少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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28日~29日、清水に行ってきました。
駅でしばたさんと合流し、清水の名前の由来となったチャンチャン井戸を拝み、鰻のひつまぶしを食べ、すんぷ夢ひろばで岩盤浴。すんぷ夢ひろばで岩盤浴しながら喋ってたら隣の兄ちゃんに「おいうるせえよ、静かにしてくれよ(原文ママ)」と言われ、「すみません」と言いました。明らかに向こうのほうが年下でしたが僕らは大人なので「すみません」と言いました。その後その兄ちゃんはタオルの返却所に脱ぎたての館内着を放り込んでおり、なんだか感動しました。そこはタオルを入れる場所であって館内着は別のところに入れなければならず、それは見ればわかるのに彼は気にせず放り込んでいたわけです。この無頓着さ! 想像力のなさ! 自分勝手さ! これがすべてです。すべてなのです。でも僕たちは彼らに対して何も言うことはできませんしすることもできません。ハチや蚊が有害だからといって人間が絶滅させようとするのは横暴であるというような感じのことに似ています。みつばちはハチミツを作ってくれますし蚊は……蚊は特になんにもないかもしれませんし絶滅したら嬉しい気もしますが、それは不可能ですしやろうとすれば大変なコストやリスクが生じるでしょう。だから蚊との付き合いは人類はなあなあにしています。シュッシュするくらいにしています。それがバランスなんですね。例のお兄ちゃんのような存在はハチか蚊のようなものであります。だいいち悪いのは岩盤浴場において私語を交わし彼を不快にさせた僕らなのです。ハチだって敵と認識した相手には命をかけて刺しに来ます。蚊は生きるために血を吸います。あのお兄ちゃんは正義のために僕らにタメ口でうざったそうに注意してきたのです。不器用なだけだ。彼は悪くない。悪いのは僕たちなんだ。でも館内着をタオルのところに入れたのは彼が悪い。彼は何も考えていないのだ。彼は動物で、自分のしたいようにしているだけ。それでたまたま前者の行為は正義にあてはまり、後者の行為は不正義にあてはまったというだけ。ティラノサウルスなのです。歩いているティラノサウルスです。火を噴く海獣です。ゴジラは生きているだけで悪意はないのです。
浴場のお風呂をすべてまわり、サウナに入り、岩盤浴をし、すっかりぽかぽかした僕らはしばた家に参りました。コンビニで買ってきたお酒を飲みながらおつまみをつまんでいたらお母さまがおいしいおつまみをたくさん用意してくださいました。すべて美味しかったです。FF6のサントラを聴きながら語り明かし、寝て、起きて、またも美味しい朝食をいただいたあとはしばたさんの生い立ちツアーを敢行。産婦人科に始まり幼稚園、小中学校、塾など重要なチェックポイントをまわり、それにまつわるお話などを伺う。こういうのは本当に楽しいものです。今度は東京編を開催していただきます。途中、日本平に立ち寄り、そこからロープウェーで久能山東照宮へ行きました。ここは日光東照宮より19年も先に出来たそうです。家康が遺言で久能山を指定したそうで、彼は幼少期と晩年を過ごした駿府に眠りたかったということなんですね。家康は静岡が好きだったんですね。生まれは三河だし素晴らしい人ですね。久能山東照宮にはガンダムもあるし、博物館には暗夜行路の続編も置かれているので、一度行って損はないと思います。
ちなみに久能山東照宮は、国宝の本殿からさらに階段を上ると家康のお墓がある、という作りになっておりますが、そこまでですでに無数の階段があるのと、国宝の本殿が素晴らしいのとで、ついついそこがゴールだと思ってしまいがちです。実際、「いや、ここはもう登らなくてもいいでしょ。昔の石垣があるだけだから」という声が聞こえたのです。彼らはちゃんとお墓のほうまで登ったのでしょうか。仁和寺から石清水八幡宮まで徒歩で行った法師のことを思い出しました。先達はあらまほしきことだぜ。
ぐるりと清水をまわった後、ドリプラでお土産を買って家に帰り、お母さまとお寿司を食べに行くことに。ところがしばたんが歯痛で苦しみだし、急遽ロキソニンを買いに行って難を逃れる一幕も。お寿司おいしかったです。
一度お宅に戻り、寝っ転がって、清水駅まで送っていただく。しばたんはバスで、僕は電車で。しばたんを見送ってからタケダのフルーツジュース(静岡産メロン、180円)を飲む。みかんなら160円、安い! 旬の時期にまた飲みに来たい。お母さまからお茶っ葉をもらってしまったので、それにあわせ土瓶(清水の人は基本、急須ではなく土瓶でお茶を入れるようだ)と湯飲みとごはん茶碗を買った。お母さまからはとにかく温度に気をつければよいといわれたので、腕を磨こう。電車に乗って帰宅。
今回は鰻屋、しばた家、お寿司屋さんでお茶を飲んだけど、やはりおいしい。お茶、お茶、お茶……。名古屋が鹿なら静岡はお茶です。お茶が好きです。お茶のために何度でも静岡を訪れたい。本当に。おしまい。
19日、各駅で金山に着く。キャッチのお姉さんに連れられた飯場という店で飲んだ。まるでドヤをそのまま流用したようなぼろっちい店内で、まさに飯場という感じ。とても味があったので、金山で人と飲むときは良さそうだ。一人なら昔もってけ屋のあった金山センターも攻めてみたいけどね。酔ったまま地元駅前のショットバーへ。あまりにも上質。その割には高くもない。ただ、上質すぎて足は向かなそう。前に行ったジャズとバーボンのお店のほうが僕には合っている。家とは反対なんだけど。
20日、午前中に恩師N教諭と後輩ひろりんこと平和公園で待ち合わせる。平和堂がちょうど開放されており観音さまを拝むことができた。ついている。それから平和公園内外のめぼしい墓所をめぐる。特に印象に残ったのは、大杉栄とともに殺された子供のお墓と、第七代尾張藩主徳川宗春。郷土の歴史をもっと知りたいと思った。つけ麺を食べ、教諭がボランティアをしているピースあいちへ。名古屋の空襲に関する展示は見応えがあった。その後ひろりとカラオケ(茶屋シダ)に行って、たかゆき氏とスガキヤ、矢田川など。娘ともすこし対面。その後、自転車で放浪し、夜中まで飲む。佐藤春夫と赤木かん子さんの本を買って帰る。
21日、劇場で講談と歌を聴く。帰って、夕飯はカレー。東別院の周辺を散歩して、金山で○と合流。イオンまで歩いてスガキヤに行くも、バイトの女の子に「今日はもうラーメンはおしまいです。スープが切れました」と無愛想に言われる。どこのこだわりがんこ店主だよ! と思いつつ、あまりにも面白くて笑う。スガキヤでもスープが切れることがあるのか……と驚いたが、あとで元バイトの子に聞いたら「スープが切れても注文があれば一から作るよ」とのこと。面倒くさいだけだったようだ。キー。仕方ないからイオンでカップのスガキヤと温泉卵買ってホテル行って食べた。
