ケイオティック日記
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2003年12月
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2004.1.31 土 信長のあぼーん
手暗がりの下今日も 一秒ごとに押し出されて わがままな身体と 今にも落ちてきそうな現実
風鈴の音でウトウトしていた夢 冬の空に溶けていった誓い 過ぎていった日々を受け止められたのなら明日へと心を繋ぐのさ
ジャゲイン
Jacky again
today, draws to a close our holiday.
昨日の夜から高校の同級生が泊まりに来ている。受験しに来たらしいが朝の四時半まで喋っていた。まあそんなもんだろう。僕も受験のために上京してきて勉強した記憶などない。よからぬことをしていたのは覚えているが。で、朝六時には起きて、隣の寝袋を叩き起こして、女の子をメールでからかって、受験生を送り出して、読書しながら二度寝して、学校の近くのドトールコーヒーへ行って、エーダ氏から7850円の自転車を3600円まで値切って買い取って、自転車が二台になって困ったからユナイテッドキングダムさんを家まで引っ張ってきて、十時くらいまで遊んで、ご飯買って、受験生が帰ってきて、喋って、寝て、起きた。
おらゆうこさん大好きだ…(藤子・F・不二雄『なくな!ゆうれい』より)
本当はわかってる!
二度と戻らない美しい日にいると!
そして静かに心は離れていくと!
あんなにかわいい子はおるまいよ!U子さん!
オバQのように虐げられたって構わない。
鬱駆使さ、おおベイベエ!
ポケットの中で魔法をかけて
個々濾過ら~、おおベイベエ!
優しさだけが溢れてくるね
東京の人はセブンイレブンをセブンと呼ぶ。僕はそれが許せない。制度への安住を、無条件の従属を意味するからだ。
だから僕はセレブンと呼ぼうと思う。(セレブでも可。)
だってセブンイレブンをセブンと呼ぶと、イレブンが完全無視になってしまうではないか。セブンとイレブンと両方に「ブン」が入ってるから片方でいいやなんて甘っちょろい考えはダメだ。妥協だ。欺瞞だ。イレブンを尊重しつつ響き的にちょっと面白くて、しかも堂々とマイノリティを突っ走るセレブンまたはセレブという呼び方は文句無しに一流である。みんなでセレブンと叫ぼう。
何がさて僕は少数派が好きだ。もしセレブンという呼び方が市民権を得て、セブンイレブンの重役会議なんかで「どうですか社長、ちかごろ我が社をセレブンと呼ぶような若者が増えているようですが、いっそのこと社名をイブンセレブンにしては」なんつって名前が変わって、イブンセレブンが正式名称になったとするよ。すると誰もがおそらくセレブンと呼ぶようになるわけで。するとだぞ。セブンイレブンをセブンと呼ぶことが後半のイレブンを無視していたように、イブンセレブンをセレブンと呼ぶということは前半のイブンを無視することになってしまうではないか。しかもセレブンという呼び方はもうマイノリティではないのである。だからそうなると僕はまた新しい呼び方をしたくなる。イブンを尊重して、さらに堂々とマイノリティを突っ走るような呼び方を。ずばり、イレブン。つまり、みんながイブンセレブンのことをセレブンと呼ぶのなら、僕はイレブンと呼んでやろうということ。でもすると今度はイレブンがだんだん浸透してきて、イブンセレブンの重役会議かなんかで「どうですか社長、ちかごろ我が社をイレブンと呼ぶような若者が増えているようですが、いっそのこと社名をセブンイレブンにしては」なんつって。すると、みんなイレブンって呼ぶようになりますわな。したらイレブンという呼び方はすでにマイノリティではないわけで。しかもセブンが完全無視になる。そうなったら僕はまたセレブンと呼ぶようにします。で、「どうですか社長」
嗚呼、歴史は必ず二度繰り返される。一度目は偉大な悲劇として。二度目はくだらぬ茶番として。(カール・マルクス『ルイ・ナポレオンのブリュメール18日』)
(ちなみに僕は自分の意志を曲げてでもマイノリティに徹する男として高名なのは以前にも述べたが、そういうわけで信念には反してもファミリーマートはあえてマートを無視しファミリーと呼ぶことにするし、マクドナルドはマクドを無視してナルドと呼ぶ。あるいはナルホド。若人よスターバックスがスタバならモスバーガーはモスバと呼べ。ケンタッキーフライドチキンはサンダースで良い。サンダースということは36個である。そんなにフライドチキンを食べたら油まみれになってしまう。カーネルサンダースは36個の役職か何かを兼ねているんだ。きっとそうだ。)
ところで、クラスにいるとある娘は筋金入りの箱入り娘である。制度に安住する者である。もしかしたら彼女は、恋愛をするということはすなわち「付き合う」ということで、その終着駅は「結婚」であると考えているのかもしれない。ある日彼女が「私もそのうちクルマの免許をとりますよ」などというので、僕はクルマが社会や環境に与える悪影響を力説し、ダメだ自転車にしなさい。クルマなんて世界中から消えてしまえばいいんだ。道路を走るのはバスだけでいい。自家用車は消えてなくなれ。環境破壊や交通事故や誘拐やカーセックスは自家用車があるから起こるわけで、あなたのような良い娘がそんな悪事の片棒を担ぐような真似はよくない。僕は一生自家用車などの世話にならずに生きて行くつもりだなどと自分の思想を押しつけてみたことがある。僕はこの傲慢さに彼女なりの主張でもって応答してくれることを期待したのである。すると彼女はこう言った。「だって現実にクルマはなくならないじゃないですか。」ウウウウー不快ダー。「だって家にはもうクルマがあるんですもの。」「もう自家用車があって当たり前の社会じゃないですか。」ウウウウー。フ。不快ダー。別にこれが彼女のオリジナルな主張でないとは言わぬ。どんなに斬新な主張に見えてもいつか誰かが言っていたなんてことはあって、裏を返せばどんなに陳腐でもそれはオリジナルだということも言える。それはいい。しかし、ウウウウー。フカイダー01。(念のため言っておくと、僕は彼女のことが大好きです。)
石原千秋が『教養としての大学受験国語』で言っていた。
「思考の方法に無自覚だと、多くの場合知らず知らずのうちに保守的な立場をとってしまうものなのである。」
たったひとつだけの絶対的な「思考の座標軸」に縛られることが保守的なのではない。価値の絶対化自体が悪いのではなく、その絶対化の過程のなかで全ての価値を相対化して眺めることが重要だというだけだ。まずあらゆる価値観を相対化して、そこから取捨選択をする。絶対化は相対化を通じてのみなされるべきだ。世の中の全てを客観的に見つめてそれでもなおパナウェーブ研究所に入るというなら良いと僕は思う。しかし、相対化の過程を通過せずにあらかじめ定められた価値観の安易な快適さへ無条件に従属するのは、僕のようなひねくれ者の少数派大好き人間としては耐え難いし、絶対にできないことなのである。
『教養としての~』は彼女も読んでいるはずだ。それでもなお、彼女は一般的な言葉を使えば「現実的」な娘であるし、僕に言わせれば制度に安住する者であり、従属者だ。subject。
制度。まあ制度に限ったことではないが、無自覚であるということはつまりすでに存在する世界の中で疑うことなくノンポリな生活を送っているということだ。僕の知り合いに木登りをする女がいて、その理由を問うと「なんとなく」と答える。木登りをする女が自分が木登りをする理由に関して明確な答えを持っていないということは、ノンポリであり思考の放棄であり僕に言わせれば欺瞞だ。一般人がそれをするなら良いが、僕の配偶者になろうとする人間や、アカデミズム(大学も含む)を志すような人間がそのようにのほほんとしているのを見ると何だかやるせなく許せない。木登りをする女は、日本人の平均よりはやや読書をするほうであるが、彼女が木登りをするのも読書をするのも全て「カッコつけ」であるように僕の眼には映ずる。というよりは木登りや読書に限らず彼女の全ての行動は「カッコつけ」であるようにさえ見える。彼女はそれを自覚しているのか?何も「自分がカッコつけをしている」ことを認めろなどとは言ってない。本当にそうであるかは本人にもわからないだろう。ただ、他人の眼には「カッコつけ」として映ることもあるんだということを自覚して、開き直るならばそれからだ。「木登りをするのに理由なんてないよ。」と言い切るためには、想定されうる理由、たとえばカッコつけたいからとか不思議少女だと思われたいからとか体力をつけるためだとか見晴らしを獲得するためだとかパンツを見せるためだとか、そういったものを全て枚挙し、さらにその全てを否定した上で理由のないことを主張しなければ説得力がない。論理的に否定できなくてもいい。主観的に否定できればいい。ただ自覚が重要なのだ。開き直るためにはそれなりの裏付けが必要なのであって、裏付けのない開き直りは他人を苛立たせるだけに終わる。「なんとなく」と答えることに罪があるのではない。「なんとなく」が本当になんとなくすぎるから苛つくんだ僕は。
話を戻す。先の娘は制度に安住する者である(としよう)。根拠というと仰山だが、そう考える理由はほかにもいくつかあった。けどすぐに思いつかないから書かない。とにかくそうであると仮定してもらわないことには話が進まない。もちろん、僕の言っていることはある程度論理的ではあっても理論的な裏付けはまったくないから読み手が苛つくこともあろうけれども、勘弁してちょ。僕は何をやってもいいのさ。天使だもん。アウトロースター。
