ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

過去ログ  2026年5月  2026年6月  2026年7月  TOP
2026.6.1(月) ぐうたらイブ
2026.6.2(火) 青森
2026.6.3(水) 青森→上北
2026.6.4(木) 上北
2026.6.5(金) おくすり百貨店
2026.6.6(土) いいんだよ。
2026.6.7(日) ダークサイド質量
2026.6.8(月) 引き抜き
2026.6.9(火) 孤城にひそかに集まれ!
2026.6.10(水) 役割の売買
2026.6.11(木) ハプバーも売春
2026.6.12(金) 決めつけはいかんよ、決めつけは
2026.6.13(土) 青森のお店 振り返り
2026.6.14(日) 孤高と孤独と
2026.6.15(月) 向上と
2026.6.16(火) かかわりのかたち
2026.6.17(水) わたくしの悪いところ
2026.6.18(木) おじさん叩きの事
2026.6.19(金) 魔人ブウと差別されるおじさん
2026.6.20(土) ショタ考(男女差について)
2026.6.21(日) 阿佐ヶ谷→新宿

2026.6.1(月) ぐうたらイブ

 湯治Aから帰宅。明日はぐうたらの日なのでイメトレに励む。

2026.6.2(火) 青森

 湯治Bに旅立つ。ぐうたらの日なのに新幹線の中で仕事試みるも捗らず。ぐうたらの日だからな。199円をケチって新青森から自転車で走る。道中で無情報喫茶を発見、意を決して入ってみると「水道工事がある」とすげなく断られる。「旅の人?」と言われハイと答えたらやや態度が軟化した。また今度来てみよう。
 青森駅に着く。「味の札幌 大西」に行ってみた。なつかしい。たぶんここに高2の夏、来た、ような気がしているが、べつの機会だったような気もする。青森および北海道に高2以外にも20年前後前に行っているはずなのだが思い出せない。美瑛を再び巡ったはずなのだ。まさか夢だったのか? いやそんなことはない。2015年8月に札幌にいた記録は出てきたがこのあたりもよく思い出せない。急務だホント。人生を年表にまとめたりmixiやTwitterを日記に統合する計画を進めねば。AI様のおかげでようやく光明が見えている。
 ボヘミ庵、ワスレ草、いいわけに行った。明けてワスレ草は1周年だったらしい。めでたい。いろいろ話してすごく心意気のある素晴らしい人物だとまた思った。

2026.6.3(水) 青森→上北

 しもん、cafe0371、虎の穴。間違えて東青森ではなく筒井駅から乗ってしまい1860円もかかってしまった。乙供で降りて自転車でひと駅(6~7キロ)走れば1590円だったのだが一刻も早く宿を確保したかった。ここ数日朝昼晩と電話かけていたが一切つながらなかった玉勝温泉、一か八か直接行ってみたら老人が二人いて、泊めてもらえた。2泊で4000円。
 道の駅で買い出し、帰りにLUSHでミルクティー飲みつつ少し書く。「前にいらっしゃいましたよね? 名刺もいただいて。」21時まつのゆに浸かる。スナックめぼしいところ閉まっていたのでどこも寄らずに帰る。日記も1~3日ぶんまで簡易に済ます。今度たぶん詳しいこと書く。

2026.6.4(木) 上北

 ヌガー! 昨夜は24時くらいに寝て、6時半くらいに起きた。健康。宿にカーテンがないので日光で目が覚めるのだ。きのう道の駅で買った食べもので朝食と夕食をまかない、ほぼぶっ通しで原稿を進める。16時ごろ最後まで書き終わった。これから推敲と細かい記事や作業が残ってはいるがとりあえず一区切り。フィー。
 本当はここまでを4月末までに終わらせる(と言っておいてどうせ5月半ばくらいになるかな~)と思っていたのだが、6月4日までずれ込んでしまった。ひとえに僕の気が散りやすいからです。入院はむしろ原稿を進ませてくれた。が、後半はさすがに飽きていた(良く言えば疲れた)。湯治A、湯治Bと合わせた三大合宿によってなんとか完成。
 何を書いているかというと、まだ大きな声では言えないが夏に出版する(予定の)書籍である。詳細は徐々にさまざまなコンテンツによって伝えていくつもりだが、とにかく出たら買ってください。たぶんいいことが書いてあるので。初めて僕の考えをまともに世に問うことになるので。ワクワクしますな。
 いまみなさんにできることは「ジャッキーさんの本が出るらしいよ」と噂することです。みんなで僕を売ろう。

 16時半から1時間半だけ寝た。カフェインを入れていたせいかほぼずっと意識はあった気がするが、これがあるのとないのではえらい違いだ。こまごまとしたことを済ませ、こうして日記も書いて、夕食がてら飲みに出る。この町にはすでに馴染みがたくさんある。これも仕事なのだ。ワッハッハ。

 そういえばワスレ草の店主から「全国ツアーどうなりましたか?」と言われた。覚えてくれていたのだ。「バーが全国ツアーって響きだけで面白いので忘れないですよ」と。そう言われると頼もしい。意外と面白いと口にしてくれる人は少ないのだ。たぶん僕の感性と彼女の感性がやや異常なところでマッチしているのだろうな。やれやれ。売れる気がしない。しかし届くべきところには必ず届く。せいぜい堂々とやろう。

2026.6.5(金) おくすり百貨店

 KNM(緊急で日記を回しています)。だいたい頭のいい人間なんてのは繊細だし考え過ぎちゃうし他人から正当に認めてもらえない。頭がいいから適切な自己評価ができているのに他人はそのように評価してくれないから混乱するし不安になる。
 仕方ないから精神科に行く。精神科のことをキチガイ病院と言うのは筒井康隆の小説で読んだ。『時をかける少女』ですがいつからか差し替えられたらしい。古い版が読みたいな。こないだ『筒井康隆自伝』読んでめっちゃ面白かった。僕も90歳になったら自伝書こう。
 キチガイ病院にかつぎこまれるとかなりの確率で薬が出てくる。『うつの8割に薬は無意味』という本があって、平たくいえばうつ病の薬を処方されている人の2割は生物学的要因が強く服薬を要するが、8割は環境要因が圧倒的で本来は服薬が必要ないという話。必要ないはずの薬でも飲み続ければ飲まれる。薬を飲んでも飲まれるな。こういうことをSNSで堂々と書くと怖いのでKNMなわけだ。
 松本俊彦先生(友人の主治医、主著『薬物依存症』)もいろんなところで常々主張しているが薬物依存の原因は環境、とくに人間関係にある。友達がいて生活に不安がなければ薬物依存にはまずならない。この考え方はとても大切である。
「2割か8割か」の問題は重要で「医者にかかるな」と主張したいのではまったくない。ただ「8割」に該当する場合はたぶん、食って寝て楽しんで自由に毎日を過ごしていたらいずれ治るものだろうとは思う。ただ食って寝て楽しんで自由に毎日を過ごすことができるならば薬は飲まなくてもいい。なぜ薬が必要になるのかといえば社会と折り合いをつけねばならないからだ。学校に行ったり仕事をしたり接したくない人と接しなければならない。家族と争ったり家族を支えねばならない。その中でつらさや苦しさ、そして各種の身体的バグが出る。
「眠れない」という人に睡眠薬が処方されるが、放っておけばふつう人間はいつか寝る。放っておいても眠れない人に薬が必要なのであって、そのうち十分に寝るのならば薬はいらない。ところがそのうち寝るはずの人にも薬は処方されてしまう。なぜといえば、その間に社会とかかわらねばならないからだ。学校に行ったり仕事をせねばならない。学校に行ったり仕事をしなくてもいいならばいつか来るはずの睡眠を待つことができる。決まった時間に起きなければならないと寝ようとしなくてはならなくなるが、起きなくてもいいならいつ寝てもいいのでぼんやりと眠りを待つことができる。それでも眠れない人のために医療はある。
「8割」とされる環境が主因のうつも、その原因となるあらゆるものを排除できるのであれば、そのまま待っていればそのうちよくなることがほとんどであろう。しかし現実には排除できないから服薬が選択される。だいたいのうつは2億くらいあげれば治ると思われるが、先立つ2億がない。
 頭がよければその頭のよさを駆使して、まだ頭のよさが機能するうちに、うつの原因となるものを可能な限り排除するほうへ動いたほうがいい。必要なのは環境調整と休養。それが手遅れになると服薬しかなくなる。言うまでもなく飲まないにこしたことはない。しかしあまりにも服薬はカジュアルになった。右を見ても左を見ても辛そうな人は薬を飲んでいる。それなら自分もと思うのは自然な心の動きだろう。
 また例の橋本治さんの言葉を借りよう。何度でもこれは読むべきである。

 陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。
 陳腐であるということは、退廃しているということです。現代では、既に退廃もそこまで大衆化しました。平凡な顔をした退廃とくっつく必要はないということです。そして、平凡な顔をした退廃ほど、逃げるのに困難を極めるものはありません。何故ならば、平凡こそは、人類の行き着く最終の安息の地だからです。そこが退廃しています。そこに居着いたら、もう永遠に逃げ場はありません。だからすぐ逃げなさいと言っている訳です。
 既にそれに見こまれているあなたにとって、多分逃走は困難でしょう。困難ですが、それをやらなければ、あなたも死にます。
(橋本治『青空人生相談所』「■付き合っている彼女に結婚をほのめかされて困っている二十六歳男性のご相談」)