22日、○と二人で名古屋を回る。金山のロッカーに荷物を入れ、身軽になってバスに乗り、矢場町(南)へ。若宮大通の地下で小型自転車を借りる。モグリンというサービスらしい。4時間で1000円、一日で1500円。自転車の質は良かったので、安いと思う。PARCOの「ウキウキ通り」を見て、久屋大通公園を通ってテレビ塔へ。「あちら、前方に見えますのがテレビ塔でございます」「こちら以前は階段で登ることも可能でございましたが、今はエレベーターでしか登ることができません」とか、いちいち解説してたら○が「恥ずかしいからやめて」みたいなことを言ってきたので、普通の口調で観光案内した。「昔は階段でも登れたんだわー」でも今はエレベーターでしか上がれない、地上90メートルの展望台は壮観! たまに仕事で行く東京駅のオフィスビルのほうがたぶん高いんだけど、それはそれ。テレビ塔は素晴らしいです。たぶん25年ぶりくらいに登りました。つまり、ほぼ初めて。しかし我が実家とテレビ塔の間に謎のでかいビルが立ってしまい、テレビ塔から我が家を眺めることができませんでした。あのビル、永遠に許しません。消滅したら嬉しいです。確実に実家の霊力が下がった。その後また久屋大通公園を北に走り、お堀に沿って、県庁と市役所を見てから名古屋城へ。こっちは本当に初めて入った。鹿を見て泣いた。鹿。名古屋城の思い出はすべて鹿です。鹿以外は別に、どってことなかったというか、地元の人があんまり行きたがらない感じなのも頷ける作りだった。中に入るとコンクリート造りで電気室とかエレベーターとかあって風情のかけらもない。外観は最高なんだけどな。本丸御殿が再建されつつあり、そちらは見応えがあった。それはそうと鹿。鹿がいちばん良かったですね。この名古屋滞在を通して、僕が泣いたのは鹿だけだったからね。鹿が二頭、お堀の日陰に寄り添うように立っていて、僕の心は震えたね。この二頭が死んだらもうお堀に鹿はいなくなるんだろうね。最後の二頭らしいからね。どうしてこんなに鹿に心を動かされたのか、わかったらまたここに書きます。
伏見通りへ。県図書館(通称けんとしょ)のスガキヤで食べようかと思ったけど月曜なので断念。白川公園を通って若宮に自転車を返し、歩いて大須へ。スガキヤで昼食をとり、アーケードを歩き回り、お茶を買って、万松寺で織田信秀のお墓を見て、名古屋観光は終了! だいたい全部見ました! 名古屋はこれでおしまいです。もうなんにもありません。あとは名駅があるだけです。お疲れ様でしたまたのお越しをお待ちしておりますというわけで歩いて金山まで行って電車に乗り、途中下車して掛川城。ライトアップされて綺麗。駅前の居酒屋で静岡麦酒、三ヶ日みかんハイボール、静岡おでん、浜松餃子などのご当地ものを食べてホクホク。終電で東京に戻りましたおしまい。
2014/09/19 金_22 月 名古屋観光
また名古屋に行っていました。お母さんが変な咳をして結核か? と思ったりしています。お父さんもずっと薬飲んでるし、もうなんか確実に長いということもないのでできるだけたくさん顔を出してあげたい。
今回あらためて名古屋をまわって、いろいろ感じたり考えたり面白いこともあったわけですが今はちょっと気力が。
「名古屋になら住んでいい!」という言葉が嬉しい。いい町。またちょくちょく行きます。
2014/09/06 土_10 水 Walk Out To West
帰省+αの小旅行をしてきたので、いろいろメモ。
13日完成。長いけどよかったら読んでね~
●6日の1 文化祭の限界芸術
K高校の文化祭へ。ちょうど名古屋に帰る通り道だった。
とりあえず校庭(グランドと書いてあった)に出て、書道パフォーマンスを見学。「うまいもんだなあ」と、初めておもちを食べたドラえもんのような感想を漏らす。おなかがすいたのでかたやきそば(200円)を食べ、ノンアルコールカクテルの屋台で「炎の戦士」なるドリンクを頂く。
校庭を囲むようにしてズラーッと屋台が並んでいた。ハッキリ言って、お世辞にも質の良いものとは言えない。これは僕の持論なのだが、学校の質というのは文化祭の善し悪しである程度わかる。以前、都立日比谷高校という名門校の文化祭に行き、教え子のクラスのミュージカルを見たが、かなりよかった。やはり、「中学校で学級委員をやっていた」レベルの子ばかりが集まった学校は違うものだ。僕の出身校も似たような感じで、どのクラスも気合いが入っていた。
文化祭の「だしもの」は、だいたい三種類に分けられる。「発表系」と「展示系」と「飲食系」である。難易度でいうと、「発表>展示≧飲食」となる。要するに飲食は簡単なのである。「ポップコーンの屋台をやろう」となれば、ポップコーンの屋台をやればいい。もちろんその過程で大変なことや工夫が必要なことはたくさんあって、それをこなしていくうちに生徒たちは学ぶべきことを学び、絆を強めていく。ただそれは、よく工夫された展示(おばけ屋敷なども含む)や、演劇やダンス、合唱などの発表に比べれば、実現はかなり易しいと思う。
一言で言ってしまうと、文化祭のだしものに「発表系」が多い学校は、「いい」学校なのである。(「いい」というのがどういうことか、というのは大論争に発展しかねないので飲み込んでもらうが……。)
発表系のだしものは、難易度がとても高い。難易度の高いものを、クラスで団結して作り上げるというのは、生徒一人一人の質がかなり高くなければできない。えーと、だから発表系のだしものが多ければ、生徒一人一人の質がかなり高いってことだし、学校側(先生たち)もその質を信頼している、っていうこと、だと、思う。
で、僕がこのたびお邪魔したK高校は、ほぼすべて屋台だった。そういう学校の方針なのかもしれないけど、映画をやっているクラスも一つだけあったし、屋台しかできないというわけではなさそう。でも、たぶんそういう伝統なんだろう。
僕は正直、「あー、屋台ばっかなのかあ……」と思って、多少がっかりしたんだけど、書道部のパフォーマンスは素晴らしかったし、屋台の中にも一つだけ、オリジナリティの高い、「よく工夫された屋台」があった。
それは、「SEKAI NO OWARI」というバンドの曲の名前をカクテルにして出すという、さっき少し書いたノンアルコールカクテルの屋台。これは素晴らしかった。
僕が飲んだのは『炎の戦士』というもので、トマトジュースと酢と炭酸を混ぜたもの。美味しかったし、健康にも良さそう。『RPG』がオススメだったそうだけど、オレンジジュースがなくなったために売り切れ。その他、「自分で材料を4つまで選んで、オリジナルカクテルが作れる」というのもあった。ワサビやハチミツなんかもあって、ネタでやるにもいい。
うーん、屋台でもこういう面白いことができるんだなー、と、感心。カクテルはクラスみんなで、ああでもないこうでもないと実験を繰り返しながら相談して決めたそうで、どれも自信作のようだった。おいしい、と言ったら、「やった! それはけっこう好き嫌いあるんですよね、好きな人は好きって感じで」と、喜んでくれた。過程が充実していたぶんだけ当日の喜びも大きいよなー。
