少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2014/08/23 土 黒川伊保子さんと『掃除当番』

 黒川伊保子さんの本を立て続けに読んでいる……。以前『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』を読んで以来好きで何冊か読んでいたんだけど、このたび『恋愛脳』を読んで大いなる感銘を受け、『キレる女 懲りない男』へと読み進め、これから『夫婦脳』を読まんとするところ。けっこう有名な人のようでテレビとかにも出ているらしいのですが僕はみたことありません。
 僕は基本的に「脳」みたいなことを書いている本があんまり好きでなかったんだけど、黒川さんの本はなんというか良い人格みたいなのが滲み出てきてるから好きです。しかし多読するにつれ、「この人ヤベえな……」と思えてきたところもいくらかあって、今は「人格としてどうかはわかんないけどいい人だし書いてあることは概ね正しいというか参考になるー」とか思いながら読んでおります。
 しかしさっき、今週の『ナインティナインのオールナイトニッポン』の「矢部浩之のどりちんクラブ」を聴いていて、彼女の本の内容を思い浮かべていたら、過去の記憶が混ぜっ返されてきて泣いてしまってですね……悲しくなって寝ました。それでちょっとして起きて今は真夜中です。

 黒川さんは主に男女の脳の違いをテーマに文章を書くのですが、なんとも潔い方で、たとえば「男性の脳には『察する』という機能がないんだから諦めましょう」みたいなことをすぱっとさらりと優しく言うんですね。僕みたいなそういう能力のきわめて乏しい男性にしてみたら非常に救いのある言葉なんですが、「救ってくれるのが遅いよ!」なんて世間に恨み言を言いたくなってきます。もちろん黒川さんに罪はないどころか、むしろありがたい救世主さまなんですけど。

「し…仕方ないだろ 知らないんだから!!」

 これは武富健治先生の『掃除当番』という短編漫画(超名作!)に出てくるせりふ。掃除の時間、主人公の女の子が同級生の男子にホウキの使い方について注意したら、男子生徒から逆ギレ気味にこう返されるのです。その男子生徒はいわゆる「友達のいない塾通いのガリ勉」で、掃除なんかサボりっぱなしで一度もまともにやったことのないような子。たぶん家でも甘やかされてるのでしょう。(両親は「勉強に関してやたらキビしい」らしいので、おそらく勉強に関して以外はあんまり厳しくないんじゃないかな……。)
 これを言われて主人公の女の子は大変ショックを受けるのですが、このショックというのが複雑です。「なんで!? なんでそんな言い方が出来ちゃうの!?」と彼女は心の中でつぶやきます。しかしこの男子(大野くん)の言った“内容”を否定することはできないのです。「知らない」ということは事実であって、その「知らない」人に対して「言い方」以外には批難する気が彼女にはないのです。「なんで知らないの?」とか「知ろうとしなさいよ!」とか「知らないままでいいと思ってるの?」ではなく、「なんでそんな言い方が出来ちゃうの!?」であるところに、悲しみがあります。彼女は大野くんが「知らない」ことを受け入れているのです。彼女は非常に「いい子」(掃除をサボらない、ということに象徴されますが)で、何だって受け入れるのです。受け入れますが、受け入れることに対して一切報われないことが悲しいのです。
 僕には「知らない」と叫ぶ大野くんの気持ちもわかります。僕もいろんなことを「知らない」です。それで注意されることがこれまでの人生、とても多かったと思います。大野くんのように「仕方ないだろ!」と逆ギレすることは、たぶんそんなになかったとは思うのですが、「知らないんだよな……」「知らなかったんだよ……」と途方に暮れることはしょっちゅうです。
 これは男女の関係の中によく現れます。男性の「知らない」ことに女性が注意する、というのは。そういうとき、注意される男性に対して黒川さんは「傷ついたり反省したりしないのが正解」と言います。しかし僕らはそんなことさえ「知らない」わけです。だから傷ついたり反省したりして、心を削っています。で、女性はそんな僕らの姿を見て、また苛立ったり、傷ついたり、反省したりするというわけです。負の連鎖です。
 黒川さんはそういう、「男性の知らない女性の考え方と対処法」を的確に教えてくれます。非常にためになります。「こうすれば怒られなかったのよ」という声が聞こえてきて、苦しくなります。その中には、いくらか知っていたこともあったし、心当たりのあることのほうが多い。でも、いくら「知っていた」からといって、きちんと「やれ」と言われなければ実践はできないのが男性だったりします。だから「あ、やっぱりそうしたほうがよかったのか……」という落ち込み方もします。正直に言って、「こういうことをちゃんと知っていて、やれ、と言われていれば、ああいう悲劇は防げたんじゃないか」と思ってしまうわけです。しかし、男性に「こうしろ」と事前にハッキリ(男性にわかる形で)言う機能は女性にはあまりないようです。だから男性は知らないままです。一般的な男性が三十年生きても四十年生きても、大概はわからないようなことが黒川さんの本には書いてあります。これまでの三十年近い人生経験を総動員して、照らし合わせてみますと、黒川さんの言うことは概ね正しいだろうと感じます。
 そういう「正しい」みたいなことが世の中には言語化しうる形で存在していて、僕は三十年近くもそれを知らないでいて、ああいう酷いことがたくさん起こって、ということを思い出して、僕の目からは自然と涙がこぼれ、吐き気がして、もう寝るしか無いような気分になってしまいました。自己嫌悪と、あとはなにかよくわからない感情です。
 僕は「知らない」と叫ぶ大野くんでしかなく、僕の周りにいた女性はそれを優しく受け入れて時に傷ついたりする優しい康子(『掃除当番』の主人公)だったわけで、僕はこの作品を読んで七年経ってようやくそのことがわかりました。そしてなぜ僕の心にこの作品がそんなにも刺さっていたのかも理解しました。武富先生はやはりすごい。
 もっと僕はいろんな人にやさしくできた可能性があった。そうしたら世の中の悲しみの総量がちょっとは減った。それを思うと辛くなります。もちろん、これから僕は僕の最も身近な人に対してその優しさのすべて(ここで「ほとんど」と書かないところで僕は成長しました……?)を注ぎ込むつもりです。でも、それとはまったく違う領域で、悲しくて仕方ありません。「知らない」ということの悲劇。そして「知らない」を「知らない」のまま温存してしまう世の中のつくられ方。そしてそれは、ひょっとしたらそうでしかありえないような自然の摂理なのかもしれない、ということ……。
 しかし、そこが出発点であって、揺るぎない前提であって、ここからすべてを作っていかなければならない。それに遅すぎるということはない。わかってはいるのだが、つらい。二十代で気づけたことがラッキー、と思うしかない。
 あとは僕の身近な人がこの周辺のさまざまなことをわかってくれて、「まあ、そういうことだから、仕方ないんで、少しずつやっていきましょうね」って温度で、一緒にやってくれることを期待するしかないです。僕もある程度のことを知ったからといって、実践するには限界があります。「知ってるくせになんでやらないの!」と言われることもあるかもしれません。そりゃ、だって、あんた、ねえ。そのあたりのところが大変不安ではあります。男はそういうもんなんで! って、言い訳したらまた怒られる。黒川さんの本を百編読んで、お互い出直しましょうねえ。