 ところが困ったことに日本では成人は18歳と決められていて、親の庇護を受けなければ生きていけない未成年者には自分の意思で環境調整と休養を実行することが困難であることが多い。まして調整すべき環境というものが自分を完全に取り込んでコントロールしようとする家庭なるものである場合は、特に。ゆえにこそ「頭のよさを駆使して」と僕は言うのだし、橋本さんは「強くなるしかない」(「101匹あんちゃん大行進」最終回)と言う。それは簡単な道ではない。血反吐や激痛を伴うかもしれない。しかしそれ以外には希望がない。自分以外に希望がないから、辛いのである。だから孤独にならないように友達をつくり、本を読み、どこかに行って何かを見るしかない。そして深く考え込むしかない。
 当然そんなことはとうにわかっていて、しかしどうにもならないから藁をも掴む気持ちで人は薬を飲む。それもわかる。頑張れという言葉しか思い浮かばないのは無責任で怠惰だから僕もまた考え込む。とにかく心身の孤独から脱し、心身の自由を勝ち取るほうへ努力するしかないだろう。そのためには自分の心身を物質的に操作しようとするものは邪魔だろうと僕は思うのだが、それは残念ながら僕の考え方でしかない。だからここに静かに書きのこすしかできることはない。

2026.6.6(土) いいんだよ。

 昨日の記事だけだと誤解があるかもしれないので補足のつもりで書きます。僕にできることなどありません。他人の内面に対して何かできるということは基本的にない。できるのは「ただそばにいるだけ」。これは水谷修こと夜回り先生も言っていて、彼のキャリアを考えたら非常に説得力がある。頼もしい。
 ただそばにいるだけ。僕の言葉でいえば「友達でいること」。それ以外に他人の心を癒やし、助け、背中を押す方法はないと思う。
 日記を「水谷修」でGrep検索したらいくらか面白い文章が出てきたので紹介します。ぜひリンク飛んで読んでください。

 心は、時に邪悪に傾きます。そして魂さえも奪います。
 でも、ほんのわずかでも魂のかけらが残ってさえいれば、心は再び美しく生まれかわります。
 夜回り先生こと水谷修さんが、「昨日までのことは、みんないいんだよ。」と言えるのは、こういうことを踏まえているのだろうと、僕は思います。
2013/12/09 月 邪悪な心と美しき魂(「絶対負けない!」)


 齢29にして僕はやっと美しさに向き合うことを決心しつつあります。それは「生命を引き受ける」ということでもあります。ようやく面倒くさがらないで生きる気になったというようなことです。
2014/01/25 土 改悛の情が顕著である)


 過去の自分はサイテーだった。しかし今の自分はサイテーではない。そう思えなければ、「責任」なんて持ちようがない。過去の自分は「責任」なんてものを背負うことができないほど幼く、未熟で、サイテーだった。しかし今の自分は、少なくとも「責任」を背負うことができるくらいには、マシである。そう思うことが、スタートなのであります。たぶん。
2014/07/08 火 あなたに女の子のいちばん)


 夜回り先生こと水谷修さんはこう言う。
「いいんだよ。昨日までのことはみんな、いいんだよ。今日からは、水谷と一緒に考えよう。」
 これがすべてである。ほぼ真言(マントラ)に近い。
2017.02.10(金) 16:54 過ちについて)


 僕が僕である限り、僕のまわりにいる人たちは、僕のまわりにいる人たちで、変わらないのだ。同じ人たちなのだ。
2018.11.12(月) 加点法と未来(続))


 夜回り先生こと水谷修先生が言っていた。自分には何もできない。ただ黙ってそばにいることしかできないと。
 明日をつくるのは彼ら彼女らであって、第三者たる自分ではない。そこを見誤ると「義侠心」みたいになる。で、ともに沼にはまりこんだり、堕ちていったりする。
 自分には何もできない。「救う」なんておこがましい。何かをしたいと思うなら、何も言わずにそばにいるしかない。
 それには大変、時間がかかる。

 あるいは時に、離れるほうがいいこともある。そばにいないほうがいいことも。
(ここまで書いて、時間切れ。とくには続かない。誤解も恐れない。)
2020.3.4(水) 時間がかかる)

 すべて名文で、今の僕の考え方の基盤がすでに現れており参考になるはず(何の?)。加点法と未来はとりわけ好き。

2026.6.7(日) ダークサイド質量

 友達がダークサイドの淵に立っている、ように見えるとき、何ができるかといえば「友達でいること」だけである。あまり手や口を出しても仕方ない。

 ダークサイドに堕ちないようにがんばっている人がいる。放っておくと自分はダークサイドに堕ちてしまうだろうと思っているからだ。Aという行為があって、それには正直言って興味があり、やってみたいとは思うのだが、それをするとダークサイドに堕ちそうな予感があるから我慢する。そんななか友達がAに手を染める。混乱する。そんなことしたらダークサイドに堕ちるんじゃないの?
 ここで友達が手招きをするかどうかで話はだいぶ変わる。「ダークサイドになんか堕ちないよ」「ダークサイドに堕ちる人もいるけど、しっかり自分を持っていれば大丈夫だよ」と。ダークサイドに堕ちずにAをできるなら何も悪いことはないので、Aをしてみてもいいかなと当然思う。

 それはどう考えてもドラッグの形をしていないドラッグで、しかし合法だからと許されている。多くの人がそれをやっている。しかし自分にはそれがドラッグにしか見えない。「わたしがドラッグだと思っているだけで、べつにそんなに悪いのでもないかもしれない」と思うしかない。「いちどくらいやってみようかな」と思ったりはする。もちろんここではまだ考えるだけだ。
 とりあえず見学に行こうとか、話を聞いてみようということになると、引きずり込まれる可能性が高まる。触らぬ神に祟りなしだが、すでに好奇心は高まっている。
 先月書いたコンフォートゾーンとハプニングバーの話にけっこう似ている。自分をむしろ「下げたい」という潜在的欲求があると、つい手を出してしまったりする。「下げたくない」と思うならドラッグのようなものになぞ手を出さないほうが賢明に決まっている。

「べつにこのくらい減りはしないよ」と思う人は思うのだが、客観的にはどうだかわからないし、人によってものすごく減る場合もある。そこから人生がおかしくなることさえある。なぜ自分から減りに行こうとするのか理解できない、理解はできたとしても、そんなことしないほうがいいのに。
 しかし「それをやったらおしまいだ」と思うラインは人によってさまざまだし、「こういうやり方であれば通る」と理屈をつけることもできる。自分基準で考えないほうがいいだろう。こちらはまだ何もそれについて考えていないが、向こうはすでに多くのことを考えていて、そのうえで実行しているのかもしれないから。それはたぶん尊重すべきなのだ。「それをやったらおしまいだ」とこっちは思っていても、「そんなことわかっているが、こういう事情もあるし、こう考えればべつにおしまいではない」という理屈をあちらは用意している可能性が、意外と高い。

 何を言っているかわからないような話になってきたので、ここで量と質の話をしよう。だからと言ってわかりやすくなるのでもなく、むしろわかりにくくなるかもしれないが、なにぶん午前五時前に何も考えずに書き始めたのだ。

「考えたうえでこうした」という状況が危険なのは、「考える」ということは量で測れてしまうからである。たくさん考えたからと言って妥当な選択ができるわけではない。「あなたのためを思って」というのもだいたい量的な話である。「こんなに愛している」というのも量的な場合が多かろう。
「わたしはいろいろなことをたくさん考えたうえでやっているのだから、外野からつべこべ言わないでほしい」というのはなるほど感情として理解できるのだが、いろいろなことをたくさん考えたからと言って正当性が担保されるわけではない。「いろいろなことをたくさん考えた結果かなんかしらんが、お前のやってることは良くない」と返したってべつにいいのだ。質の低い「考える」はありふれてある。「あなたは量的にはよく考えているのかもしれないが、質的にはおそらくろくに考えられていませんよ」と指摘したほうがいいときだってあるはずだ。
 僕はよく失敗をするのだが、たぶん質的にミスっていることが多い。質的にミスるというのは、「考えが足りない」ということである。足りないというのは量的にではない。質的に。