美術部ではYくんの『天悪の教室』が、写真部ではFさんの作品がとてもよかった。この二人の作品に巡り会えただけでも、行った甲斐はあったというもの。
クラス発表で唯一の映画、Springなんちゃらは、完成したことがすごい、という感じ。なにしろ展示方法が杜撰すぎてあっけにとられた。教室に入るとテレビが二台置いてあり、その前に椅子が五つずつ。な、なんと、同時に二つの「別の」映像が上映されているのである……! 左側が映画、右側がネタ映像みたいなものだったのだが、右側のネタのほうのBGMが常に大きく、映画のせりふがまったく聴き取れない。閉口した……。二つのブースの間には仕切りもなく、部屋が暗くなっているわけでもない。杜撰、という二文字に尽きる、ひどい発表だった。見ている人は僕一人だけ。受付の子は二人とも寝ている。映画のほうはどうやら体育館でも流されるらしく、そっちがメインなのだとあとで知って安心した。それにしても、杜撰というか、雑すぎる。どういう話し合いがあってこうなったのだろうか。「過程」を想像すると、なんだか恐ろしくなる。
音楽部は体育館でミュージカル。一人だけやたら歌のうまい人がいた。浮いていた。全体には、歌も踊りも一人一人の個性が出ていて、統一感はないけど見ていて面白かった。これが限界芸術の醍醐味ってもんだよなー。
限界芸術、というのは僕がわりと好んでいる考えで、50年以上前に鶴見俊輔さんが提唱したもの。とても簡単にまとめると、プロがやってプロが享受するのを「純粋芸術」、プロがやって素人が享受するのを「大衆芸術」、素人がやって素人が享受するのを「限界芸術」と定義するらしい。盆踊りなんかがそれにあたるそうだ。
高校の文化祭というのは、そういう「限界芸術」に満ちている。屋台だけだとそれが存分に楽しめないから、ちょっとだけもの足りないのだ。このたびこのように文化祭を一人で回って、いろいろ考えることがあった。
それは、「質」、ということについてである。K高校の文化祭は確かに、質が低いといえば低い。音楽部のミュージカルでさえ、日比谷のクラス発表に質の点ではほとんど敵わないのである。しかし限界芸術というのは質を問題にしない。盆踊りなんか、普段は踊りもしないような幼児や老人がその担い手だったりして、質もくそもない。でもそれに対して批判したり不満を感じるものは、基本的にはいないと思う。参加することに意義がある、じゃないが、盆踊りは「質」ではなくて、もっとぜんぜん別のことのために行われるものなのだ。文化祭もそうなのである。
文化祭に質の善し悪しなどないのかもしれない。どんなことだって「いい」のである。それは祭りなのであるから。それぞれの生徒たちが、精一杯やれて、満足するレベルのものでいいのである。それは本当はだから屋台でも何でもいいのだ。僕は部外者だから屋台をあまり楽しめないというだけで、祭りの当事者であれば、それでいっさい問題ないのである。「屋台ばっかりかあー」とがっかりした僕は、「質」を気にしすぎているということだ。
僕の高校は飲食物が禁止だったので、ほぼ全クラスが「発表系」のものをやっていた。それは伝統のようなものである。そして、だからといって本当に質が良いのかというと、言ってしまえば「ただ歌うだけ」「ただ踊るだけ」といったものだって多かった。知り合いが出ているのでなければ、ほとんど見る価値などないようなものだ。だがそんなことはどうだっていい。それは祭りなのである……。盆踊りと変わらないのであるから……。
最後に書道部に行って、ネットでお世話になっているTさんに会った。Tさんは「ネットではふざけてるんですけど、真面目な人間ですっ」と言った。その通り、彼女はすてきな人だった。書道についていろいろと話をしてくれた。どの話にも、態度にも、芯が一本通っていて、書についてもほとんど迷いがない。芯というのはくさかんむりに心と書くけど、なるほど……。無意味にそれっぽいことを言えば、草書というかたちがあるように、字が草のようなものだとしたら、その心……中心をしっかりわかっていないと、上手くは書けないんではないんだろうか。それを捉えるためには書く人もやっぱり芯がしっかりしてる必要があるのかもしれないな……とか。僕は字が下手くそだ。もっと芯なるものをしっかり意識していこう。
質の話をすれば、Tさんの書には圧倒的な迫力や、あるいは冷静さを感じた。またKさんという人の書も、ひときわ輝いて見えた。限界芸術の森のような文化祭空間にまぎれて、純粋芸術の草むらがそこにだけ広がっているような。移りゆく車窓に一瞬だけ見えた、とても美しい風景、みたいな。(そういうのが安土駅から近江八幡駅へ走る間にあった。)それはFさんの写真とか、ミュージカルで一人だけ目立っていた男の子の歌声にも感じられる。あらゆる芸術は本当は限界芸術の中から萌芽するのである。誰だって最初は素人であったわけだから。
質というのは祭りの繰り返しの中から自然に立ち上がってくるようなものであって、はじめから求めるようなものではないのかもしれないな、とも思うのである。
ただ、こんな人間に育ってしまったからには、「それは質だね」と堂々と言ってあげられるような存在でありたい、と思います。
●6日の2 スガキヤと地元のジャズバー
21時頃、実家の最寄り駅に到着。どうしてもスガキヤが食べたかったが、駅前店は20時で閉まるため、珍しく南口から出てイオンまで雨の中歩く。野菜ラーメンとクリームぜんざいを注文、もちろん同時に食す。至福。もと来た道をとって返し、隣駅近くのバーへ。
僕は18で名古屋を出たので、地元のことはよく知らない。特に夜のことは。名駅や栄や大須にはきっと、楽しい夜の街が(それなりには)あるのだろうし、調べてみたら覚王山にも古本バーがあったりした。そういうところに行ってみよう、と最初は思ったが、しかし現実的には、最も通いやすいのは実家の近く。それで少し調べて入ってみた。ジャズとバーボンのお店だった。
硬派なお店なので年配の方が多いかと思ったが、カウンターに座っていたのは25歳と20歳の青年。僕よりも年下だった。沖縄に移住したがっている中学校の技術家庭科の先生と、おじさんの会社を継ぐために伊東から上名(下名?)してきた金属会社の工員さん。
酒場の醍醐味は、ふだん交わることのない他人の人生に触れられること。マンガの話もネットの話も、もちろん友人の話題もない。ただお互いの人生を紹介し合うように、肩が触れるような程度に語りあう。
家に帰ったらお母さんが起きていた。少し話して寝た。
●7日の1 梅田にて、夜麻みゆき先生サイン会
起きたらまだお父さんがいたので、ジャズバーに行ってきた話をすると、「ああ、知ってる。栄のジャズバーで行ってこいとすすめられたんだけど、まだ行ったことない」と。やはりその筋ではなかなか有名らしい。数が少ないから、そういうものなんだろう。
