少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2014/07/23 水 叫べポイズン

 反町隆史の『POISON』は本当に名曲なので、一度歌詞を見ながらじっくり聴いてみてください。

 僕は勝手に「尾崎豊の再来」と呼んでます。……この曲だけだったら、その資格が充分にあると信じます。いちおう作詞は反町隆史。顔も似てる(と思う)。

 僕に足りないのはこういうところだよなーと思います。『鈴木先生』の鈴木先生とか、『金八先生』の金八先生とかの要素は、多少あるかもしれないけど、反町=鬼塚の要素は、僕にはないですね!
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」までは僕も言うけど、その後に「ポイズン」って言えないですよ。「俺は俺を騙すことなく生きていく」も、自信を持って言えない。まず「俺」って言えない。実際最近は昔の友達と会った時しか言ってないですね……「俺」。たまにはここでも「俺」って言おうかな。男らしさってのはもう、「俺」から始まるもんだと思いますよ。
 だって僕も小学校低学年くらいまでは「僕」って言ってたのですよ。男兄弟なのにですよ。それをやっぱり人工的にむりやり「俺」に矯正した歴史があるんです。それは「俺って言わないと男じゃないよね」っていう雰囲気を確かに感じたからです。「俺」と言わなければ、「男」としての集団の中に混じれない……そういうのって、あったと思うんです。
 少年は「俺」と言い出すまでは中性的な存在で、「俺」って言い始めてからが男、って感じがあるような。
 で、思春期に少年から大人に変わる頃、「僕」がふたたび導入されたり、「私」を採用したりして、「男」としての牙が抜かれていく……自ら抜いていくわけです。
 ところでいま別窓(古い)で反町GTOの第一話を見てるんですが5分経ったところでもう泣いてます。
「俺」「ポイズン」「ヲッヲー」的な価値観を、僕も……いや俺も纏いたいものです。

 俺は俺を騙すことなく生きていきたいです。いや、行きたいぜ。
 冗談みたいに言っていますけれども、これはけっこう大事なテーマなんだぜ。
 いつの間にか僕は「僕」の中に閉じ込められてたりするわけです。
 一方ある人は、「俺」というフィールドを勝手に作って暴れてたりとか。
 一人称に縛られ、その狭い世界の中でだけ生きていく……。
「あーし」でも「うち」でも「ビビアン」でも。
 自分のことを「ビビアン」と言っているうちは、「ビビアン」でしかないのです。

 俺は俺を騙すことなく生きていく!ヲッヲー
 真っ直ぐ向き合う現実(いま)に誇りを持つために闘うことも必要なのさ。

 とか言ってなんか肉体改造とか始めちゃったらなんか三島由紀夫みたいですね。
 そういうことではなく……いや、そういうことでもいいんですけど。
 なんかこのー、直情的というか。僕にないのは、何かを「言い切る」ことですね。人の心を動かすのは「言い切る」ことです。僕はまあ、「言い切らない」ことによって人に自分で心を動かしてもらう、ということを理想としますが、しかし、時には「言い切る」ことも必要でありましょう。おそらく。「おめぇよぉ」みたいなノリで。
 だって僕には本当に言いたいことがあるのです。あるけれども、人に委ねるために「言い切らない」というのが、本当に健康なのかどうか、というのは、疑問であります。
「言いたいことも言えない」状態を自分で作ってることにはならないか、ということです。
 人は「言いたいこと」を考えるのが苦手です。回避できるのならばそれにこしたことはないと考えています。「言わない」「言い切らない」のは、ひょっとしたら「言いたいこと」を考え、決めることから逃避していることでも、あるかもしれないのです。
 僕……じゃなくて俺は、ですね、自分自身に真っ直ぐ向き合い、誇りを持つために、ちょっとくらい戦ってみたほうがいいような気がしているのですだぜ。
 むろんこれまで積み重ねてきた「僕」を崩すというのではなく……いったん疑ってみようというだけのことです。
 そしてそれは「悩まない」という態度とおそらく同一のことでしょう。

2014/07/22 火 いつでもスーパーサイヤ人(飯食う時と寝る時以外)

「怒らない」「憎まない」「悩まない」という三冠王に輝きつつあります。
 そしてさらなる栄光へ向かって毎日4億メートル走ってます。

「怒らない」については、けっこう早くに会得した気がします。兄が三人いたため、そもそも怒ったところであまり意味はなかったのです。怒っても力で潰されます。幼い頃はかんしゃくを起こすのはよくありましたが、意味がないので、だんだん起こさなくなりました。学校でも次第に落ち着いていったように思います。中学生くらいの頃にはもう、全然怒らなくなっていたように記憶しています。怒っても、力がないので無駄なのです。「無駄なことはしない」という合理性が、僕を動かしていたということでしょう……。(その合理性なるものは、よかったりわるかったりするのですが。)
 ただ、限られた相手に対しては、怒っていた時期もあります。たとえば僕は高校生くらいの時に警察が嫌いでした。突っかかっていったこともあります。ただそれもそのうち、「いっさい意味がない」ことを悟り、警察相手にも平気の平左でヘラヘラできるようになりました。そのほうがいろいろとスムーズに済んで、合理的なのです。何より平和です。
 ほかにも僕が怒っていたものはありました。信号です。信号がへんなところで赤になると「ウキー」ってなってた時期が、あったのです。常にではありませんが、たまになっていました。それと、自動車です。これも常にではないし、ドライバーに対して怒ることはありませんでしたが、「自動車め!」というのはけっこう思っていました。自転車に乗っていて、自動車が無茶な運転をして走路妨害などをしてくると、かんかんでした。しかしそれも、やはり意味がないし、平和でないので、なくなりました。この傾向はしかし、二十歳を過ぎても数年は続いておりました。お恥ずかしい話です。今はずいぶん穏やかです。