2014/08/20 水 ドラえもん・断片論

『STAND BY ME ドラえもん』(以下バミドラ)見た。
 感想については、この人が大まかには僕の考えに近いことを書いているので見てください。この人は『アナと雪の女王』についても僕とかなり意見が近かったので、よかったらそれも。ちなみにアナ関連の記事はほかに三つくらいあります。

 先日おざ研で、蝉海さんという方がビックリマンシールの話をされていたのですが、ドラえもんってかなり、ビックリマンシールみたいなところがあると思うんですよね。
 ビックリマンシールっていうのは、お菓子買うとシールがついてて、シールはオモテ面にキャラクターの絵、ウラ面に設定とかストーリーみたいなものが書いてある。子どもたちはシールをたくさん集めれば集めるほど、ビックリマンの世界を知っていくことができる。そこには「一つの確固たる世界観」や、「ひと筋の流れるようなストーリー」は存在しない。子どもたちは、「自分の手に入れた断片=シール」の集積から、全体を構築する。自分なりの「ビックリマン」世界を作っていく。蝉海さんは『カゲロウプロジェクト』を説明するためにこの例を用いたわけですが、僕はこれに『ドラえもん』を感じます。映画を観た後、すぐに思い出されました。
 ビックリマンシールは爆発的な人気を得て、後にテレビアニメとかいろんな媒体に乗り移って、「確固たる一つの世界観」や「ひと筋の流れるようなストーリー」を獲得しようとします。しかし、アニメはアニメであって、シールとはまた別のものです。シール特有の魅力には敵わない、というか、完全に別物だったはずです。僕もアニメを観たことがありますが、それは当たり前ですがふつうのアニメでした。
『カゲロウプロジェクト』も小説やアニメになっていますが、やはり「楽曲の集積としてのカゲプロ」の魅力とはまた違ったものになっているようです。というか、小説やアニメなどのメディアミックスによって、「楽曲の集積としてのカゲプロ」が、「さまざまなメディアで展開されたものの集積としてのカゲプロ」になった、というような印象を僕は受けます。ビックリマンもそうだったでしょう。「シールの集積としてのビックリマン」が、「さまざまなメディアで展開されたものの集積としてのビックリマン」になった、と。

 おなじみ『ドラえもん』というのは短編漫画です。1969年末から学年誌(今となってはほぼ死語ですが、それぞれの学年を対象とした雑誌が一冊ずつ、小学館から毎月出ていたのです)を中心に連載され、幼児向けの作品から高学年向けの作品まで、さまざまな種類のお話(断片)が同時に描かれています。断片どうしには矛盾や整合性のあわない部分はたくさんあって、でも読者はそんなことは気にしません。断片は断片として楽しんでいます。
「てんとう虫コミックス」として単行本にまとめられると、「一つの確固たる世界観」にかなり近いものができてきます。可能な限り矛盾がないように整えられたのがてんとう虫コミックスです。テレビアニメ(ここではテレ朝版を想像しましょう)になると、「整合性」はさらに気にされるようになったかと思います。ただそれでも「週に二本(二つの断片)が一話完結で放送される」ということで、同じような題材の違う話が何度もくり返されたりと、やはりシールのように断片的なものです。あれを全話観ないと気が済まない、という人は、大人たちから「ドラえもんはかせ」と呼ばれるような人たちだけです。
「てんコミ」にしても、全巻持っている人は少ないと思います。昔もそれほど多くはなかったのではないでしょうか。どこから読んでも構わない、というのが『ドラえもん』です。読者もあまり気にしません。「14巻と23巻だけ持ってた」なんてのはザラです。『ドラえもん』は断片の集積ですから。コンプリートをめざすというのは、ビックリマンシールを全部集めようとするくらいの特別な熱意なのです。
 シールを集めるように、断片として味わって、それぞれにとっての「ドラえもん」像ができていくわけです。だからこそ、ドラえもんはそれぞれに一人ずついる、なんてことがいえるのです。断片的なコンテンツだから、「これだ」というドラえもん像はありません。だからドラえもん好きを自称する人たちの間では、解釈の違いが横行します。