昼前に電車に乗って、MARUZEN&ジュンク堂梅田店へ。夜麻みゆき先生のサイン会。愛蔵版『刻の大地』6巻を1Fで受け取り、7Fへ。
並んでるだけで涙が出そうになった……と思ったら、同じようにすでに涙ぐんでいる人がけっこういた。その中の一人は、夜麻先生の前に立ったとたん言葉も出ないほど泣いてしまって、大きな親近感をえた。そうそう、そういう作品なんだよね、夜麻先生の作品は。僕も胸はどきどき、足はがくがく、常に涙目、という感じで、緊張しながらも17年ぶりの対面を充実させることができた。17年というのは、中1の夏、名古屋の星野書店で行われたサイン会に参加して、それ以来ということ。17年前に焼き付けておいたイメージそのままの、素敵な方でした。同じく夜麻先生ファンの友達のことや、自分の読書体験、17年前のことについてなど、お伝えすることができて、よかったです。
夜麻先生が僕にとってどういう存在であるか、というのは、11月以降、「人生の岐路」みたいなコーナーを作って書きたいです。
●7日の2 梅田にて、高校演劇部の後輩と
僕が大阪に来ていることをTwitterで知った後輩が、たまたま近くにいたようで、梅田まで会いに来てくれた。彼は自転車が趣味で、休日はそこら中を走り回っているらしい。今は大阪府某市に住んでいる。
彼は高校の演劇部の一つ下の後輩で、かつてはこのHPに間借り(というかただリンク貼っただけ)して日記を書いてくれたりもしていた、「まさやん」という人物。前に会った時は奥さんと一緒だったので、二人きりで話すのは本当に久しぶりだ。
彼にとって僕が非常に特別な存在である(そう言ってくれるし、僕もそうだと思う)ように、僕にとっても彼は非常に特別な存在である。彼は僕が「教えた」最初の人なのだ。教えたというと偉そうになってしまうが、高校二年生まで僕には「何かを教える目下の存在」というものがいなかったのだ。末っ子として生まれて、従姉妹の間でも最年少。小中で部活やクラブ活動などをまともにやったことがない。年下の友達というのはいたが、ほとんど対等の関係として遊んでいた。高校二年生になって初めて、3人の「後輩」を持ったのだが、その中でも最も(ある意味、いい意味で)僕の手を煩わせたのが、まさやんだったのである。
僕は自分の本職を教育業だと思っているし、年下の人と関わる時はどこかでそういう視点を持ってはいる。でも、誰と関わる時でも、明確な体育会的「上下」という意識はない。10個離れていようが、僕のことを呼び捨てにして、タメ口で話す子たちはいっぱいいる。思えばそれは、高校二年生の時から始まっていたのだった。まさやんも、もう一人の後輩男子も、僕のことを「ジャッキー」と呼び、ほとんどタメ口で話してくれた。そういう関係の中で「教える」ということもした。でもべつにそんなに、教えるというほど教えたような感覚はないのだ。一緒に劇を作ったり、近い存在として接しているうちに、注意したり、褒めたり、アドバイスしたりすることがあったという、それだけ。あるいは一緒に自転車旅行に行ったりとか。それがやみつきになって彼は、ついに自転車を生涯の仕事(たぶん)にしてしまった。言ってしまえば僕は彼の進路にかなり直接的に影響したということになる。
教師としては二流以下である(と思う)僕には、「教える」ということの全体像がまったくわからない。親になったこともなければ、兄になったことすらない僕は、「教える」ということが全然わかっていないと思う。今のところは、まさやんと接したような経験の延長線上で、それに似た行為を洗練させていっているだけだ。
こないだ若い女の子三人と一緒に同人誌を作ったが、それも感覚的には演劇部の先輩として振る舞っていた感じと大差ない。ただ、それがいくらか上手になったというだけのこと。ただ一緒にやる。一緒にやる中で、自分がやるべきことをやる。それがそれだけで「教える」ということになるのだと知れたのは、まさやんや、同世代の後輩たちがいてこそだ。彼らには心から感謝している。教えるということを教えられた気がする。
よく「子供と一緒に成長していきたい」なんてことを言う教員(志望者)がいるし、「子供に教えられることが多い」と言う先生もけっこういる。このあたりは紋切り型で、いかにもありがちな言葉だから注意するべきではあるけど、確かにその通りではあるのだ。人間は生きていくうちに、誰かを「教え」て、教えるということを教わっていく。学ばされていく。僕にとってのそのわかりやすい第一号が、まさやんだった。彼は問題児だったが、そのおかげで僕は、いや恐らく僕らの世代の部員たちはみな、本当にたくさんのことを学ぶことができたのである。
彼は今では本当に立派な人間になっている、と思う。かつて立派でなかったわけではないし、どこがどう変わったということもないが、彼の「世間からはちょっとズレたところ」が、とても良い方向に育っていったのは間違いないだろう。それを定期的に確認できるだけで、とても嬉しい。
●7日の3 三宮にて、飲み歩く
梅田から神戸の三宮に阪急で移動。以前東京でお世話になっていたお兄さんに会う。羊肉の串焼き屋さん、小さなバー、スペインバルと飲み歩いた。
もともと小沢健二さんに関することで知り合ったので、話題は自然とそっちのほうへ行く。ニフティサーブの話など、時代の貴重な証言をたくさん聞くことができた。
やっぱり、自分の本当に好きなものを本当に好きな人と話すのは安心する。これまで二人きりでちゃんと話したことがなかったので、最初は緊張したけど、そこの安心感のおかげですぐにほぐれた。神戸のことをいろいろ教えていただいて、宿泊についても「決めてないなら、新開地にあるユメノマドというゲストハウスに行くといい」と教えてくれた。
そこのチェックインは22時だったんだけど、別れを惜しんで23時ごろやっと到着。
●7日の4 新開地にて、「ユメノマド」に宿泊
チェックインして、すぐにリビングへ。喫茶担当の方とお話をする。そのうちにルームメイトが帰ってきたので、その方とも話し込む。途中でまた別の従業員の方が起きてきて、鼎談に。午前4時半まで話してしまう。ゲストハウスに泊まるのは実は初めて(意外な人には意外でしょう?)なんだけど、これがその醍醐味なんだね。
たくさんのことを話したけど、それはあの空間の記憶に今はまだ閉じ込めておきます。
●8日の1 新開地にて、橋本くんと
橋本くん(こう書いていいのかな?)という高校生の男の子と朝から会う。歩き回って、喫茶店に行って、また歩き回って、古本屋に行って、そしてユメノマドの喫茶に再び戻り、昨日たくさん話したマスターとまたお話をして、神戸駅まで歩いて別れた。夕方6時過ぎ。
彼とはたまにしか会うことがないので、会えるとついつい説教じみた、意味の濃い話をしてしまう。反省はしないし、申し訳ないとも思わないけど、ちょっと気恥ずかしい。もっと違った感じにもできたな、とかは考えてしまう。
