飯田~田切
「電車と競争」



 私は飯田から天竜峡行きの電車で伊那八幡まで引き返すつもりだったが、例によってそれまではまだ時間があったので、飯田駅の外に出てみた。

飯田駅

改築後の飯田駅

 空気が冷たくて、心地よい。雪が空間を浄化しているのだろうか、雪は粉雪で、まった冷たく感じなかった。冷たいのは空気だ。空間だ。新鮮な空気を吸っているような感じがして嬉しかったが、最近改築された立派な駅舎から少し離れて呼吸してみると、嫌なにおいがした。排気ガスだ。途端に嫌な気分に切り替わった。信号が「とおりゃんせ」を歌っている。私は何の気なしに近くにあるユニーに入って、そこの本屋を覗いてみた。藤子・F・不二雄の『山寺グラフィティ』が収録された文庫サイズの本が欲しかったからだ。しかし、予想した通り置いていなかった。私はユニーを後にして、飯田駅に戻った。無駄な時間を過ごしたものだ。あの澄んだ空間と、汚い空気を私は忘れない。飯田駅から引き返し、伊那八幡まで戻った。ここからまた飯田方面の電車に乗り、下山村と伊那上郷の間を、「電車と競争」するつもりなのである。下山村・鼎・切石・飯田・桜町・伊那上郷。これらの駅を結ぶ線路は、いわゆるΩカーブとなっている。飯田を通るために、下山村・伊那上郷間をひどく遠回りして走るのである。電車がそのΩカーブを走りきるのと、人間が下山村・伊那上郷間を自分の足で走りつくのとでは、どちらが速いか、ということを競う、鉄道ファンの中では有名な遊びであり、飯田線の名所のひとつだ。私は今回、それに挑戦しようと思う。本式の競争では、これを成功させるためには、車内に最低一人の荷物番が必要になる。重い荷物を背負っていては、全力で走ることができないからだ。だが私は一人旅である。そのため、私は少しハンデをつけさせてもらった。下山村13:22発茅野行き243Mは、飯田駅で9分停車し、伊那上郷を出るのは13:46。すなわち、私は24分以内にそこを走りぬければいいわけだ。本当は、飯田での停車時間が3分程度の列車を選ぶのが美しいとされているが、この荷物を背負っていては9分停車でも危うい。私は伊那八幡での待ち時間で、準備を万端にさせた。靴ずれの右足にはバンドエイドを張り、上着のボタンをきちんとはめ、靴紐を結びなおした。ホームのベンチには二人の少女が座っていた。中学生くらいだろうか、まだ幼さが見られる少女は二人で電車の来る方向を見つめていた。私はちょうどその方角に立っていたので、やや気恥ずかしかった、まるで私が見つめられているように感じたのだ。勘違いも甚だしい自意識過剰男である。もちろん、そうでないことなどはちゃんと知っているのだが、そのような思考をめぐらせることが、一つの楽しみでもあった。妄想家と言われればそれまでなのだが、できれば空想家と呼んで欲しい。列車が到着し、私は少女たちの一つ後ろの車両に乗りこんだ。乗った後で、前のほうが下山村で降りるときに出口が近いということを思いだし、前の車両に移った。その時に、先の少女たちがこちらをちらりと見た、ような気がした。妄想は限りなく広がっていく。
 電車が停止し、扉が開いた。車掌に青春18きっぷをちらり見せ、すぐさま走り出した。思ったより体が軽い。これはいけるかもしれない。そう思ったのは本のつかの間のことで、数分後には足を動かすごとに感じる背中の重みが私の走りを妨げるようになってきた。加えて、伊那上郷へ行く道はほとんど全てが登り坂である。背中に重いリュックを背負っているため、どうしても前のめりの格好になってしまう。これは結構腰に来るのである。坂道を、走る、走る、登る、登る・・・ もう無理だ、限界だ。そんなとき、恐ろしい自体が起こった。道を間違えてしまったのである。地図は持っているのだが、おおざっぱな道筋しか書いていないので、目標物がわからない。私は曲がるべき角を通り過ぎてしまっていたのだ。それに気付いたとき、私は焦った。一体、どこで曲がればいいのだろうか。その時、第一村人を発見した。「伊那上郷へはどういけばいいのでしょうか」おばさんは優しく、道筋を教えてくれた。「この下の道をずっと登っていけば着くよ」なんと、また上り坂のようである。私の体は限界に達していた。おばさんにお礼を告げると、ふらふらとおぼつかない様子で走り出した。体はへとへとでバテていたが、駅舎が見えてくると、途端に足腰が軽くなったような感じがして、スピードも出た。ここまできて電車に負けたのでは、男がすたる。最後のスパートをかけてホームに飛び込み、一息つかせてから時計を見ると、まだ3,4分余裕があった。なぁんだ、道を間違えたにも関わらず、ちゃんと間に合って、しかもまだまだ余裕があったのではないか。これなら荷物がなければ、本式の競争にも勝てるぞ。そんなことを思い描きつつ、私はホームの壁に寄りかかって、ハァハァ息をつかせていた。女子高生がそれを見て不審そうにしていたが、満足感でいっぱいの私は、全く気にすることもなかった。やがて、電車が来た。ザマァ見ろってんだ。僕は電車を笑った。元善光寺、下市田、市田、下平、山吹、伊那大島、上片桐、伊那田島、高遠原、七久保、伊那本郷、飯島、田切。ついに来た、田切だ。


 
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