2026.6.8(月) 引き抜き

 わが夜学バーのベテラン見習いスタッフことスーパースターまちくたさんがいきなり「メイドバーに出ます!」と宣言した。当人のツイーートで知った。それを見て「大声が出た」という人がいたらしいし、僕もちょっとくらい声出しちゃったかもしれない。驚いた。
「メイドバー孤城」というまだプレオープンのお店で、夜学バーから徒歩数十秒。店長とは僕も親交がある。彼が前にやっていたコンカフェに友達が働いていたので知り合った。こないだ闇タイミー(直取引)として冷蔵庫運んで1000円もらった。若いシュッとした男の子で、いいやつである。なぜまちくたさんと彼が繋がったのかというと、その例の働いていた友達が橋渡しとなったようだ。
 つまり、まあ、「自分のところのスタッフが知人のお店にゲスト出演することになった」ということで、それ自体別に悪いことでもないような気はするのだが、業界的には明らかな引き抜きであり、夜職においては最も許されないことの一つだ。メイドバーやコンカフェ(以後、めんどいからコンカフェとする)は人間(99%以上は女なので以後、めんどいから女とする)を商品として扱うお店である。誰がなんと言おうとそうである。これに異論があるとしたらじっくり聞きたい。よその店の商品を自分のところで売る、ということが許されるわけがない。
 ただここで複雑なのは夜学バーはスタッフを商品として扱っているわけではないし、そもそも雇用関係はなく「業務委託」だからスタッフがどこで働こうと自由。むろん夜職の論理としては業務委託だろうがなんだろうが引き抜きは引き抜きで、極刑(死刑)に処されるべき重罪ではある。そういう場合は事前に話し合ったうえで手打ちとするのが基本だと思うが、僕には何も知らされていない。でもそれは仕方ない。夜学バーはコンカフェではなく、狭義には同業ではないのだ。もんじゃ屋と家庭教師を掛け持ちしたって誰も怒らないだろう。レコードバーと夜学バーを掛け持ちしたら怒る人は怒るだろうけど(僕とか)。
 ゆえにこれは引き抜きではあるが、「レコードバーで働いている人間を家庭教師として雇った」ようなものであって、別に何も悪くはない。ただ「夜学バーのスタッフに近所のコンカフェで働いている(働いたことがある)人がいる」ということになるだけだ。
 まことに個人的な感想を述べればコンカフェで働くというのは広義の売春(女を売ること)であって、もちろんキャバクラやガールズバーでも同じである。僕は広義の売春を否定するものでもないし職業差別をするつもりもない。ただしその世界というものは特殊な世界であって、もんじゃ屋や家庭教師とはまったく質を異にするものだということは肌でも頭でも知っているつもりだ。かりに遊び半分であれそこに入っていくには相当な覚悟を持っていなければならないし、飲み込まれないための軸や胆力も必要となる。まちくたがんばれ~。
 べつに彼女の人生の心配を深刻にしているわけではない。引っ越しのバイトを一回したからと言ってそのまま山谷や西成の労働者(こちらも非常に特殊で厳しい世界のはずだ)となるわけではない。友達に誘われてなんとなくやってみた、お金ももらえたしいい経験になった、ということでたいていおさまる。べつに引っ越しバイトを学生時代に100回やったってそのまま山谷や西成の労働者になるわけではないし、コンカフェ嬢を100回やったっていつの間にかソープ嬢になっているということは原則としてない。しかもべつにソープ嬢になったって問題はない。ただ、その世界は特殊であるというだけだ。特殊浴場だけに。
 僕にとっての関心事は先に述べた「夜学バーのスタッフに近所のコンカフェで働いている(働いたことがある)人がいる」ということ、たぶんそれだけだ。それだけで目に見えない「近所づきあい」は発生する。店主としてはけっこうめんどくさい。夜学バーは狭義においてコンカフェと同業ではないとさっき書いたが、狭義において同業と見られる可能性がちょっと高まる。「そういうもの」として近隣から見られる。光栄ある孤立とうそぶいてもいられない。それはもちろん仕方ないことではあるのだが、自分の知らないところで意図せずそういうことが動いていく寂しさと疎外感はある。

2026.6.9(火) 孤城にひそかに集まれ!

 闇のフィクサーが暗躍している。女友達を「メイドバー孤城」にスカウトしまくり、かのお店にかかわる女の子の大多数を埋めてしまった。自分は姿を現さない。現れない。引き払っているから。雲隠れしているから。
 具体的には、昨日書いたまちくた、以前「気絶」(近所の有名店)で働いていたメイド数名、僕の親友である死に損ない、かつて夜学バーで働いてくれていたのめみさん、ほかにも方々声をかけているらしい。ちなみに今のところ決まっているのはまちくたの出勤が15日、死に損ないとのめみさんは27日のライブに出るようである(2026/06/10追記、上記に加え20日のめみ出勤とのこと)。死に損ないはまだ確定ではないかもしれないし当日現れない可能性も考えられる(失礼)が、ともかく要チェックやで! そんで夜学にも来てね。
 優秀で上等な女の子が何もせずたくさん集まってきて孤城の店長も助かっているのだろうが、実質的な乗っ取りのようなものでもあり、この大胆な在宅行動力とそれを実現させる人望と交渉術に脱帽せざるを得ない。闇のフィクサーは僕の本当に仲のいい友達で、心の底から「やるな」と思う。逆シャアでシャアが「やるなブライト」と言う時みたいにね……。
 彼女の手引きにより「夜学バーフレンドリーなメイドバー」が徒歩数十秒の位置に爆誕したわけであるが、昨日書いたように複雑な思いはある。夜学バーが「メイドバーフレンドリーな店」になってしまったわけだから。死に損ないや一部の元気絶メイドは友達ではあるけどスタッフではないから影響ないし、のめみさんも夜学には今出ていないから何も問題ないんだけど、やはり現役がメイドとして出勤するというのは夜学バーのブランディング、マーケティング的に、悪いとは言わないが「異分子が来たなあ」という感覚はある。自分には操作できない不確定要素が増えた。そんなことお店やってたら当たり前にいくらでもあるんだからいいんだけど、フムー、とはなる。
 フムー、とは? 要するに「雨が降ってきたなあ」みたいなことですね。傘がないぞ、傘を買うか濡れて帰るか、とりあえずどっかの店に入るか、どうしようと判断を迫られる。すなわちただの日常。生きていればいくらでもある「フムー」。
 なんでメイドバーを雨扱いしてんのか?と言いますと、メイドバーってのが僕は単にあんまり好きじゃないだけでしょうね。苦手というか。行っても楽しめないし。楽しめたとしても楽しんでいる自分が嫌だし。潔癖なのでしょうな。すごく正直に言うと。「広義の売春」とか言って差別しているわけだし。広義の売春をしている人を悪く思ったり差別するのではないが、そこは「自分が楽しく思えない世界」ではある。ただそれだけだな。書いていると整理されてくる。
 コンカフェでもキャバクラでもガールズバーでも、おそらく性風俗でも同じで、「自分のための場所ではない」って思っちゃうわけですね。それで勝手に疎外感を得るのでありましょうな。ゆえに自分も「そういう匂いのするお店」にならないように組み立ててきた。
 もうホント、メイドさんが前に座って「はじめまして~」とか言われるだけでキツいのですよ。バーテンダーに「お近くですか?」って言われて辛い気持ちになるのにかなり似ている。やめてくれ~って思う。コミュニケーションのワガママ坊主なのだ。僕は。
 次回につづく。

2026.6.10(水) 役割の売買

 バ~ミヤンのバイトを2ヶ月だけやったが、あれも本当はかなりキツい仕事で、「役割」として人間と向き合わなきゃならないわけですよ。もちろんお客としてファミレスに行くのもその点ではちょっと苦手で、「役割」に接してもらう瞬間がいくらかあるわけですね。だから今のタッチパネル&ロボット配膳&セルフレジは最高です。
「松屋には行けるが吉野家には行けない」という時代がけっこうあったし、同じことを言っている人はけっこういた。松屋は食券だったから行けたのである。吉野家は店員さんとコミュニケーションをとらねばならない。しかしいま振り返ると、コミュニケーションが嫌だったのではなくて「役割」と接するのに気疲れしたということなんでしょう。
 しかしメイドの店とかコンカフェの中には「ウチらは役割としてじゃなく人として人と向き合っています!」というお店も最近はたまにあって、それは実にけっこうなことなんですけれども、実際本当にそうなっているということはたぶんない。そりゃ接客業である以上それはグラデーションなのだが、メイドである以上必ず濃くなる。「女」として存在して、そこに何らかの役割を求める人間を喜ばせなければならない。実際には絶対にそういうことになっていて、「ウチらは人として~」ってのは演出でありエクスキューズである。そこに疲れ切って引き払ったのが件の闇のフィクサーだと僕は理解している。
 最初から「ウチらは女を売ってるんで!」と100%女を売るのと、「ウチらは人として働いてます!」と50%だけ女を売るのと、果たしてどっちが健全なのかは意見が分かれるかもしれない。僕はどっちも疲れるというだけだ。
 じゃあ夜学バーは女(ないし「役割」)を売っていないと言えるんですか?というと、それはまさにグラデーションで決して0%にはならない。どんだけ下げられるかという戦いではある。「人として~」のコンカフェも普通なら100%になってしまうところをせめて50%とか30%とかまで下げようとしているのだからそれはそれで世の中にとって良いことなのだと僕は本気で思う。ただそれが一面欺瞞ではあるということを含羞をもって自覚している店のほうが好きかな。そんな店見たことないけど。(たぶんあの闇のフィクサーにはこれがあったってことですね。故に苦しんだ。)
 むしろ「女を売ってま~す! テキーラいただきま~す!」の店のほうがわかりやすくて清々しくて個人的には好感が持てる部分もある。
 魅力的な女の人がやっているから結果的にそれを求めて人が集まる、というのはそれ自体当たり前のことだが、そこで「役割」を演じすぎると壊れる。東上野のスナック「和」のママは僕が取材された記事を読んで感銘を受けてくださった(これに関連する話は5月の夜学バー日報に二回くらい出てくる)そうで、彼女の言を信じるならばそのおかげで気が楽になりお店を続けて行く気力も高まったとのこと。たぶん彼女も「役割」に疲れ切ってしまっていたのだ。
 人間としてそこにいることと、役割としてそこにいることが半端に混じると疲れるんじゃないかなあ。僕は、というか夜学バーは「お客にとっての役割」になることをできる限り放棄しているから、「まず自分(店員)が楽しむ」という原則を信念としている。あとはふつうに人間同士なんだから失礼なことを不当にするのはよくないよね、と。
 コンカフェのような場だと自分がいくらそのような人間として存在しようと思ってもかなり難しい。お客は役割を求めているからだ。オーナーであればその「お客」を選び、コントロールし、教育さえして「役割を求めないメイドバー」(働かないメイド!?)の構築をねらうこともできるだろうが、いちスタッフではまず無理だろう。たぐいまれなる大天才の存在を否定するものではないが。
 そして信じてもらえないかもしれないがそのような場に身を置いているとどうしても人の意識は変容する。「耐えられない!」とすぐに逃げ出す(バ~ミヤンの僕のように)ならいいが、なんとなくそこにとどまることができてしまうと考え方はだんだんその場に最適化していく。それまで否定していたことでも肯定できるようになる。「煙草すう人信じられない!」と思っていた人が煙草すう人の多いコミュニティにしばらくいると、いつの間にか自分もすっているようなものだ。それがその場のスタンダードであり、そのメンバーを自分は好きなのだから、好きな人たちが好きなことをいやがることはない。
 それが悪いのか? 悪くないよ。でも昔の自分や、昔の自分を好きだった人に対しては申し訳ないよね。みたいなこと。そんなんどうだっていいと思うならいよいよマジで何も悪くない。いやホントに、人生経験にできてノリとして楽しめるんだったら悪いことなんて本当にないのだ。僕だって女の子だったら何も考えずキャバクラの体入くらいした可能性はある。誘われたりしたら、そりゃ。高校生のときホストのバイト誘われて断ったってのあったけど、大学生なら断らなかったかもしれないもんな。でもそしたら僕の人生はまったく違うものになっていた気はすごくする。きっと環境に染まっていたと思う。ちょっとゴールデン街に通っただけでこうなっちゃったんだからね。歌舞伎のど真ん中に行ってたら「そうなっちゃった」んじゃないかな。
 キャリアの8割は偶発的に決まる、という話をつい数日前にお店で聞いた。偶発性を織り込んで柔軟に生きましょう、みたいな話らしい。プランドハップンスタンスという。事はだいたいそのように進んでいくものだ。
「昔は嫌だったけどいまはそんなに堅苦しく考えていない」ということは僕にもいくらでもある。その調整を延々するのが人生ですわな。《昔のぼく》にはその都度「こういうふうに考えて、ちょっと改めさせてもらいます」と必ず事情を話して断りを入れる。そういうことが大事なのだと思います。