少女はセブンイレブンのことをセブンと呼ぶ。僕がセレブと呼ぶことを熱心に勧めても、イヤだという。セレブンではどうだというと、少しだけ心が揺らいだ感はあったが、やはり拒絶された。それからずっと僕は会話の随所にセレブンを織り交ぜ、連発し、サブリミナル効果で洗脳していったのでだいぶ抵抗感は薄れたであろうが、ともあれ彼女はセレブンを拒絶したのだ。ただ恥ずかしいからというわけだろう。では、なぜ恥ずかしいのか?それが制度から外れるからだ。セブンイレブンをセブンと呼ばずセレブンと呼ぶのは、逸脱行為だからだ。それだからできない。制度と共同体の安易な快適感に蝕まれていて、抜け出すことができないのだ。無論セブンイレブンの例のみからそうだと言い切るわけにはいかない。ただ、一つの思考の材料にはなるんじゃないかなという話で。
中心/周縁理論で考えよう。セブンイレブンをファミリーマートと呼んだらセブンイレブンという枠組みから外れるだろう。セブンイレブンをセブンイレブンもしくはセブンと呼ぶのは、セブンイレブンという枠組みの最も中核にある思想だと言って良い。セブンイレブンをセレブあるいはセレブンと呼ぶのはその境界領域、つまり内部と外部の狭間、ぎりぎり内部のところにある。誰が聞いてもおそらくセブンイレブンのことを指しているのだろうなということはわかるが、決して中心的な考えではない。セブンイレブンという枠組みの内部にはなんとかおさまってはいるけれどもやはり周縁的な存在だ。
外部から中心へカオスを持ち込んでいけるのは周縁にいる者だけだという。また、革命を起こすのは常に周縁に位置する者だ。中心にいるものは自分をひっくり返すことはできないし、外部がそれをやれば、侵略になる。
僕は文学を志す者だから文学を引き合いに出すが、戸坂潤に言わせれば、
「文学は常に通俗常識的な道徳観念の批判者として立ち現れる。」
世間一般で当たり前のことを文章で描いてもそれは文学にはならないわけで、現実とはちょっと違うことを書かなければ文学にはなりえない。だからといって世の中の枠組みをまったく無視した文章は精神病者の日記以上に文学性が希薄だ。
世の中の枠組みをまったく無視した文章、というのは、人間的な価値観に基づかない文章ということで、読解自体が不可能だと思われる。「地球を宇宙にかぶった野良湖が書物を聴いている。」という文章は、形式的には正しく見えるがこれは人間的な価値観に基づいていない。地球はかぶれない。宇宙に何かをかぶせることはできない。湖に野良も何もないし、湖は聴くことができないし、また誰も書物を聴くことはできない。この文章は文学的な比喩のレベルを越えて読解不能の域に達している。
僕の友人の矢崎隆雄という人間がこれに似たことをやろうとしていた。人間の価値観に基づかない詩を書いてみようというわけだったが、結局は単なるオートマチックライティングに陥ってしまい、最近は境界領域的な割に堅実な詩ばかりを書いているようである。
人間の価値観に基づかない文章は人間的社会の外部に位置することになるが、一般に文学は人間的社会の内部に属していることになっているから、人間的な価値観に基づかない文章は、文学ではない。矢崎隆雄くんはもともと変な文章を書く人で、つまり「周縁」にいた。だから外部にあった非文学的意味不明文章を文学の枠組みの中へ採り入れようという試みが可能だったというわけだ。失敗したけど。
つまり、セブンイレブンをセレブンと呼ぶことは自分を周縁の位置へ至らしめるための手段であり、文学的な行為であるということだ。文学は、周縁から中心を眺める。中心を相対化して眺める。中心と周縁を相対化して捉えた上で、周縁を絶対化すると、町田康のような文章になるんじゃないかな。逆に中心を絶対化すると、堅実な小説のできあがり。まあ、文学である以上は中心を絶対化なんてできっこないんだけどね。文学の定義が周縁なんだとしたら。もしやってたとしたらその小説は文学じゃないな。なんて。
さてセブンイレブンをセブンと呼びセレブンと呼ばない少女は、通俗的であり、反文学的である。アウトローな性質をほとんど持ち合わせていない、だって村上春樹大好きだし(関係ないか)。それでもどっか変なのは、天然で変人なだけだろう。文学じゃない。ここにきて、大槻ケンヂが変な人のことを「ブンガクな人」と呼ぶ理由がちょっとわかってきた春のある日。
まあ文学を志さないならそれでもいいし、そういう文学の形を追い求めないのならそれでいいだろう。ただ無自覚であっては僕が苛立つからいやだなっていうだけであって。今日はどうだい難しいろう(どうだ明るくなったろう)。100回くらい読み直してあげて。
文学者は常にマイノリティでいなければいけない!宗教みたいに、マイノリティの存在しない共同体なんかにいたら芸術なんて作れっこないよ!普通!
2004.1.30 金 スレッカラシズム
「お前をポアしてやる。」という言葉の代わりに「あぼーんしてやる。」という言い方が成立するんじゃないか?なんて今そんなことばかり考えています。スレッカラシスト尾崎です。
燃焼系オギノ式というのは誰でも思いつくのだろう423HIT。
うむ。しかし、寒い。教育臨床論のテストでした。単位はもちろんイタダキマンボ。これにて本年度の試験全て終了。
らんぷ亭に行って牛丼(¥280)を喰い、その隣のマクドナルドでビッグマックセット(¥390)を喰う。
お前らはまったく自分という名の空間に耐えられなくなるからと言ってメシばかり喰いやがって。メシ喰うな。
バイト。
スーパーマリオワールドがスーファミ本体より高い。
部屋の中で息が白い。ふざけるな。家の外は名古屋のほうが寒いけれども、この部屋は寒すぎる。サムスピ。
2004.1.29 木 男性専用女子トイレ
間違いであったか。とずっと考えているけれどもまあしょうがない。せいぜい堂々とやろう。
日記なんか書いてる暇があったらもっとすることがあるんだけどもねえ。
そこに何かあると思ってるんだろうか。
唐沢なをきの漫画は面白い。今日は『カスミ伝△』を読んだのだが、漫画としての面白さ、そして実験としての斬新さは今さら言うまでもないとして、僕は唐沢なをきの漫画に小説の可能性を見出している(なんて大袈裟な)。中学校のころに僕が書いた『連サイ赤ずきんちゃん』という「小説」のラストシーンは唐沢なをきのパクリ。そのころからぼんやりと考えているんだけどね。「唐沢なをきで書く小説」なんて心躍ります。
ある意味で唐沢なをきは日本語の新しい文法を創り出している。それは言語表現をする全ての者が自然行っていることなんだけどもね。唐沢なをきの文法は特に僕の頭へビビッと届くわけだ。僕に合っているというか、僕好みというか。僕の文体にうまく適合してくれるんじゃないかなんてね。だから「文体」なんて言葉は使いたくなくて、「文法」って言ってるんだけど。似た例では「富野語」と呼ばれているものがあって、ガンダムとかザブングルとかで使われている口調やせりふ回しは、まさしく日本語の新しい文法であるといってよい。なをき文法も富野文法も、あるいは杉浦茂文法なども小説で使えるかもしれない。ただ後者二つは僕には合わないような気がする。だから唐沢なをき最高。
小説全体の利益を考えると、唐沢なをきの実験性ってのはちょっと参考にしてみるべきかもしれない。たぶん諸刃のヤイバなんだけど。
『世界に一つだけの穴』
エロ画像サイトに並んだ
いろんな穴を見ていた
人それぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
カメラの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら男の子は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番を決めたがる?
そうさ××××は
世界に一つだけの穴
一人一人違う「種」を待つ
その穴を裂かせることだけに
一生懸命になればいい
(原作:西腹夢路)
2004.1.28 水 ひらいけん!ポンキッキ
23時~5時までカラオケに行って来たのですが
品揃えの悪いカラオケで
なんだよあの曲が入ってないあの曲も入ってないと文句たらたら言ってると
不思議なことに気づいた
『む~んな気持ちはおセンチ』が入っていて『う゛ぁいYAIYA』が入ってない!
飛べ!イサミのエンディングテーマ(『round trip~その手を離さないで~』)が入ってる!
シスプリの曲が10曲以上入ってる!
INUの『メシ喰うな』が入ってたり小沢健二の『天使たちのシーン』(13分半ある)も入ってたり
渡辺満理奈の『大好きなシャツ 1990旅行大作戦』とかもホラ
なんか偏りがあるよなあ…。
日本文法は出席さえ足りてれば「可」か「良」だ!
今日で石原千秋ともお別れ…と。
三限が終わった(14:30)あとずーとみんなでお話しをしていて気が付けば朝の五時って奴ですわな
毎朝の起床予定時刻は六時。
どうもねー当たり前のことなんだけど勝手に解釈されるのって腹立つよねーいや腹立つというか悲しくなりませんか?ちなみに僕はいつもいつもそういうことをやっているわけですがね。そうやって当たってるか当たってないかわからない、そもそも当たってるってなんだ?ってくらいのレベルの話をして喜んでいるのは僕なんだけど。でも自分がやられると腹が立つよね。ちなみにいつも誰にでもそれをやるわけじゃなくって、まあそれをやることによって自分の立場が危うくならないような相手と状況があれば好き勝手に自分の見解をぶっ放します。
僕がどのように周りから解釈されてるかというと、まあ…そんなことどうでもいいんだ。畜生。
「私みたいなタイプにだって悩みはあるのよ」というせりふがどれだけ陳腐で惨めなものか。それを心得ていなきゃね。そういうことをちゃんと心得ていると、そういうせりふが口をついて出そうになったときに、女子高生に中出ししたいとか言って読者に思考停止を迫るわけで。
いつも他人に対してばかりを考えてるわけじゃなくって自分について考えたりもします。けれども自分の悪いところを見つめすぎるとへこむので、思考遊戯以上のものにはならないようにしている。それがいけない気もするね。
とにかく、僕は僕にでら詳しい。
あのこはいい子ですよ。確かに。
…だがしかし。だがしかし!