 そこで今回の『バミドラ』ですが、これは断片を無理矢理ひとつに繋げたものですから、やっぱりドラえもん好きを自称する人たちからは、いろんな意見が出るのです。それは「七つのストーリーを一つに!」なんていう単純な話ではなく、「何千、何万、もしくはそれ以上作られてきたさまざまな『ドラえもん』の断片」を、一つに繋げるような所業なのです。……ちょっと言いすぎかなあ。でも、それぞれにドラえもん像がある中で、「すでに断片としてはほとんどドラえもんを味わわなくなった人たち」をメインターゲットにする(僕はそう思う)ということは、自然にそうなっていくのです。おそらく、そういう大人たちにとって『バミドラ』は、断片としては受け取ってもらえず、「総合」とか「結論」といった形に響くでしょう。子供にとってはどうか? わかりません。でもたぶん断片の一つでしかないでしょう。
『バミドラ』は、本来断片でしかないはずの『ドラえもん』に、「一つの確固たる世界観」「ひと筋の流れるようなストーリー」を付与した作品です。それも、原作やアニメ、映画などでさんざんくり返されてきた、「有名な断片」とでも言うべきものを中心にして組み合わせているので、大人たちにとっては「総合」「結論」という感覚があると思います。
 僕は、そのこと自体が既に無茶だと思います。それでは『ドラえもん』にはならない。断片の一つとして受け入れてもらうのは、柔軟で前途ある子供にとってならともかく、大人達にはもう難しいでしょう。彼らには断片を味わう余裕などなく、結論がほしいのです。だからこの映画はヒットしているんだと思います。大人たちが味わってきた断片に「結論」を、「答え」をくれる作品だからです。現代の「答え合わせ社会」(僕の造語です! パクらないでね^^)には受けるのです。大人はすっきりすると思います。ドラ泣きして、涙を流して、心の断片を全て「ひと筋の流れるようなストーリー」で洗い流してしまうでしょう。「やっぱりドラえもんはすばらしいものなのだなあ」完。
 もちろん、この映画を観てふたたび「断片」を求める人も多いと思いますし、僕はそれを望みます。洗い流すのはあくまでも一時的なことかもしれません。これを機会にあらためて自分の集めてきた断片を眺めて「ああ、そうそう。こうだったよね」ってなるようならば、いいなあって思います。
 僕はまだまだ『ドラえもん』を断片として味わい続けたい子供ですから、『バミドラ』は「ああ、結論だな、これは……」と思いながら観ていました。その途中で、自分の中の断片を引っ張り出してきて泣けてきたことは確かです。これもドラ泣きだというならばそうなのでしょう。そういうことも見越して作られているはずなので、そういう意味でもまあ成功なんじゃないでしょうか。
 ただ、まあ、子供たちにとってみれば、「よくわからない断片」を突き付けられたような気分なんじゃないかな、とも思います。小学生以下の子どもたちが30~40人くらいは入っていましたが、みんな終始無言でした。終わった後も本編に関する話題は聞こえる限りゼロ。ほかの映画館ではどうだったんでしょう。「STAND BY ME ドラえもん “子供の感想”」みたいな感じで、あれこれとワードや表記を変えながら小一時間ググってみましたが、本当に子供の感想や反応についての情報はネット上なんかにないですね。子連れで観に行った親も、自分の感想しか書いていません。これはある意味、『ドラえもん』の力ですね。子連れで行った親が、子供を差し置いて自分の感想ばっかり考えてしまうっていうのは……ある意味すごいような気がします。それともそういうもんなんでしょうか? そういうもんな気もします。子供の感想・反応についてわかる方、おしえてください><
 子供は柔軟なものだから、これを観たからドラえもん観がどう変わる、ということもたぶんなくって、「断片の一つ」として心のどこかに仕舞っておくんでしょう。彼らにとっては、てんとう虫コミックスに入っている短編一本と、映画一本は、おおむね等価であって、等価だからこそ好き嫌いもハッキリとつけてしまう、のでは、ないかなと、僕は勝手に、思っています。ただし、ソフト化されたあとに大人たちが洗脳のようにこの映画の映像を流し続けた場合はまた少し事情が違います。僕らの世代も、自宅で、遠足のバスの中で、あるいは授業の余った学期末に、ドラえもんのビデオを見せられたりしませんでしたか? それでけっこう、それなりに楽しんでしまった事情があります。アラサーらへんの人たちがドラえもんについて特別な思い入れがあるのは、けっこうこういう体験に根ざしていると僕は思いますので、『バミドラ』も、これからの扱われ方によっては、「今の子どもたちにとって特に重要な作品(断片)」になっていくのかな、とは思います。その善し悪しは知りません。それでも短編一本と「質的には」等価であるという事実は変わらないと思うので、原作至上主義に近い僕でも、とりたてて気になりすぎることはないのです……。


 長々と書きましたがまとめます。

・ドラえもんはそもそも断片の集積である。
・『バミドラ』はそれを「ひと筋の流れ」にまとめた。
・大人はそれを観て、「結論」を得たような気分になって喜び、泣く。
・「結論」で満足して終わりにする大人も多いだろうが、顧みる人もいるかもしれない。
・子供は結論なんかどうでもいいから、断片の一つとして受容するだろう(推測)。
・その断片が子供にとってどういうものになるのかは、知らない……。


 最後に僕個人の感想を言いますと、「面白くなかった」です。ドラえもんとしてどうなのか、っていうのは上記のほかはどうでもいいです。細かいところはいろいろありますが、小学校なんだから「生徒会」ではなくて「児童会」と書いたほうが実情に即していると思うんだけどどうなんだろうということと、お金をあそこまで写実的に描写するのは何か意図があるのだろうかということがいちばん気になりました。
 キャラクターの演技が下手(個人の感想です)なのが致命的に僕に響かなかった理由です。声ではなく……いや、声だけではなく、主に動きです。『アナと雪の女王』の演技は実にすばらしく、「もう女優とか俳優とかいらないのでは?」と思ったほど。(アナ雪の演技は女優や俳優の演技をトレースしているのかもしれませんが……。)『ドラえもん』の演技は、まあ、やっぱり難しいんだろうし、観る側(僕)もどういうふうに観ていいかわかんなかったのかもしれません。でも心に響く感じではなかったです。これは本当に、個人的に。演劇でいえば「演出家が悪い」「役者が悪い」という感想。音楽はよかったです。エンディングテーマはよくわかりませんでした。エンドロールのNG集は、あまりよくない気がしました。
 関智一さんのスネ夫はやっぱいいっすね。声がどうとかじゃなくって単純に演技力だって気がする。

 結局なんなのか、っていったら、やっぱり「大人たちに、ドラえもんに関する結論を与える」って感じなのかな。そんなこと、僕はしなくてよかったと思うし、二度と同じことはできないですよ。やるのかもしれないけど。そして、できちゃうのかもしんないけど。(どっちだ)
 でもでもでもですね、「ドラえもん永遠化計画」のためには、必要な事業だったのかもしれないです。ドラえもんが消えてなくなってしまうよりは、こうやって時々、てこ入れをするのも必要なんでしょうね。それはそれで、やりたいようにやってくれたらいいですよ。僕としても、ドラえもんの知名度と好感度が維持されると嬉しいです。てんコミが絶版になったら寂しい世界になるなって思いますから。手軽に手に取れることが何より大事。誰にとっても。

2014/08/15 金 納得の事 それを許さないのはどちらの罪?

