2003年12月の行い(Jacky)

 過去ログ  前の日記  混沌  TOP





このままでは廃人になります



誰がために鐘は鳴りますか
あの鐘を
鳴らすのは誰ですか



際限なく広がっていく世界
真っ白な
宇宙が膨張していくように
星間距離も劇的に拡大する
つまりほら、世界が広がって行くにつれて、すぐそばにいたはずのあなたが、どうやら遠ざかっていってしまっているようなのです
ぽつねんと孤独。
ひねもす畳で輾転反側。
しょせん男は一人。
自殺寸前にレクイエム
最早泣かすには死ぬほかないぜ



世界は広い
持て余す



感性の鋭敏さは無限
加速度を増す脳細胞
若さとは電気ショック
認めたくない



教室で故・塩沢兼人さんの冥福を祈っていましたよ。

「やっぱ最期は、『あれは良いものだああー』とか言いながら死んだのかなあ」

「いやそこまでマ=クベに思い入れがあったとは思えんけど」

「そうかなあ」

「じゃあ肝付兼太さんが死ぬときって何て言って死ぬんだろう」

「うーん」

「やっぱ『ママー!』とか言って死ぬのかなあ」





光る雲を突き抜け FLY AWAY
身体中に広がるパノラマ
顔を蹴られた地球が怒って
火山を爆発させる
溶けた氷の中に恐竜がいたら
玉乗り仕込みたいね
CHARA-HEAD-CHA-RA
何が起きても気分はへのへのかっぱ
CHARA-HEAD-CHA-RA
胸がパチパチするほど騒ぐ元気玉
CHARA-HEAD-CHA-RA
頭空っぽの方が夢詰め込める
CHARA-HEAD-CHA-RA
笑顔ウルトラZで
今日もぶぁいYaiYaiYaiYai
SPARKING



「この物語は御坊家九百九十九代当主御坊茶魔の華麗にて波瀾なる日々のドラマである。
 茶魔ちゃまの おなーりー」
金持ち亀持ちいたらき持ち
ぽっくんは歩く身代金
金持ち亀持ちもち肌持ち
リッチな挨拶 そう ともだちんこ
容赦なく厳しい人 お父ちゃまの教えは
ゆっくり行け じっくりやれ 亀に乗れ
勉強しろ 本を読め 大物になるために
一日一分 三日で三分 つらかとぶぁい
ハートさみしかぶぁいYaiYai
キッシュしちくりぶぁいYaiYai
金で解決 ぶぁいYaiYaiYaiYai
SPARKING



「私はこういう考えだ。どうか受け容れてくれ。」
「了解した。では、私はこういう考えなので、受け容れて欲しい。」

そんならお前ら、どっちか死ねよ。

「それは了解できない。」
「そうか。それならば先の契約は無かったことに。」

両方死ねッ…。




↓みんな嘘です。もっと僕は格好良くなります。頑張ります。




かっこつけてんじゃねえよ、誰も彼も
格好付けて良いのは、世界中でも、僕だけだ。チェッ




違う。愛してるんだ、本当はすっごく。
しかし君、愛等と云ふ物はね、一つのシチュエイションでしかない訳ですよ。
何者かと何者かが向き合った時にだけ発生する一局面であってね。
それを動詞化したり形容詞化したりすることも実にナンセンスわなけですよ。
一方通行の矢印は愛などではないのですよ。
それは「欲求」なんです。
(悪く云えば「肉欲」であって、高尚な言い方をすれば「恋」でしょう)
で、その矢印は時には重なって、インターアクティブなエネルギーになるでしょう。
そういった状況において、初めて刹那的に発生するもの、それが愛です。
二人の恋人同士が遠くにあって、お互いにぼんやりとお互いのことを想う。
そんなものは愛なんかじゃない、単なる「欲求」であって。
何者かと何者かが向き合ったときに、初めて刹那的に発生する、あたかも
太陽と雨が、出逢ったときに、虹ができるみたいな、そういうドラゴンクエスティックなものです。愛ってのは。
恋人同士はその虹を背景にして抱き合っているわけであります。
二人が別々にある時は、太陽と雨でしかないのです。
それらは単なる「欲求」です。

だからどれだけ僕がここで声を涸らして「愛」を訴えようとしても、それはナンセンス。
ただ欲求を、欲望を網羅し列挙しているに過ぎんのです。

実に、ムダだ。意味無い。



死んじまってくれ。
もうお前なんか要らない。
誰も要らない。
ホフマンだ
ホフマン
もう誰も信じない
勇者とマーニャとミネア辺りが
信じる心を抱えてくるまで
僕はもう誰も信じない
ペシミスティックなのはあなただけじゃないんだ
内向的サディストの自虐性
珍しくもない
パトリシアさえも信じない
自分で分析する自分の精神ってのは
最も説得力に欠ける、信憑性も薄い
そうやって思い込むことによって気持ちよくなってるだけなんだから
自分は悪女だとか
酷い男だなんて思い込むことが、もう
信じ待ってくれ
シンジ待ってくれ
打算や妥協、それに妥当性
見えてるものでも見えないふりして、カラカラな笑顔で幸福を語ろうなんて
そんならもう要らない

どうしてエアラットは空を飛ぶのだろう。
「ネズミだけにチュー(宙)が好き、なんちゃって」
スチャッ
「もう誰も信じない、さあ帰ってくれ!」

互いの世界の重ならないところに
うっかりさわってしまわぬように
びくびくしながら馴れ合いで
なんとかかんとか誤魔化していくんだね
どんなに幸福な人たちだって
せいぜい50年とか、60年しかもたないよ
人間の寿命にしてみたら、それでもいいのかもしれないけど
寂寥としてみたり閑散としてみたりするな、心は。

くたばつて仕舞へ。
死んでしまったらいいんだ。
新弟子待ったら良いんだ。
ちくしょう
なにがちくしょうなの
母さん

いつかこの街に安らぐ場所見つけ相変わらずの苦笑い浮かべたい

もうやめた方がいいんじゃないのか
必然性がないなら
そういうブラックな考えは誰にだってあるものだし
誰だって本当は、ブラックなリビドーが原動力になっているんだ
ブラックな思考回路が行動を決定づけているんだよ
しかも大抵はそれを自覚している
それらの「ブラックs」と、自分はどのように折り合いを付けていくのか。兼ね合いのテクニックを見出していくのか。
それが生きることであって、成長していくってことなんだね。大人になるってことです。
いや大人になんかならなくてもいい、だけどとにかく、今はその過渡期なんだ。
本当に渡るかどうかは別としても。