「憎まない」を会得したのはわりと最近です。……と言っても、個人への憎しみは、五年か十年くらい前にはなくなっていました。もうちょっと大きめのもの、たとえば世間での「現象」とか「傾向」とかいったものに対する憎しみは、わりと最近までありました。これは「意味がない」とは別に思わないのですが、さりとてトクもありません。いろんなことがあって、少しずつ少しずつ、何も憎くなくなってきています。憎しみは本当に何も産みません。
 ちょっと前にひどく心を病む事件があって僕はその当事者をもっとずっと憎んでもよかったのですが、やめました。意味がないどころか、マイナスです。許すというわけでもありませんが、どうしたって自分にとって悪いことは起こるのだと思えばそれでいいのです。そしてその原因は一つ、または一人に還元できるものでもありません。二つまたは二人に還元できるものでもありません。とにかく僕はもう何かを思い込んだりするのは嫌だなと思いました。みんなも何も思い込まなければいいのにと思います。悪いことの起きる原因がどこかにあるとすればそれは人間の思い込みです。「かもしれない運転」を心がけましょう。
 諦めのようなものです。ほとんど老人のようです。

「悩まない」については、長い間決断できずにいましたが、前回の記事に書いたとおり、それは僕の臆病と怠慢です。「悩まない強さ」を持つこと、その覚悟を持とうと思います。脳天気ゆえに悩まないのではなく、「悩むこともできるけど、あえてそれを選ばない」という態度です。それには強さが必要でしょう……。


 自分でいうのもへんだけど僕はけっこう鉄人(『21エモン』でゴンスケがイモ掘りで宇宙オリンピックに出場した時に新聞に載っていた惹句)です。たとえばものすごく密度の濃い仕事を十時間くらいは集中して続けることができます。でもゴンスケにイモ掘りしかできないように僕にもできる方面は限られていて、できない方面は本当にダメです。それに、疲れるもんは疲れます。ストレスもたまります。ただ、疲労やストレスを貯めておく袋が多少大きめにできているような気はします。それを根性とか気合いによって見て見ぬフリをしながら頑張ることができます。これはだいぶすごいことで、立派だと思います。
 ところが、そのぶんガス抜きがたくさん必要なのです。「みんなそうだよ」って声が聞こえてきそうですが、そうです僕もそうなのです。
(ただその「みんな」に含まれない人だっているんだろうし、得意分野やガス抜きの方法は人によってまちまちです。)

 自分はがんばっていると思っている人は「私はがんばっている」と主張したいし、それを誰かに認めてもらって、よしよししてもらいたいのです。褒めてもらいたいのです。それももうやめにしたいものです。
 認められたら嬉しい、褒められたら嬉しい、それだけでいいのです。求めてはいけないのだ、と改めて思います。
 別に僕はもうがんばりません。「がんばる」とは「常態ではない」ということです。常態でいたほうがいいと思います。かといって手を抜くということもなく、「スーパーサイヤ人のまま日常生活してる」みたいな感じでいられたら、いいなと思います。もちろん飯食う時くらいはやめますが。
「怒り」「憎しみ」「悩み」……いずれも非常のものです。こんなもんの力を借りずとも、スーパーサイヤ人になれたらいいんです。ハイパー化できたらいいんです。悩みのない澄んだ心でも詩は書けるでしょう。それを才能というのです。
「逆境の力を借りるまでもない」とは、島本和彦先生の名作『逆境ナイン』の終盤に出てくるせりふです。それまで「逆境を乗り越える」ということで力をつけてきた主人公が、最後に言い放つのです。本当は逆境などないほうがいい。100点取られて101点取り返すより、1点も取られずに1点取って勝ったほうがいい。ただ、ある時期には成長のために逆境の力を借りることだってある、というだけなのです。
「負」から力を借りることはない。借りないで済むならそのほうがいい。闇から力を引き出したとして、それに呑み込まれてしまってはいけないのだ。バビディに魂を売ったベジータも、誇りだけは捨てなかったように。借金したらちゃんと返すように。

 これは僕が立派だから言うのでもなく、言えるのでもないです。
 血を吐きながら書いています。

 実は転職活動的なことをしておりまして、ネットリテラシーが非常に高いので、その間HPも縮小営業しておりました。ふたたびの活性化を目指します。

2014/07/21 月 悩むのをやめる宣言

 とつぜんですが僕はもうなやみません!

 悩んでも何も意味はありません。

 高校1年生の現社の時間に、ケウケ先生は言いました。
「大人になると、悩んでも仕方がないことがわかってくるから、悩まなくなるんだ」と。
 その時は「そういうものか」と思いました。そして、中学時代に読んだ『ラブ&ポップ』という小説の一節を思い出したものです。ツルン。「そうはなりたくない」という気持ちと、「そうなれたらいいなあ」という気持ちが、たぶん当時は半々で、そのせいもあってよく覚えています。

 歳月は流れ、気がつけば僕は今でも悩んでいます。
「悩んでも仕方ない」ということはもうわかっています。
「意味がない」とは言いませんが、「悩まないなら悩まないで、代替策はある」ということがわかってきました。
 悩まないことにはデメリットもあるのです。しかしそのデメリットは、埋めることができると思います。

 僕は、悩まないことのデメリットが怖くて、そして、悩むことのメリットが惜しくて、悩んでいるのです。


 もう決めました。悩みません。もう悩みません。すぐにそうできるとは思いませんが、悩まないことのデメリットを恐れない勇気と、悩むことのメリットを手放すための度胸を、鍛えていきます。
 とりあえず毎日4億メートル走り、素手で仙人を倒します。

