと、時として迷惑なものにもなってしまう。ことに新興宗教はそうである。彼らは信者数を増やすのに夢中だから、関係のない人を巻き込むことになる。
 彼らもいつかは社会と一体化する日を夢見ているのかも知れなくて、それこそが理想の社会だと思っているのかもしれない。だけど、申し訳ないけどそうなるまでは「カルト」と呼ばれることに甘んじていただきたい。そうでなければたぶん、社会の秩序が保たれないもので。
 ところで日本では、神社とか葬式仏教は「社会と一体化」してる感じがある。決まった団体があるわけではないし、こういうものはカルトとは言わなくていいだろう。葬式仏教は好きじゃないけど。

 僕の中では、「他人の作った世界観=カルト」であって、「みんなが共通して持っている世界観=宗教」なわけね。社会と一体化しない限りは、カルトであって、宗教にはなりえない、と僕は定義したいのね。
 やっぱね、自分でものを考えて、自分で判断して、決定して、自律して生きていかなければならないわけですよ。他人の作った世界観に乗っかっちゃうと、「違う世界観を持っている人」とぶつかった時に、自分で調整するってことができないでしょ。「自分の世界観」で生きているなら、「違う世界観」との折り合いを自分でつけることができるけど、「他人の世界観」を借りるだけだと、それができないわけなんだよね。だから日本では、宗教は迷惑だっていうの。
 自分で考えようぜ。そうじゃないと、人と人とが譲り合って、仲良く優しく生きていくことはできないよ。

 なんて理屈をいくら語っても、信仰の前には無力なんだよね。信仰に打ち勝つには、信仰しかないから、僕は信じられる人間になりたいなと思うです。

2011/08/02 洗脳には気をつけて

「人間は簡単に洗脳される」という事実を、知っているのと知っていないのとでは全然違う。「洗脳なんてされないだろう」と思っている人ほど、洗脳される。「人間は洗脳される。だから、洗脳されそうになったら、それを回避するように努力しなければならない」というふうに考えなければ、知らないうちに洗脳されて、信じるべきでないものを信じるようになってしまう。

 洗脳するためには、たぶん「変性意識」というやつを利用すればいい。たとえば、どこかに閉じこめて外界の情報を完全にシャットアウトし、儀式みたいなことを間断なく行わせる。それで簡単に「変性意識」状態、つまり「いつもとは違う精神状態」にさせることができる。それで正常な思考を奪い、疲れさせたところで、都合のよい内容を心身に刷り込ませる。簡単に刷り込める。
 たとえば、「○○をしたら地獄に堕ちる」というようなことを刷り込むと、○○をしようとするたびに「地獄に堕ちてしまう」という恐怖感が襲うようになって、その人は○○をすることができなくなる。逆に、「××をしたら幸せになれる」ということを刷り込めば、進んで××をするようになる。
 冗談みたいな話だが、本当である。このことが素直に受け入れられないなら、知らぬ間に洗脳されてしまう可能性がある、と僕は思う。

 新興宗教の洗脳システムは非常に優れたもので、たぶん二日間も監禁できれば、かなりの割合で洗脳を成功させることができる。「そういう人は心が弱いんだ」と思っている人は、危ない。洗脳されてしまう人は、心が弱いのではなくて、たぶん油断しているだけだと思う。もしも不意打ちで洗脳プログラムにかけられてしまったら、いくら「心の強い」人だって、洗脳されてしまう可能性はある。っていうか、そもそも「心が強い」って何だよ、という話で、どんな人にだって心の隙間はあるのだから、そこにつけ込まれたらやっぱり、弱くなってしまう。重要なのは、「人間は簡単に洗脳されてしまうのだから、騙されてはいけない」と、日ごろから身構えておくことである。
 そして、「どんな洗脳もインチキだ」ということを、強く強く、心に刻んでおくことである。普段から。