これでいいのか?
これでいいのだ。
だが しかし。
2004.1.27 火 サマワで笑っていようよ~♪
小山田圭吾の誕生日っす。だけど結局ゆずと矢野顕子しか聴かんかったな、今日。
大学ともなるとテックトゥに纏わる言説が周りに溢れて。
その代わり考える機会は減っていくのかもしれない。
なんにも考えずにってのも悪くはない。それが世界の一環としての、ジャッキーだ!
えー
まじでー
ちがうだろー
いやそれはさすがにちがうだろー
えー
だってそれ
喪変女だろ?
劇団ceremony
劇団morale
劇団final hour
劇団private record
劇団direction
劇団Records of the Grand Historian
新世紀エヴァンゲリオンを全話CD-Rに焼いてもらった
小林秀雄やら坂口安吾やら中野重治やらについての論文をもらった
あー?読めってか。こいつらの本読んでからじゃねえとGreek。
penisの複数形はpenesであってoasisとoasesの変化と同じだから気を付けろ!
友達が最近えろいよ。フェレイショウ。
でも恋愛対象とは違う、というのだが
幸せなもんだよね
意地悪な天使が言うの。“先好きになったら恋は悲劇ね”と。当たってるわ。
2004.1.26 月 きっと僕は死ぬまでずっとキチガイだから
便所じみた俺の心
掃除するのはいつもおばはん
あのおばはん俺の心を支配するのは
群青色のおばはん
スティックのり翳して
乾きすぎた唇に刹那の潤いと
永遠へ繋がるシールドを
ああ 無数に散らばった
精液に埋められた
心と狭間の淋しさよ
オレはオマエより死に近いだから
威張る 威張る 威張る
2004.1.25 日 独ソハ神聖ニシテ侵スヘカラス
ポエタラロリンコアロアク。
無数に散らばる精液で
埋められた僕の
心の間の寂しさよ
そんな夜が誰にだってあるんだ。それで僕は出会い系サイトをさっきからずっと覗いて。
部屋の中で性欲がひしめき合ってるんだ。
拮抗し合っている。
そんな空間に居たいと願う。
文芸批評というものがある。フロイトだのブルデューだの、プロップだのシクロフスキーだの
アルチュセールだのロラン・バルトだの
持ち出してね。
梶井基次郎の『檸檬』という小説は、「《私》が幼児退行する物語」と読める。
となると。もしも現実の人間が《私》と同じような嗜好や思考をもちかつそれが現実の行為として実践されていたとしたら。
『檸檬』を「《私》が幼児退行する物語」と読む人間は彼についてこう言うかもしれない。「彼は幼児退行をしている。」
すると分析された彼は反駁するかも知れない。憤激するかもしれない。二人の間に交友があれば、それが切断される可能性もある。
小説の構造分析も人間の行動分析も基本的には同じことである。
しかし、小説は文句を言わないが人間は文句を言う。小説に人権はないが人間に人権はある。
僕は人間を観察するとき、頭の中で勝手にカルテをとっている。それを見て病名を診断し、処方箋を打つ。
もちろん、診断の根拠はあるのだ。どうしても経験則に頼ってしまうきらいはあるが、ある程度は客観性や論理性を帯びた考察であるように思う。
しかしそれを口に出すことはできない。「違うよ。僕はそんなこと考えていない。」などと言われたらそれでお仕舞い。悪くすれば人間関係がこじれたりすら。それに対して「いや、あなたは自覚していないだけだ。無意識の中では…」などと言えば、確かに相手は反論の術を失うだろう。しかし僕は友人を失うわけだからドローである。
相手が小説だったらばいいんだ。どんな頓珍漢な説でも小説はそれを受け容れるしかない。だが人間に対してそれをやれば裁判沙汰にすらなる。意味がない。
ときおり木登りをする少女に対して、「君は木登りによって自分を誇示したいんだね。不思議少女と思われたいのだね。」などと言っても、「そんなことないよ。ただ登るのが好きなだけ。」と答えられたらそれでお仕舞い。「いや。君は気づいてないだけだ。無意識のうちに君は木登りを通じて特権意識と優越感に浸っている。」なんて返したらどうなるか。嫌われちゃうよ、ワァオ。
そういうことを普段考えている僕だから、もし僕が木登りをしていて、「変な奴だと思われたいんだろ」と言われたら、実際そうは思っていなくても、「そうかもしれないね」とか「当然じゃないか」などと答えることだろうな。これも処世術の一つだ。段々とそうやって。綱渡りが丸太渡りになって、やがて図太い橋ができる。安定してるし絶対に落ちない。
思春期は軽業師だと思うんだな。
丸暗記と、経験によって記憶に組み込むことは違う。STMとLTMの違いかな。
受験生は後者を意識して勉強しないと精神的に保たないと思うんだけど、みんなよくやるよ。
2004.1.24 土 フェラチオビタドリンク
教育学のレポートを執筆して学校へ出しに行く。途中の古書店で9冊くらい本を買う。女の子と会う。駅まで歩く。喋る。笑う。恋をする。駅に着いたところで僕に電話がかかってきた。とある女の子からだった。「出ていい?」と僕は聞いた。「どうぞ」
そして受話器相手に僕はどうでもいい会話。
三分後電話を切ると、表情は堅くなっていた。何も喋りだそうとしていなかった。僕は軽口を二、三叩いた。無意味だった。
時間だけしばらく遊ばせて、さよならをする。
僕には彼女の考えることがわからない。育ってきた環境が違うから?僕が無神経だからかな。
それにしたってなんにしたって。
彼女が価値観を持っていなければよかったんだ。まっ白なら。
白痴ですら。
2004.1.23 金 ホ知己ス
教え子がセンター試験英語で54点でした。天晴れ。
5:55 音楽が鳴り始める。起床の合図だ。
6:00 ラジオ講座を聴く。新基礎英語1~3とドイツ語。その間に歯磨き、ゴミ捨て、散歩、ランニング、軽い買い物、掃除、ご飯、ともすればパソコンをいじったりもする。
7:05 ラジオ講座が終わり、新聞を読み始める。
7:30 だいたいこのくらいで新聞を読み終えるので朝の読書。今は遠山啓氏の『数学入門』を一日に一章ずつ。その日の予習をしたり、風呂に入る場合もある。
8:30 この時間に家を出れば一限に間に合う。が、僕は一限に授業をとってないのでゆったりと読書などをする。それから登校。
そんなわけはない。
英語のレポートを三つ書いて、登校。英語のテスト、教育臨床学、マクドナルド。バイト。
2004.1.22 木 ジンマ・シンガン(謹賀・新年)
衒奇的行動が大好きです。モスコミュールが大好きと豪語しつつカルアミルクばかりを飲んでいます。ウィスキーを飲むのは酔っぱらうため。そんな自分に酔うためなんですよ。
勇気と愛が世界を巣喰う!
なんと住みにくい世の中になったか。
中国文学演習の授業が早めに終わったので、先生(34)を囲んで談話をしていた。阿呆のようなカンバセイションを。
「ジャッキーのストライクゾーンとか、普通にひくからね」
などとほざく輩がいたので高らかに宣言してやった。
「10歳から40歳まで!」
すると二秒後に先生が「お前は阿呆か」と。大爆笑をしながら、真顔で。
モスコミュールはともかく、カルアミルクなんか注文したことすらねえや。
「文学」のテストだった。金色夜叉、破戒、蒲団、こころのいずれかについて論じよ。
もちろん『こころ』にした。一番最近やったから。自慢じゃないけど前日の夜に勉強しようとしてたくさん寝た。
"I'm not going to tell you the story of my life."
When people say this to me I always know that it is precisely what they are going to do.