僕がもう少し大人だったらば。
そうしたらそんなこと、何にも気にも留めずに
ただ暖かく見守って
お疲れさまって言ってあげられるんだけど
わかってるんだけど

合わないんだ、価値観のwhich
結局、僕と君との重なった世界は、やたらに表層的なところでしかなくって
見せかけだけ、外見だけ、身体だけ、肉体だけ。
いや、肉体すらも。
よく考えたら、性別すらも違うんだ。

必然性がなくって、オプショナルな存在であるなら
ただ重たいだけなんだから切り離した方がいい
ドクタースランプの最終回を見ろよ、どんどん切り離してるぜ、関係ないけど
好きなら好き、嫌いなら嫌いで無視すればいいだけの話。
ティセラ。

シャアと僕を一緒くたに自分のものにできると思うな!
シャアは否定しろ!
あなたは故郷を棄てて宇宙に出てくる必要はないんですよ、もう。
理由などもう無いだろう。
この宇宙(そら)は地獄だ。そしてその地獄にいるのは僕だけであって
要らない人だけであってさ。

煙にまくだけ煙にまいてドロンパだなんて。
全てが終わった後に何が残るか僕は知らない
手のひら返されたって困る。
「あの時の自分は何かおかしかったんだ」って思うことは
成長の証であって、大人街道まっしぐらの象徴
であるわけなんだけれども思春期はそういうのいちばん気にしちゃうわけで。
中学の頃、村上龍の『ラブ&ポップ』を読んで
「あの時の自分は何かおかしかったんだ」って思うことに対して具体的な嫌悪感を抱いた
ところが今はどうだろう。
あの頃は村上龍なんて読んで喜んで、
「あの時の自分は何かおかしかったんだ」なんて思ってるんだとしたら。

あーう。
もう本当に、受験生でもないのにどうしてこんなに。
僕は最近「人生とは一生受験だ」などと考えている。
死ぬまで受験生な気分で勉強に取り組んでいかなければいけないと思う。
但し焦燥感に苛まれながら
要するに一生受験生=一生思春期ってことっすよね。
どうせ人生は受験なんだ。ずっと。
カツカツな受験生生活を送ってたような奴は絶対に幸せにならない。その後の人生もどうせカツカツだ。
レツレツだ
キッカキッカだ
どうせ一生受験なんだから実際の受験期だってもうちょっとユルユルにやんなきゃいけないのよね
何か心の拠り所を見つけないと
一生カツカツになってしまう
なんて勝手に言ってますけどどうせ別にそんなことはないんだ。
僕も受験生時代はたまにおかしくなったものだ。
はは。

ただ厭世観を漂わせたって格好良くなんかない。
見窄らしいだけの場合だってある。
冷静になって、客観的に、自分を俯瞰して。
そんなのはクールじゃないぞ、ナンセンスだ。
でも通過儀礼かもしれない
ああ
具体的な詔が欲しい。

どうして人間は
一生狂っていられないんだろう
なぜ良い夢を見ると
必ず醒めてしまうのだろう
ちなみに悪夢は
醒めてしまうことなどない
ただ醒めるだけ

どうしてあなたはそれを楽しむことができないんだ?
プライドがないのか?
能力が伴わないからか?
だったらなぜ死なん?
僕は許せないぞ
自分がそんなに醜く老いていくことを
過去の自分を責める以外為すこともなく
死ね。


煙にまくだけ煙にまいてドロンパ。




幸せは二人で育てるもので
どちらかが苦労して繕うものではないはず。
ところが
どちらも苦労しているのが現状かも知れぬ。
さだまさしのアホ。
あほまさし。
かこさとし。



自分がその総元締めであるもんだから、大きな声では言えないし、小さな声でも言いにくいのだが
いつも通り心に棚を作ってですね、吐き出してしまいますけれども

世の中ってのは自己中心者の集まりなんだ。
そんなこと誰でも知ってるんだよ。
遅くとも小学校に上がる頃迄には気づいていなくてはいけない。
それを受け容れ、また自覚した上でどのように世界と折り合いを付けていくか。
これを考えるのが「大人」なわけですよ。
否定してしまったり、思い悩んでしまうのは、単なるガキ。
ガキなんだけども、世間の人々は、格好を付けてこのことを「思春期」と呼ぶ。

思春期というのはとかく
「人の迷惑顧みず
やって来ましたデンセンマン」

んーで。
まあ仕方ない、そういうもんなんだから。
だからね、自己中なのはいいにしても僕を悲しませないでおくれ
僕を寂しくさせないでおくれよ
(でもお互いに自己中で、しかも思春期なわけだから、如何ともし難い)
まあしばらくは
静かにしてるけどさ
でもそういう時期だからってこういうことになるってことは、結局
いや、なんていうか
どうなんですか?どうしたらいいんですか?思春期は、こんなときに!

生きてる意味もなければ
帰省する意味もないな。




世界は暗い
人生は遠い
對句じみて居る
誰か平仄を調べて




辟易ですよ、辟易。軋轢に辟易。閉口。
世界は小さい

 おとぎ話のようなすてきなこの世界は虹の橋を渡っていく子どもの世界
 すてきな世界 すてきな世界 すてきな世界 子どもの世界

「世界中どこだって笑いあり涙あり…」とか歌われてるあのメロディですよ。
僕が幼稚園で習ったのは「おとぎ話のような…」のほうだったので
今でも「世界中…」のほうは邪道な気がしてしまいます。
けど明らかにこっちのほうがマイノリティだし邪道なんだよなあ
悲しき南回帰線。