 男と女は違う
 ……その言葉の意味がようやく僕にもわかりかけてきた気がする。

 男は女に、女は男に対して、「納得」をしようとする。
 たとえば、男は女の行動に対して、「なんて無意味なんだ」とか思うし、女は男の行動に対して、「なんて誠意がないんだろう」とか思う。
 この場合、男は女の行動に対して、「意味がある」ということを求めるし、女は男の行動に対して、「誠意がある」ということを求めるわけだ。
 男は、「うん、この行動には意味がある。なっとく」という納得をしたいし、女は「うん、この行動には誠意がある。なっとく」という納得をしたい。
 納得というのは、腑に落ちるということで、「自分の価値観の中にスポっと入れる」ということだし、「自分の欲求が満たされる」ということでもある。「ああ、この行動には意味がある! 気持ちいい!」「ああ、この行動には誠意がある! 気持ちいい!」
 しかしその「意味」だとか「誠意」だとかいうものは、その当人の「意」が勝手に定めたものであって、男の言う「無意味」が女にとって「有意義」だったり、女の言う「不誠実」が男にとって「誠意」だったりするのである。
 そういうことで男女はすれ違って行くのだから、「納得」などというものは、そもそも求めないほうがいいのではないだろうか……。異性と同じで、納得は追うと逃げる。納得というのは、「あ、なっとく」という唐突で思いがけない形でのみ訪れるべきものであって、「納得したい! 納得させろ! 納得できないと納得できない!」なんていう追いかけ方をするのは、あまりよくないんじゃないか……?
 納得を追っても、手に入らない。一時的には納得したと思っても、また「さらなる納得」をしたくなって、追ってしまう。きりがない。
 かといって、納得なんかしないぞ! とか、しなくていいんだ! っていう頑なさも、不自然であろうので、やはりここは、「納得はそりゃしたいけど、できてもできなくてもべつにどっちでもいいよ、いつかなんらかの形でなんか納得できたらまあ、それにこしたことはないよね」くらいの温度で、まあ、いいかな、って思ったりいたします。
「うーん。どうも納得できないなー。納得できないけどまあ、それはそれで」なんていうのは、昔の僕だったら単純に嫌ってたかもしれない。今は複雑に好きだ。うん。昔は「単純に嫌い」で、今は「複雑に好き」。単純に好きになったわけではないし、複雑に嫌いになったわけでもない。
「正しさ! 突き進む! 美しさ! 関係! 結晶! 愛! 祈り! 光!」みたいなふうに僕はかつて思っていたのかもしれないけど、それらすべてのごちゃごちゃを一本化した、「優しさ」とかなんかまあそういう、適当な言葉を便宜的につけましょうか、そういうふうな感じに、今はなりつつあるような気がする……というか、少なくともそっちのほうがいいなと心で思うようになってきたというのかな。
「納得できない」っていう状況は、べつに良くもなければ、悪くもないんじゃないかな。大事なことはそんなんじゃない、っていうか。「話し合って、納得すべきだ! どこかに二人の落としどころを見つけよう!」なんていう熱血関係主義者もいるだろう(昔の僕はそっち寄りだったのかもしれないが、あまり実践的ではなかったような)が、「落としどころ」など、ないのだ。おそらくない。落ちないことが落としどころであったりもするだろう。ぷかぷか浮いて、納得なんてな風に吹かれてフラリフラリ。そういうことであって、よさそうな気がする。
 なあなあでやってこうってことではなく、だましだまし、おっかなびっくりってことでもなく、「ああ、そう」っていうぐらいのことを思いながら、「ふーん、それじゃ」っていう形で、やがてどこかに落ち着いていくような……それはせいぜい公園のベンチくらいの腰の据え方なんだろう。いつか立ち上がりまたどこかへ移る。それを永遠にくり返していく。喫茶店でなんか飲みながら、「あの公園はよかったね」だとか語らいながら……。
 なんか数年前からうっすらと予見していたような考え方に緩やかに変わっているような気がする。古い記事を漁ると、なんか最近の話や書き方の片鱗みたいなのがどっかにあると思う。こんど探してみます。

Entertainmentとは

 ところで……さっき読んでた本に「失敗談を語ろう! 自慢話はよくないぞ!」みたいなことが書いてあった。まあ、人の成功話をよく思わない人ってのは、いるよね。というかそれが「ふつう」でしょう。その本によると、特に女性は他人の失敗談を好むそうで。男性は成功談を聞いて、「よーしおれも!」ってなる人も多いんだろうけど、女性はそうでもないんだと。嫉妬のほうが先だとか。どっちも「うらやましい」ということでは一緒だと思うんだけど、なんだかなんかが違ったりするのかも。
 というわけで、ちょっと前に書いたラーメン屋の話は、あんまり心地よいものではないのかもしれないですね。オチにもっと、失敗談というか、ちゃん、ちゃん、みたいなのをつけくわえればよかったのかな。そういう小細工みたいなの、好きじゃない。まったく好きじゃない。でも、そういうことを考えたほうがいい時期ってのも、あるのかもしれないし、それは一生続くべき時期なのかもしれない、とも最近は思う……。
 なんかぼく、かっこよさそうなこと、正しそうなこと、いっぱい書きますけど、べつに自分を大きく見せようという気持ちでいるわけじゃないんですよ。まーそりゃ大きく見えりゃ気持ちいいのは当たり前だけど、それとは全然別のところで、「あるもの」はあるんです。それはたぶん他人にはわかりません。事情だの歴史だのと、二日くらい前に僕が書いたやつです。そういうのが、ある、とだけ、言わせてください。
 あえてここで、「失敗しちゃったよ、アチャー>< テヘヘ」をやりたくない、っていう、ことです。それが傲慢で自己満足だと言われたら(まあそういうことを言われることはあります)、そりゃそうなんでしょう。公開するからには楽しませろ、とか。このHP、とくに、Entertainmentなんて単語、抱えてるんだし。なんか矛盾? でも、矛盾ではないってとこから考えをほぐしていったら、今度は「Entertain」ってなんじゃらほい? ってなってきますよ。
 entertainって単語の語源は、enter(間)+tain(保つ)ってこと、らしいんですよ。すなわち、僕がいつも言ってる、「関係」とかいうやつじゃないですか? だから「Entertainment Zone」は「娯楽場」「楽しませるゾネ(僕のあだ名です)」ってのと同時に、「関係の場」っていうことでも、ありそうじゃないですか!
「entertain 語源」と調べて、最初に出てきたページには、ずばりこうありました。

