少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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 だいたい、「個人的な不快」に名前をつけてるだけなんだね。
「○○だから良くない」って言う時って。
 べつに本音は「イヤだ!」しかない。
 それを言えないから理屈つける。
「不快」からすべてが湧き上がってくる。
 不快だ! しかし、それを主張する正当性は私にはない。だから、それを主張する正当性を社会や世間や、自分以外の他人から借りてくる。
 煙草を吸う人に「不快なんですけど」って言えない。そこで「ここは喫煙禁止ですよ」とか「副流煙による害が……」と言う。あるいは「健康に悪いですよ」と言う人もいるかもしれない。それらはすべて正しいし、正義に満ちている。でも本音は「不快だ」。
「煙たくて不快なのでやめてください」というのは、通らない、と、たぶんなんとなく思われている。正当性に欠けると思われている。「俺の吸う権利はどうなんの?」「俺もそんなこと言われたら不快だわ」「煙草を吸えないことが不快」「お前の顔が不快だよ」「お前が消えろ」「死ね」ボカッ、みたいなことに、なるかもしれない。だから正当性が欲しい。それでルール、副流煙、健康。といった言葉を使う。不快をシールで隠して、その上に名前を書いていく。
 本当は「不快だ」というだけだ。しかし「不快だ」に正当性はない……というか、そこに正当性を見いだしてしまえば、戦争。不快と不快がぶつかり合って殺し合いになる。だから不快さは、大義名分に正当性を借りて代理戦争を仕掛ける。
 すべては不快から湧き上がる。不快をそのまま野放しにしては、殺し合いになる。不快を借り物の正当性でごまかそうとすれば、人を殴る凶器になってしまう。我慢すればストレスになり、愚痴を言いすぎれば嫌われる。どうすればいいの?
 不快に思わなきゃいいじゃん、単純に。我慢するんじゃなくて、不快さを消す術を身につければいいじゃん。「ま、いいや」って。郷ひろみさんもこないだナインティナインのオールナイトニッポンで言ってた。「ムッとすることはありますけども、まあいいかーでこう、すぐに、流しちゃいますね」って。
 でもでもでもー、無理ですよね。普通。難しいですよね。だから人間、一生をかけてその訓練をすんじゃないんですか?? その訓練しなかった人が、怒りんぼうのおじちゃんおばちゃんじーちゃんばーちゃんになるわけじゃないでしょうか。
 僕もそうとう訓練してきたつもりだけど、やっぱりね、恐ろしく巨大な不快ってのもあって、それを鎮めるのにはだいぶ時間もかかるし、それまでには騒動も起こったりする。人間、ある程度は仕方ないっていうか、相当の訓練をして、悟りくらいのレベルに達しないと、やっぱきついっすよねえ。
 理想的には「ま、いいや」で不快を瞬殺してしまえるほうがいい、と思う。その上で、「これはよくないから注意しよう」と判断するならするってので。
 ただ……、なぜそのほうがよいと思うのかは、わからない。不快瞬殺人間や、その周りの人が幸せかどうかはわからないし、かりに彼らがとても幸せだったとしても、彼らのせいで地球が爆発するかも知れない。

2014/06/17 火 

 なにを書いても問題がある気がしてなかなか書けません。大人になるというのはこういうことなのかもしれませんね。しかし、僕がいつまでもそういう態度でいると、元気をなくす人たちが全国には三十人くらいいる(いる?)わけなので、ぼちぼちなんとかしていきます。

 僕は変な人間で、こういうHPをやったり、「おざ研」とかいう場所をやっています。そういうことをしている限り、いつまで経っても「変な人間」でしかない、と僕は思います。
 もし変でなくなりたいと思ったら、HPを消し、おざ研とかいう場所もうち捨て、その他もろもろの活動や交友関係も、ゼロにする覚悟で「ふつう」を目指さねばならない、と僕は直観します。それは努力をすればきっとできることです。僕が欲を捨て、我をなくせばいいのです。それで「ふつう」に生きていけばいいわけです。もともと非凡でもないのだから。
 でも別に誰も、僕が僕でなくなることを求めてなんていないわけです。誰も僕に「変でなくなること」を求めてなどいない(むしろその逆)。ただ僕自身が、「ある面ではそのほうが生きやすくなる」と思っているだけのことです。だから「変でなくなろう、そのために欲も我も捨てよう」という思いは、ものすごーく欲と我に満ちたものであって、矛盾していて、考えてもあまり意味のないことです。僕は別に僕でいいんです。
 僕に対して不満を持つ人がいるとしたら、それは、「僕が僕だから不満」なのではなくて、その人にとって、何か個別に、きわめて個人的な意味で、不都合な点があるというだけのことなので、そこを調節すりゃいいだけの話ですよね。
 そう、「個別に調節」なんです、大事なのは。でも、「個別に調節」ってめんどくさいから、時に極端に「あーもう! 全部やめてやる!」ってなるんです。こういうのは僕の悪い癖ですね。アニメやドラマでも、一話録り逃したらその後まったく見なくなる、みたいな。