2026.6.11(木) ハプバーも売春

 親しい友達にもまさに「役割を演じすぎて疲れた」人(僕の解釈です)がいて、いったん仕事を辞めた。そういう人の気持ちを理解するには同じ土俵でやってみるしかないし、かりにその人に憧れるなら経験として「似たような役割を演じてみる」というのは正解だと思う。ただそれをどこでどのようにやるか、ですよね。
「ハプニングバーに行ってみたい」という好奇心と欲求があって、べつに経験としてはいいだろうが、「ジャッキーさんがそんなところに行くなんて幻滅しました!」「一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」という声はきっと出る。出てほしい。そしたら隠れて行けばええねん。こっそりと。それは僕がズルい人間だからできるのかもしれないけど、意外とそういうことがバランスを取るってことなんだと個人的には思うんですわよ。ただ逆に「正々堂々とやりたい」「絶対に嘘はつきたくない」っていう発想だってあって、そこは好みというか信念だろう。
「ハプニングバーに行きたい」と思って、友達の働いているハプニングバーに行ったら、友達にハプニングバーに来たことが知られて、「こないだジャッキーさんがウチの店に来て」みたいな話にもなる。どんだけ場所を選んでも知り合いに会う可能性はゼロにはならない。ハプニングバーに行くのは危険である。平生のイメージと信頼を守りたいからね! ただまあ浜松とかのハプニングバー(あるのか?)なら可能性は極めて低くなるから、行ってみるならそういうところなんだろうが、絶対に楽しいわけがなく、居心地の悪いまま泣いて帰ることが目に見えているので、たぶん行かない。前も書いたが好奇心を持っているうちが華なのである。
 ところでハプニングバーもかなり広義になら売春かもしれない。女性のほうが入場料が安く、時にはタダなうえにクオカードがもらえたりすらする(らしい)。その場における価値が圧倒的に高いのである。単独男性は10000円とか払って単独女性を奪い合う。スト値ならぬハプ値みたいなものがあって、その入札制みたいな感じか?「あなたイケメンなので落札です!」的な。店の雰囲気にもよるだろうが。女性は現金を直接もらうことはない(少なくとも表向き)ものの、ごく安価(ないしタダ)でお酒が好きなだけ飲めてチヤホヤされて、性欲まで満たされることができる。これは超広義の売春と言っても差し支えない。だからそこに行くこと、ハプニングには直接与さずとも金を払って場を賑やかしに行くということは売春への加担である。こういうことを考えるのが面白いからハプニングバーに興味があるのであって、実際行きたいかとか行くべきかはまったく別の話。コンカフェとかについても考えるのは好きだが行くのは苦手。どこまでも在宅オタクだなーと思います。

2026.6.12(金) 決めつけはいかんよ、決めつけは

①「最初からでけへんと決めつけんといてください」(高市早苗・2/8 TBS選挙特番で太田光に)
②「週刊誌の記事をもとに(動画を)作成したと決めつけられることは大変わたくしは心外でございます」(高市早苗・6/5 参議院予算委員会)
③「いつか僕が大人になる頃には 人を決めつけることはなくなるか?と」(小沢健二・4/26~5/18「月と街のAidade」『いつか僕は』)

 首相とオザケンが同時に言っているのだから注目せざるをえない。「決めつけ」という言葉。

 混乱するような余談をつい出してしまうが決めつけといえば小林よしのり『ゴーマニズム宣言』の最初期、坂本弁護士一家殺人事件へのオウム真理教の関与について「決めつけはいかんよ、決めつけは」と書いていた。もちろんよしりんは「どう考えても状況証拠が揃っているのでクロだろう」と思っているはずだ。皮肉で言っているのである。1994年の回。
 どう考えたってオウムの犯行なのに、メディアや知識人は「決めつけはいかんよ」と慎重だった、らしい。そこでよしりんはしっかりと「明らかにオウム」と決めつけたうえで「決めつけはいかんよ」とあえて言っていて、そこが痛快だったわけだ。(当時を知る人、空気感については自信がないので教えてください。僕は小さかったので。)
 たぶんゴー宣においてよしりんがしていたのは「決めつけ」ではなく考察、あるいは「当然こう考えるべきだろう」という事実から目をそらすなという警鐘。「決めつけはいかん」と言って逃げるのではなく、しっかり向き合いましょうと。このへん記憶が曖昧なのであとで単行本確認する。

 それはそうと今年の話。「決めつける」ということが嫌われる時代に突入してきた。人の夢や目標を「どうせ無理」などとへし折るのはよくないし(①)、ディープフェイクやフェイクニュースが横行し、何が本当かわからなくなってきたゆえ「決めつける」という軽率なことは避けなければならない(②)し、「こいつはこういうヤツ」というキャラクターや役割(役割!)を先行させて人と向き合うことも人間性のムシなんでやめましょう(③)、ということでもあるんだと思う。
 時間がないのでなんだか雑だが、「決めつけ」という言葉を使って人間のある態度を戒めようと時代は動いているのだと思った。

2026.6.13(土) 青森のお店 振り返り

<6/2火>
●ボヘミ庵
 もうひとかた女性のお客あり、カウンターで本を読んだりものを書いたりしておられた。一言も交わさなかったがたぶんこちらのことも「何者なのか」と気にしてくれていたのだろう、帰り際あきらかに目線が来ていたように思ったので「お店をやっていまして」と名刺を渡した。
 店主も積極的に話すタイプではなく、おそらくお客同士で会話することも当たり前ではないのだろう。ブックカフェ&バーという形態にはそれでよいと僕は思う。ただ「この人はどういう人なんだろう?」とか「話してみたい」という意思は存在するので、そういうのを察知してしまったら勇気を出してみるべきだと思う。勘違いの可能性もあるから慎重に、だけど。

●ワスレ草
 立ち退きまでの期間限定店という話だったがまだしばらく続きそうだ。「まさかこんなに早く来てくださるとは」と驚き喜んで(たぶん)くださった。明けて3日が1周年だそうで、ささやかにお祝いを述べた。記念のコースターはまだ届いていないそうで手に入らなかった。200円のライターも買い忘れた。またすぐ行きたいけど青森は遠い。おそらく9月、東北町の選挙(15日公示、20日投開票)に合わせて行くと思う。あとで書くがカフェ0371でも11~23日と早川ユミさんの展示があるので。
 台湾の航空会社のパイロットの方や、仙台から出張で来たリピーターの方などいらっしゃる。駅前ゆえに出張組が多いとのこと。僕もそうだ。今回の宿はこのすぐ近く。みな旅人なので「内輪」という空気には当然ならず、自然と会話が生まれる。あえて分類するなら「わざわざ型」ではあるのだが、西部劇の酒場とか峠の茶屋みたいなところもある。「観光型」ではない。「お休み処型」はちょっと近い。「止まり木型」って感じかな。
 店主は当たり前に常識から外れようとしていてすばらしい。「何らかの形で続けて行きたい」とは言っているので応援しようと思う。全国ツアー会場としては上位候補、というか実現するならぜひお願いしたい。