(W.SOMERSET MAUGHAM The Happy Man)
「自慢じゃないけど」と言うときは自慢をするんです。そりゃそうだ、常識だ。
エディプス・コンプレックスの枠組みで読んだとき、先生はK(父)を殺して静(母)と結ばれる。青年は先生(父)を殺して静(母)と結ばれる。そしてこのことを裏側から覗いてみると、こう。静はKを殺して先生と結ばれ、先生を殺して青年と結ばれたわけだ。要するに「先生の物語」と「青年の物語」の上に横たわっている「静の物語」こそが『こころ』の核心であるわけで、静こそが『こころ』の主人公なわけである。石原千秋の説参照。
僕はあなたのことを愛してはいるけれども、恋してはいないと思っていて、ところが今日は何だか恋しく思えた。だけ。
それだけなのにいちいち気にしすぎなんだ、(理想の女はラムちゃんだなんて)ふざけるな。
2004.1.21 水 ハレンチ・キッス
ギターが弾けない。弾く気もない。てか持ってない。
でもゆずのギター弾き語り&ハーモニカ全曲集(スコアね)は持ってる。なぜなら今日買った。
さっそくネットで
作曲ソフトをダウンロード。
バトルロワイヤルを読みました。
50時間くらいで読めちゃいました。
いつもならこのくらいは20~30秒くらいで読めちゃうんだけど
今回はなんかのめり込んじゃって、
時間を忘れて。
嘘です。
読んでいません。
段々と小説が読めるようになってきたぞー。
2004.1.20 火 セイン・カミュ・ビダン
人間が人間を判断するとき、諸々な言動や行動などから帰納してその人についての普遍的な真理を導き出そうとします。その過程において帰納する側の人間とされる側の人間との間に「誤解」が媒介するなら(媒介しないことなんかきっとないんだけど)、分析された人間は分析した人間の旺盛な想像力によってその動機及び心理状態を捏造されてしまい、自分の抱いている自分像と他人の抱いている自分像にズレが生ずる結果となって、ここにアイデンティティクライシスという状態が発生しますわね。
僕は他のすべての人間たちと同じように昔からそんな感じに周りから解釈されてきたと思うし、また他人に対してそういう態度で臨んできただろう。けど同一性の危機なるものをさまで意識せず(または苦とせず)生存してきたつもり。気にしていなかったんだ、別に。そんなこと。
あるミュージシャンは、過去自分はバスケットボールのフリースローが得意だったけれども、ボールを放つ瞬間の筋肉の収斂やら何やらを考え始めた途端、絶対にゴールしなくなってしまったと回想していた。そう、気になっちゃったんだな突然。余りにも。
思春期が過ぎるよ。どうも。
外に出て嘘ばかり吐いている人間が自分の部屋の中でだけ正直者になってみたところで、そいつはただの嘘吐きなわけであり(むしろ部屋の中での彼が嘘吐きだ)、嘘にまみれた生活の様子から他者によって帰納される人間像は、醜悪なものであるかもしれない。あふれ出す無限大の虚構の中に時折、川面の泡沫のように真実が存在したところで、色んな濃淡、あらゆる階調の青色のある中で、一つの青色が、自分だけが真の青色であるなどと主張したところで、そこに説得性は皆無であるし、またそれを立証すべくもない。
昔は誤解されることが快感であったような気がする。誤解させるように仕向けていたからだ。一般に道化の笑いと落語の笑いは違って、笑われることと笑わせることの間には絶対的な隔たりがある。しかしプロの道化とは、笑われるふりをして実は笑わせているというのが本質であって、芸術だ。僕はそういったプロフェッショナルな道化師を気取っていたのかも知れない。そういえば中学の頃に、「pierrot」なる自伝的小説を書こうとして挫折したことがある。中学生で自伝もくそもあったものかと今では思うが、浅はかながらも自分について道化についてその頃から考えていたのであろう。まだ太宰治を愛読するには到っていなかった時代の話。
もっと昔は誤解されることが本当にイヤだった。たぶん中学の僕は、このイヤな状態を回避するために開き直ったんだろう。極めて論理的(当時には少なくともそうであった)な方法で、自分ひいては人間が誤解される存在であることを正当化しようとしていた。道化であることで同一性を確保しようとしていた。知性化だ知性化。
道化とか同一性とか、反吐が出るような言葉だと思う人もいるだろうな。僕もそうだったから。
こうやってだんだんと何もかもを許していって、許さなくてはならないものが許せなくなってしまって、僕も死に近づいているんだワァオ。
道化とかいう言葉を(たとえ脳味噌の中であっても)使うのは高校に入ってからやめた。ばからしくなった。俗っぽく思えた。僕の他にも自分が道化であることに悩み、そして誇ってすらいる人間を知った。そこで完全に萎えた。僕一人の思想でなければ考える意味がない。ばからしい。まあそんなことを言っていたら何も考えられなくなるんだけど。だから僕はムダに知識欲が旺盛なのかも知れない。ジャッキーさんは単一民族でありたいらしい。そのために他民族とかぶらないようにしつつ、他民族からあらゆるものをパクリつつ。まるで日本のようだ。
じゃあね
あとで寄るよ
2004.1.19 月 燃焼系、燃焼系、オギノ式。
何をやっているんだ僕は。テストやレポートにかまけてるほど暇じゃない。
2004.1.18 日 月刊 『現代のシスプリ』
べらべら笑う
玄関先で繰り出す
同一人物と食事する
コンバインと肥料
太い女性の総称を
シンパシーを売りに出す
トーマスエディソン機関車に乗る
ほうじ茶を踏みつけてごめんなさい
ごみ選択の自由
一向に落ちてこないシンドローム
欺瞞だらけの豊作祈願
(『密には柳葉魚(厳密には柳葉魚)』より)
坂口安吾の文章は僕に似てるナアと思ったよ。
けして僕の文章が坂口安吾に似てるわけではなく
また僕の文章が坂口安吾の文章に似ているわけでも
僕が坂口安吾に似ているわけでも
僕が坂口安吾の文章に似ているわけでも
更に厳密に言えば
坂口安吾が僕に似ていたり
坂口安吾が僕の文章に似ているわけでもないし
坂口安吾の文章が僕の文章に似ていると言うには、どういうわけだかまったく気が進まない。
坂口安吾の文章が僕に似ているわけで。
『白痴』は面白いなー初めて読んだよ。
僕は白痴と結婚したいなと少し思った。
頭のいい女の子とハイレベルのメタフィジカルな会話をしてパッと見発展的に過ごすのが理想だと思ってたけど
僕は白痴と結婚したいなと思ったよ。
いとしこいしは良かった。なぜ死んだ。
今のお笑いはボケが間違えてるだけだ間違いない
特に漫才は片一方が間違えて片一方が突っ込む、そしてその役割は固定的で
それ以外の漫才は無きに等しい。
それ以外のお笑いというのは細々とやっていく他はなくて
例えばM-1グランプリでは絶対に優勝できなくて
川獺
ちなみにいとしこいしはいとしさんが間違えてるだけの古典的な漫才だった
2004.1.17 土 コーネリアス解散(原因は渡辺満理奈の奪い合いか)
小林賢太郎がやっていることを僕は高校生の頃からずっと考えていた。それで、いま何年か前の『広告批評』に載せられたラーメンズのインタビューを読んで唇を噛んでいる。けど仕方がない。僕は、それをすれば確実に自分のプラスになるということがわかっていながら、そのことに真剣にはなれなかったし、それへ向かって努力をしていくのが、想像するだけでもとても億劫に感じていた。それは今でも変わらない。蝿が好きで、蝿の全てを知りたくて、そして自分でも最高の蝿がつくりたいと思った。どうして蝿がこんなにも魅力的なんだろう、ということを考えなければならないと、そのくらいはわかっていた。しかしそのためには世界中のありとあらゆる蝿を捕まえて、たっぷりと研究をして、そこに横たわっている美的な法則性を導き出さねばならない。それは余りにも面倒だと思われたし、いかんせんそういった行為の中に興味を感じることができなかった。やってみたら楽しいのだろうとは思うのだが。
この発想は創作者のものではないかもしれない。そして、小林賢太郎もたぶん創作家ではない。だからきっと僕は創作者にはなれないし、さまで興味もない。小林賢太郎は芸術家である以前に学者だ。
帰納法ほど面倒臭い方法はないんだよ。
だけど僕は方法論の力をある程度は信じている。
(小林賢太郎にとって片桐仁だけは彼の方法論の枠外にあって、だからこそ彼を必要としたのだろうな。)
方法論なんて考えるのは創作者ではなくって批評家だと僕の友達は言うだろうな。確かに彼の言うようなところの創作者ではない。
だけど方法論だって方法の一部ではあると僕はかたくなに信じるわけだ。
要するに根底に方法論があり、創作も方法の一部であると考えている以上は。
なんて難しいことを考えても仕方がない。
僕はもう少し勉強をしよう。
あー。僕にもう少し勤勉さがあれば。
帰納的な方法で物事を処理していくくらいの根気とエナジーがあったらなあ。
2004.1.16 金 元気ですかー いくぞー いち、に、さん、ナース!
巫女みこナースの主題歌をエンドレスで聴きながらご飯を作るんです。
なんでそんなことするのかというと帰り道ずっと巫女みこナースの主題歌をエンドレスで歌っていたからです。
飲み会で知り合った、わりと顔の良い(けど性格はアレかもしれない)女の子を教育臨床学の授業で見掛けた。声をかけようかと思った。
2004.1.15 木 イメクラメイクラブ(atイメクラ「姪倶楽部」)
「キリシタンキリシタンしてるキリシタンって、実はあんまり好きじゃないんですよ。なんか、もっと抜本的に、内省的な立場からキリシタンってやつを冷静に見直してみたいっていうか。」
逆説的な表現って実に簡単だ。
「余計なことが核心を浮き彫りにする」
「嘘でなければ語れない真実もある」
「愛ゆえに殺したい」
アンビバレンス。ダブルバインド。アイロニー。パラドックス。
反動形成。
【謎をかける、という行為はそれだけで二律背反だ。知られたいのか、知られたくないのか。】
そんなことばかりだ。空色の肌をして、素っ裸で突っ立っているだけで。
うちの自治体では新成人へのお祝いにクラッカーが配られました。
今日は成人式なんだ。
今日も僕は嘘をつくんだ。
「いやあ、もう成人式は去年すませちゃったんだけどね」
「式の間中クラッカー食べまくってたよ」
安西ひろこは今年も成人式に行ったのだろうか。
夏目漱石の『こころ』を石原千秋氏の授業で取り扱っていた。
なかなか芸術的な仕上がりだった。
僕も似たような解釈を持っていたのだが、カチカチと整合的でくやしかった。
クラスメイトの男は僕を「批評家向き」と評するが最近自分でもそうかもしれないと思えてきた。
けどまあ僕の創作が読みたいという好奇心がこの世の中に少しでも存在するのなら。
さてこの「少しでも」というニュアンスを異化せずそのまま「少しでも」とタイプする。
そこに思想がないのなら僕は創作をするべきでないと思った。
マクドナルドへ行って男と話した。なぜだか鼓舞された。人間と人間との間には、重なっている世界と、重なっていない世界とがある。奇妙な喩えだが、僕が2で、彼が3なら、要するに6は重なった世界であって、7は重なっていない。7が重ならないのは仕方がないんだ。6から光の波動が放たれて、広がりさえすればそれで。
そして何らかの還元を期待できれば。
僕の世界は狭すぎる。読書も余りしない。本は読まずにツンドク派だからだ。積ん読派。今年の抱負は漱石全集と太宰全集の読破であり、366冊の本を読むことだが、そんなことできたら僕は僕を尊敬する。畏敬する。そして僕は僕のことを決して超えることのできないという事実に悲嘆して自殺をすると思う。
秘密曼陀羅十住心論、テキサスシティの甘い罠。
ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん、てきさすしてぃの秋葉原。
電脳組!電脳組!電脳組!