  entertain
  →enter「間」+tain「保つ」「含む」
  →人と人との間をとりもつ
  →【動】もてなす、楽しませる

 なーんか、ね、そういうことなんですね。楽しませるってのは、もてなすってのは、ずばり、「間をとりもつ」「関係を築く(築かせる)」ってことだったり、するのかもしれないです。まあ、それと、このサイトの在り方とが、どう関わるかというと、うーん、やーっぱりどっか、なんかあれ? わかんないけど。
 でもやっぱこのサイトは、どっかで「Enter」を「tain」する場所でありたいと思うんです。Enterってのは入口でもありますね。決定キーでもあります。何かと何かの間、それが入口であり、決定であり……。それをなんというか、どっかでtainしてたいんです。
 僕、そのための方便として「アチャー>< テヘヘ」をやる体力は、もう、大学一年生くらいでなくなったんです……。なんか、だめだなってなって。それでいろいろ試行錯誤して、いろいろ変わって、止まったりもして、今も不安定で、今に至ってます。
 いったいEntertainmentとは、なんなのだ???
 そう想い続けています。そしてもしかしたら今後、失敗談や道化っぽい書き方が、増えていくかもわかりません。それは誰にもわからないんですが、とりあえずやってみることが、僕の散歩の意味だというだけ……。
 これはもう僕の歴史がそう動かすのです。

2014/08/13 水 「いる」「いない」の重たさ

 岩沢厚治さんという方がつくった『ガソリンスタンド』という曲に、こんなフレーズがあります。(なんか歌詞から引っぱってくるの多いなあ……。そんだけ僕の中で、いろんな歌が溶けて栄養になっているということでしょう……。)

  逢えなくなってもう二回目の冬が来て
  逢えなくなってからは何しろやりきれなくて
  だけども僕はいつも 君がここにいるから
  なんとかこうしてやってゆける気がしてんだ

 この歌はどうやら恋愛の、別れの歌っぽくはあるんですが、死んじゃった親友の歌だと言われたらそんな気もするし、正確にはよくわからない歌ではあります。こういうのが詩情であって文学的な広がりであって普遍性だなと思いますが、それはそれとして。

 たとえば僕のような上京人が「今は同じ東京に住んでいる地元の友達」について思うとき、ふとこの曲が脳裏をかすめたりするのですよ。
 別に「逢えなくなっ」たわけじゃない。ただ、取り立てて何かない限り、ほとんど会わない。仲が悪いわけではない。むしろとても良い。同じ東京、それも同じ区、同じ沿線、あるいは職場への通り道に住んでいたりしながらも、何年という単位で会わないことがある。会ったと思ったらそれは盆や正月にふるさとで、という感じ。こういうことはけっこうある。
 僕は彼らが、……ここでたとえば久しく近所に住んでいる高校の同級生のことを考えることにしよう。僕は彼が、近くに住んでいることを忘れたときがない。彼は僕が中野や新宿に自転車で行くときに必ず通る道沿いに住んでいて、通るたびに彼のことを思った。その近くに用があるときなんかには、こっそり彼の家の前に自転車をとめていたくらいだ(ゴメン)。会おうと思えば本当にいつでも会えた。そして引っ越しをした今、彼の家はさらに近づいた。ほんの1キロ、2キロという距離だ。今のところは会っていない。これだけ近づけば、さすがに飯くらい食いたいね。
 でも、会うとか、会わないとかは、あんまり関係がないんだなと今日、練馬区役所で転出届を出した帰り道、何百回と走った例の道を行き、彼の家の近くを通り過ぎた時に思った。
 おかしな話だけど、こんなことを言っているうちに彼が死んでしまったら笑うことさえできないんだけど、大切なのは「そこにいること」というか、僕が「あいつはそこにいる」と思うこと、なんじゃなかろうか。
 そいつの家を通り過ぎるたびに僕が思う、「家にいるかなー」「何してるかなー」「飯でも誘うか?」「もう食べたかな」「まあ、今日はやめておこう」という、何百回もくり返した心中問答、これだけでなんか僕らにはもう、会ってご飯を食べたのと似たような意味があるんじゃないかと、思っているのだ。
 ま、きれいな言い方っちゃ、そうだけどね。
 僕は長らく木曜日の夜に、「木曜喫茶」なる集まりをやっている。彼もそれを知っていて、来てくれたこともある。「今日は木曜日かー。ジャッキーがなんかやってんだよな」「ま、今度またいこう」なんて思ってくれてたなら、なんか相思相愛だなって思って、嬉しくなるよ。
 木曜喫茶ってのやってて、来る人はだいたい一晩に5~10人ちょっと、どんなに多くても20人はいかない、って感じ。でも来たことある人とか、「行きたいな」って思ってる、潜在的なお客さんってのは、100人とか、200人とか? いるかもしれない。その人たちが、木曜のくるたびに、「今日は木曜日だ……」って、ちらりとでも思ってくれてるなら、それは本当にすごいことだなあ、と。
「あ、木曜だ」って思ってもらえるってことは、ある意味でその人の時間を一瞬、もらっちゃったってことだし、大きくいえば一週間のうちの一日を、「そういう日」にしちゃってるってことだから、実にすごい、ありがたいことだと思うんです。
 それは僕が「あいつ何してるかなー」って思いながら、家の前を通り過ぎる(なんか15の夜みたいだな)のと似てる。
 心のどこかで、僕とか木曜のことを思ってくれてる人は、たぶんめちゃくちゃたくさんいる。「ゴールデン街で一回だけ行った店のマスター」っていうふうに、永遠に覚えていて、その時にした何気ない会話の中から、何か重要な判断のヒントを見つけてくれているのかもしれない。そんなふうに思えば、なんつうか救われるものがありますよ。
「だけども僕はいつも 君がここにいるから なんとかこうしてやっていける気がしてんだ」……そういうような、心の支えみたいなもの、は、誰にとっても、とてもたくさんある。僕にとって地元の友達が何人も何人も、東京にいてくれるっていうのは大きな支えだし、愛知県にいてくれる、っていうのも同じように大きい。もっと言ったら、実家があるのは、本当に助かる。お父さんもお母さんも、まだいてくれる。兄が都内にいるのも心強い。
「いる」ということは、ただそれだけで巨大なものだ。同時に、「いない」っていうのも、大きい。僕にとって西原やオイがもうこの世に「いない」っていうことは、とてつもなく巨大なことで、さっき例に出した友達がその場所に「いる」っていうことと、だいたい同じ重さを持ってる。
 なんというか人生の意味とか味とかを考えるときに、「いる」とか「いない」とかっていう重たさを持った人間が、自分にとってどのくらいいるのか、また、そういうふうに自分を思ってくれる人が、どのくらいいるのか、というのは、一つある。この「どのくらい」っていうのは、もちろん人数だけの話じゃなくて。重さの合計っていうのとも違って。なんていったらいいのか、「どういうふうに」と言ったほうがいいような、そんな感じで。自分には、そういう存在が、どういうふうに、いるのか。……。
 とかなんとか、考えてたら、友達に子供が生まれました。おめでとう。出逢って14年経ちましたが、このまま末永く、末永くしていきましょう。