2014/07/16 水 理論は現実に勝てない。

 へんな話をします。

 理論は現実に勝てません。
 どれだけ理論を積み重ねて、「理屈ではこうだ」と言っても、現実がそうでなければ、現実が勝ちます。これは「当たり前のこと」とされていると僕は思います。

 ある理屈からしたら、AVだの、性風俗だのといったものは、ないほうがいいのかもしれません。そういう理論があるとします。そしてそれにのっとって、「AVと性風俗をなくそう」という運動が展開されます。でも、一方で「現実派」の人たちはこう言います。「そんなことをしたら、暴力や強姦や売春などの犯罪が増えるぞ。現実を見ろ」
 で、世の中で強いのは「現実を見ろ」という声のほうです。「現実」という言葉はまるで凶器のように、唱えられた理想を打ち砕きます。
 これまで、抑圧されてきたものの多くは、僕が思うに、この「現実」という魔術的な言葉によって、抑圧されてきたのです。
 この「現実」というのは、「現実派」の人たちが掲げた、「予想」に過ぎません。AVと性風俗をなくして犯罪が増えるかどうかは、わからないのです。何か有効な対策があれば、そうならないかもしれないし、対策をしなくても、自然に良いようになるのかもしれません。みんなが和気あいあいと気軽にあれこれするようになるとか。(それが良いのか? というのはまた別の話ですが。)
 では、理論を掲げて理屈を唱える、理想派の人たちは、どうすればいいのでしょうか。現実を掲げる人たちに、理想を言っても無駄です。意味がありません。
 目には目を、現実には現実を、です。しかも、「現実の予想」を言うのではなく、「現実そのものを変える」ということで対抗するしかないと思います。
 そしてそのことは、あまりにも難しく、だから「革命」という物々しい言葉があるのでしょう。革命は滅多に起きません。
 ただし、急進的でよく目立つものだけを「革命」と呼ぶのであって、もっとゆっくりと、地道に進んだ変化というのは、歴史には取り上げられなくても、あると思います。それは多くの人が偶然同時期に「こうあるべきだ」「こっちのほうがいい」と思った、というわけだと思います。それを時代の流れとか歴史の必然とか言うのかもしれません。

 ある面では絶望的な話ですが、「現実を見ろ」という声に対抗できるのは、「時代の流れ」くらいしかないのかもしれません。そしてその「流れ」を一人の人間、一つの団体で操作しようというのは、まず無理でしょう。
 投票と同じで、一票の意味なんてほんの僅かなのです。
 ではどうする? と考えるのが、本当の意味で「現実を見る」ということなんだよな、と思います。
 こんなところがろくでなし子さんの逮捕劇についての僕の雑感です。

『鈴木先生』に出てくる「普通」という考え方。これは非常に大切なことだ。
 怒ることはもうやめよう。「普通」の人どうしで争うのはむなしい。「ちょこっと『立派』」を目指そうではないですか……。
 僕は心の広い人間ではなく、きわめて「普通」です。しかし、常に「ちょこっと『立派』」を目指しています。僕の言動と行動には矛盾があり、誰かにとって「悪い」かもしれないこともします。その時僕はたぶん「普通」なのです。自分で言うとちょっとやな感じですが、「人間なんだから、仕方ない」の範疇です。殺人や放火をするわけではないのです。そんな「普通」をぼちぼち犯しつつ、できるだけ「立派」の方面へ近づこうというつもりで生きてはいます。もちろん完璧ではないです。ボロだらけです。でもほんの少しだけでも立派であろうと思ってはいます。その成果は今のところそんなに悪いものでもないと思います……。

「人の悪口言うな聞くな それからつまらぬ嫉妬はするな」なんて歌が昔流行ったそうですが、ひとまずここだけを切り取ってみれば本当にその通りと思います。

 たとえば「嫌い」とか「ブス」とか、「デブ」とか「クズ」とか、そういった類の言葉を使うのをできるだけやめましょう……。「うざい」とかも……。僕もけっこう使ってしまうものはありますが……。
 そういえば、「死ね」という言葉を(たぶん)一度だけ、このHPで使ったことがあります。そうしたらすぐ掲示板に「ジャッキーにはそういうことを言ってほしくない」という書き込みがありました。その時の僕はある種の意図があってあえてその言葉を使った気持ちがあったので、あんまり良い返信ができなかったかもしれませんが、今にして思えば、そういうことを言ってもらえることほど幸せなことはないっす。
 金八先生も複数のシリーズで、「死ぬなんて言葉を使うな」という意味の言葉を言っています。言霊なんて言葉がありますが、日本では、よくない言葉をあまり使うと「魔に引っぱられる」(この表現も『鈴木先生』から)のだと思います。言葉に引っぱられて、荒んできます。

 最近誰かが、「誰に対してもブスって言葉を使わないのがいい男の条件」みたいなようなこと言ってて、「そういえば僕は誰に対しても絶対にブスって言わないぞ!」(たとえ話とかで便宜的に言うことはあるかもしれないけど)と思って、ちょっと嬉しくなりました。「デブ」もずいぶん慎重に使います。似た感じで、「むかつく」「イライラする」は喋り言葉であってもできるだけ避けます。「嫌い」は明確に主張があるときに使います。……と言っても、僕は「普通」の人なので、つい使っちゃうこともあるかな? あんまりないと思うけどあるかも。(このように「普通」という概念を言い訳のように使うのはたぶん褒められたことではない。)
 といって、「クソうまいという言葉を使う人とは食事をしない!」とかいったレベルにまで行くかといえば、そこはそれ、ちょこっと「立派」になって、別に気にしない。ブスってよく言う人についても、べつに気にならない。
 ただまあ、言葉ってその時に仲良くしてる人の言葉遣いに引っぱられるところは大いにあるんで、ブスって言いまくる人たちの集団の中では僕もブスって言うのかもしれません。でも、誰かに対してブスとか言うのって、あんまりよくないですよねえ。当たり前だけど。だから言わないほうがいいよ。