じゃんけんぴょん!じゃんけんぴょーん
2004.1.14 水 「艦長!ポリフェノールの含有量が限界を超えています!」「何やってんの!」
どうも、田沼意次です。
銀
あなたの織りなすその鶴は
雪に舞うようにかぐわしく
ああ
そのように僕も折ってくれ
折り畳んでくれ
暗闇の中
白い息を吐く
ああああう
あなたとの生活で湯水のように時間を使い
記憶を使い
ああああう
永遠を信じますか?
永遠望むほど闇は更に深く
動けば沈むよまるで蟻地獄
永遠というのは確かにあるんです。それは、神を信じるのと同じことです。
永遠を信じるにはある種の強さが必要となるでしょう。それもまた、神を信じるのと同じことなのです。
神様を信じる強さを僕に
生きることを諦めてしまわぬように
いつかはぐれた複雑な概念の
隠したカード
わかるような気がするの。
統計学的恋愛講座
あなた 中出しがしたいの
してもいいわ
あたしの中にお出しなさい
いいの 大丈夫
万に一つでも妊娠をしたら
あたしは自殺をするの
あたしは自殺をするの
だからいいの
中出ししたければして頂戴
正夢を見ることはできない、夢をみることができるだけだ。coincidenceがあって、結果的にそうなる。
なんだ、デジャヴだよ。
焦るんだよ、遂に、埋没してきた。僕のタレントはタレント性だけなんじゃないか?なんて思ってしまうね。
2004.1.13 火 飲んだくれキリシタン
本日は22時までバイト、のはずが、23時近くまで残業した後に、教え子のお母様から「パソコンを教えてくだされ」との依頼。結局24時半くらいまで働いて(?)しまった。
電話来た。「事実じゃないところありましたよ。」と突っ込まれた。何かと思ったら「私はじゃっきーさんなんて呼びません、おざきさんって呼びます!」ときたものだ。そこはそれ曲がりなりにもネット上だしね。
この後二時くらいまで諸々の会話を交わした。僕と彼女がかつて共に最も愛していたとある女性に対する僕なりの研究を彼女に向けて発表してみた。「かくかくしかじかのわけで、彼女は常に自慢げで無自覚だ。でも、可愛いから許してたのv 愛してたから許してたのv」僕がその女性に対して抱いていた気持ちはかなりアンビバレントなもので。僕がこんなに大好きな人がどうしてこんなに頭が悪くて醜いんだ、と憤っていた。その女性は何故だかモテた。確かに可愛かった。策略家だった。けれどもそのことに対してひどく無自覚だった。彼女は時折木登りをした。その動機を「なんとなく登りたいから」と語った。そう、彼女は無自覚だったのだ。でも可愛いから許してたのvうふ。
さあそんな話はどうでもいいとして昨日の日記って実は誰に向けたのかというと、性に対して潔癖な乙女に。僕の現実はこうだ、と訴えたかった。そこから何が生まれるのかはしらんけれども、何となく伝えてみたくなってしまった。僕にとって性交とは、このようなものである。っていやごめん訂正。このようなものでもある。
2004.1.12 月 クリトリスにバッタを
無意味にドリンク剤を飲みまくる。毎日タウリンを数千ミリグラム摂取する。実に、ムダだ。意味無い。
今日は全面的にフィクションでいきます。全部嘘です。そんなもんです。
《何言ったって裏返っていく彼や彼女》なんていう科白を漸く噛み締められるようになったある日、僕はある女の人と市の外れのマクドナルドで会うことになっていた。「朝九時に山下のマックで」なんてって二日くらい前に簡単な約束を取り付けて、うちから15キロ以上離れた待ち合わせ場所まできこきこと自転車を駆った。
僕は20分くらい早めに着いたので、マクドナルドの中に入って、朝だからってことでアイスカプチーノを注文して、二階に上がって、よく陽の当たる眺めの良い席に座った。そして斉藤美奈子がちくま書房から出してる本を、その数日前に古本屋で購入したばかりの文庫本を開いていた。ややあって、彼女は現れた。
テックトゥから始まる恋もある、みたいなこと言う人がいるけれどもあながち間違ってはいない。僕はこの日強く確信したのであります、「テックトゥは最大のコミュニケーションである」と。
「ともだちんこ」という言葉があります。んで、びんぼっちゃまくんがこの言葉に対してこんなようなことを言っています。「《ともだちんこ》は下品な言葉ではない。《僕のちんこを君になら触らせてもいいよ》という美しい友情の言葉なのだ」あんまりよく覚えていないけれどもこのような主旨だった。テックトゥというものは基本的にこういうところがあるんではないでしょうかね。当たり前のことかもしれないけれども、ともだちんことかともだちつとか自然にやっちゃってるじゃないですか、大抵の恋人同士だと。あれってやっぱり信頼関係のたまものだと思うんですよ、買春とかだったらそれが契約関係に変わっちゃいますけど。まあ恋人同士、または夫婦やなんかだって結局は「契約」の一種なわけだし、もしもそういう具体的な契約がなくても精神的にお互いオッケーサインを出し合っているからできるわけでね。信頼=契約関係が成り立ってこそテクートゥができるわけでね。コミュニケーションですよ、ラブ・コミュニケーション。
あるいは少年マンガで喧嘩した後に友情が芽生えるようなもの。息を切らせながら「ハァ、ハァ、お、俺とここまでやった奴ははじめてだぜ…」みたいなのがあるでしょう、ずばりあれだ!ともに汗を流して分かり合うんだ!それだけがこの世の中を熱くするんだ!
お互いに相手に対して無防備な状態に自分を置いてみるというのが何らかの意味を持っていると思うんですよね。まあうまくいった場合の話ですけど。
結論が導き出しにくいな。元々ないのかもしらんけど。テックトゥは芸術だと思いますよ。うまいことやんなきゃだめです。そしてその中に何らかの意味を見出さなければいけない。シングルセックスと変わらないことをしていてはダメなんだ。せっかく二人いるんだからね。そういえば3人ヤれば文殊の知恵なんて言葉もあるな。実践せねば。
と、まあ今日は嘘八百並べてみましたけれども。しかしどうしてこんなにテックトゥの話をするのでしょうか。そんなに「大人」なるものを意識しているのか、僕は?
2004.1.11 日 可視的な屁、流麗な吐瀉物。
テイストをローディングして、日記タイトルを復活させてみました。いつか矢崎隆雄君に詩歌化を依頼しやう。
先日、僕の最も信頼している女性の一人である二つ年下の後輩とデートをしました。この娘はどうやら僕の影響をもろに受けてしまった口で、感性も鋭い方だし、読書などもよくするものだから、一時はポスト・ジャッキーだなどと噂されたほどだった。って、そう思ってたのは僕だけだったのかもしれないけど、でもたぶん本人も少し思っていたと思う。まあ最近はかなり離れてきたというか、彼女は彼女なりの世界をずんずん拡張していっているみたいで。それが嬉しくもあり、少しくらいは寂しいかも知れない。かわいい顔してなかなか魔性で、一時期は我が知己と恋仲になったりなどして、そして僕はそのことに強い憤りを覚えたりなどしたりと。しかしそのうちにその男への恋心もすっかりと冷め切ったようで、最近は僕の知己であり一学年後輩である別の男と良い仲になっている。今回はあんまり憤慨してない。しかし彼女が本当に愛しているのは僕なのであり、僕も彼女に対して並々ならぬ愛情を注いでいることはこれ、間違いないわけで。
僕らはとっても仲がよいし、彼女のお家にも複数回お邪魔したことがあって、ぎりぎりな感じでらぶらぶとしていたりしたんだけども、それでいて一線は越えないというか、お互いにその距離感を楽しんでいる(という名目でこの関係が特別なものであるということを確認し合っている)。
何よりも悦ばしいことに、彼女は決して僕に恋をしない。だから安心していられる。安心して一緒に出掛けることができる。僕の場合、誰と過ごしてもどっかから文句が出るものだから、このくらいの距離感のあったほうがいいかななんて。この娘に恋をされるとまずい、そのうちに醒めきられるような気がするし、この娘には負担をかけたくないというのもあるし。こっちが本気になってしまったら、本当に困ってしまう。350kmの実質的な距離感もあるわけだし?