『イッツアスモールワールド』のほうは欺瞞にみちみちていて、偽善的だ。
しかも明らかに科学忍者隊ガッチャマンのパクリである。

その点『こどものせかい』は詩情に満ちあふれていてファンタジックに夢いっぱい。
ただ、魔神英雄伝ワタルのパクリであるということは否めない。



としまえんに行こうと思ったら休園日で、仕方ないから自宅にて御高話に興ずる。迷亭見た様に。
そこで贈る言葉

  プラトンに
   恋をしたのが
    運の尽き

いつでもそばにいてくれたあなたは僕をもう助けてくれないの
こわい人たちに笑われる僕を眺めてなぜ平気でいられるの



そういえば24日の昼前には名古屋に着く予定です。
さまよちゃんはぽっくんのいいなけつぶぁい
しぎゃぴー。



生まれ変わった今日からは、僕の名前は新生ジャッキー。
只今より僕ァ、一ッ上野男。
待つ男へ。
太宰治の『待つ』でも読みながら静かに考えてみる。

たとえお目当ての女の子がクリスマスイブに予定を入れていようが
あったかーい眼で見守ってあげればいいのさ
それが男というものぞ。
静かに待っていたらいいのさ。

顔で笑って背中で泣いて
そんな技術をそろそろ身に付けるべきなのさ。
望まれないところにノコノコと
優しい声でもかけられに出掛けていくようなそんな馬鹿なこと。

ありがとう大橋さん。

もう少しなんとか男らしくなろう
広末涼子も男らしいところが云々と記者会見で言っていた
しかしまあ
これでは僕が早稲田に入った理由がわからない。

早稲田大学に入れば
生で『大スキ!』が聴けるのだと思っていた
お昼の時間には
『広末涼子のがんばランチ』が生放送で聴けるのだと思っていた。

教授
話が逸れています
うむ
その通りだ

避けられても嫌われても
踏まれても
冬休みには何もなくても
何にも
変わらない
ことだって
あるんだよ

きょ



昨日の悲しみもー


いいも。我慢するも。
別に無関心とか
醒めたとかじゃなくて
必死に我慢するも。

オルファンさーん

私のいちばん大切な人をあげるのよー

私の愛してる人なんだから

さみしくないでしょー。

やるせないくらい変な気持ち
それが冬休み
あやふやな兆し
でも絶対それが冬休み

凹んだり荒んだりもしていますが
そんなことどうでもいいわけで
僕は世界人類が平和になりさえすれば
それでいいわけで

ああ。
世界は冷たいだなんて言ったけど
必ずしもそうでなくて
みんないい人ばかりだ
でも
この温かさを持った人間が
地球さえ破壊するんだ

「わかってるよ。だから!世界に人の心の光を見せなければならないんだろう?」

それをわかるんだよ、タモリ。

「バカにして!そうやって貴様は永遠に他人を見下す事しかしないんだ!」

タモリ!あんたちょっとセコいよ?

マリク=シャーは否定しろ!

情けないレビル将軍と闘って、勝つ意味があるのか?しかし、これは、ナンセンスだっ…

あの人の夢を見て
今日もベッドの中

しばらく僕のことなんて忘れて
幸せになってください
僕は部屋の片隅で小さくなって
耐えます




僕が君を愛しているように誰かを愛せるやつはいないんだ、と
それほど僕は君のことを愛しているつもりだったんだ。
だけど今振り返ってみると、愛してなんかいなかったんだね
まるでおせっかいなおふくろみたいに
僕のそばに縛り付けて
君が自分の足で立って、歩き出そうとしていたのをいつも邪魔してたのは僕だった、それが愛だと思い込んで
愛してなんかいたんじゃなくて僕のものにしたかっただけの、間違いだらけのわがままな僕に、君が答えてくれなかったから、と
あんなに酷い裏切りがあって
あんなに辛い別れがあった。

 時々僕は無理に君を僕の形に填めてしまいそうになるけれど
 君が教えてくれた花の名前は街に埋もれそうな小さなわすれな草

行く先も告げずに僕の前から去っていった君に今ごろこんなことを言っている僕は少しも変わってないわがままな僕か。
愛することと縛り付けることをいつか取り違えてたままの、
いま僕のそばにいる人がなくては生きられない僕なのに
いま僕のそばにいる人がなくては生きられない僕なのに
何故か僕は君を待ってる
何故か僕は君を待ってる。



靱帯 特に 書きたいこともないから書くんだ 靱帯 靱帯 そう 靱帯



 まあお前、そうそうそこの君。余り感情的になるなよ。



 自分で生み出した考えとか言葉とか?そういうものに本気でしがみつけたらいいなあと思う。

神様を信じる強さを僕に
神様を信じる強さを僕に
神様を信じる強さを僕に
神様を信じる強さを僕に

 いつまでもそんなことばっかり言ってられないってことさ。



イトキュンと冴羽遼とcan
カラオケに行った
INUの『メシ喰うな』が入っていた
泣きそうになった
歌ってみた
それしか覚えてない
俺の存在を頭から否定してくれ



僕はゾロアスター教のカルヴィン派なので
予定説を信じています。
これはいわゆるカルヴァンの唱えた説でなくて
僕が唱える説であり
既に特許は取られていると思うんだけど
だからもう、レッセ=フェール!
って思うんだ、
それしか言えないし。
無力だからね。基本的にむぢから。



好意⇔更衣⇔行為の瞬間的な転換を
こなせなかった彼ら
僕の華麗なる瞬発力を帯びたストレートギャグに
置いてけぼりをくってる
はずなのになぜか
置いてかれてるの
僕のほう
そんなのはいやだ。



機知に溢れ
ウィットに富んだ
ジョークを連発しろ
エスプリを表出し
アイロニーをふんだんに盛り込め
難しいネタを逃がさず捉え
見詰め合って笑え。



ヘーイ
木の実ナナです
イエーイ




センター試験がまもなくだってのもあって
必死で勉強したいと思ってます。
他人に依存しなくては生きていかれないような僕は
もうすでに自殺をして
目の前にドラえもんの単行本積み上げて
ちいさなメモ用紙の裏に
「さみしくなったら読もう」って書いて添えてみたり。
ドリンク剤に頼るのもいいじゃない
人間じゃなければ
何に頼ったってもいい
人間じゃなければ