 ただ僕は、「冗談だったら何を言っても許される」と思っているところがものすごくあって、これはギャグだと自分で思ったら、とんでもないことも言います。特に、仲の良い男子と二人きりになったりとかすると、めちゃくちゃなことを言っています。それはなんというか、秘め事みたいなもんですね。
 で、「冗談」とか「ギャグ」とかの線引きを誤ると、人を傷つけてしまったりも、するかもしれません。それは「普通」というレベルに僕がいるときです。

 立派な僕は立派なんですが、野々村さんみたくどうしてもウワーってなるときはやっぱり人間だからあって、そんときは人に迷惑もかけるかもしれませんよ。で、そういうときは、怒られたり、泣かれたり、することもあるんですね。
 すごく正直に言えば、許されたいですね。それは「普通」の範疇なんだから、優しく注意するくらいにしてもらいたいのです。それが「立派」ということです。双方共に「普通」だったら、戦争になるのです。どちらかがバランス良く「立派」になるしか、平和への道はないのです。
 ま、それでもやっぱ人間なんだから、時には戦争もあるのでしょう。そんなときでも、どっかのタイミングでまた、どっちかが「立派」になれば、和解できる……と信じますよ。そういう関係がきっと長続きするのです。ええ。

2014/07/15 火 SCTKにKJCのないものはBKD

「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。」
 おなじみの夏目漱石『こころ』に登場する有名なせりふ。
 向上心ばっかあってもうざったいっていう話もあるんで、この言葉はなかなか単純には扱いづらい。
 それでもやっぱり、何もしないでいるよりは、何かをしていたほうがいい気がする。それも一つの向上心だろう。
 藤子・F・不二雄先生の『未来ドロボウ』じゃないけれども、一日をあんまり無駄に過ごすのは勿体ない。頭でわかっていてもなかなかできないことではあるけど。
 将来というものは常にすぐそこにあるものだからねえ。
 なんてことは説教にしかならないから、これも難しいんだけど。


「どれだけ分かったと感じても そこを 離れてはいけない」
 GUNIW TOOLSというバンドの『真鍮卵』という曲の、PVに登場する言葉。
 これ、どういう意味かいまいちわからないんだけど、心にとまる。
「分かった」と感じると、ついそこから離れたくなる。離れてもいいような気がしてしまう。しかし本当にわかるということは、そんなにない。PVではこのあと、「きれい事だけで 片付けるほどの力が 己にあるわけなどない」と続く。自分なんて非力なもんだから、過信しない。
「前を見よ、より先を もっと先を よりすばらしい 方法があるはずだ」
 わかったからもういいや、と離れるのではなく、せっかく「わかった」のだったら、「より先」「もっと先」を眺めるべし、ということ。「すばらしい」と思った、それよりも「よりすばらしい方法」があるはずだから。
 見つめれば見つめるほどわかることは増えていく。
 古典は古びることがない。


「毎日を大切に」なんてのは、まるで標語で、わかりやすい。すぐに「わかった」がやってくる。しかし、「そこを離れてはいけない」。毎日は大切にすべきだ。そこまでわかったなら、「より先」「もっと先」を、じっと見据える……。
 毎日は腐っていく。前を見ない者に新しい毎日は来ない。おなじみの毎日がただそこで腐っていくだけ。


 子を産み、育てていく中で、自分たちだけが腐っていく。子どもたちはそれでどうなっていくのだろうか?
 古典が古びないのは、彼らが前を向いたまま呼吸を続けているからだ。
 両親は子の出逢う最初の古典である、そのほうがいい。

2014/07/14 月C 死後の商売

「ヤフー、死んだらデータ削除サービス開始」という記事を見ました。
 僕は「死んだらそれで終わり」という考えなので、死んだあとに何を見られようが何をされようが知ったこっちゃないです。自分の死後のことで気がかりがあるとすれば、ただ、家族が悲しむのは嫌だな……っていうことくらいです。パソコンの中身を見られることくらいどうってことないです。
「死んだらハードディスクをまっ先に破壊してほしい」とか言う人はけっこう多いし、最近発見された川端康成の書簡(ラブレター)についても、「かわいそう」と言う人、いるんですが、べつに死んだあとのことなんだからいいんじゃないか? って僕は思います。
 僕の宗教観では、「死んだらそれで終わり」なのです。それよりも大きな宗教観が、「家族が悲しむのは嫌だ」である、というだけです。
 ハードディスクやラブレターを、死後、見られたくないと思う人は、そういう宗教観をお持ちだということです。死んだあとも恥が続く、じゃないけど、どっかで死後のことを何かそういうふうに考えてしまうというのは、「宗教観」なんじゃないかな、と。
 で、そういう宗教観につけこんで……というか、宗教観を対象に、商売を始めたのが、ヤフーだというわけです。こういう商売、もっと増えようがあるのかもしれないですね。

2014/07/14 月B 火の粉理論

 ついに(ようやく)こんな記事が出ましたねー。美味しんぼが話題になった頃にもちょろっと出ていましたが、本格的に学会発表されたので記事になったのでしょう。

 郷地所長は、金属粒子が鼻の粘膜に付着したのが引き金となった可能性を指摘する。金属粒子は直径数ミクロンで、人体のごく小さな範囲に1日100ミリシーベルトを超える放射線を出し、組織を損傷する。
 郷地所長は「もともと花粉症やアレルギーなどで粘膜が炎症していた人が出血を起こしても不思議はない」と話す。大量に吸い込んだ人も少なくないとみられ、内部被ばくの問題と捉え、早期に科学的な調査と分析をすべきだったと強調する。