男子の発達は遅い。高校生くらいでは、ほとんど発達していないと言ってもいい。前にも書いた気がするけど、僕は高校生の時、ネットで知り合った年上の人たちと会っても、何もまともに話せなくって、後悔したことが何度かある(くらとか、ともとか)。彼らはとても不器用だ。
その代わり、男子高校生というのは、熟していく。心の中に渦巻く巨大なもやもやはこの時期、果てしなく成熟していく。そして成熟の過程で彼らは言葉を失う。僕もそういう時期は長かった。高校一年生から、大学一年生くらいまであったかもしれない。その代わりに僕は言葉を、この日記の上に垂れ流していくことになった。この頃の日記は僕の「成熟の過程」をそのまま写し取ったものであって、そういうことをしない男の子たちはみな、心の中で同じことをやっているのである。静かに。
とはいえ、僕や橋本くんはたぶん、その「心の中のもやもや」が非常に大きい、または妙に複雑なのだと思う。先んじて発達してしまった「賢さ」が、思考に一本、筋を通すのをためらってしまう。「本当にそれでいいのか?」その賢さが結論を、言葉を抑圧する。「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなる」と小沢健二さんが歌ったのは、そのブレーキのことなのかもしれない。(『ローラースケート・パーク』)でもそれは大きなミステイク。それに気づくまで、少年はぐるぐると熟すための煩悶を続けるのである……。
今回、橋本くんと遊んでいて面白かったのは、喫茶でお話した方が、僕とだいたい同じようなことを言った瞬間だった。僕と橋本くんは顔を見合わせて大笑いした。「やっぱ、それですよね。」
若い人には、大人を信頼して欲しいと思う。もちろんすべての大人が信じられるような存在であるわけがない。むしろその逆だが、よく目を凝らして、素敵な大人を見つけて、信頼してみて欲しいのである。僕にとっては何人かの高校の先生だったし、それこそ小沢健二さんのような存在だった。大人を信頼するということは、過去を信頼するということである。生きるにおいて最も重要なことの一つは、過去を信頼して、顧みることだと思う。顧みて、現在に活かして、未来をつくる。温故知新と言うのだろう。
●8日の2 名古屋にて、友達と
神戸からの帰り道、ほんの一時間ほどだけ、友達と会う。良い友達というのは、いつでも顔を見れば安心する。なんかいろんなことを超えて、とりあえず我々は仲違いとかしなそうだ、みたいなざっくりした感想を確かめるように抱いて、「そんじゃ」って飛び跳ねながら別れる。
帰ってお母さんと話して寝た。
●9日の1 19号沿いのガストにて、中学の同級生と
中学の同級生で今も仲が良いという相手はほとんどいないので貴重。家が近いからひょっと呼び出せばぴょこぴょこ来る。これは非常にありがたいことだ。
中学を卒業してから15年くらいのことを相手は知らないわけなので、どの話をしても新鮮に聞いてくれる。いろいろ話すと、まとめて感想を言ってくれる。それがけっこう、心に残ったりする。
僕の考え方とか生き方というのは、やはり2000年9月の稲武行と、2001年8月の青森・北海道行において決定づけられたところがあるな、と改めて思った。僕はこの二つの旅行で出逢った人たちのような生き方を目指しているのかもしれない。そういうことはやっぱり、書いたり、人に話したりしていて気がついてくるものだなあ。「人が好きなんだねえ」と一言もらえたのが、わりと大きかった。「あ、そうか。僕って人が好きなんだ」と、ただ反復するだけど、そのフレーズが喚起するあらゆる記憶と思考がぶわーっと浮かんできて、「ああ、あれもこれも。なるほど」と納得していく。
人が好きというより、人を信頼したいんだと思う。岡田淳さんが最近よく、『ドリトル先生航海記』を読んだ時の幼少期の思いを回想して、「人間は信じられる、人生は生きるに値する」ということを感じたと言っている。人間は信じられる、人生は生きるに値する……そういう希望を抱かせてくれるような人を好きになりたいし、自分もそういう人でありたい。
余談。たぶん中学校1年(たぶん……)の同級生だったと思う(たぶん……)んだけど、小沢健二さんが好きなんだということをお互い初めて知った。iPhoneには『我ら、時』とか入っててビックリした。普通の人はあんまり持ってないやつ。尾道に行くというので、『球体の奏でる音楽』と尾道とのゆかりについて教えてあげたら、「いいこと聴いた! じゃあ尾道ではオザケンを聴くよ、あやうくハナレグミを聴きながら行ってしまうところだった」とちょっと面白いことを言っていた。
●9日の2、10日の1 軽井沢
夕方「しなの」に乗って篠ノ井で乗り継ぎ小諸へ。やさしいぺ~こくんは迎えに来てくれた。彼は軽井沢の人。バーミヤンでご飯食べたり温泉行ったりアニメ観たりして過ごした。ドラゴンボールZ神と神TV特別版と、ブルーレイ版絶対無敵ライジンオーのコメンタリー全話(5本)と、究極超人あ~るDVDの光画部旅行マニュアルおよび映像特典全部。なんつーか、鮮やかなオタク同士の休日。あと昼寝もした。充実したなあ。
ドラゴンボールについては、僕は本当に鳥山明先生が好きなんだけど、ぺ~こくん以上にそれをわかり合える友はいない。
今回一緒に観た『神と神』は鳥山先生が脚本のほとんどを手がけている。名義は別の人だけど、実質的には鳥山先生の書いたセリフや意見を採用したのが大部分だそうだ。TVでやった特別版というのは、どうやら映画版でカットされたところをすべて繋げた完全版的なものらしいんだけど、めちゃくちゃ面白かった。鳥山先生の気の抜けたどーでもいいギャグが満載で、これを削ったらぜんぜん面白くなくなるじゃん! と憤りを覚えたほど。映画版では僕が思う鳥山先生らしい部分がざくっと削られていたようで……。世間が鳥山先生に何を求めているのか、というのを嫌と言うほど見せつけられた感じ。ああ、つらいなあ。
かなり大量のシーン(30分ぶんくらい?)がカットされていたんだけど、ギャグシーンばかりでなく、ラストの最も重要(だと僕が思う)なセリフもぶった切られていたようだ。「孫悟空はすごい」みたいなセリフのあとに、「いや、孫悟空ばかりではなく、あの者たちみんながすごいのだ。っていうか地球自体がすごい。悟空もベジータも地球に行ったら丸くなった。地球ヤバイ。地球は人間以外は素晴らしい星だし、その人間もよくなってってる」(大意。記憶をもとにした超意訳)みたいなセリフがあって、ハー鳥山先生いいこと言うやんけ~あの鳥山先生がここまで言うなんて~と興奮したんだけど、映画版では「孫悟空はすごい」の部分だけで終わっていたとのこと(ぺ~こ・談)。そ、そんな……。確かに大長編ドラえもんっぽいオチになっちゃうけども、「悟空すごい!」はもういいじゃん、って僕は思うんだけどな。
こういう気持ちをちゃんと共有できるのが、僕の最良のオタク友達であるぺ~こくん。
●10日の2 俺の行く末密かに暗示する人
軽井沢から帰ってきたら「おかえり」って!