 話を戻しますと、こういうHPを延々と続けて、こういうことを書くというのは、普通じゃなくて、変であって、時に問題を産みます。それを「引き受ける」かどうか、というのを最近けっこう悩んでいます。「個別に調整」っていうのはこのHPでいえば「内容を自主規制する」ということでもあります。いま過去ログを撤去してるのとかがそうです。もうすぐ14年になりますが、14年やってるからこそこんな駄文も多少の意味をなすのであって、過去ログがなかったら実に取るに足らないHPです。しかし、時代状況や個人的な状況を鑑みると、そのままアップし続けるのはかなりキツいというか、危険なものがあります。編集してまずいところを省きよいところを抽出し、ベスト盤みたいなのを作れば読者にも親切で非常に良いわけですが、その労力や時間がなかなか割けません。(1000円あげるから誰かやってください。天才読者に頼もうかな。しかし指示の仕方が難しい。)
 とりあえず過去ログとかその他の文章は保留にして、いまはTOPの1ページだけでやっておりますが、こうなるといよいよ「何を書いていいのかわからない」状態になります。なってます。過去がなければ未来を描けないってやつです。まあ、初心に返れてよいというのもありますが、落ち着かないですね。このHP、どうしていけばいいんだろ? ってずっと思ってます。現実的には、このような文章をこれからもぼちぼち書いていくというだけのことになるんでしょう。しかしそれにどのくらい意味があるのでしょうね……。意味は自分で作ればいいわけですが、その体力が今はなくて。とりあえず放浪……散歩ではなく、放浪するくらいの感じで、今はやっています。

 まあ、ごたごた言ってないでなんか書きます。


 親切なHPとしてやり直そうかなあ~。
「おすすめマンガ!」みたいなコーナー作って。
 でも体力持たないっすね。
 一人で無償でやれるのは暇な時だけだな……ふー。

 変わらない 変わらない?
 変わりたい 変わってしまう
 変わるから 変わりたくない
 変われない 変わっていく
 変わろうか 怖いからテレビでも見るかな

 怖いなら こちらへおいで
 変わらないように 変えてあげましょう
 スナップショットで切り取りましょう
 人間のようなロボットのような人形のような女の子

 冷凍保存で未来へ飛んで
 ハートの熱で溶かして起きて
 大暴れ 知らないところで
 軽い気持ちで 舞いあがれ

 変わらない 変わらない
 変わりたい 変わってしまえ
 変わるから 変わりたくない
 変われない 変わっていけ
 変わろうよ もう二度と会うこともないから

 自由に空を飛べる
 自由にものを食べられる
 自由に笑ったり泣いたり
 自由に遊んでる 今日も明日も2年後も

 怖いでしょ 当たり前だよ
 変わらないように 変えてきたから
 スナップショットで切り取りましょう
 まだまだ続けるたのしく続ける永遠に続く女の子

 もう二度と会うこともないから
 怖いからテレビでも見るかな
 踊る人たちは次から次へ
 踊る人たちは次から次へ

 変わらない 変わらない!
 変わりたい 変わってしまった
 変わるから 変わりたくない
 変われない 変わってきた
 変わっても 元に戻ればそれでいいんだけど
 
 雪が溶けてる
 陽が出てる
 川が流れて魚が見えて
 きらめく水面にあめんぼがじぐざぐ

2014/05/28 水 解釈

 解釈は自由です。ただ、自由に解釈をするからには、そこには「そういう解釈をした自分」といった主体性が発生しますので、その責任は自分で負わねばならない、……そういう部分もあると思います。
 何に対しても、解釈や「どう思うか」「どう反応するか」は自由なのですが、自由であるからこそ、「少しでもマシな解釈」や「少しでもマシな感想」を抱けるように、また「少しでもマシな反応」ができるように、努力すべきだと僕は思います。
「読む」側の責任として、「少しでもマシな読み方をする」はあると思うのです。僕は以前よく、ある種の作品や人物を批判していました(これからもある程度はするでしょう……)が、その時に「少しでもマシな読み方を……」と強く意識していたかといえば、あまり徹底できていなかったと思います。むしろ、「僕の読み方はかなりマシだ」という、やや傲慢な思いさえあったかもしれません。事実、僕の読み方は「かなりマシ」だったのかもしれませんが、「もっとマシ」な読み方(や、主張の仕方)ができるなら、そっちのほうがいいので、そこで手を抜いてはいけないよな、と今は思います。
「もっとマシ」ってことを考えすぎると、永遠に何も言えなくなってしまいますので、どこかで「ここで声を出そう」と決断しなければなりません。別に何かを言う必要もないのですが、ここで「自分は声を出せるほど立派な人間じゃないから、黙っていよう」ってなると、また違ったこじれ方をします。「おらたちはお上の決めたことに口を出せるほどえらくねえだ」って感じです。それは「いじけてる」と言われるようなものです。それに、えらくない人たちこそ、声を出したほうがいいという考えさえあります。
 だから僕はすべてを忘れてここにいろいろ書いてきたというところもありますが、昨日書いたような気持ちの状況の中で、書き方は変わっていきます。

 僕がここにものを書く理由や気持ちは、いろいろあって、それを一つないし幾つかにまとめて言うことはできません。それではいけないのかな……と、いろいろ、考えています。最近は本当に書くことも言うこともすべて怖いのですが、それでは生きていけないわけですから、傷つくことや傷つけることに、ある意味ですこし鈍感になって、とにかく歩き続けるのも大切なのかもしれないと、思っています。

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