 これとだいたい同じようなことを、事故直後に友達の元ニート2号さんが「火の粉理論」(命名はたぶん僕。詳細は割愛)として訴えていて、「なるほど~」と思っていたもんです。しかしこれまで、僕が見ていた範囲では似たようなことを言っている「ちゃんとした感じの人」があんまりいなかった気がします。やはり火の粉理論は正しかったのでしょうか。どうなんでしょうか。(ところで「距離の二乗に反比例」の限界についてはこのページがそれなりにわかりやすかったです。)
 ここから問題となってくるのは、「かりに鼻の粘膜に1日100ミリシーベルトを超える放射線を受け、鼻血が出るなどしたとして、そのほかに人体への影響はあるのか?」ということです。一時的に鼻血が出やすくなるだけで済むなら特に問題ないと思いますが、それだけでないのなら大変です。
 火の粉理論がかりに正しいとしたら、体内に入り込んできたすべての放射性物質が、体内で「火の粉」として猛威をふるうわけなので、けっこうやばいのでは? と思ったり……。実際よくわかりません。こんだけわかんないってのは、放射線がいかに未知なものであるのかってことですね。自然すごいですね。研究がまたれます。

2014/07/14 月A SK2


2014/07/11 金 愛して14年

 2000年7月11日に開設して今日で14年です。
 毎年この時期になると原点に戻れる気がします。これまでも更新が停滞したり、閉鎖同然になったりしてきましたが、復活する時はだいたい、この日か、自分の誕生日だった気がします。
 しばらくは少し精神的に忙しいのでわからないのですが、もうしばらくこのHPにお付き合いいただけると幸いです。いろいろありますが辞める気はありません。いつかやめたくなった僕が15歳の僕を説得できるまでは。

真鍮卵/GUNIW TOOLS


   昔々、ある国にとても愚かな王様が いました。

   王様は力の無い より愚かな民を救う為になんと

   自分の財を 細切れにして与えてしまったのです。

   人生哲学の無い者達は 軽々しく受けた施しを

   正当な権利と勘違いし より要求し始めました。

   つまり王様は 物と一緒に間違った理念までも

   与えてしまったのです。それが始まりで 国は

   衰退し始め 慌てた王様は民を 一掃しました。

   もちろんそんな事では 国はすぐに滅びました。

   自分の力で動き出した者達にだけ 隠れて力を貸す

   という事さえ 分かっていれば国は続いてたでしょう


        SHINCHURAN



知るべき坂の途中 息切り想う明日は 変わらぬ道にいるだろう
空だけ見てた様な 青さに止め刺して 僕など抱え込む誇り 吹き飛ばせ

  先へ のめらす体は自然に 饐えた低地 這い出し目指す

  誰も行けぬ険しき場所に 添えた花は 誰 置いたもの?


    どれだけ分かったと感じても 
          そこを 離れてはいけない

    きれい事だけで 片付けるほどの力が
            己にあるわけなどない

    前を見よ、より先を もっと先を

    よりすばらしい 方法があるはずだ



ぬるみの人も事故で 改心し知恵も杖つき 薄暗い羽のボランティア
本当は君らの為 叫びよ皆に響け  わめく俗物

  先へ のめらす体は自然に 饐えた低地 這い出し目指す

  誰も行けぬ険しき場所に 添えた花は 誰 置いたもの?


    低級な危機感の中で 芽生えた
              善悪に囚われ

    よどみの中心で みんなのゴミを
                涙して集める



  誰も行けぬ険しき場所に 添えた花は 誰 置いたもの?

  愛も問えば 突き刺す痛み 耐えて 泣いて 闇 宿してく


    この世界で憂いてるところを
            見せては いけない

    この世界を憂いてる奴を
            信じてもいけない

    自分の殻は 自分だけの殻でない
            この世界と 癒着する

    この殻とは 破るべき物では
             ないのかもしれない

    我々は孵るつもりの無い 真鍮の殻に
       包まれた 永遠の雛である


   よくわからない つまらない物語だ......

   お姫様くらい 出せよ。 むにゃ むにゃ


 わけあって就職活動しています(!)。そういう書類を本気で揃えたのは初めてだったので精も根も尽き果てました……。前回履歴書を書いたのは23歳のとき。その時はあんまり本気じゃなかったけど、それでも体力と精神力がずいぶん削られたもんです。年齢を重ねて、履歴書や職務経歴書に書くことが増えたというのも一因です。作文を求められたので、原稿用紙に見事な美文(個人の感想です)を書き連ねましたが、それが人事の人の心を捉えるかはまったくわからない。僕が担当者だったら喝采して、面接で会うのが楽しみになるレベルなんだけど、僕の感性とか価値観というのはまったく一般的でないので不安しかない。はーあ。(後日談:やっぱり評判はよくありませんでした。笑えますね……)
 僕はなんとかかんとか・なんとか性なんとかのきらいがあるので、買ってきた履歴書が、書き損じの連続で、空っぽになってしまいましたよ。ふたたび買いに行く時間や、絶望して放心する時間などを含め、結局完成までに要した時間が13時間。それでも2カ所ほど細かなミスがあったし、字もべつに美麗には書けなかったんだけど、これ以上を求めれば精神崩壊間違いなしだったので妥協しました。
 こんだけ疲れると、今回だめだった場合には完全なる無我の境地に達してしまうことが容易に想像できます。実際、だめである可能性もけっこう高いわけで、もしまだ就活を続けるというのであれば、同じ……いや、おそらくもっと大変なわけで。したらまあ、そん時に考えますが、とりあえず今回は人事を尽くします。
 今の仕事を一生続けることも不可能ではないと思うのですが、やはり自分の本業は何かということを考えると、いるべきところにいたいなと思うわけです。もうすぐ30歳になってしまう(!)ので、動くなら今だろうなあと。
 しかし、そもそも、僕はスーツを着ることさえ苦手なんですよ。『金田一少年の事件簿』で、クビ締めにトラウマを持つ男性が、どうしてもネクタイをすることができなくて、面接で「どうしてネクタイをしてないのかね?」と圧迫されて落とされる……なんてシーンがありました。読んだのは小学生くらいだったと思うんですが、僕にはなぜかこのエピソード、すっごく印象に残ったんです。
 なんとかかんとか・なんとか性なんとかの疑いの濃い僕は、マニュアル通りに何かをするというのが昔から非常に苦手なんです。書類を手書きするのでもそうです。ひねくれているとか、目立ちたいとか、特別でありたいというのとはたぶん別の次元で、「みんなと同じことができない」のです。
 採用されてからはともかく、採用されるまでは、ある程度「みんなと同じこと」が求められる……というか、おそらくそうしたほうが採用されやすいと思ってしまうのですね。実際はそうでもないのかもしれませんが、まあ、少なくとも「常識はあるぞ」ということは、不可能でない範囲で、多少の無理をしてでも、見せたほうがいいだろうとは、思います。
 というわけでがんばってみています。とはいえそれなりに楽しみつつ、今回はけっこう本気でやってはいます。だめだったら困ります。けどその時はまあ、ふたたびゆっくり。