ただ、くだらない邪推を巡らすならば、彼女が恋をしないのは保身のための手段じゃないかとも思うんだけどね。本当は僕と恋愛したくてたまらないくせに、苦しかったり、面倒臭かったりすることがわかりきっているもんだから強いて、とか。たぶん彼女が恋愛に求めているのは「楽」の一文字だものね。心を繋ぎ止める手段として利用できればそれでいいと、その位に考えているのかも知れない。想像だけども。
でまあ、とにかく僕は彼女が好きで、信頼もしているわけだ。ちょっと思春期が過ぎる気がするけれども、無限に鋭敏で、素敵な娘だ。それなので「この娘ならいいか」と思ってEntertainment Zoneへの片道切符を手渡してしまったんだな。
したらいっちょまえにショックを受けらしたらしくて。うーんそうか。だめなのか。ただ問題は何に対してショックだったのか?というところ。単純な嫉妬だけではないだろうし、彼女もそうだとは思いたくも思われたくもなかろうし。
テックトゥはいけないことなんでしょうかね。なぜ禁忌視されるのか?なぜ秘め事とされるのか?ロマンティック・ラブ・イデオロギーに起因する倫理的意識/制度の国家的操作によってそういうことになっているのかしらん。要するに「家」の擁護でしょうか。堕胎よりもa French letter、産婦人科産業よりも避妊産業が潤ったほうが日本資本主義経済全体の利益になるということなのでしょうかね。(実際そうかも。)
さて、まあ何が言いたいやら自分でもわからん。ただ最近は開き直っている、とだけ。最早世界の中心に女の子はいないのだから、守るべき物など何もない。壊されるべき物だけが、ただ僕のこの手にいつもある。昔から僕は恋愛はしない人で、初恋らしきものは中3で、ふとした弾みに醒めて、その後悟りを開いて、もう嫌になって、無意味だと信じて、高2くらいで自分がとてももてる人間だということに漸く気づいて、悪用して、で結婚したいと思ったのが大学に入ってからで、その後また悟りを開いて、ほとほと嫌になって、人間が誰も信じられなくなって、『こころ』の先生のように、人類全体を憎んでいるような。無意味だ。無益。
で現在開き直っている。ところが世界には素敵な娘も少なからずいてちょっぴり口唇に愛の蜃気楼を奪われそうな感じがする。まずいな。ちなみに僕は元来B専でちゅ、振られるのが嫌だから安パイばかり切っているのだとか思われるかな。その理由の一つとして、美人は僕に惚れない。くやしい。くやしいけど、惚れなくていい。奴らには謙虚さがない。あとかわいさもない。かわいいのがいいのだ(おわかりと思いますが、僕は「謙虚さがなくてかわいさがないある程度きれいな人」を「美人」と定義づけているのです)。さて反対にブスは。ブスは女性ではあるが女の子ではない。中間あたりが一番。謙虚で。中間の上ずみを掬うのがよろしい。(源氏物語にもちゃんとそう書いて。頭中将が言ってます。)
と、まあ。雨夜の品定め的なことを一人でのたまっていても虚しいだけだ。余り知人に見られないのをいいことに好感度の下がりそうなことをここぞと連発してみる卑怯な僕だ。毎夜会社の上司の愚痴を、飼い亀アキレスに語り聞かせている、サラリーマンの如、し。
女の子のことはどうでもいい。もっと世界について考えようよ。花火をあげようよ。(成人式まで)あと一年!
2004.1.10 土
クラスメイトが我が家に遊びに来た。いつも通り不毛だった。非生産的で非合理的な。何の意味もない。こう、何の意味もないところから何か意味を見つけだすというのが、無意味な世界を巧みに生きていくための手段の一つなんだけれども、まあフロイト的に言うと知性化というのか知らん。防衛機制…中学校で習ったことが大学で出てくるっていうのも、なんだかときめくう。
袋小路です。進展がない。何の新展開も見られない。非生産的で非合理的な時間。何かをより深く知れるというわけでも、至高の快感~ってわけでもなく。どうして僕は、もっと読書でもしていれば良かったのに。
なんてやらしいこと言ってみたりします。
2004.1.9 金
そういえばバイト先でお年玉をもらった。
そういえば色々と言いたいことはある。
セイハロートゥブラックジャック。
どろどろな鳥が飛べなくて困っている。
けれどポーカーフェイス。
だから誰も助けに来てくれない。
映画の撮影かなんかだとみんな思ってる。
文系な会話においては、どんな事柄でも伏線に成り得る。
どれだけ本読んでるのかっていうところにも繋がるだろうと思う。
いや、訂正。どれだけストーリーを知っているかっていう話かな。
活字なんか一冊も読まなくても。
「欠点はわかってる。ロゴス化できないだけだ。」
言葉にしたところで、空疎なんだ。
中身がない。
実に、ムダだ。意味無い。
思春期らしいことを言ってみるよ。僕は何のために生きているんだろう?もう忘れてしまった問い。とうの昔に通り過ぎてしまったはずの。
ここでどういうわけだか、戸坂潤を引用する。
「そんなことに今更感心するのは、そういう境地そういう契機を、まだ一遍も通過したことがなかったという、人間的経験の大事な点での浅墓さを暴露するものに他ならぬ。」(『思想としての文学』)
生意気なことを言えば、「こんなこと」僕はとっくに通過してしまっていたんだけども、戸坂潤のような人にずばりと上手に言語化されちゃうと、何だか自分の思想にぴかぴか立派で強固なる後ろ盾でも出来たような感じがして偉そうになれるね。
で、「通過論」を通過してしまった僕としては、「通過論」を語ることに恥ずかしさすら覚える。
今やこの「恥ずかしさ」すらも通過してしまいそうで、そうなると「恥ずかしい」と思うこと自体が、とっても恥ずかしくなる。
どっか矛盾?
ところでどういうわけだか、自分がこのように「通過」という単語を使うことに抵抗はあまりない。
こいつも、矛盾?
…そして、これを説明できるほどかしこい人ではないようで。
精進のために勉強をする。今年の抱負は漱石全集読破。一から読み直す。
僕は何のために生きているんだろう?
あえて問い直す。
(中学生じゃ在るまいし、何を考えているんだ。もう19じゃないか!)
そう。何の意味もない、だから死にたい。
なぜ死なないのか?
答えは出ません、もちろん。
それだから逃げるんだ。
大人なんだからね、もう。
すっかりだ。
ぐるぐるとしている。いったい何かがぐるぐるとしている。
心拍数が上がって、心筋が酷使されてさ。腕の力がなくなっていくんだよ。
立って。いられない。座ってさえ。
がらがらと、喉の奥がうめく。ていうか、うごめく。誰かと話がしたくなる。
涙も流れるだろう。もしも誰かが、電話をかけたなら。
2004.1.8 木
人生を悟るほどかしこい人間ではない。愛を語れるほどそんなに深くはない。
ゆず。『嗚呼、青春の日々』を除く『夏色』から『歩行者優先/濃』までの全シングルを一気に購入してしまった。『またあえる日まで』だけはドラえもんの主題歌だから前から持ってたけど。こうなってくると『嗚呼、青春の日々』が欲しくてたまらなくなります。あとアルバムも集めたくなります。ビデオも。限定版も。病気だ。
ゆずの歌詞ってたまにいいのがある。けど基本的にはミスチル。なんて言ったら怒られるか。
蓋し。歩き出したり走り出したり一歩踏み出したり、そんな歌が多い。別にゆずとかを悪く言ってるんじゃなくて。なんていうか僕はゆずを聴くなら本当に好きだ。歌詞も、いいじゃないですか。なんか真っ直ぐっぽくて。あれは気持ち良いですよ。偽善こそが最高の善って感じがします。僕の友達に熱烈なゆずっこがいるんだけど、そいつもすっごい偽善者(自称)で。まあ抜けてるところはあるにしてもそいつはスゴイいい奴で、僕は尊敬すらしてて。なんかゆずが好きだっていうのがすっごい頷ける気がするんだな。
偽善こそが究極の善だ。偽らなくては表しきれない本音だってある。嘘でなければ、語れない真実もある。
「嘘でなければ語れない真実もある。」
岡田淳の新刊『竜退治の騎士になる方法』は面白かった。『二分間の冒険』や『扉の向こうの物語』ほどの衝撃はなかったにしても。
ファンだから手前味噌になる。
立川談志が言ってたな。
「いとし・こいしが出てればもう何をしててもいいんです。それをファンと言うんです。」
この人はやっぱりすごい。
いとし・こいしもすごい。
モンテーニュの『エセー』が良いんです。目指してるとかじゃなくて。
それと谷川俊太郎の『少年Aの散歩』。あの世界を『エセー』風に描けたらと思うな。
やっぱ目指してんのか?