(この話は以前書いた、「会わなかった時間」ってのに似てる。覚えてくれている人がもしいたら、ありがとう~。)

2014/08/12 火 近況など

 またしばらく空いてしまいましたが、これも理由がありまして……。引っ越したんですけど、インターネットが繋がってないのです。これは僕のせいではなくって、不動産屋=管理会社がなんか色々とずさんでして、電話回線を移設しようと思ったら、前の居住者さんがまだ解約手続きをしていなかったので、できないのです。すなわち電話回線を前提として契約しているADSLも移設できないのです。いま管理会社から解約の知らせを待っているところなのですが、一月くらいネット開通が遅れることになるので、そのぶんの電話料金とネット料金、負担してほしいでございます。戦うぞー。戦うことも必要なのさデューデュデュデュデュー(POISON)。
 口づけでそそぐ切なさは……のほうは今の子、知らないから寂しいです。

 ネットがつながらなくてもiPhoneはあるので、なんとかなるといえばなるのです。パソコンで書いたものをUSB経由でiPhoneに送ってiPhoneからFTPアプリで更新したり、iPhoneにBluetoothキーボードつないでATOK Padで書いたり。前の記事もそうやって書いたものなんですが、なにせ面倒くさいものですから……。
 やっぱりキーボードで、メモ帳(僕が使ってるのはSakuraエディタですが)で書かないと、なんか気分が出ないのです。しかしそれをiPhoneに送って更新、という手間は、ものすっごい精神的な障壁になって、なかなかできないんですね。しかし、今日僕は発見したのです。テザリングを契約して、インターネット共有をオンにしたiPhone5をUSBで「信頼」したパソコンに接続すると、そのパソコンは勝手にインターネット接続されるのです!! さっき知りました。これで毎日(のように)日記を書くことが(理論上)可能です。ヤッター!

 さっきからいろいろと専門用語(?)を書いてきましたが、やっぱり男子だからなのかなんなのか、パソコンとか好きなんですよね。今となっては珍しくもないのですが、僕は小学校低学年の時からパソコンに親しんでおりまして、小3の時にはRPGツクールDante98でゲームを作っていたのです。それは当時けっこうそれなりにすごいことでありまして、友達がわざわざ僕の作ったRPGをやりに家まで来たりしてたんですよ。それはまあ、添え木さん(このHPの副管理人)なんですけど。
 あるていど当たり前かもしれませんがWindowsが95になるまではMS-DOSっ子で、PC98を使っていました。インターネットについてはパソコン通信が少なくとも91~2年くらいまでにはありましたが僕はやっていません(兄がやってました)。楽しそうだなーと思ったのは覚えています。本格的に「インターネット」をするようになったのは中学生になってから。99年くらいまではいろんなサイトをちょこちょこ見るくらいでしたが2000年からは病的にはまって今に至ります。
 ちなみに中学の頃……つまり97年から99年くらいをさすわけですが、この頃はパソコンではなくワープロを自室に引き込んでいろいろ打ったりしてましたね。あるいは一太郎の入った古いノートパソコンを使っていろいろ書いていたと思います。当然ネットに繋がっていたのはリビングのデスクトップだけだったので、どうやって印刷したり、データを動かしたりしていたのかはけっこう謎です。フロッピーを使っていたのかな……。
 まあそんなことはどうでもいいことでしょうがいろんな歴史があって僕はパソコンとかワープロが好きです。

 人の歴史ってのは事情のようなもので、複雑かつ重層的で他人の目にはまず見えないものです。人は、人の歴史や目に見えない事情を尊重してなんかくれませんので、尊重されなかった人は傷ついたり落ち込んだり不快になったり怒ったりしますね。それは仕方がないのです。
 こちらができることは「何らかの歴史がその人にはある」と思ってあげることだけです。どんな歴史があるかは本当に本人にしかわからないことです。歴史というのはもちろん、その人の経験や体験のすべてをさすわけではなく、記述された歴史と同じで、経験や体験の中からその人が特に印象深かったものをピックアップして恣意的に配置させてさらに解釈や脚色を加えたものです。だからどんなにその人のことをよく知っている人でも、家族でも恋人でも、彼や彼女が自らの経験や体験をどのような歴史として織り上げているかはわからないのです。
 どんなものだかはまったくわからないけど、人には歴史があって、その歴史を意識して生きる人はかなりいる。だから「何らかの歴史がその人にはある」と考えて人と接するのはたぶん大切なことです。こちらにとってときおり理不尽なことが起こるのは、いくらかはその歴史なるもののせいだと思います。
 なんか理不尽だったり、よくわからないことがあったら、事情とか歴史とか、そういったものを疑うとだいたいそれでいいと思います。それがどんなものかわからないけど、なんかあるんだろうと……。
 でも大変なことにある種の人は、自分の背負っている事情や歴史をわかってもらいたがります。語ってわかってもらおうとする人もいれば、語らずにわかってもらおうとする人もいます。その人たちは非常にワガママなのですが、その人たちと仲良くしようと思うなら、わかってあげたほうがいいかもしれません。「お前はワガママだ」と言ってあげるのもいいかもしれません。べつに無視してもいいかもしれません。僕にはよくわかりません。(それでよく困ってます。)