●いいわけ
 グレープフルーツちょうだい。東京ではそんな仕事に携わっていたらしい。前回はそんな話聞かなかった。今回もお客さんがバラしたのだ。十分な自慢になるはずのことを自分から言わないのは好感が持てますな。火曜だってのに盛況、溝の口でお店をやっている女性二人もいらっしゃった。駅から遠いのによくぞ。
 立ち飲みのラムバー。ラムの揃えはたぶん東北一だろう。店主はずっと東京にいて戻ってきた人で音楽や文化に明るい。お客にもインテリがいる。ただ思想はしっかりと固まっていて、夜学バーのようにあらゆる言論について等距離を保とうという姿勢はない。むろん夜学のほうが異常である。ノンポリでいたい、本当に。そういえば今回の著書にはそのあたり書いていないが、安易に踏みこまない方がいい領域なのでまた別のところで。

<6/3水>
●りとるはうす しもん
 モーニング頂いた。「また喫茶店めぐり?」みたいなこと聞かれて、覚えていてくれているのかと驚く。かなりのお年だが、プロがお客を覚えるのに年齢はあまり関係ないのだな。頼もしい。まったく唯一無二の店なのでお早めに。

●cafe0371
 前回開いていなかったが今回は「OPEN」となっていたので入ってみる。完全に民家。入ってご挨拶したらまだ準備ができていなかったようで慌てられたが、快く受け入れてくださった。この時点でいいお店と完全に確定している。コーヒーすでに飲んじゃったのでチコリコーヒーいただく。いろいろと長話する。かなり仲良くなって「ウチに泊まってったっていいのよ。アッ言っちゃった!」とお茶目なお許しをいただく。一度くらい本当にそうさせてもらってもいいかもしれない。
 9月にここで展示やワークショップをなさる早川ユミさんという方は遅くとも2026年1月の段階で2027年末までの予定がほとんどすべて埋まっているパワフルな作家さんで、もちろん人気もある。なぜこんな小さなお店で?というと、店主がイベントなどに通い詰めて口説き落とした(これはものすごく大ざっぱな便宜的な表現で、実際には細かな経緯がいろいろあるはず)ようだ。この方も非常にパワフルだ。気が合うというのか、僕の話をしっかり受け止めて、自分の言葉で返してくれた。それだけで本当に涙が出るほどありがたい。きちがいなのでわかってもらえるだけで嬉しい。フランケンシュタインの怪物みたいなもんだ。帰り際に写真撮ってもらってリンゴジュースいただいた。かわいいぼくよ。

●虎ノ穴
 何もないような住宅街のロックじいさんの小さなカフェ。うまいコーヒーを世間話しながら気楽に飲める。めちゃくちゃいいお店だった。店主はリラックスするのが上手い。ふつう知らない人間がやってきたらリラックスできないというより、しないものだが、しっかりしてくれる。こっちもリラックスする。そういうところが最高というのだ。これ本当に、お店をやる人はみんな心得たほうがいいと思う。

<6/4木>
●トントン拍子
 あとで書く「R.」のお母さんのお店。最高だが2時間いるとちょっと高いかもしれない。人を連れて行くならアリかな。

●きんぎょ
 前に夜学staffさく氏が訪れたという上北町のスナック。前回「R.」でこちらのママとお会いしてさく氏の話にもなったのでお礼参りのつもりで行ったら、「R.」に一緒に来ていたお客さんが来ていて3人で1時間ほどお話しした。

●R.
 言わずとしれた行きつけのバー。セットでなく一杯売り、かつカラオケもないのはこのへんだとたぶん珍しい。そういうところがそもそも僕には好もしい。逆張りでちゃんと成立させている。ママは町会議員で9月に当選すれば二期目となる。意思は言葉を変え、言葉は店を変えていき、店は田舎を変えていきうる。言葉で直接変わるのは都市だけで、田舎は変わらない。だからこういう地道な活動が必要だし、ただ政治家というだけでなく建設会社の社長とかスナックのママでもあるとか、そういうことがすごく大事になってくるんだろうな。
 ほかにお客はなくゆっくり飲み、より親しくなれた気がする。次に行くときはちゃんと連絡しよう。生の小カブが旬でとても美味しかったので翌日道の駅で買うことに決めた。
 ちなみにトントン拍子は近々ここに移転し、「R.」は一つ奥のテナントに引っ込むらしい。R.で飲みながらトントン拍子の手羽先も食べられるということになるのだろう。最高また最高。

<6/5金>
●茶菓 初雪舎
 ほぼ毎回お世話になっている名店。ランチ予約して伺う。これほど文化的な場所がこんなところにあるとは、いつ来ても信じがたい。食後コーヒー飲みながらちょこちょこ読書と仕事。世間話も軽くて心地よい。ギリギリに出て青い森鉄道乗って八戸から新幹線。

2026.6.14(日) 孤高と孤独と

 孤高とは《ひとり超然として高い理想と志を保つこと。》とある。ATOKの「イミクル」という機能で、選択してctrlを二度押すと明鏡国語辞典の定義が引ける。便利すぎる。
 対して孤独とは《①身寄りなどがいなくて、ひとりであること。②行為・志などを同じくする人や精神的つながりのある人がいなくて、ひとりであること。》

 孤高であるためには孤独にならねばならない、とは確かギン氏が言っていたのかな。間違いなくそうだ。群れていては「ひとり超然」とはならない。しかし、孤独であればすなわち孤高というわけではない。
 また友人のくしもとさんは掲示板で5日の日記の感想として「結局孤高であるためにこそ人はひとりではいられない」と書いてくださった。

・孤高であるためには孤独にならねばならない
・孤高であるためにこそ人はひとりではいられない

 これらは両立するか?「同時」にありうるか?
 むしろ多様性の世の中とはこういうことでなくてはならない。僕のだいだいだ~いすきな橋本治さんの言葉を借りれば「みんなが王様になればいい」である。みんなが孤独であり、孤高でありながら、それぞれの頂きの上で友情を取り交わす。

 どっかの山のてっぺんで
 どっかの誰かが笑ってる
 僕はそれを見ながら
 違う山のてっぺんをめざしてる
(ゆず『てっぺん』岩沢厚治・作)

 最初の公式音源『ゆずの素』(1997.10)の1曲目で、実質的なデビュー曲だと僕は思っている。『夏色』はこの半年後。
 この曲は「六大学出のインテリの坊ちゃんには四回死んでもわかんねえだろうけど!」と始まり、若き岩沢先生の反骨精神が現れたもので、引用部はふつう「偉そうなヤツらが笑ってる一方で、自分は独自の道を行く」という解釈となる。しかし改めてこう切り出してみると、「ある山のてっぺんで友達が楽しそうに笑っていて、自分はそれを見ながら別の山のてっぺんをめざしている(その上で笑い合うため)」というふうにも読める。(もちろん文脈上まずそうは読めないのだが。)
 また中村一義『永遠なるもの』に「平行線の二本だが、手を振るくらいは」というフレーズがある。この二曲を接続した世界観が僕にはちょうどしっくりくる。

 みんなが山のてっぺんにいて、そこから笑い合ったり手を振り合ったりすればいいのだ。孤独であって孤独じゃない。孤高という言葉は辞書の上でもそういう広がりを持っている。
 また孤高とは「数値的に秀でている」ということではなくて、「他者から認められ肯定されるような独自性を持つ」というくらいの意味に僕は捉えている。便宜的に「山」と言っているが、それが高いから偉いとかってわけではなくて、その人独自の山であることが重要である。
 そしてすべての人間がそういう生き方をできるとは思っていないし、ゆえに「すべきかどうか」はそもそも考えない。そういう人たちが一定数いるし、できるだけ多くいたほうがいいとは個人的に思っている。
 ホイデェ?

2026.6.15(月) 向上と

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。」(夏目漱石『こころ』より)
 あまりにも有名なフレーズにござる。これに触れたのはだいたいみなさんと同じように高校二年生の夏くらいなのだが、その頃はわりと「向上心などない」みたいなことを思っていて、「Kは(あるいは先生は)そう言うけれどもべつに向上心なんかなくてもいいじゃん、そのせいでKは死んだわけだしマジで向上心とか害悪でしかないな」くらいに思っていた、かもしれない。少なくとも疑問は抱いていた。小山田圭吾さんもロッキングオンジャパンかなんかのインタビューで94年ごろ(1stアルバムに関して)「正論は正論でいいのか?」みたいなことを語っていた。向上心みたいなものが無条件で礼讃されるのってどうなの?くらいの話だった、ような気がする。家のだいたいどのへんにあるかはわかっているのだが発掘するのが面倒なので資料ナシ、ごめんなさい。
 今は「でもやっぱ向上心ってなんだかんだ大事だよな」と思っている。「ただし取扱注意」というだけで。好奇心、向上心、香田晋。(←次兄の「好きな言葉」)
 それは「よくなろうとする心」だし、「世の中をよくしようという気持ち」である。そして口酸っぱく言うが「世の中」には当然自分も含まれている。そんで綺麗に言えば「自分」にだってたぶん世の中が含まれているというか、無関係なわけがないのである。自分をよくするためには世の中(との関係)をよくしなければならない。ただ筋トレや勉強だけしてもよくはならない。ただ数値が変わっただけだ。関係の中に位置づけられなければ自分の変化はただの変化であって、良いも悪いもあるはずがない。
 Kとかいう人のいう「道」はたぶんあんまり世の中とは関係がない。Kは道のために「養父母を欺くと同じ事」をやったわけだし(先生曰くネ!)。一方先生は道ではなく(お嬢さんやその家との)「関係」のためにKを出し抜いたと言える。ではKと先生との関係はどうなったのか? どうにもならず、切れて、Kは死に先生も死のうとしているのである。道などなんの役にも立たない。
 国語的にいって「道=精神的に向上心(を持って生きる)」ということである。ここが取扱注意という所以。「道」には「世の中」が含まれていない。それゆえ向上心としては片手落ちである。「精神的に」という条件付けはそういうことなのかもしれない。それで悲劇は生まれた。
 よき向上心とは、自分と世の中が密接に結びついているということを前提に、そのどちらをも立たせるように全うされなければならない。