 それはそれとして、
 きのう、浪人中の友達に久々に会いました。友達というか5年くらい前の生徒なわけですが、もはやあんまり「教え子」という感じはしません。とりわけ最近の彼は、「男子3日会わざれば」という言葉の通り、めきめきと成長していて、別にもう教えるとかそういう感じではまったくないのです。
 彼に「筋トレすればメンヘラ治るよ!」と言われたので、筋トレでもしようかと思います。とりあえず明日から毎日4億メートル走ります。
 そういえば僕もその彼もなんとかかんとか・なんとか性なんとかの同士なのですが、筋トレすればそっちも良くなるんでしょーか。聞いておけばよかった。
 古い友達に会うといつも思うのですが、「おもしれー感じで生きていくぞー」と、改めて。つまんなくするつもりは未だにありません。これからしばらくの僕の課題は、いかに自分が自分としてあるか、ということです。

2014/07/08 火
 あなたに女の子のいちばん

 目が前向きについてるのは、なぜだと思う?
 前へ 前へと進むためだ!
 ふりかえらないで、つねにあすをめざしてがんばりなさい。

 これは、てんとう虫コミックス『ドラえもん』第9巻「ジ~ンと感動する話」で、先生がのび太に言うせりふ。これを聞いてのび太は「じいん」と感動するわけです。
 僕も、よい言葉だな~、と思います。
 しかし、作中では、のび太がその感動をみんなに分かち与えようと、しずちゃんとその友達、スネ夫、ママ、ドラえもんに同じことを言うのですが、まったく感動してもらえません。いかに「内容」よりも「シチュエーション」や「相手」、「タイミング」などが大切か、という話です。のび太にはその言葉に感動するための準備が整っていた、しかしほかの人はそうではなかった、ということでしょう……。
 読者も、のび太と違って、感動するための準備ができていない人がほとんどでしょうから、このせりふを読んでもドラえもんのように「???」とするだけなんだろう、と思います。
 でも『ドラえもん』という作品が大好きな若い読者は、この言葉を胸のどこかに深く刻みます。最初は笑い話の一部として、そして次第に、大切な人生訓として。
 ここがF先生の作品の巧みなとこだよな……と思います。F先生はそれを「ギャグ」として提示するだけで、決して「人生訓」としては語りません。読者のほうで勝手に、F先生の「ギャグ」を「人生訓」に変換してしまう日が来るのです。はじめが「ギャグ」だからこそ、読者は素直にそれを受け入れることができる……とにかく印象に残してしまえば勝ち、という。教育的な話ですなあ。仏教説話とかってのもそうだったんでしょう(余談)。

 さて……僕にとって「夜回り先生」こと水谷修先生(以下、敬意を込めて「水谷」)の言葉も、最初は「ギャグ」として(水谷にそんなつもりはないんだろうけど。ちなみにのび太の先生にだってギャグのつもりはないはず)受け取っていたけど、だんだんしみじみ沁みてきました。
 彼の言う「いいんだよ」という決めぜりふ。これは「昨日までのことは、みんないいんだよ」というふうに続きます。
 水谷も「ふりかえらないで、つねにあすをめざしてがんばりなさい」ということを言いたいんですね……。のび太の先生と同じことを言っています。

 ここで話題はなぜか性のほうへ行くのですが、ももぐちやまえ、じゃない山口百恵さんが歌っていた、「あなたに女の子のいちばん大切なものをあげるわ」。これは必ずしも性とか貞操とかに係わるものだけを言っているわけではないんだと思いますが、そう感じさせようとしているのは間違いないと思います。
「女の子のいちばん大切なもの」ってなんだ、と言ったら、ある種の考え方をすれば貞操であって処女であって、処女でなくても、性行為をすることそのものだったりすると思います。もちろん必ずしもそういうわけではないのですが、女性として生まれると、割と多くの人が、人生のどこかのタイミングで、「それ」を「いちばん大切なもの」として設定してしまう、あるいは「させられてしまう」ような時が、あるような気がします。そして、現代の感覚ではそういう保守的な考え方をそのまま飲みこむことは難しいから、「自分はどうあるべきなのか?」で悩みます。すなわち、「私はセックスというものに対して、どのように向き合っていくべきなのだろうか?」と。