そのうちに
イギリスやメキシコで暮らしたい



ヘーイ
木の実ナナです
イエーイ




 新聞屋が来ると断りきれなくて、結局は契約してしまうことってありません?新聞の場合はまあ、二股とか三股とかってことはないんですけれども、まあ似たような話で、女の子に告白されるとどうも断りきれなくて、結局は契約してしまうことが多かったりするのが世の男どもではないでしょうか。それで悪くすると契約が他社とかぶってしまったりして。あのー割と僕は流されやすいタイプでしてね。そうそう宗教の勧誘とかにも弱いかもしれません。一生懸命に訴えられると「そうかな?」とか思っちゃって。一生を左右するかもしれない局面だってのに、その場の雰囲気でこう、熱烈に語られたりすると、「そうかな?」って流されちゃったりしそうになります。この人生はとかく流れるプールのようです。馴染みの古本屋さんなんかで、「藤子不二雄のいい本が入ったよ」なんて言われるとつい買ってしまったり。ダメだなあと思いつつもやっぱり。
 僕は非常に我が強いように見えて、その実足場は常にぐらついていて、確固たる基盤を持っていない。それは精神面においてもそうだし、より具体的な社会的状況についても似たようなことが言えそうです。それだから最近はまるで初期のヤムチャの如く「結婚というものにあこがれている」わけでありまして。
 「自分は朝日新聞しか取らない」とか「自分は○○しか愛さない」とか「自分はゾロアスター教しか信じない」とかっていう普遍に近い信念が自分の中にあればいい。そうでなければ、「自分は絶対に新聞を取らない」とか「自分は絶対に誰も愛さない」とか「自分は絶対に宗教を信じない」とかっていう普遍に近い信念が自分の中にあればいいんですよ。そういうのすら、本当に考えていることが何にもなくて、常にフラフラしているものだから、いけない。
 いけない、とは言うものの、まあそれが一番良い形だと心のどっかでは思っているわけです。無闇に答えを与えない。盲信やそれに基づいた猛進は危険極まりなくってね。星野仙一が好きで中日のファンになったとして、星野仙一が中日から離れた後にも中日のファンであり続けるのならば何か理由があるはずです。もしそこに理由がなかったとしたら、おかしな話じゃあないですか。
 基本的にはノンポリだということです。ノンポリというか、鉄腕バーディーに出てくる不定形生物バチルスみたいなもの。
 僕について割と恒久的に成立する残酷な天使のテーゼとしては、例えば「ドラえもんが好き」っていうのがあるけど、これはまあ、無害だからそうやって言うのかなあ。安全と言った方がいいかね。何か一つそういう逃げ道があったほうがよくて、それで選ばれたのが最も無難な「ドラえもん」ということ。自己紹介の時に「藤子不二雄が好きです」じゃなくて「ドラえもんが好きです」って言うのは何故かというとここにあって、安全性を重視するからです。本当は前者のほうを主張したいんだけど。



 髪を長くのばしてはみたものの、それで元にはなにも戻らないということを知りました。ゴムで髪の毛を止めてみたんだけど女の子って大変なんだな。こんなの毎日やってるんだな。ヒャー。西武池袋線富士見台駅前の百均にいらっしゃる男の方は絶対にいい人です。物腰もなんだかニュートラルな感じで。声色はカウンターテナー。メラというかギラというか。ロト紋が読みたいよー。

 それでいつか僕と君が齢をとってからも
 それでいつか君と僕とは出会うから
 それでここで君と会うなんて予想もできないことだった
 それで何か思ってももう伝えられないだけ
 それでLIFE IS COMIN' BACK 僕らを待つ
 それで僕は腕をふるって君にあて返事を書いた

 何て革命的な「それで」だろうか。これが「詞」と「詩」の違いではないかとも思う(が、しかしもし「詩」でこれをやられたらもう脱帽です。)
 と、このように結論だけ述べられても困るのであって。だから論理が強くならないのであって。


普通の朝が

遠くに消えていく

瞳を逸らさないで

走れよ

誰かのために

何かができるはず

心が躍りだすよ

泣き顔に

注いであげる

でっかい勇気を

ほらね

熱血最強ゴウザウラー

僕たちが手を繋いだエネルギーさ

熱血最強ゴウザウラー

時を越えた空へ旅立て FAR AWAY





ヘーイ
木の実ナナです
イエーイ




生きてる限りは恥ずかしさから離れられない。
芝居がかった傷つき方で
必要以上に血糊を吐いて
誰かに見ていて欲しいけど
見られてないなら
それはそれ
自分という最高の観客にとったら
良さげなスパイス。
「ああ、誰にも知られない僕の深すぎるかなしみ!」
なんて
阿呆なことを
叫んで喜んで
ふざけんじゃないね。



針の穴を顕微鏡で覗いたら いやに大きくて閉口した、
そんな感じの恋のキズ。
自転車に乗りながら160度に広がって走る
飛行機雲をあらためて眺めて
空の丸いのを感じたんだけど
ジェット機登場以前の世界では
どうしてわかったのかと、
空が丸いなんて?
血まなこになって見てたんだろうな。
ひょっとして
ビルがなかったのかもしれないし
所詮感じても
160度の空ですだとかね。



さて僕には何が必要だ?とりあえず排除してみて。
切り捨ててみて。
埋めてみて。どっかから高級の
わら 持ってきて塞いでみて。
補ってみて。何か他の別のよさそうなもので。
始めてみて。何事もなかったようにして。
歩いてみて。チャラチャラ音がしない?
カラカラしない?
じゃあたぶんそれでいいんだ。
さあ僕には何が必要だ?とりあえず列挙してみて。
カラカラしない?
チャラチャラ音がしない?



つまり具体的な行動そのものを問題にするんじゃなくて、
もっと抽象的な形をとる、『性質』のような、もっと深くて見えづらいものがあって
(と僕は自分をこうもりと結びつける)
なんだか、法則のようなものがある気がするんだね。こう、
どこか万有引力と同じような。



 わたしの座右の銘はレッセ=フェール、すなわち「なすにまかせよ」だ。何もかも、なるようになればいい。自然任せ。僕と熱烈な恋のしたい人がいればそうするし、距離を置きたいと思うのなら、そうする。自分の感情も、感情に任せればよい。雨が降って、傘が欲しいと思えば傘を買うし、勿体ないという気持ちが勝ったなら降られよう。腹が立って、怒りたいと思ったら怒るし、我慢しようと思ったら我慢するし、それでも我慢できなかったら、怒る。これでいいのか?悩みたいと思ったら悩む。立ち止まる。馬鹿馬鹿しいと思ったらそうしない。そのような感じでいい。ストレイシープ、ストレイシープ。トルストイ。



ザネリ
浮游するザネリ
両性具有の
中庸的存在としてのザネリ



 人生はそう、とかく、流れるプールのように。なんとなくやり過ごしていけばいいのだ。
 これからも僕は、色んな女の人と仲良くしていくだろうし、たくさんの嘘を吐き続けるだろうが、それでいい。
 せいぜい堂々とやろう。
 間違った言葉も使い続けるだろうが、どうでもいい。
 端から見たら最低に写るかもしれないが、自分から見たってそうなんだ。知ってる。
 自分は優れている、そう思うことによって、また、様々の人に愛されることによって、自分を保つしか。
 生きる道はそれ以外にないのだから仕方がない。
 俺は貴様ほど急ぎ過ぎもしなければ人類に絶望もしていない。