 僕も実際に、とある新興宗教から洗脳を受けたことがある。まだ十代だったとはいえ、この僕ですら危なかったのだ。大学のキャンパス内で騙されて、二泊三日の合宿に参加させられ、携帯電話も没収されて、わけのわからない講義を聞かされ、信者以外との会話は許されず、楽しい楽しい、儀式のようなお遊戯を強制的にやらされ、最終日の夜には「次の合宿にも参加しろ。すると言うまで返さない」と迫られ、断ると心がずたぼろになるほどの激しい精神攻撃を受け……といった感じだった。もうちょっと詳しいことは昔の日記に書いたと思う。
 僕がその集団から逃げ切ることができたのは、大学のクラスの女の子が「だめっ!」と言ってくれたからだった。本当にそれだけのことだった。
 もちろん、何かを信じてしまっていたとか、洗脳されていたとかいうわけではない。ただ、「次の合宿に、行くか、行かないか」ということで悩んではいた。完全に外堀を埋められて、行かざるを得ないような状況にされていたのだ。断ればどんなことがあるかわからなかったし、ある程度の「情」は生じていたし、お金もすでに取られていたし(三千円くらいだけど)、何より、「この合宿に行ったら面白いことがあるんじゃないか」とか、あろうことか、「もしかしたら今のダメな自分をどうにかするヒントがあるかもしれないよなあ」ということさえ、わずかながら思っていたのだ。僕にそう思わせるのだから、やはり彼らの洗脳システムは一流だったのである。
「行くか、行かないか」で迷うというのは、もうほとんど術中にはまっていたようなものだったなと今では思う。ただ、合宿中に自主的に「返してください」と言いに行って、みごと携帯電話を奪還したのは僕だけだったから、同時にセミナーを受けさせられていた人たちの中ではかなりマシなほうだったのかもしれない。
 当時の僕は、自分に自信があんまりなくって、「僕はダメなやつだ」なんて思っていた。そこにつけ込まれると、やっぱり弱い。
 もしも「次の合宿」(これは七泊八日くらいだった)に参加していたら、僕はひょっとしたら洗脳されてしまっていたかもしれない。「この僕が洗脳なんかされるもんかよ」と、今でも思ってはいるけれども、「だけど……」というのはある。あいつらの洗脳力を甘く見てはいけない。何をされるかわからないのだ。オウムのようにLSDでも投与されてしまったら、ちょっとやそっとの意志では簡単に打ち砕かれてしまうだろう。

 なぜ突然こんな話をしているのかというと、当時の僕よりもずっとひどい状態にあった人を、つい先日「脱洗脳」したからである。あのとき「だめっ!」と言ってくれた女の子に恩返しをするかのように、僕はひたすら「だめっ!」と言った。「その宗教はインチキで、カルトだ」という理由を、五百通りくらいの言葉で伝えた。何時間もかけて。僕は本当に必死だった。もしも完全に脱洗脳できないまま別れてしまったら、ひょっとしたら一生解くことができなくなっていたかもしれない。最後には、僕は洗脳が解けたことを証明する「儀式」のようなことをさせることができた。つまり、「○○すると地獄に堕ちる」の、「○○」をさせたのである。たぶん、もう大丈夫だと思う。
 心配だからしばらくは見てるけど。

 もっといろいろ書きたいけど命が惜しかったり、いろいろ都合の悪いことがあるので数年後にまた書くかもしれませんということで。

2011/08/01 洗脳には気をつけて(簡易版)

 日本にある宗教はすべてがカルト。
 なぜならば宗教とは社会と一体化してこそ正当と言えるものだから。
 そしてカルトが子供を巻き込んで布教活動をすることを僕は許せない。

 昨日(↓)の記事はちょっといろいろと誤解を生んだので、反省しています。言いたかったことをちゃんと書き切れていませんでした。訂正する、ということはしませんが、改めてちょっと、語り直してみようと思います。


 まず問題は「子供と塾」というタイトルにしたことにあった。「子供と親」とか「子供と教育環境」とか「子供と世の中」とか、そういったタイトルにしていればもうちょっと違ったかも知れない。
 というのも、塾業界の人がこれを読んで、「完全に間違ってるし、適当すぎる。よく調べもしないで」といったようなことを指摘してくだすったので。

 でも、僕が言ってるのは「理想」の話でしかなくて、「現実」なんてくそっくらえ、なので、「現実はこうだ」という話をいくらされても、「知ってますよ……」としか言えない。
 そう、現実がどうであるかっていうのはある程度知ってる。だから、「現実についての説明」を面倒くさいから飛ばしてしまっていた。そこの手抜きが、他人を不快にさせたのではないかと思う。
 あと一時間かけていれば違ったんだろうけど。突貫工事で重要な文章を書くのはやっぱりよくない。