 この「事情や歴史」というものは目に見えないがゆえに、いろいろ……問題を引き起こします。あるのにないように思えたり、ないのにあるように思えたりします。本当は事情のせいで切羽詰まっているだけなのに、目の前の相手のせいにしてしまったり、ってのは、あるような気がします。これを「八つ当たり」と言ったりもします。八つ当たりを受けても、その背後には何らかの事情や歴史があって、それに本人は気づいていないのだと思えば、なんとなくちょっと気が楽になるような気がします。それでいいのかはよくわかりませんけど。そもそも八つ当たりってのは良いことではないと思うんですが、まあ、仕方ないというか……。人間なら、あることですよね。八つ当たりをしない人は、ちょっと立派、ってくらいなんでしょう。だからまあ、よいでしょう。いま八つ当たりしない人も、明日には誰かに八つ当たりしているのかもしれないし。それが人間というもんです。ええ。

2014/08/01 金 ラーメン屋でイカを食べた話

 練馬から中野に引っ越した。昨日31日に部屋の明け渡しをして、今日は最後の片付けをした。残った粗大ゴミを資源循環センターまで運ぶ。キャンプ用の大きな椅子と、扇風機と、オーブントースターと、物干し竿。収集なら1200円かかるところが持ち込みなら800円。浮いた400円のうち130円は水分補給のために消えた。炎天下である。ぼたぼたと汗が垂れた。収集の予約はいっぱいで、持ち込みでなければ受け付けてくれなかったのである。
 ゴミを出し、近くの教育センター(今は生涯学習センターの分館になっていた)で休憩し、駅に歩いて、ブックオフで本を2冊買って、三省堂でもまた2冊買って、タリーズコーヒーに逃げ込んだ。初めてアイスコーヒーを頼んだ。それほど暑かったのである。3時間ほど読書をしたつもりだが、4冊のうち1冊を3分の2ほど読んだだけで終わってしまった。
 夕さり涼しくなった頃、ふたたび前の家に行って、壊れた自転車をかついで駅に戻った。袋の中に分解した自転車を入れて、電車に乗る。当然だがラッシュに捕まった。すみませんすみませんと唱えながら丸ノ内線を降りた。
 すっかりお腹が空いている。しかし新居は料理のできる環境にない。これからしばらくお世話になる町だ、どこか良い店を探そうと思い、すべての店をじろじろ見ながら歩いて行った。自転車をベランダへ格納するとすぐに外に出て、べつの自転車に乗って旅に出た。どこか良い食堂を探すため。
 ぐるぐると歩き回る。お好み焼き屋や居酒屋や、良い匂いのするお店はいくつか見つけたが、決定打がない。
 そこで思い出したラーメン屋がある。以前に行ったことがあって美味しかった。歩いて何分かのところ。もちろん店主は僕のことなど覚えていない。ラーメンを注文した。600円。
 数年ぶり二度目のラーメンは美味しかった。大きな肉が載っていた。ほうれん草も入っていて東中野の「楓屋」という店を思い出す。カウンターの奥のほうに見たことのある40歳前後の女の人が座っていた。たぶん前に来たときにもいたのだろう。初めは二人きりだったがやがてもう一人、白髪の老人が入ってきた。
 店主は少し言葉を交わすと、「いま、一所懸命生姜をすっていますから」と言った。何のための生姜だろうと思って耳をそばだてていると、どうやら白髪の老人が、イカをその店に差し入れたらしい。それを刺身にして、生姜で食おうというのだ。ラーメンを食べながら僕の口はすっかりイカになっていた。
 やがてイカの刺身が、サラダ菜のような野菜とともに供された。老人と女性の前に置かれる。僕のところにはやってこない。もちろん僕は僅かなる期待を寄せたのである。「お兄ちゃんもどうだい?」という一言が、存在するところには存在する。しかし、存在しないところには一切ないものである。
 僕は一つにはイカが食べたかった。そしてもう一つには、このイカを口実にしたかった。歩いて何分かの、味の良いラーメン屋である。しかもここは、常連がボトルを置いて何時間も飲み座るような場所なのだ。ここで「関係」を作っておくに若くはない。これから何年でもお世話になるかもしれない、最初が肝心である。
「そのイカは、お兄さんがとってきたんですか?」
 僕は熟考のすえ老人を「お兄さん」と呼んだ。
「とんでもない。本職の奴がとったもんですよ」
「ああ、そうなんですね」
 意味というもののまったく含まれていない返答をしながら僕はとりあえず、「イカに興味がある」という表明を終えた。老人も女性も、積極的にこちらに関わってくる様子は特にないようだったので、次は店主に声をかける。
「このイカは、頼めたりします? 注文外ですか……?」
「注文、外ですねえ」
 外、というのを強調して店主は言う。多少困ったようなニュアンスを含んでいる。どこの馬の骨かもわからない若造に、常連の持ち込んだ新鮮なイカを食わすのは、気の進むことではないだろう。
「残念です……!」
 僕は力いっぱい、残念そうに言った。そして、こう付け加えた。
「あわせてビールでもと思ったんですけど」
 この一言は完璧に重要で、「自分はそれなりの金を払う意志がある」という宣言である。僕としては、「ビールも頼むし、もちろんイカの代金も払います」という意志を込めたつもりだ。「食べさせてもらえますか?」ではなく「注文外ですか?」という表現を使ったのも、金を払う意志を少しでも示すためである。
「……これはねえ、料金がわかんないんですよ。ふつうの居酒屋だったら、600円くらいですかねえ。その値段で納得してもらえるんなら、お出ししますよ。その代わりまずくっても知りませんよ。まあ、これはうまいと思いますけども」
「もちろんです、ぜひぜひ、そんな値段で良いのなら」
「イカは一杯だけど、いい? 一杯ってわかる、一匹ってことね」