 今度ほど悲しく、憤りを覚えたことはない。世界は冷たい。人類皆他人。所詮は他人だ。人間は狭いのであって、信じられるものではない。人生は、遠い。遠すぎる。セツノーナル。はい、先生。最近奥さんが酷いんです。暴力を振るうんです。辛い。愛は雲散霧消、幸福は邯鄲の夢。エンゼルの、正体見たり、枯れ尾花。



「我らが先輩が結婚ですって」という知らせを受けた。
つまり早稲田大学出身者の誰やらが結婚しちゃいました、ということらしいが
寝起きの僕に浮かんだ心は
「え?奥参事官が結婚?」
ちょっと困惑。



世界は冷たい。
人生は遠い。

人間は狭い。



 「キテ・レツ・ヒャッカ」とうすた京介が言ったとき
 彼の脳裏を掠めたのは「カツ・レツ・キッカ」ではなかったか。
 いやむしろ「カツ・レツ・キッカ」が脳裏を掠めたからこそ
 「キテ・レツ・ヒャッカ」というネタを思いついたのではなかったか。



 木曜三限は石原千秋先生の「文学I」である。今回は田山花袋の『蒲団』と、明治三十年代における風俗としての女学生とその堕落について。
 石原先生は早稲田大学教育学部国語国文学科の教授である。高校の時から面白い人だと思っていたので積極的に受講している。
 本日の講義後、その石原先生と漱石がどうのと話をしていたら、突然

石「君さあ、インターネット上にいたずら書きしてない?」


石「君さあ、インターネット上にいたずら書きしてない?」



石「君さあ、
インターネット上に
いたずら書き
してない?」





 僕は咄嗟に「なんのことでしょうっ」と答えた。先生は「本当かあ?」と仰られた。ああもうダメだ。
 とりあえず「文学I」と「日本文学基礎講読」の登録抹消は必至です。悪くすれば学籍を失います。みなさんさようなら、今までありがとう。



 ちくしょう。
 なにがちくしょうなの。
 かあさん。
 どうしたの。
 ぼく…



あしもとに からみつく
わかい ガキを 蹴って
魔人が さけぶ
狂ったパパの怒りにも似た



 そういう力学が働かないのだったら仕方がないのだ。
 生徒会選挙に立候補をして、落選するのは
 そういう力学を働かせられなかったの自分が悪いのだ。
 生徒がバカだからだ、とか言うやつがいるんだな、これが。
 イラク自衛隊派遣反対、またこれに然り。



長いものに巻かれ
郷に従い
生きていった方が楽
僕らはそのことを知らない
経験豊富な先生たちが
せっかく教えてくれるのに
僕らは無視する
だから理由もなく
戦争に反対してみたりもする



 アメリカ人は子どものころに岡田淳の本を読まないで成長していくから、すぐに戦争をやりたがるのだ。
 それ以前に、『ドラえもん』を受け容れられない文化である限りはこれ以上の発展は見込めない。
 フランスに住もう。



 一番になるとはどういうことか。「本気で走る」とは、がんばるとはどういうことなんだろう。
 どうして算数ではいつもりんごを使うのだろう。どうしてうめぼしやらっきょとかではいけないのだろう。
 ぼくはね、びりっかすさん、ぼうさんのうちの、ほうさんがとけて、てんてんがのこると思うな。



「いこうか。四年一組の教室は二階だ。最初は、なれないだろうが、ま、がんばれ。」
 先生についてあるきながら始は、さっきお母さんも、じゃ、と言ったあと、がんばれといいかけて、よしたんじゃないかな、と思った。
 お母さんには、がんばれといいたくない理由がある。
 ――七月のなかごろ、とつぜんお父さんが入院した。入院したと思ったら、あっけなく死んでしまった。おそう式があり、お母さんのつとめさきがきまり、始とお母さんはふたりでこの町にこしてきた。
 そのお父さんが、死ぬまえに始にいったことばが、がんばれ、だった。
 ベッドによこになった、別人のようなお父さんにがんばれといわれ、そうしないとわるいような気がして、始はうなずいた。ふりかえると、かたい表情のお母さんと目があった。
 おそう式がおわった日の夕食のあと、お母さんが始にたずねた。
「ねえ。お父さん、あなたにがんばれっていったわね。あなたは、どういう気持ちでうなずいたの?」
 なんとこたえればよいかわからず、だまっていた。
「お父さんのこと、あなたはどう思う?」
「どう思うって?」
「そんなことではひとには勝てん、お父さんの口ぐせだったわ。でも、ひとに負けないように仕事をするって、そんなにいいことだったのかしら。それであのひと、満足だったのかしら。いそがしい、いそがしい、そういいながら、あのひとは走りつづけたんだわ。ひとよりまえを、もっとはやく、もっとはやくって。走りつづけて、走りつづけて、ぱたってたおれた。そんな気がするわ。」
 お母さんは、両手にはさんだ湯のみをにらみつけていた。
「たしかにお父さんは、お父さんのやりかたでがんばったんだと思う。でも、お母さんの気持ちをいっとくわ。もしもがんばるっていうことが、お父さんみたいに生きるっていうことだったら、……ひとに勝つことが、がんばるっていうことだったら、始、お母さんはあなたに、がんばってほしくなんかないのよ。」
 おそう式のあいだなかなかったお母さんの目から、なみだがおちた。
 見てはいけないものを見たような気がして、始は目をおとした。
 だれもいない砂ばくを、いっしょうけんめいに、ひとりで走っているお父さんのすがたがうかんだ。お父さんは、とつぜんつんのめってたおれた。
 うまれてはじめて、お父さんのことを、かわいそうだと思った。



「さあ、きょうやったところのテストだ。みんな、がんばれ。」
 がんばれといわれたとたん、始の手がとまった。もともと、すきとおった男のことで頭がいっぱいで、本気でテストにとりくむ気分ではない。テストにがんばるのは、人に勝つことかな。ふとそんなことが頭にうかんだ。



――始! がんばれ!
――がんばれ! がんばれ!