「わたし、援助交際やってた。」
「いいんだよ。昨日までのことは、みんないいんだよ。」

 水谷の本の中にある言葉です。水谷は、過去を忘れろと言うわけではなく、すべて自分のしたことには責任を持てと言う人ですが、しかし過去にこだわって絶望や自己嫌悪、自暴自棄に浸り、そこから一歩も進めなくなっているような人に対して、「いいんだよ」と言います。それを一旦「いい」と思えなければ、それを償うことだってできやしない、ということだと思います。
 過去の自分はサイテーだった。しかし今の自分はサイテーではない。そう思えなければ、「責任」なんて持ちようがない。過去の自分は「責任」なんてものを背負うことができないほど幼く、未熟で、サイテーだった。しかし今の自分は、少なくとも「責任」を背負うことができるくらいには、マシである。そう思うことが、スタートなのであります。たぶん。

 個人的な見解ですが、性の方向性ってのは転換するのが非常に難しいです。男でも女でもそうですが、女性は生きていく上で「性の方向性」を問われることが男性に比べて多い(現代社会ではそうなっていると思います)ので、「いちばん大切なもの」みたいな表現が存在するのだろうなあ、という……のはたぶん常識の範囲の話です。
 しかし、のび太の先生や水谷の言うことは正しいのです。昨日までの「いちばん大切なもの」は、所詮昨日までのものです。今日からはまた別の方向性があって良いのです。それを認められないと、人生には本当にやり直しがきかなくなってしまいます。
 ただ思うに、「それを認める」ということができる人は、多くありません。慣性の法則と言いますか、それまでの惰性でずっとやってしまう人のほうが多いです。だって楽だもの。
 そこをどうにか、変えていきましょうよ、っていうのが、「いいんだよ」。もう、「いい」っていうことに、しちゃおうよ。過去はいいよ。
 性は大切で重大で取り返しのつかないこと、それはそうかもしれないけど、だったら、過去のそれはもう「いい」ってことにして、代わりに未来にもっと大切で重大な「性の大事件」を起こして、それを永遠の宝物にして生きていく、っていうやり方も、あるわけです。一つには。
「いい」っていうのは、隠したり否定したり目を背けたりってこととはまた違っているべきで、でもたぶん肯定するってのとも違って……。いったいなんなんでしょうね? どうしていくべきなのでしょう。
 いったんは、「それはそれ」ってことでイイと思うんですよ。人間、そんなに重い荷物を背負っては生きていけませんので。「仕切り直しッ!」っていうことで。でも「別に過去が消えるわけではない」っていうので。仕切り直して、ヨッシャって生きていくんだけど、過去の亡霊が襲いかかってくることもあって、それに負けない強い力を、蓄えながらやっていこう、っていうようなことでしょう……かね。
 過去はたぶん襲ってきますよ、しかしそれに服属したままでは、それに勝つ力は得られませんので、いったん訣別して、対抗するための力をつけようっていうことで、構わないのではないかな。真面目にやるならば。

 いちばんよくないのは、「過去が襲ってくるのは面倒くさい、だったら過去の言いなりになってたほうがいい」というやつ。方向性を変えない、っていうこと。変えたほうがいいなと思いつつ、面倒だからいいや、ってずるずるやっていくこと。これは長引けば長引くほど大変なので、どっかで蹴りをつけたほうが、後々は楽。
「足を洗えない」ということの辛さ。
 それはわかりやすい話ならば性だけど、ほかにもいろいろあると思う。

2014/07/01 火 「A=B」はおかしい?

 ある友達(仮に「2テラバイト」くんとする)が以前、「『A=B』はおかしい。AはAなんだからBじゃないだろ」と言っていた。僕は大爆笑しながら、「確かに……!」と感嘆したものだ。AはAだし、BはBであるにもかかわらず、一般的な教育を受けてきた人たちは、「A=B」といわれれば、なるほどAはBなのかと思ってしまう。そしてそれ以後は、そのことは「あきらかな前提」として、話が進められる。こんなインチキはない。
 いちど「A=B」となると、AにはBが代入できるし、BにはAが代入できる、とされている。それで矛盾が生じた場合のみ、「AとBとは違うものなのではないか?」という疑問が提出されるわけだが、よっぽどつじつまのあわないことがなければ、「A=B」が疑われることはない。「代入」の儀式が済んだ後では、「それはもともとはBであった」ということは忘れられ、「それはAである」という認識を前提として、話が積み上げられていく。そうなると、「代入」より前に戻るのは困難である。ペテン師たちはそれを良いことに「A=B」論法を多用する。(「論破」という言葉を使いたがる人は、こういうインチキを使いがちだと思う。)

「一回は一回」という言葉がある。たとえば殴り合いで用いられる。AくんがBくんを殴る。Bくんが殴り返す。そこでAくんが抗議する。「おれはそんなに強く殴ってない。」Bくんは涼しい顔で言うだろう。「一回は一回。」
 本当に、一回は一回なんだろうか? 「強さ」が違うではないか。「痛み」も違うではないか。など、Aくんはいろいろに思えども、ここでふたたびBくんを殴れば、Bくんからさらに強い「一回」が返ってきて、それが無限にくり返されていく地獄へと発展しかねなくなる。それを避けるため、Aくんはあきらめる。Bくんはペテン師である。
 すぐに数値で考える人は、ペテン師が多い。「私はあの人から、合計で500くらいのひどいことをされたから、500くらいはひどいことを返してもいい」という平等主義者はけっこう多いのである。500とはいったい、なんなのだろうか。もちろん、べつにかれらは具体的な数字を想像したりはしないだろう(そう思うほどは僕も無茶ではない)、しかし、なんとなく頭の中で、「わたしはこれくらい傷ついたんだから、同じくらい傷つけてもいい!(それは数値でいえば500くらいだ)」みたいなことを考えている。と思う。カッコ内のようなことも、言葉や数字にはなっていなくとも、たとえばグラフとか図形みたいなイメージで、思っている。と思う。
 かく言う僕も、放っておけばそういうふうに思っているのだ。それはあんまり善ではなかろうと思うので、たよりない理性の力で、そうなりすぎないようにはしている。しかしまあ……何か「自分に言い訳」をする際には、実に役に立つので、ときおり僕はペテン師になったりもする……。