「一杯いただいていいんですか。ありがたいです!」
 商談は成立。刺身を生姜とわさびでいただくことになった。
「あとでゲソが焼けたら、そっちもちょっとあげるね」
 新鮮なさばきたてのイカを一杯、それも刺身と焼きゲソで600円、というのは格安。そして、店主の言葉遣いも少しやわらかくなった。「ちょっとあげるね」という「言葉遣い」をいただいたことで、かなり心強くなったものである。
 イカが到着して、いちいち「いただきます」とか「おいしいです!」とか、そういった細々とした言葉を忘れずに使って、少しずつ食べた。ラーメンとビールでお腹がいっぱいだけれども、イカは本当に美味しかった。空腹の状態で食べたかったような気もするが、ゆっくり食べられるのも利点だなと思った。
 老人と女性の砦はなかなかに硬く、それでも積極的にこちらに関わってくる様子はない。僕はできるだけ二人の会話を聞いている素振りを見せながら、少しずつ少しずつ、言葉を挟んでいった。途中、ほかのお客さんが二人来て、一人はジャージャー麺の大盛を、もう一人はチャーハンと「うすめのウーロンハイ」を頼んだ。「うすめにしてくださいね、すっごくうすめに」と付け加えた。その準備をすすめながら店主が「ビールのおかわりは、自由ですからね。もしもうちょっと、飲めるなら」と言った。僕はその言葉の意味を考えた。
 都合の良いようにとらえれば、イカを有料で供した代わりに、ビールのおかわりは無料にしてあげる、という意味にもとれる。今のところ、ラーメン600円にイカ600円のビール500円で1700円。これくらい払えばビール一杯くらいはサービスしてくれるかもしれない、というのが、最大限に図々しく考えた場合の解釈である。しかし、「おかわりは自由」というのは、別の含みももちろん持っている。
 ビールは500円なので、もう一杯頼んだところでまだ2200円。夕飯としては高いが、考えようによっては「どこかが安い」のである。新しく来たお客さんたちのジャージャー麺とチャーハンが作り終えられたところで、「ビールをもう一杯!」と頼んだ。店主は顔を明るくして、「いやあ、すみませんねえ! ありがたいです。うちももうすぐ潰れそうなんで……この店を維持していくために、ねえ」
 冗談だか本気だか、わからないが、ある程度は本音だろうなと思った。
 ジャージャー麺のお客さんが1050円払って帰った。チャーハンとウーロンハイのお客さんに店主は、「少しでも飲めるようになってきてよかったねえ」と言った。「あんまりいっぱい飲まなくていいからさ、少しずつ飲んでよ、少しずつ」
 チャーハンとウーロンハイさんの帰り際、1150円を受け取りながら店主は、「すまないねえ、うちが儲けちゃってるみたいで」と冗談っぽく言った。「いやいや」とチャーロンハイさんは答えた。そしてぼそっとこう付け加える。「今のうちに」
 どういう意味なんだろう、と僕はギョッとした。まるでこの店の閉店が決まっているみたいじゃないか……。チャーロンハイさんは、飲めない酒を無理して飲んでいるのかもしれない。少しでもこの店にお金が入るように。いったい何がどこまで決まっていて、誰がどこまで知っているんだろう。
 二杯目のビールを飲み、ゆっくりとイカを食べながら、僕は少しずつ店主と残った常連二人との会話に入っていこうとした。決して出しゃばらず、本心から自然と湧き上がってくる疑問だけを口に出すようにした。そして会話の展開上、僕は自分の出身地が愛知であることを告げた。なんだかその瞬間から、少し彼らとの距離が近づいたような気がした。そういう瞬間は気持ちがいい。素性を明かせば人は安心するのだと思うが、出身県くらいでもそれはあるのだろう。どこの馬の骨かもわからない若造が、愛知出身の若造に変わるだけで、ずいぶんと違うらしいのだ。それからは少しずつ会話が弾むようになった。老人はあまりこっちのほうを見てくれなかったが、狭山に畑があると言うので、「狭山と言えばお茶ですね」と言った瞬間から、一気に柔らかくなった。彼は狭山でお茶を作っているらしいのだ。「狭山といえばお茶」ということを知っていて、それを告げるというだけで、人間関係は少し円滑になるのである。知識や教養は、このようにいつか潤滑油になる。
 それから、給食に関する世代差、地方差の話など、いろいろな話をして、とりあえず好意的な印象を与えることができたかなと思ったところで、ちょうどビールも飲み終えて、2200円を払って店を出た。
「また暇があったら寄ってください」と店主に言われた。僕は「また来ます」といった類のことを言わないようにしているのだが、向こうから言われたらまた別だ。「もちろん。ぜひ」

 新しい土地に住む、となったら、できるだけその土地に深く根を張ってみたい。しかし町内会などの既存コミュニティに子供もいない余所者が入っていくのはなかなか難しいのだ。余所者が気軽に入っていきやすいのは、「お金」の発生する場所である。その中でも特に身近なのは飲食店だろう。そこにおいて少しでもそういうチャンスがあるなら、勇気を出して「イカは注文外ですか?」というくらいのことは、聞いてみたいと思うのである。そういうことがゆくゆく、どんな人とでもつながっていけるような人格を作っていくのだ、と思う。僕だってこういうことが得意なわけではない。ただ、一所懸命考えて、そうしたほうがいい、そうしたいと思うから、言う。心臓をばくばくさせながら。それが何かを実らせるなら、それほど嬉しいことはない。
 いいお店なので、できるだけ潰したくはないですね。興味があったら、店名を教えますのでおたずねくださいませ。

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