 その夜、お母さんは、まずみんなをほめた。
「一組のいいところはチームワークねえ。ほんとにみんなが力をだしきってるって感じがしたわ。いいクラスにはいれて、よかったわねえ。」
 それから、始をほめた。
「あなたの足のはやいのは知っていたけど、一番になったとき、感動しちゃった。ほんとうによくがんばったわ。一番になるためにがんばるな、なんてお母さんいったけど、ほんとにうれしかったわ。」
 始は、すこし考えてからいった。

「ぼくもうれしかったよ。でもね、お母さん。ぼく、一番になるためにがんばったんじゃないと思うな。」
 お母さんは首をかしげた。
「それ、どういうこと?」
「本気で走ったってことさ。みんな、本気で走ったんだよ、お母さん。ほかの組の子も。」
 お母さんは、首をたてなおして、始を見た。


岡田淳『びりっかすの神さま』偕成社、1988。買って読むように!



「文学研究の方法」という講義で先生が、「あの皇太子さんとこの子どものナントカちゃんって、なんであんなにかわいくないのかしらねえ、あたしもうしんじられなくって、あんなにかわいくない赤ちゃんが世界にいるのかって思っちゃうんだけどね」とかとか。僕は大ばくしょうをしていました。



「マクドナルド食べよう」と言って三人でマクドナルドに行き、ひとしきり下ネタとガンダムを語り倒した後、隣のドトール・コーヒーへ移動して「ドトール・コーヒーひとつ」と注文する。下ネタとガンダムに今度は夏目漱石が颯爽と参戦してくると、いよいよ竹縄。カプチーノを飲む。



ただ殺すものとして/一杯のてんぷらうどん



 僕のクラスの掲示板の、タイトルの下に付されているコメント。
 いつの頃からか「~~~、~~~。」というスタイルになっていて、
 ふふんさてはこのHPのパクリだなっ
 と自意識過剰になってみたところで
 「どうせ僕らは農民さ」っていう表現がありました。農業従事者の人(あ~るじみた言い回しだ)は気を悪くなさらないで頂きたいのですが、ここではその表現についてちょっと考えてみようかと。
 「士農工商」という記述が見られるので、どうやらこの「農民」とは封建時代、それも江戸期の農民を指すのだと思われます。「僕ら」というのを「筆者のような人間」と解釈するなら、自虐型コンプレックスにみちみちた存在である筆者のこと、「農民」とは「ナンバーワンになれず、どう足掻いても常に一流(武士)の下に位置づけられざるを得ない存在」として語られていたと考えてよいでしょう。
 しかしこの「農民」という表現をただ「ナンバー2」という意味でだけ捉えてしまって良いものでしょうか。もう少し深みのあるアプローチを行うために、歴史的なコンテクストに視点を傾けてみることにしましょう。つまり、江戸期の階級制度とはどのようなものであったか、ということを振り返ってみようというのです。
 簡単に、中学生や高校生が「日本史」で習う程度の理解で構わないのですが、思い出して頂けたらと思います。
 まず、なぜ農民が「ナンバー2」の地位を占められたのか、ということですが、これはごく単純に言いますとこういうことです。「農民を酷使したい。だがそれで反乱が起こってはまずい。それならば社会的な立場を町民よりも上においてその不満を抑えよう。」つまり身分的に商工を下に置くことで、農民に「苦役を強いられてはいるが身分は低くなく、我々よりも下賤な連中は山のようにあるのだ。過度の労働は身分の見返りであるのだから不当でない。」と思わせたわけです。しかしこれでは今度は町民(商工)が不満に思うのではないか?大丈夫、その更に下層には、「えた」や「ひにん」というアンタッチャブルがいました。差別やいじめのメカニズムの典型、これが江戸期の身分制でした。
 なんか少し違う気もしないでないが、たいがいこんなところだにゃ。
 しょかくやちとせ。



―サトラップ、僕はもう疲れたよ―



ついに漱石全集を買った。積み上げたら腰まであった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
「トンネルを抜けると」「夜の底が白くなった」などの表現、これは明らかにセックスのメタファである。穿ってなくて真剣にさ。
今更ながら『文学部唯野教授』を読みましたよ。サブテキストも。徹夜してしまった。
『読むための理論より』なんかよりもずっと面白く、文章力もあって何より笑える。
ソフィーの世界とかもコンセプトはいいんだけど肝心の物語自体がとてもつまらなかったからダメ
あと売れない純文学作家は売れてるものに対しては(by島田雅彦)
いや唯野教授も相当売れたけどさ。筒井康隆はいいの。
そういえばドイツ表現主義映画が手塚治虫に与えた影響について「近代文学と映画」をやってる文学部の教授に話してみたら
「論文を書きなさい」と言われた。勘弁してください。
やっぱ『奈落のクイズマスター』がいちばん良いでしょう。
衝動的にsnow dropが聴きたくなってついブックオフでラルクのベストを買ってしまった
ラルク最高、やっぱ同時代的な鑑賞環境や先入主がないところで改めて音楽を聴くと違いますね。
でもsnow drop入ってなかったよ。
だからラルクは嫌いなんだ。
なんか世界は冷たいね。女の子に依存しようの会を発足。そこには温々がある。温々というと万猫くさい。
呪文と頭は使いよう。関係ない。
林家ぺーはときおり、仏像のような顔をするんだ。
パー子はそれを見て奇声を上げている…。
作者は常に既に書き込まれているんだ間違いない!
中高生はテスト週間つうことで今日も今日とてバイトでね、高2の子と中1の子を両方みたんだけど
中1の子のほうは「先生が教えてくれたとこだけ覚えてた」とか「前日に吹き込まれたヤマが見事的中」みたいなことを言われてこちとら有頂天なのだが
高2の子のほうにみたび水曜日と2月を書き取らせたところ
Wedesday
Febraly
泣きたいでちゅ。
水沢めぐみが最近好きで、『神様のオルゴール』を読んだんだけど、
うーんありゃフェミニストが見たら怒るだろうね、
いや航太(主人公柚美の若き旦那)が男として「なってない」ってのも無論その標的にはなるんだろうけど
そういうことじゃなくて
もっと作者の意識の問題でさ。
「結婚する→女性は男性の性を名乗る」
という戦前的家父長制的戸主制的家的図式がまったく無批判にもー当たり前のこととしてしかもめっちゃ幸福ぽく描かれていて
いやー気にする人は気にするんだろうなあとしみじみね。「こういう作品が若い層を洗脳し悪習を再生産している」みたいなね。
ちなみに僕もこの図式は大嫌いなので奥さんの名字を名乗るのもいいかなと思っているが、まあどうやら一生尾崎な勢いだ。
でも自分はフェミニストでもなければ『神様のオルゴール』を非難するつもりもない。
「夫の性を名乗る」ことに幸せを感じる女の人だって今でも少なくないだろうと思うし。(『神様のオルゴール』はたぶんそういう視点から描かれている)
中学生や高校生に国語や英語なぞを教えていると自分が現役の頃にはまったく考えてもいなかったような切り口で解説できていたりする。
ああもしかして一年浪人するってこういうこと?いや大学の講義受けたり読書したりってのが主要因でしょうな。
百人一首や英文の解釈なんかでもうまいこと言えたりすると嬉しいです。
まあそんなこんなに関連してさ、もう最近どうでも良いですよ、野心なんて要らない。僕は普通に生きる。
早めに結婚して高校か大学の先生になって安定した収入と社会的ステイタスを得てだね
もうあとは普通に生きる、普通に。文芸創作とか演劇なんかの関係ないところで、チヤホヤされたり、押し潰されたりして、なんとか生きる。
電光石火の早業で結婚式を済ませてでっかい黒い犬でも飼って子どもたちを育てて金婚式→お葬式、って
でもやっぱりダメ!ダメダメダメ!ワガママだから!