 たとえばこう言われた(正確に覚えていないので、あくまで「たとえば」だと思ってください)。
「大手の個別指導塾のほうが、家庭教師や小規模な個人の塾なんかより実績を上げている」
 僕は、「そうなんですか」と思いながら、「まあ、そうでしょうよ」と思う。「実績」を上げるためのシステムをうまく開発して、大手に上り詰めたのだから、当たり前だよな。
 けど、なにが「実績」だよ、と思うわけです。
「受験」という目標が歪んでいるのだから、それに向かって正しく実績を上げられるシステムは、やっぱり歪むのだ。
「現実」を見れば、「そうは言っても、受験が必要な家庭だってあるんだよ」ということになるのだが、そんなことは関係ない。歪んだ現実を肯定する気はない。(こういう頑固な姿勢はまったく生産的ではないのかもしれないけど、あえて僕は今のところ、理想主義的に物事を考えてみている。)
 今の世の中、特に東京において、「受験する」ということの重要性や、必要性くらい知ってるし、個々のケースを見れば本当に様々な事情があるのだろう。それは想像はできる。でもここでは関係ない。

 たとえば、こうも言われた。
「しつけは実は、親よりも学校よりも塾が行わなければならない現実があるし、実際それが向いている。塾に来ている家庭ではまったく親離れしていなかったり、反抗期が来ていたりして、親が勉強をさせたりしつけたりということが困難な場合がとても多い」
 僕が言っているのは、「そもそも塾がしつけなくてもいいように親がしつけろよ」ということなので、「親離れできていない」「反抗期が云々」というのは、むしろ「だからそこが問題なんだよ」ということでしかない。反抗期で親の言うことは聞かない、だから親が勉強を教えたり強いたりすることは無理だ、でも本人は受験をしたい、でも独力で勉強するのは中学受験の場合はまず不可能で、本人にさしたる資質もない。そういう状況だったら、塾に通うということにどうしてもなるのだろう。それはそれで、「事情」なんだから仕方がない。なぜ十歳やそこらの本人が「受験したい」と思うのかっていうのもよくわからないけど、それも「事情」だからなあ。
 何も考えずにただなんとなくとりあえず塾に入れているというケースも多そうだけど、それも含めて誰もがいろいろと「事情」があって、塾を選択しているんだろう。そりゃ個別のケースを見ればまあ、いくらだってあるところには事情なんかあふれている。
 事情、事情。欲望と事情。思いこみ。
 問題はそこにあるんです。

 えーとそれから。僕が最も強く思うのは、「塾がしてるのって、しつけじゃねーじゃん」ってこと。「洗脳と恐怖政治」って言葉を使ったけれども、塾のする「しつけ」は多かれ少なかれ「マインドコントロール」とか「動物として飼い慣らす」ってことになっちゃうんじゃないか。まあね、塾によっては、「ちゃんとしたしつけ」を標榜しているところもあるだろう、個別のケースとして。で、おそらく「そういうところは合格実績を上げていない」という事実があるだろう。だから、マインドコントロールや動物のようなしつけをするのは、「受験に合格させる」という目標に照らせばまったく合理的だということになる。それが現実だ。で、僕は現実が嫌いだ。
 とか言ってると、「違う。塾だってちゃんと、子供と人間的なふれあいをしている。本人の意志を尊重するし、動物的なしつけなんてしたことはない」と言われるかもしれないし、実際それはきっとその通りだろう。「動物のような」なんてのは我ながら言いすぎだと思う。だけど、結局は「受験向きの精神構造をセットする」っていうことをやるんだから、すなわち「そういう人間を量産するシステム」であって、「原っぱで楽しく遊べる人間を育てる」じゃないんだよね。だから嫌い!
 歪んだ目標に対する最も合理的な手段は、やっぱり歪んでしまうのだと僕は思うのだ。また、「受験」を手段だと考えるなら、その目標も、やっぱり歪む。歪みっぱなしだ。

 非常に多くの親が、「子供を塾に通わせざるを得ない」という「事情」を背負っているという「現実」を、僕は憎むわけで、塾を憎んでいるわけではない。まあ、塾も憎いけど、塾なんてのは憎むべき現実のほんの一部でしかない。塾をなくせばよいということではなくて、「塾がなくてもいいような世の中のほうが絶対にいい」っていう、相当根源的なことを言っているわけ。

 この話は本当に永遠に終わりがない。

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