2003.12.24~2004.1.7
さて、どういうわけだかね。なんだか金田から恋文が来たので閉鎖はとりあえず取り止めにして、いちからのスタート。知り合いにはなるべく知られないようにひっそりと、出来れば検索等で飛んできた人々がリピーターになってくれることを祈りつつ。
僕はオフの世界ではちょう人気者なわけで。だから相当な数の人々が旧Entertainment Zoneには訪れてくれていたわけで。けどもういいや。HIT数もギニュー隊長の戦闘力をとうに超えちゃって、調度いい機会だからリセットミーって。色々と制限もあるし。
で。
帰省していました。名古屋に。クリスマスから新学期にかけて。遊び呆けていました。
24日ゴージャスな喫茶店で紅茶&ケーキ、イルミネーションと、ビルの51階、そのあと中学校。
25日学校へ行って中華を食べてから長いお喋り。
26日ユニーに行ったら知り合いの中学生どもに絡まれて閉口。
27日河原で世界について語ってから「現代文」を教唆。
28日高校へ行って、カラオケ。
29日マクドナルドで昼までお話をしてから、繁華街を少し外れた派手な建物、ファミレス、ひとしきり騒いで駐車場で色々なこと(服を脱いだり)してからてゃかゆきの家に行き、音楽をダビングさせてもらいながらファミコン(忍者くん)等。
30日は高校一年生の時の知己4名とカラオケに行ってから焼き肉を食べてから高校の前でお喋り。
31日は漫才ドラえもん紅白と梯子してから去年と同じ年越し。
年も明け、正月くらいはゆっくりしようってことでぐぐっと予定が減ってぐうたらとします。新しい新年の挨拶は、「晴れたれば鮮やかれ。」
1日帰宅しテレビを見つつ寝て起きてテレビ。
2日テレビと読書に明け暮れ。
3日高校の近所のCD屋の閉店セールに並び、たくさんの買い物をして、カラオケ。
4日戯れ。
5日酒を買いつつGLOOMYを探して地元を東奔西走。
6日毎年恒例、誕生日を祝って建物。
7日高校に行って知的ぶった会話をし、愛に満ちた話をしてから電車に乗って東京へ帰。
とまあ、僕の帰省模様はこの様でありました。
練馬区の部屋に戻り、死んだように眠り、
2003.12.23
抜本的に見直していかなければならない。俗っぽい例で恐縮だが、今まで世界の中心にはA子という女の子がいて、僕がA子に振られたとする。そうなると、じゃあそのぽっかりと空いた世界の中心というポストにB子という別の女の子を当てはめればそれでよいのかというと、そうでもないかもしれない。確かに一時的にはそれでどうにかなるのだろうが、いつかはまた瓦解をするのだ。もっと抜本的な見直しを図らなければならない。ではどうしたらいいのか。
まず、世界の中心に女の子を据えるということ自体が間違いだったのではないか。それが当たり前だと思い込んでいたのではないだろうか。もっと抜本的に、ドラスティックに、根底から覆さないといけない。深層から疑ってかからねばならないのだ。
要するにA子だとかB子だとかそんなんじゃなくて、もっと、とにかく女の子とはまったく別のところに世界の中心を、人生の基盤を置かなければならない。しかしだからといって男の子に走るというようなことはしないぞ、まあ例えば文学だとか、音楽だとか。釣りでもいいしボクシングでも構わないのだけども、そういったものを世界の中心に据えられたらさぞ楽であろうなあと思う。でも難しいんだ。
そういう点で最も楽ちんな生き方の一つは、世界の中心に宗教を据えることだと思う。身近な例でいえば創価学会なぞは念じながら題目を唱えてさえいれば世界の中心を確立できてしまうように見える(よく知らんけど)。よく「神仏見た様なあやふやで不確かなモノをよく信じられるな」などと言う人がいるが、それはおかしい。神ほど確かなものはないのだ。いちばん不確かなのは人間の心。あれぇっ、僕っていつからこんなにニヒリスティックにならしゃったんかね。
いや神ほど確かなものはない。観念的なものは確かにフワフワはしているかもしれんけど、でも相当に絶対的だ。しかも観念的なものってかなり便利で、絶対的でなくなったときにはすぐに消滅してくれる。比較的後腐れナシ。素敵だ。まあ、よく知らんけど。
さてでも僕は神なんか信じないんだな、何故ならばみんな信じているからな。僕は自分の意見を曲げてでもマイノリティに徹する男として高名なわけだから。なんてこう言っちゃうと、「いやむしろ信じている方が少数派なのでは」とかいう突っ込みが来そうだ。確かに分布的に見たら日本だとそうなんかもしれんけどね。例えば僕が幸福の科学に入信したとして、すると幸福の科学というコミュニティの中で僕は完全なるマジョリティになってしまうわけで(要するにマイノリティの存在しないコミュニティの中に入るということだから)。みんなと同じことをしてみんなと同じ人間を崇拝しなければならんのですよ。それは耐え難い。何らかのコミュニティの中に入って何か同じものを信奉するっていうのは、ヒネた性格上無理だ。だから宗教をやるのは好きではないし、「無宗教だ」とか「無神論者だ」などと豪語するのも憚られる。興味だけはあるんだけどね。まあ文学的な興味は。
同じように、ファンクラブとかは好きな方ではないし、美人にも興味はない。きれいな人ってだいたい不細工な男にもてるしね。もてる女の子は嫌いなのかもな。ああっと、やっぱり女の子の話に戻ってしまうのか?いけないいけない。女の子なぞはオプショナルな要素だ。と、思いたい。でなければ思春期には辛い。これって思春期であることの否定か?それならばピーターパン症候群男児である僕はどうしてええだかわからんくなるな。ええいちくしょうめ。
でもまあ別に女の子と愛し合わないで生きていこうとか、興味ないとかそういうんじゃなくって、何というのかな。別に世界の中心でなくてもいいかなって思っただけ。昔から僕は女の子をエネルギー源にして生きてきたのだわけで、今回こう思ったのはまあ精神の相当に抜本的な変革ですよ。僕にとって世界とは女の子だった。それも特別な女の子(A子とかB子とか)というよりは、総体としての「女の子」を拠り所にしていたのかな。ちなみに僕のいう「女の子」の範疇に含まれるのは僕にとって「かわいい」と思える女の人だけね。あるいはほらせっくすやなんか、そういうものが世界の中心だったとかでもなくて、もう「女の子」そのもの。イイ。「女の子」はとにかく僕にパワーをくれるんだ、いやほんとに。でもやっぱりそれに依存しすぎても行けないなと思って。例えばある特定の女の子に溺れすぎていて、それからそれを失ったときに一から世界を再構築していくのが億劫なのである。いやーん。
ところで煙草と酒と女の子とは、よく並列されるけれども、男にとったらそれって結構真理をついているというか。煙草を吸うことを世界の中心に据えるのは宗教の次くらいに楽ですよ。酒や麻薬も同じように。だから僕はあんまり煙草も好きじゃないんだな。煙草を世界の中心に据えて、嫌なことあったら吸って。楽しいときも吸って。とにかく吸って。吸いまくってって。楽だろうなあ、羨ましいなあとか思うんだな、要するに憧れってやつか。
ああ、世界を表す言葉が欲しい。世界の中心が欲しい。現在は世界に中心なんかなくて、絶対的な価値体系がない。全てが相対的だ。絶対的な世界ってのはこういう→。世界の中心には大樹があって、色々な葉っぱがキラキラと風をつくっていて、時折は散っていったりもするような。だけど相対的な世界ってのは、中心なんかなくって、果てしなく広がる真っ白い地平線のそこかしこに小さな葉っぱがちらほら生えてる。そんだけだ。悲しいな。どうやって生きていったらいいかわからない。中心が欲しい。大樹が欲しい。そんなときは奥井亜紀さんを聴こう。うふふ。
2003.12.22
昨日はあのあと池袋の古本大学に行ってたくさん本を買ったよ。それから何したっけな。帰宅して、うん。寝たな。19時間寝た。いやホントに。19時間飲み会やったら19時間眠れるのだなあ。それで起きたらもう授業に行かねばならない時間。授業に行った。文学研究の方法で戸坂潤。4限は空きだから女の子とお喋り。思いっきりへこます。5限は教育学。終わって、早稲田大学教育学部国語国文学科4クラス合同飲み会へ。得意技の「ジャッキーです!」ですぐに逃げだすのさ。わざわざスーツなんか着ていって突っ込み待ちしたりね。一気のみしまくってね。キャラ的に絶対一気を断れない。もう無理だ!と思ったら他の奴に一気させる。これが一番だ。うん。僕がそれやりすぎたせいで一人倒れたけどね。意味無い。いやー鷲もウィスキイとか日本酒とか一気のみ無理強いされてフワフラでしたわ。死ぬかと思いながら近所のクラスメイトすぐるんの家に寄って女の子らと戯れ酔っぱらいを足蹴にし、そのまま足取りもおぼつかなげに二次会へ行ってまた飲む。頭の悪そうな人間に僕は容赦なく悪態をつき続ける。いや本当は彼らにも何か光るものがあるんだってわかってる。わかってるんだけど見えてこないんだ悪いけど。再びクラスメイトすぐるんの家へ行って女の子と戯れたり酔っぱらいに突っ込んだりして虚しくなった頃に帰る。隠れ福岡出身のアヤツはなかなかイイ。死にそうになりながら自転車乗って帰る。家まであと500メートルってとこで吐く。高笑い。んまあそんなもんだ。
2003.12.20~21