 一回殴られて、痛かった。それで即「報復」のほうへ行ってしまうと、その「一回」の中身や、その周辺の事情がわからなくなってしまう。報復の虚しさを我々は、『のび太の海底鬼岩城』で学んだではないか……。
 さすがにいきなり「報復」のほうへ行く人は多くはないんだろうけど、「禍根」としてエネルギーを貯め込んでいく人が、たぶん多数派だと思う。禍根は、ものすごく密度の濃いかたまりとして、心の中に棲み着いてしまう。この禍根をどのように処理するかはその人次第なんだろうけど、個人的には、体内に貯め込み続けることだけは避けたほうがいいと思う。食べものとして消化してしまうのが、いいんじゃないかな。栄養は吸収して、要らない部分は出してしまえばいい。(愚痴とかってのはこの流れの一環なのかも?)
 なんだか教訓めいた話になってしまった。

 話を戻す。AはAである。Bではない。これが実は「分けて考える」ということだったりする。遠山啓先生の本に、「代数―ずるい数学」とあった。その意味がやっと僕にもわかりかけた気がする(本意からは外れているんだろうけど)。
 代数、つまりエックスとかエーとかを使って、計算をやりやすくしようというやつ。これは数学の世界でやっているうちは、非常に素晴らしいものなんだけど、言葉とか、生活の中に採り入れてしまうと、ヤバい。
 ものすごく厳密にいえば、現実のものはどんなものでも(具体物でも抽象概念でもなんでも)イコールで結ぶことはできないと思うし、代入なんてもってのほかだ。それをするとしたら常に「便宜的にこうする」という但し書きがつく。冷静な人は無意識にでもそういう留保をしていると思うんだけど、それでもイコールや代入をくり返せば、頭はごちゃついてくる。「何をどう便宜的に置き換えたんだったっけ? そもそもこの『J』というのは、いちばん最初はなんなんだっけ?」みたいな感じに、混乱してくる。
「よそはよそ、うちはうち」ってのは、「分けて考える」の代表選手なわけだが、これは「AはA、BはB」と言っていて、「A=B」と規定する展開を華麗に避けているのである。たとえ便宜的にでも、「よそ=うち」とされてはこわい、事情があるのだ。そういうお母さんに限って「お隣の佐々木さん、課長になったんですって」みたいなことを言って、旦那さんが「ブホッ」となる、……みたいなんは、昭和のマンガですな。この場合旦那さんには、便宜的であれ「佐々木さん=自分」とされては困るのである。一度それを許せば、際限がない。ただ、旦那さん側にはふつう、「よそはよそ、うちはうち」に相当する語彙は備わっていないので、まあ……困る。

 たとえば他人の意見を否定するときに、「それって、××が○○するってのと同じじゃないですかあー(だからよくないっすよおー)」と言う人がいる。(僕もときおり使う。たいていはギャグだけど。)これはペテン師。
 同じではないし、同じだからよくない、というのも引っかかる。
「えー! 課長、眠ってる奥さんのおしり触ったんすかああ? それって電車で寝てる人のおしり触るようなもんじゃないっすかあああああ。最悪っすよおおおお」
 とか言ってる人がいたら相当アホだと思うんだけど、このレベルのことを真顔で言う人はけっこういる。
 まあ……。「電車で寝てる人」が「奥さん」だったりとか、「奥さん」ってのが課長の奥さんじゃなくって別の人の奥さんだったりとかするんなら、多少は「同じ」に近づく。けれども、だからといって「もんじゃないっすかあ」にするのは乱暴だと思うし、だからよくないってのも、釈然としない。
 この部下は、課長に対して、「眠ってる奥さんのお尻をさわったのは、こういう理由でよくない」と言えばいいのである。なにも「A=B」論法を持ち出す必要はない。それなのになぜ「A=B」を出すのかといえば、この部下がペテン師だからである。

 思うに、「A=B」論法というのは、僕の嫌いな「説得力」なるものを高めるために存在するのである。ちゃんとした根拠がなかったり、あったとしてもそれをもって相手を説得する自信がなかった時に、「A=B」論法は活躍する。「イチローは……」みたいなのも、「おまえ=イチロー」と仮に規定するもので、「A=B」論法の亜種である。これはペテンである。
 親や学校の先生などの教育者は、時にこのペテンを用いて、子供たちを操っていく。「嘘つきは泥棒の始まり」とか。ペテンを用いずに子供を「説得」するのは至難の業である。そのために数学を教え、「A=B」を刷り込んでいる、という側面も、ないではないのではないか……と、無茶苦茶なことをあえて思ってみたりする。そして学校の先生が言う「数学的な考え方」というのは、こういうことでもあるんじゃないか……とか。(一応言っておくと、もっと高級な意味で「数学的な考え方」という言葉を使う先生も、いらっしゃる、と思います。)

 ペテン、という言葉を多用したので、「わたしのことを、ペテン師と言っている?」みたいに思う方もいるかもしれませんが、ちょっと考えてみてください。「○○くんちファミコンあるよ、うちにも買ってよ」という論法は、ペテンではないですか! この論法は「A=B」論法だから、つまり「A=B」論法は、ペテンですよ!!!
 という論法も「A=B」論法なんで、ペテンです。これまでの文章の中にも、たくさんペテンが含まれてるかもしれません。言葉を使えばすぐにペテンになります。だからペテンをあんまり気にすることはないのです。植物食べてるから自然破壊とか、動物食べてるから残酷とか、人間の罪をいちいち言い出したらキリがないのと同じです。ああ、また「A=B」論法を使ってしまった。これではペテン師と同じだ。

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