2014/09/06 土 イリイチの遺言・予告篇
このような世界で人はどうやったら無償の行為を生きられるのでしょう。
友人、友人……報酬を求めず、ただそのために、それ自体を楽しむただそのためだけに……(イバン・イリイチ『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』藤原書店、2006.12 P377-378)
わたしにはこの世界で、自分が愛する人々と共に生きること以上に素晴らしい状況があるとは思えません。(同 P378)
2014/09/05 金 自分の前提を譲り渡さない
70年代→宇宙戦艦ヤマト
80年代→機動戦士ガンダム
90年代→新世紀エヴァンゲリオン
「こういうふうに、それぞれの年代を代表するすごいオタク向けコンテンツがあるんだけど、00年代にはそういうものが出てきてないよね」という話を、なんとかさんがしていた。
そういう状況を前提として、彼はいろいろ論を進めていくんだけど、こういう感じって僕はあんまりピンとこないのです。
そう言われればそれっぽく聞こえるんだけど、ヤマトとガンダムとエヴァって全然違うものですよね。「オタクに受けたアニメ」というだけで、内容も売れ方も残り方もそれぞれ違う。「オタクに受けたアニメ」っていうだけの共通項で、一緒くたにして、「そういうものが現在にだけない」と言ってしまうの、とてもその、適当ですよね。
ヤマトはもうやってないに等しいし、売れないですね。ガンダムは、やってるけど「シリーズ」として名前が残っているだけで、今はぜんぜん違う設定・キャラクターのアニメになっています。エヴァはTVシリーズ→劇場版→新劇場版と、ほぼ同じ設定・キャラクターのアニメが、時間をかけて展開しています。
ヤマトは73年、ガンダムは79年、エヴァは95年(10月)に放映開始なので、こう見ると80年代って何もないです。73、79、95と並べて、「それぞれの年代を代表」というのは、やや妙な感じです。
確かにガンダムは80年の1月まで放送していて、81年、82年に映画になりました。その後シリーズとして延々続いていきます。それをもって80年代の代表と言うんだと思いますが、それを言うなら、2014年現在まで売れに売れているエヴァンゲリオンは、90年代と00年代と10年代のすべてを代表するオタク向けコンテンツ、と言ってしまっていいような気がします。そうなるとガンダムも、80年代と90年代と00年代と10年代を代表するオタク向けコンテンツ、と言ってしまっていいと思います。
でも、10年ごとに時代を切り分けたがる人は、10年ごとに切って、「この時代には何もない」みたいなことを言います。そ、そうなのかなあ……。
80年代にガンダムがあった、と言って良いのなら、00年代にエヴァがあった、10年代にエヴァがある、みたいな言い方をしても矛盾しない気がするんですよね……。
それに比べると、ヤマトはまさに70年代しか代表しえないですね。ある意味、一時的な流行ですよね。ヤマトがいいのならハルヒ(アニメは2006~2010年まで断続的に続き、漫画は2013年に第一部完、原作は2003年に始まって未だに終わってません)なんてじゅうぶん00年代を代表してる気がします。あるいは10年続いてるプリキュアはなぜ代表できないのか、とも思います。らき☆すた、けいおん!、まどマギあたりも、代表とは言えないのかもしれませんがとても売れてましたよね。
そういうことを考えていきますと、東さんの前提ってのは、しっくりこないのです。
こういうのってもうほんと、「僕の考えた最強のオタク史」みたいなもんで、「こうだとしてー」みたいな、小学生みたいな前提の立て方でしかないです。個人にはそれしかできないと思うので、仕方ないです。あとはそれと前提を同じくしたがる人がどのくらいいるかとか、そういう話になってきます。
でも、「そういう前提を勝手に出されちゃ困る」と思う人もいるわけです。
歴史を作るのは後代の権力者だ、というのはあると思うんですけど、前提を勝手に作る人は、権力者になりたがってるようなもんだと僕は思います。
ただ、「こうだとしてー」っていうふうに、控えめに、「とりあえずこうだとして考えてみましょうよー」って感じに、実験的にやってみるのは、とてもいいことだと思います。「そうだよね、絶対そうだよね?」と来られると、「胡散臭いなあ……」と、僕はなります。
このなんとかさんは、「日本のカルチャーは昭和単位で動いている」とも言っています。そうすると、こうなります。
昭和20年代(45~54)
昭和30年代(55~64)
昭和40年代(65~74)
昭和50年代(75~84)
昭和60年代(85~94)
昭和70年代(95~04)
昭和80年代(05~14)
なるほど! これは確かにうまい分け方なんですよ!
昭和20年代は終戦~戦後です。55年には「55年体制」が始まって、56年に「もはや戦後ではない」です。64年に東京オリンピックがあって73年にオイルショック、高度成長が終わります。84年に僕が生まれて、……ほかには思いつかないけど、この10年は「バブルとその前後」と言うことはできます。そして95年に(エヴァだけでなく)いろんなものが大きく変わることにまったく異論はありません。04~05年あたりからブログやmixiなどが爆発的に流行りはじめ、そしてこれからどうなるか……!?
と、こじつければそんなところなんですけど、なにぶんこじつけです。冷戦終結やバブル崩壊が90年前後で、IT革命と9.11が2000年くらい、3.11が2011年、ってなると、こっちもしっくりきますよね。だいいちこれは、「カルチャー」史ではない。適当に、連想するできごとをあげてみただけです。
カルチャー(特にアニメ・マンガ?)的にいうと、45年くらいから手塚治虫が出てくるっていうのはわかるんですけど、そのあとはよくわからないですね。もちろん、こじつけようと思えばこじつけられると思うんですけど。彼はどういう意味で使っているのでしょう。
エヴァがたまたま95年ってのはあります。でも放映開始は95年10月で、3ヶ月だけの話。んでまあ、そっからいわゆるゼロ年代? 的なものが始まっていく、ということなんでしょう。
なんかほんとにもう、ものは言いようっていうか、分け方なんていくらでもあるわけだから……。95年前後はカルチャーどころか、いろんなものが変わったとも言えるし……。89年で変わったとも思えるし……。こじつけなんて、「こじつけでもつじつまがあえばそれにこしたことはない」程度の、「あ、それちょっと面白いね」くらいのもんでしか、ないんですよ。
それをなんかこう、まじめに、ゼロ年代がどうの、10年代がどうのってのは、なんなのでしょうか。「これで完璧! 文句ないだろ」ってレベルの分け方だったらまだいいんですけど、ヤマト、ガンダム、エヴァ、それ以降なし、ってのは、乱暴すぎるのでは。
なんとかさんは「日本のカルチャーは昭和単位で」といいながら、ヤマト(73)を70年代に、ガンダム(79)を80年代に、エヴァ(95)を90年代に代表させております。もし昭和単位(だいたい昭和単位ってなんだよ)とかいう考え方を採用するならば、ヤマトは75~84年を、ガンダムは85~94年を代表するということに……? いいんでしょうか。どっちの基準で考えるにしても、よくわかりません。
こういうペテン的詭弁に騙されてはいけないと僕は強く思うのでありました。
それだったらまだ僕の、「ワタル(88年)以降エヴァ(95年)以前」というアニメ史の切り取り方のほうがまだマシ、って気がするんだけどなあ~。
人に支配されちゃいけないな、って、改めて思いましたよ。この、なんとかさんの言ってることを、そのまま信じてるというか、疑ってない人もたくさんいると思うんだけど、簡単に自分の「前提」を他人に譲り渡しては、いけないと僕は強く強く思います。
「すべては捉え方次第」って、僕の友達の麒麟さんが10年以上も前から言っております。「何が重要かをとらえるんじゃなく 何を重要にするかを大切にしていきたいものだ」と。
何を重要にするかを大切にする、というのは、基準や前提を自分でしっかりと持っておく、ということでもあると思います。麒麟さんはそこが強固すぎるのが玉に瑕ってやつなのかもしれないけど……。
2014/09/04 木 まなびストレート!と東浩紀さんたち
東浩紀という人のことはよく知らなかったのですが、ひょんなことから僕の大好きな『まなびストレート!』というアニメについて語っている(2007年5月、桜坂洋という人との対談)
記事を読んで、いくらか思うことがあったので、初めて、少しだけ書きます。
その対談、個人的に注目すべきところがたくさんあったのですが、特に印象に残ったのは、たとえばこのようなやりとり。
――未来とは関係ないかもしれませんが、キャラクターについてはどう感じましたか?