世界が抜本的な見直しを行ってから幾日かが経過した。絶対的だったあの世界に崩壊が訪れた。終焉を受け容れ、僕は死んだ。もちろん再び誕生し、新たな色彩を施される。残酷なくらいにブラン・ニューな世界はまったく温かい。愛と光は完璧に柔和で、軽薄な安穏と前向きな焦燥が交互に現前する。脳細胞は真っ白で、世界の全ては独立した存在として淡々と認識されていく。僕は今、世界一の知恵者なんだと思う。何故なら、世界には絶対的なものなど存在しないんだということを、完全に知ってしまっているからだ。世界に普遍性はない。信じられるものなど本当にない。何一つ。実存は相対的にしかあり得ない。真理もない。真実もない。嘘も誠も表裏一体で、単なる欲望の副産物でしかない。そういった世界で僕は安寧と暮らす。太陽の緩やかな放射線が舞う雪を溶かして、天体は輝いた放物線で鮮やかに皮膚を磨き上げてくれる。あるいは草木や花々が、動物も昆虫も、ありとあらゆる生命力が意識体系の本質へ肉迫してくる。安寧としている。何もかもが安寧としている。それでも僕は、全ての生命が朽ち果て、恒星が燃え尽きることを知っている。知っていながら、虚妄なる安寧の中でゆったりとくつろいでいる。確かなものの存在しない世界で、軽業師のように生きている。少しだけ空しいけど、大抵は気にしない。
ハートブレイクなごや。
ほんの数日で天地は倒逆し、世界の再編成が行われた。絶対的で普遍的な、まるで宗教みたいな世界観は根底から覆され、僕は万物の失われた世界で一から世界を認識し直していった。何一つ確実な物として認識されるものはない。諸行は無常だ。新規構築された筋金入りの価値相対世界においては、何もかもが刹那的。瞬きの度に楽園は地獄と入れ替わる。逆もまた真なり。どんなものでもいちいち変容していく。流動的なエネルギーをもって迫ってくる。ぐらついた足場に、鬱積する不安。いつでも僕らは目を光らせて、何がどう、どんなふうに変わっていくのかを見張り続けている必要がある。緊張感が肉体を支配する。疲弊する。それでも、神様のいないこの世界では、そうする以外に生きていく道はないみたいだ。そう、神は死んだ。絶対的なものは無に帰った。そうして世界は変革された。何も信じられない嘘っぱちの世界、その中に放り込まれてしまっていたんだ、いつのまにか。
午後四時に喫茶店に集合して、五時くらいから池袋の居酒屋「東方見聞録」に入店する。思春期にとって、恋愛に破れることは世界の崩壊を意味する、そう言ったのはミラン・クンデラを愛読する年の離れた新しい友人で、そんなくだらないことばっかみんな喋り合い、酒を飲んだり肉をつついたりしている。五時過ぎに飲み始めて、一時前まで。七,八時間は居座った計算になるが、なかなか変態的に楽しいお話が楽しめたように思う。お会計は八人で三万円程度。
さてめんどくさいからこっからはライトにいこう。
最初はまあ真面目に文学の話などを、ああこの集まりは要するにネットのオフ会で、んでまあ文学がらみのものであって、そういうわけで文学の話なんぞをしていたんですわ、これがまた楽しくてしょうがない。あっ、ちなみに僕はこの集団と何の関わりも無いんですけど、呼ばれたから行きました。けどもうなんか既にゲスト扱いなどではなくてレギュラースマイルにビッグフェイス。んでまー音楽の話やらゲームや2chの話やら何やらとにかく一所懸命するんですけどね、飲みながら。神様を信じる強さを僕に的な話とかそしてそっとクイズを出す的な話とか、要するに宗教について考えたりなぞなぞを出し合ったりしたり。四次元とか五次元についてとかベジータとかとにかく色々ですよ。まあこういう時に思うのはやっぱり引き出しのこと。たくさんあったらいいのになあと思う。僕はとにかく勉強が足りないです。もっと頑張らないとしょうがないなあと思いまちゅ。でも今はとにかく相対的な価値基準の中を生きているので、何のために勉強をするのかっていう理由がないんですわ。世界が崩壊したわけですからね。あたかもFF6。ああFFの話題も嘘みたいにバカスカ出てきたなあ。おっと話が逸れた、うーんと例えばなんか小説を書くって場合とかに、必ずしも世界の中心が小説であることが良い小説を作るための条件だってわけじゃないよね、たぶん、まあ僕の場合はってところか。まあ他の何物かが世界の中心であるなら、それはそれで構わないんじゃないかしらね、ちゃんと小説が書けるなら。崩壊前の世界ではある絶対的な価値観に基づいて全ての行動を意味付けていたわけなんだけど、いったん崩壊するとそうはいかない、絶対的な価値観が失われるということは、全ての行動から意味がなくなるということで、何をしたらいいか、あるいは何のためにそれをしたらいいのかまったくわからなくなってしまうのよね。こいつはこまった。というわけで現在困ってるんですけど、崩壊前の世界に執着しているかといったら別にそうでもない。ある種パラレルな世界ですから。再びああいう理想的な世界に戻れるのならそれほど幸福なこともないが、別に戻らないのならそれでもいいでしょう。ただ、早めに何か超越的な存在を見出さないと困る。それは小説でもいいし、読書でも勉強でもなんでもいいんですけども。または絶対的なものに頼らなくとも生きていけるような強さを身に付けることかな。まあそうでなくても、とにかく健やかに生きていける方法が他にあるんだったらそれでもいいし。健やかに生きていかなくてもいいって思えたらそれでいいしなあ。とりあえずレッセ=フェール。
楽しい会話が続くわけだが不毛な時は不毛だ。自分がわかんないのに喋ってるからね、みんな。そこが面白かったりもするんだから、しょうがないけど。あとは、共通の理解の問題だね。これが難しい。特にネットのオフとかになってくるとなかなか難しかったりする。ひとつ単語の定義だけをとってみても、まったく理解の仕方が違うんだろうな。だから食い違う。あーあ勿体ない。
「若干ダッシュ」っていう言葉には、まいった。良い。
「若干ダッシュで行ってきます」という感じに使おう。
初めて男の人とフリッパーズとかの歌詞について話をしました。感動しました。その方から僕はフォースターの『小説の諸相』を頂いてしまいました。ワァオ、ちょう嬉しい。前から読みたかったんでございますう。ありがとうございまして。
一時頃に「東方見聞録」を出て二次会へ。メンバー一人入れ替わり「むぎり」っちゅう韓国的居酒屋。酒飲んだり肉喰ったり、「笑止」とか言ってみたり。
300円のたばこを二人が一箱ずつ買ったんです。計600円ですわな。で、何がどうなったのかよくわからんけどもとにかく品川庄司の品川と庄司を混ぜたような店員さんがこう言ったんだ。やや営業的に「僕が300円もらっても仕方のないことなので。」と。
で、まあこっからが本番なんですけどね。三時ごろに「むぎり」を出て、歩いて23歳男の家へ行く。玄関会わせて七畳の部屋に八人!死ねと言わんばかり。しかも室内は陰毛で埋め尽くされている。とりあえずお肉とお酒を頂いて、カントリーマアムも喰って、それから
男は陰毛の海に立ち両手で頭を抱えて呻いている。
「ウウウウーーーー不快だーーーー」
ポテトチップスを千切り喰いながら拳で赤シャツの男の尻を殴打する。そして奇声。
「アアアァァアァ不快だッ不快だッ美シクナイ死ねえええーえーーえーーえーー」
叫ぶ奇怪な形相の男は23歳である。ランチキズム溢れる狂乱振りにはノーベルきちがい賞を授与。
「不快ダッーーーアああウウウウハハハアアア死ね死ね死ね死ね人生は朝まで生テレビのようなものなんだ。朝まで生テレビは朝までやるだろう。所詮右翼か左翼かの違いなんだよ。巨乳が。貧乳は。萌えエエええとは何かアアああホントにホントに進歩的知識人とやらはアアアアアアアアアア不快だアアアアアアアアアアアアアアアアア」
朝まで生中出し。
やがて赤シヤツと23歳の狂人は二人して滑稽な表情で『世界に一つだけのおっぱい』を熱唱します。
それから狂人は「スーパーヒトシ君」と言いながら赤シヤツの尻を強打し続けます。意味がわかりません。
それから狂人は「お酒が大好きです。私は天使だもん。」と呟きます。意味がわかりません。
この集団は全員死んだ方がマシです。
「リアリズムとは何か。それは無駄な言葉を全て排除することだ。」と狂った方は仰ります。彼はコップのお酒をこぼした時には「あ、こぼれた。」と言います。はい確かにこぼれました。両の手を海苔と塩に塗れさせながら呟く言葉は「ポテトチップ。」はい確かにあなたはポテトチップを食べています。どうやらそれこそがリアリズムらしいです。すごいなあ。でもおそらくその境地に到達するためにはきちがいにならねばならんようで大変だサア大変だヤアヤア。ウほほほほー。「不快ダッ風雨ウウウウかアアアアアアアアアア言い言い言い言い言いだーアアアアーーーアアあーアアあーーーー」
死ねばいいんだ、みんな。こんな人たちが現実に存在していて、どうして世界は崩壊しないんだろう。
「不快だッ不快ダっアアああアアーーあァー今すぐにジョンウィルが池袋に手ぽドンを投下したらいいんだぁア~ぅ。死ね死ね不快だッ尻が不快だアアアアアああぁぁぁぁ」
そうしてまた赤シヤツの尻を叩くのです。なかなか気持ちの悪い光景で、どんよりと陰鬱、わたくちも自殺を考えておりまちゅ。じゃあねバイバイ、ウワアァァああああアアアアアアアアアアウ言ういうウイウイウイ。
こんな感じ(100%の事実をリアルタイムで描写)で惨劇は朝まで繰り広げられ、九時くらいまでグシャグシャに過ごして、ドトールコーヒーでドトールコーヒーを飲んで、11時過ぎに解散。ああ長かった。19時間。ふざけろ。
狂人は帰り際、よっぽど廃人状態でいらした。
グシャグシャだ。
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