 Kは孤高と孤独とをはき違えて死んだ。先生は孤独になりきれなかった。ちゃんと考えれば綺麗な論にできそうな予感もあるが今のところかなり雑である、申し訳ない。でもなんかそういうふうに考えてもいいのかなって気はする。

『こころ』未読の方はちんぷんかんぷんだろうが読んで損はないので新潮文庫の1冊でも買ってくださいませ。やたら面白いし、面白いからだけではなくて、役に立つから。内容が役に立つのもあるし、このように話題に出されることが多いからというのもある。
 役に立つようなことを無理してでもやるのも向上心だと思うし、「自分が面白い」とか「自分に教養がつく」といったことではなくて「世の中との接続がよくなる」みたいな観点で行動できるってのがけっこういま僕の言っている向上心の核心って気がする。

 孤独+向上=孤高 ではないのか? ダジャレでもありますけどね。
 孤上していこうではありませんか。そのてっぺんには誰もいないが、見晴らしがよくて違う山のてっぺんがよく見える。そこで世の中と交わらなければ、墜ちて死ぬ以外にやることがない。

2026.6.16(火) かかわりのかたち

 ってのはいろいろあるもんで、「たとえば歩き疲れてしまった時にはいくつかの方法があって、その一つを選んだ時にはさよならを言わなくてはいけなくなる、だけど僕達は支えあって生きていく、これからもずっと、ずっと、ずっと! だから別れるということも一つの支えなのではないでしょうか?」なんて歌もありましたわ、cali≠gariが活動休止する時に発表したやつ。
 このバンドは6年後に再始動し、今も続けている。ただし今年の3月「2年半後に解散します」と発表した。さすがにその時にはこの『いつか、どこかで。』を演奏してほしい。「いつか、どこかで、又会える日が来るから。」
 それは同じ形であるとは限らない。カリガリというバンドは二度と再結成されないかもしれない。しかしいつか、どこかで、何らかの形で、また会えるのではないかと思う。この「何らかの形」というのを極限まで祈ったのが僕の「行き交う友達はみんなおんなじ人だと思う」(『友達は変わる』)というフレーズなわけですな。
 そこまで抽象的ではなくとも(このへんはわかってくださらなくてよいです、詩は、わかる必要がないことに意義がある)、メンバーが別の活動をしていたり、その中で何かカリガリのようなものが顔を出したり、昔の曲をやったりとかちょっと共演したりとかはあるだろう。振り返って言及することもあるだろう。何らかの形でカリガリは残り、死なない。彼らがプライベートで会うことがあるかは知らないが、どこかですれ違うくらいはあるし、思い出すことは絶対にある。
 もちろんべつにカリガリの話をしたいのではない。ここまではいつものカムフラージュ。もうちょっと偽装工作を続けると、1999年の『第5実験室』に入ってる『月夜の遊歩道』という超名曲はメロディの一部を2002年の『夏の日』に移植(?)しており誰しも一度くらいカラオケで『月夜の遊歩道』の歌詞にして歌ったことがあるはずだ。っていうか第5の村井さんの作曲めちゃくちゃいいな。『月夜~』もベースが効いていて素晴らしい。
 と言って別に何かを隠したいのでもない。だらだらしているだけ。
 坂口安吾の『不良少年とキリスト』は、最初のほうずっと本筋と関係ない歯痛の話とかしてて、ある地点でスルッと太宰治への追悼になる。むろんそこまでを伏線として。今ちょっと読み返してきたのだが、いい文章だ。著作権切れてるしあえて長々と引用しよう。

 死ぬ、とか、自殺、とか、くだらぬことだ。負けたから、死ぬのである。勝てば、死にはせぬ。死の勝利、そんなバカな論理を信じるのは、オタスケじいさんの虫きりを信じるよりも阿呆らしい。
 人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。名声だの、芸術は長し、バカバカしい。私は、ユーレイはキライだよ。死んでも、生きてるなんて、そんなユーレイはキライだよ。
 生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
 死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
 勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
 時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
 大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。
 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
 自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
 私はこの戦争のおかげで、原子バクダンは学問じゃない、子供の遊びは学問じゃない、戦争も学問じゃない、ということを教えられた。大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
 学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う。

 面白さファシズムの見地に立てば、死ぬようなつまらないことはするもんじゃない、となる。いつでもできる。いつでもできるというのは、凡庸ということですな。
 焦る、というのは、いつでもできることを今すぐやるということで、その点で焦りは常に凡庸だ。藤子不二雄A先生は「毒ヘビは急がない」「明日にのばせることを今日するな」といった言葉を好んだ……この精神なのですよ。
「学問は、限度の発見だ。」素晴らしいではないですか。焦ると限度を踏み越えてしまいがちですよね。学問が足りないから。十分に学問をしてから実行すれば、限度の範囲内におさまるはずなのである。まったく人生を振り返れば愚かな焦りをたくさんしてきた。客観的にはたぶんのんきで慎重なほうだと思うんだが、ほとんどの失敗は焦りとともにあったような気がする。

 思えばいろいろな人と訣別をしてきた。しかし終わった関係というものはない。死んでいない限り再会できる。死んでしまったら、安吾的には終わりなわけだが、僕は終わらせたくないので、なんとかその「限度」を広げようとしている。その結晶として「友達はみんなおんなじ」という発想となった。死んだ人間とサヨナラしたくないだけなのだよ。
「ジャッキーさんのもとからは人が離れていきますよね」的な、余計なお世話を言ってくる人がいる。そりゃそうかもしれないが、そもそも仲良くなる人が多いのもあるし、何よりも、離れたところで消えはしないんだから、また近づくことだってあるだろうっていう発想が世間にちょっと足りないんじゃないかね? 彗星のように見てる、のだよ。
 この「~のだよ」っていうのは小沢健二さんがかつての「~のさ」に代わって(独自研究)最近多用している言い回し。
 やっぱり僕は学校の先生なのだろうなと思う。小沢さんもそうだと思う。学校というものは回転が早く、人間はその場にずっといるのではない。ステージは変わる。友達は変わる。
 僕は人を嫌うってことは本当にないので。常に未来を見ていて、その関係がどう変わるかはわからない。だから僕はたぶん「あの人嫌い」と言うことはなくて(言っているとしたら冗談の軽口か、考え方やあり方、活動などが嫌いだと言っているにすぎないはず)、「関わりたくない」という表現を使う。そしてその頭には「今は」という枕詞が隠れている。「永遠に関わりたくない」と思ったことはない。例外はあるが幼き日のことだ。
 そりゃそうだ、関わりたくなれば関わったほうがいいんだから。関わりたいし関わったほうがいいのに、かつて関わらないと決めたから関わらない、なんてことは僕の場合はない。何か特別な事情がありゃ別だし、先方がそれについてどう思うかは置いといて、僕の気持ちとしては常にそうである。
 恨むってことも別にない。自然現象だと思うからだ。
 世の中の多くの親というものはたぶん、子どもに負担をかけられることを自然現象のようなものだと思っているだろう。それと同じで、僕もだいたいの負担や迷惑を自然現象だと受け止めている。親レベなんで。社会に対して。だから政府に文句とかないんだよね。親レベだから。僕は日本の親だから。
 まぁムカつくことはある。雨が降ってきたら困る。信号が赤になっただけでブチ切れていたような時期もある(高校時代とかよ)。しかし次第にすべては自然現象だと思うようになり、「じゃあどうするか」を考えるようになった。健全すぎる。
 そんで冷徹になたを振るうと言いますかね。