(生まれたばかりの息子を見つめて、
じっと名前を考えていました。)


まてよ…
もう
ちょっと…
………ダメだ
サル夫とか
もち太郎とか
だんごとかしか
浮かばない…



もう、世界は僕に冷たい。士農工商。
どうせ僕らは農民さ。ねえ?



 あー。小説でも書くかな。



 あえて断定的な口調で臨もう。
 高校の演劇部に在籍する人間が、自分たちのやっていることを「創作活動」だと勘違いして、そこにアイデンティティを求める傾向がよく見られる。自分は演劇という創作、ひいては芸術を嗜んでいる人間であって、それは他の部活動に比して特異にして高尚な活動である、と。
 しかし、演劇部というのは「部活動」であって決して「創作活動」ではないということは知っておかないと困る、ほんの偶然と才能、あるいは伝統などの巡り合わせによって、だいたい50校か100校に一校くらいは「創作」をしているところがあるかもしれないが、そうでないところは野球部とかサッカー部とかのやっていることと本質的には変わりない。
 「演劇部」なんてのは別に特別な存在ではない。例えば現代において「三平方の定理」を証明することが学問の世界に何の影響も及ぼさないのと同じように、演劇部がどのような作品を作り上演したところで芸術的な意味は何もない。むしろ野球部のほうがすごい。夏の甲子園をテレビで見て感動する大人は数多あるし、そこで活躍した人間はドラフトで指名されプロの世界に入る。そしてまた、子どもから老人まで多くの人々を楽しませることになる。
 そういった意味で演劇部はよく「自己満足だ」と評される。確かにそれはその通りで、演劇部というのは精神の満たされる場所だ。「総合芸術」だなどと呼んで、他の芸術や部活動とは一線を画した存在であるかのように自らを位置付け、先に挙げたように自分たちが「創作活動」をしていると思い込んでいるものだから、「自分たちは特別な存在」だなんて錯覚してしまう。それによって自己を確認し、自分をどうにかして繋ぎ止めている精神薄弱者や社会的に認められない種類の人間が高校の演劇部には多いように見える。
 演劇部にオタクが多いのはそういう理由によるだろう。世間において人並みな、一般的なレベルでは決して認知されない種類の人間が、演劇部というアジール(避難所)に逃げ込むことによって「僕はここにいてもいいんだ!」と実感するメカニズム。
 演劇部は変人の集団である、という共通の認識が外部(世間や学校内)あるいは内部(部内及び高校演劇の世界)に存在するのならば、演劇部に在籍する人間はそれだけで「変人」と見なされてしまう。しかしそのことが当人の自己同一性へ逆説的に関係しているのだ。演劇部員は「変人」というカテゴリに定義づけられることによって自己のアイデンティティを擁護するのだし、そこにいる「仲間」とふれあい、お互いを確認し合うことによって共同体から絶対的に孤立・疎外してしまう状況を回避する。
 はっきり言ってかれらには「部活動」をしているという認識は乏しいだろう。むしろ「私は演劇をしている」と感じている。「演劇」が自分を定義付けている、いや自分は「演劇」によって定義づけられているといっていい。「演劇をしている私」を安定した自我として受け容れることがかれらのいわゆる「自己満足」に繋がり、かれらを安楽へ導く。
 「芝居をやっているうちは辛くて、もうやめたいと思うんだけど、その芝居が終わるとやっぱり次の芝居がやりたくなる」と語る演劇経験者は少なくない。一つの芝居を作る過程は辛く厳しいものであっても、しかしそれから離れては常に分裂・増殖する無限大な自分を一つのものとして繋ぎ止めていることができないのである。「演劇をしている私」という自己の姿を普遍的に提示させることによって自己を確認し擁護する。そのためには吐き気を催すような労苦も辞さない。そういった循環がこと高校演劇の世界には見られる。
 こういったことは大学の学生演劇やそこいらのアマチュア劇団でもそうである。かれらがやっているのは「サークル」であって、創作でも芸術でもない。(もちろん、それが偶然と才能との神秘的な関わりによって芸術にまで昇華せられる可能性を育む基礎的な土壌のレベルは高校演劇よりも高次ではあるが。)
 そんなこんなを一旦考え出してしまうとひねくれた僕としてはもう演劇なんてできなくなる。本当はしたいのだが「不要なプライド」がそれを許さないし、そんなことはさておいたとしても、演劇に付随し現実に肉迫してくる実際的な痛苦は耐え難いものであって、精神崩壊は必至である。支えてくれる奥さんの登場を心待ちにする次第だ。幕。



 僕が家庭教師をさせて頂いている高校二年生の男の子は、偏差値60以上の大学の法学部を志望している。
 先日、その彼に「曜日」と「月」と「数詞」と「序詞」を英語で書かせたところ、

 火・水・木・土が書けなかった。
 3月と5月「しか」書けなかった。(ちなみに日本の古い呼び名で書け、と言ったら弥生しか書けなかった。)
 11とか12とか13が書けなかった。(15も書けない。20も30も40も50も。)
 序詞に到っては3番目からもうわからない。(最初、firstの次をtwiceと書いていた。)

 ということで最初から教え直して(カエサルがどうしたアウグストゥスがどうしたとか言いながら)、
 次に行った時には机の前の壁に全部書いて張ってあった。よっぽどプライドを傷つけたらしい。ちょっと感心した。
 「もう完璧です。」と気持ちよさそうに彼は言った。
 それでその更に次回にあたる今日、「これ全部書けるよね?」と問うと
 「完璧です」と言う。頼もしい。
 「じゃあ、水曜日と2月を書いてみて。」
 得られた解答は次のようであった。

