大曽根~豊橋
「旅立ち」



 しまった!
 私はついついそう叫んでしまった、目覚ましを4:00に仕掛けておいたのに、時計をみるともう4:53だ。50分以上も寝過ごしてしまった。あわてて母親に「43℃」と告げ、大急ぎでお風呂に入った。あったかいお湯を全身に浴びて、これから旅に出るのだ、シャワーなどもう一生浴びることはできないかもしれない。と、自分の中で自分を格好良さげな主人公に見立てて、もちろん心の中でだが、言葉使いなどにも気をつかってみたりした。「私」などという一人称を用いるのもそのためだ。あからさまに太宰治の「富岳百景」に影響を受けているのである。ちょっと教科書に載っているからといって、ちょっと授業で取り上げられているからといって、私は太宰治を敬愛しているような顔をし、どうだ、自分は歴史的に価値のある書物を好んで読む文学少年であるのだ、と誰にともなく誇示しているのである。そんなくだらない理由のために、私は芥川竜之介などにも手を出してしまうのだ。スティーヴンスンやジュール・ベルヌを読んでいるのもそのような思惑があってのことなのかもしれない。お弁当のおにぎりを詰めて、忘れ物がないかと何度も確認した後、家を出た、が、すぐに戻ってきた。「時計を、早く」私は叫んだ。時刻はすでに5:28をまわろうとしていた。35分の電車に乗るのだ、急がねば間に合わぬと、母親の持ってきてくれた懐中時計を掴み、今度こそ家を飛び出した。
 雪が降っていた。当然、真っ白な雪だ。歩くとザクッ、ザクッと音のする、あの雪だ。と、考えてからふと思った。雪に対してこんなイメージを抱いているのは、ひょっとしたら私が名古屋人だからではないのか。もしも私が積雪地帯に住んでいる人だったなら、こうはならない。雪を深く踏みしめたことがないから、ああなるのだ。私は自分なりにそう言う人たちになりきって文章を紡いでみた。雪が降っていた。当然、真っ白な雪だ。歩くとズブッ、ズブッと音のする、あの雪だ。私はこの文章に納得がいかなかった。やはり、踏みしめたことがないからだ。だが、私はこれから、それを踏みしめに行くのだ。
 駅員さんは部屋の中でくつろいでいた。こちらはそれどころではないのに、私に気づくとやけにゆっくりとした調子でこちらに歩いてきた。間に合うか否かの瀬戸際である。私は焦った。駅員さんはゆっくりと窓を開けると、面倒臭そうに私の青春18きっぷに判を押した。
間一髪で電車に駆け込む、といった調子ではなく、さすがに写真を撮るほどの時間はなかったが、意外と余裕があったので少々拍子抜けしてしまった。こんなところでもドラマ性を求める私は日本人である。5:35、大曽根を出発した。
 金山に着くまでには少し時間がある、と言っても、ほんの8分程度だ。だから大したことはできない。景色を見ようにも暗すぎて都会の明かり以外に見えるものはない。それにほとんどが知っている風景だ。私は鞄から文庫本を取り出して、読書に励むことにした。山田詠美、『風葬の教室』。クラスメイトの女の子が、図書室で薦めてくれた本だ。それまでは山田詠美と言えば、『熱血ポンちゃんが行く!』という爆笑エッセイしか読んだことがなかったので、正直彼女の小説の世界と言うのは良く知らなかったのだが、興味はあったので、借りてみることにした。読んでみて、山田詠美は「つかみ」がうまいということを発見した。読み手を引き込んでいく一文を、話のはじめに持っていくことがうまいのだ。そんなことを偉そうに考えているうちに、金山駅に着いた。
 次の電車までには13分ほど間があったので、三番ホームまで非常にゆっくりと歩いた。当たり前のことだが、それでも時間はまだまだ余っているのである。ホームに降り立ち、さて、どうしようかと思って線路を眺めると、降りしきる雪が非常に綺麗だったので、思わずデジカメで一枚、写真を撮った。デジカメをしまって改めて構内を見渡すと、自動販売機が目に入った。アクエリアス500mlペットボトル、150円。250mlのオレンジジュースが平気で120円で売られている金山駅において、これは割と良心的な値段だった。一口飲んで、味が薄いや、ポカリスエットのほうがいいな、などと文句をたれながら、『風葬の教室』を片手に電車を待った。「おはようございます、金山、金山でございます」電車がホームに入るとき、こんなアナウンスがあった。しらなかった、早朝の車掌さんは「おはようございます」と言うのか、とびっくりしていると、さらに驚くことがあった。「ご乗車ありがとうございます、この列車は、浜松行きで・・・」女の人の声だった。今日び、JRの列車のアナウンスを女性がつとめることなんて、当たり前のことかもしれない。しかし、その声があまりにも綺麗で、美しかったので、私は妙な不信感さえ覚えた。この列車は本当に浜松行きで、豊橋を通るのだろうか、まさか私を、冥界へでも連れていくつもりではあるまいな、とありもしない妄想を繰り広げつつも、列車は熱田、笠寺、大高、共和、大府、逢妻、刈谷、東刈谷、三河安城、安城、西岡崎、岡崎、幸田、三ヶ根、三河塩津、蒲郡、三河三谷三河大塚、愛知御津、西小坂井と、順調に停車していった。そして、豊橋だ。

 
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