2026.6.17(水) わたくしの悪いところ

 自分の性質を基盤に考え、行動する。それに尽きるという印象ですね。当然長所とも深く結びついているから改善しづらい。
 いまナイナイのオールナイトニッポンでもコーナーになってますが「俺はこういう人間だ!」というやつですね。ビッグダディ的自己中心性。「俺はこういう人間だ」という前提から離れることはできず、「ゆえにこう考え、こう行動する」という流れにまずなる。
 もちろん「そういう人間である自分はこの際いったん置いといて」という譲歩は人並み以上にしているだろう。「あなたがそういう人間であることはわかりますが、も少しこう何というか、手心というか」とお互いに譲りあうのが日本の美徳のような気はしていて、僕はミクロにはめちゃくちゃそういうことばかりやっている。
 ミクロでは、っていうのは要するに途中まではそういうフリができるんですよね。「自分の意思とか意見なんてもんはいったん置いといて」という態度を、たとえばお店に立っている時にはかなりしている。それは末っ子的な日和見主義でもある。お客さんとしてお店に行くときもそうだし、なんなら集団の中にいるときはだいたいそうしている。そうやって自分を守ってきた。
 そうやって自分を徹底的に守っていると、どこかのタイミングで「ここを譲ったら食われる」という領域にたどり着く。そこは絶対に譲らない。譲ってはならない。自分が自分として生きることを奪われてしまうからだ。
 幸いにも僕は家族から本当に大切なものを奪われたことがない。捨てられたカードダスもすぐに「それは本質ではない」とわかった(賢かったね~)。大切にしていたぬいぐるみは捨てていいかと問われて頷いたのは自分だし、最近遊んでいなかったのは確かだし卒業しなければならない気もしていたからいい。今では人生で最も後悔していることの一つだが誰にも恨みなどない。自分が選択を間違えたのだ。
 そういう間違いを二度とくり返したくない。最も大切なものは守り通さなければならない。
 そこが頑なすぎて「手心がない」ような事態になりがちだというのは明確な短所である。僕のいう「最も大切なもの」というのは、そこにある目に見えない芸術作品の要素ひとつひとつであって、それは「自分」という他人からしたらまったくわけのわからない価値観によってのみ選び出される。ジャッキーさんが孤独であるというのはそのような自分勝手な性質を強く持つからであろう。

2026.6.18(木) おじさん叩きの事

 知人(ミズサーの茂木氏)が記事を書いたというので珍しくSPA!を読んでいたら『シジュウカラの鳴く頃に』の第一話が掲載されていた。「40歳を過ぎたら男は例外なくすべて汚物である」というモノローグから始まり、汚物だからこそ身だしなみを整え、控えめに生きていこうと展開する。最後に若い女の子から「素敵」と思われるというSPA!っぽい(中年男性に都合の良い)オチになるのもなかなかよくできている。リンク先から全部読めるのでお早めに。
 中年以降の男性は存在しているだけで気持ち悪いので必死に努力してキモがられないようにしましょう、という言説はよく見かける。このマンガのように啓蒙的な発信であっても、あまり快いものではない。なぜ勝手にレッテルを貼られて「あなたはキモいですよ! 気をつけましょうね!」とか言われねばならないのか。

 おじさんはおじさんだから迷惑なのではない。他人に迷惑をかける人がいて、その人が「おじさん」というカテゴリにおさまるケースが目立つから、「おじさん=迷惑」みたいなイメージが定着してきた。しかし実際は迷惑なおじさんばかりではない。差別者は「すべてのおじさんを差別しているわけではない、差別されるような振る舞いをしているおじさんだけを差別している」と主張するだろう(個人の感想)。おそらく差別者はいつの間にか、迷惑かどうかではなく「その人が差別されるべきおじさんかどうか」を見るようになっていく。行為ではなく個人に着目するようになる。
 差別者は、「差別されるべきおじさん」を分解して特性をいくつかの要素に分けている。そしてあるおじさんの中にその要素を見つけた瞬間に「あ、この人は差別するべきおじさんだ」と認定し、差別を始める。誰にも迷惑をかけていなくとも、「この人は差別されるべきおじさんの要素を持っているから、差別してよい」と判定する。
 たとえば「大きな声で持論を語る」なんてのがわかりやすい。その行為は時と場に応じて悪いとされて然るべきではあるが、だからといって「差別してよい」にはならない。「どうにかならないか」が先に来るべきで、その現象を抑制したり、改善するよう促していくのが本来すべきことである。
 差別者は「かつて差別してきたおじさんたちのデータバンク」を心に持っており、そのおじさんたちと目の前のおじさんを照らし合わせ、共通点を見つけ次第「あれ系のおじさんだから差別してよい」と断じるわけだ。人間を「あらかじめ差別してよいと決まっている人間像」に当てはめ、当てはまったから差別してよいと正当化する。

『ドラゴンボール』のこのシーンを読んでみてほしい。差別者は、「またドラゴンボールかよ。おじさんは自己弁護ですらおじさん的コンテンツを持ち出してしかできないんだな」と呆れるかもしれない。そしてこのリンクをタップしてくれないかもしれない。「もう飽き飽きなんだよドラゴンボールは」と、「おじさんはドラゴンボールについて語りがち」みたいな類型を引っ張り出してきて、「ドラゴンボールを持ち出してきた」という点に拠って差別を自らに許す。「ドラゴンボールを持ち出してくるようなおじさんは差別されても構わないので言うことに耳を傾ける必要はない」と。御託はいいから読んでほしい。
 リンク切れしているかもしれないので次の記事に引用を貼ります。ぜひこのまま読み進めてください。「うるせえ」と思えばお引き取りください。

2026.6.19(金) 魔人ブウと差別されるおじさん

 ピッコロさん(そういうキャラがいる)の台詞を引用しよう。魔人ブウという巨悪(とされている存在)が、なぜかミスター・サタンという格闘家(いちおう世界チャンピオン)に対して特別に肯定的な感情を持っている、というシーンを受けて。

かんたんなことだ… ミスター・サタンは魔人ブウがただひとり 気を許した人間だったのだ…
…オレたちが 力でなんとかしようとしていた時に ミスター・サタンは動機はどうであれ魔人ブウと友になることを選んだ…
その証拠に地球人は全滅させてもミスター・サタンだけは 殺していない… あのようにただの破壊獣に変わってしまってもその記憶だけは残っているのだ…
力は オレたちにかなわんかもしれんが やはりおまえの父は誇り高い世界チャンピオンだ………
(『ドラゴンボール』其之四百八十八)

 フランケンシュタインの怪物みたいなもんですわな。誰からも「倒すべき巨悪」と思われていた存在に対し、あえて(結果的には)一つの人格として向き合おうとしたミスター・サタン。彼はそれからもずっと魔人ブウと友人関係を続ける(ここが鳥山作品の素晴らしいところである)。サタンの無邪気さと魔人ブウの無邪気さがかなり深いところで通じ合ったのだろうと僕は思う。
 ここではもちろん、おじさんが魔人ブウで、ピッコロたち(「オレたち」)が差別者である。そしてミスター・サタンは、僕に言わせれば人間のあるべき姿ということになる。(最初のほうは全力でブウを殺そうとしているのだが、ギャグとして目をつむりましょう。あるいはそれも無邪気さということで……。)
 みんなは魔人ブウを「悪」だと決めつけ、倒そうとした。しかし結果論としては、いちばん最初から彼と友人関係を築こうと努力していれば多くの悲劇は防げたかもしれないのである。えー、実際には魔人ブウはバビディという上司(?)を殺した瞬間に破壊と殺戮に走るのでとりあえず力で止めるしかないと考えて当たり前なのだが、「話し合いの可能な相手ではない」というのは、少なくとも事実ではない。ただ善悪を「知らない」だけなのだ。
 人間っていうのは時に魔人ブウみたいなもので、「知らない」だけってことが多い。夜学バーでも振る舞いのよくない、邪悪に見える人間はそれなりの頻度で来店するが、「それはよくないことだ」と知らないだけかもしれないのである。そもそも別の場に行けばそれはよくないことでもなかったりする。キャバクラだったら「大きな声で持論を語る」は許されるから、そのモードで別の飲み屋に行ってしまうのはバグではあれどたぶん悪意はないだろう。差別するのではなく、ミスター・サタンのように人格として向き合うことが大事だと僕は思う。
 魔人ブウはミスター・サタンと(結果として)友人のようになったあと、もう人は殺さないと約束する。この時点で実はいったん、世界は救われているのである。その後くだらねーモブの人間に犬とサタンが撃たれ、魔人ブウをブチ切れさせた結果またピンチになるのであって、ほんとうにおそろしいのは(ふつうの)人間!ってことです。
 しかもすばらしいのは、魔人ブウは善悪を知らないだけで論理がわからないわけではないということ。バビディを殺したときもまず首を締めて「しゃべれないだろ? だからおれをふうじこめるじゅもんもいえない」と言う。頭いいのである。バカにしてはいけない。
 魔人ブウが破壊と殺戮を行う理由は「たのしいから」であり、ビビディやバビディという「おれをつくったイヤなやつたち」も「そうやってあそぶっていってた」からだという。そこでミスター・サタンはこう言うのである。「そ…そんなイヤなやつのいったことをき…きいちゃいけませんよ…」いやー論理的! そして魔人ブウも論理的だからそこでいったん思考を止めて、「おまえはやっちゃいけないとおもうか?」とサタンに問う。そしてサタンの言うとおりにする。なぜかといえば、サタンは友達で、サタンがやっちゃいけないと思うことはやらないほうがいいと思うのがブウにとって自然だからであろう。マジで大好き、このくだり。ドラゴンボールは力と力のインフレの話じゃないんです! 教育と仲良しの物語です!