 Wedesday
 Febrariy(最初はFeveraryと書いた。)

 僕は自信を失ってしまった…。



ハードボイルド・タッチの文章を読むときには、その含蓄部分に想像を巡らせなければまったく面白味は得られない。
ヘミングウェイにはその筆致があるが、我が身には乏しく
行間をパンクしそうなくらいに詰め込んでも、伝わらないものは存在しないと言って良い。

ザネリなんて良い例だ。
便器を「泉」と名付け出展して、世界を震撼させたデュシャン。
彼を尊敬する。



ザネリはどうして
ぼくが
なんにもしないのに
あんなことを
云ふのだろう。




これからは菅原道真公のことを「ザネリ」と呼び
関白藤原道長公のことは「カンパネルラ」と呼ぶ
ということが学科会議で決定しました。
大江匡衡公が「マーシー」なのは暗黙の了解で。



赤みそがシャアザクのメタファであるなら
白みそはガンダムのメタファであり
名古屋人は白みそを喰わないので
従って連邦よりもジオンの側に感情移入をしてしまうわけで



ブロッコリーとちくわと、わかめのシャア専用みそ汁を作った。
方今
お米の炊き方が上手になってきたように思う。
時の人は何を言うだろうか。



―僕がどれだけジャイアンを愛しても、ジャイアンはあなたを愛してはくれない。―



「総」制作時間6時間の超大作。↓
もう寝る。谷崎潤一郎の『秘密』とはこれでおさらば!

何か共産主義的な匂いがして恐縮だが、ここで「疎外」ということについて考えたい。いわゆる「物神性」である。女は「私」によって疎外されてしまったのではないかということだ。この場合「疎外」の客体は親であり、主体は子である。だから「物神性」というよりは「子神性」とでも呼ぶべきなのかもしれない。

もう、むっちゃくちゃだ。
何が「メタフォリックなアレゴリーが隠喩的に例えられていて…」だか!



 僕はむかし神童で
 小学校に上がる前から少数の概念を知っていて
 友達に
 「5÷2は?」
 とか訊ねて優越感に浸っていたのを覚えている。
 当然相手は答えられなくって
 「2.5だよ。」
 と教えてあげるとみんなポカーンとした。
 それでまた得意げ。
 で、
 ある時また違う友達に
 「1÷2は?」
 と問いを掛けたことがあって
 すると彼は
 「2分の1さ。」
 と答えたのである。
 僕はもちろん
 分数なんて知らないから
 「何をわけのわからないことを言うか。答えは0.5だ。」
 などと諭して
 相手は
 「いや2分の1だ。」
 と言い張る。
 それからしばらく二人の間で
 「0.5だ。」
 「いや2分の1だ。」
 「0.5だ。」
 「いや2分の1だ。」
 「0.5だ。」
 「いや2分の1だ。」
 「0.5だ。」
 「いや2分の1だ。」
 「0.5だ。」
 「いや2分の1だ。」
 なんつって延々と不毛な大論争が繰り広げられたのであった。
 懐かしき思い出。
 そいつは同じ小学校から同じ中学校に行き同じ高校へ進学し、ただいま浪人中らしい。

 ちなみに僕は当時0.5しか知らなくて、0.2とか0.3の存在なんて考えたこともありませんでした。
 たぶん分数を知っていた彼も3分の1とか4分の1のことなんかはきっと知らなかったことでしょう。
 けれども他の多くの子どもたちがおそらく十進法を覚え始めたばかりであろう時に、
 僕ら二人は二十進法の考え方を利用していたということであって、ちょっとだけかっこよさげ。(でもバカ。)



 ブロッコリー茹でないとなー。
 そういえば小さいころはブロッコリーが大好きで
 お母さんが「スーパーに行くけど何か欲しいものある?」とか聞こうもんなら
 いの一番に
 「ブロッコリー!」
 とか叫んでいたのが僕であったなあ。



純粋な水のことを純水って言うけど
なんかそれって言葉の無駄遣いナ気がしない?

蜂蜜は英語でhoney
蜜蜂は英語でhoney bee
蜜蜂は蜂蜜をつくるから蜜蜂で?
蜂蜜は蜜蜂がつくるから蜂蜜で?
なんかそれって言葉の無駄遣いナ気がしない?



12月1日。藤子・F・不二雄先生が誕生された日であり僕の旦那様(ひとつうえ女性)が生誕された日であり。



 だいぶ前に、後輩の女の子(ふたつした)が「反俗精神って/めっちゃ俗っぽい」とか言っていて、若いのに。と思ったりした。
 「馬鹿って言うやつが馬鹿なんだ」の論理。偉い。

 でも芝居などで、それがまったく効果的であるとだけ信じて、ただありきたりの言葉を並べ立てるのは良くないと思う。
 自覚以前だ。

 大学生になってまでこんなこと考えてる…
 なぐさめてしまわずに。





逆境
とは!?



思うようにならない境遇や
不運な境遇のことをいう!!












これだ


これが
逆境だ!!





逆境
とは…


自分の甘い予想とは
うらはらに
とてつもなく厳しい
状況においつめられた
時のことをいう!!



だが
それは―



男の成長に
必要不可欠な
ものだと
人はいう!!



たしかに
そうかも
知れん…


無理だ!!

だが!!

無理が
通れば――


道理は
引っこむ!!



無理が
通れば道理は
引っこむ!!



男の
戦いとは
なんだっ


つねに自分の
限界との
勝負では
ないのかっ


自分のワクを
こえようと
しないやつに
勝利はあるか?


成長はあるか!!
新たな目標は
できるかっ


できるわけがない!!


無茶は
承知の上!!


おれが自分に無茶を
させているのでは
ない…


――――
しいていえば
3つの条件…


男の
3つの条件が
おれに
無茶をさせて
いるのさ!!


その
条件
とは…!?


ひとつ!!

――男は

イザという
ときには
やらなければ
ならない!!



ふたつ

今が

イザという
ときである



そして
みっつ!!


おれは…

おれは

男なんだッ


やってやれないことはない、
やれ!!




いける!!





ける
 な










おねーさん僕はがんばるよ。
がんばるけれどかっこもつけるよ。
全然平気。やるときはやるからッ
行け行けゴーゴー
じゃーんぷ。






 過去ログ  前の日記  混沌  TOP