東 ぼくはみかんってことで。
桜坂 じゃあわたしはツンデレ(芽生)で。
――わたしは触角ついてる子(桃葉)がよかったです。
桜坂 選ばれてない子は悲惨ですね。
東 こういう場合主人公は選ばれないだろうから、運動部系の子が弱いってことだ。
桜坂 『おジャ魔女どれみ』でもスポーティーな子は弱かったですよね。
東 あいこだっけ。でも、じゃあなんでそういうキャラを入れるんだろう。
桜坂 特殊な趣味の人がいるんじゃないかと。それじゃないと拾えない、みたいな。
東 ひどいなあ(笑)。ところで、桜坂さんは、存在が浮いてて、そのために話(第4話)までつくられたようなキャラでいいわけ?
――第4話、おもしろかったと思いますよ。『新世紀エヴァンゲリオン』的で。
東 ちょっと『少女革命ウテナ』的な世界もいれつつ、みたいな。
桜坂 芽生は、たしかにツンデレとしては弱かったですね。第4話を越えても。
東 弱いっていうか、ツンデレの体をなしてないよ。あれはツンデレじゃない! むしろなにか新しいものだよ。第2話ですでにうなずいているし。ツンデレをやれと言われたけれど、この世界でどうやってツンデレをやればいいんだみたいな悲哀すら感じる。そう、芽生はツンデレが不可能な世界でツンデレをやれと言われて悩んでいるキャラなんだ。メタツンデレなんだよ!(笑)
インタビュアーに「キャラクターについてどう感じ」たかを問われて、まずキャラ名を述べる東さん。それに乗っかる桜坂さんとインタビュアー。しかもめぇ、もも、まなび、むっちーの四人は名前さえ呼ばれない。彼らはキャラクターを「属性」とか類型とか、すなわち「性格的・身体的・生活的特徴を一言で表した言葉や概念」にばっかり注目している人たちなんですね……。
「キャラクターについてどう感じ」たかという質問を、「どのキャラが好きか(どのキャラに萌えるか?)」ということに置き換え、そこで名前が挙がらない子を桜坂さんは「悲惨」と言い切り、東さんはむっちーを「運動部系の子」と定義した上で「弱い」とばっさり。極めつけは東さんの「なんでそういうキャラを入れるんだろう」という疑問。えーっと……。どこまでもこの人たちは、「物語の中から人物を見る」ということをしないんですね。物語の外から人物を眺めて、強いの弱いの、要る要らないのと考えている……んでしょう。
で、そのあとも桜坂さんは「特殊な趣味」とか「拾えない」という言葉を使って、まだ「キャラ萌え」みたいな話を続けます。この人たちの頭の中には、「キャラクターの魅力」という尺度ばっかりがあって、しかもそれは「自分や視聴者が、どのくらい(萌えの対象として)好きになるか」ということを基準にしているように見えます。
彼らの特徴として「まずキャラクターが萌えるか否かについて考える」「物語の外からキャラクターを眺める」というのがあると思います。
物語の外から、というのがどういうことかというと、たとえば「そのために話(第4話)までつくられた」と言っているところなんてちょうどそうです。キャラクターの意志とか内面みたいなことはあんまり考えていなくって、「制作者側の意図」みたいなことを重視します。国語の授業でも「作者の意図」ばかり考えさせるようなのは嫌われる傾向にあると思うんですが、彼らはだんぜんそれを好みます。
引用部の外からいくつか抜粋します。「《東》芽生のキャラを立てるために、スタッフがんばりすぎかも(笑)」「《桜坂》途中で路線変更があったんですかね」「(東)妙に設定はしっかりしてるのに使ってないよね」「《桜坂》これ、『エヴァンゲリオン』『少女革命ウテナ』から来たものと、『おねがい☆ツインズ』から来たものと、『涼宮ハルヒ』の京アニとを融合させようとがんばってますよね。まだうまく接着してないけど。《東》してないね。むしろ分裂しちゃってる」「《桜坂》チャレンジは買いたいな」「《東》キャラのトラウマとか、あんまり描かなくていって!」……などなど、全体的に上から目線で制作者の所業について語っている感じがします。それも、根拠のない邪推を含んで。
また、ここまでも何度か出てきましたが、別作品との比較の上で語るのも、多いです。「《東》『涼宮ハルヒの憂鬱』のほうがキャラクターの数とかもスリムだよね。最適化してる」などのように、他の作品と比較しながら、善し悪しを論じているところがあります。「最適化」というのは、なんと冷たい言い方……。
まだまだ、決して長くはない対談の中で、挙げればキリのないほど言いたいことが出てきます。
彼らには、「ある種のラーメン好き」と似たような特徴があります。ある種のラーメン好きは、ラーメンを食べるとき、頭の中に「俺の理想のラーメン」を思い浮かべて、それと目の前のラーメンを比較した上で、「味が濃い」「麺が固い」「チャーシューが薄い」「まず、とんこつというのがありえない」などと言うわけです。(本当にそういう人たちがいるのです。)東さん(たち)から感じるのは、これです。「俺の理想のアニメ」があって、そこから減点法で「審査」するのです。
「《東》芽生は生徒会入っちゃよくなかった」「《東》本当はまなびの分担じゃないよね」「《東》やっぱりここは巨大な障害物になってくれないと。残念」
この人は、物語をありのままに受け入れる、ということをしません。物語には「正解」があって、それに則っていなければ減点する、という姿勢です。しかも、「ここで○○が起こらないのはおかしい(筋が通っていない、必然的でない)」という言い方ではなく、「ここでは○○が起こったほうがよかった」というふうに言います。彼の思い描く「正解」とは、論理的必然性等とは関係なく、彼が独自に、勝手に決めている「正解」なんだと思います。「このほうが面白く、素晴らしくなるはずだ」という判断に基づいた。
僕が『まなび』の解説本を作ったときに心がけたのは、ひたすら「物語の中に入って考える」ということです。物語の外から偉そうなことを言って悦に入るような、くだらない評論はしたくないです。物語の中で起きたことをすべて「実際にあったこと」として受け入れて、「だったらその行動にはどういう意味が?」という順序で、考えていきます。どんな漫画だって文学だって、物語というのはそういうふうに見るもんだと思っています。「こうであるべきではない」と思っても、実際にそれは(物語の中で)起きている、「すでにそうである」ことなのだから、それを否定しても仕方ない、という感じです。