 僕というおじさんはですね、このように『ドラゴンボール』という名作から多くのことを学び、人を差別する前に対話しようとか、そういうことを身につけてきたわけです。馬鹿にしちゃいけんですよ。
 魔人ブウと同じく多くのおじさんは「知らない」だけで論理をわきまえているし、対話は可能である。いくつかの要素がかつてのデータと感応するからと言って即差別を行ってはならない。人生経験や知識だって若い人以上にあるのが普通だ。ただ膠着しているだけだ。そこをもみほぐすと、めちゃくちゃ面白い知見も溢れてきたりする。人間を馬鹿にしちゃいけんですよ。本当に。若造がマジで偉そうにすんなよ行く道だぞ。金八とか見られ

2026.6.20(土) ショタ考(男女差について)

 僕は自称ショタコンということになっているが性的な趣味が強くそっちに偏っているわけではない。ただ少年が活躍する物語が好きだというだけだし、物語だけでなく少年が活躍すること自体が好きだから、Folderの三浦大地くん(3個下)なんか本当に好きだったわけだ。彼は9歳でデビューしていきなり『パラシューター』という超名曲を歌っている。
 昨夜「何歳くらいまでが好きなんですか?」というド直球の質問を受けた。マジメに考えて「中1くらいがギリですね」と答えたが、三浦大地が休業したのが小6の終わり(発表は中1の5月、理由は「変声期」)なのを考えても実質的には「小6まで」かもしれない。子ども向けアニメの主人公もだいたい小6までである。ちなみに女の子モノになるが『ふたりはプリキュア』は中2~3で、僕にとってはけっこうお姉さんだ。『おジャ魔女どれみ』(テレビシリーズ)は小3~小6。
『魔神英雄伝ワタル』は小4、『絶対無敵ライジンオー』は小5(OVAで小6になっている)、『飛べ!イサミ』も5年生かな。やっぱそのくらいですよ。少年少女の活躍っていうのは。岡田淳さんの作品もほとんどが小学生の物語である。野比のび太は設定上、原作では4年生(掲載誌によって描かれ方は変わる)、アニメは5年生とされている。
 さて、なぜ僕はそんなに小学生までが好きなのか改めて考えてみるに、「まだ強くないから」という言葉に集約される。一般に男子は中学生以降、女子よりも圧倒的に力が強くなる。体格も大きくなる。小6くらいまでは女子のほうが大きく、ケンカも強いというパターンがけっこうあると思うのだ。

 実際にデータを調べてみた。スポーツ庁の「体力・運動能力調査結果の概要及び報告書について」令和6年度版(最新)によると、身長平均は小4~小6にかけて女子のほうが高く、体重も小5~小6では女子のほうが大きい。中学になるとどちらも再び逆転する。
 50メートル走は一貫して男子のほうが速いが、小3で最も縮まり「0.24」差。次が小5で「0.26」差。小4、小6はともに「0.34」差。中1でいきなり「0.66」に広がる。
 ちなみに「運動クラブに所属している女子」の平均は小3から小6にかけて常に「運動クラブに所属していない男子」より速い。その差が最も広がるのは小5である。中1からは逆転する。(面倒なのでここからは誤解を恐れず「運動クラブに所属している」のことを「活発な」と表現させてもらう。古式ゆかしき表現だ……。)
 簡単にいえば「小3から小6にかけては、活発な女子のほうが活発でない男子より足が速い」ということになる。また活発な女子と男子全体との差もかなり小さくなる。小5において活発な女子は9.48秒、男子全体は9.38秒である。活発な男子でも9.2秒。活発でない男子は9.77秒と遅い。そしてなんと、活発でない女子は9.82秒である。活発でない男女で比べると0.05秒しか差がない。これはけっこうすごいことだ。
 見づらいけどデータね。

  全体  スポ  非スポ
男子
小1 11.59 11.38 11.75
小2 10.69 10.54 10.9
小3 10.19 10.03 10.46
小4 9.7 9.55 10.04
小5 9.38 9.2 9.77
小6 8.9 8.72 9.28
中1 8.41 8.34 8.74
女子   
小1 11.95 11.8 12.03
小2 11.07 10.97 11.16
小3 10.43 10.32 10.54
小4 10.04 9.9 10.17
小5 9.64 9.48 9.82
小6 9.24 9.06 9.42
中1 9.07 8.91 9.38
元データ(PDF)

 リンク先の膨大なデータをエーアイに読んでもらったところ、男女の体力差が最も縮まるのは、ソフトボール投げを排除して考えるとやはり小4~小5だという。「腕力」において男子は早期からかなり強く、ソフトボール投げだけは女子はほとんど完敗である。ただしあえてそれだけ抜かせば、この二年間に関しては総合的にほぼ互角と言えるようなのだ。
 また「活発な女子」と「男子全体」とを比較してもらうと、《小4〜小5にかけては「運動部女子」が「男子平均」を多くの種目で圧倒し、差が開くと言われる小6になっても、持久力(シャトルラン)や体幹(上体起こし)では互角に踏みとどまり、柔軟性や敏捷性(反復横跳び)では男子平均をリードし続けます。》だそうな。
 それにしても、おそろしいわねえ、しかし。腕力だけは強いだなんて。ケンカしたら勝てないってこと。ただ、それだけを抜かせば小4~小5の女子は男子にひけをとらない、あるいは圧倒する体格と体力を持っているのは事実だろう。

 僕がショタコンなのはこの事実を前提としている。男女差が最も小さい、男が男であるというだけで偉ぶれない時期が、小4~小5を中心とする少年のゴールデンタイムなのである。男の子が強いからではなく、むしろ弱いから好きなのだ。最も男女のあいだに差別がないはずの時期だからだ。そこを一つの理想世界としてつくられていたのがさっき挙げたような少年少女を主人公とするアニメ・マンガたちなのである。『ママは小学4年生』なんてまさにそうで、なつみと大介(誰やねん、と思う方はぜひ見てください)は互角にケンカしあうではございませんか。『らんま1/2』だと圧倒的にらんまがあかねに対して(戦闘力が)強すぎる。逆に戦闘力以外のところであかねが強いからラブコメが成立するのであるが、それはまたちょっと別の面白さ、すばらしさになってくるのです。
 そう考えると『あまいぞ!男吾』第一話(説明めんどいので夜学バーで読んでください全巻あります)はよくできているな。小5同士の腕相撲だとまず間違いなく男子(男吾)が勝つので女子(お姫)はあえて戦略的なウインク(色仕掛け?)によって隙を作って勝利する。ところがそのあとの決闘シーンになると二人は正々堂々、かなりいい戦いをするのである。腕力以外なら女子にも勝ち目がある。それが小4~小5という時期においての少年少女の美しさであり、夢なのであります。なぜだか、僕にとっては。
 いま『男吾』読み返してみた。男吾とお姫はまったく互角に見える戦いをして、お姫が男吾を見事に投げ飛ばす場面もある。最後はお姫が石につまずいて転び、その隙を突いて男吾が顔面にグーパンチを入れる(すごい少年マンガだ)。ここで男吾の勝利が確定するわけだが、すなわちやはり「腕力」によって勝ってしまうのである。この年代の男子が女子に勝つには、文字通り純粋な腕力にものを言わせるしかない。パンチ力が同等だったら男吾、負けていたかもしれない。

 男子と女子がほとんど対等と言っていい世界のなかで、強さの保証されていない男の子が一所懸命がんばって、活躍する。それが好きなのですよ。三浦大地についても、同年代ならダンスも歌も女子のほうが上手な子は多いだろう。その中で天賦の才能とたゆまぬ努力によってわずか9歳でデビュー、12歳までに名盤を2枚も歌い上げてしまったわけだ。心の底からジーンとなるわ。ウキーッ。

2026.6.21(日) 阿佐ヶ谷→新宿

 休肝日にするつもりだったのに外に出てしまった。20時すぎ阿佐ヶ谷に着く。東海楼という素晴らしい中華屋で600円の最高な定食をいただく。20分くらい散歩して腹ごなしシ、銭湯に浸かる。あまりに混んでいて驚いた。
 夜風を浴びぶらぶら歩く。「メリデ」でジョニ黒ソーダ→ギムレット→サイドカー。容赦なく濃い(というか多い)のでけっこう酔った。マスターが「四捨五入したら90ですよ」と言うので、「もっと四捨五入したらとっくに100です、大丈夫です」と返した。売春防止法施行前日の話は何度聞いても面白い。「馬鹿野郎、カレーライスでも食ってこい!」がサゲ。本を何冊かいただく。
 新宿に移動する。23時半くらいになってしまった。この時点で半ば終電で帰ることを諦めはじめて脊髄にモルヒネをせめて気が狂わぬよう与えてくれるゥ~~←歌ってる
 岡田さん(大学の大先輩)のお店へ。チリチリナインというお店に奇数日曜のみ立っている。だいたい朝までやっている。「こんな(早い)時間に来るなんて珍しい」と言われた。もうすぐ日付変わるのに。ちょうど石黒くん(最近ザ・ノンフィクションに3回も取り上げられた、12浪して早稲田に入り10年くらいかけて卒業したわれわれの後輩)から島根の地酒(一升瓶)が届いていたので、せがみくん(後輩)を呼んで飲み干す。岡田さんようやく会社辞めるというので「なんかどうでもいい、くだらないイベントをやりましょう」と午前3時くらいまでかけて説得。最終的に「8~9月くらいにイベントをやりたい」という内容を某社の役員にあて(僕とせがみくんが)メールつくって岡田さんのスマホから勝手に送った。1ミリも怒られなくてさすがだと思った。これが昂揚しきった早稲田精神……。みんな見習ってほしい。
 始発まで「死に損ない」ことえまくんのところで過ごす。たまに顔を見せに行く、見に行くことは大事。親子だからね。

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