東さんのように、論評を仕事にしている人には、いろんな事情があるのでしょう。彼は「物語の外から見る」ことでお金をもらっているのでしょうから、それをやめれば稼げなくなるし、「そういう論評」の需要だってちゃんとあるわけだから、彼はそれをやらないわけにはいかないと思います。でも、僕はそういう見方はしません。僕の立場からすれば、「そんな考え方をしたらあの子たちが可哀想だ」です。あの子たちはあの子たちなりに精一杯生きていたんです。それを「生徒会入っちゃよくなかった※」なんて言われたら、あまりにひどいです。
僕の考え方はだいぶ気持ち悪いのかもしれませんが、「生徒会入っちゃよくなかった」と言われると、「生徒会に入らなかったら、芽生たんはずっと孤独なままじゃない? それでいいってこと?」って思うし、「存在が浮いてて、そのために話(第4話)までつくられたようなキャラ」なんて言われれば、「あの話は、存在うんぬんじゃなくって、芽生たんが自分に対してもみんなに対しても素直になって、みんなにとっても芽生たんを理解して、人間関係そのものについても全身全霊で学んでいくことになる、後のすべての話に繋がっているとっても大切な話なんだけどな?」とか、思うのです。
(※東さんはたぶん、「むっちーと同じように助っ人でよかった」という意味で言ったのではなく、桜坂さんが言うように「フェニックスの一輝」的な存在であったほうがよかった、という意味で言ったのだろうと考えて、書きました。もし「助っ人でよかった」という意味だったとしても、芽生たんにはむっちーやもものようにほかに学校での立ち位置や所属がないので、やっぱり生徒会に入ったほうが、誰にとっても良かったと思います。万が一「生徒会ではなく、ほかの部活に入ってサポートするなど、べつの地盤もあったほうがよかった」という意味ならば、それはそれで悪くはないかもしれないとは思いますが、さすがにそこまでは読み取れません。)
僕がもっともわからなかったのは、桜坂さんが言った「第1話、第2話、第7話前半のノリと、萌え話化したあとの話と」という言葉です。萌え話化……。『まなびストレート!』という名作(の、おそらく後半部)を、「萌え話化」という言葉を使って語るのは、僕には想像も絶することです。萌え話化、というのは何のことを言っているのでしょう……。ちゃんと見ていない、というより、なんというか、人(キャラクター)の気持ちとか、内面的な事情や、人と人との関係とか、生き方とか、友達や仲間ということとか、そういうものを感じたり考えたりするのが苦手な人(たち)なんじゃないか……。その代わりに「萌え」とか、そういった方面について感じたり考えたりすることに特化しているのかなとか……。それはそれで、そういう人たちってのはたぶんめちゃくちゃたくさんいて、わりと東さんとかってその総本山みたいなところがあって、そういう人たちに好かれているのかもしれないなとか、思います。情緒とか、そういうのとははるか遠いところに彼はいるような気がします。
七年も前の話で、今は知らないのですが。
2014/09/03 水 11月1日に改装予定
今日は9月3日です。ドラえもんの誕生日とされている日です。そんなわけで今日からサイト改装に着手し始めました。地下でそろりそろり作り始めます。
なぜ、というのは、11月1日で僕が30歳になるからです。30歳……。始めた時は15歳だったので、ついに倍になったということです。
論語でいえば志学の年から而立の年になるということで、ここらでちょっと、仕切り直したいです。ただし厳密にいえば論語に書いてあるのは数え年のようで、それに従えば僕は2013年の正月にすでに30歳=而立を迎えており、現在は31歳というわけなのですが、それはそれとして……置いておきましょう。
不惑の時にはまた、違った形になるかもしれませんが、とりあえず10年間、がんばってみようと思います。
さらに詳しいことは新しいサイトのほうに書きます。
少しだけ書いておきます。もう30になるので、「振り返ります」。そして、「現段階での答え」を出したいです。僕が書いてきたものはこれまですべて「過程」や「問い」でした。わかっていることなど一つもありませんでした。だからこそ「ひごろのおこない(初期の日記タイトル)」であり、「少年Aの散歩」だったのです。どちらも「答え」を語るものではありません。
ただ、たかだか30歳で、「答え」などというものを文字にできるとも思っていません。だから「現時点での」をつけざるを得ません。しかし……それはいったい、どのような形のものになるのでしょうか? 答えのようで、答えではない。そんなものが僕などに記述できるのでしょうか。わかりませんが、せめてそういう意識をもってやってみようかと思っている次第です。
30代は挫折の連続だとものの本に書いてありました。30代の10年間は、迷いの10年間だとも言います。40歳になってようやく「不惑」と言われるのは、その前の10年間が惑いだらけだからだそうです。
惑いやすい時期だからこそ、じっくりと丁寧に、「これまでの決算」をしっかりとやっておいたほうがいいのかな、と思います。このまま散漫にやっていくだけでは、余計に惑うばかりです。最近いまいち日記が書けなくなっていたのは、もしかしたら僕がすでに「数えで30」を迎えてるからなのかもな……と思ったりもします。
先日、「ファイナルファンタジー6を愛する者の集い」をわずか3名で決行しました。その話はまた別に書きたいところですが、偶然(?)にも僕のほかのふたりはこの日記の熱心な読者さんなので、「日記をまとめて電子書籍で出したら」的なことを言ってきました。そういう頭のおかしい熱心な人たちが、5000円くらいで買ってくれるかもしれない(ふたりとも唸りながら「か、かうかもしれない……」とか血を吐きながら仰っていました)と思えば、整理する気にもなるなあとか思いますので、振り返るという意味もこめて、15年間の悲願である「傑作選」の制作を、考えていないでもないです。
前に震災直後1ヶ月くらいの日記をまとめて冊子にしたら、我ながら(というか我だからこそ)めちゃくちゃ面白かったので、ああいうようなものはアリかなと思っているのです。手伝ってくれる人がいたら教えてくださいね^^
書くことなどメモ
・イリイチの遺言
・FF6とその集い、杜撰であること
・うりんこ『妥協点P』と伝説の『なにをする!』
・男と女、女と神
・サイトの改装について、過去ログについて
・なぜ仲が良いのか。
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